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第42回 近藤重蔵と大塩平八郎

書物奉行をやめさせられた理由

前回、近藤重蔵が書物奉行から大坂弓矢奉行に異動(左遷)させられた原因は、近藤がいつもの悪癖を発揮して、紅葉山文庫の蔵書を勝手に持ち出し書写したためではなかったかと述べた。書物奉行の日誌『御書物方日記』に、そう察するに十分な記述を見つけたからだ(詳しくは、前回の連載・第41を参照)。

 しかしこの件については異説もある。森潤三郎『紅葉山文庫と書物奉行』に史料を引用して挙げられているので、これらも紹介しておきたい。ちなみに森が同書執筆中は、まだ『御書物方日記』の存在は一般に知られておらず、森も基本資料とも言うべき同日記を見る機会に恵まれなかった。

もっとも私に言わせれば、それは森にとってある意味、幸いだったかもしれない。

現在、国立公文書館が所蔵する『御書物方日記』と『(御書物方)留牒』(やはり書物奉行の日誌)は、あわせて225冊。期間は宝永3年(1706)から安政4年(1857)に至る。しかもけっして読みやすいものではない。もし森がこの膨大な日記を閲覧したとしたら……。誠実で緻密な研究者であった彼は、『紅葉山文庫と書物奉行』を書き終えることなく逝ってしまったかもしれない。

 それはともかく。森が拾った近藤重蔵左遷の異説を挙げてみよう。ひとつは『鎗北実録』坤巻に収録された「守重聞書」から。それによれば。

 

――近藤重蔵は紅葉山文庫の修造(書庫の修理や増築)をめぐって老中の水野出羽守(忠成)と争論に及び、水野が怒って座を立つと、近藤は水野の袖をつかんで要求を通そうした。本来なら切腹と家断絶をまぬがれないところだが、水野は旧交に免じて近藤の要求を容れ、命も助けた。とはいえそのままにはしておけぬと、大坂弓矢奉行に転役させた――。

 

 もうひとつは、村尾元長『近藤守重事蹟考』(一八九三年刊)から。

 

――近藤は紅葉山文庫等の文献や史料を精力的に調査して、家康以来の幕府の外交政策を跡づける『外蕃通書』を著し、幕府に献上した。きわめて貴重な業績だったで、表向き幕府はこれを賞したが、実は外交政策の詳細があきらかになるのを喜ばず、近藤転任させた(「幕府は陽に銀錠を賜ひて之を賞したれども、実は之を喜ばず、遂に転任を決行するに至れりと」)――。

 

 近藤重蔵と水野忠成については、福留真紀氏の新著『名門水野家の復活』(新潮新書)でも取り上げられている。水野の死後、その言行を近臣が記述した『公徳弁』によれば、若年寄時代、水野は近藤からさまざまに進言されたが、「心得罷在候」(心得た)と答えるだけで、採用することはなかったという。そして近藤が近江国大溝藩で幽閉中に死亡したときも、水野は「彼が不届ものなる事、能も首を継て死たり」としみじみ語った。「あの男、首がつながったまま(処刑もされずに)往生できたのが不思議なくらいだ」というのである。とかく博学を鼻にかけ(水野は近藤の学問を「小人の学問」と評した)、部署の異なる役人たちの悪評まで言い散らし幕府上層部を混乱させる近藤を、水野は心から忌み嫌っていたようだ。

 嫌われ者の近藤重蔵。そんな男にも、意気投合した相手があった。その名は大塩平八郎。天保8年(1837)、飢饉による庶民の困窮を背景に、武装蜂起して豪商の焼き討ちを決行した、大坂町奉行所の元与力である。

 

両雄の初体面

 文政2年(1819)、大坂弓矢奉行(大坂弓奉行とも)として大坂に赴任した近藤は、ある日の早朝、大塩の屋敷を尋ねて面会を求めた。近藤重蔵、大塩平八郎と初めて会う。

 初対面の様子を伝えたのは、おなじみの大谷木醇堂。本連載で最も登場回数が多い『醇堂叢稿』に、そのときのやりとりがいきいきと記されている。いきいきといっても、当時まだ醇堂は生まれていなかったから、後年になって人から聞いたものに違いない。残念ながら情報源は不明だが、ともあれ『醇堂叢稿』の内容を意訳してみよう。

 

 面会を乞う近藤に、大塩から「今日は奉行所には出勤しないが、公務多忙のため面会できない。どうしてもと言うなら暮れ方までお待ちいただきたい」と伝えられた。「承知しました」。近藤は表座敷で暮れまで待たせてもらうことにした。見ると、座敷に十匁の小筒(小銃)が飾られ、弾薬まで添えられている。近藤は小筒を手に取り、火薬をこめて庭に向かって何発も空砲を撃った。

 日が暮れて、近藤はようやく大塩の居間に通された。初対面の挨拶をしたのち、近藤は「さきほど発砲の音が聞こえましたが、どこで撃っていたのでしょう」とたずねた。(大塩は近藤のしわざと知っていたが)そらとぼけて「まったく聞こえませんでしたね。おそらく下男などがオナラをした音でしょう」とうそぶいたとか。

 

 初めて訪れた家で、主人愛藏の小銃を勝手に撃ち続けた近藤にはビックリだが、そうと承知しながら「発砲の轟音など聞こえなかった。家の奉公人の放屁の音だったので」はとしらばっくれた大塩の人を喰った返答にも恐れ入る。傍若無人の近藤と豪胆無比の大塩。

初対面を祝して、大塩は酒と吸物そして酒の肴を用意させたのだが……。

 

 盃は五合は入ろうという大盃。下物(酒の肴)は大根の沢庵漬けだった。大塩は「初めて迎える貴賓をもてなすのにもっとましな肴はないものか。そうそう忘れていた。今朝到来した品があった」と独りごち女中にその品を持ってくるよう命じた。さて、台所から運ばれてきた大きな岡持の蓋をとると、なんと、大きな鼈(スッポン)が這い出て来たではないか。(並みの客なら驚愕してあとずさりしたに違いない。しかし、この日の客に並みの男の反応を期待してもらってはこまる)。

 近藤はすかさずスッポンの首を握り、「これは珍重至極、難有御心入れの品也」(原文)。「これは珍しい肴。ご主人のおもてなしに感謝いたす」と礼を述べるやいなや、側に置いてあった脇差を抜いてスッポンの首を斬り、その生血を啜ったのち、「舌うちして大に謝したりとぞ」。 

 

突然現れた大スッポンにひるむことなく、近藤はその頭を斬り落とし、頸部から大量の生血を吸って、「ああ、うまかった」と豪語したのである。

醇堂は続けて「それより互ひに数献吸かはし、かの生梅を煮て英雄を論ずるの談話に夜を徹して交を深くせり云々」と記している。吸いかわしたのは酒で、まさかスッポンの生血ではないと思うが、このふたりのことだから断言はできない。

 「生梅を煮て英雄を論ずる」とは、曹操が劉備を梅園の宴に招き、梅の実を肴に天下の英雄を論じたという『三国志演義』の故事で、天下の英傑である近藤と大塩が、酒を酌みかわしながら、夜を徹して人物評を語り合い、盛り上がったというのだ。水野忠成が忌み嫌った近藤の人物評(他人の悪口)に、大塩は「そうだ、そうだ」と耳を傾けたのだろう。これを機に、ふたりの交際が深まったというのである。

 

生まれる時代が早すぎた男たち

 ところでこの話は本当なのだろうか。

 たとえ史実でなくとも、『醇堂叢稿』だけに記されているのだとすれば、すくなくとも伝説として貴重だ。しかし、どうやらそうでもないらしい。近藤と大塩の初対面にまつわる、似たような話がほかの文献にも見られる。となると、たまたま私が知らないだけで、実はよく知られていた話なのかもしれない(ご存じの方はぜひご連絡を!)。

 「似たような話」は、明治32年(1899)に出版された鬼雄外史『壮士必読 偉人百話』という本に載っていた。鬼雄外史がどのような人物なのかはさだかでないが、本の内容はきわめて明快だ。現在わが国は気骨ある日本男児を必要としており、世の男子啓発のため「気骨男子」の話を収録したという。

勝安房(海舟)、西郷隆盛、大村益次郎にはじまり、清川八郎、大岡忠相、松平信綱まで、82人が登場し、そのひとり大塩平八郎の項に「似たような話」が載っているのである。

「両雄の初対面」と題して記されたエピソードの「両雄」は、近藤重蔵と大塩平八郎で、訪問先で主人を待つ間に「百目銃」を撃ったり、出されたスッポンの首を掻っ切って生血を啜ったり、話の筋もほぼ同じだ。にもかかわらず「似たような」なのは、決定的な違いがあるため。こちらの話では、大塩が近藤を訪ねたことになっている。主客が逆転しているのだ。

 とはいえ、鬼雄外史はふたりを絶賛してやまない。「世に英雄の初対面も多しと雖ども、而かも未だ近藤重蔵と、大塩平八郎との初対面の如く、凄然たる光景あるものを聞かざるなり」「嗚呼此の如き凄然なる初対面、社会亦何れにかあらん、世亦絶えて聞かざる所なり」という具合だ。この場合、「凄然」は常識を超えたとか過激なという意味だろう。

日清日露の間の時代、極東情勢が緊迫し、危機感が高まるなかで、近藤や大塩のような豪胆で過激なほど行動的なタイプが求められていたのである。ありきたりな表現だが、近藤も大塩も生まれる時代がすこし早すぎたのかもしれない。

<了>

 

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