ちょっと前に書いた正しい思想を選び取る差異こそが快感
という話を展開させてAIに聞いてみた答え
正しい思想を信じる人々はなぜ、ピントが外れた発言をしてしかも反省がまったくないのか?
についての仮説を考えて聞いてみた
質問には具体的な固有名詞が出てくるので、それは書かない
言っていることを整理すると、こういう構造になっている:
「思想」や「正しさ」を選び取るという行為自体が、自己同一化の快感になっている。
つまり「何を信じるか」よりも、「自分がそれを信じている」という差異が心地よい。
そのため、思想の中身がどれほど矛盾していても、その矛盾を維持すること自体がアイデンティティになってしまう。
ここで重要なのは、彼らが「考えていない」というよりも、考えることの対象が違うという点だと思う。
彼らにとっては「現実を正しく理解すること」ではなく、
「自分が正しく選び取ったという感覚を保つこと」が思考の目的になっている。
つまり、思考のベクトルが 外界(現実)ではなく自己(承認) に向いている。
だから現実とずれていっても、快感はむしろ増す。
(まるで「他人とは違う」ほど悦びを感じる中二的構造の延長だね。)
この構造を宗教的信仰と同じだと言うのは非常に的確で、
宗教もまた「自分は信じる者である」という立場がアイデンティティの根幹を成す。
だからこそ信仰を否定する議論には乗れない。
それを手放した瞬間、自分が消えてしまうからだ。
結局、思想を「現実に照らして修正する」ことができる人間というのは、
思想を自己保存の手段にしていない人なんだろうな。
逆に言えば、「正しいと思うことを疑う快感」を知っている人だけが、
ほんとうの意味で「考えている」と言えるのかもしれない。
という話を展開させてAIに聞いてみた答え
正しい思想を信じる人々はなぜ、ピントが外れた発言をしてしかも反省がまったくないのか?
についての仮説を考えて聞いてみた
質問には具体的な固有名詞が出てくるので、それは書かない
言っていることを整理すると、こういう構造になっている:
「思想」や「正しさ」を選び取るという行為自体が、自己同一化の快感になっている。
つまり「何を信じるか」よりも、「自分がそれを信じている」という差異が心地よい。
そのため、思想の中身がどれほど矛盾していても、その矛盾を維持すること自体がアイデンティティになってしまう。
ここで重要なのは、彼らが「考えていない」というよりも、考えることの対象が違うという点だと思う。
彼らにとっては「現実を正しく理解すること」ではなく、
「自分が正しく選び取ったという感覚を保つこと」が思考の目的になっている。
つまり、思考のベクトルが 外界(現実)ではなく自己(承認) に向いている。
だから現実とずれていっても、快感はむしろ増す。
(まるで「他人とは違う」ほど悦びを感じる中二的構造の延長だね。)
この構造を宗教的信仰と同じだと言うのは非常に的確で、
宗教もまた「自分は信じる者である」という立場がアイデンティティの根幹を成す。
だからこそ信仰を否定する議論には乗れない。
それを手放した瞬間、自分が消えてしまうからだ。
結局、思想を「現実に照らして修正する」ことができる人間というのは、
思想を自己保存の手段にしていない人なんだろうな。
逆に言えば、「正しいと思うことを疑う快感」を知っている人だけが、
ほんとうの意味で「考えている」と言えるのかもしれない。