座敷牢に死す

 江戸時代というと、エコと癒しと厚い人情を思い浮かべる人が多いかもしれない。たしかに江戸初期の島原の乱と幕末の動乱を除けば大きな戦争はなく、いわゆる天下泰平の時代ではあった。しかしその一方で、地震や洪水など自然災害は容赦なく襲いかかり、それにもまして、感染症や流行病で多くの人命が奪われた。火事も頻繁に起き、貧困問題も深刻だった。

 病だけに話題をしぼっても、インフルエンザ、天然痘、麻疹、結核、梅毒、各種皮膚病、眼病、中風などなど、研究すべきテーマは山積みだ。忘れてはいけない。精神疾患も。

 精神疾患については、かつて拙著『江戸の病』で取り上げたことがある。といっても症例を深く考察したわけではなく、旗本小野家の記録『官府御沙汰略記』から、「乱心」して自宅に監禁された事例を挙げただけなのだが、なかなか興味深いものだった。『江戸の病』はすでに絶版。あらためてその事例を振り返ってみよう。

 

 小野十大夫 23歳で乱心、柙(おり)に入れられる。延享5年(1748)に25歳で死去。死因は「積聚」。

 

 今井藤四郎 16歳で乱心、「押込置」(監禁)。宝暦11年(1761)に33歳で死去。死因は「痰積」。

 

 人見勘次郎 34歳から「押込置」。宝暦13年の初夏に乱心、38歳で死去。死因は「積気指支へ」。

 

 小野自覚  40年前から乱心で「一間に禁足」(監禁)。明和4年(1767)に69歳で死去。死因は老衰か。

 

 服部良筑  23年前から乱心で「押込置」。明和5年死去。享年、死因とも不明。

 

 わずか5例。といっても『官府御沙汰略記』は、小野家の親族と関係者の事例を拾っているだけで、記録も30年間足らずと限定されている。江戸全体では、同様の事例は数えきれないほどだったと推測される。

 

「狂人の事」

 今回の主人公は、またしても鈴木桃野(180052)である。といっても桃野自身が乱心して監禁されたわけではない。彼が著した『桃野随筆』に、「狂人の事」と題して、座敷牢に監禁されたある男の症例が活写されているのである。小野蘘水翁(未考)という人物が桃野に語った狂人の話とは(意訳)。

 

  翁が言うには、近年「物狂ひの病」にかかる人がすくなくないが、その多くは病が癒えて正気に戻ると、重症だった頃の状態を押し隠して人に語ろうとせず、当時の様子を人から聞こうともしない。ところが赤城明神の別当で親友の何某の場合は、そうではなかった。

何某は発病後人に会うこともなく引きこもっていた。

ある日翁が見舞いに訪れると、取り次いだ人(家人か)が何某の言葉を伝えた。「なつかしいな。今日はすこし気分がいいので、見苦しい様だけど、こちらに来てくれ」。

案内されて奥へ通ると、何某は粗木で作った格子で隔てられた部屋(座敷牢であろう。原文は「地の間に荒木もて立たる格子の家」)の中で、荒薦(荒い莚)の上に座していた。「具合はどうか」と尋ねると、顔面を上げて翁を見つめ、「どんなに親しくしていた人でも、この姿を見たら訪ねて来ないだろう。さいわい今日は具合がいいので、こうして会えたけれど」。何某は問わず語りに話し始めた。

  「物狂いの病がこういうものとは、元気なときは思いもよらなかった。発病してからは、どんなに心を鎮めようとしても興奮がおさまらず、言うことなすこと、まるで自分ではないようだ。恥ずかしいがこれを見てくれ」。何某が示した場所には、切り裂かれた衣類や飲食の器、そして糞尿の入ったおまるが乱雑に散らかっていた。糞便を投げ散らした跡も。まったく目もあてられない有様だった。

   翁が立ち去ろうとすると、「汚物に堪えられないというのでなければ、すこしだけ君と語り合いたい。発作が起きそうになったら知らせるから、そのときは急いで去ってくれ」と言う。しかたなく格子の外に座ると、何某は涙を流しながら、悲惨な現状を語った。

 

 この箇所は、桃野の文章を味わっていただくために意訳をはさんだ原文で。

 

  「病を得てより詩を思へども、一句も思ひ来らず(この病が発してからは、詩を作ろうとしても詩句がまったく思い浮かばない)やゝ詩情に入ると思へば忽ち心くるはしく、飲食も汚穢も見分なく(食飲物と糞尿の見分けもつかず)偏に犬猫の如く狂ひ廻りて、体つかれて打伏なり、醒て後しばし心地常の如く、浅ましと思へども、時来れば又前のごとし、かくすること一日に両三度づゝなり、百薬しるしなければ、とても本復思ひもよらず、一日も早く命終るこそ第一の幸なり」

 

病気になる前は、翁ら親しい者たちと詩を作り吟唱していた何某。しかし発病してからは、一日に二度三度と発狂を繰り返し、糞便をほおばり、畜生のように狂いまわった末に疲れて倒れ伏す日々が続く。どんなに薬を飲んでも快復の見込みもない。だから一日も早い死を願っているというのである。

すみやかに死ねないなら、いっそ終日狂い続けていたい。なまじ正気を取り戻すのが悲しくてならないとも(「しからずば狂ひつゞけになりて醒る時なくば、かへりて物思ひもあるまじ、なまじひに時として本性になるこそかなしけれ」)。何某はまぎれもなく知識人だった。それだけに己の姿が堪えがたかったのだろう。

 

「はや立去り給へ」

 その後ふたりは友人の近況と詩作、古人の詩の解釈や当世の詩人の評価について、半時(1時間)以上も語り合った。何某の声や様子からは、とてもこの人が「狂人」とは思えなかった。「かく迄本性なる人が忽ちに物狂はしく成こと不思議なれ」。翁は突然発狂する様子を見てやろうと、興味津々、何某の様子を観察していたところ……。

 しばらくすると何某の言葉遣いがあやしくなり、目を見張り左右を顧み始めた。すると何某の口から「はや立去り給へ、病の時来れり」という言葉が。発作の時が訪れたらしい。翁は直ちに席を立った。格子から2間ほど離れたとき、背後から何某の叫び声が聞こえてきた。

 「大声叱呼して物擲ち狂ふ様、或は泣悲む様、手に取るよふに聞へて」。大声で意味不明なことを叫びながら物を投げ散らし号泣する様子がありありと知れた。可哀そうに。翁はそのまま暇を告げて去ったという。

 この話を聞いて、中島敦の小説『山月記』を思い出した方も多いのではないだろうか。昭和17年(1942)に発表された、中国の説話「人虎伝」に取材した作品である。

 唐の時代、李徴という秀才が、詩人としての名声を求めて官を辞した末、挫折して姿を消す。その後、旧友が旅の途中、人食い虎と化した李懲と再会。李徴は自らの詩を託して別れを告げる。尊大で自己を過信した知識人が人間らしさを喪失する様子を描いた名作である。友に「もはや、別れを告げねばならぬ。酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから」と李徴が語る場面は、たしかに『桃野随筆』と似ている。

 ひょっとして桃野もまた、「人虎伝」を翻案してこの話を創作したのではないか。いや、それならば桃野は出典を記したはずだ。これは小野蘘水と赤城明神の神職という、実在の人物の間で繰り広げられた場面に違いない。小野蘘水と桃野はごく親しい間柄だったのだろう。

 

桃野の新鮮な感性

 「狂人の事」には、もう一人、桃野の知人(「余がしれる人」)の例が挙げられている。50歳を過ぎて「狂気」したその知人は、手に負えないほど暴れるので、家翁(桃野の父、鈴木白藤)が取り押さえて一間に監禁したという。その後も見苦しいふるまい(狂乱と暴力そして汚物をまきちらす、などであろう)がある度に、家翁が出かけて取り押さえ鎮めた(「取ひしぎて事しづまりぬ」)。

 数年後なんとか快復し、半年の間変わった言動もなかったので、外出も許されるようになった。さて、家翁に礼を述べに来た知人は「病中はお世話になりました」(「病中御尋辱し」)と言っただけ。病中の話は一切せずに帰ったという。自身の狂態をことさら隠そうとする典型的な例である。

 これに対する桃野の批判も意訳しておこう。

「この種の病気は他の病と異なり、快気したように見えても確証はない。とりあえず正気を取り戻したのでそう見なされているだけだ。病中の自身のふるまいを隠し続けていると、かえって本当はまだ治っていないのではと疑念を抱いてしまう」。

江戸時代の知識人(なかでも漢学者)というと、信義とか恥とか、とかく倫理道徳にこだわりがちな手合いを想像しがちだが、桃野先生はさにあらず。なにより人の心の中を覗き見ようとする感性が新鮮である。

<了>

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