《短編集》
マリアたちへ
~言えなかった「ありがとう」
第8話
寂しいスペードと悲しいハート★ハート〈5〉
※この作品は純文学作品ですが、性的表現を含みます。18歳未満の方は、ご退出ください。
ここまでのあらすじ かつて、同じ雑誌の編集部でデスクを並べていた薬師寺信夫と櫛田澄子は、恋人同士という関係にあった時期がある。ほんの短い交際ののち、別れを選んだふたりは、以後、何十年も会ってない。その信夫に、仕事上の必要があって電話をかけることになった澄子は、「一度、会っておかないか? おたがいがまだ元気なうちに」という誘いに応じ、ふたりは20年ぶりの再会を果たす。よみがえるかつての日々の記憶。「昔」を語る信夫の口から「冬の旅」という言葉がもれた。約束していた「冬の旅」は、なぜ実現しなかったのか? どうしても明かすわけにはいかない秘密が、澄子にはあった――
※この話は連載第2回目です。第1回目から読みたい方は、⇒こちらから。
このシリーズは、左記サイトの登録作品です。お読みになる前に、よろしければぜひクリックを。⇒申し訳ありませんが、時間帯によってはアクセスに時間がかかる場合があります。
ハート〈2〉
外へ出ると、街は、まるで氷室のように凍えていた。
時折、吹き付ける乾いた風が、せっかく温まっていた体から、一気に熱を奪っていく。
「キャー、寒い! 寒いねッ」
まだ二十そこそこと思われる女が、男のコートのポケットに手を潜り込ませ、その腕に体をこすりつけるようにしながら、通り過ぎていった。
ビルの入り口の階段では、たがいのマフラーを相手の体に巻きつけたカップルが、木枯らしを避けるように抱き合っていた。
「無邪気でいいよな、みんな」
カレがつぶやくように言った。
「オレには、あんな時代、なかったような気がする」
「あんな……?」
「あんなふうに、風景になったこともないし、なろうと思ったこともなかった」
「少なくとも、スタイリッシュなカップルじゃなかったね。なんか、いつも、議論ばかりしてたような気がする」
「喫茶店の片隅が似合うような話ばかりしてたかもしれないな。ほんとは、ただ、キミを抱いていたいだけだったのに……」
「そうなの?」
「ムリしてたんだよ」
「何に対して?」
「世の中を支配してるものすべてに対して……かな。考えてみなよ。昨日まで、ヘルメット被って、鉄パイプ振りかざして、ジュラルミンの盾に向かって突進してたのが、いきなり、きょうから会社員です、ネクタイぐらい締めてきなさい、という世界だよ。取り込まれてたまるか、とムキになった。でもね……」
言葉を切って、彼は、天を見上げた。
高速道路とビルの間から、わずかにのぞく冬の空。スモッグに煙ったわずかばかりの冷たい空に、ひとつだけ、青白い光を放っている星が見えた。
確か、あれは……大犬座のシリウス。
「そのムキを、オレは……いちばん向けてはいけない人に向けてたのかもしれない。いちばん親密であるべき相手に対して……」
「どうして?」
「親密であってほしいからこそ、その人にだけは、同志であってほしかったんだろうね。その人の中から、敵の匂いのするものが現れそうになるたびに、必死になって、それを否定しようとした。他の人間になら、7まで許せることでも、その人に対しては3しか許せない、っていうふうにさ」
「せめて、5か6にしておいてほしかったわ」
「ごめん……」
天を見上げたままの彼の目の縁から、小さな星がこぼれそうになっていた。
「負けたくなかったんだよ。キミの口から語られる幸せの形を、そういうのもありだよなぁ……と思いながら、口ではノンを言い続けた。負けたくなくて……。ほんとに、オレは……」
とうとう、星は彼の目の縁からこぼれ、頬を伝って、顎の先に小さなロザリオを作った。
「後悔してるの?」
「日々、悔い改めてる。悔い改めてもどうしようもないこともあるけど……」
悔い改めてもどうしようもないこと?
もしかして、それに気づいたってこと?
それだったら、そうね……ちょっと遅いかもしれない。
ちょうど、こんな冷たい風の吹き始めた季節だった。
私は体調を崩して会社を休んでいた。家に帰ってシャワーを浴びただけで、また仕事に戻る。そんな忙しさが何日も続いたあとだった。
不意に、猛烈な吐き気に襲われ、最初は、とうとう胃にきたか――と思ったのだが、病院で検査を受けると、思いもしない診断が下された。
何日も、何日も思い悩んだ。
心配した彼が、家に電話をかけてきた。
「少しムリしすぎてるんじゃない? キミの担当、どう見ても多すぎるもの。ちょっと、会社と掛け合ってみるから、この際、体を休ませたほうがいいよ」
その秋、組合の委員長を引き受けたばかりの彼は、見当はずれの正義感を見せながら、私をいたわった。
違う! そういうことじゃないの……。
何度か、ほんとうのことを言おうとしたけれど、そのたびに、彼の言葉が頭の奥によみがえった。
「子ども、嫌いなんだ」
結局、三日休んで、会社に出た。
彼は私の顔を見ると、「もう、大丈夫なの?」と、心配そうに声をかけてきた。何か話したがっているふうな彼を、私はお茶に誘った。
「ね、時間あったら、お茶飲みに出ない? ちょっと遠くまで……」
「遠く……?」
「会社の人たちが来ないところがいいの」
ひと駅離れたところにある、喫茶店を待ち合わせ場所にして落ち合った。
「顔色、まだよくないね?」
コーヒーを注文しながら、彼は私の顔をのぞき込んだ。
私の体調不良をオーバーワークのせいと思い込んでいるらしい、新任の労組委員長どのは、「検査を受けたほうがいい」だの「人員を増やすように要求しといたから」だのと、彼なりの気遣いを見せてくれるのだが、それらの言葉は、私の耳には遠くの海鳴りのようにしか聞こえなかった。
もしあのとき、正直に話していたら、彼はどういう反応を示しただろう――と、いまでも思うことがある。
しかし、やっぱり言えなかった。それを言う代わりに、私は、同じ質問を繰り返していた。
「薬師寺さんって、子ども、嫌いなんだよね」
否定してくれよ――と、心のどこかで願っていた。せめて、「ウーン……」と考え込んでくれるだけでもよかった。
しかし、返事は、即座に返ってきた。
「ウン、子どもは嫌いだな」
私たちの別れは、そのとき決まったのだ。少なくとも、私の中では……。
翌週、私は、病院の冷たい診察台の上にいた。
そう。私は、あなたが望まないに違いないものを、この世から葬り去ったの。
あなたに何も知らせないまま。
それと気づかせもしないまま――。
「じゃ、そろそろ帰るね。ダンナが餓死するといけないから」
走ってくるタクシーの赤いランプに向かって手を挙げると、彼が言った。
「いつかまた、こうやって会えるかな?」
「悔い改めるために?」と、私は意地悪く訊いた。
「罰してもらうために、でもいいけど……」
「もう、いいよ」と、タクシーの座席に体を滑り込ませながら、私は言った。
「もう十分に報いを受けてるよ。あなたも、そして、私も……」
「そ、それは……」
「もし会うとしたら、許された日々のため――がいいかな。もう、あんまり残ってないけど」
「元気で」と、彼の腕をつかんで、それからタクシーに行き先を告げた。
陽の沈む方向へ帰る私を見送りながら、月の昇る方向へ帰る彼が、手を振っている。
小さな罪びとの姿は、やがて、夜更けの雑踏の中に紛れて消えた。
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※この作品は純文学作品ですが、性的表現を含みます。18歳未満の方は、ご退出ください。
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ハート〈2〉
外へ出ると、街は、まるで氷室のように凍えていた。
時折、吹き付ける乾いた風が、せっかく温まっていた体から、一気に熱を奪っていく。
「キャー、寒い! 寒いねッ」
まだ二十そこそこと思われる女が、男のコートのポケットに手を潜り込ませ、その腕に体をこすりつけるようにしながら、通り過ぎていった。
ビルの入り口の階段では、たがいのマフラーを相手の体に巻きつけたカップルが、木枯らしを避けるように抱き合っていた。
「無邪気でいいよな、みんな」
カレがつぶやくように言った。
「オレには、あんな時代、なかったような気がする」
「あんな……?」
「あんなふうに、風景になったこともないし、なろうと思ったこともなかった」
「少なくとも、スタイリッシュなカップルじゃなかったね。なんか、いつも、議論ばかりしてたような気がする」
「喫茶店の片隅が似合うような話ばかりしてたかもしれないな。ほんとは、ただ、キミを抱いていたいだけだったのに……」
「そうなの?」
「ムリしてたんだよ」
「何に対して?」
「世の中を支配してるものすべてに対して……かな。考えてみなよ。昨日まで、ヘルメット被って、鉄パイプ振りかざして、ジュラルミンの盾に向かって突進してたのが、いきなり、きょうから会社員です、ネクタイぐらい締めてきなさい、という世界だよ。取り込まれてたまるか、とムキになった。でもね……」
言葉を切って、彼は、天を見上げた。
高速道路とビルの間から、わずかにのぞく冬の空。スモッグに煙ったわずかばかりの冷たい空に、ひとつだけ、青白い光を放っている星が見えた。
確か、あれは……大犬座のシリウス。
「そのムキを、オレは……いちばん向けてはいけない人に向けてたのかもしれない。いちばん親密であるべき相手に対して……」
「どうして?」
「親密であってほしいからこそ、その人にだけは、同志であってほしかったんだろうね。その人の中から、敵の匂いのするものが現れそうになるたびに、必死になって、それを否定しようとした。他の人間になら、7まで許せることでも、その人に対しては3しか許せない、っていうふうにさ」
「せめて、5か6にしておいてほしかったわ」
「ごめん……」
天を見上げたままの彼の目の縁から、小さな星がこぼれそうになっていた。
「負けたくなかったんだよ。キミの口から語られる幸せの形を、そういうのもありだよなぁ……と思いながら、口ではノンを言い続けた。負けたくなくて……。ほんとに、オレは……」
とうとう、星は彼の目の縁からこぼれ、頬を伝って、顎の先に小さなロザリオを作った。
「後悔してるの?」
「日々、悔い改めてる。悔い改めてもどうしようもないこともあるけど……」
悔い改めてもどうしようもないこと?
もしかして、それに気づいたってこと?
それだったら、そうね……ちょっと遅いかもしれない。
ちょうど、こんな冷たい風の吹き始めた季節だった。
私は体調を崩して会社を休んでいた。家に帰ってシャワーを浴びただけで、また仕事に戻る。そんな忙しさが何日も続いたあとだった。
不意に、猛烈な吐き気に襲われ、最初は、とうとう胃にきたか――と思ったのだが、病院で検査を受けると、思いもしない診断が下された。
何日も、何日も思い悩んだ。
心配した彼が、家に電話をかけてきた。
「少しムリしすぎてるんじゃない? キミの担当、どう見ても多すぎるもの。ちょっと、会社と掛け合ってみるから、この際、体を休ませたほうがいいよ」
その秋、組合の委員長を引き受けたばかりの彼は、見当はずれの正義感を見せながら、私をいたわった。
違う! そういうことじゃないの……。
何度か、ほんとうのことを言おうとしたけれど、そのたびに、彼の言葉が頭の奥によみがえった。
「子ども、嫌いなんだ」
結局、三日休んで、会社に出た。
彼は私の顔を見ると、「もう、大丈夫なの?」と、心配そうに声をかけてきた。何か話したがっているふうな彼を、私はお茶に誘った。
「ね、時間あったら、お茶飲みに出ない? ちょっと遠くまで……」
「遠く……?」
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「顔色、まだよくないね?」
コーヒーを注文しながら、彼は私の顔をのぞき込んだ。
私の体調不良をオーバーワークのせいと思い込んでいるらしい、新任の労組委員長どのは、「検査を受けたほうがいい」だの「人員を増やすように要求しといたから」だのと、彼なりの気遣いを見せてくれるのだが、それらの言葉は、私の耳には遠くの海鳴りのようにしか聞こえなかった。
もしあのとき、正直に話していたら、彼はどういう反応を示しただろう――と、いまでも思うことがある。
しかし、やっぱり言えなかった。それを言う代わりに、私は、同じ質問を繰り返していた。
「薬師寺さんって、子ども、嫌いなんだよね」
否定してくれよ――と、心のどこかで願っていた。せめて、「ウーン……」と考え込んでくれるだけでもよかった。
しかし、返事は、即座に返ってきた。
「ウン、子どもは嫌いだな」
私たちの別れは、そのとき決まったのだ。少なくとも、私の中では……。
翌週、私は、病院の冷たい診察台の上にいた。
そう。私は、あなたが望まないに違いないものを、この世から葬り去ったの。
あなたに何も知らせないまま。
それと気づかせもしないまま――。
「じゃ、そろそろ帰るね。ダンナが餓死するといけないから」
走ってくるタクシーの赤いランプに向かって手を挙げると、彼が言った。
「いつかまた、こうやって会えるかな?」
「悔い改めるために?」と、私は意地悪く訊いた。
「罰してもらうために、でもいいけど……」
「もう、いいよ」と、タクシーの座席に体を滑り込ませながら、私は言った。
「もう十分に報いを受けてるよ。あなたも、そして、私も……」
「そ、それは……」
「もし会うとしたら、許された日々のため――がいいかな。もう、あんまり残ってないけど」
「元気で」と、彼の腕をつかんで、それからタクシーに行き先を告げた。
陽の沈む方向へ帰る私を見送りながら、月の昇る方向へ帰る彼が、手を振っている。
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