2026年08月03日

隋書流求伝

7月29日には隋書倭国伝に登場する秦王隼人の古代史
国について書いた。そこでは触れなかったが、紀元前210年、不老不死の霊薬を求める秦の始皇帝の命により蓬莱(ほうらい)国に派遣された徐福(じょふく)は数千人の童男童女・技術者とともに東方に向けて船出した。一説によると、徐福は平原広沢の地にたどり着き、そこで王となり秦には戻らなかったとされている。隋書はそれから600年以上を経た話だが、倭国のどこかに徐福の団員の後裔が住み着いていた可能性はある。それが裴世清が見た秦王国だったのかもしれない。九州から難波までの行路のどこかにあったことは確かだが、それがどこかは分かっていない。ところで、隋書には倭国伝だけでなく流求(りゅうきゅう)伝もある。「隼人の古代史」(中村明蔵著、平凡社新書)には流求伝にまつわる興味深い話が紹介されているが、その中で流求の習俗について書かれた部分を引用する。「凡(およ)そ宴会有らば、酒を執(と)る者は必ず名を呼ばるるを待ちて、而(しか)して後飲む。……歌呼蹋蹄(かことうてい、注:足を踏み鳴らして歌い踊る様子(百度百科))は、一人唱ふれば衆皆和し、音は頗(すこぶ)る哀怨(あいえん)なり。女子を扶(たす)け膊(はく、注:腕)を上げ、手を揺(ゆ)らして舞ふ。」何とこれは沖縄の「オトーリ」と「カーチャーシー」そのものではないか。流求が国としてまとまるのはグスク時代の12世紀頃とされているが、7世紀の始めには今に伝わる流求文化を持った人々が住んでいたことを隋書は伝えてくれている。

revival_noudo at 10:20|PermalinkComments(0) 沖縄 | 中国

2026年07月29日

秦王国

「中国正史 倭人・倭国伝全釈」(鳥越憲倭国伝全釈
三郎著、中央公論新社)には魏志倭人伝はもちろんだが、それから370年後の隋書も掲載されている。隋書倭国伝には遣隋使の小野妹子が608年に帰国する際、答礼使として倭国に派遣された裴世清が見た倭国のことが書かれている。その中に秦王国が出てくる。裴世清は百済から竹島(巨文島?)、対馬、壱岐を経て竹斯国(九州)に至っている。その後の行程を上掲書から引用する。「また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。その人は華夏(かか、注:中国のこと)に同じく、以って夷洲(いしゅう)となし、疑うも明らかにすること能わざるなり、また十餘国を経て、海岸に達す。竹斯国より以東は、皆倭に附庸(ふよう)す。」鳥越憲三郎氏は「秦王国」に該当する所はないとしているが、周防(山口県)ではないかという説、福岡県香春町ではないかという説がある。周防については、山口県の戦国大名大内氏は百済国聖明王の後裔とする伝記があるが、聖明王の第三子琳聖太子が周防国佐波郡多々良の浜に着岸したのは推古天皇十九年(611)とされているので、時代的に合わない。一方の香春については、豊前風土記逸文の「香春郷」に「昔者(むかし)新羅の国の神、自ら度(わた)り到来(きた)りて、此の河原に住みき。便即(すなわ)ち、名づけて香春(かはる)の神と曰ふ。」とあるので、新羅からの移住者がこの地で銅山を開発した可能性があり、新羅人の風俗を見た裴世清が華夏と見間違えたのかもしれない。裴世清は九州から難波までは船で移動しているので、わざわざ香春に立ち寄る理由はないが、隋書には阿蘇山の噴火の話が出てくるので、博多から陸路で香春経由で行橋辺りに出て、そこから海路難波に向かったことも考えられる。



revival_noudo at 14:03|PermalinkComments(0) 中国 | 倭国

2026年07月28日

抜歯と渡来人

202596日に「抜歯ー恐るべき風習」叉状研歯02
を書いた。その際に掲載した新石器時代(日本では縄文時代)における東アジアの抜歯分布図を下に再掲する。日本の縄文遺跡で抜歯頭骨が特に多く出土したのは、愛知県知多半島の貝塚と岡山県笠岡市の津雲貝塚だ。このうち前者にあたる田原市伊川津貝塚から出土した抜歯頭骨(右上:復製品、現品鈴木尚氏蔵)を見るため、2025年12月19日に渥美郷土資料館を訪れた。展示品では、上顎の犬歯2本と下顎の切歯4本が抜歯され、さらに上顎の切歯4本には溝状の切り込み(叉土井ヶ浜抜歯型式(側切歯)
状研歯)が施されている。この展示を見て抜歯に対する興味が大きく高まった。そこで、ほかにも抜歯の、山口県下関市の土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアムで撮影したと思われる右下の写真が見つかった。驚いた。この例では上顎の犬歯ではなく、側切歯が2本抜かれている。下図を見れば分かるように、この抜歯は中国南部沿岸地域の抜歯型式だ。土井ヶ浜遺跡は弥生時代の渡来人の墓で、約300体の人骨が出土している。この写真を見るまで、弥生時代の渡来人は韓半島からやって来たと思っていたが、考えを改めなければならなくなった。なぜなら、韓半島には抜歯事例がないからだ(実は、韓国慶尚南道泗川市にある勒島(ヌクド)遺跡からは出土しているが、下顎の抜歯で土井ヶ浜とはタイプが異なる、勒島からは多くの弥生土器が出土しており抜歯風習は日本由来の可能性がある)。上顎の側切歯2本を抜歯する風習は中国南部に見られる。稲作文化は中国から韓国を経て日本に伝わったことが定説となっているが、中国の東シナ海沿岸からの直接ルートもあったのかもしれない。中国の秦時代には、山東半島から数千人の若者と技術者を引き連れて日本に渡ってきたという徐福(じょふく)伝説がある。土井ヶ浜人は徐福の団員だったとは考えられないだろうか。画像はクリックで拡大。ここからは2026年7月28日の追記になる。「骨が語る日本人の歴史」(片山一道著、ちくま新書)によれば、伊川津貝塚から発掘された133体の人骨のうち125体で抜歯が行われており、うち8本以上抜かれた人骨が13例、最高は14本というから驚きだ。

縄文抜歯





revival_noudo at 09:47|PermalinkComments(0) 縄文 | 人類・海洋