2014年10月01日

ディル:五星紅旗を燃やした容疑で6人の僧侶拘束

392ディル県ワタン・ドングル僧院。

今日10月1日は中国の国慶節。分裂主義者毛沢東が中国共産党というテロリスト集団を組織し、日本のお陰で国民党との闘いに勝利し、1949年10月1日に天安門広場にて中華人民共和国の成立を宣言したことに由来する。中国共産党にとって一年で一番大事な記念日だ。ご存知のように、香港では何万人もの学生と市民が真の民主化を求め、路上占拠デモを続けている。今後、世界と北京政府の反応が注目される。

この日、中国中が共産党の五星紅旗で溢れる。チベットやウイグルでもこの赤い旗を各家庭や各事務所の屋上に掲げる事が強制されたことであろう。チベットの場合、普段でも学校には間違いなく中央にこの赤い旗が掲げられている。僧院の場合は、地区によりばらつきがあるようだ。カムやアムドではほとんどの僧院が掲げていない。チベット自治区はカム、アムドに比べすべてにおいて管理がより厳しく僧院もこの旗を掲げさせられているところが多いようだ。

特にナクチュ地区ディル県では去年、当局がこの五星紅旗を強制的に村人たちに掲げさせようとしたことから衝突が起こり、これまでに多くの死傷者を出し、1000人以上が拘束され、大勢が長期刑を受けている。

10月1日付けTibet Timesによれば、9月初めチベット自治区ナクチュ地区ディル県ワタン・ドングル僧院の僧侶6人が僧院に掲げてあった五星紅旗を引き下ろし、燃やしたとの嫌疑で連行された。現在当僧院と周辺の村には大勢の部隊が配備され、厳重な警戒下におかれているという。

拘束された6人の僧侶の氏名については今のところ、内2人の両親の名前が分かっているだけという。どこの拘置所に入れられているかも不明。

彼らが所属するワタン・ドングル僧院はカギュ派の由緒ある僧院である。1258年、第1世ドングル・チュゼ、ギェワ・ガンパ・リンチェン・ウーセル師により創建された。1969年、僧院は共産党により完全に破壊された。それだけではなく僧院のラマである、第15世ドングル・チュゼ、テンジン・ドドゥル師をディル騒乱の扇動者として逮捕し、1970年にディルで処刑した。1980年から僧院は再建された。

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2014年09月29日

ウーセル・ブログ:特権を享受する「太陽の都ウオーク」

今年の冬、1月12日、中国のスター集団が1500人余りを引き連れ、「歩くことの力 太陽の都ウオーク」と題し、チベットの首都ラサを闊歩した。この官製イベントは役人により「心の公益プロジェクト」とも呼ばれた。

このイベントに対し、ネット上でチベット人たちは「もし僕らが10人以上でこんな風にラサを歩いたら、どんなことになる?」「特殊警察や武装警察が出動するだろう」とつぶやいた。

ウーセルさんはこのイベントを中国のチベット植民地化の象徴と見て、「今日のラサの残酷で皮肉に満ちた現状を『太陽の都ウオーク』よりもはっきり見せつけるものはない。売れっ子スターたちはチベット仏教の『心の修行』にかこつけて個人のイメージを飾り繕っただけではなく、あしき『チベット政策』の美化を手伝い、チベットの至る所で心の修行が本質的に圧迫されている真相を覆い隠した。そして、チベットが依然『アパルトヘイト』にあるという真の現状をかえって別の角度からはっきりと浮かび上がらせた。」と断じる。

原文:2014年2月5日付けウーセル・ブログ 唯色:享受特权的“行走日光城”
翻訳:@yuntaitaiさん
◎特権を享受する「太陽の都ウオーク

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(写真)新浪微博から転載

中国の映画スターたちがワシントン・ポストの最新記事「ディズニーランド化するチベット――観光はいかに占領の道具になったか」を読んだのかどうかは分からない。しかし、たとえ読んでいたとしても、自分たちこそが記事に書かれていた観光客だとは絶対に思わないだろう――「政府はチベットの僧侶を軍の兵士で脅すのではなく、厚かましい観光客の群れで窒息させつつある」。なぜなら、スターたちは自分を崇高な存在と考え、ラサなどチベット各地で実施していることは全て「心の修行」に関わる「心の公益プロジェクト」だと信じているからだ。

1月12日、中国のスター集団が1500人余りを引き連れ、堂々と「ゾンキョ・ルカン公園を出発し、ポタラ宮とラル湿地、ジョカンなどを経由し、最後はポタラ宮広場にゴールした」。聞こえ良く「歩くことの力
太陽の都ウオーク」と題し、中国メディアに大々的に宣伝された。リーダーの売れっ子スター陳坤は「私たちが押し広めているのはある種の精神と態度です。人生に何が起きても、いつも楽観するべきだということです」と語った。

これについて、少なからぬチベット人のネット仲間が新浪微博で熱心に議論した。「もし僕らが10人以上でこんな風にラサを歩いたら、どんなことになる?」「特殊警察や武装警察が出動するだろう」「もしチベット族の150人が一緒に行ったら、どう扱われるんだ?」「地元民が6人以上集まるのは違法じゃなかったっけ?身分証を調べ、とりあえず1カ月拘束して、それからどう処理するか考えようって展開になる。本当に比べ物にならない扱いだ!!」

実際、これは現在だけの話ではない。1998年のチベット暦新年の期間中、田舎や僧院のチベット人男女200〜300人がラサ全体を伝統的な巡礼路に沿って五体投地していたところ、当局に遮られてしまった。私は当時この巡礼者たちに同行し、この珍しくも短い壮観な場面をカメラで記録していた。

bec7a846jw1ecgukjmqi9j20dc0hstbc(写真)ソンタル・ギェルの2014年1月12日の微博から転載。投稿は同日中に削除された。

陳坤らスターの「太陽の都ウオーク」とちょうど同じ日、アムドのチベット人で映画監督のソンタル・ギェルが飛行機でラサに着いた。しかし、彼は1週間を費やしてからようやくラサ入りを許された。このため、彼はチベット人であることの苦労を微博で嘆き、手にした「チベット自治区居住証」と指定旅館に泊まるための「アドバイスカード」の写真を投稿した。これは昨年6月30日以降、当局がいわゆる「4省蔵区(青海、甘粛、四川、雲南の各省のチベット・エリア)からラサに来た者」を対象に始めた新しい措置だ。すなわち、ラサのチェック・ポストで登記し、検査を受けた上で、ラサ滞在中に使用できる証明書を身分証と引き換えに受け取る制度だ。しかし、彼のこの書き込みと写真はすぐに削除された。残念ながら私は写真を保存しただけだった。

陳坤らスターはラサでなぜチベット人とは異なる特権を持てるのかと問う人がいた。実は理由はとても簡単だ。英国がインドを植民地支配していたころ、風景の美しい場所にリゾート施設やクラブを建て、英国人に植民者の特権を心行くまで享受させたのと似通っている。1月15日に新疆と北京の警察に逮捕された中央民族大教授でウイグル人学者のイリハムは「差別化した民族政策、大民族の優先権」だと論評した。

U9408P6T1024D9977F30636DT20140113120833(写真)ラサ市委副書記で宣伝部長の馬新明(右)がスターの陳坤を「ラサの歴史で初めての都市イメージ大使」に任命した。(ネットより転載)

実質的に「太陽の都ウオーク」は政府のイベントだ。中国官製メディアの報道によると、記者会見の席上、ラサ市委副書記で宣伝部長の馬新明は陳坤を「ラサの歴史で初めての都市イメージ大使」に任命し、証書とカタを与えたという。これ自体が全くのでたらめだ。この後、ある役人が「心の公益プロジェクト『歩くことの力』を始める」と発表し、まるで彼ら全員が気高い人物になったかのようだった。

報道された「現地の幹部と一般人、学生の代表、メディアなどから成る約1500人の隊列」は、明らかに選択と審査を経ていた。選手たちは黄色い腕章を着け、私服警官が警戒し、路上の車両はしばらく止められた。このような「心の公益プロジェクト」は、いわゆる「中国的な特色、チベット的な特徴」をどれだけ備えていただろうか。

興味深く思えたのは、軍隊行進に似たやり方で大股になって列を組み、ラサの街頭を通り抜けた時、中国のスターたちは歴史と現実の織り成すどんな風景を歩いていたかを意識しただろうか、という点だ。遥か遠い時代については触れる必要はないだろう。天地を覆した六十数年前の事件を回顧すれば、まさにダライ・ラマ法王がおっしゃった通りだ。「あなたの家、あなたの友人、あなたの祖国がたちまち全て失われた……」

今日のラサの残酷で皮肉に満ちた現状を「太陽の都ウオーク」よりもはっきり見せつけるものはない。売れっ子スターたちはチベット仏教の「心の修行」にかこつけて個人のイメージを飾り繕っただけではなく、あしき「チベット政策」の美化を手伝い、チベットの至る所で心の修行が本質的に圧迫されている真相を覆い隠した。そして、チベットが依然「アパルトヘイト」にあるという真の現状をかえって別の角度からはっきりと浮かび上がらせた。

2014年2月   (RFA特約評論)

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2014年09月26日

共産党祝賀会の最中「チベット独立」を叫んだ僧侶に10年の刑

09401bd8僧ロプサン・ゲンドゥン。

去年7月1日、チベット自治区チャムド地区ツァワ・パシュ県で中国共産党創立記念日の祝賀会の最中、ドンサル僧院僧侶ロプサン・ゲンドゥンが「ダライ・ラマ法王に長寿を!ダライ・ラマ法王のチベット帰還を!チベットに独立を!」と叫び、その場で警官に逮捕されたということは先のブログで報告した。 

彼が拘束された次の日、仲間の僧侶も連行され、2人とも重体となり病院に運び込まれるほどの拷問を受けたという話も伝えた。

9月17日付けRFAによれば、最近、この僧ロプサン・ゲンドゥンに対し10年の懲役刑が言い渡された。RFAに現地から情報を伝えた匿名希望のチベット人によれば、「9月12日、ドンサル僧院僧侶ロプサン・ゲンドゥンが親戚に電話を掛け、『チャムドの裁判所により10年の刑が下された』と伝えた。しかし、彼がどこの刑務所に収監されているのかは不明のままだ」という。

彼が拷問されたことが明るみにされた後、家族との面会は許可されなかった。一度だけ、今年1月28日にチャムドの裁判所が彼の両親を呼び出し、「彼が罪を認めるよう説得せよ」と命令した。「しかし、彼は罪をまったく認めず、無実を主張し続けた。それどころか、彼は中国当局に対し、チベット政策の過ちを自ら認め、謝罪すべきだと訴えた」と伝えられる。

共産党の祝賀会の最中に「本心を叫ぶ」と10年の刑を受けるということである。彼の場合は拷問を受けようとも、最後まで罪を認めず、抵抗し続けたことが長期刑に繋がった可能性もあるだろう。

imageこのチャムド地区は拷問の激しさでも有名だが、もともとチベット自治区の中でも特に「チベットの村人一人一人の政治信条を監視するキャンペーン」が厳しく行われている場所として有名である。各家、各僧院に対しては共産党指導者たちの写真を掲げ、屋根には中国国旗を掲げることが強要される。

その他参照:9月18日付けRFAチベット語版

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2014年09月24日

ウーセル・ブログ(唯色・博)「ラルン・ガルはシャンバラではない」

以下、2014年1月31日付けウーセル・ブログの日本語全訳。

原文:唯色:喇荣不是香巴拉
翻訳:@yuntaitaiさん

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◎ラルン・ガルはシャンバラではない

カム地方北部セルタ(四川省カンゼ・チベット族自治州セルタ県)のラルン・ガル僧院で1月9日夜、火災が起きた。微博を開くと、激しい炎に包まれた写真ばかりが並んでおり、数年前に2回訪ねて目撃した壮大な仏国の眺めが目に浮かんできた。

200777151816103<写真>ケンポ・ジグメ・プンツォク師

ラルン・ガルは1980年にケンポ・ジグメ・プンツォク師が開き、チベット全土で修行者数の最も多い仏教学院になった。中国本土で最も知名度の高いチベット仏教学院でもあり、在家や出家の漢人修行者が何千人もいる。このため、ラルン・ガルはチベットのほかの僧院や仏教学院とは異なり、チベット語と中国語に精通した非常に優秀な高僧を何人か抱えている。ケンポ・ツルティム・ロドゥーやケンポ・ソダルギェらは特に有名で、新浪微博のフォロワー数はともに数十万人から100万人以上いる。

破壊的な炎は暗闇のラルン・ガルで猛威を振るった。微博では「尼さんたちの小屋が100棟以上焼けた」「200棟以上焼けた」などと、現場から伝わってきた情報が絶えず更新されていった。私もこうした火災の情報をツイッターに転載したが、意外にも次のよう連絡が流れてきた。「僧院のケンポからお知らせです!火災の情報や写真を削除してください。誇張されたり、間違った情報が利用されたりしないようにするためです。仏の教えを広め、衆生にご利益を与える僧院事業の大きな妨げとならないように……」

これほど悲しい求めはなかった。知人の漢人女性も「消防当局がこれを理由に僧院を閉鎖したり邪魔したりしないよう、ツイートした写真などを早く削除してください。広めないでください」とツイッターのダイレクトメールをくれた。しかし私は承諾しなかった。これらの情報を削除すればラルン・ガルが平穏を得られるとは思えなかったし、全世界に火災を知られたからといって、炎の背後に隠れた赤い魔物が迫害の手を一時的に緩めるとも思えなかったからだ。メンツを重んじる赤い魔物が、飢えと寒さの迫るこの時期、苦難の中の衆生にわずかな間だけでも一息つかせてくれるかもしれないとは思ったが。

漢人のネット仲間は納得せず、「削除には反対する。炭鉱事故でうそを発表するのとどんな違いがあるんだ?」と微博に書いた。この考え方は正しくない。炭鉱事故でうそを発表するのは当局の行為であり、保身のために責任をなすりつけるのが目的だ。ラルン・ガルのケンポたちの削除要求はやむを得ない苦しみに満ちていたし、その目的は仏教学院を守ることにあった。

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<上写真2枚>2012年1月24日、セルタのチベット人の抗議は鎮圧された。

ケンポたちは何を恐れているのかと問う人がいた。では、ひとまず簡単に説明させてほしい。ラルン・ガルは1999~2002年に最も大きな災難を経験した。修行者の多いラルン・ガルは反乱を生み出す拠点だと中国共産党の高官は考えた。数千の僧坊が取り壊されてさら地になり、無数の修行者が追い出され、一部は悲憤して死んだ。ケンポ・ジグメ・プンツォク師はこのために病を患い、数年後に円寂した。実際、ラルン・ガルは名声を博してはいるが、常に薄氷を踏んでいた。当局は何度か言い掛かりをつけて閉鎖しようとしたが、学院は上から下まで抑制が効き、慎み深く、逆境に耐え忍んでいたため、容易には手を付けられなかった。

002 (1)<写真>5年半の刑を受けた作家ガンケ・ドゥパ・キャップ。

一方、セルタ県では、政治的な抗議を訴える焼身者を2人出している。このうち1人はラルン・ガルと同じニンマ派のトゥルク(化身ラマ、転生ラマ)だった(25歳のトゥルク、ドゥプチェン・ツェリンは2013年2月13日、ネパールの首都カトマンズで焼身し、死亡した)。2012年の春節2日目に当たる1月24日には、セルタのチベット人数百人が金馬広場でスローガンを叫んでルンタをまき、自由と人権を求め、軍警の発砲による鎮圧に遭った。抗議を記録したとして逮捕され、重い判決を受けた作家ガンケ・ドゥパ・キャップはセルタ人で、農村の教師だった。セルタ県と同じカンゼ州のダンゴ、カンゼ、タウの各県でも、この数年立て続けにデモや焼身などの抗議が起き、当局に鎮圧された。セルタ県と隣り合う青海省ゴロク州でもチベット人3人が悲憤して焼身し、死亡した。

ラルン・ガルは決して現実世界のシャンバラや桃源郷ではなく、心静かに仏教を学ぶ特権を得られるわけではない。ラルン・ガルに絶えず迫り来る危険をケンポたちは誰よりも冷静に認識しているから、心配でたまらずに火災情報を削除するよう求めたのだろう。しかし私は違う考えを持っている。ラルン・ガルが決してシャンバラではない以上、超然とした浄土づくりに苦心しても全く現実的ではなく、もろく崩れやすいように思える。また、苦難に満ちたチベットの大地にあり、その陽光と風霜、真っ白な雪と絶えず結び付いている以上、チベット全土で災難が相次いでいる時にどうしてラルン・ガルだけがほかを顧みず自分の修養に専念できるだろう?

2014年1月11日 (RFAチベット語)


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2014年09月21日

<速報>ツー(合作)で新たな焼身 習近平・モディ会談に合わせた?/ 最近伝わった焼身ビデオ

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今年4月15日、カム、タウでティンレー・ナムギェル(32)が焼身抗議を行い、死亡した。その後5ヶ月以上経過し、チベットの焼身は忘れ去られようとしていた。そんな時、新たに若者が自ら燈火となり、まさに命がけで再び助けを求めた。

20日付けTibet Times等によれば、先週の水曜日(9月17日、ラカルの日)の真夜中にアムド、ツー(甘粛省甘南チベット族自治州合作市)の市警察署の前で、22歳の学生ラモ・タシ(ལྷ་མོ་བཀྲ་ཤིས།)が焼身抗議を行った。

焼身者の親戚であり現在海外在住のあるチベット人によれば、「焼身時に何を叫んだのか、遺書等が残っているのかの情報はまだ入っていない。ただ、地区のチベット人たちは『習近平のインド訪問に合わせて焼身したのではないか?』と推測している」という。

警察署の前で焼身したラモ・タシは生死不明の状態で警察署内に運ばれた。次の日に警察署からラモ・タシの家族に連絡が入り、彼の焼身と死亡が知らされた。家族は遺体を引き取ろうと急ぎツーの警察署に向かったが、警官は遺体はすぐに火葬されたといい、「これが遺灰だ」という灰だけが手渡されたという。

ラモ・タシは甘粛省甘南チベット族自治州アムチョク鎮ドクデ村(ཨ་མཆོག་སྒྲོག་མདོ།)の出身。父ツーパ・ツェリン、母ドゥクカル・ツォの息子。勉強を続けるため、ツー市に移り住んでいた。

内地焼身者132人目。

その他参照:9月21日付けVOA英語版

参考:ルンタ:焼身者リスト
チベットの焼身についてさらに詳しく知りたい方は、このブログ右手上の「太陽を取り戻すために チベットの焼身抗議」をクリックして下さい。

10653807_10152799436750337_8590212574994106853_nカナダ在住の日本人画家井早智代さんが、焼身・死亡したラモ・タシさんに捧げる絵を描いて下さった。













<閲覧注意>最近亡命側に伝わった焼身ビデオ

これは2013年12月3日、ンガバ州ンガバ県メルマ郷中心街の路上でマチュ県出身の遊牧民クンチョク・ツェテン、30歳、2児の父が焼身抗議をおこなった時のものである。
クンチョク・ツェテンの焼身についてはここここを参照して下さい。




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2014年09月15日

牧草地を巡る村同士の争いの後、部隊が出動し激しい暴力を振るう

imageかつてチベットの牧草地には移動を遮る柵は全くなく、季節に合わせ自由に移動することができた。中国当局の政策により柵ができた時点でもう「遊牧民」と呼ぶことはできなくなっている。チベットにはすでに「遊牧民」は存在しないのである。

当局がチベットの牧草地を区分けした結果の1つは、牧草地を巡るケンカの増加であった。最初は県単位で区切られていたが次第に郷単位、村単位と狭められ、今ではほとんどの地域で家族単位に区切られている。その度に牧民はヤク等の家畜の数を減らさないとやって行けなくなったという。

家族単位で区切られたことにより、割り当てられた牧草地の良し悪しや家畜数の差により貧富の差が生まれ、ちょっとした越境行為によりケンカが増えたという。これを解消するために、当局と掛合い村単位やさらに大きな単位に戻すことに成功した地区もある。しかし、村単位になった後も牧草地を巡るケンカは起こっている。これは1つには柵の設置により、以前はまったく無かった「土地所有意識」が目覚め、ちょっとした土地侵害に対しても過剰反応するようになってしまったことが深層的原因と思われる。もう1つの深層として、中国当局の暴力体質・文化に影響され、チベット人も暴力的になり易い環境があると推測される。

9月12日付けRFAによれば、最近、アムド、レプコン(青海省黄南チベット族自治州同仁)で牧草地を巡り村同士が大規模なケンカを起こし、1人が死亡。その後当局が部隊を派遣し大勢のチベット人が拘束され、激しい暴力により負傷者が多数発生したという。当局の移動規制により「重傷者を病院に運ぶこともできない」と地元のチベット人は訴えている。負傷者を大きな病院に運ぶためには村長と郷長の許可を得る必要があるという。

8月10日と11日の2日間、レプコン地区にある9つの牧民部落が集まるナルン村と5つの部落が集まるクルデ村が大規模なケンカを行った。事の始まりは、8月10日にクルデ村の2人の牧民がナルン村と共有地になっている牧草地に家畜を移動させたことからであるという。

これを知ったナルン村の若者たちが「彼らを追い出すために現場に向かった。クンデ村の2人が移動することを拒否すると、ナルン村の若者たちが2人を殴り倒した」という。次の日、クンデ村の村人たちは石とナイフを手にし、ナルン村に向かった。途中2つの僧院近くを通過する時、僧院のラマや僧侶が彼らを説得したが、彼らは聞き入れなかった。ナルン村で衝突が起こり双方に大勢のけが人がでた。そして、ナルン村の1人が死亡した。

12日、大規模な部隊がクルデ村に現れ、村人を拘束し始めた。多くの若者は山に逃げたが、逃遅れた57人が拘束された。部隊は逃げた若者たちに対し「降伏せよ。罪を認めれば罰せられることはない」と広言した。しかし「彼らが村に戻ると、約束は守られず、酷い暴力を受け拘束された」と村人は報告する。

「地域の住民が集められ、警告の目的で拘束されたものたちは彼らの前で引き回された」という。また、部隊の暴力により負傷したものたちは重傷者を含め誰も病院に運ばれることなく、全く治療を受けることができない」と伝えられる。

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2014年09月10日

14世ダライ・ラマは本当に「ダライ・ラマ制度は自分で終わり、後継者は不要」と公言したのか?

6207cb20-3a8d-49ca-9871-2c93e07df044ダライ・ラマ法王は訪問先のドイツで9月7日、ドイツ週刊紙ウェルト日曜版(Welt am Sonntag)の取材を受けその中で「ダライ・ラマ制度は自分で終わり、後継者は不要」と公言した、とAFP日本語版等が伝えた。このニュースの反響は大きく、ネット上で世界中のチベット人やサポーターたちが「ショックを受けた。大変悲しいニュースだ。再考して頂きたい」と応じた。

これに対する中国側の反応としては、例えば新華社日本語版ではシンガポール華字紙を引用しながら最後に「ダライ・ラマが、次の生まれ変わり(化身)を探す『輪廻転生制度』を持ち出すのは、メディアから注目を集め、さらにはこれにより中央政府に圧力をかけるという政治目的を実現させるためだ」と結んだり、日本の東京大学にも留学した経験のある中国社会科学院の民族史研究者秦永章は9月9日付け環球網『ダライに転生制度を終わらせる権利はない 次のダライは愛国者に』と題した文章を発表している。

ちなみにこの秦永章氏は@rogcigさんによれば「東大の大学院の総文研にきて西川一三や木村肥生などしらべて、《日本涉藏史——近代日本与中国西藏》を書いた人」で青海省のトゥー族出身という。うらるんたさんは「民族間対立を煽る意図はないんですけど、青海省出身の少数民族(モンゴル系で、チベット仏教徒でもある)で中央民族大学、青海民族大学で学び、日本にも研究に来て過去の日本人のチベット研究の業績をたどり、社会科学院の研究者となっている人が、中国共産党主義丸出しのトンデモコラムを書くのって、悲しいなあと思います。」と反応されている。

ところで、このニュースが世界中に発信された後、このニュースの内容に疑問をもったチベットメディアが相次いでガンデン・ポタン(ダラムサラにあるダライ・ラマ事務所)に問い合わせたという。その結果をVOAやRFAが発表している。それによれば、ドイツ紙の発表は「誤解」であり、読者を「ミスリーディング」するものだという。真相はどうだったのか、インタビューの全体は未だ発表されておらず、ガンデン・ポタンの文章による正式な反応も発表されていないので現時点ではっきりとした答えは出ないがこれまでの経緯は報告しておく必要があると思われる。

まず、日本語で発表された最初の記事である9月8日付けAFPは以下:
ダライ・ラマ14世、「後継者は不要」 独紙インタビュー

【9月8日 AFP】チベット仏教最高指導者のダライ・ラマ(Dalai Lama)14世は、ドイツ紙とのインタビューの中で、自身を最後の指導者とするべきと述べ、故郷の地で数世紀にわたり継承されてきた宗教的伝統を終わりにすべきとの見解を示した。
 同氏は過去にも、「ダライ・ラマの目的は果たされた」と述べており、独紙「ウェルト」日曜版(Welt am Sonntag)での今回のコメントで、その意思をさらに明確にした形だ。
 英語で行われたインタビューで同氏は、「ダライ・ラマ(の伝統)はおよそ5世紀にわたり続いてきた。現在のダライ・ラマは非常に人気がある。評判の良い最高指導者がいる間に終わらせるべきだろう」と述べ、「弱いダライ・ラマが継承すれば、その伝統に傷が付く」と笑顔で付け加えたという。
 また、「チベット仏教は一個人に依存するものではない。私たちは、高度に訓練された僧侶や学者を何人も擁する非常に組織立った構造を持っている」とした。
 1950年にチベットに派兵した中国は、翌1951年から同地を統治。ダライ・ラマ氏は1959年の民族蜂起が失敗に終わった後、インドに逃れた。
 2011年にノーベル平和賞(Nobel Peace Prize)を受賞した同氏は、すでに政治活動からは距離を置いているが、それでも国内外のチベット人に対する強力な求心力を維持しており、また民族運動の象徴として広く知られている。(c)AFP

その他、日経も9月9日付けで同様な趣旨の記事を発表している。ライブドアニュースに至っては先のAFPの記事を紹介しながら、「ダライ・ラマ14世『後継者は不要』 チベット仏教を終わりにすべきとの見解」というとんでもない題を付けている。「チベット仏教を終わりにすべき」などという発言はAFPの記事中にもまったく見受けられない。

これに対し9月9日付けVOAはガンデン・ポタンから得たという返答として:「ダライ・ラマ(の伝統)はおよそ5世紀にわたり続いてきた。現在のダライ・ラマは非常に人気がある。評判の良い最高指導者がいる間に終わらせるべきだろう」という部分は「次期ダライ・ラマはどうなるのか?」という質問に対し法王が行った長い答えの中のほんの一部であり、法王はその返答の冒頭で「ダライ・ラマ制度を存続すべきかどうかはチベット人自身が決めるべきだ」と述べたという。

VOAはコメントとして、この「ダライ・ラマ制度を存続すべきかどうかはチベット人自身が決めるべきだ」という発言は法王が数十年前から何度も繰り返し表明されて来たものであるとする。また、転生に関する法王の意見として重要な点は以下の2点という。
1)15年後をめどに各宗派の代表が集まり次期ダライ・ラマについて話合いを行うこと。
2)次期ダライ・ラマは論理的に考えても分かるように現在のダライ・ラマの意志を継ぐことにある。そのためにはそのようなことが可能な環境の中に生まれることが必要であり、現在の状況のようなチベット内地に生まれ変わることはあり得ない。

RFAの方は「この記事は一部を引用しただけの誤解を生む記事である」とし、その他の内容はVOAと同様である。

FB上に発表されたあるビデオは今回のインタビューの一部とは思われないが、2)番目のことについて法王自身が語っておられるところである。

私もダラムサラで何度もこの法王の話は直接聞いている。法王が仮に「自分でダライ・ラマ制度は終わりだ」と言われたとしても、アテイスト中国共産党は政治的目的のために必ず次期15世ダライ・ラマを立てるであろう。そうなれば、亡命側もこれが本物の15世という子供を選出しない訳にはいかなくなると推測する。

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2014年09月09日

ビデオで拷問を暴露した僧ジグメ・ギャンツォに5年の刑 失踪3年後

bf8dec69アムドの名刹ラプラン・タシキル僧院の僧侶ジグメ・ギャンツォは2006年以来4度拘束されその度に拷問を受けていた。最後に拘束されたのは2011年8月20日、それ以来3年間以上行方不明のままとなっていた。

9月8日付けRFA等によれば、9月5日甘粛省の裁判所においてついに彼に判決が言い渡された。国家分裂扇動罪で5年の刑とされた。裁判に家族は呼ばれず、弁護士も付かない秘密裁判であった。

ジグメ・ギャンツォは2008年に逮捕された後、どのような拷問を受けたかをビデオを通じ詳しく伝えた。このビデオは最初VOA、次にyoutubeを通じて広まり、多くの人が彼の証言を聞いた。日本語訳もあることだし、まだ見ていない人は是非このビデオをみてほしい。
ビデオ
日本語訳

突然車に引き込まれ、頭に黒いずきんを被らされ、拘置所に連行された後、自動小銃を突きつけられ、「これはお前たちチベット人を殺すためのものだ。少しでも動けば、必ずお前を撃って殺してやる。死体をゴミ箱に捨ててやる。誰も気付きはしない」と脅される。その後2ヶ月間、彼は激しい拷問を受ける。天井から吊るされ意識を失うまで暴行を受けた。意識を失う度に病院に運び込まれ、意識が戻るとまた拷問を受ける。「まるで人を殴っているのではなく、ブタや犬を殴るような」暴行を受けた、と証言。

このビデオを製作したとして2008年11月に再び逮捕され、翌年5月に解放された。そして、また去年8月20日にツォエ(ツゥ 合作)のホテルで拘束される。詳しくはここここ

その後消息が途絶え、危惧されていたが、2012年10月12日付けTibet Netが消息を伝えた。それによれば、彼は心臓、肝臓等5種類の重い病を患い、蘭州の刑務所内病院で治療を受けていたという。彼の親族は当局に対し、病気を理由に解放を懇願したが、拒否された。親族はさらに病気が悪化しこのまま監獄で死ぬのではないかと心配していた。

その他参照:9月8日付けRFAチベット語版
9月8日付けTibet Timesチベット語版

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2014年09月08日

ディル<>ナクチュ間に厳しい検問所8カ所 苦しむ通行者たち

imageチベット自治区ナクチュ地区のディルでは去年9月に愛国高揚キャンペーンが始まり、これに反発するチベット人住民に対し当局が無差別発砲を含む厳しい弾圧を行った結果、これまでに少なくとも3人が銃殺され2人が拷問死している。これまでに拘束されたチベット人の数は1000人を越えるとされる。

最近伝えられた情報によれば、当局はディル・ナクチュ間270キロの国道上にこれまで4カ所あった検問所を倍の8カ所に増やし、厳しい監視を行っているという。検問に不満を示した運転手や乗客は激しい暴力を受け、路上で休憩のために停止すれば高額の罰金を払わされ、救急車まで停止される状態という。

8135b6e3去年10月の弾圧

「ディルの状況は改善されていない。規制、検問、弾圧は続いている」と匿名希望の住民は伝える。

「これまでディルからナクチュへは4時間で行けたが今は7時間かかる」
「運転手の書類は厳しくチェックされ、運転手や同乗者が少しでも不満な態度を示すとすぐに車から引き出され激しい暴力を受ける。運転手の中には拘束され15日から20日間の『再教育セッション』を受けさせられる者もいる」
「警察はこの区間で厳しいスピードチェックを行い、また検問所以外で運転手が休息のために車を止めることを禁止している。もしも、これに違反したときには7千元(約12万円)という法外な罰金が課せられる。これが払えないときには免許証その他の許可証が取り上げられる」
「重傷・重病人をディルからナクチュの病院に運ぼうとする救急車も検問で止められ、搬送時間が長くなるのも大問題だ」

「これらはディルの住民に課せられた規制のほんの一部だ」とディルのチベット人は訴える。

参照:9月5日付けRFA英語版
9月8日付けTibet Timesチベット語版

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2014年09月07日

セルシュ抗議デモの写真を海外に流したとして2人拘束

imageこの写真を海外に伝えたチベット人が拘束された。

カンゼ州セルシュ県ダンマ郷で先月12日、拘束された村長の解放を求めるチベット人住民たちに向かい当局が無差別発砲を行い、多くが重傷を負った。その後、拘置所内で銃弾を受けた人々が治療を受けるどころか拷問を受け、4人が死亡、1人が抗議の自殺を行った、ということはすでに伝えた。また、拷問死した夫の後を追い妻が自殺するという悲しいニュースも伝えた。

9月3日付けRFAによれば、この時のデモの様子を伝える写真を外国に流したとして2人のチベット人が拘束されたという。2人はダンマ郷ユンドック村出身のツェコックとパギャ。現地の情報網は依然厳しい監視を受けていることもあり、2人が拘束された日付その他の詳細は伝わっていない。

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ウーセル・ブログ「蛮人の舌」

北京在住のチベット人作家ウーセルさんは、8月15日付けブログの中で、自身が中学卒業後四川省の州都成都で学んだが故に、漢語ばかりが流暢になりチベット語を正確に発音することができなくなったと話される。また、中国人が「兎の肉も食べることができない蛮人」と呼ぶチベット人の文化を自ら進んで捨て、中国文化に「同化」し自我を失ってしまった自分を後に悲しみ、ラサに帰ることで辛く長い時間をかけ悲しい経験を経て再びチベット人としてのアイデンティティーを取り戻すことができたと語られる。

原文:蛮子的舌头
翻訳:M女史

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絵 ウーセル: ニュー・ヨーク・タイムズ記事原文:蛮人の舌より。








蛮人の舌

ツェリン・ウーセル


1981年初秋、日益しに漢化の進むチベット東部の小さな街・康定(チベット語でダルツェド)で中学を卒業した私はちょうど、成都にある西南民族学院予科部(高校に相当する)のチベット族学生募集にぶつかった。この予科部は1985年に始まったのだと思うが、同化の加速を目的とし、北京や上海など様々な都市で創建されたチベットクラス、チベット中学の前身に当たり、実験的な性質を備えたものだ。当然、政府側の言い分はすべて「チベットの人才培養を幇助する」というものだった。

決して両親に励まされてのことではなく、純粋に個人の願望によって私は予科に出願した。反抗期のただなかにあった私は両親に束縛されることを望まなかったうえ、成都が新鮮な事物に充ち満ちた大都市であると感じていて、中国とチベットにどのような違いがあるのかも意識していなかったし、自分の郷里や、属する文化と次第に遠のいてゆくことになるなどとは予想もしなかったのだ。

軍服を着た父が私を成都まで送ってくれた。私たちは座席の固い長距離バスに乗り、高い高い二郎山(チベット語では何といっただろう?)を越え、その後、窓の外の風景は青々とした竹、大きな野菜畑やたわわに実った果物になった。私たちがバスを降りた時、まず私に見えたものは路傍のレストランの前に置かれたたらいの中、積み上げられた寂しげな兎の頭が人を誘う香りを撒き散らしているところであった。私はいっときぽかんとなり、即座に思い出したのは兎の肉を食べると口唇裂になるというチベットの民間の言い伝え、眼前にはあの高山を穿ち谷を縦横無尽に走る道路の上、チベット語で「リボン」と発音する兎の突然死ぬところが現れた。

真っ向からやって来たものの多くが、大きく違っていた。飲食、外見、言葉……紅焼鱔魚(タウナギの醤油煮)を食べ始め、麻辣兎頭(兎の頭の辛味煮)を食べ、蛙の肉を食べた。これらを食べれば禁忌に背くことになるのは分かっていたが、食べないのはすなわち迷信深い“蛮人”なのだということはもっとよく分かっていた。成都人は“蛮人”という言葉を好んで口にするようだったが、兎の頭さえ食べられなければそれだけでもう、瓜兮兮の“蛮人”になるのであった(瓜兮兮の意味するところは大馬鹿者である)……成都は湿気の多い盆地で、私と同族の学友たちは髪の毛がひどくカールするのに驚いた。一般の人はこうした“天然パーマ”を少数民族の特徴と見なしていた。そこで私たちは毎朝長くカールした髪を櫛で激しく梳き、カールした髪を直毛にしようとしたが、結局は髪を切って耳のところまでの短髪となり、髪はカールしたままだったが、パーマをかけたように見え、成都の通りにいる中年女性みたいだった。

民族学院に設けられた予科は閉鎖的な“小学校”で、私たちはキャンパスの一角に据えられた二つの大教室で授業を受けた。私たちが成都の中学生と接触することはなく、同年齢の彼らが毎日何を学んでいるかまったく知らなかったが、恐らく私たちと同じだったろう、結局私たちと彼らの教科書は完全に同じで、他にもう一冊チベット語やイ語の教科書が出されることなどあり得なかった。私の学友の多数はチベット人で、あとはイ族だったが、チベット語とイ語が話せる者は何人もおらず、時間の推移に従って、みな流暢な成都方言になっていった。後になって、ラサの親戚は私の舌が「手術された舌」だと形容した。顫動音、巻舌音、歯齦音(歯茎音)など何種類かの伝統的なチベット語の音が、出せなくはなかったが出せばおかしな音になり、チベット語の「ラサ」という言葉すら正しく発音できなくなっていたのだ。

大学に通った経験は更に、取り換えられる経験だった。西南民族学院には全体で三十余りのそれぞれ呼称を持つ少数民族がおり、私たちを多民族の環境で生活しているかのようにさせていたが、これらの民族の歴史や文化はまったく理解しておらず、知っていたのは幾つかの民族の祭日にその民族風味の料理が一度だけ出るとか、或いは篝火を囲んで酒を飲み歌ったり踊ったりするとか、或いは洗面器で互いに水をかけ合いタイ族の“水かけ祭”をやってみることぐらいだった。多民族の特色は私に自分が“チベット族”という状態の中に置かれているのだと常に感じさせはしたが、ネイティヴとしてのいかなる教育も受けたことはない。

私は秦始皇帝の長城改修は立て板に水でもポタラ宮がいかに築かれたかを語れなかった。唐詩宋詞はすらすらと暗誦してもダライ・ラマ六世の詩歌を読めなかった。私は赤色中国の若干名の革命烈士は熟知していたが、1959年のラサ蜂起におけるチベット人自身の英雄については理解していなかった……幸い私はラサを忘れてはいなかった。そこが私の出生の地であり、四歳の時父母についてチベット東部に移ったのだが、それ以来ラサに対する郷愁を深く抱いていた。1990年春になって、私は大学卒業二年目にしてついに戻り、政府主宰のチベット文学雑誌社で編集を担当したのだ。

しかし、ラサに到着して最初の見聞は私を驚かせた。子供の時の記憶ははっきりせず、私の父が当時撮影した写真の中からラサのぼんやりとした印象を残せているだけだったのだ、独特の風格を備えた美を有しているというような。現実には実弾入りの銃を持った軍人が全域に満ち、一台また一台装甲車がゴロゴロと大通りを踏み敷いていたのだが、これは1989年3月、僧侶、尼僧や平民を含む多くのチベット人たちが街頭に出て、1959年に中国政府がチベット人の反抗を鎮圧したことに抗議したためで、それで今回、北京はラサに対して一年七ヶ月もの長きにわたる軍事戒厳令を敷いていたのだ。

両足はラサの地面に立ちながら、私は一種の深い孤独感をおぼえていたが、疑う余地もない、それは手術された舌の引き起こしたものだった。私は、自分が完全で標準的なチベット語をほぼ話せず、口から出てくるのは却って四川訛りの北京語なのだと気付いた。だが、私の母語はもともと中国語などではまったくなく、私の問題は、私の母語が成長過程の中で取り換えられてしまったことにあるに過ぎないのだ。私はこれは私が麻辣兎頭を食べたからで、禁忌を犯した人間は外貌まで変わってしまうのではないかと疑いさえした。

二十年ぶりにラサに戻った私は実は自我を失った私だった。そして私の自我に対する探求、拒絶、受容……最後に今の立ち位置からチベットの物語を述べるようになったが、本当に長い、長い時間を費やした。だが万事万物の形成にはすべて原因があるのであって、私が別の人間に取り換えられたのにも原因があるのだ、まさしく「鳥が石の上に落ちるのも、純粋に天の巡り合わせである」というチベットの諺のように。幸運だったのは、私は心臓まではすり替えられなかったことだ。

今もなお私にとって忘れ難いのは初めてトゥルナン寺に行った経験である。それはそこから重大な転機が生じることを意味し、更には強大な電流のように、異化に遭った私に立て続けに命中した。あれはある黄昏のこと、チベット人の伝統を保っている親戚に連れられて寺院に行った。なぜだか分からないが、私が進むうちに説明のつかない涙が湧き出してきた。笑みをたたえた釈迦牟尼の仏像に出会うと、むせび泣きが漏れ、内心でこう言う声が聞こえた。「お前はついに帰ってきたのだ。」しかし私はすぐに痛苦をおぼえた。そばにいた僧侶がチベット語で感嘆するのが聞こえたからだ。「このギャモ(漢人の女の子)はなんて可哀想なんだろう」






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2014年08月27日

失踪1年7ヶ月後、ディルの僧侶が9年の刑を受け衰弱し刑務所に収監されていることが判明

image1ゲシェ・ツルティム・ネンダク。

チベット自治区ナクチュ地区ディル県にあるラプテン僧院の教師であったゲシェ(博士)・ツルティム・ネンダク(40)は2012年12月中にラサで拘束され、その後1年7ヶ月の間、行方不明のままであった。今年7月31日になり、当局は初めて家族に彼の消息を知らせた。

それによれば、当局はゲシェ・ツルティム・ネンダクに9年の刑を与え、現在ラサのチュシュル刑務所に収監しているという。当局は罪状を明らかにしていない。裁判は全くの秘密裁判で行われたことは確かである。

家族がチュシュル刑務所に彼を訪ねたところ、彼は全身に傷跡があり、非常に衰弱した状態であった。刑務所側に家族が彼に治療を施すか、或は家族に引き渡すよう要請したが、現在まで完全に無視されているという。

参照:8月27日付けTibet Times チベット語版

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拷問死した夫の妻が自殺/部隊が警官を誤銃殺

46524a5f-69b3-47dd-ad8b-50cc6433504c四川省カンゼ州セルシュ県ダンマ郷ロチュク村。

先のブログでお知らせした、村長解放デモに対する治安部隊による無差別発砲事件で銃弾を受け、その後治療を受けるどころか拘置所で更なる拷問を受け死亡した3名のチベット人の内の1人、ジンパ・ターチン(18)の妻が8月18日、自宅で首をつり自殺した。

26日付けRFAによれば、ジンパ・ターチンの妻は妊娠7ヶ月であった。彼女は夫が8月18日に拘置所で拷問死したことを知らされた後、その日の内に自殺したという。

同じくRFAによれば、当局がセルシュ県ダンマ郷弾圧の一環としてロチュク村に部隊を派遣し、住民に向け発砲した際、誤ってチベット人住民の中にいた警官の首に銃弾が当たった。その警官はその後死亡したとされる。

また、8月23日にはこの事件に関わったとして拘束されていた、64歳になるチベット人女性が拷問の末、重体となりダルツェンドの病院に急送された。当局は家族が付き添うことを拒否し、家族は病院にも入ることができないという。

カンゼ州セルシュ県ダンマ郷には今も大勢の部隊が厳しい監視を続けており、情報網は遮断されたままという。

事件の原因となったダンマ郷シュクパ村の村長ワンダクの行方も不明のままである。

その他参照:8月26日付けRFAチベット語版
8月26日付けTibet Timesチベット語版



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2014年08月20日

セルシュの虐殺:拘置所内で4人死亡 1人抗議自殺

41村長ワンダクの解放を求め、役所の前で声を上げるチベット人たち。この後、彼らに向かい無差別発砲が行われた。

カム、カンゼ州セルシュ県で、今月12日、拘束された村長の解放を求める人々に向かって当局が無差別発砲を行い、10人以上が重傷を負ったというニュースは日本のメディアも既に報じている。例えば毎日新聞さんは19日付けで珍しくRFAを引用し、事件の経緯をまとめた記事を出している。だいたいの経緯はその日本語記事を参照して頂くことにして、ここではその他の情報や新たな情報のみをお伝えする。

8月11日の夜中12時頃、カンゼ州セルシュ県ダンマ郷シュクパ村(དཀར་མཛེས་ཁུལ་སེལ་ཤུལ་རྫོང་འདན་མ་ཤུག་པ་སྡེ་བ།)の村長ワンダク(དབང་གྲགས།45)が、自宅から当局により密かに連行されたことを知った地元のチベット人約100人が、次の日の12日、役場の前で彼の解放を求め声を上げた。この平和的抗議に対し当局は話を聞くどころか無差別発砲等で応じ、10人以上が被弾、重傷を負った。

5e7cd5f3-46e0-4a4c-971b-0729ec0ec666初め、重傷者は近くのジェクンド(ケグド)や成都の病院に運ばれたという情報も流れていたが、その後そのようなことはなく、病院で少しの手当を受けた後、重傷者たちは拘置所に返され、何人かは銃弾を摘出されることも無く、1週間以上治療をまったく受けることができないままという。

事件後、シュクパ村は部隊により包囲されていたが、16日には部隊が村の家々を巡り、12歳以下の子供と老人以外のチベット人全員を連行し、拘置所や病院内で拘束した。連行は暴力的に行われ、拘置所でも暴力を受け、負傷者が大勢出ていると伝えれる。また、全員頭を剃られたという。

17日、このような悲惨な状況にチベット人たちが置かれていることに抗議する目的で、先のデモの最中被弾していたロ・ペルサン(བློ་དཔལ་བཟང་།)が拘置所内で自殺した。同じ日に22歳の若者も被弾後治療を受けることが許されず拘置所内で死亡した、ということがこれまで伝えられていた。

19日付けRFAチベット語版によれば、これまでにこの他3人が被弾による負傷とその後の拘置所内の拷問により死亡したという。何れも村長ワンダクの近親者である。3人の氏名は、村長ワンダクの叔父であるツェワン・ゴンポ(60)、村長ワンダクの弟であるイシェ(42)、ワンダク家の義理の息子であるジンパ・ターチン(18)。彼らの遺体は18日中に家族に引き渡されたという。17日に死亡した氏名不明の22歳の若者はこの3人とは別とすれば、これまでに4人が拘置所内で死亡、1人が自殺したことになる。

また、当局は18日、デンマ郷ロチュク村で村人を集め集会を開いた。その最中役人は「村長ワンダクが逮捕されたのは、噂されているような競馬大会の件ではなく、彼が汚職を行ったからだ」と説明したという。もっとも、この集会に参加する村人は少なかった。これに怒り、19日に再び集会を開くと命令したという。

2317村長ワンダク。

事件の発端は村長ワンダクの逮捕である。彼は普段より勇敢で正義感が強く、また弱者を積極的に助けることで有名であったという。つまり、典型的ないいタイプのカンパ(カムの男)であったらしい。村人たちの権利を恐れず主張する彼は当然以前から当局に睨まれていた。

この夏、村で競馬大会が行われ、競馬大会の前には焼香と祈りの儀式が行われた。これは恒例のことだが、今回は当局は許可を出していなかったという。このことで、村長ワンダクは郷の役人に呼び出され、非難されたが、彼は「競馬大会はチベットの昔からの伝統的行事であり、いちいち当局から許可を得る必要はない」と主張しケンカになったという。

また最近、中央政府の役人がこの地区を訪問するというので、シュクパ村からも歌舞団を送るようにと要請された。この歌舞団が練習中にその中の女性に対し、中国の役人が嫌がらせを行ったという。この報告を受けた村長ワンダクは役場に向かい、役人たちに抗議し、ケンカとなったという。この時、彼は拘束されなかったが、当局はこれにより彼を逮捕することを決めたらしい、と村人は伝える。

その他参照:8月18日付けRFAチベット語版
8月13日付けRFA英語版
8月18日付けRFA英語版
8月13日付けTibet Timesチベット語版
8月18日付けTibet Times チベット語版

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2014年07月24日

青蔵鉄道 ラサ〜シガツェ間開通 8月初めより

10526117_10202312293159670_1552971756649619929_n試運転中の車両。

RFAが人民日報を引用し伝えるところによれば、青蔵チベット鉄道会社は今月22日に敷設を終えたラサ〜シガツェ間の鉄道上で試験走行を行い、来月8月初めから商業運転を開始すると発表した。

中国は西部大開発の目玉プロジェクトとして2006年7月、青海省のゴルムトからラサまでの全長1956kmの鉄道を完成させた。チベットにとってこの鉄道の影響は莫大であり、北京からラサまでの大動脈ができたということで、人と物と武器の移動が自然と増大した。漢民族移民と鉱物資源搬出が加速され、武器や軍隊の大量移送が簡単となった。ラサ周辺は漢族の観光客で溢れる状態となった。チベット支配強化に貢献著しい鉄道である。

この青蔵鉄道初の延長線であるシガツェまでの全長253kmの路線は2010年9月に着工され、ことし10月の完成予定であった。海抜3600m〜4000mの高地で、たった4年間でそれも予定より早く完成させたことで、中国はこの鉄道完成に深い意義認め、強い意志を示したことになろう。

10462492_10202312293279673_5810547632536239252_n新たに作られたラサ南駅。

ラサ〜シガツェ間の列車は平均時速120km/hで運転され、途中駅の数は13カ所、所要2時間という。当局は「環境に配慮した設計と工事を行った。南西チベットに住む人々に多大な利益をもたらす」と宣伝する。これに対し、地元のチベット人たちは「漢族の移民と鉱物資源の略奪が加速されるだけだ」と嘆く。

ラサに次ぐチベット自治区第二の都市、シガツェ市の人口は約70万。ラサに比べまだまだチベット人率が高く、その90%以上がチベット人である。鉄道の開通により、今後人口比率も急速に変化することであろう。

27d7b76f-80ec-4431-b214-a3df704f0140青蔵鉄道内の漢族。

シガツェには中国が選んだパンチェン・ラマが座主であるタシルンポ僧院もある。つい先日も11世パンチェン・ラマとされるギェルツェン・ノルブがこのタシルンポを訪れ、法要を行っている。宗教支配のもう1つの拠点にもなるであろう。

インド国境にもっとも近づくこの鉄道路線がインドを刺激しないはずはない。中国の辺境鉄道の最大の目的はつねに戦略的なものであるからだ。それでなくても、インドは中印国境関係だけでもその兵力は半分以下である。「この鉄道延長により、兵員と武器を速やかに移動させる戦略的能力を得たことになる」とインドのメディアなどは憂慮を示している。

この路線はさらにネパールのカトマンドゥや、果てはインド国境沿いのルンビニまで延長されるという計画がある。今のところインドの圧力でネパール政府はこれを認めていないが、この先はわからない。

参照:7月23日付けRFAチベット語版
その他

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