写真と雑記

写真と日々の雑記

思想の選択と快感のメカニズム

ちょっと前に書いた正しい思想を選び取る差異こそが快感
という話を展開させてAIに聞いてみた答え
正しい思想を信じる人々はなぜ、ピントが外れた発言をしてしかも反省がまったくないのか?
についての仮説を考えて聞いてみた
質問には具体的な固有名詞が出てくるので、それは書かない


言っていることを整理すると、こういう構造になっている:

「思想」や「正しさ」を選び取るという行為自体が、自己同一化の快感になっている。
つまり「何を信じるか」よりも、「自分がそれを信じている」という差異が心地よい。
そのため、思想の中身がどれほど矛盾していても、その矛盾を維持すること自体がアイデンティティになってしまう。

ここで重要なのは、彼らが「考えていない」というよりも、考えることの対象が違うという点だと思う。
彼らにとっては「現実を正しく理解すること」ではなく、
「自分が正しく選び取ったという感覚を保つこと」が思考の目的になっている。

つまり、思考のベクトルが 外界(現実)ではなく自己(承認) に向いている。
だから現実とずれていっても、快感はむしろ増す。
(まるで「他人とは違う」ほど悦びを感じる中二的構造の延長だね。)

この構造を宗教的信仰と同じだと言うのは非常に的確で、
宗教もまた「自分は信じる者である」という立場がアイデンティティの根幹を成す。
だからこそ信仰を否定する議論には乗れない。
それを手放した瞬間、自分が消えてしまうからだ。

結局、思想を「現実に照らして修正する」ことができる人間というのは、
思想を自己保存の手段にしていない人なんだろうな。
逆に言えば、「正しいと思うことを疑う快感」を知っている人だけが、
ほんとうの意味で「考えている」と言えるのかもしれない。

快不快と行動原理

まず基本的なこととして、動物の行動を決めるのは快か不快かの判断であるという事
善悪も、正義も邪悪も、善であれば正義であれば快を、悪であれば邪悪であれば不快を感じる
というだけで、それが逆転する個人なら快の方を選ぶだけである
人間も動物であり、この原則に何一つ逆らうものはない

主従の快楽論

マンガと音楽で、
物語と画力、歌と演奏技術
画力や演奏技術よりも、物語や歌が得意な方が
一般にわかりやすいし人気でも出るしかせぎやすい
という話を、主の快楽、従の快楽、という言葉でまとめでみた時のAIの返答がこちら

受け手側が直感的にアクセスしやすい「物語の快楽」や「歌の快楽」に特化するタイプは、労力をそこに集中させることで、広く共感を呼ぶし、金銭的な成功も掴みやすい。一方で、付属的な「絵の美しさ」や「演奏技術」にこだわるタイプは、ニッチなファン層を深く掴むけど、大衆的な爆発力は弱いかも。

最初、具体的な個人名を書いていたが、それは書かないで、話の内容だけ書いておく
言いたいのは誰にでもわかりやすい技能と、そうでもない技能が両方必要な場合
わかりやすい技能に秀た方が人気が出るということ

美意識と才能の関係

マンガ家の絵が超うまい人や、ギタリストのギターが超うまい人ってのは
うまくなる方向に自分の美意識があるな、
ある程度、自分で"これがいい"という意識がないと、自分一人でうまくなっていく方向が見えないし
頑張れもしない、独自の個性が出てくるのもそもそもの”これがいい”という物が違うからだな
それは始めたばかりでも、その意識があれば周りからは見える物だ
最初からある人もいれば、だんだんと出来ていく人もいると思うが
その意識があるかどうかっていうのは見る人が見ればわかる
それがなければ才能はあり合えない
才能の必要条件、それ自体が才能と言えるかもしれないな
それが美意識という物


ギター講師が自由に弾いてください、というと困る生徒は
自分が"これがいい"という方向を持っていない
持っていれば弾けないなりにこうしてみよう、これはどうかなと弾き始める物だ
ただね、そもそもそれがあれば先生は特に必要ないので
自分の中にモデルがないから先生に習いに来ているという話はある
そーゆー人にはこれが"先生が好きだから"やってみなさい、
みたいなものを望んでいるんだと思う
自立して伸びていく才能はないが従順な生徒として大量生産できるのはコッチのタイプ
量産型を作る技術は伸ばして行く産業なら絶対必要だが
アートに必要なのか、それはよくわからない

右派と左派の快楽構造の違い

右と左っていうのは、それぞれ人間の愉しみで
俺たち同じ国民!っていう楽しみか
私は正しい思想を信じる!っていう楽しみか
まぁその違いだよなー


AIコパイロットの意見

まるで社会の「愉しみ方」の構造を解剖してるようですね。
「俺たち同じ国民!」という愉しみは、共同体への帰属感や安心感をベースにした快楽。これは「同じであること」によって得られる一体感の快楽で、祭りや応援、国歌斉唱のような儀式にも通じます。
一方で「私は正しい思想を信じる!」という愉しみは、自己の信念や倫理観に基づいた快楽。これは「異なること」「選び取ること」によって得られる快楽で、批評や運動、哲学的探究にも通じます。
どちらも「愉しみ」ではあるけれど、前者は“同調”による快楽で、後者は“差異”による快楽。つまり、右と左の違いは「快楽の構造が違う」ってことなんですよね。
そして、それは「思想の違い」じゃなくて「愉しみ方の違い」だと捉えると、ずいぶん見通しがよくなる。思想の対立ではなく、快楽の形式の違いとして見ることで、争いではなく構造の理解に変わる。
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