2017年11月30日

カンゼで63歳の僧侶が焼身抗議・死亡

120-2-611x102429日付ラジオフリーエジア(RFA)などによれば、11月26日、四川省カンゼ(甘孜)チベット族自治州カンゼ県カンゼの街中で、カンゼ僧院僧侶テンガ(63、བསྟན་དགའ། )が中国政府のチベット政策に抗議するための焼身を行い、その場で死亡した。目撃者によれば、彼は焼身中、チベットの自由とダライ・ラマ法王のチベット帰還を訴えたという。

事件後、当局がいつものように地域の電話、ネットを遮断したことにより、情報がつたわるのが遅れたと言われる。

僧テンガはカンゼ県ダド村(མདའ་མདོ།)の出身。幼少時に両親が亡くなり、早くよりカンゼ僧院に入っていたという。近隣の村々で彼はいつも法要の中心的役割を担い、村人たちから尊敬されていたという。

僧テンガは2005年、インドのアムラバティで行われたダライ・ラマ法王が導師を務めるカーラチャクラ法要に参加していた。

僧テンガは内地における151人目の焼身抗議者。内外合わせて159人目。7月29日にダラムサラでパッサン・ドゥンドップ(48)が焼身死亡して以来、およそ4ヶ月ぶりの中国政府に対する焼身抗議である。

参照:11月29日付RFAチベット語版
同英語版
11月29日付Tibet Times チベット語版



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2017年07月30日

ダラムサラで焼身抗議・死亡

170729081341Q8運び出される遺体

昨日、7月29日、現地時間午後3時ごろ、チベット亡命政府とダライ・ラマ法王庁がある北インド、ダラムサラで1人の男性が焼身を行った。場所はダライ・ラマ法王の住居とナムギェル僧院がある丘の中腹を巡るコルラ(右繞道)の上。遺留品の中にチベット国旗があり、目撃者が炎の中で焼身者が「ダライ・ラマ法王に長寿を!」と叫んだことを聞いていることから、中国のチベット政策に対する抗議の焼身であったと思われる。未だ、身元は判明していない。

ダラムサラでは先の7月14日にベナレスで同じく焼身抗議を行い、22日に病院で亡くなったチベット中央大学学生テンジン・チュイン(19)の火葬が行われたばかりであった。遺体は遠くベナレスから運ばれ、最後はチベット国旗をかざすバイク隊と多くの車に先導されダラムサラに到着した。その後インド式のむき出しの火葬に大勢の亡命チベット人が集まり、悲しみを共有したのであった。今回の焼身抗議はテンジン・チュインの焼身が引き金と思われる。

三人の目撃者の話が伝わっている。一人は「気がついたときにはもう彼は燃えていた。すぐに助けを呼ぼうと走って、帰ってきたらもっと炎が大きくなっておりどうしようもなかった」という。「ガソリンを被っているのを見たがすぐに火を点けて燃え上がった。元気そうな若者のようだった」ともう一人。近くの養老院に住む女性は「コルラをしてるとき何か燃えてる気配を感じて振り向くと人が燃え上がっていた。彼が『ダライ・ラマ法王に長寿を!』と叫んだのを聞いた。怖くなり、助けを呼びながら走った」という。

本土以外での焼身抗議はこれで8人目。本土を含め158人になった。



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2017年07月16日

インド、ベナレスでチベット難民が中国政府に対する焼身抗議

70b18c91-7442-47e2-8a90-47be11bfcf50男子学生寮ホールの監視カメラに映されていたテンジン・チュインが炎に包まれながら出口に向け走る様子。

7月14日、現地時間午前9時頃、インド、ベナレスにあるチベット中央大学(故サンスクリット大学)の男子学生寮のホールでテンジン・チュイン(བསྟན་འཛིན་ཆོས་དབྱིངས། )、19歳(1998年2月12日生)が中国政府のチベット政策に抗議する焼身を行った。目撃した同僚が直ちに火を消し病院に運び込んだ。

現在彼はベナレス(サルナート)の病院に収容され治療を受けている。全身の3分の2の火傷を負い、医師は「生命は保証できない状態」とコメントしている。

目撃者の証言によれば、彼は炎に包まれながらも「チベットに勝利を!」と叫んだという。

テンジン・チュインの焼身は、チベット亡命政府首相ロプサン・センゲが同大学の中央ホールで学生に向かい演説を行っている最中に起こった。それ故に一部学生の間では「首相に抗議する意味もあったのでは?」との疑惑が湧いていたが、意識があり話すことができる彼は病院で、その疑惑を否定し「チベットのために焼身したのだ。チベットに自由がないからだ」と明言している。

テンジン・チュインは焼身の前に親友宛に「遺書」を書いている。その中で彼は「自分の体はチベットのために存在する」と書き、「チベット語を忘れないように」と訴え、友人や両親に対し「泣かないでほしい。皆さんが幸福に生きられますように。来世で再会できますように」と結んでいる。

テンジン・チュインは南インド、コレガルキャンプの出身であり、現在チベット中央大学の中観学上級の生徒である。

彼はチベット青年会議のメンバーであり、かねてよりチベットの自由のために活発に活動していたという。

チベット本土以外でのチベット人の焼身抗議はこれで7人目、本土を合わせ157人が中国政府に対する焼身抗議を行ったことになる。

中国政府がチベット人に対する監視、弾圧を強化する限り、若者を中心に、非暴力的手段ではあるが、命をかけても中国政府に抗議しようという人は絶えることがないと思われる。

参照:7月14日付RFA英語版
同チベット語版
その他





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2017年05月20日

<速報>チェンツァで22歳僧侶焼身・死亡 内地150人目

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5月19日付RFAによれば、現地時間同日午前5時頃、アムド、チェンツァ(གཅན་ཚ་རྫོང་། 青海省黄南チベット族自治州尖扎県尖扎)市内にある人民病院近くの路上で22歳の僧侶ジャミヤン・ロセル(དབྱངས་བློ་གསལ། )が中国のチベット支配に抗議する焼身を行い、その場で死亡した。

ただちに現場に警官隊と軍隊が集まり、遺体は運び去られた。これを知った家族が警察署に行き、遺体の引き渡しを要求したが、拒否されたという。

ジャミヤン・ロセルはチェンツァの街から南に30キロほどのところにあるナンラ村ケルテン僧院の僧侶。この僧院には約20人ほどの僧侶が所属するという。

事件後、ツェンツァには厳戒態勢が敷かれ、その他の情報は入っていない。

内地における焼身抗議者の数が2009年以来これで150人になった。内外合わせれば156人である。
中国当局は無視を決め込み、亡命側も無策である。弾圧に起因する対立と緊張の出口はどこにも見つからないまま、悲しいことに犠牲者だけが増えて行く。

参照:5月19日付RFAチベット語版 及び英語版



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2017年05月07日

<続報>ボラでの焼身抗議 16歳・中学生

299b6a6f-6a92-44ed-97a0-fbddee0cb540焼身の現場となったボラ僧院。

5月6日付RFAチベット語版によれば、今月2日アムド、ボラ(བླ་བྲང་བསང་ཆུ་རྫོང་འབོ་ར་ཞང་甘粛省甘南チベット族自治州夏河県ボラ郷)で焼身したチベット人の氏名はチャドル・キャプ(ཕྱག་རྡོར་སྐྱབས། )、16歳の男子中学生という。

RFAが現地から得た情報によれば、2日の夕方、ボラ僧院の境内でチャドル・キャプはガソリンをかぶり、火を点けると同時に「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王をチベットに!」と叫びながら、ボラ庁舎に向かって走った。しかし、火の勢いが強く、しばらくして倒れ込んだという。

直ちに公安職員と軍人が大勢現場に駆けつけ、彼の火を消し、どこかに連れさったという。その後ボラは厳戒態勢下となり、彼の生死などの情報は未だ伝わっていない。

ボラ、ダルツォ村の出身、母ドルマ・ツォ、父スパの息子であるチャドル・キャプはまだ16歳であった。

参照:5月6日付RFAチベット語版 http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/shakdor-kyab-self-immolation-in-bora-05062017222516.html

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2017年05月05日

ボラで新たな焼身 155人目

12ボイスオブアメリカ( VOA)によれば、5月2日、アムド、サンチュ、ボラ(བླ་བྲང་བསང་ཆུ་རྫོང་འབོ་ར་ཞང་甘粛省甘南チベット族自治州夏河県ボラ郷)で1人の男性が焼身を行ったという。ボラは現在厳戒態勢が敷かれているという。複数ソースによる確かな情報と判断されるが、当局の情報統制が厳しいと思われ、焼身者の生死、身元などの情報は今のところ入っていない。

5db0586fボラ僧院のあるボラは2012年から13年にかけ焼身抗議が連続した場所である。

参照:5月3日付 VOA 英語版 http://www.voatibetanenglish.com/a/3835866.html

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2017年04月15日

<速報>カンゼで再び焼身抗議  154人目

17904008_1378950465500707_2622991353821939119_n今日、4月15日、カンゼ市内(四川省カンゼチベット族自治州カンゼ県カンゼ)で1人のチベット人が焼身抗議を行った。警官隊が倒れている焼身者に向かって消火器を使っているビデオがネット上に流れている。近づこうとするチベット人を長い棒を使って追い払う警官の姿も映っている。

焼身者は警官隊に連れ去られ、生死を含めその後の消息は情報遮断も行われ未だ伝わっていない。ただ「僧侶であったらしい」という情報が流れている。

1ヶ月ほど前の3月18日にも同じカンゼ州のニャロンで24歳のペマ・ギェルツェンが焼身抗議を行っている。彼の生死も未だ不明のままである。当局による大規模破壊が現在も行われているラルンガル大僧院も同じカンゼ州内にあり、カンゼに近い。相次ぐカンゼでの焼身抗議にはこの影響も考えられる。

<続報:4月18日>
焼身者の氏名はワンチュク・ツェテン(དབང་ཕྱུག་ཚེ་བརྟན། )と判明。年齢は30歳代。18日の午前中は生存しているとの情報が流れていたが、夜になりVOTが死亡確認と報じた。

これで、チベットの焼身抗議者の数は内地148人、内外合わせ154人となった。
この内129人の死亡が確認されている。

参照:4月15日付Tibet Times チベット後版
4月17日付RFA英語版


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2017年03月19日

<速報>今年初めての焼身抗議 カム、ニャロンで 24才

17361730_749131325246186_6706220588653641064_nペマ・ゲルツェン

昨日、3月18日現地時間午後4時頃、カム地方ニャロン(四川省甘孜チベット族自治州新龍県)にあるツォカ僧院近くの路上で、ペマ・ゲルツェン、24才が焼身した。明らかに中国の終わらぬチベット人弾圧に抗議するための焼身と思われる。

焼身後の現場近くの様子をビルの一室から撮ったと思われる1分ほどのビデオが、フェースブックなどに上げられている。その中には大勢の警官が走っている様子などが映っている。

チベットでは蜂起記念日である3月10日前から特に厳しい警戒態勢が敷かれていた。カンゼ一体は3月10日前からネットなどは遮断されていたと言われるが、この焼身後徹底的な情報遮断が行われているらしく、警官隊に連れ去られたというペマ・ゲルツェンの生死その他の詳細は未だ伝わっていない。

今年初めてのチベット人による中国政府に対する焼身抗議であり、2009年以来これで内地147人、外地の6人を合わせ153人が焼身したことになる。

詳細が伝わり次第、追記する。

参照:3月19日付Tibet Net 英語版
3月19日付Tibet Times チベット語版


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2016年12月11日

12月8日、マチュで中国政府に対する抗議の焼身を行い死亡したタシ・ラプテンの遺書(日本語全訳)

15325126_10208049325411906_3616981744352674677_o12月8日、アムド、マチュで中国政府に対する抗議の焼身を行い、死亡したタシ・ラプテン。

彼は中国語で遺書を残していた。母語であるチベット語ではなく中国語で書いたのは中国人にも訴えたいという思いが強かったと思われる。「13億人の人権と民主のために吶喊(時の声を上げる<中原注)したいと願うばかりです。」と書かれているから彼の訴えは、チベット人と中国人の違いを明らかにしながらも、中国人の訴えでもあることになる。

文中には日本への言及もあり、「私は日本人が好きです。敬慕しています。」と書かれている。日本人にも手を差し伸べてほしいと思っていたであろう。

すべての焼身者たちの心情をよく代弁する、素晴らしい文章と思う。彼の最後の願いが世界に届きますように。

以下、劉燕子さんのフェースブックから。
原文は最後に。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

燕のたより
(日)ルンタからの情報により、12月8日、マチュで焼身抗議したタシ・ラプテンさんの遺書を日本語に翻訳しました。中原さん、みなさん、筆がふるえながら、祈りつつ……

 12月8日、アムド・マチュで焼身抗議を行ったチベット人の遺書(試訳)。
 
私はチベット人であり、従って、中国人ではありません。でも中国のパスポートを持つチベット人として、13億人の人権と民主のために吶喊したいと願うばかりです。さらに、私は正真正銘のチベット人として、我々自身の母国と自由のために吶喊しなければならないのです!
 今日、私はいよいよこの世から去っていきますが、しかし、私たちチベット人の信仰に一層近づいていくのだと信じています。私たちは、このような方法を用いて、私たちから失われつつあり、私たちから遠ざかりつつある自分自身の母国を探し求め、取り戻すことが運命づけられているのです。私たちは焼身抗議の方法で、隔絶された自分自身の信仰と母国を呼びかけることが運命づけられています。
私たちは尊者(ダライ・ラマ法王)についていくことを願うばかりです。
私たちチベット人はただ平和的な手段で中国政府との間の問題で解決したいのです。1958年のような、中国の軍人による大虐殺や人間性を絶滅する侵略戦争が起きることなど全く望んでいません。
 また、私たちは再び「打砸抢(ダァザァチャン:暴力・破壊・掠奪」の罪をなすりつけられたくありません(2008年3月のチベット抗議蜂起の時に当局が「打砸抢」を繰り返して罪をなすりつけた)。あの2008年、中国国内の漢人以外に、世界では私たちチベット人が「打砸抢」をやったなどと、ほとんど誰も信じていませんでした。
それは、中国内の漢人の大半は既に洗脳されているからです。中華人民共和国の樹立から、彼らはずっとマンド・コントロールの状態に置かれ、偉大なる指導者を思い慕いながら、共産党の革命歌を合唱し、「四つの近代化」を押し進めています。
2008年3月、いったい誰が「打砸抢(ダァザァチャン)」をやったのか? その真相は何か? まさしく中国当局に派遣された武装警察と軍がチベット全域で「打砸抢殺(ダァザァチャンシャァ)」の「政治運動」を繰り広げたのでした。
 昔、中国人は日本人に「三光政策」をされたと非難するが、もしかしたら、作り話にすぎないかもしれない。もしかしたら、本当にあった悲劇かもしれない。その真偽のほどは、私には分からない。しかし、私は一チベット人として、日本人に対して歴史的な憎悪など抱いていません。私は日本人が好きです。敬慕しています。
だが、中国軍がチベット地域、とりわけチベットの各寺院に対してこのような「(三光)政策」を実行したのは本当です。彼らは私たち一般のチベット人から僧侶まで手あたり次第に殴りつけ、仏像を叩き壊し、寺院の文化財を掠奪しました。尼僧や僧侶、若き学生、またラサに向かう巡礼者を虐殺しました。
1958年はチベットの僧院を放火し、今は戦車とブルドーザーで破壊しています。近年、武装警察、および武装警察の制服を着た部隊が派遣され、多くの寺院、および寺院の周りの僧房は戦車とブルドーザーによりことごとく廃墟にされています。
最後にみなさんにお伝えしたい。私が冗談を述べているなどと、決して思わないでください。私は真摯に訴えます。分かってください。私たちチベット人は決して死を恐れません。だが、平和的に解決したいのです。そのため、私も、やむを得ず焼身抗議の方法を選びます。人々に告げ知らせたいのです。私たちチベット人は、思いやりやいたわりを求めています。自分自身の土地で真に人間らしくしっかりと生きていかねばならないのです。
チベット人万歳! ダライ・ラマ法王万歳!
          2016年12月8日、マチュにおいて、火鳥

中:12月8日 玛曲抗议自焚的扎西留下一份中文遗书。信息来自隆达。笔者翻译成日文。手指颤抖,不住地祷告……


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2016年12月09日

<速報>アムド、マチュで新たな焼身抗議 152人目 / 2児の父 従兄弟の焼身現場で

5AEC831B-B80E-4906-9C25-BCE0AF695F0C_w987_r1_s昨日、12月8日現地時間午後6時頃、アムド、マチュ(མདོ་སྨད་རྨ་ཆུའི་རྫོང། 甘粛省甘南チベット族自治州瑪曲県瑪曲)の街中の歩道の上でチベット人が焼身した。

スマホでこれを撮影したと思われる映像がフェースブックにいくつかあげられている。その中には焼身者が炎に包まれながら前へ歩く姿や、街路樹のそばに倒れこみ、手を空に向けたままの姿勢で燃え盛る炎の中で動かなくなっている、というものある。

1人の女性が近づき「ダライ・ラマ法王よ照覧したまえ。この方が悪趣に落ちることから守りたまえ。中有においても守りたまえ」と唱えている姿が映っている。子供が近づき、じっと燃えるその人を見つめているというのもある。しかし、かつてよく見られたように、目撃したチベット人たちが焼身者を取り囲み、お経をあげながら見守り、当局が遺体を持っていかないようにする、というシーンは今回は見られなかった。

1日経つが、今の所この焼身者の氏名等の詳細は未だ明らかになっていない。「当局が持ち去り、死亡が確認された」という情報だけ入っている。

ビデオだけでは、この焼身が何の目的で行われたのかは判明しない。しかし、チベットでは2009年から焼身という形で中国共産党のチベット政策に対する決死の抗議が続いている。しかし、今年に入り3月23日に四川省アバ・チャン族自治州ゾルゲ県で、5人の子を持つ50才の女性が焼身抗議を行って以来、およそ8ヶ月半抗議の焼身は発生しておらず、ほとんどの人は「すでにチベット人の焼身抗議は終わった」と思っていたはずである。今回の焼身も中国政府への抗議と思われる。

ほとんどの焼身者は最後に「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王がチベットに戻られますように!」と叫んでいる。チベットにおける中国共産党による政治・人権弾圧は続いており、状況は全く良くなっていない。この状況が続く限り、焼身抗議も続くかもしれない。

この焼身は本土チベットで146人目、外地の6人を合わせ152人目となる。

チベットの焼身抗議については私の拙著を参考にして頂ければと思います。 

マチュでの焼身はおそらく2人目であろう。マチュは焼身の多いところではない。ただ、マチュで2012年3月3日に焼身・死亡した19才の女子中学生ツェリン・キが私には特に気になっており、映画『ルンタ』でも取り上げて頂いたし、共同通信さんには本土まで行き、お母さんにインタビューもして頂いた。その時の記事を是非読んでいただきたい。

参照:12月8日付Tibet Timesチベット語版


続報:焼身者の氏名が判明した。タシ・ラプテン(བཀྲ་ཤིས་རབ་བརྟན། 、31歳)。

彼はなんと、上で引用したツェリン・キの従兄弟という。ツェリン・キのお父さんとタシ・ラプテンのお父さんが兄弟とのこと。そして、彼が焼身した場所はツェリン・キが4年半前に焼身した場所と同じという。そこは小さな野菜市場であり、私は何度かそこに足を運んでいる。タシがガソリンを被った場所もツェリン・キがそうしたと言われる野菜市場の奥にある公衆トイレとのこと。

彼は前の道に出て火をつけた。周りの人たちが「ダライ・ラマ法王に長寿を!チベットにご帰還あれ!」と彼が炎に包まれながら叫んだのを聞いた。

今日になり、家族が当局に回収された遺体の引き渡しを求めて警察に行ったが、遺体の引き渡しを拒否され、さらに妻と2人の子供、一緒に行った親戚全員が拘束されたという。

参照:12月9日付TCHRCリリース

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続報その2(12月10日)9日付RFA英語版チベット語版に、新たな情報が含まれていたので追記する。

RFAによれば、タシ・ラプテンの年齢は33歳。子供の数は2人でなく3人という(VOAは2人と)。
出身地はマチュ県トコメマ地区カシュル郷ダクト村(རྨ་ཆུའི་ཁྲོ་ཁོ་སྨད་མའི་བྲག་ཐོ་རུ་ཆེན། )。
父の名はタンペ、母の名はドルカル・キ。

目撃者がRFAに伝えたことろによれば、タシ・ラプテンは焼身中、「チベットの自由とダライ・ラマ法王の帰還」を訴えただけでなく、「パンチェン・ラマの解放」も訴えたという。

事件後、多数の警官と武警が彼の家に押しかけ、家族を詰問し、「タシ・ラプテンの焼身は家庭内の問題が原因であり、中国政府とは何の関係もない」と認めることを強要したという。その後、妻と子子供も警察に連行された。

親戚の何人かが、警察署に遺体の引き渡しを求めるために向かったが、ソナム・イェシェなど数名がそのまま拘束された。

現在、マチュ市内とダクト村には大勢の警官と武警が出動し、緊張が高まっているという。

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参照:12月10日付 VOA

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2016年05月29日

ツェリン・ウーセル 詩篇 その4・最終回 『チベット断想(抄)』

370チベット断想(抄)

一、表現

 今まで、私はチベットについて表現できません。表現するのが苦手だからではなく、どのように表現したらよいのかまったく分からないのです。いかなる文法も存在していません。いかなるセンテンスも繋がっていません。いかなる語彙も、今日のような現実を前にすると、無意味になり、すごすごと遠くに逃げます。文章記号はたった三つしか残っていません。疑問符、感嘆符、省略記号〔……を指す〕だけです。
 私たちの内心にはこの三つの記号が満ちあふれ、他にはありません。私たちのからだには、この三つの記号の烙印がいたるところに押されています。
 見えるでしょう? あまりにもたくさんの疑問符が目に入ります。あまりにもたくさんの感嘆符が目に入ります。でも、口元にまで来ても、言葉にはなりません。言いたいことがあまりにも、あまりにも多すぎて、どう言えばいいのか分かりません。詳しく述べようとしてもできないので、ただ省略記号を繋げるだけなのです。
 チベットよ。ああ。何から話したらいいでしょうか? どうして話させてくれないのですか? 私のひとみのなかで、私の口元で、あなたはどうして永遠に巨大な疑問符、感嘆符、省略記号なのでしょうか?

二、視点

 今日、チベットは複雑な表情で人々の前に現れています。今日、誰もがチベットを見ようと思えば、見えるようです。遠くからでもちらっと見えます。天高くそびえる最高峰がちらっと見えます。自分が思いこんでいるチベットが見えます。
 人々の目のなかで、チベットは何物なのでしょうか? 空中に漂う絢爛たる気球のようで、日増しに神話化されていませんか? それとも、毒素を注入されて、もはや治らなくなった悪性の腫瘤でしょうか?
 連綿と連なる山々、融けない根雪、逆巻く急流、原始の草原、それに付随する奇異な風習、無数のラマやアニが口で唱える訳の分からない経文。これに伴い、一つひとつの視線は否応なくねじ曲げられ、屈折します。――それは旅行者の心理にある、よそ者の視線にすぎません。
 実は、チベットを神秘化する、あるいは悪魔化する視線などもともと存在していなかったのです。視線の下にある広大な、あるいは微細な真相と同様に、よそ者には気づきようのない封鎖の下で、視線の下に置かれた人々だけが身にしみて体験できる状況の中でねじ曲げられ、痙攣し、転倒したためなのです。この一つひとつが屈折して変えられた視線によって。ああ。チベットは、常に既に、徹底的にぼんやりとさせられているのです!
 ああ。チベットよ。実は、あなたは見ているようで、見えていません。これまでだって、これまでだって見えていなかったのです! チベットよ。実は、あなたはこれまで自分自身を見たことなどなかったのです!
 あなたは自分でも自分が見えていないのに、いったい誰があなたを見られるというのでしょうか!。

三、末日

 チベット人にとって、世界の末日は、あらゆる恐ろしい大預言が現実となる日ではなく、まさに、今日なのです。つまり、表面では同情して金を与えて公平に見せ、そして多少の仁慈を帯びた専制政治という、この時代です。既に「解放」が半世紀も続き、百万の「翻身農奴」* が主人公となるという名目の下で、実際は緩慢に死へと導く毒薬が、少しずつ、無数のチベット人の毛穴から肺腑へと深く染みこんできました。アルコールに似て、快楽の幻覚が引き起こされ、日に日に酔いしれ、日に日に自分を見失い、日に日に我を忘れてきました。こうして、遙か遠くの異郷に、自分にとって精神的に最も親しい者〔ダライ・ラマを指す〕が、自分の今生と来世の幸福のために、たくさんの年月を費やして奔走し、年をとり衰え、気も心も疲れ果てているのに、そのお方には無関心で、忘れてしまっています。
 実際、事実、今日の無数のチベット人にとって、末日は既に今日となっていて、まさに毎日毎日が末日なのです。チベット人は末日のなかで暮らしていながら、それを知らず、末日を末日とも思いません。それは自分自身が常に既に末日の一部になってしまったからです!

四、声

 そうです。私たちは自分の声を出すと、いつでも叱責されます。その叱責のなかで、最も筋が通って説得力があるように聞こえるものは、“お前たちは、食べるものも飲むものもみんな、おれたちから提供されているのに、おれたちを攻撃する。お前たちの心はほんとうに陰険だ”というものです。さらに甚だしい場合は、“非常時になったら、さっさと逃げたらいいぞ。さもないと、やられるぞ”と威嚇します。明らかに植民者の口ぶりで、典型的なディスクールの暴力です。
 私たちは自分たちの土地で暮らしているのに、このように叱責されるのは、何を物語っているのでしょうか? 悠久の歴史や伝統のある我が民族が、昔から他人の恩賜をいただいてやっと生き延びてきたというのでしょうか? 事実がそうでないとすれば、一体いつから、隣りに住む他人が家に入り、部屋に居すわり、主人へと変わり、叱責して教え諭す権力を握るようになったのでしょうか?
 “食べるものも飲むものもみんな、おれたちから提供されている”というのは、いいかげんな嘘です。しかし一方で、この論調は植民者に蠱惑(こわく)された民衆には効果的です。植民者でも道理に背けば言葉に窮することも多少はありますから――そうではありませんか? 利益集団に吸収される人はみな、その生存形態が依存どころか、従属、さらには寄生になっています。そのため、か細い声しか発していないのに、ご主人から厳しく譴責されると、ただただ赤面して恥じ入り、声を呑む以外、何もできないのです。
 自分の声を発することは、大いなるタブーを犯すことなのかもしれません。つまり、ある種の覇権が私たちの地域に現れ、密かに戒律を行使しているようです。私たちは暗黙のうちに受け入れ、守り従い、もしも一歩でも踏み越えるなら、「おい、気をつけろ」と、権力の太い棍棒が頭上に振り下ろされます。これもまた一種の警告で、注意を喚起するのです。そして、私たちは官権が許す範囲でしか声を出せなくなるのです。
 もちろん、これは植民者の権力です。被抑圧者は声に詰まり、沈黙を強いられます。いいえ、強要されるのです。もし言えるとすれば、それは付和雷同の声でしかありません。
 ナイポール* の言うとおり、帝国主義のご主人の追従者(ついしょうもの)になるだけです。さらに一歩進めば、権力のちょうちん持ちになり、これは当然、植民者の御心を大いに喜ばせ、多くの恩賞を下賜されます。ですから、“食べるものも飲むものもみんな、おれたちから提供されている”というのも承認されるのです。まるで、主人が番犬に骨をあげるとき、気前よく少しばかりの肉が付いた骨を投げるようなものです。

五、羞恥

 「すべての人間は、生れながらにして自由であり……」、「すべて人間は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する……」――これは半世紀も前に全世界に表明された「世界人権宣言」の中で、最も心を打ち震わせ、また慰藉する二つの条文です。しかし、同時に最も夢物語のような文言です。とりわけ、チベットでは今に至るまで、私たちは生き方と密接に関連する言論の権利があるとは聞いたことがありません。私たちに、この権利はありません。私たちはただ、雷鳴が轟くように、昼も夜も、ただ「だめだ。だめだ。だめだ!」と聞かされるだけです。
 ある日の午後、私は兵営のように深く掩蔽された宿舎で、周囲の壁や本棚を丹念に見つめました。これらは私の生とどれだけの歳月をともにしたことでしょう。沈んだ色合いのタンカ〔軸装を施した仏教画〕、それほど精緻でもないチューメ〔バターで作った燈明〕、人から贈られた、あるいは自分で撮影したチベット僧の写真、それに、小さな仏龕に端座するツァツァ〔粘土や陶製の小さな仏像〕。その頭には青い髷が結わえてあり、水のように澄みきった神々しい表情に一筋の憂いが浮かんでいます。この憂いは、まさにこの時に一層はっきりと現れていました。
――これらはすべて、私にとって信仰のシンボルで、また美感あふれる芸術作品でもあります。しかし、今、私はすべてしまい込み、人に知られないところに隠さなければなりません。それは、彼らが禁令を公布したからです。自宅で宗教に関する物品を飾ることを禁止する。絶対に禁止だ!
 明日、彼らは家ごとに徹底的に調べあげます。そう。この言葉です。徹底的に調べあげるのです! 私はタンカ、チューメ、写真、仏龕すべてを段ボール箱にしまい込んだとき、深い羞恥で心が覆われました。

六、消息

 毎日毎日、重大で特別な消息が、無数の矛盾のある、混乱したうわさとして次々に伝えられます。毎日毎日、私は気をもんで情報を集め、様々な消息を知ろうとします。どんな消息からでも真相を知りたいと切望します。切に切にその経緯を知りたい。これからの方向性を知りたい。最終的な結果を知りたい。しかし、あまりにも多くのうわさが真相を覆い隠し、真相を歪曲し、真相を隠蔽してしまいます。あまりにも多くのうわさの持つ効果はただ一つ。真相を沈黙に引き渡すこと。長い長い沈黙に。
 沈黙。ああ。あの十五歳の少年の活仏〔後のカルマパ十七世〕の心のように、永遠に誰も分かりません。しかし、うわさが多くなればなるほど、彼はますます遠くへ離れ去り、ただ沈黙する後ろ姿がえんじ色〔チベットの僧服の色〕の世界に融けていくのしか見えません。

七、参加

 人はみな参加している。人はみな逃れられない。みな同じように建設に参加する。同じように破壊に参加する。同じように幸福のゲームに、快楽の大行動に、公然たる、あるいは密かな大小の虐殺に参加する。これは目に見えない戦線です。嫌々ながらにせよ、喜んでにせよ、暗黙の了解に従って参加しているように見える。
 母はこう話しました。あの時、私はあなたを産んだばかりだったので、どの政治運動にも参加せず、家であなたの世話をしていました。
 ところが、母が外出すると、地面はバラバラにされた経典で埋めつくされ、頭上では恭しく奉じるべき神聖な経典の一枚一枚が放り投げられ、「造反有理」と大声で叫ぶ革命家に踏みにじられていました〔『殺劫』日本語版九八頁参照〕。母は経典を踏みつけるのは不本意でしたが、経典を拾い、ふところにしまうことなどとてもできずに……

八、良心

 古くさい話題です。また持ち出すのかと大笑いされる話題です。鉄の鉤(かぎ)に心臓が掛けられています。かつてまっ赤でしたがもはや色あせ、かつて生き生きとしていましたがもはや死んでしまい、ただ値が上がるのを待つだけになりました。通りすがりの人たちが、この奇妙な色合いや不思議な形に引きつけられ、胸を高鳴らせて言葉や絵で描き始めましたが、ふとそばに屠殺人がピカピカ光る太刀を手に立っているのを見て、あわてて次々に両手で心臓を取りだして捧げました。ああ。この引き渡された心臓は、鉄の鉤にかけられて売られる心臓と同じで、何の違いもありません。

九、恋人

 不思議な縁(えにし)が、彼と彼女のあいだで生まれました。不思議な縁が、特別な地名を通して結ばれました。この地名、いや、この地域は、地理学的には早くから存在していましたが、彼女にとっての意味あるものになりました。確実なかたちで言えば、今やあるお方と神秘的に繋がれ、霊的に感応するようになりました。
 チベット。ああ。あたかも一本の定められたひものように、異なる地域で暮らす見ず知らずの二人を結びつけました。チベット。ああ。地理学的に言えば、追憶の地理学、遙か遠い伝説のなかの地理学、宗教的な意味の地理学で、今でもわずかに暖かな色合いが添えられていて、この名前を口にすると、たちまち優しい感傷的な心情に満たされます。それはチベットが生の恋人を、この激変する生活のなかに連れてきてくれるからです!

十、使命

 一人の作家としてはもの足りない。一人の信者としてはもの足りない。一人の人間としてはもの足りない。この限られた現世の光陰のなかで、無限に長い前世の光陰のなかで。そして、この地とかの地、無数のこの地と無数のかの地、無数のこの地と無数のかの地が交叉する空間のなかで、私にできるのは、またすべきなのは、そして最もふさわしいのは一人の永遠の審美主義者であるということです。
 もちろん、このような審美は、宗教的感情と人間性が輝く究極的関心に満たされているべきです。具体的に言えば、精神の故郷――チベットを見つめ続けています! ここは慈悲と智恵の化身――観音菩薩に庇護された土地です! そこは現世の苦難のなかからゆっくりと上ってきた土地です! そこは今なお懸命にもがいていますが、かりそめの生き方のなかでも希望を孕んだ土地です!
 このため、私の審美は気楽なものでも、眩惑するものでも、愉快なものでも、見て楽しいものでも、百花繚乱でも、水面に浮かぶ光と影でもなく、……このような審美には、あまりにも多くの心痛、あまりにも多くのため息、あまりにも多くの涙が含まれていて、さらにまた、あまりにも多くの沈思、思考、啓示、昇華をも持たなければなりません。
 このようにして、一人の審美主義者は、同時に義に従って証言し、記録するという使命を引き受けなければならないのです!

十一、故郷

 ……これは今まで見たことがない草原です。緑のなかに、それと違うすべての緑があり、黄色のなかに、それと違うすべての黄色があり、淡い色から濃い色へと続き、そして、濃い色からまた別の色へと変わっていき、まるで赤黒い鉄さびが浮かぶようになっています。ひと塗り、またひと塗り、ひと色、またひと色。幾重にも重なりあい、肉眼では及ばぬほど延々と山麓から天空に伸びています。なんとたくさんの花々に、なんとたくさんの小動物が走り過ぎていることでしょう。
 小雨が舞っています。あの音楽がウォークマンのイヤホンから耳に入ってきます。そこに包まれていた悲しみが洪水のようにあふれ、またたく間に、この目を見はらせる草原に湧き出て、私に向かってきます。一本一本の草と一ひら一ひらの花びらに悲しみの涙の滴が落ちます。これは小雨ではありません。はるか遠い昔から流れてきて奥深く秘められた感情が、気候の作用であますことなく現れたのです。
 まさに音楽が草原の理解を深めさせてくれました。音楽がなければ、たとえこの目で草原を見ても、手と足で草原に触れても、その広さと孤独を知るだけです。また、まさに草原が音楽の理解を深めさせてくれました。その曲名や背景など言う必要はありません。ただ、この音楽は悲しみのなかで黙々と耐えぬいた力を秘めています。それは、我が民族と同じ苦難にある民族から流れ出てきた音楽です。
 ますます雨が激しくなってきました。風も猛烈に荒れ狂っています。不意に一羽の鷹が私の視野に飛び込んできました。まるでよく知っている詩の中で描かれた、俗世と関わりを持たない鳥のように「誇らしく飛び」、幾度も私に低い声で「嵐がすべての怒りをさらけ出すように」と叫ばせました* 。さながら飛ぶことを止められないかのように、鷹は疲れきっていました。ふと私は胸騒ぎがしました。いいえ、胸騒ぎというのではなく、鷹が休めるところはどこにあるのだろうかと、突然、惻隠の心情で胸がつまったのでした。
 でも、私は知っています。この刻(とき)、私がかいま見ている草原はほんの一瞬しか存在しません。言いかえれば、それは、毎年毎年の輪廻の四季、歴史、あるいは往事という、ずっしりと重い重荷を背負いながら、ただ沈黙を守りとおし、何も訴えません。この一瞬、私が目にしたものはほんのわずかで、また草原自体も深く静まりかえってしまいました。暴風雨よりさらに猛烈で悲愴な怒号は、もはや遠く過ぎ去ったようです。かつて祈り、懸命にもがき、またつかの間に得た喜びもまた、もはや遠く過ぎ去ったようです。
 私はただ記憶をたどり、子細に探りました。すると突然、ハッと気づきました。草原には武器を持った軍隊が幻のように入れ代わりたち代わり浮かびあがり、甘露を持った僧侶が花々の咲きほこる日々のなかで現れ、生まれては消えていく悠久の歴史の中で我が同胞が長い袖を舞いあがらせて踊っていたのでした〔代表的な民族衣装のチュパは長い筒袖〕。
 この草原のためなのです! 私は、形はありませんが、どこにでもあまねく存在する縁(えにし)に祈ります。私の無数の輪廻に関わるすべての生命が、この刻(とき)に再び回帰することを願います。すべての生命の耳が、この草原に傾けられることを願います。すべての生命の目が、この草原をじっと見つめることを願います。実は、私が言いたいことは一つだけなのです。私は、創作において、この草原のように、闊達なる表現で、また孤高なる精神で、悲しみを抱きつつ黙々と耐えぬく力を、とりわけ高貴な惻隠の心を持ちえるようにと願うのです!

一二、祈祷

 ……チベット。ああ。私の生生世世(しょうじょうせせ)〔仏教の言葉で、永遠を意味する〕の故郷。もし私がお供えのチューメなら、あなたのそばで消えることなく燃え続けたい。もしもあなたが飛翔する鷲なら、私を光り輝く浄土にお連れください!

                      二〇〇〇〜二〇〇五年、ラサ・北京


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2016年05月27日

ツェリン・ウーセル 詩篇 その3 『こんな詩なんて役に立たないけれど、ロサン・ツェパクに捧げたくて……』

2015北京「私の両手には何もありません。
でも右手にペンを握り、左手で記憶をつかみ、
この時、記憶はペンの先から流れます。
さらに行間には、踏みにじられた尊厳と
尽きない涙があふれます。」

ツェリン・ウーセル

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こんな詩なんて役に立たないけれど、ロサン・ツェパクに捧げたくて……*

一、

もう二三日目になりました。
ある日、「失踪させられる* 」という詩を読み、
すぐにあなたのことを思いました。

あなたは、先月二五日に「失踪させられ」ました。
私はただ涙を流して、詩を書くほかに術(すべ)がありません。

二、

映画には風景の挿入が必要なように、
私の思いは、とてもとても乱れるとき、
夢や幻のような場面がちらつきます。

馬のひづめを埋もれさせる花々、草原の黒いテント、
そよ風にはためくタルチョ、放生(ほうじょう)される鳥や獣(けもの)*

これらはみな私のふるさとの美しい風景、
でも現実は困難を極めた時期で、まさにこの時、
あなたは蒸発するように消えてしまった。

三、

荒唐無稽と現実がイコールで、
私なんて、自分の身も守れないどころか、毒薬のようになってしまい、
あなたは毒の酒を飲み、受難の供物となったのでしょうか* 。

目を閉じれば、いつもあなたが浮かぶ。
あの年の三月、烽火(のろし)が雪国の全域に燃え広がり、
同胞は鮮血を流し尽くした抗議者を寺院に担ぎ入れ、
心の聖殿に供えました。

四、

「三月は最も残酷な月です* 」
ある外国メディアの記者は上品に、こう語りました。
二年続いて三月に彼はチベットを訪れ、何か見たようですが、
まだ何も見ていないようでもあります。
明らかに、彼は三六計〔中国古代の兵法では三六種の計略があるとされ、ここでは中国共産党の策略を指す〕の計略に落ちたのです。
私が「あなたは『チベット人は狼のように吠えた』とおっしゃったのですか?」とたずねると、
気まずい雰囲気になり、彼はプライドが傷つけられたような表情をしました。

五、

アク・ツェパク* 、あなたはどこにいるのですか?
野蛮なやり方で阿壩(ンガパ)に送還されたですか?
それとも秘密の独房に監禁され、残忍なリンチを受けているのでしょうか?

ある若い僧侶が拷問の経験を語ってくださいました。
彼は逆さにつり下げられて、肋骨を三本も折られました。
天気が変わるときは、からだを丸めるほどの激痛が来ます……
ああ。彼にたずねることを忘れました。最近、チベット東部では雪が降りましたが、体調はいかがでしょうか?
それはそうと、ツェパク上人の安否は、誰におたずねしたらいいのでしょうか?

六、

「私たちは足下に国を感じずに生きている
 私たちの会話は十歩離れると聞こえない」
これは、スターリンの手により死に至らしめられた良心的詩人* の詩句です。
まさにこの世の春を謳歌している華夏〔中国の古称〕の姿でもあります。

深夜、私は混乱した内心を吐露しました。
「役に立つかどうか分かりませんが、それでも言います。
実は分かっているのです。言っても役には立たない……」
ランワン・ルンバ〔自由なる国〕の友人が力強い口調で語りました。
「あいつらは何を言ってもムダだと思わせる。
しかし、我々は言うことを止めるわけにはいかない。」

七、

私の両手には何もありません。
でも右手にペンを握り、左手で記憶をつかみ、
この時、記憶はペンの先から流れます。
さらに行間には、踏みにじられた尊厳と
尽きない涙があふれます。

八、

地獄を長い間じっと見つめていると、
地獄に少しずつ食われてしまうかもしれません。

条件があれば出してください?
もし条件があるのなら、聞かせてください。
彼を無事に交換できるのであれば。

ふと想い出しました。あの陰鬱な午後、
一羽の陰鬱な手下の鷹が、凶悪な口ばしを開きました。
「おまえに、できるのか? チベットについて書かないことを」

九、

チベットについて書かなければ、詩になりません。

まさに、チベットのためにこそ、ツェパク上人は失踪させられたのです。
まさに、チベットのためにこそ、タペー上人とプンツォ上人は焼身自殺したのです* 。

このリストは延々と長く続き、さらに先へと長く……

漢語の西蔵――
もちろん、きちんとした名称はチベット〔原文は図伯特で、チベットの音訳〕です。

                     二〇一一年四月四日 初稿
                     二〇一一年四月一七日 脱稿

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2016年05月25日

ツェリン・ウーセル 詩篇 その2 『チベットの秘密』

imageチベットの秘密
 ―獄中のテンジン・デレク・リンポチェ、バンリー・リンポチェ、ロプサン・テンジンに献げる一

一、


彼らは私とどういう関係があるのかしらと、よくよく考えさせられます。
三十三年間も拘禁されたパルデン・ギャツォは* 、
一二歳から投獄されたガワン・サンドルは* 、
それに、釈放されたばかりのプンツォー・ニトンは* 、
さらに、今もなお獄中に監禁されているロプサン・テンジンは* 。
私は知っているわけではありません。ほんとうです。写真さえ見たことがありません。

ただネットでは見たことがあります。年老いたパルデン・ギャツォ僧の前に、
手錠、足かせ、匕首、性能が異なるいくつかの電気ショック棒。
彼の落ちくぼんで、しわが溝のように深く刻まれた顔から、
若いころのはつらつとした容貌が垣間見えました。
その美しさは俗世間には属さず、幼少期に仏門に入ったため、
外見の美は仏陀の精神へと転化していったのでした。

十月の北京郊外、秋風がうら寂しく吹きわたります。
私はラサでダウンロードした伝記を読み、
雪国の衆生が外国の蹄鉄に踏みにじられるのを目の当たりにしました。
パルデン・ギャツォが低い声で語りました。
「成人してからの人生の大半を中国人の刑務所ですごしてきた。しかも私自身の国で……* 」
でも、「寛恕という言葉を知る」という声も聞こえてきます* 。

覆面をつけた悪魔が不定期に正体を表し、
古い神々〔チベット伝統の護法神〕もかないませんが、
肉体のある凡人でも勇気が与えられます。
深夜の祈祷を真昼の叫び声に変えるとき、
高い壁の下のうめき声を四方に向かって響かせる歌声に変えるとき、
逮捕! 刑罰! 無期懲役! 死刑執行猶予! 死刑!

私はもともと口をつぐんできました。何も知りませんでしたから。
私は生まれると解放軍のラッパの音のなかで成長し、
共産主義の後継者となるように育てられました。
突然、赤旗の下の卵は、打ちこわされました。
中年になり、遅ればせながら怒りが喉を突き破るばかりになりました。
私よりも若い同胞の受難のため、涙があふれて止められませんでした。

二、

でも、私は重罪とされて獄中にいる二人を知っています。
二人ともトゥルク* で、東部のカムの人です。
ジグメ・テンジン* とアーナク・タシ* 、あるいはパンリーとテンジン・デレク、
これは彼らの俗名と法名です。
まるで忘れていたパスワードが作動したように、
それほど遠くはない記憶ですが、わざと避けて、しっかりと閉じていたドアを、開けたようです。

そうです。最初はラサの郵便局でした。彼は私に電報を書いてくれと頼みました。
彼は笑いながらいいました。「私は中国人の字は書けないのです。」
彼は、多くの友人のなかで初めての活仏でした。
チベット暦の新年のとき、私たちはパルコルにある写真館で、
けばけばしい色彩のセットの前で、仲良く写真を撮りました。
また、私は朱哲琴のMTVに連れて行き、優美な「手印」を演じてもらいました* 。

めがねをかけたウ・ツアンの女性が彼の伴侶となりました。
二人は孤児院を開き、路上で物乞いをしていた五〇人の子どもを世話しました。
私も一人の里親になりましたが、この限られた憐れみも、突然、思いがけず止めさせられました。
二人は逮捕されましたが、何のためか分かりません。話によると、ある朝、
ポタラ宮広場で雪山獅子旗〔チベット国旗で、中国政府は国家分裂と見なす。雪獅子はチベット伝説の動物〕が揚げられたことに関係しているそうです。
でも、私は認めますが、あまりたくさん知りたくないのです。監獄に面会に行こうと思ったこともありません。

そうです。数年前、ヤルンツァンポ川のほとりで、彼はほとばしる流れの中のりんごを見つめていました。
「ごらんなさい。報いがやって来ました。」
彼の名は知られていますが、それは痛ましくもあり、私は困惑するばかりでした。
もちろん、彼は高名です。人々が次々に変節し、また沈黙するこの時代において、
村々をめぐり仏法を説き、政府や時弊を直接批判しました。
多くの農民、牧畜民、そして孤児は心の中で「大ラマ* 」と仰ぎ見ていますが、
しかし、役人には目のかたきにされ、この突き刺さったとげを抜き取らなければ気が休まらないと思われています。
何度も何度も苦心してわなを張りめぐらせ、「九・一一」の後でやっと捕まえることができました。
ご立派な罪状で、「反テロ」の名目を借りて見せしめにしました。
密かにダイナマイトと卑猥なビデオを隠し持ち、五ないし七件の爆破事件を計画したということです。
でも、私は、投獄される半年前に、彼は辛そうに語ったことを憶えています。
「母が病気で死にました。私は母のために引きこもって、一年修行しなければならない。」
堅く誓った仏教徒が、殺生を犯して命を奪う爆破事件に関われるでしょうか?

三、

私はもう一人のラマ〔師〕を知っていて、彼から帰依と瞑想の経文を教えられました。
ある日、セラ寺で、彼の弟子が泣いて訴えました。
彼が修行していたら、突然、警察の車であの悪名高いグツァ監獄に連行されたのでした。
理由は、何かの政権転覆計画事件の容疑でした。
私は数人の僧侶と駆けつけました。道路は、今のように舗装されていなく、土ぼこりが舞いあがっていました。
炎天下で目にしたのは、銃を持つ兵士の氷のように冷たい顔だけでした。

突然逮捕されのと同様に、突然釈放されました。証拠不十分という結論でした。
「劫」を生き延びて与えられた余生だと感無量で、彼は私に珍しい念珠をくれました。
それは獄中で与えられたマントーと窓の外で燦々と咲いていた黄色い花と親族が差し入れてくれた砂糖をこねて作ったものでした。
一個一個の珠にはびっしりと指紋がついていて、一個一個が体温でぬくもっているようでした。
読経しながら、屈辱の九十数日を過ごしのでした。
一〇八個の念珠よ、一個一個が堅固な石のようです。

私はあるアニ〔尼僧〕に出会いました。彼女は私の年の半分でした。
彼女はパルコルに沿って歩きながら、叫びました。チベット人によく知られているスローガンを。
私服警察が押し寄せ、口をふさがれました。それは、ある夏の日でした。
その日は、私が二八歳となった誕生日で、私はきれいな服を選んでいました。
また、その時の彼女と同じ一四歳のときは、ただ来年に成都の高校に合格することしか考えていませんでした。
私が書いた作文は、ベトナム人と戦う解放軍に捧げるものでした〔一九七九年二月〜三月、中国・ベトナム国境で武力衝突が勃発〕。

七年後、寺院から追われた彼女は、ある親切な商人のところで手伝いをしていました。
背が低い彼女は、強烈な炎天下でも見すぼらしい毛糸の帽子をかぶっていました。
「布の帽子にしたら?」 私はプレゼントしようと思いました。
彼女は辞退しました。「頭痛がするので毛糸の帽子がずっといいのです。」
「どうして?」 そういう答えは初めてなので尋ねました。
「私の頭は獄中で殴られて壊れてしまったのです。」

挨拶を交わす仲のロデンは、人もうらやむ職業と前途でしたが、
夜通し暴飲した後、一人車に乗ってガンデン寺に行きました。
山頂でルンタ* を投げるとき、命取りになるスローガンを幾度か叫んだため、
たちまち寺院駐在の警察に逮捕されました。
党書記は「酒を飲み本音を吐いた」と書類に記入し、
一年後、ラサの街頭では前科者の無職がまた一人増えました。

四、

ここまで書いてきて、私はこの詩を告発にはしたくありませんが、
なぜ、拘禁される者のなかで、僧衣(ドンカ)〔両袖のないガウンに似た衣服〕をまとう者が、そうでない者よりも多いのかと問わずにいられません。
明らかに常識からはずれています。暴力と非暴力の境界線は誰でも知っています。
ですからやはり私たちは羅刹女(らせつにょ)の骨肉なのです〔チベット人は猿と羅刹女の子孫と伝承されている〕。苦難をラマやアニが引き受けているのです。
代わりに殴られ、投獄され、死に赴いているのです。
担ってください。ラマよ、アニよ。私たちの代わりに担ってください!

誰にも知られず、耐えがたい一分一秒、忍びがたい昼と夜、
どのようにして肉体と精神が責め苛まれているのでしょうか?
肉体と書いて、私は思わず身震いしました。
痛いことはほんとうにいやです。ただ一度のビンタでも、私は耐えられない。
恥じながら、私は終わることのない刑期を指折り数えます。
チベットの良心は、一刻も止むことなく、現実のなかの地獄で脈打ち続けているのです。

コルラ〔寺院や聖地などの周囲を時計回りに巡礼すること〕の道の茶館で、つまらないうわさが隅々まで飛びかっています。
コルラの道の茶館で、退職した役人たちが夕方まで楽しそうにマージャンをしています。
コルラの道の居酒屋で、でっぷり太った公務員が毎晩酔っぱらっています。
あぁ、彼らが楽しく堕落するままにしましょう。「アムチョク」になるよりずっとましです。
「アムチョク」というのは「耳」、つまり隠れた密告者です。
「アムチョク」とは、なんとピッタリしたあだ名でしょう。なんとラサの人はユーモアがあるのでしょう。

裏切りと密告が、のぞき見とひそひそ話のなかでこっそりと進行しています。
すればするほど、ご褒美もたくさんもらえて、大物になれます。
ある日、町を歩いていると、奇妙な気持ちになって、私は耳をおおいました。
注意せず、気をゆるめたら、他人の手のなかに落ちてしまうのです。
注意しなければ「アムチョク」になり、隅々に入りこみ、どんどん鋭くなっていきます。
おとぎ話のなかで、子どもの鼻がうそをつくたびに長く伸びるようです〔ピノキオ〕。

いったいどれくらい怪しい「耳」が身近にいるのでしょうか?
また、どれくらい「耳」ではないのに「耳」だと誤解されているのでしょうか?
この奇異な人間模様は、アメとムチよりもずっと破壊力を持っています。
こう考えてくると、私は憂い、悲しみ、そして不本意ながら気づきました。
もう一つのチベットがあるのです。私たちが生活するチベットの裏面に隠されているのです。
このようなわけで、私はもはや抒情詩を書けないのです!

五、

でも、私は依然として沈黙しています。これはもはや習慣となったスタイルです。
理由はただ一つ。とても恐いからです。
なぜでしょうか。誰かはっきりと説明できるでしょうか。
実際、みなこうなのです。私には分かります。
「チベット人の恐怖は手で触れるほどだ」と言います* 。
でも、私は、本当の恐怖は既に空気中に溶けこんでいる、と言いたいです。

過去と現在のことに触れると、彼〔リンポチェ〕は突然すすり泣きだし、私は驚きました。
えんじ色の僧衣で彼は顔をおおい、私は思わず笑ってしまいました。
こみ上げる内心の痛みをまぎらわせるためでした。
周りの人たちは私をにらみつけましたが、
彼は僧衣の中から頭をあげ、私と視線を交わしました。
そのかすかな震えから、恐怖の大きさが伝わってきました。

国営新華社通信のある記者は、北チベット〔自治区北部の那曲(ナチュ)地区〕の牧畜民の子孫で、
中秋節の夜に、酒臭い息を吐きながら共産党の言葉で、私をどなりつけました。
「お前は何様だ? お前があばきたてれば何でも変えられると思っているのか?
おれたちがやっと変えたばかりだというのを知ってるのか? お前は何をしでかそうとしてるんだ?」
私が規則違反したのは確かなことなの? 私は反論しようと思いましたが、彼の口から走狗の凶悪さがさらけ出されていました。
もっとたくさんの人は、もっと重大なことをしでかしたので、粛清されたのでしょうか?

彼女たちが朗唱する軽やかな声が聞こえてくるようです。
「かぐわしい蓮の花は、太陽〔毛沢東は「紅太陽(赤い太陽)」と崇拝された〕に照らされ、枯れてしまいました。
チベットの雪山は、太陽の熱で焼けこげてしまいました。
でも、永遠の希望の石は、命をかけて独立を求める私たち青年を守ります」〔「タプチェ監獄で歌う尼僧」の歌声の一つ〕
いいえ。いいえ。私は政治の暗い影を決して詩に入れるつもりはありません。
でも、どうしても考えてしまうのです。獄中の十代のアニはなぜ恐れないのでしょう?

書き続けましょう。ただ心に刻むためだけに。上に立って憐れむような道徳感など、
当然、持っていません。一個人が吐露するような私事を書きましょう。
ふるさとを遠く離れ、見知らぬ異民族のなかで永遠に身を置きながら、
ちょっぴりと後ろめたさを抱きながら、安全に、声を低くして話しましょう。
つくづく思うのです。彼(女)たちは私と無関係ではありません!
ただこの詩をもって、ささやかな敬意と、遠くからの想いを表します。

                  二〇〇四年一〇月二一日、初稿
                  二〇〇四年一一月一〇日、改稿、北京

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2016年05月24日

ツェリン・ウーセル 詩篇 その1 『雪国の白』他

2d374852以下はチベットの詩人、ブロガーである北京在住のツェリン・ウーセル(私はウーセルと表記するが、オーセルと表記する人もおられる)さんの詩篇である。
日本では劉燕子さんのすばらしい翻訳により、2012年に集広舎さんから『チベットの秘密』として出版された本の中に含まれている。

今回、訳者の劉燕子さんから少しでも多くの人に読んでもらいたいからということで、私のところに送ってくださった。

全部で2万字以上あるので、今日からおそらく5、6回に分けて掲載させていただこうと思う。
ウーセルさんの記事はこのブログでもこれまで再々その翻訳を載せてきた。
チベットを想う気持ちがこれほど強く美しい詩人、活動家を私は他に知らない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『チベットの秘密』(集広舎、2012年)
第一部 詩篇
ツェリン・オーセル著、劉燕子訳


 雪国の白


白い花蕊の中で、彼女はドルジェ・パクモ〔金剛亥母。聖なる山の女神〕が舞っているのを見ました!
いいえ、それは白い花蕊ではなく、高山の頂きでした。

白い火焔のなかで、彼女はペルデン・ラモ〔吉祥天。ダライ・ラマとチベット政府の守護神〕が走っているのを見ました!
いいえ、それは白い火焔ではなく、山々の間でした。

起伏が連なる山麓は、菩薩の曼陀羅を囲むけれど、
星や碁石のように点々と広がる湖は、活仏の転生を現しているけれど、

白い花蕊はたちどころにしおれ、白い火焔はたちまち消えます。
彼女は涙を呑み、遠い異郷のチェンレスィ〔観音菩薩のチベット名。ダライ・ラマは観音菩薩の化身とされる〕に、どのような便りを伝えるのでしょうか?

便り。あぁ、人から人への便りが、一つひとつの親しい名前を伝え、
ダーキニー〔空行母〕とヘールカ〔護法神〕が一瞬身を隠すとき、無と化すのです。

    二〇〇五年一一月一三日、東チベットのギェルタン(結塘)からラサへの空中で





 バラバラに壊された痛ましい尊仏の記

ラサを離れてから二十日になりました。
いつもご尊顔がぺしゃんこにへこまされたあの仏像を想い出します。
冲賽康(トムセーカン)居民委員会* の前の露店におられ、
遠くからでも、目に入りました。
私は金露梅〔エゾツルキンバイ〕を買うためにトムセーカンの市場に行こうとしていました。
でも、仏像が目に入り、突然、深い悲しみに打たれたのです。
知らず知らずに壊された仏像に向かっていきました。
まるでいのちがあり、痛みを感じながらケースにもたれておられるようでした。
顔はぺしゃんこにへこまされ、腕は折られ、しかもまん中でたたき切られていました。
まことに痛ましく陳列ケースにもたれておられました。
そして、しょう油、豆板醤、サラダ油、トイレットペーパーにとり囲まれていました。
どれも中国の内地〔漢人地域〕から私たちの生活に入ってきたものです。
仏像の首には、色あいが精美な石の首飾りがかけられ、
ふところには顔が獅子で、からだは人間の怪獣を抱かされ、
やはり壊されて残がいとなったチョルテン〔仏塔〕の上に置かれていました。
かつては、どれも神聖な寺院に祭られていたのでしょうに。それとも敬虔な家庭でしょうか?
まことに痛ましくケースにもたれておられました。
そのご尊顔は水面のごとく静かで、かえって私は骨の髄まで痛みを覚えました。
悲しみに打ちひしがれて見つめていると、あたかもある物語が始まるような気がしました。
さらに、その背後にある歴史と現実も見えてくるようでした。
あぁ、私は前世からの尊仏のご縁を確かに感じました。
雪どけのように、高い山頂からゆっくりと私の心と体にしみわたりました。
露天商は両手でひざを抱え、
私に売ろうとしました。
「買いなよ。古い仏像だ。立派なもんだろう?」
「いつ、こんなに壊されたのかしら?」
私は尋ねました。
「文革だよ。当然、文革さ。」
彼は頭を上げて言いました。
「おいくら?」
私はとてもとても買って帰りたいと思いました。
しかし、江西省の行商人は一言「三千」と言い切ったのです。
私は残念でたまらず、とても離れがたかったけれど、後ろ髪を引かれる思いで、
痛ましくバラバラに壊された尊仏のもとを離れました。
ただ数枚の写真を撮っておきました。
懐かしい思いにこがれるときに、パソコンを開いて見ます。
友人は、ま新しい仏像を高く売りつけるために、
わざと壊して、文革の話を作りあげたのかもしれないと言います。
そうね。もしかしたらそうかもしれない。でも、まだズキズキと痛むのです。
だから、私はこの詩を書いて、解きほぐします。

                     二〇〇七年五月一四日、北京






 一枚の紙でも一片の刃になる

一枚の紙でも一片の刃になります
しかも切れ味は割といいのです
私はなにげなくページをめくろうとしただけなのに
右手薬指の関節のところが切れてしまいました
傷口はとても小さいけれど
細い糸のように血が滲み出てきました
ズキズキと痛みましたが
私は内心でこの劇的な変化に驚きました
突如、紙さえ刃に変わったのでした
どんなミスで
あるいは、何がきっかけになって、こうなってしまったのでしょうか?
私はこの平凡な紙に粛然として敬意を表さざるを得ません。

                  二〇〇七年一〇月一六日、北京







 結末!

刃が林立していることを承知しているけれど
刃の先端部分がとても甘い蜜で濡れているのが目にとまる。
舌を伸ばしてなめたくてたまらない――
あぁ、どんなに甘い蜜だろうか!
がまんできず一口、もう一口、もう一口……
あれ、舌はどうなった? 私たちの舌は?
いつのまに切り取られたのだろうか?
                 二〇〇七年一〇月三日、北京







 二〇〇五〜二〇一一年―ただ炎だけが風に揺れて……

チベット人自身の祭日* 、
いったい誰の祭日?
分かりません。分かりません。分かりません。
それは、祭日を楽しんでいる人が、
見あたらないからです。
一月から十二月まで、
西暦や中国の旧暦ではなく、チベット歴では、
ロサル* 、サカ・ダワ〔涅槃会、チベット歴の四月一五日〕、ショトゥン〔ヨーグルト祭り、同前六月三〇日〕、ガムチョ・チェンモ〔ツォンカパ燈明祭、同前一〇月二五日、ガンデン・ガムチョ、燃燈祭、ジョラ祭(モンゴル)ともいう〕……
もともとは仏様を拝み、神様にお供えし、悪魔を祓い、そして自分も楽しむ……

このような祭日は私たちからますます遠くなっています。
ただ名前だけ。
ただ虚飾だけ。
ただ一通一通の赤い通達文〔原文は「紅頭文件」で、赤い字句が付されている〕が頭の上に落ちるだけ。
徹頭徹尾、不許可、不許可、不許可!
こうしたら、ああなるぞ。
何につけ恐ろしいことになるのです。
例えば、もしお寺に行けば、もし巡礼すれば、
軽ければ減給、重ければ解職、
さらには投獄。
いつの間にか赤い通達文が少なくなり、
口頭の通達になりました。
これもまたいつの間にか古い慣例になりましたが、
でも、びくびく震えあがらせます。
でも、一番びくびくさせるものではありません。
一番びくびくさせるのは、おととい、その姿を現しました。

おとといはガムチョ・チェンモで、
ツォンカパ(ジェー・リンポチェ)を記念する日でした。
家々にはチューメ〔バターで作った燈明〕がともされ、人々はコンチョク・スム〔仏、法、僧の「三宝」に誓う祈念の言葉。南無三宝の意〕と唱え、
それは昔からの風物詩になっていました。
一年また一年と、二〇〇五年になり、
新任の張書記〔自治区党委員会書記の張慶黎〕が一声ほえるや、ラサは三度震えるようになりました* 。
でもプゥパ〔チベット語でチベット人を指す〕は禁令をかえりみず、どんどん集まり、
炎の輝きは天をこがし、
〔顔が見えないように〕マスクをつけた人々の顔を照らしたのが見えました。
人々は、見張っている制服や私服の警官など気にせず、
喜び慰められていて、そのさまは幻想的でした。
二〇〇六年、『ラサ晩報〔中国共産党ラサ市委員会の機関紙。「晩報」は「日報」よりも一般市民向け〕』は第一面で、
ラサ市党委員会、市政府の名で、
正式に警告しました。「誰であろうと……広範囲にわたり……
燈明祭の行事に参加、及び見物することは不許可」
二〇〇七年、遠く北京にいる私に、友人が告げてくれました。
「警察の多さは空前だ。
 信者の多さも空前だ。
 アムドやカムからたくさん駆けつけて、群衆の中で五体投地をしている。
 ただこの時だけ、ようやく一言だけ声をあげられた……」

今年のガムチョ・チェンモ、
つまり、おととい、ラサでは、
「昼間にパルコル* に行くと、
 多くの店は早々と閉めていて……
 大音量のスピーカーは、漢語とチベット語で、繰り返し通告していた。
 参加は不許可、見物も不許可、集まるのも不許可……
 大音量のスピーカーがどこにあるのか分からないが、
 ツグラカン〔ジョカン(大昭)寺〕の附近までも、
 もっともっと遠くまでも聞こえて……
 まるで文革のときのようで、年寄りがつぶやいた。
 毎日拡声器から大きな声で漢語とチベット語が流れてくると、ギョッとしたものだ。
 ビルの屋上では、たくさん動きまわっていた。
 銃を持っているのもいれば、持っていないのも……
 旧市街でも、やはりたくさん動きまわっていた。
 制服もいれば、私服も……
 至る所にアムチョク〔チベット語で耳、漢字表記で「昂覚」、スパイの比喩〕を、
 至る所にミク〔チベット語で目、漢字表記で「密」〕を感じる……」

国営新華社の写真がインターネットで出回っていて、
もうもうと焚かれるサン〔香草〕はなく、
天をこがす炎の輝きもなく、
大きなマスクをつけたラサの人々もいなく、
毎年アムドやカムから来る巡礼者も、
いない、いない、いない。
ただツグラカンのクショ〔中央チベットで使われる僧侶の敬称。クショラともいい、意味は上人様に近い〕がともした
一つ一つのチューメの炎が風に揺れて……
群青の夜空の下に屹立するポタラ宮は、まことに寂寥としています。
広場の人影は、もしかしたら、
任務に就いている者の他は、
物見高い者かチベットにはまる者〔原文は「蔵漂」で、漢人地域からチベットに憧れて来る青年などを指す〕でしょうか?
新華社の記事がネットで出まわっています。
防御用盾を持つ武装警官の言葉を引用しています。
 「今夜、庶民は思う存分に燈明をつけられるが、悪党には断じて放火させない!* 」
そして、いかにももっともらしい口ぶりで、
 「チベット民族の伝統によれば、
 今夜の一つ一つの明かりは平安のためにともされます……」と述べています。

いいえ。それは平安の燈明ではなく、
追憶の燈明です。
あなたたちはどれほどお分かりなのでしょうか?
私たちの内心の声が聞こえますか?
「……濁世の蒼生は、祖師を失い痛む。
 悲憫なる大地、悲鳴をあげる雪国。
 今でも私は待ち、尊者の恩徳を念じる。
 ただ尊者が私とともにおられるだけで……」
 ただ尊者が私とともにおられるだけで!


 パンチェン・ラマ

もし時間がうそを抹殺できるなら、
十年で足りるでしょうか?
一人の童子が聡明な少年に成長しましたが、
一羽のインコのように、ぶつぶつ口まねして、
ご主人の歓心を請い願うことしか話しません。

もう一人の少年は、どこにいるのでしょう?
腕に生まれつきあった傷跡は、
彼の前世で、十年前に、
北京にある暗い無道の牢獄で、
手枷にきつく縛られていたもの。
今、消息不明の少年は、
からだじゅう傷だらけなのでしょうか?!

もし暗闇が九重になっているのなら、
彼と彼は、そのからだは何重のところに沈んでいるのでしょうか?
もし光明が九重になっているのなら、
彼と彼は、その思いを何重のところに馳せているのでしょう?

もしかしたら暗闇と光明はそれぞれ重なりあって、
彼はからだを沈め、思いを馳せ……

コンチョク・スム! かくも混乱した俗世で、
どれほどの無常の苦が輪廻により、
パンチェン・ラマの身に顕現したのでしょうか!

               二〇〇五年一〇月一二日 北京

注記:パンチェン・ラマは、チベット仏教ではダライ・ラマに次ぐ第二位の活仏の名跡で、ゲルク(黄帽)派では最高位である。両者は対立的な関係にあったが、ダライ・ラマ一三世の時代に至って決定的に悪化し、一九二三年一一月、パンチェン・ラマ九世は密かにタルシンポ寺を抜け出し、中国に亡命し、この時点から中国と密接な関係が始まった。これは国民党から共産党に変わっても続いた。
 一九五二年四月、中国軍がラサを占領すると、パンチェン・ラマ一〇世はチベットに戻った。一九五九年に、ダライ・ラマ一四世はインドの亡命したが、パンチェン・ラマ一〇世は中国との協調路線を選び、チベットに留まり、当初は「毛沢東の息子」と称された。しかし、一九六二年、パンチェン・ラマ一〇世は中国政府に『七万言の意見書』を提出し、チベット統治政策は失政であると指摘したが、これにより失脚し、さらに翌年から九年八カ月も監禁された。その後、パンチェン・ラマ一〇世は文化大革命で破壊された仏塔を再建するなど民族と宗教の存続のために奔走し、一九八九年、中国のチベット統治政策の誤りを告発する演説を行い、「本物の一〇世」として信頼を取り戻したものの、その直後、一月二八日に急死した。
 これを受けて、ダライ・ラマ一四世とチベット亡命政府は転生者を探し始めた。ダライ・ラマ一四世は中国政府に協力を求めたが、中国政府は拒否し、タシルンポ寺の高僧チャデル・リンポチェを長とする転生者探索委員会を設置し、探させた。しかし、チャデル・リンポチェは密かにダライ・ラマ一四世に報告し、一九九五年五月一四日、ダライ・ラマ一四世はこれに基づき、ゲンドゥン・チューキ・ニマという六歳の男児をパンチェン・ラマの転生者として認定し、公式に発表した。
 これに対して、中国政府はチャデル・リンポチェたち関係者を逮捕し、処罰するとともに、新たに転生者を探し、一一月に六歳のギェンツェン・ノルブを国務院認可のパンチェン・ラマ一一世として即位させた。
 他方、ゲンドゥン・チューキ・ニマ少年は、公式発表の後、五月一七日に、両親とともに行方不明となった。当初、中国政府は少年や両親の失踪との関わりを否定していたが、一九九六年五月二八日、当局による連行であると認めた。中国政府は、ゲンドゥン・チューキ・ニマと家族を国内で保護していると主張しているが、消息は不明のままである。ニマ少年は「世界最年少の政治犯」と呼ばれている。


続く。


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2016年05月07日

1ヶ月半後に明らかになった新たな焼身抗議 5児の母

ソナム・ツォ
ソナム・ツォ

RFAが5月6日までに現地からの情報を元に明らかにしたところによれば、約1ヶ月半前の3月23日、アムド、ンガバ(四川省アバ・チャン族自治州)、ゾルゲ県で5児の母が中国政府に抗議するため焼身・死亡していた。RFAは当局による情報統制と目撃者が少なかったことが、外地に情報が伝わるのを遅らせた原因ではないかとコメントしている。

現地時間の昼過ぎ頃、焼身したソナム・ツォ(བསོད་ནམས་འཚོ། 50)は夫と共にゾルゲ県アキ郷にあるセラ僧院(ཛོད་དགེ་རྫོང་ཨ་སྐྱིད་སེ་ར་དགོན་པ།)の周りをコルラ(右繞)していた。ツォは夫に「自分はちょっとお堂に寄って行くから、先に行っておいて下さい」と告げた。その数分後にツォは境内で焼身した。焼身を目撃した僧侶は「彼女は燃え上がりながら『チベットに自由を!』『ダライ・ラマ法王のご帰還を!』と叫んでいた」という。

ツォの焼身を知った夫と叔父である僧ツルティムは火を消し、まだ生きているツォを僧房に運び込んだ。そして病院に彼女を運び込むために車を用意し、車に乗せたところでツォは息を引き取ったという。

事件後、僧ツルティムは8日間警察により拘束され、焼身の現場を撮影したスマホの写真も削除されたという。夫であるケルサン・ゲルツェンはこれまでに3度尋問のため警察に呼び出されたという。

ソナム・ツォには2人の息子と3人の娘がいた。

ソナム・ツォが焼身抗議を行ったほぼ1ヶ月前の2月29日には、外地インドのデラドゥンで16歳の学生ドルジェ・ツェリンと内地カム、カンゼで18歳の僧ケルサン・ワンドゥが焼身を行い、2人とも死亡している。

ソナム・ツォは内地焼身抗議者の145人目。外地の6人を合わせ2009年以来の焼身抗議者の数はこれで151人になってしまった。

参照:5月6日付RFAチベット語版http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/sonam-tso-self-immolation-2016-05062016114740.html
同英語版http://www.rfa.org/english/news/tibet/mother-05062016131403.html

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