2009年03月

2009年03月31日

尼僧チュドゥンの物語

アニ・チュドゥンダラムサラの家は小さいけど二階建てで、一階にはよくチベット人とかが住みついたりする。
毎年冬になると、尼さんが3〜4人住みつく。
もう15年ぐらい前から恒例となっている。
冬には下から朝晩読経が聞こえてきて家が尼寺化する。

みんなノルブリンカの近くのドルマ・リン尼僧院の尼僧で、チベットではラサのセラ僧院の北にあるチュプサン尼僧院の尼僧であった。
冬には僧院が休みとなる。
どこにも行くところのない彼女たちは冬にここに来て、春に法王の法話を聞いてから尼僧院に帰るのだ。

みんな若かったが、、、もう全員30半ばだ。
長い間、一緒の家に住んでいたが、当然一人一人にインタビューしたことなどなかった。

最近、その中の二人に話を聞いたので報告する。
全員チベットにいた時には何らかの形で政治活動を行っている。
ヒマラヤを越える時、苦労していることもいっしょだ。

今日はジャンジュップ・チュドゥン37歳の話を紹介する。
彼女は4人の中で、もっともお銚子者だ。
彼女に起こったことは20年前の話ではあるが、去年や今年の状況もほぼ同様だ。
デモを行い、拷問を受け、ヒマラヤ山中を二か月間歩いてやっとカトマンドゥに辿り着いたのだ。

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アニ・チュドゥン2私はラサ近郊メト・クンガで1972年に生まれました。
母は自分がまだ子供のころ、産後の病気で亡くなりました。

家は農家でしたが、ヤクなどの家畜もたくさんいました。
兄弟は6人です。
学校には4年間通いましたが、そのあとは家の仕事の手伝いをしていました。
いつのころからか尼になりたいと思うようになりました。

17歳の時ラサのチュプサン尼僧院の尼になった。
尼僧院には当時200人ほどの尼がいた。
僧院に入ったが、そのころは寺再建の仕事ばかりが多くて、勉強はあまりできなかった。
その上中国人のグループが来て「愛国教育」のクラスを始める。
朝から晩まで、共産党を讃え、法王を非難することを強要される。
そんな状況の中、尼僧たちはこっそり話す機会があればいつも、インドに逃げることか、デモを行うことを話し合っていた。

その頃、セラ僧院に勉強のために通っていた。
そこでガリ尼僧院の一人の尼と知り合いになった。
二人で一緒にデモをやろうということになった。

1990年8月、ノルブリンカでシュドゥン祭が行われた。
ノルブリンカ前には大勢のチベット人が詰めかけていた。
中国政府の役人も沢山来ていた。
この機会を捉えてデモをしようと決めていた。

1988年ラサ C/R 9−10−3 MT 4自分たちが到着する直前に二組がすでに声を上げていた。
ミチュリン尼僧院からとセラ僧院からのグループだった。
どちらもすぐに警官に取り押さえられ、殴られていた。

二人して大きな声でスローガンを叫び始めた。
「チベット独立!」「ダライ・ラマ法王に長寿を!」と。
数十メートル歩いたところで、大勢の警官に囲まれ殴り倒された。
そして、グツァ刑務所に連れて行かれた。

中庭に並ばされたが、その時他に尼僧ばかり10人が先に並ばされていた。
手を上げろ、と言われそのまま数時間その姿勢を取らされた。
下ろすと殴られる。
それから、一人一人長いロープで手を縛られた。
ロープの一端が目の前にあった大きな木の高い枝に投げ掛けられる。
落ちてきたロープの端を二人掛かりで引っ張る。
すると尼僧たちは木の枝に宙釣りとなった。
ロープは幹に巻かれて固定される。

チベットで中国が使用する拷問道具そのままの状態で殴られる。手足だけでなく、棍棒を使ったり、電気棒で殴られた。
そのたびに悲鳴が上がる。
数人ずつこれを受けた。
目の前で他の尼がやられるのを見ているのは耐え難いことだった。

次の日からも毎日尋問が行われた。
いつも質問は同じで「誰に唆されたのか?後ろに誰がいる?」だった。
「チベット独立とはどういうことなのか?」と訊かれたりもした。
最初の一か月は毎日、殴られ、電気棒でショックを与えられた。
4か月グツァに入れられた後、出された。

しかし、チュプサン尼僧院に帰ることは許されず、家に居るしかなかった。
一年もすると私は又、デモをすることを考え始めた。
しかし、家族には決して話すことができなかった。
今度はチュプサン尼僧院の一人の仲間とデモをすることを決めた。
前の日にこっそり家を出てラサに向かった。

その日の夜はツクラカンの前で寝ることにした。
夜そこにいる時、ツクラカンの僧侶と話をした。
ところが、偶然その僧侶は自分の兄の知り合いだったのだ。
その僧侶はすぐに、兄に私がデモをしようとしていることを知らせた。
兄が来て、デモはもうしないように、二度目に逮捕されたらタダでは済まないだろう、と言って私を説得し始めた。

私は拒否し続けたが、結局その日は兄の家に連れて行かれた。
次の日、兄と家の者たちが相談して私をインドに送ることに決めたという。
その次の日にはもうすべてが手配され、私は強制的にトラックに載せられたのだった。

1992年の春。
グループは60人。二台のトラックに分乗した。
セラ、ガンデン、デブンの僧侶が20人ぐらい、それに10人位のカンバがいた。
子供は4,5人で6歳の子を連れた夫婦、8歳、9歳、、、14歳ぐらいの男の子がいた。
尼は私を入れて2人だけだった。

カン・リンポチェトラックはまずラサから北に向かい、ダムシュンからナムツォ(湖)の北を通って、西に向かった。
そのまま10日ほど走って、カン・リンポチェ(カイラス山)の近くまで来てトラックを降りた。
それから、南に向かって歩き始め、プランの近くまで来た。
ネパールに抜ける国境はそこからすぐだと聞いた。

しかし、そこで中国の兵隊に見つかってしまった。
彼らはガイドと一人の僧侶をどこかに連れていった。
次の日兵隊が来て「彼らを解放したかったら、おとなしく来た道を帰れ」という。
仕方なく一旦来た道を帰ることにした。

次の日には二人は解放され、自分たちに追いついた。
ガイドが帰ってきたところで、再び南に向かって歩き始めた。
国境を越える道は大したことはなかったが、ネパール側に入ってからが長く、大変だった。

ヒマラヤ2ネパールに入ると、低地では雨、高地では雪だった。
昼となく夜となく歩き続けた。
歩きながら眠るという状態だった。
道は分かりにくく、ガイドもはっきり知らないようだった。
だいたいガイドは年を取っていて元気がなかった。
途中でグループは二つに分かれることになった。
元気のいい僧侶たちが別に行くと言い出した。
私もそのグループに加わった。

大きな街道を行くと警察に捕まるということで、街道を避け村も避けながら森の中を行く。
何度も高い山を越えなければならなかった。
食糧も尽きた。
僧侶たちがこっそり村に行って、食を乞うた。

一つ高い雪山を越えた時は本当に大変だった。
急な斜面を腰まで雪に埋もれながら登った。
雪と風で前がほとんど見えない。
体の感覚が次第に無くなり、死ぬかも知れないと思った。

それでも、何度も若い僧侶たちに助けられて、峠を越えることができた。
次の日には晴れて今度は雪目で目がほとんど見えなくなった。

それから先も長かった、クマのいる森の中には何度も冷たい雨が降り、全身ずぶ濡れでそのまま眠った。
足の裏には大きなまめができては潰れた。
流れの速い川を何度も流されそうになりながら渡った。

19歳の少年が森の中で消えた。
探してもいないので、そのまま先に進んだ。

後で聞いたところでは、もう一方のグループの中で50歳ぐらいの男性が死んだという。

結局二か月歩き続け、やっとカトマンドゥ行きのバスが出る町(ジュムラ)に辿り着くことができた。

全員ボロボロで憔悴し切っていた。























rftibet at 21:25|PermalinkComments(7)TrackBack(0)その他 

ウーセル女史の反論

8aa71aa9.bmpウーセル女史が北京版「チベットの歴史」を疑問視

<嘗てのチベット(1950年以前)を悪魔化するプロパガンダ>

以下はPhayul に発表された、Voice of Americaの Zhang Nan氏の記事の一部です。

http://phayul.com/news/article.aspx?id=24330&article=Tibetan+Writer+Questions+Beijing%e2%80%99s+Version+of+Tibetan+History

http://woeser.middle-way.net/
ウーセル女史は「嘗てのチベットは北京が描写するような<この世の地獄>では決してなかった」
「その頃はすべてのチベット人が、貴族も役人も仏教を信じていた。北京が誇張するほどひどい社会ではなかったはずだ」と話す。

<清朝時代に移入された拷問道具>

中国のオフィシャルな歴史ではチベットは昔、野蛮な封建農奴制下にあった、ということになっている。
北京で嘗て行われた「チベット展」でも、その必需品の一つは拷問道具であった。
檻、手枷、足枷、首枷、石それに目玉を刳り出すためのナイフ等だ。

ウーセル女史によれば、ラサには二つの小さな刑務所があったという。「20人ほどしか収容できない小さな刑務所だった。監視は至ってルーズで、受刑者は外に出かけて食を乞うこともできた。チベットの新年(ロサ)には受刑者もそれぞれの家庭に一時的に帰ることができた」という。

ウーセル女史によれば、もっとも残忍な拷問道具は清朝時代(1644〜1912年)に内地から皇帝特使によりチベットに持ち込まれたものだという。

<地獄に住む農奴たち>の時代に一度の抗議活動もなかった。

「チベットの歴史においては、この点中国と異なり、飢餓により人々が死んでいくというような大規模な飢饉も、農民が反乱するということも一度も無かった。
一方中国の歴史には有名な農民一揆が何度も起こっている。チベットでは圧政からくる暴動は一度もなかった。」

ウーセル女史は疑問を呈する。もしも嘗てのチベットが「この世の地獄」であり、改革されたチベットが「この世の天国」であるならば、なぜ、北京の支配下にあったこの50年間に、かくも多くの抗議と暴動が終わりなく続いたのか?
昨年、抗議活動は記録的数に登り、チベット全土で、知識人も学生も立ちあがる事態となった」

「最初は蘭州の北西民族学院の学生数百人だった。そして、次に北京の民族学院、青海、成都の民族学院が続いた。大学だけでは無かった、中学校や小学校でも抗議が行われた。

初め、彼らは座り込んだ。去年の確か3月16日だったと思うが、彼らはバナーを掲げ、「我々は人権を要求する」「我々は自由を欲する」「チベット人殺戮を止めよ」とスローガンを叫び始めた。
興味深いことは、彼らの多くは所謂「農奴」たちの子弟だということだ」

ウーセル女史はチベット人の抵抗の理由について語る時、先にラギャ僧院の一人の僧侶が尋問中に逃げだし、黄河に身を投げ自殺したことを引き合いに出した。
ウーセル女史は2007年にこのラギャ僧院の高僧にインタビューをしたことがあるという。

その高僧によれば、(1950年以前)僧院には2500人の僧侶がいた。1958年の蜂起の後多くは僧院を追いだされた。逮捕された者のうち800人はツァイダム盆地(アムド)の塩鉱山の強制労働所に送られた。そのうち生還できたのは僅かに100人だけだった。

高僧の弟も文革時代の<闘争(タムジン)>に耐えきれず黄河に身を投げて自殺したという。










rftibet at 13:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)その他 

2009年03月30日

カム、ダクゴ僧院僧侶が殴殺される

ダンゴの僧侶が撲殺される3月30日付、TCHRDのプレス・リリースより。

<一人のチベット僧侶が中国の公安により殴り殺される>
http://www.tchrd.org/press/2009/pr20090330.html

3月25日、ダクゴ(ダンゴ)僧院の27歳の僧侶プンツォックは公安に凄惨な方法で殴り殺された。

TCHRDに入った情報によれば、僧プンツォックは25日、7ページに及ぶリーフレットをダクゴ公安の派出所の壁、シャラ・タン・ド橋、その他道沿いのユーカリの木に張り出した。

彼のこの行動は去年チベット全土で起こった抵抗運動に関係し、特に3月25日ダクゴで行われたダクゴ僧院僧侶数百名による抗議デモを受けて行われたものだ。
去年の抗議の後、数百名の僧侶が逮捕され、拷問を受けた。この日に合わせた僧プンツォックの抗議はその時の拷問、投獄を糾弾するためのものでもあった。

リーフレットには「餓死しようではないか。去年の平和的デモの後逮捕され、拷問をうけ、傷つき、殺された我らの兄弟・姉妹に対する、敬意と喪と連帯を示すために耕作を放棄しよう。すでに作付けを終わった者たちは収穫を拒否しよう。これは皆さんへのお願いだ。もしも、それでも誰かが作付けや収穫を行うならば、私はその人を祝福するために黒いスカーフとともに現れるであろう」と書かれていた。

彼は車のサービスセンターの壁にリーフレットを張っているところを公安に見つかった。
バイクで丘の麓にあるバタック尼僧院の裏に逃げ込んだ。しかし、大勢の公安は彼をもうそれ以上バイクでは登れない崖の下に追い詰めた。
彼は捕まりその場で激しく棍棒で殴打され、間もなく死亡した。

公安はこの殺害を隠すために、彼の死体を崖の下に付き落とした。自殺に見せかけるためだ。次の日に崖の下で死体は発見された。三日後に地区のチベット人たちにより葬儀が行われた。
中国当局は彼は自殺したとあくまで主張しているが、地元のチベット人は誰も信じていない。死体には沢山の傷や殴られた跡があり、殴り殺されたのは間違いない、と情報提供者は話している。

ーーー

他のニュースとして、ダド村で「耕作拒否」を行ったとして、11人が新たに逮捕された。彼らは村の中を見せしめに引きまわされたという。








rftibet at 21:00|PermalinkComments(3)TrackBack(0)内地よりの電話 

ヒマラヤ逃避行の末凍傷で両足切断・僧ミクマル

僧ミクマル 26.3.093月26日、ダラムサラ、ノルブリンカの本堂の寺守をしている、僧ミクマル・ツェリン43歳の部屋を訪ねた。

彼は凍傷により両足を膝下から切断しなければならなかった。

以下僧ミクマルの話:

(ヒマラヤの写真は雪の少ない、快晴下のものです。吹雪は想像して下さい)







ーーー

ヒマラヤ 1私はラサの南、ロカのヤルン・ダケリンの僧侶だった。
しかし、1993年秋、それまで比較的静かだった僧院に、中国人が沢山押しかけて来た。
「愛国教育キャンペーン」のグループだ。
ダライ・ラマ法王を非難し、共産党を讃えることを強要された。
拒否すれば僧院を追いだされる。

これが始まって間もなく、嫌になって勝手に実家に帰っているところを見つかり僧院に連れ帰されたことがあった。
それから、何かと目を付けられるようになった。
私は親友の僧侶とインドに行くことを話し合った。

決心して、少しのお金とツァンパを持って出発したが、本当にどう行けばよいのか全く知らなかった。
まずは、バスでシガツェまで行った。
シガツェで一泊し「サキャから南に下がればインドに行ける」と聞いたので、次にサキャまで行った。
サキャでバスを降り、南に向かって歩き始めた。

ヒマラヤ 2途中会ったおばあさんから「<チュテン・ニマ(太陽の仏塔)>というグル・リンポチェ(パドマサンババ)所縁の聖地に向かって歩いていけばいい。その先にインドに行ける峠がある」と教えられた。
途中に検問もあったが、「チュテン・ニマに巡礼に行くだけだ」と言うと通された。
(サキャからまっすぐ南に下りシッキムの北西、カンチェンチュンガ峰の北東に抜ける峠を目指したと思われる)

サキャから一週間ほど歩いてチュテン・ニマに着いた。
昔は大きな仏塔が建っていたと聞いたが、文革の時破壊され、今は小さな仏塔が建っているだけだった。
グル・リンポチェは嘗てこの道を通ってチベットに入られたそうだ。

ヒマラヤ 3峠を前に最後の村に数日留まった。
その間に、自分たちと同じように峠を越えてインドに行くという二人の若者と合流した。
雪が降り始めていた。
峠は遠くないはずだが、雲の中に入って全く見えない。
それでも、4人は出発した。

登り始めると吹雪となった。
雪は益々深くなり、腰の高さまであった。
峠の前では何度も滑り落ちた。
それでも昼ごろには何とか峠を越えることができた。

反対側は雪がさらに深かった。
道が全く判らなかった。
道に迷ったようだった。
暗くなるころ、大きな岩の下に洞窟を見つけた。
大きくはなかったが4人が横になることができた。

僧ミクマル 26.3.09−2二人ずつ寄り添って横になったが、このとき我々は洞窟の入口側に寝た。
朝まで吹雪は続いた。
私は毛布を飛ばされまいと、右手を出して毛布を押さえていた。
この時、手を外に出していたが故に、後になってその右手の指先を失うことになるとは、その時思ってもいなかった。
嵐は止まず、一睡もできなかった。








ヒマラヤ 4それから四日間、吹雪の中を彷徨い歩いた。
休むと次にもう立ち上がれなくなるので、とにかく休まず谷の下方に向かって歩いた。
力尽きて倒れる仲間を何とか立ち上がらせながら進んだ。
死んだ方がましだと思った。

四日目に土地の遊牧民に出会い、彼の小屋に入ることができた。
ツァンパとお茶をもらった。

ヒマラヤ 5火が焚かれていて暖かった。
そこに、座りこむともう立つことができなかった。
しばらくすると足と腰が痛み始めた。
靴を脱ごうとしたが全く凍っていて脱げない。

遊牧民がナイフをだして、靴を切った。
靴は取れたが、その下の靴下は足の皮と張り付いており、脱がせば皮も剥がれるという状態だった。
遊牧民は「こんなにひどい凍傷は見たことがない!軍隊を呼んで助けてもらったほうがいい」と言った。

それでもそのままそこに3日いた。
その後軍を呼んでもらった。
ヘリコプターが来て私たちを軍の施設に連れて行った。
そこからさらにガントックの近くの病院に移された。

ヒマラヤ 6そこで、医者から「両足を切断しなければ、死ぬことになる」と言われた。
それだけは嫌だった。足が無くなるなんて考えられなかった。
二週間ほど拒絶し続けた。
病院に亡命政府の人が訪ねて来た。
彼は「足を今切らないと、本当に死ぬことになる。切ることを決心してほしい」
と私を説得した。
やっと決心をして、切断した。
悲しいことだった。

病院に二か月ほどいた後、インドの刑務所に9か月入れられた。
亡命政府の人に引き取られて刑務所を出て、
それから、インド政府からの身分証明書をもらうために、さらに7か月ガントックにいた。
そして、ダラムサラに来てやっと法王に会うことができた。

今はこうして義足を付けて歩くことができる。
長く歩くと痛むが普段は大丈夫だ。
足が無くなって良いこともある。
こうして、毎日外を出歩くこともなく、静かにお経を読み瞑想することができる。
法王の法話をテープで聴くのが一番の楽しみだ。

チベットに居た時は、身体は五体揃って丈夫だったが、心は常に抑圧され、少しも楽しくなかった。

今は身体はこんなだが、心は余程幸せだよ。































rftibet at 16:05|PermalinkComments(3)TrackBack(0)その他 

中国のPCスパイ・システム「GhostNet」/偽パンチェン・ラマ11世

c1dee7b6.JPG中国拠点のスパイ網、103か国のPCに侵入 NYタイムズ2009年03月29日 23:06 発信地:ワシントンD.C./米国

http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/it/2587469/3949410
【3月29日 AFP】米ニューヨーク・タイムズ(New York Times)紙は28日、チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ(Dalai Lama)14世のコンピューターなど103か国の政府や個人のコンピューターが、中国を主な拠点とする電子スパイ活動により侵入を受けていたと伝えた。

 ニューヨーク・タイムズ紙は、カナダの研究チームが今週末に発表する報告書の内容として、このスパイ・システムのほぼすべての操作が中国国内のコンピューターから行われていたと伝えた。しかし、中国政府が関与したかどうかについては断定ができないとした。

 この調査は、ダライ・ラマの事務所のコンピューターに悪意のあるソフトウエアの兆候があるとして、同事務所がカナダのトロント大学(University of Toronto)のムンク国際研究センター(Munk Center for International Studies)の専門家らに調査を依頼したことをきっかけに始まった。

 その結果、103か国1295台のコンピューターが不正アクセスを受けた大規模なスパイ活動が明らかになった。

 侵入を受けたコンピューターの多くは大使館や外務省、各国政府施設のもので、インド、ベルギーのブリュッセル(Brussels)、ロンドン(London)、ニューヨーク(New York)にあるチベット亡命政府の事務所も侵入を受けていた。

 研究者らが「ゴーストネット(GhostNet)」と呼ぶこのスパイシステムは、ダライ・ラマに対するスパイのほかに、東アジアと東南アジア諸国の政府機関を標的にしていたという。ニューヨーク・タイムズは、これまでで最多の国が侵入を受けたスパイ活動だと述べた。

 報告書によると、現在も、1週間につき十数台以上のコンピューターが新たに侵入を受け、監視されているという。

 米国政府の関連施設が侵入を受けた形跡は無かったが、北大西洋条約機構(NATO)のコンピューターが半日にわたって監視され、米ワシントンD.C.(Washington D.C.)にあるインド大使館のコンピューターが侵入を受けていた。(c)AFP

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28日から四川TVとかでは、一日中「農奴解放記念日」関係のニュースを流しています。今日もやっています。

先ほどか「ダライ一味」が如何なる陰謀のもとにこれまでどれほどの被害が出たか、についてのレポートが流れています。

その中で、一瞬、亡命政府のサイトの一部が映りました。
いかにも、これが証拠だと言わんばかりの見せ方でしたが、実際にはあまりにショートで読むことなどできません。

ネットをハックするのも一つには、上の使い方のように、うそ話に使えるネタを探しているのでしょう。

今年のロサを前に、ラサを追い出された日本人友人が今ダラムサラにいますが、
彼の話だと、私のブログはブロックされていてラサでは見れないそうです。
確か去年の夏にはまだ、ブロックされていなかったはずですが、、、
光栄なことです。

もちろん、私のブログだけでなく、ダライ・ラマ側のブログはすべてブロックされているようだった、と彼は言ってました。
当たり前ですかね!?

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次は朝鮮日報の記事ですが、

偽パンチェン・ラマ11世 写真 朝鮮日報パンチェン・ラマを担ぎ出した中国政府の意図とは | Chosun Online | 朝鮮日報

http://www.chosunonline.com/news/20090330000036

2009/03/30 11:23:17

 中国政府が今年初め、一方的に制定した「チベット農奴解放記念日」の28日、中国・江蘇省無錫市で開かれた第2回世界仏教フォーラムの開会式で、チベット仏教で序列2位の指導者パンチェン・ラマ11世が演説を始めるや、世界48カ国から集まった1700人余りの高僧、仏教学者は驚きを隠せなかった。今年 19歳になるパンチェン・ラマが突然現れ、チベット語ではなく英語で親中的な演説を始めたからだ。

 パンチェン・ラマは英語による演説で「マイ・カントリー、チャイナ」という単語を何度も繰り返し、「フォーラムの開催そのものが、中国の社会が調和・安定し、信教の自由を享受していることを十分に証明し、中国が世界平和を擁護・促進する国であるという事実を示している」と指摘した。

 中国国営の通信社、新華社電は「パンチェン・ラマの素晴らしい英語演説が各国の高僧や仏教指導者に喜ばしい衝撃を与えた」と称賛した。

 28日の同行事を契機として、中国政府がチベットと関連する国内外での宣伝を強化している。中国政府は同日、チベット自治区ラサにあるチベット仏教の象徴であるポタラ宮殿前で、1万3000人が出席する中、「チベット農奴解放日記念式」を開き、全国に生中継した。

 パンチェン・ラマは23日付人民日報にも寄稿し、「共産党の偉大な指導力の下で、今日のチベットの繁栄と発展を成し遂げることができた。その指導力の下でのみ明るい未来がある」と共産党を称えた。1995年にチベットの精神的指導者ダライ・ラマ14世は、チベット仏教のゲルク派を代表するパンチェン・ラマ11世としてゲンドゥン・チューキ・ニマ少年を指名した。しかし、中国政府は90年2月生まれのギェンツェン・ノルブをパンチェン・ラマ11世として一方的に任命し、今年に入り彼の口から中国政府を擁護する発言が聞かれたことになる。

 これについて、文匯報など香港メディアは、中国政府がパンチェン・ラマを担ぎ出したことで、ダライ・ラマ(73)の影響力をそぎ、チベットの内部分裂を促す意図が明確になった、と分析した。

香港=李恒洙(イ・ハンス)記者


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テレビにもこのところ頻繁に偽パンチェン・ラマは登場します。
いつも、書面を見ながら、それを読み上げています。

見るたびに哀れを感じます。







rftibet at 13:10|PermalinkComments(1)TrackBack(0)ダラムサラニュース 

2009年03月29日

ナンパ・ラを越え吹雪に遭い凍傷で足先を失ったニマ・デキの話

ナンパラを越え足に凍傷を負ったニマ・デキ昨日26日、N2と二人でナンパ・ラ(峠)を越え、足の指を凍傷で失った一人の女性を訪ね、話を聞きました。
彼女の他、もう一人同じく足の指を失った女性、両足を膝下から失った僧侶にも話しを聞きました。
近いうちに報告するつもりです。











ナンパラを越え足に凍傷を負ったニマ・デキ2今回はまず、ニマ・デキという30過ぎの女性の話です。
彼女は現在、ダラムサラはノルブリンカの近くに最近できた外人用仏教・語学センター、トゥサムリンで外人にチベット語を教えています。
春の花が一杯の小道を辿ってトゥサムリンに着きます。

彼女は1997年4月、ナンパ・ラを越えました。
峠を越えると途端に天候が急変し、吹雪が始まったと言います。








ナンパラを越え足に凍傷を負ったニマ・デキ3結局22名のグループの内、女の子ばかり4人の子供が亡くなり、3人が凍傷に罹ったのです。
まさに死の逃避行でした。
彼女は「地獄を見た」と言いました。

彼女はラサ近郊ペンボの出身。
ペンボのポト(ワ)尼僧院に14歳ごろ入りました。

以下彼女の話:
(ナンパラの写真は今年2月雪がなく天気のよい日のものです。場所は同じですが状況には天地の差があります)

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1997年、「愛国教育キャンペーン」が始まりました。
毎日尼僧院に警官やら役人やらが現れ、朝から晩まで「共産党を讃え、法王を非難する」という教育が続くのです。
ダライ・ラマ法王を非難する文章を暗記させられ、それを唱えることを強要されます。
3か月間も朝から晩まで、それは続いたのです。
逆らえば、尼僧院を追い出され、二度とチベットの中では尼僧院に入ることができません。
それだけではなく、村に帰って家の農業などの手伝いをする以外に法要を取り行うなどの宗教的活動は一切禁止されます。
村を離れる時には必ず警察に行き許可証を取らななければならないのです。
もしも、すべて中国の言う通りに従えば、その尼僧には「尼僧証明書」が与えられます。

結局その時110人いた尼僧の内、30人以上が尼僧院から追い出されることになったのです。

私のその内の一人でした。

追い出された尼僧たちの多くはインドに亡命することを考えていました。
しかし、それにはお金が要るのです。
親に言えば反対されることは目に見えていたので、私はこっそり、知り合いからお金を集めました。
そして1200元をガイドに払い、4月にラサからトラックで出発しました。

その時同じトラックに40人以上のチベット人が乗っていました。
トラックの荷台のドアを閉められると中は真っ暗です。
急に不安になりました。
何日走ったのか解りませんが、とにかく捕まりはしないかと不安でいっぱいでした。

トラックから下りて峠まで7〜8日歩きました。
夜中歩くことが多かった。道は平たんではなく、幾つもの山を越えなければなりませんでした。
途中に3か所軍の施設があり、そこを見つからずに迂回するのが大変でした。
どこでも犬を飼っているので、犬に気づかれないようにしないといけないのです。

最後の峠の前の駐屯地の前には橋がありました。
ここを通るときには夜中、一人ずつ静かに渡り、しばらくしてまた一人という具合にして渡りました。
犬が吠えだすのではないかと非常に緊張しました。

そこをうまく抜け峠の下に着いた頃、一人の20歳ぐらいの女性が倒れて動けなくなりました。
ガイドはみんなに、行きたいものは先に行け、この子が回復するまで一緒に残るというものは残れ、と言いました。
結局グループは二つに分かれ、約半数の人は先に出発しました。

結局ここが運命の分かれ道ともなったのです。
先に行ったグループは何事もなく無事にカトマンドゥに到着したのでした。
それに比べ、一日遅れた自分たちのグループ22人、内子供6人は地獄を味わうことになったのです。

タルチョを張る国境である、峠のラプツェにようやく到着した時はもう夕方でした。
突然、空が黒い雲に覆われ辺りはすっかり暗くなり、風が吹き、しばらくすると雪が降り始めました。
峠を少し下ったところにヤッパ(ヤクを連れた交易人)がテントを張っているのを見つけました。
そこに行きお茶とツァンパを少しだけ貰いました。
雪はひどくなっていました。
全員テントの周りの氷の上に数人ずつ固まって、上に毛布を掛けて横になりました。
非常に寒かったのですが、あまりに疲れていて、少し眠ったように思います。

朝、目が覚めて、起き上がることができません。
雪の下に埋もれていたのです。
何とかみんなで雪をかき分け這い出しました。
全員全身真っ白でした。

ナンパラ氷河 2歩き始めましたが、雪は膝まであります。
吹雪です、風が強く、何度も飛ばされそうになりました。
道は複雑で何度も登り降りしなければなりません。
雪は止まず、前がほとんど見えませんでした。

その日一日歩き続け夕方、大きな岩の下に子供たちは横になり、他の者たちは再び雪の上で眠りました。
次の日には雪は腰までの高さに積もっていました。
吹きだまりに嵌ると頭まで埋まってしまうのです。
強風も止みません。
全員が一列になり、前の方で強いものが道を作り、間に子供たち、最後に女性が続いて少しずつ前進します。
しかし、風が強く前の人の付けた足跡もすぐに雪で埋まって消えてしまうのです。
もう下半身の服は下着まで濡れ、カチンカチンに凍っていました。
下半身の感覚が無くなっていました。

ナンパラ氷河 4数時間歩いた後、ガイドは全員を集め点呼をとりました。
すると、子供が二人足りません。
誰も気づかない内に消えてしまったのです。
若い僧侶が何人かで探しに行きましたが、無駄でした。
吹雪でほとんど前が見えない状況では不可能でした。
諦めて先に進むことになりました。











クレバス窪地には雪が吹き溜って、そのまま歩けば全身完全に埋まってしまう場所もありました。
そのような場所では毛布を雪の上に広げ、その上を這って進むのです。
そんな場所の一つの前で10歳ぐらいの女の子がうずくまっていました。
声を掛けても「ううんん、、、」と言うばかりですでに朦朧としていました。
彼女を無理やり立たせ、一緒に窪地を渡りました。

毛布を広げてその上にうつ伏せになり、毛布の先を両手で持って少しずつ先に繰り出すのです。
こうして、何とかそこを抜けることができました。
そこからはその子を背中に背負って歩きました。
しかし、その子の足はまっすぐに硬直したままで、腕で私の肩を掴むこともできませんでした。

難民の子供の靴そのころ自分たちはグループから相当遅れていました。
同じように子供を背負った若いお坊さんと一緒になりました。
他の者たちはもう視界から消えていました。
励まし合いながら、必死で前に少しずつ進みました。

暗くなり掛けたころ、再び大きな窪地を前にして立ち止まっていた他の者たちと合流しました。
一人ずつ毛布を敷いて歩腹前進するので時間がかかるのです。
待つ間、私は背中に背負っていた女の子をそばに下ろし、座らせました。
そして、しばらくして、ふと横を向いて気付くと、もう彼女は横たわり、冷たくなって死んでいました。
食べるものもなく、こんな吹雪の中(5000m以上の高地)を二日歩き続けたのです。
死んでも当たり前でした。

みんな、そのまま死んだ子供をそこに置いたまま、先に進みました。
その日の夜は峠を越えて初めて、石で壁が積まれ屋根の載った小屋の中で横になることができました。(おそらくルナックのことでしょう)

lunak一人の女の子が「アラー!アラー!」「ウウ、、、ウウウ、、、」と呻き声を上げ続けていました。
ガイドが自分のところに来て、「あの子に毛布を掛けてやりたいから貸してくれ」と言ってきました。
仕方なく渡しました。
夜中近くになって、その子の呻きが一段と激しくなった。
そして、しばらくして全く静かになった。
ガイドが「死んでしまった」と言いました。
女の子は自分の毛布に包まれて死んでしまいました。

この日9歳から12歳までの女の子ばかり4人亡くなったのでした。

次の日の朝には雲が切れ、空は明るくなりました。。
しかし、雪の深さは胸の高さです。
前に進むことは容易ではありません。
その上、陽が照ったことで全員すぐに雪目に罹り、目が痛く霞んできました。

小屋の前に並んで繋がれたヤクたち昼ごろ下の方からヤクを連れた遊牧民(シェルパ)が自分たちに声を掛けてきました。
彼らと合流し、お茶をもらい、ツァンパを分けて貰いました。
彼らはそこまでの道をちゃんと作っていました。
もしもここで彼らに遭わなければ全員死んでいたと思います。
それほど、みんなすべてを使い果たし、憔悴し切っていたのです。

夕方、彼らの小屋に着きました。(チュレと思われる)
中には大きな火が焚かれ、小屋の中は非常に温かでした。
部屋の隅に座り込んでいました。

ヤク・ストーブすると突然足から腰にかけて火が点いたような痛みが走りました。
痛みは次第に強くなってきて、私は我慢できず悲鳴を上げました。
他にも数人が同じように痛みを訴え始めました。

このとき、初めて足が凍傷になったことを知ったのです。
急に温めたことも悪かったようです。

それからが本当の地獄でした。
さらにナムチェ・バザールまで2,3日はかかりました。
痛む足を引きずりながら歩いたのです。
中国兵に捕まるか、死んだ方がましだ、と何度も思いました。

ナムチェには夜中に着いて、マニ堂の中で寝ました。
コンクリートの床が冷たかったことを覚えています。

ナムチェを過ぎて坂を下って橋を渡ったところで二人の外人に出会いました。
イギリス人のカップルでした。
彼らは私の様子を見て声を掛けてきました。
男性の方が「自分は山に詳しく、凍傷の手当も知っている」と言って
私の足を見たいといいました。

近くの食堂に入り、靴を脱ぎ足を見せました。
足の先が赤く腫れていました。
彼はたらいに湯を一杯作ることを店の者に頼みました。

湯ができた後、そのたらいに足を浸けさせられました。
すぐに私は悲鳴をあげました。
全身に再び火が点いたような痛みが走ったのです。
それでも足を出すことは許されませんでした。
まるで拷問です。
足の先はしばらくすると赤黒く変色してきました。

そのイギリス人はそれでもやさしい人たちでした「必ずあなた達を無事にカトマンドゥまで届けよう。心配しないで」と言いました。
彼はすぐにルクラまで歩いて行って、自分たちのために飛行機のチケットを手に入れようとしました。
しかし、身分証明書のない者にはチケットは売れないと言われたそうです。

仕方なく、彼は私ともう一人の同じように足が凍傷になった女の子をナムチェの上、コンデにある病院に連れて行くことに決めました。
竹で担架を作り身体をそこに縛りつけ、一人四人掛りで急な坂を再び引き返したのです。
病院では、点滴も受け、治療も受け、食事もちゃんと与えられました。

ナンパラを越え足に凍傷を負ったニマ・デキ4イギリス人は二日後にはビザが切れるからと言って帰ってしましました。
良くしてくれた二人が帰った後、急に今まで味わったことのないほど寂しさと不安を感じました。

結局そこに一か月半ほどいました、その間にも他に9人の同じように亡命してきたチベット人で凍傷や病気になったものが運び込まれてきました。
近くの飛行場にネパールのネレンカンの手配したヘリコプターが来て全員カトマンドゥまで送られました。

カトマンドゥで凍傷に罹った足の指を切断する手術を受けました。






























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友人たちの映写会・トークについてのお知らせ。

28f367a4.jpg左写真撮影・野田雅也

まず、ダラムサラでの古い友人カップルRitu and Tenzing(リトゥはインド人、テンジンはチベット人)の映像作品が日本の
森美術館で4月4日より7月5日まで上映されます。

テンジンはこのチベット亡命社会での映像作家の草分けです。
作品の数もダントツです。

今回上映されるのは
The Kaleidoscopic Eye: Thyssen-Bornemisza Art Contemporary Collection,
の一部として
「Some Questions on the Nature of Your Existence(あなたの存在の在りように対する幾つかの質問)」と題された、チベット僧侶たちの仏教討論を題材にした作品です。

http://www.mori.art.museum/english/contents/kaleidoscopic/index.html

www.whitecranefilms.com

www.dreaminglhasa.com

二人は長年日本に行くことを夢見ていたので、この機会に日本を訪問できて本当にうれしい、と言ってました。

是非、チベット映画関係者のみならず一般の人も会場に行って、彼らと話して見てください。

非常に清々しいカップルです。

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次はいつものN2氏=野田氏の講演会のお知らせです。

以下はすでにお知らせしましたが、念のために、

第4回チベットの歴史と文化学習会
日時:2009年4月11日(土曜日)18:00ー21:00(開場
17:45)
場所:文京区民センター3階A−3会議室

プログラム
■講座 チベット仏教の潮流第2回「仏教のチベット的展
開」..........18:00〜
 講師:吉水千鶴子(筑波大学人文社会科学研究科哲学・思想専攻准教
授)
 チベット王朝崩壊後新たに導入された中世期のチベット仏教につい
て、戒律復興運動と仏教宗派の興隆を中心にお話しします。

■チベット報告(1)「受難ということ」.........18:45〜
 お話:渡辺一枝(作家)
 寺で修行する僧侶たちだけでなくごく一般の人々の信仰への抑圧。生
きるということの底辺にあるものについて考えます。

ー休憩ー(19:30-19:45)

■チベット報告(2)「国境線に立って」...............19:45〜
 報告:野田雅也(フォトジャーナリスト)
 ジャーナリストが見たネパール・インド=チベットの国境線。最前線
の今とこの‘50年’の報告。

■質疑応答「Tibet 2009 Vol.2」.........20:30〜
21:10±
 緊急報告:長田幸康(I love Tibet主宰)


ーーー

もう一つ、アップリングの方でも19日にトーク、映写されます。

http://www.uplink.co.jp/windhorse/news.php#496

■日時:4月19日(日) 上映 12:30〜/ トーク 14:10〜
■ゲスト:野田雅也氏 (フォトジャーナリスト)

■会場:アップリンク・ファクトリー (渋谷区宇多川町37-18トツネビル1F)
■イベント料金:当日一般¥1,500/学生 ¥1,300/シニア ¥1,000
*前売り券もご利用いただけます。
*混雑が予想されますので、下記方法にて必ずご予約ください。

********************************************************

【野田雅也氏プロフィール】
1974年福岡県生まれ、フォトジャーナリスト。世界放浪中にチベットに出会い、人びとの祈りの姿に魅了される。以来、長期にわたってチベットを訪れ、08年3月に始まった騒乱後も、2度の潜入取材を行なう。09年2月にはチベット難民の亡命ルートであるヒマラヤ山脈のナンパ・ラ(峠)を踏破し、迫害を逃れる難民たちの実態に迫った。現在、失われたチベットの50年を描く映像プロジェクトを進行中。08年、上野彦馬賞の部門・毎日新聞社賞を受賞。日本ビジュアル•ジャーナリスト協会(JVJA)会員。


(撮影:野田雅也)


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【イベント予約方法】
当イベントへの参加をご希望の方は、お電話またはメールにてお申し込みください。
メールの場合、下記の予約要項を明記の上、指定のアドレスまでお送りください。
(予約者数が定員に達し次第、受付を締め切りますので予めご了承下さい)

・予約要項
(1)お名前 (2)予約希望人数 (3)お電話番号

・予約先
TEL:.03-6825-5502
MAIL:factory@uplink.co.jp
★件名を「4/19「風の馬」トークイベント」としてお送り下さい。


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その他アップリングでは、

4/12:トークイベント第1弾モーリー・ロバートソン氏 (ラジオDJ・ポッドキャスト「i-morley」主催者)×福島香織氏 (産経新聞記者)

4/18トークイベント第2弾 ツェリン・ドルジェ(SFTJ代表)×渡辺一枝(作家)

と逃せないトークが続きますね。
遠過ぎ行けなくて残念です。
特に福島さんには会ってみたいです。

野田くんはこの二ヶ月間みっちり一緒に働いた(遊んだ)仲間です。
チベット界で飛び切り元気がいい(精力的な)ことは確かです。

チベットやナンパラやダラムサラの今を、たっぷり見せてくれることでしょう。









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2009年03月28日

パルデンさんがイギリスで活躍

28.3.09 ダラムサラ 9ダラムサラでも見れる中国のTV放送を見ると、今日は「農奴解放記念日」と言うことで一日中特別番組が流されています。
ほとんど見るに堪えず、吐き気を堪えるのが大変です。

中に、解放記念館か何かの壁に張ってある「ポタラへの坂道を荷を背負って上がる人たち」(服は確かにボロイ)の写真を前に年寄りが涙を流す、そこに娘が頷きながらハンカチを渡す、というシーンがあったりです。

「チンドゥー・マミ・ヤポドゥー!(中国軍は素晴らしい)」とチベット人が連呼する歌が延々と流れたりもします。

胡耀邦が80年代初めに一度はチベット政策の過ちを認めチベット人に対し謝ったことが有ったなんて夢のようです。

少なくとも間に文革があったことぐらいは覚えていてほしいものです。

RFAでは59年前を知る人たちが呼ばれ、その当時の状況について報告しています。

最初から、中国の言う「農奴」とか「解放」の定義は、我々とはまるで正反対なのです。50年代アジアの「普通の農家の人」が「農奴」であり、「侵略」が「解放」なのです。

私が子供の頃の日本だって、今から比べれば、所謂<貧しかった>のだ。
50年代の中国内部の漢民族地域と比べてチベットが特に貧しかったという証拠でもあるのか?物質的発展のみを問題にするなら、世界中この半世紀で飛躍的に進歩した訳だ。
ただ、言論の自由もない国は先進国とは決して呼ばれないだろう。

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例のパルデン・ギャンツォさんは今回も元気に活躍されたようです。

以下phayulの記事をjiroさんが翻訳されたものです。

在英チベット人,「奴隷解放日」の前夜に中国大使館の外で抗議
[2009年3月28日 土曜日]

http://phayul.com/news/article.aspx?id=24309&article=UK+Tibetans+demonstrate+outside+Chinese+embassy+on+%22Serf+Emancipation+Day's%22+eve

ロンドン,3月27日 − 在英チベット人のメンバーが,元政治投獄犯であったパルデン・ギャツオ氏と共に,中国が呼ぶところの「奴隷解放日」の前夜,ここ,中国大使館の外で抗議を行なった。

この新たに制度化された祝日は,この日をチベットについての誤ったプロパガンダを撒き散らすために中国政府がチベットにいるチベット人に無理強いしているものである,と「チベット社会」団体のPhilpa Carrick氏は述べた。彼は,「チベット社会」代表Fredrick Hyde-Chambers氏と共に,今回の抗議活動に参加した。

手錠や猿ぐつわをはめて,歩道にひざまずきながら,「私はチベット人だ。決して解放されてなどいない」というメッセージの入ったシャツを着て,この団体は強烈な反駁を,50年前にチベット人が民主化されたという中国大使館の偽善で皮肉なプロパガンダに対抗して行なった。

「もし,私たちが,この抗議活動をチベット内で行なったとしたら,私たちは,あっと言う言う間に暴虐で抑圧的に(寄ってたかって警棒を使って)殴打され,拘束され,死にさえするのだ」と,33年間中国に投獄されていたパルデン・ギャツオ氏は述べた

パルデン・ギャツオ氏は言う。「私たちは,この日を忘れない。チベットが民主化された日としてではない。なのに代わりに無理強いされている。中国の赤軍がチベットに隊列を組んで侵略してくる前,私たちには言論の自由があったし,宗教の自由もあった。しかし,中国が侵略してきて以来,抑圧的な調査と規制が無理強いされるようになったのだ」

Philippa Carrick氏は次のように言った。もし私たちが,このような簡単な行動をラサで行なったとしたらと考えることは有益である。私たちは自らの生命を危険に晒すことになるだろうからだ。「このチベット内の状況は,臨界状態と言って良い。占領から50年経った今もまだ強化されている強制と抑圧。チベット人は絶望しているのだ。チベットの外で得られるニュースが,なぜにこれほどまでに少ないのだろうか。これは,今も,継続して行なわれている抗議活動や,逮捕,苛烈な弾圧,悲劇としかいいようのない自殺者たちがいる証拠だ。外に情報を何が何でも出さないようにしている中国の情報封鎖の体制は,あまりにも異常である」(jiroかなりの意訳)

ーーー

その他シドニーでは100人ほどが中国領事館前で抗議デモを行い、中の一人のチベット人は靴の中に自分の大便を詰めたものを領事館の塀越しに投げ入れたとか。
これがチベット語で言うところの「キャクパ・サ!(糞くらえ)」の実践です。

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何れにせよ、中国の侵略を直接原因とする、チベット人の犠牲者はこの50年間に120万人以上、破壊された僧院は6千に上る。

これを祝賀するのは中国にとって当たり前だが、チベット人を使って祝うのが中国ならではのやり方なのだ。



rftibet at 18:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0)ダラムサラニュース 

3月28日中国側「チベット100万農奴解放記念日」/チベット側「100万虐殺記念日?」

28.3.09 ダラムサラ 5今日3月28日は、新たに中国政府により「チベット百万人農奴解放記念日」と制定された日です。

ダラムサラでは朝9時半より政府外5団体の主催でデモがありました。

デモは山道を片道4キロ歩くのです。
左写真の男性は片足で最後まで歩く積りでしょう。









28.3.09 ダラムサラ 2行進に先立ち「チベットでデモ、警官に殴打、逮捕される」のシーンを再現した、
パフォーマンスが行われました。
初めの写真三枚はその時のものです。

なかなか演技は上手でした。それで、
見ている尼さんが何人か泣いていました。


28.3.09 ダラムサラ 3デモ中に配られたリリースの中でSFTインド団表のテンジン・チュイン女史は
真実には、この50年間は中国の支配の下、チベット人が奴隷化された期間であるのに、それを中国政府はチベット人に強制的に祝賀しろと言ってる

「中国による侵略と占領が故に、我々の祖父・祖母は殺され、両親はチベットを捨てるしかなくなり、我々はこうして難民としてインドで育つことになったのだ
と語っている。

28.3.09 ダラムサラ 4夕方からはキャンドル・ライト・ビジルが行われる予定です。
このとき先に亡命政府の発表した問題の「ビデオ」が上映される。

この日に先立ち、昨日27日外務大臣のケサン・Y・タクラ女史が記者会見を開いた。
この中で、「明日28日を中国は所謂<解放記念日>と決定したことはチベット問題を重大化させるばかりだ」と語り、

「この動きは、現在進行中の弾圧を隠蔽するための中国政府の巨大なプロパガンダ
であり、この挑発的運動の目的はチベットをより不安定化させ、カオスにするためなのだ。これらすべては限られた幾人かの個人的利益のためなのだ」

28.3.09 ダラムサラ 6「もしも、チベット人が我慢しきれず、通りに出て抗議を行うならば、中国の指導者たちには、さらに厳しく残酷な仕方で弾圧する口実ができるのだ」と記者の質問に対し答えられた。

関連記事:英語
http://phayul.com/news/article.aspx?id=24303&article=Exile+Govt+finds+China%e2%80%99s+%e2%80%9cemancipation+day%e2%80%9d+provocative+for+Tibetans

http://www.phayul.com/news/article.aspx?c=2&t=1&id=24301&article=China%27s+Serf+Emancipation+Day+Hides+Repression+in+Tibet

ーーー

関連記事:日本語

としてまずは中国側のサーチナから写真のこの記事に付いてたものです。
この衣装は何でしょう! 何て事をしてくれたのですかね!

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28.3.09 ダラムサラ 8“青空に舞う歌声”−チベット農奴解放記念日祝賀式典
【政治ニュース】 2009/03/26(木) 23:58

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0326&f=politics_0326_007.shtml

  3月26日、チベット自治区ラサ市内において、間近に迫った第1回チベット100万人農奴解放記念日のための祝賀式典が行われた。

  式典では、“紅色歌曲(愛国歌)”が高らかに奏でられ、民衆は音楽に合わせて歌や踊りを楽しみ、解放の喜びに浸ったという。

  紅色歌曲には、時代とともに強く生きてきたチベット民族の誇りや、これからも発展していくチベットの未来を願う祈りが込められている。(編集担当:井上洋一郎)

ーーー

次に新華社は、

http://japanese.cri.cn/881/2009/03/26/1s137620.htm

『農奴から国家の主人公に』2009-03-26 21:20:30

 新華社通信は26日、『農奴から国家の主人公に』という文章を発表しました。
 文章は「チベットに住む各民族人民に平等の生存権、発展権を持たせ、衣食足りて、豊かな生活を過ごしてもらうことは中国共産党中央が終始注目し、推進している一大事だ」として、「中国共産党中央はこれまで4回のチベット活動会議を開き、全国に及ぶチベット支援戦略をスタートさせ、一連のチベット発展を支援する特別な優遇政策と柔軟な政策を打ち出した。1951年から2008年まで、チベットの発展支援のため、合わせて1000億元を拠出した」ことを明らかにしました。

 文章はまた、「民主改革によって、チベットの百万の農奴が解放され、その生命と自由が中華人民共和国の憲法と法律に保障され、国家の主人公とチベットの主人公になった」として、チベット現役の幹部は、チベット族とその他の少数民族の人が70.42%を占めている」と書かれています。

 さらに、文章は全国政治協商会議のアポ・アワン・ジクメー副議長の話を引用して、「民主改革は農奴を解放して、生産力を解放しただけではなく、チベット全体を救った」しています。(翻訳:ヒガシ)


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28.3.09 ダラムサラ 法王特使ギャリ・リンポチェの最近のコメント

ダライ・ラマ特使 「自治拡大要求ねじまげ弾圧」と中国を批判2009.3.26 20:00

http://sankei.jp.msn.com/world/china/090326/chn0903262002005-n1.htm

 【ワシントン=古森義久】チベットの仏教最高指導者ダライ・ラマ14世の特使を長年、務めているロディ・ギャリ氏は25日、ワシントンの大手研究機関のヘリテージ財団が開いた「チベットの将来」と題する討論会で、中国政府がチベット側の自治拡大要求を誇大にねじ曲げて弾圧強化の口実にしていると非難した。クリントン米国務長官が米中関係では人権問題を協力への障害としないと述べたことにも懸念を表明した。

 ギャリ氏はチベットと中国政府の関係の現状について、ダライ・ラマ側はチベットをあくまで中華人民共和国の枠内に留め、そのなかでチベット人の独自の自己意識や文化、言語を保つという「真の自治」拡大を求めているにすぎないが、中国政府は今月、訪米した楊外相がオバマ米大統領らに「チベット側は独立を求めている」と述べたように、偽った状況報告をしていると指摘した。

 また、楊外相は米側に「チベット側は、現在の中国全土の4分の1に達する地域の割譲とチベットからの中国人民解放軍の全面撤退を求めている」と伝えたとされるが、事実に反するとし、中国政府はとくにここ数年ダライ・ラマを「分離主義者」と断じチベット人の漢民族化を強制し、宗教や生活面での弾圧を激しく進めているとした。

 クリントン長官の発言については「オバマ政権がチベットでの人権弾圧をも無視しかねないことになり、心配している」と述べ、「米国の歴代政権ではブッシュ前政権の8年間がチベットに最も強い支援を示した。オバマ政権もブッシュ政権を見習ってほしい」とアピールした。

ーーー

28.3.09 ダラムサラ 7最後に産経・北京の褒めるべき記事です。


“面従腹背”強めるチベット 大量宣伝と治安部隊で押さえ込み
2009.3.28 00:50
http://sankei.jp.msn.com/world/china/090328/chn0903280052000-n1.htm

【北京=野口東秀】中国は28日、チベット地域の統治権確立を宣言してから50年を記念して、政府が新たに制定した「100万農奴解放記念日」を迎える。この記念日を通じて、政府は共産党によるチベット統治の正当性を強調し、「主権に危害を及ぼす犯罪活動に打撃を加える」(公安省)と威信をかけて騒乱を押さえ込んでいる。しかし、治安部隊の大量動員や国営メディアを通じた当局の大がかりな宣伝活動、チベット族の僧侶に対する愛国教育にもかかわらず、僧侶らは“面従腹背”の傾向を強めているのが実情だ。

 27日、北京の人民大会堂で開催された「農奴解放50周年座談会」。中国政府に認定され、愛国教育を受けたチベット仏教指導者パンチェン・ラマ11世(19)があいさつに立った。

 「本当のことをみる眼を与えてくれた中国共産党に心から感謝したい」

 座談会には共産党ナンバー4の賈慶林全国政治協商会議主席らが出席し、共産党によるチベット統治の正当性をアピールした。

 北京市内では、党統一戦線部などの主催で「チベット民主改革50年大型(写真)展覧」が開催中だ。チベット自治区50年間の「経済発展、社会の進歩、人権発展の巨大な成果」(同展覧会)を500枚を超える写真などで紹介し、「貴族などが支配し、残虐な刑を科されていた封建農奴制社会」だったチベットを共産党が「解放した」との見方を印象づけている。

 大量の宣伝工作から透けてみえるのは、チベット社会は伝統的に「政教合一社会」であり、チベット仏教最高指導者のダライ・ラマ14世が掲げる「高度の自治」を認めれば、「想像を超える政治的結社を生み出す可能性がある」という政府当局の懸念だ。

 「誰も政府の宣伝なんか信じていない。今後は、宗教の根幹にかかわる活仏の選定が重大な分岐点になるはず」

 四川省のチベット族僧侶は、当局が、転生する菩薩の化身を活仏とする宗教観に「干渉」していることに強く反発した。

 政府は、活仏の選定で中央政府の認可を強化した「活仏転世管理弁法」を07年9月に施行、14世による活仏選定を法的に認められないとした。しかし14世は中国国内で転生しないと明言している。今後、対立の火種となるのは必至だ。

 チベット族にとり、チベット仏教の最高位「ダライ・ラマ」が尊敬の対象だ。

 14世が死去すれば独立派に対する歯止めが利かなくなる可能性がある一方、世界的に知られる14世の存在が消えることで当局は、「国際化したチベット問題を国内問題として処理、解決できる」(中国筋)と考えているふしがある。

 だからこそ、四川省のチベット族居住区で「読経」が禁止されるなど宗教統制が強化され、「(14世の)写真を持っていただけで警官に殴られた」(僧侶)といった現実が生まれる。

 政府が対チベット政策で強調するのは、経済発展のメリットだ。中央政府が今年、チベット自治区に投入した予算額は昨年の2倍の240億元(1元約14円)にのぼる。経済・軍事大国化に向けた「中華民族の復興」の波にかき消されかねない様相だ。


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2009年03月27日

「チベ夏」よりニントップリンに寄付

26,3,09ニントップリン 1今回ダラムサラまで日本から一緒に来たM.KuuKuu(以下K)氏は三週間の滞在を終えられ今夜デリーに発たれました。
K氏は去年東京で一か月以上に渡り開催された「チベットを知る夏」イベントの実行委員長を駆って出てくれた友人です。
彼と他の実行委員、多くのボランティアの方々のおかげでイベントは大成功(自画自賛?)でした。

26.3.09 ニントップリンに寄付金を渡す昨日ニントップリン(勇気園)というダラムサラにある亡命チベット人のための「身体障害者施設」に行き、K氏はこのイベントの収益金の中から5万円を寄付されました。
「特に、子供たちの絵、図工、工作など材料費に使ってもらえればうれしい」と話されました。
関係者の皆様、ご了承ください。


26.3.09 ニントップリン3とにかくK氏は子供が好きなので、今回滞在中にもダラムサラのTCVには7回、ここから2時間かかるTCVゴパルプール・スクールに2回、ニントップリンに2回、TCVニマ・ロプタに一回と子供を追いかけておられました。




26.3.09 ニントップリン4本当は子供たちと一緒に絵や彫刻のワークショップを開きたかったようですが、時間が足りなかったようです。






26.3.09 ニントップリン5




rftibet at 17:07|PermalinkComments(3)TrackBack(0)ダラムサラ町の出来事 

ラギャ続報/ カンゼの女性証言談2

991cd210.JPG先に紹介したラギャのシンシャ・リンポチェの下に入った情報をVOT(Voice of Tibet)経由でphayulが伝えたところによると。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=24291&article=Family+of+monk+who+commited+suicide+offered+monetary+compensation

「自殺したタシ・サンポの家族に対し、20万元(約290万円)の賠償金が中国政府から支払われることになった」という。
これが本当だとすると、前代見聞の話です。
第一警察は、「タシは逃げようとして川を泳いで渡っていた」と主張し、証人もいると言っていた。
それを、今度は賠償金を出すとは?

最低タシが死亡したことは認めたことになる。
「自殺」を認めたのかどうかはわからない?
それにしても何に対する賠償なのであろうか?
「タシを自殺に追いやった責任を認めて」だとしたら!政策の大変更でもあったのでしょうか?

それにしても破格に多い額です。
ブロパガンダ用でしょうか?
金で解決しようと言うわけでしょうか?
裁判?もなく。

ところで、タシは孤児で84歳の祖母と5人の兄弟によって育てられたという。

他の情報として、「タシの僧衣が川岸で発見された」。
先に「タシが川を泳ぐところを見たと証言した、女性が警察に身柄を拘束されている」という情報があります。

何のためにその女性を拘束するのでしょうか?
良く分からないことばかりです。

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以下、前回報告した
<カンゼ・強制避妊手術を受けた女性の話>の続きです

チミ・ラモには4人の子供がいます。
現在長女20歳、長男17歳、二女14歳、三女10歳です。
下の二人は所謂「黒子」であり戸籍がないので、学校にも入れないし、仕事につくのも大変です。

長女はラサの私立の学校に送っています。
この方が余程安く済むのです。月謝は50元です。
長男は男の子と言うことで無理をして、地元の公立の学校に2年間だけ通わせたそうです。
しかし、この学校の月謝は300元もしたので長くは続けさせられなかった。

下の子供に教育を与える機会は皆無だ。
自分の健康と子供の教育の事を思い、中国の下に暮らす苦しみから逃れたいと、
彼女は2002年亡命を決心します。

国境のダムまで車で行き国境を越えようとしましたが、中国兵に見つかりそうになりました。
子供二人を連れに託して先に逃がした後、自分はみんなの身代りのようにして逮捕されました。

尋問中に運悪く偶然持っていたTCVのパンフレットが見つかったのです。
中には法王の写真もある、ダラムサラの連絡先もある、、、ということで彼女はすっかりスパイということにされたのです。
拷問もありました。
結局3年の刑を言い渡されました。
本当に辛い日々だったそうです。

そして刑期を終え故郷に帰ってみると、旦那は消えていました。
近所の者から、ラサにいると聞きました。
ラサまで旦那を探しに行ったのですが、教えられた住所を尋ねるとそこには幼子を抱え、さらに妊娠している女性がいました。
旦那の新しい女でした。

再び心打ちのめされ、2006年2度目の越境を試みます。
今回は成功しました。

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腹痛が治まらないのでダラムサラの病院で診察したところ、中に入っている避妊器具を取り出さないと危険だ、と言われたそうです。
しかし、彼女は嘗ての避妊手術がトラウマになっていてどうしても再び手術をする気になれないで、今もそのままにしているそうです。

チベットの女性は中国の圧政下、二重三重の苦しみを背負うのです。








rftibet at 12:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)チベット内地情報 

2009年03月26日

カンゼで尼僧二人逮捕/カンゼ強制避妊手術の証言談1

2d1b588e.JPGRFAには日々新しい抗議活動の情報が入って来ています。
一人二人でデモする場合が多いようです。
以下はその中の一つです。

(以下RFA放送から要旨のみ)
24日、カンゼ、ラマ・ラダックラ尼僧院の尼僧、ユルシェ33歳とツェテン・ラモ28歳の二人は政治的パンフレットを詰めたバックを持ち、「法王の御帰還を!チベットに人権を!」とスローガンを叫んだ。
程なくして逮捕され、その場で激しい暴行を受けた。

次の日(昨日25日)の朝、逮捕された二人の家族のいる家に二台の車が来て、家族を政府庁舎に連れて行った。
家族は中国政府に対する企みを持ち、ダライラマの分裂主義者団体と手を結んでいるとして非難されたという。

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ラギャの事件の後にも公安は自殺したタシ・サンポの家族、親戚縁者総勢50人を呼び出し、尋問したという。
中国に逆らえば家族、親戚もただでは済まないことを知らしめす目的でしょう。

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このところ、と言うより1950年以来、特に54頃からのゲリラ闘争もこの辺から始まっているぐらいで、この50年間常にチベット抵抗運動の先頭に立って戦ってきた人たちがカンゼのカンパ(男)、カモ(女)なのです。

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一昨日、私が(もう女を泣かすのにつき合うのは嫌だと言って)断ったN2のインタビュー。
それは「強制中絶・避妊手術」を受けさせられた女性に対し行われるインタビューでした。

今日、その内容をN2から報告を受けたので、特にその女性がカンゼ出身者であったのでここに紹介します。(やはり今回も相当激しく泣かせた(れた)そうです)

カンゼの女性の追い詰められた状況理解の参考になるはずです。

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チミ・ラモ43歳はカンゼ近郊セコ村の出身。
家は農家でした。
子供は二人まで許されています。
彼女は結婚し、二人子供を産んだ後、三人目を妊娠しました。

隠れて生むためにラサまで行きました。
しかし、村に帰るとすぐに見回りの風紀委員に見つかってしまいました。
罰金3000元を言い渡され、「今度次を産んだら殺すぞ!」と脅されたそうです。

4年後また妊娠してしまい、再びラサまで行って生み、帰って来ました。
再び見つかり、今度は5000元の罰金を払わされ、強制避妊手術を受けさせられることになったのです。
家は貧しく月に500元稼ぐこともできないほどでした。

強制避妊手術の怖さは村でも知れ渡った話。
手術後に病弱になった人、死亡した人の話もたくさん聞いていました。
近所の33歳の女性は手術後3か月して死にました。
その手術の痛さも女性たちの間で語られ、恐れられていました。

村には定期的に役人の車が来て、5人ずつ病院に連れて行きます。
自分の家に役人が来て嫌がる彼女を怒鳴り、殴りつけながら無理やり連れていきました。
廊下で同じように強制手術を受けなければいけない女性達が沢山待たされていた。
一人30分から一時間かかるが、その間中からうめき声や悲鳴が聞こえてくる。
みんなそのたびに身震いするのでした。

自分の番が来てドアの中に入った時には、目の前が真白になり、そのあとはよく覚えていない、しかし、手術に麻酔は全く使われず、その痛みは腹の中に火が着いたように痛かったことは良く覚えているそうです。

手術が終わっても自分では立ち上がれず、親戚の助けを借りて家まで帰った。
家に帰ってからも一か月近く塞ぎこみ、泣いて暮らしたそうです。
其のあと、体調も崩し、笑いが消えたといいます。

この後も子供を連れて亡命しようとして捕まり、スパイと言われ3年刑務所に入れられる、、、、
苦労話は続くのですが、
続きは明日にします。





rftibet at 21:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)内地よりの電話 

2009年03月25日

2006年ナンパ・ラ事件証言談

ナンパラ事件の絵とロプサン二日前ブログでも少しカンゼの「耕作放棄運動」に関連してお伝えした、ロプサンの話をもっと詳しくお伝えします。

31歳ロプサン・チュデンはカム、カンゼの出身、2006年9月終わりに総勢75人のグループと共にナンパ・ラ(峠)を目指し、峠の直前で中国軍に見つかり、発砲を受けた。
グループの中の16歳の尼僧は射殺された。
この事件は偶々現場に居合わせた外国登山隊が撮影した映像が世界中に流されたことで有名になった。
この有名なビデオの中には登山隊に匿われ、トイレに隠れる一人のチベット人の姿が映っています。
そのチベット人がこのロプサンなのです。

彼の映像が有名になったことで、彼の亡命の事実が中国側に知れてしまいました。
彼は実はダラムサラまで来て、法王に謁見した後はすぐに故郷に帰るつもりだったといいます。
しかし、中国側に自分の事が知れたとなってはすぐに帰ることも危険に思われました。
故郷に残した妻の元には警官が度々来て「旦那はどこに行ったのか?早く帰るように言え」と脅すようになった(これは今、ダラムサラにいる奥さんから聞いたことです)。
近所のチベット人たちは、警官に目を付けられると危ないことになるかも知れない、逃げたほうがいい、と言うようになりました。
それで次の年、妻と二人の子供も亡命を決心したのです。

ですから今はダラムサラで夫婦と2人の子供、4人で暮らしています。
それでも故郷のカンゼに残した老いた両親を助けるために早く帰りたいと言っています。

さて、大きな絵の中の一人一人を指示しならが語ってくれた話が以下です。

ナンパラ事件絵図 1(写真はクリック拡大してご覧ください)

ここ(下の方)に湖があるがこのそばで前の日の夕方みんなは仮眠した。
しばらくして起き上がってまた、歩き始めた。
サキャから歩き始めすでに二週間以上も歩き続けていた。自分を含め多くの者たちは食糧が尽き、二日前から何も食べていなかった。
立ち上がるものきつかった。

しばらく歩いて、多くの者がついて来ていないのに気づいた。
湖のそばの道は険しく足を滑らせば湖に落下するような道ばかりだった。
下のほうで子供二人が助けを呼んでいた。
助けてくれ。一緒に連れて行ってくれと叫んでいた。
仕方なく、二人を助けに行った。
それで気付くと自分は列の一番後ろになっていた。

少し上に行くと軍隊の駐屯地があった(絵左下)。
迂回しようとしたが見つかりそうになったので諦め、そのまま下の方の道を行った。
まだ道は暗かった。
川を渡った頃、左上の丘に銃を持った中国兵の姿を見かけた。
自分達を追っているようだった。

そのまま、雪の中を登った。
みんなはかなり先に進んでいた。
登山隊のテントが沢山見えた。
その方に向かって急いで登ったが、小さな子供二人が一緒だったので、上の方から近づいてきた兵隊に追いつかれそうになってきた。

ナンパラ事件絵図2中国兵が「止まれ!止まらないと撃つぞ!」と叫んだ。
そのまま、先に進むと本当に撃ってきた(絵・テントの前でビデオを構えている人の下に二人の子供を前後に連れたロプサンが描かれている。その左下に撃って来た兵士がいる)。
何発も撃ってきた。
子供を置いて自分は坂を弾を避けながら、ジグザグに登って行った。
弾は当たらなかった。

外人のテントが沢山あるところに辿り着き、匿ってもらった。
兵隊たちは先に登って行ったグループを追いかけて上の方に登って行った。
さっき自分に向かって撃ってきた同じ兵士が撃った弾が一人のチベット人の足に当たって、彼が倒れるのが見えた。
それは同じカンゼ出身の友人だった(絵・右手峠の下に足から血を流す人がいる。撃ったのは絵中央、右上に銃を向けるグリーン色の兵士)。
兵隊は最初5人、すぐ後に7人が加わり、午後にはさらに20人位が集まって来た。

ナンパラ事件絵図3その先の氷河が平らになった辺りで今度は尼さんが撃たれて倒れるのが見えた(峠左手)。
其のあと二人の兵士が倒れた尼さんを引きずり降ろしていた。
撃ったのは同じ兵士だ。
彼は終始先頭にいて一番沢山撃っていた。

兵隊たちが又下に向かってきたので、私はトイレに隠れた。
外に、兵隊が集まり、中の一人が「誰かチベット人を匿っているだろう。すぐに引き渡さないと容赦しないぞ!」と登山隊を脅しているのが聞こえた。

結局そのトイレに昼12時頃入り夜中までそこに隠れていた。
夜中になり、私は峠まで一人で登ろうと、外に出て歩き始めた、しかし、しばらくして、上方には右にも左にも兵士がそのまま陣取っていることが判った。

仕方なく、氷河の割れ目に身を隠した。
寒かった。
リュックは最初に発砲を受けた時投げ捨てた。
何も持っていない。
食べるものもない。
氷をかじるばかりだ。
一日そこにいて、死にそうになったので一旦外人のテントに帰った。
少しそこで休ませてもらった。

次の夜にもまだ兵士はいた。
でも決死の覚悟で氷河の真ん中を隠れながら少しずつ登った。
峠のラツェに着いた時には、下に向かって「イエーやった!ここまで来れるものなら来てみろ!」と叫んでやったよ。
それでも峠を越えてからも彼らが追い掛けて来やしないかと不安で急いでいた。

国境を越えてからの道は酷かった、大変だった、道に迷った。
雪が深かった。
一度ならず体ごと頭だけ残して雪に埋まったこともある。
何度も這い上がった。
死に物狂いだった。

峠を越えてしばらくして靴が二つに破れてしまった。
仕方なく、服を切り裂き、それを足に巻きつけ先に進んだ。
もう何日も食べていなかったのでふらふらだった。
道は長かった。
夜も昼も歩いた。
タガという村に辿り着き、そこで先に峠を越えた仲間達と出会うことができた。
助かったと思った。

みんなは自分がもう兵士に撃たれたか?捕まったことだろうと思っていたと言った。
自分と一緒にいた子供は見当たらなかった。
その二人を入れて8人の子供が消えていた。
おそらく捕まったのであろう。

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ナンパラ峠 中国側 発砲場所写真左はナンパラから中国側を見たところです。
正面の山の麓がチョー・オユーABCです。ここに外国隊のテントがあった。
峠との間には凸凹の激しい氷河がある。
ベースから峠まで3〜4時間かかるという。
彼らが越えた時にはこの写真よりよほど多くの雪が広範囲に積もっていた。


このナンパラ事件については去年NHKにもダラムサラまで来て証言を取材して頂き、一部は放映されました。

参考に過去のブログをお知らせします。

同じグループにいた子供の証言
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2008-06.html?p=2#20080616

http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2008-06.html?p=2#20080615

NHKの放映に関する記事
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2008-06.html#20080626

今年二月にこのナンパラまで行って来た時の写真と話は以下。
2月2/3日飛んで15日からです。(もう読んだって!?)
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2009-02.html



















rftibet at 16:20|PermalinkComments(2)TrackBack(0)ダラムサラニュース 

中国YouTubeを遮断/ラギャ・ゴンパのリンポチェが亡命先から、、、

数日前に亡命政府が公表した「秘密映像」
http://phayul.com/news/article.aspx?id=24280&article=YouTube+blocked+in+China%3b+official+says+video+fake

かつ、チベット亡命のビデオはいつものように「偽物だ」と主張しています。

もともと真理の基準が意図的に破壊されている人たちにはすべてが偽物な訳です。
(これはあくまで世俗諦内の「真・偽」の話です。勝義諦における「すべては偽」の話ではありません)

一度嘘をつくと、それを隠すために次の嘘、また次の嘘という具合にして嘘の連鎖社会、嘘文化が形成されたのです。

嘘は隠さないといけないので、都合の悪い、本当の情報はブロックされるのです。

とても、解りやすい、典型的な嘘吐き独裁国家です。

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ラギャからは、今のところ(25日午前)目立った新しいニュースは入っていません。
49f7d75e.jpgこのゴロ、ラギャ・ゴンパの座主であるリンポチェは1997年インドに亡命され、今は南インドのセラ僧院におられます。

シンサ・トゥルク・チュキ・ゲルツェンと呼ばれるこの28歳のリンポチェは何とゲルック派の創始者ジェ・ツォンカパ尊師の(偉大なる)母親の11代目の転生者なのです。(ジェ・リンポチェの母君の転生者がいることは初めて知りました。転生は性にこだわらないということも当たり前のようです)

このリンポチェは亡命後にも法王とは立場を異にする強硬な「独立派」として政治的活動にも積極的に参加されてきました。
特に去年の「チベットへの帰還行進」には最後まで参加し、その中の精神的支柱とさえ讃えられた人です。

リンポチェは後に残した自分の僧院に起こった今回の事件に心痛められ、中国政府宛てに、チベットにおける「宗教弾圧」を非難し、自身の弟子であるタシ・サンポに関する真相究明を要求する手紙を送られた。

rftibet at 12:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)ダラムサラニュース 

2009年03月24日

南アフリカの平和会議延期決定/農奴解放記念日

先ほど入った情報によると、南アフリカの平和会議は、すべての招待者が揃うまでは延期と決定されたそうです。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=24277&article=Peace+conference+called+off+over+Dalai+Lama+visa+row
昨日、ノルウェーのノーベル賞委員会も南アフリカの決定を非難する声明を発表していました。
http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=24276
もともと会議に法王を招待したのはツツ司教、ドゥ・クラーク氏それにネルソン・マンデラ氏だそうでが、三人がノーベル平和賞をなめるんじゃない!と怒ったのでしょう(冗談です。平和賞の人は怒ったりしないのです)。
国内の野党も強烈に非難したようです。
金を取るか人権を取るかの踏み絵はこれからも続くことでしょう。

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RFAを聴いているとカム、アムドでは至る所で衝突が起こっているようです。
昨日23日にはカム、デルゲにある有名なゾクチェン・ゴンパにも武装警官隊が入り緊張が高まっているそうです。

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今日は午後2時から3時間、みっちり一人の少し老いた亡命政府職員から話を聞かせてもらいました。(もちろんこれもN2の取材に付き合わされてのことです)
彼は23年間を監獄で過ごしたのです。

話は平和だった子供時代から始まり(始めてもらい)、特に59年蜂起の詳細、その後の長い獄中生活について、滔々と語って下さいました。
今は本当ににこやかな顔をした、やさしいおじいさんです。

話を少しはレポートしたいと思いますが、ノートを取るのも途中でやめて話に引き込まれて聴いていたのと、あまりに長いので、思い出す部分を時々お知らせすることにします。
実際、彼の証言談は9−10−3の会からチベット語で出版されています。
いつか、誰かが英語か日本語にすれば良いが、、、、と考えます。

最近中国政府は今週土曜日、3月28日に初の「チベット100万人農奴解放記念日」を迎えるに当たり、恥知らずなプロパガンダ記事を連発しています。

チベットの民主改革、人々の政治参与の権利を保障 - 中国国際放送局
http://japanese.cri.cn/881/2009/03/23/1s137403.htm

今週、初の「チベット100万人農奴解放記念日」 2009/03/23(月) 21:06:01 [サーチナ]
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0323&f=national_0323_025.shtml

米新聞、「農奴制の歴史を繰り返すな」と題する社説を発表 - 中国国際放送局
http://japanese.cri.cn/881/2009/03/23/1s137367.htm

0bd06d20.JPG彼、ロプサン・ユンデン氏66歳にこの「農奴解放記念日」についてどう思うか?
と聞いて見ました。


ロプサン:
中国は本当に恥知らずだ!
うそばかりだ!
根っからのうそつきだ。
本当に可哀そうになるぐらい嘘ばかりだ。

正直に答えるべきだ。確かに中国が来る前のチベットが完全な社会だったとは思わない。
良い点もあったろうし、悪い点もあっただろう。
でも、自分が知る限り、中国が来る前に誰かが餓死したとか、自殺したとか、どこかへ避難しなければいけないという人を見たことは一度もない、聞いたこともない。

だが、中国が来た後、どれだけのチベット人が餓死したか、自殺したか、どれだけの人が海外に亡命しなければならなかったか、、、今も続いている。
これだけははっきりしている。

中国が来る前には人々は、金儲けなど二の次だった。最低限働いて後はのんびり過ごした。
集まってピクニックを楽しんだ。歌って踊っていた。
人を非難したり、喧嘩する者は稀だった。
それが、どうだ中国が来て人を非難することを強要した。
喧嘩を奨励した。

良くない影響だった。それでも今までチベット人は何とか良い性格を保っていると思う。
若い者たちにチベット人としての勇気は受け継がれていると確信する。

中国はチベットを発展させたという。人々は平和に幸福に暮らしているという。
そうならばなぜ、メディアをチベットに入れないのか?
毛沢東の言った「ドアの後ろで犬を蹴る」政策が続いているのだ。

続く。






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