江戸に行く西郷

 今回は西郷吉之助が、薩摩藩主の島津斉彬の行列に加わり江戸へ行き、「庭方役」となった安政元年(1854)前半の物語。

 江戸では薩摩藩士の酒癖、女癖の悪さが評判になっており、芝の藩邸の規律は厳しくなっている。にもかかわらず同藩の大山格之助らに、なかば強引に品川の妓楼に連れて行かれた西郷は、そこで「ヒー様」と呼ばれる遊び人風の町人に出会う。

 さらにヒー様が引き起こしたトラブルに巻き込まれ、他藩士と殴り合いのケンカをして門限を破った西郷は、罰として毎日便所や庭の掃除をさせられる(史実なら、他藩士とこんなトラブルを起こしたら、便所掃除くらいでは済まされない)。

 そんなある日、西郷は呼び出され、お庭方(庭方役)を命じられ、大感激。斉彬から「そなたの命ワシにくれ」と声をかけられた西郷は、さらに大感激。しかも斉彬は少年のころの西郷に会った事を、思い出してくれる。「なんでもかんでも命をかけるな。命はひとつじゃ」と、斉彬は諭す。

 斉彬は西郷に、幕府を批判した手紙を水戸藩前藩主の徳川斉昭に届けるよう命じる。だが斉昭は、斉彬の手紙を西郷の眼前で破いてしまう。そこへ、先日の「ヒー様」が登場。驚く西郷、とぼけるヒー様。西郷はヒー様に、わりとフランクに自己紹介している(ありえない)。その正体は斉昭の息子で、後の15代将軍になる一橋慶喜だった。ここで、おしまい。

 

有名人たちの関係

 第5回の相撲大会以来、「西郷どん」はけったいなドラマになりつつあった。「歴史」がすっかり背景に押しやられてしまったのだ。

 今回は「歴史」がやや前面に出ていたという感じ。ただし、斉彬や西郷の人生に大きな影響を及ぼすことになるペリー来航や日米和親条約が、いとも簡単な描写で終わってしまったのは、疑問が沸かないでもない。

 何も、派手なチャンバラや特撮を見せろというのではない。「歴史」の中に登場人物たちをもう少し、しっかり位置付けておかないと、キャラクターの面白さだけに頼るような変なドラマになってしまうのではないかと、余計な心配をしてしまうのだ。

 江戸に出た西郷が政局に足を踏み入れてゆく過程は、史実とは異なる部分も多い。斉彬に推薦したのは、史実では西郷の旧友で小納戸役の福崎七之丞(季運)らと言われるが、ドラマでは「篤姫」になっていた。ドラマの中の篤姫は相撲大会以来、西郷に関心というより好意を抱いているらしい(フィクションである)。

 

「花神」の大村と高杉

 ドラマだから構わないのだが、なんでもかんでも歴史上の有名人たちが繋がっているというご都合主義は、行き過ぎると興ざめしてしまう。今回の慶喜と西郷との出会いももちろんフィクションなのだが、こうした安っぽいベタな手は、たびたび使わない方が良い。

 たとえば昭和52年(1977)の大河「花神」は、主人公の大村益次郎と高杉晋作が会って、話をするという場面は一度しか存在しなかったと記憶する(あくまで41年前の記憶だが。現存する総集編ではカットされており、二人が会う場面は一度も無い)。大村・高杉ともに、同じ長州藩であるにもかかわらずである(司馬遼太郎の原作小説『花神』は大村が主人公だが、ドラマは『世に棲む日日』も原作としており、中盤は高杉が主人公になる)。

 それでもドラマ「花神」は違和感なく、まさに「大河」のごとく進んだ。「歴史」がしっかり描けていたから、人物同士を無理に「知り合い」「仲良し」にしなくても、成り立ったのだ。史実でも、高杉が大村に宛てた手紙が一通伝わるだけで、少なくとも親密な関係だったとは考え難い。

 

大久保の焦り

 なお、江戸での西郷の活躍を手紙で知らされた薩摩の大久保正助が、焦りを感じる場面は良かった。結末を知っている後世の者の視点ではない。取り残される大久保の気持ちを、安政元年(1854)の視点で描こうとしている姿勢は好感が持てた。

 大久保の中で芽生えてしまった、西郷に対する嫉妬のような気持ちが、今後どう発展してゆくのか。それをしっかり描けたら、ドラマとして面白くなると思う。

<了>

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