2016年03月04日

内地と外地で同じ日に2人のティーンエイジャーが焼身抗議・死亡

チベット人の中国政府に抗議する焼身は昨年8月末を最後に半年間途絶えていた。多くの人がこれでもうチベットの焼身という抵抗運動は終わったのではないかと考え始めていた。しかし、2月29日、2人の若いチベット人が内地と外地で示し合わせたように同じ日に焼身した。今年も3月10日のチベット蜂起記念日を前に内地における締め付けが強まり、チベットの自由への思いが募り始めているのであろう。政治的に敏感な若者が思いを抑えきれず、焼身に走ったと思われる。

北インド、デラデュンで16歳の学生ドルジェ・ツェリンが焼身、3日後に死亡

16a72393-c709-484e-8fce-9db6e53a1e25ドルジェ・ツェリン

2月29日、午前8時半ごろ、デラドゥン近郊ハバートプールにあるチベットキャンプ内、養老院の近くで、ムスリのチベット難民学校の高校1年生ドルジェ・ツェリン(རྡོ་རྗེ་ཚེ་རིང།)、16歳が焼身抗議を行った。近くにいた母親の目の前で彼はガソリンを被り燃え上がった。燃えながら走り、叫ぶ息子を見て母親は火を消そうとし、両手に火傷を負った。

12800305_726180347482357_2647738127404534747_n悲しみの中にあるドルジェ・ツェリンの両親。

周りにいたチベット人たちがなんとか火を消し、最初地元の病院へ運び込んだが、全身95%の火傷を負い、その病院では手に負えないということで6時間かけデリーの病院に運び込まれた。翌日、ユーチューブなどにまだ意識のある彼が焼身の動機などを自ら話しているビデオが広まった。その中で彼は「自分が自らを灯明と化そうと思ったのは、1959年以来チベットが中国に侵略されたままであるからだ。そして、自分はチベットのために何かすべきだという思いを持ち続けてきた。昨日、自分にできる唯一の方法は焼身であると結論したのだった」と語り、さらに「このような行為は聞く人にショックを与えるであろう。この少年が焼身した理由は彼の祖国のためであると知ることで関心を喚起することになるであろう。イギリスやアメリカ、アフリカの人々がチベットのことを知り支援を強化することになるであろう。チベットに自由をダライ・ラマ法王に長寿を」と続けている。

12804646_913522148766434_2911851315789789098_n母親は、「去年の9月、電話で彼が『もし自分がチベットの正義のために焼身を行ったならば、母親は誇りを感じるか?』と聞いてきた。私はそんな考えは捨てるようにと諭した。他にもチベットに奉仕する仕方はいくらでもある。もしも、そのような考えを捨てないなら、自分が自殺する、と脅しさえした。その後、彼はそのことを私に謝った。しかし、同じことを父親にも聞いていた。自分たちはこんな若い息子が本気に焼身などしないと思い、本気にしていなかったのだ」と話しているという。

集中治療が施されたが、3月3日の午前3時ごろ、両親が見守る中で彼は息を引き取った。遺体はダラムサラに運ばれることになっているという。

彼は外地(インド、ネパール)における6人目、今年に入って始めての焼身抗議者となった。

参照:3月1日付Tibet Timesチベット語版
3月3日付RFAチベット語版
その他


カム、カンゼで18歳の僧侶が焼身・死亡 当局は家族に嘘を強要

image層ケルサン・ワンドゥ

同じく29日午後4時ごろ、四川省カンゼチベット族自治州ニャクロン県にあるリツォカ・アールヤリン僧院(དཀར་མཛེས་བོད་རིགས་རང་སྐྱོང་ཁུལ་གྱི་ཉག་རོང་རྫོང་ཁོངས་རི་མཚོ་ཁ་ཨརྱ་གླིང་དགོན་པ།)傍で当僧院の僧侶ケルサン・ワンドゥ(སྐལ་བཟང་དབང་འདུས།)、18歳が「チベットの完全独立を!」と叫び、焼身を行った。周りの人たちが火を消し、近くの病院に運び込んだ。その後さらに成都の病院に運ばれる途中、車中で死亡したという。

彼は父ソタシ、母ウゲン・ドルマの息子。現在遺体は家族の元にあるという。しかし、当局はすぐに家族を拘束し、家族に対し、「焼身は政治的なものではなく、火事による事故である」ということを認める書面にサインするよう強要していると伝えられる。

彼は内地焼身抗議者の144人目。外地の6人を合わせ2009年以来の焼身抗議者の数はこれで150人となった。

参照:3月2日付RFAチベット語版
その他

さらに詳しくチベットの焼身抗議について知りたい人には自著「チベットの焼身抗議 太陽を取り戻すために」を参照していただきたい。



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2015年11月13日

尼僧院を破壊 100人以上追放

image当局に破壊されたチャダ尼僧院。

中国当局はチベットの宗教弾圧の一環として最近自治区内の尼僧院を破壊し、100人以上の尼僧を追放した。

RFA(自由アジア放送)などによれば、9月30日、チベット自治区ナクチュ地区ディル県の役人たちが突然ペカル郷にあるチャダ尼僧院(ནག་ཤོད་འབྲི་རུ་རྫོང་བན་དཀར་༼པད་དཀར་༽ཡུལ་ཚོའི་བྱ་མདའ་དགོན་དཔལ་ལྡན་མཁའ་སྤྱོད་གླིང་།)に押しかけ、106人の尼僧を追放した。当局は追放の理由として「正規の尼僧証明書を持っていない。この尼僧院に割り当てられた尼僧の数を超えている。ダライ・ラマを非難しなかった」ことを挙げているという。追放された尼僧たちの内、遠くから来ていた多くの尼僧は周辺県の責任者に引き渡されそれぞれの家族の下に送られたという。

当局は尼僧を追い出した後、尼僧たちが住んでいた僧坊を壊し始めた。理由として「ここに新しく政府が金をだして、僧坊を建て、尼僧たちのための養老院と学校を建てるためだ」と言っているという。もっとも、チベット人は誰もその話を信じていないという。この尼僧院は500年以上の歴史があるが、壊す前に当局は価値のありそうな仏像やお経をすべて持ち去ったという。ある尼僧は「まるで文革時代のようだ」と表現した。

僧坊が破壊され、居所がなくなった尼僧が付近の民家に宿を借りようとするが、当局は許可なく尼僧を自宅に泊めることも禁止しているという。

一方尼僧院内では連日、ダライ・ラマ法王を非難することを強要する「愛国再教育キャンペーン」が続いているという。

この尼僧院では、去年終わりにも26人の尼僧が追放された。チベット自治区内でもこのディル県を始めとするナクチュ地区は当局の監視と弾圧が一番厳しい地域であり、特に、僧院や尼僧院は常に当局からの嫌がらせを受けている。

参照:11月10日付RFAチベット語版
同英語版
11月10日付Tibet Expressチベット語版

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2015年10月30日

ンガバで再び1人デモ ネットは遮断され続ける

ダラムサラ・キルティ僧院によれば、今月26日、アムド、ンガバ(四川省ンガバ・チャン族自治州ンガバ県ンガバ鎮)の中心街の路上でタシ、31歳が頭頂にダライ・ラマ法王の写真を掲げ「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王をチベットにお迎えすべきだ!」と叫びながら、平和的行進を行った。まもなく、警官隊が駆け寄り、彼は拘束されたという。

タシはンガバ県メウルマ郷第5村の出身。妻ケルペとの間に4人の子供がいる。

ンガバ県一帯では政府関係以外のネットは9月10日以来すべて遮断されたままという。ンガバ県一帯で警官や武警によるチベット人への嫌がらせが続いていると報告される。

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2015年10月05日

15歳の僧侶がンガバで1人デモ/7年後、拷問で健康を害した政治犯が解放される

ロプサン・ジャミヤン
僧ロプサン・ジャミヤン。

15歳の僧侶がンガバで1人デモ

先月辺りから、焼身のメッカであるアムド、ンガバでチベット人による1人デモが連続している。今日(10月5日)、ダラムサラ・キルティ僧院の内地連絡係りである僧ロプサン・イシェと僧カニャク・ツェリンは、新たに9月中にデモを行った3人の消息を明らかにした。

それによれば、9月23日、現地時間午後4時頃、ンガバ・キルティ僧院僧侶ロプサン・ジャミヤン、15歳が、焼身者が多い通りとして地元のチベット人たちから「勇者の道」と名付けられている僧院近くの道から大通りにかけ、「チベットには自由が必要だ!ダライ・ラマ法王をチベットへ!」と叫びながら、歩いた。直ちに警官が駆けつけ、彼はその場で拘束された。その後の消息は不明のままという。

僧ロプサン・ジャミヤンはンガバ県メウルマ郷第二村の出身。父の名はチュペル、母の名はツォモ。幼少時よりキルティ僧院の僧侶という。

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ティンレーとロプサン。

さらに、それ以前の9月10日には、同じくンガバの中心街で、ンガバ県チュゼマ郷ソル村出身の俗人であるティンレーとロプサンと呼ばれる2人のチベット人の若者が、「チベットには自由が必要だ!ダライ・ラマ法王に長寿を!」と叫び、警官に拘束された。彼ら二人の消息も依然不明のままという。

ンガバでは9月10日以来、政府関係以外のネットが全て遮断されたままという。また、路上には普段より大勢の部隊が展開し、厳しい検問が続いている。

参照:10月5日付Tibet Times チベット語版 http://tibettimes.net/རྔ་པའི་ཞི་རྒོལ་བ་གསུམ་/

健康を理由に政治犯が解放される

先の9月30日、甘粛省の刑務所からラキャップというチベット人政治犯が解放された。彼は2008年の春、甘粛省甘南チベット族自治州マチュで反政府デモに参加したとして刑務所に収監されていた。最初2年の刑を受け、その後刑期が終わっても解放されず、さらに3ヶ所の刑務所に送られ、その間に様々な拷問を受けたという。

「彼は肺に関係する健康を理由に解放されたのだ。拘束中に受けた長期に渡る拷問が原因だ」と匿名希望の現地のチベット人は伝える。

逮捕された時には17歳だった彼は今25歳になり、やっと解放された。もっとも、刑務所側も彼に治療を施したが、効果がなく、悪化するばかりなので、刑務所の外に出すことに決定したといわれる。病名は伝わっていない。

「彼の父親は、息子が刑務所で拷問を受けていることを知り、心配が高じ、死んでしまった」と村人はいう。

地元の人々は彼を勇者として熱く迎え入れたという。

参照:10月2日付RFA英語版 http://www.rfa.org/english/news/tibet/freed-10022015162835.html


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2015年09月27日

TYC(チベット青年会議)無期限ハンスト18日目

12032094_896378477147499_3079398458326554422_n昨日17日目の現場。

中国政府がラサでチベット自治区成立50周年式典を行った2日後の9月10日、チベット難民社会最大の独立派組織であるTYC(チベット青年会議)はインドの首都デリーで自らの執行部員3人による無期限ハンストに入った。TYCはチベット問題解決を訴えるために、これまでにもデリー、ジュネーブ、ニューヨークで何度も無期限ハンストを行っている。

今回無期限ハンストを行っているのは会の副議長であるタムディン・リチュ、会計長のテンジン・ワンチュク、情報外務長のツェワン・ドルマの3人である。彼らは水以外の飲食を取らず、無期限(死をかけた)ハンストに入っている。今日(9月27日)で18日目である。RFAによれば、3人とも体重減少が顕著だが、特に容態の変化ということもなく、普通に来客に対応しているという。

12036803_895165187268828_4180781007584916443_nこの無期限ハンストの目的は一般的にはチベット内地の状況に世界の目を向けさせことと、内地の同胞たちへの連帯を示すためであるが、今回、特に彼らは国連に対し以下の5項目の要請を行っている。
1、国連総会及び人権委員会においてチベット問題について論議すること。
2、中国に対しチベットの焼身抗議者の訴えに耳を傾けるよう求めること。
3、中国に対しパンチェン・ラマ11世ゲンドゥン・チュキ・ニマ生存の証拠を求めること。
4、チベットの危機的状況を調査するために国連の調査官を派遣すること。
5、中国に対し全ての政治犯を解放するよう求めること。

「チベットの内外で149人ものチベット人が焼身抗議を行ったにもかかわらず、中国政府は彼らの望みを無視し続け、さらなる暴力的言語弾圧を行っている」とTYCはいい、「この死のハンストは、国連や世界のリーダーたちがチベット問題に関心を示さないことに対する絶望感を表明する行動である」と続ける。

TYCは1980年代からこの「死のハンスト」を始めている。そのころTYCの議長を務めていたラッサン・ツェリン氏は私にかつて悔しそうな顔をして以下のような話をしていた。「ハンストをして人が死ななきゃいけないのだ。人が死ななきゃニュースにならないのだ。チベットのために死ぬ覚悟のあるやつはたくさんいる。だのに、誰かが死にそうになると、いつもダライ・ラマ法王がこれを中止させるのだ」と。

b8e5c1a7トゥプテン・ンゴドゥップ。

この「死のハンスト」でどうしても思い出すのは、1998年4月27日にトゥプテン・ンゴドゥップという60歳になるチベット人が焼身を行い、死亡したということである。この焼身がチベット人による最初の焼身抗議であった。この時、酷暑のデリーで、8人のチベット人がほぼ50日間、水のみで生きるという奇跡的ハンストを行っていた。数人が死の兆候を示し始めたことと、そのころ中国の誰だったか偉いさんがデリーに来ると言うので、インド警察は彼らを強制的に病院に運び込もうとした。機動隊が強制排除を始めたその時、次のハンストのメンバーとして現場に待機していた、トゥプテン・ンゴドゥップ氏は自らの体にガソリンをかけ、火を付けたのだ。その時の映像は世界中に流された。彼は大きな炎に包まれながらも、合唱し、走りながら、法王への帰依とチベット独立への思いを倒れるまで叫び続けたのだった。

12009649_895983763853637_1148513466739163460_nツェワン・ドルマ。

今回はTYC執行部のメンバーが自ら行っているが、このようなことは始めてと思われる。この中、唯一の女性であるツェワン・ドルマを私は10年以上前から知っている。彼女はカトマンドゥにあるジャワラケル難民キャンプの出身であり、長くTYCのカトマンドゥ支部で働いていた。カトマンドゥに行った時よくあっていた。華奢な体であるが、本当に芯の強い、まっすぐな性格の女性である。カトマンドゥでチベット人たちがデモを行う時には常に先頭を行き、何度も拘束されていた。もともと痩せているので長く持たないのではないかと心配する。

場所はニューデリーの中心であるコンノート広場のそばにあるジャンタール・マンタール(ムガール時代の天体観測所)というところである。デリーに行かれる人は、彼らを訪問し労い、励してあげてほしい。

参照:9月10日付Phayul
9月25日付RFAチベット語版

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2015年09月10日

再びンガバで僧侶が1人デモ 

8094f905-a2e1-4536-9cc8-a668cbf16245デモを行った僧ジャンペル・ギャンツォ。

RFA(ラジオ自由アジア)などによれば、昨日(9月9日)現地時間正午頃、アムド、ンガバ(རྔ་བ་རྫོང་རྔ་པ། 四川省阿壩藏族羌族自治州阿壩県阿壩鎮)中心街の路上でンガバ・キルティ僧院僧侶ジャンペル・ギャンツォ、21歳が頭頂にダライ・ラマ法王の写真を掲げながら、「チベットには自由が必要だ!ダライ・ラマ法王に長寿を!」と叫びながら行進した。

間もなく現れた警官隊により、彼は拘束され連行された。これを目撃した多くのチベット人たちがチベット独特の雄叫びを上げ、彼に支援の意を示すとともに、荒々しく拘束する警官たちに対しては抗議の意を示したという。

「彼は行進を行いながら、中国政府のチベット政策に抗議するスローガンを叫んだのだ」と地元の人はいう。

彼を拘束したのち、警官が彼の僧坊に入り捜査を行ったという。

僧ジャンペル・ギャンツォはンガバ県メウルマ郷第3村の出身。父の名はスルヤ、母の名はタレ・キ、男2人、女1人兄弟の内の末っ子。幼少時よりンガバ・キルティ僧院の僧侶であった。

ンガバ県では先月20日に若い女性であるドルジェ・ドルマが、また前々日の7日には僧ロプサン・ケルサンが同様のデモを行い拘束されている。

チベット自治区のラサでは8日に「自治区成立50周年記念式典」が行われ、チベット族居住区一帯で警戒が強化されている。「記念式典」への抗議の意味もむくまれていると思われる。


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2015年09月08日

ンガバで僧侶が1人デモ ビデオが伝わる

Tibetan Monk Arrested after Shouting Free Tibet Slogan in Ngaw...

Tibetan Monk Arrested after Shouting Free Tibet Slogan in Ngawa Tibet གྲྭ་བློ་བཟང་སྐལ་བཟང་གིས་བོད་ལ་རང་དབང་དགོས་པའི་སྐད་འབོད་བྱས་རྗེས་འཛིན་བཟུང་བྱས་འདུགVenerable Losang Yeshe, Tibet News Coordinator of Ngawa Monastery in Dharamsala, Northern India tells VOA's Tibetan Service that around 3:00pm Tibet time, 19 year old Lobsang Kalsang of Kirti Monastery shouted 'Free Tibet' and called for the long live of the Dalai Lama on the main street of Ngawa.According to sources, within minutes of the solo protest, Kalsang was arrested by the previously deployed security personals and forced inside a police truck.

Posted by VOA TIBETAN on 2015年9月7日
 

ダラムサラ・キルティ僧院の内地情報係によれば、昨日、9月7日、現地時間午後3時ごろ、アムド、ンガバ(四川省ンガバチベット族チャン族自治州ンガバ県ンガバ)中心街の路上でンガバ・キルティ僧院僧侶ロプサン・ケルサン(བློ་བཟང་སྐལ་བཟང་། )、19歳がダライ・ラマ法王の写真を掲げながら、「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王に長寿を!」と叫びながら行進し、間もなく、警戒中の警察官に取り押さえられ派出所に連行されたという。

彼の1人デモを撮影したビデオが、今のところ4種類伝わっている。ここに掲載したものはこの4つのビデオをVOA(ボイスオブアメリカ)がまとめたものである。最初のシーンでは僧ロプサン・ケルサンが頭頂にダライ・ラマ法王の写真を掲げながら道を進む姿が映されている。2番目のビデオでは彼を大勢の警官が取り囲み、荒々しく拘束する様子が映っている。周りからチベット人たちの叫び声が聞こえるが、これは警官に対する精一杯の抗議を表している。3番目のビデオはビルの上の方から彼が連行された公安派出所付近の様子を撮ったもの。「ダライ・ラマ法王よ思し召しあれ。ダライ・ラマ法王のご加護がありますように」という女性の声が入っている。4番目は彼が連行された公安派出所の前にチベット人たちが集まり、抗議の叫び声を上げている様子が映っている。この後を写したと思われる写真も伝わっているが、そこにはこの後もっと大勢のチベット人が集まっている様子が映っている。同胞の思いを代表し、逮捕・拷問・刑を覚悟で声を上げた勇気ある僧侶に対し、周りのチベット人たちは奇声(雄叫び)をあげることと、撮影したビデオを発信することしかできないのである。

最近、チベットの各地で同様の「1人デモ」が続いている。集団でデモを行えば発砲される。世界に訴えるために命を捨てる焼身も効果が見えない。抵抗の意思を示すためにはもうこのような「1人デモ」しか残っていないかのように見える。

僧ロプサン・ケルサンはンガバ県メウルマ郷第2村の出身。父の名はツェリン・テンコ、母の名はラ・キ。4人兄弟の2人目。幼少時よりンガバ・キルティ僧院の僧侶という。昨年、彼と同じ僧坊にいた、母を同じくする兄弟の僧ロプサン・テンパが、同じくンガバの路上で1人デモを行い2年の刑を受けている。2008年には彼の叔父である、ツェダックとチュペルがそれぞれ6年と4年の刑を受けている。彼の親族がこれまでに3人、声を上げたことで刑を受けている。

その他、周りで声を上げたチベット人が1人拘束されたという情報があるが、名前などの詳細は今の所分かっていない。



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2015年09月01日

僧ジャミヤン・ジンパ「叔母である勇女タシ・キの焼身を知り」

11947505_875087929249052_4387955422568969540_n27日に焼身したタシ・キ(右)と中央に以下の文を綴った僧ジャミヤン・ジンパ、左はタシ・キの夫であるサンゲと思われる。タシ・キたちがダラムサラに来た時に撮影されたものという。

映画『ルンタ』の中に登場し、2008年にラプラン・タシキル僧院で真実を訴えるために外国メディアの前に飛び出したときの心境を語っているジャミヤン・ジンパは27日に焼身し、翌日死亡したタシ・キの甥にあたるという。2012年には彼の弟であるサンゲ・タシも焼身している。

今回、叔母であるタシ・キの焼身のニュースを聞き、ジャミヤン・ジンパは自身のフェースブック上に彼女の思い出を綴っている。

以下、その日本語訳である。

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11949346_875087892582389_8728119286609304430_n昨日27日、中国政府の度を越した弾圧に対し、焼身という非暴力の手段により抗議した、私の叔母である愛国勇女タシ・キについてである。彼女はアムド、ラプラン(甘粛省甘南チベット族自治州夏河県)サンコク郷にあるグルラ村(མདོ་སྨད་བླ་བྲང་བསང་ཁོག་དངུལ་རྭ།)と呼ばれる牧民地帯の出身である。今年55歳になる。母親はすでに死亡しているが、80歳になる父親がいる。夫の名前はサンゲ。2人の間に息子4人と娘1人がいる。息子4人の内ツォンドゥ・ギャンツォ、サンゲ・ギャンツォ、ケルサン・ギャンツォの3人は僧侶である。もう1人の息子の名前はユンテン・ギャンツォ、娘の名前はクンサン・キという。

経済的には恵まれており、ラプラン・タシキル僧院近くに立派な3階建ての建物とサンコク郷のチベット人街に一軒、さらに「中国の新牧民村」と呼ばれるところにも一軒の家を所有していた。彼女が焼身した場所はチベット人街にある「赤い家」と呼ばれる家の中である。そこはラプラン・タシキル僧院から10キロほどの場所である。遺体は中国の部隊により運び去られたという。その他、メディアで伝えられていることもあるが確認することができないので、これ以上、今、状況について書くことはできない。

彼女は正直であり、高貴で、非常に優しい性格の人であった。特に善を積むことに熱心であり、満月ごとに断食を行い、菜食を続け、五体投地によるコルラ(右繞)も行っていた。これらの善業をダライ・ラマをはじめとするラマたちの長寿と彼らの望みが叶えられることへと回向していた。チベット語への関心も高く、自習により立派なチベット語を書けるようになっていた。村人たちは私と叔母が特に仲が良かったことを知っていた。

これまでに許可証を取り、2度インドに来ている。何れもダライ・ラマ法王にお会いし、教えを受けるためであった。常に法王のお言葉にためらうことなく従っておられた。法王のお名前を聞くだけで、自然に両手を合わせ祈っておられた。2度目のインドは2012年のカーラチャクラ法要に参加するためであった。この時は法王の法要や法話に参加するだけでなく、亡命政府指導者たちの講演会にも参加していた。このような時には私が彼女に通訳を行い、できる限りの解説も行った。彼女はその他、法王のかつての法話をできるだけ知ろうとつとめ、他のチベット人たちの活動についても知ろうと努めていた。彼女は自分の第2の母のようであり、故郷でも2つの家族は1つのようであった。

今日、彼女が焼身したと報じられても、私は信じることができず、呆然としている。長年親しんできた身内の人が亡くなったと知ることは耐え難いことである。これは、愛する弟であるサンゲ・タシが焼身したと知った時と同じく受け入れ難いことである。叔母がインドから旅立つ時、私は特別に悲しく涙が止まらなかったことを思い出す。それは、二度と会えなくなるという印だったのかと今は思う。その時は、「近い将来チベット人が自由になった暁には故郷に帰り、叔母の望み通り、法王の教えをみんなに紹介、解説しよう」と大きなことを言ったが、そんなこともいまとなっては、ただの夢となってしまった。

2015年8月28日 ジャミヤン・ジンパ

原文:https://www.facebook.com/jamyang.jinpa.58/posts/875087712582407

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2015年08月28日

<速報>新たにアムド、サンチュで女性が焼身・死亡 内地143人目

Untitled-132_2095焼身・死亡したタシ・キ。

8月28日付けチベットタイムスなどによれば、昨日27日の夜、アムド、サンチュ県(甘粛省甘南チベット族自治州夏河県)サンコク郷でタシ・キと呼ばれる女性が焼身抗議を行った。

「目撃したチベット人たちが命を救おうと火を消したが、夜中の(今朝)3時頃死亡した」と現地から伝えられ、さらに「夜明け頃に警官隊と軍隊が大勢遺族の家に押しかけ、遺体は奪いされれた」と言われる。

タシ・キはサンコク郷グルラ村の出身。その他、年齢や家族構成などの詳細はまだ伝わっていない。

内地焼身抗議者143人目。内外合わせ148人目。この内124人が死亡している。
今年に入り7人目。

新たな情報が入り次第、続報をお伝えする。

参照:8月28日付けTibet Times チベット語版
8月28日付けTibet Express 英語版

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<続報>タシ・キは55歳、5人の子供の母親 自宅を壊されたことも焼身の原因か?

その後、伝えられた情報によれば、タシ・キが焼身した8月27日、サンコク郷グルラ村に部隊と役人約150人が押しかけ、正式な書類がないことを理由に彼女の家と思われる一軒の家屋をブルドーザーを使い完全に破壊したという。

この際、村人が大勢集まり、ブルドーザーにしがみつくなどして抵抗したが叶わず、抵抗した家の持ち主は連行されたという。この後、タシ・キが焼身したことなどから、彼女の焼身の直接の原因は家を取り壊されたことによるのではないかと推測される。

もっとも、地元のチベット人たちは「中国当局のチベット弾圧政策が彼女の焼身の主な原因だ」と主張しているという。

タシ・キの年齢は55歳、5人の子供がいたという。

参照:8月28日付けRFA英語版
同チベット語版
8月29日付けVOA英語版

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2015年08月02日

映画『ルンタ』補足編、最終回:焼身者ツェリン・キをよく知る夫婦へのインタビュー、下

9aedea00焼身した女子中学生ツェリン・キ。

ツェリン・キは焼身の前々夜と前夜、母親と話し続けたという。そしてその日の朝には父親から焼身用のガソリン代にするつもりだったと思われる500元をもらい、「もう会えないかも知れない。お嫁に行ってもいい? さよなら」と言ったという。決意の心を隠しながら、悲しくも、最後に女の子らしい冗談を残し、焼身抗議を実行し、亡くなった。

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焼身の前々夜、前夜、早朝/「もう会えないかも知れない。お嫁に行ってもいい? さよなら」

夫:彼女が焼身する前、2日間、夜は母親と一緒に過ごしたそうです。
妻:一緒に寝たそうです。母親とずっとしゃべっていて、全く寝なくて困るぐらいだったと。
夫:一晩中眠らなかったそうです。
妻:ツェリン・キがおしゃべりしようとずっというので、母親が「そんなのじゃ眠れないわ」と言ったら、「お母さんとおしゃべりがしたいの」と言って眠らせてくれなかったそうです。

ー どんな話をしたのでしょうか?

妻:「どんな話でもいいからおしゃべりし続けよう」って。
夫:最後は「楽しかった」と言ったそうです。「楽しい夜だった」と言ったそうです。
妻:2晩母親と一緒に寝て、「ずっとおしゃべりをして、楽しかった」と母親に言ったそうです。「お母さんと過ごせて楽しかった」と。それからお母さん「心配しないで」と言ってそうです。「私は幸せだから心配しないで、何の苦労もない」と。「私は学校に戻るけど、元気でね」と。それで、お父さんに「五百元ください」といい、お父さんがお金を渡すと「これを持ってお嫁に行ったらもうお母さんには会えないかも知れないね」と言ったそうです。母親は「あなたが勉強しないでお嫁に行くって言うなら勝手にすればいい」と言ったそうです。最後に「冗談よ、お嫁になんか行くわけないでしょ」と。「この五百元で新しい服を買って学校に行くのよ」と言ったそうです。

ー 彼女がいつ焼身を決意したかは分かりませんが、お母さんと話をしたときにはすでに決意していたということですかね?

妻:もう決めていたでしょう。その朝、「もう会えないかも知れない。お嫁に行ってもいい? さよなら」と言ったそうです。お母さんは怒った顔をしますよね、でも冗談だと思ってたそうです。そのお金で「新しい服を着て学校へ行く」とも言ってたそうです。父親はお金を渡したそうです。それと、「この世には意味がない」と言ってたそうです。この世に生きていても意味はないと。母親はそんなことはないと叱ると、「冗談よ」と言ったそうです。
夫:お母さんには心の中の計画は言えなかったのでしょう。
妻:「お母さんは心配性だし、勇気もないのね。でも、心配することは何もないわ、勉強もできるし、先生も優しいし、外を歩いても優しい友達がたくさんいる。だから心配しないで」と出発前に言ったそうです。
夫:お母さんを安心させようとしたのでしょう。
妻:出発前にお正月だったので、家でシャパレ(揚げ肉パン)をたくさん作っていたそうです。ツェリン・キが休み明けに学校へ行くときにはいつもシャパレを持たせていたそうですが、そのとき彼女は持って行かないから私のは作らなくていいと言ったそうです。「いつも持って行くのにどうして持って行かないの?」と母親が聞くと、「みんながお正月の間にたくさん食べればいい。お正月を楽しく過ごしてね。私は今回はいらないわ」と言ったそうです。


ー 焼身の日の前夜、マチュにいる親戚の家に一晩泊まったのでしたよね。

妻:母親の兄弟の家に泊まりました。

ー それで、当日の朝、学校へ行って、、、いや、学校へは行かずに、、、

妻:学校へは行きませんでした。親戚の人が学校の門のところまでバイクで送って行ったそうです。「ここで下ろして」と行って、学校の前で下りたけれど、学校には入らず焼身しに行ったようです。
夫:学校にその日彼女の出席の記録がなかったそうです。
妻:母親は夜の12時ぐらいまで知らなかったそうです。母親は携帯電話を持ってなかったから。親戚の中には誰かから聞いて知っていた人もいるらしいのですが、母親には言えなかったらしいです。その夜、ツェリン・キの弟が眠れない、眠れないと言って、叱っても寝なくて遅くまで起きてたそうです。それで、夜中の12時頃、父親が数人の親戚と共に家に帰り、ツェリン・キが焼身したと告げたのです。
夫:「娘は決心していたのでしょう」と言ったそうです。
妻:焼身のことは両親にも、同級生にも誰にも話していなかった。母親は「もう何も言うべきじゃない」、「娘が決意したことをやったのだろうから、何も言うことはない」と言ったそうです。

ー ツェリン・キには学校で仲のいい友達はいたのでしょうか?

妻:いたでしょう。でも母親は知らないようです。女の子は何でも母親に打ち明けるでしょ? 男の子たちは父親に話をしますよね。女の子たちは心の中にあることはたいてい母親に話しますよね。父親には話さないで。

ー ボーイフレンド、恋人とか、いなかったのでしょうか?

夫:それは分かりません。

ー 中国は、ツェリン・キの焼身の原因は頭を強く打って、それからおかしくなっていたからだと発表したようですが。

妻:そんなことは全く嘘です。2晩母親と過ごしてずっと話をしているのです。成績もすごく優秀だったので学校で旅行にも連れて行ってもらいました。それは本当に楽しかったと言ってたと。「兄弟の中で旅行なんて行ったことがあるのは私だけでしょ」と得意になっていたそうです。勉強もできて、優しい両親もいて辛いことなど何もない、本当に幸せだと言ってたそうです。ただ、悲しいことが一つだけあって、それはラサに行けなかったことだと言ってたのです。

ー どうしてツェリン・キはそんなにラサに行きたがっていたのでしょうか?

妻:死ぬ前に一度ラサに巡礼に行って、ジョカンのご本尊を拝みたかったと思ったのじゃないかしら? 死ぬつもりじゃなかったら、将来仕事してお金を貯めて、いつでも自分で行くこともできるわけだし。死ぬ前にラサに巡礼に行けたらいいと思ったのだと思います。
夫:ジョカンにお参りに行きたかったのでしょう。
妻:チベット人にとってはラサへの巡礼は特別なものですから、ジョカンのご本尊をお参りするのは。

ー ツェリン・キは仏教には関心があったのでしょうか?

妻:それは分かりません。あったんじゃないかと思いますよ。そうでもなければ死ぬ前にラサ巡礼に行きたいなどと思わないでしょう。
夫:信心はあったと思いますよ。
妻:信心はありますよ。
夫:仏教を学んだかどうかはわかりません。

ー ダライ・ラマ法王とか、チベット亡命政府とか、チベット問題とかについてや、例えばどこかで焼身があったとか、そういうニュースはチベットの田舎まで伝わっているものでしょうか?

夫:伝わっているでしょう。
妻:入っているでしょう。
夫:まず、関心のある人の耳に入り、それが周りに伝わります。

ー では、ツェリン・キはそれ以前に焼身した人たちのことは知っていたのでしょうか?

夫:彼女は知っていたそうです。「ンガバとか、チベットで自分の命を犠牲にしている人たちがいる。自分たちはこのままじっとしているわけにはいかない。チベット民族のために何かしなければ、何もせずに生きているだけで、大事なことをしなかったら、生きている意味はない」そのように言ってたそうです。
妻:母親にそういうことを言ってたそうです。そう言うので、母親は叱ったそうです。生きていて意味がないなら何をしたらいいのと叱ったそうです。そうしたら、「冗談よ」と言ったと。
夫:他に父親の兄弟の嫁さんにも言ったそうです。「チベットのあちこちで民族のために命を人々が焼身している。私たちもこうしてはいられない。チベットの民族が苦境にある今、このままでは将来もっと苦しくなるのに、何もせずにいるだけでは生きている意味がない」と言ったそうです。

ー そのように考えるチベット人は少なからずいると思われますが、でも焼身を本当に決意する人は稀でしょう。ツェリン・キがそこまで決意するに至った原因というか動機は何だったと思われますか?

夫:分かりませんね。側にいたわけではないので。同級生には何か話していたかも知れませんね。友達には何か言ってたんじゃないでしょうか。手紙を書いていたらしいのですが、伝わっていません。

ー 焼身者はみんなチベット民族としての誇りを持ち、民族の将来を案じた人たちですよね。

夫:外国からの放送がどれだけ伝わっているかは分かりませんが、みんな状況は分かっていたと思います。焼身のことは当然知ってたでしょう。
妻:そうだと思います。
夫:すぐに電話で、、、
妻:すぐに電話で情報が入ります。焼身があればその日に電話で伝わります。

ー ツェリン・キが焼身した後、彼女の遺体は家族に引き渡されたのですか?

夫:その日遺体は家族に渡されていません。警官が持ち去ったのです。野菜市場には中国人が多いでしょ。門を閉めて、野菜売りの中国人たちが警官を助けたと聞きました。市場の中国人たちに前もって警察から指示があったのでしょう。焼身があったらすぐにこうしろと。中国人たちが燃えるツェリン・キに石を投げ押さえつけて、警察に電話したのです。それで、警官が来て、持ち去ったのです。その翌々日に警察から電話があって「取りに来い」と。遺体を引き渡してほしかったら誰にも言うな、すぐに焼けと。腹部に手術の跡があったと。開腹してあったと聞きました。
妻:父親が引き取りに行ったのです。その時、腹部が縫合してあるのに気づいたそうです。警察は「病気があったかどうか調べたのだ」と言ったそうです。


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2015年07月30日

映画『ルンタ』補足編:焼身者ツェリン・キをよく知る夫婦へのインタビュー、中

9aedea00昨日の続き。

焼身したツェリン・キは、子供の頃から歌が上手で、人前でもよく歌っていたという。学校の休みに家に帰ったときには、遊牧の仕事を手伝っていた。学校ではよく勉強ができ賞も貰っていた。チベット語が大事だと、お母さんにもチベット語を教えていた。学校でチベット語擁護のデモが起こると、それに参加していた。


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ー ツェリン・キは放牧に行くのが好きだったそうですね。

妻:ええ、喜んで行ってました。家に戻るとお母さんに「今日はお母さん休んでて」と言い、普段仕事がたくさんある姉にも「今日は私がやるわ」と言って嬉しそうに仕事をしていたそうです。牧畜の仕事でも、外へ行く用事でも、何でも喜んでやっていました。女性が行う牧畜の仕事は、乳搾りから始まって、糞集め、集めた糞を広げて乾かすというのがあります。ヤクや羊の放牧、水汲みなどもです。お母さんやお年寄りが重い荷物を持つのを見ればすぐに「私が持つわ」と言うのです。誰でも、大変そうな人がいればよく手伝ってあげてたそうです。
夫:彼女は歌を歌うのが好きだったんだよね?
妻:歌は大好きでした。ツェリン・キ、歌を歌ってよと言われるとすぐ得意になって歌ったのです。遊牧民の歌を歌うのです。伝統的な歌が大好きでした。
夫:チベットの民謡ですね。最近の歌、ポップスじゃなくて、伝統的な歌が大好きだったそうです。
妻:いつも歌ってたそうです。放牧に行くときにもいつも歌を歌いながら行ってたと。
私:人が集まる時に、彼女が歌がうまいということで、呼ばれて歌うということはなかったのですか?
妻:そう、頼まれて外で歌うということもありました。お金を取るような場所でじゃないですが。声がいいので恥ずかしがることもなく人前でも歌っていました。すごくいい声でした。小さいころから。

ー 彼女はマチュの学校に進学しましたよね?田舎からマチュの街までどれくらいかかるのですか?

妻:夏の牧草地からどれほどかかるか分かりませんが、冬の家からならバイクで1時間ぐらいでしょうか?飛ばせば1時間ぐらいで行けますが、ゆっくりだと2時間かかるかも知れません。

ー 寮生活だったのですか?

妻:そうです。寮生活です。
夫:学校は全寮制です。

ー 学生はチベット人だけですか?

夫:そうです。チベット人の学校です。一般的な学校なら他の民族もいますが、チベット民族中学なので、チベット人だけです。

ー 学生は何人ぐらいいるのでしょう?

夫:2千人ぐらいいるかも知れない。千人以上いることは確かでしょう。民族中学校には中等中学と高等中学とがあって、それぞれ3年間の課程です。大学に入る前です。小学校は6年制で、7歳になったら小学校に行くというのが普通です。牧民なら8歳でしょうか。それから6年間勉強したら14歳です。だから民族中学には下は12歳から上は20歳ぐらいの学生がいるということです。

ー ツェリン・キは少し遅れて学校に入ったので年齢は高めですよね。

夫;そうですね。彼女はなかなか学校に行かせてもらえなくて、遅れてやっと入れたのです。9歳か、いや10歳だったかな?そこから6年間小学校で勉強して、16歳で卒業して中学校へ行ったのでしょう。

ー ツェリン・キが焼身したとき19歳だったという話ですよね。すると、中学3年生だったということでしょうか?

夫:ええ、中等中学の3年生だったのです。

ー 計算が合いますね。10歳で小学校に入ったのですね。

妻:普通は遊牧民でも7歳とか8歳で学校にやるんですがね。

ー この中学は2010年から何度もデモをやりましたよね。色んな学校でデモが行われたようですが、なぜこの学校で特に繰り返しデモが行われたと思いますか?

夫:それはチベット語に関するデモです。まず青海省で始まりました。レコンで始まり、チャプチャでもデモがあり、ゴロでもデモが行われました。2010年の9月に北京の中央政府が教育に関する10年計画を発表しました。その中の11番目の項目が、少数民族の教育に関する2010年から2020年までの計画だったんですね。どんな計画かというと、漢語を強化するような教育内容だったのです。
私:チベット語を抹殺するというような計画だったのですか?
夫:抹殺するとは書かれていません。表立ってはね。裏では、、、表には出て来ないんです。チベット語を減らすという考えなんです。青海ではチベット語を減らすことについて学生自身で考えてデモをやったのです。彼らも分かっていたんです。中央からチベット語を抹殺するような政策が出て、学生たちはそれに対して立ち上がる、そういう状況だったんです。
私:学生たちが立ち上がったとき、ツェリン・キも、
夫:参加したそうです。何度か。ある時、彼女は2冊の本を買って母親に渡したそうです。お母さんと兄弟のためだと言って。それはチベット語を勉強するための本だったのです。チベット語を学ばねばならないと言ってね。母親はチベット語が読めないのです。それで彼女がチベット語の読み方を教えてくれたんだそうです。チベット人ならチベット語をしっかり学ばないといけないと力説していたそうです。母親にも本を渡し、兄弟にも渡したんです。それで彼女に教わったんです。集落の他の人たちにもチベット語をしっかり勉強するべきだといつも語っていたそうです。彼女自身もたくさん文章を書いていたそうです。

ー おお、そうなんですか!

夫:家には彼女が書いたものがいくつか残っていると。何について書いてあったと言ってたかな? ラサに行けなかったことを悔しがるというのもあったらしいです。
妻:村で自分だけが学校に行かせてもらって、両親に助けてもらって、何の辛いこともないと書いてたそうです。でも、学校でいい成績をとって、その褒美に、いろいろ旅行に連れて行ってくれたけど、ラサには行けなかったので、それが悲しいと言ってたそうです。それで、ラサにいけなかったことを文章にもしたのでしょう。それから、両親の愛情と言語について書いてたと。
夫:チベット語をきちんと学ぶべきだということについても書いていたそうです。

ー チベット語を学ぶべきだという文章を残していたと。そのように強く思うようになったのはどうしてでしょう?このままだと消されてしまうと思ったからでしょうか?

妻:彼女はいつもチベット語を発展させないといけないと言ってたそうです。どうしてでしょうかね? チベット人のチベット語が中国語と混じって乱れているから、それはよくないということでしょうか。
夫:中国によってチベット文化が危機に晒されているのです。それを知ったチベット人は思うのです。チベット文化を守るためにはチベット語を守らないといけないのだと。チベット語が死ななければチベット民族は死なないのだと。中国人はチベット人を信用していません。中国はチベット語の力を弱めようとしています。いつかチベットの子供たちはみな中国人になってしまうのです。物の見方も考え方も中国人になってしまうと思っているのです。彼らがどんな話をしているのかというと、マルクスが、、、いや確かスターリンが言った言葉だそうですが、「1つの民族を抹殺するには、その言語を抹殺すればいい、民族は死ぬ」と。彼は経験上分かっていたのでしょう。だから、言語が保たれ、発展すれば、民族は保たれる、文化も保たれる、民族の調和も失われない、とチベット人はみんなそう考えているのです。今のチベットの若い人たちはみんなチベット語を守らなければ、チベット民族は死に至ると思っているのです。

ー そのような認識は2008年以降生まれたものですか?

夫:2008年からではありません。もっと前からです。もっと前からそのような共通の認識はありましたが、2010年から特に顕著化しました。言語を守ろうとか、民族の誇りという主張は、2008年の時点でもすでに強く言われていました。2008年というのは中間点のような位置づけです。

ー 民族意識が強くなっていると思われますか?

夫:そうだと思います。なぜかというと、中国では共産党が大きな影響を持っていますが、共産党は人民を利用するために、ナショナリズムを使いますよね。例えば日本が、日本がと言うでしょう。人民はバカでしょ、中華民族だ、中華民族だと繰り返され、チベット人は疎外されて行くのです。1つには、偉大な中華民族、偉大な中華民族と繰り返されると、チベット族や他の民族は「我々だって1つの民族だ」というようになり、ナショナリズム高揚の間接的影響を受けるようになったということでしょう。もう1つには、最近経済が発展し、食べ物もあるし、生活状態がよくなって、ものを考える余裕ができてきたのです。昔と違って今では、質素だが食べ物や着る物はあります。こうなると人は考え始めるのです。頭を使って考えて理解しないといけないのです。自然に主張は強くなってきます。

ー ツェリン・キが2012年、冬休み開けに焼身しましたが、その理由の1つとして新学期が始まったら突然教科書がすべて中国語になっていたからということが伝えられていますが、そのようなことはあったのでしょうか?

妻:そういう話は知りません。お母さんは彼女の本がたくさんあったと言ってましたが、そのようなことが理由だったとは聞いていません。
夫:彼らはデモをしましたが、その責任を取らされて、生徒たちが信頼し尊敬していた校長と学生に人気が高かった1人の教師が免職になったのです。校長は詩人でして、若い詩人で、とても有名なマチュの若い詩人、作家なのです。教師の方はダムニェン(チベット式三味線)の引き語りがうまいし、こちらも有名でした。この2人は考え方もしっかりしていたそうです。子供たちにも優しかったのです。この2人に対し当局が「お前たちの管理不行き届きのせいで学生たちがデモをしたのだ」といって、校長は降格になり、教師の方は水力発電関連の役所に異動させられたのです。この2人が辞めさせられて、学生たちは非常に悲しい思いをしたそうです。私はこれが動機の1つだったのではないかと思っています。

続く。


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2015年07月29日

映画『ルンタ』補足編:焼身者ツェリン・キをよく知る夫婦へのインタビュー、上

9aedea002012年3月3日、アムド、マチュ(甘粛省甘南チベット族自治州瑪曲県瑪曲)の街中にある野菜市場の中で焼身・死亡した女子中学校ツェリン・キ、19歳は焼身者の中でも私がもっとも気になる存在であった。映画『ルンタ』の撮影のために本土に入ったときにも彼女の焼身現場には必ず行こうと決めていた。

以下は彼女を幼い頃からよく知る夫婦へのインタビューである。少し長いので上・中・下にわけて掲載させていただく。今回は「遊牧民移住政策」に関する話しが中心である。

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インド等に住む亡命チベット人の中には焼身者の家族、親戚、友人という人もいる。何人かを探し出したが、インタビューを了承してくれる人は少ない。みんな内地にいる人たちのことを心配するからだ。話を聞くことができても、結局危険過ぎると判断され発表できないこともある。そんな中、 焼身者であるマチュの少女ツェリン・キをよく知るという女性を説得し、話を聞くことができた。

インタビューは2013年12月23日、ダラムサラにある彼女の部屋で行われた。彼女の夫が同席した。彼女の夫は同じアムド地方の出身であり、ダラムサラでメディア関係の仕事をしている。彼は彼女の話を補足する役であった。2人とも数年前にインドに亡命している。

以下、ツェリン・キを直接知る女性を「妻」、彼女の夫を「夫」と表記する。

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ー ツェリン・キはどんな子供だったのですか?

妻:彼女は学校が好きな子供でした。学校に行けるよう、私や親戚に両親を説得してほしいと頼んだのです。勉強が好きで、もちろん試験に合格して、成績もよかったのです。ラサに行きたがっていたようで、両親にラサに巡礼に行きたいと何度も頼んでいたようです。結局行けずに終わってしまいました。ツェリン・キは小さい時からすごく学校に行きたがっていました。4人兄弟なのですが、誰も学校へ行かせてもらっていませんでした。ツェリン・キはある時どうしても学校に行きたくて、私と叔父さんに両親を説得してほしいと頼んだのです。両親は彼女を学校に行かせたがっていませんでしたが、私たちの説得が成功し、彼女は学校に行けるようになりました。9歳か10歳になっていたと思います。自分の頭で考えられる年になっていて、自分でどうしても勉強したいと思ったのでしょう。周りで学校に行っている子は少なかったのです。例えば私は9人兄弟ですが、学校へ行かせてもらったのは1人だけです。ツェリン・キの兄弟も上の2人は学校に行ってませんでした。

ー ツェリン・キが小さいころ、あなたは近所に住んでいたのですか?

妻:ええ、近所です。彼女はおとなしくて、いい子でしたよ。他の子にも優しかったし。うちに遊びに来て、何か頼んでも、すぐにいうことをきくすごくいい子でした。何か頼むと、返事はいつも「はい」で、それしか知らないんじゃないかと思うぐらいです。怒ったような顔もまったく見たこともありません。

ー 4人兄弟の中でツェリン・キは3番目ですか?

妻:ええ、3番目です。1番上が女の子、次が男の子、3番目がツェリン・キ、下に男の子です。

ー 夏と冬とで住む場所を変えるのですか? 夏は牧草地に行って、冬に帰って来るという生活でしょうか?

妻:そうです。夏はテントで生活し、冬は家の中で暮らします。
夫:夏は涼しいところ、冬は暖かいところで過ごすということです。

— いつ頃、夏の宿営地に向かうのですか?

妻:夏の宿営地で過ごすのは3ヶ月だけです。秋と冬と春は誰ももう行きません。昔はそうじゃなかったのです。土地が分割されたので、3ヶ月ぐらいしかいれないのです。家畜が食べる草が足りないからです。中国が私たちの土地を何度も勝手に分割したのです。昔は牧草地が冬の家の周りを含め4カ所ありました。私が子供のころは、春は冬の家の向かいにある牧草地に移動し、夏は夏の宿営地に行って3ヶ月過ごし、秋には山を下り、また別の草原で3ヶ月過ごしました。そして、冬、家に帰って来るのです。今ではもうこのようなことはできません。土地が分割されてしまったからです。こっちの草原には入っちゃだめ、ここはうちの草原だからとうるさくなってしまったのです。昔はそんな所有意識はなかったのですがね。
夫:昔は牧草地はすべて共用だったのです。

ー 土地の分割はいつ頃始まったのですか?

妻:私がもの心ついてから3回は分割が行われました。小さいときに1回あって、別の土地に移らされました。生産小隊ごとに住んでいました。それから私が1度インドに行って戻ってきたときに、もう1回ありました。またこっちへ来るときにも1回分割が行われました。1回分割されるごとに、生産小隊ごとに、そして家庭ごとに、というふうに細かくなっていきました。それで夏の宿営地から秋の宿営地、そして冬の宿営地という遊牧が一切できなくなりました。

ー 何歳の頃始まったのでしょうか?

妻:12歳頃だったかしら?
夫:今から20数年前ですね。
妻:最初は生産小隊ごとに移動してもよかったのです。のちにそれもできなくなりました。
夫:中国が来た後、社会主義ということで、牧草地は県単位で共有されていたのです。20数年前に、県ごとだったのが郷ごとになったのです。その頃はまだ同じ郷内なら自由に移動できました。その後、生産小隊ごとに…生産小隊というのは郷より小さくて、村ごとに分割されたと言ったらいいのでしょうか。それが今では村の中での移動もできなくて、土地は家族ごとに分割されたのです。至る所に鉄条網が張り巡らされました。もうどこにも行けなくなりました。移動は2カ所だけになったのです。夏と冬の2カ所です。
妻:昔はうちの家がここにあったら、ツェリン・キの家はこっちで、私の父と兄弟の家がここにあってというように、みんな一緒の一続きの敷地だったのです。それが、今ではうちとツェリン・キの家の間には鉄条網が張られ、父と兄弟の家との間にも鉄条網が張られているのです。お互い行き来するにはそれを越えないと行けなくなったのです。
夫:結局、争いごとばかり増えてきました。中国は面倒なことを引き起こさせたと思います。
妻:親戚同士だと大変なこともあります。がめつい親戚がいると、うちの家畜、うちの草原と言って、争いになります。昔は県単位で誰がどこに行ってもよかったのです。県単位の土地は広いですから、夏はここ、冬はここといって、いい草のあるところを選んでどこに移動してもよかったのです。今は決められていて、村はおろか、家庭ごとに土地が決められています。夏は夏で、1番の家庭はここ、2番の家庭はここ、3番、4番、5番というぐあいに家ごとに決められています。冬の宿営地も1番、2番と決められています。ここがあなたの家族の土地ですと決められたら、そこがいい土地であろうと悪い土地であろうとそこに居なければなりません。移動するときの道まで決められているのです。

ー 収入は?

夫:土地が足りないんです。家族は増えるし。いい草が生えるところもあるが、生えないところもある。いいとこならいいのですが、悪いところは悪いままです。
妻:政府はいい土地をたくさん所有しているらしいです。
夫:政府は政府の土地だといって、かなりたくさんがめつく所有しています。そんなに必要ないはずですが、役人の土地だといって奪います。彼らがチベットの土地を食い尽しているわけです。ひどい話です。家族が増えると家畜もたくさん必要です、でも土地は小さいままです。足りないのです。どうしてももっと牧草地が必要な場合には、お金を払って人の土地を借りるということになります。土地の借り賃は結構高いのです。昔は家畜の少ない家がどうぞといって、足りない人に来させてあげることもできたのです。共有の土地ですから。それで問題はおきませんでした。昔は土地はみんなのものでしたから、どこに放牧にいってもよかったのです。行った場所ばいまいちだったら、別の場所に移動してもよかったのです。草があまりよくなかったら、他のところに行こうってね。今はもうそれはできないのです。草が悪いところの人はたいへんです。本当に苦しい状況に追い込まれていると思います。

ー 強制移住で放牧を止め、街の近くに移らねばならなくなったということはないのですか?

夫:私たちのところではなかったけれども、他ではあるようです。県庁所在地とか郷の中心地に移住するよう命令されて、最初こそ、住まいや食べ物を貰うわけですが、月々500元の補償金を貰ったりして、でもしばらくするとそれもなくなるそうです。土地はもう政府に取り上げられてありません。
妻:お金が入る当てはなくなります。子供や若者たちは泥棒したり、サイコロ賭博をしたり、そんなふうになってるそうです。
夫:政府は環境保護だと言って、下流域のために黄河上流であるマチュ一帯の環境を保護しなければならないと言って源流域一帯に住んでいた遊牧民を追い出したのです。強制的に移住させられ、放牧のための土地も与えられませんでした。こうなると大変で、子供や若者は泥棒したり、サイコロ賭博をしたり。泥棒が増えています。

ー 牧畜以外に何も知らないから、仕事も見つからないのでしょう。

夫:生活の手段がないのです。
妻:牧民なのに家畜もいなくて、子供も学校へ行かず、泥棒して暮らしていると聞きます。私が子供の頃は泥棒するチベットの子供なんて1人もいませんでした。その頃は家に鍵をかける必要もありませんでした。冬の家を出て、夏移動する時にも家には鍵をかけませんでした。鍵なんてかけなくても泥棒に入られることなどありませんでした。最近は泥棒がいるのです。

ー その泥棒は中国人じゃなくてチベット人というわけですね。

妻:遊牧民が街で暮らして、補償金もないし、売る家畜もないし、土地もないし、子供たちは学校にも行かず、金がないから泥棒に走るのです。

ー 冬虫夏草はないのですか?

妻:全くありませんでした。
夫:同じマチュ県内に採れるところもあるそうですが、彼らが住んでいる辺りにはないのです。
妻:うちの郷では採れません。冬虫夏草を見たことはありますが、採りたかったらお金を払って他の土地に行くしかありません。

続く。

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2015年07月28日

映画『ルンタ』補足編:監獄24年、ロプサン・ノルブお爺さんの証言・後編

1昨日の続き。

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拷問を如何に耐えたのか?

ーあなたのように監獄に入れられた人の多くがひどい拷問を受けています。それでも、あなたもそうですが、真実を曲げようとしませんね。

ノルブ:真実は真実です。嘘は認めません。だから私は足を折られたのです。拷問で足を折られたのです。ここに(膝を指差しながら)釘を打ち込まれて、天井から吊るされたのです。指も全部やられたのですが、ここが一番ひどかった。吊るされて、足を打ちのめされるんです。足は骨折して、この前手術を受けたのです。8つに折れてたんです。それをみな取り出して、金属を入れたのです。

ーえ、最近の話ですか?

ノルブ:そうです。その前は鍼治療を受けていましたが、最近(北インドの街)ルディアナにあるスイス病院というところで手術を受けたのです。

ーチベットではずっと痛みを抱えていたのですね?

ノルブ:そうです。

ーそこまでひどい目にあわされながら、なぜ意見を変えず、中国側のいうことを認めなかったのですか?

ノルブ:チベットは広大で中国は人口が多い。何百万もの中国人がチベットに住むことができます。チベットには何千という寺や僧院がありましたが、そこにあった財産を中国はすべて持って行ってしまいました。チベットの人々の財産もすべて没収し、持ち去りました。中国は今でこそ少しは豊になっていますが、59年や60年当時、中国は貧乏だったのです。乞食同然でした。食べるものも、飲みものもなく、大勢が死んでいったのです。だからチベットの穀物をものすごい台数のトラックで運び出したのです。これを見て私は穀物倉庫の穀物をみんなに持って行かせたのです。そのまま放っておけば中国へ運ばれるだけでしたから。

ーですから、伺いたいことは、なぜチベット人にこれほど強い信念があるのか、それは仏教と関係があるのか、ダライ・ラマ法王への強い信頼があるからなのか? ということなのですが。

ノルブ:それは私たちがチベットの仏教文化を非常に大切なものだと思っているからです。中国はチベットの人々をたくさん殺しましたが、未だその仏教文化を滅亡させることには成功していません。中国は私たちにこう言っていました。「日本は中国に対して略奪・殺戮・焼却という三悪政策を行った」と。昔、監獄で映画を見せられました。日本が三悪政策を行ったという映画です。その時、私は中国人に「日本が三悪政策をやったというが、あなたたちが今、チベットに対して同じことをしてるではないか」と言ったのです。当時チベットでは民族を滅亡させると言って、チベットのほとんどの知識人を監獄に送り、食事も与えず殺したのです。血を流さずに餓死させたのです。血が流れば、白日の下にさらされ、知られます。だから血が流されないよう餓死させるのです。チベットの文化を壊滅させるために知識人を殺し、チベットの土地を奪い、森林を伐採し、家畜を殺し自分たちの食糧とし、財産はすべて中国に持ち去ったのです。だから、これを知っている残されたチベット人たちはどれほど拷問を受けても考えを変えず、頑張るのです。

ーそれは分かりますが、何か特別な理由があるように思いますが?

ノルブ:もちろん特別な理由はあります。ダライ・ラマ法王は観音菩薩の化身だと信じられています。チベット人はみんなそう言います。雪国チベットは観音菩薩の浄土だと信じられています。だから、本物のチベット人ならダライ・ラマ法王を決して糾弾しません。糾弾しなかったから、たくさんのチベット人が殺されました。殺されても法王を糾弾しません。今も中国政府はダライ・ラマ法王のことを反逆者だと言いますが、チベット人は絶対にそのようなことは言いません。ダライ・ラマ法王がいらっしゃらなくても、法王を反逆者などとは一切言いません。

ーダライ・ラマ法王への強い信心が故にということですか?

ノルブ:それは仏教です。仏教と仏教文化の故にです。

ー拷問等を受け非常に辛い時、観音菩薩の真言を唱えるとか、仏教に関連した実践を何かやっていましたか?

ノルブ:それは各自が心の中ですることです。私など僧侶であったわけですし、中国人にひどい目に遭わされているとは考えないのです。それぞれ自分が過去に積んだカルマ(業)の結果だと考えて、広い心を保ち、平常心を保つのです。過去に犯したカルマが熟し、今このような苦しみを受けているのだと考えるのです。カルマはすでに積んできているのですから、その結果は受け入れるしかないのです。結果を受ければ、そのカルマは終わるのです。これは仏教の考え方です。そして生きながらえたのです。最近、アメリカの医者が来て健康診断をしてくれました。裸になって、心臓のあたりにいろいろ装着されました。そして、心臓は問題ないと言われました。心臓は大丈夫とね。その時、心を広く保つことができたお陰だなと思いました。ひどい目に遭わされたと思うと、心が狭くなってしまいます。自分の前世のカルマだ、因果応報だと思えれば心を広く保つことができるのです。

ーその教えを信じることで拷問を耐えることができたのなら、すばらしいことですね。しかし、個人にとっては因果応報かもしれませんが、中国は今もみんなに拷問していますよね。みんなに同じような因果応報があるということでしょうか?

ノルブ:みんなに同じカルマがあるわけじゃありません。

ー中国はひどいことをしている。

ノルブ:ひどいですよ。だからといって、私たちは中国人に対して呪ったりすることはありません。中国の一般の人たちは私たちと同じような苦しみを受けていると考えるのです。中国共産党の中に悪い奴がいて、ひどいことをしたし、今もしているわけです。

ー中国人も犠牲者ということには同意します。他に仏教的考え方で役に立ったことはありませんか?

ノルブ:私たちは思い浮かべるのです。「自分が今受けているような苦しみを他の人が受けませんように。自分が他の人々が受けるべき苦しみをも引き受けることにより、他の人々が苦しみから自由になりますように」と祈るのです。

ートンレンの行ですね。すばらしいことです。

ノルブ:私は昔僧侶でしたからね。7歳から25歳までと結構長かったし、その間仏教の勉強はよくしました。もっとも、仏教を学ぶ間にそのような拷問をするような人間はいませんでしたがね。ははは。特に祖国と民族のために命を落とすなら悔いはないと考えるのです。自分のために盗んだり、人殺しをして死ぬことになれば悲しいことですがね。

焼身について

ー2009年以降、焼身という抗議の方法を取る人が増えていますが、焼身についてどう思われますか?

ノルブ:彼らはまさに国と民族のために焼身しています。彼らは熟考の結果あのような行動を選択したのです。自分の命を絶つことで、他人が苦しまないですむようにと、自分の命を国と民族のために役立てようと考えたわけです。そのように考えず例えば中国人を殺すなら、それはただの暴力です。中国人を殺すことはできます。5人や6人、銃がなくてもできます。でも、そのようなことをせず自分の命を投げ出し、国や民族のために役立ちますようにと祈りながら、死んでいるのです。ダライ・ラマ法王の長寿を祈りつつ死んでいるのです。それは暴力ではありません。世界の人たちにチベットの現状を訴えているのです。中国はチベットや新疆を侵略し、弾圧しています。今、中国はラサに自由があると言っていますが、自由なんてありません。ラサのパルコルの至る所に検問所があります。僧院の入り口には銃を持った部隊が立っています。ひどい時代なのです。人々はまるで囚人のようです。ラサは監獄同然ですよ。それでもチベット人たちは中国人に暴力を振るったりしないのです。それは観音菩薩であるダライ・ラマ法王の「他者を害してはならない」というお言葉に従っているからです。非暴力主義に従っているのです。ダライ・ラマ法王がそのようにおっしゃっていなかったら、青蔵鉄道はラサまで到達できなかったことでしょう。死んでもいい、殺されてもいい、すべての路線を破壊し尽くそうとしたでしょう。でも中国がこれから先も弾圧を続けたらどうなるか分からないと思います。法王が亡くなられた後はどうなるか分からないと思います。道路や橋や鉄道を破壊するというような暴力行為が始まるかもしれません。

ー最近焼身が減っていますよね。

ノルブ:減ってるのは、ダライ・ラマ法王が止めなさいとおっしゃるからですよ。

ー止めなさいと言ってるのは政府ですよね。ダライ・ラマ法王は直接的に止めなさいとはおっしゃってない。やらない方がいい、成果はないだろうからとおっしゃってますね。

ノルブ:死んだ方がましだと思っているのです。幸せになろうと思っても中国の支配下では自由もなく、非常に難しいのです。追いつめられているのでしょうが、死ぬというのは本当はよくないことです。私は2008年にデリーにある中国大使館宛に手紙を出したのです。ダライ・ラマ法王がご存命の今、対話をすべきだと言ったのです。今、チベットの子供たちはどんどん勉強して知識を蓄えています。将来これを使うでしょう。今と同じ温和路線が続く保証はありません。だから今対話した方がいいと提案したのです。

ーもしも私が中国の指導者だったら、すぐに対話して、「あなたは独立を求めていないのですね。ではここにサインして下さい。永久に独立を放棄するという文章です」と言って、まずサインさせる。その条件でダライ・ラマ帰還とか高度な自治とかもとりあえず承諾する。その後、ダライ・ラマ法王が中国に入れば、人質にできるわけで、チベット人はもっと中国政府の思うままです。そうされてないのは運がいいようなものだと思います。

ノルブ:今は新疆やモンゴルも緊張しているし、だいたい他の56民族もすべて侵略により支配下においた民族ばかりですから、どこにも譲歩できないと思っているのです。中国が崩壊する可能性はあるでしょうが、時間がかかるでしょう。とにかく希望を捨てず、非暴力の闘いを続けることが大事だと思います。


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2015年07月27日

映画『ルンタ』補足編:監獄24年、ロプサン・ノルブお爺さんの証言・前編

11060262_1077431632286892_8838020435283531995_nロプサン・ノルブの証言

真っ白い豊かなあご髭で有名な、やさしいロプサン・ノルブお爺さんは、80歳。セラ僧院の僧侶だったが、1959年中国がラサに侵攻したとき、銃を持ち戦った。激しい戦闘の中で負傷し、捕まった。そして、その後24年間監獄に入れられていた。1988年、再逮捕を逃れるためインドに亡命。現在ダラムサラの小さな部屋で1人暮らしをしている。足が悪くいつも杖をついている。ノルブお爺さんとは古い知り合いであり、昔の話はすでに何度も聞いていたが、今回映画製作のために、再びお話を聞かせてもらうこととなった。このインタビューは2014年3月15日、彼の部屋で行われた。

僧衣を脱ぎ捨て、中国と戦う。

ーノルブさん、まず最初にざっとこれまでのあなたの人生について教えて下さい。

ノルブ:私はニャガという場所で生まれました。7歳の時、ラサのセラ僧院の僧侶となり、25歳まで僧侶でした。名前はロプサン・ノルブ、今ちょうど80歳です。その頃のチベットは今中国が宣伝しているような状態ではありませんでした。食べ物も飲み物もろくになかったと中国は言っていますよね。そんなことはありません。昔は本当にみんな幸せでしたよ。チベットは自給自足できていました。穀物も、肉も、野菜も、必要なものは自給できていて、他の国から輸入する必要はありませんでした。中国が来る前、食糧はたくさんあったのです。家畜もたくさんいました。ヤクや羊などがたくさんいましたから、遊牧民も幸せでしたよ。農民も食べていくには十分な畑がありました。一方中国は、旧社会では食べ物も飲み物も不十分だったと言ってますよね。映画でもやってますよね。おじいさんなんかが出てきて…おじいさんが何を言うかというと、旧社会では食べ物も飲み物もなくて、などと言うわけですが、彼らは生き延びているじゃないですか。もし食べるものもなかったら死んでしまいますよ。だからそんなことないんです。中国の話は全て嘘ですよ。だから1959年に、チベットは生産力もあり、肥沃で、土地は広大、人口は少ないというわけで、だからこそ中国はチベットを侵略したんです。チベットは中国の支配下ではなかったのです。中国に侵略されたのです。チベットでは人口が少なく、土地が広大で、肥沃なので、何を植えても育つのです。さらに穀物を10年、15年貯蔵しておいても腐らないのです。インドでは穀物を1年ほっておけば虫が湧きますが、チベットでは虫はわかないのです。チベットでは穀物がどこでもたくさん備蓄されていました。10年とか15年昔から備蓄されていた穀物もありました。10年、15年経ったものでも食べられるのです。中国の言うような状況ではなかったのです。

ー中国が来た後、どうなったのですか?

ノルブ:中国が何をしたかというと、チベットはいいところで、肥沃ですし、穀物もありますし、何千年も蓄積してきた財宝がありますよね。それを奪いに来たわけですよ。奪いにね。中国が。彼らは銃や大砲などをみんな持ってきているのに、我々チベット人は仏教を信じてずっとやってきてますから、よその国をどうこうしようとか侵略しようなどと思いもしないので、武器も少ないわけです。戦い方も知らなかったのです。中国は飛行機を飛ばし、大砲を撃ってきたのです。それで、1959年、僧衣を脱ぎ銃を持って戦ったのです。25歳でした。

ーどこで戦ったのですか?

ノルブ:最初、ポタラ宮に行ったのです。

ーナムギェル僧院とセラ僧院の僧侶が銃を持ち出し、そこを狙われて激しい砲撃を受けたのですね。

ノルブ:そうです、その時私もいました。その時僧侶だけで三千人いました。三千から四千人いました。セラ僧院の僧侶は戦うためにポタラに駆けつけたのです。ナムギェル僧院の僧侶たちはもともとポタラ宮いたわけです。セラには武器がまったくなかったのです。ポタラには銃や銃弾がたくさん隠してありました。まず、それを出しに行ったのです。銃がなけれは戦えませんから。三千人の僧侶全員が銃と銃弾を手に入れることができたのです。それで撃ちました。でも、最後は中国軍がノルブリンカを大砲で集中砲火して、それで負けたのです。こちらには大砲がありませんから。中国軍の大砲で何千人ものチベット人が殺されたのです。ノルブリンカ周辺は人や馬の死体で足の踏み場もないほどになりました。僧院も砲撃したのです。ギュト僧院の屋根は大砲で吹っ飛ばされ、大勢の僧侶が亡くなりました。

ーそれで中国に捕まったのですか?

ノルブ:その時は捕まりませんでした。その後、南のロカで戦ったとき負傷し、動けなくなって捕まったのです。

ーロカというと、チュシガントゥク(ゲリラ組織)と一緒だったのですか?

ノルブ:そうです、チュシガントゥクに合流して戦いました。小隊に分けられていたのですが、我々の隊は28人で、銃も28丁ありました。ヤルツァンポ川にかかるチュシュ大橋の上で銃撃戦になりました。橋の上でたくさんの仲間が死にました。中国軍は大砲を撃ってきました。それでやられたのです。28人のうち、結局、生き残ったのはたった3人です。私も腰に銃弾を受け、動けなくなり、捕まってしまったのです。その後、軍の病院に運ばれました。そこで銃弾などを取り出す手術を受けたのですが、手術はひどいものでした。その後30年近く、傷は完全には治らず、痛みが続いていました。1988年にインドに亡命し、診察を受けたあと、もう一度手術を受けました。最初の手術では砲弾のかけら等が完全には摘出されていなかったようでした。この時の費用は亡命政府がすべて払ってくれました。

ーいつ監獄に送られたのですか?

ノルブ:手術が終わるとすぐに逮捕されました。監獄で最初に「チベットは中国の支配下にあると言え。中国の支配下であることを認めれば釈放してやる」と言われました。「チベットは中国の支配など受けたことはない。チベットは昔から独立国だった。チベットに中国人はいなかった」と答えたのです。かつてアンバンという中国の大使のような中国人がいたのですが、とっくに追い出されていたのです。チベットに中国の役人はいなかったのです。チベットには独自の通貨がありました。軍隊もあるし、軍旗もありました。そべて独自のものを持っていたのです。みんな中国の貨幣を使わず、チベットの貨幣を使っていました。

ー何年の刑を受けたのですか?

ノルブ:最初は7年の刑でした。でも、7年経っても「チベットは中国領」ということを認めなかったということで延ばされました。

ー7年で延ばされたというと、文革中に監獄だったのですか?

ノルブ:そうです。文革の時もその後も監獄にいました。監獄というところはひどいところです。12時間の強制労働が課されるのです。12時間働かされるのです。食事は無いに等しい状態でした。ろくに食わされてないのに働かされ、何千人も死んだのです。みんな死んでしまいました。囚人はほどんど死にましたよ。何千、何万という人が死んだのです。コンボの監獄に入れられ、たった1人だけ生き残ったという人からコンボ監獄の話を聞いたことがあります。ラサの監獄で同室になったことがあります。その人は今も生きていてセラ僧院にいます。彼の話によれば、囚人がたくさん死ぬと、ずらーと並べるそうです。あまりに数が多い時には材木を積み上げるみたいに、チベットの正月に大きなカプセ(チベット揚げ菓子)を積み重ねたり、書類を積み重ねたりするみたいに死体を積み上げ、上から灯油をかけて火をつけるそうです。埋めたりなんかしないのです。結局1人しか生き残らず、その監獄は一旦閉鎖されたそうです。彼はその後インドに逃げることができて、今も南インドのセラ僧院にいます。

ーいつまで入れられていたのですか?

ノルブ:1982年までです。24年間を監獄で過ごしました。最初7年の刑が終わった時、「お前は釈放しない」と言われたのです。「お前は頑固で、本当のことを言わない。他人を非難しないし、自分の罪も認めない。チベットが中国領だということを認めない。これさえ認めればすぐに解放しよう。認めないならずっと監獄にいることになる」と言われたのです。私は認めませんでした。そのころ大勢の囚人が拷問死しました。私もひどい拷問をうけました。囚人はみんなダライ・ラマ法王とパンチェン・ラマを非難することを強要されたのです。私はダライ・ラマ法王を非難などできませんでした。非難した人はみな釈放されました。ダライ・ラマ法王は反逆者だとか、分離主義者だと認めた者は釈放されたのです。私はそんなことは口が裂けても言えませんでした。法王は我々の根本のラマであり、チベット全体のラマです。チベット全体をまとめることができるのはあの方です。法王を糾弾することなど決してできません。それから8年、9年、10年、、、23年、24年と続き、17年間刑が延長されたのです。

ー文革が終わった時、多くの人が解放されたと聞きましたが。

ノルブ:そうですね。1977年に小平から59年と60年に逮捕された囚人は全員解放せよという命令が来たのです。その時解放された者には家までの旅費も支給されました。遠くへ帰らなければならない人も多かったからです。でも、私は釈放されなかったのです。「お前は自分の罪を認めない。ダライ・ラマ等他人の罪も糾弾しない。チベットが中国領であることも認めない。だから釈放されないのだ」と再び言われたのです。私だけが残されたのです。それからさらに82年まで入れられてました。82年になり、ついに奴らに言ったのです。「釈放しないなら俺を殺せ」、「俺の罪が何なのか教えてくれ」と言ったのです。そしたら解放されたのです。釈放の時の扱いは悪くなかったのです。家も支給されました。昔、ラサに家族の家があったのですが没収されていました。住むところも支給され、生活費までくれました。なぜなのかは分かりません。

ーその時まで何の罪で刑を受けているのか知らされていなかったのですか?

ノルブ:知っていましたが、認めていないということです。中国は私に3つの罪があるといっていました。まず、59年の戦闘の時、中国側の指揮官が1人死んだのですが、私が彼を殺したというのです。

ーそれは事実ですか?

ノルブ:事実かどうかは分かりません。戦闘の時にはチベット側も中国側もたくさんの人が死にました。中国側の主な指揮官もほとんど死んだのです。指揮官たちが死んで、一旦2、3時間停戦状態になったのです。彼らは遺体を集め、喪に服し、そのあと誓いを立てていたようでした。兵士たちはみな手を振り上げて気勢を上げていました。その後、戦闘が激化したのです。大砲をばんばん撃ってきました。その指揮官を私が撃って殺したことにされたのです。お前は射撃の名手だったからというのです。2つ目は、ポタラで戦った後のことですが、僧院の穀物倉庫を壊したということでした。私はもともとセラ僧院の穀物倉庫の管理を任されていました。中には僧侶が食べる穀物でツァンパを作るための大麦が一杯積まれていました。倉庫はこの部屋くらいの大きさのが4つ、5つあったのです。それを私は人々に開放したのです。燃やしたんじゃありません。人々に提供したのです。持って行っていいよと。中国が倉庫を封じてたのですが、私が鍵をすべて壊したのです。そして、穀物をみんなにあげたのです。みんなは馬やラバを連れて来て、昼夜それを運び出し、それぞれ家に運んだのです。中国が言うには、その穀物は軍馬の飼料用にするつもりだったそうで、それを私が盗んだというのです。3つ目は監獄内の抵抗運動組織の問題です。文革が始まったあと、監獄内でおそらく500人ほどのチベット人囚人が参加する抵抗組織が結成されたのです。有名なタナ・ジグメ・サンポさんも参加していました。監獄34年の彼はまだ生きてますよね。スイスにいらっしゃる。彼とか私はこの組織を作った中心人物として、監獄内の監獄と言える無窓独房に半年入れられました。そして、半年後に全員死刑と言うことになったのです。しかし、最後に公安局長が私とタナ・ジグメ・サンポを死刑から外したのです。私がその組織を認めなかったからという理由のようです。結局この時14人が処刑されました。文革に入ってからはすごい数のチベット人が処刑されました。1967年だと思いますが、チャムドでも15人、ナクチュのビルでも15人、ニョモでも15人、ラサで15人と合計60人が同日、同時刻に死刑執行されるということもありました。

ー釈放されてからはラサで暮らしていたのですね。その頃のラサの生活はどうでしたか?

ノルブ:ラサはまだましでしたが、田舎はひどい状態でした。食べるものも、着るものも非常に乏しい状態でした。1987年にデモが起きた原因の1つは貧困だったと私は思います。

ーデモに参加されたのですか?

ノルブ:1987年、88年とデモに参加し、それでインドに逃げることになったのです。87年の時には友人の尼僧たちがたくさん集まってくれました。私はデモにたくさんの尼僧たちを連れて行ったのです。車でです。尼僧も僧侶も、とにかく多くの人を動員しなければならなかったからです。中国は文革が終わりチベットは自由になったと宣伝していましたが、自由などは何もありませんでした。食べ物や着る物にも困っていました。子供たちは靴もなく裸足でした。だからデモしたのです。88年にもやりました。

ー逃げなくてはならなくなったのはなぜですか?

ノルブ:88年にラサで2人の外人記者のインタビューを受けたのです。1人はアメリカ人でゲンギャという名でした。もう1人はイギリス人女性でオニキリと言いました。彼女はインドから来ていました。アメリカから来たトゥプテンという人が通訳でした。2人とも秘密裏にラサに来ていたのです。彼らは許可証がないので、ホテルに泊まることができません。そこで、通訳のトゥプテンから彼らを私の家に泊めてほしいと頼まれたのです。了承し、家でインタビューを受けました。チベットの文革がどうであったかとか、チベットの状況、監獄でどのような扱いを受けたか等をすべて話しました。2人は仕事を終え帰りました。通訳のトゥプテンがアメリカに帰る前に私に言いました。「彼らの記事が出たら、あなたは逮捕される可能性が高い。記者や私は外人だから捕まっても刑を受けても、結局開放されるだろう。しかし、あなたは捕まったら死刑になるかも知れない。逃げるべきだ」と。それで、インド行きを決心したのです。


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2015年07月26日

映画『ルンタ』補足編:元ラプラン僧院僧侶ジャミヤン・ジンバへのインタビュー、後編

ジャミヤン・ジンバ僧ジャミヤン・ジンバ。

昨日の続き。


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ーあなたたちが山に逃げた後だと思うのですが、1人捕まり拷問を受け、亡くなっていますよね。

ジャミヤン:山に逃げた後、一番心配していたのは彼のことでした。彼は我々のようにデモを先導したわけではないのです。後について来た2、30人の中の1人でした。彼はお堂の中にいたところを逮捕されたのです。普通中国ではデモ等を先導した人は重い罪を受けるが、他の人たちは軽かったり、解放されたりします。彼の名前は私と同じジャミヤン・ジンパでした。ですから、私は彼は私と勘違いされて逮捕されたのではないかと心配したのです。

僧院の中に兵士が入ってきて、彼が逮捕され、ひどい拷問を受けました。拷問を受けて、確か1週間ほどで家族に引き渡されました。家族に引き渡されたときにはもう歩ける状態ではなく、担架で運ばれてきたそうです。足を何カ所も骨折していました。口に電気棒を突っ込まれたからだと人は言っていましたが、狂っているように見えたといいます。最初はしゃべることもできず、小水も垂れるままだったと聞きました。いろんな内蔵がやられていたようで、それから半年間、床から起き上がることすらできなかったそうです。彼のお母さんが面倒を見ていました。起き上がることはできるようになったが、それから3年後、拷問の後遺症に苦しめられた末に回復することなく亡くなったのです。家族が彼を大きな政府の病院に連れて行くと、医者は恐がり、ちゃんと見てくれません。追い返されます。それで、最後までまともな治療を受けることができず、とうとう亡くなってしまったのです。お母さんは本当に辛かったと思います。

ー焼身についてはどう思われますか?

ジャミヤン:驚くべき偉業だと感じています。焼身する人はみな、チベット人の苦しみを一身に背負っています。彼らの思いは広く、チベットの民族、仏教の教え、人々の平和な暮らしを思って行動したのです。私は焼身者に特別の思いがあります。同郷の知り合いが焼身しているからです。2012年の11月27日にサンチュのサンコク郷でサンゲ・タシが焼身し、亡くなりましたが、彼は私と同じ村の出身です。彼のお兄さんと子供のころ友達で、その弟として知っています。私の家族とサンゲ・タシの家族も仲がよかったのです。私は12、3歳の時、僧侶となりラプラン僧院に入ったので、その後はよく知りませんが、里に帰った時に彼の家に遊びに行くこともありました。彼は小さい時、学校に4年ぐらい通い、その後は両親を助けて牧畜の仕事をしていました。田舎には小学校しかありませんし。

彼はなんというか、心が綺麗で、遊牧民の子供はだいたいそうです。学校にも行かず、親の手伝いもせず、街をふらつきタバコを吸ったり、酒を飲んだりとか、そのようになってしまう子もいるのですが、彼はそういう子ではありませんでした。それは確かです。彼は両親を非常に大切にしていました。家畜の面倒を見るのも得意だったそうです。彼の家は村でも有数の裕福な家だったのです。たくさんの家畜を飼っていました。

ー彼は何人兄弟ですか?

ジャミヤン:4人兄弟です。お兄さんとお姉さんがいました。あと、3歳ぐらいの小さな弟がいました。お姉さんは結婚して他の場所に移っています。お兄さんも結婚し、独立しています。彼が焼身した時にはこの2人は家にいませんでした。

今、急に彼の焼身を初めて知ったときのことを思い出しました。私はそのときサルナートの大学で勉強していたのです。授業中に知らせが入りました。何と言うか、すごく動揺し、もう先生の話がまったく頭に入らなくなったのです。すぐに、彼のことをメディアに報告しようと思い現地と連絡をとりました。

サンゲ・タシの家族の話をしましょう。焼身した時には彼の父親と母親と幼い弟がいたはずです。父親は再婚したので、今の母親は義理の母親です。本当の母親は別の土地に住んでるそうです。小さい弟はこの再婚相手との間に生まれた子供です。彼の父親はサンゲ・タシに家を継がせるつもりでした。チベットでは長男が家を継ぐとは限りません。親の言うことを一番よく聞く子に家を継がせるのです。父親はいつもサンゲ・タシはいい息子だと自慢していました。1、2年後には嫁を迎え、家を継ぐことになっていたのです。将来的に苦労することはなかったでしょう。そのような彼が焼身したのです。父親は彼が亡くなった後、弔いのためにとラプラン僧院の僧侶全員に多額の布施を行いました。

ー中国に抗議したいと思う若者は多いことでしょう。その中で焼身してやろうと思うものもいるだろう。しかし、本当に焼身する人は稀だ。サンゲ・タシを個人的に知るあなたに、なぜ彼が焼身を決心したかについて何か心当たりはありませんか?

ジャミヤン:難しいですね。たくさんの若者が焼身しています。いくつかの村が集まるサンコク郷という我々の郷には家が千戸ほどあります。人口は7、8千人でしょうか。その中で他にもう1人若者が焼身しています。その若者も私の友人の姉の息子です。名前は僧侶だったときにはイシェだったが、その後養子に行って、トゥプワン・キャプと名前を変えたのです。それで、サンゲ・タシがなぜ焼身したのかですね。それは、分かりませんね。自分ではできないことですから。十分理解することはできないでしょう。一般的な話にしかなりませんが、私が思うには、2008年以降、チベットのために行動する人を人々は英雄と見なすようになりました。彼が焼身したころ、すでに80人以上が焼身していたと思います。特に、この人たちは遊牧民や農民から偉大な人たちだと見なされています。チベットのために焼身したのだから、海外にいらっしゃるダライ・ラマが帰還できるようにと焼身したのだからすごく尊い行為を行った人たちだ、ありがたい人たちだと見なされていいます。

2008年以前にも、両親等から昔中国に如何にひどい目に遭わされたかということは聞いていましたが、2008年には実際に自分たちの目で中国の残酷さを目撃したのです。本人でなくても周りの家族、親戚、友人の誰かが逮捕され拷問を受けたりすることを知ったのです。彼もそうでしょうし、私もそのようでした。そうなると、中国を嫌悪し、中国に対して何かやってやろうという気になります。大して勉強もしていない私などでも、何かしなければ、チベットのために何かしなければという気持ちに駆り立てられたのです。チベットが独立できるよう、自分のできることをしようと思ったに違いありません。ただ、さて何をしようかと思った時、年若く、学もない場合には手段が限られています。そんな時、多くの同胞たちが焼身していることを知り、それは命を捨てることであり、まったく簡単なことではないが、もしもそれを成し遂げることができれば、偉大な仕事をなしたことになると、そのように思ったのではないでしょうか?

ー彼の焼身時の状況について分かっていることは?

ジャミヤン:彼は焼身する日に何人かの友達と一緒にバイクでどこかに出かけたらしいです。帰りに彼だけがしばらくいるといってサンコク郷の街に残ったのです。そして、夜の10時頃、街の中心の路上で焼身したのです。焼身を行う直前に彼は従兄弟のツェベに電話を掛け、「アロ(ハロー)、俺は今日チベットのために焼身するぞ」と話したそうです。ツェベは「アロ、アロ、そんなことはするな、ちょっと待て!」と応答したが、すぐに電話は切られ、その後、何度電話しても通じなくなったといいます。目撃者の話によれば、彼は焼身しながら「ダライ・ラマ法王をチベットにお招きすべきだ!パンチェン・リンポチェをはじめ全ての政治犯を開放せよ!」と叫んだと伝えられています。

ー「チベットに自由を!」はなかったのでしょうかね?

ジャミヤン:伝わっていないが、言ったかも知れません。私は焼身者たちが最後に叫んだ内容や残した遺書の内容を分類して見たことがあるのです。6、7種類に分けられると思います。一番多いのは「ダライ・ラマ法王のご帰還を」というものです。「ダライ・ラマ法王に長寿を」というのも同種だと思います。それから、パンチェン・ラマの解放を求めるというのもあります。「チベット独立」「チベットに人権を」「宗教の自由を」と叫ぶものもいます。また、ある人は「世界平和」を叫び、「環境保護」を訴えたものもいます。分類すれば、そのようになります。

ーダライ・ラマ法王を直接知らない人たちがなぜそれほどまでに法王の帰還を望むのでしょうか?

ジャミヤン:それにはまず両親の影響があるでしょう。両親が毎日、ダライ・ラマ法王に「どうかお救いください」と祈っているのを見て育つからです。ダライ・ラマ法王は大変尊い方で、我々のなくてはならない宝であると強く信じているのです。中国が来て、ダライ・ラマ法王は亡命を余儀なくされ、今はインドにいらっしゃることを両親から聞いて知っています。たびたび外国に出かけられ、多くの支持者を得ていることも知っています。インドに行き、ダライ・ラマ法王にお会いすることができた人から、法王がどんなことをお話されたかを直接聞く機会もあります。2006年に、自分たちの地域だけでなくチベット全土で豹や虎などの毛皮を焼却するという運動が起こりましたが、あれはみんなダライ・ラマ法王のお言葉に従ったからです。みんなダライ・ラマ法王のお言葉に注目しているのです。お会いすることはできないが、間接的に言葉を聞き、それに従おうとするのです。影響力はすごいわけです。禁止されてはいますが、人々はこっそりと首にダライ・ラマ法王の写真をつけたり、家の仏壇に法王のお写真を掲げるのです。僧院などでは秘密裏に法王のご本を手に入れることもできます。CD等は我々にはむかないのです。ダライ・ラマ法王が話される中央チベット方言が理解できないからです。

ー法王はもともとアムドのご出身ですよね。

ジャミヤン:ははは、そうですが、全然違うのです。聞いても分からないのです。

ーダライ・ラマ法王さえチベットに帰還できれば、すべての問題はなくなる、苦しみは終わると思っているということでしょうか?

ジャミヤン:ダライ・ラマ法王帰還というのは簡単ではないですよね。まずその状況が整わなければならない。つまり、ダライ・ラマ法王が帰還できるということは、他のすべても解決されているということじゃないでしょうか。お年寄りたちは、いつも「死ぬまでに一度でいいからダライ・ラマ法王にお目にかかりたい」といい、それが一生の願いだと言います。それを聞くと若い人たちは両親や祖父母のその願いを叶えてあげたいと思うようにないます。それもあると思います。

ーチベットの独立を求める焼身者が多いですよね。たしかに、死を覚悟の焼身を行う時「チベットに真の自治を!中道を!」はそぐわないわけですが。独立とか中道とかについて内地ではどのくらい理解されているのでしょうか?

ジャミヤン:たしかに、焼身の時「中道を!」と叫んだ人は1人もいません。中国人と一緒でもかまわないという人は声を上げたりしないわけです。2008年以前には、ラサとは違い、私の故郷あたりではチベット問題についてあまり理解されていませんでした。よく分かっていなかったし、声を上げる人もいませんでした。2008年以降に目覚めたといっていいでしょう。それ以前にはチベット人が声を上げるのは独立のためだとしか思っていませんでした。2008年に私も最初声を上げたときには「チベット独立」という言葉を叫んだのですが、その後、特にインドに来た後から法王のおっしゃる「中道」について本気で考えるようになったのです。いろいろやろうとしても厳しいことが分かって来る。独立は簡単なことではない、すぐに得られるようなものではない。それを求めれば、実現される前にチベット人全員が抹殺される危険さえあると思うようになりました。他の道は何だろうと考えた時、法王のおっしゃる双方に利がある「中道」がまず実現されればいいと思うようになるのです。多くの事情が分かっている人たちはそう考えていると思います。

ー法王が独立を諦め、「中道」を提唱され始めたのは、1988年からというか、遡れば70年代からですよね。なぜそれが本土の人に理解されるまでそれほど時間がかかったのでしょうか?

ジャミヤン:2008年以前でも、社会の中で意識の高い人とか僧院内で外国のニュースを聞くことができた人たちは分かっていたでしょう。我々若いものでも法王の意見は知っていました。しかし、それを我々は次のように理解していたのです。ダライ・ラマ法王は仏教の教えに従い、衆生をすべて偏りなく平等に見られています。だからそのように考えることもおできになるが、我々普通の人間には到底できないことだと思っていたのです。法王は特別の方で、その意見も特別だと思っていたということです。つまり、自分たちは独立以外考えられないと思っていたのです。ダライ・ラマ法王は本当のチベットの現状を把握されていないのではないか? と疑ったりしたこともありました。でも、インドに来て、じっくりと考えるうちに中国を動かすことは非常に難しく、手段を間違えば非常に危険なことになると思うようになりました。

ー最近グチュスンも独立から中道へと路線変更しましたしね。

ー焼身の話に戻りますが、最初に焼身が始まった頃と今とでは感じ方に何か変化がありますか。

ジャミヤン:焼身が最初に1件、2件あった時には、多くの人が興奮し、勇気をかき立てられました。私も長い間考え込みました。焼身者の写真は正視できませんでした。急にいろいろなことを考えだすようになったという感じでした。でも、どんどん増えて来ると、だんだんそれが普通になってくるのですね。人間はそういうもののようです。でも、チベットの焼身は独特なものだと思うのです。自分の苦しみから逃れるために焼身自殺をするというのは昔からどこでもあるでしょう。しかし、チベットのように、民族の闘いの手段として、他人を一切傷つけることなく、ただ自分の命を犠牲にするというような運動はこれまでになかったのではないでしょうか? 個人の勇気ある行動です。国際的に認識され、評価されるべきです。実際に多くの支援者が国連を初めとする国際機関に訴えてくれています。感謝しています。

チベットは今緊急事態です。焼身は中国に抵抗する数少ない手段の1つなのです。多くの人が命を犠牲にしたことで、国際的にも少しはチベットの苦しみが理解されたのではないかと期待します。チベットは耐えながら、今まで長い間非暴力の闘いを続けているのです。もちろん、私を含めチベット人のだれも焼身者がこれ以上増えることを願っている人はいません。焼身は大変な悲劇です。ですが、私はこう考えるのです。今、焼身がどんどん増えて大勢が焼身しています。これがもし目的を達成することなく途切れたら、すべてが無駄になってしまうようなきが気がするのです。火が燃え始め、その火がますます強くなり広がれば、いつの日かチベットが独立する日が来るのではないか、そのために運動の火を絶やさないようにとの思いが焼身者には必ずあるように思うのです。2008年に我々も運動をしましたが、その時の思いも、2008年3月に起こった稀に見る全面蜂起の炎が小さくなり消えないように、ますます燃え上がるようにと願いやったのです。チベットのニュースが消えないことを願ってやったのです。

ーチベット人の非暴力の闘いにもっと注目してほしいということですね。

ー最後に、今のあなたの夢は何ですか?

ジャミヤン:チベット問題についてですか?個人の夢ですか?

ーどちらでもいいです。

ジャミヤン:チベット問題については多くの人が望んでいることと同じだと思いますが、ダライ・ラマ法王がご存命の内にチベットに帰還されることです。これが、チベット独立後に実現するなら本当に素晴らしいことですが、それは難しいと思います。たとえ高度な自治の中で帰還が実現するということでもそれは嬉しいことです。

私個人のことで言えば、今はインドでこれ以上ない環境で勉強もできているのだから、仏教とその他の学問ももっと勉強して、将来、チベットの人々はもちろん、もっと広く多くの人に役に立つ人になりたいと思います。人には人を助ける責任がありますから。

ー今の法王がご存命中に本土帰還はあると思いますか?

ジャミヤン:分かりません。ただ、もしもそうならなかったとしたら、その後チベットはさらに苦難の道を歩むことになるでしょう。

ーダライ・ラマが崩御されたらということですか。

ジャミヤン:そうです。大変なことになるような気がします。今は法王がご存命中に高度な自治が実現されればいいと多くのチベット人が口にしていますが、だからといって独立しなくていいと思ってる人は誰もいないでしょう。そうなると、闘いは本当に長いものになるでしょう。その時のためにもみんなしっかり仏教やその他の学問を勉強し、団結を守り続け、チベット人としてのアイデンティティーを維持し続けなければなりません。それができなければ、チベット人はばらばらになり、消え去ってしまうという危険が非常に高いのです。


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