2014年09月15日

牧草地を巡る村同士の争いの後、部隊が出動し激しい暴力を振るう

imageかつてチベットの牧草地には移動を遮る柵は全くなく、季節に合わせ自由に移動することができた。中国当局の政策により柵ができた時点でもう「遊牧民」と呼ぶことはできなくなっている。チベットにはすでに「遊牧民」は存在しないのである。

当局がチベットの牧草地を区分けした結果の1つは、牧草地を巡るケンカの増加であった。最初は県単位で区切られていたが次第に郷単位、村単位と狭められ、今ではほとんどの地域で家族単位に区切られている。その度に牧民はヤク等の家畜の数を減らさないとやって行けなくなったという。

家族単位で区切られたことにより、割り当てられた牧草地の良し悪しや家畜数の差により貧富の差が生まれ、ちょっとした越境行為によりケンカが増えたという。これを解消するために、当局と掛合い村単位やさらに大きな単位に戻すことに成功した地区もある。しかし、村単位になった後も牧草地を巡るケンカは起こっている。これは1つには柵の設置により、以前はまったく無かった「土地所有意識」が目覚め、ちょっとした土地侵害に対しても過剰反応するようになってしまったことが深層的原因と思われる。もう1つの深層として、中国当局の暴力体質・文化に影響され、チベット人も暴力的になり易い環境があると推測される。

9月12日付けRFAによれば、最近、アムド、レプコン(青海省黄南チベット族自治州同仁)で牧草地を巡り村同士が大規模なケンカを起こし、1人が死亡。その後当局が部隊を派遣し大勢のチベット人が拘束され、激しい暴力により負傷者が多数発生したという。当局の移動規制により「重傷者を病院に運ぶこともできない」と地元のチベット人は訴えている。負傷者を大きな病院に運ぶためには村長と郷長の許可を得る必要があるという。

8月10日と11日の2日間、レプコン地区にある9つの牧民部落が集まるナルン村と5つの部落が集まるクルデ村が大規模なケンカを行った。事の始まりは、8月10日にクルデ村の2人の牧民がナルン村と共有地になっている牧草地に家畜を移動させたことからであるという。

これを知ったナルン村の若者たちが「彼らを追い出すために現場に向かった。クンデ村の2人が移動することを拒否すると、ナルン村の若者たちが2人を殴り倒した」という。次の日、クンデ村の村人たちは石とナイフを手にし、ナルン村に向かった。途中2つの僧院近くを通過する時、僧院のラマや僧侶が彼らを説得したが、彼らは聞き入れなかった。ナルン村で衝突が起こり双方に大勢のけが人がでた。そして、ナルン村の1人が死亡した。

12日、大規模な部隊がクルデ村に現れ、村人を拘束し始めた。多くの若者は山に逃げたが、逃遅れた57人が拘束された。部隊は逃げた若者たちに対し「降伏せよ。罪を認めれば罰せられることはない」と広言した。しかし「彼らが村に戻ると、約束は守られず、酷い暴力を受け拘束された」と村人は報告する。

「地域の住民が集められ、警告の目的で拘束されたものたちは彼らの前で引き回された」という。また、部隊の暴力により負傷したものたちは重傷者を含め誰も病院に運ばれることなく、全く治療を受けることができない」と伝えられる。

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2014年09月10日

14世ダライ・ラマは本当に「ダライ・ラマ制度は自分で終わり、後継者は不要」と公言したのか?

6207cb20-3a8d-49ca-9871-2c93e07df044ダライ・ラマ法王は訪問先のドイツで9月7日、ドイツ週刊紙ウェルト日曜版(Welt am Sonntag)の取材を受けその中で「ダライ・ラマ制度は自分で終わり、後継者は不要」と公言した、とAFP日本語版等が伝えた。このニュースの反響は大きく、ネット上で世界中のチベット人やサポーターたちが「ショックを受けた。大変悲しいニュースだ。再考して頂きたい」と応じた。

これに対する中国側の反応としては、例えば新華社日本語版ではシンガポール華字紙を引用しながら最後に「ダライ・ラマが、次の生まれ変わり(化身)を探す『輪廻転生制度』を持ち出すのは、メディアから注目を集め、さらにはこれにより中央政府に圧力をかけるという政治目的を実現させるためだ」と結んだり、日本の東京大学にも留学した経験のある中国社会科学院の民族史研究者秦永章は9月9日付け環球網『ダライに転生制度を終わらせる権利はない 次のダライは愛国者に』と題した文章を発表している。

ちなみにこの秦永章氏は@rogcigさんによれば「東大の大学院の総文研にきて西川一三や木村肥生などしらべて、《日本涉藏史——近代日本与中国西藏》を書いた人」で青海省のトゥー族出身という。うらるんたさんは「民族間対立を煽る意図はないんですけど、青海省出身の少数民族(モンゴル系で、チベット仏教徒でもある)で中央民族大学、青海民族大学で学び、日本にも研究に来て過去の日本人のチベット研究の業績をたどり、社会科学院の研究者となっている人が、中国共産党主義丸出しのトンデモコラムを書くのって、悲しいなあと思います。」と反応されている。

ところで、このニュースが世界中に発信された後、このニュースの内容に疑問をもったチベットメディアが相次いでガンデン・ポタン(ダラムサラにあるダライ・ラマ事務所)に問い合わせたという。その結果をVOAやRFAが発表している。それによれば、ドイツ紙の発表は「誤解」であり、読者を「ミスリーディング」するものだという。真相はどうだったのか、インタビューの全体は未だ発表されておらず、ガンデン・ポタンの文章による正式な反応も発表されていないので現時点ではっきりとした答えは出ないがこれまでの経緯は報告しておく必要があると思われる。

まず、日本語で発表された最初の記事である9月8日付けAFPは以下:
ダライ・ラマ14世、「後継者は不要」 独紙インタビュー

【9月8日 AFP】チベット仏教最高指導者のダライ・ラマ(Dalai Lama)14世は、ドイツ紙とのインタビューの中で、自身を最後の指導者とするべきと述べ、故郷の地で数世紀にわたり継承されてきた宗教的伝統を終わりにすべきとの見解を示した。
 同氏は過去にも、「ダライ・ラマの目的は果たされた」と述べており、独紙「ウェルト」日曜版(Welt am Sonntag)での今回のコメントで、その意思をさらに明確にした形だ。
 英語で行われたインタビューで同氏は、「ダライ・ラマ(の伝統)はおよそ5世紀にわたり続いてきた。現在のダライ・ラマは非常に人気がある。評判の良い最高指導者がいる間に終わらせるべきだろう」と述べ、「弱いダライ・ラマが継承すれば、その伝統に傷が付く」と笑顔で付け加えたという。
 また、「チベット仏教は一個人に依存するものではない。私たちは、高度に訓練された僧侶や学者を何人も擁する非常に組織立った構造を持っている」とした。
 1950年にチベットに派兵した中国は、翌1951年から同地を統治。ダライ・ラマ氏は1959年の民族蜂起が失敗に終わった後、インドに逃れた。
 2011年にノーベル平和賞(Nobel Peace Prize)を受賞した同氏は、すでに政治活動からは距離を置いているが、それでも国内外のチベット人に対する強力な求心力を維持しており、また民族運動の象徴として広く知られている。(c)AFP

その他、日経も9月9日付けで同様な趣旨の記事を発表している。ライブドアニュースに至っては先のAFPの記事を紹介しながら、「ダライ・ラマ14世『後継者は不要』 チベット仏教を終わりにすべきとの見解」というとんでもない題を付けている。「チベット仏教を終わりにすべき」などという発言はAFPの記事中にもまったく見受けられない。

これに対し9月9日付けVOAはガンデン・ポタンから得たという返答として:「ダライ・ラマ(の伝統)はおよそ5世紀にわたり続いてきた。現在のダライ・ラマは非常に人気がある。評判の良い最高指導者がいる間に終わらせるべきだろう」という部分は「次期ダライ・ラマはどうなるのか?」という質問に対し法王が行った長い答えの中のほんの一部であり、法王はその返答の冒頭で「ダライ・ラマ制度を存続すべきかどうかはチベット人自身が決めるべきだ」と述べたという。

VOAはコメントとして、この「ダライ・ラマ制度を存続すべきかどうかはチベット人自身が決めるべきだ」という発言は法王が数十年前から何度も繰り返し表明されて来たものであるとする。また、転生に関する法王の意見として重要な点は以下の2点という。
1)15年後をめどに各宗派の代表が集まり次期ダライ・ラマについて話合いを行うこと。
2)次期ダライ・ラマは論理的に考えても分かるように現在のダライ・ラマの意志を継ぐことにある。そのためにはそのようなことが可能な環境の中に生まれることが必要であり、現在の状況のようなチベット内地に生まれ変わることはあり得ない。

RFAの方は「この記事は一部を引用しただけの誤解を生む記事である」とし、その他の内容はVOAと同様である。

FB上に発表されたあるビデオは今回のインタビューの一部とは思われないが、2)番目のことについて法王自身が語っておられるところである。

私もダラムサラで何度もこの法王の話は直接聞いている。法王が仮に「自分でダライ・ラマ制度は終わりだ」と言われたとしても、アテイスト中国共産党は政治的目的のために必ず次期15世ダライ・ラマを立てるであろう。そうなれば、亡命側もこれが本物の15世という子供を選出しない訳にはいかなくなると推測する。

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2014年09月09日

ビデオで拷問を暴露した僧ジグメ・ギャンツォに5年の刑 失踪3年後

bf8dec69アムドの名刹ラプラン・タシキル僧院の僧侶ジグメ・ギャンツォは2006年以来4度拘束されその度に拷問を受けていた。最後に拘束されたのは2011年8月20日、それ以来3年間以上行方不明のままとなっていた。

9月8日付けRFA等によれば、9月5日甘粛省の裁判所においてついに彼に判決が言い渡された。国家分裂扇動罪で5年の刑とされた。裁判に家族は呼ばれず、弁護士も付かない秘密裁判であった。

ジグメ・ギャンツォは2008年に逮捕された後、どのような拷問を受けたかをビデオを通じ詳しく伝えた。このビデオは最初VOA、次にyoutubeを通じて広まり、多くの人が彼の証言を聞いた。日本語訳もあることだし、まだ見ていない人は是非このビデオをみてほしい。
ビデオ
日本語訳

突然車に引き込まれ、頭に黒いずきんを被らされ、拘置所に連行された後、自動小銃を突きつけられ、「これはお前たちチベット人を殺すためのものだ。少しでも動けば、必ずお前を撃って殺してやる。死体をゴミ箱に捨ててやる。誰も気付きはしない」と脅される。その後2ヶ月間、彼は激しい拷問を受ける。天井から吊るされ意識を失うまで暴行を受けた。意識を失う度に病院に運び込まれ、意識が戻るとまた拷問を受ける。「まるで人を殴っているのではなく、ブタや犬を殴るような」暴行を受けた、と証言。

このビデオを製作したとして2008年11月に再び逮捕され、翌年5月に解放された。そして、また去年8月20日にツォエ(ツゥ 合作)のホテルで拘束される。詳しくはここここ

その後消息が途絶え、危惧されていたが、2012年10月12日付けTibet Netが消息を伝えた。それによれば、彼は心臓、肝臓等5種類の重い病を患い、蘭州の刑務所内病院で治療を受けていたという。彼の親族は当局に対し、病気を理由に解放を懇願したが、拒否された。親族はさらに病気が悪化しこのまま監獄で死ぬのではないかと心配していた。

その他参照:9月8日付けRFAチベット語版
9月8日付けTibet Timesチベット語版

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2014年09月08日

ディル<>ナクチュ間に厳しい検問所8カ所 苦しむ通行者たち

imageチベット自治区ナクチュ地区のディルでは去年9月に愛国高揚キャンペーンが始まり、これに反発するチベット人住民に対し当局が無差別発砲を含む厳しい弾圧を行った結果、これまでに少なくとも3人が銃殺され2人が拷問死している。これまでに拘束されたチベット人の数は1000人を越えるとされる。

最近伝えられた情報によれば、当局はディル・ナクチュ間270キロの国道上にこれまで4カ所あった検問所を倍の8カ所に増やし、厳しい監視を行っているという。検問に不満を示した運転手や乗客は激しい暴力を受け、路上で休憩のために停止すれば高額の罰金を払わされ、救急車まで停止される状態という。

8135b6e3去年10月の弾圧

「ディルの状況は改善されていない。規制、検問、弾圧は続いている」と匿名希望の住民は伝える。

「これまでディルからナクチュへは4時間で行けたが今は7時間かかる」
「運転手の書類は厳しくチェックされ、運転手や同乗者が少しでも不満な態度を示すとすぐに車から引き出され激しい暴力を受ける。運転手の中には拘束され15日から20日間の『再教育セッション』を受けさせられる者もいる」
「警察はこの区間で厳しいスピードチェックを行い、また検問所以外で運転手が休息のために車を止めることを禁止している。もしも、これに違反したときには7千元(約12万円)という法外な罰金が課せられる。これが払えないときには免許証その他の許可証が取り上げられる」
「重傷・重病人をディルからナクチュの病院に運ぼうとする救急車も検問で止められ、搬送時間が長くなるのも大問題だ」

「これらはディルの住民に課せられた規制のほんの一部だ」とディルのチベット人は訴える。

参照:9月5日付けRFA英語版
9月8日付けTibet Timesチベット語版

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2014年09月07日

セルシュ抗議デモの写真を海外に流したとして2人拘束

imageこの写真を海外に伝えたチベット人が拘束された。

カンゼ州セルシュ県ダンマ郷で先月12日、拘束された村長の解放を求めるチベット人住民たちに向かい当局が無差別発砲を行い、多くが重傷を負った。その後、拘置所内で銃弾を受けた人々が治療を受けるどころか拷問を受け、4人が死亡、1人が抗議の自殺を行った、ということはすでに伝えた。また、拷問死した夫の後を追い妻が自殺するという悲しいニュースも伝えた。

9月3日付けRFAによれば、この時のデモの様子を伝える写真を外国に流したとして2人のチベット人が拘束されたという。2人はダンマ郷ユンドック村出身のツェコックとパギャ。現地の情報網は依然厳しい監視を受けていることもあり、2人が拘束された日付その他の詳細は伝わっていない。

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ウーセル・ブログ「蛮人の舌」

北京在住のチベット人作家ウーセルさんは、8月15日付けブログの中で、自身が中学卒業後四川省の州都成都で学んだが故に、漢語ばかりが流暢になりチベット語を正確に発音することができなくなったと話される。また、中国人が「兎の肉も食べることができない蛮人」と呼ぶチベット人の文化を自ら進んで捨て、中国文化に「同化」し自我を失ってしまった自分を後に悲しみ、ラサに帰ることで辛く長い時間をかけ悲しい経験を経て再びチベット人としてのアイデンティティーを取り戻すことができたと語られる。

原文:蛮子的舌头
翻訳:M女史

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絵 ウーセル: ニュー・ヨーク・タイムズ記事原文:蛮人の舌より。








蛮人の舌

ツェリン・ウーセル


1981年初秋、日益しに漢化の進むチベット東部の小さな街・康定(チベット語でダルツェド)で中学を卒業した私はちょうど、成都にある西南民族学院予科部(高校に相当する)のチベット族学生募集にぶつかった。この予科部は1985年に始まったのだと思うが、同化の加速を目的とし、北京や上海など様々な都市で創建されたチベットクラス、チベット中学の前身に当たり、実験的な性質を備えたものだ。当然、政府側の言い分はすべて「チベットの人才培養を幇助する」というものだった。

決して両親に励まされてのことではなく、純粋に個人の願望によって私は予科に出願した。反抗期のただなかにあった私は両親に束縛されることを望まなかったうえ、成都が新鮮な事物に充ち満ちた大都市であると感じていて、中国とチベットにどのような違いがあるのかも意識していなかったし、自分の郷里や、属する文化と次第に遠のいてゆくことになるなどとは予想もしなかったのだ。

軍服を着た父が私を成都まで送ってくれた。私たちは座席の固い長距離バスに乗り、高い高い二郎山(チベット語では何といっただろう?)を越え、その後、窓の外の風景は青々とした竹、大きな野菜畑やたわわに実った果物になった。私たちがバスを降りた時、まず私に見えたものは路傍のレストランの前に置かれたたらいの中、積み上げられた寂しげな兎の頭が人を誘う香りを撒き散らしているところであった。私はいっときぽかんとなり、即座に思い出したのは兎の肉を食べると口唇裂になるというチベットの民間の言い伝え、眼前にはあの高山を穿ち谷を縦横無尽に走る道路の上、チベット語で「リボン」と発音する兎の突然死ぬところが現れた。

真っ向からやって来たものの多くが、大きく違っていた。飲食、外見、言葉……紅焼鱔魚(タウナギの醤油煮)を食べ始め、麻辣兎頭(兎の頭の辛味煮)を食べ、蛙の肉を食べた。これらを食べれば禁忌に背くことになるのは分かっていたが、食べないのはすなわち迷信深い“蛮人”なのだということはもっとよく分かっていた。成都人は“蛮人”という言葉を好んで口にするようだったが、兎の頭さえ食べられなければそれだけでもう、瓜兮兮の“蛮人”になるのであった(瓜兮兮の意味するところは大馬鹿者である)……成都は湿気の多い盆地で、私と同族の学友たちは髪の毛がひどくカールするのに驚いた。一般の人はこうした“天然パーマ”を少数民族の特徴と見なしていた。そこで私たちは毎朝長くカールした髪を櫛で激しく梳き、カールした髪を直毛にしようとしたが、結局は髪を切って耳のところまでの短髪となり、髪はカールしたままだったが、パーマをかけたように見え、成都の通りにいる中年女性みたいだった。

民族学院に設けられた予科は閉鎖的な“小学校”で、私たちはキャンパスの一角に据えられた二つの大教室で授業を受けた。私たちが成都の中学生と接触することはなく、同年齢の彼らが毎日何を学んでいるかまったく知らなかったが、恐らく私たちと同じだったろう、結局私たちと彼らの教科書は完全に同じで、他にもう一冊チベット語やイ語の教科書が出されることなどあり得なかった。私の学友の多数はチベット人で、あとはイ族だったが、チベット語とイ語が話せる者は何人もおらず、時間の推移に従って、みな流暢な成都方言になっていった。後になって、ラサの親戚は私の舌が「手術された舌」だと形容した。顫動音、巻舌音、歯齦音(歯茎音)など何種類かの伝統的なチベット語の音が、出せなくはなかったが出せばおかしな音になり、チベット語の「ラサ」という言葉すら正しく発音できなくなっていたのだ。

大学に通った経験は更に、取り換えられる経験だった。西南民族学院には全体で三十余りのそれぞれ呼称を持つ少数民族がおり、私たちを多民族の環境で生活しているかのようにさせていたが、これらの民族の歴史や文化はまったく理解しておらず、知っていたのは幾つかの民族の祭日にその民族風味の料理が一度だけ出るとか、或いは篝火を囲んで酒を飲み歌ったり踊ったりするとか、或いは洗面器で互いに水をかけ合いタイ族の“水かけ祭”をやってみることぐらいだった。多民族の特色は私に自分が“チベット族”という状態の中に置かれているのだと常に感じさせはしたが、ネイティヴとしてのいかなる教育も受けたことはない。

私は秦始皇帝の長城改修は立て板に水でもポタラ宮がいかに築かれたかを語れなかった。唐詩宋詞はすらすらと暗誦してもダライ・ラマ六世の詩歌を読めなかった。私は赤色中国の若干名の革命烈士は熟知していたが、1959年のラサ蜂起におけるチベット人自身の英雄については理解していなかった……幸い私はラサを忘れてはいなかった。そこが私の出生の地であり、四歳の時父母についてチベット東部に移ったのだが、それ以来ラサに対する郷愁を深く抱いていた。1990年春になって、私は大学卒業二年目にしてついに戻り、政府主宰のチベット文学雑誌社で編集を担当したのだ。

しかし、ラサに到着して最初の見聞は私を驚かせた。子供の時の記憶ははっきりせず、私の父が当時撮影した写真の中からラサのぼんやりとした印象を残せているだけだったのだ、独特の風格を備えた美を有しているというような。現実には実弾入りの銃を持った軍人が全域に満ち、一台また一台装甲車がゴロゴロと大通りを踏み敷いていたのだが、これは1989年3月、僧侶、尼僧や平民を含む多くのチベット人たちが街頭に出て、1959年に中国政府がチベット人の反抗を鎮圧したことに抗議したためで、それで今回、北京はラサに対して一年七ヶ月もの長きにわたる軍事戒厳令を敷いていたのだ。

両足はラサの地面に立ちながら、私は一種の深い孤独感をおぼえていたが、疑う余地もない、それは手術された舌の引き起こしたものだった。私は、自分が完全で標準的なチベット語をほぼ話せず、口から出てくるのは却って四川訛りの北京語なのだと気付いた。だが、私の母語はもともと中国語などではまったくなく、私の問題は、私の母語が成長過程の中で取り換えられてしまったことにあるに過ぎないのだ。私はこれは私が麻辣兎頭を食べたからで、禁忌を犯した人間は外貌まで変わってしまうのではないかと疑いさえした。

二十年ぶりにラサに戻った私は実は自我を失った私だった。そして私の自我に対する探求、拒絶、受容……最後に今の立ち位置からチベットの物語を述べるようになったが、本当に長い、長い時間を費やした。だが万事万物の形成にはすべて原因があるのであって、私が別の人間に取り換えられたのにも原因があるのだ、まさしく「鳥が石の上に落ちるのも、純粋に天の巡り合わせである」というチベットの諺のように。幸運だったのは、私は心臓まではすり替えられなかったことだ。

今もなお私にとって忘れ難いのは初めてトゥルナン寺に行った経験である。それはそこから重大な転機が生じることを意味し、更には強大な電流のように、異化に遭った私に立て続けに命中した。あれはある黄昏のこと、チベット人の伝統を保っている親戚に連れられて寺院に行った。なぜだか分からないが、私が進むうちに説明のつかない涙が湧き出してきた。笑みをたたえた釈迦牟尼の仏像に出会うと、むせび泣きが漏れ、内心でこう言う声が聞こえた。「お前はついに帰ってきたのだ。」しかし私はすぐに痛苦をおぼえた。そばにいた僧侶がチベット語で感嘆するのが聞こえたからだ。「このギャモ(漢人の女の子)はなんて可哀想なんだろう」






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2014年08月27日

失踪1年7ヶ月後、ディルの僧侶が9年の刑を受け衰弱し刑務所に収監されていることが判明

image1ゲシェ・ツルティム・ネンダク。

チベット自治区ナクチュ地区ディル県にあるラプテン僧院の教師であったゲシェ(博士)・ツルティム・ネンダク(40)は2012年12月中にラサで拘束され、その後1年7ヶ月の間、行方不明のままであった。今年7月31日になり、当局は初めて家族に彼の消息を知らせた。

それによれば、当局はゲシェ・ツルティム・ネンダクに9年の刑を与え、現在ラサのチュシュル刑務所に収監しているという。当局は罪状を明らかにしていない。裁判は全くの秘密裁判で行われたことは確かである。

家族がチュシュル刑務所に彼を訪ねたところ、彼は全身に傷跡があり、非常に衰弱した状態であった。刑務所側に家族が彼に治療を施すか、或は家族に引き渡すよう要請したが、現在まで完全に無視されているという。

参照:8月27日付けTibet Times チベット語版

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拷問死した夫の妻が自殺/部隊が警官を誤銃殺

46524a5f-69b3-47dd-ad8b-50cc6433504c四川省カンゼ州セルシュ県ダンマ郷ロチュク村。

先のブログでお知らせした、村長解放デモに対する治安部隊による無差別発砲事件で銃弾を受け、その後治療を受けるどころか拘置所で更なる拷問を受け死亡した3名のチベット人の内の1人、ジンパ・ターチン(18)の妻が8月18日、自宅で首をつり自殺した。

26日付けRFAによれば、ジンパ・ターチンの妻は妊娠7ヶ月であった。彼女は夫が8月18日に拘置所で拷問死したことを知らされた後、その日の内に自殺したという。

同じくRFAによれば、当局がセルシュ県ダンマ郷弾圧の一環としてロチュク村に部隊を派遣し、住民に向け発砲した際、誤ってチベット人住民の中にいた警官の首に銃弾が当たった。その警官はその後死亡したとされる。

また、8月23日にはこの事件に関わったとして拘束されていた、64歳になるチベット人女性が拷問の末、重体となりダルツェンドの病院に急送された。当局は家族が付き添うことを拒否し、家族は病院にも入ることができないという。

カンゼ州セルシュ県ダンマ郷には今も大勢の部隊が厳しい監視を続けており、情報網は遮断されたままという。

事件の原因となったダンマ郷シュクパ村の村長ワンダクの行方も不明のままである。

その他参照:8月26日付けRFAチベット語版
8月26日付けTibet Timesチベット語版



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2014年08月20日

セルシュの虐殺:拘置所内で4人死亡 1人抗議自殺

41村長ワンダクの解放を求め、役所の前で声を上げるチベット人たち。この後、彼らに向かい無差別発砲が行われた。

カム、カンゼ州セルシュ県で、今月12日、拘束された村長の解放を求める人々に向かって当局が無差別発砲を行い、10人以上が重傷を負ったというニュースは日本のメディアも既に報じている。例えば毎日新聞さんは19日付けで珍しくRFAを引用し、事件の経緯をまとめた記事を出している。だいたいの経緯はその日本語記事を参照して頂くことにして、ここではその他の情報や新たな情報のみをお伝えする。

8月11日の夜中12時頃、カンゼ州セルシュ県ダンマ郷シュクパ村(དཀར་མཛེས་ཁུལ་སེལ་ཤུལ་རྫོང་འདན་མ་ཤུག་པ་སྡེ་བ།)の村長ワンダク(དབང་གྲགས།45)が、自宅から当局により密かに連行されたことを知った地元のチベット人約100人が、次の日の12日、役場の前で彼の解放を求め声を上げた。この平和的抗議に対し当局は話を聞くどころか無差別発砲等で応じ、10人以上が被弾、重傷を負った。

5e7cd5f3-46e0-4a4c-971b-0729ec0ec666初め、重傷者は近くのジェクンド(ケグド)や成都の病院に運ばれたという情報も流れていたが、その後そのようなことはなく、病院で少しの手当を受けた後、重傷者たちは拘置所に返され、何人かは銃弾を摘出されることも無く、1週間以上治療をまったく受けることができないままという。

事件後、シュクパ村は部隊により包囲されていたが、16日には部隊が村の家々を巡り、12歳以下の子供と老人以外のチベット人全員を連行し、拘置所や病院内で拘束した。連行は暴力的に行われ、拘置所でも暴力を受け、負傷者が大勢出ていると伝えれる。また、全員頭を剃られたという。

17日、このような悲惨な状況にチベット人たちが置かれていることに抗議する目的で、先のデモの最中被弾していたロ・ペルサン(བློ་དཔལ་བཟང་།)が拘置所内で自殺した。同じ日に22歳の若者も被弾後治療を受けることが許されず拘置所内で死亡した、ということがこれまで伝えられていた。

19日付けRFAチベット語版によれば、これまでにこの他3人が被弾による負傷とその後の拘置所内の拷問により死亡したという。何れも村長ワンダクの近親者である。3人の氏名は、村長ワンダクの叔父であるツェワン・ゴンポ(60)、村長ワンダクの弟であるイシェ(42)、ワンダク家の義理の息子であるジンパ・ターチン(18)。彼らの遺体は18日中に家族に引き渡されたという。17日に死亡した氏名不明の22歳の若者はこの3人とは別とすれば、これまでに4人が拘置所内で死亡、1人が自殺したことになる。

また、当局は18日、デンマ郷ロチュク村で村人を集め集会を開いた。その最中役人は「村長ワンダクが逮捕されたのは、噂されているような競馬大会の件ではなく、彼が汚職を行ったからだ」と説明したという。もっとも、この集会に参加する村人は少なかった。これに怒り、19日に再び集会を開くと命令したという。

2317村長ワンダク。

事件の発端は村長ワンダクの逮捕である。彼は普段より勇敢で正義感が強く、また弱者を積極的に助けることで有名であったという。つまり、典型的ないいタイプのカンパ(カムの男)であったらしい。村人たちの権利を恐れず主張する彼は当然以前から当局に睨まれていた。

この夏、村で競馬大会が行われ、競馬大会の前には焼香と祈りの儀式が行われた。これは恒例のことだが、今回は当局は許可を出していなかったという。このことで、村長ワンダクは郷の役人に呼び出され、非難されたが、彼は「競馬大会はチベットの昔からの伝統的行事であり、いちいち当局から許可を得る必要はない」と主張しケンカになったという。

また最近、中央政府の役人がこの地区を訪問するというので、シュクパ村からも歌舞団を送るようにと要請された。この歌舞団が練習中にその中の女性に対し、中国の役人が嫌がらせを行ったという。この報告を受けた村長ワンダクは役場に向かい、役人たちに抗議し、ケンカとなったという。この時、彼は拘束されなかったが、当局はこれにより彼を逮捕することを決めたらしい、と村人は伝える。

その他参照:8月18日付けRFAチベット語版
8月13日付けRFA英語版
8月18日付けRFA英語版
8月13日付けTibet Timesチベット語版
8月18日付けTibet Times チベット語版

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2014年07月24日

青蔵鉄道 ラサ〜シガツェ間開通 8月初めより

10526117_10202312293159670_1552971756649619929_n試運転中の車両。

RFAが人民日報を引用し伝えるところによれば、青蔵チベット鉄道会社は今月22日に敷設を終えたラサ〜シガツェ間の鉄道上で試験走行を行い、来月8月初めから商業運転を開始すると発表した。

中国は西部大開発の目玉プロジェクトとして2006年7月、青海省のゴルムトからラサまでの全長1956kmの鉄道を完成させた。チベットにとってこの鉄道の影響は莫大であり、北京からラサまでの大動脈ができたということで、人と物と武器の移動が自然と増大した。漢民族移民と鉱物資源搬出が加速され、武器や軍隊の大量移送が簡単となった。ラサ周辺は漢族の観光客で溢れる状態となった。チベット支配強化に貢献著しい鉄道である。

この青蔵鉄道初の延長線であるシガツェまでの全長253kmの路線は2010年9月に着工され、ことし10月の完成予定であった。海抜3600m〜4000mの高地で、たった4年間でそれも予定より早く完成させたことで、中国はこの鉄道完成に深い意義認め、強い意志を示したことになろう。

10462492_10202312293279673_5810547632536239252_n新たに作られたラサ南駅。

ラサ〜シガツェ間の列車は平均時速120km/hで運転され、途中駅の数は13カ所、所要2時間という。当局は「環境に配慮した設計と工事を行った。南西チベットに住む人々に多大な利益をもたらす」と宣伝する。これに対し、地元のチベット人たちは「漢族の移民と鉱物資源の略奪が加速されるだけだ」と嘆く。

ラサに次ぐチベット自治区第二の都市、シガツェ市の人口は約70万。ラサに比べまだまだチベット人率が高く、その90%以上がチベット人である。鉄道の開通により、今後人口比率も急速に変化することであろう。

27d7b76f-80ec-4431-b214-a3df704f0140青蔵鉄道内の漢族。

シガツェには中国が選んだパンチェン・ラマが座主であるタシルンポ僧院もある。つい先日も11世パンチェン・ラマとされるギェルツェン・ノルブがこのタシルンポを訪れ、法要を行っている。宗教支配のもう1つの拠点にもなるであろう。

インド国境にもっとも近づくこの鉄道路線がインドを刺激しないはずはない。中国の辺境鉄道の最大の目的はつねに戦略的なものであるからだ。それでなくても、インドは中印国境関係だけでもその兵力は半分以下である。「この鉄道延長により、兵員と武器を速やかに移動させる戦略的能力を得たことになる」とインドのメディアなどは憂慮を示している。

この路線はさらにネパールのカトマンドゥや、果てはインド国境沿いのルンビニまで延長されるという計画がある。今のところインドの圧力でネパール政府はこれを認めていないが、この先はわからない。

参照:7月23日付けRFAチベット語版
その他

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2014年07月19日

寒村から突然僧尼の兄弟等連行

66ad0010-08e7-49eb-9670-4e2237aaa6bd左:ギェルテン・ペルギェ、右:ゲディ。

7月9日早朝、カム、ソク・ゾン(チベット自治区ナクチュ地区ソク県)の村に大勢の警官が押し掛けチベット人3人を連行した。その後の消息は知れず、食料や衣服を届けようとした兄弟もソクに向かった後失踪した。

連行されたのは、ソク県ロンウォ郷第13村(སོག་རྫོང་རོང་པོ་ཡུལ་ཚོའི་གྲོང་ཚོ་༡༣།)カルツァ家の兄弟である僧ギェルテン・ペルギェ(རྒྱལ་བསྟན་འཕེལ་རྒྱས།29)と尼ゲディ(དགེ་སྡིས།52)、及びアムツォ家のチュダッ(ཆོས་གྲགས།59)と伝えられる。

彼らが拘束された理由を当局は明かさず、地元のチベット人たちも、推測することができないという。

彼らの兄弟の1人が、食料や衣服を届けるためにソクの街に向かったが、その後、彼の消息も途絶えたままだ。

事件の後、村と特にカルツァ家の回りは大勢の警官により囲まれ、彼らは行き交うチベット人たちを検査し、厳しく尋問しているという。

参照:7月17日付けRFAチベット語版
7月17日付けTibet Times チベット語版
7月18日付けphayul

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2014年07月18日

中国の僧院弾圧に抗議しチベット人僧侶自殺

bbea147c-5353-41ee-adb6-bda9e3e50875僧タプケ。

7月17日付けRFAによれば、アムド、サンチュ(甘粛省甘南チベット族自治州夏河県)にあるラプラン・タシキル僧院の若い1人の僧侶が、中国政府の宗教弾圧、特に僧侶の数を制限する等の僧院に対する規制に抗議する目的で自殺したという。

7月9日、僧タプケཐབས་མཁས、24歳は僧院を前にした森の中(RFA中国語版では「僧坊」)で首を吊った姿で発見された。

ある現地のチベット人は「彼は5歳の時からラプラン・タシキル僧院で学び続けていた。しかし、当局の僧院における僧院数制限という政策の下で、彼は僧院が行う法要に参加することができなくなっていた。他にも僧院に対し様々な制限が課されているが、これを苦にして自殺したのだと思う」と話す。

自殺する直前に僧タプケは友人に思いを語っていたという。「自分は5歳の時にラプラン僧院で僧侶となり、これまで19年間、精一杯勉強に精進し、慎ましく暮らし、おとなしく規則に従ってきた。しかし、当局は僧侶の数を制限し、これにより自分は法要に参加できない。中国はチベットの僧院に自由を与えず、様々な仕方で規制をかけ、弾圧している。僧院数制限に反対し、チベットの宗教を破壊する政策に抗議するために自分は1つ仕事をするつもりだ」と。

他の現地の人は「現在当局はラプラン・タシキル僧院の僧侶の数を999人までと決めている。僧侶は根本のラマ(ダライ・ラマ法王)の写真を持つことも許されない。いろんな困難に遭って僧侶を辞める者もいる。僧タプケが自殺したのは、チベット人と特に僧院に対する宗教弾圧が原因だ」という。

僧タプケはサンチュ県ンガクパ村の出身。父の名はジクチェ・キャプ、母の名はデキ・ドルマ。

参照:7月17日付けRFAチベット語版
同英語版
同中国語版

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2014年07月15日

ディルで尊敬を集める僧侶拘束/外国のニュースを聞けば冬虫夏草採取権利剥奪

去年秋頃から、弾圧が強まっている自治区ディル県でこんどは、地元の人々からチベット愛国者として深い尊敬を集める1人の僧侶が拘束され、それを契機に弾圧がさらに強められた。

8978C47C-1772-僧テンジン・ルンドゥプ。

現地からの報告によれば、「今年5月のラカルの日(*1)に、ディル県レンチュ郷(འབྲི་རུ་རྫོང་བརླན་ཆུ།)にあるゴム・ゴンサル僧院(འགོམ་དགོན་གསར་དགོན་པ།)の僧テンジン・ルンドゥプ(བསྟན་འཛིན་ལྷུན་གྲུབ།)はシャクチュ町に講演のために招待された。演題は地区の人々の要請に従い『民族と言語の現状』であった。その講演中に彼は警官により連行されたのだ」という。

シャクチュ郷出身の僧テンジン・ルンドゥプは他の僧院も廻りながら仏教学を深く修め、僧院では教師格の僧侶であった。また、彼は僧院内だけでなく、付近の村人たちにも呼ばれるがままに、仏教だけではなく、普通の道徳を説き、菜食を勧めていたという。彼の人徳が見込まれ、村人同士の争いの仲介役にもなっていた。されに、彼はチベットに対する忠誠心の強い僧侶としても知られ、地元の人々から篤い信頼を得ていたという。

9FA79DA2-50E2-427B-9B8D-706C3CDBEF24ナクラ鉱山開発に抗議した人々を祝福するためにカタを与える僧テンジン・ルンドゥプ。

去年5月、ディル県にあるナクラ・ザンバラと呼ばれる聖山の麓で鉱山開発が始まろうとしたとき、地元のチベット人が数千人現場に集まり抗議を行ったということがあった。この後、この抗議集会に参加したチベット人の多くが逮捕され刑を受けている。この時、僧テンジン・ルンドゥプは参加者たちを祝福するためにカタを与えるという役を行っていた。そして、この時から当局は彼をマークし続けて来たという。

D7AA2207-A55B鉱山開発に抗議し、彼により祝福された人々。

彼が連行された後、ゴム・ゴンサル僧院は部隊に囲まれ、彼の部屋が捜査されたという。その時、あるチベット人が警官に拘束の理由を尋ねたところ、警官は「彼は今日の出来事だけでなく、何年も前からいろいろと問題があることが分かっていた。特にナクラ鉱山開発反対運動の中心的人物だ」と答えたそうである。

彼の消息は現在も途絶えたままという。また、彼の拘束を契機にディル県の警察はディルの弾圧強化を宣言する公示を張り出した。それによれば、ディルのチベット人はその移動、言論、宗教の自由が制限され、特に僧侶に対しては「噂を広めないように」と警告されているという。命令に従わない僧侶は僧籍を奪われ、僧院から追放され、福祉支援を受ける権利が剥奪されるとされる。

一般チベット人に対しては、「チベット独立を求める歌を歌ったり、中国政府の政策に異議を申し立てたり、国家機密を外国に流したり、亡命チベット人社会が発するニュースを聞いたりしたときには、その人の冬虫夏草を採取する権利とすべての福祉支援を受ける権利が剥奪される」と公示されたという。

*1 ラカルの日:ラカル<白い(聖なる)水曜日>とはダライ・ラマ法王の誕生曜日が水曜日だったということで、この水曜日を特別な曜日と見なし、この日、間接的抵抗を示すために宗教、文化に関する様々な特別の行動を行う個人や団体がある。この情報を伝えた人は「5月のラカルの日」としか覚えていないらしく、日にちは未だ特定できていない。

参照:7月14日付けTibet Expressチベット語版
7月14日付けTCHRDリリース
7月14日付けRFAチベット語版


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2014年07月12日

リタン:共産党のやり方でなく西洋的やり方で問題を解決したとして拘束

a058744aカム、リタン。

最近、カム、リタン(四川省カンゼ・チベット族自治州理塘)で地域の代表的僧侶や村の代表者6、7人が県の警察により拘束され、その内数名は後に解放されたが、4人が今も拘束されたままという。

当局は拘束の理由を明らかにしていないが、地元の人々は彼らが「共産党のやり方に従わず、西洋的やり方で問題を解決したからであろう」という。

また、「彼らは普段からチベット人の連帯を説き、チベット人同士の問題とか、牧草地などの土地争いを解決する役を担って来ただけで、何の罪も犯していない。しかし、これを当局は民衆を誤った道に導いたというのだ」と話す。

ダライ・ラマ法王の誕生日辺りからこのリタンでもネットや電話が遮断され、されに軍隊が大勢、街に配置され警戒態勢が強化されているという。このせいもあり、拘束されている4人の現状を知ることができないままという。

ーーーーーーーーーー

状況が今ひとつはっきりしないせいもあり、なぜ彼らが拘束されたのかについて納得するのが難しい。今回拘束された人たちはすべて地元のチベット人たちが自発的に、自然に問題解決を頼んだ人々であろう。そして、彼らは期待される役割を担い、問題を平和的に解決して来た。このある種の民主的村落自治を当局が犯罪と判断したと見ることもできそうだ。

この人たちは共産党よりも人々から尊敬と信頼を集め、頼りとされて来た。彼らは道徳を説き、チベット人同士が仲良く、団結することを説いた。また、問題を解決する手段として暴力を使わず話合った。これは共産党のやり方ではなく、西洋風のやり方であり、故に犯罪行為というわけだ。

参照:7月11日付けTibet Timesチベット語版
7月10日付けVOT中国語版


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2014年07月11日

カム、セルタで僧侶が1人デモ

106bcf78-e08f-4db4-99ce-6e0e9d63f3b7僧シェルキャプ

7月10日付けRFAによれば、7月9日現地時間正午頃、四川省カンゼチベット族自治州セルタ県セルタ(སེར་རྟ། 色達)の中心街で1人の若い僧侶がスローガンを叫びながらチラシを撒き、その場で逮捕されたという。

この僧侶の身元はセルタ・ヌプセル僧院のシェルキャプ(ཤེར་སྐྱབས།)20歳と判明した。現地からの報告によれば、「彼は街の中心にある金馬広場で『ダライ・ラマ法王はチベットに帰還されるべきだ!チベットには自由が必要だ!』と叫びながら、沢山のチラシを撒いた。5、6分後、大勢の警官が駆けつけ、彼を逮捕した」という。

fe31574b金馬広場

また、「セルタ県警察署に連行された後、どうなったかは分からない。今、セルタ地区のネットは遮断されている」という。

僧シェルキャップは最近セルタにあるラルンガル僧院(五明仏学院)で学んでいた。ヌプセル僧院はセルタから20キロ離れており、この僧院には500人の僧侶が所属していることになっている。しかし、実際には外で学ぶ僧侶が多く、現在僧院には100人ぐらいの僧侶がいるだけという。

5d8660052012年2月のデモの際、部隊に荒々しく引きずられるチベット人。

このセルタの、特に金馬(セルタ)広場では2008年以降様々なチベット人による抵抗活動が行われている。2012年2月には大規模な抗議デモに対し部隊が無差別発砲したことにより、少なくとも2人が死亡し、大勢が負傷した。

2012年11月にはワンギェル(20)がこの広場で焼身抗議を行い、死亡した。その前2012年3月には17歳の中学生がこの広場で焼身を企て、多量のガソリンを飲んだ。が、飲み過ぎたのかその場で意識を失い倒れ、連行されたという事件もあった。

ちょうど昨日、カンゼ辺りを最近旅行したという1人の日本人旅行者が現地の様子を知らせてくれた。先のブログで当局が、7月6日の法王誕生日や現在ラダックで行われているカーラチャクラ法要に対する警戒感からネット等を遮断しているということを伝えたが、実際にそこにいた日本人は次のように話す。
カンゼですがネットと国際電話が遮断され、携帯電話も一部不通になっています。ついでに外国人は公安の渉外担当に見つかると、ホテル確認されて次の日に出て行くように言われ、もっと居させてと交渉するとビザ取り上げることになると言われます。私はずっと台灣人の友達と居たのですがずっと平気でした。しかし先日来た日本人のおじいさんで引っかかってしまい結局出ることになりました。玉樹やセルシュの方には行くなとも言われました。今日バスで離れましたが途中軍事演習が各地で行われており、とくにターゴンの軍事演習場にはかなりの数の軍隊兵隊が見かけられました。タウの町は前回行った時よりかなり強化されていました。町の入口出口には公安でも武警でもなく軍隊が銃を構えていました。


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