2008年03月

2008年03月31日

学童保育

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わが家は夫婦とも仕事をしています。
そういうように決めて生きてきましたので、必然的に
こどもの養育については保育所に預かってもらってきました。
ご存知のように保育園は法律的には
「保育に欠ける」児童への「福祉」として行われています。
その点、幼稚園は「児童教育」の一環であり、全然別物なんですね。
一方は文部科学省の管轄であり、もう一方は厚生労働省の管轄という違いがある。
福祉という以上、国の政策としては色々な制約があり、
小学校に入学すると、基本的にはその対象から外れる。
しかし、一方で先進国はどこでもそうだと思うのですが、
労働力の不足から女性の社会参加が必然の流れ。
女性も一生涯を貫くような仕事を持つのが当然の流れになってきている。
そのときに、こどもの養育についていつまでも
「保育に欠ける」という認識で対処しようというのは社会的におかしい。
こどもの世界では、昔とは違って、ガキ大将によって統括されていた
「遊びを中心としたこども社会」というものが、ほぼ社会的になくなっている。
したがって、下校後のこどもたちがお互いに「育ち合う」ような環境がない。
各地域には「児童会館」という「場所」はあるけれど、
あれは「こどもを管理している」というだけの存在。
教育でもなければ、人格涵養のための存在でもありえない。
実際にわが家でも、小学校1年生の一時期、行かせたりはしたのですが、
ちょっと絶望的な環境だったのです。

そんな思いを同じくする保育園時代の親たちで
その地域に立派な児童会館が存在する地域で、学童保育を立ち上げました。
ウチの坊主は地域も違ったのですが、そこの立ち上げのために
遠距離ながら通わせていました。
まぁ、遠いので土曜日や夏冬の休みのときなどが中心でしたけれど。
初めて取り組むというのは、社会的にも摩擦があり、
資金的にも行き詰まったりもします。また、ひとがすることなので
やはり行き違いとか、考えの相違なども表面化します。
事業を始める、というのとまったく同等の苦労がともなうものです。
そういういろいろ万感の思いを注いでみんなでやってきた
学童保育だったのですが、きのう、めでたくわが子を含めた
第1期生4人が「卒所」式を迎えることができました。
はじめるとき、「10人以上」という要件が求められ、
人集めに苦労したことがついこの間のことなのですが、
いまでは、50人を超えるような大人数にふくれあがり、
逆に母体になったと言える保育園からも憧憬されるような存在になってくれました。
そんな現状を反映して、きのうの式は立派なホテル並みの会場での盛大なもの。
しかも、創設時からの指導員のひとりが沖縄出身ということもあって
みんなで取り組んでいる「エイサー」で名高くなっていて、
そのエイサーでにぎやかに卒所を祝う楽しいものになりました。
こうした環境の中で、わが子ものびのびとした空気を満喫していたようです。
まぁ、ちょっと満喫しすぎな面はあるようですが(笑)・・・。
ちょっぴり寂しくて、でもはじけるように楽しくて、
こどもたちの笑い声・笑顔が底抜けにうれしかった一日でした。
これからも、次のこどもたちが主役になって
明るい学童保育を続けて欲しいと思います。長い間、ありがとうございました。
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2008年03月30日

融雪溝

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写真は今年度東北住宅大賞受賞の家。
秋田県湯沢市近郊に建つ古民家改修事例です。
周辺は秋田県でも有数の豪雪地帯。
毎年、建物が雪で長く覆われてしまう冬が暮らしを襲います。
ことしは小雪でしたが、とはいえ、周囲には雪に覆われた住宅も多かったとか。
そんななかで、この家では大きな傾斜屋根の落ちてくる
建物両端に、ごらんのような「融雪溝」を工夫してありました。
周辺では、屋根はどこの家でも雪を落としやすい切妻を採用。
道路に面した側は、雪を落とさないワケですが、
このように大屋根が降りてくる側は
どんどこと雪が屋根から供給されてきます。
それに対して、この地下水をくみ上げた融雪溝で雪を受け止め、
順次、融かしていくのですね。
手前側には下水への排水が工夫されていますので、
常時、少しずつ雪を梳かしていくようになっています。
話では聞いていましたが、同じ雪国人として、
大変親近感を感じるような光景です。
雪はもちろん氷点下の温度ですが、地下水はその土地の
年平均気温程度で安定している。
秋田だと、たぶん、10度以上だと思われます。
まぁ、低温水と呼べるような温度の水が地下から供給されるんですね。
あとは雪の降り方とのバランスの問題で、
経験的にこうした融雪溝の幅や、深さなどが工夫されるのでしょう。
今年の場合は、実にスムーズに雪が処理されていった、ということ。

こうした融雪の工夫は、利用土地が狭くなってきた都市部では
やはり少なくなってきていますね。
第一、都市部では「雪を落とす屋根」自体が少なくなってきていると思います。
北海道では無落雪屋根の需要が高く、
冬の間は、雪を載せたままにするほうが一般的。
そうしたなかで、わたしの事務所前の道路では
道路脇に「流雪溝」が公共によって設置されていて、
市民が自分たちで運んできた除雪の雪を
溝に投げ込んで融雪・流雪させています。
このような工夫も、日本旗側地帯で長い伝統を持っていたもの。
そうしたものがわたしたち、北海道に伝播してきたのですね。
そう考えたら、やっぱり秋田に北海道のマザーを感じる部分。
こういうの、ちょっと変な感覚なんですが、
同じ雪国で、しかもひとびとが色白。
そして雪国としての暮らしの経験値がある豊かさのレベルまで達している。
そんな思いがしてきます。
一度、秋田の女性3代を描いた絵を見たことがあります。
無心に遊ぶ少女、冬場の農作業をしながら気遣っている母。
その少女と会話しているような祖母、という構図。
背景は雪に閉ざされたようなくらい印象の室内。
というような情景でしたが、そんな光景が、
幼い頃に触れた母や、祖母の印象と深くシンクロして、
強い印象を抱いた次第。ある共感の思いが募ってきますね。
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2008年03月29日

米沢ラーメン・沢田食堂

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一時期のラーメンブームというか、
テレビ番組などの影響なのか、いまや、日本中で
地ラーメンがさかんにもてはやされていると思います。
とは言っても、わたしが巡りあうことができるのは大体が東北北海道地域。
ですから、その取材行脚の合間にいける範囲で食べに行くなかで
「お、なかなか、いいじゃん、これ」っていうのに巡りあう楽しみですね。

そういう食べ歩きの中でうれしいのは地元の人から紹介される
ごくさりげない普通っぽいお店での食事。
この米沢の「沢田食堂」さんはまさにそういう一店。
地元ビルダーさんから取材時に「あそこいいよ」と
いわれたお店なんですね。
取材先からもほんの歩いて2分ほどだったのですが、
まったくの住宅街っぽい場所なので、こんなところに食堂があるとは気付かない。
看板もそういう条件をよくわきまえて
地上5mくらいまで高く上げているけれど、
なにせ住宅街で店と看板とがなかなか一致しませんでした(笑)。
でもまぁ、なんとか、出前のご主人の車の出入りを発見したので、
「あ、あの建物が、そうじゃないか」と見つけられました。
ということで、入ってみると、厨房の方が大きな造りで、
お客さんの席は、丸椅子が5脚あるだけ。
どっちかというと、出前が中心の営業スタイルなのではないかと推測されます。
メニューもカツ丼などもある、いかにも大衆食堂。
気前のよさげなお母さんが、ごく家庭的な雰囲気の中でふるまってくれます。
こういうのが、きっと長く愛される大衆食堂の魅力でしょうね。
こんなくつろぎ、いまどき、残っているんだとうれしくなります。
そのうえ、メニューにはごく大衆的な値段しか記載されていない。
すっかり安心感が広がる、のどかな日本の風景。

っていうようなことで、出てきたのはごくあっさりした
しょうゆラーメンの神髄のようなヤツ。
スープの滋味あふれる味わいが体に優しく染みこんでくる感じがいたします。
出汁はまぁ、さっぱりした和風のもの。
麺も、ややほっそりとしたタイプ。
若い年代の方には、やっぱり「カツ丼セット」みたいなのもあり、
かもしれませんね。
そういうことで、「食堂」というコンセプトなのかも知れませんね。
でもまぁ、こちらも、最近はようやく
「○○セット」のメタボリックコースからはすこし離脱しつつあるところ。
ごくあっさりとしたラーメンだけで、満足いたしました。
ちょっと昼前に店に入ったのですが、
昼になったら、店の外に何人もの常連客のみなさん・・・。
みんな和やかな表情で席を待ってくれておりました。
こういう雰囲気というのも、この店の大きな魅力なのではないかと推測しました。
味も、その時間も、両方楽しめたお店でした。
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2008年03月28日

地下水利用融雪

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きのうは秋田県湯沢市で撮影してきました。
写真はことしの3月はじめに同地に行ったときに出会った光景。
今年は融雪が早く、もうほとんど消えかかっておりましたが、
以前から聞いていた日本海側地域での地下水融雪の様子を見ることができたのです。
写真ではちょっとわかりにくいとも思うのですが、
地下水を使っての融雪なので、
土中からの泥水から、このように地中成分として出てくるのですね。
北海道と違って、夜になっても温度低下がそれほどでもないので、
このように地下水を散水しても氷結の心配をしなくていいようです。
こういうことを北海道でやったら、
一面のスケートリンクで、大変なことになるでしょうね(笑)。
でも、一度、北上でもこういう光景に遭遇したことがあり、
北上ではやや凍結もしていて、
そういう道を歩くと大変危険な思いをしたことがあります。
微妙な気温状況変化が、起こりうることなので
判断は難しい部分があるのだろうと思います。
季節の風物詩としてみると、なかなかに風情のあるものではあります。
ただし、靴が濡れる心配もあるので、
融雪中は歩行に気を使う必要があることでしょう。

湯沢市ではこのような地中成分の湧出が見られるのですが、
このあたり、事情はその土地の地盤構成によっても変化するそうです。
このような土の色は、土中の鉄分量が多い場合の特徴だそうです。
融雪後、こういう成分がホコリとして空中に舞うことになるでしょうから、
春先には花粉症原因になることも推定できます。
まぁ、どんなことにもメリットもあれば、デメリットもある。
その土地ごとで、知恵の使いようではあると思いますね。
話は変わって、ことしは北海道では灯油熱源でのロードヒーティングが
激減していたという話題が聞かれます。
折からの灯油の大高騰が、切実な問題として結果したのでしょう。
そういう意味では、3月に入って順調に融雪が進んだことは
北海道の人間にとって、まことにありがたいことでした。

と、書いていたら、なんと、久しぶりに窓の外は雪が降っています・・・。
春まだ遠し、一本調子ではいってくれないようですね。
って、ことしはもう車のタイヤ、履き替えちゃっているんです。
やれやれ困ったなぁ。
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2008年03月27日

大慈清水

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盛岡の旧市街散策途中で発見した湧水利用施設。
インターネットで調べてみると、

その昔、大慈寺の前には大きな沼があり青龍(せいりゅう)が住んでいたとか。
祇陀寺(ぎだじ)と原敬 の墓所がある大慈寺の二つのお寺の境内から清水が湧き出で、木管を通して共同井戸の水源としました。 これが青龍水と大慈清水で、これらの清水は雛壇形式の箱で造られていて、一番目が飲み水、二番目が米研ぎ用、 三番目が洗い水、四番目が足洗い用と決められており、今でも生活水として多くの人たちに利用されています。

ということだそうです。
市中をおおくの川が流れている盛岡では、
いたるところにこうしたわき水があって、利用され続けてきたようですね。
共同の管理費用を払って維持し続けてきているのだとか。
ある建築家の方から、「公と共とは違う」と聞いたことがあります。
そういう仕分けでいえば、この清水は「共」が民間で続いてきた
そういう側面を表すようなものではないかと思います。
官に支配されることなく、民間がお互いのために知恵と労力を
出し合ってこういう設備を維持し続けてきたのでしょうね。
その知恵が、使用法の決まりに端的に表されています。
平民宰相といわれた原敬の出身地に近いこともあり、
そういう人間を育む素地のような文化性を感じ取るのは、オーバーでしょうか。

飲んでみると、なかなかにおいしい。
水道水のようなカルキ臭さはなく、自然な透明感。
周辺には地酒の蔵元があったり、豆腐の製造元があったりしていて、
この清水が人々の暮らしに大いに役立ってきたことが感じられます。
英語の語感でいえば、「パブリック」
ということばの感覚に一番近そうな印象を与えてくれる清水です。
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2008年03月26日

ごつい雪止め

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ことしは冬の終わりに山形県米沢に行って参りました。
福島県会津はかなりの積雪地とは聞いておりましたが、
それ以上というのが、米沢ということ、実感いたしました。
写真は取材した住宅の平屋部分の屋根を見たところ。
ごらんのように、板金の合わせ目を大きく立ち上げています。
また、端部ではこれも頑丈な金属棒状のものがしっかり固定されています。
北海道は札幌もけっこうな豪雪地だと思うのですが、
って、年間積雪が6mを超すほど。
ですが、雪止めを付けるといっても、こんなごついことは少ない。
というよりも、そもそも雪止めを付けること自体少ない。
米沢の年間積雪を聞いたら、札幌とほぼ同水準。
では、この違いはなんだろうとなるのですが、
端的に言って、雪質の違いなんですね。

北海道の雪は、気温が低いこともあって
サラサラとした、言わば「乾いた軽い雪」。
それに対して、海からもやや離れた盆地的な気候の米沢は
重く湿った雪が、しんしんと降る感じのようなんですね。
そうした雪は重たい積雪荷重となって屋根に負担をかけ、
そして、端部では落雪時、事故を引き起こしやすいのですね。
基本的には屋根傾斜などを工夫し、
「雪を落とす」工夫を屋根の構造で考える。
この家でも、主要部では交差型の屋根を採用していて、冬の終わりながら、
雪はまったく屋根にありませんでした。
一方で、平屋部分で落とす敷地的余裕が確保できない場合には、
このように重厚な雪止めを工夫することになるのですね。
さらにこの写真の雪止めには、米沢特有の季節風を上手に活かした
風洞的な工夫も施されていて、
基本的には風で端部の雪が溜まらないような工夫もされていました。
ちょっとした風穴を方位を考えて工夫するということ。
設計施工の米住建設さんにこの点、興味を持ったので、
札幌での「雪庇対策」についてのご意見を伺ったのですが、
なかなか、ユニークなご意見をいただきました。
こんど、札幌の建築業者さんに実験を勧めてみたいなと思いました。

ということで、雪国同士のアイデア大会になった(笑)
米沢での取材時のひとこまでした。


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2008年03月25日

近江商人の残照・盛岡旧市街

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江戸期の経済活動について興味が高くなってきています。
盛岡市を先日、訪れた際、
旧市街の商家の成り立ちを聞く機会がありました。
江戸期の旺盛な経済活動を支えていたのは、
複式簿記を操っていた近江商人たちの活動であり、
いろいろな部門で、商機を見いだして、ビジネスを展開したかれらの
活動が、ベースになって歴史は展開していると感じさせられた次第。
商人たちの歴史というのは、あまり見る機会がない、と思います。
しかし、指摘されてみると、今日に至る日本の活発な経済活動で、
商人たちの動きが顧慮されていない、というのはおかしい。

秀吉などは商業の発展を自らの政権運営の基盤に据えていたに違いなく、
その幕僚には、小西行長などという有力商業資本とおぼしき人物もいたし、
石田三成という人物も、近江出身であり、
秀吉政権成立時の活発な軍事運動を支えた兵站輸送など、
相当な数学的能力で、運営していたことは想定される。
秀吉によって九州制圧の夢を絶たれ、経済的に行き詰まった薩摩藩に
藩経済の運営方法を指南した、という辺り、
石田三成という人物も、そのような近江商人的気質のなかにいた人物だと思われます。
こうした近江商人たちは
場所請負制を取っていた一時期の蝦夷地の漁業運営をも手がけていたそうで、
きっと、歴史の裏舞台で、さまざまな決定的役割を果たしたに違いないと思うのです。
一度、蝦夷地の場所請負制のことを書物で見たことがあるのですが、
そもそもなぜ、幕府が直轄領にした蝦夷地の経済の中心であった漁業を
商人たちにゆだねたのか。
要するに幕府の役人たちが運営してみたら、まったく赤字の連続だったのですね。
そのため、効率よく利益を生み出せるように商人たちに直接
「場所を請け負う」形にしたんだそうです。
その決算報告が連年、文書として残されているワケなのですが、
さすが、商売人たちですね、こちらでもきれいに若干の赤字計上になっているのです。
それはそうだと思います。かれらにとって、
幕府のために汗水垂らして黒字をあげて尽くす必然性はない。
「お役人様たちでも赤字なんですから、わたしどもではとても・・・」
などといいつつ、その実、継続して場所請負が続けられるように
抜け目なく賄賂などを配って、継続してきたに相違ないのです。
そのようにして蓄積した富を幕末に至る商業資本の蓄積にしてきたのでしょう。
明治政府側に資金提供した旧財閥系資本とはそういうものだったのだろうと思います。

少なくとも、番頭・手代といった商業の階層的ネットワークで、
どんどん、独立自営していきながら、そのネットワークが生み出す
「情報力」によって、機敏に経済をリードしていただろうことは推定されます。
盛岡は南部藩の首都ですが、
北上川の物流ネットワークで江戸への流通ルートが確保されていて、
そのような全国経済に参加していたことでしょう。
天明の大飢饉の引き金になったとされる
八戸周辺での大豆生産への過剰な傾斜というのも、
勃興しつつあった関東・野田の醤油生産活動への原材料供給が発端。
そうした経済活動は、近江商人たちのネットワークの中で
「商機」として見いだされた側面が生み出したことだと思います。

盛岡の旧市街に展開している商家の
「町家」の家並みの様子を見ながら、
そんな想念が思い起こされていました。
そういった「商人の歴史」みたいなものを調べてみたいと思っています。
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2008年03月24日

デザイン神棚

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弘前での取材先で見つけた神棚です。
神棚って、廃れていそうで、実際に取材に行くとほとんどついているもの。
仏壇は少人数の核家族というのが一般的になって、
まぁ、だいたいはその家で亡くなる方がいて、はじめて作る、購入する
というのが一般的。
なので、新築当時はほとんどが造作されていないというケースが多い。
その傾向は北海道の方が高いものがあります。
しかし、ひるがえって、神棚の方は案外、ない家の方が少ない。
家を新築するときに御祓いをしてもらう関係からか、
神様の方が縁ができやすいということを表しているのでしょうか。
というようなことなのですが、
伝統が生きている地域では、大工さんの手作りというのが一般的。
というか、大工さんからの新築祝いとして、神棚プレゼントが多いのですね。
職人らしく、手作業をプレゼントにするという伝統。
で、この家では、シンプルながら、
ちょっと使い勝手にも配慮したスッキリデザインの神棚でした。
この家は、設計者の関与している住宅なので、
たぶん、設計者が新築祝いに大工さんに設計図を渡して作ってもらったものでしょう。
神様の祭壇を載せる台はシンプルな平台。
その上にまぁ、よく売っている祭壇が載っけてあります。
ふつうならば、その平台の上に飾り物やお供えも載せるのですが、
それだと、毎日、お水を買えるときにもいちいち踏み台を用意して
やらなければならないことになる。
神棚って、大体が2m以上の高さの位置に据えられますから。
で、毎日大切にしたいと考えれば、
水を載せる台など、このように段違いにして下にあると便利。
注連縄もこのように付けるとまた、変化があって楽しい。
微妙だなと思うのは高さ。毎日使うのに頭がぶつかるようでは困る。
その点、絶妙な高さに据え付けられているので、その点もセーフ。

そんな作られようの神棚ですが、
出来上がってのスタイルは、実にスッキリとしたプロポーション。
ここは吹き抜けに面しているので、上を人が通ることもない。
悪くないモダンデザインで、家の雰囲気にも合っている。
ちょっとした部分ですが、モダンと伝統との融合という感じで
ほほえましいと思った次第です。
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2008年03月23日

集光のための高窓

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写真は弘前市内の住宅。
ガルバリウムと木張りの外観が特徴的ですが、
高い位置にあるまるでぼんぼりのような窓が面白い。
夜になって室内に照明が付けられると
まるで、街路照明のようにも機能しそうで、街並みにエッセンスを加える。
外観というのは住宅を造るときに、
当然ですが、外界との関係性を表現するもの。
そんな意味でこの家を見ると、たぶん、こころがやすらぐ印象を持つ。

でも、どうしてこんな形になったのか、
ちょっとそのわけも知りたくなります。
で、この高窓のある方角は南側に面しているのですね。
南側というと、いちばん大きく開口させて
光を取り込んだり、太陽のあたたかさを取り込んだりしたい。
でも、この家では、こちら側に面して大きな団地が建てられているのです。
しかも、手前の道路もけっこうな通行があって、
大きく開口させて、というようにはできにくい。
まぁ、あまり考えられていないプランの場合、
こんな条件でも平気で大きな開口を開けているといういただけないケースもあるのですが、
やはり、きちんと設計者が考えているこの家では、そうはできない。
そこで、このように採光・集光を思い切って大きな開口を
採用しているけれど、でも視線的には外部から
内部の生活空間を遮断させているのですね。

内部に入ってみると、この高窓からさんさんと陽光が降り注いでいます。
しかも、暖房装置はこの家では1台のFFストーブなのですが、
それを内部では階段スペースにしているこの高窓スペースの下部、
土間空間に半分、入れて設置しているのです。
ですから、冬場にはこの3層分の大きな空間全体が、
あかるさと、暖かさの両方を満たすような空間になっているのです。
そう、「ひだまり」のような心地よさを持った空間になっているのですね。
そしてその場所に面してほぼすべての居室が配置されているので、
たいへん求心的な家の真ん中、的なスペースになっている。
あたたかくて「家庭的」と呼ぶにふさわしい雰囲気のある空間。

敷地の条件を色々に検討しながら、
ユニークなひとつのアイデアに集約させながら、
一気に色々な問題点を解決しようという、なかなかに力量のあるプラン。
寒冷地住宅としての基本もしっかり抑えているいい計画。
こういう家に出会えるのは、とても楽しいです。
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2008年03月22日

弘前ラーメン・味助

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最近、弘前はたいへんなラーメンブームということ。
有名店というのは、昼時間には大体が駐車場満杯。
駅前とかではなくて、市内至る所にお店が散在しているのですね。
先週土曜日、昼過ぎに仕事が終わったので、
まだ、やっている店を探して、
青森県在住のカメラマンと、奥さんの実家が弘前で
わが家同然のスタッフふたりして、
「いや、いまならあそこがやっていますよ」「でもこっちがいいんじゃないか」
とか、かしましいやり取りを聴きながら、
期待に胸を膨らませておりました。
が、しかし、市内の有名店はどこもシャットアウトしておりまして、
がっかり、ためいきしきり、という情けない状態に。
でも、なんとか気を取り直して、
青森に向かう途中の、(なのかどうか、不明です。
って、ようするにこっちは寝てしまっていました。(笑))
やっと開いていたお店がこちら、味助さん。
肝っ玉系のお母さんが元気な声で迎えていただきました。
「いやぁ、よかった、母さんのところがやっていてくれて・・・」
というスタッフ。なんか盛り上がりすぎてしまっていましたね。

遅れた昼食だったので、
とりあえずこんにゃく串を口に運びながら、待つこと数分。
やっとご対面できたのが、ひだりの弘前ラーメンです。
ひとくちすすって、味のコンセプトが明快。
魚系の和風だしを徹底的に煮込んだ味なんですね。
10種類程度の魚の乾物を出汁に使って、濃いコクを出していました。
味付けはでも、さっぱり系でしょうか。
濃くて苦手、という人もいるんだそうですが、
わたし的には全然、ノープロブレム。
麺は地元の職人さん、まだ会社になっていないようなんですが、
その方が手作りしているものだそうで、
やや平ぺったい外観で、食感はあっさりしておりました。

食べ終わってから、お母さんとラーメン談義。
日本各地から、弘前ラーメンを食べに来る人が増えているそうですね。
味の開発には、色々な試行錯誤があったようですが、
弘前のお店各店が、それぞれ嗜好をこらし、切磋琢磨して、
このような味わいにたどりついたようです。
スープを飲み終わったあとに、丼の底から
ちょっと甘い香りが立ち上ってくる、というのがポイントとか。
濃厚な魚のうまみが、エッセンスになって残るのでしょう。

というような弘前ラーメン漫遊記でございました。
値段はうれしい、一杯500円。
ただし、遅れての昼食だったので、
晩ご飯がなんとも中途半端になってしまったことをご報告しておきます(笑)。
そうなんですよ、ちょうど3時半くらいになってしまったので、
晩ごはん、どうしようか、難しい選択になり、
結局、おかしな時間になってしまったのです。
その点はやや失敗だったといえましょうか(笑)。
でも、味は大変おいしかったです、ありがとうございました。
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