Reysolog

何カアッタラ、太陽ニ聞ケ。頭ヲ持チ上ゲテ、雲ノ上。

柏レイソルvsガンバ大阪(天皇杯・決勝)

2013/01/01しつこく繰り返すようで申し訳ないが、ここであらためて言明しておきたい。この試合で見せた「いやらしさ」こそがまさしく、今の柏レイソルというチームの、最大の持ち味であり武器なのである。準決勝そしてこの決勝戦と、今シーズンなかなか発揮することができなかったその特色を、ここにきてようやく取り戻すことができつつあるというのは、決して遅かりしなどと言うべきでなく、率直に喜ばしく感じてよいものであろう。欲しかったのはこれ、なのだ。
このところ目に見えて調子を上げてきたガンバに比して、レアンドロの復帰はあれども工藤・近藤と主力格を欠いて臨まざるをえないレイソルは、状況的にはやや不利と思われた。ただ、あえてその不利を踏まえた視点で状況を見直すということが、転じて有利になることでもある。相手を「戦略的に」上に見る慇懃な視点。それが、レイソルの「いやらしさ」の源泉である。相手の力量をリスペクトしつつ、それを上回る包摂力をもっていかに相手を支配しいかに無力化しうるか。それを考え抜き、実行できるかがレイソルにとっての力量であり、その実現の可否こそが結果につながるのだ。
さすがに、準決勝よりピンチは多くチャンスも少なかったように思える。相手に「やらせている」という余裕よりは、「やられている」緊迫感の方が上回った部分もあったかもしれない。試合はやはり生モノであり、そのつどの逐次的な現実である。考えた通りにはどうしたっていかないものだ。そこで問われるのは対応力、ということになるが、ただ単にその場その場で対応すればいいというものでもない。それではただの「反応」である。また、AならAを、BならBをしていればよいというような規格的・マニュアル的な対応でもいけない。予想外のことが常に起き、それに現実的に対応しなければならないからこそ、試合は生モノなのだ。その「生モノ」に対抗するにはどうしたよいか。それは、それこそまさに、自分たちが一つの「生きもの」になることによって、である。一つの「生きもの」であるということは、ただ「一つ」であるだけでなく、種々様々な要素をそれぞれに持ったものとして、その各要素同士の間でも互いに影響し合いながら・変化し合いながら、それでなお「一つ」であることができる、そのようなものとして「一つ」になることである。レアンドロの「代わり」とか、工藤や近藤の「代わり」とか、そういうことではないのだ。それぞれの個性を持って融合しつつ、それが組織され直して「一つ」になる、ということなのである。そのたびごとに新たに生まれ直し、また一つの「生きもの」として、生きる。それがまさにオーガニゼーション、ということなのではないだろうか。
今期は残念ながら、単に誰々の「代わり」というのが目立ってしまった。つぎはぎのパーツの組み合わせ感が前面に押し出されて、チームが一つの「生きもの」として、組織され直す・生まれ直すという作業がなかなかできていなかった。「生きもの」として柔軟に変化することができないがゆえに、試合の一つ一つの多様な現実に対して硬化・硬直し、現実的に柔軟に対応できないという場面も目立ってしまった。それがようやく、この最後の二試合に至って克服されてきているようである。まさに生きものとして「生き返った」という感じがする。そして、「生きもの」はまた現実の中で成長するものである。あらかじめ決まった規格で決まったようにしか動かないロボットではないということだ。「代わり」のパーツとしてくっつけられただけでは、それは確かに十分な「機能」を発揮するには至らないだろう。個性を持ちつつ「一つ」の生きものとして組織され直す、その中で、その直面する現実の中で、その「個性」もまた組織され直しさらに成長するというものだ。そしてそこでまたさらに「生きる」ことを覚え、その過程がまた成長につながるのである。この試合の決勝点はまさしくその「生きた現実の過程」の中で、一つの「個性」が成長する過程において生まれた。それは、転じてチームが一つの「生きもの」であるということの証明でもあったのであり、その「生きた過程」の一つの「結晶点」であったともいえるだろう。
今回の優勝は、決して単に到達点という意味だけのものではないというのが重要なポイントでもある。そこが4年前とは違う。また、昨年とも違うところだ。「ACL」というスローガンが前面に出されているところからもうかがえるように、あくまでもこれは通過点という位置づけ、いわば「最終予選」であったともいえる。今期は初体験ゆえもあって満足のいく成果を上げられなかったアジアでの戦いを見据えての「予選突破」、悔しい経験を胸にそのリベンジを期してそこに意識を集中させたがゆえのこの結果、ということなのである。だから、すべてはまだまだこれから続いていくのだ。もう二ヶ月足らずのうちに、すぐにもこの「続き」がやってくる。だからこそ、レイソルがここにきてまたあらためてその持ち味を甦らせ、さらに成長することができているというのが、なおさら喜ばしいことでもあるといえるのではないか。必ずこれは力になる。この試合一つとってみても、また大会を通して見ても、それは確信してよいことではないだろうか。

柏レイソルvsヴィッセル神戸(J1・第33節)

2012/11/24数的優位に立った上で得点を重ねることができなかった反省、というポイントはもちろんあるだろうが、反面、数的優位が逆に攻めづらさを生んでしまうのも得てしてあること。圧倒的に攻勢をかけて、ゲームを支配しているつもりが、むしろ、そうさせられている構図になる。よくありがちな展開だ。まあこの試合で神戸の側に、そのように「させる」余裕がどこまであったのかという疑念は禁じえないけれども、レイソルの側としても、外見ほどに積極的な支配感はなかったであろう。やはりどこかで、させられていた。自分で自分に「させられて」いたのだ。崩しきれない、攻めきれない。なんで、なんでだ?と、ループにはまってしまうと、この場合最悪だ。その前になんとか、1点取れたのは幸いだった。それがなければ、ヘタをすればヘタをした。そう思えてしまう側面を、今季のレイソルは抱えてここまできてしまったのは否めない。
これまでも何度か持ち出してきた見方になるけども、昨年・一昨年と、レイソルがモノにしてきた試合は、どこか独特な「いやらしさ」を漂わせていた。これも何度も引き合いに出すが、それはナビスコを獲ったあたりを頂点にした、シャムスカ大分を彷彿とさせるような「いやらしさ」であった。それは、いわばある意味「させるサッカー」の典型であり、ひとつの到達であるといえる。させて、つけ入る。そこに、つけ込む。相手に、「なんで、なんでだ?」のループを起こさせる。意図的に、それを起こさせるのだ。やがて相手が自分自身に対して疑心暗鬼になっていくのを見通して、その精気を抜き取り、吸い尽くす。そして、相手は、いつの間にか死んでいるわけである。ああ、いやらしい。しかしその「いやらしさ」、残酷さもまたサッカーのリアルな魅力なのであり、醍醐味といえるであろう。
こうしたやり口(と、あえて悪いイメージの言葉で言いたいのだ。)は、決して受け身ではできないのだ。周到さに裏打ちされ、かつ主体的でなければ成り立たない芸当なのである。昨今のサッカー界の流れとしては、自らボールを保持してゲームを主体的にコントロールし、相手を圧倒して自分たちのサッカーを「させない」ことが、いわゆる「試合を支配している」というようにみなすのが大方であろうかと思う。それが要するに「攻撃的サッカー」とされているのだろうし、レイソルにおいても、こと攻撃面についてはそういう志向をもっているはずではある。しかし、相手に、意図的にサッカーを「させる」ことほど、「支配的」なものがあるだろうか。相手のサッカーそのものを意のままに操ることほど、「圧倒的」であることがあるだろうか。それを上回る「強さ」が、果たしてありえるのだろうか。
昨年・一昨年のレイソルにおいて、それはまだ「垣間見えた」だけというレベルのものであった。だがそういうときのレイソルは、確かに強かった。まさしく「悪魔的」な支配力という感じであった。今季のレイソルには、それが見られない。すっかり、「人間的」である。
昨年のリーグ覇者として、自分たちのサッカーを主体的に前面に出していかなければならない。それはプライドであり、責任でもある。そういう意識ももちろんあるだろう。しかし、そういう意識が逆に柔軟性を損なわせる側面もある。レイソルは、まさしく眼前の試合においての逐次的状況展開に対する臨機応変な柔軟性をもって結果を残してきたものであったはずであり、その部分を評価されてきたことも多かったはずなのである。サッカーはそもそも相手があってのこと、その相対的な力関係の駆け引きで競い合うものだろう。それを、自分たちのサッカーばかりゴリ押ししても、空回りするばかりなのは当然である。自分たちのサッカー、それはただの影にすぎない。影にパスを出しても、ボールを蹴り返してくることはないのだ。
幸か不幸かはともあれ、来季はもはや「覇者・王者」と呼ばれることはない。むしろ逆にそれは、晴れ晴れと自由の身になる、そう思えばよいのではないか。そして、いずれにせよ「王者」を目指すならば、いっそ「魔王」と呼ばれることを目指してほしいのだ。相手の精気と魂を抜き取っては吸い尽くし、悪魔的な高笑いをスタジアムに轟かせる。圧倒的であり、残酷な支配者、忌まわしくも美しき魔王。むしろそんな存在であることを目指してほしいものだと思う。

柏レイソルvsガンバ大阪(J1・第31節)

2012/11/07そういえば4年前は「Yes We Can!」だったな、と、ふと思い出す、オバマ再選の夜。奇しくも、その年の締めくくりに「悔しい負け」を喫した相手との対戦となったわけだけど、互いにずいぶんと様変わりしたチームとしてのありようを鑑みても、口惜しいというより、残念ながらネガティブな意味で妥当なドローであったかもしれない。
シーズンも押し詰まり、何を目指していくのか、ということをもはや言ってはいられない状況。とにかく、目の前の勝ち点、0であるのはもってのほか、1よりも是が非でも3を、というところでせめぎ合うなか、消し合い潰し合いが先行しがちになるのは想像に難くない。「自分たちのサッカー」をひとまずさておく展開において、むしろ目立ってしまうのは、悪い意味での「自分たちのサッカー」ということになるだろう。欠点もしくは問題点として、現状この両チーム共に抱えているのが、守備の脆さ、と結論することができるかと思う。その意味においてもこの結果、それは質的なことも含めての結果として、残念ながらこれが妥当であり関の山、ということになってしまうわけだ。
客観的に見れば、この試合で生まれた四つのゴールは、どれもなかなか見事なものだったと言っていい。それに到る流れもよかったし、決めきる個々の力量も高いものを感じさせてくれた。サッカーのカタルシスを十分味あわせてもらえるものかと思う。しかし、その反面で、なにがそのゴールを「生ませてしまったか」ということ、なのである。そこに、現実を見ざるをえない。見えてくるものは、何か。まさに「自分たちのサッカー」という現実、なのである。得点は「生まれる」ものであり、その意味で失点は「生む」ものである。誰が生むのか、といえば、もちろん、「自分たち」が生むのだ。そこにすべてが集約されている。それこそが「自分たち」の、現実の姿、なのだ。問題は、それを自分たちで客観的に見つめることができるかどうかだ。もし、目をそむけるようであれば、もちろんそれで終わり、である。
あれから、4年。あれから4年を経ての対戦がこれでは、いかにも寂しい。何をこの時間の中で積み重ねてきたのかと思う。やがていつか再び、頂点を目指してしのぎを削る日が来るのかと、首をかしげてしまう。お互いに、だ。お互いに、これでいいのか、ということだ。それが何より、悔しいことなのではないか。

柏レイソルvs大宮アルディージャ(J1・第30節)

2012/10/27いやはやプッツンである。もうこれはプッツンしちゃったのだとしかいいようがないのである。選手たちが試合中にあんな表情を浮かべるなどというのは、2005年以来なかったのではないかというレベルのプッツンなのである。あれからも何度となく、大敗だの逆転負けだの天敵だの、それはそれはいろいろと悔しい場面やら苦境やら散々な目に遭遇してきたものだが、それでもなんとか「まだまだ終わってないぞ」という姿勢を、たとえ空元気であっても試合中はともかく見せ続けてきていたのは、やはりあの2005年の教訓というのが生きていたからであろう。負けるとかなんとかより、なによりももう、あの空気を二度と味わいたくない。あの当時在籍していた選手ももう今は少数派になってしまったが、そういう意識は今日まで各々に引き継がれてきたのではなかっただろうか。
2、3点目の取られっぷりを目の当たりにして、誰しもが思わず想起したのは、あの悪夢のダブルハットトリックであっただろう。まさに、それを彷彿とさせる空気感であった。そして、その3点目の瞬間に、「切れて」しまったわけである。あの「終わった」感いっぱいの選手たちの表情は、本当にここ数年では見たことのなかったものであり、あるいはひょっとしたら2005年においてもなかったものであったかもしれない。なぜなら、あのときは基本的に、「最初から終わっていた」場合がかなりの確率であったからであるが。
ともかく、「この試合、もう無理!」という空気が、たとえ一瞬でもあからさまに表面化してしまったのは、何点取られたことよりも衝撃である。もちろん、意識の上ではなんとか切り替えて、というつもりはあったであろう。しかし、一度そういう空気が定着してしまうと、それこそもう無理である。どんなにがんばって気持ちを燃え立たせようとしても不完全燃焼に終わる。燃え方がバラバラだから、一向に一つのエネルギーとなることはない。
とはいえ、「もう無理!」と、客観的に判断されてしまうというのにもそれなりの根拠はあるだろう。それに到ってしまったタイミングが、すでにあらかた考えうる手を打った後だというのもまず大きいことであり、そして、その打った手がものの見事に裏目に出てしまったというのが明らかだったのも、またひとつ重大な要因でもあった。それをさらにひっくり返すだけの要素、「ミラクル」の要素は、手持ちとして持ち合わせていないということ、そのこともまた暗黙のうちに理解されてしまっていた。たとえ精神論でどんなに空意地をはろうとも、ないものは、ないのだ。その認識は、正解である。これもまた2005年の教訓の一つともいえる。いくら「ミラクル」で勝ったとしても、それになんの裏付けも根拠もなければ、ただの幻である。
それなりの根拠をもって打った手が明らかに失敗だった。それははなはだ遺憾ながら明瞭に認めなければならない。ただ、その打ち手が一体どの程度選手たちの納得を得られていたか。なるほど、と誰しもが腑に落ちていたものかどうか。選手たちとしても、その策がこれほどあからさまに裏目となってしまったこと自体が衝撃だったはずで、だからこその「プッツン」でもあったのではないか。そういう意味でも、その策の受け止め方がどんなレベルのものであったか、今後のことを考えた上でも気になるところである。
とにかくもう、残りは少ないのだ。なにを目指すにしても、とにかくもうこれでやってくのだというのが明白でないと乗り切れない。その点では、やはりさすがに今回の相手は、こういう状況下においては試合巧者であった、ということになるのだろう。

柏レイソルvsコンサドーレ札幌(J1・第25節)

2012/09/15札幌関係者各位ならびに石さんには悪いけれども、この試合をもし落とすとしたら、それは明らかに取りこぼしということになる。引き分けですらそうである。そして危うくそうなりそうになった。まったくもって、快勝とは言い難い、薄氷の勝利、ヒヤヒヤギリギリの勝利だった。
8月はついにリーグ戦で一勝もできず、ここ何試合かは点すら取れてない。勢いが落ちつつあったのは明白の状況。うっぷんは相当にたまっていたであろう。それを晴らすならここ、であったはずである(札幌のみなさん、重ね重ねごめんなさい)。
何点取っても取り足りない稼ぎどころ、勢いを取り戻すには千載一遇のタイミングで、サポーターが期待していたのも大量得点の圧勝であったことだろう。実際シュート数も打ちも打ったりの23本、機会はいくらもあったわけだ。
前半のうちに引き離してゲームを決定づけてしまうチャンスも十分にあったが、なんとか終盤に追加点をあげて折り返したところまではいいとしよう。そんなにいくらなんでも全部が全部入るわけではない。
しかし後半、俗にいう危険な点差であるところの2点リードでゲームが展開していくなかで、やはりだんだんと意識とプレーにズレが生じてきたかに思える。「おかしーなー、取れねーなー、いろいろやってんだけどなー」と、単純に推察すればそんな感じだろう。
前半にはワタルからのクロスを華麗で豪快なボレーでもって久々のゴールをあげた工藤だが、先日のセレッソ戦でのハットを軽く上回ってしまいそうなほどのビッグチャンスを後半にも幾度もつかみながら、さらに得点を積み重ねるにはついに到らなかった。確実に取りたいという意識はもちろんあるだろうが、丁寧さと迷い、それがどちらに傾いてしまうかというと後者になってしまいかねないあたりは、やはりそこは経験値ということかもしれない。結局、1ゴール1アシストという結果を前半のうちに残しながら、どこか消化不良の気分を残したままで途中交代となってしまった。ヒーローインタビューでは、そのあたりも自覚しつつ気丈に振る舞っているようではあったが、場合によってはこの交代のタイミングはちょっと後に引きずりかねない予感もある。
それに代わってピッチに入ったネット、この投入を機に、それまでも兆候として漂っていたバランスの乱れやチグハグさが加速してしまった感は正直否めない。もちろん、それはネットのせいばかりではない。まだまだ十分融合するまでにはいたっていない彼を包摂しきれずにいるチームとしての柔軟性の不足はある。しかしそれにしても、ネットの動き方を見ていると「なんかわかっていないな」という気がしてならない。交代直後いきなりレアンドロと重なってしまっていたのには首を傾げざるをえなかった。気持ちが入っているのは、ビジュアル面からももちろん窺える。ただ、いかんせん空回りである。ああまでバタバタと動き回るのを誰も求めてはいないのだが、それでもバタバタしてしまうのは、自分のいるべき場所が掴みきれていないのだろう。ジュビロ戦の記事で、工藤はこれからキングになるべき選手でネットはキングとして呼ばれた選手、と書いたが、現キングのレアンドロを押し退けてまで鎮座する玉座は、このチームにあるだろうか。あるいは、ワグネル的立ち位置を見つけ出すことが果たしてできるだろうか。そう思うと、あのFKは、その成否も含めて暗示的に感じられてくる。
順也の存在感の薄さも心配になってくる。正直この試合どれほど絡んでいたのかという記憶・印象がない。いたのか?とすら思えてしまうほどである。それがなんとまあ、試合終了間際に、あれほど喉から手が出るほど待ち望んでいた追加点をあのようにドロ臭く決めてくれるとは。あまりにもドロ臭すぎて、ほんとに入れたのか?と思ってしまうほどで、さらに直後にわけがわからぬままタイムアップとなったので、まさかあのゴール取り消されないだろうな、と思ってしまったほど、ゴールしてもなお印象が薄く、あるいは裏返しの意味で印象的なゴールである。まあともあれ、これがいいきっかけになってくれればいい。彼の復調が今後の盛り返しには当然欠かせない要素であろうから。
全般的に言って、やはり札幌の拙さに助けられたことを踏まえてのこの試合結果、と思わなければならず、その意味においても決して満足をしてはいけないこの結果と内容であることは厳に自覚しなければならないだろう。レイソルの半分以下の9本のシュート数とはいえ、危うい場面もいくつもあり、「マエダなら決めてたな」というものもあった。そして、事実として1点返されて試合展開が雲行き怪しくなったのである。
今は「10連勝」だの「連覇」だの言っている段階ではない。一試合一試合、それだけしかない。試合を積み重ねてこそ得られる手応えを改めて掴んでいくこと、その先にしか目標も結果もないのだ。

柏レイソルvsジュビロ磐田(J1・第23節)

2012/08/25ジュビロと当たるなら開幕戦に限る、ということか。いつの間にやら相性最悪の対戦相手になってしまった。力の差があるとも思わないが、終わってみれば歴然の力負け。流れができてきたかな、というところで失点し、盛り返す雰囲気ができてきたかな、というところでまた失点し、ようやくコンビネーションに活気がでてきたかな、というところでまたまた失点し。出鼻くじかれっぱなしの90分。ましてジャッジがアレだから、そりゃカッカしてくるだろう、暑いし。
相性、でいうと、チーム内としても選手間同士の食い合わせが今一つ、という感じもしてくる。個々に何が悪いということではないのだろうけど、一緒にして食ってみるとどうも味がバラバラに分離してしまって・・・、というような食材同士の相性の加減。いいもの持ってるのに、という残念感。
工藤とネットの組み合わせというのは、実際のところどうなんだろうか。悪くはないかもしれない。しかし、生かし合ってるだろうか。どうもなんとなく、この組み合わせだと工藤らしさが活きてこない気もする。確かに資質や身体的特徴も異なるタイプであり、その意味で組み合わせやすいとみる向きもあろうが、本来的には、工藤かあるいはネットか、というそれぞれ「どちらか」という形での選択の対象になるべき立ち位置にある選手同士なのではないだろうか。工藤と誰か(順也なり澤なり水野なり)、あるいはネットと誰か(同じく)というコンビの組み方が本当は妥当なのではないかと思うのだ。また、言ってみれば工藤は本質的に「キング」であるべき選手だ。もちろん現在はそうではない。キャリアも実績も、まだそれには及ばない。しかし、鎮座すべき場所は王の玉座、というのが彼本来の選手としての資質である。その点においては、ネットもまた同様なのである。工藤にとって分が悪いのは、ネットは「王として呼ばれた」人物であるということだ。どうしても、そっちに合わせないといけない。しかし、それは彼のやるべきことではないのではないだろうか。彼は執事であってはならないのだ。便利屋になってはいけないのである。サイドバックなんて、とんでもない話だ。まあ、面白いといえば、面白いけど。
もう一組、大谷とヨンハである。こちらは、どうもこの試合においてはそれぞれ割を食った感じになってしまったが、しかし中盤の要としてゲームをコントロールするに大きな役割を果たすべき関係性にあるコンビのはずだったわけで、その意味でいかんせん役目を果たすには至らず、このコンビでの起用は奏効しなかった。こちらも、大谷とヨンハはどちらかであるべきだったように思える。結果論だが、最初から栗澤だったら、というのは正直言ってなくはないところだ。あの間断なく献身的な動きぶりがチーム全体を活かすというのは、これまでの彼の仕事を考えてもいささかも疑い得ない。実際、栗澤が入ってからのチーム全体の動きは前半のそれとは全く違っていた。まさか、近藤の退場が織り込み済みだったわけではないだろうし、センターバックに下がってのプレーでもジュビロの攻撃陣のスピードについていけてなかったところから見ても、今回はヨンハにとってはいい印象を与えるに及ばない不運な出場になってしまったかもしれない。少なくとも、なぜヨンハだったのか、という問いの答えは、今回のピッチの上にはなかったように思われる。
その疑問符に追い打ちをかけそうなのが、ハンジンの仕事ぶりではなかったか。特に目立つような活躍があったわけではない。しかし、正直なところヨンハにおいてマイナスのポイントになっていたところをしっかり埋めていたところは評価できるはずだと思うし、今後へのアピールとしては十分だったのではないだろうか。
ともあれ、栗澤とハンジンの積極的な動きがチームを活性化させていた。数的不利もなんのその、これで最後まであきらめず戦えるぞ、というところだったから、ああ、やっぱりあの三点目は痛かった。キレイに決めたよな〜。
前田も「天敵リスト」に追加だな。ついでに、ミノルも。

柏レイソルvsセレッソ大阪(J1・第19節)

2012/07/28はたして今回のハットトリックをもってセレッソがそうなるのかどうかはまだまだわからないけれど、「また工藤か…」と、その存在がまさしく天敵であるかのような扱いを、どこかのチームに(あるいは、どこのチームからも)されるような日が、やがていつかくるのかもしれない。そういう資質を、彼は十二分に備えているはずだと思う。そういう意味で、今回、相手方に播戸という天敵中の天敵の一人がいて、そしてまさにその天敵の名にふさわしく、しっかりとゴールしていただいたというのは、この試合を意義づける要素として、大事なことだったのではないだろうか。
播戸と、さらには佐藤寿人。もはやレイソルサポーターには説明するまでもない、「ザ・天敵」であるが、この二人に、工藤の将来の姿を思わず重ね合わせてみたくなる。すると、なにかココロがザワッとしてくるような、奇妙な予感がフッと芽生えてくるような気がする。ありうる姿が、そこにくっきりと立ち現れてくる、そんな気がしてくる。
かの二人にしても、はじめからああだったというわけではなかったであろう。目指してああなれる、というものでもおそらくなかろう。しかし、いつしか彼らは日々を重ねて、あのような選手になっていったのだ。
あるいは、もっと「スマートなプレイ」で人々を魅了するような、そんな憧れもきっとあったであろう。また、海外クラブで華々しく活躍する、あるいはワールドカップに出場して国民的な賞賛を浴びる、そんな夢を抱かなかったわけもないであろう。しかし、彼らはいつしかこのような選手として、他に代え難い存在感を漂わせるようになったのだ。
もっと自分に、身体的な優位を誇れるような部分があったら。そんな風に恨み言の一つもつぶやきたくなることもあったかもしれない。しかし、彼らにとってその「身体的凡庸」さが、一つの優位性として作用し、決して「それだけ」ではない選手として、今の彼らを作り上げていったものでもあるはずなのだ。
むろん、工藤は彼らに比べれば、まだまだ若い。彼らにはない可能性を持ち合わせているはずだというのは当然のことである。まして、大津や酒井といった「レイソル発→世界へ」という姿を目の当たりにして、「いつか自分も」と野心に胸を燃やしている真っ最中に違いない。そのパッションはもちろん選手として必要なものであり、それが彼を成長させるエネルギーとなるのは疑いがない。
ただ、その資質を鑑みて、一つのありうるビジョンを想像してみるのは決して無駄ではないと思う。また、あるいは海外移籍や代表に選ばれるなどということよりも、播戸や佐藤のような、極めて特異な存在感を放つ選手になることのほうが、むしろはるかに難しく稀なことであるように思うのだ。矛盾した言い方をすれば、あのような選手には、決して資質「だけでは」なることができないだろうからである。
ともあれ、この試合が工藤壮人という選手にとって記念すべきものであり、その将来へのステップとして重要な意味をもつものであることだけは間違いない。来年の今頃はもしかしたら思いもよらないキャリアに到達しているのかもしれない。それもまたよし、である。ただ、あらためて播戸・佐藤の経歴を思い浮かべて一抹の不安がよぎるのは、よもや将来工藤がレイソルの天敵になるような事態には絶対なってほしくはないということなのだが、まあ、それだけはまさかないだろうな。

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