◆荒廃した神社を目の当たりにして神職に


 これまで、現代の多くの神社を取り巻く財政・運営面での問題を取り上げ、小規模神社の厳しい現実に光をあててみた。

 しかし、氏子減少、財政難といった逆境にさらされながらも、奮起・奮闘している神社が存在しないわけでは決してない。

 今回は、そうした神社のひとつを紹介してみたい。

 

 関西の郊外に位置するA市はかつては農業が主体で、のどかな田園風景が広がっていた。だが、196070年代の高度経済成長期に入ると宅地化が進み、現在では「ベッドタウン」という表現でくくられることが多い。

 そんな風土に古くから産土神として鎮座しているのが、今回紹介するB社である。

 B社の創建年代は不詳で、昭和戦前における旧社格は村社であり、決して規模の大きい神社ではないが、一説に平安時代にはその原型ができていたともいわれている。

 そして、B社と深い関係をもっているのが1キロほど離れた場所に鎮座するC社だ。C社は星辰(せいしん)信仰(星を神格化して崇拝する信仰)に由来する神社で、平安時代にはすでにあったといわれている。小高い山ひとつをまるごと境内とするが、明治時代以降は、B社の境外摂社というかたちをとって続いている。

 B社もC社も、現在は立派な社殿が建ち、境内はいつもきれいに掃き清められ、地元の人々が足しげく参詣してにぎわっているが、そうした光景がみられるようになったのは、じつをいえば、比較的最近のことになる。

 現在、B社の宮司を務める(摂社C社の宮司も兼務)大原直彦氏(仮名)が最初にこの地を訪れたのは、今からおよそ40年ほど前の昭和50年頃のことだ。

 当時、大原氏は近隣の市で自営業をしていて、とくに実家が神職というわけでもなく、神職とは無縁の暮らしをしていたが、星辰信仰に興味があり、まずC社を参詣したのだという。だが、当時はC社もそしてB社もかなり荒廃していた。

C社の参道は草木が生い茂り、灯篭はどれも傾いていて、拝殿はこわれ、内部には枯れ葉がたまっていました。B社も荒れていて、草ぼうぼうの境内は夜になると近所の方々の駐車場になっていました」

 B社にはいちおう宮司はいて、C社の宮司も兼務していたが、60歳を過ぎていて、週に1度くらしかやって来なかった。夏祭りなどを行っても、集まる氏子は20人程度にすぎなかった。

 だが、こんな荒んだ神社の姿をみて、大原氏の信仰心が逆に刺激された。

「すばらしいところなのに、気の毒なことだ。なんとかしなければいけない」

 そんな思いに駆られ、仕事の合間をみて参拝し、境内の清掃をし、自分の小遣いで負担してお社の補修も行うようになったのだ。

 こうして神社通いがはじまったが、数年がたつと、「このままでは中途半端になってしまう」という思いにも強く駆られるようになっていた。そうしたなか、当時の大原氏はまだ30代で家族もいたが、ある日、ついに自営の仕事を整理して、神社奉祀に専心することを決意する。

 そしてまず、先代宮司のすすめで神職養成講習会を受講して、神職の一番下のランクである直階(ちょっかい)の階位を取得し、はじめは、近隣の神社の手伝いなどもしながら日銭をかせぐ生活が続いた。また、神楽の横笛を独学で習得して方々の神社の祭りに奏者として奉仕し、それで得た謝礼を生活費の足しにすることもあったという。

 

◆玉垣をつくって復興資金を集める


 やがて先代宮司が高齢で引退することになったため、氏子にも推されていよいよ大原氏がその後を継ぐことになり、正式に
B社の宮司に就任し、同時に境外摂社C社の管理も託されることになった。これが今から20年ほど前のことである。

 大原宮司は当時のことをこう回想する。

「宮司になってから、どうすればこの神社は復興できるのか、と考えたのですが、摂社のC社はもともと星辰信仰の神社でしたので、70年以上途絶えていた〈星祭り〉を復活させることを思いつきました。

 ただ、復興するにも、資金が全然ありません。

 それでも、ひとりで掃除から社殿の修復までコツコツとやっていると、その姿を見るに見かねてか、徐々に周りから『お手伝いさせてくれんか』と声をかけられるようになり、手伝ってくださる方々が出てきました。

 そして、神社の御札を手作りでつくり、それをもって氏子の方々をまわりました。すると、少しですが、お金が集まるようになったのです」

 そして、こうした努力をしながら〈星祭り〉を毎年つづけていると、それが新聞で取り上げられるようになり、地元にもしだいに祭りのことが浸透して、神社の活動に協力してくれる人が少しずつ増えてゆき、摂社C社とあわせて本社B社の復興も勢いづいていった。


 だが、それでも最初のころは赤字続きで、資金難に見舞われた。

「そこで、玉垣をつくって浄財を集めるのはどうかな、と思ったのです」
 玉垣とは、神社の周囲や参道の両側によく設けられている垣根のことで、現代では短い石柱状のものを建て並べているタイプのものが多い。そうした列柱の11本に人の氏名や企業名が刻されているものを見かけることがあると思うが、それはふつう、その神社に寄進・寄付をしてくれた氏子・崇敬者の名前のはずである。

 つまり、社殿の復興あるいは改築の資金を、たとえば1口数万円、あるいは数十万円という単位で氏子・崇敬者に募り、応募してくれた人には、その謝礼替わりに氏名を玉垣の柱に陰刻する。玉垣をたてることは、もちろんそれなりの費用はかかるものの、境内や参道の整備になることは確かだし、また、寄付した側からすれば、氏神・鎮守に自分の名前を半永久的に記録してもらえることは、やはり誇らしくうれしいことには違いない。そして、そうした氏名の刻された石柱がずらりと建ち並んでいるということは、神社をみんなで支えているという精神を視覚化することにもなるし、それはまた、信仰心・崇敬心のあらわれということにもなろう

 こうして、神社に玉垣が新たに巡らされて、資金が集められた。もちろん、集められた資金は、社殿の修復や改築の費用であらかた消えてしまうわけだが、これによって境内の整備が進み、そして神社への協力者も確実に増えて行ったのである。

 

◆手作りの神事で地元の信頼と信仰を得る


 大原宮司の資金集めは、玉垣作りだけではない。

 祈禱やお祓いにも真剣に取り組んだ。

 正月の祈禱は1件につき1000円、2000円という単位だったが、神社の復興とともに、家族みんなで毎年祈禱をお願いにくる、というケースが増えて行った。そして現在では、正月ともなれば朝から夕方まで参拝の人々の列がとぎれることがなく、1時間待ちはざらだという。

 また6月、12月の大祓では、手製の人形をつくり、祝詞をコピーして参列者みんなにもあげてもらうかたちにして行うようにした。

「最初のころは参列される方は数名でしたが、それが10人、20人とだんだん増えて、今では60人ぐらいいらっしゃいます。20人に達したときは、本当にうれしかったですね」

 また、10年ぐらい前からは毎朝、境内に地元の人々が集まってラジオ体操が行われるようになり、これも神社復興を後押しすることになった。

 ラジオ体操は、ある氏子から「神社でラジオ体操させてもらえないだろうか」という話がきたのがきっかけだったが、大原宮司も必ず参加し、毎朝、全員が神殿に向かって拝礼をしてからはじまる。みずから箒をもってきて朝から境内の清掃を手伝ってくれる人もいる。

 正月三が日だけは休みになるが、現在では平日でも50人は集まり、多いときは100人以上になるという。

 ゼロからのスタートで、すべてが手探りのなか、神事も行事もすべてが何から何まで手作りというスタイルだが、神社と地元の人々のきずなは着実に強まっていった。

 おかけで大原宮司は一年中休みなしで朝から晩まで大忙しの日々だが、現在では平日でも多くの人が参拝してくれるようになり、氏子費も確保でき、これに加えて祈禱や御札の初穂料もあるので、財政基盤が安定した状態にいたっている。

 

◆「地縁に則らなければ、神社の意義がない」


 だが、大原宮司は、今の状況に決してあぐらをかいているわけではないし、将来を楽観視しているわけでもない。
B社以外にも複数の神社の宮司を兼務している大原宮司は、昨今の小規模神社が抱える運営の難しさ厳しさを、骨身にしみて実感している。

 にもかかわらず、大原宮司が前向きでいられるのは、自身の深い体験に裏打ちされた、神社護持への強い使命感が胸に深く根を張っているからだ。

 ある年の秋祭りのとき、台風が近づいてきたので、出店の屋台は引き上げ、参列者も帰ってしまい、残ったのは宮司の他に、総代数名ぐらいということがあった。

「寂しい祭りだな、と思ったのですが、そのときはじめてわかったのです。

 ――毎年同じ月の同じ日に、神様に対して、『今年もお祭りさせていただきます、ありがとうございます。来年もまたこの村が存続してお祭りができますように』と祈る。

 この一言をいうのが、神主の役割なんだと」

 ひたすら同じことの繰り返しこそが、神社の本質であり使命なのだ、ということなのだろう。


「祭礼というのは、年ごとに変わったらダメなんです。毎年、同じ月の同じ日にできるからこそ村が存続できる。それができなくなったら、村に危機が迫ったということなんです」

 そして、祭礼を継続するには、つまり地域の神社が継続するには、地元の人々の関わり合いすなわち地縁が不可欠なのだ、ということにも確信をもったという。

「戦前の社格で村社に列格されていたような神社(地域の氏神や鎮守にあたる神社)は、結局、地縁がなければ存続できません。地縁が切れてしまった時点で、その神社は存続の意味がないし、それは新興宗教と変わらない。地域のなかで、先祖の人々が育んで守ろうとしたものを、毎年毎年くりかえし淡々と守り続ける。それが、〈一社の教学〉(その神社が持っている伝統や文化、教えのこと)となるのです」

 さらに大原宮司は「地縁に則らなければ、神社の意義がない」「一個人の救済を願うのではなく、みんなが住んでいる地域全体の安泰を願うのが鎮守の杜」とも訴える。

 

◆今、神職に改めて問われる「神への畏れ」


 
B社(摂社C社も含む)の数十年という歳月をかけての復興は、宮司の類まれなバイタリティ、信仰心が原動力となって推進されたわけだが、それだけに、どんな神社にもまねできるものでもないだろう。また、B社のある地域は、とくに過疎化が進んでいるというわけではなかったので、人口減少が急速に進んでいる地方の農村部に比べれば、氏子や参拝者の潜在数が多く、需要を掘り起こす余地に恵まれていた。つまり、「地縁」が下地としてまだ残っていたわけで、こうしたことも、神社復興には大きな利点になっていたといえる。そもそも住民の絶対数が少なければ、地縁も狭まり、その地域の神社が祭りを復興させたとしても、参列する人の数は限られ、にぎわいにも限りが出る。

 しかしかといって、人口が多ければどんな神社でも復興が可能かといえば、それも違うだろう。B社の場合、もし大原宮司が現れなかったら、とうの昔に「不活動神社」になっていた恐れがある。

 では、年々深刻化しているといわれる神社運営の厳しさを改善する道は、結局奈辺に見出すことができるのだろうか。

 國學院大学で長年神道学を講じ、また自身も神職として神社に奉祀した経験をもち、神社界の事情によく通じている、神道学者の三橋健氏(79)に話を伺ってみた。

 三橋氏はまず、「神主」(神職)の意識の問題を指摘する。

「地域の神社に祀られる氏神様は、とても閉鎖的な存在でして、じつはその地域のことしか御守護なさらないのです。神社には氏子区域というものがあり、例えば、今日は神田明神のお祭りだといっても、隣の家が日枝神社の氏子であれば、全く関係ないということになります。また、神主さんは、市長や町長のように選挙で選ばれたものでもありません。

 しかし、そういうなかで、地域の長い歴史や伝統、しきたりなどを守り、継承してゆくのが神主さんの務めなのです。つらい仕事でもありますが、でも、現代の神主さんにはそういう意識がなくなってきているように思います。その土地にふさわしい人が神主になれば、神社というものは経営して行けるのではないでしょうか」

 さらに三橋氏は「神主さんが唱える祝詞は『掛け巻くも畏(かしこ)き、〇〇大神の大前に』と始まり、末尾は『畏(かしこ)み畏みも白(まお)す』となっていて、口では『畏れる(恐れ多い)』と言っていますが、本当のところでは神さまへの畏れを抱いていない神職が多いのでは」と手厳しい。

「私は若い頃、11年間神社に奉職しましたが、毎日、神様の御前で奉仕を繰り返していますと、だんだん慣れてきて、神様を恐れる気持ちが薄らいでゆくことがあります。こうした慣れが危険だと思います」

 大原宮司は「同じことの繰り返しこそが、神社の本質であり使命」という趣旨のことを語っていたが、三橋氏の言う通り、たしかにこのことは、ともすると「慣れ」に堕するリスクがあろう。だが、大原宮司の場合は、「慣れ」を「習熟」に向かわせる意識が働いて、そのリスクを回避させていたといえる。

 では、どういう神職をめざすべきなのか。

「一流の神主さんというのは、神様と対話ができる。そのためにはどうするかというと、毎日神様の御前に出て、祝詞をあげることしか近道はありません。そうすると、神様の方から御守護をして下さいます。私たちは、神様に祈っておりますが、神様も私たち以上に祈っていることに気づかされるのです。一流か二流かを分けるのは、人間が決めた正階とか直階とか、そんな階級ではないのですよ。神様と一体となって、神様の言葉をいただけるかどうかということでしょう。

 難しい問題ですが、現在では『信教の自由』ということで、町内会・自治会から神社の維持費を集められないということがあります。でも、氏神と氏子の関係を、地域の人々に神主さんがわかりやすく説明してあげる、そういうことも必要なのではないでしょうか。

 そして、何といっても大切なことは信仰です。信仰がなくなれば、経営もできなくなる」

 さらに三橋氏は言う。

「心底から神様を畏れる神主さんになれば、そのような神主さんを氏子さんたちは見捨てることはないでしょう」

「信仰」という精神論を持ち出すのは、ある意味では楽観的で、そしてまた正論にすぎる見方であるようにも筆者には思えたが、B社の再生への道のりは、三橋氏の言葉をみごとに証明している。

 

 繰り返しになるが、B社の場合の氏子区域は過疎化がとくに進んでいる地域ではなかったので、過疎化や人口減少に悩む地域の神社には、B社の復興は必ずしもモデルケースにはならないかもしれない。しかし、「祭り」と「祈り」を前面に押し出しての宮司の奮闘は、神社護持の王道を指し示しているともいえよう。

 ところで、B社の大原宮司は復興の仕上げとして大鳥居の建立を計画中だという。それには1億円近い資金が必要になるそうで、当初、この計画を口にしたときは、総代からは「何を血迷ったことを」とあきれられたそうだ。だが、最近では「本当にやるんなら、寄付金を出しますよ」と言われるようにもなり、周囲には無謀とも映った計画も現実味を帯びはじめているという。「神様を畏れる神主」を氏子はほうっておけない――ということなのだろうか。

 大原宮司のまなざしは、100年、200年、いや500年先の神社のすがたを見据えているような気がした。

 

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