コーヒーと女 連載   ローズマリーの詩   35 
贈る言葉は「死ぬな!」
破産して家の離れに間借りするおじと、出戻りの私。それぞれの愛の物語。

『七つの水仙』を聞かせてほしい。
一緒に訪ねた「千の里」で、
聡史が突然、口にしたリクエスト。
しかし、そこには、
つま弾くギターはない。
おじは、ゆっくり、グラスの中の
赤いワインを揺らし始めた——。



 ここまでのあらすじ  会社を倒産させ、破産したおじがわが家の離れに住むようになって1年になる。私は、進めていた結婚話が破談になって、家に出戻って来た。おじも、私も、母にとっては「厄介者」だった。そのおじが住む離れから、時折、ギターで弾き語りするおじの歌が聞こえてくる。そのもの悲しげなメロディが、なぜか、心に響く。私は、その歌の内容を知りたくなった。その曲は『スカボロー・フェア』という曲。おじはもう40年、その歌を歌い続けているという。私はその理由を知りたくなったが、おじは、笑ってごまかすばかりだった。そのおじが「紗世ちゃん、ほんとは、もっと好きな人がいたんじゃないの?」と言う。よみがえった名前があった。鳴尾聡史。大学のサークルの先輩で、いまは、アフリカでポランティア活動に従事している。その鳴尾に「一緒にアフリカに行かないか?」誘われたことがあったが、決断がつかなかった。日本に残って就職した私は、職場で出会った萩原一郎に「ふつうに幸せになりなよ」と言われて、心が揺らぎ、一度は結婚を決断する。しかし、萩原は街でホームレスを見かけると舌打ちするような男だった。「結婚するとは家に入ることだ」と言われて、「この人、違う」と思った私は、結婚をキャンセルすることを決めた。そんなある日、おじに来客があった。尾崎と名乗る初老の客。ふたりの会話の中に「真坂千里」という名前が出てきた。その千里がハーブ・パンの店をやっていると言う。彼女は、かつて、おじが愛した女だった。しかし、ふたりは別れた。青い理想を語るおじは、「ふつうの幸せ」を求める彼女を理解できなかったのだ。私は内緒でその店をのぞいてみたくなった。「千の丘」という名のハーブ・パンの店。その店名は、「七つの水仙」という曲の歌詞から取ったという。そして、その曲を彼女に教えたのは、かつて、彼女が愛した男だった。「この前のパンがおいしかったから」と、再び店を訪ねた私に、千里はガーリックトーストをブルスケッタにして食べさせてくれた。次の日曜日、私は彼女に教わったブルスケッタを作っておじに食べさせた。「懐かしい味がする」というおじにニンマリする私。そんなとき、一通のエアメールが届いた。アフリカにいる鳴尾聡史からだった。負傷して日本に帰るという。「会いたい」という聡史にどう返事をすべきか、迷う私におじは、「彼はもう、昔の彼ではなくなっているかもしれない。そんな彼を丸ごと受け入れる覚悟があるか?」と問い、そして言った。「あるなら会いなさい。私のような後悔はしてほしくないから」。千里さんも同じ「後悔」という言葉を口にした。千里さんの後悔は何か? それには答えがなかった。5年ぶりに会った聡史は、負傷した脚を引きずっていた。しかし、痛んでいるのは、体に負った傷よりも心に負った傷のほうだった。銃弾に脅えて逃げ出したことを後悔し、自分を責める「青銅の騎士」に、私は、おじから聞いた言葉を伝えた。「騎士は、何もプロである必要はないんだって」。その言葉に、少し聡史の顔が和らいだ。そして私は、聡史と砂の味のするキスを交わした。そのキスをおじがからかう。お返しに私は、おじに食べさせたパンを焼いたのが千里さんであることをバラした。その千里さんは「許してくれるなら」と、かつての恋人に再会することを望んでいる。おじはおじで、「許してもらいたいのは自分のほうだ」と言う。そして私はついに、千里さんに自分が「かつてあなたを愛した男の姪っ子」であることを告げた。しかし、そこでわかったことがある。おじと千里さんがたがいに「許してほしい」と願っていることは、まったく違っているようだった。そんなある日、私は千里さんに招かれて、閉店後の店を訪ねた。千里さんはお見せの上階にある部屋に私を招き、ふたりですき焼きを囲んだ。その部屋に、おじの写真はなかった。「なぜ?」と疑問をぶつける私に「別れたから」と言う。その理由は、おじがかつて発した受け入れがたいひと言。おじは、「子どもは嫌いだ」と言ったのだった。千里さんは、その話をおじにするのかと訊く。迷う私の目に、一帯の聖母子像が飛び込んできた。その母子像が、私に「秘密を守れ」と語っているような気がした。その秘密は、おじが発した「子どもは嫌いだ」のひと言にある、と睨んだ私は、おじのひと言を責め、その真意を問い質した。年が明けると、私はおじを散歩に誘った。少し長めの散歩。その行先は、千里さんのいる草野駅だった。40年ぶりに会ったかつての恋人同士は、おたがいに訊きたいことがあるようだった。「あれからどうしてた?」「好きな人はできなかったのか?」たがいのたがいに対する答えに、私はちょっぴり感動した。ふたりはそれからもちょくちょく顔を合わせているようだった。そんな中、私の体に変化が現れた。妊娠だった。海外赴任が決まった聡史の子を宿していたのだった。どうしよう? 迷った私は、「千の丘」を訪ねた。迷っている私の顔を見て、千里さんは「実は……」と打ち明けた。かつて千里さんはおじの子を身ごもったが、それをおじには告げずに下ろしてしまった。「同じ過ちを犯すな」と千里さんに言われて、私はすべてを聡史に打ち明けた。「すぐ結婚しよう」と言う聡史。しかし、母は激高した。その母におじが声を荒げた。「おまえ、それでも母親か?」と。そしておじは、「オレもこの家を出て行く」と言う。出て行く先は、どこか? おじは笑ってごまかすばかりだった。反対する母は放って、私は聡史をおじに会わせ、「千の里」に誘った。意気投合するおじと聡史を見て、千里さんがほほ笑んだ――。
⇒この話は、連載35回目です。この話を最初から読みたい方は、こちらから、
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 千里さんの「千の丘」には、ギターなんてものはない。
 どうするんだろう――と見ると、おじは、手にしたワイングラスの赤い液体をゆらゆらと揺らして、その色を確かめているように見えた。
 歌う気ないんだ……。
 私も、たぶん千里さんも、そう思っていた。
 でも、違った。
 おじがワイングラスを揺らしていたのは、ワインの色を確かめるためではなかった。赤い液体を揺らしながら、おじはそれをメトロノーム代わりにテンポをとっているのだった。その揺れに、おじの声がシンクロした。
 「アイ・ハヴント・エニィ・マンション(ボクには豪華な家屋敷もない)……」
 土曜日の午後、他に客もいない「千の丘」のカフェに、おじの静かな詠唱が響き渡った。
 歌……というより、詩を吟じているようなアカペラ。
 聡史は、テーブルの上に両肘をつき、組み合わせた手の上にあごを載せて、その詩に耳を傾けた。
 「アイ・ハヴント・エニィ・ランド(ボクには土地もない)……」
 私は、両手を頬に当てて、聡史が向かう広大なアフリカの大地を思った。
 「ノット・イーブン・ア・ペイパー・ダラー・トゥ・クリンクル・イン・マイ・ハンド(手に握り締めてシワシワにする1ドル札さえない)……」
 千里さんは、胸の下で両腕を組み合わせて、静かに目を閉じていた。
 「バット・アイ・キャン・ショウ・ユー・モーニング・オン・ア・サウザンド・ヒルズ(でも、ボクはキミに見せてあげることができる。千の丘にやってくる朝を)……」
 みんなの目が、そこに「千の丘の朝」を探すような、遙かな視線になった。
 「アイ・キス・ユー、アンド・ギブ・ユー・セブン・ダファディル(キミにキスをして、そして七つの水仙をあげよう)……」
 千里さんは、おじのキスと七つの水仙を受け取っただろうか――と思った。
 その目が、わずかに潤んでいるように見えた。
 そのとき、客が店に入って来て、千里さんは、少しあわてて目頭を指先で拭い、席を離れた。

    クローバー

 「そうかぁ……この歌を千里さんに……」
 聡史はひとり言のようにそう言って、おじの顔を見た。
 おじは、しばらくワイングラスの中で揺れる赤い液体を見つめていたが、その口がポツリと開かれた。
 「聡史クン……」
 「ハイ……」
 「沙世をよろしく頼む」
 珍しく神妙な、おじの声だった。その声に、聡史の背中がピンと伸びた。
 「七つの水仙を見せられるようにガンバります」
 「ウン……」
 おじは手にしたワイングラスを聡史のほうに差し出し、聡史も自分のグラスをおじのほうに差しだして、2つのグラスがカチン――と、小さな音を立てた。
 しばらく、迷っていたふうだったが、再び、おじが閉じていた口を開いた。
 「聡史クン……」
 そう言って聡史を見たおじの目に、怖いほどの鋭い、しかし、それまで見たこともないやさしい光が宿っていた。
 「死ぬなよ……」
 聡史のこめかみが、きりりと引き締まった。
 「ハイ」
 聡史はおじの言葉に深くうなずいた。うなずきながら、ゴクリ……と、おじの言葉を胸の奥深くに呑み込んだ。
 その短い言葉のやりとりは、私には立ち入ることのできない世界だった。おじと聡史は、男と男として理解を深め合ったのだ――と、私には感じられた。

    クローバー

 しばらく、おじの言葉を噛みしめていた聡史だったが、「ところで……」と、聡史はおじの顔をのぞき込んだ。
 「オヤジは、もう見せたんですか?」
 「何を……?」
 「七つの水仙を、千里さんに?」
 「若い頃に……ね。自分では見せたつもりなんだけど、沙世に言わせると、見せ方が足りなかったんだそうだよ」
 「そうなの?」
 今度は、私がおじの顔をのぞき込んだ。
 「全然……」
 「エーッ、全然なの?」
 「女の子からすると、とても見せられたとは思えないような見せ方だったんじゃないの? そうよね、おじさん。それを反省してるんでしょ?」
 「きついねェ、沙世ちゃんは……」
 言いながら、おじは頭をかいた。
 「きついの、沙世は?」と、聡史が私の顔をのぞき見る。
 横から、おじが口を挟んだ。
 「覚悟しとけよ、聡史クン。この子、ときどき、鋭いことを言うから」
 そこへ、千里さんが戻って来て、「何がきついの?」と首をかしげた。
 「あ、いや……千里さんはもう、七つの水仙を見せてもらったのかな……って思って」
 「この人に……?」
 そう言って、千里さんはおじに視線を投げかけた。
 「ハイ。牧原哲司さんに」
 「そうね。何度も……」
 「エッ、何度もですか?」
 「ええ。何度も見せてくれようとしたし、これからも見せてくれようとするだろうと思うわ。私には、それで十分……」
 千里さんは、おじの気持ちを受け取っているんだ――と思って、体の奥がじんわり温かくなった。
 聡史はひと言、「すげェ」とだけ言った。
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