西郷に対する非難

 今回は明治元年(慶応4年・1868)1月3日の鳥羽・伏見における開戦から、同年3月12日、新政府の東征軍参謀となった西郷が江戸入りするあたりまでが描かれる。


 ドラマではほとんど描かれなかったが、「王政復古」の大号令により政権から完全に排除され、大坂城に退却した徳川慶喜は目一杯抵抗した。
慶喜の幻影に怯えたのは、あるいは西郷の方かも知れない。だからこそ、政変や権威で、慶喜を攻撃するしかなかったのだろう。


 慶応3年12月14日、慶喜は新政権の求めに応じ、5万両もの大金を提供。16日、イギリス・フランス・イタリア・アメリカ・プロシア・オランダの公使を大坂城に集め、このたびの政変は不正だと説明し、各国に内政不干渉を求めた。公使側も、これを承諾。さらに「王政復古」の大号令の取り消しを、新政権に申し出ている。


 このため新政権内部では、慶喜に対する同情の声が高まってゆく。政権を自ら手放した慶喜だったが、逆に、「政変」を起こして追い詰めた岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛らに対する非難の声が起こる。「やり過ぎではないか」というのだ。

 またもや、西郷は慶喜に負けそうになる。


 そこで西郷は岩倉や大久保と相談し、慶喜が辞官納地を申し出たら、議定の地位を与えようなどと、妥協点を探し始める。

 12月28日、新政権の三職(総裁・議定・参与)会議では、慶喜を前内大臣とすること、200万石の返納も、いずれ天下の公論をもち継続審議とするなどが討議されてゆく。


 ところが、京都の新政権の内部事情が、大坂城の慶喜側には分からなかった。江戸三田の薩摩屋敷を焼き打ちしたとの報に勢いづいた旧幕軍は、明治元年元旦、「討薩の表」を掲げ、大坂から「奸臣」のいる京都を目指して進軍を開始してしまう。

 西郷たちは、大いに喜ぶ。そして、京都郊外の鳥羽・伏見で開戦。以後、一年半におよぶ戊辰戦争が始まる。


 旧幕軍がもう少し大坂城でおとなしく待っていたら、慶喜は新政権に迎えられ、事態は大きく変わっていたかも知れない。後年、慶喜は家臣たちのエネルギーを持て余し、「とうてい仕方がないので、実は打棄らかしておいた」と回顧している。このあたりの歴史の残酷さは、なかなかドラマチックである。

 

錦旗の真偽


 鳥羽・伏見の戦いが始まった頃、新政権側の薩長軍は五千、対する旧幕府は一万五千だった。数の上で劣勢の薩長軍は戦い二日目となる1月4日、錦旗をかつぎ出して「官軍」となった。

 もっともこの錦旗はドラマでも描かれていたように、岩倉や大久保が直前に西陣織の帯地で作らせたものである。ドラマでは錦旗につき、「ウソともマコトともわからん……」と説明していた。


 ところが、錦旗効果は絶大だった。それまで私闘と見られていた戦いに、「官」対「賊」という、分かりやすい大義名分が生まれたのである。それまで態度を決めかねていた土佐藩はじめ西国諸藩は、次々と薩長軍に馳せ参じた。それどころか、旧幕府側の淀藩や津藩までもが、「官軍」に寝返った。


 僕はかねがね思うのだが、このあたりが実に日本人らしい。日本人はもともと二極化が好きなのだろう。権威を創って、そちらに所属することで安心を得るのだ。

 鳥羽・伏見の戦いの時も、誰も錦旗に近寄り、その真偽を確かめる者はなかった。間近で見たら、えらく新しい、とても数百年前から皇室に伝わった旗では無いことくらい分かったはずである。


 時代劇の「水戸黄門」も、まったく同じ精神構造の上に成り立っていると言えよう。物語の終盤近く、突然、葵紋付きの印籠が出て来ただけで、ただの年寄りが「天下の副将軍」になり、みなその前にひれ伏し、すべて解決してしまう。

 ひとりくらい印籠の真偽を検証しようとする者が出て来ても不思議ではないと思うが、みな面倒臭いことは嫌なのだ。

 

鉄舟と海舟


 錦旗が登場したため、朝敵になるのを恐れた慶喜は、ひそかに大坂城を脱出し、海路、江戸へ逃げ帰る。

 慶喜はなぜ、そこまで錦旗を恐れたのか。


 慶喜が生まれた水戸藩は「勤王」「尊王」が盛んで、父の水戸藩主徳川斉昭から「たとえ幕府に背くことがあっても、朝廷に背いてはならぬ」と教えこまれていたという。


 しかも慶喜の生母は、有栖川宮家から嫁いで来た吉子(のち登美子)だった。つまり慶喜は、霊元天皇の血を濃く引く子孫である。ここまで皇室と繋がっていた徳川将軍は、他に類を見ない。だから慶喜は錦旗を見て動揺し、あっけなく戦線を離脱してしまうのである。


 江戸に帰ったドラマの慶喜は、勝海舟から「徳川の恥」と罵られ、側室のフキからは「西郷様から逃げただけです」と言われてしまう。
海舟の方は、慶喜の側近たちを叱り飛ばしたというエピソードを基にしたのだろう。武士の忠義は2種類あり、諌めるか、服従するかである。しかし、いくらなんでも主を直接罵る家臣なんていうのは有り得ない。


 恭順の意を固めた慶喜は、海舟に事後処理を任せて上野の寛永寺に引っ込んだ。駿府(静岡)まで来ていた西郷のもとには山岡鉄太郎(鉄舟)が派遣され、海舟の手紙を手渡す。山岡の命懸けの説得もあり、慶喜を討つつもりの西郷の心情に変化が見え始める。


 江戸城無血開城にあたり、海舟の活躍だけではなく、山岡の事前の働きが描かれていた
が、切腹未遂などとは聞いたことが無い。何か新しい史料でもあるのだろうか。


 イギリス公使館医師のウィリアム・ウィリスがちょっとだけ出て、野戦病院で活躍するのも面白い。ウィリスは明治3年、西郷の推挙で鹿児島に行き、医学校や病院を作るのだが、それは今後描かれるのだろうか。


 何回か前にクセ者の中川宮が一度だけ登場したが、それきり姿を見ない。せっかくの通好みのキャラクターを出しながら、無駄遣いされているようでもあり、その点は残念である。

<了>

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