なんで私が書物奉行に

文化11年(1814)2月、幕府の天文方(天体観測や暦の作成に従事する職)に所属する30歳の男が、40歳年上の老人に1通の手紙を書いて送った。手紙は思いがけない昇進を報告したもので、文面からは男の喜びの大きさ、そしてバラ色の将来に対する期待が痛いほど伝わってくる。例によって原文を交えて意訳してみよう。

手紙は「なんと! 私は去る3日、御城に召し出され、御書物奉行を拝命したのです」で始まる。「なんと!」の原文は「不存寄(ぞんじよらず)」。意訳にしてもくずし過ぎだとお叱りを受けるかもしれないが、男の「信じられない!」という気持ちを表現するにふさわしいと自負している。以下、この調子で訳してみると。

 

「足高(たしだか)も役扶持(やくぶち)(つまり書物奉行を務めるに当たって支給される年俸補助と役職手当)も規定通り下されるし、天文方の仕事もこれまで通り務めよというのです(つまり兼務)。まったくありがたいではないですか。貴兄もぜひ祝福してください。一体どうしてこのような幸運が舞い降りてきたのでしょう。考えられるのは、私が命じられたロシアの国書の翻訳の出来がたいそう良いと評判だったこと。去年の2月は天文方の役宅(宿舎)が火災に遭ってすっかり消沈(「大愁傷」)していましたから、まったく人の禍福は予測できないものですね(「盛衰互代難計事に御ざ候」)」

 

 ロシアの国書とは、10年前の文化元年(1804)に長崎に来航したロシアの使節レザーノフが持参した日露通商を求める文書。満州語(清国を建国した満州族の言語)で書かれていたため、日本側は何が書かれているのかチンプンカンプンで(当時日本中さがしても満州語を解す人など見当たらなかったから)、幕府は文化5年(1808)にその翻訳を男に命じた。

男は紅葉山御文庫が所蔵していた満州語の辞書『御製増訂清文鑑』を唯一の頼りに満州語の研究に没頭し、文化7年に翻訳を成し遂げ、『魯西亜国呈書満文訓訳強解』として上程した。それは満州語の国書の全文を細かく分け、それぞれ右側に漢文(これなら日本人でも理解できる)、左側に朱のカタカナで満州語の発音を記し、最後に国書全文を和訳したもので、「強解」とあるのは、『御製増訂清文鑑』に見えない語句の意味は自身で推測したからである。いずれにしろ男は困難な仕事をやり遂げ、だからこそ書物奉行への予期せぬ昇進は、その功績の賜物(ご褒美)だと思ったのだろう。

 

閑職奉行の優雅な働き方


 手紙の後半を読んでみよう。

 

 「なにしろ御書物奉行は天文方よりはるかに格上なのです(「格式は天文方より七十余段進み」)。そのため御書物奉行になったのに伴って、天文方においても筆頭(「天文方筆頭」)になってしまいました。天文方の仲間とりわけそれまで天文方筆頭だった吉田(吉田勇太郎)の手前、心苦しくてなりません(「吉田の手前甚以当惑痛心に御ざ候」)。私のこんな気持ちをどうかお察しください。けっして有頂天になっているわけではないのです」。

 

 もっとも興味深いのは、書物奉行の〝働き方〟について記したくだりだ。まずは原文でご覧いただきたい。

 

「御書物奉行勤方は甚閑暇にて、同役四人、一日一人つゝ詰番に出申候、夫も朝四つ時に出、八つ時に引き候上、御用向は至て稀にて、種々御書籍拝見は勝手次第故、追々珍書可致拝見と、是のみ難有奉存候」。

 

 意訳すると、「御書物奉行はとてもひまな役職で、奉行は私を含めて4人。毎日ひとりずつ詰め番として出勤しますが、詰め番といっても、朝四つ時(午前10時頃)に出勤して八つ時(午後2時頃)には退勤できます。御用を命じられることは至ってまれで、しかも紅葉山御文庫の蔵書は読み放題。いずれ御文庫秘蔵の珍書(貴重書)を拝見するつもりです。なんともありがたいことです」。

手紙は「右之段下役中えも御風聴可被下候」という言葉で結ばれている。以上の内容を、天文方の下役の連中にも貴兄から吹聴(「風聴」)してほしいというわけ。書物奉行を拝命した男の得意満面な様子があからさまに伝わってくる。

それにしても、書物奉行とは暢気な役職ではないか(働き方改革ご無用)。しかし、そう思うのは研究者タイプの男だけで、立身出世を目指す幕臣たちにとっては、退屈で余禄のない(しかも城内とはいえ殿中から離れた場所に勤務する)まぎれもない閑職だった。


 ところでこの男、何者か。そして手紙を受け取った人物の正体は。

察しのよい読者ならもうお分かりだろう。そのとおり。男の名は高橋景保(通称作左衛門 17851829)。すぐれた天文学者であった父(高橋至時)の跡を継いで天文方に勤務し、天文学や測量、地図の作成(そして外国語文献の翻訳)等で多くの業績を残したのち、シーボルト事件(オランダ商館付医師シーボルトに国外持ち出し禁止の地図や文献等を提供した罪を問われた事件)で逮捕され、獄中で非業の死を遂げた人物だ。

景保はまぎれもなく歴史上の著名人だが、すくなくとも今日の日本では、その著名度の高さは、手紙を受け取った当時70歳の老人より格段劣ると言わざるをえない。老人はなんと、あの伊能忠敬(17451818)にほかならない。下総国佐原の酒造家に養子入りした忠敬は、家業に勤しみながら測量や天文学を学び、50歳で引退したのち江戸に出て高橋至時に師事。寛政12年(1800)以降、幕命で蝦夷を始め全国の測量を行った。

至時の子の景保とは平素から懇意で、天文方の景保は忠敬の測量を積極的に支援し、文政4年(1821)に忠敬の全国測量図『大日本沿海輿地全図』(いわゆる伊能図)が完成すると、序を作文して幕府に上呈した。景保の書物奉行就任から7年後のことである。

 

「そんなら盗め」

 書物奉行に任命され、幸せいっぱいの高橋作左衛門景保。文化112月当時の書物奉行は、ほかに近藤重蔵守重(号を正斎)と鈴木岩次郎成恭(号を白藤)、藤井佐左衛門義知の3人で、それぞれ44歳、48歳、62歳だった。うち藤井義知は翌126月に病気のため辞職し(文化13年没)、夏目勇次郎成允が後任となったが、その知識量において3人の比ではなかった(と思う)。近藤、鈴木という精力的な書痴(本の虫)に、卓越した天文学者にして満州語研究の第一人者である高橋が加わったのだから、当時の書物方の知的偏差値は日本随一だったに違いない。

 近藤重蔵の〝あぶないほどの本好き〟については、この連載ですでに紹介した(第41回)。鈴木白藤についても連載の第10回(3年以上も前である)で取り上げたが、今回は高橋景保を含めて、〝書物奉行三人男〟の本好きについてもうすこし触れてみたい。


 鈴木白藤が御書物奉行を拝命したとき、友人の大田南畝(ご存じ蜀山人。戯作者にして文人、能吏でもあった)は「鈴木恭白藤の秘書監に遷るを賀す」(原漢文)と題してこんな五言絶句を詠んだ(『大田南畝全集』第4巻所収)。

 

 「曾て昌平に在つて五車を閲(けみ)し 還た石室を探つて三余を擅(ほしい)ままにす 稠飢(ちゅうき)の子弟皆欣羨す 満腹の芸香(うんこう)秘書を監す」

 

 漢詩の解釈は難しい。とりあえず辞書で「五車」が(5台の車に積まれるほど)多くの書籍で、「石室」が書庫、「三余」が暇な時間であることを確認したが、

「稠飢の子弟」と「満腹の芸香」はいまいち分からない。それでも構うものかと意訳すると(それこそ「強解」だ)。

「白藤君は昌平坂学問所で数多の書籍を閲覧し(白藤は書物奉行になる前は学問所勤番組頭だった)、あわせて自宅の書庫で余暇を過ごしていた(白藤は蔵書家としても知られていた)。その君が今度は紅葉山御文庫の秘書(貴重書)を扱う奉行になるとは。まったく羨望の極みだ」。「満腹の芸香」は経済的に豊かな蔵書家だった白藤を指し、「稠飢の子弟」は本好きでありながら容易に貴重書を手に取れない(南畝を含めた)知識人を指すのであろう。解釈の是非はともかく、白藤の書物奉行就任を本人のみならず友人たちも喜び祝した様子がうかがえる。

『廉斎間記』(『日本藝林叢書』第5巻所収)という著者未詳の記録には「白藤翁」から聞いた話として、圧巻の逸話が載っている。比較的読みやすいので、まずは原文を。

 

 「御書物奉行の頃、御長持損じて、鼠の喰ん事をうれひて、秋山内記に御修復の事を謀りしに、其長持には何が這入(はい)りて居るやと尋らる。元禄頃の諸御書付類入り居候と答へしかば、しばらく考居て、それは鼠の喰候が御趣意に候半と答へしかば、そんなら盗めとて、高橋近藤の同僚の人々、おもひおもひに持返りぬ。犬の御書付も其中にありし」(濁点や句読点など適宜氏家が改めた。言い遅れたが景色の手紙も同様)。

 

 登場人物から。秋山内記は奥右筆組頭で、通称松之丞、名は惟祺。文化15年(1818)正月に在職中に亡くなっている。高橋と近藤が高橋景保と近藤重蔵。そしてこの逸話の語り手の「白藤翁」が鈴木白藤なのは言うまでもない。

 話はこうである。私(白藤)が御書物奉行だったとき、幕府の古い文書を収納していた長持が破損しているのを発見。これでは鼠が入って文書を喰い荒らすかもしれないと、奥右筆組頭の秋山内記に修復を願い出たところ、秋山は「その長持には何が入っているのだ」と尋ねた。「元禄頃のさまざまな公文書が入っています」と答えると、秋山はしばらく考えたのち、「そもそも鼠に喰われても構わないという考えで、その長持に収められたのさ」と言って、修復を許可しなかった。そんな古い公文書なんて大切に保存する必要はない、というわけ。3人そして秋山の在職期間から、文化11年から14年の間の出来事と察せられる。

 すると、近藤と高橋はこれ幸いとばかりに、「それなら盗んでやれ」と長持から好き勝手に元禄頃の文書を持ち出した。紅葉山の御文庫から彼らが〝盗み出した〟文書の中には、犬の書付(お犬様に関する記録か)もあった。

 そう語った白藤自身は、高橋と近藤の〝犯行〟に加わらなかったのだろうか。真相は藪の中。ともあれ、高橋景保の伊能忠敬あて書簡にもまさる面白さだ。面白いだけではない。公文書の管理と保存に関する幕府の意識の低さを物語る逸話としても貴重である。ちなみに今回紹介した史料は、上原久『高橋景保の研究』と森潤三郎『紅葉山文庫と書物奉行』に掲載されている。大いなるかな先学の功績。

<了>


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