旅ははかなさを運んでくる。
運ばれるのは私ではないのだ。
昔、胸がいっぱいあったらいいのにな、と言っていた人がいた。
要はメス牛になりたい、乳首が六つほしいということなのだが、
男だ。
理由を聞いた
「だって快感は六倍以上だよ?」
そうか、そうなのかもしれない。
感覚はどこまでも膨張するものなのかもしれない。
しかし必要だったのは次の言葉ではないのか?
「だったら、ひとつの乳首でもいいんじゃない?」
そう、「集中」が快楽を増大させるかもしれない。
あるいは
「だったら乳首なくてもいいんじゃない?」
かえって快楽の元を断つことで、
快楽の極限にまでたどり着けるのではないか?
極限?しかしそれを快楽といってしまっていいのか?
むしろ最終的に必要だったのは乳首でもなんでもない。
「皮膚が六枚あったほうがいいんじゃない?」
特殊装甲のような肌なのだ。
快楽は第一の皮膚から第二の皮膚、さらに第三の皮膚へと、
つぎつぎに連鎖し、書き込まれていく。
フィードバックもあり、その逆もあるのだ。
六層の皮膚に六層倍の快感が伴う。
もはや変質した快感があるのだ。
これこそがまさに旅ではないか?
どこから来たのか、どうやっていくのかもすでにわからないや。
それが旅、六層を経ての旅。
六層の構造。
だが六層の旅の水準をまたひとつに還元することもできるのではないか?
旅は時空だけなのだとは限らない。都会においてのモノツキという旅。
憑依。
せどりはやるもんじゃなくて、見るものなのだな。
たぶん、実際に触れつつもずれていく方がいい気がする。
要は、ぐたぐたいっても仕方のないことにここでも気づく。
流れる。
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考えるとは、考えを引き伸ばすことなので、
基本的に考えることに終りがあるということはない。
Posted by restless at 23:36│
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