2008年09月

2008年09月30日

ダライラマ法王台湾人グループに法話

1bd55cce.JPG今日から5日間、法王はツクラカンにて台湾人グループのリクエストに応え教えを行われる。

テキストは二冊、ナーガルジュナ(竜樹)の「菩提心釈論」、
カマラシーラ(蓮華戒)の「修習次第・中編」

はじめに法王は約600人の台湾人に向け「ニイハオ!」と挨拶された。
そして「かつて台湾には二度行ったことがある。
必ず何度も訪問したいと思っていた。
しかし2002年から中国との会話が始まってからは、なかなか行くことができなくなった。
しかし今もいつでも訪問したいとは思っている。
近いうちに行けるようにと私は祈っている。
だから皆さんもそうなるよう祈って貰いたい」
と言われた。

「仏教とは何かをよく勉強して知ることが大事だ。
三宝についてもよくよく知ってから初めて信を起こし帰依すべきだ。
お経を唱えるときには意味を解って唱えるべきだ。
さもないと祈りのお経だけで利益があるとは思えない。

家を建てるときには、始める前には図面を描いて、すべてを決めてから始めるであろう。
そのように悟りを得ようとする者は、最初の一歩から最後までの道について。出来るだけ完全な知識を得たのちに歩き始めるべきなのだ。
だから私はいつも仏教とは何かを説明することに努めているのだ」
と話され、
まずは仏教と他の宗教の違いを説明されたのち、ナーガルジュナのテキストに入られた。

菩提心を3つに分け
1、顕密共通の菩提心。2、無上ヨーガ以外の密教の菩提心。3、無上ヨーガの菩提心とする。
このうち3番目の菩提心を最上とする。
空を対象として見る心の微細さにおいて優っているから。
最終的なクリアーライトの心によって空を見るからと説かれる。

その時の空の見解も、説一切有部、経量部、唯識派の空観を超えた中観派のそれが最上である、として少しそれぞれの違いについて説明された。

この身と心を離れたあたかもこれらを支配しているような、永遠で唯一、独立した<我>は認めない(人無我)が、外の物質界の究極の最小単位である極微(原子)、及び内の最小単位である意識の一刹那は実体として存在すると観る説一切有部、経量部
を超え、
外界の現れはすべて内なる心の反映、意識の本質として成立していると説く唯識の見解を知るべきだ。
しかし最終的には意識、心と呼ばれるものも実体のない幻のようなもの、始まりも終わりもなく捉えようのないもの、名のみの存在であると知る中観派の見解に至る。
名も空、悟りも空、空も空と理を明らかにされた。

第40偈
心は単なる名前である
名前以外には何もない
唯識派は名のみと見ているが
名前にもその自性はない

第41偈
内にも、そして外にも
あるいはその両方の間にも
勝利者たちは心を見いだせなかった
だから心は幻のような本質のものである

第42偈
色や形の分類
主体と客体
男性、女性、両性などの本質は
心には住していない

第43偈
要約すると仏陀たちは
見たこともないし、見ることもない
自性を持たないという自性を持つものを
一体どうやって見るというのか?

第45偈
認識されるものと認識するもの、という様相を持つ心を
如来たちは見ていない
主体と客体の存在するところには
悟りはない

第46偈
特徴もなく、生じることもない
存在するようになったのでもなく、言説の道もない
虚空と菩提心は
さとり(究極の菩提心)と不二の特徴を持っている

(マリア訳)

ーーーー

今回は同時通訳の前回と違い、法王が話された後、通訳が入るというスタイルだったので少しのんびりムードの講義でした。

でも最初に法王は「二回目の参加者とかは眠くなるかもしれないね。でもそういう人を見たらすぐに小突いて目を覚まさせるように!ヒヒヒ!」
と指示を与えていらっしゃいました。










rftibet at 17:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)ダラムサラ町の出来事 

2008年09月29日

9月28日ツクラカンで法王の長寿を祈るテンシュクが行われた。

28.9.08ツクラカン、テンシュク1
昨日28日、ダラムサラのツクラマンにてダライラマ法王の長寿を祈る<テンシュク>の法要が執り行われた。

今回の施主はカム、ナンチェン出身者たちだった。
凡そ200人ほどが手に手に仏像やら、お経やらを供養のものとして捧げ、法王の前を通過した。

法王の長寿を祈るのではあるが、法王は自ら白ターラ尊になられ皆に長寿を授けられる。

この日、儀式の間中、写真を撮ってよかったので法王ばかり沢山撮ることになった。

写真ばかり法王4枚、カルマパ一枚載せます。

28.9.08ツクラカン、テンシュク,法王2












28.9.08ツクラカン、テンシュク,法王3













28.9.08ツクラカン、テンシュク,法王4














28.9.08ツクラカン、テンシュク,カルマパ








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2008年09月27日

法王の教え3日目、1987年9月27日ラサ蜂起記念日

509da702.JPGラムリン(悟りへの階梯)の教え3日目

法王のティーチングの場合、一日の内容があまりに濃く、深く、多岐に渡るためいつもノートを取った後には、それを眺めて呆然としてしまう。

いつか時間がある時に、と思いつつこうして年を取るのですね、、、

ーーー

まとめて「仏教とは如何なる教えか?」について話された。
話の終りに「これで皆さんはこれから誰かに<仏教とは何か?>と聞かれたときに答えられるでしょう」とおっしゃいました。

最後に密教の話を短くされました。
大乗顕教の道を<因>として、<果>を行じる密教の道がある。
<果>としての二身{自性身(法身)、変化身(報身、応身)}を先取りして行ずる。
はじめに、空の瞑想(等引智)の中から曼荼羅とその住人である神仏を現す。
何れにせよ、まずは空を見る心を得なければならない。
様々な空の見解の中でも中観帰謬論証派の言うところの、「名のみ」の空の見解によるものが最上だ。
密教を行ずることにより、所智障を効率よく断ち悟りに素早く達するというわけだ。

テキストが終わった後、ウパサカ戒としての五戒を説明し、授けられた。
願の菩提心を起こす儀式をされ、続いて観音の潅頂を授けられた。

これで午前の部が終わった。
一般の人たちはここまでだった。

特別にシンガポールと日本韓国からの参加者のみは、午後から質疑応答、そのあとグループ記念写真があった。

質疑応答の最後に法王は改まった口調で、中国人が大多数のシンガポールの参加者に向い、英語で次のように話された。

「このところ中国政府は私やチベット人が<反中国>を標榜しているかの如きイメージを広めている。
そのせいか私が欧米を訪問するときには必ず中国人が抗議のデモを行う。
私はこれを見て悲しく思う。
私は決して<反中国主義者>ではない。私は常に中国を尊敬している。
歴史ある、かつてたくさんの文化を育んできた、文字を大切にする人々だ。
特に料理は素晴らしい!世界中どこにいっての中国料理はある。

確かに、今の中国共産党の不正義には反対する。
チベット人に対する弾圧政策に反対する。
しかし一度も中国人に反対したことはない。

チベットは中国の隣人だ、長く友人として付き合ってきたこともある。
我々は中国の「ベストフレンド」だと常に思っている。
これをどうか知っておいてほしい」と。

拍手が沸いた。

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<1987年9月27日蜂起記念日

今日の夕方からは9−10−3(元政治犯の会)主催のキャンドルライトビジルが行われた。

この日は1987年9月27日、デブン僧院の僧侶21人に先導された多くのチベット人が59年以来最大規模のデモを行った記念すべき日だ。

写真はツクラカンの前に集まった、今夜のキャンドルライトビジル。
それにしても集まりが少なすぎるような、、、
3月の熱狂はどこに行ったのか?






rftibet at 23:04|PermalinkComments(0)TrackBack(0)ダラムサラ町の出来事 

2008年09月26日

キルティ僧院僧侶50人が撲打される。

88afc425.JPG今日も法王のラムリン(悟りへの階梯)の教えは午前、午後と続けられた。

仏教と他の宗教の違いを<空>思想にからめて説明され、マハヤーナ(大乗仏教)とテラバーダ(南伝仏教)の違いを<空観>の差異によって説明され、帰依、ラマを選ぶ基準、弟子の基準、菩提心、六波羅蜜について説かれた。
最後に禅定と智慧を極めた後の止観双運のテクニックについて詳しく説かれ、テキストを終了された。

チベット語が主体でしたが時々英語にスイッチされることもありました。

何時になく力のこもった、スピード感のある、笑一杯の講義でした。
しかし、大事な要点のみは詳しく丁寧に説明されました。

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<アバ、キルティ僧院僧侶50人が武装警官により暴行を受ける>
http://phayul.com/news/article.aspx?id=22879&article=Chinese+armed+police+renew+repression+at+Kirti+monastery+in+Ngaba+townフリー・チベット・キャンペーンが確かな筋からの情報として伝えるところによれば、
9月24日、アムド、アバにあるキルティ僧院の僧侶50人が武装警官隊により激しい暴行を受け、内4人は重傷を負い病院に運び込まれた。

アバは今年3月16日のデモ以来厳戒態勢の下に置かれている。
このときのデモでは、当局が群衆に向かって発砲し、目撃者の証言によれば少なくとも30人が死亡したという。
(たくさんの犠牲者の死体写真がダラムサラにもすぐに送られて来た)

事の起こりは、まず一人のキルティの僧侶が、外出許可を受けて外出し、夕方帰る途中警官に止められた、彼はその場でリンチにあった。
血まみれでやっと僧院にたどり着いた。

事情を知った仲間の僧侶50人ほどが直ちに近くの警察署に向かった。
僧侶たちは警察署で「なぜ僧侶を殴ったのか?」と聞きただした。
「それについては上司と話ができるように取り計ろう」
と警官は答えた。
そうこうするうちにその場に武装警官隊を満載したトラックが二台到着した。
僧侶達は何も抵抗しなかったにも拘らず、警官隊は直ちに僧侶たちに襲い掛かり、全員を打倒した。
内4人は激しい暴行の末、重症を負い病院に運び込まれた。
その4人は僧院長を含む僧院の責任者たちである可能性が高いという。

アバには普段2000人の保安部隊が駐留しているが、3月以降にはそれが10000人増強されている。

ーーーーーーー

情報統制が厳しく、内地からの情報は益々入りにくくなっている。
しかし、時々そこから漏れてくる出来事を見る限り、未だチベットに対する弾圧が緩められたとは到底思えない。










rftibet at 21:30|PermalinkComments(5)TrackBack(0)チベット内地情報 

2008年09月25日

ダライラマ法王の講義が始まった。

39da1234.JPG久し振りに公の場にお出になった法王でしたが、そのお顔色、立ち居振る舞い、お声からはまったくお元気そうに見受けられました。

ーーー

朝9時半より、ダラムサラのツクラカンにて法王のティーチングが始まった。
体調に鑑みてなのか?スケジュールはいつもよりのんびりムードで朝は11時半に終わった。午後も1時より2時半までだった。
いつもより午前午後一時間ずつ短縮されている。
今回の3日間の教えはシンガポールの人たちが施主だ。
華僑が中心だ。
数百人のシンガポール人が本堂の中を埋めていた。

25.9.08ツクラカン、ダライラマ法王

今回はなぜか日本人席が初めて法王庁により前もって押さえられていた。
それも相当に良い席だった。
私なども久しぶりに法王のお顔をまじかに見ながら講義を聴くことができた。
もっとも、回りの日本人たちには(いつものことだけど)FMを通して聞けるはずのマリアの日本語通訳が、電波が弱くて聞けない人が多かったようだ。
法王はこの日の午前中は英語で講義された。
これは私の経験では初めてのことだった。ダラムサラで仏教の講義をされるときはチベット語と決まっていた。
英語で話されると、もとろんスピードは落ちるのでかえってこちらは解り易くもあった。

今回は本堂とそのまわりは、ほぼアジア人種で埋め尽くされていた。
シンガポール、台湾、マレーシア、韓国に日本人だ。
もちろん日本人グループはいつものように一番数が少なく30人程だった。
25.9.08ツクラカン、日本人席

法王は「大乗仏教がチベットより早く中国に伝わっていたから、中国仏教徒には長兄としての尊敬心をもっている。しかし後から来たチベット人だが、弟子や弟のほうが知識の点では優っていることもよくあることだ、そのように仏教に関する知識においてはチベットが上かもしれない、イッヒッヒッヒッ」と最初にちょっとチベット仏教を自慢?されたりもした。
「あるアメリカの医者から<I,My,Me,Mineを連発する人ほど心臓病に罹る率が高い>という話を聞いた。仏教の無我を知れば寿命も延びるということだ。ハハハ」
とか、講義の間何度も笑わせてもらえた。
25.9.08ツクラカン、楽しげなチベット人席

午後に入り、テキストに入るとさすがにチベット語にスイッチされた。
「仏教を説くにはチベット語が世界で一番すぐれている」とコメント。
テキストはジェ・ツォンカパの作である「ラムリン・ドゥドゥン=菩提道次第集義」。これはジェ・ツォンカパの主著「菩提道次第広論」の要約版。

今日のところは、はじめに釈迦無二仏陀の心の功徳について話され、そのまま、四諦、縁起と空について自在に解説された。



rftibet at 18:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)ダラムサラ町の出来事 

2008年09月23日

獄中で抵抗歌を歌い刑期延長、リンジン・チュキの証言

かつてダプチ刑務所で抵抗の歌を歌い刑期を延ばされた尼僧として、ガワン・サンドルさんは世界的に有名だ。
その時歌ったのは14人だった。
ガワン・サンドルさんは今アメリカに居られてダラムサラにはいない。
14人のうちの二人がダラムサラにいる。
その内の一人チュキは今9−10−3の学校に通う生徒だ。ルンタの中に住んでいる。

二人に話を聞く積りだったが、時間がなくてまずは一人チュキに話を聞いた。
以下は同席したT女史がまとめてくださったものだ。

ーーーー

*リンジィン・チュキ 37歳の証言*

初めて私の前に現れたチュキラは、とても小柄で可愛らしい雰囲気の人だったので、
彼女が過酷な拷問をされたことなど信じられなかった。けれども、片足を引きずる姿がその事実を物語っていた。
以下は、ガワン・サンドル(ひとつ前の日記を参照ください)と同じダプチ刑務所で歌を吹き込んだ尼僧の一人、リンズィン・チュキさんの証言です。


チュキとサンモ、獄中歌を歌った二人右がチュキラ。左の女性はチュキラと同じ時に収容されていた、ミチュリン僧院出身のフンドップ・サンモラ。
一緒に立会い、インタビューの補足をしてくださった。





*      *       *       *

私は飛行場の近くのロカで産まれ育ち、1988年18歳の時にシュンセップ尼僧院の尼になりました。シュンセップ尼僧院は、文化大革命の影響下で一度は完全に破壊され、
私が入った当時はまだ再建の途中でした。50人ほどの若い尼と一緒に石や土を運び、
尼僧院復興のために働きました。


90年3月のデモ、そして再び・・


二年後、シュンセップの尼20人がデモに行き、全員捕まり酷い姿で帰ってきました。
中には電気棒を女性器に入れられ、ひどい後遺症が残った者、腰が打ち砕かれて
身体障害者になった者、頭を強く殴打されて15日後に亡くなった者もいました。まだ若い尼僧たちに何故こんな酷い仕打ちをするのでしょう。私は、その時は直接デモには参加しませんでしたが、そんなデモの後の惨たらしい光景に、ただ震えていました。

彼女たちが3か月で釈放されたのは、当時パンチェン・リンポチェが、政治犯に刑期を与えてはいけないとしていた為でした。ところが、その後すぐに政治教育班がシュンセップ尼僧院へやって来て、以下の3つのことを指示したのです。

1・ダライ・ラマを批判すること
2・チベットは中国の一部であると認めること
3・中国政府への忠誠を誓い、中国への愛国心を持つこと

上記のことに同意し、サインして提出しなければ、私たちは尼僧院にとどまることは出来ませんでした。けれども、私たちシュンセップの尼僧は全員それを拒否しました。そして、私は、そのうちの6人とともに尼僧院追放を覚悟の上で、デモをしにラサへ向かったのです。一緒に行ったメンバーは尼僧院での部屋が近く、最年少は16歳、最年長は22歳の若い仲間たちでした。シュンセップに駐在していた公安や委員会が寝ている夜中の12時に、私たちはこっそり裏口から脱出しました。歩いて向かったため、ラサへ到着したのは次の日の夕方でした。慌てて決行に至ったので準備は何もできず、夜は二人ずつ別々の知人宅へ泊めてもらいました。

デモ前夜は、恐怖で打ちのめされそうな思いでいました。デモをしたらその場で殺されるか、捕まって酷い拷問をされるかのどちらかなのです。それを承知で覚悟を決めたのですが、やはり決行するまでは、恐くて仕方がありませんでした。

私たちは、とにかくダライ・ラマを批判されることが辛いのです。どんなことがあってもそれだけは拒否し、抵抗しなければなりません。私は、幼いころからずっと両親からダライ・ラマ法王の話を聞いて育ちました。法王のテープを聴き、その写真に祈りを捧げてきました。仏教の先生も、みな法王を思慕しております。法王は、私たちにとって何があってもお守りしなければならない大切な存在なのです。
私たちは、仏教を学ぶために尼僧院に入りましたが、再建してもなお宗教の自由はなく、十分に学ぶことができませんでした。デモをしても結果は分かっています。それでも私たちには、自由のために抵抗するただ一つの道しかなかったのです。

デモに行く前に、6人でジョカン寺の最も聖なるジョオ像(釈迦牟尼ブッダ)の前で祈りました。「このデモが成功しますように!ダライ・ラマ法王にご長寿を!チベットの早期の独立を!」、と。

午前9時、ダライ・ラマ法王の写真と国旗を掲げ、ジョカン寺の周りを一列になって歩き、叫びはじめました。

「チベットに自由を!チベットの主人はチベット人だ!チベットはチベットのものだ!中国人はチベットから出て行け!ダライ・ラマ法王のご長寿を!チベットの完全独立を!」

周囲の人たちは公安を怖がり、一歩引いた所で私たちの様子を見ていました。5分ほど
歩いた頃でしょうか、予想通り公安が大勢で殴りかかってきました。公安は、私たち一人に対し、二、三人で寄ってたかって棍棒で殴打してきました。私たちは、瞬く間にまるで物を扱うみたいにトラックに投げ込まれ、グツァ拘置所へ連行されたのです。


グツァ拘置所からダプチ刑務所へ

拘置所へ着いたらすぐに10分ほど壁に向かって立たされ、所持品などをすべて没収されました。その後、後ろ手に縄で縛られ、大きな木にしばらくの間吊るされました。肩が脱臼しても降ろしてもらえず、私たちはあまりの痛さに悲鳴を上げながら耐えていました。そして、その状態のまま電気棒で手のひら、足の裏、そして口の中に電流を流されました。口の中に入れられときは、内臓が全部焼けるような激しい痛みでふらふらになり、16歳の少女は気を失って失禁するほどのダメージを受けました。また、一人は鉄錠門に叩きつけれ、額から大量の血を流して倒れました。まずは見せしめのため、私たちを脅すためにそのような過激な拷問が行なわれたのです。

尋問は、午前11時から午後9時までの間に何度も繰り返されました。問われる内容は
決まっていました。背後に誰がいるのか、誰の指示なのかということです。「自分たちの意思」だと答えても、みんなまだ若いので、誰かの指示に従ったに決まっていると言われ、彼らの望み通りの応えが出ない限り、殴打され同じ質問が繰り返されたのです。

忌々しい拷問は、夜の10時くらいから執り行われました。夜中に監獄の周囲を走らされたり、足をテーブルの上に置かれ、手を床に付けた逆さまの状態でいるよう強いられ、その体勢が続けられないと酷く殴られたりしました。

そんな拷問が二カ月続いたときでした。私たちは全員裁判所へ連れて行かれました。
ところが、そこにいたのは監獄のトップと裁判官だけで、もちろん公正な裁判が行われることはありませんでした。「中国分裂を企てた反逆罪」だという理由で、私を含む年上の3人が7年、下の3人が3年の刑期を言い渡されたのです。

90年12月、私たちはダプチ刑務所へ移送され、長い監獄生活が始まりました。

刑務所へ着くと、私たちは囚人服に着替えさせられ、労働と思想の変換を強要されました。
私たちの仕事は、監獄内にある野菜ハウスのための人糞を、人民病院や軍事基地の
便所から集めることでした。二人一組でリヤカーに乗せ、一日6回も往復させられましたが、公安が必ず自転車で付いてきて監視しているので、逃げることはできませんでした。糞尿腐敗タンクの中に腰まで浸かってバケツで掬わなければならなかったので、服も身体も常に糞まみれでした。初めはその強烈な臭いに嘔吐することもありましたが、5,6年同じ仕事をさせられ、臭いにも慣れてしまいました。

けれども、家族には心配をかけてしまいました。月に一度の面会の際、家族は私の体に染みついたひどい臭いを憐れみ、よく泣き崩れていました。特に両親は末っ子の私を心底心配し、バスで一時間半かけていつも駆けつけてくれました。


歌う尼僧たち

1993年のある時、私たち同じ監房にいる6人は、ラサにいる僧侶や尼僧たちを勇気づけるために何か出来ることはないかと話し合いました。そして、一般刑囚人の男性からテープレコーダーを借り、それに歌を吹き込もうというアイデアを思いついたのです。

私たち政治犯の監房は、普段はとても監視が厳しく、外部の人との接触は出来ません
でした。けれども、毎週木曜日に学習会があり、その時だけは政治犯も一般刑囚人も
男女の区別もなかったのです。看守は、政治犯にはとりわけ厳しく、一般刑囚人たちへの政治的影響を避けるためか、彼らと私たちの一切の接触を禁じていました。それだけでなく、一般刑囚人たちは、政治犯を監視し、何かあったらすぐに看守に報告するよう命じられていたのです。

けれども、テープレコーダーを貸してくれた男性は人が良く、政治犯の私たちにとても親切に接してくれました。授業の時しか会えませんでしたが、度々監視の目を盗んで話かけてくれたのです。テープレコーダーを政治犯に貸すこと自体とても危険なことなのに、見つからないよう工夫し、快く貸してくれました。私たちは、「もし見つかったら、あなたの物だと言わないから、あなたも絶対に名乗らないでください。」とメモ書きし、授業の時に渡しましたが、「あなたたちの不利にならないようにしてください。私は場合によっては見つかってもよいと思っています。」という返事がきたのです。彼の勇気ある行動に私たちは心打たれました。
彼はチベットのために何かできることはないかと考え、危険を覚悟で私たちを応援し、手助けしてくれたのです。

レコーダーに歌を吹き込んだのは、私たち6人のグループ、ガワン・サンドルと同じ監房のグループ、そしてもう一つの監房の3つのグループでした。レコーダーはもう一台手に入り、2つのレコーダーに、グループごとに別々に吹き込んでいったのです。
私たちはラサの仲間を応援することが一番の目的でしたが、ガワン・サンドルたちはどのような目的であったのかは分かりません。歌の内容は似ていますが、特に話し合ったりはせず、暗黙の了解で私たちはレコーダーを回していたように思います。

私たちは、看守が寝静まった夜中にレコーダーを囲み、声を殺して歌いました。しかし、隣の監房の中国人女性が密告した為、2回目には看守に見つかり、テープを没収されてしまったのです。一本のテープに希望を託していたので、私たちは失望し、落ち込みました。

数年後、亡命してから外国の方に「これは貴女方が歌った曲ですね。」と、言われてCDを手渡された時は、声も出ないほど驚きました。ガワン・サンドルたちが吹き込んだテープが、奇跡的に監獄から外に持ち出されていたのです。まさか、ダプチ刑務所から遠く離れた場所で、私たちの歌のことを知っている人がいるなんて!そして、私たちにこんなに関心を抱いてくれているなんて!嬉しさのあまり、信じられないような思いでした。

数か月して、歌を吹き込んだ14人全員が監獄内のホール(集会所)へ集められました。そこには看守と一緒に裁判所の判事がいました。私たちは壁に一列に並ばされ、監獄内でプロパガンダに繋がるような歌を吹き込んだという罪で、一人ずつ順番に刑期を言い渡されたのです。延刑は、9年が一人、8年が三人、6年が二人、残りは5年で、私は5年の刑期延長でした。


5月1日の監獄デモ


1989年のメーデーに、監獄の中央広場で式典が催されました。職員全員に加え、一般刑囚人500人と、入獄して間もない政治犯も動員されましたが、私たち古株の政治犯は呼ばれませんでした。新人の政治犯を参加させるのは、早いうちから「社会主義賞賛」を歌わせ命令に服従させようとする意図からでしょう。私たちは監房の窓から、中華人民共和国の国旗の前で、群衆が中国共産主義をたたえる様子を見ていました。すると突然、一般刑囚人の若者が拳を振り上げる姿が見えました。彼は叫びました。

「プ・ランツエン(チベット独立)! ダライ・ラマ猊下万歳! 中国人はチベットから出て行け!」

そして、次々に囚人たちがこのスローガンを叫び始め、その群集の怒号はダプチ刑務所にこだましました。チベット人たちはどこから持ち出したのか、国旗を振りかざして熱狂し、囚人と看守は乱闘になりました。中央広場はまるで、ラサでの暴動のときのような戦場と化したのです。窓に釘付けになっていた私たちも、彼らに届くよう監房の中から大声で叫びました。

「プ・ランツエン!プ・ランツエン!」

慌てた兵士は群衆に発砲し、囚人の身体を部屋へ引きずるようにして連れて行き、次々に放り込んでいきました。そうやって、群衆の怒号は無理やり鎮圧されました。この記念すべき監獄デモは、入獄してから次第に政治犯に共鳴していった一般刑の囚人たちが、監視の厳しい不自由な私たちに代わって先導したのです。

このデモの際、刑期を延ばされたのは30人で、私は免除されました。尋問への答え方のちょっとした差によって二分するらしいのです。私は、なぜ叫んだのかという質問に対し、「広場に中国の国旗が掲げられるのが嫌だったから。」と、答えました。ガワン・サンドルは「独立のため!すべて組織したのは私です!私が指導者です!」と答えたそうです。そして、ひどいリンチに合い、6ヵ月独房へ入れられたと聞いています。


ダライ・ラマ法王の御言葉

出所してから4年間ラサにいましたが、委員会や公安に監視され、仕事にも就けず、それは窮屈な日々でした。私は最低限の自由を得るために、ラサで知り合った同じ立場の尼僧と一緒に、ダラムサラへ逃げることを決めました。一生に一度だけでも、ダライ・ラマ法王にお会いしたいという思いもありました。

そして、ダラムサラに到着して間もなく、他の亡命者たちと共に法王に面謁できる機会が巡ってきました。私は、法王のお声を聴きながら、ここに辿り着くことができた幸運を噛みしめました。

私たち政治犯に向けて、法王はこのような御言葉をかけてくださいました。

「自分たちの為でなく、他のチベット人の為に立ち上がったあなた方の勇気ある行動に敬意を表します。

けれども、あなた方はもっと勉強しなければなりません。心だけあっても仕事に就けず、生きるのに苦労します。まだ若いのだからたくさん勉強しなさい。チベット語もチベットの歴史も大切ですが、中国語も忘れないで勉強しなさい。

監獄という環境の悪い所に長くいたのだから、今後も身体には十分気をつけて、何か悪いところがあったらすぐに病院に行きなさい。何があっても気持ちを明るく!いつか必ず、自由になる日が訪れますから。」


私は今、法王の御言葉通り、日々勉強に励んでいます。チベットがいつか必ず自由になるよう祈りながら、今は将来のために無心で勉強したいと考えています。尼僧院を追放されているのでもう正式な尼ではないけれど、私の中で仏教の規律はずっと守られているので、心は尼のままなのです。


====================================

以下T女史の感想。

たった数分間叫んだだけだというのに・・自由を求めるために発した言葉、単なるその言葉がそれほど危険だというのか。幼さの残る10代の彼女たちを捕え、もう二度と立ち上がれないほどに傷つけ、自由を奪うことに躍起になる中国共産党は、病に侵されているとしか思えない。そんなことで彼女たちの信念が揺らぐはずはなく、かえってチベットと同胞への思いが高まるだけだというのに。

話しはじめたチュキラは、過去の辛い体験にもかかわらず、はっきりとした口調で淀みなく語り続けた。その眼は、口元は、ガワン・サンドルさながらの不屈の女のそれだった。
同世代の女性として、彼女たちのひた向きさ、意志の強さ、そして聡明さが眩しく思えた。
もし私がチベット人女性だったら、チベットで生まれ育っていたら、尼になっていたら、デモに参加していたら、逮捕され投獄され、激しい拷問を受けていたら・・・
そんな風に、今までにないくらい自分に引き寄せて想像してしまい、眩暈がした。その苛酷な状況に耐えうる精神力のない今の自分には、想像しただけでもクラクラし、気が遠のいていく。

「心だけでは駄目だ、勉強しなさい。」そういうダライ・ラマの心情もわかる気がした。
彼女たちは強すぎるが故に、そのままいったらいつかは身を滅ぼしてしまうだろう。自己犠牲だけじゃなく、勉強し、中国と世界に有効的に対抗する術を持つことも必要なのだろう。彼女たちの強固な意志は、うまく舵を取れば必ず未来を切り開く力となるはずだ。祈ることと、知恵をもってうまく行動すること。この二つの歯車が絶妙にかみ合った時に、本当の意味での大きな力となるのかもしれない。



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2008年09月22日

「チベ夏」よりTCVに寄付

272f2937.JPG今日ダラムサラのTCV本部に代表のツェワン・イシェ氏を訪ねた。

この夏、東京東中野のポレポレ座で凡そ一か月間行った、「チベットを知る夏」企画の為の絵の一部を彼に頼んで集めてもたったことでもあり、まずはイベントについて報告した。

そして収益金の内US$3,000ーを寄付金として手渡した。
これを受けとって代表は「この寄付金は、新しく来たばかりの子供たちと、何か子どもたちの芸術的素養を伸ばすような企画に使うようにしよう」と話された。
TCVの子供たち
次いでイベントの実行委員の一人でもあるT女史が、布絵(イベント中にさまざまな人に描いて頂いた布に描かれた絵をタルチョ風に仕立てたシロモノ)の一部を贈った。
これは学校のカルチャーホールに飾られるという。
その他日本からわざわざ運ばれた「自家製のノートブック」や多量の「多色ボールペン」も手渡された。



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2008年09月21日

ツェソの話

91dcc2f4.JPG最近友人に聞いた昔話から、

彼の名はツェソだが、これは短略称で本当はツェリン・ソナムという。
40歳。
9−10−3の会の創始メンバーの一人で、10年前から知ってる。
身体は大きめだが、気性は至って大人しく(見える)、声も小さい(しかし早い)。

元はもちろん僧侶だが、ルンタレストランの最初の従業員の一人で一番可愛い子と思われてた女性と数年前に結婚し、今は男の子が一人いる。

今は某組織に雇われ中国の情報収集係りだ。

彼は凡そ20年前、1988年3月5日に起こった大きなラサデモを先導したガンデン僧院僧侶21人の内の一人だった。

デモの話は飛ばして、、、

ダプチ監獄にて5年の刑に服し、1992年釈放された。
そのころラサにはクショ・ダワ(クショ=僧)と皆に呼ばれる一人の僧がいた。
彼もかつて政治犯として服役したことがあった。
彼は人望厚く、皆にやさしく、皆に信頼され、尊敬されていた。

秘密裏に特に政治犯を助けることに尽力した。
身寄りがなかったり、貧しかったりで外からの援助を受けることのできない政治犯には組織を使って差し入れを届けさせたりした。
お金を工面することも多かったが、親しい信頼できる金持ちの友人に恵まれていた彼はいつも誰からかお金を回して貰えた。

出獄した政治犯はたいてい彼の元を訪れた。
彼の支持を仰ぐために。

ツェソは親友の同じくガンデン僧侶クショ・ツェリンと共に彼の下で働くことになった。
仕事は大抵、街に張り出す反中抗議文を印刷することだった。
張り紙の二か所に黒と赤で印璽が押されたが、これには会の名前が書かれていた。
本当のところは会(地下組織)のような大そうなものは無かったのだが、中国を少しでも怖がらせ、仲間を鼓舞するために嘘の印を押したのだ。

印刷といっても仲間によって彫られた木版の上にインクを伸ばし一枚一枚手刷りするのだ。
クショ・ダワの家で作業することが多かった。
印刷された、ビラは夜中に仲間の手を通してラサの至る所、時には数日掛けて遠いカム、アムドにまで届けられ張り出された。

危ないこともあった。
いつものように部屋の至る所には印刷したてのビラが乾燥させるために広げられていた。
突然ドアが強く叩かれた。
ドキっとして部屋の電気を消しそっとドアに近づいた。
そとからは「クショ・ダワの仲間だな?今公安が一軒ずつ家宅捜査に廻ってる。危ないからすぐ逃げろ」と言う声。
声からそれは公安に務める仲間と判った。
彼はすぐに消えた。
自分たちは部屋を大急ぎで片付け、部屋を出て外へ走った。

一年ほどそんな仕事をしていたが、そのころ仲間が一人、二人と逮捕され始めた。
中には15年の刑を受けた者もいた。
自分たちが逮捕されるのも時間の問題と思われてきた。

クショ・ツェリンと供にインドに逃げる決心をした。
雪山を越え93年ダラムサラにたどり着いた。

弟が一人いたが彼も僧侶になり、デモに参加した。
そして獄中で拷問死した。











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2008年09月20日

チベッタン・マスティフとチベット人

a70ddb56.gif以下は「人民網日本語版」09月18日 の記事です。
http://www.people.ne.jp/a/091e38afc90344c4a5885417a8f09d0f

北京東郊外の燕郊にある百世チベタン・マスティフ園において開催された北京・チベット共催のチベタン・マスティフ交流イベントに、ファンや飼い主たち300人以上が集まった。チベットから来た無償の種犬である「赤谷」は、園内でメスのチベタン・マスティフと交尾を行い、純血種のチベタン・マスティフの子犬が誕生されることが期待されている。「赤谷」は、チベットで生まれ育った純血のチベタン・マスティフで、玉樹チベタン・マスティフ系に属する。京華時報が伝えた。

 「赤谷」の飼い主である才旦扎西さんによると、「赤谷」は今年4歳だが、すでに200匹以上の子犬の父親でもある。優良な子犬は1匹200万元で売られるため、「赤谷」の価値は計り知れない。時節的にチベタン・マスティフの繁殖の季節でもあり、「赤谷」を北京に連れてきたのは、飼育経験を交流する目的のほか、純血種のチベタン・マスティフを一匹でも多く残したいと思ったからである。

 チベタン・マスティフは中国チベットを原産地とし、伝説上の動物とされるヒマラヤ古髭犬が1千万年以上も前に、高原犬として変わったものだとされている。犬類では、世界で唯一、時間や環境に変化されていない生きた化石といわれている。国家2級保護動物に指定され、国宝級の大型犬で、世界でも希少種の一つとされている。チベタン・マスティフに関する、伝説や言い伝えは非常に多く、チベットの人民にとって、チベタン・マスティフは幸福をもたらす動物とされ、「天狗」「神犬」などと敬愛をこめて呼んでいる。(編集WM)

ーーー

このチベッタン・マスティフほど大きくて、吠え方が怖く、ワイルドな犬も少ないだろう。
本土でもよく自転車旅行者がこの犬に襲われるようだ。
対策として爆竹を走りながら投げるとか!?

もともとチベットの遊牧民がヤクや羊追いのためやら、何よりも狼を近づけないための番犬として飼ってる犬だ。
もちろん狩猟犬にもなる。
勇敢、獰猛なイヌだ。

ダラムサラでは法王の弟さんであるガリ・リンポチェが自宅に飼われている。
大きな檻の中に普段はいるが、とにかくこの犬の吠え方、暴れ方がものすごい。
だからなるべくこの方のお家には行かないようにしている。
(一度自宅内の設計を頼まれたが、お断りした覚えがある)
犬好きの私もこの犬だけはまだなじめません。
犬じゃないみたいな、、、チベットのイヌです。

それにしても最後の一節は泣けてきます。
まるで今の、今からのチベット人の運命?にどうしても二重写しされます。
まさにチベット人は今や「生きた化石」「世界の希少種」だ。
人間性の頂点を求めつづけた気高い人々だ。

犬の方は高く売れてるようだが、人の方は犬のように殴られ殺される。

一日も早く「絶滅希少動物」の認定を受け中国の暴力から保護されるべきだ。

それにしてもチベット犬が一匹200万元(3000万円!)とは!?
チベットのパンダ1頭は数億円、、、
ううう、、、人の中の人チベット人は?







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2008年09月19日

尼僧一人逮捕時に死亡、TCVの子供に話を聞く

2008年6月顔を隠すチベット人・写真野田雅也

本土からの情報は益々入りにくくなっています。
そんな中、18日付のphayul.comに載せられていた
<ある尼僧の死亡記事。>

http://phayul.com/news/article.aspx?id=22819&article=Tibetan+TV+Journalist+Arrested%2c+Nun+Dead

情報はチベット議会議員ゲシェ・モンラム。タルチェン師がVOT(チベットの声放送)に伝えたものだ。

7月8日カム、ダゴ(ダンゴ)、サムテンリン尼僧院の尼僧チェリンがまず法王のチベットへの帰還を願うパンフレットを配布し始めた。

ツェリンを支援するために数人の同尼僧院の尼僧が町の中心部に向かって行進を始めた。
しかし途中で中国の武装警官に取り囲まれリンチにあった。
そのうちグルと呼ばれる尼僧は頭を鉄の棍棒で強打された。
その上護送中の車から後ろ手に縛られたまま、蹴落とされた。
その時彼女は頭を強く打った。
病院に運ばれたが頭部挫傷のため死亡した。

中国当局は家族に対し、死因は「自殺」だと言ったが、家族の調べで頭部挫傷と判った。

さらに2人の尼僧、ツェリン・ツォ27歳と彼女の姉ウゲン・ラモ32歳が2年の刑を宣告された。

ーーー

さらに同じ記事の中で9月11日の深夜、ランジュンというセタ・テレビ局でニュースレポーター、キャスターを務めるチベット人がアムド、ゴロの自宅で逮捕されたことが伝えられている。
25歳の彼は有能でありすでに二冊の著書と抒情詩一冊を出版している。

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数日前、TCVに再び行った。
子供たちに話しを聞くために。
この日は4人に話を聞きました。

私が通訳したのをいつものようにT女史がまとめて下さいました。
本人のブログに行かれるともっと詳しい説明やら写真やらも見られます。
http://newborder.exblog.jp/

そのうちの一人:

TCVの子供ケルサン・パッサン13歳
ケルサン・パッサン(13)カム、ガンゼ出身

(いつ、どうやって亡命したの?)
2005年にダラムサラへ。10歳の4月にラサを出て、ナンパラを越え、一ヶ月と28日歩いた。
ラサまでは姉が送ってくれた。現在も22歳と18歳の姉は両親と一緒にガンゼにいる。
ダラムサラへは8月に辿り着いた。

(山越えはどうだった?)

ガイドはカムの男一人で、34人で歩いた。
シガツェからディンリまで歩かねばならなかったので、長くて非常にきつかった。
中国人の監視を抜けるため、夜の八時過ぎから朝まで歩き、午前中仮眠を取る日々だった。
食料はお金のある人は買うことができたが、お金のない人は乞食をしながらディンリまで行った。

(アクシデントはあった?)

川を渡っている途中、水かさが胸くらいにまでなり、二人の子供が流され僧侶によって救出された。

峠に近づいたある夜、中国軍駐屯地の近くで、その溺れた子供のお父さんが弱って歩けなくなっている所をサーチライトで照らされ、連れて行かれてしまった。
一番恐ろしい出来事だった。


(別れ際、両親は何と言っていた?)

「よく勉強しなさい。大きくなったら人のために役立つような人になりなさい。
他の仲間と仲良くするように。先生の言うことを良く聞きなさい。卒業してから、
もし帰れるのなら帰ってきなさい。」

母はとても悲しそうで泣いていたけれど、将来のためだという思いは父も母も一緒だった。

(インドへ亡命することは、いつ、どのように、両親から伝えられた?)

亡命する二か月前に伝えられた。
「ここにいたら勉強する機会もなく、中国化され、将来が心配だ。ダラムサラへ行けばチベット語も勉強できるし、将来チベットのためにもなる。上2人は女の子だから、一番体力のあるお前が行きなさい。」

(チベットにいた時は学校へ通っていたの?)

ガンゼの田舎の学校へ小学校5年まで通っていた。
生徒は133人で、家から一時間ほどの距離だった。
科目は数学と中国語のみ。
4歳から僧院にも通い、お経を中心にチベット語も少し習っていたが、学校ではチベット語を習うのは禁止されていた。
ただし、学校へ行かなければ一日100元の罰金が課されるんだ。
学校ではただ一人、亡命することとなった。

(はじめて亡命の話を聞いたときはどう思った?)

びっくりした。学校でただ一人だけだったので、友達と離れ離れになるのが辛かった。

(両親の仕事は?)

農家で、ヤクなどの家畜もいた。

(勉強する以外、ダラムサラへ亡命する理由はあったと思う?)

チベット独立のため、チベット語を勉強して将来チベットの子供たちに教えなければならないと父から言われていたし、自分でもそう思う。
小さい頃から、チベットは中国に侵略され、多くのものを破壊され盗まれたことは知っていたから。

(TCVを卒業したら何がしたい?)

チベット語で詩を書いたり歌を作りたい。
そして、いつかはチベットへ帰りたいと思う。






rftibet at 22:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)チベット内地情報 

2008年09月18日

イギリスから議員団がダラムサラを訪問

bda62dc5.JPGずいぶん前のことになってしまったが、9月10日にイギリスの議員団がダラムサラで記者会見を開いたときの報告を少々。

会見は、4人のイギリス議会議員とチベット議会副議長ギャリ・ドルマ女史を前に開かれた。
2、30名の記者が同席した。以下は初めの方だけノートしてた私の記録より。

ーーーー

イギリスやその他ヨーロッパでは、チベット問題に関して議会レベルでの関心が高い。

チベットは中国に侵略されるまで独立国だった。

だが現在は、チベットの人権状況は良くなるどころか悪くなる一方で、深刻な人権状況が続き拷問などが行われている。

対話はダライラマ法王だけでなく、チベット人600万人すべての問題である。

イギリスは昔から、歴史的にも一番チベットと関係の深い国だ。
だから私たちイギリスが率先してチベット支援をするのは当然のこととして考えている。

今回の記者会見に先立ち、チベット議会と様々な事柄について詳細に議論した。
以下、3つのことを重要課題として進めていくことになった。

1・次の会談に向けて、意見を一つに統一してのぞむこと。(独立か中道かなど)

2・来年2009年にも、チベット問題が忘れ去られないようにすること。来年は侵略されてか50年の記念すべき節目であるがゆえに、中国も何らかの建設的な答えを示すべきだ。

3・中国人に正しい情報を伝えることが大切。これからは中国の人々の支援を積極的に引き出す対策を立てること。

ダラムサラに来る前に在英中国大使館へ行き、チベット問題について話合い対話を進めた。
しかし、その場では何も建設的な対話は進まなかった。帰国してから、イギリス議会およびヨーロッパ議会で、再びチベット問題を議題に上げるつもりだ。

ーーーー

全員、真に頼もしい全面的チベット支持を表明していた。
議員の話だから、、、とも思うが、それにしてもどこかの国の議員たちとの意識の差は歴然と感じられた。
よくチベット事情にも通じていた。


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しつこく法王のお身体の話しを書くようだが、、、
「チンバ」と「ド」の関係で行くと、「胆石」だけでなく「腎臓結石」「尿管結石」の可能性もあると思われるのであしからず。







rftibet at 21:00|PermalinkComments(1)TrackBack(0)ダラムサラニュース 

3月ラサデモの後逮捕拷問死

9b78ed28.jpg以下はTSNJ(チベット・サポート・ネットワーク・ジャパン)のメーリングリストに掲載された手紙です。
悲しい話です。


拝啓

はじめまして、日本の皆様。私の名前はカルサンと言います。私はチベット出身です。日本の皆様にあっては、チベットを支援していただいて本当にありがとうございます。今日は、どうか私の兄さんの身に起きたことを聞いてください。

私の兄さんの名前は、兄さん。とても優しい兄さんでした。兄さんは2008年5月末、中国の警察による拷問が原因で死んでしまいました。享年45歳でした。兄さんはごく普通の遊牧民で、5人の子供の父親でした。

2008年3月17日、中国政府に対するチベット人たちによるデモは、チベット全土に広がっていました。私の兄もそのデモに参加しましたが、決して暴力行為は働きませんでした。後日、数人の証人が、兄さんはむしろ暴力行為に訴えようとしていた若者達を説得して止めさせたことを証言してくれています。

デモの後、中国政府は、デモ参加者に速やかに自首するように繰り返し伝えました。兄さんは、自分が暴力行為は行っていないことから、自首をしようとしましたが、自分の名前が指名手配のリストに載っていることを知り、逮捕と拷問を恐れて身を隠していました。警察は兄さんの居所を知るために、兵隊一杯のトラックと11人の警察官で兄さん宅に押しかけて、14歳になる兄さんの息子の頭に銃を突きつけ、父親の居所を聞きだそうとしたのです。さらにを警察署に連行して、殴る蹴るの暴行をして父の居場所を吐き出させようとしました。彼は父親の居所を本当に知らなかったのです。結局彼が警察に開放された直後、兄さんは家に戻りました。兄さんの家族や親戚が集まり、兄さんに自首をすすめました。理由は、中国政府が「自首した者の刑は軽くする。」と広報していたということ。また、兄さんは5人の子供の父親であり、このまま一生逃げ通せるものでも無いということでした。兄さんの息子も警察から帰ってきたばかりということもあり、4月17日、結局兄さんは自ら地元の地方警察署に赴きました。4月27日、兄さんは地方警察署から拘置所へ移送されたそうです。

5月26日早朝、兄さんが死亡したという訃報が家族に知らされました。警察側は、兄さんの死体を家族に見せる前に、まず家族に対して「死因は病気であって、拷問ではない」と主張したそうです。そして、これから見ることを決して公言してはならないし、死体の写真を撮らないということを誓わされたということです。しかし、病院のベッドに横たわっている兄さんの死体を見た家族や親戚は言葉を失いました。鼻の下辺りから胸の辺りまでの皮膚は火傷による水ぶくれで覆われており、背部は、首の下から腰の辺りまで痣だらけで、肌色の部分がほとんど無い状態だったそうです。

5月30日、警察の監視の下、兄さんのお葬式が行われました。葬列者数も警察により制限されていたため、たった7人の列席者だったそうです。チベット式の弔い方法・鳥葬により執り行われました。その過程で、参列者達は、兄さんの内臓を目にし、そして兄さんの死因が拷問であったということを100%確信したそうです。右側の腎臓は、つぶれてしまっていたそうです。胆嚢も完全に潰れてしまっており、胆汁が中から飛び出してしまっていたといいます。肝臓の下部も外的ショックによりダメージをうけていました。そして腸は空っぽで空気しか入っていなかったということです。明らかに、私の兄さんは中国の警察と拷問によって殺されたのです。平和的デモに参加したことが、拷問で殺されるほどの重罪なのでしょうか。

私の兄さんは5人の子供を後に残して亡くなりました。ちなみに長女は盲目です。私の家族達は、命懸けで兄さんの身に起きた真実を私に知らせてくれました。日本の皆様、私の兄さんの死は、チベットで起きていることのほんの一例にしか過ぎません。チベットでは、今もたくさんの人が拷問され、命を危険にさらされています。そして今チベットで起きていることが、世界に黙殺されようとしています。どうか、中国政府による報道を鵜呑みにしないでください。最後まで読んで頂いてありがとうございました。

敬具

Kelsang


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2008年09月17日

ガワン・トプチュの証言

7efeadfd.JPGガワン・トプチュはルンタレストランでも一番の古株。
今は朝6時からパンとケーキを作る係りだ。毎朝我々はヨガのすぐ後焼きたての彼の作ったパンをおいしく頂いている。

彼の話は以前にもこのブログに載せている。
しかしその時は国旗の話しを中心にちょっと聞いただけだった。

以下に数日前に聞いた少し詳しい彼の証言を載せる。
T女史がまとめてくださった。

ーーー

<ガワン・トプチュ 34歳の証言>

私は、ラサのガンデン僧院近郊のメト・クンガ県、メト・ギャマで産まれました。そこからガンデン僧院までは、以前は道が険しく雨が降るたびに道が壊れるほどで、近道もなかったため、車で二時間ほどかかりました。現在はラサから高山資源が豊富なメト・ギャマまでの幹線道路ができ、車で15分ほどの距離です。大きな88台のトラックが、金、銅などの資源を確保しに、一日19回往復しています。

出家

14歳でガンデン僧院の僧侶となりましたが、二十歳(92年)までは見習い僧でした。当時、中国による規制のため、若くして僧侶になることはできませんでした。僧院でお経を唱えたり勉強することはいくらでもできましたが、他の僧侶と同じ食事は取ることも、僧院の教育システムに入ることも出来なかったのです。
月の8日、15日、24日などの特別な仏事の際には、僧侶とともに食事ができ、時々布施をもらうことができましたが、それ以外は雑務や労働に従事していました。

ジョカン寺でのデモ

92年、チベット暦の4月15日(6月くらい)に、メト・ドゥムラというジョカン寺近くの大きな公園から、二人の僧侶とともにデモを開始しました。4月はサカダワといわれ、お釈迦様が誕生・成道・涅槃された大切な月で、功徳を積む修行に最も適した機会です。特に15日の満月の日は、仏教でとても大切な聖日とされ、方々からチベット人が祈りを捧げるためにラサへ集まります。私たちは多くのチベット人を励まし応援したいと考え、デモを計画したのです。他の僧院と連絡を取り、ジョカン寺へ集まろうと呼びかけ合っていたので、当日は大勢の僧侶がデモに参加しました。

当時国旗はなかなか手に入らなかったため、デモ用の国旗は仲間と手作りしました。青色はインクがありましたが、赤色はなかったので、自分たちの血で染めました。その大きな国旗を二人が持ち、一人がジョカン寺へ向かって先導したのです。外国人の観光客も何人かいたので、写真やビデオを撮られるよう、私たちは大きな声を上げて派手にやりました。
「チベットの完全独立を!ダライ・ラマにご長寿を!中国人は中国へ帰れ!チベットの主はチベット人だ!」と、順番に、ありったけの声で叫びました。

そして、ジョカン寺を右回りに回ろうとしたところで中国公安に捕まってしまったのです。仲間のテンジンはすぐに両腕を後ろ手に紐で縛られ、トラックにまるで物を投げ入れるかのように放り込まれました。私は激しく抵抗したため、銃尻でひどく殴られました。30人しか収容できないトラックに90人以上が押し込まれましたが、私はトラックに入りきらなかったため、同じように両手を後ろ手に紐で縛られ、路上に正座させられました。そんな中、監視の目を盗み、なんとか紐を外そうと手をもぞもぞ動かしていたら、奇跡的にも紐がするりとほどけたのです。そして、他のチベット人たちが追手を遮ってくれたので、なんとかジョカン寺まで逃げることができたのです。
当時は武装警官の中にもチベット人が沢山いたため、逃げても深追いされることはなく、今と比べるとまだ規制が緩かったようです。2006年頃から政策が変わり、内地から大勢の中国人警官がチベット自治区へ送り込まれたため、過激な軍隊式へと化していきました。その時に中国側が打ち出した政策はこのようなものです。

・遊牧民の定住政策
・トゥルク・リンポチェ(転生活仏)の共産党政府認定制度
・ダラムサラとの対話硬直


トムセカン(ジョカン寺の裏当たり)まで逃げたとき、一人の年輩の男に手招きされ、とても警戒しました。ところが彼が、「私は寺の法要の施主をしている者だ、安心しなさい。」と、にこやかに言ったので、安堵のため息をついたのを覚えています。彼はデモの様子を一部始終見ていたとのことで、「本当に良くやった。」と私を労い、助けてくれたのです。

彼は、ポタラの裏手の湖まで私を連れて行くと、変装用の服と煙草と400元を手渡してくれました。途中公安に見つかりましたが、煙草を吸っている振りをし(僧侶は煙草を吸わないため)演技をしたら、ばれずに何とか逃げ切ることができました。

里まで辿り着くと、私はわざとヤギを連れて、山へ香木(香を焚くための木の葉)を集めに行きました。次の日僧院に公安や当局の監視委員会がやってきて、「ラサに行ったか!」と問われましたが、こうして山へ行き、15日のサカダワの準備をしていたなどと言ってごまかしたので、疑われることなく捕まらずに済んだのです。
デモをした3人のうちテンジンだけが捕まり、刑期を言い渡されました。他の僧侶たちも大勢捕まり、刑期はだいたい6年〜10数年だったそうです。中には銃殺される者もいたと聞いています。


不当な要求への抵抗

忘れもしない96年5月6日のことでした。13時、突然ガンデン僧院に共産党の委員会がやってきて、800人の僧侶全員(そのうち見習僧が500人)が集められました。そして、ダライ・ラマと亡命政府は国家分裂を謀る危険な存在であると冒涜し、壁に掛けられたダライ・ラマ法王の大きな写真をただちにおろすよう命じたのです。法王のその大きな写真はとても大切なもので、法要の際に必ずその前で祈りを捧げていました。ですから、当然私たちの誰一人として、中国人の言うことには耳を貸す者はいませんでした。

すると、15時くらいに再び公安とチベット人警官がやってきて、こんどは僧院長を呼び出しました。そして、しばらくして私たちは同じように集められました。僧院長は、「みんなは自由な選択ができる。けれども今回の話は僧院存続のためになることであり、みんなの為にもなることだから必ず聞くように。」と言われ、中国人が先に命じた内容を再び私たちに話されたのです。僧院長のすぐ横で、中国人の公安やチベット人警察が睨みをきかせていました。
私たちは通常、僧院長の指示に従わねばなりませんが、この内容だけはどうしても受け入れられませんでした。ある者は中国人に小石を投げたり、またある者はチベット人警察に「同じチベット人なのに、何故だ。チベット人ならラマを尊敬するべきだ。」と抗議し、乱闘になりました。

そのあと、私たちガンデンの僧侶たちは緊急会議を開き、この一件をめぐる今後のことを話し合いました。中には逃げた方が良いという者もいましたが、最終的には、私たちは何があってもダライ・ラマへの忠誠を誓うこと、仲間を裏切らないこと、そして、逃げも隠れもしないでその意思を貫くことを誓い合ったのです。

18時頃、ガンデン僧院に向かう坂の下から、驚くほど多数の軍隊のトラックが押し寄せてくるのが見えました。私は、ついにこの時が来たという思いでいました。
いよいよ彼らが僧院に到着すると、わざと大きな足音を立て、物々しい様子で攻めてきたのです。
僧侶50人ほどが、法王の写真が没収されそうになるのに抵抗し、石を投げて立ち向かいました。すると中国人は銃を向けて威嚇し、数人は脚を撃たれて連行されました。私たちには、トゲの生えているイラ草で通り道を塞ぎ、石を投げて抵抗するしか、成す術がありませんでした。次の日から徐々に逮捕者が増えていきました。はじめに30人、次に40人、3回目に17人捕まったとき、私も連行されました。そんな逮捕劇が、しばらくの間続いたのです。


刑務所内から病院へ

刑期は裁判をせず当局によって適当に言い渡され、私は11年の刑期でした。同じことをしても2、3年の刑期の者もいれば、16年という長期の者もいたのです。
投獄されてから初めの頃は、一日6〜7回もの尋問があり、決まって、首謀者は誰か、そしてバックには誰がいるのかと尋ねられました。私たちは、ダライ・ラマの写真をおろせと言われたことに自ら抵抗しているだけで、誰かに命じられたわけではないのです。けれども、そう言う度にひどく殴られ、同じ尋問がくり返されました。

拷問は堪え難いものでした。今でも腕には特殊な手錠(動く度にきつく締まる仕組みのもの)で締め付けられた痕、背中には殴打された時の傷痕が残っています。コップ一杯の血を抜かれ、ふらふらで無抵抗なままひどい拷問を受け、私たちは日に日に衰弱していきました。病院にも行かれず、食事も粗末なものしか与えられなかったため、怪我も病気も悪くなる一方でした。

そんな日が半年も続いた時、私は瀕死の状態に陥り、監獄内で死なれたら困るという理由で軍病院に搬送されました。それまで本当に体調が悪いのか確かめるのに、水をかけられたり電気ショックにかけられたりと、ひどく野蛮なやり方で検査されました。

その後、数か月経っても回復が見られなかったため、別の病院へ行けと言われ、私は軍病院からメンツィーカン(チベット伝統医学院)に移りました。その間、私は金が尽きていたので、養生して少し回復し始めた頃から病院を抜け出し、外に働きに出ました。一年間病院を出入りしていましたが、容態が良くなればまた監獄へ帰されてしまうので、一年後の97年に私は亡命を決意したのです。
ガイドは、外に働きに出ている時に人づてに評判を聞いていたカムの男でした。小平が亡くなり、喪に服している間は比較的検閲が緩かったので、私たちはその時を狙って決行することにしました。

ネパール、そしてインドへ亡命

ラサで集まった 21人とトラックでディンリまで行き、そこからナンパラ(峠)を経由し、ネパールまで一緒に歩きました。ガイドに一人3500元支払い、その中からガイドがトラックの運転手にいくらか渡します。トラック内に私たちはぎゅうぎゅうに押し込まれていたので、降りて歩きはじめてから、ようやく年齢や男女の区別がつきました。7、8歳の子供4人に、老人や尼僧も数人いました。

ガイドはほとんど人づてに紹介されます。中には善良なガイドもいますが、大抵 はヤクザ
との繋がりが強いと言われています。私たちのガイドへの清算方法は以下のようなものでした。まず、紙に契約内容を明記します。それを半分に破ってその半切れと半分のお金をラサの友人に預け、残りのお金を先に支払います。無事に送り届け、ラサへ戻ったときに、ラサの友人が半分の紙切れと照合させて、残りの額を渡すのです。通常ガイドはネパールのナムチェバザール近くのルクラという所にある、亡命政府一時収容所の支部まで案内し、帰って行きます。

私たちは監視の目を逃れるために、ネパール側のナムチェバザール付近に入るまでの移動は、すべて極寒の深夜に行いました。季節は3月でしたが雪深く、靴も着るものもちゃんとしたものではなかったので、寒くて死ぬ思いでした。お金もないのに食料も尽きてしまい、みんな飢えを凌ぐのに必死でした。途中、力尽きた子供がこれ以上歩けなくなり、ガイドに置いていかれそうになったため、私たちは木を切り、即席で担架を作って子供を運びました。
ガイドは、「簡単にインドまで行かれる。問題ない。」とはじめは言いますが、いざ旅が始まるとその道のりは険しく、力尽きてついて来られない者が出てきます。ガイドが歩けなくなった者を放って行ってしまうことは、よくある話なのです。峠を越えるとき、凍りついた7人ほどの遺体を見ました。みんな置いていかれた者たちなのでしょう。手足の感覚がなくなり、呼吸も苦しくなり、常に私たちは死ぬか生きるかの瀬戸際に立たされていました。峠のナンパラを越えてからナムチェバザールまでは二週間ほどの道のりで、喉の渇きと空腹に耐えながら歩き通しました。その道のりはとても長く、靴下を数枚ボロボロにしてしまうほど厳しいものでした。

ナムチェバザールで捕まると中国へ帰されてしまうので、私たちはルクラまで身を隠しながら恐る恐る移動しました。ところが、途中でネパール警察に見つかってしまい、私たちはカトマンズの監獄へ連行されたのです。20日ほど拘留された後、カトマンズの一時収容所の人がやってきて多額の保釈金を支払ってくださったお陰で、私たちは無事に釈放されることになりました。3月10、ようやくカトマンズの亡命政府一時収容所へ辿り着いたのです。そして5月に、ここダラムサラへやってきました。

現在は結婚し、朝はルンタレストランでパンとケーキを焼き、午後には妻に代って子守りをするという日々を過ごしています。


rftibet at 20:30|PermalinkComments(1)TrackBack(0)ダラムサラ町の出来事 

2008年09月16日

法王召集の重要会議の日程、日本人がネパールでチベットのために4回のデモ

92fa5809.jpg昨日の法王の御様子についての話はあくまでも非公式の裏情報の一つとみなして頂きたい。
特に報道関係の方は他の情報筋も参照されますように。

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先に発表された法王ご自身が特別に招集された「特別会議」の日程と場所が議会により決定された。

http://phayul.com/news/article.aspx?id=22807&article=Tibet+Emergency+Meeting+In+November

来る11月17日から22日までの6日間、ダラムサラのTCVホールで行われる。
会議の出席者は現大臣及び大臣経験者、チベット議会現議員及び議員経験者、政府副書記以上経験者、各チベットNGO代表、チベット人知識人、専門家、青年その他という。
もっともこの決定は議会の草案として法王に提出されるものであり、法王の意見を入れて変更される可能性もある。

議会では外国のNGOを参加させるべきかどうかの議論が盛んに行われたが結局、チベット人限定の会議と決定された。

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だいぶ前のことになってしまったが、ある友人(日本人)にインタビューした。
彼は4月に24時間のハンストをいっしょにやった仲間でもある。
短期間にチベット語もマスターし、今ではすっかりチベット化されてしまった一人だ。

以下は同席したT女史が彼女のブログ上でまとめて下さったものです。
http://newborder.exblog.jp/
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先日、ダラムサラに滞在していた日本人の方が、カトマンズでチベット人たちと
「フリーチベット」のデモに参加し連行されたそうだ。数日して帰ってくると聞いていたが、偶然ルンタの隣のカフェでお会いしたので、私たちはデモの話を伺うことにした。

S氏は元自衛隊員。今は休職し、一年ほどネパールやダラムサラなどチベット文化圏を旅している。
今年の8月7日から3日間、カトマンズの中国大使館前でデモを行いネパール警察に連行された。
ポカラのチベタンキャンプからカトマンズのベースキャンプまでは、大勢のチベット人と一緒にバス2台で移動した。
オリンピック前夜ということもあり、検問はとても厳しかったが、なんとか無事に切り抜けた。

そして、合計4回のデモに参加した。

一回目、8月7日のデモ
S氏一行に加え、カトマンズに住むチベット人たちが大勢集まり、大規模なデモへと
発展した。するとネパール警察がやってきて、ダライラマ法王の大きな写真を棒で
殴りながら、「ただちに解散せよ!」と叫んできた。トラックに詰め込まれたが、ガソリンがないから帰ってよいと言われた。

チベタンキャンプからやってきた一行はカトマンズの工場跡地をベースキャンプにしていた。
スパイなどもいるため、カムフラージュでデモを決行するといって、突然中止になることもあった。
次の決行をいつにするか、ベースキャンプでそのタイミングを待っていた。

2回目、8月9日のデモ
一行を束ねているボスの号令がかかり、再び中国大使館の前でデモを行った。一度目はポカラからなので検問が厳しかったが、二度目はベースキャンプからタクシーでの出動だったので、パスポートを見せ観光客を装い、フリチベTシャツや国旗も隠し持って行くことができた。
それぞれ近くのレストランで着替え、中国大使館前へ向かった。

そこには100人のネパール警官隊が待ち構えていた。
ジャーナリストがカメラを回しているときは何もしないが、カメラのないところでは手荒な暴行を加えたり、時計や身につけているものを奪い取ったりしてきた。友人の女性は棒で顔面と脚を強く殴られ、目がひどく腫れて片目がつぶれてしまい片足も負傷したが、次の日もデモに参加していた。
みんな決死の覚悟でここまで来ているので、何があっても引き下がらない、根性が座っているのだ。
S氏も棒でお腹に一発食らったが、気合が入っていたので大した痛みではなかった。

オリンピックの開幕式の次の日ということと、ニュース報道が来ることもあって、1000人近くの群衆がデモに参加していた。けれども、みんな塊でなくバラバラにやってくるので、ネパール警察に一網打尽にされてしまった。2,3人の警官に担がれ、次々にトラックへ放り込まれた。
お婆さんが悔しくてずっとすすり泣いていた。
群衆全員を収容仕切れないため、ネパール警察署の二、三か所の運動場へ別々に連行された。法律で何かあるのか、夜の10時には釈放され、みんなでベースキャンプへ帰った。

3回目のデモ(日付不明)
2回目と同様にして捕まり、別の運動場へ収容された。
トイレに行こうとしたら警察にダメだと言われた。怒りが沸点に達し「叩かれたので日本大使館に電話してください!」と抗議した。
すると上の者が出てきて、「お前は日本人なのか。それなら帰っていい。」と言われ
たが、仲間を裏切れないし、ベースキャンプまでの道も定かでないため、みんなと一緒にとどまることにした。そして、同じように夜には釈放された。

4回目、8月14日のデモ
みんながポカラに帰ってしまい、S氏はボドナートの宿に移った。近くの店のオーナーや従業員たちが店を閉めてデモをやるというので、一緒に参加することにした。
例の如くすぐにトラックに放り込まれ連行される途中、3,4人の警察にボコボコに殴打され、立てなくなっている老人の姿が目に留った。
それは、楽しんでやっているようであまりに惨たらしい光景だった。
S氏は頭にカーっと血が上り、「やめろー!」と叫びながらトラックから飛び降り、気がついたら警官3,4人の足を無心に蹴り倒していた。
そして当然のごとくボコボコに殴打されたが、その時S氏は怒りのあまり頭の中が真っ白だった。

== == == == == == == == == == == == ==  
一連の騒動では、警官による僧侶や老人に対しての暴力が特に酷かった。激しく殴打され、歩けなくなるお婆さんもいた。女性は体を触られ、ポケットに入れていた財布を抜かれる者もいた。

ネパール警察が、1000人もの人をわざわざ形だけ逮捕するのには理由がある。
チベット人を一人捕まえると、中国から500ルピーもらえるのだ。ガソリンが買えないくらい金銭的に窮している彼らにはチベット人逮捕は小遣い稼ぎなのだろう。
捕まると必ず回覧板のような紙が回って来て、名前と国籍などの個人情報を書かされる。
その数が、彼らの小遣いに比例するわけだ。

以前、S氏はカトマンズでマオイストのデモを見た。彼らは木の棒を振り回し、石を投げ、過激な破壊行為に及んだが、ネパール警察はただ見て見ぬ振りをしていたのだ。
今や、ネパールではマオイストが60%の支持率だ。国家の言いなりの警察は、結局長いものに巻かれるのだ。

以上、S氏から伺った話の概要です。





rftibet at 18:45|PermalinkComments(1)TrackBack(0)ダラムサラニュース 

2008年09月15日

ダライラマ法王のご容態について?

昨日の朝phayul.comに
<ダライラマ法王が休養のため10月のヨーロッパ訪問をキャンセルする>という記事が掲載されていました。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=22805&article=Dalai+Lama+Cancels+Europe+Visit+to+Rest

法王は10月9日よりスイスとドイツを訪問される予定でした。

主治医は「全般非常にご健康であられるが、今回のヨーロッパご訪問は見合わされるよう強く進言した」と話している。

法王はこのことで夫々の国の主催者たちに迷惑をかけることをいたく悔やまれという。

しかし今月9月25日から27日および30日から10月4日までのティーチングは予定通り行われるとのこと。

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昨日偶然他の用事で法王の主治医の一人「チベット伝統医学院」の院長であるダワ先生にお会いする機会があった。

そこで(本当のことを話してくれるとは期待していなかったが、、)早速、「法王のご様子は如何に?」と質問した。

「全然心配いらない。ただお中をこわされただけだよ。誰にもあることだ。至ってお元気だ。ただ、あまりにスケジュールが過密だ。外訪のときには様々な食事が振舞われる。時差も問題だ。だから今回は大事をとって見合わされることをお勧めしたのだ」

「血圧は大丈夫なのですか?」
「血圧は問題ない」

ということでした。

その後、午後3時からナムギャル寺のゲシェ・ロサン・ダクパ師に再び、88年のデモについて詳しく聞くために会った。

始めにゲシェラのほうから

「今日はソジョン(月に一度の僧侶・尼僧の懺悔日)の日だった。
法王はツクラカンにお出でにならないので私たちナムギャルの数人がいつも御住居の方に伺っている。
法王は私たちの立会の許、御自身のソジョンをなされる。

その後、皆が心配していると思われたのか
「自分は全く元気で健康だ。しかし最近腹痛を覚えた。
胆石の痛みだということだ。
手術をすれば問題ない。
来月ティーチングが終わったら手術する予定だ。」

と私たちに話された。

「表情とかお顔色は?」
「全く普段と変わりなくお元気そうだった。心配いらないと思う」

と言われた。

ーーー

これが確かなら法王は胆石を取り出すために来月手術されるということだ。
もっともここで一つ私は胆石と思うのだが。
ゲシェラはチベット語で法王のお言葉として「チンバ・ナキドゥ」と「ド・ヨレ・セギドゥ」と言われた、と言った。
このうち「チンバ」が問題で「チンバ」は肝臓、胆のう、腎臓、膀胱全てについて言う。次の「ド」は「石」だ。
そこで勝手に私が「胆石」と決めつけて言ったまでです。

ところで今また、判ったところでは、このことはもちろん内うちの人だけは知っているのですが、外部には箝口令が出ているとか?

しかし思うに本当に胆石ならば誰も本気で心配するものはいないはずだと思う。
返って隠すと、人々は大袈裟に心配したりする。
公表すればいいのに、と思ってしまう。

ある種のチベット人にとっては「法王のお身体が傷つけられる」ことに対し特別の大袈裟な思いを抱く恐れがあるかも知れないからか?











rftibet at 13:07|PermalinkComments(1)TrackBack(0)ダラムサラニュース