2011年01月20日

鉄と血の世紀 二章 空こそ我が命 世界最初の航空母艦鳳翔


            鉄と血の世紀
    第二章、空こそ我が命

1922(大正11)世界初の正式空母、鳳翔(ほうしよう)完成
第一次大戦の航空機の活躍を見て、各国は艦隊に空母
を取り入れようと試みます。未だ未知の戦力ですから、
ワシントン会議の制限も、個艦が二万七千トン以内、
20センチ砲まで、と言う制限だけです。

未知の戦力ですから、特務艦や、旧式巡洋艦などを改装しての
実験段階でしたが、早くも日米英は、その将来性に着目し、
最初から空母として設計、建造にかかりました。
しかしアメリカのラングレーは設計段階から、正式に空母として
建造されたと世界中に思われていましたが、実は巡洋艦を
設計変更した改造空母でした。

このオープンな筈の条約時代にも、アメリカは世界を欺いたのです。
アメリカが正式に空母を設計段階から、ビス一本にいたるまで空母
として完成させたのは実に日本に遅れる事10年弱、1931年
に竣工した、レインジャーまで待つことになるのです。
この時代軍艦建造は、条約の関係で完全にオープンですから
どこの国も、どんな軍艦を建造しているかを、全て公表しなければ
ならなかったのです。

しかし建造している物を隠すのは違反ですが、建造していない物を、
建造している事にするのは違反ではありませんでした。

大戦で被害を受けることの無かった日本が、この空母建造競争に勝利し、
世界最初の栄冠を手にしたのです。ちなみに二ヶ月後には、イギリスも
空母ハーミスを完成させました。更にその三ヶ月後、アメリカも偽正規空母
ラングレーを。
つまりこの1922年から23年にかけての半年ほどが、空母元年に当た
りますが、1922年中に完成を見たのは日本だけで、
後は1923年になってからの完成です。

       


世界初正式空母鳳翔竣工時









上図、世界最初の正式空母 鳳翔 1922(大正11)年竣工(完成)

                 
改装後の鳳翔 
着艦の邪魔になる艦橋や煙路を飛行甲板の下に納め、
後部の傾斜を改め全体を水平にした

鳳翔 改装後







日本の航空に関する意欲は非常に強く、後発海軍が、英米仏
に対等に並べるのは飛行機、しかないと考えていたのです。
事実この1922から1942年のミッドウエー海戦までは、
ダントツ世界一でした。
1935年以降は、アメリカとイギリスの合計とほぼ同じ空母戦力
を持っていたのです。米英が新式戦艦を数多く、合計12隻も建造した
のに対して、日本は、大和、武蔵の2隻だけにして、後は全部、
空母を建造したのです。この事はもう少し後で詳しく述べましょう。
    
空母鳳翔から初めて発艦、そして着艦した
十試艦上戦闘機、パイロットはイギリス人

十試艦上戦闘機

 

 






上様、空を飛ぶ

この世界初の空母、鳳翔の出現する19年前、すなわち
日露戦争の1年前の1903年、アメリカのライト兄弟が
人類初の、エンジン付き飛行機で空を飛びました。
世界はこの時から空の時代を迎えるのです。
我が国も空の重要性は認識してはいるのですが、
悲しいかな工業力の貧しさ、結局、飛行機製作には
手が出せず、気球でお茶を濁します。
しかしこの気球、折からの日露戦で、旅順要塞の攻防戦
などで、大活躍します。

日本人が飛行機で空を飛ぶのは日露戦の5年後、1910(明43)
まで待たされるのです。しかも初飛行は国産の飛行機ではなく
ドイツ機とフランス機でした。
未だこの時点で日本では飛行機は造れなかったのです。

海軍ではなく陸軍の将校、日野、徳川の両大尉です。
試験飛行は日野大尉、翌日の本番は徳川大尉、
公式には本番の徳川大尉が日本人初のパイロットと言うこと
になりましたが、本当は前日のテスト飛行に成功した日野大尉
が日本人初のパイロットであると言うのが正解なのです。

将軍家の子孫にあたる徳川大尉に、手柄を譲ったと言うところ
が本当のところでしょう。場所は陸軍代々木練兵場、現在の
渋谷NHK、隣の都体育館の辺り一面です。余談になりました。

この1910年(明43)をもって日本の航空元年と考えても良いのです。
この4年後1914年に第一次世界大戦が勃発し、我が国も日英同盟
のよしみを盾に取り、頼まれもしないのに強硬にドイツに参戦します。
頼まれもしないのに、、、、

蒼空の戦士達
1914春、開戦と同時に怒濤の勢いでドイツ軍はパリ郊外50㎞
に迫っていましたが、フランス軍も必死の抵抗を試み、後一息の
ところで膠着状態になっていました。
こんな状態の時、毎日午後になると、1機のドイツ軍機が戦線を飛び越え
てパリへ向かいます。エッフェル塔の展望台に据え付けられた機関銃が、
狂ったようにこのドイツ機に撃ち込まれますが、ひらりひらりと空を舞う
飛行機にはいっこうに命中しません。

血相変えた機銃員をあざ笑うように、飛行機はエッフェル塔の周りを
ぐるぐると周り、ビラをまき始めました
インメルマン中尉機に撃ち込まれるエッフェル塔展望台の機銃 
あざ笑うようにビラを撒いている

ビラを撒くインメルマン中尉

 


 

 

ビラにはこんな事が書いてありました。
”パリ市民よ、フランス国民よ、正義と世界平和のため、
我がドイツに降伏せよ。君らは充分戦った、
無駄な抵抗はやめて降伏せよ”

ビラをまき終わったドイツ機は、怒り狂う機銃員達に挨拶
でもするように、コックピットから白手袋の手を振り、翼を
バンクさせて帰っていきます。これを毎日毎日、繰り返すのです。
世界中にこの事が写真入りで報道されました。

パイロットの名はマックスインメルマン中尉、まだまっすぐ飛ぶのが
精一杯のこの時代、彼だけが宙返り反転攻撃を多用して、
撃墜数を増やしていきます。

撃ち合いながらすれ違い、ほっとしていると、いつの間にか背中に
回り込まれてダダダ、、、やられてしまうのです。視界から敵機
が消えた途端に、背中に回り込まれてしまいます。
訳も分からぬ内に、撃ち落とされます。
この反転宙返り、インメルマンターンと名付けられ、ジェットの時代の
今になってもパイロット達は学習しているのです。
もう一人こちらの方が有名人かも知れません
(注 バンク パイロットが飛行機の翼を揺する操作で挨拶の意思表示をすること)


レッドバロン、ことリヒトホーフェン大尉
です。
当時の最新鋭機、三枚翼のフォッカーd-1三葉機を駆使し、
太陽を背にして、高空から獲物に襲いかかるのです。
当時戦闘機は目立たぬように迷彩塗装が義務付けられて
いましたが、彼はこれを無視、自機を真紅に塗り、
敵味方全ての中で、輝いていました。

リヒトホーフェンは元々男爵ですから、誰言うともなく赤い男爵、
レッドバロン、とあだ名されることになりました。
このリヒトホーフェン戦闘機隊の活躍はめざましく、彼の征くところ、
常に敵なしの状態になったのです。イギリスもフランスも面目をか
けて彼に挑みますが、皆返り討ちです。
レッドバロン リヒトフォーフェン


深紅に塗装された三枚羽のフォッカー戦闘機
を駆り撃墜を重ねるリヒトフォーフェン


そんな彼も運が尽き、イギリス航空隊のブラウン大尉に討ち取られ
ます。英航空隊では、好敵手、ライバルの死を悼み、盛大に
葬儀を催し、その記録写真と、弔辞に花束を添えて、主のいなく
なった、リヒトホーフェン戦闘機隊に送り届けました。

イギリスのマカディー大尉は、敵のドイツ機が銃弾を撃ち尽くし、
パイロットも負傷してして息も絶え絶えになったのを見て、
もはや戦闘力無しと見て、討ち取らずに励ましながら、
戦線後方のドイツ陣地にエスコートしながら連れ帰りました。
後にドイツ航空隊ではこのマカディー大尉に礼状とワインを
送り届け、感謝の意を表しました。

ドイツのベルケ大尉は自分の撃ち落としたパイロットの死を悼んで、
撃墜地点に追悼文に花束を添えて投下しました。

まだまだありますが、こう言った出来事は殺伐とした戦場にあっては、
一服の清涼剤、従軍記者達は競って、世界に向けて配信したのです。
無惨な戦争を一時だけ、感動の渦で包むのです。世界中が戦死者を
悼み涙し、手厚く葬ってくれた勝利者に感謝と尊敬のまなざしを向ける
のでした。
こういった記事が新聞紙上を賑わすたびに、青少年達は一段と空へ
の憧れを強くするのでした。

ヨーロッパでの飛行機の活躍に注目した日本は、それまでの試験的
航空を切り上げ、1916(大5)横須賀に海軍航空隊を発足させる
ことになります。まだ大戦の最中です。

始めの内は戦闘機も爆撃機も区別は無く、敵機と遭遇すると、
携帯している拳銃で撃ち合ったのです。
ウエスタン映画のガンマンが空に上ったようなものです。

その内二人乗りの機では後ろの見張り員がライフル銃で戦い、
この方が有利だというので、二人乗りが多くなりました。
飛行機が大型になるので多少の爆弾も積めます。
適地の上空に来ると、ヨイショとばかり手で持ち上げ、落とすのです。
まず命中する事は有りませんでした。



しかし1914年の開戦時には幼稚だった飛行機も、終戦の1918
年頃には、長足の進歩を遂げました。ドイツで機関銃を積んだ
飛行機が出来たのです。
しかも自分のプロペラを損なうことなく、回転に同調させて銃弾が
出るのです。これで、パイロットは自分で銃を構えなくとも、自機を
敵機に向けて、引き金を引くだけで良くなりました。

自機を敵機に、いち早く向けるためにパイロットはあらゆる工夫
をします。逆に言えば敵に正面を向けられたら終わりなのです。
また機体も小回りが利き、無理にひねっても分解しない頑丈な機体、
1㎞でも敵より早い速度、を目指して製作されます。
この結果格闘戦専用の戦闘機が生まれました。
エース達はこの最初の戦闘機を乗りこなす事で生まれたのです。
             
          

日本航空隊の初陣
1914年9月5日、日本海軍は、フランス製ファルマン複葉機で、
ドイツの極東根拠地、青島(チンタオ)を偵察し、ついでに手榴弾
を落としました。
航空隊と言っても、陸軍も海軍も、一機ずつだけですが、これが
日本軍機の初実戦、初陣になりましたが戦果はゼロ。
世界初の爆弾投下は、この一月前、8月3日のドイツ機による、
パリ爆撃でしたから、航空後進国の割りには、実戦参加は早かったのです。

         海軍のファルマン水上機、フランス製
   プロペラを舟のスクリューのように後ろ向けに付け、推進力で飛行した

モーリスファルマン水上機









陸軍の初陣は二十日ほど遅い9月23日、例の日本人最初の
パイロット、上様こと徳川好敏少佐率いる陸軍機です。
ドイツのニューポール機、この機は後部席に機関銃も装備していて、
偵察と爆撃を繰り返しますが、やはり戦果は不明でした。
徳川隊長自身も、10月4日、青島要塞を偵察し、初陣を飾ったのです。


10月13日、ヨタヨタと度重なる偵察や、チマチマと爆発物を投下する、
小うるさい日本軍機に業を煮やしたドイツ軍は、手持ちの全機で出撃、
逆襲に出ました、、、三機です、、、。

日本の二機と、ドイツの三機、ドイツの方が少しだけ性能はよいのです
が、いずれにしてもやっと飛んでいる初期の飛行機、陸上の兵士達も
しばし戦争をやめて、互いの応援合戦が始まりました。
運動会の騎馬戦かせいぜい喧嘩タコの糸切り程度。
結局燃料切れで尻切れトンボ、互いに被害は無かったのですが、
後で搭乗員がゲーゲーやっていたとか、、、。

青島上空日本航空隊初陣


日本人の初空戦、青島要塞上空の空中戦
この1914年10月13日が、日本軍機の初空戦になりました。
日本にはまだ航空隊は無く、試験段階で実践に参加したのです。

余談ですがこの青島要塞陥落後、降伏したドイツ兵達は、日本で
しばしの抑留生活を送ります。
武器を置いた勇者達を日本国民は暖かく向かえ、大戦中であるに
もかかわらず、武士道の名の下、賓客としてもてなします。
この日本国民の好意に対し、独兵達は感嘆と感謝の意を込めて、
一編の響きを奏で日本国民に贈るのです。
ベートーベンの交響曲、第九です、、、。

独逸(どいつ)帝国の武人達は、感謝の心に第九を添えて、
日本の侍達に贈り、去っていきました。

この時代飛行機の用途は主に偵察です。敵軍がどこにいるか、
味方の砲弾は旨く命中しているか、駄目ならば空から無電で
砲撃を誘導するのです。”ちょい右、ちょい下”などと、、
これをやられては味方に正確に砲弾が撃ち込まれてしまい
ますから、妨害するのです。飛行機で。。。
妨害されれば砲撃が正確に出来ませんから、妨害しに来る奴を、
妨害するのです。飛行機で。。。

互いに国運をかけて飛行機やパイロットを生み出すのです。
ほんの僅かでも敵より優れた者、物を。
戦い方も初期の一騎打ち、武蔵と小次郎の様な決闘から、
集団で数の劣る敵を捜しだして、なぶり殺す様な集団戦闘
になってきました。
日本を強国にしないために、、、会議と言う名の謀略に続く、、、



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2010年10月18日

日本を強国にしないために、ワシントン軍縮会議

この頃には、日本海軍は数はともかくその
実力は日本海海戦で、十分に示されて
いますから、明らかに世界一だと
思われていたのです。

ですから、英仏の思惑を十分考慮に入れた
米国は、善意の第三者になりすまし、
日本目当てに、モグラたたきの
ワシントン会議を開催したのです。
と私は考えています。

海軍の戦力を計る方法として、敵味方
の戦力比が10対7ならば、作戦次第で
劣性な側にも勝機が有るのですが、
10対6となると、どんな名将が、
どんな名作戦を立てても、勝ち目は
無くなるのです。

この事は、当時の世界の、軍事上の常識
ですから、米英は60%以下に、押さえよう
としますし、日本は絶対に70%までを
譲れないのです。

しかしこの会議の時点で日本は、ドレッドノート
級以降の新式戦艦は60%未満しか無かった
のです。

米英は既に就役している超弩級艦を、廃棄処分
することになりますが、日本の場合は新造中の
工事を取りやめるだけで、現役艦の処分は零
だったのです。

その日本の70%もの要求は、明らかに英米を
仮想敵国として意識しているのが、各国には
見え見えでした。

考えてみれば、列強は1904-5年の日露戦争
で、まず世界三位のロシアが、そしてこの度の
第一次大戦で世界第二位のドイツが、無力に
なりました。

この20世紀初頭の海軍力サバイバルレースに、
列強二位と三位がいなくなったのです。
補欠列強国の日本が、自動的に一軍登録された、
と思えば解りやすいでしょう。

ともかく余計な軍備は廃棄した方が、維持費も
かかりませんから、旧式主力艦の廃棄は割りと
すんなり決まります。

イギリスの廃棄は開戦時の最新式超弩級戦艦、
アイアンデューク級4隻を含め以前の主力艦全部
その数30数隻、その中には、かの、弩級艦の
元祖、ドレッドノートも含まれるのです。

平気でそんな事が出来るのは、アイアンデューク
級の後がま、クインエリザベス級五隻をすでに
完成させていたからです。

アメリカは、超弩級、弩級、前弩級、計20数隻を
全て廃棄スクラップです。
しかしこれも、テキサス級四隻をすでに完成
させていたからなのです。

日本は、海軍その物の歴史が浅く、全体の数も
英米ほどは多くないので、スクラップにする艦は
比較的少なく、数隻止まりでした。

そして日本海海戦以前の旧式戦艦と、装甲巡洋艦
は、全て防御鋼鈑を外したり、武装を取り去ったり
して、直接戦闘に従事しない特務艦として保有する
ことになりました。

これで列強海軍は、概ね新式主力艦だけで
構成されることになりました。

こうなると一番沢山の主力艦をスクラップにする
羽目になったのは、やはり世界ナンバーワンの
英国で、結局、数年前に出現した新式艦の数
だけなら、日英米、その国力ほどの差は
無くなっていたのです。

イギリスがドレッドノートを竣工させてからは、
そのクラス以上の船だけが、他国に脅威を与える
主力艦と言うことになりました。

軍縮会議は、艦船の総トン数と、備砲の大きさと
数量で、戦力評価をしますから、旧式艦を温存
すれば、その分新式艦を、保持出来なくなります。

此処に、仮想敵国よりも、最新式主力艦を一隻
でも、一トンでも多く保持するためには、現在は
新式でも、数年を経ずして、旧式になるで有ろうと
思われる艦まで、英米のようなゆとりの有る国は
自発的に軍縮に応じるような振りをして、
廃棄したのです。

日本はこの廃棄が出来なかったのです。最新式
主力艦を一度に何十隻も、造ることは日本の
国力では不可能でした。

此処でワシントン会議の取り決めを見てみましょう。
会議期間は1921(大正9)十月から
翌22(大正10)二月まで

決定は、英米日の主力艦比率を、5、5,3,にする。
  建造中の主力艦を廃棄、且つ10年間の建造中止。

  戦艦は35000トンまで、備砲は40センチまで。
  空母は27000トンまで、備砲は20センチまで。
  巡洋艦は10000トンまで、備砲は20センチまで
  建造量隻数無制限。

  太平洋上の根拠地は、拡張禁止、現状維持。
 
  有効期限は10年間。
以上のことを決めたのです。
ちなみに1903年以来の、日英同盟は、この時点で
解消されました。

 戦艦長門
    完成時の戦艦長門、下図は主砲配置と防禦範囲(バイタ長門バイタルパートルパート)

戦艦長門竣工時点




日本はポストジュットランド型、戦艦長門(上図)
会議直前に完成させ、二隻目の陸奥も、
完成直前でした。

米英はこの陸奥を未完成であるとして、工事中止、
廃棄処分を要求してきます。
しかし日本は会議終了までに昼夜兼行で完成させ、
長門陸奥の二戦艦は、既成の事実であると主張します。
                                        

日本の強硬な主張の前に、英米は一歩譲ります。
そのかわり代案として、すでに完成している、陸奥、
長門クラスと対等に戦える、コロラド、ウエストバージニア
に加え、三隻目、工事中のメリーランド、の建造を主張
するのです。これで日米は最新式戦艦は、二対三になり
均衡が図れると主張するのです。

日本は陸奥を生かすため、メリーランドの建造
を認めました。

一方イギリスも、ポストジュットランド型、ロドネー、
ネルソン、の二隻を建造しました。
いずれも世界初の40センチ砲登載の三万五千トン
級戦艦です。
この七隻で当時は世界七大戦艦と呼ばれました。
     

このクラスの大きな特徴は先のジュットランド海戦
の結果を全て取り入れていますから、大攻撃力、
重防御、に重点が置かれ、速度は、それ程は
進歩していませんでした。

この機を逃さず米英と肩を並べようとする日本は、
長門、陸奥、の速度を43㎞と偽ります。
軍縮会議にスピード制限は有りません。

実際は49㎞で重大な機密事項でした。英米は43㎞
ですから、この速度差は、艦隊決戦の時は非常に有利
になると考えたのです。

しかしアメリカも嘘つきでした。三隻の新型戦艦は43㎞
ではなく45㎞でした。

(英国戦艦ロドネー上面図 40㎝砲3連装三基を
    前部に集中配置した変わり種)

戦艦ロドネー主砲、両用砲配置図上面



この長門クラスの速力は、世界の海軍関係者から
絶対に嘘だ、と見抜かれていたのです。船の大きさ
と、煙突の大きさ、太さ、の比較から、50㎞未満
であるはずだ、と考えられていました。

ジェーン海軍年鑑にもその事は記載されていますが、
海軍はあくまで43㎞だと白を切り続けます。


しかし大正12年の関東大震災の折り、中国の
青島(チンタオ)に停泊中の長門に、東京救援の
命令が届きます。

大量の救援物資を積んだ長門は、東シナ海を
全速力で東京目指し突っ走ります。

これをイギリスの巡洋艦コンウヲールに見付かり
後を付けられます。パトカーに後を付けられるの
と同じで、速度を測られるのです。

公海上のことですから、後を付けようと文句は
言えません。秘密保持のために、速度を落とせば
東京救援が遅れてしまいます。長門は全速49㎞
で東京湾まで突っ走ったのです。

秘密はばれました。しかしイギリスは見事に、長門
クラスの最高速度を推測していたことになりました。
(注 ジェーン海軍年鑑 世界の海軍力を正確に調査研究
し刊行している英国の雑誌、現在刊行中)


ネイバルホリデー(海軍休日)
ワシントン会議で主力艦建造が断念され静かに
なった、造船界を称して(ネイバルホリデー)
呼ばれる時代になりました。

 会議の結果、主力艦比率を対英米各60%に
押さえ込まれた日本は、あらゆる手段で既存の
主力艦の性能向上を図ります。

制限されたトン数の範囲で有れば、備砲を大きく
すること以外、改造、改良は全く自由なのです。
この結果各艦とも大改造を施され、新造時の
面影は無くなります。

第一次改装後の長門 煙が艦橋に掛かり諸機械に
影響するため 第一煙突を後方に湾曲させた、
このスタイルの時代が一番親しまれていた

第一次改装後の長門





巡洋艦は一万トン以内、20センチ砲で有れば
隻数制限は有りません。
各国は巡洋艦建造に血道を上げるのです。


また建造中の戦艦土佐、加賀の両艦は廃棄処分
と決まりますが、折からの航空機の勃興により、
加賀を空母として、完成させることになりました。


本当は巡戦として設計された、赤城の同型艦、天城
、の方が、船体の長さや、速力の関係で、
空母にはうって付けだったのですが、
横須賀で建造中に、関東大震災で横倒しになり、
船体に亀裂が入ってしまいました。


このため、天城を諦め、戦艦として建造中の加賀に
お鉢が回ったのです。

加賀の同型艦、土佐のほうは、廃棄処分と決まり
ましたが、海軍はこれを実験艦にして、砲弾の威力
や被害の程度などを克明に調べ上げました。その結果
 恐るべき事実が判明したのでした。それは、、、


従来の海戦では、敵艦の手前から50㍍以上離れた
海面に落下した弾丸は、そのまま海中に沈むだけの、
はずれ玉になると思われていました。

しかしこの土佐を標的にした実物実験では、二万㍍
の砲戦距離で、200㍍手前に落ちた砲弾までが、
海中を直進して、艦体水面下に大穴を開けたのです。

二万㍍だと、弾丸は空から降るのですがそれでも
海面に激突した後は、水中を走るのです。

この事実は極秘にされ、海面に着弾してから300㍍
も水面下を魚雷のように進む砲弾が開発されました。

1931年に正式採用され、当時の日本暦(皇暦)2591
年にちなみ、九一式鉄甲弾と名付けられました。
我が主力艦の主砲鉄甲弾はこれ以降全てこの
九一式になりました。

九一式鉄甲弾の水中での進み方(水中弾道)300㍍
以上も水面下を魚雷のように
直進し敵艦の土手っ腹に
大穴を開けた



九一式鉄甲弾

このワシントン条約を、60%の比率で調印する事で
海軍部内は勿論、国論をも、断固反対と仕方がない、
の二派に二分する大騒動になりました。

この時から造艦技術者は”個艦優位”を合い言葉に、
新造艦を造れない悔しさを既存艦の改装、戦力アップ
を死にものぐるいで計ったのです。
            10月下旬  空こそ我が命に続く



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2010年10月01日

鉄と血の世紀 巡洋戦艦から高速戦艦へ

高速戦艦登場

我が新造巡戦、金剛は、ジュットランド海戦の直後、
戦訓を取り入れ、大幅な改造を始めます。
防御力の大幅な増強、よりいっそうの高速力、を求め、
さらなる遠距離砲戦に備え、大砲の仰角(ぎようかく)アップ
を計りました。

同型艦の榛名、霧島、比叡も同じです。この改造後、
4隻は、軽防御の巡戦から、重装甲の高速戦艦
に生まれ変わりました。


高速戦艦戦隊の誕生です。これに合わせ、戦艦も
防御力強化と、速度アップを計ります。
高速戦艦隊を56㎞、主力戦艦部隊を46㎞に統一
したかったのです。


しかし、ボディのど真ん中、煙突の前後に主砲塔が有る
扶桑、山城、の二艦は目的を達することが出来ず、
44㎞弱しかでませんでした。

この2キロ強の差、僅かな差に思えるでしょうが、じつは
この差は当時の軍事上では非常に重大で、この事が
後の太平洋戦でこの両戦艦の運命に大きく
係わることになるのです。


またジュットランド海戦の少し前から、建造を開始した
世界初、40センチ砲搭載の我が、長門、陸奥
の二艦は、急遽、設計を変更し、さらなる遠距離砲戦
に備え、艦橋をさらに高くし、大砲の仰角を上げ、
主砲天蓋や、主要部分の上面の装甲をさらに強化
しました。
  
注 仰角(ぎようかく) この場合、砲身の上下する角度のこと


鉄と血挿絵6上面装甲の進化

甲板からは、水平線の向こう側で見えない敵を、高所で
先に見つけ撃破しようと試みたのです。また遠距離砲戦
で、上から落ちてくる砲弾の防御を徹底的に行いました。

こうしてさらなる大口径砲、さらなる重防御、さらなる高速
を求めるうちに船は次第に大型になり、とうとう三万五千
トンを超えるまでに大型化したのです。

このような艦を、超弩級より更に進歩した、
ポストジュットランド型と呼び、世界中で
更に更に激しい建艦競争が起きる事になりました。


考えてみれば日本海海戦(1905)~ジュットランド海戦
までは、11年しかたっていないのです。
最初の弩級艦も、出現してから、12年ぐらいしか
経っていないのです。

超弩級艦に至っては、7-8年しか経っていません。
12-3年の間にイギリスで、20隻以上の主力艦、
ドイツで15隻以上、日本で8隻以上、アメリカ15隻以上
物凄い費用です。


米英の陰謀ワシントン会議、1921


各国とも海軍力拡張の為に、国家予算を30ー55%
も使う羽目になり、非常に苦痛になったのです。

1918年に一次大戦が終わり、勝利したとは言え、
疲弊したイギリス、フランス、イタリア、は最早建艦競争
をするゆとりは有りませんでした。

ドイツは敗戦国、ロシアは日本海で敗れた上、革命直後
の内戦状態です。
アメリカと日本が、海軍力でヨーロッパ列強を追い越す
のは、時間の問題でした。

大航海時代以来のミリタリーバランスの崩壊です。
世界一の海軍を、日本に持たせるわけには、
絶対にいけません。

米英はこう考えたのでしょう
”何と言っても世界一は、
 俺達のうちのどちらかで”、、、。


アメリカが世界列強に、軍縮を呼びかけました。
これに応じて、英仏伊それに日本、が応じ
ワシントンで円卓を囲む事になりました。

ワシントン軍縮会議の始まりです。疲弊困憊(ひへいこんぱい)
している、ヨーロッパ諸国には、これ以上の建艦競争は
不可能でした。

だからといって、指をくわえていては、世界一の海軍力を
ひいては、世界一の列強の地位を、日本に奪われて
しまいます。何しろ戦場にならなかった日本は、惨禍に
見舞われたヨーロッパを後目に、順調に強国への道を
たどっていたのです。
(注 疲弊困憊(ひへいこんぱい) 疲れ切って動けないような状態)


ドイツの権益地、中国の青島や南洋の植民地、で
僅かばかりの、戦闘をしたおかげで、カロリン群島、
マリアナ諸島、等が、日本の委任統治領になったのです。
大した戦争もしないで正に濡れ手に泡でした。

   下図
 A マキン島、タラワ島  Bマーシャル群島 
 Cトラック諸島 D北マリアナ諸島 サイパン
    島テニアン島、、、その北側(上)硫黄島)
      
 全てではないが、第一次大戦の結果獲得した、南洋の島々

信託委任統治領トリミング













此処でアナログ時代の戦術を考えてみましょう。上
の地図の日本統治になった旧ドイツ領の島々を
利用します。
すると、太平洋の西側に北は千島列島から日本本土、
そして硫黄島、Dのサイパン、テニアン Cのトラック諸島
Bのマーシャル群島、Aのマキンタラワ(ギルバート諸島)
まで丁度西太平洋の縁の部分に弓の弧を描                        くように日本軍の基地が
出来ます。


アメリカ艦隊が日本に侵攻してくるルートは燃料や時間
の関係からハワイを根拠地にして西に侵攻してくると
考えられていました。このルートしか無いと考えたのは
アメリカも同様でした。だからこそハワイ真珠湾を
太平洋艦隊の根拠地にしたのでした。


しかし素人考えでも、もしそのルートをアメリカが
攻めてくれば、日本にとって極めて有利な展開に
なるのは理解できるはずなのです。

直線で西に攻めてくるアメリカ艦隊を、千島から本土
マキン、タラワ島までの弓の弧上の航空基地から
代わる代わる航空攻撃や航空母艦、潜水艦、駆逐艦
などで攻撃を加え、暫時アメリカの戦力を減じてゆき、
最後に日本本土の近海で戦艦部隊が最終決戦に
持ち込み撃滅するのです。
こういうのを暫減作戦と言います。

この作戦を確実に遂行するための最終兵器が、
戦艦大和、武蔵、信濃でした


もっともアメリカ側はこれでは撃滅される、と考えて
いました。つまりアメリカと日本は同じ事を考えて
いたのです。


実現させたい日本と、実現させたくないアメリカの思惑
のせめぎ合いが、戦後に軍縮会議という名目で
演じられたのです。

陸上でもこれは同じ事、ナポレオンは敵が弓の弧状の
防禦陣地を完成させる前に先手必勝、電撃的に攻撃し
勝ち続けたのでした。

つまり防禦の側は弓の弧状態に守りを固め、
攻め寄せる敵を押し包むように戦う、
軍事学上の常識、だったのです。

(地図上の状態、赤の旭日は最終決戦のための日本の本隊)
  図の下の部分が手に入れた南洋諸島に相当

包囲殲滅作戦


ですからこの時、南洋諸島を手に入れたことが、後に
太平洋戦争を引き起こす、遠因になるのです。

当時の同盟国、英国には”日本は参戦しないで
ください、英仏だけで十分ですから”
と再三頼まれて
いたのに”同盟のよしみです”と言って無理矢理参戦し
青島(ちんたお)を占領したのは、この南洋のドイツ植民地
の島々が欲しかったからなのです。

英国も、そしてアメリカも日本の腹の内などはお見通しで

”ドイツの植民地は絶対やれないぞ”
と考えて
いましたから”参戦の必要は有りません”
何度も言っていたのでした。



取り敢えずドイツと戦争しながらイギリスやアメリカは

”次は日本だ”
と考えていました。また日本は日本で

次はアメリカだ”
と何年後かに始るであろう次の戦争

を想定していたのでした。


この頃には、日本海軍は数はともかく、その実力は
日本海海戦で、十分に示されていますから、明らかに
世界一だと思われていたのです。

こうして、英仏の思惑を十分考慮に入れた米国は、
善意の第三者になりすまし、日本目当てに、
モグラたたきのワシントン会議を開催した
のです。と私は考えています。

海軍の戦力を計る方法として、敵味方の戦力比が
10対7ならば、作戦次第で、劣性な側にも勝機が
有るのですが、10対6となると、どんな名将が、
どんな名作戦を立てても、勝ち目は無くなるの、、、、続く



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