◆廃村の神社が復活

 京都と滋賀の府県境に位置する標高971メートルの皆子山(みなごやま)は京都府の最高峰だが、この山のやや西麓、標高約600メートルの小盆地に、「大見(おおみ)」という集落がある。現在は京都市左京区に属するが、琵琶湖に注がれる安曇川(あどがわ)の源流付近にあたるひなびた山村で、国宝の阿弥陀三尊像などで知られる名刹・三千院のある大原の里から車で40分、京都駅からだと1時間半はかかる。

 この大見集落は、かつては農業や炭焼きで栄えたが、昭和戦後に離村者が相次ぎ、1970年代にはいったん廃村状態に陥った。

 ところが、近年になって旧住民やその関係者によって集落の「再生」が試みられ、その一環として、荒廃していた集落の神社が再興されたという。

 過疎化地域における神社の著しい衰退、不活動化が目立つなか、廃村になっていた土地の神社が息を吹き返すというのは、非常に珍しいケースだろう。そこで筆者は現地を訪ねてみることにした。

 

◆大見に残るシコブチ信仰

 大見集落(京都市左京区大原大見町)の歴史を瞥見しておこう。

 大見の名は平安時代の文献にはすでにみえ、当時は北方の久多などとあわせて、藤原氏摂関家が伝領すると荘園(法成寺(ほうじょうじ)領)となっていた。その後、鎌倉時代末期には足利家領、室町時代には醍醐寺三宝院(だいごじさんぽういん)領となり、しだいに「大見村」が形成されていった。江戸時代になると、安曇川上流域に広がる近江国高島郡朽木(くつき)(滋賀県高島市朽木)を本拠とする朽木氏の知行となった。そのせいか、またもともと琵琶湖に流れる安曇川水系に属することもあってか、大見は、地誌的には山城国(京都府)愛宕(おたぎ)郡に属するものの、生活圏・文化圏の面では近江国(滋賀県)との関係が深い。

 明治4年(1871)に廃藩置県となると村政の再編が行われ、翌年、大見村は近隣の10カ村と合わせられて京都府愛宕郡第九区となった。その後も再編が繰り返され、結局、明治22年には大原村に含められる。そして昭和24年(1949)に京都市に編入され、京都市左京区大原大見町となったのである。

 産業としては農業が主で、炭焼きも盛んだった。京都と若狭を結ぶ鯖(さば)街道が通っていたこともあって、山間とはいえ一定のにぎわいをみせ、明治初年の大見村の村勢は、戸数16戸(うち、神社が1戸、寺が1戸)、住民は82人であった(『京都府地誌』)。

 そして、この大見の地に鎮座していたのが、思子淵(しこぶち)神社である。

 思子淵神社の創祀は不明だが、今回の再興の際には「至徳三年(1386)宝殿創造」と墨書された棟札が見つかっているので、遅くとも南北朝時代には社殿が存在していたことになる。

 祭神は「シコブチ神」。おそらく多くの人には聞き慣れない神名のはずだが、これは安曇川流域一円に古くからみられる民間信仰の神で、じつは、大見を含む安曇川流域にはシコブチ神を祀る小社・小祠がいくつも点在している(シコブチの表記は思古淵、志古淵、思子淵などバリエーションがある)。安曇川ではかつては筏流しによる木材の運搬が盛んだったが、流れが急でカーブや淵も多くて危険も多い。そのため、水難除けの神、筏師の守護神として信仰されたのがシコブチ神であったらしく、「筏流しを宰領したシコブチがいたずらをする河童を退治し、その徳を偲んでシコブチを祀る祠が建てられた」という伝説がある(谷川健一編『日本の神々5 山城・近江』)。

シコブチという名称については人名とする口碑もあるが、「フチを淵(水の深く淀んだところ)、シコを醜(ごつごつしていかついさま、転じて醜悪・凶悪の意味をもつ)と解するなら、シコブチとは『気味の悪い、恐ろしい淵』という意味になるであろう」(前掲書)という見解が妥当ではないだろうか。また、「筏流しにおける最大の難所が淵であったという事実を思えば、淵への畏怖や畏敬の気持ちが神名に反映したものと考えるのである」(石田敏『安曇川と筏流し』)という見方も示唆に富む。

 実際、大見の思子淵神社は安曇川の支流にあたる大見川の川筋に建ち、そこはちょうど流れが蛇行して淵ができていて、シコブチ信仰のルーツをしのばせている。

 そしてシコブチ信仰は、筏師だけでなく安曇川水系の住民の結束の横糸としても機能し、この一帯に根を張ったのである。

 

◆高度経済成長の余波で昭和48年に廃村

「子供のころは、100人ぐらい住民がいて、小学校・中学校の分校もありました」

 そう語るのは、昭和29年(1954)に大見に生まれ、現在は大原に在住する藤井義昭氏。藤井氏が生まれた頃、生家は農業を営み、住民は自給自足的な生活を送っていたという。思子淵神社はそんな住民たちの氏神、産土(うぶすな)のような存在であり、住民たちは折に触れて詣で、5月には祭礼も行われていた。同時にそこは、大見の少年たちの遊び場でもあった。

 ただし、藤井氏によれば神社で神職の姿を見かけることはなく、祭礼のときに他の地域の神社の神職がやってきて神事を執り行う、ということもなかったという。北方の久多(くた)の思古淵神社ではかつては宮座(みやざ)(住民が交替で神職を務める氏子組織)が形成されていたことがわかっているので、大見の思子淵神社でも、住民たちによる宮座的な組織が残っていた可能性は考えられるだろう。ちなみに久多の思古淵神社は鎌倉時代初期の天福元年(1233)の古文書にすでに言及されていて、平安時代から存在していた可能性を示している。


 ところが、高度経済成長期に入ると薪炭(しんたん)の需要は激減し、集落の住民ですらプロパンガスを利用するようになると、山深い僻村の生活に見切りをつける住民が続出。藤井氏も昭和
44年には高校進学を機に大見を離れ、昭和48年頃には分校も休校となり、残留していた住民もほとんどが離村した。こうして大見は事実上の無住集落、廃村となってしまったのである(高齢者などごく一部の人はその後も残り、完全に無住になったのは1990年代だという)。

 ただし、旧住民の多くは土地そのものは手放さずに持ち続け、夏などに一時的に帰村するケースもみられた。藤井氏の一家も正月には集落に戻り、神社に初詣でをしていたという。

 

◆台風で古社が倒壊するも再建される

 廃村状態に転機が訪れたのは、平成22年(2010)のことだ。この頃、旧住民の子孫(藤井氏の甥)が定住して有機農業に取り組みはじめたのだが、これをきっかけに、若い世代の人たちが豊かな自然に恵まれた大見に注目するようになり、平成24年には数人の有志によって、大見を「現代の新しい村」として再生させる「大見新村プロジェクト」が発足した。現在のところ定住しているのはひとりだが、週末にはメンバーが集まり、古民家の改修や農業、狩猟などが行われ、新しい暮らしのスタイルの模索と実践が続けられている。藤井氏もこのプロジェクトをオブザーバー的な立場で支えている。

 ところが、村の再生が試みられはじめていたさなかの平成259月、大型の台風が大見を襲い、大見川が氾濫。川筋にあった思子淵神社はあえなく倒壊してしまった。

 しばらくはそのまま放置されていたが、やがて藤井氏が呼びかけ人となって神社再建が決定。藤井氏を中心とし、プロジェクトのメンバーがこれに協力するかたちで、再建事業が開始された。作業が週末に限られたこともあって、思いのほか時間がかかり、整地だけで2年かかったという。

 ちなみに、旧社殿の解体作業のなかで見つかったのが先述した棟札で、表には「奉再造 山城州愛宕大見村之民社」「享保十乙巳年八月吉祥日 神主本邑兵五郎吉正 謹記」、裏には「至徳三年宝殿創造 享保十年再造」などと記されていた。この記述にもとづけば、旧社殿は江戸時代なかばの享保10年(1725)に建造され、300年近く建っていたということになる。

「お社(やしろ)を建てずに、石の塚を築いてその代わりにしてもいいのでは」という声も出たそうだが、平成29年暮れには藤井氏の親戚筋の建築業者の力も借りて社殿が完成。今年平成30年の4月にはメンバー、関係者など20名あまりが集まって、魂入れ式が行われた。神事は、藤井氏が依頼した大原の神社の神職が執り行った。

 筆者は、いろいろと話を伺ったところで、集落から少し離れた場所にある、新生した思子淵神社へ藤井氏に案内してもらった。鬱蒼とした林の下にもうけられた参道を進むと大見川にかかる小さな丸太橋があり、その橋を渡ったすぐ先に、覆い屋に守られて、小ぶりながらも荘重な白木の社殿が鎮座していた。

 今のところ祭礼を復活させたり神職を招いたりする予定はないそうで、メンバーたちが参詣するという程度とのことだが、藤井氏は「思子淵さんには子供のころからお世話になっていましたし、村の再生のシンボル、大見新村プロジェクトのメンバーの絆の拠り所になってくれればと思っています」と語る。

 鳥居もなく、神社というよりは祠をやや大きめにしたものという程度なのかもしれない。だが、廃村という試練を乗り越えて、豊かな記憶と信仰の眠る土地を大切にし、それを再生させてアイデンティティにしようとする、人々のあたたかい思いがここにはこめられている。それは、神社の祖型、神社本来の姿を呼び覚ますものでもあろう。

 

◆宗教法人ではないがゆえの利点

 ところで、小さいお社とはいえ、神社再建にあたってはそれなりの費用もかかったはずだが、それはどのようにして賄われたのだろうか。

 藤井氏に訊ねてみると、労力面ではメンバーみんなに負担してもらったが、金銭的な面はほぼ藤井氏個人が負担した、ということであった。

 また、大見の思子淵神社は宗教法人格をもともと有していないという。そして、神社の境内地は古くから集落の共有地となっていて、現在は藤井氏をはじめとする旧村民・関係者4人ほどの共有名義になっているという。つまり、この思子淵神社は私有地に建てられた私的建造物ということになる。もちろん、だからといって「思子淵神社は正式な神社ではない」とする意見は的外れであろう。

 おそらく、思子淵神社は、明治時代に社格制度がつくられた際には無格社として扱われ、神職もとくに置かれなかったに違いない。したがって、昭和戦後に国家神道が解体され、宗教法人法が公布され、神社本庁が発足しても、宗教法人化されず、神社本庁の管轄下に入ることもなく、集落の共有物というようなかたちで存続することになったのだろう。

 思子淵神社が法人格をもっていなかったことは、平成の再建にあたっては、利点になったともいえる。もし法人格をもっていたら、境内地はもちろん法人名義になるので、再建について氏子や役員の了解をとりつける必要が出てくるし、表向きは、おそらくは複数の神社を兼務しているであろう宮司(ぐうじ)(責任役員)を中心にしてことを進めなくてならなくなってくる。また、再建をはたしてからも、当然、役員を選出し法律に則って宗教法人として運営してゆかねばならない。包括宗教法人(おそらく神社本庁)との関係も生じるし、それに付随してさまざまな業務や費用も発生する。

 いうなれば、身軽であったことが、神社再建に大いに役立ったということになろう。

 宗教法人ではない神社において神社の未来が垣間見えたことは、ある意味では現代の神社界に対する痛烈な皮肉ともなろうが、同時にこのことは、これからの神社の新しいあり方について、貴重なヒントを与えてくれているのではないか。

 

◆『養老律令』にみる神社の原風景

 この連載も今回がいよいよ最終回となるが、ここで改めて神社の存在意義を考えてみると、ある古文献の記述に行き着いた。

 その文献とは、養老2年(718)に編纂されたとされる『養老律令(ようろうりつりょう)』(『大宝律令』を若干修正したもの)で、同書の「儀制令」の「春時祭田条」には、神社に関連するものとして、次のような記載がある。

「凡(およ)そ春の時の祭田の日には、郷(がう)の老者を集めて、一たび郷飲酒礼(がういむしゆらい)を行へ。人をして長を尊び老を養ふ道を知らしめよ。其れ酒肴等の物は公廨(くげ)を出して供せよ」(『日本思想大系 律令』岩波書店)

 現代語訳すれば、「春の田んぼの祭りの日には、郷村の老人を集めて、みんなで酒を飲みかわす宴を行いなさい。年長者を尊敬し、老人を養う道を人々に知らしめなさい。酒肴の費用には、公廨(官物、正税)をあてなさい」となる。

「公廨(くげ、くがい)」とは、本来は官衙(かんが)(官庁)の舎屋のことをいう。奈良・平安時代にはこれが転じて官衙の収蔵物をさすようになり、それは場合によっては人民に出挙(すいこ)(利息を付けて貸し付けること)され、その利息が官衙の経費や官人の給与にあてられた。貸し付けられるのが銭の場合は公廨銭、稲の場合は公廨稲と呼ばれる。また、官衙の費用に充てる田は公廨田と呼ばれた。

 上記の「春時祭田条」での「公廨」とは、地方官が農民への公廨稲の出挙によって得た利稲と解すべきだろう。

 

◆住民の公共の場としての神社

 上記の条文だけだと、「春のお祭りのときには、税金を使ってかまわないので、村中の人間で高齢者をもてなしなさい」という、いたって単純な官製の「養老のすすめ」のように読めてしまう。

 しかし、『養老令』の注釈書である『令集解(りょうのしゅうげ)』(9世紀なかば頃の成立)は、この条文を、古代の神社のありようとからめて、次のようにくわしく解説している。

「古記に云はく、春時祭田の日、謂う国郡郷里、村毎に社神あり、人夫集い聚(あつ)まり祭る。もしくは祈年祭を放(なら)うか也。郷飲酒礼を行う。謂う、その郷家をして備え設ける也。

 一(ある)に云はく、村毎に私に社官を置く。名づけて社首と称う。村内の人、公私事に縁り他国に往来し、神幣を輸(おく)らしめ、或は家毎に状を量り、稲を取斂(しゅれん)し、出挙して利を取る。預は酒を造設し、祭田の日、飲食を設備し、幷(なら)びに人別に食を設く。男女悉く集う。国家の法を告げ、知らしめ訖(おわ)る」(『国史大系』吉川弘文館、原文漢文)

 これを要約してみると、「古くは村ごとに神社があり、社首と呼ばれる神主がいて、春と秋の豊作祈願と収穫感謝の祭を司っている。村人が他所に出かけるときは神幣を出させ、収穫時には、家ごとの経済状況に応じて稲を取りおさめ、出挙を行って利を取った。その利稲によって預人は酒造を行い、祭の日には飲食物を用意したので、男女が悉く集まった。そしてそのとき、国家の法が知らしめられた」

 ここで注目したいのは、春秋の神社での祭(祈年祭や新嘗祭の原型か)の際、参集した村人の前で「国家の法を告げ、知らしめ」たということである。神主が、朝廷や国司・郡司から送られてきた公文書でも読み上げたのだろうか。しかも、その祭礼の費用は、利稲すなわち村人が収穫の一部を出し合うことでまかなわれたというのだ。

 この注釈は、8世紀前後の地方の神社を舞台とした農業神に対する祭祀の普遍的な姿を示していると考えられているが、ここからは、住民に支えられながら公的な機能を果たしていた、牧歌的な風もある、神社の原風景が浮かび上がってくる。

 

◆変容を続けてゆく神社

 政教分離が確立された現代の日本において、「国家の法を告げ、知らしめ」るという行為に象徴されるような、公的というよりは政治的な機能を、神社に対して期待するのはもはや困難だろう。また、農業が衰退し、第一次産業人口が全就業者の4%にすぎなくなっている現況(平成27年国勢調査)では、神社の本質ともいえる農耕祭祀に対する人々の関心が薄れて行ってしまうことも、防ぎようがないのかもしれない。「機械化でお米なんて今は誰でも簡単に作れるので、秋祭りで収穫に感謝するという発想が最近の農家にはあまりみられない」と嘆く神職もいた。そのように考えてゆくと、本来の存在意義を神社に求めることはもう無理なのか、という悲観的な思いにも駆られる。

 観光名所にもなっているような大神社、大きくはなくてもパワースポットであるとか金運神社だということで注目を集めている神社などは、参拝者を多く集めて今後も存続してゆくことは確かだろう。だが、『養老律令』の記述を踏まえれば、そうした神社のあり方ははたして正しいのか、という思いもしてくる。

 だが、絶望ばかりではない。本連載でも紹介した通り、弱小神社であっても、神職や氏子のリーダーシップのもと、住民や周囲の支えを得て、公的な機能を発揮しつつ再興・再生に向かっているところも存在する。そして、神社が元気なところは、必ずと言っていいほど住民に活気があり、その町、村も生き生きとしているものだ。大見の思子淵神社も、その例に含まれよう。

 歴史を振り返ってみれば、神社は古代以来、時代の波に翻弄されつつも、変容を繰り返して巧みに生き抜いてきたともいえる。しかし、従来にも増して新たな枠組みの構築や変革の必要性が高まる今、神社界はその壁を乗り越えることができるのだろうか。それとも、平成という時代は神社崩壊の開始期として後世に記憶されることになってしまうのか。

 ここで、連載冒頭で紹介した「このまま何にも手を打たなかったら、あと1020年で神社は消滅してしまうのではないか」という現役のある宮司の言葉が、改めて思い出される。

 神社の未来像を思い描くためには、「神を祀る公共の場」「聖性を帯びた公的な空間」という神社本来の機能・意義をわれわれ日本人が今一度考え、神々の声に耳をすます必要があろう。


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