コーヒーと女 連載   ローズマリーの詩   36 
母子像に刻まれた秘密
破産して家の離れに間借りするおじと、出戻りの私。それぞれの愛の物語。

子どもを産み、育てながら
彼を待つのなら、部屋を
提供すると言う千里さん。
私は聡史とおじをその部屋に
おじは、そこで、あの母子像を
見つけた。そこに刻まれた
文字におじの目が留まった——。



 ここまでのあらすじ  会社を倒産させ、破産したおじがわが家の離れに住むようになって1年になる。私は、進めていた結婚話が破談になって、家に出戻って来た。おじも、私も、母にとっては「厄介者」だった。そのおじが住む離れから、時折、ギターで弾き語りするおじの歌が聞こえてくる。そのもの悲しげなメロディが、なぜか、心に響く。私は、その歌の内容を知りたくなった。その曲は『スカボロー・フェア』という曲。おじはもう40年、その歌を歌い続けているという。私はその理由を知りたくなったが、おじは、笑ってごまかすばかりだった。そのおじが「紗世ちゃん、ほんとは、もっと好きな人がいたんじゃないの?」と言う。よみがえった名前があった。鳴尾聡史。大学のサークルの先輩で、いまは、アフリカでポランティア活動に従事している。その鳴尾に「一緒にアフリカに行かないか?」誘われたことがあったが、決断がつかなかった。日本に残って就職した私は、職場で出会った萩原一郎に「ふつうに幸せになりなよ」と言われて、心が揺らぎ、一度は結婚を決断する。しかし、萩原は街でホームレスを見かけると舌打ちするような男だった。「結婚するとは家に入ることだ」と言われて、「この人、違う」と思った私は、結婚をキャンセルすることを決めた。そんなある日、おじに来客があった。尾崎と名乗る初老の客。ふたりの会話の中に「真坂千里」という名前が出てきた。その千里がハーブ・パンの店をやっていると言う。彼女は、かつて、おじが愛した女だった。しかし、ふたりは別れた。青い理想を語るおじは、「ふつうの幸せ」を求める彼女を理解できなかったのだ。私は内緒でその店をのぞいてみたくなった。「千の丘」という名のハーブ・パンの店。その店名は、「七つの水仙」という曲の歌詞から取ったという。そして、その曲を彼女に教えたのは、かつて、彼女が愛した男だった。「この前のパンがおいしかったから」と、再び店を訪ねた私に、千里はガーリックトーストをブルスケッタにして食べさせてくれた。次の日曜日、私は彼女に教わったブルスケッタを作っておじに食べさせた。「懐かしい味がする」というおじにニンマリする私。そんなとき、一通のエアメールが届いた。アフリカにいる鳴尾聡史からだった。負傷して日本に帰るという。「会いたい」という聡史にどう返事をすべきか、迷う私におじは、「彼はもう、昔の彼ではなくなっているかもしれない。そんな彼を丸ごと受け入れる覚悟があるか?」と問い、そして言った。「あるなら会いなさい。私のような後悔はしてほしくないから」。千里さんも同じ「後悔」という言葉を口にした。千里さんの後悔は何か? それには答えがなかった。5年ぶりに会った聡史は、負傷した脚を引きずっていた。しかし、痛んでいるのは、体に負った傷よりも心に負った傷のほうだった。銃弾に脅えて逃げ出したことを後悔し、自分を責める「青銅の騎士」に、私は、おじから聞いた言葉を伝えた。「騎士は、何もプロである必要はないんだって」。その言葉に、少し聡史の顔が和らいだ。そして私は、聡史と砂の味のするキスを交わした。そのキスをおじがからかう。お返しに私は、おじに食べさせたパンを焼いたのが千里さんであることをバラした。その千里さんは「許してくれるなら」と、かつての恋人に再会することを望んでいる。おじはおじで、「許してもらいたいのは自分のほうだ」と言う。そして私はついに、千里さんに自分が「かつてあなたを愛した男の姪っ子」であることを告げた。しかし、そこでわかったことがある。おじと千里さんがたがいに「許してほしい」と願っていることは、まったく違っているようだった。そんなある日、私は千里さんに招かれて、閉店後の店を訪ねた。千里さんはお見せの上階にある部屋に私を招き、ふたりですき焼きを囲んだ。その部屋に、おじの写真はなかった。「なぜ?」と疑問をぶつける私に「別れたから」と言う。その理由は、おじがかつて発した受け入れがたいひと言。おじは、「子どもは嫌いだ」と言ったのだった。千里さんは、その話をおじにするのかと訊く。迷う私の目に、一帯の聖母子像が飛び込んできた。その母子像が、私に「秘密を守れ」と語っているような気がした。その秘密は、おじが発した「子どもは嫌いだ」のひと言にある、と睨んだ私は、おじのひと言を責め、その真意を問い質した。年が明けると、私はおじを散歩に誘った。少し長めの散歩。その行先は、千里さんのいる草野駅だった。40年ぶりに会ったかつての恋人同士は、おたがいに訊きたいことがあるようだった。「あれからどうしてた?」「好きな人はできなかったのか?」たがいのたがいに対する答えに、私はちょっぴり感動した。ふたりはそれからもちょくちょく顔を合わせているようだった。そんな中、私の体に変化が現れた。妊娠だった。海外赴任が決まった聡史の子を宿していたのだった。どうしよう? 迷った私は、「千の丘」を訪ねた。迷っている私の顔を見て、千里さんは「実は……」と打ち明けた。かつて千里さんはおじの子を身ごもったが、それをおじには告げずに下ろしてしまった。「同じ過ちを犯すな」と千里さんに言われて、私はすべてを聡史に打ち明けた。「すぐ結婚しよう」と言う聡史。しかし、母は激高した。その母におじが声を荒げた。「おまえ、それでも母親か?」と。そしておじは、「オレもこの家を出て行く」と言う。出て行く先は、どこか? おじは笑ってごまかすばかりだった。反対する母は放って、私は聡史をおじに会わせ、「千の里」に誘った。意気投合するおじと聡史。聡史は、おじに「七つの水仙」を歌ってほしいとリクエストし、おじに尋ねるのだった。「千里さんにも、七つの水仙をあげたんですか?」。「あげたつもり」というおじと「何度もくれようとはした」という千里さんの答えには、微妙なズレがあった――。
⇒この話は、連載36回目です。この話を最初から読みたい方は、こちらから、
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 草野駅は、丘陵地帯の盆地を縫うように走る私鉄の駅だ。
 その丘陵の斜面を、夕陽が赤く染めかかっていた。
 朝日にも染まるんだろうか――と思いながら、窓の外を眺めていると、千里さんが反対側のカーテンを開けながら言った。
 「夕陽もきれいだけど、朝陽もきれいなのよ。あの西側の斜面が、見る間に金色に染まっていくの」
 「ヘーッ、見てみたい……」
 「じゃ、見ればいいわ」
 「エッ……?」
 「あなたのおじさんにも言ったんだけど……」
 ああ、あの話か――と思った。
 私が家を出て子どもを生むんだったら、千里さんが、自分の部屋を提供してもいいと言っている、という話だった。
 「ハイ。おじから聞きました」
 「もしその気になったら、いつでも言って。聡史さんが日本に帰って来るまでの間、毎朝、美しい朝を見て過ごせばいいわ」
 「ほんとにいいんですか? でも、おじは……」
 「あなたのおじさん……? さぁ、どうしようかしらねェ」
 言いながら、千里さんはクスリ……と笑った。
 横で、頭を撫で回していたおじが、「ゴホン」と咳をした。
 「ボクのことはいいからさ。キミたちにとって、もっとも賢明と思える選択をするんだね。よければ、聡史クンも一緒に内見させてもらったら? そうすれば、聡史クンも安心だろ?」
 「そうね。そろそろお店、閉めちゃうし。あなたも一緒に内見する?」
 エッ――と思った。
 「おじさん、まだ内見したことないの?」
 「まだ、ボクは千里さんに受け入れてもらってないんだよ、沙世ちゃん」
 「あなたが望まなかったからよ」
 おじと千里さんのやりとりは、どこまでが本気で、どこからがジョーダンなのかわからない。
 結局、千里さんが店を閉めると、私と聡史、そして初めての「うち来る?」になったおじの3人で、千里さんの2LDKを見に行くことになった。

    クローバー

 千里さんの2LDKは、いちばん広い10畳をLDKとして使い、ひと部屋を自分の寝室として使い、もうひと部屋がまるまる使わずに空いているという。その部屋に聡史と私を案内してくれた。
 「一度も使ったことがない」という6畳のその部屋は、まるっきり、新居のままだった。
 「沙世さん、子どもが生まれたら、仕事はどうするの?」
 「うちの会社、出産から1年間の育児休暇を取ることを、会社が奨励してるんです。だから、1年間は、育児休職するつもり。その後は、何とか保育園を探して……って考えてるんだけど」
 「ウン。私も、できることがあったら、お手伝いするわ。お母さんのマネ事ぐらいだったらできると思うから」
 そう言って、私の肩に手を置いた千里さんが、ポツリともらした言葉に、ちょっとグッときた。
 「してみたかったしね……」
 それは、私だけが知っている千里さんの秘密だった。聡史は、「エッ……」という顔をしたが、私はその脇腹をチョンと肘で突いた。「何だよ?」という顔の聡史に目配せして、「どう? わたしがここで聡史を待つっていうの?」と訊くと、聡史は「ウン」とうなずいた。
 「沙世がここにいてくれたら、オレ、安心かもしれない。ほんとにいいんすか、千里さん?」
 「大歓迎よ。思いもかけず、おばあちゃん気分を味わわせてもらえるわけだし」
 「じゃ、おじいちゃんも……」と言いかけた聡史を、私はまた、ひじ打ちで止めた。

    クローバー

 リビングに戻った私たちが目にしたのは、意外な光景だった。
 おじが、リビングの床に跪いていた。
 そんなところで何してるの?
 気分でもわるくなった……?
 そう思って近づいた私は、思わず、ハッ……となった。
 跪いたおじが手にしていたのは、あの聖母子像のオブジェだった。
 おじは、その像の裏面を見て、肩を震わせていた。

 エッ……?
 何……?
 そんなところにプレート付いてたっけ……?

 その文字がチラ……と、目に飛び込んできた。
 《For an Angel in Heaven》 と刻まれているのが見えた。その下に、《Unknown to us,C&T》 とある。
 直訳すると、「私たちには未知の、天国の天使へ」ということになる。

 C&T?
 エッ……? 「C」は「千里」の「C」?
 「T」は「哲司」の「T」……?

 もしかしたら、おじの灰色の頭脳は、そのことに思いいたったのかもしれない。
 千里さんは、そのおじの前にひざを着いた。
 「わかってしまった……のね?」
 言いながら、千里さんは、母子像を抱えたおじの手に自分の手を重ねた。
 「どうして……? なぜだ……?」
 おじは、母子像に額を打ちつけながら、声を震わせた。
 「ごめんなさい……」
 千里さんはそう言って、母子像とおじの手を自分の胸元に引き寄せた。
 聡史は、いったい、何事か――という顔をしている。
 私は、その背中をトンと叩いた。
 そこは、私たちがいてはいけない場所だ、と思った。
 私は、聡史を促して、そっと、千里さんの部屋を抜け出した。
 あのふたりには、いまがいちばん大事な時間。きっと、おじなら、その時間を乗り切る知恵を見つけてくれる。そして、千里さんならきっと……。
 そう信じて、私は聡史の手を引いた。
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