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今上陛下と美智子さんのご成婚パレードに馬車に石を投げ、よじ登ろうとした19歳の青年がいた。

戦後貧乏な中、当時のお金で3億円という巨費を使っての結婚式への反対の行為だった。

こんなことがあったのに、今上と美智子さんはその後も巨額な血税を使い、56億円もの御殿も建てている。

政府専用機を使っての海外慰霊の旅や地方へお出かけ、静養、鑑賞など動くたびに巨額な警備費がかさむ。

当時もそういうことに反対した若者がいたことは驚くことだし、こういう事件がご成婚時にあったのに反省もせず、さらなら巨額な血税を御殿や豪華なドレスを数え切れないほど作ってきたのに、ティアラは消えている不思議さ。

若い方はご存知ないのでこの事件をおさらいしてみよう。

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Yahoo知恵袋に簡単に説明されている。いくつか書かれた記事を紹介する。


Yahoo知恵袋 2007/2/809:57:47 より

340410
   御成婚は、翌昭和34年(1959)の4月10日であり、挙式の後、皇居から東宮御所まで、青山通りを馬車によるパレードがあった。この模様は、テレビで実況中継された。このパレードに対し、投石を働いた少年がいた。

昭和34(1959).4.1019歳が皇太子夫妻に投石〕
 東京都皇居前で御成婚パレードの皇太子夫妻が乗った馬車に、長野県の浪人生(19)が投石し、さらに馬車に駆け寄ってよじ登ろうとしたが、警官隊に逮捕された。「天皇制には反対だ。こんな人を集めて道を開けさせるなどけしからん。引きずり落として訊いてみようと思ってやった。ふたりが結婚するだけで23千万円もつかっている。税金は福祉事業につかうべきだ。こんな馬鹿げた行事は今後いっさいぶちこわしてやる」と自供。家にあったノートには「税金をつかう虫を殺せ」などと書かれていた。
 精神分裂症と鑑定され、保護処分となった。
 


昭和
34年ご成婚パレード投石事件

2015410 ()


http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/34-6418.html

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    1959年4月10日、皇太子の結婚式。式場の馬車パレードが二重橋を渡り、祝田橋方面に向った午後2時半過ぎ、見物の人垣の中から若い男が飛び出してこぶし大の石を投げて、さらに馬車によじ登ろうとした。男はかけつけた警備の警官に逮捕された。

    「天皇制に反対だ。こんな人を集めて道を開けさせるなどけしからん。引きずり落として訊いてみようと思ってやった。ふたりが結婚するだけで2億3千万円をつかっている。税金は福祉事業につかうべきだ。こんな馬鹿げた行事は今後いっさいぶちこわしてやる」と自供している。 家にあったノートには「税金をつかう虫を殺せ」などと書かれていた。

  少年は19歳の大学浪人生。長野県の伊那北高校を卒業し、同志社大学を受験していたが失敗。ガソリンスタンドでアルバイトしながら勉強していた。彼は未成年なので保護観察処分となり、故郷の長野県長谷村に帰された。暴行現行犯と道路交通法違反くらいの罪しかないので、警察は少年を精神分裂症とした。もちろん精神障害はなかった。その鑑定結果をださないと、皇室の権威はもちろん、その少年とその家族の安全自体が保証できなかったからだった。

   妹尾義郎は「この現実は一部に流れる反皇室の気分を代表したものと思われる。3億円の巨費。それは国民の血税を投じて、この馬鹿々々しいかざり方に対する反感といえよう」と記している。(妹尾義郎日記7) ふつうの少年による天皇制反対の一行動であるが、「皇太子ご成婚パレード投石事件」に関して、日本社会はほとんど黙殺している感がある。

 

その後、この犯人について、

不敬列伝 2015年01月16日より
http://blog.livedoor.jp/su_mi_jun/archives/20589218.html

 

犯人の拘留は50日に及び、精神鑑定の結果、本人が後に語ったところによると「分裂症と認めればすぐに出してやる」と言われて、精神分裂症ということになり、故郷に帰ることが許された。

故郷の村は保守的な風土であり、実家は名家であったため、衝撃は大きかった。
事件前に決まっていた姉の縁談が、先方からの強い申し出によって破談になり、教師の兄は辞職。若者が故郷に帰って来ると、兄は若者を連れて村中の家を一軒一軒回り謝罪して歩いた、「村の名誉を汚した」として。
しかし若者はどこに吹く風、といった態度で、村人は少し反感を覚えた

動機は「母校が火事で焼けたのに国は金を出さなかったため父母が金集めに苦労した。それなのに、御殿やパレ-ドに巨額のお金を使うことが許せなかった」というようなことがあったらしい。

若者は周囲から理解されることなく、その後常に「投石少年」として、警察とマスコミに追われ続け、職と土地を転々とした。
著者は彼の居場所を突き止め、訪ねたものの扉を挟んで向かい合ったまま、ついに顔を見ることさえできなかった

若者の名は「建設」といい、それは彼の父親(事件の時点で既に故人)が「大東亜建設」にちなんでつけたものだったという。

元「投石少年」が著者に会うことをガンとして拒んだため、本人の口から犯行の動機や心情を聞くことができなかったこともあり、かえって不可解な印象を残します。

おそらく世の中の不条理に対する不満を皇室に向けてやつあたりした衝動的行動に過ぎなかったのかもしれない。

しかしその行動が、日本中が歓喜し注目していた皇太子のご成婚パレ-に対するものだったこと、手をかけようとしたのが皇太子ではなく皇太子妃の方だった(これは偶然だったのかもしれませんが)あたりに、投石少年の心情の謎を解くカギが隠されているのかもしれません。


現在でさえ、多くの国民は少ない給料や年金で苦しい生活を強いられ、生活保護費は日本人でなく、K国人に払われ、巨額な税金は海外にばらまかれ、日本人の生活はますます苦しくなる一方で、皇族は豪華な数十億円御殿に住み、血税を使って豪遊、豪華な衣装を着て拍手を受けて鑑賞する、祭祀もせず、公務もおざなり、三日やったら止められないだろう。

それが58年前にすでにこのような贅沢な皇族に対して反旗を翻した青年がいたことに驚く。
この青年の名誉を回復させたらいかが?

三島由紀夫と石原慎太郎元東京都知事がこの青年について興味深い感想を述べているので紹介したい。

この事件について、三島由紀夫は少年と会って、記事を書いている。
  皇太子の成婚パレードに石をなげた中山少年についてもいえる。いま「週刊平凡」に書いたかれの手記を読んでみると、かれ自身、あの行為を一時の発作的衝動だなどと思ってはいない。いまなお、かれは自分の行為の正当性をハッキリと主張している。投石事件をできるだけ穏便に済ませようとする当局は、かれに「精神分裂病」のレッテルを貼って、月に二回病院に強制的に通わせているが、当人のほうは「わたしはもともと精神病患者ではなく、国家が便宜上そういう名前をつけているだけ」と書いている。


三島由紀夫の投石青年に対する感想

https://utaronotes.blogspot.jp/2017/01/blog-post_17.html


   一つここで私は、三島由紀夫の言葉が想起された。「裸体と衣裳」という彼の日記抄の中で、昭和
34410日の皇太子御成婚パレードをテレヴィジョンで見た彼は、こんなことを書き記している。三島が釘付けになったのは、両殿下が乗る馬車に一人の若者が突然近づき、周囲が騒然となったアクシデントの瞬間だ。

       《そこではまぎれもなく、人間と人間とが向い合ったのだ。馬車の装飾や従者の制服の金モールなどよりも、この瞬間のほうが、はるかに燦然たる瞬間だった》――。また、こうも述べている。

   《それにしても人間が人間を見るということの怖しさは、あらゆる種類のエロティシズムの怖しさであると同時に、あらゆる種類の政治権力にまつわる怖しさである》

(三島由紀夫著『裸体と衣裳』より引用)

 

『金閣寺』フライヤーの裏面

 皇太子は生まれて初めて、裸の人間の顔を見、向かい合ったのだと三島はその時、昂奮を抑えることができないでいた。世界が変わった瞬間とも言える。それと同じものを私は、今回観た演劇『金閣寺』の舞台上においても、三島のこの不動の常態を示す感性の小端を見たはずだ、と気づいた。

 

しかし、明仁皇太子は生まれて初めて人間の顔を見て、向かい合ったのにその後なにも学習していない。

石原慎太郎の天皇観と「あれをした青年」

20061026 ()

http://gekkankiroku.cocolog-nifty.com/edit/2006/10/post_c174.html


   「あれをした青年」とは『文藝春秋』
1959年8月号に石原が著したエッセーである。同年4月10日、東京で行われた「皇太子成婚パレード」で皇太子夫妻(現在の天皇皇后両陛下)の乗った馬車に投石して逮捕された「皇太子成婚パレード投石事件」の犯人少年が石原の宿泊地を訪ねて「僕の気持ちを聞いてもらいたい」と申し出、それを受けての一文だった。
    投石した少年は石原にも警察にも、その後のメディアの取材にも一貫して犯行の動機を次のように語っていた。
皇太子夫妻が住む東宮御所が2億3千万円もの巨費を投じて新築された。ミッチーブームに引き続いたパレードのバカ騒ぎも腹が立つ。なぜならば自らの地元も含めて貧しいまま困っている国民が多数いるなかでの天皇家の振る舞いは何だ。投石後は馬車に駆け寄って退位を促す直訴をするつもりだった、と。
    興味深いのは少年の言い分を紹介した後の石原自身の感想だ。「あれをした青年」の最後に石原は次のように結ぶ。

  「天皇が国家の象徴などという言う言い分は、もう半世紀すれば、彼が現人神だと言う言い分と同じ程度笑止千万で理の通らぬたわごとだと言うことになる、と言うより問題にもされなくなる、と僕は信じる」
     「彼(投石少年)の話の殆どが殆どの人間に理解されるだろうことを僕は信じる。(中略)現代では狂っている人がまともで、まともな奴がおかしいと言うことを誰もが感じているはいるのだ。その誤謬を修正する直接の行動のためには、今日では矢張り一種の狂気に近い誠実さと勇気がいると言うことも」

 

こちらは投石青年の従兄弟の話:
ここに書かれているAさんが投石青年。
IさんはAさんの従兄弟。
事件前後のAさんの生活、事件後のことについても詳細に書かれている。
当時の青年が感じたことは現在の私たちも感じることに通じているのでは。



https://plaza.rakuten.co.jp/msk222/diary/200811290000/


    僕がIさんと知り合った10数年前のことを話してくれたことがある。

Iさんもまだ大学生だったが、アパートの管理人を兼ねて住んでいて、同年代の従兄弟たちが家賃もロクに払わずにアパートに転がり込んできた。

   アパートの管理人室は、毎日のように麻雀と酒盛りの場となっていたようである。

まだ皇太子だった今の平成天皇が、日清製粉社長の娘の正田美智子さんとのご成婚ということで、結婚パレードが行われるという日だった。
   例によって、前の日から飲みながらの徹夜麻雀で、雨戸の隙間から射し込む外の陽ざしに気づいて、ようやく散会となった。メンバーは、Iさんと友人二人、そして某大学に合格して最近東京に出てきたばかりの従兄弟のAだった。
   皇太子の結婚相手が初めて民間人からということで、軽井沢のテニスロマンスから始まるミッチーブームという国民的関心事となり、パレードの見物人も空前の人出ということであった。
撤マンあけのIさんも、酒ビンの転がる部屋の万年床に寝転がり、買ったばかりの白黒テレビでパレードの様子を見ていたが、いつしか眠ってしまったそうだ。

    そして、夕刻近くになっていただろうか。

突然、「ドン、ドン」と乱暴に戸を叩く音がした。何事かと開けると、男達が土足のまま部屋になだれ込んできた。
「警視庁公安部だ。これから家宅捜索する!」
と叫ぶと、部屋中を引っ掻き回し始めた。なにがなんだかわからぬままIさんは、部屋の隅で震えて見ていたが、やがて事情聴取が始まった。

   どうやら、皇太子ご成婚パレードで事件があり、その容疑だという。

Iさんは警視庁まで連れてゆかれ、事情聴取という取り調べを受けた。Iさんは思想的に誰を尊敬するか、大学ではどんなゼミに入っているのか、友人関係まで根掘り葉掘り聞かれた。

    その頃になってようやくことの真相が見えてきたという。

Iさんの従兄弟のAが、こともあろうにご成婚の列に石を投げ、馬車に飛び乗ろうとしたというのだ。
しかし、なぜAがそこにいたのか、石を投げようとしたのか、そのときのIさんには思いもつかなかったという。
当日は、朝まで酒を飲み麻雀をしていた。政治はおろかご成婚の話などひとつもしていない。しかし、まてよ、あれも政治だったのかな、と思い出したのがAの母校が火災にあった話しだ。

  この春までAのいた高校が、一昨年、不審火による火災にあっていた。犯人として疑われた生徒もひとりいたが、結局真相はわからず闇の中に沈んでしまった。

   当時、県の財政も厳しく、校舎をすぐに建てることもかなわずバラックのような仮設校舎で授業が行われていた。信州伊那地方の冬は雪こそ少ないが、寒さは昼間でも氷点下の厳しさだった。


  冬期の授業は、生徒も教師も凍えるような手をこすりながらで、室内に干してある雑巾も凍って、掃除もままならなかったという。そんななかで、ようやく進学を果たし、希望大学に入ることができたAであった。

そのAが、徹マン明けの宿酔いの残ったまま出かけたのが日比谷付近。折からご成婚の馬車行列を見るために群衆が街頭に繰り出していた。

    ぼんやりと群衆のなかに割り込んだAの視線の先に、騎馬護衛兵に先導された皇太子と皇太子妃がにこやかに手を振って近づいてくるのが見えた。


    その豪華で荘厳な式典が、Aにはとても空々しく腹立たしい出来事と感じたのだろう。無意識に歩道に転がっていた石を拾い、Aの正面を通り過ぎる馬車に向かって、投げつけた。そして馬車に向かって走り出した。馬車の後部に手が届くかどうかというあたりで、護衛警官たちに組伏せられた。


    Aは取り調べにあたって、学校の再建にさえお金がないと渋っているのにこんな豪華なパレードを見ていたら腹立たしくなって、というような供述をしたという。きっと、なれないアルコールが身体に残っていたこともあるのだろう。

ちなみにAの生家は、当時小学生だった僕の生家から2キロに満たない距離だった。この事件は、わがふるさとにとっての大事件となった。

    国民的慶賀に泥を塗ってしまったとして、村は上へ下への大騒ぎとなった。Aの家は旧家であったが、言うなれば重い不敬罪ということなのだろう、一時は江戸時代さながら蟄居させられるような状態となった。


    数年の刑期を終え、自宅に帰されたAはその後も数十年にわたり特定保護観察人物として扱われた。自宅には時々刑事が訪れて、生活の様子などの点検を受けていたという。


    Aも、この日にブラリと日比谷を訪れなければ、何事もなく平凡な人生を送れたかも知れない。人生の歯車は、悪魔のイタズラのようなことで狂ってしまうものだということを思い知ることとなった。