四カ国艦隊の兵庫沖来航

 今回は英米仏蘭の艦隊が兵庫沖に来て、兵庫開港を迫る慶応元年(1865)9月から、同2年1月、京都で「薩長同盟」が締結されるまでの話。幕末政治史のクライマックスのひとつであろう。

 もっとも、ドラマは重要な骨とも言うべき部分の史実が、何度も大幅に改変されるという奇妙さが目立った。もちろんドラマだから、フィクションが混じるのは当然である。しかし、なぜそのように変えるのかという理由が、いまひとつ判然としない。


 ドラマでは艦隊の兵庫沖来航は、裏で一橋慶喜がフランス公使ロッシュを操って行わせたというフィクションになっていた。その目的は孝明天皇に外圧の衝撃を教え、長州再征の勅許を出させるためだという。慶喜の策略に引っ掛かった天皇は震えながら、呆気なく勅許を出していた。

 史実では艦隊来航の目的は、長年の懸案だった通商条約の勅許と、兵庫港の早期開港を求めるためである。老中阿部正外らは大坂で四カ国の代表と会見し、大坂城での幕議を経て兵庫開港を決定してしまう。


 京都にいた慶喜には、相談が無いまま話は進んだ。このため慶喜は激怒し、天皇による老中の罷免という異例の事態が起こったりする。江戸の幕府と慶喜の間に大きな溝が生じたが、結局、天皇は安政5年(1858)に締結された日米修好通商条約などを許した。ただし、兵庫開港は認めなかったので後日問題が起こることになる。

 

長州再征の勅許


 さらに史実では、長州再征の勅許はなかなか出なかった。だから、歴史が大きく動いた。慶応元年(1865)5月16日、将軍徳川家茂は軍勢を率いて江戸城を発ち、大坂城に入る。そして閏5月22日、京都に赴き、参内して長州藩を再び討つ理由を天皇に説明した。


 ところが天皇は衆議に応じて決めよと、長州再征をただちには許可してくれない。大義名分が希薄で、幕府を非難する声が官民に溢れていたからだ。

 このため将軍家茂は勅許を得るため、大坂城にとどまる。幕府内には、天皇の意など無視して山陽道を進むべきとの意見もあった。しかし、家茂は勅許にこだわる。この頃、長州藩の軍備はまだまだ不足しており、家茂が総力を挙げて攻め込めば、勝利出来た可能性は高い。だが、勅許にこだわる家茂にはそれが出来ない。

 幕府は長州藩の支藩主を大坂に呼び出すが、応じようとしない。このため9月21日になり、ようやく勅許が出た。ただし、すぐに攻め込めるわけではない。出て来ないならば幕府側から出向き、長州藩を取り調べ、その結果を得て天皇が処分を決めるというのだ。幕府は長州藩の代表を広島に呼び出して詰問するが、要領を得ない。

 こうして慶応2年1月22日、一橋慶喜らは長州処分案(藩主の隠居、世子の永蟄居、10万石削除など)を天皇に奏請し、翌日勅許を得る。すでに、将軍家茂が天皇に勅許を求めてから、半年が経っていた。さらに幕府はこの処分を長州藩に伝え、実現させねばならない。

 

非義の勅命

 ドラマでは長州再征が勅許された際、大久保一蔵が「非義の勅命は勅命に非ず候」の一節を含む密書を書く。これに西郷も連署し、あちらこちらにばら蒔いた。それを読んだ慶喜は憤慨し、諸藩は長州再征に対して慎重になったと説明していた。

 「非義」云々は慶応元年9月23日、大久保から西郷あて書簡に出て来る有名なフレーズである。ただし史実では、わざわざ西郷や大久保が広めたりはしていない。西郷は坂本龍馬を使って、この手紙の写しを長州藩にひそかに届けさせた。薩摩藩の真意を、長州藩側に見せるためである。いずれにせよ、身内のごく一部の者しか見ていない手紙だったはずだ。

 歴史的に見てこの手紙が重要なのは、「勤王」「尊王」を唱える薩長の者たちが、勅を絶対視しなくなったことがよく分かるということだ。自分たちにとって不都合な勅は、勅ではないのである。

 

「薩長同盟」の証文を書く西郷

 将軍家茂が大坂で勅許をめぐってモタモタしている間に、長州藩の軍備充実は進む。薩摩藩名義を使い、小銃七千挺と蒸気船一隻を外国商人から購入したりした。

 ドラマでは、西郷がわざわざ龍馬を長崎に訪ね、薩摩藩名義の使用を提案していたが、これはフィクション。実は長州藩の桂小五郎(木戸孝允)が、下関で西郷に会談をすっぽかされた際、龍馬に提案したのだという。

 つづいて慶応2年1月の、京都における薩長首脳の会談となる。薩摩・長州、お互い意地を張り合って、自分の方から同盟を切り出さないから、沈黙が続く。

 従来のドラマだったら、たまりかねた龍馬が西郷と桂を一喝して、たちまち同盟が結ばれる。この「龍馬伝説」もまた、フィクション。会談が進まなくなった理由については、いくつかの説がある。西郷が桂に、幕府が示す長州処分を一旦受けるよう求めたが、桂が首を縦に振らなかったというのが妥当なところではないか。


 それはともかく、このドラマで薩長間の沈黙を破るのは、史実では会談に不在の長州の伊藤俊輔(博文)である。伊藤はかつて秘密留学していたイギリスでは、薩長仲良く助け合っていたとお涙頂戴式の話をする(斬新と言えば斬新だが、ばかばかしい)。

 すると、西郷が桂の前にひれ伏して、同盟を結んで欲しいと言う。西郷にならって、大久保・小松帯刀・桂久武も、席に乱入して来た海江田信義や大山綱良まで薩摩側は全員、桂の前にひれ伏す。桂は「負けた」と言い、「薩長同盟」が成立してしまう。

 そもそも「薩長同盟」とは、朝敵の烙印が消えない長州藩を、薩摩藩がいかに援護射撃して助けるかを決めたものである。共に討幕を誓った同盟ではない。なぜ、助けてやる側が、助けてもらう側に平伏してまで結ぶのか。よく分からない。

 朝敵を助けるのだから、薩摩側にとっては危険な密約である。当然、西郷たちは書面など証拠を残さなかった。だから、不安を覚えた桂こと木戸は盟約を6カ条に分けて書き出し、龍馬に裏書きを求める。

 ところが、ドラマの西郷は頭も下げれば、堂々と誓約書を書いて、桂に手渡す。このあたり、ひじょうにマンガチックである。作り手たちは、これで西郷の度量の大きさを描いたつもりなのだろうか。

 現実的に見れば今回の西郷は、薩摩藩が吹っ飛ぶような言動を繰り返す、軽率な人物にしか見えなかった。

<了>

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