2015年08月02日

映画『ルンタ』補足編、最終回:焼身者ツェリン・キをよく知る夫婦へのインタビュー、下

9aedea00焼身した女子中学生ツェリン・キ。

ツェリン・キは焼身の前々夜と前夜、母親と話し続けたという。そしてその日の朝には父親から焼身用のガソリン代にするつもりだったと思われる500元をもらい、「もう会えないかも知れない。お嫁に行ってもいい? さよなら」と言ったという。決意の心を隠しながら、悲しくも、最後に女の子らしい冗談を残し、焼身抗議を実行し、亡くなった。

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焼身の前々夜、前夜、早朝/「もう会えないかも知れない。お嫁に行ってもいい? さよなら」

夫:彼女が焼身する前、2日間、夜は母親と一緒に過ごしたそうです。
妻:一緒に寝たそうです。母親とずっとしゃべっていて、全く寝なくて困るぐらいだったと。
夫:一晩中眠らなかったそうです。
妻:ツェリン・キがおしゃべりしようとずっというので、母親が「そんなのじゃ眠れないわ」と言ったら、「お母さんとおしゃべりがしたいの」と言って眠らせてくれなかったそうです。

ー どんな話をしたのでしょうか?

妻:「どんな話でもいいからおしゃべりし続けよう」って。
夫:最後は「楽しかった」と言ったそうです。「楽しい夜だった」と言ったそうです。
妻:2晩母親と一緒に寝て、「ずっとおしゃべりをして、楽しかった」と母親に言ったそうです。「お母さんと過ごせて楽しかった」と。それからお母さん「心配しないで」と言ってそうです。「私は幸せだから心配しないで、何の苦労もない」と。「私は学校に戻るけど、元気でね」と。それで、お父さんに「五百元ください」といい、お父さんがお金を渡すと「これを持ってお嫁に行ったらもうお母さんには会えないかも知れないね」と言ったそうです。母親は「あなたが勉強しないでお嫁に行くって言うなら勝手にすればいい」と言ったそうです。最後に「冗談よ、お嫁になんか行くわけないでしょ」と。「この五百元で新しい服を買って学校に行くのよ」と言ったそうです。

ー 彼女がいつ焼身を決意したかは分かりませんが、お母さんと話をしたときにはすでに決意していたということですかね?

妻:もう決めていたでしょう。その朝、「もう会えないかも知れない。お嫁に行ってもいい? さよなら」と言ったそうです。お母さんは怒った顔をしますよね、でも冗談だと思ってたそうです。そのお金で「新しい服を着て学校へ行く」とも言ってたそうです。父親はお金を渡したそうです。それと、「この世には意味がない」と言ってたそうです。この世に生きていても意味はないと。母親はそんなことはないと叱ると、「冗談よ」と言ったそうです。
夫:お母さんには心の中の計画は言えなかったのでしょう。
妻:「お母さんは心配性だし、勇気もないのね。でも、心配することは何もないわ、勉強もできるし、先生も優しいし、外を歩いても優しい友達がたくさんいる。だから心配しないで」と出発前に言ったそうです。
夫:お母さんを安心させようとしたのでしょう。
妻:出発前にお正月だったので、家でシャパレ(揚げ肉パン)をたくさん作っていたそうです。ツェリン・キが休み明けに学校へ行くときにはいつもシャパレを持たせていたそうですが、そのとき彼女は持って行かないから私のは作らなくていいと言ったそうです。「いつも持って行くのにどうして持って行かないの?」と母親が聞くと、「みんながお正月の間にたくさん食べればいい。お正月を楽しく過ごしてね。私は今回はいらないわ」と言ったそうです。


ー 焼身の日の前夜、マチュにいる親戚の家に一晩泊まったのでしたよね。

妻:母親の兄弟の家に泊まりました。

ー それで、当日の朝、学校へ行って、、、いや、学校へは行かずに、、、

妻:学校へは行きませんでした。親戚の人が学校の門のところまでバイクで送って行ったそうです。「ここで下ろして」と行って、学校の前で下りたけれど、学校には入らず焼身しに行ったようです。
夫:学校にその日彼女の出席の記録がなかったそうです。
妻:母親は夜の12時ぐらいまで知らなかったそうです。母親は携帯電話を持ってなかったから。親戚の中には誰かから聞いて知っていた人もいるらしいのですが、母親には言えなかったらしいです。その夜、ツェリン・キの弟が眠れない、眠れないと言って、叱っても寝なくて遅くまで起きてたそうです。それで、夜中の12時頃、父親が数人の親戚と共に家に帰り、ツェリン・キが焼身したと告げたのです。
夫:「娘は決心していたのでしょう」と言ったそうです。
妻:焼身のことは両親にも、同級生にも誰にも話していなかった。母親は「もう何も言うべきじゃない」、「娘が決意したことをやったのだろうから、何も言うことはない」と言ったそうです。

ー ツェリン・キには学校で仲のいい友達はいたのでしょうか?

妻:いたでしょう。でも母親は知らないようです。女の子は何でも母親に打ち明けるでしょ? 男の子たちは父親に話をしますよね。女の子たちは心の中にあることはたいてい母親に話しますよね。父親には話さないで。

ー ボーイフレンド、恋人とか、いなかったのでしょうか?

夫:それは分かりません。

ー 中国は、ツェリン・キの焼身の原因は頭を強く打って、それからおかしくなっていたからだと発表したようですが。

妻:そんなことは全く嘘です。2晩母親と過ごしてずっと話をしているのです。成績もすごく優秀だったので学校で旅行にも連れて行ってもらいました。それは本当に楽しかったと言ってたと。「兄弟の中で旅行なんて行ったことがあるのは私だけでしょ」と得意になっていたそうです。勉強もできて、優しい両親もいて辛いことなど何もない、本当に幸せだと言ってたそうです。ただ、悲しいことが一つだけあって、それはラサに行けなかったことだと言ってたのです。

ー どうしてツェリン・キはそんなにラサに行きたがっていたのでしょうか?

妻:死ぬ前に一度ラサに巡礼に行って、ジョカンのご本尊を拝みたかったと思ったのじゃないかしら? 死ぬつもりじゃなかったら、将来仕事してお金を貯めて、いつでも自分で行くこともできるわけだし。死ぬ前にラサに巡礼に行けたらいいと思ったのだと思います。
夫:ジョカンにお参りに行きたかったのでしょう。
妻:チベット人にとってはラサへの巡礼は特別なものですから、ジョカンのご本尊をお参りするのは。

ー ツェリン・キは仏教には関心があったのでしょうか?

妻:それは分かりません。あったんじゃないかと思いますよ。そうでもなければ死ぬ前にラサ巡礼に行きたいなどと思わないでしょう。
夫:信心はあったと思いますよ。
妻:信心はありますよ。
夫:仏教を学んだかどうかはわかりません。

ー ダライ・ラマ法王とか、チベット亡命政府とか、チベット問題とかについてや、例えばどこかで焼身があったとか、そういうニュースはチベットの田舎まで伝わっているものでしょうか?

夫:伝わっているでしょう。
妻:入っているでしょう。
夫:まず、関心のある人の耳に入り、それが周りに伝わります。

ー では、ツェリン・キはそれ以前に焼身した人たちのことは知っていたのでしょうか?

夫:彼女は知っていたそうです。「ンガバとか、チベットで自分の命を犠牲にしている人たちがいる。自分たちはこのままじっとしているわけにはいかない。チベット民族のために何かしなければ、何もせずに生きているだけで、大事なことをしなかったら、生きている意味はない」そのように言ってたそうです。
妻:母親にそういうことを言ってたそうです。そう言うので、母親は叱ったそうです。生きていて意味がないなら何をしたらいいのと叱ったそうです。そうしたら、「冗談よ」と言ったと。
夫:他に父親の兄弟の嫁さんにも言ったそうです。「チベットのあちこちで民族のために命を人々が焼身している。私たちもこうしてはいられない。チベットの民族が苦境にある今、このままでは将来もっと苦しくなるのに、何もせずにいるだけでは生きている意味がない」と言ったそうです。

ー そのように考えるチベット人は少なからずいると思われますが、でも焼身を本当に決意する人は稀でしょう。ツェリン・キがそこまで決意するに至った原因というか動機は何だったと思われますか?

夫:分かりませんね。側にいたわけではないので。同級生には何か話していたかも知れませんね。友達には何か言ってたんじゃないでしょうか。手紙を書いていたらしいのですが、伝わっていません。

ー 焼身者はみんなチベット民族としての誇りを持ち、民族の将来を案じた人たちですよね。

夫:外国からの放送がどれだけ伝わっているかは分かりませんが、みんな状況は分かっていたと思います。焼身のことは当然知ってたでしょう。
妻:そうだと思います。
夫:すぐに電話で、、、
妻:すぐに電話で情報が入ります。焼身があればその日に電話で伝わります。

ー ツェリン・キが焼身した後、彼女の遺体は家族に引き渡されたのですか?

夫:その日遺体は家族に渡されていません。警官が持ち去ったのです。野菜市場には中国人が多いでしょ。門を閉めて、野菜売りの中国人たちが警官を助けたと聞きました。市場の中国人たちに前もって警察から指示があったのでしょう。焼身があったらすぐにこうしろと。中国人たちが燃えるツェリン・キに石を投げ押さえつけて、警察に電話したのです。それで、警官が来て、持ち去ったのです。その翌々日に警察から電話があって「取りに来い」と。遺体を引き渡してほしかったら誰にも言うな、すぐに焼けと。腹部に手術の跡があったと。開腹してあったと聞きました。
妻:父親が引き取りに行ったのです。その時、腹部が縫合してあるのに気づいたそうです。警察は「病気があったかどうか調べたのだ」と言ったそうです。


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2015年07月30日

映画『ルンタ』補足編:焼身者ツェリン・キをよく知る夫婦へのインタビュー、中

9aedea00昨日の続き。

焼身したツェリン・キは、子供の頃から歌が上手で、人前でもよく歌っていたという。学校の休みに家に帰ったときには、遊牧の仕事を手伝っていた。学校ではよく勉強ができ賞も貰っていた。チベット語が大事だと、お母さんにもチベット語を教えていた。学校でチベット語擁護のデモが起こると、それに参加していた。


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ー ツェリン・キは放牧に行くのが好きだったそうですね。

妻:ええ、喜んで行ってました。家に戻るとお母さんに「今日はお母さん休んでて」と言い、普段仕事がたくさんある姉にも「今日は私がやるわ」と言って嬉しそうに仕事をしていたそうです。牧畜の仕事でも、外へ行く用事でも、何でも喜んでやっていました。女性が行う牧畜の仕事は、乳搾りから始まって、糞集め、集めた糞を広げて乾かすというのがあります。ヤクや羊の放牧、水汲みなどもです。お母さんやお年寄りが重い荷物を持つのを見ればすぐに「私が持つわ」と言うのです。誰でも、大変そうな人がいればよく手伝ってあげてたそうです。
夫:彼女は歌を歌うのが好きだったんだよね?
妻:歌は大好きでした。ツェリン・キ、歌を歌ってよと言われるとすぐ得意になって歌ったのです。遊牧民の歌を歌うのです。伝統的な歌が大好きでした。
夫:チベットの民謡ですね。最近の歌、ポップスじゃなくて、伝統的な歌が大好きだったそうです。
妻:いつも歌ってたそうです。放牧に行くときにもいつも歌を歌いながら行ってたと。
私:人が集まる時に、彼女が歌がうまいということで、呼ばれて歌うということはなかったのですか?
妻:そう、頼まれて外で歌うということもありました。お金を取るような場所でじゃないですが。声がいいので恥ずかしがることもなく人前でも歌っていました。すごくいい声でした。小さいころから。

ー 彼女はマチュの学校に進学しましたよね?田舎からマチュの街までどれくらいかかるのですか?

妻:夏の牧草地からどれほどかかるか分かりませんが、冬の家からならバイクで1時間ぐらいでしょうか?飛ばせば1時間ぐらいで行けますが、ゆっくりだと2時間かかるかも知れません。

ー 寮生活だったのですか?

妻:そうです。寮生活です。
夫:学校は全寮制です。

ー 学生はチベット人だけですか?

夫:そうです。チベット人の学校です。一般的な学校なら他の民族もいますが、チベット民族中学なので、チベット人だけです。

ー 学生は何人ぐらいいるのでしょう?

夫:2千人ぐらいいるかも知れない。千人以上いることは確かでしょう。民族中学校には中等中学と高等中学とがあって、それぞれ3年間の課程です。大学に入る前です。小学校は6年制で、7歳になったら小学校に行くというのが普通です。牧民なら8歳でしょうか。それから6年間勉強したら14歳です。だから民族中学には下は12歳から上は20歳ぐらいの学生がいるということです。

ー ツェリン・キは少し遅れて学校に入ったので年齢は高めですよね。

夫;そうですね。彼女はなかなか学校に行かせてもらえなくて、遅れてやっと入れたのです。9歳か、いや10歳だったかな?そこから6年間小学校で勉強して、16歳で卒業して中学校へ行ったのでしょう。

ー ツェリン・キが焼身したとき19歳だったという話ですよね。すると、中学3年生だったということでしょうか?

夫:ええ、中等中学の3年生だったのです。

ー 計算が合いますね。10歳で小学校に入ったのですね。

妻:普通は遊牧民でも7歳とか8歳で学校にやるんですがね。

ー この中学は2010年から何度もデモをやりましたよね。色んな学校でデモが行われたようですが、なぜこの学校で特に繰り返しデモが行われたと思いますか?

夫:それはチベット語に関するデモです。まず青海省で始まりました。レコンで始まり、チャプチャでもデモがあり、ゴロでもデモが行われました。2010年の9月に北京の中央政府が教育に関する10年計画を発表しました。その中の11番目の項目が、少数民族の教育に関する2010年から2020年までの計画だったんですね。どんな計画かというと、漢語を強化するような教育内容だったのです。
私:チベット語を抹殺するというような計画だったのですか?
夫:抹殺するとは書かれていません。表立ってはね。裏では、、、表には出て来ないんです。チベット語を減らすという考えなんです。青海ではチベット語を減らすことについて学生自身で考えてデモをやったのです。彼らも分かっていたんです。中央からチベット語を抹殺するような政策が出て、学生たちはそれに対して立ち上がる、そういう状況だったんです。
私:学生たちが立ち上がったとき、ツェリン・キも、
夫:参加したそうです。何度か。ある時、彼女は2冊の本を買って母親に渡したそうです。お母さんと兄弟のためだと言って。それはチベット語を勉強するための本だったのです。チベット語を学ばねばならないと言ってね。母親はチベット語が読めないのです。それで彼女がチベット語の読み方を教えてくれたんだそうです。チベット人ならチベット語をしっかり学ばないといけないと力説していたそうです。母親にも本を渡し、兄弟にも渡したんです。それで彼女に教わったんです。集落の他の人たちにもチベット語をしっかり勉強するべきだといつも語っていたそうです。彼女自身もたくさん文章を書いていたそうです。

ー おお、そうなんですか!

夫:家には彼女が書いたものがいくつか残っていると。何について書いてあったと言ってたかな? ラサに行けなかったことを悔しがるというのもあったらしいです。
妻:村で自分だけが学校に行かせてもらって、両親に助けてもらって、何の辛いこともないと書いてたそうです。でも、学校でいい成績をとって、その褒美に、いろいろ旅行に連れて行ってくれたけど、ラサには行けなかったので、それが悲しいと言ってたそうです。それで、ラサにいけなかったことを文章にもしたのでしょう。それから、両親の愛情と言語について書いてたと。
夫:チベット語をきちんと学ぶべきだということについても書いていたそうです。

ー チベット語を学ぶべきだという文章を残していたと。そのように強く思うようになったのはどうしてでしょう?このままだと消されてしまうと思ったからでしょうか?

妻:彼女はいつもチベット語を発展させないといけないと言ってたそうです。どうしてでしょうかね? チベット人のチベット語が中国語と混じって乱れているから、それはよくないということでしょうか。
夫:中国によってチベット文化が危機に晒されているのです。それを知ったチベット人は思うのです。チベット文化を守るためにはチベット語を守らないといけないのだと。チベット語が死ななければチベット民族は死なないのだと。中国人はチベット人を信用していません。中国はチベット語の力を弱めようとしています。いつかチベットの子供たちはみな中国人になってしまうのです。物の見方も考え方も中国人になってしまうと思っているのです。彼らがどんな話をしているのかというと、マルクスが、、、いや確かスターリンが言った言葉だそうですが、「1つの民族を抹殺するには、その言語を抹殺すればいい、民族は死ぬ」と。彼は経験上分かっていたのでしょう。だから、言語が保たれ、発展すれば、民族は保たれる、文化も保たれる、民族の調和も失われない、とチベット人はみんなそう考えているのです。今のチベットの若い人たちはみんなチベット語を守らなければ、チベット民族は死に至ると思っているのです。

ー そのような認識は2008年以降生まれたものですか?

夫:2008年からではありません。もっと前からです。もっと前からそのような共通の認識はありましたが、2010年から特に顕著化しました。言語を守ろうとか、民族の誇りという主張は、2008年の時点でもすでに強く言われていました。2008年というのは中間点のような位置づけです。

ー 民族意識が強くなっていると思われますか?

夫:そうだと思います。なぜかというと、中国では共産党が大きな影響を持っていますが、共産党は人民を利用するために、ナショナリズムを使いますよね。例えば日本が、日本がと言うでしょう。人民はバカでしょ、中華民族だ、中華民族だと繰り返され、チベット人は疎外されて行くのです。1つには、偉大な中華民族、偉大な中華民族と繰り返されると、チベット族や他の民族は「我々だって1つの民族だ」というようになり、ナショナリズム高揚の間接的影響を受けるようになったということでしょう。もう1つには、最近経済が発展し、食べ物もあるし、生活状態がよくなって、ものを考える余裕ができてきたのです。昔と違って今では、質素だが食べ物や着る物はあります。こうなると人は考え始めるのです。頭を使って考えて理解しないといけないのです。自然に主張は強くなってきます。

ー ツェリン・キが2012年、冬休み開けに焼身しましたが、その理由の1つとして新学期が始まったら突然教科書がすべて中国語になっていたからということが伝えられていますが、そのようなことはあったのでしょうか?

妻:そういう話は知りません。お母さんは彼女の本がたくさんあったと言ってましたが、そのようなことが理由だったとは聞いていません。
夫:彼らはデモをしましたが、その責任を取らされて、生徒たちが信頼し尊敬していた校長と学生に人気が高かった1人の教師が免職になったのです。校長は詩人でして、若い詩人で、とても有名なマチュの若い詩人、作家なのです。教師の方はダムニェン(チベット式三味線)の引き語りがうまいし、こちらも有名でした。この2人は考え方もしっかりしていたそうです。子供たちにも優しかったのです。この2人に対し当局が「お前たちの管理不行き届きのせいで学生たちがデモをしたのだ」といって、校長は降格になり、教師の方は水力発電関連の役所に異動させられたのです。この2人が辞めさせられて、学生たちは非常に悲しい思いをしたそうです。私はこれが動機の1つだったのではないかと思っています。

続く。


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2015年07月29日

映画『ルンタ』補足編:焼身者ツェリン・キをよく知る夫婦へのインタビュー、上

9aedea002012年3月3日、アムド、マチュ(甘粛省甘南チベット族自治州瑪曲県瑪曲)の街中にある野菜市場の中で焼身・死亡した女子中学校ツェリン・キ、19歳は焼身者の中でも私がもっとも気になる存在であった。映画『ルンタ』の撮影のために本土に入ったときにも彼女の焼身現場には必ず行こうと決めていた。

以下は彼女を幼い頃からよく知る夫婦へのインタビューである。少し長いので上・中・下にわけて掲載させていただく。今回は「遊牧民移住政策」に関する話しが中心である。

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インド等に住む亡命チベット人の中には焼身者の家族、親戚、友人という人もいる。何人かを探し出したが、インタビューを了承してくれる人は少ない。みんな内地にいる人たちのことを心配するからだ。話を聞くことができても、結局危険過ぎると判断され発表できないこともある。そんな中、 焼身者であるマチュの少女ツェリン・キをよく知るという女性を説得し、話を聞くことができた。

インタビューは2013年12月23日、ダラムサラにある彼女の部屋で行われた。彼女の夫が同席した。彼女の夫は同じアムド地方の出身であり、ダラムサラでメディア関係の仕事をしている。彼は彼女の話を補足する役であった。2人とも数年前にインドに亡命している。

以下、ツェリン・キを直接知る女性を「妻」、彼女の夫を「夫」と表記する。

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ー ツェリン・キはどんな子供だったのですか?

妻:彼女は学校が好きな子供でした。学校に行けるよう、私や親戚に両親を説得してほしいと頼んだのです。勉強が好きで、もちろん試験に合格して、成績もよかったのです。ラサに行きたがっていたようで、両親にラサに巡礼に行きたいと何度も頼んでいたようです。結局行けずに終わってしまいました。ツェリン・キは小さい時からすごく学校に行きたがっていました。4人兄弟なのですが、誰も学校へ行かせてもらっていませんでした。ツェリン・キはある時どうしても学校に行きたくて、私と叔父さんに両親を説得してほしいと頼んだのです。両親は彼女を学校に行かせたがっていませんでしたが、私たちの説得が成功し、彼女は学校に行けるようになりました。9歳か10歳になっていたと思います。自分の頭で考えられる年になっていて、自分でどうしても勉強したいと思ったのでしょう。周りで学校に行っている子は少なかったのです。例えば私は9人兄弟ですが、学校へ行かせてもらったのは1人だけです。ツェリン・キの兄弟も上の2人は学校に行ってませんでした。

ー ツェリン・キが小さいころ、あなたは近所に住んでいたのですか?

妻:ええ、近所です。彼女はおとなしくて、いい子でしたよ。他の子にも優しかったし。うちに遊びに来て、何か頼んでも、すぐにいうことをきくすごくいい子でした。何か頼むと、返事はいつも「はい」で、それしか知らないんじゃないかと思うぐらいです。怒ったような顔もまったく見たこともありません。

ー 4人兄弟の中でツェリン・キは3番目ですか?

妻:ええ、3番目です。1番上が女の子、次が男の子、3番目がツェリン・キ、下に男の子です。

ー 夏と冬とで住む場所を変えるのですか? 夏は牧草地に行って、冬に帰って来るという生活でしょうか?

妻:そうです。夏はテントで生活し、冬は家の中で暮らします。
夫:夏は涼しいところ、冬は暖かいところで過ごすということです。

— いつ頃、夏の宿営地に向かうのですか?

妻:夏の宿営地で過ごすのは3ヶ月だけです。秋と冬と春は誰ももう行きません。昔はそうじゃなかったのです。土地が分割されたので、3ヶ月ぐらいしかいれないのです。家畜が食べる草が足りないからです。中国が私たちの土地を何度も勝手に分割したのです。昔は牧草地が冬の家の周りを含め4カ所ありました。私が子供のころは、春は冬の家の向かいにある牧草地に移動し、夏は夏の宿営地に行って3ヶ月過ごし、秋には山を下り、また別の草原で3ヶ月過ごしました。そして、冬、家に帰って来るのです。今ではもうこのようなことはできません。土地が分割されてしまったからです。こっちの草原には入っちゃだめ、ここはうちの草原だからとうるさくなってしまったのです。昔はそんな所有意識はなかったのですがね。
夫:昔は牧草地はすべて共用だったのです。

ー 土地の分割はいつ頃始まったのですか?

妻:私がもの心ついてから3回は分割が行われました。小さいときに1回あって、別の土地に移らされました。生産小隊ごとに住んでいました。それから私が1度インドに行って戻ってきたときに、もう1回ありました。またこっちへ来るときにも1回分割が行われました。1回分割されるごとに、生産小隊ごとに、そして家庭ごとに、というふうに細かくなっていきました。それで夏の宿営地から秋の宿営地、そして冬の宿営地という遊牧が一切できなくなりました。

ー 何歳の頃始まったのでしょうか?

妻:12歳頃だったかしら?
夫:今から20数年前ですね。
妻:最初は生産小隊ごとに移動してもよかったのです。のちにそれもできなくなりました。
夫:中国が来た後、社会主義ということで、牧草地は県単位で共有されていたのです。20数年前に、県ごとだったのが郷ごとになったのです。その頃はまだ同じ郷内なら自由に移動できました。その後、生産小隊ごとに…生産小隊というのは郷より小さくて、村ごとに分割されたと言ったらいいのでしょうか。それが今では村の中での移動もできなくて、土地は家族ごとに分割されたのです。至る所に鉄条網が張り巡らされました。もうどこにも行けなくなりました。移動は2カ所だけになったのです。夏と冬の2カ所です。
妻:昔はうちの家がここにあったら、ツェリン・キの家はこっちで、私の父と兄弟の家がここにあってというように、みんな一緒の一続きの敷地だったのです。それが、今ではうちとツェリン・キの家の間には鉄条網が張られ、父と兄弟の家との間にも鉄条網が張られているのです。お互い行き来するにはそれを越えないと行けなくなったのです。
夫:結局、争いごとばかり増えてきました。中国は面倒なことを引き起こさせたと思います。
妻:親戚同士だと大変なこともあります。がめつい親戚がいると、うちの家畜、うちの草原と言って、争いになります。昔は県単位で誰がどこに行ってもよかったのです。県単位の土地は広いですから、夏はここ、冬はここといって、いい草のあるところを選んでどこに移動してもよかったのです。今は決められていて、村はおろか、家庭ごとに土地が決められています。夏は夏で、1番の家庭はここ、2番の家庭はここ、3番、4番、5番というぐあいに家ごとに決められています。冬の宿営地も1番、2番と決められています。ここがあなたの家族の土地ですと決められたら、そこがいい土地であろうと悪い土地であろうとそこに居なければなりません。移動するときの道まで決められているのです。

ー 収入は?

夫:土地が足りないんです。家族は増えるし。いい草が生えるところもあるが、生えないところもある。いいとこならいいのですが、悪いところは悪いままです。
妻:政府はいい土地をたくさん所有しているらしいです。
夫:政府は政府の土地だといって、かなりたくさんがめつく所有しています。そんなに必要ないはずですが、役人の土地だといって奪います。彼らがチベットの土地を食い尽しているわけです。ひどい話です。家族が増えると家畜もたくさん必要です、でも土地は小さいままです。足りないのです。どうしてももっと牧草地が必要な場合には、お金を払って人の土地を借りるということになります。土地の借り賃は結構高いのです。昔は家畜の少ない家がどうぞといって、足りない人に来させてあげることもできたのです。共有の土地ですから。それで問題はおきませんでした。昔は土地はみんなのものでしたから、どこに放牧にいってもよかったのです。行った場所ばいまいちだったら、別の場所に移動してもよかったのです。草があまりよくなかったら、他のところに行こうってね。今はもうそれはできないのです。草が悪いところの人はたいへんです。本当に苦しい状況に追い込まれていると思います。

ー 強制移住で放牧を止め、街の近くに移らねばならなくなったということはないのですか?

夫:私たちのところではなかったけれども、他ではあるようです。県庁所在地とか郷の中心地に移住するよう命令されて、最初こそ、住まいや食べ物を貰うわけですが、月々500元の補償金を貰ったりして、でもしばらくするとそれもなくなるそうです。土地はもう政府に取り上げられてありません。
妻:お金が入る当てはなくなります。子供や若者たちは泥棒したり、サイコロ賭博をしたり、そんなふうになってるそうです。
夫:政府は環境保護だと言って、下流域のために黄河上流であるマチュ一帯の環境を保護しなければならないと言って源流域一帯に住んでいた遊牧民を追い出したのです。強制的に移住させられ、放牧のための土地も与えられませんでした。こうなると大変で、子供や若者は泥棒したり、サイコロ賭博をしたり。泥棒が増えています。

ー 牧畜以外に何も知らないから、仕事も見つからないのでしょう。

夫:生活の手段がないのです。
妻:牧民なのに家畜もいなくて、子供も学校へ行かず、泥棒して暮らしていると聞きます。私が子供の頃は泥棒するチベットの子供なんて1人もいませんでした。その頃は家に鍵をかける必要もありませんでした。冬の家を出て、夏移動する時にも家には鍵をかけませんでした。鍵なんてかけなくても泥棒に入られることなどありませんでした。最近は泥棒がいるのです。

ー その泥棒は中国人じゃなくてチベット人というわけですね。

妻:遊牧民が街で暮らして、補償金もないし、売る家畜もないし、土地もないし、子供たちは学校にも行かず、金がないから泥棒に走るのです。

ー 冬虫夏草はないのですか?

妻:全くありませんでした。
夫:同じマチュ県内に採れるところもあるそうですが、彼らが住んでいる辺りにはないのです。
妻:うちの郷では採れません。冬虫夏草を見たことはありますが、採りたかったらお金を払って他の土地に行くしかありません。

続く。

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2015年07月28日

映画『ルンタ』補足編:監獄24年、ロプサン・ノルブお爺さんの証言・後編

1昨日の続き。

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拷問を如何に耐えたのか?

ーあなたのように監獄に入れられた人の多くがひどい拷問を受けています。それでも、あなたもそうですが、真実を曲げようとしませんね。

ノルブ:真実は真実です。嘘は認めません。だから私は足を折られたのです。拷問で足を折られたのです。ここに(膝を指差しながら)釘を打ち込まれて、天井から吊るされたのです。指も全部やられたのですが、ここが一番ひどかった。吊るされて、足を打ちのめされるんです。足は骨折して、この前手術を受けたのです。8つに折れてたんです。それをみな取り出して、金属を入れたのです。

ーえ、最近の話ですか?

ノルブ:そうです。その前は鍼治療を受けていましたが、最近(北インドの街)ルディアナにあるスイス病院というところで手術を受けたのです。

ーチベットではずっと痛みを抱えていたのですね?

ノルブ:そうです。

ーそこまでひどい目にあわされながら、なぜ意見を変えず、中国側のいうことを認めなかったのですか?

ノルブ:チベットは広大で中国は人口が多い。何百万もの中国人がチベットに住むことができます。チベットには何千という寺や僧院がありましたが、そこにあった財産を中国はすべて持って行ってしまいました。チベットの人々の財産もすべて没収し、持ち去りました。中国は今でこそ少しは豊になっていますが、59年や60年当時、中国は貧乏だったのです。乞食同然でした。食べるものも、飲みものもなく、大勢が死んでいったのです。だからチベットの穀物をものすごい台数のトラックで運び出したのです。これを見て私は穀物倉庫の穀物をみんなに持って行かせたのです。そのまま放っておけば中国へ運ばれるだけでしたから。

ーですから、伺いたいことは、なぜチベット人にこれほど強い信念があるのか、それは仏教と関係があるのか、ダライ・ラマ法王への強い信頼があるからなのか? ということなのですが。

ノルブ:それは私たちがチベットの仏教文化を非常に大切なものだと思っているからです。中国はチベットの人々をたくさん殺しましたが、未だその仏教文化を滅亡させることには成功していません。中国は私たちにこう言っていました。「日本は中国に対して略奪・殺戮・焼却という三悪政策を行った」と。昔、監獄で映画を見せられました。日本が三悪政策を行ったという映画です。その時、私は中国人に「日本が三悪政策をやったというが、あなたたちが今、チベットに対して同じことをしてるではないか」と言ったのです。当時チベットでは民族を滅亡させると言って、チベットのほとんどの知識人を監獄に送り、食事も与えず殺したのです。血を流さずに餓死させたのです。血が流れば、白日の下にさらされ、知られます。だから血が流されないよう餓死させるのです。チベットの文化を壊滅させるために知識人を殺し、チベットの土地を奪い、森林を伐採し、家畜を殺し自分たちの食糧とし、財産はすべて中国に持ち去ったのです。だから、これを知っている残されたチベット人たちはどれほど拷問を受けても考えを変えず、頑張るのです。

ーそれは分かりますが、何か特別な理由があるように思いますが?

ノルブ:もちろん特別な理由はあります。ダライ・ラマ法王は観音菩薩の化身だと信じられています。チベット人はみんなそう言います。雪国チベットは観音菩薩の浄土だと信じられています。だから、本物のチベット人ならダライ・ラマ法王を決して糾弾しません。糾弾しなかったから、たくさんのチベット人が殺されました。殺されても法王を糾弾しません。今も中国政府はダライ・ラマ法王のことを反逆者だと言いますが、チベット人は絶対にそのようなことは言いません。ダライ・ラマ法王がいらっしゃらなくても、法王を反逆者などとは一切言いません。

ーダライ・ラマ法王への強い信心が故にということですか?

ノルブ:それは仏教です。仏教と仏教文化の故にです。

ー拷問等を受け非常に辛い時、観音菩薩の真言を唱えるとか、仏教に関連した実践を何かやっていましたか?

ノルブ:それは各自が心の中ですることです。私など僧侶であったわけですし、中国人にひどい目に遭わされているとは考えないのです。それぞれ自分が過去に積んだカルマ(業)の結果だと考えて、広い心を保ち、平常心を保つのです。過去に犯したカルマが熟し、今このような苦しみを受けているのだと考えるのです。カルマはすでに積んできているのですから、その結果は受け入れるしかないのです。結果を受ければ、そのカルマは終わるのです。これは仏教の考え方です。そして生きながらえたのです。最近、アメリカの医者が来て健康診断をしてくれました。裸になって、心臓のあたりにいろいろ装着されました。そして、心臓は問題ないと言われました。心臓は大丈夫とね。その時、心を広く保つことができたお陰だなと思いました。ひどい目に遭わされたと思うと、心が狭くなってしまいます。自分の前世のカルマだ、因果応報だと思えれば心を広く保つことができるのです。

ーその教えを信じることで拷問を耐えることができたのなら、すばらしいことですね。しかし、個人にとっては因果応報かもしれませんが、中国は今もみんなに拷問していますよね。みんなに同じような因果応報があるということでしょうか?

ノルブ:みんなに同じカルマがあるわけじゃありません。

ー中国はひどいことをしている。

ノルブ:ひどいですよ。だからといって、私たちは中国人に対して呪ったりすることはありません。中国の一般の人たちは私たちと同じような苦しみを受けていると考えるのです。中国共産党の中に悪い奴がいて、ひどいことをしたし、今もしているわけです。

ー中国人も犠牲者ということには同意します。他に仏教的考え方で役に立ったことはありませんか?

ノルブ:私たちは思い浮かべるのです。「自分が今受けているような苦しみを他の人が受けませんように。自分が他の人々が受けるべき苦しみをも引き受けることにより、他の人々が苦しみから自由になりますように」と祈るのです。

ートンレンの行ですね。すばらしいことです。

ノルブ:私は昔僧侶でしたからね。7歳から25歳までと結構長かったし、その間仏教の勉強はよくしました。もっとも、仏教を学ぶ間にそのような拷問をするような人間はいませんでしたがね。ははは。特に祖国と民族のために命を落とすなら悔いはないと考えるのです。自分のために盗んだり、人殺しをして死ぬことになれば悲しいことですがね。

焼身について

ー2009年以降、焼身という抗議の方法を取る人が増えていますが、焼身についてどう思われますか?

ノルブ:彼らはまさに国と民族のために焼身しています。彼らは熟考の結果あのような行動を選択したのです。自分の命を絶つことで、他人が苦しまないですむようにと、自分の命を国と民族のために役立てようと考えたわけです。そのように考えず例えば中国人を殺すなら、それはただの暴力です。中国人を殺すことはできます。5人や6人、銃がなくてもできます。でも、そのようなことをせず自分の命を投げ出し、国や民族のために役立ちますようにと祈りながら、死んでいるのです。ダライ・ラマ法王の長寿を祈りつつ死んでいるのです。それは暴力ではありません。世界の人たちにチベットの現状を訴えているのです。中国はチベットや新疆を侵略し、弾圧しています。今、中国はラサに自由があると言っていますが、自由なんてありません。ラサのパルコルの至る所に検問所があります。僧院の入り口には銃を持った部隊が立っています。ひどい時代なのです。人々はまるで囚人のようです。ラサは監獄同然ですよ。それでもチベット人たちは中国人に暴力を振るったりしないのです。それは観音菩薩であるダライ・ラマ法王の「他者を害してはならない」というお言葉に従っているからです。非暴力主義に従っているのです。ダライ・ラマ法王がそのようにおっしゃっていなかったら、青蔵鉄道はラサまで到達できなかったことでしょう。死んでもいい、殺されてもいい、すべての路線を破壊し尽くそうとしたでしょう。でも中国がこれから先も弾圧を続けたらどうなるか分からないと思います。法王が亡くなられた後はどうなるか分からないと思います。道路や橋や鉄道を破壊するというような暴力行為が始まるかもしれません。

ー最近焼身が減っていますよね。

ノルブ:減ってるのは、ダライ・ラマ法王が止めなさいとおっしゃるからですよ。

ー止めなさいと言ってるのは政府ですよね。ダライ・ラマ法王は直接的に止めなさいとはおっしゃってない。やらない方がいい、成果はないだろうからとおっしゃってますね。

ノルブ:死んだ方がましだと思っているのです。幸せになろうと思っても中国の支配下では自由もなく、非常に難しいのです。追いつめられているのでしょうが、死ぬというのは本当はよくないことです。私は2008年にデリーにある中国大使館宛に手紙を出したのです。ダライ・ラマ法王がご存命の今、対話をすべきだと言ったのです。今、チベットの子供たちはどんどん勉強して知識を蓄えています。将来これを使うでしょう。今と同じ温和路線が続く保証はありません。だから今対話した方がいいと提案したのです。

ーもしも私が中国の指導者だったら、すぐに対話して、「あなたは独立を求めていないのですね。ではここにサインして下さい。永久に独立を放棄するという文章です」と言って、まずサインさせる。その条件でダライ・ラマ帰還とか高度な自治とかもとりあえず承諾する。その後、ダライ・ラマ法王が中国に入れば、人質にできるわけで、チベット人はもっと中国政府の思うままです。そうされてないのは運がいいようなものだと思います。

ノルブ:今は新疆やモンゴルも緊張しているし、だいたい他の56民族もすべて侵略により支配下においた民族ばかりですから、どこにも譲歩できないと思っているのです。中国が崩壊する可能性はあるでしょうが、時間がかかるでしょう。とにかく希望を捨てず、非暴力の闘いを続けることが大事だと思います。


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2015年07月27日

映画『ルンタ』補足編:監獄24年、ロプサン・ノルブお爺さんの証言・前編

11060262_1077431632286892_8838020435283531995_nロプサン・ノルブの証言

真っ白い豊かなあご髭で有名な、やさしいロプサン・ノルブお爺さんは、80歳。セラ僧院の僧侶だったが、1959年中国がラサに侵攻したとき、銃を持ち戦った。激しい戦闘の中で負傷し、捕まった。そして、その後24年間監獄に入れられていた。1988年、再逮捕を逃れるためインドに亡命。現在ダラムサラの小さな部屋で1人暮らしをしている。足が悪くいつも杖をついている。ノルブお爺さんとは古い知り合いであり、昔の話はすでに何度も聞いていたが、今回映画製作のために、再びお話を聞かせてもらうこととなった。このインタビューは2014年3月15日、彼の部屋で行われた。

僧衣を脱ぎ捨て、中国と戦う。

ーノルブさん、まず最初にざっとこれまでのあなたの人生について教えて下さい。

ノルブ:私はニャガという場所で生まれました。7歳の時、ラサのセラ僧院の僧侶となり、25歳まで僧侶でした。名前はロプサン・ノルブ、今ちょうど80歳です。その頃のチベットは今中国が宣伝しているような状態ではありませんでした。食べ物も飲み物もろくになかったと中国は言っていますよね。そんなことはありません。昔は本当にみんな幸せでしたよ。チベットは自給自足できていました。穀物も、肉も、野菜も、必要なものは自給できていて、他の国から輸入する必要はありませんでした。中国が来る前、食糧はたくさんあったのです。家畜もたくさんいました。ヤクや羊などがたくさんいましたから、遊牧民も幸せでしたよ。農民も食べていくには十分な畑がありました。一方中国は、旧社会では食べ物も飲み物も不十分だったと言ってますよね。映画でもやってますよね。おじいさんなんかが出てきて…おじいさんが何を言うかというと、旧社会では食べ物も飲み物もなくて、などと言うわけですが、彼らは生き延びているじゃないですか。もし食べるものもなかったら死んでしまいますよ。だからそんなことないんです。中国の話は全て嘘ですよ。だから1959年に、チベットは生産力もあり、肥沃で、土地は広大、人口は少ないというわけで、だからこそ中国はチベットを侵略したんです。チベットは中国の支配下ではなかったのです。中国に侵略されたのです。チベットでは人口が少なく、土地が広大で、肥沃なので、何を植えても育つのです。さらに穀物を10年、15年貯蔵しておいても腐らないのです。インドでは穀物を1年ほっておけば虫が湧きますが、チベットでは虫はわかないのです。チベットでは穀物がどこでもたくさん備蓄されていました。10年とか15年昔から備蓄されていた穀物もありました。10年、15年経ったものでも食べられるのです。中国の言うような状況ではなかったのです。

ー中国が来た後、どうなったのですか?

ノルブ:中国が何をしたかというと、チベットはいいところで、肥沃ですし、穀物もありますし、何千年も蓄積してきた財宝がありますよね。それを奪いに来たわけですよ。奪いにね。中国が。彼らは銃や大砲などをみんな持ってきているのに、我々チベット人は仏教を信じてずっとやってきてますから、よその国をどうこうしようとか侵略しようなどと思いもしないので、武器も少ないわけです。戦い方も知らなかったのです。中国は飛行機を飛ばし、大砲を撃ってきたのです。それで、1959年、僧衣を脱ぎ銃を持って戦ったのです。25歳でした。

ーどこで戦ったのですか?

ノルブ:最初、ポタラ宮に行ったのです。

ーナムギェル僧院とセラ僧院の僧侶が銃を持ち出し、そこを狙われて激しい砲撃を受けたのですね。

ノルブ:そうです、その時私もいました。その時僧侶だけで三千人いました。三千から四千人いました。セラ僧院の僧侶は戦うためにポタラに駆けつけたのです。ナムギェル僧院の僧侶たちはもともとポタラ宮いたわけです。セラには武器がまったくなかったのです。ポタラには銃や銃弾がたくさん隠してありました。まず、それを出しに行ったのです。銃がなけれは戦えませんから。三千人の僧侶全員が銃と銃弾を手に入れることができたのです。それで撃ちました。でも、最後は中国軍がノルブリンカを大砲で集中砲火して、それで負けたのです。こちらには大砲がありませんから。中国軍の大砲で何千人ものチベット人が殺されたのです。ノルブリンカ周辺は人や馬の死体で足の踏み場もないほどになりました。僧院も砲撃したのです。ギュト僧院の屋根は大砲で吹っ飛ばされ、大勢の僧侶が亡くなりました。

ーそれで中国に捕まったのですか?

ノルブ:その時は捕まりませんでした。その後、南のロカで戦ったとき負傷し、動けなくなって捕まったのです。

ーロカというと、チュシガントゥク(ゲリラ組織)と一緒だったのですか?

ノルブ:そうです、チュシガントゥクに合流して戦いました。小隊に分けられていたのですが、我々の隊は28人で、銃も28丁ありました。ヤルツァンポ川にかかるチュシュ大橋の上で銃撃戦になりました。橋の上でたくさんの仲間が死にました。中国軍は大砲を撃ってきました。それでやられたのです。28人のうち、結局、生き残ったのはたった3人です。私も腰に銃弾を受け、動けなくなり、捕まってしまったのです。その後、軍の病院に運ばれました。そこで銃弾などを取り出す手術を受けたのですが、手術はひどいものでした。その後30年近く、傷は完全には治らず、痛みが続いていました。1988年にインドに亡命し、診察を受けたあと、もう一度手術を受けました。最初の手術では砲弾のかけら等が完全には摘出されていなかったようでした。この時の費用は亡命政府がすべて払ってくれました。

ーいつ監獄に送られたのですか?

ノルブ:手術が終わるとすぐに逮捕されました。監獄で最初に「チベットは中国の支配下にあると言え。中国の支配下であることを認めれば釈放してやる」と言われました。「チベットは中国の支配など受けたことはない。チベットは昔から独立国だった。チベットに中国人はいなかった」と答えたのです。かつてアンバンという中国の大使のような中国人がいたのですが、とっくに追い出されていたのです。チベットに中国の役人はいなかったのです。チベットには独自の通貨がありました。軍隊もあるし、軍旗もありました。そべて独自のものを持っていたのです。みんな中国の貨幣を使わず、チベットの貨幣を使っていました。

ー何年の刑を受けたのですか?

ノルブ:最初は7年の刑でした。でも、7年経っても「チベットは中国領」ということを認めなかったということで延ばされました。

ー7年で延ばされたというと、文革中に監獄だったのですか?

ノルブ:そうです。文革の時もその後も監獄にいました。監獄というところはひどいところです。12時間の強制労働が課されるのです。12時間働かされるのです。食事は無いに等しい状態でした。ろくに食わされてないのに働かされ、何千人も死んだのです。みんな死んでしまいました。囚人はほどんど死にましたよ。何千、何万という人が死んだのです。コンボの監獄に入れられ、たった1人だけ生き残ったという人からコンボ監獄の話を聞いたことがあります。ラサの監獄で同室になったことがあります。その人は今も生きていてセラ僧院にいます。彼の話によれば、囚人がたくさん死ぬと、ずらーと並べるそうです。あまりに数が多い時には材木を積み上げるみたいに、チベットの正月に大きなカプセ(チベット揚げ菓子)を積み重ねたり、書類を積み重ねたりするみたいに死体を積み上げ、上から灯油をかけて火をつけるそうです。埋めたりなんかしないのです。結局1人しか生き残らず、その監獄は一旦閉鎖されたそうです。彼はその後インドに逃げることができて、今も南インドのセラ僧院にいます。

ーいつまで入れられていたのですか?

ノルブ:1982年までです。24年間を監獄で過ごしました。最初7年の刑が終わった時、「お前は釈放しない」と言われたのです。「お前は頑固で、本当のことを言わない。他人を非難しないし、自分の罪も認めない。チベットが中国領だということを認めない。これさえ認めればすぐに解放しよう。認めないならずっと監獄にいることになる」と言われたのです。私は認めませんでした。そのころ大勢の囚人が拷問死しました。私もひどい拷問をうけました。囚人はみんなダライ・ラマ法王とパンチェン・ラマを非難することを強要されたのです。私はダライ・ラマ法王を非難などできませんでした。非難した人はみな釈放されました。ダライ・ラマ法王は反逆者だとか、分離主義者だと認めた者は釈放されたのです。私はそんなことは口が裂けても言えませんでした。法王は我々の根本のラマであり、チベット全体のラマです。チベット全体をまとめることができるのはあの方です。法王を糾弾することなど決してできません。それから8年、9年、10年、、、23年、24年と続き、17年間刑が延長されたのです。

ー文革が終わった時、多くの人が解放されたと聞きましたが。

ノルブ:そうですね。1977年に小平から59年と60年に逮捕された囚人は全員解放せよという命令が来たのです。その時解放された者には家までの旅費も支給されました。遠くへ帰らなければならない人も多かったからです。でも、私は釈放されなかったのです。「お前は自分の罪を認めない。ダライ・ラマ等他人の罪も糾弾しない。チベットが中国領であることも認めない。だから釈放されないのだ」と再び言われたのです。私だけが残されたのです。それからさらに82年まで入れられてました。82年になり、ついに奴らに言ったのです。「釈放しないなら俺を殺せ」、「俺の罪が何なのか教えてくれ」と言ったのです。そしたら解放されたのです。釈放の時の扱いは悪くなかったのです。家も支給されました。昔、ラサに家族の家があったのですが没収されていました。住むところも支給され、生活費までくれました。なぜなのかは分かりません。

ーその時まで何の罪で刑を受けているのか知らされていなかったのですか?

ノルブ:知っていましたが、認めていないということです。中国は私に3つの罪があるといっていました。まず、59年の戦闘の時、中国側の指揮官が1人死んだのですが、私が彼を殺したというのです。

ーそれは事実ですか?

ノルブ:事実かどうかは分かりません。戦闘の時にはチベット側も中国側もたくさんの人が死にました。中国側の主な指揮官もほとんど死んだのです。指揮官たちが死んで、一旦2、3時間停戦状態になったのです。彼らは遺体を集め、喪に服し、そのあと誓いを立てていたようでした。兵士たちはみな手を振り上げて気勢を上げていました。その後、戦闘が激化したのです。大砲をばんばん撃ってきました。その指揮官を私が撃って殺したことにされたのです。お前は射撃の名手だったからというのです。2つ目は、ポタラで戦った後のことですが、僧院の穀物倉庫を壊したということでした。私はもともとセラ僧院の穀物倉庫の管理を任されていました。中には僧侶が食べる穀物でツァンパを作るための大麦が一杯積まれていました。倉庫はこの部屋くらいの大きさのが4つ、5つあったのです。それを私は人々に開放したのです。燃やしたんじゃありません。人々に提供したのです。持って行っていいよと。中国が倉庫を封じてたのですが、私が鍵をすべて壊したのです。そして、穀物をみんなにあげたのです。みんなは馬やラバを連れて来て、昼夜それを運び出し、それぞれ家に運んだのです。中国が言うには、その穀物は軍馬の飼料用にするつもりだったそうで、それを私が盗んだというのです。3つ目は監獄内の抵抗運動組織の問題です。文革が始まったあと、監獄内でおそらく500人ほどのチベット人囚人が参加する抵抗組織が結成されたのです。有名なタナ・ジグメ・サンポさんも参加していました。監獄34年の彼はまだ生きてますよね。スイスにいらっしゃる。彼とか私はこの組織を作った中心人物として、監獄内の監獄と言える無窓独房に半年入れられました。そして、半年後に全員死刑と言うことになったのです。しかし、最後に公安局長が私とタナ・ジグメ・サンポを死刑から外したのです。私がその組織を認めなかったからという理由のようです。結局この時14人が処刑されました。文革に入ってからはすごい数のチベット人が処刑されました。1967年だと思いますが、チャムドでも15人、ナクチュのビルでも15人、ニョモでも15人、ラサで15人と合計60人が同日、同時刻に死刑執行されるということもありました。

ー釈放されてからはラサで暮らしていたのですね。その頃のラサの生活はどうでしたか?

ノルブ:ラサはまだましでしたが、田舎はひどい状態でした。食べるものも、着るものも非常に乏しい状態でした。1987年にデモが起きた原因の1つは貧困だったと私は思います。

ーデモに参加されたのですか?

ノルブ:1987年、88年とデモに参加し、それでインドに逃げることになったのです。87年の時には友人の尼僧たちがたくさん集まってくれました。私はデモにたくさんの尼僧たちを連れて行ったのです。車でです。尼僧も僧侶も、とにかく多くの人を動員しなければならなかったからです。中国は文革が終わりチベットは自由になったと宣伝していましたが、自由などは何もありませんでした。食べ物や着る物にも困っていました。子供たちは靴もなく裸足でした。だからデモしたのです。88年にもやりました。

ー逃げなくてはならなくなったのはなぜですか?

ノルブ:88年にラサで2人の外人記者のインタビューを受けたのです。1人はアメリカ人でゲンギャという名でした。もう1人はイギリス人女性でオニキリと言いました。彼女はインドから来ていました。アメリカから来たトゥプテンという人が通訳でした。2人とも秘密裏にラサに来ていたのです。彼らは許可証がないので、ホテルに泊まることができません。そこで、通訳のトゥプテンから彼らを私の家に泊めてほしいと頼まれたのです。了承し、家でインタビューを受けました。チベットの文革がどうであったかとか、チベットの状況、監獄でどのような扱いを受けたか等をすべて話しました。2人は仕事を終え帰りました。通訳のトゥプテンがアメリカに帰る前に私に言いました。「彼らの記事が出たら、あなたは逮捕される可能性が高い。記者や私は外人だから捕まっても刑を受けても、結局開放されるだろう。しかし、あなたは捕まったら死刑になるかも知れない。逃げるべきだ」と。それで、インド行きを決心したのです。


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2015年07月26日

映画『ルンタ』補足編:元ラプラン僧院僧侶ジャミヤン・ジンバへのインタビュー、後編

ジャミヤン・ジンバ僧ジャミヤン・ジンバ。

昨日の続き。


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ーあなたたちが山に逃げた後だと思うのですが、1人捕まり拷問を受け、亡くなっていますよね。

ジャミヤン:山に逃げた後、一番心配していたのは彼のことでした。彼は我々のようにデモを先導したわけではないのです。後について来た2、30人の中の1人でした。彼はお堂の中にいたところを逮捕されたのです。普通中国ではデモ等を先導した人は重い罪を受けるが、他の人たちは軽かったり、解放されたりします。彼の名前は私と同じジャミヤン・ジンパでした。ですから、私は彼は私と勘違いされて逮捕されたのではないかと心配したのです。

僧院の中に兵士が入ってきて、彼が逮捕され、ひどい拷問を受けました。拷問を受けて、確か1週間ほどで家族に引き渡されました。家族に引き渡されたときにはもう歩ける状態ではなく、担架で運ばれてきたそうです。足を何カ所も骨折していました。口に電気棒を突っ込まれたからだと人は言っていましたが、狂っているように見えたといいます。最初はしゃべることもできず、小水も垂れるままだったと聞きました。いろんな内蔵がやられていたようで、それから半年間、床から起き上がることすらできなかったそうです。彼のお母さんが面倒を見ていました。起き上がることはできるようになったが、それから3年後、拷問の後遺症に苦しめられた末に回復することなく亡くなったのです。家族が彼を大きな政府の病院に連れて行くと、医者は恐がり、ちゃんと見てくれません。追い返されます。それで、最後までまともな治療を受けることができず、とうとう亡くなってしまったのです。お母さんは本当に辛かったと思います。

ー焼身についてはどう思われますか?

ジャミヤン:驚くべき偉業だと感じています。焼身する人はみな、チベット人の苦しみを一身に背負っています。彼らの思いは広く、チベットの民族、仏教の教え、人々の平和な暮らしを思って行動したのです。私は焼身者に特別の思いがあります。同郷の知り合いが焼身しているからです。2012年の11月27日にサンチュのサンコク郷でサンゲ・タシが焼身し、亡くなりましたが、彼は私と同じ村の出身です。彼のお兄さんと子供のころ友達で、その弟として知っています。私の家族とサンゲ・タシの家族も仲がよかったのです。私は12、3歳の時、僧侶となりラプラン僧院に入ったので、その後はよく知りませんが、里に帰った時に彼の家に遊びに行くこともありました。彼は小さい時、学校に4年ぐらい通い、その後は両親を助けて牧畜の仕事をしていました。田舎には小学校しかありませんし。

彼はなんというか、心が綺麗で、遊牧民の子供はだいたいそうです。学校にも行かず、親の手伝いもせず、街をふらつきタバコを吸ったり、酒を飲んだりとか、そのようになってしまう子もいるのですが、彼はそういう子ではありませんでした。それは確かです。彼は両親を非常に大切にしていました。家畜の面倒を見るのも得意だったそうです。彼の家は村でも有数の裕福な家だったのです。たくさんの家畜を飼っていました。

ー彼は何人兄弟ですか?

ジャミヤン:4人兄弟です。お兄さんとお姉さんがいました。あと、3歳ぐらいの小さな弟がいました。お姉さんは結婚して他の場所に移っています。お兄さんも結婚し、独立しています。彼が焼身した時にはこの2人は家にいませんでした。

今、急に彼の焼身を初めて知ったときのことを思い出しました。私はそのときサルナートの大学で勉強していたのです。授業中に知らせが入りました。何と言うか、すごく動揺し、もう先生の話がまったく頭に入らなくなったのです。すぐに、彼のことをメディアに報告しようと思い現地と連絡をとりました。

サンゲ・タシの家族の話をしましょう。焼身した時には彼の父親と母親と幼い弟がいたはずです。父親は再婚したので、今の母親は義理の母親です。本当の母親は別の土地に住んでるそうです。小さい弟はこの再婚相手との間に生まれた子供です。彼の父親はサンゲ・タシに家を継がせるつもりでした。チベットでは長男が家を継ぐとは限りません。親の言うことを一番よく聞く子に家を継がせるのです。父親はいつもサンゲ・タシはいい息子だと自慢していました。1、2年後には嫁を迎え、家を継ぐことになっていたのです。将来的に苦労することはなかったでしょう。そのような彼が焼身したのです。父親は彼が亡くなった後、弔いのためにとラプラン僧院の僧侶全員に多額の布施を行いました。

ー中国に抗議したいと思う若者は多いことでしょう。その中で焼身してやろうと思うものもいるだろう。しかし、本当に焼身する人は稀だ。サンゲ・タシを個人的に知るあなたに、なぜ彼が焼身を決心したかについて何か心当たりはありませんか?

ジャミヤン:難しいですね。たくさんの若者が焼身しています。いくつかの村が集まるサンコク郷という我々の郷には家が千戸ほどあります。人口は7、8千人でしょうか。その中で他にもう1人若者が焼身しています。その若者も私の友人の姉の息子です。名前は僧侶だったときにはイシェだったが、その後養子に行って、トゥプワン・キャプと名前を変えたのです。それで、サンゲ・タシがなぜ焼身したのかですね。それは、分かりませんね。自分ではできないことですから。十分理解することはできないでしょう。一般的な話にしかなりませんが、私が思うには、2008年以降、チベットのために行動する人を人々は英雄と見なすようになりました。彼が焼身したころ、すでに80人以上が焼身していたと思います。特に、この人たちは遊牧民や農民から偉大な人たちだと見なされています。チベットのために焼身したのだから、海外にいらっしゃるダライ・ラマが帰還できるようにと焼身したのだからすごく尊い行為を行った人たちだ、ありがたい人たちだと見なされていいます。

2008年以前にも、両親等から昔中国に如何にひどい目に遭わされたかということは聞いていましたが、2008年には実際に自分たちの目で中国の残酷さを目撃したのです。本人でなくても周りの家族、親戚、友人の誰かが逮捕され拷問を受けたりすることを知ったのです。彼もそうでしょうし、私もそのようでした。そうなると、中国を嫌悪し、中国に対して何かやってやろうという気になります。大して勉強もしていない私などでも、何かしなければ、チベットのために何かしなければという気持ちに駆り立てられたのです。チベットが独立できるよう、自分のできることをしようと思ったに違いありません。ただ、さて何をしようかと思った時、年若く、学もない場合には手段が限られています。そんな時、多くの同胞たちが焼身していることを知り、それは命を捨てることであり、まったく簡単なことではないが、もしもそれを成し遂げることができれば、偉大な仕事をなしたことになると、そのように思ったのではないでしょうか?

ー彼の焼身時の状況について分かっていることは?

ジャミヤン:彼は焼身する日に何人かの友達と一緒にバイクでどこかに出かけたらしいです。帰りに彼だけがしばらくいるといってサンコク郷の街に残ったのです。そして、夜の10時頃、街の中心の路上で焼身したのです。焼身を行う直前に彼は従兄弟のツェベに電話を掛け、「アロ(ハロー)、俺は今日チベットのために焼身するぞ」と話したそうです。ツェベは「アロ、アロ、そんなことはするな、ちょっと待て!」と応答したが、すぐに電話は切られ、その後、何度電話しても通じなくなったといいます。目撃者の話によれば、彼は焼身しながら「ダライ・ラマ法王をチベットにお招きすべきだ!パンチェン・リンポチェをはじめ全ての政治犯を開放せよ!」と叫んだと伝えられています。

ー「チベットに自由を!」はなかったのでしょうかね?

ジャミヤン:伝わっていないが、言ったかも知れません。私は焼身者たちが最後に叫んだ内容や残した遺書の内容を分類して見たことがあるのです。6、7種類に分けられると思います。一番多いのは「ダライ・ラマ法王のご帰還を」というものです。「ダライ・ラマ法王に長寿を」というのも同種だと思います。それから、パンチェン・ラマの解放を求めるというのもあります。「チベット独立」「チベットに人権を」「宗教の自由を」と叫ぶものもいます。また、ある人は「世界平和」を叫び、「環境保護」を訴えたものもいます。分類すれば、そのようになります。

ーダライ・ラマ法王を直接知らない人たちがなぜそれほどまでに法王の帰還を望むのでしょうか?

ジャミヤン:それにはまず両親の影響があるでしょう。両親が毎日、ダライ・ラマ法王に「どうかお救いください」と祈っているのを見て育つからです。ダライ・ラマ法王は大変尊い方で、我々のなくてはならない宝であると強く信じているのです。中国が来て、ダライ・ラマ法王は亡命を余儀なくされ、今はインドにいらっしゃることを両親から聞いて知っています。たびたび外国に出かけられ、多くの支持者を得ていることも知っています。インドに行き、ダライ・ラマ法王にお会いすることができた人から、法王がどんなことをお話されたかを直接聞く機会もあります。2006年に、自分たちの地域だけでなくチベット全土で豹や虎などの毛皮を焼却するという運動が起こりましたが、あれはみんなダライ・ラマ法王のお言葉に従ったからです。みんなダライ・ラマ法王のお言葉に注目しているのです。お会いすることはできないが、間接的に言葉を聞き、それに従おうとするのです。影響力はすごいわけです。禁止されてはいますが、人々はこっそりと首にダライ・ラマ法王の写真をつけたり、家の仏壇に法王のお写真を掲げるのです。僧院などでは秘密裏に法王のご本を手に入れることもできます。CD等は我々にはむかないのです。ダライ・ラマ法王が話される中央チベット方言が理解できないからです。

ー法王はもともとアムドのご出身ですよね。

ジャミヤン:ははは、そうですが、全然違うのです。聞いても分からないのです。

ーダライ・ラマ法王さえチベットに帰還できれば、すべての問題はなくなる、苦しみは終わると思っているということでしょうか?

ジャミヤン:ダライ・ラマ法王帰還というのは簡単ではないですよね。まずその状況が整わなければならない。つまり、ダライ・ラマ法王が帰還できるということは、他のすべても解決されているということじゃないでしょうか。お年寄りたちは、いつも「死ぬまでに一度でいいからダライ・ラマ法王にお目にかかりたい」といい、それが一生の願いだと言います。それを聞くと若い人たちは両親や祖父母のその願いを叶えてあげたいと思うようにないます。それもあると思います。

ーチベットの独立を求める焼身者が多いですよね。たしかに、死を覚悟の焼身を行う時「チベットに真の自治を!中道を!」はそぐわないわけですが。独立とか中道とかについて内地ではどのくらい理解されているのでしょうか?

ジャミヤン:たしかに、焼身の時「中道を!」と叫んだ人は1人もいません。中国人と一緒でもかまわないという人は声を上げたりしないわけです。2008年以前には、ラサとは違い、私の故郷あたりではチベット問題についてあまり理解されていませんでした。よく分かっていなかったし、声を上げる人もいませんでした。2008年以降に目覚めたといっていいでしょう。それ以前にはチベット人が声を上げるのは独立のためだとしか思っていませんでした。2008年に私も最初声を上げたときには「チベット独立」という言葉を叫んだのですが、その後、特にインドに来た後から法王のおっしゃる「中道」について本気で考えるようになったのです。いろいろやろうとしても厳しいことが分かって来る。独立は簡単なことではない、すぐに得られるようなものではない。それを求めれば、実現される前にチベット人全員が抹殺される危険さえあると思うようになりました。他の道は何だろうと考えた時、法王のおっしゃる双方に利がある「中道」がまず実現されればいいと思うようになるのです。多くの事情が分かっている人たちはそう考えていると思います。

ー法王が独立を諦め、「中道」を提唱され始めたのは、1988年からというか、遡れば70年代からですよね。なぜそれが本土の人に理解されるまでそれほど時間がかかったのでしょうか?

ジャミヤン:2008年以前でも、社会の中で意識の高い人とか僧院内で外国のニュースを聞くことができた人たちは分かっていたでしょう。我々若いものでも法王の意見は知っていました。しかし、それを我々は次のように理解していたのです。ダライ・ラマ法王は仏教の教えに従い、衆生をすべて偏りなく平等に見られています。だからそのように考えることもおできになるが、我々普通の人間には到底できないことだと思っていたのです。法王は特別の方で、その意見も特別だと思っていたということです。つまり、自分たちは独立以外考えられないと思っていたのです。ダライ・ラマ法王は本当のチベットの現状を把握されていないのではないか? と疑ったりしたこともありました。でも、インドに来て、じっくりと考えるうちに中国を動かすことは非常に難しく、手段を間違えば非常に危険なことになると思うようになりました。

ー最近グチュスンも独立から中道へと路線変更しましたしね。

ー焼身の話に戻りますが、最初に焼身が始まった頃と今とでは感じ方に何か変化がありますか。

ジャミヤン:焼身が最初に1件、2件あった時には、多くの人が興奮し、勇気をかき立てられました。私も長い間考え込みました。焼身者の写真は正視できませんでした。急にいろいろなことを考えだすようになったという感じでした。でも、どんどん増えて来ると、だんだんそれが普通になってくるのですね。人間はそういうもののようです。でも、チベットの焼身は独特なものだと思うのです。自分の苦しみから逃れるために焼身自殺をするというのは昔からどこでもあるでしょう。しかし、チベットのように、民族の闘いの手段として、他人を一切傷つけることなく、ただ自分の命を犠牲にするというような運動はこれまでになかったのではないでしょうか? 個人の勇気ある行動です。国際的に認識され、評価されるべきです。実際に多くの支援者が国連を初めとする国際機関に訴えてくれています。感謝しています。

チベットは今緊急事態です。焼身は中国に抵抗する数少ない手段の1つなのです。多くの人が命を犠牲にしたことで、国際的にも少しはチベットの苦しみが理解されたのではないかと期待します。チベットは耐えながら、今まで長い間非暴力の闘いを続けているのです。もちろん、私を含めチベット人のだれも焼身者がこれ以上増えることを願っている人はいません。焼身は大変な悲劇です。ですが、私はこう考えるのです。今、焼身がどんどん増えて大勢が焼身しています。これがもし目的を達成することなく途切れたら、すべてが無駄になってしまうようなきが気がするのです。火が燃え始め、その火がますます強くなり広がれば、いつの日かチベットが独立する日が来るのではないか、そのために運動の火を絶やさないようにとの思いが焼身者には必ずあるように思うのです。2008年に我々も運動をしましたが、その時の思いも、2008年3月に起こった稀に見る全面蜂起の炎が小さくなり消えないように、ますます燃え上がるようにと願いやったのです。チベットのニュースが消えないことを願ってやったのです。

ーチベット人の非暴力の闘いにもっと注目してほしいということですね。

ー最後に、今のあなたの夢は何ですか?

ジャミヤン:チベット問題についてですか?個人の夢ですか?

ーどちらでもいいです。

ジャミヤン:チベット問題については多くの人が望んでいることと同じだと思いますが、ダライ・ラマ法王がご存命の内にチベットに帰還されることです。これが、チベット独立後に実現するなら本当に素晴らしいことですが、それは難しいと思います。たとえ高度な自治の中で帰還が実現するということでもそれは嬉しいことです。

私個人のことで言えば、今はインドでこれ以上ない環境で勉強もできているのだから、仏教とその他の学問ももっと勉強して、将来、チベットの人々はもちろん、もっと広く多くの人に役に立つ人になりたいと思います。人には人を助ける責任がありますから。

ー今の法王がご存命中に本土帰還はあると思いますか?

ジャミヤン:分かりません。ただ、もしもそうならなかったとしたら、その後チベットはさらに苦難の道を歩むことになるでしょう。

ーダライ・ラマが崩御されたらということですか。

ジャミヤン:そうです。大変なことになるような気がします。今は法王がご存命中に高度な自治が実現されればいいと多くのチベット人が口にしていますが、だからといって独立しなくていいと思ってる人は誰もいないでしょう。そうなると、闘いは本当に長いものになるでしょう。その時のためにもみんなしっかり仏教やその他の学問を勉強し、団結を守り続け、チベット人としてのアイデンティティーを維持し続けなければなりません。それができなければ、チベット人はばらばらになり、消え去ってしまうという危険が非常に高いのです。


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2015年07月25日

映画『ルンタ』補足編:元ラプラン僧院僧侶ジャミヤン・ジンバへのインタビュー、前編



このビデオの中でBBC等の外国メディアの前で必死の訴えを行う僧ジャミヤン・ジンパ。映画の中で少しだけ紹介されている彼へのインタビューだが、そのすべてを前編・後編に分け紹介する。

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元ラプラン僧院僧侶ジャミヤン・ジンパへのインタビュー

アムド、ラプラン・タシキル僧院僧侶ジャミヤン・ジンパは2008年4月9日、BBC等の外国メディアが僧院に来たとき、隠された真実を知らせたいと危険を顧みずメディアの前に飛び出し、真実を訴えた。このときの映像はBBCでも放映され、隠されたチベットの真実に世界が注目した。訴えを行った僧侶たちは山に逃げたが、逃げなかった僧侶1人が逮捕され、激しい拷問を受け、数年後に死亡した。逃げた僧侶の内1人は重い病気になり、治療を受けることができず死亡した。山に逃げたジャミヤン・ジンパは苦しい逃避行の末、1年後にインドに亡命することができた。彼は今、グチュスンの学校で学んでいる。インタビューは2013年12月にルンタハウス内にある教室で始められ、その後彼の部屋で続けられた。

ーあなたは2008年にラプラン・タシキル僧院に外国メディアが来たとき、その前に出てチベットの真実を訴えましたね。勇気ある行動だと思います。その時のことをまず話して頂けますか?

ジャミヤン:2008年3月10日のラサ蜂起記念日に始まり、ラサをはじめチベット全域でチベット人が蜂起しました。そしてたくさんの人が殺されました。それを調査する目的で海外からBBC等のメディアがチベットに入ったのです。中国政府が平常なチベット見せるために手配した官製メディア・ツアーでした。
我々は彼らがいつ来るのかはっきり知りませんでした。いつ来るか分からないが来ることは事前に知っていました。

とにかく真実を訴えるために何かやろうと決心していたのです。中国はチベット人を痛めつけ、たくさんの人を殺したが、我々は決して屈しないということを見せたかったのです。チベットで彼らがいかにひどいことをしているかを、自分たちが海外に知らせようと思ったのです。中国により真実は隠され、歪められ、このままだとチベット民族は世界から見捨てられたまま衰退して行くだけだ、海外にいらっしゃるダライ・ラマ法王にご帰還頂き、囚われの身にあるパンチェン・ラマが解放されるためにも何かやらねばと思ったのです。平和的なやり方で訴えようと思い、まずはチベット国旗を縫いながら準備していたのです。

ついに2008年4月9日、彼らが来たのです。そのとき我々は本堂で法要に参加していました。外国メディアが来たことを知り、すぐに外に飛び出しました。急いで僧坊に帰り、準備していたチベットの旗を手に持ち、彼らの前に走り出たのです。「中国人はチベットでこんなことをしている。我々の土地でチベット人を大勢殺し、今たくさんのチベット人が捕われている。中国政府が海外に宣伝していることはみな嘘だ!」と叫んだのです。中国はそのころ「チベット人がオリンピックを利用してデモを行っているが、自分たちは弾圧などしていない」と主張していましたが、それは違うと訴えたのです。

そして、その後仲間の内2人が死ぬことになったのです。後から参加した内の1人は僧院から逃遅れ逮捕され、拷問され、ひどく拷問され、その結果亡くなったのです。もう1人は逃げた後、病気で亡くなりました。

ー最初にデモを先導したのは何人だったのですか?

ジャミヤン:最初に飛び出したのは4人です。私たち4人が飛び出したのを見て、後ろから30人ぐらいの僧侶が応援に出て来てくれました。その後、4人が山に逃げました。山で過ごすということは大変なことなのです。ずっと僧院の生活でしたから、建物の中で暮らしていたのが、急に外で隠れて暮らさないといけないのです。山は寒くて、病気になるが、医者に見せられず、またその時点ではもう軍が見張っているので僧院には帰れないのです。そんな状態で病気が慢性化して、山を下り医者に見せる機会もあったのですが、結局治らず、1人が亡くなったのです。1人は発見され10年の刑を受けました。4人の内、2人だけがインドに逃げることができたのです。僧院の仲間2人と一緒に国境を越え、2009年5月10日にダラムサラまで来ることができました。

ーもう一度、なぜあのような行動を思い立ったのかについて話して下さい。

ジャミヤン:チベット人は誰でも中国により心に傷を負わされているのです。中国は1950年代にチベットを侵略し、たくさんのチベット人を殺しました。我々の親の代がたくさん殺されました。今も中国は我々の言語を中国語に変えようとしており、大勢の中国人を送り込み、結局我々チベットの民族や文化を抹殺しようとする政策を続けています。これに抵抗するため、2008年にチベット中が蜂起し、大勢の人が殺され、逮捕され、その他様々な虐めがあり、心の痛みが一気に膨れ上がったのです。こうなると仏教の勉強にも集中できなくなりました。

チベットのために何かしなければという思いが高まり、デモをやろうと決心したのです。でもダライ・ラマ法王もおっしゃっていることだし、手段はあくまで非暴力でやろうと思いました。そこでまずは静かにチベットの国旗を作り始めたのです。これは大変でした。旗は縫わないといけませんが、布がなかなか手に入らなかったのです。3月のデモの後、街には厳戒態勢が敷かれ、学校も休み、店もみな閉めさせられていました。その内中国人たちがこんな風に店を閉めているのを外の人がみたら、驚かれるのでよくない、店は開けた方がいいと言い出して、店が開けられ始めたのです。それで、やっと布を買うことができました。昼は目立つということで、夜中1人で幾晩もかけて縫いました。

ー外国のメディアがラプランに来るだろうということはどうやって分かったのですか?
ジャミヤン:アメリカの放送局があるでしょう、VOA(ボイス・オブ・アメリカ)という。それとRFA(ラジオ・フリー・アジア)があります。RFAはその中のアムド語放送しか聞き取れませんがアムド地方のチベット語です。

ーそれらから情報を得ているのですね。

ジャミヤン:そうです。アムド語放送をいつも聞いているのです。中国はそのようなラジオを聞けないよう手段を講じていて、僧院の中ではなかなか難しいのです。僧侶は厳しく監視されています。それでも、なんとか隠れてアルミの大きな円盤があるでしょう、あれを空に向けて、聞くのです。放送を聞くことで、海外のメディアが自分たちの僧院に来ることが分かったのです。でも、日程は分かっていなかった。とにかく我々は早く準備をしておかないとということになったのです。中国の言うことは嘘ばかりです。例えば、メディアが明日来るというときには「明後日来る」と言ったりします。中国のニュースも我々は誰も信じていません。いつ来てもいいように準備をしておこう、チャンスを逃さないようにしようと思ったのです。

ーなぜ、亡命しようと思ったのですか?

ジャミヤン:仲間が大勢逮捕されていました。私を含めた何人もが指名手配され、テレビで公開捜査ということまで行われていました。賞金がかけられていました。その内、我々の隠れていた遊牧民の土地に中国が軍を送り込んできて、1人が逮捕されました。彼は我々と一緒にデモをした僧侶ではなく、その前3月14日と15日の大きなデモに参加していたのです。このデモの時は当局の無差別発砲により10人以上が殺されています。彼はその後、20年の刑を受けました。

軍が近づいていることを知って、怖くなり、夜、夢を見ると、いつも中国軍に捕まってしまうという夢ばかりでした。隠れる建物もなく、寝る時も野外でただその辺に寝るという生活をずっと続けていたのです。狼などの野生動物が怖いというので穴を掘って寝ていたこともあります。小さなテントや廃墟で寝泊まりしていたこともあります。食べるものは遊牧民が助けてくれることも多かったのですが、とにかく辛かったのです。このままではいつか見つかり逮捕され、刑を受けることになる。それならば中国の外に逃げることを考えようということになったのです。道は2つしかなかったのです。インドに出ればダライ・ラマ法王にもお会いすることができて、勉強もすることができる。将来チベット人のために働くこともできると思ったのです。そのまま山で過ごしていても勉強はできないわけです。しかし、チャンスはなかなかやって来ず、1年近く山に隠るしかありませんでした。1年後に幸運な出会いがあり、亡命することができたのです。

この後、彼の次の授業が始まるというので一旦インタビューは中止され、続きが彼の部屋で行われた。最初に彼らがラプラン僧院でメディアの前に飛び出した時のビデオを見せた。

ーこの僧侶は何と叫んでいるのですか?中国語ですかね?

ジャミヤン:ええ、中国語で「権利がない」と叫んでいます。

ーこのチベット国旗を持っているのはあなたですね。

ジャミヤン:そうです。これが苦労して作ったチベット国旗です。

ーこのときあなたは何を訴えていたのですか?

ジャミヤン:放送に流されたこの部分では、僧院が監視され、仏教が弾圧されていることを訴えているのです。これは一部でして、前もって訴える文章を5、6ページ作り、それを暗唱していたのです。このときそれを叫んでいるのです。文章を書いた紙は飛び出す前に焼きました。

ー映像を見ると、みんな顔が非常に緊張しているように見えます。怖かったですか? 急いで訴えないといけないし、特別な感覚ではなかったでしょうか?

ジャミヤン:メディアが来たということを聞き、すぐに法要の席から立ち上がったのです。飛び出して、用意してあったチベット国旗などを部屋に取りに行ったのですが、その時、心の中にはものすごい恐怖心がありました。恐怖心がつのり、いろんな思いが心の中をよぎりました。この後、中国に逮捕され、何をされるだろう。裁判になるだろう。殺されるかも知れないと。そんなことが頭を過り、すごく怖くなっていたのです。

もちろん、デモをやろうと決心したときから、拷問や長い懲役刑、死さえも覚悟していたのです。自分に起こることは大したことではないと思っていたのです。でも、基本的に恐怖心というものはありますよね。拷問のことを考えると最悪です。拷問で死にそうになった時点で、家族に引き渡されたりするのです。そうなったら、家族に大変な苦労をかけることになります。自分では何もできず、他の人からは狂ってしまったとか言われるのです。それでも、このチャンスに思い切って行動することで、チベットの状況を少しでも変えることに役立つことができるのではないかと思っていたのです。

ーあなたたちは、逮捕され、拷問を受け、死ぬかも知れないということは考えていたと言われましたが、本当に死んでもいいと覚悟していたのですか?

ジャミヤン:そう言われると、どうでしょう、本当の覚悟はなかったでしょう。どうなるか分からないと思っていたのです。もしそうなっても、後悔せず、受け入れようという心の準備はできていたと思います。

ー拷問を受けてすぐに死ぬことができればまだましで、長期間拷問を受け、もう死んだ方がましだという状態になるまでやられるわけですよね。そうなってもいいと思ったのですか?

ジャミヤン:それも分かっていました。そうなったらなったです。そんなことばかり考えていては決心できません。今、チベットは緊急事態の中にあって、各地でチベット人が大勢殺されている。みんなが苦しみの中にある。僧院等が封鎖され兵糧攻めにされているという話も聞いていました。自分たちの僧院からも僧侶がたくさん連行されていました。でも、本当にそうなり、長期間拷問され続けたときに当初の決意を保ち続けることができるか? と問われると、分からないと言うしかないでしょう。人間の心は弱く、変化するものですから。でも、とにかくあの時は強い決意を持って実行したのです。







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2015年07月24日

新たな拷問死 2008年以降チベット人政治犯100人以上が

lobsangyeshiロプサン・イシェの生前写真。

昨日・一昨日、当ブログで紹介した元尼僧ダムチュ・ドルマの証言の中でも詳細に語られているように、チベットの政治犯は拘置所や刑務所で、ほぼ例外なく激しい拷問を受ける。そして拷問の末、死亡するケースが後を絶たない。チベット人権民主センター(TCHRD)によれば、2008年以降だけでもその数は100人を越える。先日、四川省の刑務所内で死亡したリタンの高僧テンジン・デレック・リンポチェも刑務所内における虐待がその死亡原因と国際人権団体はみなしている。

7月23日付けRFAなどによれば、鉱山開発に抗議し、2年の刑を受け、ラサのチュシュル刑務所に収監されていたロプサン・イシェ(65)が7月19日、ラサの病院で拷問死した。

チベット自治区チャムド地区ゾガン県トンバル郷(མཛོ་སྒང་རྫོང་སྟོང་འབར་ཡུལ་ཚོ།)出身のロプサン・イシェ(བློ་བཟང་ཡེ་ཤེས།)は地元の長老であり地元で金鉱山開発が始まろうとしたとき抗議活動の先頭に立っていた。

トンバル郷では、2014年4月終わりから環境破壊に繋がるとして地元住民が鉱山開発に反対する活動を始め、当局に拘束されるものが増えていた。同年5月7日には、前日当局に呼び出され尋問を受けた数人の内の1人であるパクパ・ギェルツェン(39)がビルの屋上から抗議の投身自殺を計り、死亡している。

彼は前日「トンバル郷のものたちは、これ以上鉱山開発に反対して問題を起こし困難な状態に陥る必要はない。俺が1人でなんとかする」と仲間につげており、投身の前に刀で2度自身を傷つけ、「チベットに自由を!独立を!ダライ・ラマ法王帰還を!」と投身の直前に叫んだと伝えられる。このことから分るように、チベットの鉱山開発抗議の活動は政治的意味合いも含まれているのである。

この事件の後、ロプサン・イシェたちは抗議活動を活発化させていたが、5月12日、彼は他7人と共に当局に拘束され、その後1年ほどゾガン県の拘置所に収監され、拷問を受け続けたという。今年の5月になり、彼を含むその内の3人が2年の刑を宣告され、ラサのチュシュル刑務所に送られた。

チベット亡命政府の公式サイトであるチベットネットによれば、「彼は刑務所内で受けた拷問の結果重傷を負い、目眩が続いていた」という。「重体に陥った彼は刑務所側の判断で病院に搬送されたが、7月19日中に死亡した」とされる。家族の懇願にも関わらず遺体は家族に引き渡されることなく、火葬される時、1人の僧侶と2人の兄弟が同席することだけが許可されたという。

地元の人たちは「ロプサン・イシェはまじめな性格であり、長老として常に地元のもめ事の仲裁役を引き受けていた」という。

その他参照:7月23日付けTibet Times チベット語版
7月23日付けTibet Express 英語版


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2015年07月23日

映画『ルンタ』補足編:ダムチュ・ドルマの証言、後半

_DSC8830元政治犯、元尼僧ダムチュ・ドルマの証言。

昨日の続き。








氷責め

刑務所の中庭には夜中に水がまかれており、それが凍っています。早朝、その氷の上に靴を脱がされ素足で立たされるのです。2、3時間立たされるのです。その後行進しろと言われますが歩くなんてできません。歩こうとすると足が氷に張り付いているから血がでます。

氷の上に素足で何時間も立ち続けることなど誰にもできません。身体全体が冷えきり、まさに血も凍るという状態になり、みんな気を失って倒れます。するとすぐに監視人に蹴飛ばされます。立てと言うのです。ごつごつした堅い靴底で顔を踏みつけられます。必死に耐えました。みんな同じような目に遭うのです。おしっこに行かせてほしいと言うと、ズボンの中にしろと言われます。

兵士が担当する運動と呼ばれる時間が毎日あります。運動とは名ばかりで実際には拷問のようなものです。兵士は最初に「今日はどんなゲームをしようか?」と聞くのです。「今日は石だ」ということになると、重い石を持たされ、走らされたり、屈伸させられたりします。遅れたり、うまくできないときには、すぐに大きな金属のバックルが付いたベルトで激しく殴られます。手足の皮膚は切れぎれとなり、過度の運動の上に殴られ、夕方2段ベットの上の段に登る力もない人も多いのです。6年間毎日がそのようでした。

運動もちゃんと食べることができていれば少しは楽だったかもしれません。みんないつも腹を空かせていました。食事は少なく、不潔なものでした。朝は蒸しパン1つと1杯のお茶が配られます。それだけです。蒸しパンは本当に小さく、お茶もミルクやバターの入ってないものです。昼はご飯とおかずがでますが、おかずといってもスープのことが多く、ないこともあります。とにかく不潔でした。夜はないことも多いのです。時々蒸しパン1つか、うすいお粥が配られます。それだけです。だんだん慣れてきましたが、お腹はいつも空いていて、運動させられるのは辛かったのです。

囚人の家族が面会に来たときには、30元まで家族から受け取ってもいいことになっていました。仲間の誰かにお金が入ると、お腹が空いてるので、みんなで刑務所内にある売店に行って、即席麺の類いを買います。刑務所の外では1元なものを2元で売っているのです。

無窓独房、仲間の尼僧5人が拷問死

1998年5月1日*、この日はメーデーですが、囚人全員が広場に集められ、大きな式典が行われました。国旗掲揚が行われ中国国歌が歌われるはずな時、みんな歌わないのです。その時、突然1人のチベット人が「チベットに自由を!」と声を上げました。数十人そして数百人の主に政治犯が抗議の叫び声を上げました。私も叫びました。すぐに、監視員が発砲し、数人が撃たれて倒れました。

この抗議に参加したと見なされたものは全員独房に入れられ、本当にひどい拷問を受けました。その場で撃たれて死んだ人と拷問の末に死んだ人を合わせ10人以上死亡したことは確かです。

あまりにひどいので抗議の目的で2度ハンストをしました。ハンストと言っても、この辺のハンストとは違います。インドでのハンストは食事はしないが水は飲みます。私たちは5日間水も飲まなかったのです。5日間水も飲まないと、死にそうな人もでます。立ち上がることはできず、しゃべることもできず、ただ死体みたいに横たわっているだけになります。

刑務所側は死にそうになっている者を見つけると医者を呼んで、無理やり太い注射をします。薬か水が入っているのでしょう。刑務所内でハンストにより死者がでると責任問題になるのでしょう。私たちは死んでやると言います。「私たちはこんなにもひどい拷問を受けて来たのだから、もうあなたたちに何をされても死ぬまでだ。もう何人も死んでいる。あなたたちの言う通りにはならない」と言いました。するとひどく殴られます。衰弱している上に殴られ、ほとんどの人が瀕死の状態でした。

その後、6ヶ月間無窓独房に入れられました。真っ暗な独房です。普通無窓独房と言えば足を伸ばして寝る空間もないほど狭いものですが、私が入れられた独房は天井が高く、そんなに狭くはありませんでした。でも真っ暗闇です。ドアに小さな穴が開けてあり、そこから覗くことができるだけで、真っ暗です。食事は昼にご飯がほんの少しとおかずが少し、ミルクなしのお茶が1杯。1日それだけです。身体を洗う水などは全く与えられず、大小便用のブリキ缶が与えられ、トイレには行けません。もっともほとんど飲まず食わずなのでおしっこも出ません。

独房にただ入れられているだけではありません。拷問は続きます。激しい拷問の結果気を失い、5、6日間寝たきりだったこともあります。電気棒による拷問を続けて受けました。服を脱がされ、下着だけになって、靴も脱がされて、足の裏から電気を流されるのです。激しいショックを受けて1回で完全に失神してしまいます。全身の経絡は足の裏に集まってるといいますよね。本当かも知れません。足の裏だけでなく、体中至る所にショックが加えられます。

電気棒は4種類も5種類もありました。先が四角いもの、尖ってるものもあります。電気ショックの拷問だと、最初やられた場所が水ぶくれになるが、痕が残るということがないのです。失神してズボンの中に大小便をしても気づきもしません。失神すると水をかけられます。水がかかった状態で電気ショックを受けるとさらにひどいことになるのです。痛みがより強烈になるのです。そうして失神して、5、6日間意識が朦朧としていました。独房には敷物もありません。セメントの床にそのまま横になるのです。かなり後になって薄い敷物が配られました。

数日ごとに急に外に出され、「考えを変えたか? 過ちを認めるか? 国歌を歌うか?」と聞かれます。私の考えは変わらないので、一切従いません。すると拷問がまた始まります。

無窓独房に入れられて4ヶ月経ったころ、一度自治区の偉い役人だという人が刑務所に来たことがありました。その時、呼ばれて、どんな拷問をうけたのか、どんな食事を与えられているのか話すよう言われました。話をしようと思うのですが、言葉がうまく出てきませんでした。食事はほんの少ししか与えられていなかったし、衰弱し、やせ細り、病人のようでしゃべろうとしても言葉にならず、お腹の中からしゃべっているようで、あ、あ、あ、みたいになってしまいました。

声を出しなさいと言われましたが、声がでないのです。それでも、少しして、声がでるようになり、拷問と食事について訴えました。すると次の日から食事がほんの少しだけよくなりました。

このようにして5月1日のデモの後、人により4ヶ月、6ヶ月の人、1年の人、それ以上無窓独房に入れられ続けた人もいました。1998年は拷問が最悪の年でした。たくさんの仲間が拷問の末に亡くなりました。女性監房は2棟に別れていますが、私たちの側で5人の尼僧が亡くなりました。反対側の列でも2人が亡くなったと聞きましたが、この2人についてははっきり覚えていません。仲間が死ぬのはとても悲しいものです。

最後の頃は一切外に出されることがありませんでした。頭はすでに少しおかしくなっていたと思います。ある日突然外に出ろと言われ、どこに連れて行かれるのかと思いました。敷物とお椀を持って出ろと言うのです。立ち上がることもできず、這って外に出ました。前から知っている場所のはずなのに、最初広大な場所のように見えました。人の顔も見分けがつきません。以前居た舎房に連れて行かれましたが、かつての仲間が認識できないのです。彼らも私があまりに痩せて目も落窪んでいるので、怖がっているように見えました。まわりがすごく大きく見えて、まっすぐに歩くことができませんでした。

独房の闇の中で正気を保つために、一日中心の中でお経を唱えていました。根本のラマであるダライ・ラマ法王に祈願しました。そうすることで少し気持ちが楽になり、耐えることができたのだと思います。

いくら拷問されても、後悔したことは一度もありません。自分で決心したことですから。誰かに行けといわれて、誰かにチベットのために行かねばならないといわれ、行きたくもないのに行ったのなら、後悔するでしょう。でも、これは自分で決めたことでした。年老いた両親を置き去りにして、自分の国と民族のために、自分で決意したことです。両親は中国によりどれほど苦労させられたかをいつも話ていました。

尼僧院にいてもまともに勉強できませんでした。政府が思想教育の本を配り、勉強しろと言われます。尼僧院を再興していたのですが、仏塔などは禁止されました。私たちの根本のラマであるダライ・ラマ法王のお写真を掲げることも禁止されました。法要が禁止されることもあります。これほど自由がないのなら尼僧院にいても意味がない。決意して、もう死んでもいいと思い、何かの役てればいいと思い、決心したことでした。後悔はありませんでした。

釈放

解放される日が来るなんてことを考えたことはありません。刑期が終了し、初めて外に出た時、不思議な気分になりました。刑務所の中ではこのまま死ぬんだろうと思っていました。どれほどひとい拷問を受けても、何と言ったらいいのか、自分の中で、相手がどう思っていたかは分かりませんが、彼らと互角に戦えたと思っていたのです。彼らも大変なわけです。私たちを拷問したり、無窓独房に入れたりと、どんなに私たちを苦しめても何の効果もなかったわけですから。そう思うと少しいい気分になれました。

とにかく彼らに対抗できたと、互角に戦えたと、勇気がわいてくるような気持ちです。もしも、相手がこちらの話をよく聞いてくれ、優しく対応してくれたら、相手を悪く言いにくいことでしょう。でも、彼らは話も聞かずに殴ってくるのです。腹が立つのは当然です。こんな奴に謝ることなど何もないと闘争心が湧いてきます。

でも、本当に辛い思いもしました。本当に辛かったです。拷問された時、意識を失ってズボンの中におしっこを漏らしても気づかなかったこともあります。重い病気になり、病院に連れて行かれたが、食事も喉を通らず、おしっこも出ませんでした。

今も身体は病気持ちだし、インドにいるのも苦労があります。チベットには親兄弟がいるが、連絡をとることもできません。こちらから連絡すると向こうがひどい目に遭いますから。そういう苦労はあります。ここは外国だし、身体は弱いし、でもすべて自分の運命だと思っているのです。自分の人生で何を誇れるかといったら、刑務所で耐え抜いたことを誇れるかなと思っています。

亡命

2001年に釈放され、翌年父が亡くなりました。病気になって病院に行こうにも、診察費が高くてとても行くことができませんでした。家族は農業をやってるだけです、商売をしてる人はいません。病院に連れて行くことができず、そのまま亡くなってしまいました。とても悲しいことでした。

釈放された後も、つねに警官に跡をつけられ、監視されていました。単に僧院に参詣に行こうとしても止められるのです。自分の尼僧院にも行けません。両親は年だし、恐がります。それで、何とか家を出ようと、ラサに行き仕事を探しました。食堂で仕事が見つかりましたが、しばらくして警官が来て、食堂の主人に「この女は犯罪歴がある。犯罪歴のあるものを雇ったら店を閉めさせるぞ」と脅すのです。主人は申し訳なさそうに、辞めてくれといいました。

親戚も自分たちの家族に関わったら厄介なことになると警戒し、会いにも来ません。親戚と縁が切れ、かつての仲間にも会えないのです。辛かったのです。生活はしていかないといけないし、病院にも行かないといけないし。ラサに出てお金を貯めようと思いましたが、ラサでは部屋を借りるのにも苦労します。許可証がないと借りれないのです。親戚の家に1、2泊できても、彼らも私のことを恐がり、帰ってくれといいます。

結局どうにもならず、追いつめられました。インドに行くしかないと思ったのです。2004年のことです。家族は反対しませんでした。私のためにお金を借りて集めてくれました。特に兄は沢山のお金を用意してくれました。同じ頃仲間の尼僧2人も亡命しましたが、彼女たちはナンパラという高い峠を越えるシャルクンブの道でヒマラヤを越えました、私も一緒に行きたかったのですが、身体が弱すぎて耐えられそうにありませんでした。ラマに占いをしてもらうと、お金を払ってでも峠越えをせず、ダム経由で行った方が確実だというお告げでした。それでかなりの大金を用意して、アムドの商人について行ったのです。

それでも10日ほど山を歩きました。途中、シェルパの家にお金をかなり払って匿ってもらったりもしましたが、とにかく無事カトマンズの難民一時収容所に辿り着くことができました。

ダライ・ラマ法王に話かけられ

最初、一時収容所でダライ・ラマ法王がテレビに写っているのを見て、怖くて、怖くて。チベットでは法王がテレビに写るということはありえませんから、ひたすら怖かったのです。ダラムサラで謁見に行ったときは他に人が大勢いました。6〜70人ぐらいいたと思います。みんな難民として来たばかりの人たちでした。

法王のお姿が最初目に入った時、涙があふれ、自分が自分でないみたいに感じました。法王はみんなの前でお話をして下さいました。その後、法王はみんなの名簿を見ながら、そこに「政治犯」とでも書かれていたのでしょうか、私の名前を声に出され、どこにいるのか、と聞かれました。私はすぐに立ち上がろうとしたのですが、立ち上がることができませんでした。

「刑務所に何年いたのか?」と聞かれたので「?年」と答えたようなのですが、よく覚えていないのです。「これからどうするのか?」と聞かれ、「学校に行くつもりです」と答えると、「まだ若いし、よく勉強しなさい。ちゃんと治療しなさい。身体を大切に」とおっしゃいました。「辛かったか? 中国のせいで辛い目にあったか?」とおっしゃって下さったのですが、私は半分気を失い何も答えることができませんでした。最後に列になって、1人ずつ会って下さいますが、その時も「かわいそうに、辛かったか?」とおっしゃったのですが、この時も何も言えず、お顔もよく拝見することができませんでした。

3人娘の食堂

法王との謁見が終わると、一時収容所に一緒にいた仲間たちはばらばらに学校や僧院に送られます。私のように勉強はしたいが、もう普通の学校に入るには遅過ぎる年齢のものたちはソガスクールという成人学校に送られます。再び尼僧になり尼僧院に入るということも可能でしたが、私はもっと普通の勉強がしたいと思ったのです。

学校に入りましたが、身体が弱く何度も遠い病院に行かなければならず、勉強について行くのは大変でした。1年半ほどたったころ、グチュスンという私のような元政治犯が作った会が学生を募集しているということを聞きました。その学校はルンタハウスというグチュスンの施設の中にありました。街の中にあり、病院も近く、同じ元政治犯ばかりが英語やコンピューター等を学ぶ住み込みの学校です。私は尼僧院のときからの仲間2人と一緒にその学校に移ることにしました。

1年のコースが終わり、宿舎も出て自分で生活しなければならなくなりました。英語やコンピューターを少しは習いましたが、それで仕事ができるようにはなりません。仕事は限られています。仲間3人で相談し、亡命政府保健省からお金を借り、少し離れたノルブリンカインスティチュートの裏で食堂を始めることにしました。3人とも、元尼僧、元政治犯です。しばらくして、周りのチベット人たちは自分たちの食堂のことを「3人娘の食堂」と呼ぶようになりました。

それで何とか暮らすことはできました。3人とも拷問の後遺症で腰痛がひどく、腎臓や肝臓が悪いと医者に言われます。まわりのインド人とやって行くのは楽ではありません。でも、インドには中国と違って自由があります。もう不安になったり、怖がったりする必要はありません。

去年仲間の1人がベルギーに行き、もう1人も4ヶ月前にアメリカに行きました。みんな、できればインドじゃなくもっといい国に行きたいのです。「3人娘の食堂」じゃなく、今は「1人娘の食堂」になってしまいました。私も行けるものなら外国に行きたいと思います。

焼身抗議について

焼身をするには本当に強い決意が必要でしょう。本当に追いつめられていなければ焼身などしないでしょう。追いつめられているはずです。焼身をしなければならないほどに。例えば私たちも拷問を受けて辛いおもいをしましたが、みんな中国人に痛めつけられているのです、追いつめられるのです。あまりにひどい目にあって、この世に生きていられなくなるほど、中国人に虐められているのです。

彼らは死んでしまい、将来チベットが独立しても、それを見ることもできません。自分のためには何にもならないのです。でも本当のことは言わねばなりません。彼らは命をかけて他の人に真実を知らせようとしたのです。両親も捨て、子供も捨て。どれほどの決意が必要だったでしょう。残された子供たちはどうしたらいいのでしょう。年老いた両親はどうしたらいいのでしょう。ダライ・ラマに讃えてもらいたくて焼身するのだ、と言う人がいますが、彼らはそんなことを考えていません。宗教、文化、言語の面で虐めぬかれ、追いつめられて焼身しているのです。

追いつめられた末に、私はもうここまで中国人にひどい目にあった、私がここで焼身したら、他の人たちの役に立つかも知れないと考え、他の人たちが苦しまないですむようになればと思って、自分がこれほどのことをすれば、他の人たちは苦しまずにすむと思ったのではないでしょうか。それはある意味ではすばらしい行為とも言えるけど、本当は残念なことで、悔やまれます。チベット人がいくら焼身を行っても中国は締め付けを厳しくするばかりだからです。

80年代、90年代には私たちのようにデモをしたのはラサ周辺の人たちだけでした。カムやアムドの人はデモをやりませんでした。昔は分かっている人は少なくて、若い人たちは分かっていなかったのです。カムやアムドの人たちは知らなかったのです。だまされたままでした。ラサ周辺の人たちだけが、本当のことを知っていてたくさんデモを行ったのです。あの当時、80年代、90年代にカムやアムドの人たちも一緒に蜂起することができていたら、きっと状況は変わっていたと思うことがよくあります。今では、益々中国人が入ってきて、鉱山開発など、あらゆる面で私たちの土地をわがものにしています。

2008年以降、カムやアムドのチベット人も一致団結しているように思います。カムも立ち上がるし、アムドも立ち上がります。昔は年寄りだけが分かっていましたが、今は若い人もみんな状況を理解しています。焼身する人の中には中国に教育されて育った16歳や17歳のティーンエイジャーもいますが、彼らもちゃんと本当のことを知っているのです。そして、みんな団結している。そういう意味では2008年以降の方がいいように思います。

また、私たちのころは世界がチベットに注目するということもありませんでしたが、今では世界中の人たちがチベットに関心を持ってくれていると感じます。だから、本土の人たちも、実際の効果は分かりませんが、とにかくチベットの真実を訴えようとデモや焼身を続けているわけです。期待しているのです。

今、刑務所にいる政治犯はほとんどカムやアムドの人でしょう。ウツァン(中央チベット)の人はいないに等しいでしょう。ウツァンは厳しいのです。昔私たちがデモをやった後からずっと厳しく監視されています。中国人も多く、役所や役人も多いのです。カムやアムドでは中国人の役人がいるのは県までで、村にはいないので監視も薄いのです。今、中国はあわててカムやアムドでも役人を増やし、監視のために村に送っているようです。

今の若い人たちは外国から発信されるニュースを聞いている人もたくさんいます。このようなニュースが聞けなければ、本当のことを知ることは難しいでしょう。外国でチベット支援のデモが行われていることも知っています。政治的関心が高いのだと思います。情報が電話やインターネットですぐに入ってきます。iphoneもスゴイと思います。世界中でたくさんの人たちが自分たちのために立ち上がってくれているのを知っています。他の民族の人たちが自分たちに関心を持ってくれていると思うと自分たちもやる気になります。団結の助けにもなっていると思います。私たちのころは外国からの支援もなく、力も出し切れませんでした。

希望はあるかと聞かれると、ダライ・ラマ法王が「非暴力の闘いを続ければ、希望はある」とおっしゃれば、その時は「希望はある」と思うのです。でも、こんなにひどい弾圧を受け、たくさんのチベット人が犠牲になっているのに、全く変化の兆しがありません。それを思うとどうしたらいいのか分からなくなります。とにかく中国が変わらなければ変わらないと思います。時が経てば、必ず状況は変わるはずです。この世は無常ですから。人も死にますし。






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2015年07月22日

映画『ルンタ』補足編:ダムチュ・ドルマの証言、前半

_DSC8830ダムチュ・ドルマ。

7月18日から渋谷のシアター・イメージフォーラムで上映が始まったドキュメンタリー映画『ルンタ』、その中で中国当局の拷問等についてダラムサラに住む4人の亡命チベット人が証言している。映画の中ではそのほんの一部が紹介されているだけであるが、実際には4人に長いインタビューを行っている。

映画への補足の意味で、これから何回かに分け、私が聞いた彼らのインタビューをすべて紹介しようと思っている。

まず最初に映画の中で激しい拷問に耐え続け、デモを行ったことを「何も後悔していない。互角に闘えたと思っている」と語る元尼僧ダムチュ・ドルマの話を前半・後半に分けて紹介する。

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ダムチュ・ドルマの証言

子供の頃

私は1976年にラサの北、バスで3時間ほど行ったペンポ地方のルンドゥップで生まれました。ラサからキチュ川を遡り、ガンデン僧院の手前にあるタクツェで橋を渡って平原を抜け、大きな谷の奥まで行ったところにある村です。家には数頭のヤクや羊もいましたが主には農業を営む家庭でした。4人兄弟で兄、姉、私そして妹がいました。母は尼僧でしたが、文革の時、強制的に還俗させられたそうです。家には尼僧である母の姉も一緒に住んでいました。

家にはかなり広い畑があり、大麦、小麦、ジャガイモ、豆、大根を作っていました。家畜もいました、十頭ほどのヤクと数十頭のヤギと羊、それに数頭の馬がいました。でも、遊牧民のように何百頭ものヤクを飼って、テントで暮らすという生活は知りません。私たち子供たちの主な仕事はこの家畜の面倒をみることでした。それは楽しい仕事でした。毎朝、近所の子供たちと連れ立って、家畜を丘の上の方へ連れて行きます。ドッキという大きな牧羊犬もいっしょです。朝、みんな昼食用のお弁当を持って行きます。もっとも、ツァンパ(麦こがし)だけということが多いのですが、時にパンやカプセ(揚げおかし)、蒸かしたジャガイモなどを持って行きます。家畜は沢山いないので、ヤクにはすべて名前が付けてありました。慣れているので、どこかにいなくなるということもなく、仕事は楽でした。

歌を歌いながら家畜を追って丘や川の上流に向かいます。決まったところに着くと、後は夕方家畜と一緒に家に帰るまで仕事はありません。ドッキが見張りをやってくれます。私たちは遊ぶだけです。昼になれば、ヤクの糞等で火を作り、お茶を湧かしてお弁当を食べます。川があれば川で遊びます。動物の骨(羊の足首の骨)を集めてアプドォという遊びをよくしました。これを放りなげたり、当てっこして遊びます。草原が一面お花畑になるころには寝転んでるだけで気持ちよくなりました。花輪もよく作りました。冬でも家畜をつれて行きました。凍った川で滑って遊ぶのが好きでした。その他、朝、家畜からミルクをしぼることと、夕方ヤクの糞を集めることが仕事でした。子供の頃は何も大変だとおもったことはありませんでした。何でも楽しく歌を歌いながらやっていました。

村には4年までの小学校がありました。兄だけは学校に行き、その後もラサの中学校で勉強したというので、その学校の先生をやっていたことがあります。先生もそんなもので中国語とチベット語を教えるだけでした。私も10歳のころ一度学校に行き始めたのですが、すぐに止めてしまいました。村で子供を学校に行かせる余裕のある家は少なかったのです。

12歳か13歳の時、ラサの金持ちの家に住み込みのお手伝いさんとして働くために送られました。私は最初から嫌でした。私は子供のころからひどい恥ずかしがりやでした。インドに来てはじめて知らない人とも話ができる様になりましたが、なかなか人に慣れない性格でした。ですから、ラサの知らない家に送られたときにはひどく心細くなり、家の人にも慣れなくて、1ヶ月ほどで我慢できず家に帰ってしまいました。ラサの街には大勢の警官や軍隊がいて、朝から晩まで街中のスピーカーから大きな音で共産党の話が繰り返されていました。うるさいし、怖いしでラサにはいれないと思いました。

尼僧になる

16歳の頃、尼僧になりたいと両親に言いました。母は昔尼僧でしたが共産党により強制的に還俗させられたことを悔しがっていました。尼僧の生活は楽しかったといってました。家には尼僧の叔母もいたし、毎日お経を上げていたので物心ついた頃から尼僧になりたいと思い始めていたのです。80年年代の中頃から中国によって一度は壊された僧院や尼僧院を建て直すことが許可されるようになりました。新しく僧侶や尼僧になる若い人が周りに増えていました。赤い衣を着た姿はかっこいいと思っていたのです。両親は喜んで受け入れてくれました。こうして、私は近くにあったシャル尼僧院で出家しました。

シャル尼僧院にはそのころ90人ほどの尼僧がいました。そのころの僧院はどこも建て直すことが主な仕事で勉強はお経を覚えることぐらいでした。私は仏塔を作る仕事に回され、3年間に大きな仏塔を6、7基造りました。文革が終わり一応宗教が復活しましたが、まったく自由になったというわけではありません。特に、80年代終わりからラサでは、僧侶や尼僧によるチベット独立を求めるデモが頻発していましたから、私たちの尼僧院にも愛国再教育班というチームが度々やって来て、強制的に政治教育を受けさせられ、共産党に忠誠を示すことが強要されました。従わないときにはひどい暴力を受けました。尼僧の数も制限され、お堂や仏塔の数も制限され、追い出される尼僧がいたり、お堂や仏塔は村人たちの寄付により建てられているのに多過ぎると言って壊されたりもしました。

尼僧院に入った頃から急に政治的関心が深まりました。ラサで僧侶や尼僧たちの政治的デモが度々起こっていたからです。仲間の尼僧たちもそのことばかりを話題にしていました。父や母からかつての自由でみんな幸せだったころのチベットの話を子供の頃から聞いていました。その頃、セラ僧院の僧侶が各僧院に秘密裏に送った手紙を見ました。その中にはチベットの歴史、中国の侵略、文革、ダライ・ラマ法王等について詳しく書かれていました。また、一方では役人や警官たちが行う愛国再教育の内容から、中国がどれだけ嘘の歴史を作り出しているかを知りました。すべてのチベット人が共産党により苦しめられ続けていることを知りました。ダライ・ラマ法王さえお帰りになればすべてがうまく行くと思っていました。

私たち僧侶や尼僧は出家した身であり、家族はいないことになっています。他の有情の幸せのために命を捨てることもいとわないというお経をいつも唱えています。ラサやラサの周りの僧院や尼僧院の勇気ある僧尼は次々とデモに向かっていました。順番が回って来るのを待っているようなものでした。

1994年の夏、シャル尼僧院の尼僧5人がラサのパルコル(ジョカンを回る右繞道)でデモを行いました。その後、大勢の役人と部隊が尼僧院に押し掛け、毎日政治教育が行われ、様々な嫌がらせを受けました。私たちもこれに反発し、みんなで石を公安の車に投げたりしました。すると今度は尼僧院が包囲された。食料を手に入れることができず、1ヶ月間ツェンパだけでしのいだということもありました。

デモ、そして拷問

1995年の2月25日、私は19歳になったばかりでした。尼僧院の他の仲間7人とともにラサのパルコルでデモを行いました。最初、ジョカンの前でやろうとしたのですが、声を上げる前に警官に追い出させてしまいました。しかたなく、一度南側にあるカチェラカン(モスク)の方に行き、そこからパルコルに出ました。夕方でパルコルは巡礼者で一杯でした。パルコルに出るとすぐに、私たちは大きな声を上げながら夢中で走りました。「チベットに独立を!チベットには人権が必要だ!中国人はチベットから出て行け!ダライ・ラマ法王帰還!」と叫んだのです。

走り、叫ぶことができたのはほんの数分間だけでした。すぐに周りにいた私服警官や制服の警官が大勢飛んで来て、殴り倒されました。その後も1人につき3〜5人がよってたかって私たちを警棒で殴り、蹴飛ばしました。頭から被っていた袈裟を取られ、それを声が出ない様にと猿ぐつわとして口に押し込まれました。近くのパルコル派出所に引きずり込まれ、小さな部屋に押込められました。15分ぐらいして2台の車に乗せられ、グツァ刑務所に連れて行かれました。

1人1人別々の小部屋に入れられ、服をすべて脱がされました。代わりの服が渡され、その日はそれだけでした。夜だったからでしょう。次の日から尋問が始まりました。

「お前たちはなぜデモをしたのか?誰に指示されてデモをやったのか?お前たちはまだ若いから、チベット独立がなにを意味するのか分からないのだ。誰に指示された。名前を言え」と言われました。私は「誰に指示されたわけでもありません。チベットは自分たちの国なのに、中国により宗教の自由が奪われています。チベットには自由はありません。何をしても中国人に邪魔されます」そんな風にいいました。

そして「私たちがチベット独立と叫んだのは間違っていません」というと殴られそうになりました。「間違いだったと認め、誰それから指示されたという名前を言え。自分は指示されただけだと言え。そうすれば解放しよう」と言われました。そう言われて「私たちは間違っていません。私たちには後悔はありません。私たちは真実に従っています。私たちには国と自由と人権が必要です。ダライ・ラマ法王は私たちの根本のラマであり、チベットを治める方だから帰国して頂きたいのです」と言いました。すると突然殴られ、それから拷問が始まりました。

最初は色んな棒で殴られ、それから何度も電気棒を当てられ、椅子で殴られたり、服を掴まれてドアに叩き付けられたりしました。意識が朦朧としました。彼らは疲れると休んでお茶を飲んだりタバコを吸います。その時はお茶を顔を掛けられます。タバコを押し付けられます。

「お前をそそのかした者の名前を言え」と言うのです。「私たちは自分の意志でやったのであって、誰にも指示などされていない。自分の国がどういうものか、自分が誰であるか、すべて分かっています」と言いました。すると、「それは嘘だ。誰かがそそのかしている。ダライ・ラマに行けと言われたのか?あるいは他の誰かか?」と言うのです。このような尋問と拷問は毎日ではないが、数日ごとに行われました。それが6ヶ月間続いたのです。

同じことが延々と続くのです。時々担当者が変わりますが、聞くことは一緒でした。中には特にひどい拷問をする人がいました。チベット人も中国人もいましたが、軍人はひどいことをします。電気ショックを繰り返し、熱湯をかけられ、踏みつけられ、椅子を投げつけられ、手にするあらゆるもので殴られました。まるで遊んでいるみたいでした。

やられるままに拷問を受け、指図した者の名前を言えと言われても、どんなに殴られても、「自分の意志で来た」と繰り返すのです。拷問されればされるほど肝がすわり、勇気が湧いて来るのです。心の中で「殺すなら殺せばいい。死んでもいい」と思っていました。私たちはデモに行くことを決心した時から、死ぬかも知れないと思い、生きて刑務所から出ることができるとは思っていませんでした。死ぬかもしれない、それでもいいと決心して出かけたのです。両親とももう会えないと思っていました。

まわりには長年苦労し続け、年老いた老人が沢山いました。尼僧院の先生も年老いていました。ダライ・ラマ法王がもう一度チベットに帰って来られる日が必ず来ると、それだけを希望として多くの苦しみを耐えてきた人たち、彼らの望みを叶えたいと願い決心したのでした。どれだけ拷問を受けても、止めておけばよかった、行かなければよかったなどと思ったことは一度もありませんでした。何があっても、毅然とした態度で語り、拷問されればされるほどに彼らに打ち勝ちたいという気持ちになって来て、もう決心はついている、殺すなら殺せ、何でもすればいいと思うのでした。

6ヶ月間ずっと独房に入れられていたので、一緒にデモを行った仲間とはまったく話をすることができませんでした。しかし、自分はデモを最初にやろうと言ったのは私だと言いました。実際はもう1人の尼僧と私が2人で最初に相談し、他の6人は後で仲間に加わったのでした。6ヶ月後に裁判があり、私には6年の刑が言い渡されました。もう1人の尼僧も6年でしたが、彼女は最初に私と一緒にデモを計画した友人でした。他の6人は4年の刑でした。

タプチ刑務所

刑を受けタプチ刑務所に送られました。そこは恐ろしいところとして有名でした。拷問に終わりはありませんでした。タプチに入れられて最初の4ヶ月は太陽の下で朝早くから、まるでチベットによくあるソーラークッカーのように立たされ続けました。朝太陽が出ると、太陽に向かって顔を向けて立たされるのです。朝から昼食まで、昼食の後夕方まで。ただそのまま立っているだけなら大したことではないでしょう。直立不動の姿勢を保たなければならないのです。両脇に新聞紙を入れられます。力を入れてないと紙が落ちます。すると激しく殴られます。後ろから不意に紙を抜かれることもあります。力を入れなていないと抜かれるのです。抜かれると、殴られます。

頭にはもちろん帽子を被っていないし、強い日差しの中でめまいがして倒れる人もいます。寒い季節になると手や足の指が凍り付き倒れる人もいます。するとすぐに蹴飛ばされ、踏みにじられます。そんな仲間を助けてあげたくてもできないのです。冬は日差しがすごく強いです。朝は寒くて昼は日差しが強い。顔は真っ黒になってしまい歯だけが白いんです。家族との面会は最初の6ヶ月は許可されませんでした。7ヶ月目に初めて面会できましたが、家族は私が誰だか最初分かって貰えませんでした。痩せて、髪は長いし、顔も真っ黒だったからです。

4ヶ月間立たされ続けた後、今度は兵士が来て中国語で軍隊式の行進や足踏みのやり方を教えられます。私たちはみんな中国語が全く分かりません。言葉が分からないので間違ったりします。あっちを向け、こっちを向けと言われても間違う人がいます。60人ほどいましたから沢山間違う人がいます。すると、間違った人は殴られます。ひどく殴られます。兵士はみんなそうで、私たちを人間とは思っていないのです。人間ではなく犬と思ってるわけです。遊んでいるのです。

タプチ刑務所に収監されている人は全部で7つのグループに分けられていました。男性が6グループ、女性は1グループでした。男性は政治犯と窃盗犯などは別にされていましたが、女性は1グループしかなく、政治犯もその他窃盗犯とか殺人犯も一緒にされていました。全員で100人以上いました。その内政治犯が70人ぐらいでしょう。ほとんどは自分のように尼僧でした。その頃デモに行く女性はほとんど尼僧でした。夜は12人つづ別れて寝ますが、昼間は仲間と話すこともできました。政治犯たちはみんな仲がよく、常に団結し、できるだけ助け合っていました。みんな仲がよかったことで強い気持ちを持ち続け、頭もおかしくならず、耐え続けることができたのだと思います。

タプチでは冬になると毎年、運動会の準備だといって軍事訓練のようなことをやらされます。何ヶ月も空きっ腹で同じようなことをやらされ最後はたった15分の勝負です。その時はウディドゥ刑務所の囚人も加わります。囚人同士の競技です。この運動会の各優勝者には本当は賞金がでているそうですが、私たちには1等、2等、3等と書かれた紙が渡されるだけです。賞金は役人の懐に入るだけです。

競技の後には宣言の時間というものがあります。「私たちは本心をいうことを誓います。思想改造いたします。新しい人間になります」という宣言をやらされます。これを刑務所側は一番重要視していました。他に「ダライ・ラマは悪人です」というのもありました。私たちはその中国語は分かっていても口をつぐんだままです。すると暴力が始まります。口に棒を突っ込まれ、なぜ言わないのだと言われます。「中国語は分かりません」というと「チベット語で言え」と言われても「言いたくありません」と答えます。

あと歌を歌わされます。歌はいろいろありましたが、すべて共産党を賞賛するものばかりです。私たちは歌は全く練習しません。分からないふりをして覚えないのです。チベット語の歌詞を渡されても歌わないのです。宣言を行わなかったり、共産党を讃える歌を歌わなかった政治犯は次の日から拷問を受けます。


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2015年07月17日

<焼身続報>7月9日焼身の僧侶・死亡確認 遺書全訳

11209482_10153172375947917_4487599589174217119_n僧ソナム・トプギェルの遺書

今月9日にジェクンド(ユシュ、ケグド、玉樹)のケサル広場で焼身を行った僧ソナム・トプギェル(27)が、翌日、西寧の病院で死亡していたことが明らかとなった。地域の情報網が遮断されていたが故に昨日まで情報は伝わることがなかった。彼の焼身後、家族も数日間警察に拘束されていたという。さらに、彼の焼身を映したビデオと彼の遺書も伝わった。

ダラムサラ在住のジェクンド出身者ロプサン・ツェリンが伝えるところによれば、「ソナム・トプギェルが焼身した後、彼の家族4人が当局に拘束された。家族の内、誰が拘束されていたのかは分っていないが、13日には全員開放されたという。その後、家族が彼の僧坊を片付けていた時、日々唱えていたと思われるお経の上に遺書と思われるものが見つかったのだ」という。

彼の遺書の最初には「中国政府指導者及び、特に地域の少数民族担当官へ」と書かれている。中国政府宛に書かれた焼身者の遺書はこれが始めてである。その中で彼は、「現状を訴える場所がどこにもないが故に、命をかけて世界と中国政府に訴える」と書いている。また、自分たちの望みは「ダライ・ラマ法王が再びポタラ宮殿にお戻りになることだ」と明記し、チベット人同胞にたいしては「無関心を装うことなく、団結し正義の闘いをつづけるように」と訴えている。

以下、その遺書の日本語全訳:
中国政府指導者及び、特に地域の少数民族担当官へ。

私は玉樹チベット族自治州ナンチェン出身、27歳、ナンチェン・タシ家の次男である。現在ゾンサル僧院で学んでいる。

世界の人々が知るように、中国政府は少数民族の現実に目を背け、硬直化した弾圧政策を行い、民族の宗教、慣習、文化を根こそぎにし、環境を破壊するのみである。言論の自由はなく、状況を政府に訴える場所はどこにもない。あえて民衆が苦境を訴えようとすれば、弾圧と逮捕が待っているだけである。民衆の訴えを考慮する政策は皆無である。僧院を弾圧し、僧侶、尼僧を追い出そうとする。結局、あなたたち政府は少数民族を根こそぎにする政策を押し進めているとしか思えない。

我々チベット人全員の望みはダライ・ラマ法王を再びポタラ宮殿にお招きすることである。我々には自分たちの現状や訴えを聞いてもらえる場所がどこにもないが故に、私は命を捨てて、世界と特に中国政府と中国人に対しこうして我々の現状と正義を訴える。

骨肉を同じくするチベット人同胞たちよ、あたかも何も見聞きしなかったの如くふるまってはならない。団結し、力を一つに合わせ、心を強くし、我々の目的が達成されるまで正義の闘いを続けてほしい。

ソナム・トプギェル、2015年7月1日、暁に。


参照:7月16日付けTibet Times チベット語版
7月15日付けRFA英語版

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2015年07月14日

テンジン・デレック・リンポチェの死を悼む集会に中国当局が発砲/死期不明

11201174_10153492201574802_4109128435683121142_nRFA(ラジオ自由アジア)とTCHRD(チベット人権民主センター)が現地からの報告として伝えるところによれば、7月12日までに死亡したと報道されるリタンの慈善家テンジン・デレック・リンポチェの死を悼み、遺体の引き渡しを要求するために13日、リタンの隣町ナクチュカ(四川省甘孜蔵族自治州雅江)に集まっていた千人以上の住民に向かい当局が発砲したという。

昨日、7月13日、リンポチェを慕う地元のチベット人たちはリンポチェが創建した僧院の一つがあるナクチュカ県のオトック村に集まりリンポチェの死を悼む法要を行った。さらに、近くのタンカルマ郷の政府庁舎前には千人以上の住民が集まり、リンポチェの遺体を家族に引き渡すことを要求するデモを行った。これに対し、当局は群衆を蹴散らすために催涙弾を使い、さらに実弾を発砲したという。現時点では、実際にどれほどの人が負傷したのかは分っていない。

現在、ナクチュカの情報網は切断され、リタンとナクチュカを結ぶ国道は閉鎖、付近には大勢の部隊が配備されているという。

リンポチェの死は地元をはじめ世界中のチベットサポーターに強いショックを与えた。これからも彼の死を受け、中国政府に対する抗議活動が活発化すると思われる。

いつ死んだのか?

南インドの僧院に所属するリンポチェの親戚であるゲシェ・ロプサン・ユンテン師は「リンポチェが今年死んだのか、去年死んだのか?どこで死んだのか?誰も言うことができない。この2年間誰も面会を許されていないからだ」という。

彼が収監された後、家族に面会が許されたのは13年間でたった一度だけでる。2013年11月、リンポチェの姉妹2人が面会を許されているが、その時リンポチェは「非常に衰弱しており、心臓病を煩っているらしく、身体の一部が震え続け、何度も意識が薄れていた。足も引きずっていた」と報告されている。

信頼できる情報によれば、7月2日、リタン県の3人の役人がリンポチェの姉妹であるドンカル・ラモとソナム・デキと接触し、彼らと一緒にリンポチェのことを相談するために成都に一緒に来るようにと命令された。2人の姉妹は成都で何の情報も与えられず10日間待たされたという。

彼女たちはリンポチェとの面会を強く要求したが、その度に「明日会わせよう」「次の日曜日に会わせよう」と引き延ばされていた。「7月12日になり、当局は『今日の午前11時に会わせよう』と言ってきたが、昼の12時(午後10時との情報もある)になり『リンポチェはすでに死亡した』と2人に告げられた」という。

13日の朝から姉妹は当局に対し、遺体の引き渡しと死亡原因を明らかにすることを要求し続けたが、当局は「今、その件で会議中である」としか答えてくれなかったという。

このことからも、リンポチェが早い時期に死亡していた可能性もあると推測されている。

リンポチェは90年代に7つの僧院を建て、ナクチュカで遊牧民の子供たちのための学校、孤児院、養老院を運営し、森林を守る運動を行っていた。仏教の指導者として何千人もの弟子を持ち、地元で絶大な人気を博す慈善家であった。

「リンポチェが無期懲役となった本当の罪は地元のチベット人たちから深く尊敬され、チベット人たちの道徳心を守ろうとしたことなのだ。チベットの言語と宗教を守ることに成功していたことなのだ」とTCHRDの所長であるテンジン・ツォモは語る。

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2015年07月13日

リタンの英雄テンジン・デレック・リンポチェ 獄中死

465「中国当局は彼の親戚に『リンポチェは危篤状態だ』と知らせた。親戚たちはすぐに刑務所に急いだ。しかし、到着したときには『すでにリンポチェは亡くなった』と知らせた」と、ある現地のチベット人はRFAに伝えた

Tibet Timesによればテンジン・デレック・リンポチェ(སྤྲུལ་སྐུ་བསྟན་འཛིན་བདེ་ལེགས་རིན་པོ་ཆེ།)は昨日7月12日、現地時間午後11時頃に亡くなったという。彼は13年間獄に繋がれ、65歳になっていた。親戚たちの懇願にも関わらず、遺体はまだ引き渡されていないという。

地元リタンの人々から英雄と讃えられるテンジン・デレック・リンポチェは2002年4月3日、成都で起こったと当局のいう爆弾事件の罪を着せられ、最初死刑、後無期懲役さらに刑期20年とされた。彼と共に逮捕されたロプサン・ドゥンドゥップは死刑判決を受け、すぐに刑を執行されている。

テンジン・デレック・リンポチェについてはこのブログでも度々報告している。彼は獄中で健康状態が悪化していたことが知られ、世界的な開放キャンペーンが行われていたが、その甲斐もなく遂に治療も受けることなく死亡してしまった。

HRW(ヒューマンライトウォッチ)は彼の裁判に関し「不正な裁判であり、当局は彼の宗教を守り、チベット社会と文化を守り発展させようとする努力を阻害するために彼に冤罪を与えただけである」「当局は彼の影響力を脅威と感じ始めていたのだ」というレポートを発表している。

9a3a4337彼の開放を求め4万人以上のチベット人が危険を承知で拇印付きの請願書を当局に提出している。北京に直訴に行った4人は拘束され、そん他多くのチベット人が彼の開放を求めたが故に刑を受けている。

チベット亡命政府の首相ロプサン・センゲは彼の死を受け以下のようなコメントを発表している。
「テンジン・デレック・リンポチェの死を知り非常に悲しんでいる。彼の健康状態が悪化していることが知られ、多くの弟子たちは健康を理由とした仮釈放を求めていた。仮釈放も行われず、面会も許可されなかったということは中国の強硬姿勢の現れである。このような対応はチベット人たちの反感を煽るばかりである」

チベットの人権団体等は彼の死亡を受け、各地で抗議活動を起そうとしている。

これまでに当ブログで報告したリンポチェ関連の記事は以下である。
テンジン・デレック・リンポチェの解放を求める直訴状
テンジン・デレック・リンポチェを救うために
獄中のテンジン・デレック・リンポチェに姉妹が面会 <リンポチェ獄中で衰弱>
北京に行きテンジン・デレック・リンポチェ解放を直訴したチベット人4人が拘束
獄中12年目 テンジン・デレック・リンポチェ解放キャンペーン
テンジン・デレック・リンポチェの孤児院教師をしていた2人の僧侶が失踪しすでに11年

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2015年07月11日

<続報>9日に焼身した僧侶の身元判明 土地強制収容に抗議か?

10408528_543153749156693_6381604668937581872_nこの絵はカナダ在住の日本人画家井早智代さんが焼身した僧ソナム・トプギェルのために描かれたものである。

7月9日の夕方、ジェクンド(玉樹)の街の中心にあるケサル広場傍で焼身抗議を行った僧侶の身元が判明した。名前はソナム・トプギェル(བསོད་ནམས་སྟོབས་རྒྱལ།)、26歳。出身はカム、ナンチェン。デルゲにあるゾンサル僧院に所属する僧侶である。彼は病院に運び込まれたが、その後の消息は途絶えたままであり、生死は依然不明である。

彼の父親であるナンチェン・タシは地域の商人として有名であり、かつてはジェクンドの中心街にホテルと商店を所有し、またチベット文化、言語、宗教を守ることに熱心であり、貧しい学生たちのスポンサーをしていたという。2010年4月14日にジェクンドを襲った大地震でも、彼のホテルや商店は壊れなかったが、2012年に政府は新都市計画に伴う道路拡張を理由に彼のホテルと商店、自宅をすべて破壊したという。これに抗議したナンチェン・タシは短期間ではあるが当局に拘束され、拷問を受けたと言われる。

匿名希望のある地元のチベット人がRFAに伝えた話によれば「地元の人たちは僧ソナム・トプギェルの焼身は、彼の家族が中国支配の下でどれほど苦しめられて来たかを示すために行ったのであろう」と推測しているという。

TCHRD(チベット人権民主センター)によれば「ジャクンドでは地震後、中国当局の度重なる土地強制収容に伴い、緊張と不満が続いている。中国当局と開発業者が結託し、チベット人が何世代もの間所有してきた土地が次々に強制収容されている」という。

焼身事件が発生した後、当局は直ちに街中に武装警官を配し、すべての情報網を遮断した。



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2015年07月10日

<速報>ジェクンド(玉樹)で新たな焼身 内地142人目

11737805_1628387050781841_4100412747383869939_n昨日(7月9日)、現地時間午後5時頃、青海省玉樹チベット族自治州玉樹県玉樹(ジェクンド/ケグド/ユシュ)の街の中心部にあるケサル広場で1人のチベット人僧侶が、中国政府のチベット政策に抗議するために焼身した。彼は病院に運び込まれたとの情報があるが、病院に運び込んだのが警察なのか、地元のチベット人なのかは明らかではない。また、焼身者の生死、氏名、年齢、所属僧院名なども現在玉樹一帯の情報網が遮断されており、未だ不明である。

玉樹(ジェクンド)は2012 年4月14日、大地震に襲われ、政府発表でも3000人の犠牲者が出た場所である。その後の復興の過程で、膨大な義援金が世界中から集まったにも関わらず、現地のチベット人たちは3年間もテント生活を強いられ、また政府が進める都市計画により多くのチベット人が土地を取り上げられた。これまでにこの街では土地強制収容に抗議する焼身が2件起こっている。

チベット内地での記録された焼身者の数はこれで142人となった。インドとネパールにおける焼身者5人と合わせると147人となる。5月27日に甘粛省甘南州ツォネ県で2児の母、サンゲ・ツォ(36)が焼身・死亡して以来の新たな焼身である。今年に入りこれでに6人のチベット人が中国政府に抗議するために焼身したことになる。

この3日前の7月6日はダライ・ラマ法王の80歳の誕生日であった。世界中で法王の誕生日を祝う盛大なイベントが開かれたが、内地でも、当局の厳しい規制、監視にも関わらず、カムやアムドを中心にチベット人たちがダライ・ラマ法王の写真を掲げ法王の長寿を祈るというイベントが各地で行われた。

焼身者たちの一様の訴えは「チベットの自由とダライ・ラマ法王のチベット帰還」である。今回の焼身は法王誕生日を契機にチベット内で再び盛り上がった法王帰還への思いが募った結果とみることができるかも知れない。

参照:7月9日付けRFA英語版
同チベット語版
VOAフェースブック

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