将軍に会って御礼を言いたい                               

 徳川家康の弟の子孫が、先祖が家康公から預かった脇差を日光東照宮に返納したいという理由で、三河国岡崎から江戸にやって来た。

旅人(岡崎から来た男)は正真正銘神君の弟の末裔なのか、それともただの詐欺師なのか。老中鳥居丹波守の指図で、町奉行の曲淵甲斐守と牧野大隅守が旅人に直接会って調査。どうやら本物らしいということで将軍の耳にも入れた。その結果、旅人はVIP待遇で日光東照宮に参拝し脇差返納の宿願を果たした。

 

 以上が前編の内容だった。それから旅人はどうなったのか。前回同様、大谷木醇堂(おおやぎ・じゅんどう)の『醇堂叢稿』の記述を、原文引用を挟んで要約してみよう。

 子孫の旅人が、案内役で諸事世話役(かつ監視役)の小泉六郎左衛門を伴って江戸に戻ると、その旨ただちに鳥居丹波守に報告され、将軍から白銀200枚が下賜された。「こんな大金を頂戴するわけには」。旅人は固辞したが、六郎左衛門に「まあまあ、そうおっしゃらずに」と繰り返し説得され、結局頂戴した。
 すると旅人は「ぜひ将軍様にお会いして直接お礼を申し上げたい」と言う。黙って受け取ればいいのに。六郎左衛門はさぞかし面倒な男と感じたに違いない。とはいえ自身の判断で将軍拝謁の是非を決めるわけにもいかず、町奉行に報告し、町奉行から鳥居(老中)に伺った。


 鳥居が登城して将軍に申し上げたところ、ふたりの間で以下のようなやりとりがあったと『醇堂叢稿』は伝えている。原文に近い形でご紹介しよう。

 

 鳥居「三州(三河国)の御客、銀子を頂戴いたし難有(ありがたく)存じ、御目見の上にて直に御礼申上度」

 将軍「苦しからず、登城致させよ」

 鳥居「御対顔の儀は諸侯への聞へも如何(いかが)」

 将軍「登城その心に任すべし、予が名代は掃部頭に申付る」

 

 鳥居が三河から来た例の旅人(「御客」と呼んでいるのが面白い)が直接会って御礼

を言いたがっていると告げると、将軍は「ああ、いいよ」と軽く承諾。しかし鳥居は「そ

れはちょっと」と言葉をにごした。異例の対顔が諸大名に知れると、将軍家に好ましか

らぬ評判が立つかもしれないと憂慮したらしい(いまさら神君の弟の末裔がのこのこ

出てくるなんて、将軍家は自身の家系をきちんと調査していないのでは、というわけ)。

すると将軍は、ならば掃部頭が将軍の名代として対顔すればいいと答えた。実は将軍は

旅人に興味津々だったのではないだろうか。ところが鳥居に軽率なふるまいをたしなめ

られ、「では登城の件はお前一任する」と言わざるをえなかったと推察されるのである。

 

大老・井伊掃部頭にかけた驚きのひと言

 この結果、旅人は両町奉行の案内で、六郎左衛門を伴って登城。一同は躑躅の間で休

息したのち白書院に通された。まもなく老中列座のなか、大老の掃部頭が登場する。近

江国彦根30万石の藩主、井伊直幸。天明4年(17841128日から同7911

日まで大老職に在った。

 鳥居が上様(将軍)はあいにく政務多忙で大老の掃部頭殿が名代を務める旨を告げる

と、旅人は信じられないような言葉を発した。なんと掃部頭に面と向かって「ヤレ、兵

部殿の御子孫めずらしや」と。

 「兵部殿」とは、15歳から家康の側に仕え(美少年で男色の相手をした寵臣でもあっ

た)、本能寺の変ののち家康と伊賀越えの苦難を共にし、関ケ原では島津の軍勢を追撃

して負傷するなど輝かしい軍功で知られる井伊直政(15611602)にほかならない。

幼名は万千代。のち兵部少輔と称したことから兵部と呼ばれた。だとすれば旅人の先祖

は当然兵部と面識があったに違いない。それにしても、大藩の藩主で大老職を務める人

物に対する初対面の挨拶としては、あまりに気安すぎないか。「めずらしや」には「お

ひさしぶり」の意味もある。旅人は先祖代々語り継がれた昔話に登場する兵部の子孫

を目の前にして、歳月の感覚を一瞬失ってしまったのかも。

 驚愕の挨拶。とはいえ一座の人々は「無礼者」「分不相応な奴」と咎めることはでき

なかったはずだ。なにしろ人品骨柄はともかく、神君の弟の末裔なのだから。そういえ

ば『醇堂叢稿』には鳥居が旅人に話しかけるくだりに「貴賓に向ひて」と書かれている。

見た目からはせいぜい大百姓としか思えない旅人が、殿中で貴賓としてもてなされ、の

みならず天下の大老に気軽に挨拶する。江戸城白書院では、この日、二度とお目にかか

れないような珍奇な場面が繰り広げられた。精神的なプレッシャーなど微塵も感じてい

ない旅人(貴賓)は、お膳が出てからもすっかりくつろいだ様子で、窮屈なかっこうで

はせっかくのご馳走も美味しくないと、「お許しあれ」とあぐらをかいたという。腹い

っぱい食べたのは言うまでもない。ちなみに原文は「折角の御馳走も究屈にては食べら

れず、御ゆるしあれとて胡座して沢山にまゐられける」。

 

下男下女まで葵の紋

 その後、旅人は六郎左衛門を同道して無事岡崎の家に帰った(もはや旅人ではないので、これからは「子孫」と呼ぶことにしよう)。子孫は江戸滞在中(日光参拝の折にも)世話になった六郎左衛門に、三河国の名所旧跡を案内したいのでゆっくり逗留するよう求めた。

しかし本所石原町の名主を務める六郎左衛門だってそれほど暇ではない。これまでは町奉行の命で子孫の世話をしてきたが、岡崎まで送り届けてようやく肩の荷を下ろし“帰心矢の如し”だったと察せられる。それでも彼は子孫の家内の様子をしっかり観察し、江戸に戻って報告している。六郎左衛門はいったいなにを語ったのか。意訳でご紹介しよう。


 「ご子孫の家では、なんと、奴婢(下男下女)まで葵の御紋が付いた衣服を身に着けていました。ご子孫に理由を尋ねると、なにせ家計が苦しいので奉公人たちに新しい着物を作ってやれない。仕方なく古くからある服を着せているのだとか。葵の御紋に関しては、もともと家の紋なので、まったく気にしていない風でした。とやかく言われる筋合はないというのでしょう」

 

下男下女までが葵の紋を染めた衣服で働いていた。当然、御紋は汗や土芥で汚れていたはずだ。六郎左衛門にとって(彼の話を聞いた江戸の人たちにとっても)、それは驚くべき情景だったに違いない。同時にとても新鮮に感じられたのでは。

 

ウソかマコトか

三河国岡崎に住む家康の弟の子孫が、日光東照宮に先祖伝来の脇差を奉納して帰った――という話の大筋は以上の通りである。誰しも気になるのはその信憑性だ。史実なのか、それとも念の入った作り話に過ぎないのか。

とりあえず、話に登場する幕府の首脳たちの在任期間を振り返ってみよう。『醇堂叢稿』は「天明年中の事」としているが、はたして彼らは天明年間にそれぞれの役職に在っただろうか。

曲淵甲斐守景漸は、明和6年(17698月から天明7年(17876月まで江戸北町奉行。牧野大隅守成賢は、明和55月から天明43月まで江戸南町奉行。鳥居丹波守忠孝(忠意とも)は、天明6年閏10月から寛政5年(17932月まで老中。そして井伊掃部頭直幸が大老職に在ったのは、天明411月から同79月までの間である(年月まで。日は省略)。4者の在任期間はぴったりと重ならないが、おおよそ天明年間(178189)で、まったくのフィクションとは思えない。

そもそもこの話を大谷木醇堂に語ったのは、「祖翁の物語に聞しは」とあるように祖父の大谷木藤左衛門だった。藤左衛門は、林奉行などを経て天保15年(1844)に77歳で峯寿院の用人となり、安政3年(1856)に89歳で亡くなった旗本(峯寿院は11代将軍家斉の7女峯姫で、水戸藩主の徳川斉脩に嫁ぎ、夫の没後、落飾して峯寿院と称した)。藤左衛門は天明年間には14歳から22歳で、自身でこの話を聞いていた可能性もある。たとえのちに人から聞いたものだとしても、立場上、幕府の首脳や水戸徳川家の人々、さらには江戸城大奥の幹部とも密に連絡を取っていた彼が入手し、孫に語った話(㊙情報)が、荒唐無稽の作り話であるはずがない。

それにしても、神君家康の弟とは誰を指すのだろうか。醇堂は「三河に松平源七郎なるものありて御由緒ある事をいひ伝へたり」とも述べているが、松平源七郎であるという自信はないようだ。私もいろいろ調べてみたが、ついに該当する「弟」を探し当てられなかった。

醇堂は最後にこう書き添えている。「この事、予三河におもむき質正せんと欲する、すでに多くの年所を経ていまだ果たし得ず」。真相を明らかにするために自身で三河を訪れ調査したいと思っているうちに、多くの年数が過ぎ去ってしまったというのである。

<了>


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