池田冠山の嘆き――文書氾濫

「御好」と書いて「おこのみ」と読む。あらためて言うまでもなく「お好み」の意味で、「お好み焼き」のほか「家元お好みの抹茶」とか「お好みの女性(あるいは男性)」「お好みの靴」などなど、頻繁に用いられている。今回の話題はその「御好」。といっても好むのは人間でもペットではなく、衣食住に関するさまざまな物品でもない。はたして何が「御好」の対象なのか。

 答えを出す前に、13年前に私が「産経新聞」に掲載したエッセイをご覧いただきたい。終に著書に収録されないまま放置され、いまやすっかり忘れ去られたしろものだ。読み返してみると、なかなかいい。となればこの機会に多少補筆して再生させたい(再利用したい)と思うのが著者の親心である。

 

 鳥取潘の分家(若桜藩)の当主で、隠居後は殿様文化人として活躍した池田(松平)定常(冠山と号した)は、天保3年(1832)に著した随筆『思ひ出草』のなかで、以下のように述べている。

 

――寛永・正保の頃(17世紀前半)までは、物を書く人はすくなく、幕府や藩の役人も武術の修練には力を注いだが、記録の作成や保存にはあまり関心がなかった(「記録などの事には及ばず」)。備前岡山藩主の池田光政公は文教を重んじた名君だが、それでもごく重要な事を心覚えとして書き留めただけで、当時は藩の日記すら十分なものではなかった。

日記どころか、幕府の命で大名旗本諸家の家譜集成『寛永諸家系図伝』が編纂されるまでは、自分の家の歴史や系図さえ承知していない大名や旗本も多く、そんな家では、〝俄かづくり〟の不正確な系譜を幕府に提出せざるをえなかった――。

 

なぜ家の歴史に関心が薄かったのか。豊臣秀吉の出自が卑しかったので、武将たちも系図や由緒に重きを置かなかったという説もある。

これに対して冠山はより決定的な理由として、そもそも当時の武士社会では書物を読む者は稀で、おのずと古い記録にも関心を示さなかったことを第一に挙げている。記録に無関心。ましてや記録を集めて正確な系譜を作成するなど、血なまぐさい戦場を駆け回り(常在戦場!)、明日の命も知れない彼らには想像もできなかったというのだ。

ひるがえって今日では、どの大名旗本の家でも日記をつけている、と冠山は言う。ならば彼は、日々多くの記録が作成される現状に満足しているのだろうか。とんでもない。「無用の細事」まで長々記録するのは、時間と紙墨の無駄。天下泰平とはいえ「余りに愚なる事也」と否定的である。

なかでも冠山を憤慨させたのは、不必要な文言が並ぶ「役所向の往復」(役所間の文書のやりとり)や国許からの報告書の類だった。この種の文書は書式や先例にうるさい連中(役人)が、物知り顔で細かくチェックするので、(作成に時間が掛り)うんざりだという。冠山は、このような文書作成の現状を「文弊」と称している。重要な公文書の記録が充実するのは結構だが、取るに足らない記録の累積はかえって文化を衰退させるというのだ。19世紀の江戸は、よくも悪しくも文書氾濫の時代を迎えていた。

 

松平定信の訓示―繁文縟礼


 同様の事態は、すでに18世紀末の幕府でも問題になっている。

寛政3年(17917月、いわゆる「寛政改革」の真最中に、老中松平定信は幕府の諸役人に対して業務改善のための訓示を垂れたが、そのなかには次のようなものも(『甲子夜話』巻52)。例によって意訳すると。

 

 「どの役所も業務に細々と手間をかけるようになったせいで、以前より職員が増えたにもかかわらず、仕事が滞り気味になっている。今後は流れを簡略化して業務が渋滞しないよう努めよ」。

 

 原文は「諸御役向、次第手数多く、手重に相成候。以前より人数増候ても御用向繁多なるやに候。以来手重に相成ざる様、何分可被相心掛候」。われながら大胆な意訳だが、本筋は外れていないと思う。漢語を用いて簡潔に表現すれば、「繁文縟礼(はんぶんじょくれい)」を改善せよ! といったところだろう。

  役所の仕事をもっと効率的に、スピード感をもって。定信は続けて具体的な例として公文書の作成方法を挙げている。

 

 「文書を作成する際も、いくぶん不適当な文言や書き損じ(誤字、脱字など)があっても、実質的に問題が生じない程度のものであれば、そのままでよい(訂正や書き直す必要はない)」。

 

 続けて「無益之儀に入念(念を入れ)候義無之(これなき)様可被心掛候事」とも。どうでもいいような些細な間違いや書き損じを入念に訂正して書き改めるのは、無駄な作業(「無益之儀」)だというのである。

 

 ここからは今回の書下ろし。

届書、願書などなど……各種文書の文言や書式に関する細かい作法は、時間の

浪費と事務の停滞をもたらすばかりでなく、役所の先輩(とりわけ世話役などと呼ばれた古参の中間管理職)の陰湿な新人イジメの恰好の口実にもなっていた。


 新人にこれこれの内容の文書を作成しろと命じる古参役人。ところが作成した文書を見せると、ここが悪いあそこが悪いと何度も書き換えを求めたのである。それが至極まっとうな指摘ならば、新人たちも貴重なご指導と納得したと思うのだが、どうでもいいような訂正や、文言の好みで書き直させられるのだからたまらない。

定信が上記のような訓示を述べたのも、文書作成をめぐって繰り返されるイジメ、パワハラ、ひいては役所内の人間関係のもつれが背景にあったのだろう。

 

『書物方日記』に見る「御好」の例

 さて、いよいよ「御好」の話だ。今回取り上げる「御好」の対象は、幕府の役所で作成されたさまざまな文書。そう、公文書に対する〝お好み〟に他ならない。

 将軍家の蔵書を保存管理する書物方の業務日誌『書物方日記』(『御書物方日記』とも)をひもといてみよう。


 寛延3年(1750127日の午後8時頃、書物奉行の近藤源次郎(名は舜政)が「中症」(中風)が原因で亡くなった。享年60

もっともこれは官年(幕府に届け出た年齢)で、実際はもっと若かったかもしれないし、死亡日も7日より前だったかもしれない。当時の慣例で、家督相続の手続きが終わるまでは、たとえ死んでいても生きていることになっていたからだ。

ともあれ彼の死亡にともなって、翌8日、実子で長男の近藤小源太(22歳)に家督を相続させたい旨の近藤源次郎の願書が、近藤の願いを許可していただきたいとする他の書物奉行3人(川口頼母、深見新兵衛、大岡五平次)の願書を添えて、若年寄の小出伊勢守(名は英持)に提出された。書物方は若年寄の支配下にあり、小出は3人の直接の上司だった。


 同様のケースは以前にも何度かあり、3人は先例に従って願書を作成したに違いない。なんの問題もないはず。ところが若年寄の小出は待ったをかけた。『書物方日記』はこう記している。「同役願書之内、御好有之、外に男子無之哉否其段書入可申旨被仰聞候」。

すなわち3人の願書の文面に、亡くなった近藤には小源太のほか男子がいない旨を書き添えよとする小出の「御好」が達せられたのである。「御好」とはいえ、若年寄のそれは命令同然。3人は願書の近藤小源太の名の後に「右之外男子無御座候」と記した願書をあらためて差し出している。願書の書き替えと再度の提出が、時間と手間を倍にしたのは言うまでもない。のちに松平定信が指摘した役所の〝悪しき慣習〟のなかには、このような幕府上層部の「御好」も含まれていたと思われる。

もう一例。明和6年(176995日には、御側衆の稲葉越中守(正明)から、田安家(三卿の一家)に紅葉山文庫所蔵の「楽書」(音楽に関する文献)を貸し出すよう達せられ、殿中に参上した書物奉行の長谷川主馬は、稲葉の「御好」で、「楽書目録」(所蔵する楽書のリスト)のほか、次のような文書を書かされている。

「書面之御書物、田安殿より御案内次第追々差上、其度々右之段御届可申上旨奉畏候」。書面(「楽書目録」)にある書物を田安殿から要求があり次第差し上げ、しかもその都度、稲葉殿に報告いたしますという内容だ。文書作成ばかりでなく、田安家への貸し出しの事務がさらに煩瑣になったというわけ。

『書物方日記』には他にも「御好」で文書を書き改め、あるいは新規に作成した例がいくつも見える。書物方だけでもそうなのだから、幕府の役所全体では、どれほどの「御好」があったか計り知れない。「御好」というからには、某の「御好」で作成した文書が別の某の「御好」で書き直されるケースもあったに違いない。

忖度で公文書の書き替えが行われる昨今の役所は、江戸時代(前近代)の役所の「御好」の伝統を受け継いでいるのかもしれない。反面教師にするのならともかく、歴史には学んではいけない歴史もある。

<了>
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