◆明治時代、神社は20万社あった


 現在、日本には、宗教法人あるいは宗教団体として登記されている神社がおよそ
8万存在する。

 では、明治時代には神社はいくつ存在したのであろうか。

 明治14年(1881)には、日本全国に187357社が鎮座していた。これは、官国幣社、諸社(府県郷村社)に、無格社も加えた数字である(井上順孝『神道入門』)。

 その後は、明治23193242社、明治33196358社と微増を続ける。

 ところが、明治43年には137134社と急減し、10年後の大正9年(1920)には115506社とさらに減少、太平洋戦争中の昭和17年(1942)は109781社となっている。

 ちなみに、この間、神職の人数はおおむね15000人前後で推移していて、神社数のような大幅な増減はみられない。そして、10万以上の神社に対して神職の人数が15000人ということは、ひとりの神職が複数の神社を兼務することがすでに明治時代から常態化していたことを示している(神職不在の神社も少なくなかったと思われるが)。

 さて、明治末期に至り、神社の数は一気に6万弱減少している。およそ3割減である。

 その後も、スピードはやや落ちるが、減少が続き、大正なかば以降になって、ようやく11万社前後の数字に落ち着いている。

 明治末から大正にかけて、いったい、神社界に何が起きたのか――。

 

◆諸社の待遇改善を機にはじまった神社整理

 前回、明治394月に「府県社以下神社神饌幣帛料供進制度」が制定されたことに触れた。この制度は、地方自治体は、諸社に対して、神社経費の一部である神撰幣帛料(祭典費)に関しては公費を支出できると定めたもので、中途半端な内容ではあったが、これによって全国各地に鎮座する諸社にまがりなりにも「国家の宗祀」としての権威が与えられたことは、神社界からすれば大きな収穫だったはずである。

 ところが、ここでひとつやっかいな問題が生じた。

 
 府県や市町村は地元の神社に祭典費を供進できるというが、供進するにしても、たとえば、ひとつの市町村にいくつもの神社が鎮座している場合は、すべての神社が対象となるのか、それとも選別すべきなのか。選別する場合は、何を基準に決めればよいのか。

 そこで、政府は明治396月、神饌幣帛料供進を行うに際して、対象となる神社の基準を示す訓令を出した。その基準として挙げられたのは、由緒がある(式内社、勅祭社など)、境内地が150坪以上で社殿が整備されている、氏子が50戸以上、などといったことだった。

 そして、これを機に政府は全国的に神社の整理・合併を推進しはじめたのである。

 この措置は、神社の絶対数を減らすことで、神饌幣帛料供進による府県や市町村の財政負担を軽減するという意味をもったが、それ以外にも、維持困難な小規模神社を整理して供進にふさわしい神社のみを残すことで、全国の神社に「国家の宗祀」としての威厳を保たせるという意図もあったといわれる(神社新報社編『増補改訂・近代神社神道史』)。

 
 では、「維持困難な小規模神社」は、いったいどれくらい存在したのか。

 明治40年頃のデータをみると、国内の神社の総数はおよそ195000だったが、その内訳は、官国幣社が約170社、諸社(府県郷村社)が約55000社、そして無格社が約135000社だった。全体の7割を無格社が占めているが、これには神社といっても祠のようなもので、神職が常駐せず、氏子も不明で、荒廃していたものも多かったといわれる。神社整理はこうした無格社や、諸社の最下ランクに置かれる村社をおもな対象として行われた。神社整理の具体的な方法としては、神社そのものを廃してしまう「廃社」、複数の神社を合併してひとつの神社にする「合祀」、独立していた神社が他の神社の境内に移転して境内社とする「移転」などがあった。

 また、神社整理は、日露戦争後、内務省地方局が中心となって国力増強策の一環として進めていた「地方改良運動」とも結びついていたといわれる。地方改良運動とは、旧来の「部落」に変わって行政の末端組織である「町村」を地方の精神的なつながりの中心とし、その財政強化をはかって国民統合の基盤にしようとしたものだ。そして、この運動の中に神社整理が組み込まれ、神社を一町村一社に整理し、残った神社を地方庶民の精神的団結の中心にするという理念が掲げられたのである。

 
 もっとも、神社整理は、たとえば「神社合併令」というような法令を政府が出して実施されたものではない。それは、国家が音頭をとる一町村一社を奨励する掛け声のもとで、地方自治体が主体となって行われたものであった。そのため地域差がみられ、三重県のように明治
39年からの3年間で6489社から1307社にまで減らしたところもあれば、青森県のようにほとんど整理が実施されなかった地方もあった。

 また、神社整理は地域住民の意志にもとづいて行われたものではなく、国家の行政権力を背景として地方自治体が強制的に行った。つまり、住民の信仰実態を無視して強行されたわけで、そのため、神社合併は風俗を乱して地方を衰微させると主張した南方熊楠のような反対論者もあらわれた。

 それでも、「府県社以下神社神饌幣帛料供進制度」にあおられるように神社整理は進行し、冒頭に記したように、全国の神社総数は明治39年を境にして急減。大正7年(19185月に「合併のために崇敬心を傷める傾向があると認められる場合はこれを避けるべき」という内務大臣指示が出て、ようやく全国的な神社整理は沈静化した。

 

◆昭和に入り、無格社にも公費支給が許可される

 また、明治末期から大正にかけては、神社整理と並行して神社関係法令がつぎつぎに制定・公布され、神社行政の整備が急速に進んでいった。

 そうした法令のうち、ここでとくに注目したいのは、大正2年(1913)に内務省訓令によって定められた「官国幣社以下神社神職奉務規則」で、このなかで、官国幣社だけでなく、諸社を含むすべての神社の神職が「国家の礼典に則り国家の宗祀に従うべき職司」であると規定された。

 すべての神社を「国家の宗祀」と規定する流れにあわせて、諸社の神社経済についても見直しが行われた。

 明治44年には市制・町村制の改正の際、市町村が諸社(無格社を除く)に対して祭典費という名目以外で公費を寄付または補助することを可とする規定が追加されていたが、大正75月には、「公益上必要と認むべき場合」は祭典費供進とは関係なく諸社の必要経費に府県市町村が公費を補助することを認める神社局長通牒がから出された。

 そして昭和9年(19347月には「地方公共団体も神社に公費を供進して崇敬の誠を致すべき」とする通牒が内務次官より出され、さらに同じ年の9月には、無格社でも市町村民の崇敬を集める神社に対しては公費供進が許可されることになった(神社局長通牒)。

 ついに神社に対する公費支給の枠が、無格社にまでも広げられたのだった。

 

◆戦前期の諸社の収入のうち、公費の割合はわずか8.5

 このような政策の推移をみれば、明治末から昭和初期にかけて、「国家の宗祀」という建前のもと、神社経済は漸次改善されていったかに思えるだろう。

 しかし、実際の数字をみてみると、とてもそうは思えない。

 まず官国幣社の収支をみてみよう。

 昭和10年に作成された『神社制度調査会資料』によると、昭和7年(1932)度の官国幣社全体の決算金額はつぎのようになっている。ちなみに、昭和7年時点で国内の官国幣社は187社である(伊勢神宮と靖国神社はこのなかに含まれていない)。

 

官国幣社全体の総収入(昭和7年度)

 国庫供進金 587080円 

 神饌幣帛料 37810

 社入金 2022051

 繰入金 497079

 その他 496140

 合計 364160

 

 このうち、国費から支給されたのは国庫供進金と神饌幣帛料で約62万円だが、官国幣社全体の収入に占める割合は、17%程度にすぎない。最も大きな割合を占めるのは、約56%の社入金である。社入金とは、神札の初穂料や、賽銭、祈禱料などで、要するに神社自前の収入である。

 ちなみに、同年度の歳出は次のようになっている。

 

官国幣社の総支出(昭和7年度)

 祭典費 351,473

 俸給 1093792

 庁費 484202

 営繕費 521463

 その他 95722

 合計 3401652

 

 ついでながら、この年度の国家予算は歳出・歳入ともに約20億円である。

 一方、諸社はどうだろうか。昭和5年度の決算データがある(神社新報社編『増補改訂・近代神社神道史』より)。

 

諸社(府・県・郷・村社)の総収入(昭和5年度)

 神饌幣帛料 80万円

 公費補助金 61万円

 社入金 430万円

 氏子崇敬者負担金 419万円

 その他 676万円

 合計 1666万円

 

 このなかで公費から支給されるのは神饌幣帛料と公費補助金だが、両方足しても、全体に占める割合は8.5%にすぎない。収入の大部分を社入金や氏子費に頼らざるをない状況が浮き彫りになっている。

 また、前掲の『神社制度調査会資料』には昭和3年調べの村社と無格社の神職の給与に関するデータがあるが、それによると、村社1社が神職に支給する給与の平均額は年で78円、無格社は19円となっている。ちなみに昭和6年頃の小学校教員(東京の公立学校)の初任給は4555円だった。この時代も1人の神職が複数の神社を兼務するのが普通だったので、この数字がそのまま神職1人の年俸金額を示しているわけではないが、1社ごとにみると、村社であっても、小学校教員の初任給の2カ月分未満の金額しか神職の年間給与に回せなかったということになる。苦しい台所事情が察せられよう。

 神社制度の見直しや整備・充実を目的に、内務大臣下の調査・審議機関として昭和4年に設置された神社制度調査会の第26回特別委員会において、吉井良晃委員(西宮神社社司)が次のような趣旨のことを語り、当時の諸社の実情を訴えている。

「このような状態だから到底、一社専任では生計が立てられず、勢い1人で数社、甚だしきは数十社も兼務することになり、祭祀などが満足に行わるべきはずはない。例祭は日が異なるからどうにか間に合わせるが、紀元節祭や天長節祭、明治節祭などの同日の祭典は到底1社ごとに満足にお祭りはできない。祭祀を厳重にするどころではなく、むしろ全く無視しているような状態である」(『増補改訂・近代神社神道史』より)

 

◆国家神道が後押しした神祇院の設置

 こうしたなか、大正から昭和にかけては、神社を取り巻く社会の雰囲気に徐々に変化があらわれ、いよいよ「国家神道」が時代を侵食しはじめていた。

 大正初期には、小学校教員が児童を引率して神社参拝をすることや地方官が神社崇敬を奨励することに対して、キリスト教や仏教(とくに真宗)から、「国家の宗祀」である神社は非宗教であるべきなのに、ここには宗教的な信念が含まれているとする批判の声があがり、「神社問題」が発生した。

 こうした批判に対して、大正5年(1916)における神社局の回答は、「神社崇敬を我国の美風として奨励はするが、神社参拝を強制しない」というものだった。

 昭和4年に設置された神社制度調査会でも神社問題は議論され、学校教育における神社参拝の拒否の懲戒を可とすることも検討されたが、結論は出されなかった。

 しかし、昭和6年に満州事変が起こると、風向きがかわり、神社参拝を国民に強制する空気が次第に濃くなっていった。

 翌年5月、カトリックが運営母体である上智大学に軍事教練のために配属されていた将校が学生を引率して靖国神社を参拝したが、数名の学生が信仰を理由にこれを拒否した。陸軍省はこれを問題視し、結局、日本のカトリック教会は信者の学生・生徒・児童に対し、「今後、神社の団体参拝に参加すべき」と通告するはめになった。この上智大学事件は、神社への集団参拝を可とする方向へと世論を導いてゆくことになる。

 昭和12年に日中戦争が勃発すると、近衛内閣下で開始された、戦時体制を意識した国民精神総動員運動のもとで、県庁の職員や工場従業員が神社に集団参拝することが励行されるようになった。

 これに合わせたかのように官国幣社への国庫供進金が増額され、昭和9年度は約75万円だったが、12年度からは100万円となっている。

 そして、こうした流れの結実として行われたのが、昭和1511月の神祇院の設置だ。

 明治33年に神社界の働きかけによって内務省下に神社局が特立されたことは前回記したが、しかし、この神社局は神社会計の監督、神社の昇格、神職の任免などを所管する事務的な行政機関にとどまり、また人員も少なかった。そのため、神社界はこれをよしとせず、祭祀をも司って神社行政を統轄する特別官衙(かんが)の設置を目指して運動をつづけていた。その結果、神社局を昇格させるかたちで、内務省の外局として、神祇院が設置されたのである。神祇院官制が布告された119日は、紀元2600年奉祝式典の前日で、神祇院総裁は内務大臣が兼任した。

 しかし、神社人念願の官衙であったはずの神祇院だが、現実には祭祀を司る役割はもたず、結局は純粋な行政機関にとどまっていた。

 そして翌年、太平洋戦争がはじまる。

 しかし、戦況は悪化をたどったすえ、昭和208月、終戦。その後の神社界の動向は、第1回で触れたように、12月神道指令、宗教法人令公布、翌2122日の神祇院廃止、翌日の神社本庁設立、神社の宗教法人化と続いてゆく。

 つまり、神社は戦後、「国家の宗祀」としての役割を失い、国家管理を離れ、神道というひとつの宗教の礼拝施設に位置づけられ、民間の宗教法人として存続してゆくことになった。

 もちろん、社格制度は廃止され、伊勢神宮を含め、すべての神社に対して、国や地方自治体から供進金や神饌幣帛料、補助金が支給されることはなくなった。

 これに追い打ちをかけたのが昭和22年から実施されたGHQ主導の農地改革だ。神社には明治初年の社寺領上地令後も多少の田畑を保有していた例が多かったが、農地改革により、それも小作人に譲渡されることになったのである。

 

◆近代の神社行政が神社を疲弊させた

 明治維新から太平洋戦争敗戦までの神社や神道については、従来、「事実上、国教として扱われ、ときとして国民は信仰を強制された」という色眼鏡を通してみられがちであった。「国家神道のもと、神社は国家に管理され、神職は国家公務員のような存在だった」というのも、戦前の神社に対するイメージの典型だろう。

 しかし、事実はご覧の通りである。

 経済の面からみると、明治維新から昭和敗戦にかけて、たしかに神社は国費・公費を支給されることはあったが、その額は神社全体の経費からみるとほんの一部であったにすぎない。諸社については、大正7年になってもまだ「公費を支給することができる」という程度であった。無格社への公費支給にいたっては、ようやく昭和9年になって認められている。そして、神職は「待遇官吏」という中途半端な地位に置かれ、諸社以下の神職の多くは満足な俸給を受けられず、兼業・兼務を余儀なくされた。

 要するに、政府の神社行政はおおむね消極的であり、世俗的であった。

 付言しておくと、最近の研究では、「近代日本では、明治以降太平洋戦争敗戦まで国家神道が天皇中心の軍国主義の基本的イデオロギーとなり、国民を支配していた」という見方は、戦後の左翼思想に引きずられた幻想だ――という見解が支持されつつあることは指摘しておきたい。たしかに神社参拝が国民に強制されるような事態も生じたが、それは昭和6年の満州事変以降のことだ。ちなみに、「国家神道」という語は、戦後、GHQが使ったことで広まったものである。

 結局、神社も神職も、二転三転する政府の政策に振り回されながら、自活の道を迫られたのである。「国家の宗祀」という看板はタテマエにすぎず、神職は「神社非宗教」というあからさまに矛盾した観念のもとで、右往左往するしかなかった。

 さて、古代からの神社経済の歴史を通観するならば、明治維新から昭和戦前にかけての国家の中途半端な神社管理は、神社界とその財政をいたずらに混乱させ、神社そのものを疲弊させたにすぎなかった――ともいえよう。戦前に諸社や無格社と呼ばれた小社は、とくに混乱・疲弊を被ったといえよう。

 そしてまた、歴史を改めて顧みれば、神社経済にとっていちばん重要で、かつ頼りとなるのは、結局、国や自治体からの交付金などではなく、氏子や参詣者の支え(氏子費、寄付・奉納金、祈禱・授与品の初穂料)であることも明らかであろう。

 こうした視点に立てば、神社は昭和戦後、国家神道の呪縛からとき放たれ、自由に宗教活動や布教活動を行えるようになった、と肯定的にとらえることもできそうである。

 実際、戦後の神社界は高度経済成長とあわせて活況に向かい、神前結婚式、初詣、七五三などの盛行とともに、一時期、神社は戦前をうわまわるにぎわいをみせた。

 だが次第にその勢いも衰え、平成以降は小規模神社(戦前の諸社や無格社)の多くが、経済的苦境に立たされるようになっていった。

 その原因はどこにあるのか。行き詰まりの打開策はあるのか。次回からは再び現代の神社が抱える問題に迫ってみたい。

 

【参考文献】

阪本是丸『国家神道形成過程の研究』岩波書店、1994

新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』神社新報社、2016

神社新報社編『増補改訂・近代神社神道史』神社新報社、1986

『神社制度調査会資料』国立国会図書館蔵

 

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