きょうは一日都内へ縫物教室だった。夕方帰りのラッシュの中、人身事故があり、乗っていた電車が止まってしまい、帰宅に3時間以上もかかり、疲労困憊。遅くなったが急いで記事をあげることにする。
 
まずは昭和天皇の災害後の視察映像をどうぞ。

昭和天皇 関東大震災の惨状を視察 大正12 9月(1:51)
 


1:24〜 おふたりの結婚式は11月下旬に予定だったが、延期された

関東大震災はおふたりにとっても試練だった。

震災に遭われた方たちへ着物を縫うお若い香淳さまと母上。


  



昭和天皇、東京大空襲後の御視察(1:42)
 



1923年9月1日関東大震災が起きた時、大正天皇はご病気で日光の御用邸で静養中だった。
東京におられたのが22歳の若き摂政宮、後の昭和天皇だった。

22歳の摂政宮は震災当日は一睡もせず、徳川侍従次長より報告を受けた。


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そして翌2日には、御内帑金一千万円を下賜された。
当時の一千万円とは、今の貨幣価値で十億円を超えるとも言われている額だ

そしてその翌3日には山本首相を赤坂離宮に召され、その一千万円についての趣旨を伝えられた。

そして4日には侍従武官を横浜、横須賀、東京市内に差遣されて慰問にあたらせている。

7
日になると、全国の御料林から材木を伐採し、急場の住宅建設用にと下賜された。
さらに各宮家では、避難民のために庭園を開放され、さらに御座敷までも開放された。

大富豪の大部分が門戸を固く閉ざし、一歩も入れない者が多いため、一般庶民からは怨嗟の声が高かったという。

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日、震災から二週間と経たない時に、大正天皇のお名前に摂政宮が副署された詔勅が出される。


朕深ク自ラ戒慎シテ已マサルモ惟フニ天災地変ハ人力ヲ以テ予防シ難ク只速ニ人事ヲ尽シテ民心ヲ安定スルノ一途アルノミ凡ソ非常ノ秋ニ際シテハ非常ノ果断ナカルヘカラス若シ夫レ平時ノ条規ニ膠柱シテ活用スルコトヲ悟ラス緩急其ノ宜ヲ失シテ前後ヲ誤リ或ハ個人若ハ一会社ノ利益保障ノ為ニ多衆災民ノ安固ヲ脅スカ如キアラハ人心動揺シテ抵止スル所ヲ知ラス朕深ク之ヲ憂シ既ニ在朝有司ニ命シ臨機救済ノ道ヲ講セシメ先ツ焦眉ノ急ヲ拯フテ以テ恵撫慈養ノ実ヲ挙ケムト欲ス


<ざっくりと訳してみます。by管理人>


自分の天子としての徳がないからこのような災害が起きてしまうのだが、

天変地異は人の力でどうにか未然に防ぐことができるものではない。
このような事態にあたっては、ただちに、(自分に)できることをすべてやって、国民の心を少しでも安らかにしたいという一念である。

平時の規則にこだわって、順序を守ることを重視していれば、
機会を失し善後を誤ることになる。

あるいは個人、もしくは特定の会社の利益保証のために、多くの被災者の安心を脅かすことがあるなら、(被災した)民の心は動揺して良識があっても聞かなくなるであろう。
私はこれをとても心配している。

(だから)自分に仕える役人に命じて、
ただちにできる限りの救済の措置をとろうとしたのである


以上下記ブログより:

https://plaza.rakuten.co.jp/hinaryou/diary/201707070000/


当時のお金で1千万円もただちに下賜、今のお金で10億円を超えるという。
今上夫妻は災害があろうと、国民が苦しむだろうと、8億円ものお金を自分らの仮住まいに使う、なんという違い!


震災視察については、過去記事にも書いている。


20170706

昭和天皇、関東大震災の惨状を視察、ご成婚を翌年に延期

http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5236785.html



Yahoo知恵袋に疑問を書いた項目がある:

2011/4/114:20:06

昭和天皇も災害地でひざをついて市民と話したりしていましたか?

昭和後半の生まれで昭和天皇の記憶がありません。
今の陛下は市民と話したり、災害時には被災地へいって体育館にひざをついてお話をされたりしていますが、
昭和天皇もそのように気軽にといって良いのかわかりませんが、一般市民と話をしたりお辞儀をしたりしていたのですか?

ベストアンサー:

1.戦後の巡幸では気軽に話しをされていましたよ。
ただ君主ですから、今上天皇のようにまではなさいません。
今上天皇の場合は左傾化したマスコミに揚げ足を取られないように配慮なさっているのやも知れませんね。
TV脳の現代人はすぐマスコミに印象操作されますから・・・・昭和天皇の時代はそんな馬鹿は少ないので本来あるべき姿勢で臨まれていたと言うだけのことです、どちらも国民を思う心は同じです。

2.昭和天皇は皇太子時代、摂政宮裕仁親王と呼ばれていた頃に関東大震災に遭われています。
殿下はその震災の二週間後、大正12915日に御巡視を行われました。
午前6時に赤坂門を出て市ヶ谷、九段、俎板橋、三崎町、本郷、駒込切通、上野、広小路、日本橋、呉服橋、丸ノ内、戒厳司令部、赤坂離宮の順路となります。

「外濠から市ヶ谷見附に入られ靖国神社附近の荒寥なる焦土を過り御愛馬を九段坂上に立たせたまひ、石造家屋の残骸が御目を遮ぎるのみならず小石川、神田、日本橋一帯の焼け跡を御望見、お付きの人を顧みてしばしばご下問あり(略)殊に本所被服廠跡の酸鼻の光景を市長と総監から申し上げた時は暗涙を催された。」(東京日日新聞大正12916日)

上野公園で下馬され被災者からの状況説明を受けたとされていますが、この時代ですから市長や町長のような代表者からの説明だったのでしょう。
ただこの当時殿下は本所被服廠に集められていた38千体もの遺体の存在に大変心を痛められ、視察を行うとの希望をされたとあります。残念ながら近臣から止められ断念されたそうです。

最初の視察の翌日、殿下はかねてより進められていた御婚儀を延期されます。
震災後、大正天皇は「関東大震災直後ノ詔書」を発布されました。
ただこの当時大正天皇は日光に療養滞在中で実務からは遠ざかっており、実際の文面の作成は視察後に推敲されたとされる裕仁親王であったとも言われています。

神道のトップは伊勢神宮のかやぶき屋根崩落にも寄付を出さないのか?
こちらは8億円どころか600万円というのに。



かやぶき屋根崩落、修理費工面に悩む 京都の元伊勢外宮

京都新聞 20180511 1720
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20180511000116



20180511160523ise450


かやぶき屋根が崩落し、ビニールシートで応急処置が施された本殿(京都府福知山市大江町天田内・元伊勢外宮豊受大神社)


 4月中旬の風雨で本殿のかやぶき屋根の一部が崩落した元伊勢外宮豊受大神社(京都府福知山市大江町天田内)が、修理費用の工面に頭を悩ませている。屋根の老朽化が進み、崩落がさらに拡大する恐れもあるが、全面改修の資金を賄うのは困難で「当面は部分的なふき替えで対応するしかない」という。

 かやぶき屋根の崩落は4月15日朝に見つかった。腐食した屋根が雨水を吸いこみ、重みに耐えられず崩落したとみられる。屋根全体の約半分で地肌がむき出しになり、現在はシートで覆って急場をしのいでいる。


 同神社によると、屋根は前回のふき替えから約20年が経過し、老朽化が進んでいる。全面のふき替えが必要だが、費用は600万円以上かかるという。

 神社では、本殿の修理を見込んで4年前から境内に看板を建て、寄付金を広く募ってきた。しかし、これまでに集まった寄付は約250万円。6月中旬にも屋根のふき替えを予定しているが、資金不足のため崩落部分しか修理できないという。

 歴史的建造物保全のための行政による補助金制度もあるが、文化財指定や江戸時代以前の建築であることなどが条件で、1874(明治7)年に建てられた同神社の本殿は対象外。河田光稔宮司(42)は「京都市内では訪日外国人客が増えているが、地方の神社は疲弊しきっている。休日でも参拝客が50人程度で、あちこちで老朽化が目立つ社殿を維持していくためには、今後も寄付金に頼っていくしかない」と頭を抱える。