2016年05月27日

ツェリン・ウーセル 詩篇 その3 『こんな詩なんて役に立たないけれど、ロサン・ツェパクに捧げたくて……』

2015北京「私の両手には何もありません。
でも右手にペンを握り、左手で記憶をつかみ、
この時、記憶はペンの先から流れます。
さらに行間には、踏みにじられた尊厳と
尽きない涙があふれます。」

ツェリン・ウーセル

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こんな詩なんて役に立たないけれど、ロサン・ツェパクに捧げたくて……*

一、

もう二三日目になりました。
ある日、「失踪させられる* 」という詩を読み、
すぐにあなたのことを思いました。

あなたは、先月二五日に「失踪させられ」ました。
私はただ涙を流して、詩を書くほかに術(すべ)がありません。

二、

映画には風景の挿入が必要なように、
私の思いは、とてもとても乱れるとき、
夢や幻のような場面がちらつきます。

馬のひづめを埋もれさせる花々、草原の黒いテント、
そよ風にはためくタルチョ、放生(ほうじょう)される鳥や獣(けもの)*

これらはみな私のふるさとの美しい風景、
でも現実は困難を極めた時期で、まさにこの時、
あなたは蒸発するように消えてしまった。

三、

荒唐無稽と現実がイコールで、
私なんて、自分の身も守れないどころか、毒薬のようになってしまい、
あなたは毒の酒を飲み、受難の供物となったのでしょうか* 。

目を閉じれば、いつもあなたが浮かぶ。
あの年の三月、烽火(のろし)が雪国の全域に燃え広がり、
同胞は鮮血を流し尽くした抗議者を寺院に担ぎ入れ、
心の聖殿に供えました。

四、

「三月は最も残酷な月です* 」
ある外国メディアの記者は上品に、こう語りました。
二年続いて三月に彼はチベットを訪れ、何か見たようですが、
まだ何も見ていないようでもあります。
明らかに、彼は三六計〔中国古代の兵法では三六種の計略があるとされ、ここでは中国共産党の策略を指す〕の計略に落ちたのです。
私が「あなたは『チベット人は狼のように吠えた』とおっしゃったのですか?」とたずねると、
気まずい雰囲気になり、彼はプライドが傷つけられたような表情をしました。

五、

アク・ツェパク* 、あなたはどこにいるのですか?
野蛮なやり方で阿壩(ンガパ)に送還されたですか?
それとも秘密の独房に監禁され、残忍なリンチを受けているのでしょうか?

ある若い僧侶が拷問の経験を語ってくださいました。
彼は逆さにつり下げられて、肋骨を三本も折られました。
天気が変わるときは、からだを丸めるほどの激痛が来ます……
ああ。彼にたずねることを忘れました。最近、チベット東部では雪が降りましたが、体調はいかがでしょうか?
それはそうと、ツェパク上人の安否は、誰におたずねしたらいいのでしょうか?

六、

「私たちは足下に国を感じずに生きている
 私たちの会話は十歩離れると聞こえない」
これは、スターリンの手により死に至らしめられた良心的詩人* の詩句です。
まさにこの世の春を謳歌している華夏〔中国の古称〕の姿でもあります。

深夜、私は混乱した内心を吐露しました。
「役に立つかどうか分かりませんが、それでも言います。
実は分かっているのです。言っても役には立たない……」
ランワン・ルンバ〔自由なる国〕の友人が力強い口調で語りました。
「あいつらは何を言ってもムダだと思わせる。
しかし、我々は言うことを止めるわけにはいかない。」

七、

私の両手には何もありません。
でも右手にペンを握り、左手で記憶をつかみ、
この時、記憶はペンの先から流れます。
さらに行間には、踏みにじられた尊厳と
尽きない涙があふれます。

八、

地獄を長い間じっと見つめていると、
地獄に少しずつ食われてしまうかもしれません。

条件があれば出してください?
もし条件があるのなら、聞かせてください。
彼を無事に交換できるのであれば。

ふと想い出しました。あの陰鬱な午後、
一羽の陰鬱な手下の鷹が、凶悪な口ばしを開きました。
「おまえに、できるのか? チベットについて書かないことを」

九、

チベットについて書かなければ、詩になりません。

まさに、チベットのためにこそ、ツェパク上人は失踪させられたのです。
まさに、チベットのためにこそ、タペー上人とプンツォ上人は焼身自殺したのです* 。

このリストは延々と長く続き、さらに先へと長く……

漢語の西蔵――
もちろん、きちんとした名称はチベット〔原文は図伯特で、チベットの音訳〕です。

                     二〇一一年四月四日 初稿
                     二〇一一年四月一七日 脱稿

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2016年05月25日

ツェリン・ウーセル 詩篇 その2 『チベットの秘密』

imageチベットの秘密
 ―獄中のテンジン・デレク・リンポチェ、バンリー・リンポチェ、ロプサン・テンジンに献げる一

一、


彼らは私とどういう関係があるのかしらと、よくよく考えさせられます。
三十三年間も拘禁されたパルデン・ギャツォは* 、
一二歳から投獄されたガワン・サンドルは* 、
それに、釈放されたばかりのプンツォー・ニトンは* 、
さらに、今もなお獄中に監禁されているロプサン・テンジンは* 。
私は知っているわけではありません。ほんとうです。写真さえ見たことがありません。

ただネットでは見たことがあります。年老いたパルデン・ギャツォ僧の前に、
手錠、足かせ、匕首、性能が異なるいくつかの電気ショック棒。
彼の落ちくぼんで、しわが溝のように深く刻まれた顔から、
若いころのはつらつとした容貌が垣間見えました。
その美しさは俗世間には属さず、幼少期に仏門に入ったため、
外見の美は仏陀の精神へと転化していったのでした。

十月の北京郊外、秋風がうら寂しく吹きわたります。
私はラサでダウンロードした伝記を読み、
雪国の衆生が外国の蹄鉄に踏みにじられるのを目の当たりにしました。
パルデン・ギャツォが低い声で語りました。
「成人してからの人生の大半を中国人の刑務所ですごしてきた。しかも私自身の国で……* 」
でも、「寛恕という言葉を知る」という声も聞こえてきます* 。

覆面をつけた悪魔が不定期に正体を表し、
古い神々〔チベット伝統の護法神〕もかないませんが、
肉体のある凡人でも勇気が与えられます。
深夜の祈祷を真昼の叫び声に変えるとき、
高い壁の下のうめき声を四方に向かって響かせる歌声に変えるとき、
逮捕! 刑罰! 無期懲役! 死刑執行猶予! 死刑!

私はもともと口をつぐんできました。何も知りませんでしたから。
私は生まれると解放軍のラッパの音のなかで成長し、
共産主義の後継者となるように育てられました。
突然、赤旗の下の卵は、打ちこわされました。
中年になり、遅ればせながら怒りが喉を突き破るばかりになりました。
私よりも若い同胞の受難のため、涙があふれて止められませんでした。

二、

でも、私は重罪とされて獄中にいる二人を知っています。
二人ともトゥルク* で、東部のカムの人です。
ジグメ・テンジン* とアーナク・タシ* 、あるいはパンリーとテンジン・デレク、
これは彼らの俗名と法名です。
まるで忘れていたパスワードが作動したように、
それほど遠くはない記憶ですが、わざと避けて、しっかりと閉じていたドアを、開けたようです。

そうです。最初はラサの郵便局でした。彼は私に電報を書いてくれと頼みました。
彼は笑いながらいいました。「私は中国人の字は書けないのです。」
彼は、多くの友人のなかで初めての活仏でした。
チベット暦の新年のとき、私たちはパルコルにある写真館で、
けばけばしい色彩のセットの前で、仲良く写真を撮りました。
また、私は朱哲琴のMTVに連れて行き、優美な「手印」を演じてもらいました* 。

めがねをかけたウ・ツアンの女性が彼の伴侶となりました。
二人は孤児院を開き、路上で物乞いをしていた五〇人の子どもを世話しました。
私も一人の里親になりましたが、この限られた憐れみも、突然、思いがけず止めさせられました。
二人は逮捕されましたが、何のためか分かりません。話によると、ある朝、
ポタラ宮広場で雪山獅子旗〔チベット国旗で、中国政府は国家分裂と見なす。雪獅子はチベット伝説の動物〕が揚げられたことに関係しているそうです。
でも、私は認めますが、あまりたくさん知りたくないのです。監獄に面会に行こうと思ったこともありません。

そうです。数年前、ヤルンツァンポ川のほとりで、彼はほとばしる流れの中のりんごを見つめていました。
「ごらんなさい。報いがやって来ました。」
彼の名は知られていますが、それは痛ましくもあり、私は困惑するばかりでした。
もちろん、彼は高名です。人々が次々に変節し、また沈黙するこの時代において、
村々をめぐり仏法を説き、政府や時弊を直接批判しました。
多くの農民、牧畜民、そして孤児は心の中で「大ラマ* 」と仰ぎ見ていますが、
しかし、役人には目のかたきにされ、この突き刺さったとげを抜き取らなければ気が休まらないと思われています。
何度も何度も苦心してわなを張りめぐらせ、「九・一一」の後でやっと捕まえることができました。
ご立派な罪状で、「反テロ」の名目を借りて見せしめにしました。
密かにダイナマイトと卑猥なビデオを隠し持ち、五ないし七件の爆破事件を計画したということです。
でも、私は、投獄される半年前に、彼は辛そうに語ったことを憶えています。
「母が病気で死にました。私は母のために引きこもって、一年修行しなければならない。」
堅く誓った仏教徒が、殺生を犯して命を奪う爆破事件に関われるでしょうか?

三、

私はもう一人のラマ〔師〕を知っていて、彼から帰依と瞑想の経文を教えられました。
ある日、セラ寺で、彼の弟子が泣いて訴えました。
彼が修行していたら、突然、警察の車であの悪名高いグツァ監獄に連行されたのでした。
理由は、何かの政権転覆計画事件の容疑でした。
私は数人の僧侶と駆けつけました。道路は、今のように舗装されていなく、土ぼこりが舞いあがっていました。
炎天下で目にしたのは、銃を持つ兵士の氷のように冷たい顔だけでした。

突然逮捕されのと同様に、突然釈放されました。証拠不十分という結論でした。
「劫」を生き延びて与えられた余生だと感無量で、彼は私に珍しい念珠をくれました。
それは獄中で与えられたマントーと窓の外で燦々と咲いていた黄色い花と親族が差し入れてくれた砂糖をこねて作ったものでした。
一個一個の珠にはびっしりと指紋がついていて、一個一個が体温でぬくもっているようでした。
読経しながら、屈辱の九十数日を過ごしのでした。
一〇八個の念珠よ、一個一個が堅固な石のようです。

私はあるアニ〔尼僧〕に出会いました。彼女は私の年の半分でした。
彼女はパルコルに沿って歩きながら、叫びました。チベット人によく知られているスローガンを。
私服警察が押し寄せ、口をふさがれました。それは、ある夏の日でした。
その日は、私が二八歳となった誕生日で、私はきれいな服を選んでいました。
また、その時の彼女と同じ一四歳のときは、ただ来年に成都の高校に合格することしか考えていませんでした。
私が書いた作文は、ベトナム人と戦う解放軍に捧げるものでした〔一九七九年二月〜三月、中国・ベトナム国境で武力衝突が勃発〕。

七年後、寺院から追われた彼女は、ある親切な商人のところで手伝いをしていました。
背が低い彼女は、強烈な炎天下でも見すぼらしい毛糸の帽子をかぶっていました。
「布の帽子にしたら?」 私はプレゼントしようと思いました。
彼女は辞退しました。「頭痛がするので毛糸の帽子がずっといいのです。」
「どうして?」 そういう答えは初めてなので尋ねました。
「私の頭は獄中で殴られて壊れてしまったのです。」

挨拶を交わす仲のロデンは、人もうらやむ職業と前途でしたが、
夜通し暴飲した後、一人車に乗ってガンデン寺に行きました。
山頂でルンタ* を投げるとき、命取りになるスローガンを幾度か叫んだため、
たちまち寺院駐在の警察に逮捕されました。
党書記は「酒を飲み本音を吐いた」と書類に記入し、
一年後、ラサの街頭では前科者の無職がまた一人増えました。

四、

ここまで書いてきて、私はこの詩を告発にはしたくありませんが、
なぜ、拘禁される者のなかで、僧衣(ドンカ)〔両袖のないガウンに似た衣服〕をまとう者が、そうでない者よりも多いのかと問わずにいられません。
明らかに常識からはずれています。暴力と非暴力の境界線は誰でも知っています。
ですからやはり私たちは羅刹女(らせつにょ)の骨肉なのです〔チベット人は猿と羅刹女の子孫と伝承されている〕。苦難をラマやアニが引き受けているのです。
代わりに殴られ、投獄され、死に赴いているのです。
担ってください。ラマよ、アニよ。私たちの代わりに担ってください!

誰にも知られず、耐えがたい一分一秒、忍びがたい昼と夜、
どのようにして肉体と精神が責め苛まれているのでしょうか?
肉体と書いて、私は思わず身震いしました。
痛いことはほんとうにいやです。ただ一度のビンタでも、私は耐えられない。
恥じながら、私は終わることのない刑期を指折り数えます。
チベットの良心は、一刻も止むことなく、現実のなかの地獄で脈打ち続けているのです。

コルラ〔寺院や聖地などの周囲を時計回りに巡礼すること〕の道の茶館で、つまらないうわさが隅々まで飛びかっています。
コルラの道の茶館で、退職した役人たちが夕方まで楽しそうにマージャンをしています。
コルラの道の居酒屋で、でっぷり太った公務員が毎晩酔っぱらっています。
あぁ、彼らが楽しく堕落するままにしましょう。「アムチョク」になるよりずっとましです。
「アムチョク」というのは「耳」、つまり隠れた密告者です。
「アムチョク」とは、なんとピッタリしたあだ名でしょう。なんとラサの人はユーモアがあるのでしょう。

裏切りと密告が、のぞき見とひそひそ話のなかでこっそりと進行しています。
すればするほど、ご褒美もたくさんもらえて、大物になれます。
ある日、町を歩いていると、奇妙な気持ちになって、私は耳をおおいました。
注意せず、気をゆるめたら、他人の手のなかに落ちてしまうのです。
注意しなければ「アムチョク」になり、隅々に入りこみ、どんどん鋭くなっていきます。
おとぎ話のなかで、子どもの鼻がうそをつくたびに長く伸びるようです〔ピノキオ〕。

いったいどれくらい怪しい「耳」が身近にいるのでしょうか?
また、どれくらい「耳」ではないのに「耳」だと誤解されているのでしょうか?
この奇異な人間模様は、アメとムチよりもずっと破壊力を持っています。
こう考えてくると、私は憂い、悲しみ、そして不本意ながら気づきました。
もう一つのチベットがあるのです。私たちが生活するチベットの裏面に隠されているのです。
このようなわけで、私はもはや抒情詩を書けないのです!

五、

でも、私は依然として沈黙しています。これはもはや習慣となったスタイルです。
理由はただ一つ。とても恐いからです。
なぜでしょうか。誰かはっきりと説明できるでしょうか。
実際、みなこうなのです。私には分かります。
「チベット人の恐怖は手で触れるほどだ」と言います* 。
でも、私は、本当の恐怖は既に空気中に溶けこんでいる、と言いたいです。

過去と現在のことに触れると、彼〔リンポチェ〕は突然すすり泣きだし、私は驚きました。
えんじ色の僧衣で彼は顔をおおい、私は思わず笑ってしまいました。
こみ上げる内心の痛みをまぎらわせるためでした。
周りの人たちは私をにらみつけましたが、
彼は僧衣の中から頭をあげ、私と視線を交わしました。
そのかすかな震えから、恐怖の大きさが伝わってきました。

国営新華社通信のある記者は、北チベット〔自治区北部の那曲(ナチュ)地区〕の牧畜民の子孫で、
中秋節の夜に、酒臭い息を吐きながら共産党の言葉で、私をどなりつけました。
「お前は何様だ? お前があばきたてれば何でも変えられると思っているのか?
おれたちがやっと変えたばかりだというのを知ってるのか? お前は何をしでかそうとしてるんだ?」
私が規則違反したのは確かなことなの? 私は反論しようと思いましたが、彼の口から走狗の凶悪さがさらけ出されていました。
もっとたくさんの人は、もっと重大なことをしでかしたので、粛清されたのでしょうか?

彼女たちが朗唱する軽やかな声が聞こえてくるようです。
「かぐわしい蓮の花は、太陽〔毛沢東は「紅太陽(赤い太陽)」と崇拝された〕に照らされ、枯れてしまいました。
チベットの雪山は、太陽の熱で焼けこげてしまいました。
でも、永遠の希望の石は、命をかけて独立を求める私たち青年を守ります」〔「タプチェ監獄で歌う尼僧」の歌声の一つ〕
いいえ。いいえ。私は政治の暗い影を決して詩に入れるつもりはありません。
でも、どうしても考えてしまうのです。獄中の十代のアニはなぜ恐れないのでしょう?

書き続けましょう。ただ心に刻むためだけに。上に立って憐れむような道徳感など、
当然、持っていません。一個人が吐露するような私事を書きましょう。
ふるさとを遠く離れ、見知らぬ異民族のなかで永遠に身を置きながら、
ちょっぴりと後ろめたさを抱きながら、安全に、声を低くして話しましょう。
つくづく思うのです。彼(女)たちは私と無関係ではありません!
ただこの詩をもって、ささやかな敬意と、遠くからの想いを表します。

                  二〇〇四年一〇月二一日、初稿
                  二〇〇四年一一月一〇日、改稿、北京

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2016年05月24日

ツェリン・ウーセル 詩篇 その1 『雪国の白』他

2d374852以下はチベットの詩人、ブロガーである北京在住のツェリン・ウーセル(私はウーセルと表記するが、オーセルと表記する人もおられる)さんの詩篇である。
日本では劉燕子さんのすばらしい翻訳により、2012年に集広舎さんから『チベットの秘密』として出版された本の中に含まれている。

今回、訳者の劉燕子さんから少しでも多くの人に読んでもらいたいからということで、私のところに送ってくださった。

全部で2万字以上あるので、今日からおそらく5、6回に分けて掲載させていただこうと思う。
ウーセルさんの記事はこのブログでもこれまで再々その翻訳を載せてきた。
チベットを想う気持ちがこれほど強く美しい詩人、活動家を私は他に知らない。

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『チベットの秘密』(集広舎、2012年)
第一部 詩篇
ツェリン・オーセル著、劉燕子訳


 雪国の白


白い花蕊の中で、彼女はドルジェ・パクモ〔金剛亥母。聖なる山の女神〕が舞っているのを見ました!
いいえ、それは白い花蕊ではなく、高山の頂きでした。

白い火焔のなかで、彼女はペルデン・ラモ〔吉祥天。ダライ・ラマとチベット政府の守護神〕が走っているのを見ました!
いいえ、それは白い火焔ではなく、山々の間でした。

起伏が連なる山麓は、菩薩の曼陀羅を囲むけれど、
星や碁石のように点々と広がる湖は、活仏の転生を現しているけれど、

白い花蕊はたちどころにしおれ、白い火焔はたちまち消えます。
彼女は涙を呑み、遠い異郷のチェンレスィ〔観音菩薩のチベット名。ダライ・ラマは観音菩薩の化身とされる〕に、どのような便りを伝えるのでしょうか?

便り。あぁ、人から人への便りが、一つひとつの親しい名前を伝え、
ダーキニー〔空行母〕とヘールカ〔護法神〕が一瞬身を隠すとき、無と化すのです。

    二〇〇五年一一月一三日、東チベットのギェルタン(結塘)からラサへの空中で





 バラバラに壊された痛ましい尊仏の記

ラサを離れてから二十日になりました。
いつもご尊顔がぺしゃんこにへこまされたあの仏像を想い出します。
冲賽康(トムセーカン)居民委員会* の前の露店におられ、
遠くからでも、目に入りました。
私は金露梅〔エゾツルキンバイ〕を買うためにトムセーカンの市場に行こうとしていました。
でも、仏像が目に入り、突然、深い悲しみに打たれたのです。
知らず知らずに壊された仏像に向かっていきました。
まるでいのちがあり、痛みを感じながらケースにもたれておられるようでした。
顔はぺしゃんこにへこまされ、腕は折られ、しかもまん中でたたき切られていました。
まことに痛ましく陳列ケースにもたれておられました。
そして、しょう油、豆板醤、サラダ油、トイレットペーパーにとり囲まれていました。
どれも中国の内地〔漢人地域〕から私たちの生活に入ってきたものです。
仏像の首には、色あいが精美な石の首飾りがかけられ、
ふところには顔が獅子で、からだは人間の怪獣を抱かされ、
やはり壊されて残がいとなったチョルテン〔仏塔〕の上に置かれていました。
かつては、どれも神聖な寺院に祭られていたのでしょうに。それとも敬虔な家庭でしょうか?
まことに痛ましくケースにもたれておられました。
そのご尊顔は水面のごとく静かで、かえって私は骨の髄まで痛みを覚えました。
悲しみに打ちひしがれて見つめていると、あたかもある物語が始まるような気がしました。
さらに、その背後にある歴史と現実も見えてくるようでした。
あぁ、私は前世からの尊仏のご縁を確かに感じました。
雪どけのように、高い山頂からゆっくりと私の心と体にしみわたりました。
露天商は両手でひざを抱え、
私に売ろうとしました。
「買いなよ。古い仏像だ。立派なもんだろう?」
「いつ、こんなに壊されたのかしら?」
私は尋ねました。
「文革だよ。当然、文革さ。」
彼は頭を上げて言いました。
「おいくら?」
私はとてもとても買って帰りたいと思いました。
しかし、江西省の行商人は一言「三千」と言い切ったのです。
私は残念でたまらず、とても離れがたかったけれど、後ろ髪を引かれる思いで、
痛ましくバラバラに壊された尊仏のもとを離れました。
ただ数枚の写真を撮っておきました。
懐かしい思いにこがれるときに、パソコンを開いて見ます。
友人は、ま新しい仏像を高く売りつけるために、
わざと壊して、文革の話を作りあげたのかもしれないと言います。
そうね。もしかしたらそうかもしれない。でも、まだズキズキと痛むのです。
だから、私はこの詩を書いて、解きほぐします。

                     二〇〇七年五月一四日、北京






 一枚の紙でも一片の刃になる

一枚の紙でも一片の刃になります
しかも切れ味は割といいのです
私はなにげなくページをめくろうとしただけなのに
右手薬指の関節のところが切れてしまいました
傷口はとても小さいけれど
細い糸のように血が滲み出てきました
ズキズキと痛みましたが
私は内心でこの劇的な変化に驚きました
突如、紙さえ刃に変わったのでした
どんなミスで
あるいは、何がきっかけになって、こうなってしまったのでしょうか?
私はこの平凡な紙に粛然として敬意を表さざるを得ません。

                  二〇〇七年一〇月一六日、北京







 結末!

刃が林立していることを承知しているけれど
刃の先端部分がとても甘い蜜で濡れているのが目にとまる。
舌を伸ばしてなめたくてたまらない――
あぁ、どんなに甘い蜜だろうか!
がまんできず一口、もう一口、もう一口……
あれ、舌はどうなった? 私たちの舌は?
いつのまに切り取られたのだろうか?
                 二〇〇七年一〇月三日、北京







 二〇〇五〜二〇一一年―ただ炎だけが風に揺れて……

チベット人自身の祭日* 、
いったい誰の祭日?
分かりません。分かりません。分かりません。
それは、祭日を楽しんでいる人が、
見あたらないからです。
一月から十二月まで、
西暦や中国の旧暦ではなく、チベット歴では、
ロサル* 、サカ・ダワ〔涅槃会、チベット歴の四月一五日〕、ショトゥン〔ヨーグルト祭り、同前六月三〇日〕、ガムチョ・チェンモ〔ツォンカパ燈明祭、同前一〇月二五日、ガンデン・ガムチョ、燃燈祭、ジョラ祭(モンゴル)ともいう〕……
もともとは仏様を拝み、神様にお供えし、悪魔を祓い、そして自分も楽しむ……

このような祭日は私たちからますます遠くなっています。
ただ名前だけ。
ただ虚飾だけ。
ただ一通一通の赤い通達文〔原文は「紅頭文件」で、赤い字句が付されている〕が頭の上に落ちるだけ。
徹頭徹尾、不許可、不許可、不許可!
こうしたら、ああなるぞ。
何につけ恐ろしいことになるのです。
例えば、もしお寺に行けば、もし巡礼すれば、
軽ければ減給、重ければ解職、
さらには投獄。
いつの間にか赤い通達文が少なくなり、
口頭の通達になりました。
これもまたいつの間にか古い慣例になりましたが、
でも、びくびく震えあがらせます。
でも、一番びくびくさせるものではありません。
一番びくびくさせるのは、おととい、その姿を現しました。

おとといはガムチョ・チェンモで、
ツォンカパ(ジェー・リンポチェ)を記念する日でした。
家々にはチューメ〔バターで作った燈明〕がともされ、人々はコンチョク・スム〔仏、法、僧の「三宝」に誓う祈念の言葉。南無三宝の意〕と唱え、
それは昔からの風物詩になっていました。
一年また一年と、二〇〇五年になり、
新任の張書記〔自治区党委員会書記の張慶黎〕が一声ほえるや、ラサは三度震えるようになりました* 。
でもプゥパ〔チベット語でチベット人を指す〕は禁令をかえりみず、どんどん集まり、
炎の輝きは天をこがし、
〔顔が見えないように〕マスクをつけた人々の顔を照らしたのが見えました。
人々は、見張っている制服や私服の警官など気にせず、
喜び慰められていて、そのさまは幻想的でした。
二〇〇六年、『ラサ晩報〔中国共産党ラサ市委員会の機関紙。「晩報」は「日報」よりも一般市民向け〕』は第一面で、
ラサ市党委員会、市政府の名で、
正式に警告しました。「誰であろうと……広範囲にわたり……
燈明祭の行事に参加、及び見物することは不許可」
二〇〇七年、遠く北京にいる私に、友人が告げてくれました。
「警察の多さは空前だ。
 信者の多さも空前だ。
 アムドやカムからたくさん駆けつけて、群衆の中で五体投地をしている。
 ただこの時だけ、ようやく一言だけ声をあげられた……」

今年のガムチョ・チェンモ、
つまり、おととい、ラサでは、
「昼間にパルコル* に行くと、
 多くの店は早々と閉めていて……
 大音量のスピーカーは、漢語とチベット語で、繰り返し通告していた。
 参加は不許可、見物も不許可、集まるのも不許可……
 大音量のスピーカーがどこにあるのか分からないが、
 ツグラカン〔ジョカン(大昭)寺〕の附近までも、
 もっともっと遠くまでも聞こえて……
 まるで文革のときのようで、年寄りがつぶやいた。
 毎日拡声器から大きな声で漢語とチベット語が流れてくると、ギョッとしたものだ。
 ビルの屋上では、たくさん動きまわっていた。
 銃を持っているのもいれば、持っていないのも……
 旧市街でも、やはりたくさん動きまわっていた。
 制服もいれば、私服も……
 至る所にアムチョク〔チベット語で耳、漢字表記で「昂覚」、スパイの比喩〕を、
 至る所にミク〔チベット語で目、漢字表記で「密」〕を感じる……」

国営新華社の写真がインターネットで出回っていて、
もうもうと焚かれるサン〔香草〕はなく、
天をこがす炎の輝きもなく、
大きなマスクをつけたラサの人々もいなく、
毎年アムドやカムから来る巡礼者も、
いない、いない、いない。
ただツグラカンのクショ〔中央チベットで使われる僧侶の敬称。クショラともいい、意味は上人様に近い〕がともした
一つ一つのチューメの炎が風に揺れて……
群青の夜空の下に屹立するポタラ宮は、まことに寂寥としています。
広場の人影は、もしかしたら、
任務に就いている者の他は、
物見高い者かチベットにはまる者〔原文は「蔵漂」で、漢人地域からチベットに憧れて来る青年などを指す〕でしょうか?
新華社の記事がネットで出まわっています。
防御用盾を持つ武装警官の言葉を引用しています。
 「今夜、庶民は思う存分に燈明をつけられるが、悪党には断じて放火させない!* 」
そして、いかにももっともらしい口ぶりで、
 「チベット民族の伝統によれば、
 今夜の一つ一つの明かりは平安のためにともされます……」と述べています。

いいえ。それは平安の燈明ではなく、
追憶の燈明です。
あなたたちはどれほどお分かりなのでしょうか?
私たちの内心の声が聞こえますか?
「……濁世の蒼生は、祖師を失い痛む。
 悲憫なる大地、悲鳴をあげる雪国。
 今でも私は待ち、尊者の恩徳を念じる。
 ただ尊者が私とともにおられるだけで……」
 ただ尊者が私とともにおられるだけで!


 パンチェン・ラマ

もし時間がうそを抹殺できるなら、
十年で足りるでしょうか?
一人の童子が聡明な少年に成長しましたが、
一羽のインコのように、ぶつぶつ口まねして、
ご主人の歓心を請い願うことしか話しません。

もう一人の少年は、どこにいるのでしょう?
腕に生まれつきあった傷跡は、
彼の前世で、十年前に、
北京にある暗い無道の牢獄で、
手枷にきつく縛られていたもの。
今、消息不明の少年は、
からだじゅう傷だらけなのでしょうか?!

もし暗闇が九重になっているのなら、
彼と彼は、そのからだは何重のところに沈んでいるのでしょうか?
もし光明が九重になっているのなら、
彼と彼は、その思いを何重のところに馳せているのでしょう?

もしかしたら暗闇と光明はそれぞれ重なりあって、
彼はからだを沈め、思いを馳せ……

コンチョク・スム! かくも混乱した俗世で、
どれほどの無常の苦が輪廻により、
パンチェン・ラマの身に顕現したのでしょうか!

               二〇〇五年一〇月一二日 北京

注記:パンチェン・ラマは、チベット仏教ではダライ・ラマに次ぐ第二位の活仏の名跡で、ゲルク(黄帽)派では最高位である。両者は対立的な関係にあったが、ダライ・ラマ一三世の時代に至って決定的に悪化し、一九二三年一一月、パンチェン・ラマ九世は密かにタルシンポ寺を抜け出し、中国に亡命し、この時点から中国と密接な関係が始まった。これは国民党から共産党に変わっても続いた。
 一九五二年四月、中国軍がラサを占領すると、パンチェン・ラマ一〇世はチベットに戻った。一九五九年に、ダライ・ラマ一四世はインドの亡命したが、パンチェン・ラマ一〇世は中国との協調路線を選び、チベットに留まり、当初は「毛沢東の息子」と称された。しかし、一九六二年、パンチェン・ラマ一〇世は中国政府に『七万言の意見書』を提出し、チベット統治政策は失政であると指摘したが、これにより失脚し、さらに翌年から九年八カ月も監禁された。その後、パンチェン・ラマ一〇世は文化大革命で破壊された仏塔を再建するなど民族と宗教の存続のために奔走し、一九八九年、中国のチベット統治政策の誤りを告発する演説を行い、「本物の一〇世」として信頼を取り戻したものの、その直後、一月二八日に急死した。
 これを受けて、ダライ・ラマ一四世とチベット亡命政府は転生者を探し始めた。ダライ・ラマ一四世は中国政府に協力を求めたが、中国政府は拒否し、タシルンポ寺の高僧チャデル・リンポチェを長とする転生者探索委員会を設置し、探させた。しかし、チャデル・リンポチェは密かにダライ・ラマ一四世に報告し、一九九五年五月一四日、ダライ・ラマ一四世はこれに基づき、ゲンドゥン・チューキ・ニマという六歳の男児をパンチェン・ラマの転生者として認定し、公式に発表した。
 これに対して、中国政府はチャデル・リンポチェたち関係者を逮捕し、処罰するとともに、新たに転生者を探し、一一月に六歳のギェンツェン・ノルブを国務院認可のパンチェン・ラマ一一世として即位させた。
 他方、ゲンドゥン・チューキ・ニマ少年は、公式発表の後、五月一七日に、両親とともに行方不明となった。当初、中国政府は少年や両親の失踪との関わりを否定していたが、一九九六年五月二八日、当局による連行であると認めた。中国政府は、ゲンドゥン・チューキ・ニマと家族を国内で保護していると主張しているが、消息は不明のままである。ニマ少年は「世界最年少の政治犯」と呼ばれている。


続く。


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2016年05月07日

1ヶ月半後に明らかになった新たな焼身抗議 5児の母

ソナム・ツォ
ソナム・ツォ

RFAが5月6日までに現地からの情報を元に明らかにしたところによれば、約1ヶ月半前の3月23日、アムド、ンガバ(四川省アバ・チャン族自治州)、ゾルゲ県で5児の母が中国政府に抗議するため焼身・死亡していた。RFAは当局による情報統制と目撃者が少なかったことが、外地に情報が伝わるのを遅らせた原因ではないかとコメントしている。

現地時間の昼過ぎ頃、焼身したソナム・ツォ(བསོད་ནམས་འཚོ། 50)は夫と共にゾルゲ県アキ郷にあるセラ僧院(ཛོད་དགེ་རྫོང་ཨ་སྐྱིད་སེ་ར་དགོན་པ།)の周りをコルラ(右繞)していた。ツォは夫に「自分はちょっとお堂に寄って行くから、先に行っておいて下さい」と告げた。その数分後にツォは境内で焼身した。焼身を目撃した僧侶は「彼女は燃え上がりながら『チベットに自由を!』『ダライ・ラマ法王のご帰還を!』と叫んでいた」という。

ツォの焼身を知った夫と叔父である僧ツルティムは火を消し、まだ生きているツォを僧房に運び込んだ。そして病院に彼女を運び込むために車を用意し、車に乗せたところでツォは息を引き取ったという。

事件後、僧ツルティムは8日間警察により拘束され、焼身の現場を撮影したスマホの写真も削除されたという。夫であるケルサン・ゲルツェンはこれまでに3度尋問のため警察に呼び出されたという。

ソナム・ツォには2人の息子と3人の娘がいた。

ソナム・ツォが焼身抗議を行ったほぼ1ヶ月前の2月29日には、外地インドのデラドゥンで16歳の学生ドルジェ・ツェリンと内地カム、カンゼで18歳の僧ケルサン・ワンドゥが焼身を行い、2人とも死亡している。

ソナム・ツォは内地焼身抗議者の145人目。外地の6人を合わせ2009年以来の焼身抗議者の数はこれで151人になってしまった。

参照:5月6日付RFAチベット語版http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/sonam-tso-self-immolation-2016-05062016114740.html
同英語版http://www.rfa.org/english/news/tibet/mother-05062016131403.html

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2016年03月04日

内地と外地で同じ日に2人のティーンエイジャーが焼身抗議・死亡

チベット人の中国政府に抗議する焼身は昨年8月末を最後に半年間途絶えていた。多くの人がこれでもうチベットの焼身という抵抗運動は終わったのではないかと考え始めていた。しかし、2月29日、2人の若いチベット人が内地と外地で示し合わせたように同じ日に焼身した。今年も3月10日のチベット蜂起記念日を前に内地における締め付けが強まり、チベットの自由への思いが募り始めているのであろう。政治的に敏感な若者が思いを抑えきれず、焼身に走ったと思われる。

北インド、デラデュンで16歳の学生ドルジェ・ツェリンが焼身、3日後に死亡

16a72393-c709-484e-8fce-9db6e53a1e25ドルジェ・ツェリン

2月29日、午前8時半ごろ、デラドゥン近郊ハバートプールにあるチベットキャンプ内、養老院の近くで、ムスリのチベット難民学校の高校1年生ドルジェ・ツェリン(རྡོ་རྗེ་ཚེ་རིང།)、16歳が焼身抗議を行った。近くにいた母親の目の前で彼はガソリンを被り燃え上がった。燃えながら走り、叫ぶ息子を見て母親は火を消そうとし、両手に火傷を負った。

12800305_726180347482357_2647738127404534747_n悲しみの中にあるドルジェ・ツェリンの両親。

周りにいたチベット人たちがなんとか火を消し、最初地元の病院へ運び込んだが、全身95%の火傷を負い、その病院では手に負えないということで6時間かけデリーの病院に運び込まれた。翌日、ユーチューブなどにまだ意識のある彼が焼身の動機などを自ら話しているビデオが広まった。その中で彼は「自分が自らを灯明と化そうと思ったのは、1959年以来チベットが中国に侵略されたままであるからだ。そして、自分はチベットのために何かすべきだという思いを持ち続けてきた。昨日、自分にできる唯一の方法は焼身であると結論したのだった」と語り、さらに「このような行為は聞く人にショックを与えるであろう。この少年が焼身した理由は彼の祖国のためであると知ることで関心を喚起することになるであろう。イギリスやアメリカ、アフリカの人々がチベットのことを知り支援を強化することになるであろう。チベットに自由をダライ・ラマ法王に長寿を」と続けている。

12804646_913522148766434_2911851315789789098_n母親は、「去年の9月、電話で彼が『もし自分がチベットの正義のために焼身を行ったならば、母親は誇りを感じるか?』と聞いてきた。私はそんな考えは捨てるようにと諭した。他にもチベットに奉仕する仕方はいくらでもある。もしも、そのような考えを捨てないなら、自分が自殺する、と脅しさえした。その後、彼はそのことを私に謝った。しかし、同じことを父親にも聞いていた。自分たちはこんな若い息子が本気に焼身などしないと思い、本気にしていなかったのだ」と話しているという。

集中治療が施されたが、3月3日の午前3時ごろ、両親が見守る中で彼は息を引き取った。遺体はダラムサラに運ばれることになっているという。

彼は外地(インド、ネパール)における6人目、今年に入って始めての焼身抗議者となった。

参照:3月1日付Tibet Timesチベット語版
3月3日付RFAチベット語版
その他


カム、カンゼで18歳の僧侶が焼身・死亡 当局は家族に嘘を強要

image層ケルサン・ワンドゥ

同じく29日午後4時ごろ、四川省カンゼチベット族自治州ニャクロン県にあるリツォカ・アールヤリン僧院(དཀར་མཛེས་བོད་རིགས་རང་སྐྱོང་ཁུལ་གྱི་ཉག་རོང་རྫོང་ཁོངས་རི་མཚོ་ཁ་ཨརྱ་གླིང་དགོན་པ།)傍で当僧院の僧侶ケルサン・ワンドゥ(སྐལ་བཟང་དབང་འདུས།)、18歳が「チベットの完全独立を!」と叫び、焼身を行った。周りの人たちが火を消し、近くの病院に運び込んだ。その後さらに成都の病院に運ばれる途中、車中で死亡したという。

彼は父ソタシ、母ウゲン・ドルマの息子。現在遺体は家族の元にあるという。しかし、当局はすぐに家族を拘束し、家族に対し、「焼身は政治的なものではなく、火事による事故である」ということを認める書面にサインするよう強要していると伝えられる。

彼は内地焼身抗議者の144人目。外地の6人を合わせ2009年以来の焼身抗議者の数はこれで150人となった。

参照:3月2日付RFAチベット語版
その他

さらに詳しくチベットの焼身抗議について知りたい人には自著「チベットの焼身抗議 太陽を取り戻すために」を参照していただきたい。



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2015年11月13日

尼僧院を破壊 100人以上追放

image当局に破壊されたチャダ尼僧院。

中国当局はチベットの宗教弾圧の一環として最近自治区内の尼僧院を破壊し、100人以上の尼僧を追放した。

RFA(自由アジア放送)などによれば、9月30日、チベット自治区ナクチュ地区ディル県の役人たちが突然ペカル郷にあるチャダ尼僧院(ནག་ཤོད་འབྲི་རུ་རྫོང་བན་དཀར་༼པད་དཀར་༽ཡུལ་ཚོའི་བྱ་མདའ་དགོན་དཔལ་ལྡན་མཁའ་སྤྱོད་གླིང་།)に押しかけ、106人の尼僧を追放した。当局は追放の理由として「正規の尼僧証明書を持っていない。この尼僧院に割り当てられた尼僧の数を超えている。ダライ・ラマを非難しなかった」ことを挙げているという。追放された尼僧たちの内、遠くから来ていた多くの尼僧は周辺県の責任者に引き渡されそれぞれの家族の下に送られたという。

当局は尼僧を追い出した後、尼僧たちが住んでいた僧坊を壊し始めた。理由として「ここに新しく政府が金をだして、僧坊を建て、尼僧たちのための養老院と学校を建てるためだ」と言っているという。もっとも、チベット人は誰もその話を信じていないという。この尼僧院は500年以上の歴史があるが、壊す前に当局は価値のありそうな仏像やお経をすべて持ち去ったという。ある尼僧は「まるで文革時代のようだ」と表現した。

僧坊が破壊され、居所がなくなった尼僧が付近の民家に宿を借りようとするが、当局は許可なく尼僧を自宅に泊めることも禁止しているという。

一方尼僧院内では連日、ダライ・ラマ法王を非難することを強要する「愛国再教育キャンペーン」が続いているという。

この尼僧院では、去年終わりにも26人の尼僧が追放された。チベット自治区内でもこのディル県を始めとするナクチュ地区は当局の監視と弾圧が一番厳しい地域であり、特に、僧院や尼僧院は常に当局からの嫌がらせを受けている。

参照:11月10日付RFAチベット語版
同英語版
11月10日付Tibet Expressチベット語版

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2015年10月30日

ンガバで再び1人デモ ネットは遮断され続ける

ダラムサラ・キルティ僧院によれば、今月26日、アムド、ンガバ(四川省ンガバ・チャン族自治州ンガバ県ンガバ鎮)の中心街の路上でタシ、31歳が頭頂にダライ・ラマ法王の写真を掲げ「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王をチベットにお迎えすべきだ!」と叫びながら、平和的行進を行った。まもなく、警官隊が駆け寄り、彼は拘束されたという。

タシはンガバ県メウルマ郷第5村の出身。妻ケルペとの間に4人の子供がいる。

ンガバ県一帯では政府関係以外のネットは9月10日以来すべて遮断されたままという。ンガバ県一帯で警官や武警によるチベット人への嫌がらせが続いていると報告される。

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2015年10月05日

15歳の僧侶がンガバで1人デモ/7年後、拷問で健康を害した政治犯が解放される

ロプサン・ジャミヤン
僧ロプサン・ジャミヤン。

15歳の僧侶がンガバで1人デモ

先月辺りから、焼身のメッカであるアムド、ンガバでチベット人による1人デモが連続している。今日(10月5日)、ダラムサラ・キルティ僧院の内地連絡係りである僧ロプサン・イシェと僧カニャク・ツェリンは、新たに9月中にデモを行った3人の消息を明らかにした。

それによれば、9月23日、現地時間午後4時頃、ンガバ・キルティ僧院僧侶ロプサン・ジャミヤン、15歳が、焼身者が多い通りとして地元のチベット人たちから「勇者の道」と名付けられている僧院近くの道から大通りにかけ、「チベットには自由が必要だ!ダライ・ラマ法王をチベットへ!」と叫びながら、歩いた。直ちに警官が駆けつけ、彼はその場で拘束された。その後の消息は不明のままという。

僧ロプサン・ジャミヤンはンガバ県メウルマ郷第二村の出身。父の名はチュペル、母の名はツォモ。幼少時よりキルティ僧院の僧侶という。

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ティンレーとロプサン。

さらに、それ以前の9月10日には、同じくンガバの中心街で、ンガバ県チュゼマ郷ソル村出身の俗人であるティンレーとロプサンと呼ばれる2人のチベット人の若者が、「チベットには自由が必要だ!ダライ・ラマ法王に長寿を!」と叫び、警官に拘束された。彼ら二人の消息も依然不明のままという。

ンガバでは9月10日以来、政府関係以外のネットが全て遮断されたままという。また、路上には普段より大勢の部隊が展開し、厳しい検問が続いている。

参照:10月5日付Tibet Times チベット語版 http://tibettimes.net/རྔ་པའི་ཞི་རྒོལ་བ་གསུམ་/

健康を理由に政治犯が解放される

先の9月30日、甘粛省の刑務所からラキャップというチベット人政治犯が解放された。彼は2008年の春、甘粛省甘南チベット族自治州マチュで反政府デモに参加したとして刑務所に収監されていた。最初2年の刑を受け、その後刑期が終わっても解放されず、さらに3ヶ所の刑務所に送られ、その間に様々な拷問を受けたという。

「彼は肺に関係する健康を理由に解放されたのだ。拘束中に受けた長期に渡る拷問が原因だ」と匿名希望の現地のチベット人は伝える。

逮捕された時には17歳だった彼は今25歳になり、やっと解放された。もっとも、刑務所側も彼に治療を施したが、効果がなく、悪化するばかりなので、刑務所の外に出すことに決定したといわれる。病名は伝わっていない。

「彼の父親は、息子が刑務所で拷問を受けていることを知り、心配が高じ、死んでしまった」と村人はいう。

地元の人々は彼を勇者として熱く迎え入れたという。

参照:10月2日付RFA英語版 http://www.rfa.org/english/news/tibet/freed-10022015162835.html


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2015年09月27日

TYC(チベット青年会議)無期限ハンスト18日目

12032094_896378477147499_3079398458326554422_n昨日17日目の現場。

中国政府がラサでチベット自治区成立50周年式典を行った2日後の9月10日、チベット難民社会最大の独立派組織であるTYC(チベット青年会議)はインドの首都デリーで自らの執行部員3人による無期限ハンストに入った。TYCはチベット問題解決を訴えるために、これまでにもデリー、ジュネーブ、ニューヨークで何度も無期限ハンストを行っている。

今回無期限ハンストを行っているのは会の副議長であるタムディン・リチュ、会計長のテンジン・ワンチュク、情報外務長のツェワン・ドルマの3人である。彼らは水以外の飲食を取らず、無期限(死をかけた)ハンストに入っている。今日(9月27日)で18日目である。RFAによれば、3人とも体重減少が顕著だが、特に容態の変化ということもなく、普通に来客に対応しているという。

12036803_895165187268828_4180781007584916443_nこの無期限ハンストの目的は一般的にはチベット内地の状況に世界の目を向けさせことと、内地の同胞たちへの連帯を示すためであるが、今回、特に彼らは国連に対し以下の5項目の要請を行っている。
1、国連総会及び人権委員会においてチベット問題について論議すること。
2、中国に対しチベットの焼身抗議者の訴えに耳を傾けるよう求めること。
3、中国に対しパンチェン・ラマ11世ゲンドゥン・チュキ・ニマ生存の証拠を求めること。
4、チベットの危機的状況を調査するために国連の調査官を派遣すること。
5、中国に対し全ての政治犯を解放するよう求めること。

「チベットの内外で149人ものチベット人が焼身抗議を行ったにもかかわらず、中国政府は彼らの望みを無視し続け、さらなる暴力的言語弾圧を行っている」とTYCはいい、「この死のハンストは、国連や世界のリーダーたちがチベット問題に関心を示さないことに対する絶望感を表明する行動である」と続ける。

TYCは1980年代からこの「死のハンスト」を始めている。そのころTYCの議長を務めていたラッサン・ツェリン氏は私にかつて悔しそうな顔をして以下のような話をしていた。「ハンストをして人が死ななきゃいけないのだ。人が死ななきゃニュースにならないのだ。チベットのために死ぬ覚悟のあるやつはたくさんいる。だのに、誰かが死にそうになると、いつもダライ・ラマ法王がこれを中止させるのだ」と。

b8e5c1a7トゥプテン・ンゴドゥップ。

この「死のハンスト」でどうしても思い出すのは、1998年4月27日にトゥプテン・ンゴドゥップという60歳になるチベット人が焼身を行い、死亡したということである。この焼身がチベット人による最初の焼身抗議であった。この時、酷暑のデリーで、8人のチベット人がほぼ50日間、水のみで生きるという奇跡的ハンストを行っていた。数人が死の兆候を示し始めたことと、そのころ中国の誰だったか偉いさんがデリーに来ると言うので、インド警察は彼らを強制的に病院に運び込もうとした。機動隊が強制排除を始めたその時、次のハンストのメンバーとして現場に待機していた、トゥプテン・ンゴドゥップ氏は自らの体にガソリンをかけ、火を付けたのだ。その時の映像は世界中に流された。彼は大きな炎に包まれながらも、合唱し、走りながら、法王への帰依とチベット独立への思いを倒れるまで叫び続けたのだった。

12009649_895983763853637_1148513466739163460_nツェワン・ドルマ。

今回はTYC執行部のメンバーが自ら行っているが、このようなことは始めてと思われる。この中、唯一の女性であるツェワン・ドルマを私は10年以上前から知っている。彼女はカトマンドゥにあるジャワラケル難民キャンプの出身であり、長くTYCのカトマンドゥ支部で働いていた。カトマンドゥに行った時よくあっていた。華奢な体であるが、本当に芯の強い、まっすぐな性格の女性である。カトマンドゥでチベット人たちがデモを行う時には常に先頭を行き、何度も拘束されていた。もともと痩せているので長く持たないのではないかと心配する。

場所はニューデリーの中心であるコンノート広場のそばにあるジャンタール・マンタール(ムガール時代の天体観測所)というところである。デリーに行かれる人は、彼らを訪問し労い、励してあげてほしい。

参照:9月10日付Phayul
9月25日付RFAチベット語版

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2015年09月10日

再びンガバで僧侶が1人デモ 

8094f905-a2e1-4536-9cc8-a668cbf16245デモを行った僧ジャンペル・ギャンツォ。

RFA(ラジオ自由アジア)などによれば、昨日(9月9日)現地時間正午頃、アムド、ンガバ(རྔ་བ་རྫོང་རྔ་པ། 四川省阿壩藏族羌族自治州阿壩県阿壩鎮)中心街の路上でンガバ・キルティ僧院僧侶ジャンペル・ギャンツォ、21歳が頭頂にダライ・ラマ法王の写真を掲げながら、「チベットには自由が必要だ!ダライ・ラマ法王に長寿を!」と叫びながら行進した。

間もなく現れた警官隊により、彼は拘束され連行された。これを目撃した多くのチベット人たちがチベット独特の雄叫びを上げ、彼に支援の意を示すとともに、荒々しく拘束する警官たちに対しては抗議の意を示したという。

「彼は行進を行いながら、中国政府のチベット政策に抗議するスローガンを叫んだのだ」と地元の人はいう。

彼を拘束したのち、警官が彼の僧坊に入り捜査を行ったという。

僧ジャンペル・ギャンツォはンガバ県メウルマ郷第3村の出身。父の名はスルヤ、母の名はタレ・キ、男2人、女1人兄弟の内の末っ子。幼少時よりンガバ・キルティ僧院の僧侶であった。

ンガバ県では先月20日に若い女性であるドルジェ・ドルマが、また前々日の7日には僧ロプサン・ケルサンが同様のデモを行い拘束されている。

チベット自治区のラサでは8日に「自治区成立50周年記念式典」が行われ、チベット族居住区一帯で警戒が強化されている。「記念式典」への抗議の意味もむくまれていると思われる。


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2015年09月08日

ンガバで僧侶が1人デモ ビデオが伝わる

Tibetan Monk Arrested after Shouting Free Tibet Slogan in Ngaw...

Tibetan Monk Arrested after Shouting Free Tibet Slogan in Ngawa Tibet གྲྭ་བློ་བཟང་སྐལ་བཟང་གིས་བོད་ལ་རང་དབང་དགོས་པའི་སྐད་འབོད་བྱས་རྗེས་འཛིན་བཟུང་བྱས་འདུགVenerable Losang Yeshe, Tibet News Coordinator of Ngawa Monastery in Dharamsala, Northern India tells VOA's Tibetan Service that around 3:00pm Tibet time, 19 year old Lobsang Kalsang of Kirti Monastery shouted 'Free Tibet' and called for the long live of the Dalai Lama on the main street of Ngawa.According to sources, within minutes of the solo protest, Kalsang was arrested by the previously deployed security personals and forced inside a police truck.

Posted by VOA TIBETAN on 2015年9月7日
 

ダラムサラ・キルティ僧院の内地情報係によれば、昨日、9月7日、現地時間午後3時ごろ、アムド、ンガバ(四川省ンガバチベット族チャン族自治州ンガバ県ンガバ)中心街の路上でンガバ・キルティ僧院僧侶ロプサン・ケルサン(བློ་བཟང་སྐལ་བཟང་། )、19歳がダライ・ラマ法王の写真を掲げながら、「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王に長寿を!」と叫びながら行進し、間もなく、警戒中の警察官に取り押さえられ派出所に連行されたという。

彼の1人デモを撮影したビデオが、今のところ4種類伝わっている。ここに掲載したものはこの4つのビデオをVOA(ボイスオブアメリカ)がまとめたものである。最初のシーンでは僧ロプサン・ケルサンが頭頂にダライ・ラマ法王の写真を掲げながら道を進む姿が映されている。2番目のビデオでは彼を大勢の警官が取り囲み、荒々しく拘束する様子が映っている。周りからチベット人たちの叫び声が聞こえるが、これは警官に対する精一杯の抗議を表している。3番目のビデオはビルの上の方から彼が連行された公安派出所付近の様子を撮ったもの。「ダライ・ラマ法王よ思し召しあれ。ダライ・ラマ法王のご加護がありますように」という女性の声が入っている。4番目は彼が連行された公安派出所の前にチベット人たちが集まり、抗議の叫び声を上げている様子が映っている。この後を写したと思われる写真も伝わっているが、そこにはこの後もっと大勢のチベット人が集まっている様子が映っている。同胞の思いを代表し、逮捕・拷問・刑を覚悟で声を上げた勇気ある僧侶に対し、周りのチベット人たちは奇声(雄叫び)をあげることと、撮影したビデオを発信することしかできないのである。

最近、チベットの各地で同様の「1人デモ」が続いている。集団でデモを行えば発砲される。世界に訴えるために命を捨てる焼身も効果が見えない。抵抗の意思を示すためにはもうこのような「1人デモ」しか残っていないかのように見える。

僧ロプサン・ケルサンはンガバ県メウルマ郷第2村の出身。父の名はツェリン・テンコ、母の名はラ・キ。4人兄弟の2人目。幼少時よりンガバ・キルティ僧院の僧侶という。昨年、彼と同じ僧坊にいた、母を同じくする兄弟の僧ロプサン・テンパが、同じくンガバの路上で1人デモを行い2年の刑を受けている。2008年には彼の叔父である、ツェダックとチュペルがそれぞれ6年と4年の刑を受けている。彼の親族がこれまでに3人、声を上げたことで刑を受けている。

その他、周りで声を上げたチベット人が1人拘束されたという情報があるが、名前などの詳細は今の所分かっていない。



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2015年09月01日

僧ジャミヤン・ジンパ「叔母である勇女タシ・キの焼身を知り」

11947505_875087929249052_4387955422568969540_n27日に焼身したタシ・キ(右)と中央に以下の文を綴った僧ジャミヤン・ジンパ、左はタシ・キの夫であるサンゲと思われる。タシ・キたちがダラムサラに来た時に撮影されたものという。

映画『ルンタ』の中に登場し、2008年にラプラン・タシキル僧院で真実を訴えるために外国メディアの前に飛び出したときの心境を語っているジャミヤン・ジンパは27日に焼身し、翌日死亡したタシ・キの甥にあたるという。2012年には彼の弟であるサンゲ・タシも焼身している。

今回、叔母であるタシ・キの焼身のニュースを聞き、ジャミヤン・ジンパは自身のフェースブック上に彼女の思い出を綴っている。

以下、その日本語訳である。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

11949346_875087892582389_8728119286609304430_n昨日27日、中国政府の度を越した弾圧に対し、焼身という非暴力の手段により抗議した、私の叔母である愛国勇女タシ・キについてである。彼女はアムド、ラプラン(甘粛省甘南チベット族自治州夏河県)サンコク郷にあるグルラ村(མདོ་སྨད་བླ་བྲང་བསང་ཁོག་དངུལ་རྭ།)と呼ばれる牧民地帯の出身である。今年55歳になる。母親はすでに死亡しているが、80歳になる父親がいる。夫の名前はサンゲ。2人の間に息子4人と娘1人がいる。息子4人の内ツォンドゥ・ギャンツォ、サンゲ・ギャンツォ、ケルサン・ギャンツォの3人は僧侶である。もう1人の息子の名前はユンテン・ギャンツォ、娘の名前はクンサン・キという。

経済的には恵まれており、ラプラン・タシキル僧院近くに立派な3階建ての建物とサンコク郷のチベット人街に一軒、さらに「中国の新牧民村」と呼ばれるところにも一軒の家を所有していた。彼女が焼身した場所はチベット人街にある「赤い家」と呼ばれる家の中である。そこはラプラン・タシキル僧院から10キロほどの場所である。遺体は中国の部隊により運び去られたという。その他、メディアで伝えられていることもあるが確認することができないので、これ以上、今、状況について書くことはできない。

彼女は正直であり、高貴で、非常に優しい性格の人であった。特に善を積むことに熱心であり、満月ごとに断食を行い、菜食を続け、五体投地によるコルラ(右繞)も行っていた。これらの善業をダライ・ラマをはじめとするラマたちの長寿と彼らの望みが叶えられることへと回向していた。チベット語への関心も高く、自習により立派なチベット語を書けるようになっていた。村人たちは私と叔母が特に仲が良かったことを知っていた。

これまでに許可証を取り、2度インドに来ている。何れもダライ・ラマ法王にお会いし、教えを受けるためであった。常に法王のお言葉にためらうことなく従っておられた。法王のお名前を聞くだけで、自然に両手を合わせ祈っておられた。2度目のインドは2012年のカーラチャクラ法要に参加するためであった。この時は法王の法要や法話に参加するだけでなく、亡命政府指導者たちの講演会にも参加していた。このような時には私が彼女に通訳を行い、できる限りの解説も行った。彼女はその他、法王のかつての法話をできるだけ知ろうとつとめ、他のチベット人たちの活動についても知ろうと努めていた。彼女は自分の第2の母のようであり、故郷でも2つの家族は1つのようであった。

今日、彼女が焼身したと報じられても、私は信じることができず、呆然としている。長年親しんできた身内の人が亡くなったと知ることは耐え難いことである。これは、愛する弟であるサンゲ・タシが焼身したと知った時と同じく受け入れ難いことである。叔母がインドから旅立つ時、私は特別に悲しく涙が止まらなかったことを思い出す。それは、二度と会えなくなるという印だったのかと今は思う。その時は、「近い将来チベット人が自由になった暁には故郷に帰り、叔母の望み通り、法王の教えをみんなに紹介、解説しよう」と大きなことを言ったが、そんなこともいまとなっては、ただの夢となってしまった。

2015年8月28日 ジャミヤン・ジンパ

原文:https://www.facebook.com/jamyang.jinpa.58/posts/875087712582407

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2015年08月28日

<速報>新たにアムド、サンチュで女性が焼身・死亡 内地143人目

Untitled-132_2095焼身・死亡したタシ・キ。

8月28日付けチベットタイムスなどによれば、昨日27日の夜、アムド、サンチュ県(甘粛省甘南チベット族自治州夏河県)サンコク郷でタシ・キと呼ばれる女性が焼身抗議を行った。

「目撃したチベット人たちが命を救おうと火を消したが、夜中の(今朝)3時頃死亡した」と現地から伝えられ、さらに「夜明け頃に警官隊と軍隊が大勢遺族の家に押しかけ、遺体は奪いされれた」と言われる。

タシ・キはサンコク郷グルラ村の出身。その他、年齢や家族構成などの詳細はまだ伝わっていない。

内地焼身抗議者143人目。内外合わせ148人目。この内124人が死亡している。
今年に入り7人目。

新たな情報が入り次第、続報をお伝えする。

参照:8月28日付けTibet Times チベット語版
8月28日付けTibet Express 英語版

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<続報>タシ・キは55歳、5人の子供の母親 自宅を壊されたことも焼身の原因か?

その後、伝えられた情報によれば、タシ・キが焼身した8月27日、サンコク郷グルラ村に部隊と役人約150人が押しかけ、正式な書類がないことを理由に彼女の家と思われる一軒の家屋をブルドーザーを使い完全に破壊したという。

この際、村人が大勢集まり、ブルドーザーにしがみつくなどして抵抗したが叶わず、抵抗した家の持ち主は連行されたという。この後、タシ・キが焼身したことなどから、彼女の焼身の直接の原因は家を取り壊されたことによるのではないかと推測される。

もっとも、地元のチベット人たちは「中国当局のチベット弾圧政策が彼女の焼身の主な原因だ」と主張しているという。

タシ・キの年齢は55歳、5人の子供がいたという。

参照:8月28日付けRFA英語版
同チベット語版
8月29日付けVOA英語版

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2015年08月02日

映画『ルンタ』補足編、最終回:焼身者ツェリン・キをよく知る夫婦へのインタビュー、下

9aedea00焼身した女子中学生ツェリン・キ。

ツェリン・キは焼身の前々夜と前夜、母親と話し続けたという。そしてその日の朝には父親から焼身用のガソリン代にするつもりだったと思われる500元をもらい、「もう会えないかも知れない。お嫁に行ってもいい? さよなら」と言ったという。決意の心を隠しながら、悲しくも、最後に女の子らしい冗談を残し、焼身抗議を実行し、亡くなった。

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焼身の前々夜、前夜、早朝/「もう会えないかも知れない。お嫁に行ってもいい? さよなら」

夫:彼女が焼身する前、2日間、夜は母親と一緒に過ごしたそうです。
妻:一緒に寝たそうです。母親とずっとしゃべっていて、全く寝なくて困るぐらいだったと。
夫:一晩中眠らなかったそうです。
妻:ツェリン・キがおしゃべりしようとずっというので、母親が「そんなのじゃ眠れないわ」と言ったら、「お母さんとおしゃべりがしたいの」と言って眠らせてくれなかったそうです。

ー どんな話をしたのでしょうか?

妻:「どんな話でもいいからおしゃべりし続けよう」って。
夫:最後は「楽しかった」と言ったそうです。「楽しい夜だった」と言ったそうです。
妻:2晩母親と一緒に寝て、「ずっとおしゃべりをして、楽しかった」と母親に言ったそうです。「お母さんと過ごせて楽しかった」と。それからお母さん「心配しないで」と言ってそうです。「私は幸せだから心配しないで、何の苦労もない」と。「私は学校に戻るけど、元気でね」と。それで、お父さんに「五百元ください」といい、お父さんがお金を渡すと「これを持ってお嫁に行ったらもうお母さんには会えないかも知れないね」と言ったそうです。母親は「あなたが勉強しないでお嫁に行くって言うなら勝手にすればいい」と言ったそうです。最後に「冗談よ、お嫁になんか行くわけないでしょ」と。「この五百元で新しい服を買って学校に行くのよ」と言ったそうです。

ー 彼女がいつ焼身を決意したかは分かりませんが、お母さんと話をしたときにはすでに決意していたということですかね?

妻:もう決めていたでしょう。その朝、「もう会えないかも知れない。お嫁に行ってもいい? さよなら」と言ったそうです。お母さんは怒った顔をしますよね、でも冗談だと思ってたそうです。そのお金で「新しい服を着て学校へ行く」とも言ってたそうです。父親はお金を渡したそうです。それと、「この世には意味がない」と言ってたそうです。この世に生きていても意味はないと。母親はそんなことはないと叱ると、「冗談よ」と言ったそうです。
夫:お母さんには心の中の計画は言えなかったのでしょう。
妻:「お母さんは心配性だし、勇気もないのね。でも、心配することは何もないわ、勉強もできるし、先生も優しいし、外を歩いても優しい友達がたくさんいる。だから心配しないで」と出発前に言ったそうです。
夫:お母さんを安心させようとしたのでしょう。
妻:出発前にお正月だったので、家でシャパレ(揚げ肉パン)をたくさん作っていたそうです。ツェリン・キが休み明けに学校へ行くときにはいつもシャパレを持たせていたそうですが、そのとき彼女は持って行かないから私のは作らなくていいと言ったそうです。「いつも持って行くのにどうして持って行かないの?」と母親が聞くと、「みんながお正月の間にたくさん食べればいい。お正月を楽しく過ごしてね。私は今回はいらないわ」と言ったそうです。


ー 焼身の日の前夜、マチュにいる親戚の家に一晩泊まったのでしたよね。

妻:母親の兄弟の家に泊まりました。

ー それで、当日の朝、学校へ行って、、、いや、学校へは行かずに、、、

妻:学校へは行きませんでした。親戚の人が学校の門のところまでバイクで送って行ったそうです。「ここで下ろして」と行って、学校の前で下りたけれど、学校には入らず焼身しに行ったようです。
夫:学校にその日彼女の出席の記録がなかったそうです。
妻:母親は夜の12時ぐらいまで知らなかったそうです。母親は携帯電話を持ってなかったから。親戚の中には誰かから聞いて知っていた人もいるらしいのですが、母親には言えなかったらしいです。その夜、ツェリン・キの弟が眠れない、眠れないと言って、叱っても寝なくて遅くまで起きてたそうです。それで、夜中の12時頃、父親が数人の親戚と共に家に帰り、ツェリン・キが焼身したと告げたのです。
夫:「娘は決心していたのでしょう」と言ったそうです。
妻:焼身のことは両親にも、同級生にも誰にも話していなかった。母親は「もう何も言うべきじゃない」、「娘が決意したことをやったのだろうから、何も言うことはない」と言ったそうです。

ー ツェリン・キには学校で仲のいい友達はいたのでしょうか?

妻:いたでしょう。でも母親は知らないようです。女の子は何でも母親に打ち明けるでしょ? 男の子たちは父親に話をしますよね。女の子たちは心の中にあることはたいてい母親に話しますよね。父親には話さないで。

ー ボーイフレンド、恋人とか、いなかったのでしょうか?

夫:それは分かりません。

ー 中国は、ツェリン・キの焼身の原因は頭を強く打って、それからおかしくなっていたからだと発表したようですが。

妻:そんなことは全く嘘です。2晩母親と過ごしてずっと話をしているのです。成績もすごく優秀だったので学校で旅行にも連れて行ってもらいました。それは本当に楽しかったと言ってたと。「兄弟の中で旅行なんて行ったことがあるのは私だけでしょ」と得意になっていたそうです。勉強もできて、優しい両親もいて辛いことなど何もない、本当に幸せだと言ってたそうです。ただ、悲しいことが一つだけあって、それはラサに行けなかったことだと言ってたのです。

ー どうしてツェリン・キはそんなにラサに行きたがっていたのでしょうか?

妻:死ぬ前に一度ラサに巡礼に行って、ジョカンのご本尊を拝みたかったと思ったのじゃないかしら? 死ぬつもりじゃなかったら、将来仕事してお金を貯めて、いつでも自分で行くこともできるわけだし。死ぬ前にラサに巡礼に行けたらいいと思ったのだと思います。
夫:ジョカンにお参りに行きたかったのでしょう。
妻:チベット人にとってはラサへの巡礼は特別なものですから、ジョカンのご本尊をお参りするのは。

ー ツェリン・キは仏教には関心があったのでしょうか?

妻:それは分かりません。あったんじゃないかと思いますよ。そうでもなければ死ぬ前にラサ巡礼に行きたいなどと思わないでしょう。
夫:信心はあったと思いますよ。
妻:信心はありますよ。
夫:仏教を学んだかどうかはわかりません。

ー ダライ・ラマ法王とか、チベット亡命政府とか、チベット問題とかについてや、例えばどこかで焼身があったとか、そういうニュースはチベットの田舎まで伝わっているものでしょうか?

夫:伝わっているでしょう。
妻:入っているでしょう。
夫:まず、関心のある人の耳に入り、それが周りに伝わります。

ー では、ツェリン・キはそれ以前に焼身した人たちのことは知っていたのでしょうか?

夫:彼女は知っていたそうです。「ンガバとか、チベットで自分の命を犠牲にしている人たちがいる。自分たちはこのままじっとしているわけにはいかない。チベット民族のために何かしなければ、何もせずに生きているだけで、大事なことをしなかったら、生きている意味はない」そのように言ってたそうです。
妻:母親にそういうことを言ってたそうです。そう言うので、母親は叱ったそうです。生きていて意味がないなら何をしたらいいのと叱ったそうです。そうしたら、「冗談よ」と言ったと。
夫:他に父親の兄弟の嫁さんにも言ったそうです。「チベットのあちこちで民族のために命を人々が焼身している。私たちもこうしてはいられない。チベットの民族が苦境にある今、このままでは将来もっと苦しくなるのに、何もせずにいるだけでは生きている意味がない」と言ったそうです。

ー そのように考えるチベット人は少なからずいると思われますが、でも焼身を本当に決意する人は稀でしょう。ツェリン・キがそこまで決意するに至った原因というか動機は何だったと思われますか?

夫:分かりませんね。側にいたわけではないので。同級生には何か話していたかも知れませんね。友達には何か言ってたんじゃないでしょうか。手紙を書いていたらしいのですが、伝わっていません。

ー 焼身者はみんなチベット民族としての誇りを持ち、民族の将来を案じた人たちですよね。

夫:外国からの放送がどれだけ伝わっているかは分かりませんが、みんな状況は分かっていたと思います。焼身のことは当然知ってたでしょう。
妻:そうだと思います。
夫:すぐに電話で、、、
妻:すぐに電話で情報が入ります。焼身があればその日に電話で伝わります。

ー ツェリン・キが焼身した後、彼女の遺体は家族に引き渡されたのですか?

夫:その日遺体は家族に渡されていません。警官が持ち去ったのです。野菜市場には中国人が多いでしょ。門を閉めて、野菜売りの中国人たちが警官を助けたと聞きました。市場の中国人たちに前もって警察から指示があったのでしょう。焼身があったらすぐにこうしろと。中国人たちが燃えるツェリン・キに石を投げ押さえつけて、警察に電話したのです。それで、警官が来て、持ち去ったのです。その翌々日に警察から電話があって「取りに来い」と。遺体を引き渡してほしかったら誰にも言うな、すぐに焼けと。腹部に手術の跡があったと。開腹してあったと聞きました。
妻:父親が引き取りに行ったのです。その時、腹部が縫合してあるのに気づいたそうです。警察は「病気があったかどうか調べたのだ」と言ったそうです。


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2015年07月30日

映画『ルンタ』補足編:焼身者ツェリン・キをよく知る夫婦へのインタビュー、中

9aedea00昨日の続き。

焼身したツェリン・キは、子供の頃から歌が上手で、人前でもよく歌っていたという。学校の休みに家に帰ったときには、遊牧の仕事を手伝っていた。学校ではよく勉強ができ賞も貰っていた。チベット語が大事だと、お母さんにもチベット語を教えていた。学校でチベット語擁護のデモが起こると、それに参加していた。


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ー ツェリン・キは放牧に行くのが好きだったそうですね。

妻:ええ、喜んで行ってました。家に戻るとお母さんに「今日はお母さん休んでて」と言い、普段仕事がたくさんある姉にも「今日は私がやるわ」と言って嬉しそうに仕事をしていたそうです。牧畜の仕事でも、外へ行く用事でも、何でも喜んでやっていました。女性が行う牧畜の仕事は、乳搾りから始まって、糞集め、集めた糞を広げて乾かすというのがあります。ヤクや羊の放牧、水汲みなどもです。お母さんやお年寄りが重い荷物を持つのを見ればすぐに「私が持つわ」と言うのです。誰でも、大変そうな人がいればよく手伝ってあげてたそうです。
夫:彼女は歌を歌うのが好きだったんだよね?
妻:歌は大好きでした。ツェリン・キ、歌を歌ってよと言われるとすぐ得意になって歌ったのです。遊牧民の歌を歌うのです。伝統的な歌が大好きでした。
夫:チベットの民謡ですね。最近の歌、ポップスじゃなくて、伝統的な歌が大好きだったそうです。
妻:いつも歌ってたそうです。放牧に行くときにもいつも歌を歌いながら行ってたと。
私:人が集まる時に、彼女が歌がうまいということで、呼ばれて歌うということはなかったのですか?
妻:そう、頼まれて外で歌うということもありました。お金を取るような場所でじゃないですが。声がいいので恥ずかしがることもなく人前でも歌っていました。すごくいい声でした。小さいころから。

ー 彼女はマチュの学校に進学しましたよね?田舎からマチュの街までどれくらいかかるのですか?

妻:夏の牧草地からどれほどかかるか分かりませんが、冬の家からならバイクで1時間ぐらいでしょうか?飛ばせば1時間ぐらいで行けますが、ゆっくりだと2時間かかるかも知れません。

ー 寮生活だったのですか?

妻:そうです。寮生活です。
夫:学校は全寮制です。

ー 学生はチベット人だけですか?

夫:そうです。チベット人の学校です。一般的な学校なら他の民族もいますが、チベット民族中学なので、チベット人だけです。

ー 学生は何人ぐらいいるのでしょう?

夫:2千人ぐらいいるかも知れない。千人以上いることは確かでしょう。民族中学校には中等中学と高等中学とがあって、それぞれ3年間の課程です。大学に入る前です。小学校は6年制で、7歳になったら小学校に行くというのが普通です。牧民なら8歳でしょうか。それから6年間勉強したら14歳です。だから民族中学には下は12歳から上は20歳ぐらいの学生がいるということです。

ー ツェリン・キは少し遅れて学校に入ったので年齢は高めですよね。

夫;そうですね。彼女はなかなか学校に行かせてもらえなくて、遅れてやっと入れたのです。9歳か、いや10歳だったかな?そこから6年間小学校で勉強して、16歳で卒業して中学校へ行ったのでしょう。

ー ツェリン・キが焼身したとき19歳だったという話ですよね。すると、中学3年生だったということでしょうか?

夫:ええ、中等中学の3年生だったのです。

ー 計算が合いますね。10歳で小学校に入ったのですね。

妻:普通は遊牧民でも7歳とか8歳で学校にやるんですがね。

ー この中学は2010年から何度もデモをやりましたよね。色んな学校でデモが行われたようですが、なぜこの学校で特に繰り返しデモが行われたと思いますか?

夫:それはチベット語に関するデモです。まず青海省で始まりました。レコンで始まり、チャプチャでもデモがあり、ゴロでもデモが行われました。2010年の9月に北京の中央政府が教育に関する10年計画を発表しました。その中の11番目の項目が、少数民族の教育に関する2010年から2020年までの計画だったんですね。どんな計画かというと、漢語を強化するような教育内容だったのです。
私:チベット語を抹殺するというような計画だったのですか?
夫:抹殺するとは書かれていません。表立ってはね。裏では、、、表には出て来ないんです。チベット語を減らすという考えなんです。青海ではチベット語を減らすことについて学生自身で考えてデモをやったのです。彼らも分かっていたんです。中央からチベット語を抹殺するような政策が出て、学生たちはそれに対して立ち上がる、そういう状況だったんです。
私:学生たちが立ち上がったとき、ツェリン・キも、
夫:参加したそうです。何度か。ある時、彼女は2冊の本を買って母親に渡したそうです。お母さんと兄弟のためだと言って。それはチベット語を勉強するための本だったのです。チベット語を学ばねばならないと言ってね。母親はチベット語が読めないのです。それで彼女がチベット語の読み方を教えてくれたんだそうです。チベット人ならチベット語をしっかり学ばないといけないと力説していたそうです。母親にも本を渡し、兄弟にも渡したんです。それで彼女に教わったんです。集落の他の人たちにもチベット語をしっかり勉強するべきだといつも語っていたそうです。彼女自身もたくさん文章を書いていたそうです。

ー おお、そうなんですか!

夫:家には彼女が書いたものがいくつか残っていると。何について書いてあったと言ってたかな? ラサに行けなかったことを悔しがるというのもあったらしいです。
妻:村で自分だけが学校に行かせてもらって、両親に助けてもらって、何の辛いこともないと書いてたそうです。でも、学校でいい成績をとって、その褒美に、いろいろ旅行に連れて行ってくれたけど、ラサには行けなかったので、それが悲しいと言ってたそうです。それで、ラサにいけなかったことを文章にもしたのでしょう。それから、両親の愛情と言語について書いてたと。
夫:チベット語をきちんと学ぶべきだということについても書いていたそうです。

ー チベット語を学ぶべきだという文章を残していたと。そのように強く思うようになったのはどうしてでしょう?このままだと消されてしまうと思ったからでしょうか?

妻:彼女はいつもチベット語を発展させないといけないと言ってたそうです。どうしてでしょうかね? チベット人のチベット語が中国語と混じって乱れているから、それはよくないということでしょうか。
夫:中国によってチベット文化が危機に晒されているのです。それを知ったチベット人は思うのです。チベット文化を守るためにはチベット語を守らないといけないのだと。チベット語が死ななければチベット民族は死なないのだと。中国人はチベット人を信用していません。中国はチベット語の力を弱めようとしています。いつかチベットの子供たちはみな中国人になってしまうのです。物の見方も考え方も中国人になってしまうと思っているのです。彼らがどんな話をしているのかというと、マルクスが、、、いや確かスターリンが言った言葉だそうですが、「1つの民族を抹殺するには、その言語を抹殺すればいい、民族は死ぬ」と。彼は経験上分かっていたのでしょう。だから、言語が保たれ、発展すれば、民族は保たれる、文化も保たれる、民族の調和も失われない、とチベット人はみんなそう考えているのです。今のチベットの若い人たちはみんなチベット語を守らなければ、チベット民族は死に至ると思っているのです。

ー そのような認識は2008年以降生まれたものですか?

夫:2008年からではありません。もっと前からです。もっと前からそのような共通の認識はありましたが、2010年から特に顕著化しました。言語を守ろうとか、民族の誇りという主張は、2008年の時点でもすでに強く言われていました。2008年というのは中間点のような位置づけです。

ー 民族意識が強くなっていると思われますか?

夫:そうだと思います。なぜかというと、中国では共産党が大きな影響を持っていますが、共産党は人民を利用するために、ナショナリズムを使いますよね。例えば日本が、日本がと言うでしょう。人民はバカでしょ、中華民族だ、中華民族だと繰り返され、チベット人は疎外されて行くのです。1つには、偉大な中華民族、偉大な中華民族と繰り返されると、チベット族や他の民族は「我々だって1つの民族だ」というようになり、ナショナリズム高揚の間接的影響を受けるようになったということでしょう。もう1つには、最近経済が発展し、食べ物もあるし、生活状態がよくなって、ものを考える余裕ができてきたのです。昔と違って今では、質素だが食べ物や着る物はあります。こうなると人は考え始めるのです。頭を使って考えて理解しないといけないのです。自然に主張は強くなってきます。

ー ツェリン・キが2012年、冬休み開けに焼身しましたが、その理由の1つとして新学期が始まったら突然教科書がすべて中国語になっていたからということが伝えられていますが、そのようなことはあったのでしょうか?

妻:そういう話は知りません。お母さんは彼女の本がたくさんあったと言ってましたが、そのようなことが理由だったとは聞いていません。
夫:彼らはデモをしましたが、その責任を取らされて、生徒たちが信頼し尊敬していた校長と学生に人気が高かった1人の教師が免職になったのです。校長は詩人でして、若い詩人で、とても有名なマチュの若い詩人、作家なのです。教師の方はダムニェン(チベット式三味線)の引き語りがうまいし、こちらも有名でした。この2人は考え方もしっかりしていたそうです。子供たちにも優しかったのです。この2人に対し当局が「お前たちの管理不行き届きのせいで学生たちがデモをしたのだ」といって、校長は降格になり、教師の方は水力発電関連の役所に異動させられたのです。この2人が辞めさせられて、学生たちは非常に悲しい思いをしたそうです。私はこれが動機の1つだったのではないかと思っています。

続く。


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