September 06, 2008

共有化され量産化される議論でオルタナティブを切り開く藤村龍至

(8/27)
 8月末、恒例のハウスレクチャが仙台の阿部仁史アトリエで開かれた。今回の講師は建築家の藤村龍至氏。建築家といっても氏はまだ東工大の博士課程に在籍し、意匠論を研究する大学院生でもある。今回のレクチャでは、建築家と研究者の二つの顔をあわせ持つ氏の立ち位置が、三つに軸足を置くスタンスとして明快に示された。一つめは、理論としての「批判的工学主義」、二つめは自らの作品論としての「超線形設計プロセス論」、そして、三つめは(オルタナティブ)メディア論としての「PROJECT ROUND ABOUT」である。
 藤村氏には、理論と作品、そしてそれらをつなぐメディアを駆使し、自らを発信するところに今日的な建築家の姿がある。つまり、建築の前提としての理論を語り、あるいは自らの作品を語ること自体は従来からあったスタイルなのに対し、メディアで語るという姿勢が今日的だ、という意味である。しかし、氏の言うメディアとはネット時代における一方的な語りではない。ブログを引き合いに出して説明する氏のねらいは、個人の素朴な語りとしてではなく、「建築家が社会に対して問いかけをするというロールモデル」をつくることにある。限られた人のみが書くことのできた建築雑誌に対するオルタナティブとして、かつて東大院生時代に「エディフィカーレ」を仲間で刊行し、ハウスレクチャのコーディネーターもつとめた五十嵐太郎東北大学准教授は、「自分たちの世代が紙媒体の最後だと思っていた」と話し、藤村氏のつくる発信型メディア、「ROUND ABOUT JOURNAL」が、ネット上のものではないところに驚いていたが、藤村氏は戦略的に五十嵐氏にはない独自のベクトルを持ち込んでいる。その一つは、都市の郊外化を共通項として社会学研究者の南後由和氏を巻き込み、建築と社会を架橋する議論を行うことで成立する双方向性のベクトル、もう一つは、その議論をトークイベントにおいても展開しつつ、「ネットに勝つならその場で発行」という荒技でフリーペーパーを即時発効し、受け取った来場者が発信者となる多産型ベクトルである。しかも、その議論は発散するだけでなく、メディアを経由して自らにも回収されるベクトルも合わせ持つ循環機構を持つ。
 以上のような手法で議論を生産する藤村氏の背景には、茫洋とした風景の広がる東京の郊外化への危惧があるという。それを理論化した「批判的工学主義」で、先の南後氏が指摘する「7年間で200本の超高層」が建設されたとする事実を引き合いに、藤村氏は建築の根拠として、断絶された「街との関係性」を持つというように、一端、素直な回答を示す。しかし、そこで世界を一刀両断するがごとく示されたのが、独自のマトリックスである。それは、情報化時代における「純粋工学主義」(組織設計事務所)、その抵抗運動としての「反工学主義」(アトリエ事務所)に対し、空白領域としての「批判的工学主義」(新しい設計集団)が未開拓領域であるという宣言である。
 「批判的工学主義」を実践する方法論としての「超線形設計プロセス論」では、魚が卵から成長する過程を示し、明快にその線形性が示された。プロセスを経るごとに検討項目が増え、後戻りのない合理的手段では、プロジェクトのテーマがひとたび設定されると、たたみかけるようにデザインが進行していく。例えば、「UTSUWA」という小さな食器店では、「客の滞在時間が長いほど、売り上げが大きい」という条件によってテーマが設定され、湾曲したコーナーがいくつも連続し、洞窟的な空間が獲得されている。この線形的デザインは「集団的創造力の獲得」に有効であり、同時に、「場所の固有性を高めて、希薄な都市風景に濃密さを取り戻す」ことを可能にするという。
 藤村氏は「アノニマス」つまり「無名性をどうデザインするか」を今後のテーマに掲げ、レクチャを終えた。郊外化の進展する都市にあって、社会学を引き込むことで新しい流れをつくりだす氏の方向性は、作品としての美しさよりも、形式としての建築の存在が批評的であることに大きな意味を持つのだろうか。レクチャでは美学的観点からの話しは全くなかったものの、「外部空間に対してのマナー」が強調された。
 ハウスレクチャ終了後の打ち上げの席で、興味深い話しを聞いた。東工大では坂本一成、塚本由晴両先生らに連綿と続く、午後三時の「お茶の時間」なるものがあり、研究室に入り立ての4年生に建築の話が振られるのだという。その4年生も、当然ながら当初はまともに返答できなくとも、数ヶ月もすると自らの建築論を語るまでに成長しているという。以前、仙台でレクチャを行い、近年、注目を集める建築家の一人、長谷川豪氏なども、理路整然として、まさしく東工大出身者といった語りだったがそれは「お茶の時間」で醸成されていったのだとすると納得の事実であった。

藤村ハウスレクチャ


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