林大学頭の体調をくずした書庫の冷気

 数多の書物を収蔵する書庫に入ると、トイレに行きたくなる。書庫は脱糞をうながす。そんな話を誰かの本で読んだことがある。もっともここで言う書庫は稀覯本や文化財級の古書を収めた独立した建物(あるいは専用の倉庫)で、個人の書斎ではない。よほどの蔵書家でもないかぎり、書斎で腸内に異変を感じ〝おもらし〟の恐怖を味わうことはないと思うので、心配ない。

 冒頭から話が尾籠になってしまったが、今回のテ―マは、徳川将軍家の蔵書等を収めた紅葉山文庫と、そこで勤務した書物方の役人の病と湯治。ここ数年、折にふれて『御書物方日記』(国立公文書館蔵。今年、重要文化財に指定)をひもといてきた私の目に入った内容の一部をご紹介したい。

書物奉行(旗本)と書物同心(御家人)は、幕臣のなかでもいたって地味なポストだ。加えて話題は病気。話はウキウキと楽しくはないし、もちろん艶っぽくもない。しかしごく珍しいテ―マなので、ひょっとすると病みつきになる変な読者もいらっしゃるかも。

 最初に登場するのは、林祭酒こと林大学頭述斎である。

文化14年(18171110日の『御書物方日記』(以下『日記』とのみ)によれば、この日、林から17日に書物方を訪れる予定のキャンセルが伝えられた。当時、林は近藤重蔵ら書物奉行と協議して、紅葉山文庫の蔵書目録の改訂作業を進めていたが、ある理由で来春まで先延ばしにしたいと言ってきたのだ。

 ある理由とは。「此間之出席にて殊外冷、帰り候てより疝積気故、十七日は延引、来春にいたし度」。先日書物方に参上したせいで身体が冷え、帰宅後、疝積気(せんしゃくけ=胸・腹・腰などがさしこんで痛む病)が発症した。年内は無理なので、17日の会合はやめて来年暖かくなってからにしたい、というのである。

 蔵書目録を改訂するためには、目録に書き入れる新収書物の書名や書誌を確かめるため(既存の目録の誤りを見つけるためにも)、どうしても書庫に入らなくてはならない。近藤重蔵ほか、書物奉行たちとの協議が書庫内で行われることもあったであろう。

おのずと書庫内で過ごす時間も長くなる。紅葉山文庫に限らず、当時の書庫には温度や湿度を一定に保つ空調設備はなく、かといって火気厳禁だから火鉢で暖をとるわけにもいかない。旧暦11月ともなれば、書庫内は冷え切っていたはずだ。50歳の林述斎が、体調をくずしたのも不思議ではない。結局、林が次に書物方を訪れたのは翌年の312日。予定より4か月も後だった。

 

湯治に出かけた書物奉行


 林述斎はそれでも恵まれていた。目録改訂のために書物方の書庫に入るのは、年にせいぜい数回だったからだ。対して書物方の役人たちは目録改訂プロジェクトのため、頻繁に書庫に出入りしなければならなかった。書物奉行(
34名)はともかく、配下の書物同心たち(十数名)は、毎日のように書庫内で作業をした。目録の校正だけではない。将軍や幕府上層部からの指示で文献調査や出納もしたし、「風干」(曝書)や修復もした。


 目録改訂作業が始まる前にも、病気で勤務を続けられなくなった同心がいる。文化
7年(1810816日、書物同心の川島孫左衛門が「小普請入願」(退職願い)を提出した。前年の5月に脚気(ビタミンBの欠乏で起きる病)を発症した川島は、この頃には足の痛みで歩行も困難。すみやかに全快する見込みもないので、親類の添書きと合わせて小普請入願いを書物奉行に提出したのである。川島の願書は、書物奉行から若年寄の堀田摂津守正敦に差し出され、1015日に願い通り許可された。


 書物奉行の藤井佐左衛門(名は義知)は、文化
11年(18145月に、病気療養のため湯治をしたいと願い出ている。なぜか、病名も湯治をする場所(温泉名)も『日記』に書かれていない。藤井は文化13年に64歳で亡くなっているから(森潤三郎『紅葉山文庫と書物奉行』)、この年62歳だった。

 書物奉行が湯治に出かける手続きは、なかなか面倒である。

 515日、藤井は湯治願いの下書を奥右筆の船橋久五郎にチェックしてもらい、同17日に清書。翌18日に同じ書物奉行の高橋作左衛門に提出した。高橋作左衛門は、のちにシ―ボルト事件で捕らえられ獄中死した、あの天文学者の高橋景保にほかならない。

 湯治願いは、同朋頭の丹阿弥を介して若年寄の小笠原近江守へ。許可が下りたのは翌19日。というと手続きは速やかなようだが、これで万事が終わったわけではない。許可が下りたのを受けて、藤井は御用番の老中および若年寄全員に御礼廻りをしなければならなかった。といっても病人の本人が御礼廻りをするのも変なので、息子の藤井釜之助が名代を務めた。

 藤井は524日に江戸を発ったらしい。この日、宗珉(御用部屋坊主か)を介して「湯治出立願」を近江守に差し出している。湯治が許可されても、出発前に届が必要なのである。やはり面倒だ。

 湯治期間は通常3廻り(3週間)だったが、どうせ行くなら、ゆっくり療養できるよう日数は多い方がいい。というわけで、幕臣の場合も湯治先から期間延長願いを出すことが多かった。藤井の湯治延長願いは、613日に「湯治追願」として若年寄の植村駿河守に提出された。「追願」は「おいねがい」と読み、追加願いを意味する。

 藤井は結局74日に江戸に戻ったが、湯治の効果は思わしくなかった。同僚の「助合」で自宅で静養する日も多く、925日には息子の釜之助が近藤重蔵に「父は快方に向かっているので、近日中に出勤できそうです。ついては〝足だめし〟に2町か3町(1町は約109メートル)ほど歩かせてよろしいでしょうか」と尋ねている。歩行訓練をしなければ、出勤もおぼつかない状態だったのである。

 結局、翌文化12623日に病気のため依願退職。前述のように翌135月に死去している。

 

草津温泉で痔を癒す

 湯治に出かけたのは奉行だけではない。文化10年(1813)には、書物同心の江西文蔵が痔の療治のため上州(群馬県)の草津で湯治している。

藤井は病名も温泉名も書かれていないのに、同じ『日記』に江西の場合はどうして明記されたのか。奉行(御目見以上)と同心(御目見以下)の格式の違いか。それとも、以上と以下では個人情報の扱いについても歴然たる差があったのか。いずれにしろ江西は、持病の痔の痛み耐えがたく、名湯草津を目指した。

 同心と奉行で手続きはどう違うか。「そんな些末なことどうでもいいよ」という読者のお叱りを覚悟の上で、些末な史実にこだわってみたい。

 同年617日、江西が湯治願いを持参。湯治日数が書いていないので、御納戸に書き方を問い合わせたうえ、書き直させる。同日、御用部屋坊主の周永を介して、若年寄の堀田摂津守に提出する。ここまでは、藤井の場合と変わりがない。

 奉行と同心で決定的に違うのは、奉行には許可が「附札」で伝えられる(願書に許可の旨を記した紙札を添付して下げられる)のに対して、同心の場合は「申上切」、許可が文書で伝えられないこと。つまり特に問題がないかぎり、願いが受理されれば湯治が許可されたのだ。

 このためだろう、江西は17日の朝、早々に湯治出立届を差し出している。当初、何日間の湯治を願い出たのかさだかでないが、江西も例によって(?)延長願いを出した。『日記』716日の条に「江西文蔵、湯治追願に付、上州草津之宿より飛脚を以昨日出候段、願書磐蔵を以差出候、御順覧可被成候」とある。「湯治先の草津の宿から昨日(15日)飛脚で出された湯治追願い(延長願い)が届いたので、書物奉行で回覧していただきたい」というのだ。奉行に江西の追願いを渡した磐蔵とは、書物同心の坂田磐蔵である。

 江西が江戸に戻った(帰府)のは725日で、帰着(書物方への帰還報告か)は翌26日。27日には、帰着の届を堀田摂津守(若年寄)に差し出した。これまた煩瑣ではないか。もっとも湯治の効果はあったようで、江西は29日から出勤している。奉行や同心たちにどんな草津土産を配ったかは、残念ながら記されていない。 


 草津温泉に痔の療養にでかけた江西文蔵。彼の名をご存じの読者は(ご子孫でもないかぎり)皆無だろう。ほとんどの幕臣がそうであったように、彼もまた歴史に埋もれた無名の人である。とはいえ、無名な幕臣に光を当てるのもこの連載の使命なので、書物方における江西の功績を振り返ってみたい。

 江西は寛政9年(1797513日に世話役となり、ヒラの書物同心から中間管理職的な立場となった。といっても裃の着用を許されただけで、書物同心であることに変わりはなく(つまり昇進ではなく)、その割に面倒な仕事が増えた。自宅に同心たちを集めて「御役所条約」(役所の規則)の遵守を諭したり、心得違いがあればその度に戒めたり。文化7年(1810)正月には、息子の清太郎が書物方に「仮抱入」(仮採用)となり、やがて親子で書物同心を務めるようになった。

 文化5年(1808712日、江西は『乾隆四庫全書無板本』の外題を書いた功績で金300疋(400疋で金一両)の御褒美を頂戴した。『四庫全書』は清の乾隆帝の時代に編纂された一大叢書(1781年成立)。『乾隆四庫全書無板本』はその手書き写本で、江西は紅葉山文庫にある同書の検索を容易にするため、全276冊の各冊の表紙に収録されている書名を記したのである。

その程度で功績? と言うなかれ。現在、国立公文書館に保存されている同書の各冊表紙に残る手跡のなんと几帳面で美しいことか。けっして目立たないささやかな功績だが、その仕事ぶりに、私は幕臣版〝地上の星〟を感じるのである。

<了>

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