2009年08月

2009年08月31日

日本に革命が起った日?

69ccf13a.jpg牧野聖修議員、当選おめでとうございます!

いよいよ、これで日本のチベットサポートのレベルも本格的な(欧米並みの)政治のレベルに格上げされることを期待します。
鳩山次期首相は確かチベット議員連盟に、今はどうだか知らないが、かつては名前を連ねていた人だから、期待しましょう。顔も経歴もちっとも革命的ではありませんが、、、

チベットサポートグループの人たちもこれから(も)牧野議員を核に活動されると効率的かと思います。

ところで、今日は世界(BBC,CNN)では「日本に革命」が起こった!などと宣伝されており、一緒に「ダライ・ラマ法王の台湾訪問」の様子なども伝えられています。
自然に何かはっきりとはしないが「期待」が心に湧く気がする日です。

今逆に、何かを期待しなければいけない状況にあるということでしょう。
もしも、経済的にも、チベット関係でも、今が一つの底であるならば、日本の民主党も台湾の民進党もアメリカのオバマ政権も半分ほっておいても成功したとみられることでしょう。
もっとも、これも常に期待値との比較で判断されるので大変ではある訳です。

さて、法王は昨日31日に台湾に到着されました。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=25412&article=Dalai+Lama+tells+Taiwan+he's+dedicated+to+democracyさっそく、南の被災地を訪問され現場で犠牲者に祈りを捧げられました。
ロイター台湾によれば、
その場で法王は「我々は台湾の分裂を望んでいるわけではない。だが、台湾の運命は二千万のあなた方台湾人が決めるべきだ。今、あなた方は民主主義を享受している。これは堅持すべきだ。
私自身、民主主義の促進に身を捧げているのだ」

とおっしゃったとか。

独裁中国に対する精一杯の政治的発言と言えます。

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このところ東京の「ダライ・ラマ法王代表事務所」のホームページに
http://www.tibethouse.jp/home.html

Phayul.comを中心に最新ニュースがどしどし翻訳されて掲載されるようになったようです。
これは、かねてより、私も事務所に期待し、直接要請などしてきたことなので、大変うれしいことだと思います。もちろん、今までも主なニュースは載せられていたのですが、ちょっと遅れがちだったかも。
これからも継続されることを期待します。

そういうことで、私もこれからはもうパユルとかを訳すことは稀にしかしないでしょう。
その他仲間がやってる「ニュースチベット文化圏」
http://blog.livedoor.jp/info_tibet/

にいけば、関係するニュースを沢山まとめて見ることができます。
というわけで、これからはニュースはこれらにアクセスしてもらうことにして、
私は、、、ニュースとしてはRFAぐらいにして、半分引退させてもらいます。

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と言いながら、以下、面白いニュース、洒落た中国の「ルール」を一つ。

レコードチャイナ:民主党も参考になる?!中国を怒らせないたった一つの「ルール」―豪紙
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=34863&type=1

モバイル版URL : http://rchina.jp/article/34863.html
2009年8月29日、オーストラリア紙・シドニーヘラルドモーニングは外交的に中国を刺激するべきではないとの社説を発表、中国外交の規則さえ理解しておけば衝突は避けられると主張した。30日、環球時報が伝えた。

現在、中豪関係は悪化へと向かっている。中国の外交方針を示すとされる中国日報は、「オーストラリアが世界の反中国勢力を主導している」と批判した。ある中国国有新聞の一面は「(オーストラリアが)新疆独立勢力の指導者と反中国勢力とが手を組む機会を与えた」と大書してある。あまりにもばかばかしい報道だが、両国関係の停滞は深刻だ。

実際のところ中国を怒らせないようにするポイントはきわめて明確だという。中国にとって絶対に譲れない、いわゆる「核心利益」は安全保障、主権と領土の統一、経済と社会の持続的かつ安定的な発展の3点。経済が最後尾に置かれた順序が実は重要な意味を持っている。つまり中国アルミのリオ・ティント社買収失敗などの経済問題は中国を不愉快にさせる要素となっても、両国関係を停滞させる決定的な要素とはならない。

安全保障と領土の問題でも「免責事項」が設けられている。すなわち非公式な発言や行動ならば、中国の反発を避けることができる。こうした「免責事項」は中国が世界各国と無限に対立することを避けるためものだという。

非公式にチベットやウイグルでの民族政策の失敗を批判すること。中国にとっての「問題人物」に庇護を与えつつも、その意見には同意しないこと。軍備を増強しても中国の脅威を言い立てないこと。これらは全て「免責事項」に当てはまる。

こうした中国外交の暗黙の規則を理解すれば、中国との衝突を避けることができる。重要なことは外交関係という政治的リソースをたくわえ、本当に必要な時以外は浪費しないことであり、全力で中国の怒りを買わないよう努力することだと同紙は主張している。意外とシンプルな中国外交のルール、日本の民主党政権にとっても参考になりそうだ。(翻訳・編集/KT)
2009-08-31 10:39:03 配信













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2009年08月29日

ジャミヤン・ノルブ氏「独立チベットの論拠をめぐって」・Y女史訳

明日(日本はもう今日)はいよいよ選挙、日本にも「CHANGE」の波が来ようとしているようです。
日本のチェンジはともかく、早く中国に来てほしいものです。

Y女史撮影の牧野夫妻選挙と言えば、Y女史のブログに静岡まで行って、投票日前の牧野聖修候補に会ってきた話が写真とともにレポートされています。
以下でご覧ください。
http://epea.exblod2009-08g.jp/-28

そのY女史は最近ジャミヤン・ノルブ氏から直接送られてきたという彼の「チベット独立論」を翻訳されました。
http://epea.exblog.jp/i18/
Yさん御苦労さまでした。

以下、少々長いですが、このブログでもこっそり紹介させて頂きます。

『ランゼン: 独立チベットの論拠をめぐって』 ジャムヤン・ノルブ
"RANGZEN: The Case for Independent Tibet" by Jamyang Norbu


(訳注・ 本稿は、ジャムヤン・ノルブ氏が当初、2006年に発表した論考を昨年、2008年版としてブログに再録した原稿について、日本語訳の可能性を伺ったところ、さらに推敲を加えた最新版をジャムヤン氏より直接送付いただき、翻訳する運びとなったものです。)


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■ 2008 Introduction
2008年版 序論

チベットにおいて、古(いにしえ)の山と雪獅子の旗を掲げることは、見つかればその場で銃殺されかねない「分離主義派」の違法行為とされている。にもかかわらず、今年(2008年)一連の歴史的な蜂起において、数百にのぼるあまたの国旗が、チベット全土において挑戦的に翻った。いわば、抗議者達による「ランゼン」を求める声――すなわち、独立を求める声が、響き渡っているかのように。

チベットの人々がランゼン、すなわち独立を求めているという事実に、疑いの余地はない。その他の要求、すなわち「ダライ・ラマ法王の帰還」を求める希望すらも、それは真の意味において、独立を宣言する行為にほかならない。なぜなら、法王は他の何物にもまして、自由なチベット国家という存在の不朽の象徴だからである。まさしく今、チベット全土にわたって、ウ・ツァン、カム、アムドにおいて、人々は独立の夢、ダライ・ラマ法王のチベットへの帰還という夢を、しっかりと握りしめている――中国による残虐で容赦のない軍事弾圧に直面しながら。

ラサから戻ってきたオーストラリア人ジャーナリストは語る。「私は……街が中国軍の重圧の下で軋みをあげているのを目撃した。」 2008年11月8日付の詳細なレポートで、彼は次のように述べている。「チベットの首都ラサ旧市街の裏通りでは今週、世界の目から隠れて不気味な軍事作戦が展開されている。夜の帳が降りるころ、数百もの中国軍事部隊が暴徒鎮圧用の盾とアサルトライフルを手にして、この反抗精神に満ちた街に散開した。彼らは街角に歩哨を立て、パトロール隊を放った。いかなる抗議の兆しも見逃すまいと、ラサ・チベット人街の通りを夜通し歩き回るのだ。陽が昇っても、兵士達はいなくなるわけではなく、新しい部隊と入れ替わる。そうして昼間のラサの軍の締め付けにおいては、さらにもう一つ、身も凍るような措置が加えられる――この市街で最も神聖な場所であるジョカン寺の屋上に、狙撃手達が配置されるのだ。彼らは、その下の(ジョカン寺の周囲を取り囲む広場である)バルコルにたどり着いた数百ものチベット人巡礼者達に向けて、銃を構えている」

このエッセイは、世界に広がるチベット人に対して、私達の理念「ランゼン」の歴史的、政治的、および倫理的な正当性を今いちど検討してもらうべく促すために、ここに再録している。この理念を胸に、チベット域内にいる私達の兄弟姉妹達は勇敢に立ち向かい、投獄され拷問され、処刑され続けている。そしてこのエッセイは、私達共通の夢を実現するにあたって彼らと一体になるために、私達の担う責任や献身について、再び新たにすることをも意図している。


■ 2006 Introduction
2006年版 序論

人間の歴史には、ごく稀でありながらも決定的な瞬間がある。その時、圧倒的で一見して永久に続きそうな専制状態、その無慈悲な構造の表面に、迫りくる崩壊の最初の小さなひび割れがあらわれる――そして、長い間抑圧されてきた人々の心、虐げられてきた国々の中に、希望のかすかな揺らめきが湧きおこる。ベルリンの壁の崩壊は、東欧や中欧、中央アジアの一部において、そうした時の移り変わりの前触れを告げるものだった。

チベットの人々にとっても、そうした変化はすぐ間近に迫っているのかもしれない。中国の経済成長は、中国社会を分裂させかねないような、膨大で解決しがたい数々の問題や紛争を生み出している。中国固有の官僚腐敗、絶望に駆られた貧しい農民の蜂起、大規模な労働騒擾、苛烈な宗教弾圧、刻々と拡がる経済格差、(黙示録的な規模で拡大しつつある)環境破壊、独立した法廷の不在、そしてほとんど存在すらしない市民社会――こうした要因によって2005年、(中国政府の公式報告によると)8万3000を超えるデモや騒乱、数多くの暴力事件が中国全土に広がった。今年(2006年)もあと4ヶ月を残すところとなったが、そうした社会の騒乱について報告されている数は、すでに10万件以上にのぼっている。

近年、中国共産党指導部のとある上級党員らが、2008年の北京五輪に際して数百、数千もの外国人訪問者や世界の報道陣が押し寄せた時に起こるかもしれない事態について懸念を表明している、と伝えられている。中国情勢のオブザーバー達によると、そうした状況はチベットやウイグルの独立支持活動家達に、また、疎外され抑圧を受けてきた中国人達にも、世界の衆目の前に抗議を展開する格好の機会を与えることになる。

アジアの歴史におけるかくも重大な岐路にあって、チベット人は自らの独立を求める闘いに関わり合うことに対して、躊躇したり弱気になったりしないことが、致命的に重要である。また、チベットの友人達や支援者達、また世界全体においても、チベット人やチベット文明の存続のためにはランゼンが絶対に必要であることを理解していただき、独立した祖国を求めるという主張がいかに著しく道理にかなっており、節度ある正当な要求であるかについて、正しく認識してもらうことが、きわめて肝心だ。

■ Origins of Tibetan National Identity
(先が長いので、この一節は省略します。あしからずご了承ください)


■ Legitimacy of Tibetan Independence
チベット独立の正当性

独立国家としての地位を求める私達の主張がいかに長年にわたる理にかなった要求であるか、私達チベット人自身が理解することが、絶対に必要である。この世界における多くの国家は一面において、ほとんどが歴史の産物だ。アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリアは、本当の意味で、自国の起源をチベットのように国土に依っているわけではない。クウェート、ヨルダン、シンガポール、そしていくつかのアフリカの国々は、西洋の植民地政策の産物、または植民地支配の残骸から形成されたともいえる。最近では、かつてのソビエト社会主義連邦の崩壊から、ベラルーシ、トルクメニスタン、ウズベキスタン、カザフスタンといった国々が誕生した。これらは、かつては国家として存在したことのなかった国々である。

世界からの国際的な注目度を考慮すると、パレスチナという国家もまた存在したことがなかった、と指摘する向きもあるかもしれない。歴史的に存在していたのはオスマン帝国における一地方、州(vilayet)であり、それは後にイギリス保護領となった。イラクもまた、第一次大戦後にイギリスが、敗北したオスマン帝国の3つの州、モスル、バグダッド、バスラをとりまとめて作り上げた国家である。今日のかの国における解決しがたい暴力的な分裂、民族および部族間の派閥の存在は、この連邦の根拠の乏しさをあらわにしている。

本稿は、チベットが上記に挙げた国々や領土よりも国家として存在する権利がある、と論じるためのものではなく(結局のところ、自分自身の人生・生活スタイルを決める権利は万人が生まれ持つ基本的な権利である)、国家としてのチベットの立場が世界の他の国々(以上ではないとしても、他国)と同様に、正当で筋の通ったものである、という事実を強調するために書かれている。私達が国際連盟や国際連合に加入してこなかったこと、あるいは、いくつかの大国が中国との交易関係を危険にさらしたないたくないばかりにチベットを国家として認めてこなかったこと――こうした事柄は、国家としてのチベットの正当性を少しも損なうものではない。

中国との貿易は、過去二世紀の間イギリスとアメリカが独立国家としてのチベットを支援するどころか認めることさえ拒否してきた、事実上最大の理由である。1930年代、まさに「チベットにおけるイギリス政策の立役者」であり、チベットに関する権威であったサー・チャールズ・ベルは、次のように認めている。

「イギリスとアメリカ、そしておそらくほとんどのヨーロッパ各国は、チベットを中国支配下の存在とみなしている……そのうえ、中国との貿易の莫大な潜在性については、常に論じられてきた。記憶している限りでも、50年前にもそれについて語られていたが、その後の50年間でそうした莫大な潜在性は現実にはならなかった。潜在的なものは、潜在的でしかない。しかし、諸外国は中国の交易から十分に利益を得たいと望み、その目的のために中国に気に入られようと試みてきた。だが、中国における商業利権を増やしたいがためにチベットを売らなければならないというのは、嘆かわしいことである」

チベットがその歴史を通じて、外国勢に征服されていた時期があるという事実、また、幾人かのチベット人統治者は政治上の支配力を獲得するために外国の軍事力に頼っていたという事実も、自由な国家としてのチベットの正当性に、何の違いももたらさない。18世紀と19世紀、チベットの政治力・軍事力が著しく衰え、満州(*1)の支配が国中に及んだ時でさえ、チベット文明の独自性やその民族的・国家的アイデンティティは、(チベット長官としては名門の出身の満州人とモンゴル人しか選出せず、決して中国人を任命しなかった)満州自身によってのみならず、アジア全域の人々によって広く認められていた。実際に、満州のチベットとの関係は(満州の「外務省」、外地統治を担当していた中央官庁の二つの「局」のうちの一つだった)「理藩院」(Li Fan Yuan)によって司られていた。この局は、満州宮廷とモンゴル大公、チベット、東トルキスタン(新彊)、ロシアとの関係を担当していた。

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訳注 *1 「満州」: Manchu
中国清朝を指す。
ジャムヤン氏の英文でQin DynastyではなくManchuの語が使われているため、その表記に合わせました。
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チベット、とりわけ首都ラサは、ロシアのブリヤート人やカルムィク人、数百万ものモンゴル人によって、文化と信仰の中心地と見なされていた。1878年、ロシアの探検家プルジェワルスキーは地理学協会および陸軍省に、次のように書かれた覚書を送っている。

「……彼はラサを、アジアにおけるローマとして描いた。その精神的な影響力は、セイロンから日本にいたるまで、250万人に及んでいる。ロシア外交にとって最重要の対象である」

世界において、一時でも他国の支配下に入ったことのない国など、おそらく存在しない。もし継続した揺ぎない独立の歴史を証明しなければ国家として認められないとしたら、国連加盟国の中で独立国家を名乗れる国はほとんどなく、あるとしてもごく僅かであろう。1960年、チベットに関する国連での議論においてアイルランド使節団が指名された時、もし国連総会に出席していた各国が過去にどの国からも支配されたことがないことを証明しなければならなかったとしたら、ほとんどの国はその国連総会に参加しえなかっただろう。

イギリスはほぼ四百年もの間、ローマ帝国の一部だった。ロシアは二世紀以上にわたって蒙古の支配下にあり、また言うまでもなく、アメリカはイギリスの植民地として始まった。中国自身も蒙古と満州の両方に支配されていた時代があり、チベットとの戦争においては繰り返し敗退を喫している。763年には一時、チベットが長安を占領した時期もあった。しかも、忘れてはならないのは、20世紀の前半には中国の領土の相当部分が日本の統治下に入っていた時期もあったことである。


■ Inside Tibet Now  チベット内部は今

世界中でおそらく、チベットのようにスターリン主義の政治体制下に統治されている地域は(おそらく北朝鮮を除いて)ないであろう。とりわけラサは、最も厳格な状態にある。この厳しい現実は、西洋からの旅行者、そしてナイーブな(うぶでだまされやすい)亡命チベット人の訪問者からもほとんど見過ごされてきた。彼らは中国の無節操な全体主義システムについてはあまりに無知なまま、中国の「素晴らしき新しき資本主義社会」のスケールに感銘を受け、時としてその歯車に引き込まれてしまう。

現在チベットを訪れる人々は(いわゆるチベット「専門家」を含めて)、日常で出会う人々が中国による統治に対してあからさまに抗議の意を示さない様子を見て、チベット人は現状に満足していると結論付け、中国共産主義の支配下にある生活の実態を相変わらず考慮に入れそこねてしまう。バツラフ・ハベルは、強圧的な圧政の下で暮らす人々が、知的・社会的・政治的行為に関して保たざるをえない「二重人格」について、克明に記述している。単刀直入にいえば、「誤った」意見を持つ国民を罰するといった国家においては、単に訪問者が人々の真の気持ちを見過ごしがちな傾向に陥ってしまうのみならず、その国家体制自体もおそらく、そうした国民の真意の実態について把握しにくくなるだろう。

中国当局は1979年、ダライ・ラマ法王特使がラサに到着した際に受けた圧倒的な感情に満ちた大歓迎を目の当たりにして、唖然としていた。当局は、ランゼンを支持しているチベット人は「ほんの一握り」しかいないと、ある程度まで実際に信じていたようだった。問題の深刻さゆえに、当局が基本的な秩序の再建をはるかに超えて抑圧的な方策をとらざるをえなくなるまでは。

ディスコやカラオケバー、売春宿、ナイトクラブ、ホテルなど、コンクリートの建物のけばけばしく安っぽい正面玄関の内側で、中国政府のぞっとするほどあからさまな数々のキャンペーン、「容赦なき抑圧(1988)」「強打(1966、2001、2004)」「死に至る闘争(2006)」運動が、厳格に推進されている。人民解放軍(jiefangjun)、武装警察(wujing)、強制労働収容所(laogaidui)、国家精神棟(ankang)、公安(gongan)、国家公安部(anquan or guoanbu)、そして「相互監視」システム(danwei)といった制度が、(労働)単位(work unit)、「愛国再教育」チーム、近隣保安監視(neighborhood security watch)、そして絶えず存在している密告者達によって遂行される――こうした制度すべてが、自由にあけすけに機能している。それらは、独立状態にある法廷、自由な報道、市民団体、独立した監視機構、倫理的・宗教的な意見といったものとはかけ離れており、しかも世界の報道機関も常駐せず、何者にも妨げられずに存在している。世界中で最悪の統治が行われている国々であっても、中国指導部がチベットで何の責任も問われることなく遂行している暴虐な専制独裁政治を回避しないまでも、(上記のような)制度が何らかの形で、いくばくかは存在しているものだ。

2006年5月、チベット自治区 共産党書記の张庆黎(Zhan Qingli)は、ダライ・ラマ法王に対する「死にいたる闘争(Fight to the Death)」運動を発表した。チベット人は、政府の最も低い役職から上級職員に至るまで、いかなる宗教儀式への参加も許されず、寺院や僧院に行くことも禁止された。以前は、党員だけが宗教を放棄するよう強要されていた。僧院における愛国教育運動は拡大された。ラサとその周辺地域にいるチベット人職員は、ダライ・ラマ法王を批判する文章を書くように強制されている。下級職員は5000語の非難文でよかったが、上級職員は10000語の文章を書かなければならない。引退している職員さえも免れることはできない。

チベット域内では、数十年にわたる魂を破壊するような共産主義の教化や、世界でも最も冷酷で衰えることのない圧政のシステムを経て、チベット人の「ランゼン」独立への希望はまだ、断固として圧殺されることを拒んでいる。現時点では大規模なデモは可能ではないとしても、勇気ある個人、尼僧、僧侶、そして一般の人々が、数か月、数年の間、禁じられているチベット国旗を掲げ、反中国のポスターを貼り、公衆の前でランゼンを叫び続けてきた。2003年10月2日、ニツォ僧院の20歳の僧侶ニマ・ダクパは繰り返し拷問を受けて獄中で死亡した。彼はチベットの独立を求めるポスターを貼ったことにより「分離主義」活動の罪を問われ、9年間の刑に服している最中だった。2006年9月3日、人々で込み合うラサのバルコルで、23歳の僧侶が一人でチベットの独立を求める短いデモを行った。数分で彼は中国保安要員に拘引されていった。このような、数百もの似たようなケースにおいて注目すべき点は、スローガンとして叫ばれていた合い言葉が例外なく「ランゼン」であったことだ。

■ Why Rangzen is Absolutely Essential
なぜランゼンが絶対に必要なのか

いくつかの国々は他の国家や帝国の配下にあってもどうにか生き延びているどころか、外国の統治によって利益を得ているような場合もあるだろう。最も顕著な例はいうまでもなく、イギリス統治下の香港だった。けれども、たとえ熱心な中国の支援者であっても、中国によるチベット支配は成功したと思しき点が見当たらないどころか、イギリスによる香港支配と比べたら人道的にも自由度においてもほど遠いということを認めざるをえないだろう。

とはいえ、比較的良質な外国による支配であっても、一見したところ、先住民の文化や意識、気力に弊害をもたらしている兆候がある。オーストラリアやカナダは豊かな経済に恵まれ、(少なくとも今日では)先住民を含む自国民の権利を護るための様々な民主制度の発達した先進国だ。けれども、こうした国々では多くの先住民達が道徳的に堕落し、貧困と病にさいなまれ、アルコール中毒の犠牲となり、絶望に瀕している。こうした状況は、チベット域内で起こりつつある現象と不気味なほど酷似している。

外国による統治下で、多少なりとも自尊心を保ちながら生きのびる唯一の方法は、圧政を強いる権力に対して常に対抗・挑戦し、最終的には自由を獲得する、という希望を保ち続けることであるように思われる。もし暴君に対して抵抗すれば、征服者側から敬意すら獲得するようだ。白人による不正と暴力の下に苦しみながら死んでいった数百万ものアメリカ先住民達のうち、現在もアメリカ国民に尊敬の念とともに記憶されているのは、ジェロニモ、クレージーホース、シッティングブルといった、最後まで白人と熾烈な戦いを繰り広げた偉大なる酋長達だけだ。白人の下で円満に暮らそうとワシントンDCへ赴いて「偉大なる白人の父」(*1)におとなしく服従した酋長達は、すっかり忘れ去られている。

ジョージ・オーウェルは新聞に寄せたコラムの一つで、次のように述べている。メソポタミア、エジプト、ギリシャ、ローマといった古代文明では、現代社会が電気や化石燃料によって成り立っているのと同様、完全に奴隷制度のうえに成り立っていたにもかかわらず、おそらくスパルタカスを除いて、ただ一人の奴隷の名前も記録に残されてはいない。そして私達がスパルタカスを記憶しているのは、「……彼が『悪に手向かってはならない』という禁則(*2)に従ったからではなく、むしろ悪に対する激しい反乱を起こしたからなのだ」


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訳注
(*1)「偉大なる白人の父」: 
"Great White Father"とは、「大統領」を意味するアメリカ先住民の表現。

(*2)『悪に手向かってはならない』:
"resist not evil"とは、聖書マタイ伝第五章からの引用。

日本語文語訳
  されど我は汝らに告ぐ、悪しき者に抵抗ふな(てむかうな)。
  人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ
  (だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向け中国支配下においては、いかなる自治状態への希望を抱くことも現実的とはいえない。なぜなら、(そうした状態を望むことは)中国の体制がその中に異なる政治・社会システムを内包できるほど柔軟で寛大であることを前提とするからだ。たとえば、インドのような国家の中にはそうした自治地域を思い描くこともできる。インドは正真正銘の多文化・多民族から成り立っており、政府の機能をはじめ、少数派や異議を唱えるグループに対する主流派の抑圧などを原則としてチェックするような憲法や自由な報道機関、自由な選挙、独立した司法制度といった、民主的な制度を備えているからだ。しかし、これらはまさにその性質上、中国指導部には実現できない事柄である。

中国指導部もまた、その国民と同様に、長く抑圧的な文化および政治遺産――一流の中国研究家であるオーストラリア人のW. J. F. ジェナーは、これを「歴史の暴君」と名付けている――の犠牲者である。それは、中国の社会や政治における前向きで抜本的な変化の実現を阻んできた。ジェナーは言う。「……中国という国家自体が監獄に囚われているという荒涼とした可能性――そこから明らかな逃げ道はなく、数千年にわたって絶え間なく強化されてきた歴史の監獄――文学的な創造物としても、そして過去の堆積した結果としても。」

香港に許されていた「一国二制度」は例外であり、北京にとって有利だったために認められたものだった。もし中国がこの制度について譲歩していなければ、当時、香港経済に寄せられていた国際的な信頼をおそらく損なっていただろうし、中国にとって大きな財政上の問題を引き起こしていただろう。共産主義へのバトンタッチに続く数年の間に、ジャーナリスト、ラジオ・パーソナリティ、政治風刺家、法律家、その他の香港における民主化を求める声は、徐々に「窒息するような」政治的風潮の中で組織的な嫌がらせや暴力的な脅し、殺害の恫喝などを受けて、その多くは香港を離れた。植民支配後の自由な中国を保証するはずだった基本法は事実上骨抜きにされ、香港島の議会および行政府は北京の支配下に買収された。

香港市民とは異なり、チベットの人々は自分達が文化的にも民族的にも言語においても、そして気質においてすら、あらゆる面で中国人とは異なっていることを激しく実感しており、骨身に沁みて知っている。チベットにおけるチベット人の暮らしが経済的に改善してきた(本質的な意味で改善しているわけではないのだが)としても、上記の点に関するチベット人の感情を著しく変えるものではなかった。ラサにおける一連のデモが、チベットの経済状況が過去と比べて著しく向上したとされる時期に起きていることを忘れてはならない。この件に関するチベット人の考え方は、1980年代後半にチベット内で出回った反体制文書からの次の引用において、最もよく表現されている。

「もし(中国の下で)チベットが成り立つなら、チベット人の生活は向上し、その暮らしぶりは幸福の度が過ぎて、三十三天の諸仏を困惑させることになるかもしれない。もし本当に、そのようなものが真に与えられるとしても、それでも我々はそれを欲しいとは思わないだろう。我々は、そんなものは要らない」なさい)。

標準英語訳
  But I say unto you, That ye resist not evil:
  but whosoever shall smite thee on thy right cheek,
  turn to him the other also.


■ Why Give Up Now?
なぜ今、あきらめるのか?

特に中国人のチベットへの流入、とりわけ新しい鉄道の完成後にそれが加速している点を考慮すれば、チベット域内の状況が陰鬱であることはたしかに否定できない。だが、ダライ・ラマ法王の御旗を掲げる中道路線推進派による定番の議論、すなわち「中国人の流入を防ぐには、私達は自由を求める闘いを放棄して中国の支配下で生きていかなければならない」という主張は、明らかに間違っている。中国指導部や官僚の誰かが果たして、「もしチベット人が独立への要求をあきらめたら、中国人の人口移動策を考え直してもいい」などと、遠まわしにでもほのめかしたりしているだろうか? もし自由を求める闘いが放棄されてチベット域内の状況が落ち着いたら、中国人の移住は明らかに増加するだろう――過去5年間よりもはるかに大きな規模で。そして、ダライ・ラマ法王とチベット亡命政府がチベット領土における中国の統治を受け入れたら、中国人によるチベットへの人口移動が、世界の人々の目前で、完全な意味で明らかに合法化されてしまうことは、国際法に関する深い知識がなくても、容易に想像できる。

中国人の移住に対抗する唯一の策は、外国の投資家や中国人の起業家・求職者達が、「チベットは利益をもたらすどころか、ビジネスを行っていくには耐えられない土地だ」と判断せざるをえないほど、自由を求める闘いを活性化して、チベット域内の状況を流動化させることだ。たとえチベットの独立がごく近い将来に実現できないとしても、世界の耳目の前にはっきりさせておくべきことは、チベット高原は大いに「紛争中」の地域であり、チベットの独立問題は解決済みとはほど遠いという事実である。

中国人によるチベットへの移住がいかに深刻な事実であるとはいえ、この状況は完全に逆転できないわけではない、ということを、私達は肝に銘じておかなければならない。かつてスターリンは、リトアニアやラトビア、エストニアといった非ロシアの小国に対して、大規模なロシア人移住策を強行した。1939年の時点で、これら三国の人口は合計で600万人と、現在のチベット人とほぼ同数だった。スターリンは数千人ものバルト諸国の先住者達を処刑し、また数百数千の人々をシベリアに追放した。(こうした施策により、)当時の世界ではバルト三国は終焉したものと理解された。1950、60、70年代にかけては、これらの国々が存在していたことすら人類の記憶から消滅してしまったかのように思われた――これら三国の公式な代表者が、ロンドンとニューヨークに駐在事務所を構えていたにもかかわらず。リトアニアに生まれ育ったポーランド人のノーベル文学賞作家チェスワフ・ミウォシュは、自身の著作『囚われの魂』の最終章でバルト諸国の人々の声を代弁しているが、「スペインのコンキスタドール(征服者)によって絶滅させられたアステカ族のように、古代から続いてきたバルト諸国の歴史も終わりを迎えたのだ」と、心に残る痛ましい所感を残している。

しかしソビエト連邦が崩壊し、これら小さい三国は独立国家となった。諸国の中にはまだ相当数のロシア人が住んでいる。彼らはかつて三国の存続や独立性に対するあからさまな脅威と考えられていたが、もはやそうではない。心に刻んでおきたいのは、以前はソビエト全体主義とロシア移民によって完全に抹殺されたと信じられていたこれらの小さい国々が、今や自由な国家だということだ――昔から伝わる自分達の旗を掲げ、自分自身の言語を話し、自由を謳歌している。

チベットは中国支配下の最悪の時代でさえ、バルト三国ほど完全に消滅させられていた時期はない。そして今、あらゆる場所に蔓延しているビジネス上の利益や各国政府の冷笑にさらされながらも、チベットはとにもかくにも、世界の人々の関心を集め続けている。たしかにそれは、いつも私達が望んでいるような注目であるとは限らない。にもかかわらず、チベット情勢には世界中から何らかの意識が向けられており、しばしばその窮状に対して関心が寄せられている。もし、私達が独立を諦めてしまっても仕方ない、と思われるような言い訳が通じる時期があったとしたら、それは国際共産主義と中国のチベット支配が永久に続くかと思われた1960年代と70年代だったであろう。当時、自由主義世界の多くの知識層や著名人達は、共産主義中国と毛沢東首席の思想に夢中になっているように思われた。

まさに現在、チベットは、90年代の絶頂期よりは大幅に縮小したとはいえ、きわめて並はずれた注目と共感を世界中から集めている。言うまでもなく、こうした同情がチベットの大義を支える政治的な支援に転換していないのは、たしかに不運である。私達チベット人、特に宗教上の指導者は、私達の政治的な目的を世界に対して明確に、恒常的に示してくることができず無力だったことに関して、重大な責任を負うべきであろう。実際に、こうした首尾一貫性の無さが、私達自身の活動家や支援者達の間に混乱を拡大し、大義のためのあらゆる努力は泥沼に陥ってしまったのである。

■ International Dimension of Rangzen
ランゼンの国際的な局面

1990年代以降、チベット指導部と一部の西欧の支援者達は、環境や世界平和、スピリチュアリティといった「地球規模の関心事」をチベット問題と融合させようと計画してきた。こうした風潮の後、一部のチベット人やその友人達の間には、「チベット人の独立を求める奮闘は、泥臭くて限定的なもの(地球規模の姿勢ではない)」といったような、高尚で高所から見下すような、それでいてきわめて幼い発想が生じてきた。言うまでもなくこうした見解は誤りであるのみならず、人々がある種の理念の必要性を、自分達の別のニーズ――社会的受容、ポリティカル・コレクトネス、専門家としての名声や出世、そして時に物質的利益など――と混同してしまいがちであるか、その明らかな実例となっている。

自由を求める真の闘いは、局所的に(その地域で)行われているものであり、大抵は、世間体や社会的地位や経歴を失うにとどまらず、人生さえも投げうつ覚悟を備えた人々による捨て身の行為である。自由を求める闘士達はその本質上、秩序を乱す存在なのだ。けれども、いかに社会に動揺をもたらし、いかなる経済的困窮や人間にとっての苦難をもたらしかねないとはいえ、マハトマ・ガンジー、マルティン・ルーサー・キングJr、ネルソン・マンデラ、アウンサン・スーチーといった人々による不撓不屈の(そしてとりわけ局所的な)闘いは、自由を愛する世界中の人々を鼓舞してやまない――たとえば、いわゆる「世界平和」を実現するための、外交官や職業活動家、国連事務総長による善意にもとづく努力などよりも、はるかに力強く。(しかもこうした人々の言う「世界平和」の実態は、より厳密にいえば「国際社会の現状維持」と表現する方が近い。)

専制に対する一つ一つの自由の勝利は、他の大義や理念(に従事する人々)にとって、計り知れない応援となる。バングラデシュが独立を果たした時、私達はどれほど心から興奮したか、チベット人ならその感動をよく覚えているはずだ。しかも、チベット人の空挺部隊が彼らの勝利に重要な貢献を果たしたと知って、私達はさらに勇気づけられ、誇らしく感じたものだ。インドが独立した後、アフリカやアジアの各国もまた続々とヨーロッパ植民地主義から独立を果たして自由になった。1990年代にはベルリンの壁が崩壊し、今度はソビエト連邦のくびきから逃れた一連の国々が自由を獲得した。もしチベットが独立すれば、東トルキスタンや内モンゴルといった近隣地域にとってのみならず、中国それ自体の人々にとっても、自由の新しい時代をもたらしうるかもしれないし、少なくともその先駆けとなる可能性は、大いにあるのだ。

私達はまた、次の点についても留意しておかなければならない。今日の世界における最も抑圧的で残忍な政治体制――金正日の北朝鮮、軍事政権のビルマ、ロバート・ムガベのジンバブエ、イスラム・カリモフのウズベキスタン、そして、ダルフールで大量殺戮を行っているスーダン政府――が基本的に存続し続け、繁栄すらしているのは、経済・外交・そして軍事面において中国の支援を受けているからである。


■ Democracy and Rangzen
民主主義とランゼン

真に民主主義的なチベット社会においてのみ、創造性や斬新な考え方、そして新しいリーダーシップ――これこそ自由を求める闘い(Freedom Struggle)において、喉から手がでるほど必要とされているものだ――が誕生するのみならず、それらが価値あるものとして尊ばれ、効果的に機能するようになるだろう。さらに、民主主義だけが政府の機能に十分な透明性をもたらし、また私達のリーダーシップの側に正真正銘の説明責任(アカウンタビリティ)を養うことになるだろう。したがって民主主義こそが、チベットの人々のランゼンに対する真の想いが十分に表出されるための、唯一の手段となる。

抑圧されたチベットの人々にとって、民主主義は、中国の圧政からの究極の自由という目的を象徴しているだけでなく、チベット人自身の選択による真に公正で公平な政府を求めるうえで、最上の希望を示すものでもある。その意味において、真に民主的なチベットの実現を保証することは、「チベットの独立は神政的な封建主義への逆行である」と言い募る中国のプロパガンダに対して拒絶の姿勢を示すためにも、有効といえるだろう。したがって民主主義は、私達の理念にとってその潜在的な武器となり、また私達の亡命社会においてそれを純然と効果的に実施することは、自由を求める闘いに信憑性を持たせるために、疑いの余地なく必要なものとなる。亡命社会に民主主義を根付かせるための小さな一歩は踏み出されてはいるものの、より多くの事柄が実行されていかなければならない。本当の意味で党に基づいた選挙制度が、(ネパールの古いうわべだけの「パンチャヤット制(panchayat)民主主義」に似たものでしかない)現行システムに取って代わらない限り、亡命政権と亡命議会に真の民意が反映されることは決してないだろうし、独立したチベットを求める人々の望みに基づいた政策が実施されることもないだろう。

しかしながら、選挙制度の改正のみが民主的で動的な社会を確実にもたらすわけではない。チベット人が、私達の祖先がチベットに仏教を受け入れた時と同じような熱意と献身でもって、民主主義的な考え方や文化を受け入れる必要がある。時代を超えて息づいてきたチベット仏教の生命は、7世紀から13世紀にかけてインドの仏典を研究し翻訳したロツァワ(lotsawa)と呼ばれる偉大なチベット人翻訳者達の、とてつもない不朽の学問的偉業に大いに依っている。彼らの並はずれた業績は、今日に至るまでのあらゆるチベット仏教組織やその成果のすべてがそれに基づいて築かれてきたほどの、知の盤石の土台となった、といっても過言ではない。私達国家の政治的な未来の進路を導きだすうえで、チベット人は西洋民主主義と市民社会を形作った思想や哲学を研究し、議論するべきだ。私達の政治教育におけるスートラ(顕教)とタントラ(密教)には、フランスやイギリスの偉大な啓蒙の書や、アメリカや現代インドの建国の父による著述の数々、そしてそれらに続く現代の自由主義者や民主主義の旗手たちによる作品がふさわしいだろう。

そうした知的な努力、政治的な献身、そして倫理的な情熱をもってのみ、私達はチベットの独立回復をもたらしうるであろうし、法の支配および個人の自由の卓越性という理念に基づいた、政府における真の民主制度の樹立を達成できるであろう。

■ Even the Hope of Independence is Vital
独立への希望でさえも(あるいは、それこそが)不可欠だ

当然ながら、独立の日が近づいているという保証はなく、私達が生きている間には独立は達成されないかもしれない――けれども私は、いつか独立することを、ともかく確信している。いずれにせよ、ランゼンというゴールを掲げ続けることは、究極的にその獲得に至るにあたって、不可欠なことだ。困難に満ちた亡命直後の数年間、私達亡命社会を強靭に一致団結させてきたのは、ほかならぬ独立に向けた希望だったことを、忘れてはならない。私達の社会が今、直面している問題――宗教的・政治的な小競り合いや、教育水準の下降、私達の宗教の嘆かわしくも不名誉な商売化(コマーシャリゼーション)、政府におけるシニシズム、そして一般人の間の自尊心や品位の喪失など――こうした数々の問題は、チベット指導部が過去20年間、自由を求める闘いを徐々に手放してきた姿勢に、決定的な根本要因があるように思われる。

独立に向けた希望は、チベット域内の人々にとって不可欠なものである。亡命社会において自由を求める闘いを生かし続けておくことこそ、チベット域内の人々に希望を与えてきたのであり、彼らが受け続けている恐ろしい苦難にも関わらず、チベット人の文明やその世界はまったく失われてしまったわけではないという、いくばくかの保証を与えてきたのだ。チベット人が自分達自身のアイデンティティや文化や宗教を保っていくためには、自由なチベットを求める希望の灯も、常に掲げられていなければならない。もし私達が中国の一部であり続けるとしたら、私達は国家としてのアイデンティティのみならず、文化のアイデンティティをも、失うことになるだろう。北京は私達が、(ご想像の通り)「御しやすくて絶対的な、政府お仕着せの仏教徒」であることを許可するかもしれないが、中国には他にも多くの仏教の宗派やカルトが存在していることを念頭に置いておくべきだ。もし、チベット2000年の歴史を誇る不朽の文明・文化の遺産として残されてきたものが、結局は、人民共和国の山岳地域にある中国仏教の奇妙なカルト一派に過ぎない存在に陥ってしまうとしたら、それこそ究極の悲劇的なアイロニーであろう。

個人が、チベット域内においてのみならずインドの亡命社会において、あるいは異国に孤立した状態で、あるいは中国の刑務所の獄中に、たったひとりでいるとしても、その個人がはっきりと、チベット人としてあり続け、生き続けていくための唯一の道――それは、チベット独立への希望をしっかりと握り続けることであり、そして共産主義中国とそれに引き継がれてきた非人間性や悪に対する、絶え間のない果敢な抵抗を、自分自身に対して、世界に対して、示し続けることだ。

近代中国における最高の作家 魯迅(1881-1936)もおそらく、チベット人に対して、「現在の苦境に直面したまま縮こまって死になさい」などとはアドバイスしないであろうと、私は思う。魯迅は生まれつきの悲観主義者だったけれども、希望に関しては、次のような言葉を残しているのだから。

「希望は、『ある』わけでも『ない』わけでもない。希望は、田舎の小道みたいなものだ。もとは道などなかったところ――けれども、人々がいつも同じ場所を通っていくうちに、そこに道が現れるのだ」(*1)


*************
注(*1)
魯迅 『故郷』 からの一節の引用。
青空文庫には、大正期の味わい深い日本語、井上紅梅訳が公開されています。
また、魯迅ファン・おがまんさんによる、読みやすい現代語訳もぜひ。用語辞典も付いていて、素晴らしいです。


rftibet at 20:20|PermalinkComments(1)TrackBack(0)その他 

タクツェ出身の4人の若者に最長刑期15年の実刑

ワンチュックアムド、タクツェと言えばダライ・ラマ法王の生誕地として有名です。
最近亡くなられた実兄で法王が見つけ出される以前にクンブン僧院のリンポチェと認定されたタクツェ・リンポチェの名前は出身の村の名前を取ったものでした。
(この子供リンポチェが優秀だったので、、、その弟もきっと優秀に違いないとみこまれて、、、法王が選ばれた、、なんてことはないでしょうけど)

そのタクツェにおいても去年3月には何度も平和的抗議デモが行われました。
最近、昨年のタクツェにおけるデモに参加し逮捕された人々の消息が一部伝えられました。

このうちの一人の若者には15年の刑が宣告されています。

以下、8月26日付チベット亡命政府プレスリリース要訳です。
http://www.tibet.net/tb/flash/2009/august/460809.html

<タクツェ出身の4人の若者に最長刑期15年の実刑>

ラサ中級人民法院は今年初めタクツェ村出身の4人の若者に刑期を言い渡した。
そのうち3人は去年3月タクツェにおいて平和的デモに参加した者であり、一人は去年3月ラサのデモに参加した者である。

1、 ワンチュック(ロサン・ワンチュック)26歳 刑期15年。彼は僧侶であったが、最近は車の運転手をしていたという。
2、 ツルティム23歳 刑期2年半 彼はワンチュックの弟であり、同じくタクツェでのデモに参加した。
3、 チュペル24歳 刑期2年半
ラクパ・ツェリン4、 ラクパ・ツェリン22歳 刑期5年。彼は同じくタクツェの出身ではあるが、去年3月ラサでペンキ塗りの仕事をしていた。ラサデモに参加したとして逮捕されていた。

なお、ワンチュックとラクパの二人は現在ラサのチュシュル刑務所に服役中、あとの二人はタクツェの刑務所に服役中という。

――――

今回(去年)の蜂起参加者に対する刑期の長さと以前(1987〜95ごろまで)の刑期の長さを比べてみると全般には刑期はぐっと短くなっているように感じていましたが、なぜにこの若者が15年の刑を受けることになったのでしょうか?

ところで、最後にこの彼らの出身地であるタクツェと法王の出身地のタクツェが一緒かどうか?単なる私の思い込みかも知れない。
その場合は失礼。






rftibet at 13:00|PermalinkComments(1)TrackBack(0)チベット内地情報 

2009年08月28日

透視・あるチベット人青年作家の“失踪”

タシ失踪した若きチベット人作家タシの話は先のブログでもお知らせしましたが、
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2009-08.html#20090818

彼に関し、再びウーセルさんの8月25日付ブログに吉姆措さんと言われる方の記事が掲載されていました。

以下、その記事を細野様が翻訳して下さいました。







透視・あるチベット人青年作家の“失踪”
http://woeser.middle-way.net/2009/08/blog-post_25.html

文/吉姆措2009/08/08

先日チベット内で、チベット語のブログ上に「アムド出身の大学生作家が“失踪”した」との情報があった。続々と書かれる記事を読んでいて冷静ではいられなくなった。チベットの若い知識人の間で彼を知らない人はいないだろう。しかし彼は母語を用いて同胞に対しチベットの苦境を訴え続けてきたため、外界ではあまり知られていなかったかもしれない。彼の度胸や知識・思想・チベットへの見解はチベット内の各大学、寺院や若い知識人の間で人気を博していた。
私自身、彼とは面識はないが、もうずっと前から彼を知っているような気持ちになる。なぜなら私は彼のブログの熱心な読者であり、いつもパソコンをつけるとまず彼のブログを見ていたからだ。彼の書く詩・エッセイはチベットの状況をまるで鏡に映したかのようだった。たしか2006年から私はほぼ毎日彼のブログを見るようになった。そして彼が最後に書いた文章を読んだ時には、その憂鬱な文字が“失踪”がそう遠くないことを語っているように感じた・・・。

タシ彼の名はTashi Rabten(以後タシと記述) 25歳前後。
ペンネームはTe’urang(テウラン)
写真を見ると洒落た青年といった感じだが、彼の文章はそれ以上に魅力的で人を引き付けるものがあった。タシは四川省アバ州ゾルゲ県の出身で、甘粛省蘭州市の西北民族大学のチベット言語文学部の3年生であり、また当大学の有名な民間チベット語雑誌【夏東日−シャルトゥンリ―】の編集者の一人でもある。そんな来年には卒業という人間が忽然と“失踪”した。ここまで母一人、苦労を重ねながら彼を大学まで養ってきた。それは簡単なことではなかっただろう。私はこのことがおおくの注目を浴びるよう切に願っている。

一部情報によれば、
今年7月17日西北民族大学が夏休みに入った後、タシは久しぶりに帰省し、7月26日   ゾルゲで突然“失踪”している。彼の友人はタシが公安当局によって連れて行かれたものとみている。
友人は次のように語る。「タシは今年【血書(Written in Blood)】という本を自費出版していた。この本の中で彼は2008年のチベット騒乱の記録と中国による鎮圧の真相に触れており、ラサ在住のスイス人が語った<中国軍がチベット人になりすまし、刀をもってでっち上げの現象を作っていた>などの内容も暴露しており、敏感な問題にも多々触れていた。この本をチベットの各大学・寺院に500冊あまりを配ったが、残る半分は警察によって没収されてしまった。それからは目をつけられ、何度も尋問を受けていた。」
タシの親戚は次のように語る。「先週タシは家族へ一度電話をかけてきている。母親に対して今自分の状況に不安を抱いているとだけ語り、連絡をとるのは難しくなるだろうと言い残し電話を切った。匿われていたのかもしれないが、それからは現在に至るまで何の連絡もない。」

タシは独立思想を持った若者であり、彼の本【血書(Written in Blood)】のまえがきにはこのような記述がる。
「若さと薄っぺらな財力でこの本を作りました。もしかしたらまだ早すぎたかもしれません。しかし常に思想さえもコントロールされるような時代であり、特にあの悲しい事件の後であり、これらを語らずにはいられませんでした。口を閉ざすより真実を語るべきだと感じたのです。この本を2008年―2009年の痕跡としてみなさんへ捧げます。」

以下の2つの詩は彼の書いたものを訳したものです。

血に染まる人

――自由のために命を捧げた者たちへ贈る――

心は朝露のように澄みきっているが
言葉や両手は枷鎖の中で沈黙している
至る所で穴の開いた自由を嘆いている
地面に倒れた一つ一つの死体は燃え盛る炎のようである
顔を真っ赤にしながら瞳は自由の光を探し求め
わずかに動くそののどがやはり宣言している
血に染まった手はまるで美しい花の刀を握り締めているかのように

2009/07/08



チベットの花の季節暗黒の内外

――崗尼(アムドの村の名)と崗尼のひとたちへ贈る――

花の季節が訪れる
しかしここは依然として冬の山を越えられずにいる
人々はまるで古ぼけたテントの中で
寒冷の歳月に耳を傾けているかのようだ
外を吹いているのはなにも砂埃だけではない
妻に対しての少しの私語でさえ盗聴を恐れ憂慮する
そう、周囲には暗黒と恐怖が渦巻いている
そして小心翼翼と自分の気持ちを閉じ込める
鋭い目がのぞき見ている
思惟と勇気で命の光を磨こう
友よ、暗黒の内外だ、絶えず自分の片腕にまで注意せよ

2009/03/25



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チベット議員/講演会「チベット仏教研究の可能性を探る」

牧野聖修候補写真は野田くんが撮った牧野さん。

いよいよ日本には選挙の日が来ますね。
ダラムサラから知らせるのも何ですが、現職議員でチベットを応援する姿勢を積極的に見せておられる方は以下の三名とのこと。

埼玉5区の枝野幸男議員
福島5区の吉田泉議員
大阪17区の西村真悟議員


この三方は国会に対し「中国及び中国周辺地域における人権弾圧問題等の解決に向けて、日本国政府からの働きかけを強化することに関する請願」書を提出されています。
「http://www.shugiin.go.jp/itdb_seigan.nsf/html/seigan/1711155.htm

なお牧野聖修さんは静岡一区です。

この地区のチベットサポーターの方、よろしくお願いします。

もう遅いだろうけど、時間のある方は選挙事務所とかに顔を出し、ボランティアとかできればよろしいと思います。

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以下の講演会、チベット仏教に少しでも興味が有る方は必ず参加されることをお勧めします。
講師の方々は皆さん其々の分野の日本における第一級の研究者ばかりです。


 パネル演題「チベット仏教研究の可能性を探る」
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-date-20090825.html
  時  9月9日13時30分〜16時、
  場所 大谷大学の1号館2階1204番教室
 ※ 学会の参加費が2000円かかります。

(1) 福田洋一「チベット仏教のためにできること」
(2) 根本裕史「ツォンカパ研究の方法論的展望」
(3) 吉水千鶴子「新出カダム派文献研究とチベット仏教思想史の再構築」
(4) 安田章紀「ニンマ派研究の現状と展望」
(5) 平岡宏一「チベット密教研究に関する方法論:ゲルク派ギュメ密教学堂での伝統的教授法を通じて」


平岡先生よりメッセージ  「ツォンカパのチベット密教を勉強したい、或いはどうやって修行して行ったらいいのか」と思ってらっしゃる方には必ず参考になると思いますので、是非いらっしゃってください。











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2009年08月27日

台湾の馬総統、ダライ・ラマ訪問に同意

http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp1-20090827-536046.html

 台湾の馬英九総統は27日、チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世の訪台について、台風8号の被災者への慰問が目的だと述べ、31日からの訪問を認め、ビザ(査証)を発給する考えを明らかにした。被災地を視察中、記者団に語った。

 ダライ・ラマは昨年12月にも、台湾メディアに対して訪台の意向を示し、対中関係改善に力を入れる馬総統が拒否。今回は、大雨被害の対応の遅れに強い批判を受けていることもあり、受け入れに同意せざるを得ないと判断したとみられるが、中国が反発するのは確実で、今後の中台関係に微妙な影響を与える可能性もある。

 27日付の聯合報によると、馬政権は「宗教活動に従事すること」を条件に受け入れを決めた。

 ダライ・ラマは9月3日まで南部に滞在し、被災地を訪問する予定。今回の訪台は、特に大きな大雨被害が出た高雄県や屛東県など、南部にある7つの自治体首長が要請。ダライ・ラマも快諾した。南部は対中強硬路線の野党、民主進歩党(民進党)の支持基盤で、首長らも同党出身。

 ダライ・ラマは1997年と2001年に訪台し、李登輝元総統、陳水扁前総統と会談。馬総統とも台北市長時代に会ったことがあるが、総統府スポークスマンは27日、馬総統との会談については未定と話した。(共同)

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台湾の人々は台風に苦しんだが、お陰で法王に会うことができるというわけです。
台湾におけるチベット仏教熱は中国も恐れるほどです。
特に南の高雄あたりには数百人のチベット僧が闊歩しているのです。
台湾の法王ファンにとっては待ちに待った、久しぶりのチャンス。
今回もどこでも会場は超満員、数万人の聴衆を集めることでしょう。

中国の反応が楽しみ?です。
BBCでも朝からこのニュースをやっています。

それにしても、台湾では日本と違って地方自治体自体が法王を招待するようです。

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先日のウーセルさんのポタラの記事中、訂正あり:
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51256899.html

中ほどの一文、
「たとえば1996年、1100年続いた雪村のポタラを(模したもの)を失ってしまった」
という部分ですが、「雪村」とはポタラの麓にあった「ショル(シュー)村」のことと判明。かつてチベット政府の役所、役人の住宅、職人集落、学校などのあった場所です。ですから、正しくは
「たとえば1996年、1100年続いた(ポタラ宮に付属する)ショル村を失ってしまった」
となります。

しかし、「ショル(シュー)」とは「下、麓」という意味で「ポタラ山の麓の村」と理解できますが、そこをなぜ漢語で「雪村」と書くかというと、「雪」は中国語で「シュエ」と発音されるので、音を取ったということです。
「雪」はとっくに溶けて消え去ったというわけです。




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2009年08月26日

ダライ・ラマが月末に訪台へ 台風被災者を慰問

法王2009.8.26 21:12
http://sankei.jp.msn.com/world/china/090826/chn0908262112004-n1.htm

台湾南部、高雄市政府関係者は26日、チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世が台風8号の大雨被害による被災者を慰問するため、今月31日から台湾を訪問することが決まったと述べた。台湾のダライ・ラマ関係者も訪台計画を確認した。

 ダライ・ラマは昨年、一部台湾メディアに対し、訪台の意思を表明。しかし対中関係改善を進める馬英九総統は「良い時期と思わない」と拒否していた。訪台には中国の反発が予想され、実現までに紆余(うよ)曲折がありそうだ。

 今回の訪台は、台風で大きな被害を出した高雄県や高雄市、台南市など南部の自治体政府が合同で要請、ダライ・ラマ側が応じたという。要請したのはいずれも、対中強硬路線の野党、民主進歩党(民進党)出身の首長ら。高雄市政府関係者らによると、ダライ・ラマは31日から9月4日まで南部に滞在し、被災地を訪れるという。

 ダライ・ラマは1997年と2001年に訪台したことがある。馬総統は08年5月の就任直後は、ダライ・ラマが訪台の意向を示した場合は「宗教指導者として歓迎したい」と発言していた。(共同)

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突然の発表ですが、本当に実現するのかどうか? 微妙でしょう。
歓迎され過ぎるでしょうから。

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2009年08月25日

ポタラ宮東西両側に地下道を建設

以下24日付ウーセルさんのブログを細野様が日本語に翻訳して下さったものです。

ウーセル女史のブログより、<ラサには地下道も陸橋も不要!>

http://woeser.middle-way.net/2009/08/blog-post_24.html

先週木曜に新華社が報道した
「ポタラ宮東西両側に地下道を建設」のニュースは多くのチベット人を驚愕させた。
いわゆる「都市の新たなページが開かれる」この事態が何を意味しているのか、
それは想像し難いものである。
それは地下道と陸橋を備えたラサが更なる現代化を果たしたことを意味するのか?
もしくは日に日に低俗化する都市を築き、ラサが腐敗し、
ポタラ宮という大きな代価を支払って
二度と戻れない地獄へと落ちていくことを意味するのだろうか?


偉大なポタラ宮は千年もの歴史の中でチベット民族と共に築き上げられてきた。
そして続く、かつて経験したことのない変動の半世紀の中にあっても、幸い在り続けてこられた。
そんなポタラ宮は今では、目を奪うばかりに鮮やかだ。
昼間は鮮やかな花々、彩色旗で飾られ、
夜はあたかも仙界に足を踏み入れたかのようなまばゆい光に照らされ、
「ようこそラサへ」 「列車に乗ってラサへ行こう」などのような陽気な歌謡曲を響かせて
かつて神聖な場所であったポタラ宮はまるでディズニーランドか或いは
北京動物園のようなテーマパークへと変貌してしまったかのようだ。
毎日絶え間なくやってくる参拝者はすでに6000人に達し、
もともと土木建築ということもあり、
また1959年には砲撃を受け、文化大革命では「防空壕」が掘られたポタラ宮が、
どうして日々大量の足で踏みつけられて耐えられようか?
雷でも鳴っているかのような騒音や
市場のように至る所で見受けられる痰の跡にどうして耐えられようか?
答えは簡単である。
ポタラ宮は重荷の下で世の辛酸をなめ尽くし、
耐え切れなくなるまで悲劇を繰り返すのだ。


1994年ポタラ宮はユネスコにより世界文化遺産に認定されている。
これは計り知れないほど素晴らしい出来事であり、
危険が迫っていたポタラ宮を保護できたことでもある。
そのうえ「世界文化遺産」とはただポタラ宮―今は孤独な建築物―だけを指しているのではなく、
周辺の相互作用によって生まれた調和のとれた景色をはじめ普遍的価値のある建築群を含んでいる。
それゆえに粗暴で、無知で、貪婪な“減少”と“増加”は補いようのない過ちを招いてしまった。
たとえば1996年、1100年続いた雪村のポタラを(模したもの)を失ってしまった。
また、2002年にはポタラ宮の向かい側に立派な“チベット平和解放記念碑”が建造され、
この時よりチベットの自治権実現はさらに厳しいものとなっていった。


2007年にはポタラ宮は世界遺産委員会より
行き過ぎた観光収益の追求、
思いのままに開発し責任を担っていないとの理由で警告(イエローカード)を受けており、
将来“世界遺産”の称号が剥奪される可能性がある。
しかしチベットの政府当局はこの警告をまったく気にも留めていない様子で、
かえって輪をかけて悪化し、今ではあろうことかポタラ宮の両側に地下道を建設している。
「車両も旅客も増え、参拝者も多く、時間帯によっては車両が多く行き交い、
交通に隠れた弊害が生じるようになっている」というがこのような理由は成り立たない。
ラサは何も車のための場所でも旅客のための場所でもない。
チベット独特の宗教・人文・景色のある仏を拝むものたちの庭である。
いつも“人民のために”と口にする権力者たちがどうしてこのように民衆を無視するのか?

参拝者の多くが足の衰えた老人であり、
さらには遥か遠方かラサまでやってきた巡礼者であることを理解するべきである。
地下道や陸橋の上り下りが老人にとって便利なことになるだろうか?
もしも政府が本当に“人民のため”を実現したいのであれば、
それならばどうして車両を迂回させることができないのか?


古都ラサの風景、人文、生態に対して計り知れない、また許されない罪を犯している
「現代化」なるものを阻止するようユネスコへ訴えかける。
ラサは地下道も陸橋も必要としていない。
必要なのはチベット人のための道だ!




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チベット人遊牧民5万人が既に都市周辺部へ強制移住

カム強制遊牧民移住村 写真・野田雅也写真左は野田雅也・カム地方のチベット遊牧民移住村

8月24日付RFA:
http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/china-settles-50000-tibetan-nomads-in-towns-08242009223109.html


中国の新華社によれば、この4年間にチベット各地の遊牧民49、631人が都市周辺に継続的に居住するための移住計画に従った。
さらに、今後中国はこの計画を推し進めチベット人遊牧民100万人を移住させると公表した。

中国はチベット人遊牧民を移住させるべき主な理由を二つ挙げている。
まず、チベット人遊牧民は牧草地が養える以上の家畜を飼っているため牧草地が荒れ、環境に悪影響をもたらしている。
そして、遊牧民は度々草を求めて住所を移動しなければならないという不便がある。

これに対し、亡命者のある者は、「これはチベット人の独特の文化、習慣の根本を破壊しようと言うものだ。環境と共存してきた遊牧民の生活を台無しにする政策だ」と訴える。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この政策は実際我々がチベット文化と見做している多くの習慣(歌とか)の破壊に直接繋がりますし、強制的に移住させられた遊牧民たちは、その先一体何をして暮らしていくのでしょう。
アメリカインディアンやアボリジニと同様の男は酒と博打、女は、、、の世界が待っているだけでしょうか。いや、「こうなってもチベット人は違う」と思いたいのですが。

「遊牧民100万人」と言うのはチベット自治区だけの数字とは思えません。つまりチベットの全遊牧民を移住させようという計画でしょう。
そのあとに残った広大な土地はこっそり一体誰が頂くつもりなのか?

「遊牧民は年中移住の不便がある」というが、チベットの遊牧民と呼ばれる人たちのほとんどは半農半牧であることが多い。高度が高すぎて遊牧しかできないという地区でもほとんどは低地部に決まった家を持っており、夏場だけ遊牧を行うという生活だ。
「不便だ」なんてだれが言っているのか?
半農半牧でも遊牧民と見なされれば、農地まで取り上げられるのか?

とにかく、全くチベット人の人権を無視した、むちゃくちゃな政策だ。
世界は都市化を抑えようと躍起になっているというのにだ、中国はただただ管理し易くするためだけにチベット人を野生動物か何かのように扱う。
悲しいかな、中国が絶滅品種に積極的に指定しているこの種族が如何に世界の幸福増進に役立つ貴重な種かと言うことが全くこの粗野なだけの動物には理解できないのだ。

私としては、殺される動物だけでなく、その家畜たちの糞を養分に育って来た多くのチベットの高山植物はどうなるのだろう?との心配もあります。







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2009年08月24日

富士山とチベット国旗

富士山昨日から珍しくチベット関係のメディアに日本発のニュースが流れています。

http://phayul.com/news/article.aspx?id=25382&article=Tibetan+activists+make+peace+pilgrimage+up+Japan'Mts++Fuji

みんなで、22日に富士山に登られたのですね。
以前から、チベットの国旗を持って富士山に上ることを勧めて来ましたし、実際これまでにもチベットサポーターの何人もがそうされたことでしょう。
元々、チベットの国旗の中には大きく富士山が描かれてるという話もありますし。

しかし、今回はとに角、東京の「法王事務所」が主催されたというのが良かったですね。ニュースには50人のチベット人および日本のサポーターが登頂した、とありました。
記事ではFuji-yamaへpeace pilgrimage 「平和の巡礼」のため登った、となっています。富士山は神道の聖山であると紹介されています。
チベットの内地の人々も「そうか、日本の高い聖山に沢山の人がチベットのために登ってくれたのか」と納得したことでしょう。

富士山 09年8月22日/ C・R RFA私も日本にいれば、必ず参加していたイベントです。
RFA掲載の写真には国旗を持つルントクさんの顔が見えますが、元気の良いルントクさんとかが特にこのイベントに乗る気だったに違いないと想像されます。
http://www.rfa.org/tibetan/otherprograms/newsanalysis/tibetan-activists-make-peace-prlgrimage-up-japan-mt-fuji-08232009150809.html
最近はチベット人でも一度長くインドに住んだ人達の中には、チベットに帰ろうと峠に向かったが、息が苦しくて、結局行けなかったという話があると聞きました。
ツォコさんはじめチベット人は、苦しさを顔に出せずに我慢して登ったことでしょ
う。

誰が一番に登るとかの競争はしなかったのかな?
それにしても、この辺の山と違って人が多いですね。

皆様、御苦労さまでした。

富士山とチベット国旗には古い縁起もあるし、、、
国旗を見てると富士山が二元を乗り越え如意宝珠を世界に届ける雪山チベットそのものであることがわかる。

このイベントは毎年続けられるべきでしょう。






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2009年08月23日

スペイン、国際チベット裁判

ナンパラ事件証人の子供が描いた絵スペインで行われている国際チベット裁判については以前より度々お知らせしています。

最近この裁判に対し中国政府が反応したことについてICTが報告のレポートを発表しました。
これをイギリスのeliさんが日本語に訳し紹介して下さっています。

以下、

中国、スペインのチベット訴訟に対して脅かす;スペイン最高裁、裁判官は、ナンパラ射殺事件を訴訟に含む旨を決定

ICT レポート、8月20日2009年

中国政府は新しく発表された書式声明で、スペイン最高裁により打診された中国政府要員の出頭要請を拒否するとともに、スペイン政府に対して、この画期的な最高裁によるチベット人の為の犯罪調査を”虚偽の訴訟”として、阻止するように要請しま
した。

この在マドリッド中国大使館による書式声明は、中国政府を相手取って2つのチベットに関する” 普遍的管轄権”を用いた訴訟がスペイン最高裁により受理されてから最初の書式返答。この” 普遍的管轄権”の原則により最高裁はテロや戦争犯罪、拷問、
人道に対する罪の関連が認められた場合には国際法というインターポールを通した刑の行使によって国境を越えて、個々の国の法律を乗り越えることを可能にする。

スペイン最高裁、Santiago Pedraz裁判官は中国司法部に対して政府要人の- チベット自治州共産党書記Zhang Qingli(張慶黎)を含む、 8人に対する、2008年以降から続く、チベットにおける抗議に対する武力による弾圧に関する罪による決定を告知した。裁判官は被告がスペインでの証言を拒否した際には、中国国内での尋問を許可する要請を中国司法部に提出していた。

また5月19日には、スペイン議会にて裁判官の司法権を明らかなるスペインと関連がある裁判にのみ活用できる動議が議会に提出され、チベットについての裁判の経過が危ぶまれましたが、中国の度重なる圧力にも関わらず、Pedraz 裁判官は先日チベット裁判が、2006年9月に起こったナンパラ峠射殺事件の調査を含むことを決定し、調査期間の延長を発表しました。この事件はチベットの国境を越えて亡命しようとした集団に向かって中国、国境警備隊が発砲し17才の尼僧Kelsang Namtsoが射殺された事件です。

これは明白な人道に対する罪に値する犯罪であり、7月14日Pedraz 裁判官による裁判の延長を述べた書式決定の中でも、裁判官は、再度インド政府に対してナンパラ峠射殺事件のチベット人生き証人の接見を求めインドへの渡航許可の要請をしています。


アメリカ人登山家Luiz Benitezは尼僧ら、僧侶らや子供達がナンパラ峠を越えて亡命しようとする際に、尼僧Kelsang Namtsoが背後から致命的な狙撃を受ける所を目撃しており、 7月17日にスペイン最高裁で Pedraz裁判官に証言しました。


中国の書式声明

Tibet Support Committee of Spain (CAT) とICTが入手した、6月16日付けでスペイン外務省に届いた在スペイン中国大使館による書式声明のコピーの中で、「スペイ
ン最高裁による虚偽の訴訟は、国際法によって守られてきた国家管轄権の原則違反であり司法共助条約によって、中国とスペインの間に交わされた犯罪協定に含まれていません。よって中国側としては今件に関するいかなる司法協力も拒否すると同時にスペインに対して国際法に基づいた責務を要求するとともに、中国とスペインの間に交わされた犯罪司法協定の違反を回避するため、迅速な処置をとり訴訟を直ちに停止させることを要請します。」

信用できるマドリッドからの情報によると、在スペイン中国大使館とスペイン関係者の間で交わされた口答でのやり取りでは 、もしSantiago Pedraz裁判官が中国に渡航すれば逮捕されるとあった。

在マドリッド中国大使館は同国司法部に送られた〔一国の裁判所が外国の裁判所に送る〕嘱託書を送り返し、6月16日の声明で「中国側としては今件に関するいかなる司法協力も拒否する」としました。

今回の起訴は2006年以降の問題を取り扱っており、特に2008年3月の俗に”春の動乱”と呼ばれる時期に焦点を当て、Tibet Support Committee of Spain
(Comite de Apoyo al Tibet) とFundacion Casa Del Tibet, Barcelonaによって起こされ、2008年の北京五輪の直前にスペイン最高裁によって受理されました。

AFP通信社 (May 5, 2009)が入手し発表した起訴資料には、”両国間の友好関係の上に立ち、要請に対し好意的な対応を望みます”とPedr醇@z裁判官は中国当局に宛てた手紙の文頭で述べ、2005年の結ばれた2カ国司法協力協定についてふれています。 また裁判官は起訴内容が立証された場合にはスペイン、国際法の双法で”人道に対する罪”に値するとし、先出のAFP通信社の報道によるとチベット人は当局(要請書に含まれる)により政治的、人種的、民族的、国家的、文化的、宗教的、または他の目的で、国際法の下で普遍的に受け入れがたいと認められる迫害を受けているグループであるという事実”と記述している。

現在スペイン最高裁判所では、6名の受命裁判官が” 普遍的管轄権” に基づきルワンダ、イラクやチベットといった国外の13件の訴訟を担当してい
る。その中の一人Baltasar Garz醇pn裁判官はガンタナモ捕虜収容所で起きた米国による拷問疑惑について調査中であり、今回のチベットの訴訟を調査中の Pedraz裁判官はガテマラで起きた集団虐殺に関連した疑いのある政府要人の国際逮捕状を発布しました。

もしスペイン議会で裁判官の司法権を明らかなるスペインと関連がある裁判にのみ活用できる決議が近日中に施行されることになれば、スペインの裁判官はスペイン国籍を持つ者が関連した訴訟か、被告がスペイン国内にいることが前提となります。もし、起訴事実が起きた国内ですでに調査されている場合には、訴訟は破棄されることになります。

この議会への決議に対してスペイン司法関係者は大きく反応し、刑法学講師でAntonio de Nebrija 大学の、スペイン人権協会総裁 Manuel Olle Seseは動議提出の数
日後に以下のように スペインの全国紙パイス(El Pais)に投稿しています。
普遍的管轄権” の成立と行使は人権を守る上で、国際社会におけるスペインの最も偉大な貢献といえます。国際法の存在は、受刑を良しとせず回避しようとする国家権力の為にあります。彼等は裁きを受けることもなく、また司法手続きに乗っ取って裁かれるわけでもない。彼等は普遍的正義を”おせっかい”と形容し反対しているのであって、国際刑事裁判所の法律に合意するわけでも、また、その力量を認めるわけでもない。この(” 普遍的管轄権” )行使の損失は被害者の負担になる。これらは国際社会の責任として正義に守られるべきである。実存する結果の得られる国際刑事裁判所がないという事実をふまえたうえで、この普遍的正義の行使をスペインのみならず、各国で行使することによってのみ、人間の尊厳を粉々にする重大な国際犯罪を裁くことができ、それはすなわち私達の責務です”(El Pais紙, 5月 23日).

スペイン人弁護士によると現在” 普遍的管轄権” を用いた起訴内容にはチベットのような人道に対する罪の他、国際テロやドラッグ密売があり、今回の議会決議がチベットの訴訟にどう影響するかが注目されます。

スペイン首相Jose Luis Rodriguez Zapateroに宛てた、国際チベットキャンペーン International Campaign for Tibet (ICT)、憲法上の権利のためのセンター(CENTER FOR CONSTITUTIONAL RIGHTS米国)他、ガテマラ、アルゼンチンやイスラエル の人権団体や司法団体の連名による公開書簡の中で、こう訴えました。

「スペインの決議(” 普遍的管轄権” 行使を国内にとどめる)が法律化されれば、世界中の、国際法のもとで最も重大な罪である大量虐殺、人道に対する罪や戦争犯罪の被害者達に重大な影響をもたらすことになります。これまで、これらの罪を裁き、また犯罪者になりうる相手に対しても、警報を鳴らして来た法律と責任と正義の必要性を、スペインは外交考察の引き換えにされないことを強く願います」

(6月24日付, www.fidh.org/OPEN-LETTER-TO-MR-JOSE-LUIS.)


全文はICT レポートでもご覧頂けます(英語):

http://www.savetibet.org/media-center/ict-news-reports/spanish-high-court-rules-chinese-leaders-must-testify-tibet and on ICT’s blog:

http://weblog.savetibet.org/2009/04/30/in-search-of-justice-testifying-on-tibet-in-madrid/

ユーチューブ動画インタビュー、チベットのための
訴訟に関わる弁護士。スペイン最高裁 http://www.youtube.com/InterCampaignTibet

Press contact:もっと詳しく知りたい方はICTプレスコン
タクトまで;

Kate Saunders

Communications Director, ICT


rftibet at 17:45|PermalinkComments(1)TrackBack(0)その他 

2009年08月22日

逮捕された夫の釈放を求め子供5人と共に警察署の前で妻が決死の座り込み

中国の武装警官隊の銃8月21日付RFAによれば、

http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/wife-and-children-of-jailed-tibetan-protest-being-held-in-front-of-kham-jodha-police-station-08212009221543.html


本日(21日)カム、ジョダ県警察署前で現在逮捕拘束されている、夫のゴンポ・ダルゲの解放を要求し、妻ポヤが自身の子供たちを連れ座り込みに入った。

8月12日付亡命政府リリースによれば、ジョダ県で起きた抗議デモに関連し、ゲルツェン家のジャンパとプルック及びムツァ家のツェテンは8月4日チャムドに護送され、二年の刑を言い渡された。

さらに、ジョダでのデモを先導したとして、アシャ家のノルラとゴンポ・ダルゲの二人は依然ジョダの拘置所に捕らえられたままだという。

21日ゴンポ・ダルゲの妻ポヤは5人の子供全員を連れ、ジョダ警察署の前で夫の解放を要求する座り込みに入った。
彼女は「もしも夫を解放しないなら、この場で自殺する」と広言しているという。








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2009年08月21日

2008年3月10日、ラサでデモを先導したセラ僧院僧侶のその後

2008年3月10日ラサデモ昨年3月10日、デブン僧院の僧侶たちはラサに向かう途中で警官隊に阻止されたが、セラ僧院の僧侶14人はラサの中心ジョカン寺の前で中国政府に対する抗議の声を上げることに成功した。
この小さな炎がその後14日のラサ大蜂起を引き起こし、そしてその炎はカム、アムドへとチベット中に飛び火して広がって行ったのだった。

この日のデモに偶然参加し、そのすぐ後、ラサを離れ亡命することに成功したガワンという16歳の女の子に会って、話とその時の絵を描いてもらった話は以下の昨年のブログに報告しています。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2008-06.html?p=2#20080615

「絵は一度も描いたことがない」と言いながら、中々描きたがらなかったところを無理に描かせた絵です。
この中、赤い服(僧衣)を着た二人が抗議活動扇動中のセラ僧院の僧侶とのことです。
みんな顔が笑っているところが泣けます。

この子もNHKに取材してもらったのですが、絵が下手過ぎたのか、取り上げてもらえませんでした。

ところで、今日Voice of Tibet radio serviceがこのときデモをした14人の内3人のセラ僧院の僧侶たちの消息を伝えています。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=25377&article=Four+Tibetan+monks+sentenced+up+to+ten+years+in+prison

チベットの国旗を掲げ、チベット独立を叫んだ14人は全員その場で逮捕された。
そのうちザチュカ、セルシュル出身のロドゥの家族は今年4月に当局からロドゥが10年の刑期を受けたと言うことを知らされていたが、決してそのことを外部に知らせないようにと脅されていた。

7月14日、ロドゥの家族がラサのチュシュル刑務所に彼を訪ねた折、彼の僧院仲間のロプサン・ゴドゥップ29歳とマンゲ・スパ30歳がそれぞれ5年の刑を受けていることが判った。

しかし、このとき一緒に逮捕された他の僧侶たちの消息は依然不明のままだという。














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2009年08月19日

ヒカリゴケ

ダラムサラ俯瞰今日の午前中、裏山に登りました。
何で、こんな時期に、ですが、ちゃんと目的があったのです。
朝、6時半ごろ、家を出てバイクで2000mほどの所まで行き、7時ごろ登り始めました。みんながいつも登るトリウンドと呼ばれる丘へではなく、尾根に向かって直登しました。
嘗て、確かに山の上の洞窟の奥で見た、「ヒカリゴケ」を再び見つけ出し、写真に撮ろうと思ったのです。
その「ヒカリゴケ」は特別なのです。
ルビーのように強く赤く輝いていたのです。
私は嘗て20年も前ですが、その洞窟に一夜を明かし、じっとその不思議な苔を枕許に眺めていたのです。

Spiranthes sinensis らせん階段花以前から、「ヒカリゴケ」なるものが存在することは知っていた。
子供のころ読んでいた忍者物のマンガの中で、子供がヒカリゴケの洞窟に落ちるというシーンに「ヒカリゴケ」の説明が入っていたのを覚えていたからだ。
そして、最近ランタン谷に行ったあと、高山植物図鑑を眺めているとき、ふと、この「ヒカリゴケ」のことが思い出された。
さっそくネットでその写真を漁った。
数枚見つけたが、何れも光はグリーン色。
説明には「ヒカリゴケ(光苔、学名:Schistostega pennata)はヒカリゴケ科ヒカリゴケ属のコケで、1科1属1種の原始的かつ貴重なコケ植物である。その名が示すように、洞窟のような暗所においては金緑色(エメラルド色)に光る」とある。

では、私の見た赤く輝く苔は何だったのだろう???
幻、幻覚だったとは到底思えない。(何度も本当の幻覚も見たが、その時、或いはその後、あれは幻覚であったと確信できるものだ)
確かに洞窟の一番奥で数十の苔が鮮やかな赤い光を放っていた。

Spiranthes sinensis 絡み合うらせん階段花いや、きっと新種に違いない!
これを写真にでも撮れば一躍「赤い光苔」の発見者としてネーチャー誌で有名になるに違いない、と夢を見た。
とにかく一度この雨季にその洞窟まで行ってみようとその時から考えていたのだ。

















花畑午後は雨になることが多いので、早めに登って降りようと思っていた。
しかし、登りは長く急な坂の連続で汗を沢山かかされた。
それでも、歩くそばには花もあり、見下ろせばダラムサラは真下で、遠くインド平原の始まりが見渡せた。

結局2800mあたりにある目当ての洞窟まで2時間ほどかかった。
しかし、何とそこにはガディーと呼ばれるこの辺の遊牧民が住み込んで居たのだ。
入口あたりに可愛い子牛が繋がれている。
洞窟に住むおじいさん誰かいるのかな?と思っていると、中から「ナマステ!カム!」と声が掛る。
中に入って行くと、人の良さそうなガディーのおじいさんが火の前に座っている。
ここへ座れと、毛布を敷いてくれる。
「この辺の洞窟で光る苔を見たことがないか?」とさっそく聞くが、、、言葉もよく通じず、「わからんな」と言われただけだった。
しばらく火の前でゆっくりした後、さあ、雨も来そうだし行こうかな、、、と立ちかけると。おじいさん「まあ、ゆっくりして行け。今、飯もできるところだ。食べていけ。いや、急ぐならチャイはどうだ。いやミルクがいい。搾りたてが沢山あるぞ」と言う。

洞窟のおじいさんそうか、水を持ってないので、確かに喉は乾いているし、一杯貰おうと、座り直した。
砂糖入りのそのミルクは本当に美味かった。100%搾りたてだった。
そのあとビディーを吸えと懐かしいビディーを渡される。
そのあと笛を取り出し、ガディーの曲を聞かせてくれた。

私は嘗て、ダラムサラに住み始めたころ、この裏山が好きになり、何度も山に通った。
至る所の洞窟に泊まった。
挙句の果てには岩山の麓にある4000m近い洞窟に数か月住み込み、その間にも1500mほどの所にあるチベッタン・ライブラリーで毎日行われている先生(仏教の)の講義には欠かさず通っていた。
下り5時間、登り6時間はかかる。

バカとしか言いようのない毎日だった。
先生から時に「お前は最近山に住んでいるようだが、山は気持ちいいか? 怖い動物とかいないのか?座ったりするのか?歩いてばかりか?
ところで、お前にはまだすべて教えたつもりはない。ちゃんと全てよく聞いて、その上で最後の結論を得るために山に行くものだ。
どうせ、ろくなことを考えないであろうから、家族もあることだし、もう山を下りたらどうか」と言われた。
その後しばらくして下りた。

雨にぬれたヤギというような昔のことを思い出したりしていた。
気が付くと、外には雲が登って来ていた。
急いで、立ち上がった。

下りながらも、あの洞窟が例のヒカリゴケの洞窟だったとは断定できない、
まだ、洞窟はこの辺に沢山あるし、、、と大きな岩を見つける度に裏に回ってみたりした。
そのうち、雨が降り始めた。
霧のせいで見通しがきかず、道に迷ってしまった。
元々道といってもこのあたりに来る人は少なく道もはっきりしない。
深い急な谷間に迷い込んだ。
足場が悪く何度も滑った。
少し明るくなったとき辺りを見渡し、大きく方向が間違っていることが判った。
又上に登りやっと道に出た。

下りながら、そう言えば、この辺で昔、濡れた石の上で足を滑らせ下に数メートル転落したなと思いだした。
その時、身体は止まったが、突然目の前が眩しくて仕方なくなった。視界が強い光で一杯になった。
と思った次の瞬間気を失った。どのくらい気を失っていたのかは分からないが、気が付くと胸がひどく痛んだ。視界は元に戻っていた。
そんなことを思い出しながら急な滑りやすい坂道を下っていた。

koke石の上で足が少し滑った。バランスを失い、倒れ始めた、瞬間回りに掴めそうなものを探すが何もない、次の瞬間には頭を下に仰向けに倒れ斜面を落ち始めた。
あ、、、と、その時落ちながらも視野の右手に木の枝が見えた。
その枝を掴むと体が止った。
まるで逆さ釣りのまま止まったのだ。ゆっくりと体勢を起こした。
下を見てぞっとした。偶然そこにあったシャクナゲの枝を掴めなかったら終わってたかもしれないな、と思わせるに十分な崖だった。
足をすりむき、胸を打ったのかしばらく痛かったが、大丈夫だった。

今度は同じように偶然幸運にも山で助かった話を思い出した。

雪のある頃、山で薪を集めていた。
雪の時には下には乾いた薪は落ちて無いので、木の上の方で折れた枝を探すのだ。
急な雪の斜面に大きな枝を見つけた。
その枝を思い切り引っ張った次の瞬間、身体が回転し、頭を下に落ち始めた。
あ!と思ったがまるで視点が定まらなかった。
気が付くと、何と、片方の足が木の枝に挟まり身体は完全に宙ぶらりんの状態で止まっていた。
「助かった!」と思った。

ダラムサラの裏山その他,裏山と言ってもそこは5000m近くまである。
いろんな危ない目にあった。もう一つだけ。
高い場所にある、雪の斜面を横切る途中のこと、雪の斜面を横切るときにはいつも緊張するものだが、このときはピッケルも持っていたのでまあまあだった。
足が滑って、滑落し始めた。もうピッケルも利かない。幸い足をしたに早いスピードで滑っていた。
それでも、その下には「氷の滝」があることを思い出し、これはこのままでは確実に死ぬ、と判った。右下に氷の上にちょっとだけ岩の頭が出ているのが目に入った。
滑りながらも身体を右方向に動かした。必死だった。
危機一髪その滝のすぐ上にある岩に飛びつくことができた。
このときもつくづく「助かった!」と思った。

?そんなことが続き、今までは不思議な幸運が続いたが、このままでは何時かこの山で死んでしまいそうだ、もう止めよう、と思い、その後長い間、山には近づかないようにしていたのです。

家に帰り、もう一度「ヒカリゴケ」をネットで調べてみる。
「ヒカリゴケは自発光しているのではなく、原糸体にレンズ状細胞が暗所に入ってくる僅かな光を反射することによる。またレンズ状細胞には葉緑体が多量にあるため反射光は金緑色(エメラルド色)になる。」

そうか、考えられるとすれば、その洞窟で夜焚き火をして、それも赤い熾火となり、その赤い光がレンズ状細胞を通し原糸体にあたったことでその苔が赤く輝いて見てた、ということか?
そのレンズ状細胞には葉緑体ではなく赤い何かが多量にあって、それで赤く輝いた、と考えるべきか?
それなら、別種だしね。

いつか、本当に見つけて写真を見せるまでは、結局誰に話しても、信じてもらえない、夢で見た話ということになることでしょう。


それでも諦めず、また、違った季節に登ってみることにします。

結局人生初めから無いものを追いかけて一生終わるのかも知れませんし。


代わりに見つけた光る花最後に見つけた光る花!?




















一昨日の朝の月とビーナス



















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2009年08月18日

声を上げ、恐怖を乗り越え、そして捕らえられたチベット人作家たち/ウーセル

以下、8月3日付ウーセルさんのブログの記事です。
長田さんが訳して下さっているのを「チベット式」に発見し、コピペしたものです。
http://tibet.cocolog-nifty.com/blog_tibet/2009/08/post-b68d.html
▼原文
「突破噤声、遠離恐怖、接踵被抓的幾位蔵人作家」(看不見的西蔵)
http://woeser.middle-way.net/2009/08/blog-post_03.html

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声を上げ、恐怖を乗り越え、そして捕らえられたチベット人作家たち
文/ウーセル(唯色)

昨年3月“チョルカスム”(ウ・ツァン、カム、アムド3地域)全域に及んだ抗議行動の後、年末の記事『誰も知らない果てしない暗闇に消え去る...』で次のように書いた。

「一つひとつの事件がまるで昨日起こったことのようだ。鮮血は今なお流れている。硝煙は今もまだ漂う。血との炎の中にほとばしる熱い涙、沸きあがる怒り。私たちの多くにとって、依然として鮮烈な体験だ。なぜなら巨大なベールの裏側では陰謀が着々と進んでいるのだから。..... 私たち一人ひとりがこうした統計を残すことができるかもしれない。より詳細に、より多くの事実を記録することもできるだろう。それはすぐに完成できるものではないが、きめ細かく、確実に、完璧に、誰も知らない果てしない暗闇に消え去った命を網羅し、2008年の鮮血と炎をもって、だれも無視できない、言い逃れのできない真相を提供すべきである。」

チベット語書籍今に至るまで、母国語による書籍、雑誌、文章、歌詞は絶えることなく登場している。チベット人作家たちは、つぐんでいた口を開き、恐怖を乗り越え、先人に続いて、さらに多くのチベット人を鼓舞している。

以下は、捕らえられたチベット人作家たちについて、私の知る範囲での記録である。そして、チベットの真相について記録した書籍・雑誌についても紹介する。十分でない点があれば、読者各位の補足に期待したい。

母語作家、クンガ・ツァヤン(筆名カンニ)、ドクル・ツルティム、カム・クンチョク、タシ(筆名テウラン)に深く感謝する。

クンガ・ツァヤン1)クンガ・ツァヤン(筆名カンニ)
アムド・ゴロク・ルンカル寺の僧侶。ラプラン寺高等佛学院に学んだ。ニェンポユルツェ環境保護協会のカメラマンでもある。20代。

著作に「誰が真の覚醒者なのか」「誰が真の分裂主義者なのか」「誰が我々を支持しているのか」「チベット転生活仏の責任」「ラサはすでにラサではない」「中国は尊者ダライ・ラマを尊重すべきだ」「チベット人民、我々はエイズの真相をよく知るべきだ」「我々チベット人は、真実の証人だ」などがある。

2009年3月17日の日中、警察によってラプラン寺から連れ去られた。今なおどこかに監禁されている。

ドクリ・ツルティム2)ドクリ・ツルティム
アムド・マンラ(青海省貴南県)出身。貴南県ルツァン寺と化隆県ティクギャ寺に学んだ後、四川省アバ県ゴマン寺に学ぶ。現在27歳。
2009年4月2日前後、ゴマン寺で警察に拘束される。彼の書いた文章が分裂と煽動の嫌疑を受けたため。今なおどこかに監禁されている。
彼が創刊し主宰した文芸紙『雪の生命』はすでに発禁となっている。






カム・クンチョック3)カムクンチョク
四川省アバ県ドソ村出身。アバ州バルカム民族師範学校に学ぶ。同校『南賈報』創刊メンバーのひとり。アバ県キルティ寺『カンサルメト』の編集も担当し、執筆も手がけた。
2008年3月20日夜、他の学生らとともにチベット人の射殺や拘束に抗議したため懲役2年の判決を受け、成都市綿陽刑務所に投獄されている。

タシ4)タシ(筆名テウラン)
2009年1月25日、『血書』を自費出版。勇敢にも、昨年3月10日にチベットで起こった抗議行動の真相を明らかにした。『血書』は序文と32編の文章からなり、「地獄からの報告」「魂の旋律」「我がチベット」「心より捧ぐ」「真実の報復」の5章に分かれている。西北民族大学のチベット語雑誌『シャルトゥンリ』(夏東日)で発表された文章もある。

タシは『血書』出版後、当局に拘束され、今なお行方がわからず、まったく音信がない。一部のチベット語のブログはすでに、彼が密かに拘束されたことを伝え、広く関心を呼びかけている。

タシは四川省アバ州ゾッゲ県出身。『血書』は1000部を出版し、500部が売り出され、500部は当局に没収された。逮捕されたのは先週、場所はゾッゲであったと言われている。年齢は20代。これ以上の詳細は不明である。


2008年以降出版されたチベット語書籍類昨年のチベットでの事件の後、民間で出版されたチベット語書籍を紹介する。写真の上から順に:
1)『雪域チベットの聖なる宝』 2)『心の内の平和』
1)『慈悲の力』 2)『時代の私』3)『時代の私』4)『私たちの民族と私たちの思想』
1)『私の故郷と聞き耳』2)『仏教紹介』3)『捕われたチベット人』(作者・永冷智は、青海省尖扎県民族中学高等部1年の学生。2008年10月18日、当局の政策に抗議するため自殺した)


最近、以下の出版物が青海・甘粛で発禁となったと伝えられている。

血書 タシ『血書』:タシ(筆名テウラン)著













「シャルトゥンリ」チベット語雑誌『シャルトゥンリ』:西北民族大学のチベット人学生が刊行するチベット語雑誌。21号掲載の9編が、2008年3月のチベット事件についてのもの。


『赤風呼嘯』:小説。ツェリン・トゥンドゥプ著。青海省河南州のモンゴル人地区出身。
『ナクツァンワの歴史』または『ナクツァンの男の子の悲劇』:ナクツァン・ノルブ(またはニテン・ロブサン)著。甘粛省甘南州マチュ県出身。青海チベット族研究会の常任顧問・理事を務めている。
『ツェンポの精神』:詳細不明。

以下の2枚の写真は、作家でありカメラマンである前述のクンガ・ツァヤン(カンニ)撮影によるもの。
クンガ・ツァヤン撮影










クンガ






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