2013年05月19日
6年の刑を受け服役中の歌手ロロ。一昨日の5月17日はダライ・ラマ法王の認定したパンチェン・ラマ11世が中国当局により拉致されて18年目の記念日ということで、世界各地で圧政下にある内地チベット人への連帯とパンチェン・ラマ解放を訴えるイベントが行われた。
きょうは先代パンチェン・ラマ10世と失踪させられた11世のことを歌った1つの歌を紹介する。
この歌を歌ったジェクンド州ティンドゥ県出身の人気歌手ロロ(30)は今年2月23日に政治的歌を歌ったとして6年の刑を受けた。この歌の歌詞を書いたニンツォ・シルカル僧院僧侶ロプサン・ジンパもロロと共に5年の刑を受けた。
参照:http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51741792.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51783535.html
以下歌詞の日本語試訳:
パンチェンよ
静かで堂々とした白き雪山の如き
積み重ねられた歴史の石柱のその最後に
チベットへの途絶えることのない温かい愛を示された
チベットの勇者パンチェン・ラマに栄光を
全てを覆い尽くす残酷な熱い力の下から
聖俗二つの石により打たれた傷口から
忠誠心の快い歌のようなスローガンを空に響かせる
遅れた者たちに立ち向かう菩薩
間違った因果の法に従う盗賊たち
虚偽と弾圧の闘いの中から
真理を守るために命を捧げた
21世紀への使者はあなたをおいていない
悲しげな月のおもてが西の丘の向こうに消え去ろうと
涙とともにあなたの転生者を待ちわびたが
新たな日の夜明けも敵の暗闇により連れ去られた
そして 雪国チベットの人々の心はさらに冷えきった
参照:5月17日付けTCHRDリリース http://www.tchrd.org/2013/05/three-lives-and-a-song-disappearance-of-panchen-lama-4/
2013年05月18日
アディル・ロプサン・テンジン・リンポチェ2008年3月10日、ラサのジョカン前でセラ僧院の僧侶10数名が抗議デモを行い、全員逮捕され、刑期を受けた。このデモは同日のデブン僧院のデモと共に全チベット圏に広がった2008年3月蜂起の発火点となった。この時デモを行ったセラ僧院僧侶の大多数はカンゼ州セルシュル(ザチュカ)県ウォンボ僧院からセラに勉強のために行っていた者たちであった。そして、当局は3月15日、当時ラサに滞在していたウォンボ僧院の転生ラマであるアディル・ロプサン・テンジン(ཨ་དྲིལ་བློ་བཟང་བསྟན་འཛིན་ 現在69歳)を「国外に国家機密を伝えた」として拘束した。
2009年12月15日には彼の中国人の弟子たちが「リンポチェは高齢であり、健康も優れないので解放してほしい」という請願書を提出したが、当局はまったくこれには答えなかった。ほぼ2年後の2012年2月にリンポチェは5年の刑を受け、ラサのチュシュル刑務所で服役。今年3月15日に刑期は満了していたが、その後2ヶ月拘束された後、今月15日に解放され無事ウォンボ僧院に帰ることができた。
1944年生まれのリンポチェは、幼少時にアディル・ラマ・タクギェルの転生者として選出されウォンボ僧院のリンポチェとして教育を受けた。中国の侵略を受けた1959年からは他のラマや僧侶と同様に辛い獄中生活を余儀なくされた。1990年からはウォンボ僧院の僧院長として僧俗に仏教を説き、また自分の住居を一般の学校として寄付するなどし、地域の僧侶、住民から篤い信頼を得ていた。
カンゼ僧院僧侶2人が秘密裏に解放される
2008年5月にカンゼ州カンゼで抗議デモを行い5年の刑を受け服役していた、カンゼ僧院僧侶ロプサン・テンパと僧ロプサン・チュデンが5月12日に解放された。しかし、彼らは秘密裏に解放され、解放された後も監視下におかれ、一般人との面会が許されない状態という。
解放が秘密裏に行われたのは、この地区では政治犯が解放されたときには、地域の住民が大勢集まり、歓迎会を開くことが習わしとなっており、これを行わせないために当局がそのようなことをしたのであろうと地元の報告者は話す。
2008年3月にラサで始まりチベット全土に広がった抗議デモの際、ラサ以外ではこのカンゼとンガバがもっとも多いくの犠牲者を出している。カンゼでは20人ほどが部隊の無差別発砲により死亡したと言われる。以降、カンゼでは最近まで頻繁に抗議デモが行われている。
参照:5月18日付けTibet Times チベット語版http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=7681
5月17日付けphayul http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=33455&article=After+serving+five-year+terms%2c+three+Tibetan+political+prisoners+released
5月16日付けTibet Express チベット語版
2013年05月17日

今日、5月17日はチベット亡命政府が呼びかけた「世界同時連帯デー」。世界各地で内地チベット人への連帯を示すイベントが行われたはず。
ダラムサラでは朝10時から、チベットミュージアムがツクラカンの前庭でチベットの焼身とチベットの歴史を中心とした展示イベントを行った。
そして、午後4時からツクラカン本堂で4月24日にゾゲのタクツァン・ラモ・キルティ僧院内で焼身、死亡した僧ロプサン・ダワと僧プンツォック・ウーセルをはじめとするこれまでの焼身者への追悼会が行われた。
その後、ツクラカン前庭に場所を移し、連帯を示し、祈りを捧げるという集会が行われた。
以下、写真を中心に。

ツクラカンで行われた追悼会。

今日はダライ・ラマ法王が承認したパンチェン・ラマ11世、ゲンドゥン・チュキ・ニマが18年前の今日、当局により拉致された日。彼と彼の家族の消息はその後、まったく分かっていない。
集会のはじめにパンチェン・ラマの研究者という(名前失念)チベット人が11世パンチェン・ラマ選出の経緯を報告した。その中でダライ・ラマ14世が当初、如何に中国に譲歩し「双方で同じ転生者を承認すること」に努力したか、それにも関わらず、中国側が一方的に提案を拒否しダライ・ラマ法王が承認したパンチェン・ラマを拉致し、自分たちで都合のいいパンチェン・ラマを不正なやり方で選出したかを詳説した。
また、14世ダライ・ラマが「自分を真性なダライ・ラマであることを承認してくれた先代のパンチェン・ラマに恩がある」ことを語り、「本物の11世パンチェン・ラマが次の15世ダライ・ラマを承認すること」の重要性を強調し、「必ず彼を見つけ出さねばならない」とおっしゃったことを伝えた。

ドラマスクールによる、焼身者を讃え、連帯を示す歌。

同様な趣旨の男性コーラスグループの歌。

最後に「ツェメーユンテン(真理の祈り)」を歌いながら祈る人々。

歌を先導するドラマスクールの女性グループ。

小坊主たち。子供は坊主であろうと祈りの歌を歌いながらも、カメラを向けると笑う。

お年寄りは、、、
2013年05月16日
ガルツェ・ジグメ5月14日、青海省黄南チベット族自治州ツェコン県(རྨ་ལྷོ་ཁུལ་རྩེ་ཁོང་རྫོང་)の裁判所はチベット人僧侶作家ガルツェ・ジグメ(འགར་རྩེ་འཇིགས་མེད་36)に5年の刑を言い渡した。
僧ガルツェ・ジグメは今年1月1日にガルツェ僧院から連行され、その後行方不明になっていた。
詳しくは:http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51776043.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51787599.html
彼は地区で作家、知識人のセミナーを開いたりもしており、影響力のある作家であった。逮捕された直接の原因は直前に出版した雑誌「王の勇気༼བཙན་པོའི་སྙིང་སྟོབས༽」第二部ではないかと思われている。この中で彼は焼身、抗議デモ、ダライ・ラマ法王、チベット亡命政府、チベット人の権利、環境、少数民族と北京の関係等、チベットの現状についての報告を行っていた。
彼は1999年から、文筆活動をはじめ膨大な数のエッセイや記事を発表してと言われる。「王の勇気」第一部を2008年に出版し、その中で2008年蜂起をはじめチベット人の苦しみの状況について詳しく語っていたが、この雑誌が原因で2011年4月、当局に拘束され、その時ひどい拷問を受けたという。解放された後、この脅しにもめげずさらに文筆活動等を続けていた。
2008年以降、チベット人作家、歌手、文化人、知識人、地域に影響力のあるラマ等の拘束・逮捕が続いている。彼らはチベット語でチベットの現状を知らせ、チベット人としてのアイデンティティーを守ることを訴えることが多い。当局は情報封鎖、チベット文化、民族弱体化を目的に彼らを取り締まっているのである。
中国では事実を発表すると逮捕される。メディア等は嘘を書く限り逮捕されない。
参照:15日付けTibet Timesチベット語版 http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=7669
2013年05月15日
ルチュ、現場に集まる武装警官ルチュで土地強制収用に反対するチベット人15人拘束、1人病院へ
今月5月12日、焼身抗議も頻発した甘粛省甘南チベット族自治州ルチュ県で、土地所有権を主張するチベット人たちに武装警官隊が襲いかかり、15人連行、1人病院に担ぎ込まれた。
当局はチベット人たちが所有を主張する土地を政府の土地であり、売り買いは禁止されている、大人しく引き渡さないと時には強制的に収用すると警告。辺りを鉄条網で囲い「碌曲(ルチュ)県国土資源局所有」という看板を立てた。
これに対し、土地所有権を主張するチベット人たちは「これらの土地は大金をはたいて購入し、長年自分たちが利用し続けて来た土地だ」として、土地の引き渡しを拒否し、土地の上で座り込みデモを行った。
これに対し、当局は5月12日、約200人ほどの武装警官隊を送り込み、デモを行うチベット人を暴力的に追い払った。その際、ダルギェ、ゴンポ・キャプを含む少なくとも15人が連行され、多くのチベット人が負傷したが、その内の1人は重傷を負い病院に担ぎ込まれたという。
参照:5月14日付けRFAチベット語版http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/chinese-authorities-confiscated-tibetan-properties-in-luchu-05142013142525.html?utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter
同中国語版http://www.rfa.org/mandarin/Xinwen/g-05142013164801.html
中国福建泉州では同じく土地収用に伴い官民が衝突、人質交換中国ではチベット地区に限らず、政府の土地強制収用に関わる衝突は日常茶飯事。ではあるが、上記ルチュの事件が起った一日前には、福建泉州でちょっと変わった光景が繰り広げられた。左の写真を見てもらうと分かるが、1人の特殊警官が手を縛られ村人である女性にしずしずと引きずられて行ったというのである。
詳しい事の経緯は中国語がしっかり読めないので分からないが、とにかく5月11日に福建泉州市惠安県東橋鎮で土地収用を巡り、数百人の警官隊と千人ほどの村人が衝突し、村人13人が連行されたが、一方で村人は1人(3人との説も)の特殊警官を人質或は捕虜として確保したという。
村人にはたかれる捕虜になった特殊警官そして、その後この1人(又は3人)の警官と連行されていた村人13人が人質交換されたというのだ。
ま、これで、全てが終わったとは思われないので、続報も知りたいところである。それにしても、これがチベットならこんなことをすれば後で村ごと軍に包囲され、恐ろしい結末を迎えるであろうと思われる。漢人相手だとこのようなこともありなのだと驚く。
参照:5月15日付け大紀元http://www.epochtimes.com/b5/13/5/12/n3869046.htm
カンゼとナクチュの各地でサカダワに合わせ焼身抗議者に連帯を示す祈祷会
RFAが伝えるところによれば、カム、カンゼ州とチベット自治区ナクチュ地区の各地で今月10日から始まったサカダワ(チベット暦4月、チベット仏教徒にとってもっとも聖なる月)に合わせ、連日各地の僧院等に地元のチベット人大勢が集まり、これまでチベットのために焼身抗議を行い死亡した人々を追悼し、生き残った人々や焼身者の家族たちへの連帯を示すための特別祈祷会が行われているという。
カンゼ僧院下の村カンゼ州内のこの種の法会においては焼身抗議者たちだけでなく、先のヤクガ(雅安)地震による犠牲者への追悼も合わせて行われているという。今のところ、当局の介入は報告されていない。
参照:5月11日付けRFAチベット語版http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/special-prayer-to-self-immolators-by-tibetan-in-kham-karze-05112013143218.html
ナクチュについては15日RFAチベット語放送分より。
2013年05月14日
RFAによれば、カム、チャムド(チベット自治区チャムド地区)ゾガン(མཛོ་སྒང་)県出身の僧侶カド(ཀ་རྡོ་)が、4月21日ゾガン警察の捜査を受けその際、部屋からダライ・ラマ法王の法話が入ったCD2枚が見つかり、その場で逮捕されたという。そして、僧カドはゾガン警察によりひどい拷問と暴力を受けた末、1週間後の28日に死亡し、遺体は妹に渡された。僧カドは経によく通じ、知識と徳行において優れた僧侶であったと言われる。彼はチャムド僧院で勉強していたが、チャムド僧院はシュクデンを奉じる僧侶が多く、彼はこれを嫌い故郷に帰っていた。故郷でも度々シュクデンは良くないということを地域の人々に説いていたという。このこともあって当局から目を付けられたのではないかと思われている。
情報を伝えた現地のチベット人によれば、ゾガン県の警察は暴力的なことで有名だといい。これまでにも少なくとも2人が拘束中の拷問により死亡していると報告した。1人は2008年に政治的チラシを張り出したチベット人、2人目は2009年に抗議デモを行ったペマ・ツェパという。
さらに、今年のチベット暦ロサ(正月)に当局がロサを盛大に祝えと命令したことに反発して地区で行われたデモに対し、武装警官隊等がはげしい暴力を加え多くのチベット人が骨折するなどの重傷を負ったという。
参照:5月13日付けRFAチベット版http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/tibean-monk-died-in-dzogang-05132013134115.html
及び14日放送分。
法王の法話のCDを2枚持っていたというだけで、拷問死刑にされたわけだ。警官は誰も罰せられない。
2013年05月12日
2010年10月20日、チャプチャにおける「チベット語擁護」を訴える高校生によるデモ。以下、チベット人焼身抗議の背景を探るコラムの1つ。
言語政策 同化政策のかなめ
チベット語は語順や「てにをは」のような助詞の存在等により日本語に似ていると言ってもいい言葉だ。チベット語とその方言を使う人々はチベット高原全域とヒマラヤ南麓を中心に約1200万人いると言われている。かつてはこの地域だけでなく、モンゴルや現ロシア連邦内のカルミック共和国、トゥバ共和国、ブリヤート共和国を含める地域の高等教育言語であった。しかし、60年間に渡る中国支配の下でチベット語は組織的に消し去られようとしている。
焼身者の内、多くの人たちが遺書の中で「チベット語擁護」を訴え、最後の叫びの中で「言語自由」を訴えている。それほど今、チベット文化、宗教、アイデンティティーの基礎であるチベット語が消え去るのではないか、中国共産党により抹消されようとしているのではないかという危機感がチベット全域に広がっている。先祖代々数千年もの間使われて来た自分たちの言葉が消え去るのではないかという不安は、歴史ある一民族にとってそれほどインパクトのあることなのだ。
1960年代から中国共産党は言うところのプロレタリアート言語に近づけるために助詞の数を減らす等、チベット語の文法自体を変更しようとした。悲惨な文革時代を経験したチベット人学者ムゲ・サムテンは「ほぼ全ての僧院や学校は閉鎖され、チベット語を教えることは禁止された。プロパガンダのために使われるチベット語は『改革言語』と呼ばれ、これは一般的チベット語文法に沿ったものではなかった。普通のチベット語を話す人は『修正主義者』『反革命主義者』のレッテルを張られ糾弾の対象とされた」と証言する(注1)。「破四旧」(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣の打破)を掲げる紅衛兵は教育施設を全て破壊し、知識人を労働キャンプに送り、タムジン等により、全ての過去の記憶を消そうとした。
悪夢のような文革が終わり、80年代初めに胡耀邦の支援とパンチェン・ラマの努力、自治区書記伍精華の融和政策によりチベットにも一時的な春が訪れ、チベット語学習の環境も整えられ始めた。しかし、それも長続きせず、1992年から2000年まで自治区書記であった陳奎元の強硬路線により、再びチベット語は規制の対象となった。
陳奎元は1994年11月26日、第5回チベット自治区教育会議におけるスピーチの中で、自治区における教育は思想的目的を達成するものであるべきだとし、「地区で何人が中学を卒業したかとか学士になったとかは問題ではない、重要なのは最終的に彼らがダライ一味への忠誠を放棄し、偉大な祖国の社会主義的大義を賞賛するに至ったかどうかなのだ。これがもっとも重要な教育の良し悪しを判断する基準なのだ」と発言し、さらに「学校は『自由』を語るフォーラムではない。学校は社会主義を学ぶ場でなければならない。我々は学校の教室が、人民の息子や娘を分裂主義的要素や宗教的理想主義に馴染ませるために使われるのを許してはならない。……民族教育は古い文化や伝統を維持するためにではなく、現在の社会的発展の需要に答えるものとなったとき成功したと言えるのだ」と述べた(注2)。これは本質的に文革時の教育方針に似たものである。
彼のこの方針に従い、学校における政治教育が強化され、教師には革命的資質が求められた。また、多くのチベット人中学生が中国本土に送られ、本土の各地からチベットへ教師が送り込まれた。しかし、これらの送り込まれた中国人教師たちはチベット語を全く解さず、また、地方出身者が多かったので標準中国語も話すことができなかった。この結果教育の水準は再び急激に低下したと言われる。
「2007年の統計によれば、チベット人居住区の平均教育年数は4年以下である。高校進学率は極端に少ない。農牧民地区の成人のほとんどは文盲である。教師の質と教育の水準も低く、農牧畜地域の子供たちはほとんど教育施設へのアクセスが無い」とゴンメンレポートは報告する(注3)。
このように内地で学校に行く事ができない子供たちが増えたことにより、80年代終わり頃より、教育の機会を求めインドに亡命する子供たちの数が急増した。これは僧院教育においても同じ状況であり、インドに亡命する僧侶、尼僧も増大した。80年代終わりから2008年まで、毎年2〜3000人のチベット人がインドに亡命したが、その内約1/3は5〜15歳までの子供であり、また約1/4は僧侶か尼僧であった(注4)。チベット人の親たちが子供にヒマラヤを越え、途中で逮捕されるかも知れないという危険を冒させても亡命させようと決心する背景には、もちろん教育の機会がないということもあるが、金をかけ中国の学校に送っても、中国語中心の教育と思想教育により子供がチベット人として育たないであろうという危惧があるからなのだ。それに比べ、一旦インドに亡命させれば、亡命チベット社会が運営する学校で少なくとも高校卒業まで無償でチベット人としての教育が与えられることを知っていたからだ。
チベット自治区においては90年代後半ごろから小学校、中学校(中高一貫)においても、チベット語以外の教科を中国語で教えるということが行われていたが、カム、アムドでは2010年になるまで民族中学等ではチベット以外の教科もチベット語で教えるということが行われていた。チベット人、特に農牧畜地帯の子供たちを教える場合、母語であるチベット語で教える方が遥かに効率がよく、覚えも早かったからである。しかし、2010年になり、青海省党政府上級教育関係会議において、「民族中学校においてもチベット語以外の教科を中国語で教えること」という決議がなされた。これは中国全体を対象とした「国家の中長期教育計画(2010〜2020)(注5)」の青海版である。
そして、同年10月にはアムドのレゴンやチャプチャ等で、この政府の教育方針に反対する大規模な抗議デモが、中学生を中心に、何千人もが参加し相次ぎ発生した。生徒たちが掲げたスローガンは「民族平等・言語自由」であった(注6)。このようなチベット人生徒による、相次ぐ抗議デモやチベット人教師たちの訴えにより、当局もこの新しい教育方針の実施を撤回はしないが、段階的に行うと発表した。一方でデモ参加者を拘束したり、刑期を与えたりもしている。アムド、マチュの民族中学校の女子生徒であった20歳のツェリン・キは、新学期が始まったとき教科書が全て中国語で書かれていたことにショックを受け、2012年3月3日、街の野菜市場で焼身し、死亡した(注7)。
また、教育分野におけるチベット語制限、漢語推進に留まらず、チベット人居住区への漢語侵入は生活の至る所に現れている。例えば、セルタにある大僧院ラルン・ガルの僧院長であったケンポ・ジグメ・プンツォクは早くも1996年に以下のように記している。「実際、チベット語は今では何の価値もない言語と化している。例えば、もしも手紙の宛先がチベット語で書かれてあれば、外地はもちろんのこと、それがチベット内であっても決して届けられない。旅行する時、その人がいくらチベット語の読み書きに長けていようと、バスの時刻表を読む事ができず、切符に書かれている席番号を読む事もできない。県庁所在地や大きな街で病院や店を探そうとしてもチベット語は何の役にも立たない。チベット語しか知らない人は日常の必需品を買うにも困難をきたすであろう」と(注8)。
特に2008年以降、チベット人コミュニティーの中ではチベット人としてのアイデンティティーを守ろうという運動が各地で起こり、文化の基礎である言語が失われつつあることに危機感を抱き、僧院や村々でプライベートなチベット語学習の学校を開こうという動きが起った。また、多くのチベット人がチベット語を話す時にも、漢語を混ぜて話す習慣が自然に広がり始めたことを憂慮し、「純粋なチベット語を話そう」という運動も起った。しかし、当局はこのような動きを全て政治的反抗と解釈し、チベット語を教える学校を強制的に閉鎖し、教師を逮捕したり、各地のチベット人アイデンティティーを守ろうという趣旨の下に結成された草の根の団体を弾圧するということを行っている。
もちろん、このような政府の対応はチベット人に更なるチベット語消滅、文化消滅の危機感を抱かせ、政府に対する強い反発を招き、果ては焼身をしてまで訴えるという人を生むに至っているのである。
注:
1.Ref: "Why Tibet is Burning" CTA Tibet Policy Institute 2012 p26
Sum rtagsmtha' dpyadlas bod kyi spyi skad skor. p 17
2.Education in Tibet: policy and practice since 1950. p272~279
3.Gongmeng Report or An Investigation Report into the Social and Economic Causes of the 3.14 Incident in Tibetan Area.
4.Demographic Survay of Tibetans in Exile 2009
5.http://www.spc.jst.go.jp/hottopics/1105elem_sec_education/r1105_wangx.html
6.http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51519229.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51515834.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51505576.html
7.http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51738076.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51733442.html
8.Tibet Under Communist China: 50 Years. p40
2013年05月10日
テウラン。チベット人作家タシ・ラプテン(筆名テウラン)は2009年7月26日にゾゲで突然拘束され、その後およそ2年後2011年6月2日に4年の刑を言い渡された。逮捕された時、彼はまだ蘭州西北民族学院の学生であった。彼は発禁となった雑誌「シャル・ドゥン・リ(ཤར་དུང་རི་東方のホラ貝の丘)」の編集者の1人であり、また短編集「血書༼ ཁྲག་ཡིག ༽」の著者でもある。この雑誌に関わった作家の多くが刑期を受けている。詳しくは:http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51670321.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51258282.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51252956.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51509758.html
彼が在学中に発表したあるエッセイをTCHRDが7日付けで英訳していた。このチベット語原文を手に入れたので、以下訳してみた。
彼は故郷の遊牧地帯に大勢の中国人観光客が押しよせ、我が物顔に振る舞い、なんの遠慮もなくチベット人を物珍しい動物のように撮影することに耐え難い屈辱を感じる。また、そのような中国人観光客に金目当てで群がる哀れなチベット人の姿を見て悲しみ、同胞に対しチベット人としての尊厳を保つことを訴える。植民地化されたチベットの、若者たちの心情をとても良く表していると思われる。
彼らは我々を動物のように扱う
テウラン
夏の間、私の故郷は中国人観光客で溢れる。あまりに多くてチベットのお年寄りたちが僧院をコルラ(右繞)するのも難しいぐらいだ。僧衣で頭を覆いながら、僧侶や尼僧は観光客のそばで驚いたように口をぽかんと開け立ちすくむ。このようなシーンを見る時、彼らのことを考える時、私は激しい苦痛と絶望を感じる。心に怒りと敵意が沸き立つ。今、圧倒的な数の外人の靴の下で、私の故郷は衰退と堕落に苦しめられている。
蟻塚から放たれた蟻の大群のように、これら増大する観光客は我々の土地の上に永住する準備をしている。私を笑わせると同時に泣かせるのは、現金に釣られた大勢のチベット人たちが彼らの前で笑顔を振りまくのを見る時だ。遊牧民部落のリーダーでさえ彼らに土地を売る契約書にサインしたのだ。2、3年後には、観光客だと言っている訪問客たちが我々の土地に永住し始めることであろう。
観光客の車が到着すると、ただちに赤い頬したチベット人女性とはな垂れ小僧が馬で駆けよる。息切らせながら、目には絶望を宿し、彼らは中国人観光客を馬に乗せ、山を登る。50元札を手に持ち、顔中に微笑みを描き、他の観光客がやって来るのを待ちながら時間を過ごす。そんな彼らの姿を見る時、嘗て世界の3分の2の領土(吐蕃時代の話であり、その頃のチベット人の世界観からくる世界)を征服した民族が、どのようにして今や他の人々にサービスするだけの魂のない奴隷と化したのであろうか。愛する同胞たちよ、先祖の骨に金を塗る事ができないにしても、少なくとも彼らの白髪を風とともに投げ捨てないようにしようではないか。
周辺の地域からやって来る観光客は手に様々なサイズのカメラを持っている。僧侶たちや年配の人々、馬を運ぶ人々は観光客たちが遊牧村や河の写真を撮ってるのを呆然と眺める。観光客の1人がこれらの異様な目つきのチベット人たちにカメラを向け撮影する。これを見る時、私は「この観光客が彼の土地に帰った時、どこでこれらの写真を見せるのだろう?どのようなキャプションを付けるのであろう?」と考える。そして、そう考えるとき強い苦しみと絶望を味わう。
なぜ、観光客たちは年配のチベット人の顔にカメラを向け、撮影したのであろう?これらの観光客は倫理や道徳の感覚を持ち合わせないのであろうか?もしも、我々が辺りを見回し、彼らの顔にカメラを向けて写真を撮ったならば、彼らは「自分たちの権利を犯している」と言いながら走り去らないであろうか?実際には彼らは、その行為が倫理道徳に反することを知りながらも、我々の同胞と、我々の山々と村々の写真を撮り続けているのだ。
これは我々の地位を明白に示している。彼らは我々を話すことができない動物のように扱う。彼らは我々を現金の力でどのような方向へも動かす事ができる賃金労働者のように扱う。彼らは我々を無知な野蛮人のように扱う。私の愛する同胞たちよ、諺にもあるように「もしも、息子が祖先の遺産を相続することに失敗し、針の遺産を糸が引き継ぐことができない時には、他者が頭を踏みつける」のだ。
もしも、チベット人が中国の街を訪れ、好き勝手に中国人の顔めがけてカメラのシャッターを切ればどうなるか?個人の家や所有物や街の貴重な物品を好き勝手に撮影すればどのような結果になるか?街に住む人々の権利と自由を踏みにじれば、法律に従い処罰されるであろう。どうして、我々の遊牧地帯には街と同様の倫理と法律が適応されないのであろうか?人権は普遍的なものであるというなら、どうして我々は車や馬に乗った観光客と同様の権利を享受できないのか?街中のように、なぜ我々は遊牧地帯の草原に「ここで撮影すること、小便すること、たんを吐くことを厳禁する!」という標識を立てることができないのか?
2007年10月10日、蘭州にて。
参照:7日付けTCHRDリリース http://www.tchrd.org/2013/05/they-treat-us-like-animals/
2013年05月09日
パクモ・ドゥンドゥップ生前写真。今年2月24日にアムド、ツォゴン地区バイェン県(青海省海東地区化隆回族自治県)にあるチャキュン(ジャキュン、བྱ་ཁྱུང་དགོན་པ་、夏琼寺)僧院内で焼身し、その後死亡したパクモ(ラモ)・ドゥンドゥップ(21)が遺書を残しているらしいという話は当初から言われていたが、内容は伝わっていなかった(注1)。
この遺書が最近南インドにいる亡命チベット人クンサン・テンジンの下に届けられた。遺書は最後まで彼の焼身に付き添い、見守ったらしいある友人に託されていた。彼はパクモ・ドゥンドゥップが焼身に至るまでの行動を詳しく報告している。
その遺書:
これまでに、チベットの各地でチベットの自由のために100人ほどが焼身抗議を行っているが、彼らは本当にチベット人の中の真の勇者だ。
チベットが自由と独立を獲得しない限り、チベット人の文化と伝統は中国人により抹消されるであろう。
今年に入りこのバイェン県でもチベット人コミュニティーに対し当局はチベット語を習ってはいけないという命令を出し、チベット語教師を追い出した。本当に悲しいことだ。
今日、農暦(ホルダとも呼ばれるチベット旧暦の1つ)の15日(満月)の夕方、チャキュン僧院の前で私は焼身する。
今日はチベット独立の日だ。
この日彼と行動を共にしていたと思われる友人によれば、パクモとその友人がマチュのドンナンの街で食事を共にした時、パクモはこの遺書を書いたという。村に帰ったあと、商店でスナックとライターを買い、夕方7時頃チャキュン僧院メンパ学堂の売店で灯油2瓶と色付きの紙を買った。
僧院の庭に至る前に彼は灯油の一部を飲み、トルマを捨てる岩のところで色紙に火を付け、「チベットに独立を!チベットには自由が必要だ!ダライ・ラマ法王に長寿を!」と叫んだ。メンパ学堂の焼香場に来た時、残りの灯油を頭から被った。本堂前の広場(問答場)に入った所で、その友人に「タ・デモ(じゃ、達しゃでな)」と声を掛け、火を点けた。炎に包まれながら、叫び声とともに、右往左往した後、倒れたという。
注1:彼の焼身の詳細については:http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51781897.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51782129.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51787206.html
参照:8日付けTibet Net チベット語版 http://bod.asia/2013/05/རྒྱལ་གཅེས་པ་ཕག་མོ་དོན་/
同中国語版 http://xizang-zhiye.org/化隆縣帕莫頓珠遺言傳出境外/
8日付け Tibet Timesチベット語版 http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=7651
8日付けRFAチベット語版 http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/phakmo-dhundup-05082013163652.html
2013年05月08日
ウーセルさんは、2日前のブログに載せた「私たちのラサがもうすぐ壊されます!ラサを救ってください!」の改訂版を2日後の7日付けで発表されている。書き足らないと思われたのか、新たな情報とともに写真も増やしておられる。この改訂版もさっそく@yuntaitaiさんが翻訳して下さった。
パルコル沿いの住民は全員ラサの西に移住されられるという。「引っ越しを望まないあるお年寄りは気が変になってしまった」そうだ。まったく酷い話である。ジョカンを中心としたチベットのもっとも聖なる地区が、おぞましいただの悪趣味な一見なんちゃってチベット様式中身は中国風観光繁華街になりそうで、まったくやりきれない話である。
原文:http://woeser.middle-way.net/2013/05/blog-post_7.html
パルコル沿いの住民は全員ラサの西に移住されられるという。「引っ越しを望まないあるお年寄りは気が変になってしまった」そうだ。まったく酷い話である。ジョカンを中心としたチベットのもっとも聖なる地区が、おぞましいただの悪趣味な一見なんちゃってチベット様式中身は中国風観光繁華街になりそうで、まったくやりきれない話である。
原文:http://woeser.middle-way.net/2013/05/blog-post_7.html
世の移り変わりをずいぶんと経験したジョカンの前には今、遠くカムやアムドから五体投地で来た巡礼者はいなくなった。何千何万ものバター灯明を昼も夜もともしていた小屋もなくなった。そこにいるのはただ、住宅屋上の狙撃手と完全武装でパトロールする兵士だけだ。そこにあるのはただ、官民が結託した巨大商業施設の相次ぐ開業だけだ。商業施設の入り口で、風に吹かれる真っ赤なバルーンの柱が、下品な成金のチベット侵入を誇示する風景だけだ。
◎私たちのラサがもうすぐ壊されます!ラサを救ってください!
私たちのラサがもうすぐ壊されます!
これは決して大げさな話ではありません!
ラサに行った旅行者が新浪微博に書いた。「今日、はっきりと分かった。ラサの目標は麗江のような贅沢三昧のやかましい観光都市になることだったんだ。旧市街の全ての露店とか旅館とか、安めのサービスは旧市街から出て行かなくちゃいけない。高級な骨董品屋やホテルと入れ替わるんだ。それに旧市街の建物は全部、外観や看板をそろえないといけない。まさか中国の都市には、ばかげた韓国式の美容法しかないのかね?」
添付された写真の中には、建設中の「ラサ・バルコル商城」の「工事概況」があった(建設地は城関区政府跡地で、ジョカン周囲の巡礼路バルコルの北東。バルコルからはとても近く、同じように旧市街の中にある)。延べ床面積は15万平方メートルで、地下駐車場だけで1117台を収容するという。
昨年末にオープンした官民合同の巨大商業施設「神力タイムズ・スクエア」はラサ旧市街の北側にある。地下駐車場を造るために2年以上にわたって地下水を吸い上げ、旧市街で亀裂や陥没、ひどければ巨大な穴ができるのではないかとラサ人を心配させた。実際、既に数多くの亀裂が見つかり、地面を掘っても(以前とは違って)地下水がないという状況が現れている。そして今、当局は旧市街の別の場所で再び大型ショッピング・センターと地下駐車場を造ろうとしている……。ラサは餓鬼に破滅へと引き込まれており、もう止められないという意味なのか?
国連教育科学文化機関(ユネスコ)は1994年、ポタラ宮を世界遺産リストに登録した。だが1996年、ポタラ宮の前で数百年続いてきたショル村(役人や職人たちが住んでいた村)が移転させられた。同時に、中国各地と全く変わらない、専制の威力を見せつける広場が造られ、ショル村を失ったポタラ宮に致命的に欠けているものをはっきりと浮かび上がらせた。
2000年と2001年には、「ポタラ宮の歴史的遺跡群」としてジョカンとノルブリンカを追加登録した。宗教と歴史、人文的な価値のある聖地を世界文化遺産にし、建前上は当然の保護を受けられるようにした。2002年、砲弾のような形の「チベット和平解放記念碑」がポタラ宮と向き合って広場に建てられ、チベット人の心に深々と突き刺さった。2007年、ポタラ宮は世界遺産大会で「イエローカード」を受けた。観光収入を過度に追求して自由に開発しながら、(保護の)責任を果たさず、(世界遺産条約の)取り決めを実現させておらず、世界遺産の称号が取り消される可能性もあると批判された。
遺憾なことに、今もポタラ宮では行き過ぎた観光開発が続いている。チベットへの観光客は毎年数百万を数え、絶えず増え続けており、足元は危険極まりない(見学者が多すぎて、ポタラ宮がダメージを受けている)。それだけではなく、「国際観光都市」を追求する過程で、ラサ旧市街までも姿を変えられている。腹を引き裂かれるだけではなく、問題を根本的に「解決」されようとしている。ちょうどチベット人芸術家の鄺老五がこう論評するように。「物質と権力の誘惑の前で、文化の独自性は失われつつある。一方、都市の共通点は逆に増えている。とうに内面を吸い尽くされた旧市街は、繁栄しているように見える背後で、既に盛りを過ぎた菊の花になっている。古めかしく、歳月の痕跡を残した物はもう見つけられない」
何年も前にラサ旧市街の修復に取り組んだドイツ人、アンドレ・アレクサンダーと彼のNGO「チベット・ヘリテージ・ファンド」(THF)を思い出す。彼らは1996年から2002年にかけ、ラサと周辺の76の歴史的な伝統建造物を救い、真相を語った。「1980年から都市建設の過程で、旧市街の古い建物と区画は絶えず破壊に遭っていた」「1993年以降、平均で35の歴史的建造物が毎年取り壊された。このペースでは、残りの歴史的建造物は4年以内にほとんど消え失せるだろう」。アンドレたちの際立った修復作業と証言は当局の意向に反していたため、一心に利益を追い求めてきた当局によって、彼らは最終的にラサから追い出されてしまった。
バルコル商城の「工事概況」によると、バルコル再開発の目標は「浄化、分散、改造、昇格」だ。旧市街はいくつかのブロックに分けられるという。旧市街の中心、つまりジョカンを取り巻くバルコルは徹底的に片付けられ、全ての露店は新築のバルコル商城内に移転させられる。バルコル沿いの住民はラサ市西部のトゥールン・デチェン県に引っ越しさせられる。速やかに移った世帯は2〜3万元の補助金を受け取れるが、引っ越さなければ政治問題になる。引っ越しを望まないあるお年寄りは気が変になってしまったという。空になった住宅には業者を誘致し、商店やホテル、バー、画廊、展覧館などを設ける。旧市街のほかの路地や僧院のうち、例えばラモチェ前では大きな広場が整備され、周辺の住民は同じように郊外へと移転させられる。旧市街北東の城関区政府跡地はバルコル商城になる。
もちろん、宗教的な意味を持ったバルコルがこれだけで空っぽになるはずはないが、もっぱら観光客のために存在するにぎやかな通りには変わり得る。だが、もうチベット人が巡礼し、五体投地をする道ではなくなる。たとえ五体投地の巡礼者がいたとしても、観光客向けにその場を盛り上げる背景でしかない……。一つひとつの災難が立て続けに襲いかかり、ラサの結末は本当に痛ましい。歴史上、ラサで鉱山事故は一度も起きなかったが、今では起きてしまった。歴史上、ラサ河がせき止められて干上がったことはなかったが、今では魚も死ぬほど干上がってしまった。歴史上、ラサ旧市街は観光客のために存在する名所ではなかったが、今では麗江の四方街や「シャングリラ」のドゥコ・ゾン(雲南省シャングリラ県の古城エリア)方式で改造されようとしている。早い時期に、この偽物の「ラサ旧市街」は入場料を取り始めるのではないか?
ある物はほかの物よりもずっと早く消えていく。ある物はほかの物よりもずっと多く押し寄せてくる。アンドレは感傷的に書いた。「訪ねるたびに古い住宅は明らかに減っていく。石一つ、レンガ一つ。路地1本、通り1本。犬までも姿を消していく……」。今では、権力者によって商業化された新しいラサがそれに取って代わろうとしている。今、私一人だけではなく、たくさんの人たちが深く愛した、残り少ないラサの風景が消えようとしている。今、私一人だけではなく、たくさんの人たちの生命が、ラサと関わり合った記憶とともに覆い隠されようとしている。あるネット仲間は激しく非難した。「古い建物を取り壊し、地下道を掘り、歩道橋を造り、ラサ河をせき止め、地下水を吸い上げる。。。あいつらは本当に餓鬼の生まれ変わりだよ。持っていけるものは全部持っていき、持っていけないものは全部ぶち壊すんだ!」
指摘しなければならないのは、この数年、内外のチベット人の焼身が「チベット問題」で最も突出した事件になっていることだ。限界のある国際社会の注目であれ、亡命政府の関心であれ、全て焼身に集中している。一方、チベット人社会が直面するほかの災難や危険は見落とされている。例えば、ラサ旧市街の破壊は目の前に迫っている。もし過去であればユネスコは「イエローカード」で警告しただろうが、今では少しも配慮していない。
中国政府はチベット人の焼身を重視している。昨年5月27日、2人のチベット人がジョカンとバルコル派出所の間で焼身した。この後、バルコル派出所はすぐに「バルコル古城公安局」に格上げされた。2人のチベット人が焼身前に泊まった「満斎ホテル」は当局に没収され、「ラサ市バルコル古城管理委員会」が設置された。歴史上、「バルコル古城」などというものが存在したことはないのだが、ラサ旧市街までも「バルコル古城」と命名された。当局はこの時から大規模な旧市街の改造を始めた。実はこれは一石二鳥で、「治安維持」の目的とそのための配置という側面がより強い。世の移り変わりをずいぶんと経験したジョカンの前には今、遠くカムやアムドから五体投地で来た巡礼者はいなくなった。何千何万ものバター灯明を昼も夜もともしていた小屋もなくなった。そこにいるのはただ、住宅屋上の狙撃手と完全武装でパトロールする兵士だけだ。そこにあるのはただ、官民が結託した巨大商業施設の相次ぐ開業だけだ。商業施設の入り口で、風に吹かれる真っ赤なバルーンの柱が、下品な成金のチベット侵入を誇示する風景だけだ。
ユネスコは約40年前、世界遺産条約が採択された時に考えた。「いずれの国民に属するかを問わず、この無類の遺産は特別の重要性を有しており、人類のかけがえのない財産で、世界の全ての国民にとって重要だ。文化遺産及び自然遺産のいずれかが損壊、または消失することも、世界の全ての国民の遺産の憂うべき貧困化を意味する。従って、人類全体のための世界遺産の一部として、保存する必要がある」
ここに、ユネスコなど世界中の関連組織に呼びかけます。この恐ろしい「現代化」がラサ旧市街の風景や人文、環境に許しがたく、計り知れない罪を犯すのをどうか止めてください!
ここに、チベット学やチベット問題を研究する全世界の専門家と組織に呼びかけます。ラサ旧市街が直面している万劫不復(永遠に回復できない)の不運に関心を持ってください。
各界の人々がラサ旧市街を救う行動を展開するよう期待します!
私たちのラサがもうすぐ壊されます!
ラサを救ってください!
2013年5月6日 (RFA特約評論)
注:次の写真はネット仲間が撮影した現在のラサ旧市街。
・ジョカン前にカムやアムドの巡礼者はいなくなった。彼らには「入蔵許可証」がなく、ラサまでの巡礼路に設けられたチェック・ポストに止められるからだ。
・ラサに住む漢人はネット上に書いた。「朝起きて、このおかしな通りを眺めている。とても大きな変化があったことに気付いていなかったんだ。以前は暇な時によく若い男の露店で談笑した。この十数年の習慣だった。こうした変化は僕らにとっては視覚的な変化、審美的な変化、生活習慣の変化だ。露店の若い男たちにとっては、生存のための環境と条件の変化だ。これは本当にチベットで暮らす人たちに関わってくることだ」
・官民が結託した左側の大きな商業施設はオープンしたばかりで、入り口前の真っ赤なバルーンの柱がとても目障りだ。あるネット仲間は書いた。「見てみると、全く美しさがない。本当に吐き気がする。県城のホテル開業と同じようにやっていて、何も言いたくなくなる」
・バター灯明をともしていたジョカン前の小屋は取り壊され、建て直されるが、計画内容はまだ分かっていない。
・ジョカンを1周する巡礼路、バルコル。
・バルコルを右繞するチベット人。
・バルコル。
・バルコルの建物。
・ネット仲間は書いた。「東措(ユースホステル)の正面で大きな取り壊しだ。バルコル商城を建てるって。チベットのアクセサリーを売っていたバルコルの露店は今後、まとめてここに移るらしい」
・建設中のバルコル商城の完成予想図。場所はバルコル北東の城関区政府跡地。
・バルコル商城の「工事概況」によると、延べ床面積は15万平方メートル。地下駐車場だけで1117台を収容できるという。
・少し前、ラサ河がせき止められて干上がった。ラサ旧市街に官民合同の巨大ショッピング・センター「神力タイムズ・スクエア」を造るため、地下水を昼夜吸い上げ、ラサ人を心配させた。旧市街を修復したアンドレ・アレクサンダーに「これは破壊につながるのでは」と私はメールで尋ねた。彼は心を痛めて返事をくれた。「あちこちで水力発電所を建設しているから、水はチベットで大問題になっている。ラサでも環境はもうひどく破壊、汚染された。貪欲な役人に支持され、貪欲な開発商がラサの谷間を大工場へと変えた。もし(市内の)ラル湿地が干上がったら手遅れになる」
・ラサ河がせき止められて干上がったため、たくさんのチベット人が自発的にわずかな水の中から魚を助け出した。なんと悲しく、象徴的な意味合いを持つ光景だろうか!
・旧市街の蔵医院(メンツィーカン)路も掘り返されている。文化大革命の時、「四旧」を踏みにじってみせるため、僧院から奪われた無数の仏像がこの道に埋められた。今回の掘り起こしで仏像が発掘されるかどうかは分からない。
・蔵医院(メンツィーカン)路。
・ラサの道。
・ラサ旧市街。
・ラサ旧市街。
・ラサ旧市街の通り。
・ラサ旧市街の路地。
2013年05月07日
解放され故郷に帰ったジグメ・ギャンツォは地元の人々からカタと共に迎え入れられた。最初母親を認識できず、これが回りの人々の涙を誘ったという。写真は母親と抱き合う場面と思われる。このところ、政治犯が解放されたという話が続いている。基本的には良いニュースと言えようが、そのほとんどは獄中で健康を損っており、刑務所内の拷問や虐待の実体が露になっている。また、前回のロトゥのケースは最初殺人罪ということで例外ではあるが、その他の政治犯は思想、言論の自由を行使しただけであり、中国の憲法に照らしても本来刑期を受けるはずもない人たちである。また、ロトゥの場合も妹殺しの事件を警察が(何かの利害、または単なる怠慢により)ちゃんと取り上げなかったことが事の発端だ。また、果たし合いの結果相手が死んだ時に15年というのは如何なものか?という思いも残る。
政治犯たちは解放された後も、健康を取り戻すために出費が嵩んだり、政治的権利剥奪により、移動の自由が制限され、仕事に付く事もできず、生活に困窮する場合が多いと言われている。
ーーーーーーーーー
今回は3年の刑を受けたあるチベット人作家・活動家が解放されたというニュース。彼も衰弱していると伝えられる。ただ、彼が刑期を終え解放されたのか、刑期を終える前に解放されたのかについてははっきりしない。RFAとTibet Timesが昨日付けで伝えたところによれば、先月4月27日にアムド、マロ(青海省黄南チベット族自治州)マロ県(T.Timesはソク県と)出身のジグメ・ギャンツォ(筆名アリ・ジグメその他アリ、ナムケン、トプデン等)が蘭州にある第一刑務所から解放され、家族の下に帰された。彼は背骨と腎臓を患い、視力も極端に落ちているという。また、解放後彼に会った昔の友人は「ジグメは嘗ての友人を認識できなかった」といい、他の面会者の中には「どうも、言動がおかしく脳に障害を受けているようだ」と話す。
彼は現在28歳、彼は2010年10月にツゥ市で逮捕され、1年数ヶ月後の2012年ホル暦(チベット暦に似る)1月14日に国家機密を国外に漏洩したとして3年(T.Timesは3年1ヶ月)の刑を受けたという。これによれば拘束期間を入れても計算上まだ刑期は終えていないことになる。しかし、phayulは「刑期を満了し解放された」と報じている。
ジグメ・ギャンツォは1995年にラプラン・タシキル僧院で僧侶となり、仏教の勉強をした後、2006年8月から甘粛省の師範学校に入学、在学中に外国メディアにそのころ捕らえられていたゴロ・ジグメ、ジグメ・ゴリ、カルツェ・ジグメの経歴や状況を伝えている。2010年に学校を卒業し、還俗した。2010年10月レゴンの学生たちが言語自由を訴え大規模なデモを行った時、これを先導したとされる。その後、当局に追われる身となり、ツゥ市に逃れ、そこのネットカフェでレゴンのデモの状況を知らせる報告を書いている最中、逮捕された。彼は以前より、チベット語の雑誌や新聞に政治的なテーマを含む多くの記事を発表していたという。
ロトゥ・ギャンツォの解放を知らせたチベット人は同じナクチュ地区ソク県で最近刑期を終え解放された僧イシェ・テンジン(5年の刑)とテンジン・チュヤン(10年の刑)が解放後間もなくして死亡したと報告したが、詳細不明。
参照:5月6日付けRFA チベット語版http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/china-release-political-prisoner-ari-jigmey-on-april-27-2013-05042013134505.html
5月6日付けTibet Timesチベット語版http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=7643
5月6日付けphayul http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=33410&article=Tibetan+writer+released+in+serious+health+condition
5月6日VOTチベット語放送分http://www.vot.org/#
2013年05月06日
ラサの旧市街として嘗ての面影を唯一残し、チベット人たちの砦でもあったパルコル周辺が、最近当局による大規模な開発の対象となっている。ウーセルさんは5月5日付けのブログで多くの写真とともに、この歴史的建造物の改築、破壊を犯罪行為だと糾弾し、「ユネスコなどの世界中の関連機関」や「チベット学やチベット問題を研究する全世界の専門家と組織」に対し「ラサ旧市街を救う行動を展開するように」と訴えられている。
原文:http://woeser.middle-way.net/2013/05/blog-post.html
翻訳:@yuntaitaiさん
原文:http://woeser.middle-way.net/2013/05/blog-post.html
翻訳:@yuntaitaiさん
◎私たちのラサがもうすぐ壊されます!ラサを救ってください!
私たちのラサがもうすぐ壊されます!
これは決して大げさな話ではありません!
ラサに行った旅行者が新浪微博に書いた。「今日、はっきりと分かった。ラサの目標は麗江のような贅沢三昧のやかましい観光都市になることだったんだ。旧市街の全ての露店とか旅館とか、安めのサービスは旧市街から出て行かなくちゃいけない。高級な骨董品屋やホテルと入れ替わるんだ。それに旧市街の建物は全部、外観や看板をそろえないといけない。まさか中国の都市には、ばかげた韓国式の美容法しかないのかね?」
添付された写真の中には、城関区政府だった場所に建てられる「ラサ・バルコル商城」の「プロジェクト概況」があり、1117台収容の地下駐車場を造ると書かれている。昨年末、ラサ旧市街にオープンした官民合同の巨大建造物「神力タイムズ・スクエア」は、地下駐車場を造るために2年以上にわたって地下水を吸い上げ、旧市街で亀裂や陥没、ひどければ巨大な穴ができる危険を招いている(実際、既に数多くの亀裂が見つかっている)。そして今、当局は旧市街の別の場所で再び大型ショッピング・センターと地下駐車場を造ろうとしている……。ラサは餓鬼に破滅へと引き込まれており、もう止められないという意味なのか?
国連教育科学文化機関(ユネスコ)は1994年、ポタラ宮を世界遺産リストに登録し、2000年と2001年には、「ポタラ宮の歴史的遺跡群」としてジョカンとノルブリンカを追加登録した。宗教と歴史、人文的な価値のある聖地を世界文化遺産にし、当然の保護を受けられるようにした。
2007年、ポタラ宮は世界遺産大会で「イエローカード」を受けた。観光収入を過度に追求して自由に開発しながら、(保護の)責任を果たさず、(世界遺産条約の)取り決めを実現させておらず、世界遺産の称号が取り消される可能性もあると批判された。
今、ポタラ宮では行き過ぎた観光開発が続いている。チベットへの観光客は毎年数百万を数え、絶えず増え続けており、足元は危険極まりない(見学者が多すぎて、ポタラ宮がダメージを受けている)。それだけではなく、ラサ旧市街までも観光化の過程で姿を変えられている。腹を引き裂かれるだけではなく、問題を根本的に「解決」されようとしている。ちょうどチベット人芸術家の鄺老五がこう論評するように。「物質と権力の誘惑の前で、文化の独自性は失われつつあるが、都市の共通点は逆に増えている。繁栄しているように見える背後で、とっくに内面を空っぽに吸い取られた旧市街は、既に盛りを過ぎた菊になっている。古めかしく、歳月の痕跡を残した物はもう見つけられない」
何年も前にラサ旧市街の修復に取り組んだドイツ人、アンドレ・アレクサンダーと彼の「チベット・ヘリテージ・ファンド」(THF)を思い出す。彼らは1996年から2002年にかけ、ラサと周辺の76の歴史的な伝統建造物を救い、真相を語った。「1980年から都市建設の過程で、旧市街の古い建物と区画は絶えず破壊に遭っていた」「1993年以降、平均で35の歴史的建造物が毎年取り壊された。このペースでは、残りの歴史的建造物は4年以内にほとんど消え失せるだろう」。アンドレたちの修復作業と証言は際立っていたため、一心に利益を追い求めてきた当局はラサから彼らを追い払った。
アンドレは感傷的に書いた。「訪ねるたびに古い住宅は明らかに減っていく。石一つ、レンガ一つ。路地1本、通り1本。犬までも姿を消していく……」。今では、権力者によって商業化された新しいラサがそれに取って代わろうとしている。あるネット仲間は激しく非難した。「古い建物を取り壊し、地下道を掘り、歩道橋を造り、ラサ河をせき止め、地下水を吸い上げる。。。あいつらは本当に餓鬼の生まれ変わりだよ。持っていけるものは全部持っていき、持っていけないものは全部ぶち壊すんだ!」
ユネスコは約40年前、世界遺産条約が採択された時に考えた。「いずれの国民に属するかを問わず、この無類の遺産は特別の重要性を有しており、人類のかけがえのない財産で、世界の全ての国民にとって重要だ。文化遺産及び自然遺産のいずれかが損壊、または消失することも、世界の全ての国民の遺産の憂うべき貧困化を意味する。従って、人類全体のための世界遺産の一部として、保存する必要がある」
ここに、ユネスコなどの世界中の関連機関に呼びかけます。この恐ろしい「現代化」がラサ旧市街の風景や人文、環境に許しがたく、計り知れない罪を犯すのをどうか止めてください!
ここに、チベット学やチベット問題を研究する全世界の専門家と組織に呼びかけます。ラサ旧市街が直面している万劫不復(永遠に回復できない)の不運に関心を持ってください。
各界の人々がラサ旧市街を救う行動を展開するよう期待します!
私たちのラサがもうすぐ壊されます!
ラサを救ってください!
2013年5月4日
次の写真はネット仲間が撮影した現在のラサ旧市街。
ジョカンを1周する巡礼路、バルコル。
バルコルを右繞するチベット人。
バルコル。
バルコルの建物。
ネット仲間は書いた。「東措(ユースホステル)の正面で大きな取り壊しだ。バルコル商城を建てるって。チベットのアクセサリーを売っていたバルコルの露店は今後、まとめてここに移るらしい」
ラサ旧市街に建てられる「バルコル商城」。
バルコル商城の「プロジェクト概況」には、地下駐車場を造ると書かれている。
少し前、ラサ河がせき止められて干上がった。ラサ旧市街に官民合同の巨大ショッピング・センター「神力タイムズ・スクエア」を造るため、地下水を昼夜吸い上げ、ラサ人を心配させた。旧市街を修復したアンドレ・アレクサンダーに「これは破壊につながるのでは」と私はメールで尋ねた。彼は心を痛めて返事をくれた。「あちこちで水力発電所を建設しているから、水はチベットで大問題になっている。ラサでも環境はもうひどく破壊、汚染された。貪欲な役人に支持され、貪欲な開発商がラサの谷間を大工場へと変えた。もし(市内の)ラル湿地が干上がったら手遅れになる」
ラサ河がせき止められて干上がったため、たくさんのチベット人が自発的にわずかな水の中から魚を助け出した。なんと悲しく、象徴的な意味合いを持つ光景だろうか!
・旧市街の蔵医院(メンツィーカン)路も掘り返されている。文化大革命の時、「四旧」を踏みにじってみせるため、僧院から奪われた無数の仏像がこの道に埋められた。今回の掘り起こしで仏像が発掘されるかどうかは分からない。
蔵医院(メンツィーカン)路。
蔵医院(メンツィーカン)路。
ラサの道。
ラサ旧市街。
ラサ旧市街の路地
2013年05月05日
逮捕前のロトゥ・ギャンツォ先の5月2日、チベット自治区ナクチュ地区ソク県出身の政治犯ロトゥ・ギャンツォ(བློ་གྲོས་རྒྱ་མཚོ་ 現在52歳、別名ソクカル・ロトゥ)が21年の刑期を終え解放された。彼も刑務所内で様々な拷問を受けており、健康状態は優れず、衰弱気味と伝えられる。
彼は最初から政治犯として捕らえられたのではなく、最初は殺人罪で15年の刑を受け、服役中2年後に刑務所内でチベット独立を叫んだことにより、刑期が6年延長され、その後政治犯として19年を過ごしたのであった。
1993年(1991年と伝えるメディアもある)1月17日、ガユと呼ばれるチベット人との間に争いが起こり、喧嘩となり、ガユが短銃を取り出し撃とうとしたが、逆にロトゥが刀でガユの手を切り落とし、その後殺した。そして、ナクチュの裁判所が彼に15年の刑を与え、ラサのダプシ刑務所に送られた(というのが、メディアの発表であるが、この詳しい経緯を刑務所仲間から聞いたので、それを最後にお伝えする)。
ダプチ刑務所に入れられて2年後の1995年3月4日、この日はチベット暦のロサ(正月)に当たっていたが、ロトゥ・ギャンツォは受刑者全員に呼びかけ、自分が先頭を切り「チベット独立!、中国人はチベットから出て行け!ダライ・ラマ法王に長寿を!チベット人は団結する!」と叫び、同時に自分で書いたチラシ300枚程をばらまいた。刑務所の署長は裁判所に訴え、3日以内に死刑にしてもよいという許可を得たという。
これを察知した国連の特別監視官とアムネスティが直ぐに中国当局に対し、死刑の中止を訴えた。その結果、彼は政治犯とされ、6年刑期延長、3年政治的権利剥奪ということで手が打たれた。その後、彼は1ヶ月間(3ヶ月という説もあり)1畳にも満たない無窓独房に入れられ、1日に2杯の水と小さな蒸しパン1つしか与えられなかった。また、両親指に鉄錠をはめられ、1晩天上から吊り下げられる等、様々な拷問を受けたという(同様な拷問を多くの政治犯が受けている)。彼はどのような拷問を受けても決して、当局側が求める(ダライ・ラマ批難等の)要求は聞き入れず、「殺されても同意しない」と言い続けたという。
その後、彼はチュシュル刑務所に移され、解放されるまでそこで過ごした。同じ刑務所に収監されていたチベット人の話によれば、彼は常に監視人に逆らっていたので、何度も死ぬほどの撲打を受けていたという。
ロトゥ・ギャンツォはカム、ソク県ツァドク郷ソクカル村の出身。特に政治的な活動は行っていなかったが、チベット人としての自覚と誇りには強いものがあり、弱きを助け不当な権力に立ち向かうチベットの勇者であったと言われている。彼は踊りの名手であり、また力持ちとして有名で、ナクチュ地区の石(約100キロ)上げ大会で2度優勝したことがある。
解放後のロトゥ・ギャンツォ以下、彼と同じくダプシ刑務所に収監され、彼のことをよく知っているというグチュスンの会のソパが話てくれた、最初ガユというチベット人と闘い、殺すに至った経緯。
ことの起こりはロトゥ・ギャンツォの妹が夫であったガユに車でひき殺されたからだという。ガユは新しい女ができ、妻であるロトゥの妹がじゃまになり殺したという。これを知ったロトゥはまず警察と裁判所に訴えるために何度もナクチュに通ったが、警察も裁判所もまったく相手にしてくれなかったという。そこで、ガユと直談判が始まり、ロトゥは「もう妹は死んでしまったのだから、何をしても生き返ることはない。これからラサのデブン、セラ、ガンデン僧院を巡り、妹のために法要を行おうと思う。だからその費用として6000元をもらいたい」と提案した。ガユはこれを一旦は承諾したが、金を借りに言った商人に「そんな金をはらうことなどない。殺してしまえばいいのだ」と言われ、その気になる。ガユは図体が大きく、暴れ者として有名であったという。
そこで、ガユとロトゥが決闘と言うことになった。ロトゥは(刀傷を防ぐために)皮のチュバを着て、肩にはカタを巻いた(以降の話はソパが話してくれたことそのままである。事実は今確認できないということで)。決闘には立ち会い人もいたという。最初、ガユが大きな石を投げたが、ロトゥはこれをよけ、長刀による切り合いになった。双方、肩や腹に傷を受け動けなくなったところで仲裁が入り、一旦終了ということになった。
その後、今度は双方仲間を連れ出し、大勢の果たし合いとなった。ロトゥ側は15人、ガユ側は30人、バイクで草原に集まった。警官もこれを察知し、駆けつけ拳銃を空に向け何度も発砲し、止めさせようとしたが、まったく効果はなかったという。双方、近づいた後、ガユが短銃を取り出しロトゥを撃とうとしたが、銃弾は発射されず。これを見たロトゥが切り込み、ガユの手をまず1本、次に両方切り落とした。そして、なにがしらの口上を述べた後、ロトゥはガユの額をかち割り、殺したそうだ。他の仲間がどうなったのかは不明。
ソパ曰く、「彼は最初からガユを殺そうとした訳じゃない。まず、裁判所に訴えたが、相手にされず、直接交渉したが、これも断られ、最後の手段に決闘したので。何れ、悪いのはガユだ。ロトゥは勇敢な男だったが、悪じゃない。チベット人の仲間をいつもかばい、監視人に代わりに殴られる役を買って出た。豪快でよく笑った。決して自分からこのような武勇伝を語ったりしなかった。聞かれれば話しただけだ」と。
参照:5月4日付けTibet Times チベット語版http://www.tibetexpress.net/bo/home/2010-02-04-05-37-19/10506-2013-05-03-06-42-45
4日付けRFAチベット語版http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/lodoe-gyaltso-released-05032013110640.html
同英語版http://www.rfa.org/english/news/tibet/released-05032013161353.html
2013年05月04日
アジアの焼身
ベトナム
アジアの近代史上もっとも有名な焼身抗議はベトナムで1963年6月11日に僧ティック・クアン・ドックが行った焼身であろう。彼は当時アメリカの軍事的支援を受けていた南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権の仏教徒弾圧に抗議するために、サイゴン(現、ホーチミン)のアメリカ大使館の前でガソリンを冠り焼身を行った。彼は支援者やメディアが注目する中、燃え上がる炎の中でも結跏趺坐を崩さず、一切苦悶の表情を見せず、声を出さず、絶命するまでその姿を崩さなかった。その姿はカメラを通じて全世界に放映された。この衝撃的な事件が世界中に放映され、国内の仏教徒だけでなく世界中の反戦主義者に大きな影響を与えることとなった。この焼身が契機となり、政府打倒の運動が起こり同年11月にはクーデターによりゴ・ディン・ジエムは殺害され、政権が交代することになった。特に、彼の焼身がビデオにも取られ、世界中のTVで放映されたことが影響を拡大するのに貢献したと思われる。彼の焼身を撮影したアメリカ人ジャーナリスト、マルコム・ブラウンの写真は1963年度の世界報道写真コンテストでグランプリを受賞している。また、当時のアメリカ大統領であったジョン・F・ケネディは「これほど、世界中に衝撃を与えた報道写真はないであろう」と衝撃を受けたことを表明した。彼はその時このゴ・ディン・ジエム政権と対立しながらも「軍事顧問団」の名目で南ベトナムへの軍事援助を拡大していた。そして、この焼身を受けベトナムから手を引くことも表明していたが、そんな中1963年11月22日にテキサス州ダラスでオズワルドにより暗殺されたのである。
僧ティック・クアン・ドックの焼身抗議に影響されその後10人近い僧侶と尼僧がベトナムで焼身している。この焼身抗議は後にベトナム戦争反対の意味を持ちはじめ、これに同調しアメリカ人女性アリス・バーンをはじめ8人のアメリカ人が焼身している。僧ティック・クアン・ドックの焼身は法華経が説く最高の供養形態としての「捨身」の意味を持つものと思われている。彼の焼身が影響力を持つことができたのは、何よりもメディアの力が大きく貢献したわけだが、そこにはアメリカを批難できるメディア環境があり、ビジュアルなものも揃っていたからだといえよう。この点がチベットの場合と微妙に異なる点である。チベットには一切メディアは入れず、準備された焼身にメディアが呼ばれ、一部始終が撮影されるなんてことはあり得ない。危険を冒して伝えられる隠し撮りが伝わるだけだ。相手の中国を批難できるメディア環境はあるが、常に様々な脅しを覚悟しなければならない。また、相手が人間的良心や慈悲の心、恥の感覚を全く持たぬ中国政府ということも大いに関係している。
僧ティック・クアン・ドックの焼身は法華経に影響された仏教的供養を抗議の手段として用いた記録に残る最初の例であろう。決意の勇気と利他という意義を教典から得、宗教的目的と政治的目的を合わせた焼身といえる。チベット僧ソバ・リンポチェ等の焼身も同様の焼身である。その他、焼身した一般人であるチベット人の多くもチベット人だけでなく、全ての有情の幸せを祈る言葉を残している。例えば2012年5月30日にザムタンで焼身した遊牧民リキョはその遺書の中で世界平和を祈り、「生きとし生けるものすべての苦しみを引き受ける」ために焼身すると明言している。これは菩薩の誓願である。
中国
チベット人の焼身抗議に対し中国共産党が最近盛んに「焼身自殺は仏教に反する」というキャンペーンを行っている。僧侶が焼身自殺することは戒律にも反すると言っている。
中国には中世の仏教僧侶の伝記を集めた「高僧伝」というものがある。その中には沢山の僧侶が焼身したことが記されている。その中、最も古いのは「396年、冀州出身の僧法羽、45歳が法華経薬王品に喚起されてこれを唱えた後に焼身。これを見た人々は悲しみと賞賛の心で一杯になった」と記されている。1、2世紀頃にインドで成立した法華経の漢訳は日本では5世紀の鳩摩羅什訳「妙法蓮華経」が有名であるが、早くも2世紀に竺法護がこれを漢訳し、中国に伝えているのである。
これ以降、中国ではこの薬王品に感化され多くの僧侶が焼身を行っている。故にこの「捨身品」とも呼ばれる経典は実際の焼身との関係が深いので、その内容を要約しお伝えしておく。正式な漢訳名称は「法華経第二十三品・薬王菩薩本事品」。宿王華菩薩が釈尊に薬王菩薩について尋ね、釈尊が薬王菩薩の前世の話を聞かせるという筋書き。
「薬王菩薩というお方は、どのようにして、大変素晴らしい働きがおできになるようになったのでしょうか?」。釈尊これに答えて「遠い遠い昔、日月淨明徳如来という仏さまがいました。仏さまは、一切衆生喜見菩薩をはじめとするもろもろの菩薩、声聞に法華経の教えをお説きになりました」。「すると一切衆生喜見菩薩は、法華経を1万2千年の間、一心に修行して、高い境地に達し、大いに歓喜し、仏恩に報いる大きな力を得て、一切衆生を救いたいと思い、日月淨明徳如来と法華経を供養するため、自ら香を飲み、身体に香油を塗り焼身したのです。諸仏は賛嘆し、その光は広大な世界の闇を照らし出し、千二百歳まで燃え続けました」。「燃え尽きて、一度亡くなった一切衆生喜見菩薩は再度生まれ、今度は釈迦の入滅後、舎利を供養するために両腕(又は肘)を燃やし、七万二千歳に渡って供養しました」。「さて、あなたは、どう思いますか。この一切衆生喜見菩薩は、ほかでもありません、今の薬王菩薩の前世なのです」というお話である。
中国中世の焼身について今、主に参照しているカナダのマックマスター大学の中国中世史専門家James A. Bennによれば(注4)、先の僧法羽以降、現在まで数百人(several hundred)の僧侶、尼僧、一般人が仏教的供養の目的で焼身その他の方法で自殺しているという。もちろん、これらの自殺は抗議目的ではなく、それどころか多くの場合、当時の権力支配者から賞賛を受けているのだ。特に焼身供養が行われる時には多くの見物人が集められ、往々にして役人や時には支配者本人も立ち会い、死後の遺灰は丁重に扱われ、彼らの偉業を讃えるための詩句が作られたりしたという。焼身は仏教的伝統に反する常軌を逸した行動ではなく、至高の悟りに至るための手段と見なされていたのだ。
焼身以外にも、この仏教的「捨身供養」のために、ある人は食を断ち死に至ったり、動物や昆虫に身を捧げたり、投身したり、その他必ずしも死ぬことを目的としない腿などの肉を削ぎ落すとか指や腕を焼くということも行われた。つまり、インドで大乗仏教が起こり、菩薩思想の発展により自己犠牲が強調されるようになり、悟りに至るための極端な供養方法が、法華経その他にインド的誇張を含んだ文学的表現として記されるようになったものを、中国では苦行の一環として文字通りに解釈し、本当にやってしまう人々が現れたということである。いや、私は、釈迦本人は苦行を否定したにせよ、これら菩薩との自己 同一化を目視し焼身供養を行った僧侶たちをただの気違いと見なしているのではない。中には、自己の身を焼く功徳で衆生の罪を滅しようと述べ、さらに病人 のためにもその功徳をまわすことに言及した僧侶もいたという。とにかく、長い間中国の仏教徒の間ではこれらの焼身が賞賛されるべき行為であったことは否定できない。何れにせよ、宗教を否定する今の共産党が「焼身は仏教に反する」というのはかくの如く歴史的にも茶番であるということは確かだ。
チベットではこの法華経は翻訳はされたが、一般にはそれほど普及しなかった。ただその28品である普賢菩薩勧発品は有名で祈祷会などでは必ず唱えられる。チベット人歴史学者であるタシ・ツェリンによれば、チベット人もこれまでに1人だけこの供養を目的とした焼身を行った人がいるという。それは11世紀のことであり、ドルチュン・コルポンという地方官吏がラサ・ジョカン寺のジョオ(チベットでもっとも有名な信仰を集める釈迦牟尼像)の前で焼身を行い、そのとき「彼の頭から偉大な光が現れ、かれは悟りに至った」とされている(注5)。現在行われているチベットの焼身抗議については、教典からの影響という点においては、例えばゴロで焼身したソバ・リンポチェがその遺書の中で明かしているように法華経からではなく、むしろジャータカ物語の中に描かれる捨身飼虎の物語に影響されていると言えよう。
以上は中国における宗教(仏教)的供養を目的とした焼身であるが、次に抗議目的の焼身について記す。長い中国の歴史の中で中世や近世においてももちろん抗議の焼身があったはずだと推測されるが、これについては残念ながら今手元に資料がないので、なんともいえない。ダライ・ラマ法王やウーセルさんが言及される嘗ての焼身抗議とし、文革時代に僧侶が抗議のために焼身したという話がある。これは1967年7月に陝西省西安の法門寺で良郷という僧侶が、紅衛兵が仏塔を破壊することを阻止するために抗議の焼身を行ったというものだ。実際にこの焼身が効果したかどうかは定かではない。
その他、2001年1月23日に北京・天安門広場で5人の中国人が一緒に焼身した事件は有名である。7人のグループが焼身を行おうとして2人は未遂に終わっている。火を点けた5人の内女性1人が焼死、彼女の娘とされる12歳の少女が2ヶ月後に死亡している。中国当局は彼らを法輪功信奉者とし、この焼身は法輪功のカルト的性格を露にした事件であるとして、その後法輪功への弾圧をさらに強化している。もっとも、法輪功側は彼らは法輪功信者ではなく、中国政府が法輪功弾圧の口実を作るために捏造、自作自演したものであるという声明を発表している。真相は今も明らかではないが江沢民が法輪功信者弾圧を指示し、今も彼らが激しく弾圧されていることは確かである。
チベット圏以外の中国で最近もっとも多い抗議目的の焼身は土地強制収用に伴うものである。アムネスティ・インターナショナルはこの種の焼身抗議が2009年〜2011年だけでも41件記録されているという。この種の焼身は2000年ぐらいから始まっているので、おそらくこれまでに100件以上の焼身が行われていると思われる。焼身の中心は山東省や江蘇省等の沿岸部である。土地開発ブームにのり地方当局が不動産業者とぐるになり庶民の土地を強制的に収容している実体が露になっている。チベットでもジェクンド(ケグド、玉樹)で大地震後の土地強制収用に抗議する焼身が少なくとも2件発生している。チベット全域の焼身抗議もその根本原因のもとを辿れば中国がチベット人の土地を侵略し強奪したことに至る。人は代々住み続けた土地を不当に奪われるとき、もっとも激しい抗議を行うものであると言えよう。
注4:Multiple Meanings of Buddhist Self-Immolation in China ― A Historical Perspective James A. Benn (McMaster University) p204
注5:Revue d’Etudes Tibetaines p9
日本
最後にどうしても日本の話も書かなくてはいけない気がするので少しだけ。日本にも古代において法華経薬王品が伝わった後に最高の供養の方法として焼身が行われたらしく、早くも702年の大宝律令には「僧侶や尼僧は焼身を行ったり、捨身(入水、投身、断食等)を行ってはならない。この決まりを尊重せず、実行した者は罰せられる(凡僧尼。不得 焚身捨身。若違及所由者。並依律科断)」と書かれている。行基は奈良時代の高僧として有名だが、時の朝廷は彼が民間に仏教を布教することを好ましく思わず、717年に糾弾されている。この時の詔には「妄に罪福を説き、朋党を合せ構へて、指臂を焚き剥ぎ (焼身・皮膚を剥いで写経……) 」と書かれているので、このころ、行基の弟子の中に指等を供養の印に焼く者がいたことが知れる。
平安時代には少なからぬ人数の人が仏教的焼身を行ったらしい。13世紀編纂の百練抄には995年に「上人(僧侶)が阿弥陀峰で焼身した。僧侶や一般人が大勢これを見守った。近年各地で11人が焼身した。(上人於阿弥陀峰焼身、上下雲集見之、近年 国焼身者十一)」とある。この中で阿弥陀峰と書かれているように、これらの焼身は法華経薬王品に影響されたものではなく、阿弥陀如来への帰依を説く金光明経寿量品やジャータカの捨身飼虎を焼き直した焼身品の影響と思われる。その他、平安中期に書かれた仏教説話集である大日本国法華経験記の中にも熊野の那智で修行していた和尚応照が法華経の薬王品に強く影響され薪の上で結跏趺坐して焼身したという話がある。しかし、これは如何にも美化して描かれており、実際に行われたものかどうかは明らかではない。
その後は、というか以前より日本では仏教的供養のための自殺としては断食が一般的であったようだ。これは山伏たちにも引き継がれ、生きたまま土中に掘った穴に入り、ミイラ化したという話は幾つか伝わっている。その他、平家物語の中でも描かれているような「入水往生」が行われるようになった。集団で「補陀落渡海」と呼ばれる補陀落(ポタラ)の浄土へ船で向かうということが9世紀から18世紀まで行われた。那智勝浦からはこの間に20回行われたという。
仏教と関係あるかないかは何とも言えないが、日本では中世以降長い間、抗議の印や忠誠心を示すため、名誉を保つため等のために「切腹」が一般的となって行った。
戦後有名な焼身が2件起っている。1969年の建国記念日に、江藤小三郎が国会議事堂前で世を警め同胞の覚醒を促すと称して焼身した。江藤の死は翌年三島由紀夫の切腹自決に大きな影響を与えたと言われている。また、1975年には米軍嘉手納飛行場前で船本洲治、当時29歳が皇太子訪沖反対を叫びつつ焼身した。これは明らかな政治的焼身抗議である。彼は新左翼、山谷・釜ヶ崎闘争の活動家であった。
最後にチベットの焼身とは大きく離れた話になったな、と思いつつも船本洲治の略歴を読みながら、いや、案外彼の焼身はチベットの焼身抗議にも繋がるものがあるのではないかと感じてしまった。彼は父親が満州で八路軍に銃殺された後、広島県呉市(私の出身地)広町で母親1人に育てられた後、広島大学物理学科に入学。在学中に釜ヶ崎はじめ関西方面に出稼ぎに行き始めた。そこで出会った虐げられた底辺の労働者たちに共感し、1968年10月山谷自立合同組合を結成。1972年6月3日暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議の結成に中心的な役割を果たす。1973年4月対関西建設闘争に関する証人威迫容疑で指名手配。半潜行しながら釜ヶ崎・山谷の闘争に指導的役割を担う。1974年3月愛隣センター爆破(72年12月26日)デッチ上げによって、主犯として爆取容疑で全国指名手配。完全に潜行し、全国を歩く。1975年6月25日潜行先の沖縄嘉手納基地ゲート前において、皇太子訪沖反対を叫びつつ焼身決起。29歳。最後の言葉は「山谷・釜ヶ崎の仲間たちよ。黙って野たれ死ぬな!胸には熱いものがこみあげて、これ以上は書けぬ」であったという。
これで、世界中とは言えないまでも、焼身が目立つ地域の話は大体概観したことになる。最初の問いは「チベット人の焼身抗議は世界の歴史上もっとも激しい政治的焼身である」かどうか?ということであった。皆さんは以上の話を読んでどう判断されたであろうか。少なくとも言えることは、人口比的に言って、チベット人の政治的焼身は一番数が多く、その意味で「激しい」と言えるのではなかろうか。
チベットの焼身の特徴は、弾圧に対する非暴力闘争の一環として、その究極の手段として選ばれたものということだ。また、人により個人差はあるものの政治的目的と宗教的目的を併せ持つものと言えよう。
ベトナムアジアの近代史上もっとも有名な焼身抗議はベトナムで1963年6月11日に僧ティック・クアン・ドックが行った焼身であろう。彼は当時アメリカの軍事的支援を受けていた南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権の仏教徒弾圧に抗議するために、サイゴン(現、ホーチミン)のアメリカ大使館の前でガソリンを冠り焼身を行った。彼は支援者やメディアが注目する中、燃え上がる炎の中でも結跏趺坐を崩さず、一切苦悶の表情を見せず、声を出さず、絶命するまでその姿を崩さなかった。その姿はカメラを通じて全世界に放映された。この衝撃的な事件が世界中に放映され、国内の仏教徒だけでなく世界中の反戦主義者に大きな影響を与えることとなった。この焼身が契機となり、政府打倒の運動が起こり同年11月にはクーデターによりゴ・ディン・ジエムは殺害され、政権が交代することになった。特に、彼の焼身がビデオにも取られ、世界中のTVで放映されたことが影響を拡大するのに貢献したと思われる。彼の焼身を撮影したアメリカ人ジャーナリスト、マルコム・ブラウンの写真は1963年度の世界報道写真コンテストでグランプリを受賞している。また、当時のアメリカ大統領であったジョン・F・ケネディは「これほど、世界中に衝撃を与えた報道写真はないであろう」と衝撃を受けたことを表明した。彼はその時このゴ・ディン・ジエム政権と対立しながらも「軍事顧問団」の名目で南ベトナムへの軍事援助を拡大していた。そして、この焼身を受けベトナムから手を引くことも表明していたが、そんな中1963年11月22日にテキサス州ダラスでオズワルドにより暗殺されたのである。
僧ティック・クアン・ドックの焼身抗議に影響されその後10人近い僧侶と尼僧がベトナムで焼身している。この焼身抗議は後にベトナム戦争反対の意味を持ちはじめ、これに同調しアメリカ人女性アリス・バーンをはじめ8人のアメリカ人が焼身している。僧ティック・クアン・ドックの焼身は法華経が説く最高の供養形態としての「捨身」の意味を持つものと思われている。彼の焼身が影響力を持つことができたのは、何よりもメディアの力が大きく貢献したわけだが、そこにはアメリカを批難できるメディア環境があり、ビジュアルなものも揃っていたからだといえよう。この点がチベットの場合と微妙に異なる点である。チベットには一切メディアは入れず、準備された焼身にメディアが呼ばれ、一部始終が撮影されるなんてことはあり得ない。危険を冒して伝えられる隠し撮りが伝わるだけだ。相手の中国を批難できるメディア環境はあるが、常に様々な脅しを覚悟しなければならない。また、相手が人間的良心や慈悲の心、恥の感覚を全く持たぬ中国政府ということも大いに関係している。
僧ティック・クアン・ドックの焼身は法華経に影響された仏教的供養を抗議の手段として用いた記録に残る最初の例であろう。決意の勇気と利他という意義を教典から得、宗教的目的と政治的目的を合わせた焼身といえる。チベット僧ソバ・リンポチェ等の焼身も同様の焼身である。その他、焼身した一般人であるチベット人の多くもチベット人だけでなく、全ての有情の幸せを祈る言葉を残している。例えば2012年5月30日にザムタンで焼身した遊牧民リキョはその遺書の中で世界平和を祈り、「生きとし生けるものすべての苦しみを引き受ける」ために焼身すると明言している。これは菩薩の誓願である。
中国
チベット人の焼身抗議に対し中国共産党が最近盛んに「焼身自殺は仏教に反する」というキャンペーンを行っている。僧侶が焼身自殺することは戒律にも反すると言っている。
中国には中世の仏教僧侶の伝記を集めた「高僧伝」というものがある。その中には沢山の僧侶が焼身したことが記されている。その中、最も古いのは「396年、冀州出身の僧法羽、45歳が法華経薬王品に喚起されてこれを唱えた後に焼身。これを見た人々は悲しみと賞賛の心で一杯になった」と記されている。1、2世紀頃にインドで成立した法華経の漢訳は日本では5世紀の鳩摩羅什訳「妙法蓮華経」が有名であるが、早くも2世紀に竺法護がこれを漢訳し、中国に伝えているのである。
これ以降、中国ではこの薬王品に感化され多くの僧侶が焼身を行っている。故にこの「捨身品」とも呼ばれる経典は実際の焼身との関係が深いので、その内容を要約しお伝えしておく。正式な漢訳名称は「法華経第二十三品・薬王菩薩本事品」。宿王華菩薩が釈尊に薬王菩薩について尋ね、釈尊が薬王菩薩の前世の話を聞かせるという筋書き。
「薬王菩薩というお方は、どのようにして、大変素晴らしい働きがおできになるようになったのでしょうか?」。釈尊これに答えて「遠い遠い昔、日月淨明徳如来という仏さまがいました。仏さまは、一切衆生喜見菩薩をはじめとするもろもろの菩薩、声聞に法華経の教えをお説きになりました」。「すると一切衆生喜見菩薩は、法華経を1万2千年の間、一心に修行して、高い境地に達し、大いに歓喜し、仏恩に報いる大きな力を得て、一切衆生を救いたいと思い、日月淨明徳如来と法華経を供養するため、自ら香を飲み、身体に香油を塗り焼身したのです。諸仏は賛嘆し、その光は広大な世界の闇を照らし出し、千二百歳まで燃え続けました」。「燃え尽きて、一度亡くなった一切衆生喜見菩薩は再度生まれ、今度は釈迦の入滅後、舎利を供養するために両腕(又は肘)を燃やし、七万二千歳に渡って供養しました」。「さて、あなたは、どう思いますか。この一切衆生喜見菩薩は、ほかでもありません、今の薬王菩薩の前世なのです」というお話である。
中国中世の焼身について今、主に参照しているカナダのマックマスター大学の中国中世史専門家James A. Bennによれば(注4)、先の僧法羽以降、現在まで数百人(several hundred)の僧侶、尼僧、一般人が仏教的供養の目的で焼身その他の方法で自殺しているという。もちろん、これらの自殺は抗議目的ではなく、それどころか多くの場合、当時の権力支配者から賞賛を受けているのだ。特に焼身供養が行われる時には多くの見物人が集められ、往々にして役人や時には支配者本人も立ち会い、死後の遺灰は丁重に扱われ、彼らの偉業を讃えるための詩句が作られたりしたという。焼身は仏教的伝統に反する常軌を逸した行動ではなく、至高の悟りに至るための手段と見なされていたのだ。
焼身以外にも、この仏教的「捨身供養」のために、ある人は食を断ち死に至ったり、動物や昆虫に身を捧げたり、投身したり、その他必ずしも死ぬことを目的としない腿などの肉を削ぎ落すとか指や腕を焼くということも行われた。つまり、インドで大乗仏教が起こり、菩薩思想の発展により自己犠牲が強調されるようになり、悟りに至るための極端な供養方法が、法華経その他にインド的誇張を含んだ文学的表現として記されるようになったものを、中国では苦行の一環として文字通りに解釈し、本当にやってしまう人々が現れたということである。いや、私は、釈迦本人は苦行を否定したにせよ、これら菩薩との自己 同一化を目視し焼身供養を行った僧侶たちをただの気違いと見なしているのではない。中には、自己の身を焼く功徳で衆生の罪を滅しようと述べ、さらに病人 のためにもその功徳をまわすことに言及した僧侶もいたという。とにかく、長い間中国の仏教徒の間ではこれらの焼身が賞賛されるべき行為であったことは否定できない。何れにせよ、宗教を否定する今の共産党が「焼身は仏教に反する」というのはかくの如く歴史的にも茶番であるということは確かだ。
チベットではこの法華経は翻訳はされたが、一般にはそれほど普及しなかった。ただその28品である普賢菩薩勧発品は有名で祈祷会などでは必ず唱えられる。チベット人歴史学者であるタシ・ツェリンによれば、チベット人もこれまでに1人だけこの供養を目的とした焼身を行った人がいるという。それは11世紀のことであり、ドルチュン・コルポンという地方官吏がラサ・ジョカン寺のジョオ(チベットでもっとも有名な信仰を集める釈迦牟尼像)の前で焼身を行い、そのとき「彼の頭から偉大な光が現れ、かれは悟りに至った」とされている(注5)。現在行われているチベットの焼身抗議については、教典からの影響という点においては、例えばゴロで焼身したソバ・リンポチェがその遺書の中で明かしているように法華経からではなく、むしろジャータカ物語の中に描かれる捨身飼虎の物語に影響されていると言えよう。
以上は中国における宗教(仏教)的供養を目的とした焼身であるが、次に抗議目的の焼身について記す。長い中国の歴史の中で中世や近世においてももちろん抗議の焼身があったはずだと推測されるが、これについては残念ながら今手元に資料がないので、なんともいえない。ダライ・ラマ法王やウーセルさんが言及される嘗ての焼身抗議とし、文革時代に僧侶が抗議のために焼身したという話がある。これは1967年7月に陝西省西安の法門寺で良郷という僧侶が、紅衛兵が仏塔を破壊することを阻止するために抗議の焼身を行ったというものだ。実際にこの焼身が効果したかどうかは定かではない。
その他、2001年1月23日に北京・天安門広場で5人の中国人が一緒に焼身した事件は有名である。7人のグループが焼身を行おうとして2人は未遂に終わっている。火を点けた5人の内女性1人が焼死、彼女の娘とされる12歳の少女が2ヶ月後に死亡している。中国当局は彼らを法輪功信奉者とし、この焼身は法輪功のカルト的性格を露にした事件であるとして、その後法輪功への弾圧をさらに強化している。もっとも、法輪功側は彼らは法輪功信者ではなく、中国政府が法輪功弾圧の口実を作るために捏造、自作自演したものであるという声明を発表している。真相は今も明らかではないが江沢民が法輪功信者弾圧を指示し、今も彼らが激しく弾圧されていることは確かである。
チベット圏以外の中国で最近もっとも多い抗議目的の焼身は土地強制収用に伴うものである。アムネスティ・インターナショナルはこの種の焼身抗議が2009年〜2011年だけでも41件記録されているという。この種の焼身は2000年ぐらいから始まっているので、おそらくこれまでに100件以上の焼身が行われていると思われる。焼身の中心は山東省や江蘇省等の沿岸部である。土地開発ブームにのり地方当局が不動産業者とぐるになり庶民の土地を強制的に収容している実体が露になっている。チベットでもジェクンド(ケグド、玉樹)で大地震後の土地強制収用に抗議する焼身が少なくとも2件発生している。チベット全域の焼身抗議もその根本原因のもとを辿れば中国がチベット人の土地を侵略し強奪したことに至る。人は代々住み続けた土地を不当に奪われるとき、もっとも激しい抗議を行うものであると言えよう。
注4:Multiple Meanings of Buddhist Self-Immolation in China ― A Historical Perspective James A. Benn (McMaster University) p204
注5:Revue d’Etudes Tibetaines p9
日本
最後にどうしても日本の話も書かなくてはいけない気がするので少しだけ。日本にも古代において法華経薬王品が伝わった後に最高の供養の方法として焼身が行われたらしく、早くも702年の大宝律令には「僧侶や尼僧は焼身を行ったり、捨身(入水、投身、断食等)を行ってはならない。この決まりを尊重せず、実行した者は罰せられる(凡僧尼。不得 焚身捨身。若違及所由者。並依律科断)」と書かれている。行基は奈良時代の高僧として有名だが、時の朝廷は彼が民間に仏教を布教することを好ましく思わず、717年に糾弾されている。この時の詔には「妄に罪福を説き、朋党を合せ構へて、指臂を焚き剥ぎ (焼身・皮膚を剥いで写経……) 」と書かれているので、このころ、行基の弟子の中に指等を供養の印に焼く者がいたことが知れる。
平安時代には少なからぬ人数の人が仏教的焼身を行ったらしい。13世紀編纂の百練抄には995年に「上人(僧侶)が阿弥陀峰で焼身した。僧侶や一般人が大勢これを見守った。近年各地で11人が焼身した。(上人於阿弥陀峰焼身、上下雲集見之、近年 国焼身者十一)」とある。この中で阿弥陀峰と書かれているように、これらの焼身は法華経薬王品に影響されたものではなく、阿弥陀如来への帰依を説く金光明経寿量品やジャータカの捨身飼虎を焼き直した焼身品の影響と思われる。その他、平安中期に書かれた仏教説話集である大日本国法華経験記の中にも熊野の那智で修行していた和尚応照が法華経の薬王品に強く影響され薪の上で結跏趺坐して焼身したという話がある。しかし、これは如何にも美化して描かれており、実際に行われたものかどうかは明らかではない。
その後は、というか以前より日本では仏教的供養のための自殺としては断食が一般的であったようだ。これは山伏たちにも引き継がれ、生きたまま土中に掘った穴に入り、ミイラ化したという話は幾つか伝わっている。その他、平家物語の中でも描かれているような「入水往生」が行われるようになった。集団で「補陀落渡海」と呼ばれる補陀落(ポタラ)の浄土へ船で向かうということが9世紀から18世紀まで行われた。那智勝浦からはこの間に20回行われたという。
仏教と関係あるかないかは何とも言えないが、日本では中世以降長い間、抗議の印や忠誠心を示すため、名誉を保つため等のために「切腹」が一般的となって行った。
戦後有名な焼身が2件起っている。1969年の建国記念日に、江藤小三郎が国会議事堂前で世を警め同胞の覚醒を促すと称して焼身した。江藤の死は翌年三島由紀夫の切腹自決に大きな影響を与えたと言われている。また、1975年には米軍嘉手納飛行場前で船本洲治、当時29歳が皇太子訪沖反対を叫びつつ焼身した。これは明らかな政治的焼身抗議である。彼は新左翼、山谷・釜ヶ崎闘争の活動家であった。
最後にチベットの焼身とは大きく離れた話になったな、と思いつつも船本洲治の略歴を読みながら、いや、案外彼の焼身はチベットの焼身抗議にも繋がるものがあるのではないかと感じてしまった。彼は父親が満州で八路軍に銃殺された後、広島県呉市(私の出身地)広町で母親1人に育てられた後、広島大学物理学科に入学。在学中に釜ヶ崎はじめ関西方面に出稼ぎに行き始めた。そこで出会った虐げられた底辺の労働者たちに共感し、1968年10月山谷自立合同組合を結成。1972年6月3日暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議の結成に中心的な役割を果たす。1973年4月対関西建設闘争に関する証人威迫容疑で指名手配。半潜行しながら釜ヶ崎・山谷の闘争に指導的役割を担う。1974年3月愛隣センター爆破(72年12月26日)デッチ上げによって、主犯として爆取容疑で全国指名手配。完全に潜行し、全国を歩く。1975年6月25日潜行先の沖縄嘉手納基地ゲート前において、皇太子訪沖反対を叫びつつ焼身決起。29歳。最後の言葉は「山谷・釜ヶ崎の仲間たちよ。黙って野たれ死ぬな!胸には熱いものがこみあげて、これ以上は書けぬ」であったという。
これで、世界中とは言えないまでも、焼身が目立つ地域の話は大体概観したことになる。最初の問いは「チベット人の焼身抗議は世界の歴史上もっとも激しい政治的焼身である」かどうか?ということであった。皆さんは以上の話を読んでどう判断されたであろうか。少なくとも言えることは、人口比的に言って、チベット人の政治的焼身は一番数が多く、その意味で「激しい」と言えるのではなかろうか。
チベットの焼身の特徴は、弾圧に対する非暴力闘争の一環として、その究極の手段として選ばれたものということだ。また、人により個人差はあるものの政治的目的と宗教的目的を併せ持つものと言えよう。
2013年05月03日
「チベット人の焼身抗議は世界の歴史上もっとも激しい政治的焼身である」と言われることがある。チベットの焼身抗議は現在進行形であり、まだ歴史となった訳ではないが、ここでこれまで世界で行われた他の政治的焼身抗議について概観することも、チベットの焼身抗議を相対化し、客観視するために意味があると思われる。世界と言っても、今回は特にインド、イスラム圏、ベトナム、中国、日本の一般的焼身自殺を含む焼身について報告する。
幸い、2012年12月にフランスのパリで発行された「Revue d’Etudes Tibetaines」と題された雑誌(注1)の中にチベットの焼身だけではなく世界中のこれまでの焼身に関する各学者の論文が集められているので、これを主に参考しながら、以下、特にチベットの焼身に関係すると思われる近代以降の焼身の歴史を中心に概観することにする。
インド
世界的に見ると、政治的抗議の意味を含まない、一般的自殺の方法として焼身を選ぶことが一番多いのはインドである。インドでは何と毎年1万人以上の人が焼身自殺を行っているのだ。これは自殺の11%という。そのほとんどは若い女性である。インドには、今は法律で禁止されているということもあり、稀なケースとなっているが、古くよりサティーと呼ばれる寡婦焼身の習慣があった。これは夫が死亡した場合に残された妻が焼身するというものである。これは同意の下に、自発的に行われることが多いかったと言うが、強制的に殺されるというケースも多かったと言われる。この習慣がいつ頃から始まったかは定かではないが、ヒンドゥー教が仏教を凌ぎ台頭してきた5世紀ぐらいからであろうと思われている。このサティーの習慣はヒンドゥー教の教典に典拠するものではないと言われるが、その起源は一般的にインド神話に登場するサティー女神の物語であると思われている。神話「マハーバーラタ」によれば、「ブラフマー神の子の1人であったダクシャの娘サティーはシヴァと結婚するが、シヴァを快く思っていないダクシャは祭儀にシヴァを招かず、怒ったサティーは聖火に身を投じ死んでしまう。後にサティーはヒマラヤの娘パールヴァティーに転生し、再びシヴァの妻となった」という。つまり、サティーは貞節な女性の象徴であり、ここにはインド思想に特徴的な「死と再生」「生け贄と自発的犠牲」「炎による浄化」等のテーマが含まれており、「炎には破壊と創造の力がある」と考えられていたことを表すものである。
話は少し飛ぶが、チベット仏教というかその密教においては多くの仏神が炎に包まれた姿として現れる。特にそれは守護神とか護法尊、或はダーキニーと呼ばれる憤怒尊として仏法を守る役割を与えられた仏神たちであるが、これらの護法尊の多くは元々ヒンドゥー教の神々であったりインドの地方神であったものが多い。密教が始まった5、6世紀は同時にインドにおいて仏教がヒンドゥー教に押されマイナーな宗教に転落する時期と重なっている。仏教は布教し、生き延びるためにヒンドゥー教の神々を意味を変えながら自らの宗教体系の取り入れるしかなかったとも言える時期なのである。この傾向は時代が下がるに従い顕著となり、中期密教、後期密教の時代にはその成就法といわれるものも増々ヒンドゥー教のそれに近いものとなって行った。もちろん、その目的と意味は依然仏教のそれであったが、手段、自己催眠法が似て来たということである。
その元であるヒンドゥー教の憤怒型の神々を包む炎は先にも言ったように「破壊と創造の力」を持つものであった。仏教になり、この炎について「全ての実体視を打ち破る智慧の炎」であるとか「煩悩を焼尽す炎」であるとかの解釈が行われるようになったが、元をただせば「破壊と創造」の象徴であったということである。私はチベット人の焼身の写真やビデオを見るとき、いつもこの護法尊の炎が二重写しとなる。梵語の「アドブダ」は日本語では驚き、奇跡、未曾有となるようだが、私は彼らが大きな炎に包まれるのを見て、驚き、涙と祈りと共に、その中に仏教的解釈よりもむしろヒンドゥー教的とも言える、「死と再生」「生け贄と自発的犠牲」「炎による浄化」という意味を感じ、現状を「破壊」し新しい秩序を「創造」したいという意志を感じるのだ。彼らは最後に彼らの忠誠心(サティー的貞節心)の表明である「ダライ・ラマ法王に長寿を!」と叫んで息絶える。
話を元に戻そう。インドでは若い女性の焼身自殺が多いということだが、これは焼身という手段を使うという面でその宗教文化と結びついていると思われる。自殺には女性が虐げられているという現実が背景にあることは確かである。社会的抗議としての焼身も若い女性により始められた。1914年1月にカルカッタ(今のコルカタ)でスネハラターというブラフマン階級の14歳の少女がダウリーという花嫁が花婿へ持参金や家財道具を贈る制度に反対を唱え屋根の上で焼身した。この事件は世界的なニュースとなり、インドではこの後ダウリーを廃止しようという運動も起った。彼女の焼身は「聖なる犠牲」と讃えられ、同じような境遇に悩む女性たちが彼女に見習って次々と焼身するという現象も起った。現在に至まで、若い女性が家庭内の問題や社会的差別の問題を糾弾するために焼身するというケースが沢山起っているという。
インドにおけるもっとも最近の集団による政治的意味を持った焼身抗議は1990年に起った「反マンダル」の焼身である。「マンダル」とはこの時の政府が打ち出した「低カースト優遇政策」のことである。学生を中心にこれに反対する上級カーストの人たちが200人以上も焼身したのである。これにより、マンダルは廃止されなかったが、時の首相であるVP Singhは解任されることになった。
チベット人初めての焼身抗議はインドのデリーで1998年にトゥプテン・ゴドゥップが行ったものだが、彼が焼身というアイデアをどこから得たのかは分からない。もしかしたら、インドにおけるこのような焼身抗議を知っおり、それに影響されたのかも知れない。
イスラム圏
西洋キリスト教社会では焼身は火あぶりの刑と言うように、罪人が受ける業火という意味合いが強く、自殺の形態として焼身が選ばれるということは極く稀であり、また政治的抗議の焼身も稀である。ただ近代において焼身抗議が全く無かったわけではなく、政治的抗議として1969年に当時のチェコスロバキアのプラハで行われたヤン・パラフの焼身は有名である。大学生であった彼はその前年に始まった所謂「プラハの春」と呼ばれる社会主義改革が、次の年ソ連その他の共産国の軍事侵攻を受け挫折したことを悲観して広場で焼身抗議を行った。その後、彼に続いてヤン・ザイーツという青年も焼身している。ヤン・バラフは東欧だけでなく西欧においても若者の間に悲劇のヒーローとしてシンボル的存在となった。彼は1963年にベトナムのサイゴンで焼身した僧ティック・クアン・ドックを真似たと言われている。このベトナムの僧侶の焼身は世界的ニュースとなり、後の様々な焼身抗議のモデルとなったが、これについてはまた後ほど、書く。
2010年12月17日にチェニジアの中部の町、シディブジドで、大学は出たものの職はなく路上で野菜を売って家の生計を支えていた26歳の青年モハメド・ボアジジが焼身した。彼は翌年の1月4日に死亡した。焼身の直接の原因は、無許可で路上販売を行っていたとして警察に商品を没収され、借金しながらもまた商売を始めようと役所に懇願に行ったが、そこで女性役人に顔を叩かれたことであり、その役所の前で抗議の焼身を行ったのだ。アラブ諸国には今若者が増加し、就職問題が大きな社会問題になっている。彼の焼身は無職の若者の絶望の象徴的なモデルとなり、体制批判に火を付ける結果となった。彼の焼身をきっかけに起った反独裁政権デモにより、チェニジアのベンアリ政権はもろくも倒れ、独裁者ベンアリは亡命を余儀なくされた。これが所謂「アラブの春・ジャスミン革命」の始まりである。独裁者追放、民主化要求のうねりは同じイスラム教を奉じる近隣国に波及し、その後1年の間にエジプト、リビアで長期独裁者が逮捕・惨殺され、イエメンでも大統領が交代した。今はシリアで独裁者アサド大統領と反体制派が激しい内戦を続けている。イスラム教国のばあい、独裁者追放のために激しい戦闘が行われたり、選挙が行われても結局原理主義的イスラム勢力が拡大するだけということにもなりやすく、真の民主化への道は容易ではないようである。
実はチェニジアでモハメド・ボアジジが焼身した後、彼の焼身に刺激され、その後1ヶ月の間にチェニジア、アルジェリア、モロッコ、モーリタニア、エジプト、サウジアラビア、スーダンそれにイエメンで約30人の人が焼身しているのである。一般的にイスラム教においては自殺は罪と見なされる。焼身自殺については火自体が聖なる処罰の手段と信じられているので、法律的にも禁止されている国が多いという。しかし、これらの焼身抗議をイスラム法に照らして肯定すべきかどうかについては意見が分かれているという。つまり、これをジハードと認めるべきかどうかについてである。イスラム法においては「イスラム教やイスラム教国、イスラム共同体」を守るために敵と聖戦(ジハード)を行うときには自殺的行為も偉大なミッションとして認められることが多い。一部の宗教的権威者たちは自殺や焼身を否定しながらも、このチェニジアのモハメド・ボアジジの焼身を「不正と腐敗」に対するジハードとして認めた。しかし、もちろん全ての自殺をイスラム法に反する行為とする学者たちもいるという(注2)。
イランも自殺の中で焼身の割合が多い国として有名であり、特にその北西部のシーアコミュニティーでは1998年〜2003年の間に98件の焼身が記録されたという。ただ、これは政治的目的をもった焼身ではない。ここでもインドと同じように若い女性の焼身がめだつという。
国家を持たない世界最大の民族集団と言われるクルド人(人口2500〜3000万人)はトルコを初めイラン、イラク、シリア等をはじめ西洋諸国にも多くが移民している。各地で迫害を受け続ける彼らは長期に渡り独立運動を行っている。その中でもクルド労働党(Kurdistan Workers Party [PKK])と呼ばれる独立組織は闘争の一環として焼身抗議を肯定し、英雄と見なす姿勢を見せている。そして、1982年に政治犯としてトルコの刑務所に収監されていた4人のクルド人が同じ日に焼身抗議を行ったことに始まり、2007年までに15カ国で183人の活動家による焼身抗議が記録されている。焼身は活動家だけでなくその家族、運動を支持する女性にも広がっている。その内55%はトルコの刑務所内、28%がドイツを中心とするヨーロッパ、16%が中東諸国で行われ、ゲリラ闘争地帯での焼身はわずか1%という。トルコ内の刑務所における政治犯に対する扱いは劣悪でこれが焼身を誘発するものと思われる。ヨーロッパにおける焼身はクルド問題を訴えるためと考えられる。ゲリラ闘争地帯で焼身が少ないのは、いずれ闘いのために命を掛けており、自殺は戦力の喪失に繋がるので少ないのだと思われる。なお、PKKは焼身抗議とともに自爆テロも行っている。これらの焼身の原因はトルコ政府によるクルド人弾圧に求められよう。ただ、チベット人と違いクルド人たちはその圧政に抵抗するために独立を求め、武装闘争も行っている。多くの焼身者たちはゲリラ闘争に加わりたくとも、それを許されなかった女性や年少者が多いという。生き残った何人かの証言を読むと、彼らは焼身という形でこの独立運動に貢献したいと思ったということが分かる(注3)。
注1:http://himalaya.socanth.cam.ac.uk/collections/journals/ret/pdf/ret_25.pdf
注2:Immolation in a Global Muslim Society Revolt against Authority ― Transgression of Strict Religious Laws1 Dominique Avon (Universite du Maine – Le Mans)
注3:Self-Immolations by Kurdish Activists in Turkey and Europe Olivier Grojean (Aix-Marseille Universite - CERIC/UMR 7318)
幸い、2012年12月にフランスのパリで発行された「Revue d’Etudes Tibetaines」と題された雑誌(注1)の中にチベットの焼身だけではなく世界中のこれまでの焼身に関する各学者の論文が集められているので、これを主に参考しながら、以下、特にチベットの焼身に関係すると思われる近代以降の焼身の歴史を中心に概観することにする。
インド
世界的に見ると、政治的抗議の意味を含まない、一般的自殺の方法として焼身を選ぶことが一番多いのはインドである。インドでは何と毎年1万人以上の人が焼身自殺を行っているのだ。これは自殺の11%という。そのほとんどは若い女性である。インドには、今は法律で禁止されているということもあり、稀なケースとなっているが、古くよりサティーと呼ばれる寡婦焼身の習慣があった。これは夫が死亡した場合に残された妻が焼身するというものである。これは同意の下に、自発的に行われることが多いかったと言うが、強制的に殺されるというケースも多かったと言われる。この習慣がいつ頃から始まったかは定かではないが、ヒンドゥー教が仏教を凌ぎ台頭してきた5世紀ぐらいからであろうと思われている。このサティーの習慣はヒンドゥー教の教典に典拠するものではないと言われるが、その起源は一般的にインド神話に登場するサティー女神の物語であると思われている。神話「マハーバーラタ」によれば、「ブラフマー神の子の1人であったダクシャの娘サティーはシヴァと結婚するが、シヴァを快く思っていないダクシャは祭儀にシヴァを招かず、怒ったサティーは聖火に身を投じ死んでしまう。後にサティーはヒマラヤの娘パールヴァティーに転生し、再びシヴァの妻となった」という。つまり、サティーは貞節な女性の象徴であり、ここにはインド思想に特徴的な「死と再生」「生け贄と自発的犠牲」「炎による浄化」等のテーマが含まれており、「炎には破壊と創造の力がある」と考えられていたことを表すものである。
話は少し飛ぶが、チベット仏教というかその密教においては多くの仏神が炎に包まれた姿として現れる。特にそれは守護神とか護法尊、或はダーキニーと呼ばれる憤怒尊として仏法を守る役割を与えられた仏神たちであるが、これらの護法尊の多くは元々ヒンドゥー教の神々であったりインドの地方神であったものが多い。密教が始まった5、6世紀は同時にインドにおいて仏教がヒンドゥー教に押されマイナーな宗教に転落する時期と重なっている。仏教は布教し、生き延びるためにヒンドゥー教の神々を意味を変えながら自らの宗教体系の取り入れるしかなかったとも言える時期なのである。この傾向は時代が下がるに従い顕著となり、中期密教、後期密教の時代にはその成就法といわれるものも増々ヒンドゥー教のそれに近いものとなって行った。もちろん、その目的と意味は依然仏教のそれであったが、手段、自己催眠法が似て来たということである。その元であるヒンドゥー教の憤怒型の神々を包む炎は先にも言ったように「破壊と創造の力」を持つものであった。仏教になり、この炎について「全ての実体視を打ち破る智慧の炎」であるとか「煩悩を焼尽す炎」であるとかの解釈が行われるようになったが、元をただせば「破壊と創造」の象徴であったということである。私はチベット人の焼身の写真やビデオを見るとき、いつもこの護法尊の炎が二重写しとなる。梵語の「アドブダ」は日本語では驚き、奇跡、未曾有となるようだが、私は彼らが大きな炎に包まれるのを見て、驚き、涙と祈りと共に、その中に仏教的解釈よりもむしろヒンドゥー教的とも言える、「死と再生」「生け贄と自発的犠牲」「炎による浄化」という意味を感じ、現状を「破壊」し新しい秩序を「創造」したいという意志を感じるのだ。彼らは最後に彼らの忠誠心(サティー的貞節心)の表明である「ダライ・ラマ法王に長寿を!」と叫んで息絶える。
話を元に戻そう。インドでは若い女性の焼身自殺が多いということだが、これは焼身という手段を使うという面でその宗教文化と結びついていると思われる。自殺には女性が虐げられているという現実が背景にあることは確かである。社会的抗議としての焼身も若い女性により始められた。1914年1月にカルカッタ(今のコルカタ)でスネハラターというブラフマン階級の14歳の少女がダウリーという花嫁が花婿へ持参金や家財道具を贈る制度に反対を唱え屋根の上で焼身した。この事件は世界的なニュースとなり、インドではこの後ダウリーを廃止しようという運動も起った。彼女の焼身は「聖なる犠牲」と讃えられ、同じような境遇に悩む女性たちが彼女に見習って次々と焼身するという現象も起った。現在に至まで、若い女性が家庭内の問題や社会的差別の問題を糾弾するために焼身するというケースが沢山起っているという。
インドにおけるもっとも最近の集団による政治的意味を持った焼身抗議は1990年に起った「反マンダル」の焼身である。「マンダル」とはこの時の政府が打ち出した「低カースト優遇政策」のことである。学生を中心にこれに反対する上級カーストの人たちが200人以上も焼身したのである。これにより、マンダルは廃止されなかったが、時の首相であるVP Singhは解任されることになった。
チベット人初めての焼身抗議はインドのデリーで1998年にトゥプテン・ゴドゥップが行ったものだが、彼が焼身というアイデアをどこから得たのかは分からない。もしかしたら、インドにおけるこのような焼身抗議を知っおり、それに影響されたのかも知れない。
イスラム圏
西洋キリスト教社会では焼身は火あぶりの刑と言うように、罪人が受ける業火という意味合いが強く、自殺の形態として焼身が選ばれるということは極く稀であり、また政治的抗議の焼身も稀である。ただ近代において焼身抗議が全く無かったわけではなく、政治的抗議として1969年に当時のチェコスロバキアのプラハで行われたヤン・パラフの焼身は有名である。大学生であった彼はその前年に始まった所謂「プラハの春」と呼ばれる社会主義改革が、次の年ソ連その他の共産国の軍事侵攻を受け挫折したことを悲観して広場で焼身抗議を行った。その後、彼に続いてヤン・ザイーツという青年も焼身している。ヤン・バラフは東欧だけでなく西欧においても若者の間に悲劇のヒーローとしてシンボル的存在となった。彼は1963年にベトナムのサイゴンで焼身した僧ティック・クアン・ドックを真似たと言われている。このベトナムの僧侶の焼身は世界的ニュースとなり、後の様々な焼身抗議のモデルとなったが、これについてはまた後ほど、書く。
2010年12月17日にチェニジアの中部の町、シディブジドで、大学は出たものの職はなく路上で野菜を売って家の生計を支えていた26歳の青年モハメド・ボアジジが焼身した。彼は翌年の1月4日に死亡した。焼身の直接の原因は、無許可で路上販売を行っていたとして警察に商品を没収され、借金しながらもまた商売を始めようと役所に懇願に行ったが、そこで女性役人に顔を叩かれたことであり、その役所の前で抗議の焼身を行ったのだ。アラブ諸国には今若者が増加し、就職問題が大きな社会問題になっている。彼の焼身は無職の若者の絶望の象徴的なモデルとなり、体制批判に火を付ける結果となった。彼の焼身をきっかけに起った反独裁政権デモにより、チェニジアのベンアリ政権はもろくも倒れ、独裁者ベンアリは亡命を余儀なくされた。これが所謂「アラブの春・ジャスミン革命」の始まりである。独裁者追放、民主化要求のうねりは同じイスラム教を奉じる近隣国に波及し、その後1年の間にエジプト、リビアで長期独裁者が逮捕・惨殺され、イエメンでも大統領が交代した。今はシリアで独裁者アサド大統領と反体制派が激しい内戦を続けている。イスラム教国のばあい、独裁者追放のために激しい戦闘が行われたり、選挙が行われても結局原理主義的イスラム勢力が拡大するだけということにもなりやすく、真の民主化への道は容易ではないようである。
実はチェニジアでモハメド・ボアジジが焼身した後、彼の焼身に刺激され、その後1ヶ月の間にチェニジア、アルジェリア、モロッコ、モーリタニア、エジプト、サウジアラビア、スーダンそれにイエメンで約30人の人が焼身しているのである。一般的にイスラム教においては自殺は罪と見なされる。焼身自殺については火自体が聖なる処罰の手段と信じられているので、法律的にも禁止されている国が多いという。しかし、これらの焼身抗議をイスラム法に照らして肯定すべきかどうかについては意見が分かれているという。つまり、これをジハードと認めるべきかどうかについてである。イスラム法においては「イスラム教やイスラム教国、イスラム共同体」を守るために敵と聖戦(ジハード)を行うときには自殺的行為も偉大なミッションとして認められることが多い。一部の宗教的権威者たちは自殺や焼身を否定しながらも、このチェニジアのモハメド・ボアジジの焼身を「不正と腐敗」に対するジハードとして認めた。しかし、もちろん全ての自殺をイスラム法に反する行為とする学者たちもいるという(注2)。
イランも自殺の中で焼身の割合が多い国として有名であり、特にその北西部のシーアコミュニティーでは1998年〜2003年の間に98件の焼身が記録されたという。ただ、これは政治的目的をもった焼身ではない。ここでもインドと同じように若い女性の焼身がめだつという。
国家を持たない世界最大の民族集団と言われるクルド人(人口2500〜3000万人)はトルコを初めイラン、イラク、シリア等をはじめ西洋諸国にも多くが移民している。各地で迫害を受け続ける彼らは長期に渡り独立運動を行っている。その中でもクルド労働党(Kurdistan Workers Party [PKK])と呼ばれる独立組織は闘争の一環として焼身抗議を肯定し、英雄と見なす姿勢を見せている。そして、1982年に政治犯としてトルコの刑務所に収監されていた4人のクルド人が同じ日に焼身抗議を行ったことに始まり、2007年までに15カ国で183人の活動家による焼身抗議が記録されている。焼身は活動家だけでなくその家族、運動を支持する女性にも広がっている。その内55%はトルコの刑務所内、28%がドイツを中心とするヨーロッパ、16%が中東諸国で行われ、ゲリラ闘争地帯での焼身はわずか1%という。トルコ内の刑務所における政治犯に対する扱いは劣悪でこれが焼身を誘発するものと思われる。ヨーロッパにおける焼身はクルド問題を訴えるためと考えられる。ゲリラ闘争地帯で焼身が少ないのは、いずれ闘いのために命を掛けており、自殺は戦力の喪失に繋がるので少ないのだと思われる。なお、PKKは焼身抗議とともに自爆テロも行っている。これらの焼身の原因はトルコ政府によるクルド人弾圧に求められよう。ただ、チベット人と違いクルド人たちはその圧政に抵抗するために独立を求め、武装闘争も行っている。多くの焼身者たちはゲリラ闘争に加わりたくとも、それを許されなかった女性や年少者が多いという。生き残った何人かの証言を読むと、彼らは焼身という形でこの独立運動に貢献したいと思ったということが分かる(注3)。
注1:http://himalaya.socanth.cam.ac.uk/collections/journals/ret/pdf/ret_25.pdf
注2:Immolation in a Global Muslim Society Revolt against Authority ― Transgression of Strict Religious Laws1 Dominique Avon (Universite du Maine – Le Mans)
注3:Self-Immolations by Kurdish Activists in Turkey and Europe Olivier Grojean (Aix-Marseille Universite - CERIC/UMR 7318)





















