今回は、主人公こそ幕臣ではないが、本連載中最強の「伝説」とも言うべき話をご紹介したい。出典はお馴染みの旧旗本、大谷木醇堂(おおやぎ・じゅんどう)が明治半ばに著した『醇堂叢稿』である。どこがどのように「最強」なのか、例によって意訳でご覧いただこう。

 

三河から来た男の驚きの正体


天明年間(178189)のこと。ある日の夕暮れどき、馬喰町の旅籠屋の店先で、木綿紋付の衣服に長脇差を差した田舎風の男が行ったり来たりしていた。旅籠屋の手代が勧めて宿泊させ、何処の人か尋ねると、三河の者で日光参詣のためやって来たと言う。翌日、男が芝居見物をしたいと望むので、手代は堺町の芝居茶屋に案内し、「田舎の客なのでよろしく頼む」と言い残して帰った。芝居が終わり茶屋の者が男を送り届けたが、茶屋の者は旅籠屋の亭主(主人)を戸外に呼び出し、こう囁いた。「田舎客の衣服の紋に気が付きましたか」。亭主がよく見ると、なんと葵の御紋が。もちろん衣服は粗末で従者もいない。とはいえなにか訳があるに違いないと男の様子をじっくり観察することにした。

翌朝、男は雨の中、近所見物に出かけたが、なかなか戻ってこない。帰る道を間違えたのかも。男を捜しに人を遣わしたところ、町奉行所の役人に連れていかれたと言う。これは大変。どうしたらよいものかと苦慮していたところに、本所石原の町名主、小泉六郎左衛門が用事があって訪れた。亭主が事の次第を語ると、六郎左衛門は「そのような人が宿泊したときは、すみやかに町奉行所に届けなければなりません。報告が遅れてしまいましたね。仕方ありません。私にまかせなさい」と言って、ただちに南町奉行所に出向いて、奉行の曲淵甲斐守(景漸)に経緯を申し上げた。

三河から来た男は「仮牢」に入れられていた。話を聞いた曲淵は六郎左衛門を側に寄せ、

「この話は口外してはならぬ(内密に)。男の身柄はその方に預けるので、大切に扱うように」と囁いた。六郎左衛門は男を連れて自宅に戻ったのち、出府(江戸に来た)理由を尋ねたところ、男が語ったのは驚愕無比の内容だった。原文を引用してみよう。

 

「予は元来三河岡崎の農民にて、先祖は東照宮の弟なり、我が先祖東照宮より脇差をあづかり置きけるゆへに、今度それを返し度とて日光へ参るなり」

 

なんと、なんと、男は東照宮(神君家康)の弟の子孫で、先祖が家康公から預かった脇差を日光東照宮に返納するために三河国岡崎から出てきたというのだ。先祖が家康の弟とはいえ、自身は三河のお百姓。奉行の「仮牢」に入れられていたことも気づかなかったらしい。江戸の事情に無知で、それにもまして粗末な住まいに慣れていたのだろう。

 

将軍の一言は「大事にせよ」

 旅人は(これまでは「男」と呼んできたが、「続幕臣伝説」と称する本連載で仮にも神君家康公の弟のご子孫を「男」の一語で済ませるのは、なんとなく躊躇われる。というわけで、これからは「旅人」と呼ぶことにしたい)、脇差を取り出して六郎左衛門に見せた(「これ見たまへ」)。さすがに中身(刀身)までは見せなかったが、脇差の拵え(柄や鞘などの装飾)は赤胴作りの質素なものだった。

旅人はさらに懐中から幾重にも包んだ物を取り出した。見ると、本多平八郎と平岩主計頭の「馬料飼葉五十石」の借用証文で、裏に「御実名」(家康)が記されている(本多平八郎忠勝と平岩主計頭親吉はともに早くから家康に仕えた武将で、のちに〝徳川十六神将〟に数えられた)。旅人は手に取って見るように勧めたが、六郎左衛門はさすがに畏れ多く、手を触れなかった。

 その夜、六郎左衛門は曲淵の役宅に参上し、旅人の正体を報告。曲淵はただちに六郎左衛門を同道して同役の牧野大隅守(成賢)の役宅を訪れ、六郎左衛門に事の詳細を伝えさせたのち、三人で月番の老中鳥居丹波守(忠孝)方へ。鳥居から旅人の持参した品々(脇差、借用証文など)をしっかり鑑定せよと命じられた曲淵と牧野の両町奉行は、それからどうしたか。

六郎左衛門を通じて旅人に山王社(現在の千代田区永田町に所在する日枝神社)参詣を持ちかけ、両町奉行は山王社で待ち構えた。さて旅人が参拝を終えると、両町奉行は、茶菓をすすめて、「ぜひ脇差を拝見したい」と申し出た。旅人は快諾(「安き事なり」)。山王社別当の勧理院が用意した黒い三宝の上に「どさり」と置いて、じっくりご覧くださいと述べた。続いて例の「証文」も拝見した。拝見といっても手に取って見たわけではない。曲淵も牧野も(そして勧理院も)「はるかに其座を下りて拝見し」と原文にある。はたして正確に真贋鑑定ができたのだろうかとも思うが、とにかくホンモノと鑑定されたらしい。

 ふたりが鑑定結果を即座に鳥居に報告したのは言うまでもない。鳥居は登城して同列(他の老中たち)と評議ののち、大老の井伊掃部頭(直幸)とも打ち合わせ、ついに将軍(十代徳川家治であろう)に言上するに至った。将軍の「御意」は「大事にせよ」(原文)。丁重にもてなせというものだった。

 

日光に参詣し東照宮に直に語りかける


 ということで、旅人は六郎左衛門の案内で日光に参拝した。将軍の御意もあってVIP待遇で、道中は前後を町奉行所の与力・同心がそれと知られぬよう警護した。さて日光東照宮拝礼の当日、内陣に通され別当の大楽院が「脇差を受け取って神前に献納致しましょう」と申し入れたが、旅人は神前で言上したいこともあるのでぜひ自身で供えたいと承知しない。

仕方なく希望通りにとりはからうと、旅人はごく親し気に(緊張も畏怖もなく)以下のように語りかけた。長いけれど原文で。

 

「さてさて伯父子(おじご=おじ)様には仕合な事にてござる。此様なる結構なる御宮に神にまつられて御座れば、一生骨を折たる甲斐がござる。伯父子様の弟であれども、私が先祖は軍さが嫌ひで農業ばかりして終られたゆへに、(私は)今に百姓でござる。この腰物(脇差)は伯父子様より先祖へ預けられましたが、返しそこねて大に延引しました。其内困窮によつて質物に致して置ましたが、親が一向苦労に致しまして、何卒あの腰物をうけ戻して伯父子の宮へ往ていひ訳をして呉よと常々いはれてつゐになくなられましたが、金と云ふものは出来難いもので、数年間の心掛けにてやうやう今日御返し申やうになりました。御受取り下されよ」

 

と述べて拝礼。さらに、

 

「これにて気がすみました、親もさぞよろこびましやう」

 

と再拝した。

 必要ないかと思うが、とりあえず簡単な意訳を。

――私の先祖は伯父様(家康)の弟にもかかわらず、戦が嫌いで農民で通したので、子孫の私もご覧の通り田舎のお百姓です。伯父様は苦労の多い生涯を遂げられましたが、こうして立派な御宮で神として祭られていらっしゃる。それにしても豪勢な御宮。おっ魂消てしまいました。ところで今日持参したこの脇差は、伯父様が先祖にお預けになったもので、お返ししないまま代々お預かりし、恥ずかしながら貧窮のあまりいつしか質入れしてしまいました。そのことを私の親がひたすら気に病み、「ぜひ脇差を取り戻して日光東照宮(「伯父子の宮」)に持参し、返却が遅れた理由を申し上げて返納するように」と遺言して亡くなりました。一日も早くとは思いましたが、請け出す金がなかなか用意できないまま返納が今日になってしまいました。なにとぞ御受納ください。いやはやこれで肩の荷が下りました。親も草葉の陰でさぞ喜んでいることでしょう――。

親族の専用座敷は「三河の間」


さて、東照宮との〝対面〟を終えた旅人を大楽院が書院の上座に案内すると、旅人は一礼を述べたのち「このような上座には座りつけていないので窮屈でしかたない。できれば胡坐で」と膝をくずして話し始めた。「三河の親類たちも皆日光に参詣したがっているが、事前に江戸(幕府)に届けなければならないので億劫に思って出てこれない」(『醇堂叢稿』の原文では「億劫」は「乙甲」と表記されている。どうでもいいことだが面白い)。「できれば三河の在所から日光に直に参詣できるように、座敷を一間用意していただけないか」。

そう、旅人は大胆にも日光東照宮内に、自分を含めて三河の親類たち(すなわち家康の弟の末裔たち)が気安く滞在できるよう座敷を設けてほしいと願い出た(というか要求した)のである。
さぞかし面食らったに違いないと思いのほか、やはり将軍の「大事にせよ」の一言が重く受け止められたのであろう、大楽院はすんなり承諾した(「それはいと安き事なり」)。大楽院はその後幕府にこの事を言上し、新たに座敷一箇所を普請(建設)した。そして「平常は〆切り鎖閉し置て、三河より参詣の者はかりを此座敷に入れ、他の人は一切入るを禁ぜり」(原文)とも。この三河の親族の専用座敷は「三河の間」と呼ばれたという。


 旅人はその後日光山内の諸堂を巡拝し、六郎左衛門を同伴して江戸に帰った。『醇堂叢稿』には書かれていないが、往路同様、復路も町奉行所の与力・同心が覆面警備に当たったのは言うまでもない。江戸に戻った旅人はその後どうなったか? そもそも彼の先祖の名は? 酷暑で疲弊しきったわけではないが、予定の紙幅が尽きたので、後編は次回に。

<続く>

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