立小便はわざわいのもと                                      


 事件というほどの出来事ではなかったが、血が流されたことに違いはない。それは、松平芸州(安芸守)の家来が、用事で芝三田(東京都港区のうち)の辺を通りかかったときに起きた。松平安芸守は広島藩主浅野安芸守であると察しがつくが、いつの話なのか不明だし、家来の名もわからない(したがって「某」としか呼びようがない)。


 もっともいつのことなのかについては、ヒントがある。話は談義本の作者で兵法や刀剣鑑定にも造詣が深かった神田白竜子(かんだ・はくりょうし 
16801760)の著『雑談筆記』に載っていた。同書は享保15年(1730)の成立で、しかも話の冒頭に「往シ」(昔)とあり、享保15年よりかなり前の出来事であろう。また事件の現場は、芝三田の有馬家の屋敷(久留米藩の江戸藩邸)前だったというのも見落とせない。有馬家が同地に屋敷を拝領したのは、寛文2年(1662)。あわせて寛文2年以降、元禄期(16881704)くらいまでと推定されるのである。


 流血沙汰といっても勇ましい話ではない。発端はなんと某の立小便だった。

原文は「有馬家之長屋之前通ナル雨落之小溝ニ小便ヲタレ居タルトコロニ、長屋軒口之瓦、彼独士之上ヘ落テ額ニ当リ、不思(思わざる)ニ向フ疵ヲ受テ血流レ出ルコト夥シキ」。


つまり供も連れず(「独士」)有馬家の屋敷前を通りかかった某が、道に面した長屋(藩邸勤務の家来たちの宿舎)の軒下の雨落(雨だれが落ちる溝)に放尿していたとき、突然軒先から瓦が落下して某の額に当たり出血。血は一向に止まらず、手拭いばかりか手も赤く染まった。たまたまそれを見ていた木綿売りの男が気の毒に思って45尺の木綿切れを差し出し、額の血をぬぐうとともに鉢巻をさせるなど某に応急処置を施した。やさしい木綿売り。某は心から感謝してお礼の言葉を述べたに違いない。

 

理不尽な要求

 ところがそうではなかった。礼を述べないどころか、某は力ずくで木綿売りを取り押さえ放そうとしなかった。

原文は「一言之礼ヲモ不云(言わず)シテ、則其木綿売ナル男ヲ引キ捕ラヘテ不放(放さず)」。

理不尽極まる行動ではないか(恩知らず!)。いったいなぜ。額が割れ出血した経緯を藩の上司に説明しなければならない。そうしなければ〝武士の一分〟が立たないというのだ。某に言わせれば、額を傷つけられ、相手を討ちとめずに帰るなど武士として考えられない。だから、なにがなんでも事の真相を、目撃者である木綿売りに証言させる必要があるという。これは事件ではなく事故であると。

 トラブル発生と知って、近所の威勢のいい町人たちが駆けつけた。彼らは事情を聞いて、某に木綿売りを解放するよう説得した。介抱されたのだから解放しろというダジャレではない。恩に仇で報いるような某の行為を咎めたのである。

ところが某はそんな彼らに、「そうだ、お前たちの中からもひとりふたり藩邸まで来てくれないか」と声をかけた。証人は多ければ多いほどいいというわけ。もちろん町人たちは断ったが、某は言うことをきかなければこの場で腹を切るという。そうなったら事は大きくなるばかり。この侍、頭が変なのでは。非常識にもほどがあると思いながらも、木綿売りと町人のうちふたりがいやいや某に同道した。

 

武士のお手本

 某が木綿売りと町人を連れて藩邸に戻ると、すでに情報を得ていたのか、大勢の仲間が待ち構えていた。とりあえず彼らに事情を説明したのち、某は3人を従えて上司(「支配之長」)のもとへ。上司は額に傷ができた一部始終を説明されて納得し、某にはなんの処分も下されなかった。某が予想したように、木綿売りと町人たちの証言が決定的で、上司は「士ト町人トモ之口上ニ少モ違ハサリシ」(某の説明と目撃者の証言が一致している)と判断したのである。

 某はそれからどうしたか。自身の長屋(宿舎)に木綿売りと町人たちを招き、まず恩人の木綿売りにこう述べたという(長いので意訳で)。

 

 「お前は私のふるまいをさぞかし理不尽と感じたであろう。しかし武士が額に傷を負って藩邸に帰れば、事情を知らない上司や同僚は、傷つけた相手を討たずにおめおめ戻ってきたのは臆病未練の者だと評し、私の立場は救いがたいものになるに違いない。だからこそ、ことさら恩知らずの風を装い無理やり連れてきて証言させたのだ。なにも強引なふるまいをしなくても事情を述べれば納得して同道したのに、とお前は言うかもしれない。でもそれではダメなのだよ。和気藹々と同道したら、お前の証言は私と口裏を合わせたもの(「談合拵へ物」)と受け取られてしまう(すくなくともそう疑われる)。私はそれを恐れてことさら無体に(強引に)連れてきたのだ」

 

 そのうえで某は、「先刻は介抱していただき感謝の言葉もない」(「其刻ハ介抱ニ預千

万忝過分ニ候」)と深謝し、迷惑をかけた詫びとして金200匹(金2分)を与え、加え

て商いの時間を奪った償いに金100匹を渡した。「今日は終日私に振り回され、稼ぎも

なかったろうから、これを受け取ってくれ」という言葉を添えて。

 木綿売りに対してだけではない。同道した芝三田の町人たちにも、「お蔭で藩士とし

ての立場は安泰だ。今日は私の思わぬ事故で町中を騒がし、迷惑をかけてしまった。わ

ずかだがこれで酒でものんでくれ」と、金200匹を与えた。〆て金500匹。すなわち

11分で、かりに金1両が現在の金12万円とすれば(この換算に特に根拠はな

い)、金15万円に相当する。高いか安いか。とりあえずこれで藩士の地位が守られたの

だから高い額とは言えない。もっとも、そもそもの発端が立小便だったのを思い起こせ

ば、悔やんでも悔やみきれない出費だったかもしれないが……。


 ともあれ、木綿売りも町人たちもよろこび(江戸っ子はお人よしなのだ)。某に感謝

してそれぞれ家路についたという。

『雑話筆記』はこう締めくくっている。「彼士之心持、始終之仕方、誠ニ後来諸士之戒心得ニ可成(成るべき)コトナリ」。某の対処は素晴らしく、武士にとって今後のお手本になるというのである。たしかに不慮の事故の後始末は、そこそこの額の金で済み、結果的に〝武士の一分〟は守られた。賢い男と言える。しかし繰り返そう。原因は立小便中の瓦の落下による顔面出血。なんともドジな話ではないか。それでも某が賛美されたところに、藩士の世界の小心翼々とした側面が見て取れる。

 

放蕩旗本が大目付に

 武士の一分(武士としての名誉、外聞)に関して、幕臣の世界は比較的大らかだった

気がする。幕臣といっても、旗本と御家人の違いばかりでなく、職務や経済的事情もさ

まざま。一概には言えないと断ったうえで、藩士某とはおよそ対照的な旗本の例を挙げ

てみよう。

旗本の名は河野安嗣(やすつぐ)。通称は吉十郎。元文4年(1739)に22歳で将軍に

初目見えしたのち、延享元年(1744)に家督を嗣ぎ(知行650石)、小普請、小普請組頭、徒頭、目付、作事奉行を経て、天明3年(1783)に大目付に就任。これより先、安永5年(1776)には信濃守に任ぜられている。天明5年(1785829日に職を辞して寄合になり、同年95日に68歳で没した(実際は829日にはすでに死去していたのであろう)。


 目付、大目付と職歴は申し分なし。旗本の中でも出世頭と言える。幕臣の間の評判も高かったに違いない。ところが同じく旗本の諏訪頼武が著した『仮寝の夢』(
1821年序)

によれば、河野吉十郎安嗣は、若い頃は大変な放蕩者だったという。その内容を要約すると。

 

  河野吉十郎は、小普請時代(27歳から39歳)新吉原に通い、身上(財産)を投じ

 て日々の暮らしにも事欠くありさまだった。どう工面したのか、終には馴染みの遊女

を請け出し、屋敷に連れ帰った。遊女の兄は女衒をしていたが、これ幸いと吉十郎か

ら金をせびり取ろうとしたのだが……。押しかけて見ると屋敷はあばら家同然で逆さにしても金が出てくる様子ではない。がっかりした兄は、そこで一念発起、悪党根性を一変させた(なかなかの男である)。「妹が吉十郎とくっついたのもなにかの縁だ。どうせ女衒を続けても先が知れている。これを機に志を改め吉十郎の家来になり、忠義を尽くして出世させてやろう」。そう決意した男は、吉十郎を諫めながら、用人として河野家に奉公し始めた。

 

 悪党の改心に影響されたのか、さすがに今のままではと猛省したのか、吉十郎は心を改めで旗本として然るべき日々を送るようになった。すると用人(女衒をやっていただけに世間の裏まで知っていた)の忠告も功を奏し、旗本として順調に出世を遂げた。女衒あがりの用人は河野家に奉公を続け、最期の日も同家で迎えたとか。

  

都会人と田舎人

 嘘のような話だがどうやら事実らしい。諏訪頼武は河野吉十郎より30歳も年下だっ

たが、吉十郎が昇進する様子をその目で見ていた。『仮寝の夢』の内容は、吉十郎と懇

意の者から直接聞き取ったものだという。

 藩邸の長屋住まいの藩士を、天下の旗本と比較するのはいささか無理があるかもしれ

ない。藩士某と旗本河野吉十郎との間には(同じ江戸時代とはいえ)時間的な隔たりも

ある。それでもふたりの話は、藩士と幕臣の心理的な差異を象徴しているように思えて

ならない。

立小便中の事故で額から出血しただけで、必死に策をめぐらして名誉を守ろうとした

某と、色に溺れあばら家同然の屋敷に住んでも、女衒出身の用人のサポートで大目付にまで昇進した河野吉十郎。同じ武士でも、日々の行状の許容範囲が違っていた。旗本は藩士に比べ、〝武士の一分〟のプレッシャーがすくなかったのである。旗本は、いい意味でも悪い意味でも(さばけているが戦闘意識に欠ける)都会人だった。

<了>

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