2010年11月15日

結局、国民の批判的知性が無い為、又は国民が無反省なために、日本はなし崩しに敗戦し亡国するのだ

テーマ:日本崩壊亡国凶相:売国奴と愚民:衆愚政治

国民の批判的知性(直感力・直観力)の欠損が、「大東亜戦争」の敗戦の原因ではないだろうか。不合理な、理不尽な戦争を認めたのであるし、現在も、不合理な民主党超愚鈍政権の売国政策に欺されているのも国民である。
 日本人の愚劣・愚鈍さ・卑しさはどこから生まれたのか。魂が埋もれてしまったのは何故か。
 それは、やはり、江戸時代の封建主義に起因するのではないだろうか。士農工商とは言え、農民は徹底して搾り取られたのであり、また、下級武士も冷や飯を食わされたのである。
 日本人は精神が歪んでしまったのだろう。しかし、横井小楠や坂本龍馬、勝海舟、他の開国理念は東洋的精神に基づき、西洋文明の取り入れを志向したのであり、亜主欧従・入亜入欧路線であったのである。その他の国学的尊王攘夷的二項対立の脱亜入欧、富国強兵等の狂信的帝国主義路線ではなかったのである。トランス・モダン路線、武士道的貴族精神的自由民主主義である。

追記:言い換えると、敗戦によって、連合国(つまり、米国)側によって、日本は劣等と格下げさせられたのである。米国優位、日本劣位のヒエラルキーが戦後日本において支配的であると考えられる。有り体に言えば、卑屈日本である。
 このコンプレックスを乗り越える必要がある。端的に言えば、米国に押さえつけられているのが日本である。
 思うに、西洋は東洋、日本を恐れているのである。それは、つまり、自然の感性・知性である。感覚・感性の知性である。
 そう、ロゴス中心主義の西洋は感覚・感性の知性・精神の東洋を恐れているのである。これを抹殺・殲滅する意味合いが、原爆投下等にあるだろう。
 そう、西洋は東洋を恐れているのである。父権は母権を恐れるのである。
 

2007年02月27日

メルロ=ポンティの身体論について:連続的身体と超越的身体

『メルロ=ポンティ 可逆性』を拾い読みしているが、ここで、乱暴だが、直観で、メルロ=ポンティの思想を考えてみたい。

 リヴァーシブルな「襞」や両義性という用語が、裏表紙に書かれている。これは、PS理論から見ると、実にわかりやすいことである。

 これは、i*(-i)の即非事相を、メディア・ポイントの連続面で捉えた観念用語であろう。

 メルロ=ポンティの身体とは、メディア・ポイントの連続的身体面であるように思える。ここでは、対立であり、且つ、一如(いちにょ)であるという事相が発生する。しかし、力点は、後者の一如・一体性にあるように思える。だから、メディア・ポイントの連続面の思考であると思えるのである。

 問題は、身体性である。なぜ、身体論なのか。それは、思うに、先に、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性と言ったことと関係するように思えるのである。

 近代合理主義は、元知中心主義であり、個体において、元身体を排除しているのである。この排除は、単に、元身体の排除だけでなく、元知・即非・元身体という超越的差異共振性(霊性)を排除しているのである。そして、近代主義が飽和状態になると、否定された元身体が反動して発動するが、それと同時に、超越的差異共振性も発動するようになると考えられるのである。

 この観点から見ると、メルロ=ポンティの身体論は、身体的連続的同一性と超越的差異共振性との混淆であるように思えるのである。そう、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性と同質であると思えるのである。

 ここには、身体的連続的同一性と超越的即非性との未分化的混淆があると考えられるのである。身体的連続性は感覚的であり、超越的即非性は思想・観念的である。思うに、前者が文学的レトリックとなり、後者が理論的考察となり、混淆して、あのような文体を生んでいるように思えるのである。

 だから、ポスト・モダン的なのである、メルロ=ポンティは。そう、作家に近い表現であると言えよう。

 私の言葉で言えば、内身体性や大地性なのである。ここに、超越性が内在(内蔵)するのである(参照:如来蔵)。思うに、メルロ=ポンティは、明確に、内身体性=大地性を捉えていない。外在的身体と未分化である。外在的身体は連続性を発生させるのである。内身体性と外在的身体性との未分化混淆様態において、メルロ=ポンティは、思考しているのである。

 内身体性は、不連続なのである。だから、思うに、メルロ=ポンティは、超越的即非性に達するまで、後一歩であったと思うのである。

 フッサールは大天才だから、初めから、超越性(イデア)に達していた。しかし、一般には、身体において、超越性は始動すると考えられるのである。そのとき、連続性と不連続性の混淆様態になるのである。この様態にメルロ=ポンティは留まったように思えるのである。

 思うに、身体とは何だろうか。大乗仏教、とりわけ、『大乗起信論』は鋭敏である。それは、阿頼耶識(あらやしき)と如来蔵(にょらいぞう)である。しかし、前者は連続態と不連続態の中間混淆態である。後者が、超越的身体であると思う。

 ついでながら、差異共振シナジー通貨制度としての銀本位制であるが、現代の通貨制度が完全に連続性であるのに対して、不連続性の通貨制度であると思うのである。なぜなら、銀という個物は、特異性であるからである。特異性は、不連続性であるからである。また、それは、超越的身体である。超越的身体の通貨制度としての銀本位制である。

参考:
モーリス・メルロー=ポンティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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メルロー=ポンティ
メルロー=ポンティ

モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908年3月14日 - 1961年5月4日)は、フランスの哲学者。現象学を学び、その発展に尽くした。

彼の哲学は「両義性の哲学」「身体性の哲学」「知覚の優位性の哲学」と呼ばれ、従来対立するものと看做されてきた概念の<自己のの概念>と<対象の概念>を、知覚における認識の生成にまで掘り下げた指摘をしている。例えば、「枯れ木」があるとします。子供の頃(最初に見た時)は、「枯れ木」という存在を眼で見て、「枯れ木」は<名前のない現象として>知っていますが、「枯れ木」という言葉(記号)を知って初めて、恒常的に認識出来るのですね。そして、「枯れ木」という現象が「枯れ木」というものの(同一言語下で)共通した認識を得るのですね。

≪それは、「枯れ木」を含む場景を見て知っていたが、「枯れ木」という言葉を知らなかったので、「枯れ木」を知らなかった。≫という言葉に理解を求めたい。

また、精神と身体というデカルト以来の対立も、知覚の次元に掘り下げて指摘し、私の身体が<対象になるか><自己自身になるか>は、「どちらかであるとはいえない。つまり、両義的である。」とした。一つの対象認識に<精神の中のものであるか><対象の中のものであるか>という二極対立を超え、私の身体のリアリティは、<どちらともいえない>。しかし、それは無自覚な<曖昧性>のうちにあるのではなく、明確に表現された時に<両義性>を持つとした。そして、その状態が、<私という世界認識><根源的な世界認識>であるとした。そこには、既に言葉と対象を一致させた次元から始めるのではなく、そもそもの言葉の生成からの考察なのですね。それは、論理実証主義哲学、分析哲学、プラグマティズムなどの<言語が知られている次元>からの哲学に厳しい指摘をしたといえる。そこには多くの哲学の垣根を越える試みが見られ、また、異文化理解や芸術、看護学などに大きな影響を与えた。

また、そういう知覚の優位性からの、新しい存在論の試みが『見えるもの見えないもの』で見られる。しかし、彼の絶筆が『見えるもの見えないもの』であるので、志途中での彼の死は、惜しまれるものである。しかしながら、後世の哲学者による彼の思考の継承は、誤謬の修正から真理の起源まで幅広く影響を与えるものである。

[編集] 邦訳主要著作

・『知覚の現象学』 中島盛夫訳 (叢書ウニベルシタス) 法政大学出版局

・『意味と無意味』 永戸多喜雄訳 国文社

・『ヒューマニズムとテロル』改訂版 森本和夫訳 現代思潮社

・『知覚の本性初期論文集』 加賀野井秀一編訳 (叢書ウニベルシタス) 法政大学出版局

・『見えるものと見えざるもの』 クロード・ルフォール編/中島盛夫監訳(叢書ウニベルシタス)法政大学出版局

・『行動の構造』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1964)

・『眼と精神』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1966)

・『知覚の現象学1』 竹内芳郎・小木貞孝共訳 みすず書房 (1967)

・『知覚の現象学2』 竹内芳郎・木田元・宮本忠雄共訳 みすず書房 (1974)

・『シーニュ1』 竹内芳郎監訳 みすず書房 (1969)

・『シーニュ2』 竹内芳郎監訳 みすず書房 (1970)

・『弁証法の冒険』 滝浦静雄・木田元・田島節夫・市川浩共訳 みすず書房 (1972)

・『言語と自然』コレージュ・ド・フランス講義要録 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1979)

・『世界の散文』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1979)

・『見えるものと見えないもの』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1989)

・『メルローポンティの研究ノート』新しい存在論の輪郭 菊川忠夫編訳 御茶の水書房(1981)

[編集] 関連図書

・『現象学』 ジャン・フランソワ・リオタール著 高橋允昭訳 文庫クセジュ 白水社 (1965)

・『現代フランスの哲学』実存主義・現象学・構造主義 ピエール・トロティニョン著 田島節夫訳 文庫クセジュ 白水社 (1969) 

・『現象学』 木田元著 岩波新書 (1970)

・『現象学』 新田義弘著 岩波全書 (1978)

・『メルローポンティの哲学と現代社会』(上・下) L・スパーリング著 菊川忠夫訳 御茶の水書房 (1981-1982)

・『知の最前線』 現代フランスの哲学 ヴァンサン・デコンブ著 高橋允昭訳 TBSブリタニカ(1983)

・『メルローポンティの思想』 木田元著 岩波書店 (1984)

・『現象学の射程』 フッサールとメルローポンティー 水野和久著 勁草書房 (1992)

・『「自分」と「他人」をどうみるか』 滝浦静雄著 NHKブックス (1992)

・『メルローポンティ』 可逆性 鷲田清一著 講談社 (1997)

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3" より作成

カテゴリ: フランスの哲学者 | 現象学 | 身体論 | 1908年生 | 1961年没

2007年01月07日

現象、物質、連続的同一性、認識とは何か:連続的同一性と差異的同一性:内超的差異=複素数存在

ここで、基本概念について整理したい。
 主体→他者の→は連続的同一性志向性を意味する。そして、それは、主体による他者の同一性化である。そして、これは、自我を形成する(議論を簡明にするために、近代的自我をここに含めておく)。他者Xは、主体Aによって言語等を介して、連続的同一性化される。例えば、他者Xは、「木」となる。言語「木」を介して、主体Aと他者Xは、連続的同一性化しているのである。このとき、主体Aの差異、他者Xの差異は否定されているのである。つまり、本来は、他者Xは差異的同一性であり、主体Aも差異的同一性であるのであるにもかかわらず。ここでは、A= A、X=X、A≠Xが成立しているのである。連続的同一性論理があるのである。これは、自己認識方程式では、-{i*(-i)}⇒−1であろう。
 では、問題は、現象化とは何かと再考しよう。これまで、現象化を、連続的同一性化と同一視してきた。そうすると、主体・心と他者・身体との連続的同一性化が、現象化であり、同時に、自我化である。
 ここで問題は、既述したように、2つの連続的同一性化が生起することである。即ち、主体→他者と主体←他者である。これは、結果は、両者、⇒−1となり、同値である。しかし、意味するものは異なる。前者は、心的連続的同一性であり、後者は身体的連続的同一性である。(以下、連続的同一性を簡略化して、連一性と呼びたい。)
 心的連一性と身体的連一性とは、何だろうか。これは、明らかに、二元論であり、二項対立である。シーソーである。優劣コンプレックスである。しかし、事象に即して、考えたい(即事ないし即事性と言おう)。即事的に言うと、心的連一性は、自我形成であり、身体的連一性は物質的身体の形成であろう。つまり、自我と物質身体との二元論・二項対立が成立するということである。結局、現象化=連続的同一性化とは、自我/物質身体の二元論的形成であるということになるだろう。ここで、自我を知覚・認識としてもいいだろう。自我/物質身体は知覚(認識)/物質身体となり、これは、人間を含めた動物の現象様態を説明するだろう。
 さらに、知覚(認識)を広義の感覚とすれば、即ち、感覚/物質身体とすれば、植物も含めることができるし、さらには、鉱物・無機物も含めることができるだろう。これで、現象化=連続的同一性化が感覚/物質身体の二元論化であることになった。これは、作業仮説・思考実験である。
 とまれ、ここで、アインシュタインの公式E=mc^2を適用すると、このエネルギーEは、連一性のエネルギーであると見ることが可能であろう。思うに、心的連一性エネルギーを+エネルギーとすると、身体的連一性エネルギーは−エネルギーとなるだろう。あるいは、逆でもかまわない。ここで、思考実験だが、+エネルギーを通常のエネルギーとすれば、−エネルギーはダークエネルギーと関係するのではないだろうか。(先の考察からすると、神秘主義的エネルギーとなるだろう。闇のエネルギーである。思うに、近代主義は、光と闇の二元論であり、近代合理主義が光であるものの、他方の影として、神秘主義・オカルト主義・霊的世界観をもつということと、これは関係するように思えるのである。小泉/安倍自公政権は、この光/闇路線であると考えられるのである。)
 とまれ、以上から、本件のテーマが説明することができたことになる。単純に言えば、現象化とは二元論的連一化(連続的同一性化)である。そして、これは、森羅万象に当てはまるということになる。
 ここで、差異的同一性について検討しなくてはならない。なぜなら、現象化とは、本来、差異的同一性化であると述べたからであり、以上の結論と齟齬になっているからである。この矛盾をどう見るのか。
 この問題は自然・宇宙の創造力学に関わる問題である。現象化は確かに、連一化であるが、自然は、単に、現象だけではないと考えなくてはならない。つまり、当然ながら、根源には差異ないし差異共振シナジーがあるのであり、その連一化が現象化であるからである。この点の様相を検討しよう。 
 問題は、差異と連一性との関係である。現象化=連一化で感覚/物質が生起するが、ここで生起した現象個体は、確かに、連一的個体(連一体)であるが、しかし、差異的に見ると、差異を否定・排除・隠蔽した様態であるが、この差異は、潜在していると見なくてはならない。つまり、現象個体=連一体において潜在的差異が存するということである。だから、この潜在的差異を含めた現象個体=連一体が差異的同一性であると考えられるだろう。つまり、視点の問題である。単に現象界のみの視点からは、現象化とは、連一体化に過ぎないが、差異的イデア界(差異共振シナジー・即非界・イデア=メディア界)の視点から見ると、現象化とは、差異的同一性化となると言えよう。これを作業仮説・思考実験としておく。
 では、問題は、この潜在的差異の領域の問題である。これは、先に提起しておいたドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」の問題と関わると言えよう。あるいは、ジョルダーノ・ブルーノの一性の問題と。そして、さらに言えば、私が推測する限りのシェリングの自然/精神の対極・相補的同一哲学とも関係するのである。
 しかしながら、この問題は既に考察済みである。これは、内在的超越性の問題なのである。あるいは、虚軸・虚次元と実軸・実空間の関係(ガウス平面座標上の回転)の問題なのである。つまり、潜在的差異とは、内在的超越性(内超性)、虚数的存在なのである。これが、現象界・実次元からは、不可視・不可知になるのである。この内在超越次元(内超次元)に関しては、キルケゴールとフッサールが把捉していたと考えられるのである。【これは、当然、単に、内在性(ドゥルーズ&ガタリ)ではないし、単に、超越性(超越神性)ではない。】思うに、この点を明確に解明し確立したのは、プラトニック・シナジー理論だけと考えているのである。
 結局、潜在的差異とは内超的差異(複素数存在)であり、これが、思うに、ドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」、ジョルダーノ・ブルーノの一性、シェリングの精神/自然の対極的同一性と重なると推察できるのである。これで、本件の考察を終えたい。

2007年01月04日

認識と身体:ガウス平面上の1/4回転力学に基づく自然・宇宙(コスモス)の歴史・進化

 もう一度、認識と身体について考えたい。先に認識が存在であると述べた。志向性は存在でもあるのである。知即存在である。これは、言い換えると、思惟即延長ではないだろうか。あるいは、精神即身体ではないだろうか。心即身体である。
 しかし、先に、連続的同一性によって、物質化が生起すると考えたのである。心身二元論である。i*(-i)であるが、これは、主体と他者の差異共振シナジー相であるが、主体iは心、他者-iは身体と見てきたのである。つまり、心と身体とが、差異共振シナジー相では、即非様相にあるのである。おそらく正確に言うと、主体iは原心であり、他者-iは原身体であろう。これが、即非結合して心身態(原心身態)を形成しているのである。そして、これが、本来の精神である。精身と言ってもいいくらいだろう。とまれ、心身=精神から、連続的同一性化が発生して、心身二元論が生まれるのである。(宗教観念で言うと、連続的同一性が悪魔であろう。例えば、ゾロアスター教の光のアフラ・マズダは心身・精神であり、闇のアンリ・マンユが連続的同一性である。)
 この連続的同一性により心身二元論が発生し、この心は物質的心であり、身体も、当然、物質的身体である。つまり、根源の心身・精神が否定・排除・隠蔽されているのである。
 では、いったい、このとき、現象とは何なのであろうか。現象化を連続的同一性化と、これまで見たのであるが。現象化とは、同一性化と言えるだろう。イデアから、個体・個物(同一性)が発現するのだから。しかしながら、連続的同一性化と差異的同一性化があるのである。前者が物質的個体であり、後者が精神的個体である。そう、自然は、両者を産出すると言えよう。闇の個体と光の個体を産み出すと言えるだろう。−1と+1である。だから、自然は二重であると言えよう。物質的自然と精神的自然である。シェイクスピアの『リア王』で言えば、リア王の長女・次女ゴネリルとリーガンの自然と末娘コーディリアの自然である。これは一対であると言える。悪と善は一対である。暴力と調和、戦争と平和は一対であると言えるだろう。だから、この点では、ヘラクレイトスの対立と調和の一致の極性思考は正しいと言えよう。闇の自然があり、光の自然があるのである。私が先に美しいと言った、晴れた日の、海に近い川土手の木立のある家の光景であるが、その《光》は、後者であろう。つまり、精神的自然をそこに見いだしていることになるだろう。差異が共振している自然の風景なのである。そう、セザンヌの有名なリンゴの静物画も、差異共振シナジーを表現しているだろう。だから、至高美なのである。
 結局、自然は二面があるのであり、ジキルとハイドであると言えるだろう(もっと、細分化すれば、多重性である)。ユング/ヘッセのアブラクサス(善悪二重神)である。キリスト教は、悪を認めないようにしてきた。それは、善の欠如であると見ようとしたのである。
 また、近代合理主義は、連続的同一性・闇の自然に理性を見いだして、差異的同一性・光/精神の自然を否定してきたのである。つまり、物質的合理性のみを認めて、精神的合理性を排除してきたのである。唯物合理主義である。闇の合理主義、悪魔の合理主義である。
 この自然の二面性について、さらに精査しよう。同一性化は、連続的同一性化と差異的同一性があり、自然は、両者を発現したと言えるだろう。思うに、ここが、ジェンダー・性差と関係するのではないだろうか。連続的同一性化とは男性化であり、差異的同一性化とは女性化ではないだろうか。戦争と平和である。混乱を避ける為に、連続的同一性化を原雄化、差異的同一性化を原雌化と呼ぼう。つまり、自然は、この対を発現すると言えるだろう。これが、単性生殖や処女生殖で意味されていることではないだろうか。自然は、根源的に単性生殖であろう。そして、それが、対の同一性を形成すると言えるだろう。つまり、自然は、連続的同一性・原雄性と差異的同一性・原雌性の対性・極性を発生させるのであり、これが後に分化して、雄・男性と雌・女性になったのではないだろうか。しかし、根源は両極・対極性である。陰陽性である。そう、『老子』では玄牝である。神話で双子の神話や兄弟の神話(ロムスとレムノス、カインとアベル、山幸と海幸、等々)が多くあるのは、この極性の反映であろう。
 とまれ、太古においては、極性バランスがあったと考えられるのである。それが、神話では、女神の神話で表現されているものだろう(シュメール神話、クレタ神話、女媧・伏儀の神話、イザナミ・イザナギの神話、等々)。そう、闇と光のバランスが取れていたと考えられるのである。思うに、女性の方が、男性よりも、このバランスが取れていたと思われるのである。男性は、やはり、連続的同一性・闇・暴力・物質へ傾斜しているのであり、狩猟に向いていたであろう。そして、智慧・叡知は、女性のものであったであろう(魔女、巫女、等々)。つまり、ソフィア(智慧)は、女性形であるからである。
 しかし、人類史において、このバランスが崩れて、連続的同一性が特化される時代が来たのである。父権制である。また、一神教である。国家である。これをどう見るのかが、決定的ポイントである。つまり、極性バランスが崩れるという力学が発生したのである。思うに、これは、自然の二元化の徹底化であろう。連続的同一性と差異的同一性の極性から二項対立・二元論へと徹底化したと見るのが正しいだろう。分極化から分化である。即非から二元論へである。東洋から西洋へである。
 この二元論的徹底化であるが、この根因・起因は何なのだろうか。私はやはり、第二段階ないし第二回目の1/4回転を仮定したくなるのである。第一段階ないし第一回目の1/4回転で、零度の様相が発生するが、これが、差異共振シナジー様相を形成したと思うのである。そして、これが、プラスとマイナスの均衡を形成したと思うのである。つまり、陰陽性である。即非性である。しかし、第二段階・第二回目の1/4回転(i^2)で−1となるが、これが、連続的同一性の志向性を発生させたのではないだろうか。そして、これこそ、父権・一神教・国家化だと思えるのである。極性思考が破壊・解体されて、二項対立・二元論となったのである。
 この考えをさらに展開すると、第三段階・第三回目の1/4回転(i^3)が生起して、新たな零度が発生するだろう。これは、新たな差異共振シナジー様相の発生と言えるだろう。これは、父権制・一神教・国家の崩壊であろう。そして、これは、新しい母権制・多神教・共振政体(連合という言葉は語弊があるので使用しない)の発生であろう。
 このようにガウス平面での1/4回転力学を想定すると、うまく説明がつくと考えられるのである。
 では、このガウス平面(イデア・現象界)1/4回転論理で、近代主義とトランス・モダンを見るとどういうことになるだろうか。やはり、プロト・モダン、ルネサンスを考えなくてはならないだろう。これは、本来、新たな差異共振シナジーの時代の発現だと思うのである。だから、第三段階・第三回目の1/4回転による零度差異共振シナジーのエポックと考えられるのである。しかしながら、西欧ないし欧米において、連続的同一性化が強化・特化されてしまったのである。近代合理主義、近代的自我、唯物科学・技術・産業の発展である。この差異共振シナジーの歪曲・捩じ曲げをどう見たらいいのだろうか。思うに、これは、一種反動的進展と見るべきだと思うのである。差異の発動がルネサンスで起こった(正確に言うと、中世から個の志向性が欧州では生じていたのである。12世紀ルネサンスもあるのである。また、toxandoria氏がドゥンス・スコトゥスの個の哲学を述べている。)のであるが、すぐに、キリスト教的な、父権的な反動が起こり、近代主義という反動が勃発したのだと思う。そう、近代主義とは、プロト・モダンの差異主義に対する連続的同一性志向による反動であると考えられるのである。反動であるからこそ、非合理・暴力・狂気的なのである。西欧・欧米の理不尽な帝国主義、植民地主義、世界大戦等々を見よ(現代のイラク戦争が最たるものであるが)。また、だから、その帰結であると考えられる現代日本の近代主義の連続的同一性自我の狂気があると言えるだろう。
 今日、多極化路線であるが、これは、実は、近代主義という反動の崩壊であり、否定されてきたプロト・モダンの発展を意味すると言えるのである。私はトランス・モダンと呼んでいるが、これは、プロト・モダンの真の進展の意味をもつと考えられるのである。そう、toxandoria氏が新たなユマニスムに言及されていたが、それは、正鵠を射ているだろう。ルネサンスが回帰しているのである。そして、現代、ポスト・反動近代/トランス・モダンの時代であるが、これは、ネオ・ルネサンスの時代とも言えるのであるが、結局、意味されているのは、連続的同一性志向性の解体・瓦解であるということであり、父権制・一神教・国家の解体・崩壊であり、一切の近代主義の解体・崩壊・瓦解なのである。差異共振シナジー精神が顕在化したのである。不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論は、この歴史の進展・進化と平行した理論であると言えるのである。
 現代日本は、ここから見てわかるように、反動近代主義体制であり、大反動状態となっているのであり、亡国の危機なのである。差異共振シナジー/プラトニック・シナジイー理論路線へと至急に切り替える必要があるのである。
 差異共振シナジー様相化という世界進化、世界相転移の様態に、地球・宇宙/コスモスはあると言えるのだろう。英語では、様変わりをsea changeというが、これは、cosmos changeないしparadigm changeである。

2006年12月31日

精神と物質:差異共振認識/連続同一性認識の二重構造の人間

精神と物質:差異共振認識/連続同一性認識の二重構造の人間

テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係

これまで、自己認識方程式i*(-i)⇒+1を、作業仮説的に転用して、存在方程式として使用している。そして、左辺にフッサール現象学の志向性を見ているが、また、志向性は、不連続的差異論から連続的同一性の志向性であると、これまで、また、作業仮説にして、考察・検討を続けている。そして、この連続的同一性志向性を、現実態(エネルゲイア)、即ち、エネルギーと考えている。つまり、認識/存在方程式の左辺i*(-i)を可能態(デュナミス)=潜在態(ポテンシャル・エネルギー)と見て、この賦活・活性化を現実態(エネルゲイア)と考えているのである。
 そして、連続的同一性志向性=現実態(エネルゲイア)=エネルギーが、現象・物質化であると、これも、作業仮説しているのである。自己認識・存在方程式の左辺i*(-i)は、即非態、対極(太極)態であり、デュナミスであり、零度エネルギーである。これは、虚エネルギーである。【問題は、連続的同一性志向性エネルギーをどう考えるかである。これを実エネルギーとしていいのか。それとも、虚エネルギーの変容と見るべきなのか。ここでは、第2段階の1/4回転が生起すると考えているのである。だから、連続的同一性志向性エネルギーとは、次元変換エネルギーでもあることになるのである。垂直の捩れをもたらすエネルギーである。そして、これは、現象・物質を発現するのである。だから、単純に見ると、これは物質エネルギーとなるだろう。ここは実に微妙な領域である。即非態は可能態・潜在態・零度エネルギーである。これが、第2段階の1/4回転で、連続的同一性エネルギーに転化するのである。このエネルギーの解釈は2通りある。一つは、虚エネルギーに属するというもので、一つは、実エネルギーに属するというものである。ここでは、実エネルギーに属するものとして考察していきたい。つまり、虚エネルギーから、次元変換を介して、実エネルギーに転換したとここでは考えたい。】この虚エネルギーが次元変換して、実エネルギーとしての連続的同一性志向性エネルギーになって、現象・物質が発現すると考えられるのである。以上が、これまでの検討の簡単な整理である。結局、認識即存在なのである。だから、現象界は、認識即存在に満ちていることになるだろう。換言すると、物質的認識・存在に満ちているということである。つまり、唯物現象界である。
 とまれ、ここで、心身二元論を考えよう。以上のように考えると、心即身体となるはずである。そして、これが、一般に生命体・生物の様態ではないだろうか。そう、動物の場合、心即身体が本能として作用していると言えるだろう。
 しかし、人間の場合は、これに当てはまらないと言えるだろう。認識と存在が即ではなくて、ズレ・間(あいだ)・亀裂、即ち、差異があると言えよう。つまり、動物や植物の場合は、認識即存在であるが、人間の場合は、認識即非存在である。確かに、動物・植物の場合、根源は、人間と同様に、即非態である。即ち、i*(-i)であると考えられる。しかしながら、連続的同一性化して、i→-(-i)となり、連続的同一性存在となる。いわば、動物・植物の「自我」になるのである。しかしながら、人間の場合は、連続的同一性志向性の結果は同じであるが、しかし、根源がおそらく異なるのである。即非態が動物・植物と異なるのである。この問題ついては、認識と連続的同一性の問題として考察していきたい。
 何故、人間において、他の生物と比べて、認識、意識、知が顕著なのだろうか。ゲノムを見たとき、生物間では、それほど相違がないように見えるのであるが、この明白な違いは何か。ここで、作業仮説というか、思考実験をするのであるが、問題の起因は、やはり、メディア界(メディア内在超越空間:メディア内超空間)にあると推測される。メディア界は、

差異1:差異2:差異3:・・・:差異n (:は即非共振の記号)

と図式化され、即非共振している様相である。問題は、この諸差異、複数差異の、連結である。例えば、差異1と差異2が連続化するとしよう。しかし、この連続化に対して、差異3がそれを認識するとしよう。すると、差異3:(差異1=差異2)という図式となるだろう。(尚、=は連続化である。)この考え方を敷延すると、差異全体の即非総体があり、それに対して、差異の連続化=現象化という事態があり、いわば、即非認識様相と差異連続様態の二重性・二層性がここに想定できないのかと思われるのである。端的に言えば、メディア界と現象界の二重・二層性である。原認識界/現象界(認識=存在)の二重・二層性である。ここで、二点について、説明しないといけない。一つは、メディア界のもつ認識性についてであり、一つは、人間と他の生物の違いについてである。
 先ず、メディア界の認識性についてであるが、これは、永遠界であり、いわば、全知の世界である。ここでは、志向性は、連続的同一性ではなくて、差異共振的志向性であり、差異と差異は相互に他者を理解しているのである。では、このメディア界の認識とは、存在とどう関係するのだろうか。ここでは、知即存在である。だから、現象界の認識=存在と似ているのである。しかし、質が異なると考えられるのである。メディア界の認識とは、差異共振認識であるのに対して、現象界の認識とは、連続的同一性認識であるのである。そして、また、メディア界は、永遠界であり、また、無限界であるから、現象界の時空性は超越しているのである。いわば、超時空としてのメディア界・メディア空間なのである。ということで、メディア界的認識は、超時空的認識、差異共振的認識であることがわかった。
 次に、人間と他の生物の相違であるが、人間は、メディア界認識を他の生物に比べて、決定的に恵まれているのである。つまり、一般に生物では、メディア界から現象界への転化の場合、差異の連続化が発現して、生命体となり、差異自体は、いわば、連続的同一性に同化され、飲み込まれているのである。しかし、人間においては、メディア界が過剰に存しているのであり、差異が連続・現象化しても、すべて差異が連続・現象化するのではなく、連続・現象化されない差異(メディア界・差異共振界・即非態)が賦活されているのである。この連続・現象化されない差異が、人間の認識衝動であると思われるのである(作業仮説)。そうすると、この連続・現象化されない、不連続的差異の共振作用の動態を表す用語が必要なように思われるのである。零度エネルギーでいいのかもしれない。あるいは、虚エネルギー。とまれ、認識エネルギーを意味する用語が必要なのである。確かに、連続的同一性志向性エネルギーは、認識即存在であるが、それは連続性認識エネルギーなので、ここには当てはまらないのである。つまり、差異認識エネルギーの用語が必要なのである。あるいは、即非認識エネルギーの用語である。
 少し角度を変えて見ると、連続性認識エネルギーは身体・肉体になるのである。人体である。そして、十分に言うなら、連続性認識をもった身体・肉体である。これは、動物的身体である。しかるに、この動物的身体を形成しない不連続性認識のエネルギーが人間にはあると考えられるのである。そして、これが、人間本来の認識衝動であると考えられるのである。創造衝動、宗教衝動、芸術衝動も、この認識衝動に入ると考えられる。これが、人間を他の生物から区別するメルクマールと言えよう。そして、これを精神と呼んでいいのである。私が心身体と呼んだものも、ここに入ると言えよう。そう、人が「愛」と呼ぶのは、やはり、ここを指していると見るべきである。しかし、「愛」とは、実は、連続性とつながっているので、不適切であると私は考えている。共振倫理、共倫とでも言うべきではないかと思われるのである。共感性と呼んだものも、ここを指すのである。また、私がリリシズムと呼ぶものもここを指しているのである。(現代のポップスは、このリリシズムが消えている。連続性・自我の似非音楽になっているのである。)とまれ、差異即非認識動態を意味する用語として、シナジーないしシネルゲイアを暫定的にあげておきたい(日本語では、共振態か?)。すると、人間は、シナジーとエネルギーの二重ダイナミクスをもつのである。そして、これは、シナジー認識/エネルギー認識の二重性である。
 以上から、人間の特異性、即ち、差異認識性と連続性、あるいは、シナジーとエネルギー、共振態と連続態の二重・二層性が明らかになった。これは、伝統哲学では、無限と有限、永遠と時間、等々のパラドクスとして延べられてきたものである。キルケゴールがこれを的確に把捉していると言える。そして、ジョルダーノ・ブルーノも、その内在超越的一性の哲学で、これを説いていると考えられよう。
 最後に、以上の視点から、近代化について考察してみよう。直観で言えば、近代主義は、以上の二重性認識の混同があるのである。即ち、差異共振認識と差異連続認識の二つが本来あるのに、近代は、後者の認識を前者にも適用して、結局、連続認識中心主義になり、差異共振認識を否定・排除・隠蔽したのである。これが、近代合理主義であり、唯物科学主義である。近代の「理性」とは、連続的同一性の「理性」に過ぎず、また、カントの超越論的形式に過ぎず、結局、それをヘーゲルが手品的に、精神の衣装を与えて、弁証法的合理化したのである。ヘーゲルの精神とは、差異共振認識衝動を連続化して、それを連続認識に統一したものと考えられる。それは、反動的全体主義認識である。ファシズムである。そう、ナチズムの思想的淵源は、ヘーゲルだろう。

2006年12月03日

ジキル博士/ハイド氏の構造を解明する:光認識の盲目性と仏教という最初期ポスト・モダン哲学

ジキル博士/ハイド氏の構造を解明する:光認識の盲目性と仏教という最初期ポスト・モダン哲学

テーマ:超東西・コスモス・ニューポストモダン文明

以下の記事を参考にして、ジキル博士/ハイド氏の構造をプラトニック・シナジー理論から解明しよう。ジキル博士の内面とは、-(-i)であるが、この意味は何だろうか。つまり、最初の−の意味である。これは、当然、自己投影の−である。しかし、これは、隠蔽であるから、(-i)自体は存在しているのである。つまり、iである自己と(-i)の他者とが、完全に乖離・分裂しているということであろう。つまり、i/(-i)である(ここで、/は乖離・分離・分裂を意味する)。これが、ジキル博士/ハイド氏の数哲理構造であると言えよう。また、流行の自己愛性人格障害もこれで解明できよう。
 では、精緻に見ると、どこにハイド氏が存するのだろうか。それは、自己投影ないし反差異・連続的同一性であるi→(-i)に存するだろう。つまり、陽意識・認識=+エネルゲイアである。しかし、陰意識・認識=−エネルゲイアが存するはずである。即ち、(-i)→iである。結局、陽意識の−1と陰意識の −1の2つの−1が存するだろう。前者は、押しつけ・暴力である。そして、後者は、影・シャドウであろう。だから、ハイド氏は、後者である。ジキル氏の影・シャドウであるから。すると、前者が押しつけ・暴力であると言ったのを修正しないといけないだろう。確かに、前者は、押しつけ・暴力であるが、それは、作用・能動である。後者の力を取り込めば、対極化されて、自己認識+1が形成される端緒となるだろう。問題は、後者をまったく否定した場合である。
 ここで、精密に見ると、+エネルゲイアと−エネルゲイアは同時発生であると言える。連続的同一性化(陽認識)と他者的同一性化(陰認識)が同時発生するのである。思うに、自己投影とは、この同時発生の事象・様態ではないだろうか。自己即他者である。(思うに、愛とはこのことではないか。)思うに、これは、実に不思議な事象・様態であろう。自己と他者が実際は、乖離・分裂しながら、自己即他者と錯誤されるのであるから。
 とまれ、押しつけ・暴力(いじめ)の問題を考えると、それは、この±エネルゲイアの様態ではないだろうか。より正確に言えば、両者の並存様態であろう。+エネルゲイアの連続的同一性と−エネルゲイアの他者的同一性が並立していると思えるのである。さらに正しく言えば、+エネルゲイアが−エネルゲイアを隠蔽しているのだろう。ここで、視覚的認識の問題があるのである。視覚的認識は、+エネルゲイアの認識であり、−エネルゲイアの他者的同一性の認識に対してブラインドになると考えられるのである。つまり、光認識には、闇認識はできないということである。反差異・連続的同一性認識は、言語観念認識を形成するだろう。ある対象は、「リンゴ」と呼ばれる。これは、リンゴという現象個体、視覚的個体による言語観念認識である。つまり、ここでは、唯名論と実念論は同一である。−エネルゲイアの認識は、いわば、身体的認識、身心的認識を必要とすると考えられるのである。視覚的同一性と身体的同一性の相違があるだろう。視覚空間の「リンゴ」と身体空間の「リンゴ」では異なるのである(ついでに言えば、セザンヌの静物画は、後者を表現・描出しているのだろう)。光と闇、光と影である。光と闇、光と影を併せ持って、真如となると考えられるのであるが、光認識・視覚認識は、闇認識・身体認識を隠蔽してしまうのである。なんらかの原因・理由で、光認識・視覚認識が強化されると、闇認識・身体認識が看過され、無視され、さらには、無化・否定化・排除化されるのである。これが、近代合理主義・近代的自我の様態である。これが、また、遠近法空間を形成するのである。つまり、三次元空間を形成するのである(時間を加えて、四次元時空間であるが、時間空間が不可視なのである)。
 この排除された身体認識・陰認識・−エネルゲイアであるが、これは、認識されないので、非合理衝動つまり狂気になると考えられるのである。だから、この否定・排除・隠蔽された身体認識が、暴力を狂気的なものにするのである。陽認識は、単に暴力であろうが、否定された陰認識は、非合理衝動・狂気となり、狂気的暴力を反復強迫させるようになると考えられるのである。これが、ハイド氏であろう。悪魔と言ってもいいのである。私が近代的自我は狂気であると言ったことである。そして、自己愛性人格障害も、これで説明ができるだろう。つまり、近代主義の帰結としての精神病理なのである。
 では、ここで、「なんらかの原因・理由で、光認識・視覚認識が強化されると」と述べたときの、「なんらかの原因・理由」を考えてみよう。これは、既述の事柄であるが、再確認しよう。一つは、私の仮説であるが、男性は、光認識・視覚認識・陽認識に傾斜しているということである。つまり、+エネルゲイアが−エネルゲイアよりも強化されているのが男性であると私は考えるのである。おそらく、これは、奇形と言えるのかもしれない。それに対して、女性は、逆に傾斜しているのではないだろうか。つまり、−エネルゲイアの傾斜が強いということである。一種、性差である。この対極的傾斜のため、男性は、連続的同一性暴力を狂気化するのである。これが、戦争であろう。そして、女性は、他者的同一性暴力を狂気化するのである。これが、ヒステリーやオカルト主義であろう。とまれ、実害としては、当然、前者の方がはるかに巨大である。
 これが一つの原因・理由である。しかし、この性差的傾斜仮説以外を考えると、民族的傾斜仮説が考えられそうである。ここで、想起するのが、ニーチェの有名なアポロ(美術)とディオニュソス(音楽)の区別である。これを借りれば、アポロ的民族とディオニュソス的民族があることになる。そして、古代ギリシア人は、両民族の混淆であると考えられる。そして、これは、文化史的には、インド・ヨーロッパ語族・父権的民族と古ヨーロッパ民族・母権的民族との混淆であると言えるだろう。神話学的には、軍神アレス(マルス)と美神アフロディーテ(ヴィーナス)で代表されるだろう。宗教的には、一神教と多神教であろう。
 ここで、アポロ的とは、古典的芸術を考えるべきである。シンメトリカルな、幾何学的に均整の取れた美学を考えるべきである。古代ギリシアの壺を考えるといいだろう。現象リアリズムである。
 さて、そうすると、アポロ的なもの、即ち、反差異・連続的同一性に傾斜した民族が、光認識・視覚認識を強化したと言えるだろう。これが、二番目に考えられる原因・理由である。
 そして、三つ目は、キリスト教である。光の宗教としてのキリスト教である。本来、この光は、原光としての光であるが、善悪二元論から、闇を激烈に排除する結果、陰認識を排除してしまったのではないだろうか。これは、一神教の問題と言っていいだろう。多神教を否定した一神教は、偶像崇拝、感覚像を否定するのである。これは、身体否定と言っていいだろう。身体と他者と陰認識が結びついているのであるから、当然、陰認識が排除されるのである。つまり、一神教は精神と身体ないし自己と他者という次元において、前者の精神・自己を中心化して、後者を否定・排除するのである。結局、陽認識中心・主導となり、陰認識は否定・排除・隠蔽されるのである。
 ということで、1)性差、2)民族差、3)宗教差の三点を原因・理由としてあげた。さらに考えてみよう。
 思うに、認識の根本問題があると思う。フッサールに倣い、志向性を認識の根源的様相と考えよう。つまり、自己→他者、自己から他者への志向性、これが、根源的認識様相である。問題は、他者である。これは、本来、自己内の他者の認識、つまり、垂直的認識であるが、これが、自己外の他者の認識、つまり、水平的認識に変化するのである。垂直的志向性が初めにあり、次に、水平的志向性があることになる。垂直志向性においては、精神と身体とが一如である。つまり、ここでは、まだ、差異的同一性が保持されているのである。+1があるのである。しかるに、自己外認識、自己外の他者認識、水平認識に移ると、外的他者は、内的他者とは異質なのが認識されるのである。おそらく、最初は、内的他者に対するのと同様に、外的他者にも遇したであろう。つまり、差異共振的関係を投影するだろう。しかるに、外的他者は、それを跳ね返してくるのである。このとき、認識主体は、共感から反感へと転化するのである。このとき、主体の認識は、即非的なものから、主客二元論的なものに変換すると考えられるのである。つまり、主体Aと客体Bにおいて、A≠Bが成立し、A=B且つA≠Bという即非・対極共振関係が消滅するのである。コスモスの消滅である。これが、四つ目の原因・理由であるが、おそらく、これが、いちばん根本・基本的なものであろう。
 さて、では、問題は、外的他者の跳ね返しとそれによる反感化の問題を考えよう。主体は、即非的視線を外的他者に投影するとしよう。しかし、外的他者は、それに対して、反差異・連続的同一性の視線や言動を返すのである。これは、何か。思うに、原始時代、太古、人類は、狩猟採集生活において、動物を狩るが、基本は、差異共振シナジーがあるから、殺した動物を祭るだろう。これが、例えば、アイヌのイオマンテに儀礼に残ったものであろう。人類と動物ないし生物は同類なのである。熊=人である。
 しかし、この差異共振シナジー社会が崩壊するときがくる。それは、反差異・連続的同一性=自我の社会が到来するときである。簡単に言えば、国家社会の誕生であろう。それ以前の部族社会では、部族長中心の「王権社会」であり、国家はないだろう。自我の誕生が国家の誕生と通じるだろう。これは、文化史的には、父権主義の誕生である。神話学的には、父権神話、龍退治をもつ神話である。この点では、ユング心理学が詳しいだろう。龍とは、差異共振シナジー様相と考えられるのである。これを、排除するのが父権神話であり、父権主義・国家であると考えられよう。
 では、これは何を意味するのか。外的他者の乖離的対象化であろう。これは、当然、内的な他者との乖離でもあるだろう。つまり、主体内部には、本来、差異共振シナジー性が存するのであるが、それを否定するようにして、外的対象を自己から乖離するのであるから。つまり、精神と身体との乖離である。心身二元論の形成である。
 さらに突き詰めると、主客分離とは何なのか。ここで、もう一度、原点に返ろう。志向性である。陽の志向性である。自己→他者である。i→(-i)である。これは、光の志向性である。光認識である。視覚認識である。それに対して、(-i)→iは、闇の志向性、闇認識である。身体認識である。光認識とは、自己投影である。つまり、反差異・連続的同一性認識である。これは、内的世界ではなく、外的世界の認識である。そう、内的世界から外的世界へと認識が向かったときが、光認識であろう。このとき当然、闇認識は隠れるのである。排除されるのである。身体認識は排除されるのである。これが、発達すると、自我拡大であり、傲慢・自己盲目である。ヒュブリスである。おそらく、聖書に出て来る悪魔のルシファー(ラテン語では、原義は光を帯びたもの)は、これを意味するように思われるのである。
 すると、問題は、外的認識にあると言えよう。視覚認識である。しかし、私は、二つの視覚認識があると考える。外的視覚認識と内的視覚認識である。私がヴィジョンと呼ぶのは、当然、後者である。また、イマジネーションや直観と言うのも、後者である。だから、ここで、問題になっているのは、外的視覚認識である。陽認識である。おそらく、内から外へと転換するときに、精神位相が変換するのである。垂直から水平変換するときに位相が変化するのである。つまり、思うに、差異共振位相から反差異・連続的同一性位相へと変換するのである。おそらく、初めは、差異共振的に外界認識するはずであるが、これが、反差異的になるのである。何故だろうか。ここに光や現象の意味の問題があるだろう。原光は、差異共振シナジー事象であるが、これが、光現象となるときは、反差異的になると思えるのである。つまり、i→(-i)が光現象だと思えるのである。つまり、連続的同一性化が光現象だと思えるのである。そして、光認識は、当然、反差異・連続的同一性認識であると考えられるのである。闇認識、身体認識がなければ、原光の差異共振シナジー認識は形成されないだろう。(内省・瞑想や禅やヨガ等は、この闇認識、身体認識の形成方法であろう。正確に言えば、陽認識と闇認識の均衡認識形成であろう。)
 ということで、志向性の帰結(エンテレケイア・終局態)として、反差異・連続的同一性認識・現象が生起すると考えられるのである。それに対して、東洋哲学は、これを解体する認識を初期から形成したのである。闇認識・身体認識の形成方法を形成したのである。とりわけ、仏教哲学である。これは、どういうことだろうか。どうして、東洋・アジアは、光認識に対する闇認識を形成できたのだろうか。ここに仏陀の大天才・超天才性があると言えよう。彼は、目を内化したのである。志向性を再び、内的に変えたのである。回帰である。そして、調和を取ったのである。(仏陀は、人類最初のポスト・モダン哲学を説いた人物とも言えるだろう。)どうして、これが可能になったのだろうか。必然的に人間認識は、反差異・連続的同一性認識となり、差異・他者を排除するようになるのである。無明である。どうやって、闇認識に気がつくのか。(-i)→iの−エネルゲイアは常にあるのであるが。悟りはどうやってやってくるのか。そう、仏陀の内面には、おそらく、差異共振シナジーのエネルゲイアが潜在していたはずである。それが、外的現象を見て、苦しんだはずである。苦界の現世を見たのである。病苦する人間界を見て、仏陀は差異共振化したのである。深い、本質的な苦に仏陀は囚われたのである。そして、座禅して、瞑想して、解脱し、開悟・悟達したのである。空認識である。それは、差異共振界の認識である。自我の執着、つまり、連続性からの脱却にこそ、救いがあったのである。
 これはどういうことなのだろうか。瞑想によって、外的視覚認識を断ち、内的認識、身体認識へと仏陀は向かったと言えよう。フッサール的に言えば、現象学的還元によって、志向性という空を発見したのだろう。色即是空・空即是色とは、正に、i*(-i)⇒+1であろう。つまり、仏陀は、外的視覚認識を断ち、それによって闇認識、−エネルゲイアを把捉したのであると考えられる。おそらく、魔境がやってくるのである。闇認識は、過剰になると−1となり、邪道・魔道となるのである。つまり、(-i)→iは、自己を否定して、他者的同一性になるのである。(どうも、イエス・キリストは、このような様相に思えるが。)悪魔の誘惑がこれであろう。(オウム真理教や新興宗教の問題もこれであろう。)つまり、闇認識に没入した場合、自己が喪失されて、他者に帰依するのである。しかし、自己は隠蔽されるのであり、連続的同一性である自我は残るのである。やはり、−1の位相である。
 仏陀の反転によって、自己認識方法が誕生したのである。ここで、簡単に整理すると、光認識は、闇を排除するので、反差異・連続的同一性認識となるということである。つまり、必然的に、人間の認識は、光認識に達するので、闇認識を喪失する必然性があると考えられるということである。光の盲点、光の闇があるのである。つまり、光とはヴェールであり、闇を覆って、闇を見えなくさせているのである。ヴェールされた現象veiled phenomenaなのである。(参照:unveiled Isis。イシスは、やはり、差異共振シナジー事象、即ち、原光・玄光である。)光は人間を盲(めしい)にするのである。正に、無明である。無知である。これは、たいへんなアイロニー、パラドックスである。根源的転倒・倒錯性である。これで、本件の解明が済んだとしよう。
 さて、ここで、人類文明のことを考えると、おそらく、かつては、差異共振シナジー文明が普遍的であったに違いない。しかし、あるとき、陽認識・光認識に傾斜する事態となり、バランスが崩れたのである。しかし、人類は、天才たちが、叡知を形成して、差異共振シナジー位相を保持することを説いてきたのであり、仏陀に至っては、座禅・瞑想という身体的方法を発見したのである。(もっとも、これはヨガの発展と言えるだろう。)しかし、西洋文明は、この叡知を破壊する形で、光認識中心の近代主義を形成したのである。つまり、悪魔的文明を形成したのである。これは、人類史における驚天動地の事態である。人類絶滅の危機である。この原因は以上で述べたことの綜合で説明がつくだろう。大危機・超危機である。そして、東西の偉大な天才たちが、この人類の最大の危機(と言っていいだろう)に対して、「処方箋」を提示してきたのである。そして、20世紀後半にポスト・モダンが生起する。これは、光認識の解体であり、西洋文明の乗り越えを意図したものであるが、連続性の観念が強固であり、きわめて、不十分なものであった。この点は既述済みなのでここでは詳論しない。しかし、この不備を乗り越えて、不連続的差異論が生まれ、そして、それの進展であるプラトニック・シナジー理論が創造されて、ポスト・モダン、つまりポスト・オクシデント(ポスト西洋文明)の理論が真に結実したのである。これは、超東西文明の理論であり、新世界文明の理論となると考えられるのである。新ヘレニズムの理論と言ってもいいだろう。人類文明の、いわば、鬼っ子である西洋文明を乗り越える理論がようやく誕生・創造されたのである。確かに、一つの人類史の終焉である。新たな人類史が始まるのである。新コスモス人類史が始まるのである。
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■今の日本はハイド氏に変身したジキル博士のような世界



かの有名なスティーブンソンの小説『ジキル博士とハイド氏』のハイド氏のように、夜になると抑圧された無意識が悪の化身に変身して、色と欲を楽しみ、結果的に殺人等の邪悪な事件を起こしてしまう。この小説は、人間の「こころ」の仕組みを見事に描いている。社会生活で人格者であっても、潜在意識の奥深くで、「無意識」が奇妙で邪悪な欲望を隠し持っていたりする。屋外を散歩すると、私たちの身体に張り付くように「影」ができているが、日常に於いて私たちはそのことをほとんど意識していない。



私たちは、日の当たる都合のいい自分の姿だけを自分だと思い、当然のごとく自分を良い人間だと信じて疑わない。自分の影の部分、認めたくない欠点やコンプレックスは抑圧されて、「無意識」という影の部分に追いやってしまっている。その結果として、日の当たる意識の部分には上ってこなくなってしまう。もちろんこれらの邪悪なよからぬものが、「無意識」のまま抑圧され続けている限り問題はない。



私たち人間の「こころ」が、いつも健全であり続けるには、邪悪な「無意識」を抑圧し続けるための強い意志が必要となってくる。この意志のパワーが鍛えられていないと、ある日突然、このよからぬものが意識に昇ってきて、私たちの「こころ」を乗っ取ってしまう。「こころ」を乗っ取られてしまった私たちは、突然人が変わったように道徳やルールをどんどん無視して、社会のタブーである犯罪や殺人を犯すようになり、精神的な荒廃化現象が一気に表面化する流れになってしまう。

http://www.chibalab.com/news_otoshiana/documents/060810.htm


2006年11月17日

反差異・連続的同一性の発生構造について:差異共振様相から、どのように、反差異・連続的同一性が発生するのか、形成されるのか

反差異・連続的同一性の発生構造について:差異共振様相から、どのように、反差異・連続的同一性が発生するのか、形成されるのか

メディア空間においては、(+i)*(-i)が成立している。零度差異共振シナジー様相ないし事象である。これが、現象化するのであるが、そのとき、同一性化が生起する。いったい、同一性とはどこから発生するのか。もし、(+i)を原自己、(-i)を原他者とするなら、同一性とは、一般には、原自己が原他者を否定するようなものと考えられるかもしれないし、これまで、そのように見てきた。即ち、(+i)*-(-i)としての反差異・連続的同一性である。即ち、−1を帰結するのである。
 その見方は、それで、明快であるが、私の直観では、同一性、即ち、反差異・連続的同一性は、そのような-(-i)とは異なるように思えることである。この点を調べてみよう。原自己の(+i)と原他者の(-i)が共振しているが、共振は、*である。そして、共振から両者が連結様態になるのである。あるいは、両者結合するのである。それが、等号関係である。(+i)*(-i)⇒(+i)=(-i)であろう。そして、この等号が、同一性である。しかし、この様態は、差異的同一性であろう。なぜなら、(+i)と(-i)との不連続的差異が存立しているからである。ならば、反差異・連続的同一性はどのように生起するのか。それは、等号=が、両辺の(+i)と(-i)を否定したときであろう。つまり、おそらく、等号自体が、反差異・連続的同一性となるのである。だから、等号は、(+i)も(-i)も、無化して、すべて反差異・連続的同一性に還元してしまうのである。いわば、絶対的同一性である。ここにおいて、メディア空間は、完全に否定されるのである。ただ、絶対的同一性空間があるだけである。これが、物質空間、唯物空間、近代科学空間であると考えられるのである。そう、絶対的同一性が物質ないし物質の単位である。「アトム」である。「粒子」である。
 では、この等号・絶対的同一性の発生力学は何だろうか。私が、個体とは、特異性であるというとき、それは、差異的同一性ないし差異的同一性個体のことである。例えば、眼前の一個の柿は、非柿でもあるものである。平たく言えば、それを石の換わりに、武器として使用して、敵に投げつけることもできるのである。つまり、眼前の柿は、非柿=武器である。それは、差異的同一性の一例である。とまれ、そこには、潜在したエネルゲイアがあるのである。(内在超越したエネルゲイアであろう。単に内在していると言いたい気もするが、それは、プラトニックな空間において内在しているのであり、現象空間において内在しているのではないから、やはり、内在超越していると言わなくてはならない。)
 さて、この差異的同一性=特異的個体性を否定・無化した反差異・連続的同一性=絶対的同一性であるが、この否定・無化はどこから発生するのだろうか。差異の極性(即非性)を否定・無化する「力」はどこから発生するのか。ここでも、直観から言えば、差異的同一性の同一性現象だけに注目すると、確かに、眼前の一個の柿と隣にある他の一個の柿とは、排他的関係にあるのがわかる。柿Aと柿Bは、いわば、二律背反である。この柿とあの柿とは、現象空間的には、絶対的に排他的関係にあると言えよう。例えば、この柿は腐っているのであるし、あの柿は完熟して、豊潤な味覚なのである。誰が、この柿を欲するだろう。ここで、複数の飢えた人間は、互いにあの柿を求めて、相争うことになるのである。このように考えると、反差異・連続的同一性=絶対的同一性とは、現象空間と相即であることがわかる。つまり、視覚空間、純粋視覚空間としての現象空間が問題となっていると考えられるのである。純粋視覚空間は排他的である。ここに、反差異・連続的同一性=絶対的同一性が形成されていると言える。
 そうすると、問題は、純粋視覚、現象空間とは何か、ということになる。見るとは何かということになる。私の考えるヴィジョンとは、当然、内界的な映像である。それは、(+i)*(-i) ないし(+i)⇒(-i)のヴィジョンである。しかし、同一性へと転化するときには、それは、薄れていくだろう。差異的同一性は、(+i)*(-i)⇒+1である。しかし、反差異・連続的同一性は、(+i)*(-i)=+1の+1ないし1ではないのか。あるいは、絶対値の1、|1|かもしれない。これが、純粋視覚空間の同一性ではないのか。そう、左辺が無化されているのである。単に、実数の世界である。1と2とは排他的関係、1≠2である。(微分とは、不連続的差異を無視しているのであり、絶対的同一性の虚構であろう。)
 すると、先にも述べたが、⇒+1と=+1の違いが大きいと思う。前者は、エネルゲイアがあるが、後者はエンテレイケイアのみである。この違いの原因は何か。ここで想起するのは、明日野氏が、+1は、光の方向、視線の方向であると述べていたことである。つまり、現象空間形成の方向である。そして、近代とは、この方向のエネルゲイアをもっていたと考えられよう。西欧近代における遠近法の発達とは、正に、これを証するだろう。(+i)*(-i)⇒+1、これが、西欧近代の方程式であろう。正確に言えば、(+i)*(-i)=+1である。これが、西欧近代主義の方程式であろう。+1という実数の世界であり、これが、相互に排他的なのである。社会・政治空間的には、ホッブズの万人に対する万人の戦争である。
 さて、問題は、この現象空間化が+エネルゲイアに拠るならば、当然、−エネルゲイアが生起するのである、というか、同時生起である。±エネルゲイアがメディア空間に存立・共立・並存生起するからである。では、当然、−エネルゲイアの事象が生起しているはずである。つまり、−1の世界、反世界である。反現象世界である。そう、「ダーク・エネルギー」の世界である。黒い太陽の世界である。つまり、近代において、+1の現象空間だけでなく、−1の反現象空間・闇黒空間が生起しているはずである。光と闇の対発生である。しかるに、西欧近代は、光しか見ようとしないのである。デカルト哲学の合理主義は、この面があると思う。デカルトがあいまいなものを排斥して、明晰判明な観念を真理として、その他を誤謬としたが、このあいまいなものが、闇であったであろう。−1、闇の世界を、西欧近代は、排除しているのである。これは、不正義である。不正である。不公正である。一種邪悪である。初期近代ないし近世において、光と闇が同時生起したのであるが、西欧近代は、闇を無化したのである。魔女狩りとか、はその一つの発現と考えられる。そう、プロテスタンティズム自体がそのようなものでもあろう。神秘思想家のヤコブ・ベーメやエックハルトの闇が否定されたのである。近代科学は、この闇否定から生まれたと言える。
 では、何故、西欧近代は、光と同時生起した闇を否定・無化したのか。現象空間=光空間だけを肯定して、非(反)現象空間=闇空間を否定・無化したのか。今の私の直観では、それは、男性の恐怖があるのだと思う。つまり、男性は、光空間への傾斜があり、闇空間を本質的に恐怖するのではないのか。つまり、+エネルゲイアへの傾斜を男性はもっているならば、当然、−エネルゲイアへは反発するはずである。−エネルゲイアを否定し、抑圧し、排除・排斥し、隠蔽し、無化するはずである。おそらく、これである。男性の恐怖、とりわけ、アーリア民族男性の恐怖が、近代初期において生起した闇空間を否定・無化したのである。そうすると、これまで、反復してきた、近代的自我の発生の問題であるが、それは、これで解明されるだろう。何故、差異を否定するのか、と言えば、それは、男性、とりわけ、アーリア民族の男性が本来、+エネルゲイア、反差異・連続的同一性への傾斜・志向性がもっているからであるということになるのである。だからこそ、魔女狩りが起きた説明がつくだろうし、近代科学が発生したのも判明するだろう。近代科学は、他者否定的で、暴力的である。つまり、近代科学は、絶対的同一性=物質を絶対的基礎としているのであり、それ以外のものを排除・排斥するのである。
 ということで、近代的自我の成立とは、アーリア民族男性の+エネルゲイアへの傾斜・志向性に根拠があるということになったのである。そして、私が頻繁に悪魔と呼ぶものは、正に、このことに他ならない。つまり、近代初期に生起した光と闇の対空間発生に対する、アーリア民族男性の+エネルゲイアによる恐怖的反動、これが、悪魔の正体なのである。

p.s. 思えば、近代科学の創始者たちは、いわゆる、オカルトにもたいへん興味をもったのである。ニュートンの錬金術、ケプラーの占星術、これは、近代が、本来、光と闇の対発生であることの証左の一つであろう。

p.p.s.  また、この対発生を考えると、どうして、ルネサンス において、神秘思想 ・魔術・ネオ プラトニズムが興隆・流行したのかもわかるだろう。フィチーノの魔術思想 、ピコデラミランドラ の神秘思想 、ジョン・ディー の魔術思想 、シェイクスピア の魔術思想、等々。
 また、文学 のモダニズムにおいて、どうして、宗教 ・神話 や神秘思想 が導入されたのかも、理解できるだろう

2006年11月02日

写真と精神:精神的視覚と「写実」:同一性主義批判と新東洋文明曙光(はてなダイアリーから)

先に、映画 と精神 について、簡単に言及したので、ここで、本件について簡単に触れたい。もっとも、これは、芸術 と精神 ないし感覚と精神 の問題として一般化できるが、一般論 は、ここでは置いといて、写真 と精神 に限定したい。(そう、これは、デザイン と精神 、等々と展開するだろう。)

 映画 については、ベラ・バラージュの古典 の『視覚的人間 』があるが、

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003355717/sr=8-1/qid=1162439021/ref=sr_1_1/249-9325302-2790723?ie=UTF8&s=books

精神 の表現技術 の方にウェイトが置かれているだろう。(この書は、思うに、映画 の一種モダニズム的理論 だろう。)

 映画 の精神 表現については、精神 的視覚性が映画監督 に必須の資質だと思っている。つまり、美術 的資質である。それに物語 の資質等が加わって、映画芸術 が可能になるだろう。小津安二郎 の映画 (少し過大評価 ではないかと思われるが)は、やはり、美術 的側面というか、絵画的側面が強いだろう。

 では、本件の写真 と精神 のテーマ については、どうだろうか。これも、直観では、精神 的視覚性が基礎だと思うのである。つまり、やはり、美術 的資質である。(映画 や写真 は美術 芸術 に入るものであるし、漫画やアニメもそうである。しかし、精神 表現がなくてはならない。)

 精神 的視覚とは、何か、ということになる。これは、「イデア 」的視覚であるし、ヴィジョン的視覚とも言えるだろう。(神秘的に言えば、透視 に近いのであるが、「霊視」になると、これは、逆の二元 論となり、病理的倒錯である。)これを、プラトニック・シナジー理論 の視点から考察 すると、これは、とりもなおさず、不連続的差異 の即非共立的視覚ということではないだろうか。精緻に言えば、不連続的差異 即非共立的「同一性」志向視覚ではないだろうか。これを図式化しよう。

差異1☯差異2☯・・・☯差異n   (差異即非界)

において、☯→=(即非→同一性)が、プラスの志向性として生起するし、同時に、☯→dd (discontinuous difference:即非→不連続的差異 )が、マイナス の志向性として生起すると考えられる。

 精神 的視覚、イデア 的視覚とは、☯→=(即非→同一性)における→=(→同一性)に存するのではないだろうか。光の志向性と言ってもいいだろう(それに対して、→dd は、闇の志向性と呼べるのではないだろうか)。換言すると、精神 的視覚=光の志向性とは、即非共立ヴィジョンをもった「同一性」視覚ということになろう。これは、不思議 なヴィジョンではあるが、単純化すると二重のヴィジョンであるが、正確には、多重多層複合融合的ヴィジョンである。この精神 的視覚能力が、美術 的資質・才能 ・天才である。これで、すでに、写真 と精神 のテーマ は、解決しただろう。結局、現象に対して、精神 的視覚を向けて、撮影したものが写真 芸術 である。(後、闇の志向性と写真 の問題があるが、これは、課題としておこう。)

 さて、最後に、「同一性」の問題を考えたい。先に、連続 的同一性と不連続 的同一性(特異性的同一性)を区別した(これは、量的同一性と質的同一性と言い換えることもできるだろう)。しかし、同一性という言葉 は、差異の現象に対して、直に使用すると落ち着きが悪いと感じられるのである。

 →同一性と言えば問題がないのである。とまれ、精緻・厳格に検討しよう。連続 的同一性とは、差異=微分 であり、虚構に過ぎない。つまり、真正な事象には、存在 しない、ヴァーチャル なものである。では、実際の→同一性を分析的にみてみよう。

 零度差異共振 シナジーによって、諸・不連続的差異 が連結し、連続 化し、同一性となる。ここで、作業仮説であるが、諸・不連続的差異 が、それぞれ、同一性になるとしよう。つまり、差異1、差異2,・・・差異nが、すべて、同一性になるということである。つまり、差異k=同一性(連続 的同一性)【差異k→同一性が正確である】である。しかし、この多数の同一性・連続 的同一性の集合連続 体自身が、一つの連続 的同一性体を形成していると考えられるのである。ということで、差異k→同一性の連続 的集合体として、連続 的同一性体を考えることができる。(これから、→を連続 的同一性志向性を意味 する記号としよう。)差異k→同一性→同一性体となる。

 私が、これまで、連続 的同一性と呼んだものは、=同一性体(同一性個体)のことである。では、不連続 的同一性とは何かとなると、当然、→同一性体(同一性個体)のことである。簡単に言えば、→である。つまり、志向性には、差異即非共立性・差異共振 シナジー性があるということである。メディア 界があるということである。始点が存しているということである。根源が存しているということである。

 ということで、同一性の問題は、→(志向性)があるか、否かの問題なのである。近代主義とは、この→を否定・無化した観念体系であると言えるのである。結局、連続 ・同一性主義ないし連続 ・同一性中心主義である。これで、同一性の問題は解決したとしよう。

 では、→を否定・無化した近代主義は、この否定によって、どういう事象を引き起こすのかという原理的問題がある。実際的結果は、超大惨事 ・破局・悲劇・悪夢 であったことは、否定できない。理論 的に考察 しよう。→を否定・無化することは、自然 の根源的力=エネル ゲイ アを否定することになるのである。すると、当然、根元的力がブロック されるので、反動 的力が作用するのである。反作用である。この反動 的力が暴力 なのである。社会学 的に言えば、ホッブズ の万人の万人に対する戦争 である。あるいは、狂気である。パラノイア や人格障害 のような精神 病理・狂気である。そして、近代資本主義 の攻撃力である。つまり、資本 を連続 ・同一性化したために、資本 のもつ差異的エネル ゲイ アを否定しているので、暴力 ・狂気・非合理主義的な連続 ・同一性主義的資本主義 が生まれたのである。西欧・米資本主義 とは、このようなものであり、植民地主義 、帝国主義 、冷戦 、等々を生んだのである。結局、近代という時代は、人類史において、最悪の時代として記録されるのは、確実である。《悪魔 》が支配したのであるから。

 とまれ、今や、大局的に見ると、否定・無化された→が復活し、ポスト ・西欧近代のエポック 、即ち、新東洋文明の黎明期 を迎えているのである。反動 であったフランス・ポストモダン もとっくに終焉して、今や、真のポスト ・西欧近代、ポスト ・ウェスタン ・モダン である。ネオ ・プロト モダン である。ネオ ・ルネサンス である。東洋ルネサンス である。

 しかしながら、現代日本は、世界でいちばん、近代主義に汚染されて、超倒錯の社会 になっているのである。近代狂人 たちの社会 なのである。近代狂気から覚醒しないといけない。

f:id:sophiologist:20061102172928j:image

http://www.zion-jpn.or.jp/pics/k02.jpg

 狂気近代日本からのエクソダス である。今や、新東洋文明という約束の地が見えたのである。ピスガ山越えである。そう、ヘルダーリン 、キルケゴール 、メルヴィル 、ニーチェ 、フッサール 、鈴木 大拙 、西田幾多郎 、ウスペンス キー、D.H.ロレンス 、折口信夫 、多くの天才たちが、ピスガ山に達して、新たな約束の地である新東洋文明を指し示していたのである。

Overcome Continuous Identity Modern!

Practice and Realize Exodus

from the Most Insane Modern to New Orient !


http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20061103

から

連続的差異と同一性:近代の終焉と新東洋文明

今は、簡単に触れるに留めるが、私が問題にしたいのは、先に述べた不連続的同一性と連続的同一性の問題である。領域で言えば、メディア/現象境界の事象である。これは、正確には、不連続的差異論の問題であるが。同一性の問題に関して、重要な問題なので、精緻に考察したい。
 端的に言えば、差異=微分の連続体・積分に基づく同一性と不連続的差異の同一性(特異性の同一性)の問題である。もっとも、これは、不連続的差異論の成立の基礎になった問題で済んでいるものではあるが、近代科学の問題に関係するので、ここで取りあげるのである。ここで、図式化すれば、☯→=が、メディア界から現象界への図式図である。Kaisetsu氏の自己認識方程式を使用すれば、(i)・(-i) ⇒1である(この記号の方が、内在超越性ないし超越次元性を提示できるので、的確である。もっとも、Kaisetsu氏は、一人称と限定して、厳密化しているが。)。差異=微分ないし連続的差異という虚構・仮構は、☯ないし(i)・(-i)という事象を認識せずに、連続同一性とその集合を意味するのである。連続同一性を、ci(continuous identity)とすれば、ciの連続・集合体として根源界があることになるのである。ci, ci, ci, ・・・ci が、連続同一性集合体である。そして、これを積分したものが現象的同一性である。∫ciである。ここでは、連続同一性のciが共通単位となったいるのである。
 しかし、☯ないし(i)・(-i)という事象においては、当然、ciは存しないのであり、差異1☯差異2☯・・・☯差異n(思うに、差異1(i)・(-i)差異2(i)・(-i)・・・(i)・(-i)差異nと表現できるのではないか)が存在しているのであり、ここにあるのは、個々別々の不連続的差異の極性共立即ち即非である。どこにも、ciは存しないのである。ただし、即非的同一性が形成されるだろう。→=ないし⇒1である。これを私は、先に不連続的同一性と呼んだのである、ciが連続的同一性であるのに対して。
 フッサール現象学にも通じるが、近代科学は、ciをベースにして、それを数量形式=「物質」形式化して成立しているのであり、☯ないし(i)・(-i)という事象、あるいは、志向性を認識していず、無視している結果になっているのである。結局、差異=微分=連続的同一性=「物質」形式が、近代科学、唯物科学の基礎・基盤・大前提なのである。
 問題は同一性である。近代科学の同一性(ヘーゲルの観念形式)だと、個物・個体は、一般的個体になり、特異性を喪失しているのである(参考:ヘーゲル哲学:個別性は一般性である。)。ここでは、唯名論的個物・個体が、実念論的観念と一致するのである。これは、まったくの画一性、機械的同一性である。この連続的同一性が、近代的現代を支配しているのである。資本主義も、連続的同一性資本主義なのである(有り体に言えば、金融資本主義である)。そして、これを、フッサールは晩年の『ヨーロッパ諸学(諸科学)の危機と超越論的現象学』で説明していると考えられるのである。
 私が言いたいのは、事象は、不連続的同一性、特異性的同一性であるのに、それを、連続的同一性であると誤解していることである。これは、フッサールの『危機』を不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論の視点から言い換えたものである。つまり、現象という事象としての「もの」は、不連続的同一性=特異性的同一性であるにもかかわらず、近代的人間は、それを、連続的同一性として誤謬して見ているということである。つまり、近代科学幻想で、現象を見ているのであり、真の現象事象を看過されているということなのである。生活世界は、この真の現象事象を経験したものにほかならないだろう。近代主義は、連続的同一性幻想・妄想・狂信なのである。
 今や、近代は、完全に、終焉したのである。これが、ポスト西欧近代主義ないしポスト近代西欧主義である。では、いったい何が、ここで、出現したのだろうか。コスモス、プラトニック・シナジー界、メディア界、「玄牝」・太極(陰陽太陽)、等が出現しているのである。新たに、古代、東洋、アジア、母権制が復活しているのである。新しい古代ー東洋ーアジアー母権制である。新しいコスモス、新しいガイアである。新しい多神教である。新しいイシス・オシリスである。私は、
新東洋文明と呼びたい。

2006年10月30日

(i)・(-i)というプラトニック・シナジー界の内包する意味:イデア界の位置づけと二つの同一性

先にKaisetsu氏が提起された自己認識方程式、即ち、(i)・(-i)⇒1は、オイラーの等式や黄金比、等に匹敵する、否、それ以上の根源的方程式・公式のように思える(p.s. 即ち、大発見である)。とりわけ、(i)・ (-i)の部分である。これは、不連続的差異論のメディア界を指すが、プラトニック・シナジー理論では、零度差異共振シナジー界、即ち、プラトニック・シナジー界を意味する数式であると考えられる。換言すると、ここに、プラトニック・シナジー理論のエッセンスが凝縮されていると言っても言い過ぎではない。
 私は、ここから、不連続的差異論のイデア界との関係、あるいは、空間、時空間の問題を考察したいと思っている。イデア界との関係は、用語の問題が少しある。プラトンのイデアとは、ほぼ、プラトニック・シナジー界の「イデア」であると思えるのである。だから、区別するために、「メディア」という用語を使うべきかもしれないが、これも、混乱させる恐れがあるのである。
 とまれ、たとえば、プラトン的に、花のイデアとは、プラトニック・シナジー界に存すると言えるのである。花のイデアとは、デュナミスであり、また、エネルゲイアである。(ちなみに、アリストテレス哲学の問題は、超越次元を無視しているところである。プラトンの超越次元を、プラトニック・シナジー理論では、虚軸を、無視しているのである。)そして、花のイデアのあるプラトニック・シナジー界とは、プラトンのコーラ(形態形成場と考えられる)に相当するし、西田哲学の場所も、ここに相当するだろう。また、当然、鈴木大拙の即非論理学の位置(トポス)もここである。(思うに、ドゥルーズ&ガタリは、離接という概念を提起したが、それは、とりもなおさず、即非の論理のことである。しかし、彼らの不十分さは、離接を内在平面に置いていることである。内在平面とは、プラトニック・シナジー理論から言うと、プラトニック・シナジー空間、即ち、メディア空間の連続・同一性平面である。差異=微分空間である。これは、即非空間ではないのである。ところで、今思ったのは、同一性と連続的差異とは異なるのではないかということである。これについては、後ほど検討したい。)
 では、イデア界とは、プラトニック・シナジー理論から見たら、どう位置づけられるのだろうか。Kaisetsu氏のガウス平面的プラトニック・シナジー理論から見ると、虚軸が、プラトニック・シナジー界であり、実軸が現象界(「現実」界)であり、現象界を空間三次元とすると、虚軸が時間軸であり、それで、時空四次元が形成される。いわば、プラトニック・シナジー四次元時空間である。
 では、イデア界を付け加えるには、どう考えたらいいのだろうか。これまでの考え方では、イデア界のX軸の1/4回転で、メディア界のY軸が形成されると考えてきた。しかし、今では、X軸実軸は、現象界のことになっているのである。私は、先に二種類の1/4回転があるだろうと述べた。第一番目の1/4回転が、イデア界からメディア界を形成し、第二番目の1/4回転が、現象界を形成するという考え方である。そうすると、第五次元以上を考えることになる。作業仮説的に、プロトX軸、原X軸を考えれば、それが、イデア界になるだろう。あるいは、X軸をイデア界、Y軸をプラトニック・シナジー界、Z軸を現象界として考えることができるのではないだろうか。そうすると、プラトニック・シナジー界(メディア界)と現象界は、Y軸とZ軸との関係になると考えられる。
 ならば、イデア界は、X軸であり、XY平面とYZ平面の二つのガウス平面が生起するのではないだろうか。用語・概念の問題であるが、プラトニック・シナジー平面(メディア平面)は、YZ平面であり、イデア平面はXY平面になるのではないだろうか。
 とまれ、この空間視点から、上記した同一性と差異=微分の問題を考えると、思うに、同一性ないし連続・同一性とは、Z軸上の実数であろう。しかし、差異=微分の考え方とは、虚軸Y軸の即非論理を認識せずに、虚軸Y軸に連続的差異を想定していると言えるだろう。つまり、虚軸Y軸と実軸・現象軸・Z軸との直交関係を否定して、両者を一様のものとしているのである。つまり、虚軸と実軸の不連続性ないし内在超越性を認識せずに、連続・内在性を見ているのである。つまり、連続的差異の展開としての同一性である。連続的差異とは、内在平面に存すると、ドゥルーズは考えているのである。だから、この視点の同一性とは、連続的差異的同一性である。
 しかるに、プラトニック・シナジー理論における同一性とは、(i)・(-i)の即非的極性における同一性であるから、不連続的差異的同一性なのである。私が眼前に見るリンゴは、不連続的差異的同一性、あるいは、特異性的同一性のリンゴなのである。これを連続的差異的同一性のリンゴと見たら、唯物論である。唯物科学・量子論的リンゴとなるだろう。両同一性は、似て非なるものである。簡単に表記すれば、連続的同一性と不連続的同一性である。これは、まったく別のものである。どうも西洋哲学ないし哲学一般は、両者を区別して来なかったように思える。唯名論と実念論の問題、即ち、個物と観念の問題、あるいは、アリストテレス哲学とプラトン哲学の問題、唯物論と観念論の問題、等々。この問題は、現象界と超現象界の問題に還元することができるだろう。つまり、二項対立、二元論なのである、現象界主義か超現象界主義か、の問題にされてしまったのである。個物かイデアか、ということになるのである。ヘーゲルは、これを統一しようとして、弁証法を構築する。しかし、それは、連続的差異=観念の統一仮説であり、一般形式理論なのである。ヘーゲルは、個物は、同一性であるとして、この同一性観念から統一を志向するのである。しかし、この同一性は、不連続的同一性ではなくて、連続的同一性である。特異性が喪失されているのである。(特異性は、キルケゴールが宗教批判として展開することになった。)
 連続的差異論とは、言い換えると、アトム論である。現象の個体・個物の根源要素として「アトム」を考え、これが、連続して個体・個物が形成されるという考えである。単位の連続的集合としての個体・個物である。そして、この連続論においては、唯物論も観念論も同形である。連続的形式が共通なのである。つまり、唯物論とは、個物の連続的形式として物質を考えるのであり、観念論とは、個物の超次元としての連続的形式としての観念を想定するのである。つまり、西洋哲学は、特異性ないし単独性を看過しているのであり、これに対する批判が、キルケゴール、ニーチェ、フッサールによってなされたと言える。東洋からの批判者としては、鈴木大拙や西田幾多郎がいるのである。また、ロシア(ロシアは、ユーラシアと見ないといけないだろう)からは、ウスペンスキーが出たのである(『地下生活者の日記』のドストエフスキーも、これに近いだろうが、ドストエフスキーの発想は、シュティルナーの唯一者と共通すると考えられるのである。つまり、一見単独者であるが、それは、エゴイストである。つまり、(i)・(i)=−1と思われる。後で検討。)
 そして、フランス・ポストモダン(このように言えば、ポスト・モダンの用語はプラトニック・シナジー理論の発見の後でも、使用できる)は、これを発展するはずであった。とりわけ、ジル・ドゥルーズは、特異性singularityに注目して、差異哲学の創造を目指したのである。しかしながら、プラトニック・シナジー理論の成立の経緯からわかるように、ドゥルーズの差異理論は、たいへんな誤謬を犯していたのである。ポスト・ヘーゲル、即ち、ポスト・モダンという思想環境にありながらも、ドゥルーズは、連続的差異、即ち、ヘーゲルに戻るという反動行為を犯してしまったのである。そう、ドゥルーズ理論は、大反動であり、際物理論である。非常にたちが悪いのである。なぜなら、特異性singularityと言いながらも、連続的差異(差異=微分)を主張しているからである。これは、虚偽的誤謬である。ペテンである。
 さて、本論にもどると、結局、西洋哲学は、連続的形式に拘束されていたが、ポスト・ヘーゲル=ポスト・モダンとして、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、鈴木大拙、西田幾多郎、ウスペンスキーらが出現して、不連続論を提出し、ポスト・モダン環境を構築したのである。しかし、これは、フランス・ポスト・モダンという大反動によって、目隠しされてしまったのである。日本においては、フランス・ポスト・モダンを信奉する唯物論的知識人たちによって、ポスト・モダン環境が排除・隠蔽されてしまったのである。(私見では、真正なポスト・モダンに近づいたのは、柄谷行人であろう。しかし、彼は、唯物論者で、差異・「イデア」を把捉・理解できなかったのである。また、中沢新一であるが、彼は、ドゥルーズ主義者であり、似非理論家である。)そう、ポスト・モダンは、フランス知識人によって、葬られてしまったのである。似非ポスト・モダンであったのである。
 とまれ、プラトニック・シナジー理論は、ポスト・モダンの本流を復活させて、進展させたのであり、これは、連続的差異論を批判・否定して、不連続的差異である特異性のイデア論の創造的発見である。だから、本論にもどると、二つの同一性があるのであり、これを区別しないといけないのである。不連続的同一性と連続的同一性である。数式化すると、(i)・(-i)⇒1という同一性と(i)・(-i)=1という同一性である。このように考えて、先の私の考察の複雑さ、微妙さがわかるのである。具体的に言えば、眼前の柿一個であるが、これは、正しくは、不連続的同一性である現象、(i)・(-i)⇒1である。これに対して、それを連続的同一性である現象、(i)・(-i)=1と見れば、仮象である。
 さて、このよう現象同一性を見ると、プラトンのイデア論はどうなるのだろうか。現象界はイデア界の仮象であると考えているのである。(i)・(-i)から見れば、確かに1という同一性は仮象になるだろう。しかし、(i)・ (-i)⇒1から見たときは、どうだろうか。⇒1は、仮象なのだろうか。1は仮象ではなく現象である。本象であろう。思うに、ここには、プラトンのイデア論とプラトニック・シナジー理論の差異があるのではないだろうか。前者は、現象仮象論であるのに対して、後者は現象本象論である。眼前のリンゴ一個の同一性は否定すべくもないのである。これを仮象としたら、生活は成り立たないのである。この点についは、後でさらに検討したい。

2006年10月22日

現代日本の亡神的エゴイズムとプラトニック・シナジー理論

先の考察から、現代日本の狂気が、亡神によることが判明した。これは、一つのブレイクスルーに近い考え方であろう。戦後日本、天皇が人間宣言をして、現人神は消滅した。と同時に、日本の神が喪失されたと言えよう。戦後、日本人が、アメリカの物質主義文明の洗礼を受けて、唯物科学・技術・資本主義を発達させたのである。象徴天皇制になり、神のシンボルが消えたのである。あるいは、神のアレゴリーが消えたのである。人間は不可視のものに対しては、鈍感である。可視的ならば、信じるのである。神のシンボル・アレゴリーの喪失とアメリカ物質文明とが、相俟って、戦後日本、今日の日本が形成されたと言えよう。
 思うに、戦後は折口信夫を例外として、神の精神を喪失していったと言えよう。私見では、初期〜中期の大江健三郎には、神の精神が作動していたと思う。(三島由紀夫は反動である。戦後日本への反動である。)結局、近代合理主義/唯物科学・技術/戦後民主主義が戦後近代主義を形成したのであり、それは、日本人の神の精神の喪失のもたらしたのである。現代の日本人の精神の荒廃は、この帰結である。精神の悪魔化である。
 この点について、理論的に考察しよう。端的に問おう。何故、神を避けるのか、排除するのか、排斥するのか、等々。戦前、戦中は、現人神/天照大神を信仰していたのに。棄神がある。折口信夫は、敗戦に際して、日本の神敗れたりと、無念の極みにあった。神道の神が、キリスト教の神に敗れたと考えたのである。しかし、不思議なことに、日本人は、アメリカ物質文明を貪欲に取り入れたが、キリスト教は取り入れなかった。これは、韓国において、クリスチャンが多いのに比すと、なおさら、不思議である。とは言え、積極的に日本人が神の信仰を表わしたわけではないのである。
 思うに、日本の神は、隠れたのではないだろうか。一種「お隠れ」である。だからこそ、潜在的に作動しているのである。そのため、邪教が蔓延り、人々に被害をもたらしていると言えよう。政治とつるんだ宗教団体、霊感商法、カルト、等々、淫祠邪教が蔓延っているのである。
 日本人の不幸は、隠れた日本の神のエネルゲイアがありながら、それを知性・理論・合理・科学化できないことにあったのではないだろうか。戦後の公教育の基本はいわば唯物科学教育であり、神の精神教育は喪失されているのである。これは、戦前の反動である。つまり、日本人の神のエネルゲイアはありながらも、戦後の唯物教育のために、日本人はそれを意識・認識・知性化できなかったのではないだろうか。仏教はともあれ(私は葬式仏教を廃止すべきと考えているが)、神道アレルギーがあるだろう。そうかと言え、キリスト教に改宗する気持ちは少ないだろう。否、キリスト教に改宗しても、日本的宗教としてのキリスト教になるだろう。
 結局、戦後から現代、日本人の神のエネルゲイアは潜在してきたが、これを意識・知性に取り込むことができずに、唯物科学・技術・産業を進展させてきたと言えよう。戦後の日本の発展は、根源には、この日本の神のエネルゲイアが駆動していたと考えられるのである。しかしながら、政治家、官僚、知識人等は、これを利己的に利用したのである。日本人の神のエネルゲイアを国民に意識化させない方向で、導いたのである。(おそらく、ここには、北米合州国の意向もあったろう。)そう、国民自身も、神のエネルゲイアを差別して、排除してきたと思うのである。アイヌや沖縄、在日人への差別は、これと関係するだろう。連続・同一性共同体信仰によって、差異を差別排除したのである。しかし、差異こそ、神のエネルゲイアの発現である。
 私見では、オイル・ショック以後、日本は、USAと「連帯」化して、現代のような神無し砂漠となってしまったのである。亡国である。
 議論が逸れてしまったが、ここで、神のエネルゲイアと唯物無神論の関係をまとめると、戦後米国的近代主義によって、神のエネルゲイアを排除・排斥するようにして、唯物論/近代的自我・合理主義が日本人の精神に定着するようになったのである。神のエネルゲイアとは、プラトニック・シナジー理論では、差異共振シナジー・「エネルギー」(=メディア界)のことである。(このエネルゲイアを物質的エネルギーと取ってはいけない。心身・精神的エネルギーである。)このエネルゲイアの排除・排斥が、今日、日本の常態になってしまっているのである。とりわけ、東京である。これは、利己主義であり、自我中心主義である。他者の喪失である。悪魔化である。差異の排除が、精神の構造になってしまっているのである。差異否定・排除・差別の連続・同一性=二項対立精神構造が形成されているのである。この悪魔的否定精神が、日本人にいわば、憑依しているのである。ニーチェ的に、ルサンチマンと言ってもいいだろうし、現代風に、自己愛性人格障害と言ってもいいだろう。偏執狂・パラノイア・分裂症である。近代主義狂気である。
 この神のエネルゲイアの排除構造を突破しないといけない。このためには、ポスト近代主義/ポスト唯物論しかないのである。これは、ポスト西洋文明である。アジア的神の新文明が生まれなくてはならないし、理論的には、プラトニック・シナジー理論によって、誕生しているのであるが。
 最後に、何故、神のエネルゲイアを否定・差別・排除・排斥・隠蔽するのか。恐怖であろう。それは、戦後日本、近代日本を破壊するからである。近代主義のアイデンティティを破壊するからである。そう、単独・孤独となることを恐れるからである。しかし、そのために、未来は閉ざされるのである。怯懦な日本人であり、未来を喪失しているのである。とまれ、もう一度問うと、何故、差異を恐れるのか。これが、疑問である。同一性自我陶酔がそこにはあるだろう。差異を否定して同一性自己である近代的自我を形成しているのである。そう、差異とは、特異性、単独性、不連続的差異に他ならない。他者とは、まったく異なる自己が差異である。だから、差異を意識したとき、自己と他者との距離ができるのである。不連続性があるのである。しかしながら、この不連続性・不連続的差異性を、人は恐れるのである。そう他人の目である。あるいは、世間の目である。それを恐れて、自己の差異・不連続的差異を否定・排除・隠蔽するのである。これである。つまり、差異が劣弱なのである。もし、差異が強ければ、他人の目・世間の目を恐れずに、差異を肯定して積極的に思考し、実践するだろう。差異の弱さである。
 思うに、差異を肯定するには、差異の理論が必要なのである。差異の思想・哲学・科学が必要なのである。差異の文化である。差異の言語である。差異の論理である。差異の芸術である。近代主義は、連続・同一性主義であるから、差異の理論は見つかりにくいのである。また、差異は、内在超越性であるから、近代的内在主義では、見出せないのである、もっとも、きっかけは、そこにあるとしても。
 とまれ、神のシンボルの喪失、近代的自我・近代合理主義・近代資本主義、差異理論の稀少さ、連続・同一性共同体の存在、等々によって、日本人は、差異である神のエネルゲイアを排除して、近代唯物的連続・同一性=集団狂気化したと考えられるのである。この差異=日本の神のエネルゲイアの否定・排除・隠蔽とは、暴力・傲慢・狂気・不毛である。

《神》について:《神》は《存在》するが、近代主義は殺神を行った:《神》の復活

初めに、コトバありき、とは、あまりに有名なヨハネの福音書の冒頭言。しかし、原語のギリシア語では、コトバではなく、ロゴスであった。私見では、ロゴスとは、正に、《理》である。ダルマ(法)である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_%28%E4%BB%8F%E6%95%99%29
そして、プラトニック・シナジー理論(簡略して、シナジー理論)では、これは、差異共振シナジー・フィールドないしメディア・スペース(コスモス)である。そして、これが、主観的には、《神》となるのである。結局、正に、「初めに、《神》ありき」である。そして、この《神》を多様多元的に表象してきたと言えるのである。《神》も、一つの表象ではあるが。
 しかるに、西欧近代は、神殺しを行ったのである。西欧近代において、どうして神殺し、殺神を行ったのか。これは、経緯が複雑であるが、結局、これまで、論考してきたように、西洋文明、ユダヤ・キリスト教文明自体が、神殺しに帰結にしたと言えるだろう。つまり、ユダヤ・キリスト教は、連続・同一性の視点の傾斜をもっているので、それが、古代ギリシアの理性主義と結びついて、神殺しに帰結したと言えよう。ニーチェの「神は死んだ」は、ニーチェが神を殺したのではなくて、西欧、近代西欧が神を殺したということを意味しよう。
 ポスト近代主義とは、だから、神の復活なのである。D.H.ロレンスは、「知られざる神」unknown Godに言及した。これは、西洋という文脈で見ないといけない。「知られざる神」とは、東洋では、「知られた神」だと私は考える。ロゴス=ダルマの神である。それは、差異共振シナジー・フィールド=メディア・スペースの神である。アジアの神である。ヒンドゥー教の神であり、ゾロアスター教の神であり、仏教の空であり、道教のタオであり、朱子学の神であり、神道の神(「カムイ」)であり、(アメリカ大陸をユーラシアの延長と見て、)ネイティブ・アメリカンのグレート・スピリットであり、・・・、思うに、ヤハウェの母体の神でもある。神話学者のジョセフ・キャンベルが説いた「神の仮面」の神である。カントの物自体と言ってもいいだろう。スピノザの神(即自然)でもある。
 現代日本を見ると、近代西欧を模倣して、禁神である。亡神である。

今や、差異共振シナジー神がやってきたのだ。

普遍神の復活である。

唯物論は滅びたのである。
当然、唯物科学も滅びたのである。

ポスト西洋文明である。

新アジア・世界文明の時代である。


2006年10月14日

イエス・キリストについて:プラトニスト・イエスと聖パウロのキリスト教:ポスト・キリスト教の新世界

ここで、「神」をプラトニック・シナジー理論から理論化しておくと、イデア界の神とメディア界の神の二種類があると以前述べたが、前者はカオスに、後者はコスモスに相当するだろう。しかし、このカオスはコスモスを生む秩序性をもっているのである。いわば、カオスからコスモスへである。カオスとしての神は、コスモスとしての神を発現するので、また、後者が、直接、人間に関係すると考えられるので、ここでは、メディア界の神に限定したい。つまり、差異共振シナジー様態全体としての神である。そして、このエネルゲイアの神を、これまで、多様に表現してきたのである。多神教であれ、一神教であれ、汎神論であれ、アニミズムであれ、・・・。すべて、神の仮面である。万教帰一である。
 では、この観点から、即ち、相対的多元論の観点から、イエス・キリストを見るとどうなのだろうか。やはり、キリストも、神の一面に過ぎないのである。では、どういう一面なのだろうか。私の直観では、イエスは、差異共振シナジーをそれなりに体現していた人物である。共振シナジー叡知を体現していた人物である。つまり、プラトニストである。しかし、純粋なプラトニストではないように思えるのである。混濁したプラトニストのように思えるのである。どういうことかと言えば、イエスには、連続・同一性の構造が残存していたと思えるのである。つまり、自我の構造がイエスにはあったと思うのである。つまり、差異と同一性の矛盾がイエスには、あったと思うのである。だから、意外に、デカルトに似た人物であったように思えるのである。
 同一性・自我があったからこそ、「汝(自我)自身の如く、隣人を愛せよ」になるのだと思う。純正なプラトニストならば、純粋な差異共振シナジーを体現する人物ならば、「愛」を説教せずに、自己認識の必要を説くだろう、仏教のように。どうも、俗物性があったように思えるのである。イエスには、虚栄心があったように思えるのである。そう、おそらく、イエスは、善と悪との混淆である。メディア/現象境界の両義神である。おそらく、分裂症的な人格をもっていたと思う。一方では、差異共振シナジー的エネルゲイアをもっていたが、それが、連続・同一性志向性によって捩じ曲げられていると思う。本来は、差異共振シナジー的共感性を説くべきであるのに、自我的隣人愛を説いているのであるから。やはり、聖霊教の方が、はるかに、イエス教よりも、優れていると思うのである。イエス・キリストは、神の連続・同一性の仮面をもっていたと言えると思う。

p.s. 以上述べことを、別の角度から見ると、「イエス」を少なくとも二人に分けて見るべきと考えられるのである。これまで、私は、キリスト教のイエスとグノーシス主義のイエスの二人に分けてきたのである。イエス二分説を、以上の視点から、展開すると、一人はプラトニストとしてのイエスであり、一人はキリスト教のイエスということになる。換言すると、叡知論のイエスとユダヤ/キリスト教のイエスである。
 プラトニズムないし叡知主義のイエスは、上記した差異共振シナジーを体現した人物であり、『トマスの福音書』のイエス(グノーシス主義のイエス)に近い。それに対して、キリスト教のイエスは、連続・同一性を帯びた教祖である。これは、悪魔的である。
 だから、イエス像は、根本的に異なる二人の人物の像が重なっていることになるように思えるのである。これをどう見るのか、である。聖パウロの問題がある。ニーチェが指摘したように、聖パウロがキリスト教のプロデューサーであろう。そして、ギリシア教父たちは、その路線にはあるとは言え、ロゴスの受肉としてイエス・キリストを捉えたことを考えると、彼らは、プラトニストとして、叡知主義者として、考えていたように思えるのである。信仰の対象としてのイエス像を形成したのは、聖パウロであろう。思うに、聖パウロは自身の宗教体験によって、イエス・キリスト像を形成して、教祖に仕立て上げたのだろう。聖パウロには、ニーチェが批判するように、「賎民」の本能、信仰という本能があったのだろう。そのために、プラトニスト、叡知主義者のイエスを、全く異質な、キリスト教の創始者に捩じ曲げてしまったと思えるのである。聖パウロの創作としてのキリスト教である。
 このようにニーチェの大天才的な洞察も、上述のイエス二分説の一つの有力な根拠になるだろう。そのように考えると、西洋史/世界史は、超錯誤の上に形成されたと言わざるを得ないだろう。ニーチェが神の死を説いたとされるのは、正しいのである。神、ユダヤ・キリスト教の神とは何であったのか。プラトニスト・叡知主義者のイエスは、おそらく、宗教を廃棄したはずである。ユダヤ教を廃棄して、イデア叡知を説いたはずである。プラトニズムの継承者としてのイエスである。しかるに、反動が起こったのである。ユダヤ教的反動として、聖パウロが、言わば、立ち上がったのである。(思うに、これは、イタリア・ルネサンスに対する、プロテスタンティズムの反動に、類似するだろう。)この聖パウロの反動によって、プラトニスト・イエスの叡知は、かき消されたのである。ここに、証拠隠滅、焚書、魔女狩り等の超恐怖のキリスト教の歴史が始まったのである。真のイエスは、抹殺されたのである。そして、救世主イエスが誕生したのである。大捏造としてのキリスト教と言えるだろう。だから、イエスの復活とは、プラトニスト・イエスの復活でなくてはならない。ここで、想起するのは、D.H.ロレンスが『死んだ男』で表わした復活したイエスである。それは、キリスト教の教えを否定する「死んだ男」・「救世主」である。それは、復活した「オシリス」である。そして、その作品には、コスモスの不可視の薔薇が描かれている。それは、正に、差異共振シナジー界である。だから、復活した「オシリス」・「死んだ男」とは、プラトニストのイエスである。そう、だから、ニーチェを継ぐD.H.ロレンスは、真のイエスを復活させていたと言えるのである。ニーチェ/ロレンスこそ、真のイエス/プラトニスト・イエスを復活させたのである。ここで、超虚偽・超欺瞞のキリスト教的西洋史は終焉するのである。ポスト・キリスト教、ポスト・ユダヤ/キリスト教としての新しい世界史が始まるのである。そう、プラトニズムの新世界史、新人類史、新地球史、新宇宙史、新コスモス史が始まるのである。

p.p.s.  以上において、信仰・宗教と叡知・認識との二項対立的に区別しているが、私が否定しているのは、非合理主義としての信仰・宗教である。イデア叡知とは、ロゴスである。(もっとも、即非としてのロゴスであるが。)イデア叡知に基づいた信仰・宗教は肯定するし、それは、真正・正統である。しかし、単なる信仰主義・宗教主義は、否定されなくてはならないのである。不合理ゆえに我信ずという立場があるが、神は不合理ではないのである。即非という特異な合理性をもっているのである。

3p.s. 端的に言えば、有り体に言えば、キリスト教信仰は、自我信仰であるから、私は否定するのである。しかし、聖霊教・地味な野の花教・風の友愛教は、自我ではなくて、差異共振シナジー様相を信仰しているので、これは、肯定できるのである。これは、合理性の有無とも関係するのである。

2006年10月13日

検討問題:イエス・キリストとは、何か

可視的なものと、認識が結びついている(ヴィジョンvideoと観念ideaが語源的に一致する)ので、叡知=永遠の真理を可視的にする方法が、常に、人類にとって必要なのであり、それは、秘教・密教・神秘学、哲学、神話、宗教他に伝承されてきたと考えられるのである。プラトンのイデア論は、叡知の世界を知的に説いた、驚異的な理論である。また、仏教も、これに近いのである。人間は、現象界の知覚・認識を基盤とするために、この永遠の叡知を喪失しやすいのである。
 このような観点から、イエス・キリストを見ると、それは、叡知の世界を体現した人物と見ることができるように思える。しかし、その叡知的デモンストレーションが、キリスト教として、ドグマ・教条的に固定されてしまい、叡知性を喪失したと言えるのである。イエス・キリストとは、叡知の体現であると言えるのであり、それは、プラトンのイデア論と同じ真理を伝えていると考えられるのである。だから、キリスト教ではなくて、イエス・キリスト叡知実践論となるべきである。そして、それは、当然、イスラム教とも共通するものであり、万教帰一である。
 ニーチェのキリスト教批判は、宗教・教会としてのキリスト批判であり、イエス・キリスト自身は肯定しているのである。ニーチェが体現したと考えられる差異・特異性・不連続的差異・絶対的差異とは、基本的には、叡知とほぼ等価と言っていいものであり、イエス・キリストとニーチェは、同じ叡知を体現していると極論できるのである。(p.s.  この点は、もう少し丁寧に、精緻に述べるべきであろう。ニーチェが体現したのは、不連続的差異・絶対的差異・特異性そのものと考えられるのである。永遠回帰は、思うに、イデア界への回帰である。親鸞の往相回向であろう。それに対して、イエス・キリストの体現したのは、同様に、不連続的差異・絶対的差異・特異性であると考えられるが、それから、一歩進展して、差異共振シナジー様相をも体現していると思う。その差異共振シナジーは、完全に自由なものではなくて、連続・同一性の構造に囚われていると考えられるのである。差異共振シナジーは、即非の様相・様態であり、「愛」でもあるし、「愛」でもないのである。だから、イエスが説いた「愛」は、差異共振シナジーの叡知からは、連続・同一性へと傾斜していると考えられるのである。以上のように考えると、ニーチェとイエスであるが、不連続的差異性を両者もっているが、徹底しているのは、前者であり、後者は、連続・同一性の構造に囚われていると言えるのである。)
 私は聖霊教(あるいは、地味な野の花教、風の友愛教)を説いているが、これも、結局、叡知のエネルゲイアを説く宗教に過ぎないのであり、叡知普遍教そのものである。結局、ポスト・キリスト教であり、叡知論、プラトニック・シナジー理論の視点に基づき、イエス・キリストをキリスト教から救済することになるのである。仏陀も、プラトンも、イエスも、ゾロアスターも、ムハンマドも、モーゼも、老子も、朱熹も、卑弥呼も、一如である。(p.s. ガンジーも、ジョン・レノン、等々も同じである。また、スピノザやフッサールも、そうだし、D.H.ロレンスも折口信夫もそうである。同一の真理、差異共振シナジーという叡知の光とエネルゲイアを体現していたのである。)

p.s. 思うに、イエス・キリストは、叡知の実践・デモンストレーションであると述べたが、しかし、絶対的なそれではありえないだろう。時代の制約があるのである。だから、イエス・キリストの叡知実践は、一つの実践例として見るべきである。

p.p.s. 結局、差異共振シナジー叡知、メディア・エネルゲイアを、各時代、各場所において、多面的に観察した結果が、諸宗教、諸哲学、諸神話、等と言えるだろう。この叡知界は、通常の論理学や言語では捉えられない世界である。鈴木大拙氏の即非の論理学やウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」(第三の論理学)によって、把捉される世界である。これを、同一性の思考・論理で表現すると、矛盾が起きるのであり、これまで、一神教は、同一性の思考・論理(人格神)で、表現してきたので、混乱しているのである。零度差異共振シナジー界・叡知界・叡知空間を表現するには、差異の思考が必要なのである。プラトニック・シナジー理論は、それを、不連続的差異の共立・共振する世界として、理論化しているのである。

3p.s. 根源的な差異共振シナジー=イデア叡知を、様々な視点から解釈したものが、諸宗教、諸思想・哲学、諸神話・フォークロアであろう。絶対というものはありえないのである。それぞれが、一つの視点に過ぎないだろう。唯一神は、とは、一つの唯一神である。ヤハウェも、アッラーも、差異共振シナジーの一つの解釈である。つまり、諸宗教の相対性が考えられることになる。一神教は、同一性構造の視点に拠ると言えるのである。Kaisetsu氏が以前、宗教の相対性理論が成立について示唆されていたが、確かに、どの宗教で、「神」を「観測」しても、「光速」=真理は一定なのであろう。コ根源の「光」=差異共振シナジーの光・原光を、それなりに、捉えていると言えるのだろう。イデア叡知光を、どの視点からみるのかによって、諸宗教が生じるのである。ここには、宗教の進化論はないのである。宗教の共立があるだけである。相対性宗教論である。

2006年09月11日

同一性自我狂気病、自我精神病(自己愛性人格障害)について:超越論的構造におけるポストモダン事象

同一性自我狂気病、自我精神病(自己愛性人格障害)について:超越論的構造におけるポストモダン事象
テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義
自己愛性人格障害という名称は、生ぬるいと思う。自我狂気病(同一性自我狂気症)と呼ぶのが適切・的確だと思う。現代、この自我狂気病ないし自我精神病が蔓延している。この自我精神病について、再考したい。
 先に、「揺らぎのない芸術は情操を高めない」というタイトルで、記事を引用したが、自我狂気病は、確かに、「揺らぎ」がない。「揺らぎ」とは、本来、メディア界がもたらすものである。だから、これまで、差異(メディア界)を否定・排除・隠蔽する同一性中心自我の様態にぴったりとあてはまると言えよう。
 これまで理論的解明をしてきたが、やはり、この絶対的否定の原因が、よくわからないという思いがするのである。というか、不思議な感じがするのである。
 とまれ、具体的な事象で考えよう。揺らぎの有無が出たので、考えると、現在、流行しているような若者の歌には、揺らぎが欠落している。そう、若者だけでなく、いわゆる、演歌歌手の歌にも、揺らぎが欠けている。いわば、頭だけで歌っているのである。頭とは、この場合、近代的自我の頭と考えられるのである。差異・メディア界の揺らぎがないのである。これは、音楽で言えば、直接的に、響きの質の問題である。響きの質に揺らぎがないということである。共振シナジー相が排除されているということである。
 どうも、何か洗脳されている向きがあるのである。本当の歌を、生産せずに、同一性の似非歌を生産しているのである。これは、当然、同一性の自我を発生させることになる。
 ここには、観念の問題がある。言語観念である。思うに、観念は、二つはある。メディア界的観念と言語観念である。(イデアとは、本来、前者である。これは、ヴィジョンに近い観念と言えよう。また、私が先に、ウィーンフィルとベルリンフィルの相違について述べたが、ここの問題と一致する。)言い換えると、差異観念と同一性観念の違いである。結局、歌の観念が、現代、後者、同一性観念になっているということである。歌の声が、同一性観念になっているということである。これは、結局、貨幣と同じである。
 
ナルシス
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Narcissus.jpg

 同一性自我狂気病は、正に、近代主義の帰結と言えよう。この大本は、プロテスタンティズムと言っていいだろう。また、デカルトのコギトの半面の同一性からである。そう、超越論的同一性なのである。形而上学的同一性なのである。単なる現象界の同一性ではないのである。これこそ、デリダが問題にした「ロゴス中心主義」である。カント哲学の超越論的形式と等しいだろう。超越論的同一性形式と言ってもいいだろう。これは、ヒエラルキー的同一性秩序をもつものである。つまり、同一性が高位・優位にあり、差異が低位・劣位にあるという価値観である。これは、メディア界の対極性・極性を分離二元論にしたものとも言えよう。プラスとマイナスが対極を為していたが、同一性化とは、プラスを優位とし、マイナスを劣位としたのである。しかし、本来両者が極性を為していたのである。例えば、天と地との分離的二元論であるが、本来、天と地とは、対極性で一体のものである。正に、陰陽を形成していたのである。つまり、プラス・エネルギーが作用・作動して、陰陽が分離して、陽が陰に対して、優位に立ったと言えよう。ここで、留意すべきは、陰が否定されたのではなくて、差異が否定されたことである。対極性が否定されたことである。天と地との二元論は、天を優位にしても、地を優位にしても、同形である。ここにあるのは、差異、差異共振、差異極性の否定である。
 しかし、これまで、述べたように、マイナス・エネルギーが作用すると、再び、差異が発動するようになるのである。これは、超越論的領域に起こるのである。つまり、超越論的同一性形式の場に、差異が発生するのである。つまり、それまで、同一性の構造であった場(超越場、内在超越場)に差異の構造が発現するのである。これは、たいへんの事態である。つまり、それまで、アリストテレス的形式論理学の「帝国」に、対極性・即非の論理学・ターシャム・オルガヌムが出現するからである。これは、大事件である。正に、革命的事件である。この差異再発の事件こそ、ポスト近代の事象であると考えられるだろう。当然、自我は、混乱するのである。自我に差異という怪物が急襲したのである。これが、本当のポスト・モダンの意味である。いわゆる、ポストモダンは、真正のポスト・モダンの応急処置のようなものではなかったか。真正ポスト・モダン(ディープ・ポストモダン)とは、ニーチェ哲学のような事態であり、フッサール現象学の探求に存する。
 とまれ、超越論的構造における差異の再出現という大事件によって、近代的自我は混乱、カオスの状態に陥るのである。私見では、これが、「自己愛性人格障害」の本体ではないかと思えるのである。近代的自我、同一性中心自我にとって、在り得ない、不可能な事態が発現したのである。差異の力動、エネルギーが再発動・駆動したのである。この差異の発動が、近代的自我・同一自我に否定されて、反動狂気となっているのである。つまり、差異を否定しようとする憎悪・暴力・攻撃がここにあるのであるし、また、この、正に、反動暴力が、狂気凶暴な傲慢さを発生させていると考えられるのである。即ち、高位・優位の同一性自我は、差異を否定することで、成立・確立するのだが、しかし、ポストモダン事象によって、差異が再発動して、この前提が危うくされているのである。つまり、同一性を否定する差異の事象が再発現したのである。当然、同一性は、この差異を激しく否定する。蛇蝎のごとく、忌み嫌うように憎悪するのである。つまり、ポストモダン事象において、近代的自我は、分裂症、二重人格になるのである。高位・優位の同一性自我と同列の、対等の差異自我が発生するのであるが、前者が後者を否定・排除・隠蔽しようとするのである。そう、抑圧するのである。しかし、自己に存在し、また、進展するものを抑圧するので、当然、病理的になるのである。この差異への抑圧が反動病理になるのであり、これが、「自己愛性人格障害」として発症しているのだと考えられるのである。そして、唯物論的資本主義は、差異知性・差異教養・差異理性を排除しているので(ヴァンダリズム、石原都知事の都立大破壊)、この近代的自我狂気病は、治癒方法を喪失して、蔓延するのである。
 結局、近代的自我が否定した差異を肯定することが治癒につながるのである。そう、先に流行したポストモダンではだめである。DD/PS(DDPS)理論こそ、これを完遂できる理論と考えられるのである。つまり、流行したポストモダンは、DD/PS理論から見ると、メディア界に達したが、イデア界を捉えていないのであり、そのため、同一性構造から真に脱却できなかったのである。いったん、イデア界に達することから、純粋なメディア界に達することができるからである。不連続的差異の共立するイデア界に回帰して、純粋メディア界が生起するのである。これが、純粋ポストモダン、純粋ポスト構造主義である。

p.s. 同一性自我について、新たに考えると、これは、本来、差異自我が、同一性自我へと、いわば、転移ないし投影しているのである。同一性自我の投影像である。神話のナルシスであるが、水面に映る自我像とは、正に、同一性自我像であり、差異自我自身が自身をこれに投影しているのである。つまり、これは、まったく幻想・幻像なのである。差異自我自身が、同一性自我の仮面(パーソナリティ)をつけている、かぶっているからである。差異でありながら、同一性であると過信、盲信、妄信しているのである。つまり、同一性自我は、もともと、幻影・虚偽・虚構・欺瞞・虚栄的なのである。
 プラス・エネルギーの時は、これが、能動的であるからいいが、ポストモダン事象においては、仮面の具合が悪くなるのである。仮面の下の、真相が剥き出しになろうとするのである。仮面破壊が生起するのである。これに対して、同一性自我は、反動的に抑圧するために、病理・狂気的になるのである。「自己愛性人格障害」を哲学するとこうなるだろう。

p.p.s. 極性構造のエネルギーは、言い換えると、欲動・情動・衝動と言えるのではないだろうか。思うに、欲動・欲望とした呼んだ方がいいのかもしれないが。とまれ、作業仮説的に、欲望と呼んでおこう。プラス・エネルギーの場合は、同一性自我欲望である。食欲や性欲や所有欲においても、同一性自我の欲望が入るだろう。例えば、ブランド製品を欲望すると言った場合であるし、高級レストランで食事をするとか、外観の優れた者を性欲の対象にするとかである。そう、資本主義は、この同一性自我欲望と結んでいると言えよう。そのため、同一性欲望を刺激する宣伝に満ちることになるのである。
 とまれ、この同一性自我欲望がプラス・エネルギーであり、暴力である。即ち、

プラス・エネルギー=同一性自我欲望=暴力

となる。これは、また、差異への否定暴力でもある。
 しかし、問題は、マイナス・エネルギーが賦活されたポストモダン事象となる場合である。差異のエネルギーが生成して、同一性自我暴力を解体する方向にはたらくのである。この差異という他者に対して、同一性自我は、反動狂気化するのである。そう、マイナス・エネルギーとは、思うに、差異の欲望であろう。差異であることの欲望である。(ここで、ユング心理学の個性化の概念を想起する。)ここでは、差異への欲動と呼んでもいいように思える。とまれ、ポストモダン事象において、同一性自我欲望と差異自我欲望が衝突することになるのである。しかし、この事象は、超越論的構造、超越論的極性構造で生起しているので、単なる自我意識によっては、どうすることもできないのである。つまり、同一性自我は、ポストモダン事象において、いわば、ほぼ未知の経験をすることになるのである。つまり、同一性自我なので、差異に対する認識が欠落しているということである。このため、差異の欲望に対して、同一性自我は反動的な抑圧的態度をとるのである。というか、衝動的にそうなるのである。差異の欲望エネルギーが発動する。それを肯定的に受容できないので、それを抑圧するが、その抑圧が差異欲望エネルギーを反動化させて、狂気傲慢暴力攻撃衝動とするのである。つまり、同一性自我は、その差異欲望エネルギーを抑圧する態度のために、反動狂気衝動を引き起こすと考えられるのである。この差異欲望エネルギーの抑圧が、同一性自我の狂気的傲慢さを生むと考えられるのである。

3p.s. 以上のように考えると、「自己愛性人格障害」・同一性自我狂気病の原因は、子供の時期の親から見捨てられる経験というトラウマ云々よりは、差異認識の欠落・欠如・欠損によるのではないのかと思えてきたのである。付け加えると、豊かな自然体験のそれである。この場合、自然とは、勿論、農村・漁村・山村等々における自然を含めて、いいのであるし、野趣の残る自然でもいいのである。
 すると、結局、なんらかの差異経験・体験の欠落が考えられるのである。「揺らぎがない」状態とは、正に、このことから発したと考えられるのである。子供たちに、同一性教育をして、差異教育していないのである。狂育である、正に。やはり、戦後唯物科学中心教育の帰結であろう。
 そう、「自己愛性人格障害」・同一性自我狂気病とは、トラウマというよりは、唯物科学教育の産物と見た方がいい。唯物科学とは、正に、同一性自我形式をもつのである。だから、
同一性自我/唯物科学教育が真因である。私は、近代的自我は、現代において、狂気になっていると執拗に論じたが、それは、正鵠を射ていたと言わなくてはならない。

4p.s. 言及するのを忘れていたが、オウム真理教事件であるが、正に、理系出身の青年たちが、多く関与していたことを想起するのである。同一性自我/唯物科学教育(狂育)を彼らは受けてきて、差異教育を受け来なかったため、差異が狂気反動化してしまったと考えられるのである。唯物科学は、悪魔の科学である。これを、明確に、認識しないといけない。真にイデア論に基づく科学が、天使の科学であろう。

DD/PS理論が、ポスト唯物悪魔科学としてのイデア論的天使科学を創造できるだろう。

2006年09月10日

自己愛性人格障害と近代的自我:超越的連続・同一性構造と超次元知的存在の新創世記

自己愛性人格障害と近代的自我:超越的連続・同一性構造と超次元知的存在の新創世記
テーマ:ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明
自己愛性人格障害や境界性人格障害に関しての説明を少し読んだが、根本において、親から見捨てられる不安から、発症するように思えた。
 以前、近代的自我の発生に関して、「心」の冷暗化を仮説したことがあるが、このような不安は、一種「心」の冷暗化に関係すると言えるだろう。私は、理論的に突き詰めて、では、何故、親、この場合は、母親は、このように子供に依存するのかである。やはり、親自身の問題であり、親の「心」の冷暗化の原因を考えなくてはならない。
 結局、個・自我としての自律の問題である。「我在り」ないし「我思う」の問題である。不連続的差異論dd論から見ると、メディア界の問題である。言い換えると、自我存在の基盤の問題である。
 デカルトは、コギトに基盤を求めたのである。しかし、デカルト哲学の問題は、やはり、メディア界の問題だと思う。コギトは、原点としては、メディア界を含むだろうが、近代的自我となると、メディア界を排除することになるのだ。コギト→近代的自我の移行には、メディア界の排除があるのである。だからこそ、ここには、暴力があるのである。自他への暴力である。そして、ここに、自己愛の問題が発生すると思えるのである。これまで、既述したように、自他の他者・差異の否定・排除・隠蔽である。しかし、これは、極性力学に拠るのであり、必然である。問題になるのは、マイナス・エネルギーが賦活されて、反動化するときである。つまり、賦活される差異を容認しない、反発的な、否定的な姿勢をとるときである。
 問題は、何故、差異を容認しようとしないのかである。確かに、差異は、同一性自我の体系を破壊・解体するのであるから、同一性自我にとって、たいへん不安である。同一性自我である近代的自我自体が、差異を否定しようとするのである。
 現代、自己愛性人格障害が起こるのは、差異を否定する強固な同一性自我が存するからである。私は、近代的自我の反動態として見ているのである。これまで述べたように、「ポストモダン」様相とは、マイナス・エネルギーが賦活され、差異の志向性が発動するので、その発動に対して、同一性自我=近代的自我が、反動的に否定的な反応を起こすのであり、この反動的否定反応こそが、精神病理なのである。
 また、これも既述したように、差異を否定する唯物論文化が主導的なので、差異を肯定する「教養」がないので、差異への受容力がなくなっていることも、一因であると考えられるのである。そう、だから、結局、ポスト・近代主義の発動という実在的な主観・主体的環境における、近代主義の「末期症状」であると見ることができるのである。問題が複雑化しているのは、いわゆる、ポストモダンの運動が挫折したことで、ポスト・近代主義の視点を喪失して、近代からのエクソダスの地平がなくなり、近代主義の反動様態が支配していることである。ポストモダンやポスト構造主義で、夜明けが来たかと思えたが、それは、中途半端な光であり、そのため、真のポスト・近代主義へのブレークスルーにならなかったのである。
 不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論の観点から見ると、この近代主義の大反動様態は、理論・知の衰退に大きく存していると思う。有り体に言えば、現代を批判解明し、未来を切り開く理論・知が欠落していることである。これは、明らかに、衰退路線である。
 近代的自我は、無反省のままで、継続していて、自滅へと進んでいるのである。
 そう、まったく、プラトンの洞窟の影像に見入っている反動様態である。狂気ではあるが、妄想狂気(妄狂)自我相である。近代合理主義=唯物論の傲りの結果である。また、カント哲学の限界に拠るとも言えよう。物自体の合理性・ロゴスをカントは理論化できなかったのである。それは、フッサール現象学が行ったのであるが、ハイデガーがそれを後退的に隠蔽してしまったのである。物自体の合理性とは、超越論的主観性、志向性、ノエシス・ノエマ、間主観性、生活世界である。そして、さらに、それを空間化したのは、ウスペンスキーであったのであるが、これらが、アカデミズムにおいて、無視されてしまったのである。というか、哲学分野での、知的劣化・衰退があるのである。
 思えば、デリダやドゥルーズは、後、一歩という境界点で、物自体の世界へとブレークスルーすることができなかったのである。ニーチェ、フッサール、ウスペンスキー、西田幾多郎、鈴木大拙、他の始動的ブレークスルーを継承できなかったのである。そして、また、量子力学も、近代唯物科学の枠に留まったままである。
 結局、これまでの結論を繰り返すしかないが、連続・同一性内在超越構造を徹底して解体する方法しか、真のブレークスルーはありえないのである。ユダヤ・キリスト教、近代的自我、唯物論・唯物科学、ポスト構造主義、資本主義、これらは、この超越論的構造を維持したまままである。

この超越論的連続・同一性構造の解体・破壊にしか、未来は存しないと断言できるのである。

 不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論によって、この
超越論的絶対的差異進化が生起すると言えるのである。これは、東洋も西洋も超越した進化である。

そう、今や、
プラトニック進化が、人類に襲来したのである。これまでの人類は猿人類と退化するだろう。

超次元知的存在の新創世記のエポックである。

NEW GENESIS OF SUPERDIMENSIONAL INTELLIGENT BEINGS

来るべきものが来たのである!!!

2006年09月09日

キリスト教を脱構造化する:「光」の連続・同一性自我化としての「イエス・キリスト」批判


キリスト教を脱構造化する:「光」の連続・同一性自我化としての「イエス・キリスト」批判
[ 04:55 ] [ ポスト・キリスト教 ]
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『ヨハネの福音書』の冒頭はきわめて興味深い。「初めにロゴスありき」として、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論ddps理論から見ると、「ロゴス」は、メディア界・差異共振シナジー相である。そして、これが、「光」である。しかし、この「光」は、イデア・シナジーである。だから、不可視の「光」である。「闇」である「光」である。現象界の「光」ではないのである。つまり、浄土教の阿弥陀如来の「光」と等価と見ていいだろう。原光・プロトライトである。そして、この「光」が肉体化したのが、「イエス・キリスト」であるが、しかし、これは、おかしいと思うのである。すべては、「光」から生成したのであるから、誰でも、「光」を体現しているはずである。「イエス・キリスト」だけに限定されるものではないのである。凡人や悪人にさえ、「光」は潜在しているのである。そう、悪魔にさえ、「光」は潜在しているだろう。思うに、「光」の顕在をなんらかの精神修練によって実現した人物が「イエス・キリスト」であったろう。これは、「イエス・キリスト」が唯独りということはありえないのである。これは、また、D.H.ロレンスの懐疑であったのであるが。「光」の顕在的体現は、多くの、いわゆる、神秘家に生起したと考えられるのである。やはり、この点が、ドグマティックに考えられるのである。「光」の独占である。これは、不合理である。ここには、「光」の連続・同一性自我化があると思うのである。デカルトのコギトに近いと思う。そう、キリスト教は、「光」、「ロゴス」、コスモスの理(「ダルマ」)を、連続・同一性自我化していると思う。だから、やはり、ポスト・キリスト教として、キリスト教の脱連続・同一性化=不連続的差異化が必要である。
 また、ヨハネの福音書は、父とロゴスとを混同している向きがあると思う。だから、父とは、イデア界である。そして、ロゴスはメディア界である。そして、子(複数)とは、現象界である。そして、聖霊もメディア界である。聖母マリア、聖母子も、メディア界である。これらが、非常に、混乱しているように思えるのである。カオス状態にあるように思えるのである。古代の叡智が、キリスト教によって、カオス状態にされてしまったように思えるのである。狂乱のキリスト教ではないだろうか。狂気の、精神異常の、精神分裂症のキリスト教ではないだろうか。
 聖書は、文学、フィクション、物語として見るといいと思う。しかし、これは、古代の叡智の破壊ではないか。ポスト・キリスト教である。

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English: New American Standard Bible Japanese: JKUG
John 1 [Commentary]
1. In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2. He was in the beginning with God. この言は初めに神と共にあった。
3. All things came into being through Him, and apart from Him nothing came into being that has come into being. すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
4. In Him was life, and the life was the Light of men. この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
5. The Light shines in the darkness, and the darkness did not comprehend it. 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
6. There came a man sent from God, whose name was John. ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
7. He came as a witness, to testify about the Light, so that all might believe through him. この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
8. He was not the Light, but he came to testify about the Light. 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
9. There was the true Light which, coming into the world, enlightens every man. すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
10. He was in the world, and the world was made through Him, and the world did not know Him. 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
11. He came to His own, and those who were His own did not receive Him. 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
12. But as many as received Him, to them He gave the right to become children of God, even to those who believe in His name, しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
13. who were born, not of blood nor of the will of the flesh nor of the will of man, but of God. それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
14. And the Word became flesh, and dwelt among us, and we saw His glory, glory as of the only begotten from the Father, full of grace and truth. そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
15. John *testified about Him and cried out, saying, "This was He of whom I said, `He who comes after me has a higher rank than I, for He existed before me.' " ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。
16. For of His fullness we have all received, and grace upon grace. わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。
17. For the Law was given through Moses; grace and truth were realized through Jesus Christ. 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
18. No one has seen God at any time; the only begotten God who is in the bosom of the Father, He has explained Him. 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。
19. This is the testimony of John, when the Jews sent to him priests and Levites from Jerusalem to ask him, "Who are you?" さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。
20. And he confessed and did not deny, but confessed, "I am not the Christ." すなわち、彼は告白して否まず、「わたしはキリストではない」と告白した。
21. They asked him, "What then? Are you Elijah?" And he *said, "I am not." "Are you the Prophet?" And he answered, "No." そこで、彼らは問うた、「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ」と答えた。
22. Then they said to him, "Who are you, so that we may give an answer to those who sent us? What do you say about yourself?" そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答えを持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。
23. He said, "I am A VOICE OF ONE CRYING IN THE WILDERNESS, `MAKE STRAIGHT THE WAY OF THE LORD,' as Isaiah the prophet said." 彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。
24. Now they had been sent from the Pharisees. つかわされた人たちは、パリサイ人であった。
25. They asked him, and said to him, "Why then are you baptizing, if you are not the Christ, nor Elijah, nor the Prophet?" 彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。
26. John answered them saying, "I baptize in water, but among you stands One whom you do not know. ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。
27. "It is He who comes after me, the thong of whose sandal I am not worthy to untie." それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。
28. These things took place in Bethany beyond the Jordan, where John was baptizing. これらのことは、ヨハネがバプテスマを授けていたヨルダンの向こうのベタニヤであったのである。
29. The next day he *saw Jesus coming to him and *said, "Behold, the Lamb of God who takes away the sin of the world! その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

http://unbound.biola.edu/index.cfm?method=unbound.welcome
から

近代的自我と言葉の関係:言語とは何か:言語とメディア界の関係について:「初めにロゴスありき」


近代的自我と言葉の関係:言語とは何か:言語とメディア界の関係について:「初めにロゴスありき」
[ 03:18 ] [ 言語と差異 ]
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「初めに言葉ありき」とは、あまりに有名なヨハネの福音書の冒頭の言である。しかし、何度も既述したが、原語のギリシア語では、「初めにロゴス(ο λογος)ありき」なのである。「言葉」と「ロゴス」は、一般に、同じものを意味していると考えられている。しかし、誰が見ても、両者、異なるのである。
 英語の欽定聖書やドイツ語のルター訳聖書では、「言葉」と訳(誤訳)されているのである。近代主義とは、精神的には、ここから発したと言ってもいいくらいだと思われるのである。
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Greek NT: Byzantine/Majority Text (2000)
English: King James Version
German: Luther (1545)
English: New Revised Standard Version


John 1 [Commentary]
1. εν αρχη ην ο λογος και ο λογος ην προς τον θεον και θεος ην ο λογος

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.

Im Anfang war das Wort, und das Wort war bei Gott, und Gott war das Wort.

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.


2. ουτος ην εν αρχη προς τον θεον

The same was in the beginning with God.

Dasselbige war im Anfang bei Gott.

He was in the beginning with God.


3. παντα δι αυτου εγενετο και χωρις αυτου εγενετο ουδε εν ο γεγονεν

All things were made by him; and without him was not any thing made that was made.

Alle Dinge sind durch dasselbige gemacht, und ohne dasselbige ist nichts gemacht, was gemacht ist.

All things came into being through him, and without him not one thing came into being. What has come into being.


次は仏語版である。

Greek NT: Byzantine/Majority Text (2000)
French: Louis Segond (1910)
French Jerusalem Bible
French: Darby


John 1 [Commentary]
1. εν αρχη ην ο λογος και ο λογος ην προς τον θεον και θεος ην ο λογος

Au commencement était la Parole, et la Parole était avec Dieu, et la Parole était Dieu.

Au commencement était le Verbe et le Verbe était avec Dieu et le Verbe était Dieu.

¶ Au commencement était la Parole; et la Parole était auprès de Dieu; et la Parole était Dieu.


2. ουτος ην εν αρχη προς τον θεον

Elle était au commencement avec Dieu.

Il était au commencement avec Dieu.

Elle était au commencement auprès de Dieu.


3. παντα δι αυτου εγενετο και χωρις αυτου εγενετο ουδε εν ο γεγονεν

Toutes choses ont été faites par elle, et rien de ce qui a été fait n'a été fait sans elle.

Tout fut par lui, et sans lui rien ne fut.

Toutes choses furent faites par elle, et sans elle pas une seule chose ne fut faite de ce qui a été fait.

The Unbound Bible
http://unbound.biola.edu/

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 問題は、連続・同一性自我と言葉・言語の関係である。これまで、既述したように、同一性と言葉・言語とが、いわば、一致・一体化するのである。つまり、同一性自我・近代的自我と言葉・言語とが、結合するのである。この結果生起する同一性言語自我・近代的言語自我(ラカンの象徴界は、言語自我界であり、ここと一致するだろう。)は、差異を否定・排除・隠蔽する様相となっているのである。ここで、差異とは、メディア界・差異共振シナジー相・心身性・精神である。 
 結局、近代合理主義・近代的自我・同一性言語自我とは、差異を排除して成立しているものである。そう、近代的自我とは、言語と結合することで、強固な内在超越論的連続・同一性構造を形成していると言えるだろう。換言すると、プラス・エネルギーと言語とが結合しているのである。この近代的同一性言語は、差別的な言語であり、主体の差異・他者と同時に、外的な差異・他者を差別・排除するのである。思うに、ナショナリズムや宗教はここと結びついているので、暴力・攻撃的に排外的なのである。(参照:石原都知事、小泉首相、等々、国粋主義的ナショナリズムの面々)
 とまれ、言語と一体化している近代的同一性自我についてであるが、それは、独断・独善的自我中心主義である。「自己中」である。自己盲目であり、妄想・妄念・妄言的である、小泉首相のように。
 そう、先に述べたように、内部環境がプラス・エネルギーの場合は、これが、能動的であったと言えようが、今日のような「ポストモダン」状況では、マイナス・エネルギーが賦活・活性化されていると考えられるので、この近代的同一性言語自我は、反動狂気様態になっているのである。
 では、言語と差異との関係を見る必要がある。明らかに、差異は、言語ではない。あえて言えば、差異とはロゴスである。「理」である。ただし、近代合理主義の「理」ではなく、メディア界・差異共振シナジー界の「理」である。これは、心身・精神的「理」である。だから、言語は、これを、直截に把捉できないのである。言語の他者としての差異なのである。だから、ヨハネの福音書の冒頭の「ロゴス」=「理」を、「言葉」・「言語」と訳すのは誤訳であることが、これで証明されたと言えよう。ロゴスと言葉は、まったく別のものであり、メディア界・メディア平面・差異共振シナジー界の「ロゴス」=「理」と、現象界の同一性形式である言語との混同が、西欧近代において形成・確立されたと言えよう。そして、極論すれば、その結果、主体意識において、内在超越意識が喪失されて、現象界中心主義(=唯物論)になったとも言えよう。(この内在超越界の取り戻しは、芸術では、ロマン主義以降の運動、そして、哲学では、スピノザ、カント、ニーチェ、フッサール、ウスペンスキー、他によって為された。また、日本では、西田幾多郎や鈴木大拙によって為されたと言えよう。私としては、在野の根井康之氏を含めたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10001141893.html
http://shop.ruralnet.or.jp/search_result.php?mode=detail&id=011706&b_no=01_454083021X

 結局、現代において、言語と差異とが矛盾する事態となっているのである。私は、以前、ポストモダンとは、言語からのズレのことを意味するのだと、戯れに、仲間に言ったものである。そう、このズレが、心身・精神性なのである。そして、これを、さらに、不連続化して、差異共振シナジー相の純粋なメディア界・メディア平面が発生しうるのである。
 問題は、どうやって、このズレを気づきさせるのか。ここに大きなポイントがあると言えよう。差異をどうやって、気づきさせるのか。これが、わかれば、精神意識革命が生起するのである。「こころ」と言われているものは、まだ、連続観念をもっているので、危険だと思う。ズレを不連続的単独化する必要があるのである。「犀の角のように唯独り歩め」。そして、このズレの心身性を、不連続化し、また、スピノザの能動的観念化する必要があると思うのである。つまり、差異・心身性という言語からのズレを不連続且つ能動的観念化すること、これで、不連続的差異論精神意識革命が発生するはずである。つまり、不連続的差異的能動的観念論である。これで、心身は、自我は、イデア界に達して、純粋メディア界・差異共振界を形成するのである。
 また、問題は、どうやって、言語とのズレ・差異を発生させるのかということがある。ここにすぐれた芸術の役割があるだろう。すぐれた芸術は、心身・精神・差異を賦活させるのである。バッハ芸術、シューベルト芸術、トルストイ芸術、芭蕉芸術、セザンヌ芸術、D.H.ロレンス芸術、等々である。また、すぐれた哲学もそうである。スピノザ哲学、ニーチェ哲学、フッサール哲学、ウスペンスキー哲学、仏教を含めた東洋哲学、他。精神的点火をもたらす芸術・哲学・思想・宗教が、すべてである。
 また、自然との単独的触れ合いが重要である。自然は、言語とのズレ・差異を、永遠に喚起するだろうから。

2006年08月30日

連続・同一性自我は、何故、全体主義的になるのか:自我絶対的暴力とは内在超越的暴力・狂気である。

eea5c20c.jpg連続・同一性自我は、何故、全体主義的になるのか:自我絶対的暴力とは内在超越的暴力・狂気である。
テーマ:差異と同一性
これについては、ある意味では、検討済みではあるが、ここで、明確にしたい。
 連続・同一性自我・近代的自我は、差異・他者を否定・排除する。この否定・排除の暴力の度合いが問題なのである。狂気の暴力である。凶暴性があるのであるが、これは、全体主義的なのである。つまり、自我絶対的なのである。そう、これを問題にしたいのである。自我絶対的な暴力が、ここにはあるのである。この自我絶対的暴力の絶対性がどこから発しているのかである。父権暴力と言ってもいい。アメリカ国家暴力と言ってもいい。
 これは、根本から考えなくてはならない。即ち、極性エネルギーにおいて、プラス・エネルギーが連続・同一性志向性となると、これまで、考えてきた(仮説)。プラス・エネルギーが連続・同一性自我、換言すると、近代的自我を形成すると言える。すると、同一性自我・近代的自我とは、本来、超越的であるのがわかる。つまり、超越次元、コスモス次元から発動しているのであるから。この典型が、ヤハウェである。ヤハウェが、プラス・エネルギーによる連続・同一性自我の典型的表現だと考えられよう。超越神となるのは、正しいのである。不連続的差異論で言うメディア界という内在超越(超越論)界から発しているからである。そう、同一性自我暴力とは、言わば、内在超越的暴力であり、神的暴力なのである。私は、近代的自我を狂気と呼んできたが、ここから見ると、その狂気とは、内在超越的暴力であると解明できるのである。

ancient days

 これで、ようやく、この問題に、究極的に結論が出たような感じがある。近代的自我・近代合理主義について、これまで、おそらく、何百回と議論してきて、それなりに解明を試みてきた。これまでの、結論は、複合的なもので、粗差異とプラス・エネルギーの複合と見てきたのである。これは、これなりに正しいのであるが、ここでの究明によって、これが、内在超越次元の暴力狂気であることが明確になったのである。神的狂気、一神教的狂気、ヤハウェ的狂気ということになったのである。
 近代的自我の暴力・狂気とは、内在超越的・父権一神教的・ヤハウェ的狂気なのである。形而上学的暴力・狂気なのである。近代主義とは、明確に、形而上学的なのである。そう、だから、近代的自我の問題は、通常の理性・知性では解決しないのである。形而上学的事象なので、形而上学的解決が必要なのである。そう、結局、近代主義を形而上学的に解明する必要があるのである。そして、これは、新イデア論である不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論によってこそ、なされ得るのである。なぜなら、現代において、形而上学ないし哲学は、ほぼ壊滅状態であり、近代主義・近代的自我・近代合理主義を、批判的超克ができないからである。

p.s. これで、小泉首相の「狂気」も完璧に説明できるだろう。

p.p.s. 資本主義批判も、この根底から為され得るだろう。交換価値=貨幣経済とは、やはり、この形而上学・内在超越構造(ほぼ、カントの超越論的形式、あるいは、構造主義の構造に相当する)から発しているのであり、この構造を解体しない限り、暴力を振るうと言えよう。結局、資本主義は、この内在超越的暴力・狂気と結びついているのである。この内在超越的連続・同一性構造の脱構造化・解体・「脱構築」が必須である。これによって、差異共振シナジー経済・ポスト資本主義が可能となると考えられるのである。不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論が、この革命をもたらすだろう。内在超越論的連続・同一性自我=近代的自我の解体なくして、人類の未来はないだろう。ポスト近代的自我としての差異共振シナジー自我への変容が必須である。人類進化の黎明が、これで、もたらされるだろう。

注:画像The Ancient of Days by William Blakeは、以下からのものです。
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/blake/
WebMuseum
Blake, William
© 14 Oct 2002, Nicolas Pioch - Top - Up - Info

2006年08月18日

資本主義の問題点:投資中心主義批判:投資-復資極性経済:双極資本主義へ向けて

炊事をしているが、誰でもやる人は分かると思うが、後片づけ、汚れた食器を洗う作業が面倒でたいへんなのである。これは、単に物理的な負担だけでなく、精神的負担もある。
 そんなことをいつも感じているのだが、ふと、これは、経済、資本主義に適用できる視点ではないかと思ったのである。つまり、資本主義は、創造的投資を行い、利益を拡大する指向をもつ。これは、いわば、創造的破壊である。そう、投資で、創造するのである。新しい製品、産業、施設、建物、等々を生み出す。しかし、これは、炊事で言えば、おかずを作る、料理するの産出側面であるが、しかしながら、後片づけの側面が欠落しているのである。そう、さまざまなゴミも出るのである。
 これを理論化すると、前者は排他的形成であり、当然、排除されたものがあるのである。つまり、産物と非産物の二元論がここには生じているのである。そして、前者に関心が集中して、後者は無視されるのである。しかし、ゴミが出るし、食器は汚れるのであるから、ゴミを捨てないといけないし、食器を洗い、テーブルをきれいに拭かないといけないし、等の、回帰の側面が必要なのである。これは、「生産」ではなくて、いわば、再構築の側面である。だから、炊事に関して言えば、構築/再構築の極性力学があるのである。極性ダイナミクスである。
 これは、少し考えれば、自然の律動的営為である。つまり、生死の循環である。そう、循環・回帰運動である。サイクルである。私の言いたいことは、リサイクルなのかと言えば、理念的にはそうである。しかし、いわゆる、リサイクルではないことはお分かりになるだろう。通常のリサイクルは、ゴミ、他に限定されるからである。
 私の考えているリサイクルは、経済全体におけるそれである。生産と消費が対にされて論じられるが、それは、私がここで言う極性にはあてはまらない。炊事の視点から見ると、生産と消費は同じ極に属するのである。つまり、生産・消費には、再構築の極・視点が欠落しているのである。生産・消費は構築極なのである。すると、当然、破壊が生じているのである。極性論から言うと、それに見合う再構築・再創造の営為が必要なのである。だから、生産・消費という破壊的創造の経済に対して、再構築・再創造の経済が必要であるということである。
 ここで、資本主義を考えると、それは、自明的に前者である。いわゆる、リサイクルは、前者の枠組みのものに限定されていると言えるだろう。
 ということで、炊事の視点・極性力学から見ると、対資本主義経済が必要である。資本主義をプラス経済とすると、マイナス経済が必要なのである。そして、結局、根本的には、極性経済が必要であるということになるのである。これは、ポスト資本主義であろう。
 では、どうすれば、いいのだろうか。思うに、現在の構築資本を、再構築資本を含む極性資本にすれば、いいのではないだろうか。投資に対する再構築資本が必要とされよう。これは、投資ではなくて、戻資(れいし)、返資(へんし)、復資(ふくし)、元資(げんし)、等である。とりあえず、復資と呼ぶ。結局、投資と復資の極性をもつ経済が必要であると言うことである。極性経済であるが、投資と復資の極性を考えて、極性資本主義ないし双極資本主義と呼べよう。
 後でさらに検討したい。

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