兵庫開港の勅許


 今回は慶応2年(1866)7月、第二次長州征伐中の将軍徳川家茂の病死から、慶応3年10月の大政奉還までが描かれる。この間、幕府・長州の休戦協約、慶喜の将軍就任、孝明天皇崩御、四侯会議、兵庫開港勅許、討幕の密勅降下などといった年表に太字で記されるような、歴史的重大事が目白押しである。

このドラマ、どうでもいいような話(大抵はフィクション。たとえば、斉彬と西郷が相撲をとった相撲大会)を、たっぷり時間を費やして描いたかと思うと、突然急ピッチで話が進んだりして、視ている側はちょっと戸惑ってしまう。

 たとえば、兵庫開港の問題だけでも、1話を費やしても描き切れないほどの内容と歴史的意味を持っている。

 孝明天皇は慶応元年10月、幕府が安政のころ諸外国との間に締結した通商条約にようやく勅許を与えたが、「兵庫開港」だけは認めないまま崩御したことは、以前に書いた。

 ところが幕府が列強と約束した兵庫開港の期限は、慶応3年12月7日(太陽暦で1868年1月1日)に迫っている。しかも開港するなら半年前に布告が必要だから、6月7日までに勅許を手に入れなくてはならない。


 そこで15代将軍となった徳川慶喜は、3月5日、朝廷に兵庫開港の勅許を求めるが、19日に却下された。22日、慶喜は再び開港を求めたが、やはり29日に却下されてしまう。朝廷内では、まだ排他的な攘夷論が強かったのだ。

 それでも慶喜は、不退転の決意を固める。なんと28日にはイギリス・オランダ・フランスと、4月1日にはアメリカの代表と大坂城で会見し、兵庫開港を約束の期限までに実行してみせると宣言した。


 こうした慶喜の強引な態度が、薩摩藩の西郷や大久保一蔵の態度を硬化させる。慶喜の動きに歯止めをかけさせようと、島津久光(薩摩)・松平春嶽(越前)・山内容堂(土佐)・伊達宗城(宇和島)が上洛し、長州処分(まだ朝敵の烙印が消えていない)と兵庫開港問題につき話し合う。久光らは、兵庫開港は「勅許」ではなく、天皇側に主導権を持たせた「勅命」で行わせようと考えた。


 つづいて四侯は慶喜に会い、長州処分を優先するよう求める。ところが、時間的にも兵庫開港優先を唱える慶喜との間に対立が生じ、結局、四侯はうまく反論出来ないまま会談は終わってしまう。

 そこで西郷などは、慶喜に兵庫開港を失敗させ、国際的信用を失墜させて、政権交代に持ち込もうと企む。そのため勅許が出ないよう、朝廷内の人事にも裏工作をする。


 ところが5月23日夜から24日午後にかけて、慶喜は朝廷に乗り込み、長い会議で奮闘したすえ、ついに勅許を獲得してしまう。そして兵庫(じっさいは神戸)の開港は、期日どおり実現することになる。


 出るはずが無いと思っていた勅許が出たことに対する西郷らの衝撃は、大きかった。1月に皇位に就いたばかりの16歳の睦仁親王(明治天皇。即位礼は8月)を、慶喜が抱き込んだと見た。

 西郷は慶喜に、ここで一本とられた。

 だからこそ、武力を行使しての政権交代=「挙兵討幕」という案が、現実的なものとして浮上して来る。長州藩はまだ「朝敵」だったが、西郷たちは水面下でその提携を強固なものとしてゆく。

 

負けっぱなしの西郷


 このように武力討幕の機運が高まると、土佐藩から大政奉還のプランが出て来る。慶喜が朝廷に政権を返上し、二院制の議事院を設けるという「公議政体論」である。

 6月22日、土佐藩の後藤象次郎ら重役たちは、西郷・大久保・小松帯刀と京都で会談した。この席には、土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎も同席している。

 ここで西郷らは、後藤から提案のあった大政奉還建白に同意した。武力討幕を諦めたからではない。西郷は、慶喜がみずから政権を返上するはずがないと考えた。だから、土佐藩の大政奉還建白は失敗すると見た。


 そうなれば政権交代は、西郷らの考える武力討幕しか道が無くなる。西郷らは武力討幕をスムースに行うため、大政奉還建白を認めたのである。

 だから武力討幕の同志となる長州藩との関係は、ますます強まる。このころ、奇兵隊軍監の山県狂介(有朋)が事情探索のため京都の薩摩藩邸に潜伏して、西郷・大久保・小松らと今後の道筋につき話し合っていた。その席では、武力討幕を匂わすような話も出て来る。島津久光は帰国する山県に、ピストルを贈った。


 7月6日、長崎でイギリス水兵殺し事件が起こり、その嫌疑が土佐の海援隊にかかる。後藤や龍馬が対処に追われ、結局二カ月ほど大政奉還建白運動は停滞してしまう(この時は解決しなかったが、後年福岡藩士が犯人だったことが明らかになった)。

 それでも9月になり、後藤は土佐から京都に上って来て、大政奉還の実現に向けて、走り回る。そして、幕府側を説き伏せてゆく。


 ところが、6月の時点では大政奉還建白に賛同したはずの西郷たちが、状況が変わったとして武力討幕を主張して譲らない。薩摩からは、軍勢が大坂に到着したりする。薩摩・長州両藩とも、上層部の多くは危険きわまりない武力討幕に反対だった。だから藩の内側を統一するため、ドラマにも出て来た「討幕の密勅」が作られたりする。


 そして西郷らの当初の予想に反し、慶喜は土佐藩から出された大政奉還建白を受け入れた。10月14日に朝廷へ願い出て、15日に許可される。手放すはずがない政権を、慶喜は手放し、武力討幕は大義名分を失う。

 西郷はまたも一本、慶喜に取られてしまった。


 ただ、大政奉還により慶喜は、征夷大将軍の官職を手放したわけではない。翌16日からも変わらず内政、外政ともに慶喜が担当する。

 新しい政権は近日中に10万石以上の大名が京都に集まり、諸侯会議を開き、誕生する予定になっている。その席で政権のトップを投票で決めるのだ。慶喜が選ばれるのは、目に見えている。大政奉還を行った慶喜は、再び合法的な形で新政権のトップの椅子に座ることが、ほぼ約束されていたのである。


 このまま諸侯会議を開かせたら、慶喜を頂点とする新政権が誕生してしまう。慶喜にやられっぱなしの西郷は焦る……。

 以上が、大政奉還の実現へ至る経緯だが、ドラマはかなり本筋の部分を変えてしまっている。

 

ふきはスパイ?

 ドラマでは平和主義者として描かれて来た西郷が、なぜ、慶喜と戦争を始めようとしているのか。

 一番首をかしげたのは、西郷が慶喜の側室ふきと京都市街で偶然会い、鰻屋の店先に腰掛けて話をするシーン。まず、お互いの立場を考えたら、どう考えてもありえない。しかも人目につくところで、わざわざである。非常識にも程がある。

 さらに凄いのは、ふきは立ち聞きした慶喜とフランス公使・イギリス公使の密談の内容を、知っている限り西郷にぺらぺら喋ってしまう。薩摩藩から幕府側に送り込まれたスパイという設定ならまだしも、ふきはなんと軽率な女なのだろう。それでも、ふきに悪意は無いようで、慶喜・西郷と三人で仲良く過ごした昔日を思い出したりする。この時の話がきっかけとなり、西郷は慶喜がフランスに薩摩を与えるとの条件で、フランスの支援を取り付けたと知り、なにがなんでも戦争を起こす決意を固めてゆくのである。


 あまりのバカバカしさに、作り手たちの歴史に対する感覚を疑う。失礼かも知れないが、よくぞ、こんな脚本がパスしたと感心した。


 つづいて西郷は、大坂でイギリスの外交官サトウに会う。サトウは、慶喜とフランスの接近を知らせる。そして、イギリスは薩摩藩を援助してもいいと言う。西郷は「日本のことは、日本人で解決せねばなりません」と、サトウの申し出を突っぱねる。


 国を切り売りする慶喜と、それを絶対許さない西郷……ますます勧善懲悪の、変なドラマになって来た。

<了>

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