2009年06月

2009年06月30日

ランタン六日目 ランシサへ

ランシサへの道2ランタン六日目、ランシサ(牛死地)へ

今日はさらに、谷を奥に向かって歩き、ランシサ・カルカまで行き、帰ってくる予定。
午後早く帰ればまた読経会に参加しようと思っていた。
ランシサまで、宿の人は片道3時間と言った。しかし、実際には4時間かかった。
往復8時間。25キロほどは歩いたと思う。
パン一枚しか持って行かなかったので最後に腹が減って力が抜けてしまいました。

最初の計画だと、キャンジンでテントを借りて、この先チベット国境まで行くつもりだったが、読経会が楽しいので日帰りでお茶を濁したわけです。




ランシサへの道すがら2道は、河原が広がったランタン・コーラ沿いのほんとに気持ちのよい楽な道でした。
もちろん道の周りは花ばかり、馬にヤーにヤギがまるで野生のように生まれたばかりの子供たちを連れて、家族で移動したり、草原で眠ったりと気ままにやっていました。
見張っていそうな人は誰も見かけませんでした。まったく自由にやっているようでした。


ランシサへの道すがらあるヤーの大家族が上から下ってくるところに出会いました。
右手はすぐ川なので逃げ場はないなと思い、私はカメラを構えてそのまま待っていました。
ところが、すぐ手前まで来て、先頭の大きなヤーが突然川にザンブと入り、川を渡り始めました。すぐにみんなそれに続いて川に入ります。川は浅くなく、流れも急です。


川を渡るヤーの家族大人のヤーでも流されそうになりながら渡ります。今年生まれたばかりと思われる子供も川に入ります。流されながら、泳ぐのです。中にはかなり下流でやっと岸に着くものもいます。
ヤーは最初から泳げるんだ、、、と発見しました。

それにしても、そのあたりでは川は何本にも分かれているので対岸まで行くには何回も川を渡るのです。夏でも氷のように冷たい川です。ヤーは冷たくないのかな?と自分も冷たくなりながら、家族全員無事対岸に渡りきるまで眺めていました。
悪いことしたな、、、無事でよかったけど。

14.6.09ランシサへの道この日は朝5時頃宿を出ました。
ド・サンにこの日も「今日は荷物もないし、一人で行くから、ド・サンはお経読んでるといい」と言ったのですが、「ランシサにはグル・リンポチェに所縁のある岩や洞窟があると聞いた。山には仏が現れるともいう。行ったことがないので一緒に行きたい」とのことで、一緒に出かけました。


ランシサへの道4キャンジン村を離れ、広い気持ちの良い谷を上に行くにつれ、後ろのランタン・リルン峰に朝日が当たりはじめました。
朝早くから子馬が母親の周りではしゃいでいます。
朝日に朝露がたっぷりの乗った草原の花が輝きます。



ニャンと呼ばれる野生のヤギ?体長1.8mほど。しばらく行ったところに小さな池があり、回りにはヤーが沢山いました。
と、突然ド・サンが「あれを見ろ!」と指差す方向を見ると、水辺に見たことのない大きなヤギのような動物がいるのが目に入りました。
体長は2メートル近くあり、がっしりした体で茶褐色の毛が輝いていました。





飛び上がるニャンあちらも気が付き、しばらくはじっとこっちを見ていましたが、駆け始め、飛び跳ねながら、あっという間に、山の崖の上まで駆け上がって行きました。
足が相当強いと感じました。
「名前は?」と聞くと「ニャンだ」との答え。
この辺で「ニャン」と呼ばれる野生動物ということしか解りません。














右手にランシサ・リ峰6427m,奥にゴルドゥン峰6480m最初はガンチェンボ峰6387mを目指して歩くが、しばらくして目の前にランシサ・リ6427mが現れてくる。
このランシサは訳すと「牛死地」となる。何だか縁起の悪い名前だが、これにはこの谷全体に関わる言い伝えがあるのだ。




ランシサへの道1ド・サンから聞いたバージョン:むかしむかしチベットから一頭のゾォ(雌ヤー)とその子供、それに一頭の雄牛が飼い主から逃げてボテコシ川沿いを下ってランタンの近くまで来た。後ろからは飼い主が追いかけて来ていた。
今のブリディムのところに来た時、ゾォとその子供は危うく飼い主に捕まりそうになった。ゾォとその子供は捕まりそうになると近くの大きな岩に飛び込んだ。
二頭はそのまま岩の中に消えたという。
その岩を「ゾォディム(ゾォが中に入った岩)」と呼び、村の名前になった。今は自分の村はブリディムと言うが本当はチベット語ではゾォディムなのだ。

パンゲン・ドゥプク 5830mその後雄牛はランタン谷に入った。ある場所で一度雄牛は飼い主に捕まってしまったという。今もその岩にはその牛を繋いでおいたという、不思議な形の取っ手のようなものがある。
しかし雄牛は逃げた。逃げて逃げてずっと谷の奥まで行った。
でもランシサまで来て、牛は死んでしまったとさ。
だから、その場所をランシサ(牛死地)と呼び、上の山をランシサ・リ(リはチベット語の山)と名づけたのだ。

橋この話にもちょっと違ったバージョンも聞きましたが、これはこの谷ではみんな知ってる話でした。
チベットからヤーが来るならチベット人の南下説の裏づけにもなって、解り易いが、、、牛なのがちょっと詰まらないですね、、、ランシサは4200mなのでここでは普通の牛は飼えないという話でしょうか。



Spongiocarpella purpureaランシサには河原に大きな岩があってその岩がグル・リンポチェ所縁の岩。
「グル・リンポチェが嘗てここで瞑想された。その岩の上には涸れることのない小さな泉が湧いている」
と聞いたのですが、その岩の上には確かに不思議な形に抉られた風呂桶のような場所はありましたが、残念ながら水は涸れており、草が生えていました。

そこで一緒になったお坊さんはガンチェンボ峰を見ながら、「どこか、山肌に仏やグル・リンポチェの姿が見えると言うが、、、、見えないな、、、、」と残念そう。

ランシサカルカにてここが終点ということで偶然集まった5人で記念写真を撮った。

ランシサ・カルカの近くには3方向から氷河が迫っている。いずれの氷河もチベットとの国境線の山から始まる。中心の氷河をずっと遡ればチベット側でシシャパンマ8012mに至る。ここから三日行程で行ける。

山は6000mを越えると山らしくなり、いつまで見てても見飽きない。
写真には名前と高さが記されています。

Rhodiala tibetica花は手元の本では確認できないものが多かったようです。
そん中で何本もの長い茎の先に小さな赤い花が咲いているRhodiola tibeticaというやつは「ヒマラヤ人参」とか名づけられて、怪しげな健康食品になっている「紅景天(ソロ・マルポ)」の代用品だそうです。この花については最近ダラムサラを離れたチベットの医者小川くんにメールで確認しました。小川くんによれば「宇宙旅行の常備薬」だっと、というし本当に何らかの効果があるのでしょうかね?
特に肺の酸素交換機能を高めるというので高山病にはこれだそうです。
もっともチベット人には高山病という病気はなかったので、チベット医学では薬草ではないそうです。
詳しくは以下へ。
http://www.kaze-travel.co.jp/tibet/tibet_ogawa027_1.html

ウルキンマン峰 6151m









名称不詳









ランシサへの途中



















右手ガンチェンボ6387m、ウルキンマン6151m









名称不詳



















ランシサ・リ 6427m









名称不詳


















ゴルドゥン峰 6480m




















理解し難い遊び









パンゲン・ドゥプク峰 5830m









hanabatake

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2009年06月29日

ザンカの計画/ランタン五日目

ランタンの朝ザンカ(ザンスカール)のこと。

昨日、ザンスカール出身のデブン僧院のゲシェと仕事の事で会った。
仕事というのはザンカに僧院と尼僧院を建てたいので手伝ってくれ、図面を書いてくれ、というものだ。
この話、一年前ぐらい前から有って「是非一度、私と一緒にザンカに行こう!」と誘われていたのだったが、私は「ザンカは遠いよね、、、時間かかるしね、、、」と言って適当に無視を続けていた。

今回ランタンから帰ってくるなり彼から会いたいと電話があった。
私の頭の中ではすぐに「ザンカ、、、夏、、、花、」と繋がって、口調も軽く「いつでも、会いましょう」と言ったのだ。


キャンジンの子供計画は二つ、ザンカの中心、カルシャ寺に新しく100〜150人用の僧房、図書館、ホールを建てるのと、
カルシャ寺(僧院}の上の方にある、ドルジェ・ゾン尼僧院にも100人用の同様の施設を建てる、というものです。

別に実際に敷地を見に行かなくても写真だけでも、図面は描けるわけですが、わざわざ行きたくなったのです。

尼僧院の方は図面ができればお金の当てはあるそうです。
しかし男の子用の方はまだ、当てもないようでした。

キャンジンの子供2しかし、彼の意志は固いようでした。彼はどうしてまた新しく僧院が要るのか?との私の質問に答え「最近僧侶になるものが減ってきている。カルシャの多くの僧も家に帰っており、僧院にいる者は少ない。この原因の一つは寺の老朽化にある。
最近フランス、スイス、ドイツなどの援助でザンカにはいい学校が沢山建った。
これはいいことだ。
伝統的には子供の内一人は僧侶にさせたものだ。しかし、お陰でこれが崩れ始めている。
ザンカは伝統的に本当に仏教が生きてた土地だった。しかし、今モスリムが沢山入り、外人も来て伝統的な社会は崩れ始めている。
でも土地の人々は仏教を欲している、法要も多く必要としているのだ。




ヤ-法王も常に自由の地にあるヒマラヤ地域の仏教徒は仏教の伝統を守るよう頑張らないといけない、とおっしゃっている。
私は特に新しい僧房ができたら、故郷に帰りタクツェ(問答)を始めようと思っているのだ」と話されていました。

私が花の写真が撮りたいから行こうと思う、と言うと、「そうか、8月15日から三日間法王がザンカに来られて教えと潅頂を行われることが決まったし、7月終わりにはカルシェ・ゴンパで仮面舞踏のお祭りがあるからそのころにどうか?」と。

タルナにたなびいていたルンタ「では、、、7月終わりごろ、ラホールのダルチェから歩いて峠を越えてザンカに入ることにする。帰りはカルギル、スリナガール経由で帰ろうかと思う。よろしく」
と言うことになった。

ザンカには古い寺が多いので寺めぐりと花めぐりの旅になりそうです。山はヌン峰7135m・クン峰7067mがあるし。
法王のティーチングもあるという、、、どうですか、みんなでツアーでいきましょうか?

ツアーといえば、ツアーといってもフリー・ツアーだけど、ランタンに来年7月にまたカンギュル読経会があるなら、花見を兼ねて行こうと思ってます。
これも、現地集合フリー・ツアーにしましょうかね?
興味なる方は連絡してみてください。
いや、複数だと花も見つけやすいかと思って、、、、

ついてくるヤギの子供本当は今年の夏はチベットのカム、アムドに入って去年以降の衝突のアセスメントに行こうと、生意気に計画していたのですが、今回ネパールで6っが月ダブル・エントリーのビザした貰えなかった。日本に一回父の法事のために帰らないといけないので、もう今年はチベットにいきにくくなったというわけなのです。

ランタンなどのチベット周辺の地域は平和で政治的な意味は少ないが、間接的には関係があると思う。一口にチベットと言っても地方ごとに色んなユニークな魅力がある。とにかくチベットの山、花、人、宗教、歴史を知れば、チベットが好きになるであろう。好きになれば、それに従って自然に政治的関心も持つようになる、と思うからです。失くすにはあまりに惜しい、美しく不思議な楽しい世界だと思うように必ずなるでしょう。


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読経会ランタンの続きです。
第五日目。
その日は日長一日みんなとお経を読でいた。

大体チベットの仏教がここまで広まったのは、チベット人がずっと昔にチベット語で読める仏典をたくさんもっていたことによる。
この辺は日本と違うところだ。普通の日本人は漢語(今はたくさん現代語もあるにはあるが)の仏典が読めなかった。だから、坊さん様の読むお経も意味不明のままだ。
チベットでは普通にチベット語が読める人ならお経の意味は(少し慣れれば}すぐ解るのだ。もちろん深い意味は別段階としてもだ。

昼食今回みんなが読んでいたのは「カンギュル」と呼ばれるチベット大蔵経の仏説部で、全部で100巻以上ある。一巻は厚さ10センチほど。
今回どのバージョンを読んでいたのか、確認しませんでした。

この日の朝は昨日に続いて般若部の中の「十万偈般若」でした。
最初はゆっくりでしたが、なにしろ般若系のお経は繰り返しが多いので、自然に声を出して読んでいると調子が良くなってくるのです。
とにかく「空だ!、、、、空だ!、、、これも、あれも空、外も空、中も空、空も空、、、」とみんなで連呼するわけです。

キャンジン・ゴンパ別館私たち7人だけ、この日から日当たりのよい別棟に移されました。
我々のグループのウンゼ(導師)はティムレというチベット国境間近の村から招かれています。弟子のような三人の若者を連れています。この20歳を越えたばかりの元坊主たちは調子者ばかりで、終始笑いをとっていました。
ウンゼも急におかしな節回しで読み始めたりして笑わせ、お茶の時間には即興替え歌を連発していました。

他の二人の内一人はド・サン、彼は立派に早くお経を読むことができました。
もう一人の私の隣に座っていた中年のおじさんはド・サンと同じブリディムの人。
お経は読めるが速度は非常に遅い。
でも一生懸命、解らない風のところは何度も読んだりして真面目に読んでおりました。

読経は8時から始まって中、お茶の時間を入れて11時半ごろに昼食のカネ。気持ちの良い外で中々うまい飯を頂く。
すぐにまた始まって、でも一時間ほどで休憩時間になる。これが一時間ほど続く。

また、お茶を飲みながら二時間ほど経つと、飯だと言って外に出る。
11時過ぎのは朝食だったと解る。
飯がすむと一旦すぐにまた読み始めるというのが決まりらしい。でもそのあとまた、長い休みがある。
夕方5時を過ぎるころ、カンギュルは終わりとなり、その後ニンマ派のお経セットを30分ばかり唱える。これは私以外はみんな覚えているので、非常に速い。
終わって一旦引けて、夕食がまた7時ごろから始まる。

昼休みに外に出るとたむろしていた女性連に捕まる。
「まあ、ここへ座れ、ここだ、もっと近く、すぐ横に座れ」
と手に木の枝を持ち、地面を叩きながら「結婚だよね。私たち結婚するんだよね」
周りも、「そうだ、そうだ、今日だ、パティーだ!」
もう一人のおばさんが隣のド・サンの腕をつかみ「私はこの人と消えるから、あんたもあれと消えるといい」とド・サンを無理やり立たせる。

男たちも加わり、何だか下の話で盛り上がり出す。みんなヒヒヒ。。。。。と笑いこける。
今まで、中ではあんな真面目なお経を唱えていながら、この様、この落差がチベット的、いやニンマ的でよろしいです。

しかし、その彼女、そのあとみんないなくなって二人になると、「冗談だよ。Sadakaneの知り合いだというし、あんまり調子に乗るといい付けられそうだしね、、、、本当は旦那が居て6歳と3歳の子供がいるよ。カトマンドゥにいるけど、、、お前は子供はいるのか?」とか冗談抜きの話になってしまいました。
<Sadakane>が効いたようでした。

読経会彼女がお茶を注ぎに部屋に入ってくると、ウンゼは素早く「び〜〜〜じん、びじん、、ああ、び^^じん、びじん。こころがきれいがほんまのびじん。」と一節うなる。弟子はすかさず合いの手を入れる。





読経の最中の腹芸バカな隣の若者は突然何を思ったか、お茶の時間に腹を出し、う〜〜んと力を入れて無い腹筋を浮き立たせようとした。
余興に腹芸披露というわけだ。
彼は6年ダラムサラのチェチョリンというゲルク派の僧院で学んだ後、最近村に帰り、後は嫁を探すだけの身だそうです。








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最近のダラムサラ

28.6.09ダラムサラの朝写真はダラムサラの昨日の朝です。
昨日の夕方、待ちに待った、今年のモンスーンの始まりと思われる嵐が起こりました。
一時間ほど、雷を伴った激しい雨が降り、お陰で今日から気温は5度ほど下がりました。
例年より二週間遅れのモンスーンです。
今年ほど暑かった年もないほどでした。

チベットに雨が降るのももうすぐでしょう。

ダラムサラ最近の出来事など、簡単に報告します。

ギャワ・カルマパ6月26日はギャワ・カルマパ・リンポチェのお誕生日でした。
25歳になられたそうです。

今のお住まいである下ダラムサラのギュト・ラモチェ僧院で御本人出席の中、盛大にパーティーが開かれました。
台湾中心の外人も大勢いらしてました。

http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/tibetans-celebrate-25th-birthday-of-gyalwa-karmapa-06272009212831.html

世界拷問反対の日同じく6月26日「国際拷問反対デー」に合わせ9−10−3の会(元良心の囚人の会)が中心となり、中国に対しチベット内での拷問を直ちにやめることを要求するためのキャンドル・ビジルが行われました。



http://phayul.com/news/article.aspx?id=25014&article=Tibetan+exiles+ask+China+to+%e2%80%9cStop+Torture+in+Tibet%e2%80%9d




28.6.09ツクラカンのブンツォ一昨日からツクラカンでは、毎年恒例の<マハ・グル・ブン・ツォ>がインド軍チベット部隊の後援で行われています。
5日間朝から、晩までグル・リンポチェを供養し祈願することにより、法王の長寿とチベットの自由が叶いますようにという、お祈りの読経会です。


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以下イギリスの瓜子さまからの署名お願いメールです。
Liu Xiaobo博士はチベット人を助けようとしたために逮捕されたのです。
是非少なくとも署名はいたしましょう。

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SFT UKの提案による中国人民主化運動家であるLiu Xiaobo博士釈放のための署名運動に対してのおねがいです。

全てのチベット支援者と支援団体に、6月23日に中国政府により正式に逮捕されたLiu Xiaobo博士釈放のための署名に参加されることを要請します。

1996年に、Liu Xiaobo博士は当時の中国首相、江澤民に対してチベットの民族自決権を支援しダライラマとの対話を訴えた連名の手紙を書いたために3年の強制労働の判決を受けました。

Liu Xiaobo博士はチベット人の支援のために、2008年に発表された中国人著名人によって連名署名された公開声明 “Twelve Suggestions for Dealing with the Tibetan Situation”, 「チベットの状況に関する12の提案」に大変重要な働きをした学者です。

チベット人文学者ウーセルは自身のブログ “Silenced Voices”で、ロンドン在住の若い運動家によって起こされた運動として、写真とともに、このニュースと署名サイトについて触れています。

ブログと写真はこのリンクで;http://woeser.middle-way.net/2009/06/blog-post_6000.html

署名は;http://is.gd/1efvd


rftibet at 11:10|PermalinkComments(1)TrackBack(0)ダラムサラニュース 

2009年06月28日

ランタン・トレッキング四日目

朝焼けのランタン・リルン朝五時前に目が覚めたのでそのまま外に出た。
雲が無い。そのまま、カメラを持って薄暗い山道を氷河の奥の方に向かった。
やがて、ランタン・リルン峰上が朝焼けに照り映えた。
しばらく朝焼けが続いた後、本当の朝日が頂上から下に向けて降りてきた。

このランタン・リルン峰(7245m又は7225m)に1978年世界初登頂したのは、実は日本の大阪市立大学ヒマラヤ遠征隊だそうです。

しかし、この山は土地の人々によっては侵すべきでない聖山ゲニェン・レールです。

再び風本に「ゲニェン・レールへの帰順の意思表示は、不浄な行為を浄化するほかに、この村の日常生活の一切に及んでいる。四季折々の祭事はもちろんのこと、生業である農牧畜への豊穣祈願、人の生から死にいたるまで、ゲニェン・レールへの感謝と慰撫、請願祈願と限りない。ヒマラヤの小さな谷に住む人々は、自然に対峙して生きている。自然との共存なしには生存そのものが成り立たない。それゆえに自然の災害を忌避するために細心の注意を払ってきたのだ」という。

ランタン・リルン(ゲネン・レール)峰7245m南西面このとき、貞兼さんの質問に答え、この後も出てくる司祭(シャーマン)のニマ・ゴンポ氏は「わしがゲニェン・レールにお願いしてやった。ジャパニーがやってきて、祈願してくれというからな。無事、何事も起こらなかった。ゲニェン・レールはわしの声を聞き分けるんじゃよ」と言ったそうです。



ランタン・リルン南東稜朝日を見た後、一旦宿に帰り朝食を取って、すぐにまたド・サンと共に氷河の方に歩き始めた。
その日は午前中、タルナの洞窟まで行き。
午後は読経会に参加する予定だった。





タルナ2タルナの洞窟までは2時間の予定。その日はド・サンに「一人で行くから一緒に来なくていい」と言ったのですが、彼はタルナがグル・リンポチェに祝福された特別の聖地と聞いて、自分も一緒に行きたいと言い出したのです。















撫でてもらおうと寄ってくるヤギたちタルナの岩屋はシャーマン達のゲニェン・レールとの交信の場所なのです。
タルナか、後に出るサンシサで交互に毎年7月の満月頃に神降ろしが行われるそうです。

その様子は風本に詳しく書かれています。




タルナ3風本より
「その夜のタルナの岩屋は異常な熱気が充満していた。タルナはゲニェン・レールの氷河右岸にひっそりと開けた夏の牧草地だ。五色旗を連想させる地名に違わず、瑞々しい緑一色に染まったなだらかな起伏をなす草地には、サクラソウ、イエロー・ポピー、シオガマ、アズマギク、ウスユキソウなどの草花が咲き競い、さながら天上の楽土を思わせる。

ヤナギ科の灌木の根元にはイグチやマッシュルームなどの茸も生え揃い、氷河の移動で堆積した土手には薬草や香辛料にもなる植物が群生し、一跨ぎほどの小川は深い底を透かせて蛇行しながら音もなく流れる。岩屋はこの短い夏の楽園を見下ろす丘に黒い巨大な牡牛のように横たわっていた」

Primula .......サクラソウの一種花道を辿ってタルナに行ってみると、まさに風本の通りの楽園でした。

ここではまだ少し時期が早いのか、イエロー・ポピーの株はそこかしこにあったが、まだ花は固い蕾の状態だった。




タルナ4さらに風本より
「十日目の上弦の月がタルナの夜の中空に移動し、シャーマンを迎えた岩屋は深夜にいたって最高潮に達していた。時間の経過とともにシャーマンのうち鳴らす太鼓は小刻みに激しさを増し、それに鼓舞されるように身体が左右、上下に揺れ、やがて太鼓が止む。一瞬の静寂を合図に洞内の聴衆は身体を耳にして、シャーマンの口から繰り出される言葉を聞き取ろうと静まりかえる。

タルナアー ハー
われ 人界に下り
ゲニェン・レール(峰)に降りて在り
われ 下界へ降りてきたり
われは メメ・ペンギャップ なり



(中略)

タルナ5胡坐をかいた身体が宙に浮いたかと錯覚するほどの激しいシャーマンの動き、静寂のうちにくぐもった声で伝えられる言葉、うち鳴らされる太鼓の規則正しいリズムと人々の熱狂。この一連のプロセスが幾度か繰り返され、途切れ途切れにメッセージが伝えられる。一つ一つのセンテンスをつなぎ合わせると、ようやく言葉が一つの意味をもたらす。


タルナからの帰り道,氷河舌端の氷河湖聖地巡りて ランタンの谷に入りぬ
雪山の麓 岩窟を住まいとして行を修む
三年三月と三日

岩窟のめぐりに ヤナギとスギ
右に 岩の精霊の住まう宮殿
左に 木の精霊の住まう宮殿

生きとし生けるものへの 祈りを行とし
もろもろの精霊 共に在りて嬉し
われは メメ・ペンギャップ なり

初め 天の御柱空を駆け 道を示して言う
隠れボンポ在りて 汚濁と混沌の闇に迷い 迫害に苦しむ
諸々の精霊と生きとし生きるもの そこに集いてあり

われ 生国の地霊 守護神 仏法の教えを去り
ヤク牛を伴いて出ず
彼の地 大地の生業なきを 想いしがゆえなり

その谷 よくヤク牛を育て 殖やせり
人界の牛飼人を招き 住めり
隠れボンポにまみえ その教えを知る

われ 仏の教えを去り ボンポに従う
われは ボンポになりぬ
われは メメ・ペンギャップなり

一本だけ見かけた白いアヤメ言葉はシャーマンの身体を拠り所にして遠い過去から伝えられたと思われた。異次元をつなぐ装置としての身体、送りだされるメッセージ、それを人々は熱狂のうちに受信する。この夜の岩屋は、さながら宇宙から飛来した物体とかしていた。」

タルナは本当に心地よさそうな場所でした。
水もあるし、ここに住んでもいいと思ったぐらいです。










カンギュル読経会午後は読経会に参加しました。









キャンジン村の子供









タルナへの道









ナキウサギ


















名称不明




















ヤマバト



















Myricaria rosea




















Astragalus candelleanus



















キャンジンゴンパの夕の集い




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2009年06月27日

ランタン三日目の午後

キャンジンゴンパへの道すがら昼前にキャンジンに着いたので午後はのんびり、ゴンパに行ったり、辺りを散歩したりしていました。














ゴンパに上がる道のそばの草原に、ここでもランタン村で見たのと同じような、男たちが輪になって集まり、激しくつばを飛ばし合っている光景に出合いました。
何を言ってるのか、私には現地語は理解不可能。

村の集会チベット語の解る人に説明を聞いたところによれば、論点は主に二つ。

まず、このところの観光客の不増加、または減少により今のゲスト・ハウスの総数が多すぎる状態になってきた。このままでは共倒れする。そこで、これからは村ごとに4軒のみがすべてを管理することにする。ただしこれは輪番制とする。
この際、もう宿は閉めるというものには規模に見合った補償金が支払われる。

結局、ギルドを作るということか?意味は良く分からなかったが、その4軒をどこにするとか、補償金の額とかについて言い争って(議論して)いたようです。

キャンジンゴンパもう一つはトレッカーにも間接的に影響があることなのですが、これまでは外人トレッカーが連れてきたポーターとかガイドには宿側はただで泊めて、食事を与えてきたのだが、これを改め、今度からは彼らからもそれなりの宿代と食費代を取る、というものです。

自分たち外から来たトレッカーの食事代が非常に高いのは、もちろん一つには米を始め、ほとんどすべての食糧を下の町から担ぎあげるために金がかかってる、ということもあるのですが、何よりも連れの食うものの値段も含まれているからなのです。
ということは、連れなしで一人で食べる人の食費は割高で連れの多い人にはお得と言うわけです。

キャンジン村、集会の成り行きを見守る主婦たちある宿のおかみさんの話では「アメリカのおばさんなんか、ガイドにポーターを付けてここまで登って来て、今日はお腹の調子が悪いから食事は要らない、とかいってお茶を数杯飲むだけとかいうことがある。そのポーター達は嫌と言うほど食う。たちの悪いポーターやガイドだと、やれチャンを持ってこい、アラを持ってこい、女だ、とか言うやつまでいる。
だから、今度彼らから金を取ることは良いことなんだよ」ということでした。

これはトレッカーにどう影響するか?
まず、ポーターはこれからは「食事付きかそうでないか?」をまず聞いてくるであろう。
今もそう聞いてくるポーターもいるが、これは値段を釣り上げるためのただの手、なのです。これからは本気でみんな聞いてくる。<付き>でない時は日に3〜400ルピーは高くなるであろう。
では一方で外人用のメニューの値段が下がるか?といえば、そんな面倒なことはしないように思う。だからトレッカーはこの村令には反対すべきなのだが、、、、

キャンジンゴンパへの道ともあれ、この村の話合いというものは言葉の途切れることは全くなく、草原の上で朝から晩まで二日間行われているそうです。周りには奥さん方が成り行きを見まもっていました。
何はともあれ村は民主的に運営されているようでした。



キャンジン・ゴンパ内読経会キャンジン(キャンチェン)のゴンパはこのあたりでは唯一のまともなゴンパだが、外観はただの平屋の農家の屋根に宝塔が一つ載ってるだけというものです。

しかし、中に入ると折しも読経会が開かれていたので、その読経の大声が堂内に響き渡り、周りの古い壁画の尊像も迫力ありで、突然のアドブダの世界だな、、、と思いました。

キャンジン・ゴンパ内の読経会後もうひとつ驚いたことは早口で読経してる男たちはみんな僧衣を着ていない、どころかごくごくラフな格好で陽気に読み上げている、ということだ。ダラムサラあたりで読経は僧衣を着た僧侶がやるものという固定イメージがあったので、少々変な気がした。
しかし、後に自分も入ってやってみると、この普通の雰囲気がとても気に入ることになるのだ。

なお、このキャンチェンゴンパの由来については、今回貞兼さんにメールでおたずねしたところ以下のように説明されました。

「キャンチェンゴンバの建立者は、ドゥッパカギュパで、当時は瞑想の小屋程度だったろうと思います。さらに今のような規模にしたのは、前便に書いたリンジン・ペーマ・ドルジェ(ミンギュル・ドルジェの息子または甥)あるいはその息子あるいは甥のクンサン・ギュルメー(有髪で頭頂に飾りあり)。この2名によって、実質的な宗教活動が始まっています。18世紀後半。
 かつて、両ゴンバには幾多の尊像が安置してありましたが、多くが盗まれました。観光化が進んできてからです。ドゥッパカギュ派のランリーパ(ランリーレーチェン。ミラレーパと同じ歌唱スタイル)像も盗まれましたが、最近みつかったようです。私にとって、もっとも興味をひくのは、正面左側に安置された真鍮の仏塔。近世の碩学リンジン・ツェワン・ノルブの遺骨の一部がおさめられています。」

キャンジンゴンパ内、近世の碩学リンジン・ツェワン・ノルブの仏塔左の写真:この真鍮の仏塔が左手、右手下には読経中のカンギュル経典群。

この谷を伝説の「秘密の谷」と断定したミンギュル・ドルジェ以降、次第に谷ではドゥッパ・カギュ派からニンマ派への移行が行われたようです。

いずれ、「秘密の谷」というのも、その当時のニンマ派の布教キャンペーンの一つだったのかも知れません。
風本に:「秘密の谷」の多くがチベット高原の周辺部分に存在することと、秘密の谷とはいわないまでもニンマ派の勢力がその部分に進出してきたこと、中央や西チベットでの政治の変動とが奇妙に一致することに気づく。そこに分け行ったテルトンたちの時代の心理が一つの足がかりとなったことは確かであるようだ。

お堂の中の壁画だが、貞兼さんの助けを借りて少しだけ解説すると、
キャンジン・ゴンパ入口左、入口側の壁画東面する入口を入って入口側の壁、正面に向かって左側にはグル・リンポチェ(パドマサンヴァバ)に調伏され仏教を守るとの誓いをたてた護法尊たち。最下段左から2尊目(女神のような所作)がランタン・リルン峰に宿るこの谷の最高神<ゲニェン・レール>。

キャンジン・ゴンパ入口右手の壁画反対右手の壁にはドルジェ・レクパ?を中心に仏教パンテオンの末席に仏教を守る存在として描かれた多くの谷の精霊たち。


南面には一般的顕教仏、密教仏それにミラレパなどの祖師像が描かれ。

三十五懺悔仏北面にはナーガルジュナをはじめとする哲学論師と三十五懺悔仏が描かれていました。






キャンジン・ゴンパ正面仏壇正面にはチベット大蔵経カンギュル、テンギュル、ニンマ所縁のタントラ諸像、
そして中尊はと言うと、、、

貞兼さんからのメールに「もしこの尊像が塑像であれば、ミンギュル・ドルジェ。 またもし真鍮製であれば、ミンギュル・ドルジェの息子又は甥のリンジン・ペーマ・ドルジェだろうと思います。大きな目がこのクラン人の特徴です。」
ということです。

キャンジン・ゴンパ 3




















キャンジンゴンパの女ところでゴンパから出ると隣の炊事小屋へ、お茶を飲んでいけというので入った。
中には火が焚かれていた。

しばらくして、ドタドタと入ってきた大柄な女性、隣に座ると、挨拶代りに「結婚しよう、私はお前と結婚したい!結婚だ、結婚だ、お前は明日どこに行くのか、お前と一緒に行こう。どこへでも連れて行ってくれ、すぐに結婚だ」と鼻息が荒い。
前にいたもう一人の女も「そうだ、そうだ、すぐに結婚するといい。ヒヒヒ、、、」とくる。

キャンジン・ゴンパの外「アレー、結婚ね、、、、結婚は急ぐと良くないとダライ・ラマ法王もおっしゃってるし、、、お前の言ってることが良くわかんないしね、、、ま、考えとくよ」と
交すが、次々と仲間を引き入れ、結局みんなで私を笑いのタネにし始めた。
今日は早めに退散したほうがよさそうと感じ、部屋に逃げ帰った。













キャンジンゴンパ



















下級神たち


































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2009年06月26日

ランタン・トレッキング第三日目

6月10日:
この日の行程はたったの数時間。
ランタン村3330mからランタン谷最奥の村キャンジン(キャンチェン)3730mまで気持ちの良い、お花畑をゆっくり登って行くだけです。

ランタン村から見上げるランタン・リルン峰前の日の午後には雲が掛かり全く見えなかったランタン峰が朝日に輝いていました。
ランタン村からはほぼ真上に見上げる角度です。
この村にのしかかるランタン氷河は時に崩壊して下の村に被害を及ぼすことがあるという。
そんな時は、誰かがこの谷を汚したのでランタンの神ゲニェンレールの怒りが現れたのだ、ということになるそうで、このとき生贄になるのは大方その時期に不倫を行った女性側だという。
生贄といってもちろん殺すわけでなく、様々な制裁を受けるのです。
村ではこの種の秘密は通らないようです。
詳しくは風本へ。

ランタン村の朝この辺の村では朝早く、女性たちが金属製の手持ち火鉢の上にシュクパ(ヒマラヤ這松?)の枝を重ね、これを燻し、供養の香にして、家の外と中を清めて巡る習慣がある。
家畜の周りにも置かれる。

お経を唱えているときも度々このお香の清め式が行われる。
その係りの若ぞうが私の近くに来た時、「お前がさっき、大きなおならしたから、こうして香を焚かなくっちゃいけなくなったじゃないか!」という。

ランタン村で話は前後するが、ラマ・ホテルに泊まった夕方、囲炉裏端で若い旦那と話をしていると、この男が以外な過去を持ってることが判明した。
名はガワン・シェラップで数年前までダラムサラのチェチョリン僧院で僧侶をしてたとのこと。特別なのは、1998年デリーで焼身自殺した、あの伝説のパオ(勇者)トゥプテン・ゴドゥップ氏と同じ死のハンストグループにいたということです。
実際、燃え上がる炎の中で叫びながら走った彼を目の前で見たそうです。
彼は多量のガソリンを身体にかけただけでなく飲んでもいたという。だから叫ぶたびに炎が口から噴き出したという。





イエロー・ポピー私は彼に「あなたは亡命チベット人でもなく、ネパールの田舎から出てきたチベット人だが、そんなあなたがどうして死のハンストまでしようと思ったのか?」と聞いた。
彼は「同じチベット人として戦うべきだからだ」と答えました。

今は国に帰って来て結婚し、子供が生まれたばかりの宿のおやじです。

宿は最初に泊まったラマ・ホテルに紹介されランタンでは彼のおやじの宿に泊まり、さらにキャンジンではその又息子の宿に泊まることになりました。
もっともランタンのおやじは元村長でなかなかのたぬきだとも、その筋から聞いたりしました。

Rose macrophyllaそのランタンの宿に泊まっていた時のこと、夕食のために広い食堂に行った。
中には外人の団体さんが10人近くいた。
宿のおやじをインフォーマーに何か氷河の事などを聞いていた。
後で解ったがアメリカの何とか大学のエコ調査隊であった。大学の調査隊といえば、日本からは北海道大学の方が毎年来られて氷河などの調査をされているそうです。
それはそれはまじめで、朝沢山朝食を頂いた後は山に上がって夕方暗くなるまで何やら石を砕いたりして調査に熱中されているそうです。

Iris kemaonensisとにかく、おやじはもう話に飽きたのか、やおら私に話をふり、これ以上聞きたいことがあればこの人に聞けといって、私を強引に席に着かせた(その前に貞兼さんの知り合いだと言ったからだ。この辺では貞兼さんの知り合い=ランタン専門家というわけだ)。
何の話かな?と間に入っていたネパール人に聞くとこの人が驚いたことに日本語がべらべら、それもそのはず、彼はかの九州大学で地質工学とかを専門に学ばれた方だそうです。
今回このグループのコーディネーターをやってるのだそうです。
専門用語を良く知ってて面白かったので生徒はほったらかしで彼と日本語で氷河の話などしていました。

Primula sikkimensisこの谷はカトマンドゥからアクセスが容易だし、比較的低いとこまでいろんな氷河が下りてきてるので、調査し易いのでしょう、世界中から調査隊が来ているそうです。

ついでながら、ギャンジンにはこれから雨季に入ると「ブルー・ポピー」を見るためのツアーに参加した日本人グループが大勢いらっしゃるそうです。
中には高い金出してヘリで飛んでくるグループもあるとか。
ちなみにここまでのヘリコプター代は5人乗りチャーターで片道US$2000だそうです。
往復8万円ぐらいでしょう。お年寄り、お金持ちの方にはお勧めです。
宿によれば、ここから丘に登って見に行くのはきつい、という方のために、宿の近くまで「ブルー・ポピーを持って来てくれるサービス」をしてくれるところもあるそうです。



Rhododendron setosum現地の人に言わせれば、一般に日本人はブルーポピー、外人は登山に興味があるそうです。

お金の話が出たついでに、、、例えば普通にここまで、バスと歩きで来れば幾らぐらいかかるかについてだが、
カトマンドゥからシャプルベシまでのバス代が220ルピー(1ルピー=1.2円)
一日の宿の部屋代が150〜200ルピーと安い、しかし食事代はダルバート(ネパール定食)が250〜300ルピーとべらぼうに高い(平地で50ルピー)、その他チャイが50ルピーとかで飲食費は一日4〜500ルピーかかる。
食費と宿代に毎日700ルピー前後払った。
どうして部屋代が安くて、食費が高いかについては後で詳しく述べる。

とげの多いどこにでもある灌木だが名前は不明昼飯にプラス300使ったとして一日に1000ルピーの出費=1200円ほどだ。
この上にもしも私のように生意気にポーターを雇おうという人はプラス一日700ルピー(食事無、値切れば少し下がる)。
一日中自分の荷物を持ってもらって1000円は本当に安すぎると思う、、人は後でチップを弾めばいい。
話相手になってポーターもいいものです。
この辺は高度も高くなく、クンブに比べポーターは比較的楽です。このあたりの荷物上げのポーターは一人50キロしか持ちません。クンブでは100キロ平均だったので自分は持てないのに、軽いなあ、、と見送ったりします。

貞兼さんの話ですが、ランタン村をはじめこの谷で<SADAKANE>の名前を聞いて「おお!」と声を上げない人はいないということに気付きました。
もちろん、いい意味の歓声です。
何よりもこのランタン村に電気を引いた人ということで有名のようでした。

そのほか、貞兼さんは様々な良い活動を数十年前からこの谷を中心に行って来られているのです。

Pplygonatum hookeriランタン谷は貞兼さんの愛により祝福された、日本人には特にみんなが親切にしてくれるという、誠に旅行し易い土地柄を備えているのというわけです。(くれぐれも悪用しないように)

写真は花が多くなってきました。花と山はこれから先が本番です。
花の名前を調べるためにカトマンドゥで帰りがけに二冊のヒマラヤの花の本を買って帰りました。

一冊はOxford University Press

もう一冊は

日本人のToshio Yoshida さんという方が英語版で出されている写真本です。
Yoshidaさんの本は美しいが108種類しか載ってない。
Oxfordの方は1472種類載っているが,印刷がインドなので写真が小さく不明瞭で時に判別が難しい。
とにかくこの二冊をたよりに学名とか知ったかぶりして書いているというわけです。

Meconopsis paniculata例えばヒマラヤのブルー・ポピーは有名ですが、同じブルーにも何種類もあり、この所謂Meconopsis属(?)に属するヒマラヤの野生ポピーは二冊の本に合わせて14種類の写真が載っています。
色もブルー、イエロー、クリーム、ピンク、赤と様々です。
今回はMeconopsis peniculataという黄色いポピーしか見かけませんでしたが、かつてインドのラホールの山でブルーを見たことがありました。
初めて見たときはやはり感動するものです。








Potentilla cuneata









名称不明のラン




















Rheum australe



















余程珍しい種類なのか?図鑑に見当たらず。









キャンジン・ゴンパ


















rftibet at 16:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)その他 

続・法王TCV仏教講座

d8d442f3.JPG法王は昨日も午前中、TCVホールでチベットの学生を前に仏教講座を開かれました。
最初に30分以上質問の時間があり、生徒たちは臆することなく盛んに色んな質問をしていました。
法王もそれに対し、ユーモアたっぷりに、いかにも自分の子供たちに話掛けておられるように、丁寧に答えられていました。

時間どうりに、トクメ・サンポ「三十七菩薩行」のテキストを終えられました。

以下テキストの最初の四節のみ訳してみました。

第一節
得難い(人の身という)貴重な船を得た今
己と他の者たちをサンサーラの(苦の)大海から救い出すために
昼となく、夜となく、聞、思、修に集中すること
これが菩薩の行である

第二節
好きな人への渇愛は水の波立つごとし
敵への怒りは火の燃えるごとし
取る捨てるを取り違えるは無明の闇の故
故郷を捨てるは菩薩の行

第三節
悪しき土地を離れ、煩悩は次第に収まる
妨げがないことにより、善行は自然に増大す
頭脳は明晰になり、法に確信を得る
人里離れた静かな処に住むのが菩薩の行

第四節
久しく和した伴侶も友人もやがて散々となる
努力して得た富と貴重な品もいずれ捨てて行くしかない
旅人である意識は身という宿を後にする
今生を捨てるのが菩薩の行
















rftibet at 11:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)ダラムサラ町の出来事 

2009年06月25日

ランタン・トレッキング第二日目

ランタン・リルン(ゲネン・レール)峰7225m南西面6月9日、トレッキング二日目、今日はラマ・ホテル2410mを出てランタン村3330mまで歩く。少し無理をすればキャンジンまで行けるのだが、ランタン村の事は例の風本にいろいろと書いてあったので泊まろうと思ったのだ。
その風本によればこのランタン谷は「豊饒と谷」「秘密の谷」であるばかりでなく「精霊の谷」でもあるというのです。


宿の裏手にあった、グル・リンポチェゆかりの古い仏塔以下、再び風本より:

この神(ヒマラヤの峰々に宿る神)は領域を侵されることをもっとも嫌う。ランタン村の人々が細心の注意を払うのもこの理由による。村びとであれ、旅人であれ、怒りに触れないように供犠と心身の拔除を行い、慰撫することを怠らない。ヒマラヤを旅したことのある者であれば、尾根上の峠や川に架かる橋、ちょっとした岩のそばなどに竹に括りつけられた白やとりどりの色の旗を見たことがあるに違いない。これは精霊たちの領域である証しであり、彼らを慰撫し奉ったことの目印である。








ゲニェン・レールランタン谷の東西四十二キロ、南北十一キロの約四百六十平方キロの空間には、ゲニェン・レール(ランタン・リルン峰に宿る神)のほかにも、岩と水、森林や草原、これら自然の構成要素を住処とする、善悪無数の神々や精霊が棲息している。

村人の伝承に従えば、谷の全ての神々や精霊を統べ、ランタン谷の守護神であり男神であるゲニェン・レールを中心に、三体の土地の神、ドルジェ・レクパ、ピリーツェン、ツァンパ・グランワンチュックが武将のようにこれを取り巻き、その下部に、およそ七十余りのツェン(兇暴霊)、サ(厄神)、ドゥ(魔精)、メモ(薬師女)、ルー(水獣神)、テゥラン(一足鬼)等の霊種が配置されている。

馬面のドゥ(魔精)さらにランタン村は東西約四キロの距離に四つの集落、本村のユル地区を中心にその西側高台に寺(ゴンパ)を擁したゴンパ地区、ユルの東上方にムンローとシンドゥムの二つの集落が谷の奥に向かって続く。その居住空間にも各氏族(クラン)の氏神など、足の踏み場もないほど賑々しい。

地図上に精霊の位置をプロットしてみると、谷の周縁部4〜5000mから7000m上の岩と氷のピーク、縁取りの中では湖や出張った岩、わき水や樹木など、まるで谷全体に張り巡らされた警報機のようだ。








ーーー

ゴダタベラ付近さて、実際のトレッキングでは、この日朝7時ラマ・ホテルを出て二時間ほどは相変わらず原生林の中をランタン・コーラに沿って、ひたすら登るやがてゴラタベラ辺りから森が切れ始め、正面にランタン兇伴臺ランタン・リルンの南西綾が見えてくる。




右手ランタン僑僑毅僑隠このあたりからが本当のチベットのランタン谷が始まるのだ。精霊の賑々しい世界がだ。
氷河期に形成された典型的なU字谷だが、ここの特徴は北側のランタン峰から下のランタン村にかけての傾斜角度が特に急でその高度差が4000m近いということだろうか。
後はとにかく花と緑が多いということだ。



ランタン村手前よりランタン谷登りも緩やかになってくる。3000mを越えると、涼しい風が吹いてくる。
道端に高山植物と言える花が増えてくる。
低木のつつじが圧倒的に多い、このつつじは高地に行くと八重で花も大きくなる。
低いアヤメがそこかしこに群生している。下の方ではか細く花の華奢な種類、上の方では葉の太く、花も大きくて色も濃くなっていく。

以下花とランタン村の写真です。
花の写真を擦れば学名など分かったものには書かれています。

学名Thermopsis barbata




















学名 Iris goniocarpa




















学名 Euphorbia wallichii










学名 Cotoneaster microphyllus









ランタン村3









ランタン村









村の集会









ランタン村









ランタン村4









ランタン村の夕日












rftibet at 18:15|PermalinkComments(3)TrackBack(0)その他 

2009年06月24日

鉱山を巡って衝突メド・ゴンカル

01cde5da.JPG久し振りの(私の伝える)チベットからのニュースです。

<ラサ近郊メド・ゴンカルでチベット人が鉱山職員と衝突、3人負傷>
ダラムサラ、6月23日付パユル:

http://phayul.com/news/article.aspx?id=24984&article=Tibetans+in+Meldro+Gongkar+clash+with+miners%2c+3+injured

ラサの東、メド・ゴンカル地区ギャマ(ガンデン僧院東側の谷)のチベット人たちは、近くの鉱山がギャマの上方にある村の水源地から、水を引くための水路やパイプを設置したことに対し抗議運動を始めた。

パイプは耕作地を横切るが、それらの土地は何の補償もなく取り上げられた。
ギャマの奥にあるこの鉱山はすでに20年近く前から操業されている。

昨年村を流れるギャマ・シンチュ川に残留毒物が投棄されたために多くの牛が死んだという。

6月20日、怒った村人たちは通りに繰り出し、中国人の鉱山職員と衝突した。
怒ったチベット人と中国人の乱闘にやがて警官が加わった。
3人のチベット人が負傷したという。内一人は重傷でラサの病院に運ばれたとのこと。

事件後当局との話し合いが行われたが、住民たちは依然鉱山への道を封鎖しているという。

村の人々はこのギャマ・シンチュ川に飲料と耕作のための水を頼っている。
しかし、この鉱山への給水が始まって以降、川は干上がってしまった。
多くの井戸も干上がり、飲料水にも困っている、と情報元は伝えてきた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

このギャマはチベットの大王ソンツェン・ガンポ(581−649AD)の生誕地ということになっています。

メド・ゴンカル出身のチベット人をたくさん知っているのですが、この鉱山のことは誰でも知っているといいます。しかし、何を採鉱しているのかは不明です。

「ある大きな岩を爆破しようとした人が事故で死んだとか、その岩の近くで寝ると必ず悪夢を見るというので、その岩は今の残っているだずだ。霊が宿っているから壊せないのだと地元の人は言っている」という話を聞きました。

今年は特に水が無くてどこも困っています。本当に水が無くなれば争いが起こるわけです。

もっとも、我が家にも水が無くなったが、この辺ではみんな諦めてて誰も文句言わないのは、、、理由の違いに依るのでしょう。




rftibet at 18:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)チベット内地情報 

ダライ・ラマ法王 TCVで仏教講義

6月24日TCV 会場に入られる前今日は朝からダライラマ法王が、3年前から恒例となったTCV仏教講座を行われるというので、TCVホールまで朝8時バイクで駆け付けました。

始まる前に一般市民による、仏教問答会が御前で開かれました。
町のおじさん、おばさんが頑張ってるのを、法王は笑いながら見ておられました。
「チベット人がみんな問答を習い、もっと論理的になれば良いことだ、、、」とおっしゃってました。
6月24日TCV










講義には今回はテキストを使われました。
今日と明日の二日間、トクメ・サンポの著した「三十七菩提行(ラクレン・ソドゥン・マ)」に沿って、大乗菩薩行の要点を漏れなく説明されるのです。

6月24日TCV2短いがこのお経はチベットでは有名で、法王も何度も講義されています。
著者のトクメ・サンポは尊者ツォンカパの二代前の人というから14世紀の初めころの人でしょう。
主にサキャ派の教えを中心に学んだといいます。
とにかくこの人はその人柄がよっぽど良かったのか、チベットでは菩薩の見本のような人と見なされています。

テキストはラムリン(悟りへの階梯)の形式を取って簡潔にたった37節で菩薩行の真髄を余すところなく説いています。

なお、以下に行けば、今日のティーチングの英語版を聞くことができます。

http://www.dalailama.com/page.263.htm







6月24日TCV 終わってお帰りになる法王

rftibet at 17:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)ダラムサラ町の出来事 

2009年06月23日

ランタン・トレッキング第一日目

秘密の谷・ナムゴダカムへ

第一日目の終りに見えるランタン兇肇薀鵐織鵝Ε螢襯私が今回、ランタン谷を訪れる大きな要因の一つが一冊の本、貞兼綾子さんの「風の記憶:ヒマラヤの谷に生きる人々」(以下<風本>と略)であることは先にも書いたが、その中ランタン谷の章「豊饒の谷」は以下のように始められている。



「1704年チベット歴8月3日、ドマルワ家のミンギュル・ドルジェは4度目の挑戦で、ようやくランタン谷にたどり着いた。モンスーンも明け、越えてきた後方の白き峰々も、谷を形作る氷と岩の稜線も、群青の空との一銭をくっきり画していた。ミンギュル・ドルジェ29歳の秋であった。」

ランタン谷の入口付近に自生する麻の向こうに雪山このミンギュル・ドルジェもそのころ手に入ったガイドブックを手にして旅行していたのだ。その本のタイトルは「秘密の谷ナムゴダカムへの手引書」作者は13世紀のテルトン(ニンマ派のいわゆる埋蔵経典発掘者)、ツェテン・ギェルツェンだと風本の注にある。

ランタン谷は「豊饒の谷」と言うだけでなく「秘密の谷」でもあるというのだ。

風本では続いて、この「秘密の谷<ナムコダカム>」がランタン谷であるということ、自分がそれを発見したのだということを主張するためにミンギュル・ドルジェが顕した一書を紹介して下さっている。

ハニーハンターも狙えそうにないオーバーハングの岩の下の蜂の巣風本説明:ミンギュル・ドルジェは「ナムゴダカムの確証、福利の真髄」と題した一書に、「ナムゴダカム」探索行の模様を次のように回顧している。著されたのはおそらく1720年代、ダライラマ政権の確立をめぐる清朝の政治介入の過程でニンマ派やゾクチェンパ、ボン教徒への迫害が苛烈になった頃と思われる。














ランタン・コーラに沿って登る以下、風本に訳されている本書の一部:かくのごとく、ニャナンからキロンのレンデ村にいたる眺望できる場所から踏査をかさねて行くと、目標は南方にランタン谷、北にレンデの放牧を生業とする小さな村がある。ナワルンの近くに小さな谷が存在するけれども、(東西南北)四つの門の方角が、「道案内書」に示されているのとは異なる













森に入るベーバリューユルという場所であった。これ以外にこの方角に谷はないと思ってしまうようであるが、「道案内書」をよくよく検討して進めば、東にニャナン、南にヨルモ、西にマンユル、北にペータン、その中心に位置するのはランタン谷、それ以外に地の利を持った谷は存在しない。
愚かであった。仏法の道を極めんとする求道者にとっても、他のどの聖地で修行するよりも、有利かつ早期に達成できるという恩典を有しているにもかかわらず、幸運の薄いものには、(ここに居ながら)、ここがナムゴダカムであるということは心にも思い浮かばないことであった。

名前不詳祖師パドマサンバヴァは予言書のなかで述べておられる。「この土地が堅牢な秘密の谷の中でもとりわけ選ばれた理由は、入るに易く、チベットにも近いという地の利を得ているが、埋蔵書の多くが未だ明らかにされずに在るのは、この地がひとえに秘密の上にも秘密に護られてきた場所だからだ」と。














一本の木にも沢山の同居植物祖師など修行を完成された多くの聖人によって浄化され加持された土地だ。谷の上にも中心部にも、それらの証しで満ちている。祖師の瞑想成就の岩屋、自然に生じた仏のイメージ、祖師の足跡や手跡など。
祖師はまた、この地は第十地菩薩界の世界であるゆえに、そのステージに達した者と同等の能力を得ることができるとも述べられている。そういう土地柄を拙僧のごとき先見の明を欠く者は、ランタンとナムゴダカム、ヨルモとペーマツェル、それぞれが同意であるという重要な意味を誤解していた。全く愚かであった。
(中略)






小さなサクラソウの一緒、この花は上に行っても沢山あったつまりは、「秘密の谷」というのは、有害な侵略を避けるための場所であり、その特性は、そのための強力な土地柄を持っているということにつきる。ランタンが「秘密の谷」でなくば、ヨルモやラッチなどより優れた土地柄を有する谷は何と呼ぶべきであろうか。




・・・・・本文はこれまで、解説に本当に道案内書の秘密の谷がこのランタンであるかどうか、を考察された後:しかし、こういうことも言えるのではないだろうか。当時、17、18世紀の南西チベットのマンユルや隣接のヒマラヤ地方に、「秘密の谷」を求めるテルトンやニンマ派ゾクチェンパたちによる一つのムーブメントがあって、ミンギュル・ドルジェが「秘密の谷ナムゴダカム」を発見したということが、同時代の修行者や宗門の仲間達の間で一大スクープとして話題にのぼっていたらしいということ。そして、その多くからは疑惑をもたれていたために、そうした者への反論と解明を試みたものだろう。






、、、、、
大型の蝶ナムゴダカム」とは、「半月形の天の門」という意味である。氷河が削ったU字型のランタン谷の中心に立って天をあおくと、確かに、谷の上に広がる空の形は8日目の月の形に似ている。











ランの一種だが名称不詳以上少々長かったが風本よりランタン谷を巡る歴史のお話でした。
とにかく(信のある人にとっては)行けば「十地の菩薩と同じ能力を持つ」ことができるという「秘密の谷」なのです。
















学名 Therupogon Pallidus以下実際のトレッキングの話:

シャプルベシを朝7時に出発し、ひたすらランタン・コーラにそって登る。その日の宿はラマ;ホテル2410m、5時間行程のはずだ。
最初の一時間半ほどは正面から当る強い日差しを遮る木々もな階段続きで相当に汗をかいた。朝、暗いうちに発つべきだったと後悔した位だった。
道はアップダウンが多い。道端には麻と毛せん竹が目立つ。


一本の木にも沢山の同居植物2道はしばらくして森に入った。森は次第に深くなり、巨大な木の枝にシダ
やランの共生する原生林の様を呈してきた。セミの鳴き声が聞こえ、珍しいチョウが舞う。
いろんな種類のシダが茂り、精霊の国に行く前の妖精の国でした。

透明な湧水はどこにでもあって水には困らない.












ラマホテル途中バンブー・ロッジというところで昼食を取り2時頃にはラマ・ホテルに着いた。
ここには10軒ほどの宿がある。

この日は最後にちょっとだけ、木々の上にランタン僑僑毅僑隠蹐鮑玄蠢阿法右手にランタンリルン峰7225mを望むことができる。(最初の写真)



ラマホテルの裏の崖に出現したクマ夕方ラマ・ホテルの裏の崖をド・サンと宿の奥さんが見上げながら「クマがいる」という。
指差す方向をいくら見ても(チベット人との間には良くあることだが)私には確認できなかった。ド・サンが「カメラをよこせ、俺が撮る」というので彼に望遠で撮ってもらったクマの写真が左の一枚。






ラマホテルの若奥さん




















学名 Pleione hookariana ピンクが一般だが白はこの一本のみ




















omake

rftibet at 15:30|PermalinkComments(4)TrackBack(0)エッセイ風 

2009年06月22日

カトマンドゥよりダラムサラまで

ダウラギリ写真はカトマンドゥ発デリー行きフライトの窓より:雲海上のダウラギリ峰。

カトマンドゥ空港でのこと、14:40発のデリー行きまでは時間があるというので待合室でパソコンを開いて、文章書いたり写真を整理していた。
フライトは30分遅れると途中でアナウンスがあった。そのあと今度はネパール語だけで「出発は16時、、何分かになる、」と言ってるようなアナウンスがあった。
度々係りの人が回って来ては「お前は・・の乗客ではないか?」と聞いてきた。
だから、どうせ本当に出るときは誰か探しに来るだろうとか思ってそのままパソコンに集中していた。
ふと気づくと15時を過ぎている、気になってボードを見ると15:15分搭乗中になってる。近くの係官に聞くと、早く行けという。
長いセキュリティーの列を無視して先に通され、搭乗口に行くと、今度は何してたんだ、みんなお前を待ってたのだ!と怒鳴られ、そのまま空港の熱いコンクリートの上を一人の係官と一緒に飛行機のところまで訳150m走らされた。私はゴムぞうり履きで走ると傷が痛んだ。
着くとみんな避難の目を私に向ける。
どうやら、私が最後の乗客でみんな私を待っていたようだった。
私のお陰でフライトはさらに15分遅れて出発した。
「何で、探さなかったのよ、、、」と言いたかったが、それにしても生まれて初めて自分のせいでフライトを送らせてしまったという話でした。

デリーに着くころ、飛行中、隣でさんざんいちゃついていたインド人新婚カップルが「ところでお前は何で遅れたんだ?」と聞いてきた。


アクシデント酷暑のデリーにいる時間を出来るだけ少なくするため夜行列車に乗りパタンコットに朝着いた。ここからタクシーでダラムサラだ。
その途中でのこと。交通事故現場を通りかかった。
自分の乗っていた車がカーブを切って前を見ると、すぐ前の谷の方から土煙りが上がっており、二三台の車が止まり、人が谷の下を見ている。
ドライバーは「アクシデントだ!」と言って車を止めた。
崖の下を覗くと、20mほど下にトラックがぐちゃくちゃになっている。
崖の途中に二人が倒れており、アー、アーと声を出している。
でもその内自分で二人とも立ちあがった。一人はかなり血を流していた。
崖の上の方からはすぐに助けに行けない状態だったが、下から間もなく人が駆けつけた。
それにしても、ドライバーたちは落ちる途中に飛びだしたか?投げ出されたかで、かろうじて助かったという状態だった。そのまま一緒に落ちていたらタダでは済まなかったであろうと思われた。






rftibet at 21:28|PermalinkComments(2)TrackBack(0)その他 

カトマンドゥからバスでシャプルベシ

ランタン、ナヤ・カン5844mカトマンドゥからデリー空港に夕方5時過ぎに着いたが、機内に外気温44度とアナウンスが流れると、流石のインド人も避暑帰りということもあってか、「オー・ノー!」と一斉に声が上がった。
酷暑のデリーをすばやく抜けてダラムサラに帰ったが、ダラムサラも雨季が始まらず暑いの盛り。
チベットも「30年来の干ばつ」と聞くが、インドも干ばつ状態です。

帰ってくるんじゃなかった、と早くも涼しかったランタンに帰りたい気分。


ーーー

6月7日サカダワの燈明に映えるボゥドナート仏塔今年のサカダワは6月7日だった。

その日、まず私はランタン谷の入口の町シャプルベシ(シャフルベンシ)までのバスのチケットを買うために、リキシャに乗って教えられたバス・センターまで行った。
思ったより遠くてリキシャ代を値切り過ぎたな、、、と思った。
キップ売り場には人はおらず、「明日朝来い」と隣のキップ売り場のやつがいう。
ボゥドナート/サカダワ困ったかな、、、、と思いリキシャマンに事情を言うと、「シャプルベシに行くなら他のバス停がある。知ってる。乗れ」とのこと。
そこに行き次の日に出るバスのチケットが買えた。
前から二列目。まあまあだ。とにかく私はバスに酔うので必ず前の席でないといけないのだ。バス代はたったの220ルピー(270円ぐらい)。
このバスが遊園地のマシンのように体験的なものであることは後で知ることになる。
とにかくバスのチケットも手に入れ、喜んでタメールに帰る途中のこと。
ボゥドナート3タメールの前にはきつい坂がある。リキシャマンは普通ここで漕ぐ事を止め、乗客を乗せたまま、あるいは降ろして、リキシャを押し上げる。
私はサカダワと言う訳ではないが、降りて一緒にリキシャを押し始めた
しばらく押した後、坂が緩やかになったところで、彼が乗れと言う。
急いで飛び乗ろうとした時のこと、残った片足が足の甲を下に後輪に巻き込まれた。
もちろんサンダルだったのでしっかりけがをしてしまった。
足を出すと血が出始めたが中々勢いよくて止まらない。
ボゥドナート2彼は当たりに落ちていた段ボールをちぎって押さえろという。
通りかかった人が薬局が近くにあるから行けという。
そこで応急処置をしてもらったが、いい加減だな、、、と思いながら見ていた。
とにかく蓋をして一旦終わったことにした。

途中、宿に帰る前にビザを頼むためにツーリスト・オフィスに行った。そこのおやじが足の包帯を見て、どうしたのだと聞く。状況を説明すると。おやじ曰く「だから。他人を助けたりするものじゃない。特に貧乏人を助けると必ず問題が起こる。人を助けるものじゃない」とのたまった。いかにもカースト的考え方というか、インド系と見えるこのおやじ、嫌な奴と思った。
私は傷の事は一旦忘れることにして、夕方からボゥドナートに行って右遶を繰り返した。

途中の人々帰って、包帯を解いて傷を見ると中には小さな黒い石などが残っていた。洗って薬局でもらった薬で処置して又蓋をした。場所が左足の小指の後ろの方ちょうど骨がちょっと出っ張ってるとこだったので。靴を履くとあたるとこだった。
次の日の朝にはしっかり化膿して長さ2センチ、幅一センチの膿の海になっていた。
バスに乗った後は周りが腫れて靴が履けなかった。
実はこの傷とうとう最後まで治らず同じ状態だった。最初の一日は靴を履かず結局ゴムぞうりで歩き通した。
でもサカダワということで自分のドジを忘れ、まるで何もなかったように思うことにした。
お陰で、歩き始めると最初は痛んだが、すぐに忘れることができた。

シャプルベシ行きバスバスは相当だった。とにかく道がこれでもかというほどにむちゃくちゃなのだ。バスとトラックとランクル以外は走れない。カトマンドゥからシャプルベシまで100キロちょっとなのに何と10時間かかった。1331mのカトマンドゥから、1600mほどのカカニの丘に登り、今度は500mのトリスリまで下る。ここまでは道は舗装されていて、まあまあだ。そこからは壊れた道を2400mまで上がり、ドゥンチェを過ぎるとまた1400mのシャプルベシまで下る。途中バスのシャフトが落ちて、その修理に1時間。朝、7時に出て結局夕方シャプルベシにやっと到着した。
バスの上にも人や荷物が一杯載る。ヤギが沢山載っていたもの見た。写真にはバスの上にマオパティ(マオイスト共産党)の青年部が一杯乗ってるところ。

ドゥンチェよりランタンとチベットの山々ドゥンチェからは右手に目指すランタン峰(登るわけではないが)正面に国境を越えたチベットの山々が見える。

ランタントレッキングの出発点シャプルベシの町はチベットから流れてくる川沿いにある。
ここからチベットの国境までほんの数十キロだ。一日で歩いていけるという。ここの国境はネパール・チベット国境線の中でいちばん高度が低い1814mしかない。越えればキロンの町がある。しかし、この国境を越えてくる難民は今は皆無だ。川が障害になっているのだ。国境には橋が掛っているという。この国境の橋の監視人は昔はチベット人だったから地元の者たちはキロンまでは商売などのために行くことができたという。でも今では警備員は中国兵で少しでも近づくと銃を構えて帰れと言うそうだ。

ランタン谷への入口左の写真:右手の川がランタン・コーラ、左にボテ・コシ、下流にトリスリ・ガンガ

川の名前は国境からここまでを「ボテ・コシ」という。ここで東から流れてくる「ランタン・コーラ」と合流し、名前を「トリスリ・ガンガ」と変えて南のインド平原に下り最後はガンジス河となってベンガル湾に注ぐ。
チベット人は数百年前からボテ・コシの東側、ランタン・コーラの北側を中心に住みついている。ボテ・コシの西側にはタマン族を中心に少数のグルン族も住んでいる。
昔からボテ・コシの東に住む者を「シャルパ(東の人)」、西に住む者を「ヌッパ(西の人)」と呼んでいるという。そして、1959年以降チベット人の難民がキロン経由で大勢この地域を通過していった。中にはここにそのまま住み続けている難民もいる。



シャプルベシの子供たちシャプルベシには小さいがチベットの難民キャンプが三か所ある。もっともダラムサラなどに比べ生活は断然厳しいように見えた。子供たちは明るく楽しそうに遊んでいたけど。

驚いたことに、この町には中国人もいた。実はここから先国境までの道を今中国政府の援助でつくっているところだという。町には水力発電所もあるが、これも中国政府が作ったものという。いざと言うときの侵略道路になるのだろうか?

古い話だが、この道を通って18世紀の終わりに清朝の軍隊がネパールのグルカ兵と戦いながらこのずっと下のトリスリまで進軍したことがあったという。
これは、チベットと当時のネパールを支配していたグルカが鋳造貨幣の比率に端を発した戦争をしたときのことだ。チベットはこの戦争のために清朝に応援を求めた。嘗てはこんなこともあったのだ、今の日本や韓国がいざと言うときにはアメリカに助けを求めるようなものだろうか?
それにしても、清軍はチベットに北から入ったのか?成都方面から入ったのか?知らないが、ずいぶんと遠くまで歩いてきたものだ。皇帝は「よっしゃ、ラマがおっしゃるなら助けてやろう」と言うだけですむが、実際にここまで中国から歩いて来て、かつ戦わされた兵士には同情する。

シャプルベシのチベット難民村バスがシャプルベシに着くころ前に座っていたチベット人が話掛けてきた。彼は国境近くの村に生まれたけど今はデリーで働いている、今回久し振りに郷里の母親に会いに帰ってきたとのこと。どうりで解り易いチベット語を話すと思った。私は足が痛むこともあり、最初はポーターなしで歩くつもりだったが、着いたらチベット人のポーターをインホーマーにもなるしで雇おうかなと思い始めていた。彼にチベット人のポーターはいるかな?と聞くとすぐそばに座っていた夫婦のチベット人に話掛けた。その旦那の方が良かったら自分がやると言って来た。体は大柄で力はありそうだった。やさしそうな顔をしていた。チベット語は現地訛りが強かったが何とか理解できそうだったので、彼に頼むことに決めた。
ド・サン彼とはその後10日間も一緒に歩いていろいろと話をした。本当にいい奴だった。
彼の名前はド・サン(善良な石)、国境に近い村ブリディンに代々住んでいて、今は10歳の一人息子をカトマンドゥの学校に送っていて夫婦二人で住んでいるという。
今回カトマンドゥでは子供に会って、そのあとサカダワのボゥドナートで五体投地をしていたという。
彼の話だが、母親は彼を含め14人の子供を産んだが、成人したのはたったの5人だったという。ランタン谷と違い旅行者も来なくて村人はみんな貧しいという。彼は学校に一度も行ったことがないと言っていた。しかし、彼はお経だけは読める、常にお経集を懐に入れていて、寺やパドマサンババの聖地と言われるところに来ると必ず長いお経を上げていた。キャンジンでは一緒に読経会にも参加した。地元にラマがいてお経だけは30過ぎて習ったそうだ。

シャプルベシの学校次の日の朝、彼はやってきた。8日朝7時いよいよ出発。ボテコシに掛る吊り橋を渡りチベット人キャンプに入る。ここには比較的立派な学校がある。チベットの亡命政府もこの学校には援助しているという。

続く、









rftibet at 18:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)エッセイ風 

2009年06月20日

ランタン谷に行ってました。

100本当に長い間ブログをさぼってしまい、心苦しいばかりです。
毎日見て下さっていた方には誠に申し訳ないことでした。
すみません。

ネットの通じない山奥に行ってたのです。

ネパールのカトマンドゥにインド・ビザ取得のため6月5日に来て、6,7日は休み。
7日はサカダワの中日と言うことで夕方ボゥドナートに出かけてみました。
仏塔の周りではこのときとばかり大勢のチベット人たちが右遶し、燈明を供養し、五体投地しと、できるだけのチベット人の思う善行を行うことに熱中していました。

8日、ビザには最低9日掛かるとのことが分った。
すぐに山に行くことに決めた。
嘗てより、一度は行ってみたかった、「世界で一番美しい谷の一つ」と言われるランタン渓谷に行くことに決めた。

1051ランタンはカトマンドゥから、少なくとも地図上では一番の近場で、手軽なトレッキングコースだった。
雨季に入り掛け、もうシーズンは終わっていたが、ランタンの特徴の一つお花畑を見るには良い季節のはずだった。
何より、去年「チベ夏」で本当に久し振りに再会した貞兼女史本人から頂いた「風の記憶・ヒマラヤの谷に生きる人々」を読んで、その中で「豊穣の谷」として詳しく紹介されているランタンに是非行ってみたいと思ったからだった。

702谷は私の期待を全く裏切ることのない、山々と草原の花々に囲まれた、元気なチベット人たちの住む桃源郷だった。

谷の最後の村キャンジン(キャンチェン)村のゴンパではちょうどサカダワに合わせて今年初めて、近隣の村落共同の企画として行われていた、全カンギュル(チベット大蔵経の経部)読経会が行われていた。
こんな山奥に20人以上の読手が集まって、大声の読経会が毎日朝から晩まで続いていた。
流石ニンマ派、みんなガクパで僧衣姿の者は一人もいない。

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私も二日半これに参加させてもらいました。
一日中お経を大きな声で読むと楽しく、元気になるものです。

国境近くの山の上ではチベット国旗を広げ、「チベットの自由」も祈願しました。

結局キャンジンには5泊しましたが、正直カンギュル読経会が終わるまでずっと居たいと思いました。

一昨日谷の下の町シャフルベシの町からカトマンドゥ行きのバスがマオパティのバンのせいで運航されず、一日遅れで昨日の夕方カトマンドゥに戻ってきました。

明日デリーに飛びダラムサラには明後日到着予定です。
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今回も山、花、子供の写真などをたくさん撮ったので詳しいランタンの話はダラムサラに帰ってからブログにチベット・ニュースと共に報告するつもりです。
今日のところは何枚かの写真だけの紹介です。



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rftibet at 05:30|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

2009年06月06日

サカダワ期間中寺院に近づくな、と中国当局

0618c56d.JPG<中国当局はチベットの聖月サカダワ中の宗教儀式参加への規制を強化した>

http://phayul.com/news/article.aspx?id=24869&article=China+intensifies+restriction+on+religious+activities+during+holy+month+in+Tibet

ダラムサラ6月4日付phayul :

サカダワ中の善悪の行為は(何)倍増されるとチベットでは信じられていることは先日お知らせしました。ダラムサラでは5月25日の第一日目から毎日ツクラカンに僧・尼僧が大勢集まり法要が行われています。

チベット内地より亡命政府に入った情報によれば、ラサでは関係省庁が其々政府職員や地域の住民を集会に呼び出し、このサカダワの期間中特に職員や学生は寺院などの宗教施設に行くことを禁止するとの命令が伝えられた。

この規制はサカダワの中日(15夜・満月)を前に出されたものだ。チベット人たちはいつもであればこの日には最寄の寺院・僧院に必ずお参りに行き、お経をあげたり五体倒地したり布施したりと忙しく、この日とばかりに善行を行うものだ。ラサのジョカンは数千人の参拝者でにぎわう。

ラサ当局はこれに合わせて私服警官や武装要員を増やし、警戒を強め、特に外人の動向にも目を光らせているという。

チベット人たちは再び、家族や親戚の中に子供をインドや他の外国に送っている者はいないか?先にインドに行って帰ってきたものはいないか?を尋問され、もしもいる場合はその家族の状況や連絡方法などの詳細を聞き出されるという。

このような関係当局による規制強化尋問キャンペーンは昨年3月以来少なくともこれで8回目であり、村の委員会レベルではすでに10回目であるという。

当局の規制強化は3月10日のような政治的記念日だけでなく、このような宗教的祭日にも適用される。例えばロサ(新年)やモンラム祭の期間中、法王や11世パンチェン・ラマ=ゲンドゥン・チュキ・ニマのお誕生日等にである。

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中国は人が善を積むことも妨げようとするのですね、、、
中国人のためにも、早く、チベット人はチベット内に来た中国人をチベット化させるしかありません。

明日が確かそのサカダワの15日目だと思います。
皆さんは善行を許されていますから、何か良いことをするよう心掛けましょう。
善とは幸せの素のことです。

法王はヨーロッパで毎日ご活躍です。今日はフランスでオバマ氏とニアミスだったようです。






rftibet at 18:00|PermalinkComments(3)TrackBack(0)チベット内地情報