鎌形(かまがた)
2009年11月5日 内田泰永さん撮影
A:嵐山幼稚園(東上原)
B:日本赤十字社埼玉県支部旧社屋(東上原)
→空から見た嵐山町19
C:立売堀製作所関東工場(いたちぼりせいさくしょ)(清水)
D:鎌形集会所(東上原)
E:宗信寺(日蓮宗)(馬場)
F:鎌形八幡神社
YouTube:samanosuke1561さんの「鎌形神社」(2008.06.24)
G:班渓寺(曹洞宗)(殿ケ谷戸)
H:八幡橋、I:石代堰(こくだいせき)、J:班渓寺橋(都幾川)
K:県道173号ときがわ熊谷線
二瀬橋(ふたせばし)
左:槻川(つきがわ)、右:都幾川(ときがわ)
2009年11月20日 内田泰永さん撮影
2009年4月13日の写真(空から見た嵐山町9)
長谷山遠山寺(曹洞宗)
2009年11月20日 内田泰永さん撮影
『新編武蔵風土記稿』、『武蔵国郡村誌』
『菅谷村の沿革』「遠山・遠山寺参道の石仏群」
稲村坦元「菅谷村誌原稿 遠山志」
大塚仲太郎「小倉城阯」1935年
「空から見た嵐山町」10、35
大平山
嵐山渓谷・細原(ほそばら)
2009年11月20日 内田泰永さん撮影
比較:2009年4月10日の写真(武蔵嵐山の桜 中島運竝 1966年)
嵐山渓谷
2009年11月20日 内田泰永さん撮影
比較:11月5日撮影写真(空から見た嵐山町56)
『武蔵野だより』さんの嵐山渓谷の紅葉写真
2009年11月8日、11月20日
国営武蔵丘陵森林公園(南部)
2009年11月19日 内田泰永さん撮影
比較:9月11日(空から見た滑川町 11)
国営武蔵丘陵森林公園(中央口)
山田大沼
2009年11月19日 内田泰永さん撮影
比較:9月11日撮影写真(空から見た滑川町 12)
国営武蔵丘陵森林公園(中央口)
山田大沼
2009年9月11日 内田泰永さん撮影
比較:11月19日撮影写真(空から見た滑川町 13)
国営武蔵丘陵森林公園(南部)
2009年9月11日 内田泰永さん撮影
比較:11月19日(空から見た滑川町 14)
A:運動広場、B:あざみくぼ沼、C:展望広場
D:栗谷沼、E:長沼、F:下沼、G:西田沼
東松山カントリークラブ、H:新沼
I:滑川中学校、J:滑川町役場
K:カインズホーム、L:ベイシア
小川町小川、下里(しもざと)、東小川
2009年11月5日 内田泰永さん撮影
A:ケージーエス埼玉工場(小川)
B:高西寺(真言宗智山派)(小川)
C:二ユーライフカタクラ小川店(小川)
D:西光寺(曹洞宗)(小川)
E:道の駅おがわまち、埼玉伝統工芸会館(小川)
「道の駅とは?」(国土交通省道路局HP)
F:小川東中学校(小川)
G:上野台中学校、H:東小川小学校(東小川)
I:大聖寺(天台宗)(下里)
『そこに城があるから』さんの「源貞義居館地?」
J:シロックス東京物流(嵐山町平沢)
K:オガワ製作所(小川)
L:下里四区区民センター(下里)
M:下里三区区民センター(下里)
N:小川小学校下里分校(休校)(下里)
小川カントリークラブ
見晴らしの丘公園
東武東上線
国道254号
兜川(かぶとがわ)
1:青木橋、2:大寺橋、3:柳町橋(槻川)
遠ノ平山(小川町では東平山)
塩山(ときがわ町では正山)
今泉(いまいずみ)、古凍(ふるごおり)
2009年11月7日 内田泰永さん撮影
A:山口自動車工業(川島町正直)
B:氷川神社(川島町戸守)
C:吉祥寺(天台宗、東松山市古凍)
D:天神社天満宮(古凍)
E:シロックス東京物流東松山センター(東松山市今泉)
F:東松山市環境センター(古凍)
G:市野川水管橋
H:市野川
I:国道254号
J:新江川(しんえがわ)
K:山王樋管(野本樋管)【新江川が市野川に合流】
1:新江川橋、2:根岸橋、3:天神橋
4:友田橋【東松山市古凍・川島町正直境界】
5:鷹匠橋、6:今泉橋
空から見た東松山市 14(国道254号柏崎交差点)
空から見た東松山市 15(国道254号古凍交差点)
川島町八幡団地、白鳥飛来地(越辺川)
2009年11月7日 内田泰永さん撮影
A:鈴茂器工東京工場、B:鈴茂器工東京第二工場
C:(株)高純度化学研究所川島工場
D:トーチクハム埼玉工場
E:中山小学校
F:越辺川、G:天神橋
H:坂戸市東清掃センター
I:首都圏中央連絡自動車道(圏央道)
J:共同印刷川島工場
K:味の素メディカ埼玉工場
L:三井精機工業川島工場
(同社HPの「白鳥飛来情報」)
都幾川・越辺川合流地点
2009年11月7日 内田泰永さん撮影
空から見た東松山市 20 (2009年10月18日撮撮影)
2009年9月11日 内田泰永さん撮影
A:文殊寺(曹洞宗)(野原)
『城跡ほっつき歩き』さんの「増田館」
『まんじまる流』さんの「文殊寺」
B:立正大学熊谷キャンパス
C:埼玉鋼材センター(野原)
D:埼玉県立総合教育センター江南支所(御正新田)
E:吉岡中学校(平塚新田)
F:吉岡小学校(万吉)
G:荒川大橋、H:熊谷大橋(荒川)
I:県道173号ときがわ熊谷線
(2004年11月30日まで熊谷東松山有料道路)
竹沢地区勝呂(すぐろ)、木呂子(きろこ)
2009年11月5日 内田泰永さん撮影
A:兜川、B:西浦川、C:木呂子川
D:国道254号線、E:竹沢駅(JR八高線)
F:第一石産運輸株式会社
G:国重要文化財吉田家住宅
H:埼玉県立小川げんきプラザ
ホンダ小川工場、寄居工場遠望
2009年11月5日 内田泰永さん撮影
A:ホンダ小川工場、B:ホンダ寄居工場
「ホンダ、埼玉の新エンジン工場建設に着手」(『日刊工業新聞』2009年4月11日記事)
参照:『寄居町企業誘致推進計画』(2008年3月26日)「第2章産業の現状とホンダ寄居新工場の立地」
C:寄居カントリークラブ
D:雲龍寺(曹洞宗)(『城跡ほっつき歩き』さんの「伝竹沢氏館」)
E:東武竹沢駅、F:竹沢駅(JR)
G:竹沢公民館、H:竹沢小学校
I:角山上交差点、J:小川西陸橋
K:宏仁会小川病院、L:特別養護老人ホーム宏仁会さくらぎ苑
M:長福寺(天台宗)
N:小川バイパス、O:国道254号線
P:JR八高線、Q:東武東上線
小川町の市街地(西部)
2009年11月5日 内田泰永さん撮影
A:青山浄水場、B:大河保育園、C:大河小学校、D:大河公民館、E:西中学校
F:小川ニュータウン、G:竹沢小学校
H:国道254号線、I:小川西陸橋(埼玉県道274号赤浜・小川線)
J:グリーンヒル、K:八幡台グラウンド、L:大塚八幡神社
M:穴八幡古墳(『郷土文化財コレクション』さんの「穴八幡古墳」)
N:大梅寺(曹洞宗)、O:長昌寺(曹洞宗)
1:日の出橋、2:大河橋(槻川)
A:小川中央青果市場、B:青山陸橋(西)交差点、C:小川ミナミボウル、D:圓光寺、E:小川郵便局、F:JA埼玉中央小川、G:青山浄水場
H:大河小学校、I:西中学校
J:大塚八幡神社
「大塚八幡神社の案内板」(『いてでの里山ハイキング日記』さんの「官ノ倉山ハイキング日記」に掲載)
大塚仲太郎「小川町郷社八幡神社と江戸士民との交渉」1940年
K:八幡台グラウンド、L:大梅寺、M:小川町立図書館
N:ヤオコー小川ショッピングセンター店
O:小川中央陸橋、P:埼玉県立小川高等学校
Q:小川町駅、R:リリック小川(小川町民会館)、S:小川町役場
T:いなげや小川大塚店、U:小川和紙体験学習センター
V:上小川神社、W:小川警察署
1:馬橋、2:相生橋、3:栃本堰、4:日の出橋(槻川)
小川町の市街地(中央)
2009年11月5日 内田泰永さん撮影
A:小川赤十字病院
B:ヤオコー小川本社生鮮センター
C:ファッションセンターしまむら小川店
D:小川小学校
E:小川町学校給食センター
F:小川消防署
G:小川警察署
H:いなげや小川大塚店
I:小川町役場
J:小川町民会館(リリック小川)
K:小川町駅
L:埼玉県立小川高等学校
M:槻川(つきがわ)
N:兜川(かぶとがわ)
O:仙元彩雲橋
P:JR八高線
Q:東武東上線
R:ダイアパレス小川
仙元山、みどりが丘
A:埼玉伝統工芸会館
B:ニューライフカタクラ小川店
(1992年5月〜2009年11月30日)
C:西光寺、D:高西寺
E:小川町立中央保育園
F:比企広域市町村圏組合小川消防署
G:小川小学校
H:ダイアパレス小川
I:ファッションセンターしまむら小川店
K:ヤオコー小川本社生鮮センター
J:観正寺、L:八宮神社
M:小川赤十字病院
N:特別養護老人ホーム小川ひなた荘
小川カントリークラブ、O:新沼
P:東武東上線、Q:国道254号線
T:県道11号熊谷・小川・秩父線
1:大寺橋、2:青木橋(槻川)
3:北川橋、4:小川橋、5:諏訪の越橋、6:小川東陸橋、7:兜川橋、8:中池田橋(兜川)
東京電機大学鳩山キャンパス
2009年10月18日 内田泰永さん撮影
東京電機大学理工学部(鳩山町石坂)
高坂ニュータウン・旗立台(はたたてだい)地区
関越高速自動車道高坂サービスエリア
2009年10月18日 内田泰永さん撮影
A:山の辺橋
B:千年谷公園
C:大東文化大学緑山キャンパス
(旧・緑山小学校、1991年4月〜2006年3月)
D:なつめ公園
E:ちご沢の森
F:高坂サービスエリア(下り)
G:高坂サービスエリア(上り)
越辺川・高麗川合流地点付近
2009年10月18日 内田泰永さん撮影
A:東武東上線
B:高坂橋
C:坂戸地区衛生組合(坂戸市上吉田)
D:埼玉県立坂戸高等学校(坂戸市上吉田)
E:片柳小学校(坂戸市片柳)
F:葛川水門新設工事
越辺川(おっぺがわ)・都幾川合流地点付近
2009年10月18日 内田泰永さん撮影
東松山市正代(しょうだい)、早俣(はやまた)
川島町長楽(ながらく)、戸守(ともり)
坂戸市赤尾(あかお)
A:高野橋
B:早俣橋
C:ベルーナ川島流通システムセンター
D:正代運動広場
E:東松山市高坂浄化センター
空から見た東松山市 25 (2009年11月7日撮影)
東松山市街地の遠望
2009年10月18日 内田泰永さん撮影
箭弓神社(やきゅうじんじゃ)
第32回日本スリーデーマーチ中央会場
丸広百貨店東松山店
2009年10月18日 内田泰永さん提供
A:ひがしまつやま市総合福祉エリア
B:市の川小学校、C:埼玉県立松山高等学校
D:松山中学校
E:松山第一小学校
校庭:スリーデーマーチ中央会場
第31回日本スリーデーマーチ(2008.11.1−3)
F:東松山市役所
G:総合会館、H:保健センター
I:松山神社、J:上沼公園
丸広百貨店東松山店
NTT東日本東松山ビル
東洋製罐埼玉工場
三国コカコーラボトリング
2009年10月22日 内田泰永さん撮影
A:東洋製罐(せいかん)、B:三国(みくに)コカコーラボトリング
E:吉見町役場、F:吉見中(吉見町下細谷)
C:台山排水路(下銀谷)
D:第二横見排水路、G:道の駅いちごの里よしみ(久保田)
H:埼玉県道27号東松山・鴻巣線
I:埼玉県道33号東松山・桶川線
J:埼玉県道345号小八林・久保田・下青鳥線
菅谷村大字将軍澤字大宮ニ将軍社アリ、即チ往昔(おうせき)平安ノ當初朝野(ちょうや)*1ニ英明嘖々(さくさく)タリシ*2征東将軍坂上田村麿ヲ祭神ト崇敬セルノ先蹤(せんしょう)*3タリ、當社ニ關スル古記録等ハ永禄(えいろく)(1558−1570)兵燹(へいせん)*4ニ失ヒシヨリ其實ヲ傳(つた)フルナク創立年紀詳(つまびらか)*5ナラズト雖(いえど)モ、古老ノ口碑(こうひ)*6ニ據(よ)レバ、往古坂上田村麿将軍東夷(とうい)*7征伐ノ際、近傍(きんぼう)*8岩殿山ニ巨蛇アリテ土地人民ヲ害セリ、将軍其ノ被害ヲ憫(あわれ)ミ一朝(いっちょう)*9之ヲ退治シテ土人(どじん)*10ヲ安堵セシメタリ、時恰(あたか)モ*11盛夏タル六月朔日(ついたちひ)*12ナリシモ、天變雹雪(ひようせつ)*13ヲ降ラシ寒気強カリシタメ、土人麦稈(ばっかん)*14ヲ焚(たき)キ将軍ニ煖ヲ供(そな)エ、其後将軍ノ功徳(くどく)*15ヲ頌(しょう)シ*16之ヲ祭祀(さいし)*17崇敬セリト云フ、今モ尚(な)ホ年々六月(陰暦)一日土人麦稈ヲ焚(たき)テ記念祝祭ヲナス慣例アリテ、比企南部入間北部ノ諸村落ニ及(およ)ベリ、當社古来本村旧字大宮ト唱(とな)フル地ニ鎮座在リテ坂上田村麿将軍大宮権現ト称シ、規模最モ宏壮(こうそう)*18タリシモノニテアリシト云フ(本村元ノ村名及旧大宮ノ地名共ニ當社ニ因(よっ)テ起リシモノ、蓋(けだし)シ*19他説ニ利仁将軍ニ関セル如クアルハ訛(あやまり))維新明治七年(1874)三月ニ至リ當所ニ奉遷(ほうせん)シ将軍社ト改称セリ、以上ハ傳説ニ止マルモ正史ニ於(お)ケル田村将軍ノ忠良仁勇國家ニ大功有リ、威信並存(へいぞん)*20シテ其名聲ノ嘖々(さくさく)タルハ茲(ここ)ニ言フヲ俟(ま)タザル所、獨(ひと)リ當比企入間地方トシテノ将軍ニ慶頼(けいらい)*21シタルノ美談ニシテ苟(いやしくも)モ*22自餘(じよ)*23ノ考證ノ無キ限リハ、本説ハ洵(まこと)ニ*24将軍ノ為メ一部ノ逸史(いつし)*25傳タルヲ信ズ
*1:天下。
*2:もてはやし評判すること。
*3:先例。
*4:戦争のために起こる火事。
*5:くわしいさま。
*6:昔からの言い伝え。
*7:蝦夷(えぞ)の称。
*8:近所。
*9:わずかの間。
*10:土着の人。
*11:ちょうどその時。
*12:月の初め。
*13:ひょうやゆき。
*14:むぎわら。
*15:ごりやく。
*16:ほめたたえる。
*17:まつり。
*18:広く大きく立派なこと。
*19:まさしく。
*20:いくつかの事が並び存すること。
*21:喜び頼りとする。
*22:もしも。
*23:このほか。
○将軍沢(ショウグンザワ)村
本村古時玉川郷玉川領に属す。風(ふう)*1に村内に利仁将軍の靈を祭りし社あるをもて将軍沢の名ありと云とのす
*1:うわさ。
彊域(きょういき)*1
東は神戸村山脈を接し、西は鎌形村、南は須江・奥田の両村と林巒(りんらん)*2或樵蹊(しょうけい)*3を限り、北は大蔵・根岸二村と道路或畦畔(けいはん)*4を界とす
*1:土地の境。境界内の土地。領域。
*2:林と山。
*3:きこりが通う細い道。樵渓、樵径。
*4:耕地の境のあぜ。くろ。
幅員(ふくいん)*1
東西十町四十間南北十八町四十間
*1:ひろさ。はば。
管轄沿革
天正中(てんしょう)(1573−1592)徳川氏の有となり代官之を支配す。田*1に高七十三石七斗三升とのす。元禄十一年(げんろく)戊寅(つちのえとら)(1698)村高を割き旗下士(きかし)*2大島長門守の采地(さいち)*3となし、明和の頃(めいわ)(1764−1772)残高は清水家の領地となる。天保十三年(てんぽう)壬寅(みずのえとら)(1842)総高百六十四石一斗三合松平大和守の領地となり、明治二年(1869)前橋藩に隷し、四年辛未(かのとひつじ)(1871)前橋県と改り、尋(つい)て群馬県に隷し、又入間県に属し、六年癸酉(みずのととり)(1873)熊谷県の所轄となる
*1:武蔵田園簿のこと。
*2:将軍直属の武士。
*3:領地。知行所。
里程(りてい)*1
熊谷県庁より未(ひつじ)の方*2四里
四隣大蔵村へ十町、根岸村へ十二町、神戸村へ二十五町、奥田村へ二十八町五間、須江村へ二十五町、菅谷村へ三十町
近傍宿町松山町へ二里五町。字三反田を元標(げんぴょう)*3とす
*1:里数。道のり。
*2:南西。
*3:里程元標。里程をはかるもととなる所に立てる標識、起点。
地勢
四囲山林運輸不便薪炭贏餘(えいよ)*
*1:余贏。あまり。使い残り。
地味(ちみ)*1
色赤黒稲粱(とうりょう)*2に適さず、水旱(すいかん)*3に苦しむ
*1:土地が肥えているか、いないかの状態。地質の良し悪し。
*2:穀物。
*3:洪水と干魃(かんばつ)。
税地
田 八町九反四畝二十七歩
畑 三町五反二畝二歩
宅地 四反一歩
林 十八町四反二十四歩
総計 三十一町二反七畝二十四歩
貢租
地租 米四十三石六斗五升三合
金二十五円一銭六厘
字地(あざち)
三反田(サンタンダ) 村の東北にあり東西十町四十五間南北五町
高台(タカダイ) 三反田の西に連(つらな)る東西四町五十間南北九町三十間
鶴巻(ツルマキ) 高台の南に連る東西四町二十間南北五町五十間
沖の町(オキノマチ)*1 鶴巻の東に連る東西五町三十間南北六町四十五間
*1:仲ノ町のこと。
戸数
本籍 二十戸 平民
社 一戸 村社
寺 一戸 天台宗
総計 二十二戸
人口
男 五十七口
女 六十六口
総計 百二十三口
牛馬
牡(おす)馬 十一頭
山川
恵智川*1 深三尺巾一間、源(みなもと)を村の西南所々より発し合して一となり東方根岸村に入る、其間二十九町四十間
*1:前川(まえかわ)のことか。
道路
八王子道 村の北方大蔵村より南方須江村界に至る、長二十五町巾二間
掲示場 村の東口より五町三間にあり
神社
日吉社(ひよししゃ) 村社。社地東西十五間、南北二十五間。面積二百三十坪。村の北方にあり大山祗命(おおやまづみのみこと)*1を祭る。祭日九月十九日
*1:山の神。
仏寺
明光寺(みょうこうじ) 東西二十間、南北二十三間。面積四百七十坪。村の南方にあり天台宗下青鳥村(しもおおどりむら)淨光寺の末派(まっぱ)*1なり
*1:末寺。
役場
事務所 村の中央戸長宅舎を使用す
物産
繭 四石
米 六十五石二斗
大麦 二十石
小麦 二十二石
大豆 二石八斗
桑 六十駄
薪(まき) 四百駄
炭 八百俵
木綿縞(もめんじま)*1 四十反
*1:縞模様を織り出した綿布。
民業
男女農桑採薪を専とす
武蔵国比企郡将軍沢村
沿革
1.名稱 本村ハ利仁将軍ノ霊ヲ祭リシ大宮権現ノ社アルヲ以テ将軍澤ノ名アリ。
1.所属 本村ハ玉川領ニシテ大蔵郷ニ属ス。明治五年(1872)二月大小区名ヲ置キ六大區四小区ト唱フ。同十二年(1879)四月比企横見郡役所ヲ置キ、同十七年(1884)七月本村外八ヶ村ヲ以テ菅谷村聯合戸長役場ヲ置ク。
1.分合 ナシ
1.管轄 昔時上野国世良田長樂寺ノ蔵セル文書ニ
武蔵国比企郡南方将軍沢郷内、爲燈明用途田三段、任家時(いえとき)申置之旨、所奉寄進世良田御寺也、若於致違乱之輩者、永可為不孝之仁、仍寄進之状如件。正安元年(1299)八月十一日沙弥静真
世良田長楽寺為修理用途、奉永代寄進武蔵国比企郡南方将軍澤郷内二子塚入道踪在家壹宇並田三段、毎年所当八貫文事。右、依為代寺、為末代修理、永代奉寄進者也、然者雖及子孫不可致違乱、背此之旨輩者、永可為不孝仁、仍自筆之状如件。元徳二年(1330)八月二日、源満
義静真ハ世良田三河前司ノ子次郎教氏ノ法名ナリ。満義ハ教氏ノ孫弥次郎満義ナリ。之レニハ古ヘ世良田氏ノ領知ナルコト知ラル。南方将軍沢村ト記セシハ往古郡中ノ南北二ツニ分レシ故ノコトナリト。元禄十一年(1698)村内ヲ割テ大島長門守知行タリ。残地ハ御料所トナリ、宝暦年中(1751〜1764)清水殿御領知トナル後再ヒ御料所トナル。降ッテ天保十四年(1843)癸卯年八月御代官関保右衛門支配セリ。同年(1843)九月廿日武州川越領主松平大和守采地トナル。明治四(1871)辛未年十一月入間縣ニ轉シ、同六酉年(1873)熊谷縣ノ所管ニ代リ、同九年(1876)九月埼玉縣ニ転シ、同十二年 (1879)四月比企横見郡役所ノ管理ニ属シ、同十七年(1884)七月菅谷村聯合戸長役場ノ支轄ニ属ス。
位置彊域
1.位置 比企郡西ノ方
1.東 比企神戸村山嶺及根岸村耕地
1.西 鎌形村山林
1.南 同郡須江村、奥田村山嶺
1.北 大蔵村平林
幅員
1.東西 九町十三間
1.南北 十五町四十一間
1.周回 壹里廿七丁廿九間三尺
1.面積 五十三万七千四百四十四坪
地味
1.色 黒 赤混シ
1.質 壚土(くろつち)
1.適種 早稲小麦ニ宜シ、茶ニ適ス
地勢
1.山脈 東方神戸村鞍掛山仕止山ヨリ起リ草山起伏シテ本村ノ南部ニ来リ。笛吹峠ノ山嶺高ク小シク西部ニ延キテ柴草鬱生。西ヨリ北部ハ一般ニ平坦(へいたん)ノ林地ニシテ樹木雑生ス。
1.水脈 南方鎌形村境ヒ笛吹峠北部梺(ふもと)ヨリ発水シテ、本村字高城ヲ経テ村ノ中央ヲ北ニ向イ、田地ノ間ヲ曲流シテ東方根岸村地内前堀ヲ會シテ都幾川ニ入リ、運輸ノ便ナシ。
1.東部 耕地及山林
1.西部 平林
1.南部 山嶺
1.北部 耕地及住家
1.全地形勢 東方ヨリ南ニ延キ山嶺起シ、南方正面笛吹峠ノ山岳高ク渾(すべ)テ北方傾斜。西部ハ一般平林及村民住ス其間畑地アリテ平坦(へいたん)ノ黒壚(くろつち)ニシテ至ッテ粗地ナリ。北方大蔵村界ヨリ南方須江村界ニ及同郡今宿村ヲ経テ八王子往還ノ里道アリ。平年水旱損ノ悪害夛シ。
地種
1.官有地 第一段別 壱反貳畝拾九歩 筆数 一筆
1.官有地 第三段別 五拾六町七反四畝廿六歩 筆数 七拾六筆
1.官有地 第四段別 壱反五畝拾貳歩 筆数 一筆
1.官有地 小計段別 五拾七町貳畝廿七歩 筆数 九十八筆
1.民有地 第一段別 百廿壱町六反七畝十八歩 筆数 八百廿筆
1.民有地 小計段別 百廿貳町壱反壱畝廿七歩 筆数 八百二十九筆
1.總計 段別 百七拾九町壱反四畝廿四歩 筆数 九百二十七筆
里程
1.元標所在 本村中央字西方
1.本縣庁ヘ 十里二十八丁
1.本郡役所ヘ 一里廿九丁
1.近驛
東 松山町ヘ 一里廿九丁三十七間
西 小川村ヘ 二里十二丁
南 越生村ヘ 二里廿七丁
北 熊谷驛ヘ 四里三十二丁
1.著名市邑 東京日本橋ヘ 十六里廿八丁
耕宅地及鹽田
民有地
1.田 段別 拾五町貳反六畝廿五歩
筆数 貳百壹筆
地価 五千八百四拾貳円三拾九銭三厘
1.畑 段別 九町四反九畝廿七歩
筆数 百拾八筆
地価 八百五十壱円九銭七厘
1.宅地 段別 貳町壱畝廿歩
筆数 二十筆
地価 三百八拾九円九拾六銭三厘
1.總計 段別 貳拾六町七反八畝拾貳歩
筆数 三百三十九筆
地価 七千八拾三円四拾五銭三厘
字地
1.中山(なかやま) 旧字 西方、大谷
段別 五町六反九畝十三歩
筆数 三十八筆
1.西方(にしかた) 旧字 芝原、崖崩(がけくずれ)
段別 七町八反五畝十七歩
筆数 五十壱筆
1.上大谷(かみおおがい) 旧字 大谷、西原
段別 九町貳畝廿六歩
筆数 五拾九筆
1.下大谷(しもおおがい) 旧字 清水、沼向、高城(たかしろ)
段別 五町九畝拾歩
筆数 三十六筆
1.八反田(はったんだ) 旧字 大宮裏、反間、前田、落合、熊市、別当
段別 拾三町六段七畝三歩
筆数 百三十九筆
1.東方(ひがしかた) 旧字 百八将軍前、山王下
段別 拾貳町壱反四畝七歩
筆数 百廿九筆
1.一町田(いっちょうだ) 旧字 焼面(やけっつら)、根岸前、栗狹(くりばさみ)
段別 九町貳反壱畝九歩
筆数 九十九筆
1.丸山(まるやま) 旧字 丸山、糟谷
段別 拾三町七反七畝十九歩
筆数 五十一筆
1.三反田(さんたんだ) 旧字 坂上
段別 七町七反五畝十九歩
筆数 七十一筆
1.田向(たむかい) 旧字 吉田、金糞谷
段別 四町六段七畝壱歩
筆数 三十四筆
1.稲荷林(いなりばやし) 旧字 稲荷林
段別 貳町貳反三畝貳歩
筆数 廿壱筆
1.仲ノ町(なかのまち) 旧字 段別 仲ノ町
段別 壱町三段七畝拾歩
筆数 廿三筆
1.大平(おおびら) 旧字 沼ノ西、巡禮街道
段別 六町四段九畝廿五歩
筆数 十七筆
1.坂上(さかうえ) 旧字 観音海道、大沼下
段別 四町貳反五畝壱歩
筆数 三十一筆
1.南鶴(なんづる) 旧字 鶴巻、西谷
段別 壱町壱反八畝八歩
筆数 十一筆
1.鶴巻(つるまき) 旧字 新林(しんばやし)、観音上
段別 七町四反九歩
筆数 六十八筆
1.高城(たかしろ) 旧字 笛吹峠
段別 九町八反壱畝廿歩
筆数 三十筆
戸籍
1.平民 本籍 廿戸
内現住 廿戸
出寄留 入寄留 ナシ
小計 廿戸
1.合計 本籍 廿戸
内現住 廿戸
出寄留 入寄留 ナシ
總計 貳拾戸
人口
平民
1.本籍 戸主 男廿人 女〇人 計廿人
家族 男五十二人 女八十二人 計百三十四人
合百五十四人
内現住 百五十四人 出寄留 入寄留 ナシ 以上差引
1.總計 百五十四人
1.本籍 戸主 男廿人 女〇人 計廿人
家族 男五十二人 女八十二人 計百三十四人
合百五十四人
内現住 百五十四人 出寄留〇 入寄留〇
1.合計 男七十二人 女八十二人 計百五十四人 以上差引
本籍年齢
1.五年未満 男十一人 女十五人 合廿六人
1.五年以上 男十一人 女十人 合廿一人
1.十年以上 男八人 女五人 合十三人
1.十五年以上 男六人 女七人 合十三人
1.二十年以上 男四人 女七人 合十一人
1.二十五年以上 男六人 女五人 合十一人
1.三十年以上 男六人 女七人 合十三人
1.三十五年以上 男四人 女三人 合七人
1.四十年以上 男三人 女五人 合八人
1.四十五年以上 男二人 女四人 合六人
1.五十年以上 男三人 女四人 合七人
1.五十五年以上 男四人 女五人 合九人
1.六十年以上 男三人 女三人 合六人
1.六十五年以上 男〇人 女〇人 合〇人
1.七十年以上 男一人 女〇人 合壱人
1.七十五年以上 男〇人 女一人 合壹人
1.八十年以上 男〇人 女一人 合壹人
1.總計 男七十二人 女八十二人 計百五十四人
生死及就籍除籍
1.出生 男三人 女一人 合四人
1.就籍 男〇人 女一人 合一人
1.計 男三人 女二人 合五人
1.死亡 男一人 女〇人 合一人
1.除籍 男〇人 女一人 合一人
1.計 男一人 女一人 合貳人
牛馬
1.馬 内種 牡十三頭 牝一頭 小計十四頭
外種 ナシ 小計〇
1.總計 拾四頭
車
ナシ
舟
ナシ
神社
日吉神社(ひよしじんじゃ)
1.所在 村ノ北ノ隅ニアリ 坪数貳百三十坪
1.祭神 大山咋命(おおやまぐいのみこと)
1.社格 村社
1.創建年月 未詳
1.祭日 九月十九日
1.氏子 貳拾戸
1.末社 五社 坂上利仁将軍社 神明社 山神社 稲荷社 愛宕社
1.現任宮司若クハ祠官ノ名 渡辺好雄
1.雑項 社中松ノ大樹鬱葱セリ。伝ヘ聞ク不添ヵ森(そわずがもり)ト云フハ爰ノコトナルベシ。
寺院
堅横山明光寺(けんおうざんみょうこうじ)
1.所在 村ノ中央字八反田
1.坪数 四百七拾坪
1.宗派 天台宗
1.寺格 比企郡下青鳥村浄光寺末派
1.開基人名 明海
1.開基年月 未詳
1.現住ノ姓名 須田明観
1.雑 医庵院(いあんいん)ト号シ本尊薬師ヲ安置ス
道路
八王子道
1.等級 里道
1.長 北ノ方大蔵村界ヨリ南方須江村界ニ至ル。十六町壱間三尺。
1.幅 貳間
1.形状 北方大蔵村界ヨリ南ニ向イ、五丁廿五間ハ平坦ニシテ、左ニ折レ五十五間ニ高城橋アリ。夫ヨリ平地一丁来ッテ笛吹峠ノ坂路ニ至ル。八丁五十五間ニシテ南方須江村界ニ至ル。
地所
明治九年(1876)十二月二十四日調査ノ分
官有地
1.村社 段別 壱反貳畝拾九歩
1.用材林 段別 壱町貳反六畝拾八歩
1.芝地 段別 拾四町八反四畝拾五歩
1.秣場 段別 三拾貳町貳反五畝拾七歩
1.恵知河【前川のことか?】 段別 八反九畝壱歩
1.池 段別 貳拾歩
1.溜池 段別 九反壱畝拾四歩
1.用悪水路 段別 六反六畝三歩
1.道路 段別 五町九反廿八歩
1.寺院境内 段別 壱反五畝拾貳歩
民有地
1.田 段別 拾五町貳反六畝廿五歩
1.畑 段別 九町四反九畝廿七歩
1.郡村宅地 段別 貳町壱畝五歩
1.林 段別 九十三町貳反五歩
1.萓生地 段別 九反貳畝拾歩
1.芝地 段別 壱反廿歩
1.墓地 段別 三反貳畝拾八歩
1.斃馬捨場 段別 壱反壱畝廿壱歩
1.合計
1.總計
外調査末済ニシテ段別詳ナラズ
山嶽
高城山
1.所在 村ノ南隅(なんぐう。南のすみ)
1.形状 嶺上ヨリ三分シ、南ハ須江村山林ニ属シ、西ハ鎌形村大ヶ谷原ニ連ル。東ハ本村ノ原野及奥田村ノ山林ニ接シ、北ハ本村字高城ヨリ発ス恵知川ヲ帯タリ。
1.高 四十余丈
1.周回 本村限リ廿丁五十間
1.登路 一条ニシテ北方字大ヶ谷ヨリ上ル。六丁二十間ニシテ易。
1.樹木 松、雑木繁生ス。
1.景致 中腹以上岩石多ク柴草ノミ生シ樹木生セス。中腹以下樹木生。東ハ仕止山鞍掛山連リ、其下都幾川ノ流ヲ近望シ、西ノ方上大ヶ谷ヨリ発ス恵智川ヲ帯ヒ、北ノ方不添ヵ森ノ松林ヲ近眺セシム。
1.雑項 伝ニ曰ク。板東十番比企郡巌殿山ニ毒蛇ノ住ナシ近郷ノ民ニ害ヲ偽スコト一方ナラズ。坂上利仁将軍勅命ヲ奉ケ此ノ地ニ発向セシ。此山ニ陣営ヲ布(し)キタルトキ合図ノ笛ヲ吹キシ由、依テ山部中ノ笛吹峠ノ名アリ。
林籔
1.民有地 字中山 段別 五町三段三畝十貳歩 主用 薪炭材
1.民有地 字西方 段別 九段六畝十貳歩 主用 用材
1.民有地 字西方 段別 三町八段六畝十一歩 主用 薪炭材
1.民有地 字上大谷 段別 壹町五畝廿八歩 主用 用材
1.民有地 字上大谷 段別 七町壱反四畝 主用 薪炭材
1.民有地 字下大谷 段別 七反壱畝廿四歩 主用 用材
1.民有地 字下大谷 段別 三町五反九畝廿七歩 主用 薪炭材
1.民有地 字八反田 段別 九反四畝貳歩 主用 用材
1.民有地 字八反田 段別 五町三反七畝歩 主用 薪炭材
1.民有地 字東方 段別 七町七反四畝廿貳歩 主用 薪炭材
1.民有地 字一町田 段別 三町三反壱歩 主用 用材
1.民有地 字一町田 段別 貳町貳反廿六歩 主用 薪炭材
1.民有地 字丸山 段別 拾三町六反壱畝十三歩 主用 薪炭材
1.民有地 字三反田 段別 五反壱畝十一歩 主用 用材
1.民有地 字三反田 段別 二反六畝十六歩 主用 薪炭材
1.民有地 字田向 段別 一町二反貳畝廿二歩 主用 用材
1.民有地 字田向 段別 二町八反三畝拾二歩 主用 薪炭材
1.民有地 字稲荷林 段別 壱町三反四畝十六歩 主用 薪炭材
1.民有地 字仲町 段別 八反三畝十九歩 主用 薪炭材
1.民有地 字大平 段別 三町六反拾六歩 主用 薪炭材
1.民有地 字南鶴 段別 六反貳畝廿歩 主用 薪炭材
1.民有地 字鶴巻 段別 壱町三反七畝十五歩 主用 用材
1.民有地 字鶴巻 段別 四町七反五畝十八歩 主用 薪炭材
1.民有地 字高城 段別 三町二反四畝廿七歩 主用 用材
1.民有地 字高城 段別 六町四反五畝二歩 主用 薪炭材
1.合計 九拾三町貳反五畝五歩
原野
仕止ヵ原(しとめがはら)
1.所在 村ノ東ノ方ニアリ。
1.所属 東ハ鞍掛山、吾妻山ニ接シ、南ハ高城山、笛吹峠ニ連ル。西北ハ本村耕地ヲ帯ヒ。民有ニ属シ、平素村民秣場ナリ。
1.段別 三拾貳町貳反五畝十七歩
1.形状 全原平坦ナシモ小シク北面ニ傾斜ス。中央ニ一条渓間ニ小田數夛アリ。
1.生産 芝草鬱生ス。
河渠
恵智川
1.発源 同郡鎌形村大ヶ谷原ノ北端ヨリ発ス。
1.流状 東北ヘ曲流シテ水勢緩慢。
1.所属ノ長 廿九丁四十間。
1.廣 最廣十余間 最狭三間
1.深 最深四尺 最浅壱尺
1.水質 薄澄
1.潅漑 養水ニ少シク便ス。
橋梁
高城橋
1.所在 村ノ南方
1.長 四間
1.幅 壱間
1.構造 土製
1.架設年月 明治十二年(1879)八月
湖沼
仲町池【大沼】
1.所在 村ノ東ノ方ニアリ。
1.経 縦 南北四十七間 横 東西廿七間
1.面積 九百廿九坪
1.水利 凡田三町七反三畝歩ノ用水ニ供ス。
1.雑項 ナシ
古墳
坂上田村麿墳
1.所在 村ノ中央字八反田ノ山林ニアリ。
1.坪数 八坪
1.形状 三尺許ノ墳ノ上ニ木製ニシテ三尺四方ノ小宮アリ。
1.雑項 昔利仁将軍此地ヲ経歴シタルトキ、此墳ニ息ヘシト。想フニ延暦中巌殿山毒蛇退治ノトキニモアラシカ。将軍ノ美ヲ祭リテ大宮権現ト称ス。明治十年(1877)九月村社ノ地中ニ移ス。
租税
1.地税金 貳百拾円三拾七銭壱厘
1.合計金 貳百拾円三拾七銭壱厘
地方税
1.地租割金 三拾七円四拾九銭四厘
1.戸数割金 拾三円貳拾五銭貳厘
1.営業税金 四円貳拾銭
1.合計金 五拾四円九拾八銭六厘
旧租
1.田高 米三拾七石九升三合 石盛十二、十、八、六 免
1.畑高 永十一貫四百九文七分九厘六毛 石盛 八、六、四、二 免
1.屋敷高 永六百六拾八文二分四毛 石盛 十 免
1.合計地租 米三拾七石九升三合 永拾貳貫七拾八文
旧雑税
1.綿売出 永百三文八分
1.爪木代【つまき。薪にするための小枝。たきぎ】 永百三拾五文
1.合計 永貳百三拾八文八歩
旧検地帳表書合計
1.表書 寛文八年(1668) 案内 源左衛門 彦右衛門 吉兵衛
武州比企郡玉川領将軍沢村申御縄打水帳
戊申七月晦日四冊ノ内 深谷喜右衛門
1.合計 上田 壱町五反三畝七歩
中田 壹町七反八畝廿八歩
下田 三町壱反四畝廿七歩
下々田 貳町五反六畝廿五歩
上畑 貳町四反三畝廿七歩
中畑 貳町二反一畝七歩
下畑 六町五反八畝三歩
下々畑 九町六反二畝廿三歩
屋敷 五反七畝八歩
旧検地帳所載ノ字
寛文八年(1688)戊申年七月晦日四冊ノ内 検地役人 深谷喜右衛門
矢ノ袋 壹丁田 八反田 前田 百八田 落合 薬師堂前 高城 焼面 栗狭 反田 丸山 境 鳴池 中ノ町 孫三谷 鶴巻 薬師堂原 三反田 田向 大平 順礼街道 蟻久保 西ノ原 越生街道 仕止山 入加 山王下 久保 稲示場 トウカ田 山尻 田端 堀間 池尻 屋敷尻 新田ノ下 東裏 浦地 沼端 カゲ下 粟久保 以上四十二字
物産
1.米 生産高 三十五石三斗 輸出地方 比企郡小川村
1.糯米 生産高 廿二石五斗九升
1.大麦 生産高 廿六石九斗八升
1.小麦 生産高 廿一石四斗
1.粟 生産高 九石
1.大豆 生産高 十四石五斗
1.蕎麦 生産高 八石
1.甘薯 生産高 五百貫メ
1.實綿 生産高 廿四メ目
1.まゆ 生産高
1.製茶 生産高 三貫五百メ
1.楮皮 生産高 三十五貫メ
民業
1.農業 二十戸
1.農商兼業 二戸
1.工業 専業者ナシ
1.農工兼業 四戸
1.雑項 農事ヲ主トスルモノ十中ノ八九。男子ハ農間山稼ヲナス。婦女子ハ紡織ヲ業トス。
埼玉縣管下武蔵国比企郡将軍澤村字八反田
同縣同国同郡下青鳥村(しもおおどりむら)浄光寺(じょうこうじ)末
天台宗寺門派(じもんは)*1
明光寺(みょうこうじ)
*1:天台宗の一派で、大津市の園城寺(おんじょうじ)を総本山としている。
一 本尊 薬師如来(やくしにょらい)
一 由緒(ゆいしょ) 不詳
一 本堂 間口六間
奥行五間
一 庫裡(くり) 間口五間三尺
奥行弐間三尺
一 門 間口一間半
奥行一間
一 境内 四百六拾貮坪 官有地第四種
昭和廿三年(1948)四月三十日四九四坪四七五
一 境外所有地
田反別(たんべつ) 貮畝(にせ)廿三歩(ぶ) 同村字五反田
地價(ちか) 金九円五拾四銭七厘(りん)
田反別 貮反貮畝拾貮歩 同村字同所
地價 金八拾四円八拾二銭三厘
田反別 壱反四畝四歩 同村字稲荷林
地價 金三拾八円九拾貮銭三厘
田反別 壱反廿七歩 同村字坂上
地價 金三拾七円五拾四銭六厘
畑反別 壱反貮畝拾五歩 同村字八反田
地價 金六円五拾九銭四厘
畑反別 貮反壱畝五歩 同村字同所
地價 金拾壱円拾六銭九厘
畑反別 三畝廿八歩 同村字東方
地價 金貮円五拾五銭五厘
畑反別 六畝拾七歩 同村字同所
地價 金五円七拾八銭三厘
林反別 五畝廿四歩 同村字中山
地價 金壱円拾六銭
林反別 三反八畝四歩 同村字上大谷
地價 金七円六拾貮銭七厘
林反別 二畝二十六歩 同村字同所一三八ノ一
地價 金八拾貮銭
林反別 六畝拾五歩 同村字同所
地價 金壱円三拾銭
林反別 三反四畝歩 同村字同所
地價 金六円八拾銭
林反別 壱反壱畝廿六歩 同村字同所
地價 金貮円三拾七銭三厘
林反別 四反八畝拾貮歩 同村字同所
地價 金九円六拾八銭
林反別 壱反六畝拾壱歩 同村字同所
地價 金三円廿七銭三厘
林反別 七畝拾七歩 同村字同所
地價 金壱円五拾壱銭三厘
林反別 六畝廿九歩 同村字同所
地價 金壱円三拾九銭三厘
林反別 五畝廿八歩 同村字東方
地價 金壱円拾八銭七厘
林反別 壱反七畝拾七歩 同村字同所
地價 金三円五拾壱銭三厘
林反別 貮反三畝廿七歩 同村字仲町
地價 金壱円拾九銭五厘
林反別 壱反八畝四歩 同村字坂上
地價 金貮円七拾貮銭
林反別 三反四畝廿九歩 同村字鶴巻
地價 金五円廿四銭五厘
林反別 三反八畝廿六歩 同村字高城
地價 金壱円九拾四銭三厘
林反別 壱反五畝三歩 同村字同所
地價 金壱円廿六銭五厘
林反別 貮畝壱歩 同村字下大谷
地價 金四拾銭七厘
林反別 四反五歩 同村字八反田
地價 金八円三銭貮厘
一 檀徒(だんと) 廿人
一 管轄廰迄(かんかつちょうまで) 拾壱里
以上
山林 四反五歩 地價金八円三銭 大字将軍沢字八反田
一八五番
山林 壱反六畝拾壱歩 〃 参円貮拾七銭 〃 二八二番
畑 四反拾八歩 〃 拾七円拾四銭 〃 一八五番
畑 四反八畝拾弐歩 〃 弐拾壱円拾五銭 〃 二二〇番
畑 壱反七拾歩 〃 九円拾六銭 〃 二八二番
埼玉縣武蔵國比企郡菅谷村大字将軍澤(しょうぐんざわ)字東方
村社 日吉神社(ひよしじんじゃ)
昭和二一、一〇、一五 法人登記済
一 祭神(さいじん)
大山咋命(おおやまくいのみこと)*1
天照大御神(あまてらすおおみかみ)*2
軻遇突智命(かぐつちのみこと)*3
*1:家内安全や農業などの産業振興のご利益をもつ。
*2:国土平安、家内安全、商売繁盛、武運長久、学業成就などのご利益。
*3:火の神・防火の神。
一 由緒(ゆいしょ)
不詳(ふしょう)
明治四十一年(1908)三月三日上地林(じょうちりん)五畝三歩境内編入許可
明治四十二年十月二十五日境内神社神明社(しんめいしゃ)愛宕社(あたごしゃ)ノ二社ヲ本殿ニ合祀ス
一 社殿
本殿 外宇(がいう)*1 拝殿
*1:外の建物。
一 境内
五百三十二坪 昭和廿三年(1948)四月廿七日 五二九坪
決 昭和二十五年(1950)三月二十八日 五三三坪五合
一 氏子 貮拾戸
一 境内神社
将軍社 祭神 坂上田村麿(さかのうえたむらまろ)
由緒 當社古記録等傳フル無ク創立年紀詳(つまびらか)カナラス。唯古老ノ口碑ニ傳フルハ往古(おうこ)坂上田村麿将軍東夷*1征伐ノ際近傍岩殿山に毒龍アリテ害ヲ地方ニ加フ。将軍之ヲ退治シテ土人*2ヲ安カラシム。其時夏六月一日ナリシモ不時降雪寒気強カリシヨリ土人麦藁(むぎわら)ヲ将軍ニ焚(た)キテ暖(だん)ヲ與ヘリ。其后(そのご)土人将軍ノ功徳(くどく)ヲ賞シ之ヲ祭祀崇敬セリト云フ。現今年々六月一日土人麦藁ヲ焚キテ祭事ヲナスハ古ヨリ例ナリ。当社古来本村旧字大宮ト唱フル地ニ鎮座アリテ坂上田村麿将軍大宮権現ト稱セリ(本村々名及旧字大宮ノ地名蓋(おもうに)当社ニ因(よって)テ起リシナラン)御一新(ごいっしん)*3ニ至リ明治七年(1874)三月當所ニ奉遷(ほうせん)シ将軍社ト改称セリ*4
*1:東の蝦夷(えぞ)。
*2:土地の人。
*3:明治維新。
*4:「新編武蔵風土記稿」によれば、大宮権現社には藤原利仁(ふじわらとしひと)将軍が祀られている。伝えではその権現社は藤原利仁がこの地を通ったとき休んだ塚の上にあった。将軍沢の名はこれに由来すると記されている。藤原利仁は平安時代中期の武人で、鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)である。
社殿 本殿
稲荷社 祭神 倉稲魂命(うがのみためのみこと)*1
由緒 不詳
社殿 本殿
*1:穀物・農業の神。
神明社 祭神 大山祇命(おおやまつみのみこと)*1
由緒 不詳
社殿 本殿
*1:山の神。
将軍沢村(比企郡菅谷村大字将軍沢)
将軍沢村(しょうぐんざわむら)ハ江戸ヨリ十六里、玉川郷ニテ領名ハ前村*1ニ同ジ。村内ニ利仁将軍(としひとしょうぐん)*2ノ霊(れい)ヲ祭リシ大宮権現(おおみやごんげん)ノ社(やしろ)*3アルヲモテ将軍沢ノ名アリト云フ。上野国(こうずけのくに)世良田長楽寺(ちょうらくじ)ニ蔵(ぞう)セル文書ニ、
武蔵国比企郡南方将軍沢郷内為燈明途田三段任家時*4申置之者所奉寄進世良田御寺也若於違乱之輩者永可為不孝之仁仍寄進之状如件
正安(しょうあん)元年(1299)八月二日 沙弥静真*5
世良田長楽寺為修理用途奉永代寄進武蔵国比企郡南方将軍沢内二子塚入道跡在家壱宇併田三段毎年所当八貫文事
右依為氏寺為末代修理永代奉寄進者也然者及子孫不可被違乱背此之旨輩者永可為不孝仁乃自筆之状如件
元徳二年(げんとく)(1330)八月二日 源満義(みなもとみつよし)*6
静真ハ世良田三河前司(みかわぜんし)*7ノ子次郎教氏*8ノ法名ナリ、満義ハ教氏ノ孫弥次郎満義ナリ、コレニ拠(よ)レバ古へ世良田氏ノ所領ニシテ長楽寺*9ニ寄附セシコト知ルベシ。文中南方将軍沢ト記セシハ、往古(おうこ)郡中ヲ南北二ツニ分チシ故ノコトニテ已ニ総説ノ条ニ弁ゼリ。民戸九十、東ハ神戸村(ごうどむら)、南ハ須江(すえ)・奥田(おくだ)ノ二村ニ隣リ、西ハ鎌形(かまかた)村ニテ、北ハ大蔵(おおくら)・根岸(ねぎし)ノ二村ナリ。東西五町余南北十町余、天水ノ地ニシテ旱損(かんそん)*10アリ。御入国*11ノ後ハ御料所*12ナリシニ元祿十一年(1698)(げんろく)村内ヲ割テ大島氏ニ賜リ、今モ子孫大和守(やまとかみ)知ル所ナリ。残レル御料ノ地ハ宝暦年(1751—1764)(ほうれき)中清水殿領知トナリ、後再ビ御料トナリ今御代官支配セリ。
*1:大蔵村(おおくらむら)。
*2:平安時代の武人藤原利仁のこと。上野介(こうずけのすけ)、上総介(かずさのすけ)、武蔵守(むさしかみ)などの東国の国司(こくし)を歴任し平安時代中期の延喜15年(えんぎ)(915)に鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)になり、蝦夷(えぞ)討伐にむかった。東松山市下野本に鎮守府将軍藤原利仁を祀る利仁神社がある。この神社が古墳の上にあるのでその古墳を将軍塚古墳と呼ぶようになったという。
*3:将軍沢村の村社日吉神社の境内神社である将軍社の由緒には、坂上田村麻呂将軍を祀り大宮権現と称すると記されている。坂上田村麻呂は平安時代初期の武将で征夷大将軍であった。将軍沢の村名由来もこれによるであろうと記されている。
*4:世良田家時。
*5:世良田家時の父。
*6:世良田家時の子。
*7:新田義重(よししげ)の子で世良田を支配した世良田義季(よしすえ)の子世良田頼氏(よりうじ)のこと。
*8:世良田教氏。
*9:開基は世良田義季。
*10:ひでりによる損害。
*11:徳川家康が1590年(天正18)に江戸城に入ったことをさす。
*12:幕府の直轄領。天領。
高札場 村ノ中程ニアリ。
小名 高代 鶴巻 三段田 ラウス塚 茶臼塚トモイヘリ。
山王社(さんのうしゃ) 村ノ鎮守ナリ。明光寺持。此辺二町許リノ松林アリ不添ノ森(そわずのもり)ト云フ。
大宮権現社 高サ三尺許リノ塚上ニアリ、利仁将軍ノ霊ヲ祭レリ。相伝フ昔藤原利仁此地ヲ経歴シテ此塚ニ腰掛テ息(いこ)ヒシコトアリシ故カク号スト云フ。明光寺ノ持。
神明社(しんめいしゃ)*1
*1:天照大神を祀る。
愛宕社(あたごしゃ)*1
*1:防火の神を祀る。
稲荷社(いなりしゃ)*1 何レモ明光寺持。
*1:五穀豊穣の神。
明光寺 天台宗*1、下青鳥村(しもおおどりむら)浄光寺末、堅横山医庵院ト号ス。本尊薬師ヲ安ス。開山明海寂年(じゃくねん)*2ヲ伝ヘズ。 ○愛宕社
*1:平安時代に唐の天台山で天台宗を学んだ最澄が帰国して比叡山に延暦寺をつくり、新しく開いた仏教の宗派。空海の開いた真言宗とともに平安仏教の中心になった。
*2:死亡の年。
戊辰戦争(ぼしんせんそう)
慶応3年(1867)12月9日の王政復古の大号令によって新政府が成立したが、幕府側と政治体制をめぐって対立が続いていた。翌年1月3日、ついに薩摩と長州の討幕派が鳥羽・伏見で幕府軍と衝突した。戊辰戦争の始まりである。幕府軍が敗れ、将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は江戸にもどった。戦いは5月の上野での彰義隊との戦い、8月の会津戦争、明治2年5月の函館五稜郭の戦いまで続いた。
新政府の東征軍が忍城に
鳥羽・伏見の戦いに勝った新政府軍は、江戸をめざして有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)を大総督にした東征軍を編成した。東海・東山・北陸の三道に鎮撫総督(ちんぶそうとく)【戊辰戦争時の地方平定の長官】を任命して江戸をめざした。中山道を進んだのは東山道鎮撫総督軍で、慶応4年3月6日には神流川を渡って本庄宿に入り、9日には熊谷宿に到着した。東征軍は江戸城攻略をめざしていたが、その時点で忍藩は新政府側か幕府側か藩論を決めかねていた。東征軍が翌10日を期して忍城(おしじょう)攻撃を計画したため、忍藩は勤王に転じ、東征軍の支配下に入った。
東征軍が村々に石高提出を要請
忍城を支配した東征軍は軍の維持のために県北の村々に人馬の提供を要請してきた。当時の吉田村名主藤野彦右衛門の慶応4年(1868)5月の控文書「御総督様通行ニ付忍行田町エ御伝馬勤村々 新助郷村々総代面附帳写」(藤野治彦家文書)には、助郷【宿駅常備の人馬では不足する場合に応援の人馬を提供する郷村】を要請された村々とその石高が記されている。その村々の範囲は、幡羅郡の17か村、埼玉郡の32か村、大里郡の28か村、比企郡の25か村、男衾郡の8か村に及んでいる。東征軍は、長い間幕府の支配下にいた村々に対して官軍という錦の旗の下に協力を命じ、助郷役を課すための基礎として各村々の石高を出させたのである。
嵐山町域では、その「面附帳写」に吉田村690石、勝田村193石6斗、古里村159石5斗、越畑村468石3斗、平沢村220石、平沢村220石と6つの村の石高が記されている。
越畑村の歎願書
このとき越畑村の名主伊右衛門と組頭半左衛門連名の、「乍恐以書付ヲ御歎願奉申上候」(新井悟家文書)という歎願書の下書きのような文書が残っている。あて先は番所の役人になっている。何回か書き直したらしく同じような文書が三通残っている。次のような趣旨のことが記されている。
今般、御総督様のために忍城へ御伝馬役を勤めるようにとの通達を拝見し、今日は人足を連れて罷り出るべきですが、村では小前人【貧しい百姓】の者が困窮してごたごたが起り、人足が参ることが出来ません。幾重にもご勘弁くださるようお願い申し上げます。なお私の村は難渋至極の状態で、隣村と合わせて高五百石余ですが、御伝馬役は休役になっています。私の村の御伝馬人足は半高勤めになるよう、格別のご慈悲を持ってお聞き入れ下さるよう願い上げます。
文書の日付は、「慶応四辰年閏四月日」となっている。これは先の『面附帳写』の伝馬役要請にかかわる文書である。
当時、東征軍が編成されて江戸をめざして進軍してくると、関東各地の代官が任地を捨てて立ち去るという権力の空白の時期に、各地で小作農や貧農が中心になって一揆を起したりして、世直し状況が起こっていた。この歎願書は、越畑村でも困窮した農民を抱えて伝馬役に応じられず、半高勤めを願っていたことを示している。なお、この歎願書のなかの越畑村の「隣村」というのは伊勢根村(石高74石6斗 現小川町)と思われる。
総督軍の先鋒隊赤報隊のこと
当時、農民の苦境に応えようとする動きが東征軍側にも起っていた。東山道鎮撫総督府は、成立後間もなく東山道先鋒総督府と名称が変わるが、その総督府の先鋒隊となっていた赤報隊(せきほうたい)は、総督軍の先を進んで各地の状況探索と勤王への参加を広める任務を持っていた。赤報隊は3隊で編成された。第1隊を率いたのは相楽総三(さがらそうぞう)で、彼は西郷隆盛の指令を受けて赤報隊の結成に参加していた。彼は関東攻略の策として旧幕府領の年貢半減を建白し、年貢半減令を隊の旗印としていた。赤報隊は慶応4年の1月に先鋒隊として出発したが、1月末には京都の新政府から帰還命令が出され第2、第3の赤報隊は引き返したが、相楽の率いる第1赤報隊だけは命令を拒んで東山道を進軍し、長野県の下諏訪まで進んで先鋒隊としての活動を始めると、地域によっては年貢半減、さらには世直しを求める動きも広がった。東山道総督府は、年貢半減を嫌い、赤報隊が世直し状況と結びつくのを恐れて、この赤報隊を官軍の統制を乱す「偽官軍」として、相楽総三らを捕らえ3月3日に処刑した。越畑村の名主伊右衛門と組頭半左衛門が、総督軍要請の伝馬役に対して半高願いを出したのは、その翌月4月のことであった。当時慶応4年の1月から4月にかけて県北の村々では、一揆や打ちこわしなどが続発して不穏な状況になっていた。
東海道先鋒総督府からの兵糧米金提出の要請
他方「慶応四年四月 東海道先鋒総督府会計方より兵糧米金申渡書」(『小川町の歴史 資料編6』)によると、比企地区31か村は、東海道先鋒総督府会計方から、村高100石につき白米3俵と金3両を品川官軍賄所に持参するように命じられている。その兵糧米金算出の基礎になる村高調査の記録「東海道先鋒総督府会計方へ組合村概要書上」(同上書)が残されている。その中に、嵐山町域では菅谷村、勝田村、広野村、太郎丸村、古里村、杉山村、吉田村、越畑村の村高と村方三役の名前が記されている。こうしてみると東山道進軍の総督府からは伝馬役を東海道進軍の総督府からは兵糧米金が村々に課されてきていたことが分かる。
江戸城の無血開城と新しい体制づくりへ
慶応4年(1868)3月15日に予定されていた官軍の江戸城総攻撃は、西郷隆盛と勝海舟の会談で無血開城が実現した。将軍慶喜は水戸で謹慎することになるが、これを不満とした戦争が各地で続き、明治2年の函館五稜郭の戦いをもって戊辰戦争は終わりを告げた。
戊辰戦争を戦い抜いた官軍は、幕府軍を壊滅させ、困窮して世直し状況を示す農民層の動きを押さえ込み、やがて治安維持を期待する豪農層の支配する村々を新政府の下に協力させていった。嵐山地域の村々も新政府の傘下に入っていった。そして幕藩体制時代に代わる新しい体制づくりが次の課題になっていくのである。同年9月8日、慶応は明治と改元と改元された。
ここは御国(おくに)を何百里 離れて遠き満州の
赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下
『戦友』(真下飛泉作詞・三善和気作曲)という軍歌は、日露戦争のときに作られた。この歌の13・14番はこうである。
13 くまなく晴れた月今宵(こよい) 心しみじみ筆とって
友の最后(さいご)をこまごまと 親御(おやご)へ送る此の手紙
14 筆の運びはつたないが 行燈(あんどん)のかげで親達の
読まるる心おもいやり 思わず落とす一雫(ひとしずく)
日露戦争で戦死した嵐山町域出身兵士は10人で、平均年齢は25歳だった。うち6人は貫通銃創(かんつうじゅうそう)で亡くなっている。日露戦争では、ロシア軍が世界で初めて機関銃を使用し、戦闘による日本軍死者数は日清戦争の40倍にのぼったが、その大半は歩兵だった。
鎌形の小峯嘉喜知さん宅に残されていた文書のなかに、23歳で戦死した小峯七五三(こみねなごぞう)の手紙がある。本人が東京竹橋の兵営から出したものや、戦地からのもの、戦友から親へのものも数通ある。分隊長となった小峯七五三は1904年(明治37)10月、遼陽(りょうよう)での戦いの後、奉天会戦前に清国盛京省沙河(しゃか)の戦闘で戦死した。故近衛歩兵伍長と彫られた墓石の裏に「辞世」(じせい)の言葉が刻まれている。
捨つる身の名は武士(もののふ)と呼ばるとも
おやに先達つ道をしぞ思ふ
徴兵以来故郷を離れ、除隊直後に出征して戦死したこの若者の「辞世」は、残された遺族の心でもあったのだろうか。
戦死者には、明治天皇から金鵄勲章(きんしくんしょう)が授与されたが、遺族年金は階級によって1級〜7級まであり、大将の900円〜2等卒の65円とされていた。小峯七五三の親には70円が支払われた。水車大工の手間賃が1日38銭の時代であった。運搬を担当した輜重輸卒(しちょうゆそつ)【軍の糧食・被服・武器・弾薬などの運搬に従事した兵】は年金の対象にはならなかった。生命の補償にも大きな格差があった。
東京の兵営からの手紙のなかにチョッキと懐中時計を送ってほしいとある。『戦友』の8番に、
空しく冷えて魂は くにへ帰ったポケットに
時計ばかりがコチコチと 動いて居るも情けなや
とある。
解放令の発布
江戸幕府を倒して成立した明治政府は、社会制度の近代化を急がなければならなかった。政府は四民平等の方針を打ち出し、封建的な身分制度を廃止していったが、現実には皇族・華族・士族・卒・祠官【神官】・僧侶・平民という新しい身分をつくり出した。そこでは農・工・商の人たちは平民となったが、江戸時代の被差別身分の人たちはそのままであった。
幕末から明治の初年にかけて、被差別身分の人たちから解放を求める声が高まっていた。東京府や大阪府、あるいは土佐の大江卓(おおえたく)などは意見書を出して身分制度の改革を提起した。明治政府のなかでもこの制度を残しておくことは問題であると議論されるようになった。とくに大蔵省の中では、公家(くげ)・大名・神社仏閣・農商の宅地などにも免税地があるのでこれを廃止して、近代国家として国民全体に課税することが検討され始めた。賤民身分の人たちの宅地が免税地の場合もあった。しかし、それを廃止するためには賤民という身分制度を廃止する必要があった。政府は1871年(明治4)8月28日に太政官布告を発布して賤民制度を廃止した。内容は、「穢多非人などの呼び方を廃止したので、これからは身分職業とも平民と同様にする」というもので、江戸時代から続いた差別的な身分制度を廃止したのである。この布告は賤民廃止令、一般的には解放令といわれている。これは各府県庁を通して県内の宿場や村々に伝えられた。
嵐山地域での解放令伝達
嵐山地域には韮山県庁(にらやまけんちょう)から解放令が伝達された。当時はまだ現在の形の埼玉県は成立していない。埼玉の地域はいくつもの県にわかれていた。嵐山地域は韮山県【江戸時代の韮山代官所の支配地域を引き継いで成立し、武蔵・相模(さがみ)・伊豆にまたがっていた。県庁所在地は静岡県田方郡韮山町。1871年(明治4)の廃藩置県の直後に韮山県は消滅。】に属していた。当時の吉田村の名主藤野彦右衛門の「明治二年己巳年 御用向色々手控帳」には、解放令伝達の文が記されている。
穢多非人等之称被廃候条自今身分
職業共平民同様たる邊き事
辛未八月 太政官
右之通被仰出候条村内居住之穢多非
人江其方共より申通戸毎連署請書取
之来ル十五日限リ無相違可差出候此
廻章至急順達留り村より可相返者也
東京出張
辛未九月 韮山県庁 御印
武州比企郡上横田村 辛未九月八日拝見
下横田村 仝
高谷村 仝
吉田村 仝
右名主 組頭
これによると、嵐山地域の場合は韮山県庁押印の解放令伝達文が東京出張所【韮山県庁の出張所】から廻状の形で村送りされて名主と組頭に伝えられ、名主が穢多非人に伝えて戸毎に署名し請書を取ることを命じられていたと思われる。名主がこの廻状を見たのが辛未【明治4年】9月8日で、太政官布告の10日後のことである。浦和県庁が村々に伝えた文書も同じ9月8日の日付である。
なおこの解放令の発布と時を同じくして、次の太政官布告も伝達された。
平民襠高袴割羽織着用可為勝手事
辛未八月 太政官
右之通被仰出候条得其意区内村々江
者其方共より可通達者也
東京出張
辛未九月 韮山県庁 印
武州比企郡
中爪村役人
これは、平民が武士用の襠(まち)の入った高袴(たかはかま)と割羽織(わりばおり)を自由に着てよろしいと認めた布告である。1870年(明治3)には、武士に紛らわしい服装としてお触れを出して禁じていたものを、政府自らが1871年(明治4)8月には着用の自由を打ち出したのである。解放令の発布とともに服装の自由化も進められていることは注目される。この太政官のお触れは、先の吉田村名主の「御用向色々手控帳」のなかに解放令伝達の文書と並んで記されている。
解放令は差別とたたかうよりどころに
解放令は、江戸時代の差別的な賤民制度を廃止し、法的な平等を規定したものとして重要である。しかし解放令の発布によってそれまでの番人の仕事、治安維持の仕事などがなくなり、それまで村の仕事をする代償として認められていた斃牛馬(へいぎゅうば)処理の権利も、解放令発布の直前に出された「斃牛馬勝手処理令」(明治4年3月19日)によって失われた。したがって解放令によって法的平等は実現しても、生活はかえって悪化したのである。当時は、解放令は出されても差別をなくすための具体的な施策はなされなかった。しかし、法的な平等を規定したこの解放令は、明治・大正・昭和前期の時代において部落差別とたたかう場合のよりどころになったのである。

















