書物同心・山本庄右衛門


 今の仕事は自分には合わない(ふさわしくない)。もう嫌だ。ほかの部署に移りたい――。滅私奉公を旨とする幕臣の社会でも、勤め人となれば、現代のサラリ―マン諸氏と心情は大差がない。紅葉山文庫を管理する書物方の奉行や同心の中にも、1日も早くこんな地味で将来性のない(?)職場から離れたいという人がすくなくなかった。

 同じ異動願いでも、書物奉行の場合は「役替願」と称し、書物同心のそれは「場所替願」と呼ばれた。前者が役職の異動であるのに対し、後者は配置転換(職場の変更)といったところだろうか。奉行(旗本)の役替は『寛政重修諸家譜』ほか幕府の編纂物や記録に載っているが、同心(御家人)の場所替の詳細はわかりにくい。という理由もあって今回は『御書物方日記』から、書物同心の場所替願いとその背景についてご紹介しよう。

 主人公は、天明2年(1782)5月に42歳で小普請組から書物同心になった山本庄右衛門。高15俵3人扶持というから書物同心の中でも平均以下の薄給の御家人だ。

 山本が初めて場所替を願い出たのは、書物同心になって12年目の寛政5年(1793)12月である。書物奉行に提出した文書で、山本はまず自分がこれまでいかに厚遇されてきたかを述べている。「私のような不調法者に結構な御奉公(職務)を仰せつけられ、御書籍御修復(紅葉山文庫の蔵書の修復)を拝命したばかりか、3年にわたって(修復御用に対する)御褒美を頂戴しました。そればかりか世話役助(同心を束ねる世話役の補佐)まで仰せつけられ……」。


 現状になんの不満もなく、むしろ感謝の念ばかり。しかし山本は続けて(これからが本音だ)、もし可能であれば「御三卿様附人」(徳川三卿に幕府から配属される幕臣)の空きポストに異動させていただけないかと願い出ている。

 山本が希望したのは、三卿のうち田安家の附人だった。山本の祖父も父も田安家で役人生活を終えたので、思い入れが深かったのだろう。古い知人や縁故もあったのかもしれない。しかし書物奉行から田安家の家老に打診したところ、希望は叶わないと判明。山本は田安家への場所替を断念せざるをえなかった。

 
場所替願いの条件


 書物同心は、誰でも希望すれば場所替願いを出せたのだろか。寛政7年9月18日の『日記』に、場所替願いを提出できる条件が次のように同心たちに申し渡されたとある。要約すると――

 

  勤続20年以上の者

  20年未満の場合は、学問と筆算(書道と算術)の能力ありと判定された者

  忌服も看病断(看病休暇)もとらず、3か年皆勤し、勤務ぶりが良い者は、①②の条件を満たさなくてもよい。

 

 ほかに「誰殿声懸り等は、急度懸合無之候得ば不取上」とも。幕府の有力者や重職の特別の推挙(紹介)や受け入れ先から要請があるという場合でも、その事実が確かでなければ(場所替願い)は受理しないという意味だろう。

 山本の場合は、おそらくに該当していた。寛政9年正月11日、山本は素読を教えた者たちが家に集まるからという理由で、午後2時頃に役所を退いたが、早引き願いの文言中に「御場所之晴にも御座候間」とある。自分が素読の師範を務めたのは、書物方の誇りでもあるというのだ。

また同年6月16日の『日記』には、新調した彼の判が押されている。印文は「有如皦日」。『詩経』王風のうち「大車」の詩句で、「私の言葉は白く輝くお日様のように確かだ(ウソはない)」という意味である。山本は漢学にたけた教養人だった。

 田安をあきらめ切れぬ山本は、3年後の寛政8年(1796)正月18日にも「田安附火之番」への場所替を願い出た。悠然院様(田安家の初代、田安宗武)の遠忌に墓所の勤番を務めたく、火の番に欠員があればぜひ、というのだ。田安附火の番の並高は8石2人扶持。異動が実現した場合は現在の高に2俵3斗の足高をお願いしたいと述べている。


 この希望も叶わなかったが、山本はあきらめない。同年6月に「賄方」への場所替を願い出たのである。奉行たちの回答は「今、書物方は絵図や書籍の修復御用で忙しい。御用があらかた終わったら、君のことも考えるから、とりあえず修復御用に専念してほしい」というものだった。

 翌9年2月にも、山本は「私は現在書物同心の筆頭です。修復御用が済んだらしかるべき場所に番替(異動)させていただきたい」と申し入れ、「そうすれば他の同心たちの励みにもなります」(「筆下の励にも相成候間」)と訴えている。同心たちの勤労意欲増進のためにも。私の場所替は必要不可欠というわけ。この言葉から、書物同心の誰もが場所替を希望していた様子がうかがえる。


 ひと月も経たないうちに、山本は小普請組世話役への異動を打診したが、またまた失敗。懲りない男の実現しない希望。ところが5月13日に彼が「御修復物頭取」の任を解かれると、事態は好転する。奉行たちは山本の異動実現に本腰を入れて取り組み、6月になって、成嶋仙蔵ほか書物奉行連名で、若年寄の堀田摂津守正敦に山本の場所替願を差し出したのである(それまでは山本の願いは奉行の段階で止められ、若年寄に正式の願書は提出されなかった)。かくして山本庄右衛門は、阿部大学組小普請世話役へ異動することに。書物奉行として勤続16年。齢57にして山本はようやく書物方から逃げ出したのだった。

 

湿気と寒さ


 逃げ出す? 書物同心の職務はそれほど辛いものだったのか。

 前回も述べたように江戸城内紅葉山下にあった書物方の役所(会所とも)と御書物蔵は、あたりに樹木が繁茂して日当たりが悪く、風通しも良くなかった。役所の広さは26畳ほど。ほかに畳を敷いていない空間もあるだろうから、さほど窮屈だったとは思えない(通常出勤するのは詰番・加番の奉行2人と同心数人だった)。風雨で頻繁に雨漏りし、雪隠が詰まることもあったが、最大の問題は湿気と寒さである。


 天明2年(1782)12月8日の『日記』に「御蔵湿地之御場所ゆへ湿含強」と見え、湿気の深刻さがうかがえる。湿気は書物や絵図の保存に悪影響を及ぼす。書物方では毎年夏季に大々的に「風干」(虫干し)を行い、冬季にも「寒干」(「寒風入」とも)を実施した。

 書物方の人々(奉行と同心)にとって湿気にもましてこたえたのが、冬の寒さである。寛政2年(1790)12月、書物方は役所で温かい湯茶が飲めるよう、茶瓶(薬缶)と火鉢の使用を許していただけないかと伺書を出した。なんとそれまでは(書庫内は当然として)、役所にすら火鉢は置かれていなかったのだ。さいわい書物方の願いは叶い、以後、役所を退出する際に「元火」(火種)を御宝蔵下番の者に返し、火鉢と茶瓶を預けるという条件で、わずかながら暖を取ることが可能になった。


 それにしてもなぜ寛政2年の末なのか。理由は翌3年から書物同心たちの手で蔵書の修復が本格的に行われるようになったから。従来、御書物師(幕府御用達の本屋)の出雲寺が「風干」の際に職人を派遣して行わせていた修復作業を、経費節減と幕臣の有効活用を兼ねて(特に熟練した技術を要する絵図や貴重書を除き)「御修復御手前細工」と称して、書物同心の手で行わせるようにしたのである。職人の手から同心の手へ。些細な事ながら、これも寛政の幕政改革の一環だった。

当然同心たちは、今までより長時間役所に居残って手作業に励まなければならない。手が凍えていては、大切な書物を汚したり傷つけてしまうかもしれない。それにもまして、ただでさえ不満が高じている同心たちの勤労意欲をそいでしまうに違いない。かくして寛政2年の末、役所内への火鉢の持ち込みが初めて許可されたのだった。

 

書物の修復も同心のお仕事に


 書物の修復作業とは、――切れた綴じ糸の交換(綴じ直し)・虫に喰われた箇所の繕い・虫喰いが酷かったり破れたりした紙の裏に薄紙を貼って補強する「裏打」・傷んだ表紙の交換・糊が剥がれた箇所の貼り付け――などだが、錯簡(綴じ違えで頁が前後している状態)や落丁(頁の抜け落ち)を見つけて正しい状態に戻すのも、修復作業のひとつだった。手の器用さだけでなく、知識と細心の注意が求められる、なかなかしんどい仕事なのである。

 もちろん作業を担当した同心たちには、作業時間(出勤日数)や成果に応じて手当や御褒美が支給された。

寛政3年5月7日に当年の「定式御修復掛り」に任ぜられたのは、山本庄右衛門ほか計5人。翌4年5月まで885冊を修復した。寛政4年9月14日の『日記』に毎月の「御修復日」が、2日・7日・13日・19日・25日とあり(ちなみに寛政7年は2日・10日・19日・23日・26日)、修復作業は月5日。当日の出勤時間は午前8時頃だが「終日」かかると記されている。「終日」とは退庁まで、それとも日が暮れるまでという意味だろうか。御修復日には「日々増夕御台所」(寛政3年5月7日)とあるように、夕食も支給されたようだ。

 寛政5年の「御修復掛り」は、山本ほか計3名。4月20日にメンバ―交替して山本は掛りから外れたが、9月23日に「御書籍御修復骨折に付」金2両の御褒美を頂戴した。翌6年、山本は修復掛り(計3名)に復帰し、修復掛りは、同年5月から閏11月25日までの7か月で599冊を修復している。

 話が細かくなってしまったが、要するに山本は、書物修復の中心的存在として、居心地の悪い書物方の役所や書庫で日々過ごしていたのである。

 

侍か職人か

 寛政8年になると、書物だけでなく国絵図や城絵図など絵図の修復も本格的に始まり、書物同心のほかに賄六尺見習の西村二作も絵図修復担当として書物方に出役(出向)となった。

同年8月26日に申し渡された「御修復日数之定」によれば、書物同心のうち3名が「日勤」で、修復に従事する日数は年に200日。1日の手当は1人銀9分7厘5毛で、皆勤すれば年に銀195匁になる。金1両が銀60匁とすれば金3両1分。

 同様に5名が「隔番」で年100日の作業。1日の手当は1人銀6分7厘5毛。8名が「四番」で年50日。手当は銀6分5厘6毛余。ほかに「絵工方」が本工1名と手伝1名で、1年の手当はそれぞれ銀180匁、75匁と定められている。山本は「日勤」で、西村は「絵工方」の本工だったに違いない。


 作業日は糊がよく乾くよう晴天の日に限定され、元旦から12日の間は作業は行わなかった。また「日勤」の者は病気などやむをえぬ場合、10日間は有給休暇とされ、11日を超えると1日休むごとに銀9分7厘5毛ずつ年間手当から差し引かれ、差し引いた分は皆勤者に振り分けた。

 それにしても「日勤」の場合、年200日も修復作業に従事するとは。いくら薄給の御家人とはいえ、山本は漢学の教養に富み、祖父も父も田安家に仕えたれっきとした武士だ。しかも年齢も50代の半ばを過ぎて後がない。書物修復の技術を磨き、隠居後の趣味を兼ねた副業にしようと考えていたならともかく、そうでもなければ……。


 武士として、幕臣として(そして知識人として)のプライドを人一倍持ちながら、職場でひがな1日、虫穴をふさぎ、剥がれた箇所を糊付し、糸切れを綴じ直す作業に従事させられた山本庄右衛門。いったい自分は武士なのか職人なのか。そんな鬱屈と煩悶から彼は懲りずに場所替を願い出たのだろう。

<了>

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