長州藩の弁明


 今回は元治元年(1864)7月19日の「禁門の変」に至るまでの物語。

 冒頭、長州の桂小五郎が物乞いの格好で一橋慶喜邸の門前に居座っており、西郷と出会う。もう、このあたりから、違和感満々である。
 桂が変装して京都に潜伏したとされるのは、「禁門の変」に敗れた「後」であるはずだ。なぜ、戦争に負ける「前」に変装しているのか。あるいは、趣味の「コスプレ」かも知れない。


 続いて桂は、この格好のまま西郷の宿所・鍵屋を訪ねて来るのだが、「長州藩士、桂小五郎」と堂々と名乗っているのも、ものすごく「変」だ。せっかくの変装が、台無しである。やはり趣味の「コスプレ」だったのかと、思わざるを得ない。


 長州藩は文久3年(1863)8月18日の政変により、京都政局での地位を失った。だから史実でも桂は政変後に失地回復のため、奔走している。


 前回も書いたが、長州藩は孝明天皇に「攘夷」の意思を確認した上で、外国船を砲撃するなど過激な活動を展開して来た。だから、功こそあれ、罪など無いと考えている。そこで政変後、藩主父子を上京させ、天皇の前で弁明させて欲しいと訴え続けるのだが、使者の京都入りすら許されない。京都守護職で会津藩主の松平容保が、頑なに反対したからである。


 ここはひとつ、長州藩の言い分を聞き、審議した上で、罪を確定すべきであったと僕は思う。ところが「違勅」の一点張り。長州藩は弁明の機会を、一切与えられなかった。それが会津藩に対する、激しい憎悪と化す。


 十数年前、会津若松で行われた幕末関係のシンポジュウムに、パネラーとして呼んでもらったことがある。その時このような話をしたら、『会津士魂』などの著作のある小説家の早乙女貢に、違勅は違勅なんだから、弁明など聞く必要はない! との旨を反論されて、幕末とあまりにも変わらないその態度に、ちょっと驚かされた(ちなみに書いておくと、僕は学生の頃、ある出版社のパーティーで早乙女さんに初めてお目にかかった。『奇兵隊の叛乱』という著書に、サインもいただいている。このシンポの夜も一緒に楽しく飲んで、まったくわだかまりは無いことをお断りしておく)。

 長州も会津も、わりと理屈っぽい土地柄だとは思うが、いざという時にはカーっとなって、感情的な強引さを貫こうとするところがあると、僕は見ている。当然、変な方向に転がってしまうわけで、それが明治維新の悲劇の一端を生んだのだ。

 

 閑話休題。ドラマの桂は西郷から一橋慶喜を紹介してもらい、さらに慶喜から孝明天皇につないでもらおうと考えているが、これらはフィクション。長州藩主毛利家のルーツは皇族であり、史実ではその筋からも復権を画策するが、失敗に終わった。

 

薩摩よりも会津

 ドラマの桂は、長州藩御用商人の店に訪ねて来た薩摩藩の中村半次郎に、「貴殿のお陰で長州は救われた、我らは同志じゃ」といった、西郷への伝言を託す。それが全部ご破算になってしまい、薩摩対長州という敵対関係が決定的になってしまう。

 この後、描かれるであろう「薩長同盟」をより劇的に見せたいのだろう。薩長間の離反は、派手であればある程、いいのかも知れない。


 ただ、史実では長州藩が敵視し、激しい憎悪を抱いていたのは会津藩の方である。だから京都近郊に布陣した長州藩は、在京の諸藩や公家たちに対してターゲットは会津藩であると強くアピールした。

 そのため、長州対会津の「私闘」であるとのイメージが強くなり、会津藩は孤立してゆく。


 薩摩藩もわざわざ巻き込まれる必要はないから、西郷も「私闘」「無名の軍」と呼び、傍観を決め込もうとした。その旨を国もとの島津久光や大久保一蔵に手紙で知らせている。だから幕府が薩摩藩に、淀方面の警護を担当するよう命じて来ても、西郷は拒否した。


 ところが天皇が会津藩を支援する勅を発し、長州に退去するよう命じたため、事情は大いに変わってゆく。天皇の方針が決まった以上、西郷も戦う決意を固めざるをえない。

 決断を迫られた長州藩は御所めがけて進撃し、「禁門の変」を起こし敗れたのである。

<了>

  洋泉社歴史総合サイト

歴史REALWEBはこちらから!

yosensha_banner_20130607