2009年02月

2009年02月28日

キルティ僧院僧侶が焼身自殺。ナムチェーー>ルクラ

毎日、勝手なナンパ・ラ旅行の話ばかり書いていたら、ブログのアクセス数は減るばかり、やはり「チベット状況の最新情報」が無いと、このブログの意味も無いことを教えてくれてるようです。

気がつけば、今年も3月10日に向け、チベット人の自己犠牲の動きが活発になってきているようです。

phayul.comによれば、
http://phayul.com/news/article.aspx?id=23948&article=Monk+immolates+self+in+Tibet's+Ngaba+region%3areport
昨日2月27日アバ地区キルティ僧院の一人の僧侶が焼身自殺を遂げた

ダラムサラのキルティ僧院僧侶ツェリンがVOT(Voice of Tibet)に語ったところによれば、タベと呼ばれる25〜30歳のアバ、キルティ僧院僧侶が午後1時40分頃焼身自殺を行ったという。

「私が聞いたところによれば、その僧侶は身体にガソリンをふりかけた後、町の大通りに着くなり自分で火を付けた。そばで見ていた人の話によれば、彼は法王のお写真を高く掲げ、何か叫んでいるようだったという。しかし声は聞こえてこなかったらしい」
ツェリンは「おそらく彼は<法王のチベットへのご帰還と、チベット独立>の祈願を叫んでいたのであろう」と付け加えた。

ツェリンによれば、目撃者は三発の銃声の後、彼はその場に倒れたという。
近くの病院に収容されたと報告されているが、現時点では彼の生死は不明。

これに先立ちキルティ僧院では中国側の新年祈祷祭(モンラム・チェンモ)規制に対し前日までに約千人の僧侶が本堂に集まり中国側に対決の姿勢を強めていたという。

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ここでは、他の地域とは反対に<中国がやるな、チベットがやる>の構図のようです。

それにしても、焼身自殺は衝撃的です。


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次もphayul.comからですが、
http://phayul.com/news/article.aspx?id=23945&article=Tibetan+Monks+in+Protest+March

http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/CN2009022701000997_World.htmlと一部が日本語になったものが見つかりました。

中国でチベット僧侶らデモ 地元暦の正月に合わせ

65812a71.jpg
 【香港27日共同】米政府系放送局、ラジオ自由アジアによると、中国青海省海南チベット族自治州貴南県で、チベット暦の正月に当たる25日、僧侶ら100人以上が県政府庁舎前で中国政府のチベット政策に抗議するデモを行った。

 チベット民族の間には昨年3月の暴動の犠牲者を追悼するため、新年を祝わないという動きが広がっており、デモも追悼の意味合いがあるとみられる。

 政府庁舎前のデモは約30分続いたが、地元指導者らの指示により解散。地元警察は27日、デモを呼び掛けた者に対し、自首しなければ厳罰に処すると警告したという。

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私たちはナンパラまでいって難民に会えなかったけど、難民が全然越境していない
わけではない。
ダム・タトパニ付近で川を越えカトマンドゥまで逃げてくる人はこのところひと月3,40人はいるのです。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=23923&article=Nepal+Police+arrest+7+more+Tibetans+fleeing+Tibet
そんなチベット難民をネパール警察は先週二度にわたって逮捕し、カトマンドゥの本局に移送しました。
先週の日曜日に5人、火曜日に7人が逮捕されました。


この次の日、中国の外務事務次官リュー・ジェイがカトマンドゥを訪問しました。

直前に越境するチベット難民を逮捕したのは、いつもの中国への機嫌取りの一環だったと思われます。


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次にN2氏の掲載記事の宣伝です。

3月2日「AERA」最新号にNODA氏の写真と記事が載っています
ナムチェで彼が校正してた記事です。
立ち読みではよくないが、、、それでも見てやってください。


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ナンパ・ラ行き最後の一日。

ナムチェ3450Mーーー>ルクラ2840M

もう書かなくてもいいようなものなのですが、ナムチェのネドゥン・シェラップさんから、さらに面白そうな話も聞いたので、飛行場のあるルクラまでの写真とお話を最後にご報告します。(おそらく最後でなくて、このあとカトマンドゥ編を一回は書くけどね)


三日間ナムチェで、このブログに載せたナンパ・ラ行き、最初の報告を書いたあと、
下界に降りたくなかったが、日本に帰るため、まずはルクラまで下ることにしました。
上りは二日掛けた行程でしたが、下りだし一日で降りることにしました。

ナムチェのネドゥンさんの奥さんと涙の別れ、このご夫婦は最高にいい人でした。
ネドゥンさんは荷物を預けたいこともあるからと、わざわざルクラまで私たちを送って行くといいます。
67歳で、片道7時間かかる山道を送って行くと!?
ま、このへんの年寄りの散歩!なのかな?と思うことにしました。

朝、いざ出発、最初は長い急な下りです。
この坂を、ネドゥン氏は転げ落ちるように駆けおりました。
おい、おい、この年寄り、本気かよ、、、と我々は付いて行くのがやっとでした。
ものすごい元気です。
ネドゥン氏と嘗てのチベット国境途中、チョモランマが見える平な場所で、ネドゥン氏曰く「この平な所に昔、チベット軍の要塞があったそうだ。昔はこの下の川を境に上がチベット、下がネパールだったという。
一度、対岸の丘の上に陣取ったネパール軍と激しい砲弾戦があって、この後の丘にできた崖はその時の砲弾の跡だそうだ。

写真の左の崖がその砲弾によって崩れた場所?。遠くにチョモランマが小さく写ってる。

ネドゥン・シェラップさんは中々の物知りだ。
私はよく山や町の地名の由来を彼に聞いたりした。
チョモランマとローツェ
「チョモランマってのはどうしてチョモランマなの?」と私。
ネドゥン氏「これには、元になるお経があるんだよ。
それによると、チョモランマはこの辺に山々にいらっしゃる5人の女神の一人、ミホランサンマの住む山ということだよ。
5人の守護神は
1、チェリン・マ
2、ミオ・ラン・サン・マ
3、チュペン・ティン・サン・マ
4、テカル・ドル・サン・マ
5、ティンギ・シャル・サン・マ

この内1、のチェリン・マが主神であり、ゴリシャンカール山に住むと言われている。この女神のことは聖ミラレパもその「十万歌」の中で何度も言及している。
2、のミオ・ラン・サン・マがお住まいの山がチョモ・ラン・マなのだ・
「チョモ」は女性に付ける敬語。「ラン・マ」は「ラン・サン・マ」を短くしただけだ」
とのことでした。

「ミオ」「ラン・サン」をチベット語で書いて確認していないのでこの言葉の基の意味ははっきりしません。

ナムチェの下の吊り橋
N2が嬉しそうな顔して渡っている吊り橋は嘗てのチベット・ネパール国境に懸っています。
橋にはタルチョやカタが沢山結び付けられています。




















モンジョの検問所
この吊り橋を渡って少し行ったところにまず立派な外人用のチェックポスト、次に粗末で小さな現地人、チベット難民用のチェックポストがある。
N2は遠慮なく子供を抱えたその警官の写真をバシバシと撮っていました。
こうなると、ネパールの田舎の警官は苦笑いするしかないわけです。


畑にイモを撒く
この辺の畑には上りの時には「チンゲン菜」が沢山植えられているのが目についた。
この「チンゲン菜」はダラムサラでも数年前から急に路上に並ぶようになった野菜だ。10年前にはダラムサラでは内にしかなかったものだったがな、、、
こんな山の中にまで中国野菜がね、、、でした。
下りる時には、ジャガイモが娘さんたちにより新しく埋められるところでした。



ヒマラヤ・サクラソウ 1 






















ヒマラヤ。サクラソウ 2












サクラソウ 3
上るときには道端に花は無かったが、帰る時にはナムチェからルクラまでいたるところに可愛い「ヒマラヤ・サクラソウ」が咲いていた。








ヒマラヤ・シャクナゲ
一本だけ赤い花がすでに満開の大きなシャクナゲの木を見た。
ダラムサラでもそうだが、今から3月にかけてヒマラヤの2000M前後の南斜面は真赤なシャクナゲの花で埋め尽くされる。



















道端の子供












巨大マニ石
大きなマニ岩を越えた後には、











ウエルカム・トー・ニュー・ネパール
「マオ・パティ(マオイスト共産党)」の作った「Welcome To New Nepal」のゲートがある。
こんなボロボロ・ゲートに歓迎されてもね、、、?







子供 2























シェルパの荷揚げ
途中、荷揚げのポーター達に沢山出会う。
食糧、燃料、建設資材とあらゆるものが、この下10日ほど歩いたところまで来ている車から降ろされ、人か動物の背に負われて運ばれて来るのだ。





ポーターやヤクは一キロ一日行程運び上げて20ルピーもらうのが相場という。
ヤクとかは一頭あたり7,80キロまでしか荷を載せることができないという。

人は何と100キロ以上!を運ぶ。強い男は120キロ、弱い男でも80キロ運ぶという。
実際、オイルを運ぶ男の荷の重さをポリタンクの容量で測ったことがあるが、確かに100キロ以上あった。我々が持とうとしてももちろんびくともしない。
運ぶ男たちはみんなやせ気味の小さな男ばかりなのだ。自分の体重の二倍の荷を担いで急な坂道を登るのだ。


杖を荷の下に敷き休むシェルパ休む時には杖を荷の下に敷いて休む。

途中ケルサンの家に寄ったりしてゆっくりしたので、ルクラまでは結局7時間かかった。すっかり春めき、新緑も目につく美しい里を沢山過ぎた。


















ルクラ飛行場
我々はルクラからフライトでカトマンドゥまで1時間も掛からず簡単に飛べるが、難民の場合は特別のスポンサーがいない場合、みんなこの道をさらに南に下がっていく。
一週間ほど歩いたところでやっとカトマンドゥ行きのバスに乗ることができるのだ。




ルクラからカトマンドゥへ
















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2009年02月26日

ダライ・ラマ法王ロサ(チベット歴新年)のメッセージ / ナムチェに帰るーーー第11日目。

昨日はチベット歴の新年、ロサ(ル)だったのですね!
移動日だったのですっかり忘れてました。

ナムチェのバザールに向かうヤク全く偶然ではあるが、今年はthe Earth-Ox Year (地・丑年)ということで、昨日雪山を行くヤクばかり載せたのは、チベットの今年の象徴でもあり、チベット人の躍進を期す吉兆の印だった、ということにしましょう。

何れ、今年の正月はチベット人にとっては喪の正月です。

最初に<法王・新年のメーセージ>を東京法王事務所のページよりコピペさせて頂きます。
( )は私の勝手な補足です。

原文英語は
http://www.dalailama.com/news.348.htm

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ダライ・ラマ法王のメッセージ:
http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/message/2009newyear.html
チベット暦丑年の新年をお迎えのチベット人のみなさまへ
2009年2月25日(チベット暦2136年1月1日)

チベット暦2136年丑年の新年を迎えるにあたり、チベット内外のチベット人のみなさまにご挨拶申し上げるとともに、平和と繁栄がありますよう、そして我々の義にかなったチベット運動が解決へと(gradual resolution )向かいますようお祈り申しあげます。

地球(planetary movements)は絶えず回り続けています。この動きには古いも新しいもありませんが、しかしその結果として昼があり、夜があり、ひと月があり、一年があります。その一年の廻りが満了したときの新たなはじまりを新年とする伝統は世界中にあります。雪国チベットにおいてもこれは同じです。1月1日を新年とし、宗教的にも世俗的にも入念なお祝いをします。しかしながら昨年、チベット全土のチベット人が中国指導部の政策に対する不満を表明し、これが広がったことへの答えとして、チベットに住む何百人ものチベット人が命を奪われ、何千人もが拘禁され、拷問されるのを我々は目の当たりにすることとなりました。

計り知れない困難と苦悩に直面している同胞のことを思えば、今年迎えた新年が祝賀やお祭りの雰囲気をたのしめるような時節にないことは明らかでしょう。 私は、新年の祝賀行事に浮かれ騒ぐことのない断固としたチベット内外のチベット人の行動を高く評価しています。正月を祝うかわりに、悪い行ないを排し、善い行ないに取り組むための期間として使うべきでしょう。そのように徳を積むことで、チベット問題のために命を賭した同胞をはじめ、亡くなった同胞がより高い次元で次の生を受け、仏教の悟りの境地に速やかに到達するように助けることができるでしょう。またこのような取り組みは、現在苦しみの最中にある人々が自由であることの幸せを速やかに享受できるように助けることにもなるでしょう。そのように徳を積むことを通して、我々は、義にかなったチベット運動が早期に解決するように全力で一丸となって取り組んでいく必要があります。

まさに我々が懸念していたように、チベットでは今、中国政府による弾圧キャンペーンが再開されており、チベット全域のほとんどの町において武装した軍や治安部隊が大量配備されています。チベット全域どこにおいても、チベット人の願いをわずかにでも暗示するような所作を示す者には、拷問と拘禁が待ち受けているのです。とくに僧院においては特別に厳しい規制が課せられており、愛国再教育が再開され、外国人旅行者の訪問も規制されています。さらには、チベット暦の新年を盛大に祝うようにとの挑発的な命令も言い渡されています。このような現実を見据えるなら、その背後には、チベットの人々を残忍で攻撃的なレベルの人種に貶め、どうしようもない連中だからいさめるしかないという流れに持ち込もうとする中国政府の意図があることが明白にわかります。そのような流れが現実となれば、中国政府はかつてないほどの想像を絶する弾圧を意のままに行なうことができるようになります。ですから、私はチベットの人々に対し、忍耐を貫き、中国政府の挑発に屈しないよう強く呼びかけさせていただきます。尊いチベット人の命を無駄にしないよう、拷問や苦しみに晒されないよう、忍耐を貫いてください。

チベットにおられるチベット人のみなさんの熱意、決意、犠牲心を私がどれほど称賛しているかについては、いまさら言うまでもありません。しかしながら、命を捨てることによって意味ある結果が生み出せるものではありません。とりわけ、非暴力の道は我々の変更不可能な責務であり、この道から逸脱することはありません。

最後に重ねて、すべてのチベット人が抑圧や拷問から開放され、自由であることの幸せを享受できるようお祈り申し上げます。

生きとし生けるすべてのいのちが幸せを享受できるよう祈りを込めて

ダライ・ラマ

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以下旅の続きです。

第11日目(2月14日)ターメ3840mーーーー>ナムチェ3450m

ターメ村を後にして
ナムチェに降りる日だが、ナムチェまでは4時間も掛からないということで、朝はゆっくりしたかった。しかし、ガワンはその日の正午頃まで開かれているナムチェの一週間に一度のバザールにどうしても行きたがっていた。一週間ごとにナムチェのバザールに買い出しに行くことになっているらしい。

それでゾッキョ一頭に二人のリュックを乗せて8時前にロッジを出た。
この辺の人たちは週に一度のナムチェで開かれるバザールに買い出しに行くことが楽しみの一つであるらしかった。道すがら色んな知り合いに会えるし、バザールでも友達に会えると言うわけだ。
実際ガワンはすれ違うすべての人と立ち話をし、村を通過するたびにいろんな人に声をかけられ話込んだりしていた。
急いでいるのは誰だったかな?、、、と思いながら、こちらはゆっくり写真撮ったりするのでした。

道はどんどん下がる。そのうち汗を掻くほど暖かくなってきた。木が益々増え、林の中の道が続くようになってきた。シャクナゲやシュクバの林が多い。
行きには見なかった梅のような花が咲いていて、チョウチョが留っている。シャクナゲの蕾も膨らみ始めていた。
もうすぐ春なのだ、と感じた。
野生ヤギ
突然道のすぐ下に動物が動くのが見えた。
茶色い身体に角が生えている。
最初、鹿かと思った。大きさは鹿を少し大きくしたぐらいか。
でも、初めて見る動物だった。
ガワンに「あれは何だ!?」と聞くと「・・という野生のヤギだ」とのこと。
(すみません・・のところの現地名は忘れてしまいました。Himalayan Wild Goatの一種)


ヒマラヤ野生山羊
焦げ茶の毛がつやつやと、目が鋭い、俊敏そうな動物でした。










マニ石2
道沿いにはいたるところに経文や仏像の彫りこまれたマニ石が立てかけてある。





















タモ尼僧院
途中、往きに寄って話を聞いたタモの尼僧院に再びおじゃました。
今回も他の尼僧は法要に呼ばれて留守ということで、この前の若いディンリ出身の尼僧が迎えてくれ。お茶とお菓子を頂いた。
この谷ではこの尼僧院だけに難民たちは立ち寄る。
これからも難民を助けてくれるようにと頼み、少々の布施を置いてきた。


タモ尼僧院の厨房左の写真は尼僧院の厨房。












タモの仏塔横にはチェックポスト
タモの村の下手に仏塔があるが、このすぐ横に警察のチェックポストがある。
最近ターメからここに移されたのだ。
写真には監視人が映っている。
もっともこのチェックポストは簡単に迂回できるので、知っていれば問題はない。



プルテの仏塔
プルテ村の仏塔。























途中のカンニ門の上に描かれた曼荼羅
プルテ村のカンニ門の天井に描かれているマンダラ。










ナムチェ前の村で
ナムチェ手前の小さな村で










ナムチェの前の村の洗たく場
村の洗濯場










グル・リンポチェと二人の明妃
グル・リンポチェと二人の明妃の彫られたマニ石









馬が下って来た。
馬が早足で下ってきた。バザールに行くのでちゃんと綺麗に飾り立てられている。








ナムチェ前の丘の上のマニ石とタンセルク



ナムチェのマニコロ堂の中に描かれていたルンタナムチェの町に入る手前のマニ・ラカンの中に描かれていた<ルンタ(風の馬)>























ナムチェ・バザールナムチェ・バザール3450M












ナムチェの部屋の窓から見えるタンセルクロッジの部屋の窓からこの眺め!
日当たりもいい。
ナムチェには高いがネットがある。
ナンパ・ラ行きのレポート早く山を降りる前に書きたいということもあり、ここに三日留まることにした。


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2009年02月25日

第8,9,10日目チュレ、ターメ村

今日、広島の家に帰ってきた。
家と言っても、海のすぐそばに、空家があるだけで、今は誰も住んではいない。
庭の梅の花だけが散り初めの満開だった。

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写真、特に今日はヤクの写真が多いです。
日本にいる時だけできることだから、この際沢山載せたくなったのです。

地図 2
遅ればせながらN2の作ってくれた地図を載せます。
クリックして大きくして見てください。





















チュレの我が家
第8日目、チュレ泊。






この日はそのままチュレに留まることにしていたので、朝からのんびり起き上がる。
ガワン達は山に放っておいたヤクを集めに川を渡り、反対側の険しい山に登って行った。
チュレのヤク1
この日は朝から雲が多かった。ナンパ・ラの方はすっかり雪雲の中に隠れた。雲はじょじょに下に降りて来て、午後にはチュレにも雪が降り始めた。
細かな粉雪だ。
あたりは見る間に真白になった。
ナンパ・ラに行くのが一日遅れていたら、雪でクレバスも隠れ、道も隠れ、到底辿りつけなかったであろう。

山に行ったガワン達を気遣い、対岸の山肌を眺めるとヤクが豆粒のように見えた。
ヤクが急斜面を横切っているのが見えた。
斜面を滑落するヤク
とその時、ヤクが続けて三頭、斜面を滑落するのが見えた。仰向けになり滑り始めたヤクは中々止まらず数十メートル下でやっと止った。
しかし、落ちたヤクはなかなか立ち上がらず、怪我をしたか、死んだのではないかと心配になった。
しかし、しばらくして三頭とも立ち上がった。大丈夫のようだった。

左の写真の真ん中あたりにヤク滑落の跡が見える。
下の方に落ちたヤクも二頭確認できるはず。


山から集められたヤク












無事帰ってきたヤク











干し草を沢山背負って帰ってきたガワン












小屋の前に並んで繋がれたヤクたち
やがてヤクたちは、川を渡り20頭のヤクが小屋の前に勢ぞろいした。










ヤクのおむすび
さっそくガワン達はツァンパとだん茶を混ぜ合わせた、▲おむすびを何個もみんなに与えた。









燃え盛るヤクストーブ
我々は蒸かしジャガイモをたくさん食べた。ここは4300mぐらいだが畑があり、ジャガイモがとれる。この高地ジャガイモはすこし赤身がかっており、甘味があってとても美味なのだ。もっとも毎日、朝からジャガイモばかりで少々食傷ぎみにはなるが、、、、




ガワン2
夜はガワンから長いインタビューを撮る。



















雪が降った次の日の朝、チョー・オユーが右奥に見える
第9日目、チュレ4300mーーー>ターメ3840m。










第10日目ターメ泊。

yak 2
雪の中、20頭のヤク、2頭のゾッキョと共にのんびりターメまで下る。
往きとは違う川の反対側の道を通る。









yak 3
高度が下がるにつれ、じょじょに這松状態だったシュクパの木が立ち上がりターガでは森も現れ始めた。








yak 4













ターガの仏塔とヤク
ターガの仏塔を越え、美しい、懐かしいターメ村に到着。























yak 5
ターメにはホットシャワーとまともな飯が待っている。
ターメのロッジに着き250ルピーのホットシャワーを浴びると、峠行きもこれで終わったな、、、との実感が湧いてきた。





ターメ村に帰る
ターメは気持ちの良い処だし、ターメ計画の話もあるし、、、なので二泊することにした。

ガワンとアン・サンポの家に遊びに行った。






アン・サンポの家に飾られるチョモランマ登頂記念写真
アン・サンポの家には彼がチョモランマに何度も登頂した時の写真が掲げられていた。
「チョモランマに登るのは簡単かね?」と訊くと、
「あんなとこに行くのはニョンパ(気違い)のやることだよ。
でも一度登頂に成功すれば三年分の稼ぎになるからね。
いやだけどやるだけさ。隊にもよるよ、ある隊はシェルパを気遣ってくれて無理をいわないし、成功した時はボーナスをたんまりくれる。
ある隊はやたら沢山我々に荷を負わせ、先に行って引き上げるように要求する。
この前のベトナム隊は最悪だったね。軍人のグループだったけど、自分たちは全く登れないくせに、登れなかったことを全部シェルパのせいにしていた。
ピーク前の数日は気ちがい沙汰だ。
ほとんど眠らない。それで頂上に立った後、降りる頃はふらふらだ、だから降りるときに死んだりするやつが多いんだよ」とのことでした。
アン・サンポの家族
アン・サンポの家でチャン(チベットどぶろく)を勧められ、今までは欲しくても全く飲まなかったのだが、もう終わったというので、この日は頂くことにした。
そのチャンが又濃くておいしい。奥さんと可愛い娘が盛んにもっと飲めとすすめる。
3杯も飲まなかったが二人ともしっかり酔った。
酔ったどころか、ロッジに帰ったころには息が上がりハアハアになった。頭も痛くなってきた。それから二人とも何時間もベッドに倒れ込み、こんな低地で高山症状を呈することになったのでした。
こんな強いチャンを毎朝歩き始めに飲んでいた3人は信じられないやつらだ、と今更ながら痛感しました。

ところで、この時期ターメに来るトレッカーなど一人もいないはずなのに、なぜか同じ時間に大きなグループが同じロッジに入ってきました。
外人にチベット人の若者、シェルパなど総勢30人は超えています。
最初はなんだか騒々しい大げさな奴らだな、機材もすごいし何かの撮影隊のようだな?と思っていました。
マリア様 2
夕方、食道でボスらしい女性の顔を見ながら、N2が「ひょっとしてあの女性<マリア>という例の<ヒマラヤを越える子供たち>を撮った監督じゃないかな?あの顔はネットで見たことがあるよ」と言い始めました。
「へえ!そうなの。道理で大掛かりだよな。また撮影なのかね?」と
隣の隣にいた、その<マリア>さんに私が声を掛けました。
「ひょっとしてあなたはあの有名な<Escape over the Himalayas>を撮った監督じゃないか否」と尋ねると、一瞬戸惑った顔をした後「そうだが、どうして分かったのか?」と聞いてきた。
「連れがあなたの顔をネットで見たと言ってるからね」
と言う会話から始まり、それからいろいろ話しをした。
第二作目を2007年に出し、今回は三作目を撮影するために来たとのこと。

詳しい内容は教えてくれなかったが、どうも15,6歳の亡命チベット人の高校生を連れていたから、彼らを使って何か回想録風な映画をとるものと思われた。
もっともナンパ・ラまではいかないとのこと。向こうからくる難民を待って撮影するつもりでもないらしかった。
医者も含む外人スタッフはドイツ人とスイス人合わせて5,6人。チベットの子供が6人、もっとも彼らは別にナンパ・ラを越えてきたわけじゃないと言ってた。
見てると彼らのスケジュールはきっちり決まっているようで、常に細かい指示が飛び交っていた。「さあ、7時だ、みんなこれから手を洗って!」と医者が指示していたがこれには笑えた。
歌の練習の時間が何度もあった。
道に出て、何度も同じシーンを撮ったりもしてた。
シナリオが最初からしっかり決まっているようだった。
「ドイツ人はすごいですね、こんな山の中でも時間どうり進めないと気が済まないようですね」とN2.
「ドイツもA型社会だからね」と私。


ヤク30頭に乗せたテント、充電用太陽パネルなどが先に送られているとも言ってた。
我々とは大違いの、いかにも金の掛った撮影隊を見てN2は「山に入っても気持ちいいテントに寝てうまいディナー!を毎日食べるんでしょうね、、、、でも奴らはどう見てもナンパ・ラなんかには聞けそうにないですよね」と少々うらやましそうな、小馬鹿にしたような口調。

ポーズを決めるアン・サンポ
「ま、我々も今度来るときはI氏といっしょにヤク50頭で登るかね!N局も来たがっていたしね、、、でも今回は十分二人で楽しんだじゃないか、仲間は最高だったしね!難民には会えなかったけどね、、、
君はもう<山渓>とかに写真持ってくしかないかもね!?ヒヒヒ。でも十分沢山いいインタビューも撮れたし、本でも映画でもできるんじゃない」
と私。
「ううう、、、僕はこれから今度はダムの方に行ってどうしても難民を捕まえますよ!」と
まだまだ熱く、疲れと、足るを知らないN2でした。





ターメ村より、左からカンテガ、タンセルク、クスンカンの三尊山











ターメよりの名峰三山











ターメの朝


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2009年02月23日

第7日目 ナンパ・ラを後にして

第7日目。カンチュン5200mーーーー>チュレ4300m

カンチュンを後にチュレに下る
今日は下りと言うことで、登りに二日かけた行程を一日にして、チュレまで一気に降りることにしました。

連中は鼻歌まじりにヤクを追いならがどんどん下っていきます。
それでも最初の方は相変わらず氷河渡りです。
ガワンは崖の上の危なっかしい石をわざと下に落としながら進みます。
一つの石を落とすとそれにつれて下の方の石も落ち、最後はゴーといういう音と共に砂煙が上がる、大きな雪崩のようになって氷河の底に消えていきます。
ルナックの岩屋を過ぎる
ルナックで少し休憩。でも昼食のために火を起こすことはなく、すぐに出発。
ここにあった難民の子供の靴を、N2は拾い日本に持って帰るとことにした。









チョー・オユー 2
この先に行くと見ることのできなくなるチョー・オユー(8201m)に、これからもチベット難民を見守り、助けてくれることを祈願する。



チュレに行くにはどこかで川を渡らないといけなかった。
ヤクとアン・サンポとケルサンは先の方の橋に向かった。












チュレへの川渡り
ガワンと私たちは川の上にできた氷と雪の橋を渡ることにした。
ガワンが先にたち、私がそのすぐ後ろを同じ足後をたどる。慎重に一歩ずつ足を前に出す。
川の真ん中あたりに来た時、突然ガワンの踏み出した足の周りが一気に崩れ落ちた。
すぐに私が手を伸ばしガワンがつかまりまる。と、今度は後ろ足の方も崩れ始める。
あ、やばい!と思った瞬間。ガワンは両足をいっぱい広げて流れの前後にあった、岩に足を乗せかろうじて川に流されず持ちこたえています。下の川の流れは強く靴はもう川に浸かっています。
私は力いっぱいガワンの手を引いた。
何とかガワンは流されることなく上がってこれました。

それにしても雪と氷の下のどこに岩があるかなど全くわからないのに、崩れたとき一瞬にして足を開きちょうど前後の岩に留まったガワンのカンの良さには驚いた。
きっと、隠れた岩の位置を知っていたのでしょう。
それにしても危ないところでした。川が狭まり流れが強い場所だったので落ちていたらあっという間に流されていたことでしょう。
左の写真が崩れる前の現場。

チュレの古い仏塔
チュレはこの谷最後の夏の村です。今は誰もいない無人の村。
我々と彼らが放っていたヤクだけが美しい枯草の草原の仮の住人でした。







チュレから夕日のナンパ・ラ方面を見る

アン・サンポはここに二棟の山小屋を持っていました。
久し振り、といってもたった三日ぶりの屋根付き家ライフ。
N2は外にテントを張ってましたが、私は隣の小屋に泊めてくれとたのみました。
「でも、小屋は綺麗でないよ。外人はまず泊まろうとしないよ」とのこと。
中に入ると確かにヤク小屋のようでもある、でも広くて私は気に行った。
だいたい私はダラムサラの裏山で、これよりもっとひどい小屋とか岩屋に毎年数か月過ごしていた時期もあったので、その小屋は相当上等なのもに思えたのだった。
小屋は二階建で下は家畜小屋だった。面白いのは二階の床は木ではなくこの辺の芝の表土を切り取って乗せてあることだった。気をつけないとところどころに開いた穴に落ちそうではあった。
チュレのアン・サンポの小屋
彼らの小屋のかまどには盛大にヤク糞がくべられた。
今日の夕食は素ラナ・ヌードルではなく、米とジャガイモが食べられるとのこと。
これを聴きN2と私は歓声を上げた。この三日間、二人の胃袋は相当ひもじい思いをしていたからでした。

その夜は、オイルランプの灯のもと、落ち着いて再びガワンに峠を越えてくる難民の話を聞くことができました。
チベットからの帰りに難民に何度も会い、助けたこと。ナンパ・ラが吹雪くとどういうことになるか等、詳しく話してくれました。







チュレの月
彼らはここにもう一泊しようと言いました。
この辺に放してあるヤクを明日集め、明後日一緒にターメまで下ろしたいというのです。
ここが気に入った私たちはすぐに同意しました。






チュレ、星と月明かり映える山
夜外に出ると、月明かりで村を散歩できるのです。
星も月も山も村も清浄そのものでした。










N2は「ここはインカの遺跡みたいですね」と言った。
月明かりのチュレ

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2009年02月22日

第6日目 ナンパ・ラ

昨日の昼3時ごろカトマンドゥを発ち、デリーを経由し、今日の朝東京に着いた。
これから二週間ほど日本にいる予定です。

今日は特に写真が多いですよ。

ーーーーー
カンチュンからナンパラへ
第6日目 ナンパ・ラへ
カンチュン5200m―――>ナンパ・ラ(峠)5741m-------->カンチュン


いよいよ今日はナンパ・ラを目指す日だ。
前の晩にガワンが「明日は長い一日になるだろう。できるだけ早く出よう。そうしないと夕方までにここに帰って来れないから」と言った。

暗い内から彼らのテントが動き出した。
風は少しも弱まらない。
私はどうせ寝ていなかったのですぐに起き上がる。
夜中何度もゴーーーという雷のように大きな音が谷に響き渡っていた。落石か雪崩であろう。

夜は寒かったが、私はー30度用の寝袋に寝ていて凍えることもなかった。
難民たちは寝袋も持たず、岩陰に身を寄せ合って眠るのだ。
状況は大違いだ。

テントの中は雪が降った後のように、いたるところに小さな氷の結晶が積もっていた。

彼らのテントに行くとすでにヤク・ブリキ・ストーブには火が起こされ、お茶の用意ができていた。それでも寒かった。テントは風で揺れ続けていた。
ガワンたちは朝からラナ・ヌードルとツァンパを食い、いつものようにホット・チャンを飲んだ。
今日も昼飯抜きで、おそらく12時間近く歩くはずだった。
我々はムスリに乾燥ミックス・ナッツを足し水を加え沸騰させる。それに粉ミルクを加えたものを朝食にする。
途中はN2が日本からわざわざ持ってきたカロリーメイトとチョコレートでしのぐことにする。
同じく今日は日本からのホッカロンを身体につけ、ポケットに入れた。
もっともこのホッカロン、この日は全く効いたようにありませんでした。
寒すぎると効かないようです。酸素が少ないせいかな?
ナンパラ氷河舌端部
テントとヤク二頭はここに置いていくという。
大丈夫?と聞くと、「だれが今頃こんなところに来ると言うんだ、誰もここを通るものはいないよ」とのこと。
置いて行かれるヤクは少し寂しそうでした。

みんな急いで出発の準備。
私は一つだけ迷っていました。
ここまでは夏用のメッシュが至る所に入っているランニング・シューズを履いて歩いてきたのですが、ここからは流石に雪と氷がある、カトマンドゥで買った登山靴を履くべきか?と思ったのです。
しかし、履いてみてやっぱり重すぎると思い。夏用で行けるとこまで行こうと決めたのでした。

辺りが明るくなってきた。
6時45分出発。N2が「−25度ですね、、、」と温度計を見て報告。

歩き始めたが、向かい風が強い。顔にまともに風が当たり。寒い!
ゴーグルを取り出し、目だけが出る帽子を被ったが、口がふさがり却って息苦しくすぐに脱ぐ。
風で時々身体がバランスを失う。体が浮きそうにもなる。
「風が酷いね」とガワンに言うと、「こんなの風の内に入らないよ!本当の風が吹くと石が飛び、ヤクも飛ぶ!」との応え。
氷河3
氷河はじょじょに険しくなり、アップ・ダウンが続く。足元の石は崩れやすく、落ちれば終わりの絶壁が続く。
ガワンは危ない場所を見つけると、50キロはあると思われる大きな石を動かしたりして、道を直しながら進む。
難民が通り、自分たちのヤクも通る大事な道なのだ。
それでも氷河の上の道は氷河の移動に伴い常に変化する。一年前に通った道が無くなっていることはよくあるという。
まるで、迷路のような道を行く。
ガイドなしでこの道を越えられるとは到底思えなかった。








ナンパラ氷河 4
思い出せば、私は20数年前、エベレストの氷河を一人で渡ろうとして、道を失ったことがあった。それでも進んで行ってた時。突然視野が狭くなったかと思うと、そのまま気を失い倒れた、ということがあった。
どれほど気絶していたかは定かでないが、そのあと確かに意識はもどった。でもそのまま数十分間は手足がまるで動かなかった。不安になったがどうしようもない。そのうちじょじょに手足も動くようになり、やがて立ち上がり、ふらふらだったが、何とか下に降りることができた。
前日に6000m近くまで登った後の後遺症が翌日に出たということだろう。
そういうことはよくあると聞いてた。
その上に氷河で道に迷ったストレスが加わっていたのであろう。

―――

ナンパラ氷河 2
この日、私は本気だった。登りでは向かい風も加わり相当の努力が必要だった。
それでも、何にも考えず、大きな声でマントラを唱えながら、がむしゃらに登った。
今日の彼らのペースは一段と速い。
ほとんど休みも取らない。
山を越えて陽がさすようになると少しは暖かくなった。

数時間歩いた後、いよいよ目の前に青氷の氷河が現れた。
これはこれは、と思った。いよいよ登山靴の登場か?
と思っていると、ガワンが「予備の靴下はないか?あればそれを靴の上に履かせると滑らない」という。

靴下がアイゼン?
はっ!靴下?アイゼンの代わりに靴下ね、、、!?
さっそく、私は二枚履いていた靴下のうち一枚を伸ばして靴の上に履かせた。
(左の写真は下りで氷を越えたころ、すでに擦り切れてしまった靴下です)



それから、まずは氷の階段、次につるつる氷の平原が数百メートル続いた。
確かにすべりは相当緩和された。布地が氷に張り付く感覚があった。
それでも、ガワンの手を借り、スティックをヤクのフンの欠片によりできた小さな窪み目掛けて突き刺しながら、恐る恐る進んだ。
私は一度転んだだけだった。N2は3度転んだとか。
ナンパラに近づく
氷の傾斜平原の後は、雪が薄らと氷の上にのった、広い氷河の白い平原がナンパ・ラまで続いていた。
もう峠は見えていた。しかし、それからの登りが以外と長かった。







クレバス
途中には、ほぼ十メートルおきに左右に長いクレバスが走っていた。
今は上に雪がなく、クレバスの位置ははっきり分かった。
それにその幅も30〜40cmが多く、大きなものは見なかった。
しかし、これが少しでも雪が降った後であったなら、クレバスの上には薄い氷と雪の膜ができ、まったく隠されてしまうはずだった。
気を付けて進まなければ、クレバスに落ちるのは確実と思われた。
時にはヤクも落ちるクレバスもできるとガワンは言ってた。








ヤクの死体
先に動物の角だけが氷の上に見えた。近づいてみるとその下にヤクの頭の骨が見えた。
その下に死んだヤクが埋もれているのだった。
人もヤクもここで死ねば、じょじょに氷河に沈み、埋もれ、流されて行くのだ。

峠のラプツェが目に入った。タルチョが沢山結び付けられていた。
このラプツェが見えるとみんな歓声を上げた。
私もここで最初の<プー・ギェロー!>
風は強いままだったが雲ひとつない快晴。

ナンパラよりチベットを眺める
峠に着くと、チベット側が遥か遠くまで見渡せた。
この日、少しチベット側は霞んでいたが、クリアーな日にはラツェの町やディンリの裏山も見えるということだ。

峠の幅は200mはある。
チョー・オユーが右手に見える。簡単に登れそうな感じだった。

峠のチベット側、右下手に2006年、16歳の尼僧が撃たれて死んだ場所、ザ・ポアが見える。
あれは、9月だったはずだが映像を見る限り、今よりずっと雪は多かったはずだ。
狙われれば全く隠れるところのない場所と解る。
その時、峠を目の前にし、突然尼僧が倒れ、銃砲が峠に響き、銃弾がいたるところに降って来たという。このときの様は今インドのスジャ・スクールに学ぶ6人の子供に詳しく聞いたことがある。とにかく、みんな峠のラプツェを目指して必死に苦しい坂を登ったという。

タルチョを張る
峠に着いてまず、みんなのタルチョを張る。
ガワン達は特別の方法で広く、長く、クロスに張った。
そして、長い長い祈りのお経を上げていた。
私も、これまでのすべての、この峠を越え逃げなければならなかった人々の苦難、悲哀を思い、死んでいった子供たちの事を思い、胸が一杯だった。

峠のラプツェにチベット国旗掲揚
その後、今度はラプツェにガワンがよじ登り、一番上にチベットの国旗を立て、しっかりと結びつけた。
よく見ると、ラプツェにはタルチョよりカタが多く結ばれているのに気づいた。
亡命者が近しい人たちからチベットを離れる時貰ったカタをここに結びつけたのであろうか?
何れにせよ、解放の喜びの表現だったはずだ。

国境の境界を示す塚とチベット国旗
国境を示すセメント製の小さな塚が傾きながら立っていた。中国側には「中国 62」と書かれている。62年は中印戦争があった年だ。この戦争の後、立てたものと思われる。
我々は中国という文字の横にチベット国旗を掲げ記念写真を撮った。

N2がもっとここに居ようと言ってたが、ガワン達は早く降りないと寒くなる、暗くなるという。一時間ほど峠にいたあと、峠を後にし降り始めた。


氷の階段をガワンに助けられながら下るN2
下りの氷の上はさらに滑りやすかった。
左の写真はN2が最後の氷の階段をガワンに助けられながら降りるところです。

その後の氷河の中道は朝方の登りより余程長く感じた。
N2も同感だった。どうも朝方の登りでは、アドレナリンなりドーパミンなりが余程脳内に放出されていたようで、必死だったので長さを感じてなかったようだった。
二人とも朝の記憶があまりないことに気づいたものだった。







ガワンのさるぶり
なかなかカンチュンに着かない。足はもう限界に近くなっていた。ひざも痛み始めた。
でも、もう目的を達成した(難民には会えなかったので、半分だけ)ということで、気はずっと楽になっていた。


途中、あまりに美しい氷河の造形を氷の湖の上に見つけた。
ガワンがまず氷の上に寝そべり、泳ぐマネを始めた。
私も峠に続いて馬鹿なヨガ・パーホーマンスを始めたりした。




カンチュンのテントに帰る
夕方5時過ぎ、二頭のヤクとテントが待ってるカンチェンに戻ってきた。
長い一日だった。

夕食はラナ・ヌードルのみ。
その夜は風も止み、静かな夜だった。
疲れていたが、息がヨガのプラーナ・ヤーナのように自然に深く長くなるのが面白くて
中々寝付けなかった。

氷河ルンタ



















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2009年02月21日

第5日目 ルナックーー>カンチュン

第5日目、ルナック・ダラムサラ5090mーーーー>カンチュン5200m

今日は高度差こそ大したことないが、そのほとんどが氷河上の道なので、相当きついと覚悟して歩き始めた。
アン・サンポのヤク追い
しかし、すぐに登りで息が切れる。
大体いつもペースが少し早すぎる。まずヤクのペースが速い。
本当はそんなに早くないが人が先へ、先へとせき立てる。
このときの掛声が面白い。まるでヤク語を話して(怒鳴って)いるようだ。

例えば「ドーオー!ウリ!」は「行け坊主ヤー」。「シューウー」は「止まれ」。「ショー!」は「こっちへ来い」。これらはチベット語そのものだ。
しかしその他「ソヤ!」「オリャー!」「オ、ロロロロロロ」「オ,ツォツォツォツォツォ」「オ、ホホホホホホ」とかいろいろ話すが意味を聞いても訳せないとか言ってる。
ガワンは「アン・サンポはニョンパ(気違い)だからヤクとの話に意味なんかないのさ」とコメント。

アン・サンポは口笛と掛声と石投げでいつも先頭切ってヤクを追いたてて坂を駆け上がる。
ガワンは大体お経を口ぐさみながら進む。ケルサンは近道を探りながら先に進む。
我々はついていくのがやっとだ。特に登りになるとぐっと遅れる。肺と心臓がオーバーヒート状態となる。
ガワンが子供の死体を見つけた場所を示す
少し行ったところで、ガワンが先の大きな岩を指して、「あの岩のうしろあたりで女の子が死んでたよ」と突然言う。
詳しく聞くと「そうだな、ディンリからの帰り道、7,8年前だったと思うが、、、秋だったが、その時には雪が沢山積もってた。道の先に雪に半分埋もれた、人のような塊を見つけた。近づくと確かに死んだ人だった。
7,8歳の子供のようだった。男の子か女の子かわからない。ニンジェ(可哀そうに)、仲間と一緒に氷河に埋葬したよ。雪で仲間とはぐれて行き倒れたのだろう。
うつ伏せに倒れて死んでたよ。ニンジェ」と話した。
オーマニペメフーン。
途中のラプツェにタルチョを結びつけるガワンたち
氷河の真ん中の小高い丘にラプツェがあった。ここでもガワン達は持ってきた新しいタルチョを結んで長いお経を上げていた。
自分たちもナムチェでタルチョを買ってきてたが、一張りづつしかなく、ナンパ・ラ用に取っておくしかなかった。







疲れ気味のN2
左の写真に小さく写っているのはN2だが、今日は彼ははじめから遅れ気味。きついきついと言っている。だいたい撮影機材を身につけ過ぎているから、重いに違いないのだ。
今日は予定ではザザンパと呼ばれる峠の前のキャンプ地までのはずだったが、N2の調子もよくないので手前のカンチュンに泊まることにした。
しかしその分、明日の峠までの行き帰りは相当長くなるはずだった。
テントの外に集められたヤクフン
着くと陽のあるうちにヤクフン集め、水くみ(氷世界で水はほんとに限られたところにしかない。冬も水があるところがキャンプ地となる)、ヤクの餌作りと忙しい。





ケルサンが集めたチベットの藁
ケルサンが藁を集めていた。これらの藁はみなチベットからきたヤク隊と一緒に、ヤクの餌としてここまで運ばれ、散らばったものだという。ケルサンはそれを一本一本集めてヤクにやっていた。

ガワンはいつものようにダン茶(中国の成都あたりからここまで運ばれてきた・カム茶)を湯でほぐし、多量のツェンパ(自分でディンリから運んできたチベット産)と混ぜて、最後に日本の大きめの△おにぎりそっくりの形にして並べている。
ヤクの口に一口ずつ手で与えるのだ。
いつも家族同然に大事に扱っている。
はっきり言ってヤクの方が食費が高くつく!
自分たちのたべるのもツァンパばかりだ。
カンチュンのテント場、小さいのか私のテント
今日は、私は自分一人のテントを張ることにした。
ナムチェでテントを二張りネドゥン氏から借りたが、小さい方のテントは前のルナックで張ってみて、あまりにひどいので使えないということになっていた。
何しろそのテントはどう見ても夏のビーチ用と思える代物で、いたるところがネットになっていて風通し抜群の夏仕様だった。
それでも、私は今日は一人で静かに寝たいと思ったのだ。



ナンパラ方面
テントを張り、目立つネットの上にテーピングを施した。
陽が山肌に隠れると、外はー20度を切った。






ガワンの持ってきたヤクのしゃれこうべ2
ガワンはどこからかヤクの頭の骨を持って来て岩の上に置く。
「どうしてそんなものを持って来たのか?」とN2。
「この辺で野たれ死んだヤクだ。ニンジェと思って持って来たのさ、、、」との応え。





ジョオ・ラプサンの山影に消える西日












ジョオ・ラプサンとビーナス
空には一番星・ビーナスが輝いた。








今日は満月。チベットでは今日が一年で一番寒い日と言うことになっているそうだ。


満月
その夜は一睡もできなかった。
ナンパ・ラ下ろしの強い北風が朝までテントを揺らし続けた。
飛ばされるのではないかと何度も思った。テープはすぐにはぎとれ、テントは外と変わらなかった。その上テントの表面が凍り、それが雪のように顔に降りかかる。


夜中何度も外に出て満月に輝くナンパ・ラ氷河を見た。


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2009年02月20日

ナンパ・ラへ第4日目

第4日目、アーリヤ(Arya)ーーー>ルナック・ダラムシャラ(Lunak Dharamshala)
5090m

lunak dharamushala
今日からいよいよ氷河地帯に入る。と言っても、ルナックまでは氷河のサイド・モレーンという側道を行くことがほとんどで道は楽と言える。それでも、今日は高度を700m近く上げるので息は相当苦しくなってくる。

アーリヤから今までの二頭のゾッキョに代わって二頭のヤクが荷役としてお供することになった。これから先の高地ではゾッキョでは難しく、寒さと険しい道に強いヤクに変えられたのだ。もっともこの二頭のヤクには角がない。この生まれつき角のないヤクは「ヤー・ウリ」と呼ばれる。「坊主ヤク」とでも訳せようか。

ガワンが「今日からヤー・ウリといっしょだ。ダライ・ラマ法王もチベットを逃れてヒマラヤを越えたときはヤー・ウリに乗っていたんだよ。角があってはもしものことがあるからな。大事な人にはヤー・ウリがお供するのさ」と解説する。

そのころちょうど目の前にチョー・オユーが見えていたが、ガワンが「チョー・オユーは本当はジョオ・ウリと呼ばれてた。角がないからな」とも言ってた。
ジョオとはラサのジョカンの本尊であるチベットでもっとも御利益の有るとされるブッダ・シャカムニの像のこと。ということは坊主のシャカムニということになり、意味ないようにも思えましたが、確かにチョー・オユーはチョモランマに似て険しい角は生えてないのではあります。

ヤクにはそれぞれ名前が付けられているものだ。
一頭は口元が白く、角がないので「セラウリ」。二頭目は額が白くて角がないので「カワウリ」と呼ばれている。だいたいヤクの名前は頭と尻尾の色によって付けられることが多いそうだ。

map 1
ここでもう一度、地図を載せます。大きくしてみると解り易いです。

地図上右下端がNamuche Bazar。左手上がナンパ・ラです。
凡そ片道40〜50キロの行程でしょう。

二枚目はN2くんが即席に作ってくれた、より解り易い略図です(アップできませんでした)。

アーリヤを出て数時間後、一度氷河を渡る。これは最初の難所だった。道は崩れやすく、アップ・ダウンの連続だ。氷河の至る所に丸い氷河湖があり、その周りはほぼ垂直に落ちる壁だ。落ちるとまず助かる見込みはない。ガワンの唱える経文の声も大きく成りがちだった。
私もいつからかマントラを唱え始めていたが、登りになると自然に声が大きくなる。
それも
観音の真言のオーマニペメフーンより、仏の力の象徴とされる金剛手のオームバジュラパミフーン!とか、かつて五体投地とともに沢山唱えたバジュラサットヴァの百字真言とかが力が入りやすく良いようだった。真言を唱えることは精神状態改善と共に大きく息を吐くので高山症状緩和にも大いに効果があることは間違いない。
ガワンはニンマ派なのでパドマサンババの真言オームアーフーン・ベンザグル・ペマシッディフーンが多いようだった。

この真言だが、私は今回は観音の真言のオーマニペメフーンを唱え始めると、必ず胸がつまって涙が出そうになってくるのだった。きっとこの難路を越えていた何万人というチベット人の多くはこの真言を唱えながら歩き続けたに違いない。
時には、吹雪の中生死を彷徨いながら唱え続けたものもいたであろう。今までに無数の羊が死に、ヤクが死に、人も死んでいった。
ガワンも峠近くの氷河には何人もの子供の死体が埋まってる、と言っていた。
ひどい吹雪になれば3,4時間でも人は死ぬことがある。そうでなくても峠で二日雪が降り続けばヤクでも死ぬ、と。

神・仏に見える雪山に囲まれ、この氷河にはいったいどれだけの死体が凍りづけになったまま埋まっていることだろう。
何百年、何千年の後、氷河絶端部から吐き出されることであろう。
このナンパ氷河はヒマラヤでいちばん悲しい氷河に違いない。
美しいチベットを捨ててどうしてこんな厳しい峠を越えなければならなかったのか。
悲しいことだ。

途中の小高い丘にはラプツェがあり沢山のタルチョが結びつけられていた。ガワンは自分のタルチョを結びつけながら、長いお経をあげていた。

lunak
ルナックには4時頃着く。ここには二件の岩屋があった。








ルナックの岩屋の中
峠を越えてきた者が初めて屋根の下で寝れるところと言う。でもその中を覗くとヤクの骨ばかりが散らばる不気味な空間だった。
我々は外にテントを張った。







靴とヤク
テント場の周りには打ち捨てられた靴が目立った。子供の靴が多かった。何故、靴が残されているのか解らなかったが、それらは亡命チベット人たちの残したものには違いなかった。















難民の子供の靴ボロボロになって捨てられた靴を見てるといろんなことに思いが巡った。











夕日のジョオ・ラプサン
夕方、正面に見える、美しいジョオ・ラプサンが夕日に染まった。

今日からは一日二食。それも朝はムスリに乾燥ナッツを加えたもの。歩いた後の夕食はラナ・ヌードルという即席ラーメンだけだ。
気温も朝晩はー20度を切るほどになった。
N2と二人で小さなテントに寝るが、高度のせいか眠れない。その上にN2のいびき、タバコ吸いの咳(N2こんなこと書いてごめん)、年寄り私の、冷えからくる夜中の小水とかで、その夜はほとんど眠れなかった。
少し寝てもそのたびに、あまりにヴィヴィッドな夢を見るので寝た気がしなかった。



















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2009年02月19日

第三日目 アーリヤ

第3日目。酸素量も60%を切ってきたということで、アーリヤ4300mに高度順応のためもう一泊することにした。
アーリヤのヤク
朝、ヤクベルの音が沢山聞こえてきた。外に出ると20頭ほどのヤクが上から下りて来た。

今日はゆっくりしていようと思っていたら、N2は、写真家の性分なのでしょう、丘に登ろう、先のチュレに行ってみようとじってしてられない。川の反対側、少し先のチュレに行くことにした。
連れの三人がそこに行ってるはずだった。
アーリヤの川渡り
昨日、3人は我々をアーリヤの宿に届けた後、ゾッキョをつれて川を渡るのを見た。ゾッキョは川に入り渡る。人は細い丸太の一本橋を怖々と渡っていた。
それを見ていた、N2は、私がまずあの橋を渡ろうというと、いやいやあそこは危なすぎる、もしもたくさん身につけている写真機材が濡れたら大変だし、という。
それではと川の右側をそのまま登る。どこかで対岸に渡れるだろうと先に進むがなかなか渡れそうなところがなかなか見つからない。やっと一か所、橋が掛っているところが見つかった。
マニ石 オーマニペメフーン
しかし、その橋は前のよりもっと危なそうだった。まず川の中にある、大きな岩の間2mぐらいをまず飛び超え、次にまた細い細い一本橋を渡るというもの。それにしてもだれがこんなことを渡れるというのだろう!?原人用としか思えなかった。

私はもうここしかないと思い渡ろうとしていたが、またN2は、いやいやこれはやばすぎますよ、とまだ決心がつかない様子で先に進む。相当上流に行って、やっと川が凍っている、渡れそうな場所を一か所見つけた。私がそろそろと渡り始めた。もう少しというところで、氷が割れ、片足が川に浸かった。大したことはなかった。

しかし、この辺は川が広がり何本にも分かれていた。それからまた川。もう私は靴脱いで、川に入るしかないよ、と言い始めていたが、N2はなかなかその決心もつかない様子。

私がはじめに靴を脱ぎ川に入った。もちろん冷たかった。流れも程よく強くて、下の石も苔むし滑りやすい。一つ渡ると冷たさに、頭の芯まで痛くなった。連続でもう一つ渡る。全身冷たい鉛になったようい感じた。

ここで、亡命者から嘗て何度も聞いたことのある渡川の話を思い出した。亡命者の苦労を味わうための旅だから、これもありなのだ、と納得した。
N2は中々入らず、上流に向かっていた。でも最後には川に入り渡ったみたいだった。
チョー・オユー
渡った先のチュレはこのあたりの遊牧民の夏の村だ。古い仏塔があり、そのあたりからチョー・オユー(8201m世界第6位)の頂上がよく見えた。

連れの3人のいる家を探して河の下流に戻る。ずいぶん戻ってアーリヤに近い当たりに見つけた。アン・サンポの夏の家にもう一人の若いシェルパと一緒に3人はヤクのフンを焚きながらくつろいでいた。村には彼ら以外だれも居なかった。
彼らはまだ、このあたりに自分たちのヤクを放っていたのでここに泊まりたがったのだった。
チュレの家
この家にナンパ・ラからの帰り道、二日間泊まることになったのだった。

さて、帰りはどの道、どの橋を通るか?N2は同じ道を引き返すという。
私は彼らが渡った橋を行くという。結局橋を渡った。橋に近づいて見ると、橋の上には川からの飛沫で氷がびっしり。これは、これは、、、。私がスティックで氷を割り、できるだけ掃除してからゆっくり渡った。幅は20cmも無かった。
N2も後から、何とか渡った。
夕方、無事宿に生還。チベットでは河が移動の障害の第一と、少しは理解できた一日でした。
アーリヤの宿で見つけた自分が設計した仏塔の写真
夜、ふと宿の仏壇にこんなところで思わぬ写真にお目にかかった。
法王のお写真の横に自分がインドのデラドゥンで建てた(設計した)仏塔の写真があったのだった。こんな、地の果てに自分の墓のつもりで建てた仏塔を見つけ、奇縁だなと、嬉しかった。ナンパ・ラが自分の墓になるってことじゃないよな、、、?

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ここから、時間が前後するが、カトマンドゥに飛ぶ前の日、ルクラまでナムチェまでわざわざ片道7時間かけて送ってくれたネドゥン・シェラップ氏から、最後の夜に聞いた。ナンパ・ラの昔の交易の様子などの話を報告しよう。

まずネパール側からはシェルパがチベット側のディンリまでゾー、大麦(小麦)、杏、線香、顔料などを運ぶ。帰りにはディンリからチベットの馬、羊毛、塩を運んで帰る。

ここで面白いのは、まずゾーの話。ゾーとは一般にヤク(雄)ディー(雌)と牛の雌・雄を掛け合わせた動物。この場合の組み合わせとしてヤクとパー(雌牛)を掛け合わせたものはウランと呼ばれ、ディーとラン(雄牛)を掛け合わせたものはディンゾと呼ばれる。

ディンゾはウランにくらべ高地に強く力もヤクよりも強いという。鍬を引き畑を耕すことができるのはこのディンゾであり、ヤクは力が足りないという。
だからチベット人はディンゾをシェルパから買うという。
この辺のシェルパの飼っているのはウランであり、低地にしか住めないという。ナンパ・ラを越えるのも難しいという。

「なぜ、チベット人は自分でディンゾを作らないのか?」と訊くと。
チベットでは違う種類であるヤクとかディーと牛を掛け合わせることを良くないことと思ってる、だから自分たちでやらないでシェルパから買うのだとのこと。

次は馬の話。ディンリで買われたチベットの馬はネパールからインドまで昔はたくさん需要があったという。この馬は帰り道ナンパ・ラを通ることができない。これは別にどうしても不可能というのではないというがチベット人やシェルパはみんな次のことを知っているという。
ゴヤタエー山
この辺の峠には夫々に守り神がいる。ナンパ・ラの場合は峠の前にゴアタエーと呼ばれる丸い特徴的な山があるがこの山の形は馬の頭に似ている。
この山にちなんでナンパ・ラの守り神はナンパ・ゴアタエーと呼ばれる男神だという。
この神はナンパ・ラをその蹄が二つに割れてない動物が通るのを許さないのだそうだ。
そこでヤクとかゾーとか羊、山羊は通すが馬、ロバなどは蹄が割れてなく、一つなので通さない。もしも通ろうとすると、馬もそれを引く人も死ぬという。
かつて、これを無視して通過しようとしたものが沢山死んだという。

ということで、帰りは西よりのプセ・ラを通って南に下るそうだ。ここにも神はいるがここの守り神は馬を通すそうだ。
この話はまあ、ナンパ・ラは馬には危険すぎるというとこを知らせているのだとも解釈できそうです。
ナンパラ氷河
塩については、昔はネパールやインドにも海の食塩が行きわたってなかったのでチベットから多量の塩が運ばれて来ていたそうです。
これにちなんで、今度は羊の話ですが、チベットの北西部のチャンタン高原の遊牧民たちは塩を羊の背に乗せてナムチェまで運んで来ていた。1000〜2000頭の羊の背にそれぞれ15キロほどの塩を乗せ運ぶ(総重量15トンから30トン!)。遠いので一か月から一か月半掛る。その間、羊の背中に括りつけられた塩は下ろされることがない。すると最後に羊の背中から塩を下ろす時には塩と羊の革が癒着し、皮ごと剥がれることになるという。だからチベット人は羊の背に塩を乗せて運ぶことを非常に良くないこと(ディクパ・チェンボ)と思っているとのこと。
塩を運ばせて、ナムチェまで来て、羊の半分は売るという。つまりそのあとその羊たちは哀れにも肉にされる。
残った半分の羊に麦を乗せて帰る。遊牧民は畑がなくツァンパを作ることができないからだそうだ。

一般に、塩は峠のチベット側に、今は無くなったがキャプラックという村があり、そこが集積場となっていたという。
そこからは羊でなく、ヤクや人がナムチェまで運んで来たという。







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2009年02月18日

第二日目ターメーーー>アーリヤ

昨日はナムチェから一気に二日行程を一日にしてルクラ2840mまで下りました。
そして今日の朝、ルクラからカトマンに飛んで帰ったところです。
一気に下界に降りた気分です。
久しぶりに熱いたっぷりのシャワーを思う存分浴びました。


ナムチェで書いた第2日目の報告が以下です。

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ターメ村
2月5日、第2日目、ターメ・3840mーーー>アーリヤ・4300m

ターメを朝10時半出発、他の3人は朝からホット・チャン(大麦酒)を飲んでいる。この辺では客を連れて来たガイド、ポーターには宿主がたっぷりとチャンを振る舞うことになっているようだ。
それにしても、朝から酔っぱらってよく歩けるものだと感心する。
このターメで初めてチャンを飲んでみたが、その美味い事、強い事。こんな低地!では考えられないことに、息が上がり、初めて高山病の症状に見舞われました。
こんな強い酒を飲んで坂を駆け上がるんだから、この人たちはヒマラヤ原人そのものです。私たちとはまるで造りが違い、強靭そのものです。

ここで連れの3人を簡単に紹介しておきます。
後でもっと詳しい興味深い話もご紹介します。
ガワン
まず、ガイドでヘッドのガワン・ドゥンドゥップ48歳:彼の事はもう前回写真と共に相当紹介しました。
ナムチェのチベット人会ボスのネドゥン・シェラップ氏が紹介してくれた、ターメで難民を助け続けて来た人です。ナンパ・ラにもっとも通じた難民チベット人です。
他の二人は彼が連れて来たのです。







アン・サンポ
次にアン・サンポ36歳:
彼は亡命チベット人ではなく地元のターメのシェルパです。
でもシェルパなのでチベット語も話せるのです。
シェルパ語はチベット語の一方言ですが、実際には違った言葉に聞こえます。
アン・サンポは結婚して可愛い奥さんと8歳の女の子、6歳の男の子がいます。

最初は非常に寡黙でおとなしかったのですが、次第に本性を現わし始め、吉本興行に入っても売れっ子になること間違いなし。

聞けば彼は何とチョモランマ登頂5回、チョー・オユー登頂3回という強者だったのです。
これが日本人だったらきっと相当の有名人になっていた事でしょう。
しかし、ここではまあまあの人です。隣にはチョモランマ登頂16回という強者がいて、貯めたお金でかいロッジを建て、本人はアメリカに行っているとか。
一回のチョモランマ登頂で3年分の年収が稼げるそうです。もっとも本人いわく「気違いのやる事だ」そうです。
やっぱり、きついそうです。
この辺は後で紹介します。

とにかく彼は水汲み、ヤク・ストーブの世話、ヤクの世話といつも忙しく働いています。道を行く時はヤクを追って「ほりゃー」と叫びながら、断崖を駆け登るのが好きなんです。
ケルサン
最後は若いガワン・ケルサン28歳:
数年前ガワン・ドゥンドゥップの娘の一人と結婚し、一才半の子供がいるそうです。

彼の両親はナンパ・ラを越えて来たチベット人です。
彼は亡命チベット人二世と言う訳です。
チベット語はちゃんと読み書きでき。
その上、なぜか日本語が随分うまいのです。
どうも嘗てガイドした日本人女性と、付き合ったことがあるそうです。その館山のエリコさんに呼ばれて、日本にも行ったことがあるそうです。
なかなか優しくて、いい男だから、それもありなのでしょう。

彼はまだナンパ・ラに行ったことがないとか。
チベット人みんなが越えて来たナンパ・ラを越えてチベットを見てみたい、と言ってます。

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さて、今日の目的地はアーリヤ高度差500m。アーリヤはロッジのある最後の場所です。
4、5時間で到着の予定が途中のマルルンのロッジで昼食にダル・バート(ネパールの食い放題定食)をすぐにできると言われて頼んで、待つ事二時間、これでアーリア着は結局夕方になってしましました。
ターガ村
まず、ターメを出て小高い丘を越えると、立派な古い目玉仏塔があるターガ村を通ります。
仏塔の周りには、無数の経文が掘り込まれたマニ石が立てかけられています。
仏塔やマニ石があれば必ずその左側を通るのが仏教徒です。

ターガ村を過ぎると山の中腹にキャロ・ゴンパが林の中に見えます。道から上に随分と登らないといけないので
どうしようかな?と思っていると、N2くんがすぐに「登りましょう」という。
ハアハアいいながら辿り着く。
キャロ・ゴンパ
古いニンマ派のゴンパで、ここがこの谷間の最後のゴンパです。
辺りは珍しく大きな樹齢数百年と思われる立木が囲み、中々風情のある佇まい。
でも、入り口には鍵が掛かっており、声を掛けても誰も中々出てこない。
そのうち若い女の子が出て来て、鍵を開け、本堂に入れてくれた。
普段10人いる僧侶は全員カトマンドゥに行っているとか。
本堂の中には赤い冬の上着が人陰のように整然と▲型に並べられていた。


キャロ・ゴンパのタンカ
バルド・トゥドルなどの古いタンカが多かった。













キャロ・ゴンパの二人の若い寺守
それにしてもその二人の女の子はよく笑った。
一言聞いたり、話したりするごとに笑う。
そこで私は、日本では「若い女の子はハシが転んでも笑う」ということわざがあるが、君たちはまるでそれだね、と言って、また笑われた。

標高4000m、この森を最後に、先にはまるで立木は一本も生えていなかった。

このゴンパは 道から離れているので難民が立ち寄ることはまずないそうです。




子羊3ぴき
マルルンで昼食をとり、その後が長かった。







マルルンの子供



アーリヤに着いた頃は陽が陰り、随分と寒く感じた。
N2の温度計はー13度になり、ダウンジャケットの表面が凍り始めた。



アーリヤのもう一つの宿
このアーリヤには宿が二軒ある。
この先は野宿か岩屋かテントしかない。






ヤク・ストーブ
夜にはヤク糞がたっぷりストーブに焼べられ、温かだった。

この宿の主人はペンバ氏。
まるで、顔はこの辺の野人でなく、日本人の優しそうなおじさんにそっくりだった。
冬場はこの宿は閉められペンバ氏はターメに降りる。この日はわざわざ下のターメから我々の食糧等を持って上がって来てくれたのです。
彼もシェルパなのでチベット語が通じた。
難民はナンパ・ラを越えた後、途中で一泊野宿をしたあと次の夜この宿を頼る。

ペンバ氏に難民のことなど聞いてみた。

ペンバ氏「去年の三月以降、半年はまったく越えて来る人はいなかった。その後も本当に少ない。その前の年は酷く寒かった。その前の年には大雪が降った。
それでも、30〜40人のグループが沢山来ていた。
人数の多い時には、ここだけでは入れ切れず。となりのロッジにも泊まらせた。いつもお茶とツァンパと寝床を与えてる。

雪が降った年は越えてくるのは大変だ。そんな年には昔は子供の手足が凍傷になるということも多かったが最近は殆どないようだ。

昔はチベットから年中ヤクの商隊が沢山やって来ていたが、最近は中国が行かせないようだ。めっきり減った。
それでも春と秋に一ヶ月半ぐらいだけ限定でヤッパの行き来を許可しているみたいだ。その時期にはヤッパが何度もディンリとの間を行き来する。
最近はこっちのネパール側からチベットへ行くヤッパのほうが多い。こっちから持って行くものといっても水牛の皮(靴作りの皮になるとか)ぐらいで他に何もない。
チベット側から運ばれて来る物はツァンパ、ヤクバター、ヤクチーズ、米などの食糧品が殆どだ。
金持ちのヤッパなら電気製品とかも持って来るようだが、だいたいは金のないヤッパばかりだ。

中には一人だけで商品を持って来るために峠を越える者もいる、彼らは中々すごい。
このアーリヤを夜中の2時ぐらいに出る。なぜかコーラとビスケット一袋だけを持って行く。峠を越えて向こう側のギャプルンにその日の午後4時頃に着くと言う。そこには仲間がバイクで待っていてその日のうちにディンリに着くらしい。
帰りには一人で背負えるだけのダウンジャケットを持って来る。強いね。自分には到底できない」

峠までの行程はアーリヤから普通二泊三日は掛かるのです。
これを一日で歩くのですからすごい訳です。
















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2009年02月16日

第一日目 ナムチェーー>ターメ

2月4日、第一日目、ナムチェ・バザール(3450m)ーーー>ターメ(3820m)

ネドゥン・シェラップ氏に寄付金を渡す
出発の前にネドゥン・シェラップ夫妻にUS$1000をルンタ・プロジェクトから寄付する。
長年、個人的に峠を越えて来る難民を助け続けて来た彼らに
これからも難民を助け続けてもらうための資金として渡す。

このお金は昨年の「チベットを知る夏」イベントで得たものです。
実行委員の皆さんご了承お願いします。

ナムチェを後にゾッキョと共にターメに向かう
前の日と違い、朝から快晴。
2頭のゾッキョ(ヤクと牛の交配種ゾーの雄)と共にターメまで森の中をのんびり歩く。
途中タモで難民もよく立ち寄るという、ギャリ・アニ・ゴンパ(尼僧院)に行ってみる。
尼僧33人のうち、シェルパ出身の一人を除き、他は全員チベットからの亡命者だと言う。
あいにくほとんどの尼僧は出払っていた。留守を預かっていた一人の尼僧ガワン・シェラップさんに話を聞く。
今30歳の彼女は22歳の時チベットのディンリの近くの村から尼僧になるためにナンパラを越え、このネパール側の尼僧院で尼になったという。
タモ尼僧院にてガワン・シェラップ尼
「チベットでも尼僧に成れないことはないが、、、そのためにはダライ•ラマ法王を非難しなければならないし、いいラマも居ない。
峠さえ越えれば法王に会う機会も得られる。ラマもいると思い決心した。
すでに、二度ブッダガヤとサルナートに行き法王からカーラチャクラの灌頂を受け、法王にお会いすることができた。


タモ尼僧院
逃げて来る人たちはよくこの尼寺に立ち寄る。みんな疲れきっている。お茶とツァンパを十分与える事にしている」と彼女。

質問「06年の尼さんが峠で殺された時のグループはここに寄ったのか?」

尼僧「覚えてる。ガイドと一緒にたくさんここに来た。いつものように、お茶(チベット茶)を与えツァンパを与えた。みんな緊張していたが、ここに着いてほっとしているようだった。子供たちは特に大変なことだったようだ」

この尼僧院ではスペインの尼僧が一人、長年修行していると言う。
その時はいなかったがジャミヤン・ワンモと呼ばれるその人は「Dancing in the clouds」という本も書かれている。

タモの仏塔。この横に検問所あり。
タモには仏塔の傍に検問所があるが、外人には見向きもしなかった。
時にここで難民が拘束されることもあると聞いた。

タモから谷に下り橋を渡り急坂を登りきると、突然美しい小川沿いに木々と草原が広がり、やがてターメの村が見えて来た。




ターメ村の入り口
ターメとはタン(草原)、メ(下方)ということで「下の草原」と言う意味の村だ。谷の上の方から来たとき名付けられた名前と思われる。

世帯数45。一家族に子供は5〜10人はいるという。

ターメは本当に美しい村だ。
目の前にはカンテガ、タンセルク、キャシャールの三山が見事な三尊形となり聳えている。
後ろはコンデ連山、テン・カンポチェ等の6000〜7000m級の山々に囲まれている。

日当りの良さそうな畑が広がり、ヤクやゾー、馬が沢山いる。
まるで桃源郷だ。
ここは峠を越えて来て、最初に難民が人里を感じる場所でもある。
ターメ村、難民収容所予定地
そこで、考えた。
この村に逃げて来た人たちを匿い、まずは熱いお風呂に入ってもらい、その後美味しくてたっぷりの食事と、暖かい寝床を提供することのできる家を建てる。ついでにシーズンには日本からのグループを呼んで、ナンパ・ラとかエベレスト方面へのツアーを行なう。高度順応ヨガとかチベット瞑想のクラスをやっても好し、、、と考えながら、一挙に予算や図面まで考えた。
が、まあ、お金のいる話ではありますし、時勢がら今はただの構想ということにしておきましょう。
ターメの赤石の谷
夕方、谷の奥に向かって散歩。
赤石が賽の河原のように広がる小川。
奥へ奥へと吸い込まれそうな美しい谷。
暗くなり引き返すことにしました。

夜、ガイドを引き受けてくれたガワン・ドゥンドゥップ氏48歳のお宅にお邪魔した。もっとも彼は難民なので自分の家も土地も持つ事はできないという。
家も借家だという。
この村では彼の家族だけが唯一の亡命チベット人だ。
質素な農家。
子供は男2人、女5人いるというが今は誰も家には居ない。
男2人の内一人が僧侶。女5人の内2人が尼僧になっている。
自分の本当の子供は一人だけだという。
一緒にチベットから送られて来た長兄の妻を、長兄が喧嘩で殺された後、妻として引き取り、そのまま残された6人の子供を育て、ともに暮らして来たと言う。
ガワン・ドゥンッドゥップ氏
彼は16歳の時からヤクと一緒にナンパ・ラ峠を越え、チベットのディンリとの間を何度も往復して来た。
彼のように交易のためにヤクと一緒に行き来する者はヤッパと呼ばれる。
今も年に3〜4回往復するという。

90年代以降道中沢山の難民に会い、お茶を振る舞い、ツァンパを与え、凍える子供たちの手を暖め、自分のテントを使わせたりして世話をした。
このターメでも沢山の人を匿ってきた。








ガワンの奥さん
10年ほど前、このターメの検問所に33人の亡命チベット人が捕まった事があったという。
その時、警官は言葉が解らないというので、同じチベット人の彼が呼び出された。彼はお茶とツァンパをたっぷり用意して警察署に向かった。
着くなり、「ちゃんと食事を与えているのか?」と聞くと、「やってない」と言う。
まずみんなに茶とツァンパを与えた後、
「さあどうする積もりか?ナンパ・ラを越えてディンリまで連れていく積もりか?少し金をやるから逃がしてもらえないものか?」
と交渉した。
ガイドには一万ルピーもやれば逃がしてくれよう、と話した。
結局金を掴ませ、私が預かり一旦ナンパ・ラの方に歩かせ、夜中に抜け道を通りしたまで逃がしたという。
ターメの子供たち
「谷の上の方で会った時には、ターメ、タモ、ナムチェを夜中に一緒に抜けて安全な下まで送ったりする。
昔は凍傷になる子供も多かったが最近はそんな子供は少なくなった。中国製の手袋が良くなったせいかの知れない」と話していました。



ナンパ・ラと現在呼ばれる峠の由来はナムチェのシェラップ氏の話によると、
「昔、昔キラ・ゴンポ・ドルジェという狩人に追われるナー(ナワ=ヒマラヤ・ブルー・シープ)が逃げ場を失い山に向かって飛び込んだ。すると山が自然にチェー(開けた)。そのことによって出来たラ(峠)ということでナー・チェ・ラと呼ばれるようになった。それがなまって今はナンパ・ラと呼ばれているのだ」という。

この話はミラレパの「狩人と鹿」の物語を思出ださせます。
きっと関係あると思います。

ターメの子供たち 2















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2009年02月15日

ナムチェに帰って来ました。

4d22283a.jpg昨日11日目にして再びナムチェ・バザールに無事帰って来た。
ナンパ・ラ(峠)5741mまで行って来た。
正味歩いたのは8日間。途中3カ所に二泊した。

道は長く、峠を前にした最後の氷河上の登りは酸素濃度50%を切る中、−25度の冷たい強風に向かう厳しい登りとなり、少しは(十分に)ここを越える難民たちの大変さを味わうことができた一日だった。

しかし結局、残念ながらチベットから峠を越えて来る難民には出会うことができなかった。






ナンパラ 1
そうではあるが、やはり峠まで行ってよかった。

途中の景色は一生忘れがたいものばかり。一緒に行った3人のヒマラヤ原人?は人とは思えぬほど強靭でそれでいて純真この上なく、優しく、ユーモアたっぷり。毎日たっぷり笑わせてもらった。
特にガワンからは道中貴重な話も沢山聞く事ができた。

途中様々な場所に難民たちの悲しい痕跡を見た。

ナンパ・ラを下った次の日、天気は崩れ、谷には雪が降り、辺りは一面真っ白。一日遅れていれば峠まで行く事は不可能だった事でしょう。

最後は雪景色の中、ターメまで20頭のヤクと共に下った。

これから少しずつ日を追っての詳しい話を報告するつもりです。
ナンパラ 2
写真は
一枚目:ナンパ・ラに向かうために越えねばならない氷河。
二枚目:ナンパ・ラ上のネパールと中国の国境を示す傾いた標石。中国・62(年)と書いてある。
三枚目:ナンパ・ラで中国側に向かい、チベット国旗を持ってヨガの「戦士のポーズ」を取るN1氏
(これはN2氏の要請に従っただけです。決してN1が率先してこんなバカな事をした訳じゃないのです)

ヤク 1
四枚目:ターメまで一緒に下ったヤクたち。



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2009年02月03日

ナムチェ5、 S氏の妻ドルマさんの証言

ナムチェの最後にS氏の妻ドルマさんの話を載せることができました。
彼女は両親のことと、法王のことに話が及ぶと何度も涙を抑えられないのでした。

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ヤクの鈴
以下はN2氏の発案、ドルマさんのヤクの鈴を買おう運動のN2氏のコピーです。

「遠くヒマラヤからの鈴の音が聞こえてきます。
こり〜ん、から〜ん こら〜ん、かり〜ん
写真の鈴はナムチェで暮らすニェドゥン・シェラップさんの奥さんのドルマさんが作っています。鈴の部分は、チベットのディンリからナンパラを越えてヤク商人によって運ばれたものです。民族模様を編み込んだ吊るしは、ドルマさんの手作りです。
鈴の音はそれぞれに異なります。
でもひとつのひとつの鐘の音に、
チベットの物語が込められています。

ナムチェで難民の支援を独自にやってきたニェドゥン夫妻を支援するために、このドルマさん手作りの鈴を日本で販売したいと思っています」

N2がここで仕上げた原稿が今月22日ごろに発売される「アエラ」に掲載されます。
ナンパラの話じゃ無いですがね。

今回も写真はプロのN2氏が撮影したものです。

それにしても天気が下り気味。寒くなりそう、、、、

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ドルマさん
ラクパ ・ドルマ 47歳 1962年生まれ

85年にナンパラを越えて逃げて来た。23歳の時。ダライ・ラマ法王がブッダガヤでカーラチャクラ法要を行こなわれていたときに合わせて亡命して来た。ネレンカンはまだそのころなかった。越えて来て、そのままブッダガヤに行った。遠くから法王をお顔を遠くから拝見することができた。ネレンカンの紹介がなかったから、顔を拝見しただけだ。その後、カトマンドゥのカーペット工場で4年間働いていた。
その後、クンブに商売に来た。結婚したのは、長男が19歳だから20年ぐらい前じゃないかなあ。お父さんとはここで出会った。お父さんはいい人だったからね。
今、47歳。小さな子供だったから覚えてないけど。文革の前に生まれた。中国ではすごい虐待を受けたから、私は怒ってる。封建領主と言う名前をつけられて、おじいさんがどこかに連れて行かれたということを聞いた。その他、村から何人も中国人に連行された。どこに連れて行かれたかも分からない。

私たちの父もすごく虐待を受けた。中国にいろんな罪状の名前をつけられ、集会に引っ張られてタムジンにかけられた。罪状はすべて嘘だと思う。私たちは学校に行く事も許されなかった。黒帽という階級にされて、学校に行く事ができなかった。前から大きな家だったから封建領主と言う名前をつけられた。

私が生まれたのは、ディンリから北に3日ぐらいの場所にあるチューパ村。村には88〜90世帯いた。一緒に一般の人と接触したり、話したりすることが禁止されていた。中国には大変な目にあわされたから逃げて来たんだ。ある日、村の集会で父親が呼ばれて、60歳以上と8歳以下以外の人たちはみんな集められた。家から連れ出された後、鍵が閉められていた。私たちは帰るところがなくなって、それから家畜小屋で暮らすしかなかった。その後、父親が逮捕された。父親は何もしてないのに連れて行かれた。そのとき父は殴られ、暴行を受けた。妊娠していた母親は気がおかしくなった。子供がうまれたけど、母親は1年ぐらいで死んでしまった。それで赤ちゃんも死んでしまった。父親は監獄にいたので、子供6人だけで家畜小屋で生活した。私は8歳だったけど、今もはっきり覚えてる。小さな兄弟だけで、食べる物がなかった。森にいって根っこをさがしたり、芋類を探して口に出来るものを探しまわった。

2000年に法王に謁見すためにダラムサラに行った。法王に私の父親や母親に起きた事を知らせ、冥福を祈ってもらいたかった。
ドルマさん2
8歳の頃、父親が監獄でにいたとき母親が亡くなった。私の上にお姉さんが2人いて、下に2人の弟と妹の3人の6人兄弟だけが残された 。食べることが大変だった。森に行って食べるものを探して、根をほったりした。貧しかったけど、私はときどき、監獄のお父さんだけにはツァンパをもっていっていた。

6人銃殺されたのはなぜですか?
中国は、ただ勝手な罪をきせ、ほんとの罪なんかじゃない。濡衣だよ。
私は6人がどうして殺されたのかはっきりとは分からない。文革の終わり頃だった。私は8歳だった。頭に大きな黒帽をかぶせられて、胸には罪状を書かれた板を吊り下げられた。そして村を引き回され、今から銃殺すると言われた 。村のそばに穴を掘って、その前に並ばされた。そして一人づつ前から心臓を撃たれて、穴に落ち、その上に土をかけられた。それを見たとき、私は小さかったし、お父さんは監獄にいたので、すごく怖かった。お父さんも殺されるんじゃないかと思って怖かった。一人一人、前から撃たれて、後ろに倒れた。殺された6人のうち、一人が最後まで泣いたり叫んだりしてて、その間に撃ち殺された。ほんとに酷い。これは聞いた話ではなくて、私が見たんです。


(ふたたび思い返して)
お父さんが集会ですごく暴行を受け、黒帽と呼ばれて、他の人と接触できなかった。強制労働もやらされた。森の仕事とかやらされた。ちょっと豊かな家のものは黒帽とレッテルを貼られた。黒帽と呼ばれた私たちは、家を追い出され洞穴とか家畜小屋とかに住まなければならなかった。

毛沢東が死ぬまでは特に酷い時代だった。毛沢東の間は、相当いろいろやられた。中国が言っているのはほんとに嘘ばかり。私たちは仏である法王のおかげで生きてられるけど、内地にいるチベット人は大変だよ。

「このままチベットに帰れなかったらどうなるんでしょうか?」と涙を流す。
法王はいつも愛と慈悲を説いている。だから中国を憎むなとも言っている。オリンピックの時でも、法王は反対するなと言ってたけど、私はすごく怒ってた。エベレストに聖火が運ばれるとき、村のチベット人はベースキャンプまで行こうと相談していた。でも法王がオリンピックを邪魔するなと言われたから、私たちは行くのをあきらめた。オリンピックでも中国は嘘ばっかり。

昔から「法王を非難しろ」と強制されて、それが出来ない場合は罰せられた。中にはどうしても心に嘘をつけない人がいる。仏である法王を批判できないのです。そうするとタムジンにかけられて黒帽と呼ばれた。法王の一味だとか言って、村を引き回された。だれだって自分の国を非難されたらいい気分はしない。私たちはおとなしているのに、あっちは横暴なことをあれだけやったんだ。誰だって怒るでしょう、日本人だって怒るはず。

2000年ごろ、法王にはダラムサラの謁見であった。でもなかなか近くに寄れなかった。新しい難民が優先されたので、その時も合わせてもらえないはずだったけど、でも正月には会えると聞いたし、どうしても会いたいと思ったから、お願いし続けると、最後には入れてくれた。それで会えた。法王に両親の冥福を祈ってもらおうとしたけど、何もいうことができなかった。それどころかすぐに気絶してしまった。気がつくと法王が頬をさすってくれていた。それがすごく嬉しかった。
 でも法王もいつか亡くなってしまうことになってしまったらどうなるんだろう。この前、法王が病気(胆石)になった時は、心配で寝ることもできなかった。

大きな家だったと聞いたけど、実家は何をやっていたのか?

私はほんとによく知らない。私が生まれた時には、もうすでに貧しかった。中国が勝手な罪をつけた。私たちが少し豊かだったからといって、使用人を奴隷に使っていた訳じゃない。使用人はいたけど、彼らに仕事を作ってやっていた。きちんと彼らにお金を払ってたのよ。なのに中国はすべて話を作るのよ。中国は嘘話を作るのが上手い。泥棒もしてないし、人を殺したわけでもないのに、罪を作るのがうまい。毛沢東が死んで、黒帽を脱ぐことができた人もいた。でも私たちは法王の一味だと言われて、ずっと学校に行くこともできなかった。信仰を非難される。罪をきせされる。信仰が罪となる。人だったら何かを信じて頼ることもあるでしょ。

村には中国人は1人か2人しか来なかった。下っ端にチベット人を雇って、やってきた。そして毛沢東のキャンペーンや演説ばかりが続いた。なかには中国の口車にのせられて、中国側に本気についたチベット人もいた。嘘ばかり言われて、分からなくなったのでしょう。

オリンピックの時にはすごく奇麗な服しか見せずに、いいとこばかりしか見せない。悪い事は見せないで、きれいごとばかりを見せる。テレビのなかにはチベット人か中国人か分からない人もいた。
中国はいつも物質的発展ばかりを強調する。でも私は行ったことはないけど、田舎はどうなんでしょうか?観光客が見る所ばかりきれいにして、田舎は貧しいと思いますよ。逃げて来た人に聞いたところ、田舎は良くなってないと聞きます。鉱物もたくさん、木もたくさん、どんどん持っていかれた。今からチベットはどうなるかとても心配で仕方ない。法王がいなくなったら、チベットに戻る事ができなかったら、もうだめになるんじゃないか。

法王が生きておられる間は安心だけど、その後はどうなることか。法王が生きている間に、チベットに帰る事もできなかったら、独立することは難しいかも知れない。希望はもってる。明日、帰るんだ。明日、帰るんだ。明日、自由になって帰れる。そう思い続けていたから、いつでも帰れるように、チベットに一番近いナムチェに住んでる。その日を待ちわびて、ここに住んでいるけど、その日は来ないねえ。

お父さんはほんとによく、越えてきた人たちを助けている。

中国は嘘ばかりついてる。中国に本当のことはひとつもない。外国人の人に助けて欲しい。3月にデモしたときに、すごくみんながやられて、自分のことのように悲しんだ。宗教の自由があるというが、法王の写真だってまだ隠さなければならない。みんな可哀想に、酷いじゃないか。写真さえ見れないなんて。インドの方がずっといい、中国はほんとに酷い。チベットにいる人たちが可哀想。中国では、道がきれいになったとか、観光客がこんなに来てるとか、こんなにいい絵があるとか、そんなことばっかし自慢してる。でも見えないところでは酷いことをしている。チベット人に自治権があるみたいなことを言ってるけど、そんなの作り話。
ドルマさんとヤクのすず
お父さんは自由になってすぐに帰れると思っているから、「今日、明日、明後日には独立する」と毎日数えて、今日になった。法王がいつも「どこに行ってもまわりの人に良くして、つつましく生きるように」とおっしゃっている、その通りに生きてきたから、ここでも周りの人とうまくやってこれた。つつましく生きる、そうしていれば大丈夫。


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ナムチェ4 S氏の亡命50年

クスンとタルチョ
明日はいよいよナンパラ目指してナムチェを後にします。
ネット世界はここまでです。

急げば1週間で往復できるのですが、途中高度順応の必要もあるので往復10日程かける予定です。
昨日から雲が多くなり、気温が下がっていたのが気がかりですが、、、
足も腰もちゃんと治って、体調は万全です。

再びS氏に話を伺いました。
少し長いです。
昨日は奥さんの方に話を伺いました。
85年に亡命してきた彼女の方がチベットでの苦労は多かったようです。
途中何度も涙を流しながら、たくさん話を聞かせてくださいました。
このほうは出る前には書けないかも知れませんが、帰ったら報告します。

今日の写真はすべてN2氏撮影です。

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ロッジのレストランで

ガワン・ドゥンドップと彼の代わりとして今度のガイドを引き受けてくれる事になったターメ村のチベット人ガワン・ドゥンドゥップ氏48歳、二人と話をする。
まずはガワン・ドゥンドゥップ氏に聞く。


ヤッパ(ヤクの背に荷を乗せ国境を越えて交易を行なう者)にも中国の許可書が必要のか?

年に4、5回はディンリまで行商に行く。現地には4、5日ぐらいしか滞在しない。村の長老が責任を持つということで警察署からパスを貰わないといけない。昔からのなじみなので、村の長老も私のことを信頼している。何日いるかを登録して、パスを貰う。昔からやってるから、悪いことしていないことも分かってるから大丈夫だ。

時々、ヤッパと一緒に来る難民もいるのか?

それは難しい。私はディンリには4、5日しか滞在しない。その帰還にちょうど会えばいいけど。途中で難民に会って、お茶やザンパを与えたことは何度もある。でも一緒に来たことはない。

この時期ギャプルン(国境地帯にあるチョ・オユー山のベースキャンプ)に中国軍がいると思うか?

冬季は水が出ないからいない。ギャブルンまではダクマルからバイクで20分しかかからない。兵士たちもチェックしようと思えばいつでも行ける。ディンリから歩く人はほとんどいない。サキャやラプチェから、またはシェカルから歩いて来る人がほとんどだ。


S氏
彼とはまだ先でいつでも話を聞けるので、注目のネドゥン・シェラップ氏にさらに話を聞く事にしました。

59年の中国が来る前はどんなだったか覚えている事は?

自分たちは幸福だった。自分たちの家もあるし、商売も自由にやれた。6歳からチベット語を学ぶために、先生をさがして、寺にいった。寺のなかでチベット語を習ったし、お経も習った。かなり小さい頃から読み書きができた。チベット語はチベットにいるときからよくできた。

いつ頃から中国軍が入って来たのか?

自分たちのところ(ディンリ)には58年ぐらいから59年にかけて来た。59年に状況は酷くなった。逃げるしかなくなったのだ。着の身着のまま、ヤク6頭と共に、わずかな食糧しか持たずにだ。2、3年ぐらいしかいないつもりだったので、金目のものや、財産は寺の中に隠して来た。こっちには自分たちが着るための服ぐらいしか持ってこなかった。すぐに帰るつもりだったから。

亡命する以前の生活はどんなだったのか?村にゴンパ(寺、僧院)はあったのか?

シッキム・カギュ派に属するゴンパがあって、自分の家が施主の筆頭だった。ディンリには大きなゴンパがあったし、村それぞれにゴンパがあった。自分の村は4、50世帯ぐらいの大きさだった。一世帯に4、5人から多いところは15人ぐらいいたりする。子供は普通は4、5人。ネパール人は家族ばらばらに住んだりするみたいだが、チベット人はみな一緒に住んでいた。といっても、夫々男は商売にいったり、農業をしたり、放牧したり年に1、2ヶ月しかいっしょにいなかった。長男が家のことをみている。一妻多夫が一般的だった。兄弟が仲良かったら4人に1人の奥さんということもあった。ハハハハ、、、、でも、大丈夫、ほとんど皆がそろうことはない。それぞれに出かけていった。いい牧草地なんかに2、3ヶ月ごとに移り住んで行く。家にはお手伝いさんがいた。テントを持って遊牧にいくこともあった。

チャンタン高原に近いし、高地で寒い所じゃないのか?

いつも火を炊いてるし、たくさん服をきているから大丈夫。むかし、ディンリに一度帰ったとき、すごく変わってた。家では灯明をあげることさえ禁止されていた。寺は破壊されまったく無惨な姿だった。 仏像は壊され、盗まれ、中は空っぽだった。金目の物は中国の軍隊がすべて持って行ったという。

自分たちの村では自分が出る前には殺された人はいなかった。
59年から灯明を上げる事は禁止された。全ての宗教的儀礼は禁止された。それをやったら罰せられた。
ナムチェ
各村のリーダー格はみんな逃げた。ちょっと豊かだった農家は封建領主とかの名前を付けられ、財産は没収され、タムジンに掛けられた。特に妻の家は大きな家だったから、酷い目に沢山あった。

奥さん:
「今日は集会だ」とか言われて、村人が集められる。60歳以上と8歳以下は行かなくてよかった。それ以外の者はみんな参加させられた。(タムジン)集会の後は、家に帰ったら家には鍵が掛けられ入る事もできなくなっていた。自分の家は大きかったらしい。今までこいつらはお前たち使用人たちを搾取したから仕返し、お前らは父を殴らなければいけないと他の者たちに命令した。
父は死ぬほど殴られた。
住むところがなくなって、自分たちは家畜小屋に住み乞食のような生活をするしかなかった。

中国はチベットはかつて封建的農奴制の社会だったと言うが?

確かに家に使用人はいた。しかし、彼らには食事を与え、年俸をちゃんと渡していた。貧しい人たちは仕事がないから仕事を作って助けていたようなものだ。服もちゃんと与えていた。中国は使用人を奴隷のように使っていたというけれど、自分たちはきちんとせわしていた。
家内の家には20人ぐらいの使用人がいた。 その村はチャンということでディンリから北に3日ほど行ったところにある.その村では沢山の人が殺されたという。穴掘ってそのよこで銃殺されて、穴に落ちて、埋められた。
例えばお父さんが殺されたら、残された子供たちは50元から100元の銃弾代を払わされるのだ。

59年の何月に峠を越えたのか?

59年の10月ごろに逃げて来た。この辺(ナムチェ)に一ヶ月ぐらいいて、インドのブッダガヤにダライ・ラマ法王に会うために降りて行った。11月かな?法王に会うことができた。その時、法王は子供たちは学校に送るようにと言われた。
しかし、父は田舎者で教育に対して関心がなかったこともあって、学校に送られず、そのままナムチェに帰って来た。その頃、法王はインドのムスリーに自分たちのような子供のために学校を作られたのだ。そのとき33人しかいなかったという、もし行ってたらすごくよかったのに。偉くなれていたかも知れないと思うことがあるよ。父は亡命生活が長くいるとは思ってなかったので、インドという遠い土地で子供を育てようとは思ってなかったのだ。いろいろなとこに行って、再びクンブに帰って来た。

法王が亡命されたことはいつ知ったのか?

今のニュースのようなものはなかったが、噂で3月にラサで市民蜂起があり、その後、法王が亡命されたことは村にも伝わって来た。法王が亡命されて、そのことで状況が良くなるのか、悪くなるのか自分たちにはそのとき分からなかった。しかし、4、5月と月を負って状況は悪くなって行った。もう悪くなるばかりで、良くなることはなさそうだと思っていた頃、一人一人と捕まり、どこかに連れ去られて行った。

ディンリで中国との闘いはなかったのか?

戦闘のようなものはなかったけど、チベット軍のひとりの大将が殺された。シャルにいたギャプジョンというチベット軍の大将だ。彼はそのとき自分の家にいた。中国軍がきて「出てこい」と言った。彼はそれに対し武器も何も持たずに悠然と外に出たと言う。出た時にすぐに撃たれた。中国が彼を狙っていたことは確かだ。
あと2、3人は撃たれた。有名な軍人とか商人とかが殺された。軍隊の名前はギャブジョンという。その他にカダン、タプチと呼ばれる軍隊があった。夫々500人から1500人ぐらいの隊だった 。チベット政府の軍隊だ。

チュシ・ガントゥックとは関係ない軍隊なのか?

チュシ・ガントゥックはカムパ・ゲリラで、中国が来た後にできた軍隊だ。今言うチベット軍はずっと昔からある隊だ。
もっとも、教育もないし、訓練も足りないし、ちょっと鉄砲が撃てる程度だったみたいだけどな。。
クンビラ
59年に、祖母と兄と、妹それにヤク6頭と共にナンパラを越えてきた。クンブは近いし、ニャラムは遠いし、クンブに抜けるにはこのルートしかなかった。このルートは昔からある。ネパール側のシェルパがディンリに行くことが多かった。

60〜70年代からツーリストが来始めたが、その前はシェルパはとても貧しかった。数百年前、チベットのカムが貧しくて、食う物がなくてこっちに逃げて来た。そして徐々にこの地方に住み着いた。だから、シェルパはもともとチベット人だ。

59年から60年代のはじめ頃には、本当に大勢のチベット人がナンパラを越えてクンブに逃げて来た。ヤクや羊と一緒に逃げてきた.だからこの辺の谷はヤクと羊で一杯になった。でも、そんな沢山の家畜を食わす草はない。だから売るしかない。でも買い手は少ない。羊一頭1元で売られてた。
4000〜5000人がこの辺にいた。59〜64年頃までがピークで、文革の間は少なくなった。それでもナンパラを越えるものが絶えることはなかった。そのうち、近くのチェルシに難民キャンプができて。そこにたくさんの難民が行ったが、たくさん死んだ。空港をつくる仕事があった。その他だいたい建設現場をした。学校が出来て、自分は学校にも行った。泊まるところが狭く、小さな部屋に3、4家族が住まなくては行けないし、暑いし、食うものは少なく、衛生的状態もよくなかった。結核が流行して、確か500〜600人がそのキャンプで死んだ。
スイスが援助してくれていた。スイス人の医者がいた。自分はその医者の手伝もしていた。毎朝、薬を配って回った。
キャンプの者たちは、75年ごろからカトマンドゥなどに移り始めた。いまは100人ほどしかいない。チベットの学校はまたあるが、いまはチベット人はそこにはほとんどいなくて、地元のシェルパやネパール人の子供たちが通ってる。先生はまだチベット人だけど。
80年代は少なかった。87年から90年代始め頃はデモもあったし、逃げて来るものもいたけど、 家族ごと亡命するのは70年代までだった。それ以降は個々で逃げてくる場合がほとんどだ。

59年に逃げて来て、62年までクンブにいた。63年から74年までインドの軍隊にはいった。2・2部隊と呼ばれるチベット人部隊に入った。
73年にインドがバングラと戦争した時には出兵した。74年にクンブに戻って来て、妻と出会い結婚した。

89年頃から亡命チベット人を助けることを始めた。
最初のころは全く余裕もなかったし、そのころ亡命して来る人たちの状況もよく知らなかった。ナムチェにいなかった所為もある。ナムチェに来て、今もチベット人がナンパラを越えて来ていることを知った。子供が多かった。
まずは匿い、金のない者には、友人の金持ちからカンパを募って金をあげたり、逃げ道を夜中一緒に歩き、下まで届けたりするようになった。02年だったかネレンカンから「とてもいいことをしてくれてる。続けてくれ」と要請があった。領収書があれば難民へ渡した金を返してくれるようになった。昔は大変なことが多かった。自分が夜中に一緒に出て行った。マオイストと国軍がやり合っていたころは銃撃戦も時にはあり、危険だったので、夜中に別の森の中の道を通って彼らを逃がした。

国連(難民高等弁務官事務所)は何か今までに亡命してくるチベット人を助けてくれたか?

国連は一回来たよ。カトマンドゥでは何かやってるのかもしれないけど、ここでは何もしてくれてないね。一度だけ捕まったチベット人を解放するために外人1人とネパール人1人、チベット人2人がきたことある。でも結局、15日待った何も出来なかった。結局自分がチベットに返すからといって引き取り、峠の前で逃がした。

ネレンカンがなかった頃はどうしていたのか?

昔はパスもなかった。88年頃だったか、ちゃんとした今のネレンカンができたが、その前は人の家をかりて収容所にしていた。まわりのチベット人から家をかりていた。88年頃から、きちんと対応できるようになった。

昔はただ、ツアンパをやったり、お茶をやったり、お金も1000ルピーはないとカトマンドゥまで辿り着けないし、その時はシェルパのところとかを回ってカンパを募っていた。地元の人は、泥棒されるんじゃないかと怖がっているひともいた。

今年はチェックも厳しくないが、マオイストがこの谷にいた03〜07年は大変だった。お互いに国軍と、マオの間でどっちについてるんだと捕まることがあった。だから夜中に一緒に歩いて自分で下まで連れて行く事が多かった。マオが政府になってから、厳しくなくなった。でもこの先マオも政権を取り続ける続けることはできないんじゃない。(奥さん)ひょっとしたら良くなるかもよ。どうなるか分からんな。
雲
ナンパラで最近死んだ人は何人ぐらいいるのか?

ナンパラで死んだら遺体を運ぶことはまずできない。そのままおかれてくる。
だから、本当のことは分からない。
ただ、一人20歳の若者が近くのタモで倒れクンデの病院にタンカで運ばれる途中死んでしまったというのは知ってる。
その他、そうだ、悲しい話だが若い女の子がクレバスに落ちて死んだということがあった。(ノートをめくりながら)
03年9月19日 他に5人が一緒だった。17歳の女の子がクレパスに落ちて引き上げることができなくて死んだ。16日にナンパラで起こり、他の5人は19日ナムチェに着いた。私はすぐにロープを持って助けに行こうとしたが、すでに4日が立っているから行っても無駄だとみんなが言う。結局行かなかった。
女の子が落ちたのを見て、他の者たちはロープ代わりにカタとか服を裂き割き結び合わせて彼女の元に下ろした。
一度目途中で紐が切れ、二度、三度と失敗した。三回落ち、そのまま動かなくなり声も聞こえなくなったという。他の者たちはあきらめて彼女を見捨て、下っていった。

ナンパラにはたくさんクレパスがある。ヤクが落ちで見えなくなるほどのクレパスもある。80年代に実際自分が連れていたヤクがクレパスに落ちた、下を覗いてもヤクの姿も見えなかった。

昔は9、10月の秋、春の4、5月には沢山のヤッパが国境のナンパラを行き来していたものだ。でも今は中国が厳しくするので少なくなった。それでもシェルパのヤッパが今でも少しは行き来している。

今年3月にチベットでデモをするものはいると思うか?

今年は50年目なので、とても警備が厳しくなるのではないか。内地はほんとに命を賭けてデモをやってるんだ。本当に勇気がないとできないことだ。今年も起こるだろう。こっちはなんてことない。せいぜい叩かれて刑務所に入れられるぐらいだ。向こうじゃ拷問や死んだりする奴もいるんだ。自由がない。中国に弾圧されているからだ。けれどもデモやっても外国の記者も入れないし、知らされることが難しい。それでもやる人はいるだろう。
あなたの50年間の亡命生活を総括すれば、、、?

50年は長かったけど、全てダライ・ラマ法王のおかげだ。ちゃんと元気に幸せでいられる。
こころのなかではいつも帰りたいと願い続けている。子供たちに昔のことをよく話している。自分の代がだめでも子供の時代に帰れればいい。他人の国にいるからいつまでたっても自分の家は持てないし、土地も持てない。
チベットで死ねたらいいなと思ってる。
子供たちに自分の生まれ育った土地を一度見せたい。
法王のおかげと、外国からの援助も得てチベット人はまあまあじゃないか。
仏教は今の方が世界に広まっている。昔はチベットだけでだったが、今は世界中の人が法王を知っている。法王のおかげで仏教が世界中に広まった事が唯一のいいことだ。
法王は利益のあることしか考えない。人であろうと動物であろうとみんな幸せになりたい。中国人も外国人も一緒だ。法王はいつもチベット人だけじゃなく、中国人にも利益があるようにと考えられている。外国からの助けがなければ、独立も決して得ることはできないだろう。
だからこれからもチベットのことを忘れないで欲しい。


rftibet at 12:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)その他 

2009年02月02日

ナムチェー3 ナンパラの悲劇

アマダブラム
(昨日の)今日は軽い高度順応のためもあり,ナムチェの上の丘3880mにあるエベレスト・ビュー・ホテルまで登りました。
しかし、残念ながらこの日はエベレストは雲に隠れたままでした。

このホテルは日大山岳部のOBたちが30年以上前に建てたこの辺では破格の一級ホテルです。専用の空港も付いてます。
このホテルにかつて2週間以上子供たちと滞在していたことがあります。
そのときは改装中で水が無い(バケツで運ぶだけ)とかで、何と20年以上前に一泊$200ドルしたという絶景の庭付きロイヤル・ルームをたったの200ルピーで自分たちだけ泊めてもらっていました。
エベレスト・ビュー・ホテル
目の前にエベレストとローツェ、アマダブラム、すぐ横にタンセルクとガンテガが一望の下です。
世界一の絶景が気楽に(金さえあれば)堪能できるというホテルです。

そういえば先のブログで私は恥ずかしくも山の名前を間違って記してしまいました。タンセルクはキャセル6770mの間違い。
ガンテガと記したのがタンセルクでした。
ついでに今日写真を載せた山は最初のがアマダブラム、二枚目がガンテガ、三枚目はナンパラ方面の山々です。その間にエベレスト・ビュー・ホテルの写真が入ってます。
ガンテガ
このホテルで飯を頼むと目玉が出るほど高いので、その下のシャンボチェに下り昼飯、途中、ナムチェの上にあるナムチェ・ミュージアムに寄りました。
何とも変わったミュージアムでした。
ただの民家がミュージアム、入り口にはヤクの乾燥糞が積み上げてあります。
中では尼さんたちがお経を唱え続けていました。
写真展示室では連れのN2としこたま笑いこけた写真が沢山ありました。
その何点かを紹介します。
ナムチェ・ミュージアム
最初はミュージアムの中でお経を上げる尼僧たち。






この辺のシャーマン
二枚目はこの辺のシャーマンさん。












かつてのエベレスト登山家
三枚目はナンパラを目指すN氏!???













エベレストの頂上で裸になるシェルパ
最後はエベレストの頂上で暑くて裸になった!シェルパくん。この写真は合成では無いのです。れっきとしたミュージアムに掲げられてる写真なのです。

全部大きくして見てくださいね。
もっと楽しめます!

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昨日は再びS氏に話を伺いました。

本当は長く色んなことを話して頂いたのですが、全容は少し後にして、特に今ナンパラの話だけを、記します。

<ナンパラでの犠牲者について>
今までに亡命するためにナンパラを越えようとして、死んでしまったチベット人は何人いるのか?

S氏:自分の知っているのは、殺された尼さん以外では2人だけだ(ノートを見ながら)。
一人は20歳の若者だった。峠で倒れナムチェの上にあるクンデの病院に運び込まれる途中、死んだ。

もう一人は可哀想な話ではあるが、クレバスに17歳の女の子が落ちたのだ。
これは2003年9月16日のことだ。6人のグループだった。
落ちたその子を引き上げるために、カタとか服を裂いた布とかを結び合わせ、その子のもとに降ろし、捕まらせた。
三度引き上げる途中で布が切れた。
その後その子は全く動かなくなったという。
仕方なく他の者たちは彼女を置いて下山した。
自分がそれを知ってすぐに峠まで行こうとしたが、みんなからもう4日経っている、生きている可能性は全くないと言われあきらめた。
可哀想な話だ。

クレバスには時にはヤクさえ落ちるのだよ。

他にも吹雪の中、子供がついて来れなくなり、そのまま判らなくなったという話は何回か聞いた。
吹雪になれば、普通一日で越えることのできる峠は三日も四日もかかる。
子供がいなくなっても不思議でなない。
そんな時には凍傷になる子もいる。

峠には実際いくつの死体があるかは判らないよ。









rftibet at 10:45|PermalinkComments(1)TrackBack(0)その他