2009年08月

2009年08月18日

ラギャ大デモの逮捕者に判決

ゴロ、ラギャ 黄河 身投げ地点今年3月21日、ァムド、ゴロ・チベット族自治州ラギャで僧タシ・サンポ28歳が拷問を逃れるため黄河に身を投げ、自殺した。
左の写真の中、赤い矢印の辺りに身を投げたという。

次の日、これを知ったラギャ僧院の僧侶や市民数千人が抗議の行進を行い警察署に詰めかけた、という事件のレポートは3月22日から数日間このブログに載せました。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2009-03.html?p=2#20090322
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2009-03.html?p=2#20090323

デモの動画も以下で見ることができます。
http://media.phayul.com/?av_id=148

ダラムサラのTCHRDによれば、8月13日マチェン県人民法院は3月22日の抗議活動に参加し逮捕されたチベット人の内8人に判決を言い渡したという。
http://www.tchrd.org/press/2009/pr20090814.html
http://phayul.com/news/article.aspx?id=25340&article=8+Tibetans+sentenced+over+Ragya+protests

内6人の僧侶には1年から7年、俗人2人は半年と1年の刑。
パルデン・ギャツォ1、僧パルデン・ギャツォ40歳、戒律師 刑期7年

2、僧ツルティム  元戒律師 刑期4年











ソパ・サンポ3、僧ソパ・サンポ  元会計掛かり刑期3年











ジャミヤン・ケドゥップ4、僧ジャミヤン・ケドゥップ 官理委員会秘書 刑期2年










ゲンドゥン・ラロ5、僧ゲンドゥン・ラロ  刑期1年









シェラップ・サンポ6、僧シェラップ・サンポ 刑期2年

7、ギャサ村出身のフ・ロ 刑期1年

8、ギャサ村出身ヤン・キャップ 刑期半年


ーーー


これで、話は終わるのであろうか?






rftibet at 14:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)チベット内地情報 

2009年08月17日

ラダック野良犬診療所

ラダックの野良犬診療所今月、ラダックには法王がいらっしゃる。
法王のティーチングや潅頂やらを受けるため、商売のためと、おそらく一万人を越えるチベット人(主にラダック、ザンスカール、スピティ、ラホール、ダ・ハヌーの谷の人たち)、と外人が集まっている。

これに関連し、
今日は自分の誕生日なのですが、生まれたことにも意味が少しはあった、という自己満足のために末娘の話をします。

ニマ娘のニマは21才、このダラムサラで生まれ、TCVに高校終わりまで通った後、今イギリスのエジンバラ大学で獣医学の勉強をしている。
兄弟の中でも一番チベット化された子供と思う。
とにかく動物愛護で、普通のチベット人のように、蚊はもちろん殺さないし、道に迷い出たミミズも助ける。
ダラムサラにいる時はベジタリアンを通していた。
しかし、まじめな風はまるでなく、とびきり明るく、いつも兄のマネをしてダラムサラ一の悪がきファッション振りを楽しんでいた。
家には昔から犬、猫、ウサギ、鶏、とペットが多かった。
それでも、犬は何匹もユキヒョウに食われる、猫は犬に、犬は猿を、ウサギの足を犬が食うという風に事件も多かった。
そのせいなのかどうか良く分からないが、人より動物の方が可哀そうと思うらしく、獣医になりたいと思い始めた。

足(手)の悪い野良くん夏休みはいつも研修の単位を取るためにどこかの牧場や病院に行く。
今年の夏はラダックに行っていた。
獣医の世界にも<Vets beyond borders 国境なき獣医団>というものがあるのだ。
この団体の活動の一環として、この夏<ラダック野良犬去勢プロジェクト>というものが行われた。

世界中とインドから11人の獣医とボランティアが集まって、朝から晩まで、去勢手術と狂犬病の予防接種を行った。
その数何と695匹。
何で、こんなに世界の果てに野良犬が多いのか?だが、まずは軍人が持ち込むのとチベット人難民キャンプの人が犬好きで、沢山犬を飼うがその分、野良犬も発生するということらしい。

ニマはチベット語とヒンディー語が話せるので、みんなに通訳としても重宝がられたとか。

ラダックの野良犬診療所 手の悪い野良くんもちろん、同時に犬の健康診断を行い治療の必要な犬には手術や薬を与える。
娘の話だと、特に目立つのが、交通事故による、手足の損傷だという。
何匹もの犬の手足を切断手術したという。

「でも犬は何の文句も言わず、三日もすると三本の足で、元気に走って寄ってくるようになるよ」と嬉しそうに話す。

「野良犬、たくさん助けられて良かったね、本望だね、、、」

と言うわけで、今回ラダックに集まる、法王始め全員、狂犬病を怖がること無く、野良くんとじゃれ合うことができるということです。

幼い時に別れた娘だけに、こんなことでも、親は生まれた甲斐があったと思ったりするものなのです。








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2009年08月16日

続ロタン峠の花々

ロタン峠のブルー・ポピー解ってると思うけど、写真はクリックすると大きくなります。

14日、ブンタールという温泉の谷を降りたところで建設中の寺の現場に行った。一年前とほとんど変わらず、全くのんびりの現場だ、10年関わって、まだ完成しないとはね、、、
ぐずぐずしてるうちに近くにもっと大きな僧院ができちゃったが、まあ僧院の大きさは教育の質とは関係ないが。

昼間の暑さを避けるつもりで夜ダラムサラに向け走り出したが、中々ロタン峠に負けず劣らずチャレンジングでワイルドなドライブとなりました。

まずは大雨、ワイパーはまるで頼りなくゆっくりと上がっては下がる。雨の強さに前がほとんど見えない。なのに夜中のトラックやタクシーが無理な追い越しを繰り返す。突然目の前に大きな石が現れ急ハンドルで避けること数回。
真っ暗なカーブの多い崖道には大雨のせいで落石が至る所にある。それもかなり大きな石ばかり。


ブンタールの寺次には霧、濃い霧に時に視界が10m以下になる。
それでなくとも、真っ暗なカーブばかりの道で道が一体どっちに向かっているのか、本当に解りにくい。
真夜中となり対向車もこない、霧の中を走り続けているうちに、ここはどこかしら?黄泉の国?、、、と眠くなる。

と、突然大きな土砂崩れで道がふさがれているところに出くわした。
車は数台しかいない。
真っ暗でまるで様子が解らない。
諦めて、車の中で寝ているドライバーもいる。
それでも何人かが道を作っているようだったが、、、彼らも突然散った。
土砂崩れは止まっていないようで、まだ落石があるらしい。

もう今夜はここで終わりかな?
私も寝るかね、、、?

と思いながら2時間ばかり、そこにバスが来た。
乗客が総出で道を作り始めた。

マニカランしばらくして、バスが全速力で突っ込む。大きく揺れながら向こう側まで行った。
大きな歓声が上がったものだ。
続いてトラックとランクルが突っ切った。
しかし、私は同じタイプの車が通るまで様子を見ることにした。
案の定、同じタイプのマルチ・スズキは誰も行かなかった。

そのまま、また一時間ほどたった。
向こうからバスが来た。
続いて小さな車も来た。

私も行く決心をした。
とに角、途中で止まらないことだ。
落石に遭わないようにと祈りながら。

突っ込んだが、大きな石と泥の連続、最後の方で避けられぬ大きな石をまたいで底が大きな音をたてたが、そのまま突っ切った。
随分とまた可愛い借り物の愛車を痛い目に会わせてしまった。

結局ダラムサラには朝の6時に到着した。


blue poppyここからは花の話。

まずブルー・ポピーだが、これには20種類ぐらいあることは以前にも書いた。
今回ロタンで見かけたのはすべてMeconopsis aculeataという種ばかりだった。

ちなみに小川先生が薬草として揚げておられるツェルゴンもウーペルもMeconopsis horridulaのようだが、どちらも効能はいっしょなのかな?
以下チベットの薬草として小川先生のブログに紹介してある植物についてはそのURLを示しますので、詳しく知りたい方はクリックしてください。

http://www.kaze-travel.co.jp/tibet/tibet_ogawa047_1.htmlには

「ウッペル・ロ・チン・ツェパ・マルー・セル
ウッペルは肺と肝臓の熱を残らず取り去ってくれる。(四部医典論説部第20章)」

とあります。

それにしてもこの花は生息場所も崖であることが多く、なぜか禁断の風情で人を誘う花ではあります。

種を採取したので、来年は家で育てられるかも?

トリカブト?これはあの有名な暗殺薬<トリカブト>と思われる。
歴代ダライラマの中にもこの毒草の犠牲になられた方がおられるとか。

これにも何種類かあって、中には強壮薬とか胃薬にもなるものもあるようだ。
Aconitum feroxと学名で呼ばれる種類の根茎部分に強い毒があるという。
チベット薬草学ではポンガ・ナクポと呼ばれ、
http://www.kaze-travel.co.jp/tibet/tibet_ogawa007_1.html

「強心、鎮痛、興奮を目的に用います。身近なところでは下半身の病気に用いる漢方の八味地黄丸に配合されている他、狂言でも「附子(ぶす)」の題目で演じられています。」ということです。

今回この一草のみ、見かけました。


トンリ・スィルパ全ての熱病に効く、伝染病にも効くという植物だそうです。

http://www.kaze-travel.co.jp/tibet/tibet_ogawa038_1.html

「法が乱れる濁世の五百年、魔鬼がさまざまな急性の病気を引き起こす。鬼女が伝染病をまき散らす。外教徒の作る新たな物質が毒となる。その時、自分と他人を守る術をここに教える
『四部医典』最終章第156章より」


ルクル・ムクッポ「ルクル・ムクポ・ドゥクドゥ・シャドゥク・セル
 ルクル・ムクポは毒を集積し肉の毒を消し去る
 四部医典論説部20章」

http://www.kaze-travel.co.jp/tibet/tibet_ogawa011_1.html




花畑3200mぐらいに下がったあたりで道のそばの崖にブルー・ポピーを見つけ、車を降り崖を登る。崖の上は一面花畑だった。







Morina longifoliaその花畑に一株だけ見つけた花。




















ロタン峠付近の滝こんな崖と滝が続くあたりが花の宝庫。









Pedicularis bicornutaこれも今回一株のみ見つけた豪華な黄色い花








Gaulyherria trichophylla青い珠が地面に散らばる









ロタン









koke &  kinokoこのキノコは何でもないが、実は最初にロタンの野原に降りたとき、目の前の馬糞の上に三本の立派な「ワライダケ」またの名を「マジック・マッシュ」が生えているのが目に入った。
何でこんな高地に?
と思う間もなく、写真を撮ることも忘れ、それを採取しておりました。
なので、貴重な4000mの高地馬糞の上に生える「ワライダケ」の写真は無いのです。これはその変わりです!?










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Silene



















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ロタン峠のブルー・ポピー「ロタン」とはチベット語で「ロ」=「死体」、「タン」=「原」という意味なのでここは「死体の原」と呼ばれているわけだ。過去にここで激しい戦闘が行われたとも言われる。

そんな話を交えれば、彼岸に霧の中に咲くヒマラヤのプルーポピーは亡き人の姿にも思えてくる。




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2009年08月15日

ブルー・ポピー

ハヌマン・ティパ 5928m日本はお盆。私も広島に帰り墓参りしないといけないが、ちょっと遠いので、その代でもありませんが、12日からちょっと遠出をしていました。

山へ花を写真に撮るために行ったのです。
と言っても歩いたのではなく、近場で車で行けて、花がいっぱいの場所、ロタン峠まで友人の車を借りて、一人で走って行ったのです。

ヒマラヤの彼岸花<ブルーポピー>を求めて出かけたというわけです。

12日朝7時にダラムサラを出て、午後4時にロタン峠下のマリという3400mの村まで行った。

ロタン峠よりそこで一泊し、次の朝早く暗いうちに峠に向けで、小さなおんぼろ車を走らせた。
前の日には朝から走らせたうえに最後に登りが続き、高山症状もあってかマリの前でオーバーヒートでエンストしてしまった。
それが、マリから4000mの峠まで10数キロの道のものすごいこと、車は激しく揺れどうし、車高が低いのでいくら避けようとも腹を擦る、ぬかるみでスリップする、流されそうな川を渡るおと、ワイルドこの上ないドライブだった。
それでも何とか峠まで登った。


ロタン峠に到着したマルチ・スズキ800cc青い小さな800ccの車をほめてやった。
やはり合弁とはいえ日本の車はすごいと思った。

峠から北を見渡せば、雪山の連なりの向こうはザンスカール、そして法王が今滞在されているラダックの山々も見えそうなほど。
峠を下り、後二日走ればラダックまで行けるはずだったが、途中には5000m級の峠もあり、この車では無理と判断したのです。
というか、時間もないし?今回はここまでと決めていたのです。

アシャギリ 6100m今はモンスーンの真っ最中。花はあっての山は見えないのが普通。
それでも近くの6000m級の立派な頂きが何峰か見えたりもした。

花を求めてまずは峠の東の尾根に向かった。馬が沢山放牧されていた。
気持良いお花畑は広がっていたが、肝心のブルー・ポピーは見つからなかった。
そこで、次にヒマラヤ薬草の権威チベット医学の小川先生にこっそり教えて貰っていた、ロタン峠下の岩場を目指した。

ブルー・ポピー Meconopsis aculeata話の通りそこでかなりの数のブルーポピーに出会うことができました。
プルーポピーは傾斜のきつい崖や、岩場の途中、特に洞窟入り口当たりの岩を好んで生えています。
中でも水飛沫の降りかかる岩場に三段重ねに水色から赤紫への色の変化をすべて見せながら咲いていたポピーは一番の景観でしょた。












名称不詳その他にも、もちろん私はまだこの分野では素人だから、初めて見る花もたくさんありました。
半日で55種類の高山の花の写真を撮ることができました。
全部紹介したいぐらいだが、ブルーポピーを中心に少しだけ何回かに分けて載せるつもりです。












マニカラン温泉下りにまた、大揺れし、マナリを通過し、その日マニカランという山間の温泉地にやって来ました。


















Meconopsis aculeata




 















花畑










Meconopsis aculeata




















Meconopsis aculeata

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2009年08月11日

法王のスケジュールなど

ワルシャワの法王ダライ・ラマ法王はポーランド、ドイツ、スイス訪問を終えられ、昨日インドの北ラダックのレーに到着されました。
これから、8月29日まで、ラダックとザンスカールに滞在され、ティーチングやら潅頂やらをなされます。

ポーランドでは首都ワルシャワから名誉市民賞を授与されました。
ドイツでは4日間の講演に延べ5万人が押し寄せたといいます。
スイスでは中国・チベット連帯会議に出席されました。

今日のBBCでは法王への独占インタビューがかなり長時間流されました。

今日は又、アンサンスーチーさんへの判決が決まったというニュースも先ほどから流れています。
刑期3年のところを18か月の自宅監禁に減刑するというものです。
いかにも、軽い刑にしたかのように見せていますが、結局まずは来年の選挙までは出さない、ということでしょう。
他の名もない政治犯なら、裁判など無しに、中国と同じように即座に勝手な刑を宣告されるそうです。
ビルマの春はまた遠のいたようです。

ドイツのスタジアム、法王講演ついでにこれからの法王のスケジュールを簡単にお知らせします。

ラダックからダラムサラに帰られ、9月15〜17日の三日間、韓国人グループのリクエストに応えての仏教講義。これには日本人グループも加わるようです。日本語通訳もあると思います。

9月25日からはアメリカに渡られ、ロスのあと一旦カナダのバンクーバーとアルベルタ、モントリオールに行かれた後、ワシントンに10月8〜10日まで滞在される。
オバマ氏との会談が実現するとすればこのころか?

ダラムサラに帰られ、10月20〜22日、シンガポール人グループのリクエストによるティーチング。

この後公式のスケジュールにはまだ入っていないが、11月初めに日本を訪問され沖縄ではなく四国に行かれるとか?

11月には再びダラムサラで24〜27日まで、ロシア人グループのリクエストに答えてのティーチング。

12月に入ると1日から10日までオーストラリア、とニュージーランドを訪問されます。

年が明け、2010年1月5日〜9日にはブッダガヤでティーチングをされる予定です。









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ドンドゥップ・ワンチェン氏とその妻ラモ・ツォ

ドンドゥップ・ワンチェン昨年3月「ジクデル(恐怖を乗り越えて)」と題された、チベット人たちへのインタビューをまとめたビデオを制作したとして逮捕され、監禁の身にあるドンドゥップ・ワンチェン氏の解放運動は亡命政府、アムネスティやSFTが中心となり世界中で盛り上がりを見せています。
今月初めには公判が開かれるのではないかと思われており、ダラムサラでも7月31日にドンドゥップ・ワンチェン氏の妻ラモ・ツォを招いて、集会を開きキャンドルライト・ビジルが行われました。

以下のサイトにアクセスすれば、署名運動に参加できます。
是非とも、まだ署名されてない方は署名お願い致します。

http://www.sftjapan.org/nihongo:filmingfortibet

http://www.amnesty.or.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=2543

以下はラモ・ツォさんが夫の解放を訴えるビデオです。


彼女に今日の朝、会って来ました。
彼女はマクロード・ガンジのバス停付近で朝6時頃からチベット・パンを路上で売っています。
実は前から、顔見知りではあったのですが、彼女がドンドゥップ・ワンチェン氏の奥さんだったとは最近まで知りませんでした。

Lhamo Tso彼女の隣に座り、チャイなど飲みながらゆっくり話をしました。
女の子が二人そばにいたので、「ラモさんの子供?」と聞くと
そうだという。年は11歳と9歳。
目の前にTCV行きのバスが停まっていて、もうみんな乗って発車しようとしている。
「学校に行かないの?」
「今日は学校には行かないよ。病院に行くんだよ」
「どうしたの?」
「目が痛いから」という。

子供は後二人16歳と13歳の男の子がいるという。
一人はムスリ、もう一人はダラムサラのTCVに通っている。
上の子どもたちは2000年に、下の子供たちは2005年に先にインドに送ったという。
ラモ・ツォ自身は2006年にインドに亡命してきた。
夫の両親も2007年にインドに逃れてきた。
彼女の両親は子供のころ亡くなりいないという。

ドンドゥップ・ワンチェン氏だけが一人チベットに残っていたという。
彼も一度1992年頃インドに逃げたことがあるが、再びチベットに帰っている。
二人はアムド、ラプランの出身だが、インドに来る前10年間ほどラサに住んでいた。

里にいる時はただの農家だったという。
ラサに出てからも街で二人でヤク・バターを売って暮らしていた。
二人とも一度も学校には行ったことがないそうだ。

まず、「最近連絡は有るか?裁判は開かれたのか?」と聞く。
「全く何の知らせもない。心配している」

「逮捕された後、中国に行ったのか?」
「行ってない」

「家族が弁護士を雇ったというが、誰が雇ったのか?」
「それは夫のお姉さんだ。弁護士は一度だけ夫に会えたという。その時、拷問にあったことや、B型肝炎に罹っている、とかの話を聞いたみたいだ。夫は、依然は全く健康だった。B型肝炎などではなかった。きっと監獄で酷い仕打ちをうけて、食事も足りなくてそうなったのだろう。刑務所で治療を受けているとは思えないし、、、
弁護士は、夫にはまったく罪と言えるものがない、と言ってたという。」

Lhamo Tso2「こちらに逃げてくる前とか、その後とか、彼はあんなビデオを作ろうとしてる話とかをしなかったのか?」
「全く知らなかった。彼は昔から写真とかは好きだったが、ビデオを撮ることはしていなかった。どこで習ったのかも知らない。昔から人を助けることは好きだった。よく人の面倒を見ていた。チベットが自由になればいいとも思っていただろう。でも、あんなビデオを作って、こんなことになるとは思ってもいなかった」

「夫婦で話をしないのか?」
「アムドの女は男たちの話に口を出さないことになっている。食事の時も一人で台所で食べるのだ。だから、夫婦の間にも知らないことはたくさんある」

「良くないね。日本も昔そうだったけどね。ウツァンやカムはそうでもないのかな?」
「ウツァンの女たちは違う。逆に男を使ったりしてる。カムは半々かな、、、」

「子どもたちはお父さんのことを話すか?」
「いつも、パーラはどこにいる?いつ会える?と訊く。内の子供たちはみんなお父さんのことが好きなのだ。
私は子供たちを叱ってばかりだが、夫は全く怒らなかったからだろう」

「大丈夫。今世界中でドンドゥップ・ワンチェンの解放運動をやっている。日本も頑張ってる。前にもこうした運動で中国の刑務所から解放されたチベット人はいる。有名になれば、中国もそうそう好きにはできないからね。」
と言っておきました。

嘗て、ガワン・チュペル氏という同じく映画監督/音楽家であった人が18年の刑を受けたことがありましたが、その時も彼の年老いたお母さんが一人で必死の訴えを世界中で続け、6年後ついに息子さんが解放されることになったのでした。

今回も健気に道端でパンを売るラモさんに頑張ってほしい、応援したいとおもいました。

最後に彼女が毎朝1時に起きて作っているという、まだ温かいおいしいチベッタンブレッドを5つ買って帰りました。


「ジクデル」部分








rftibet at 12:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)ダラムサラ町の出来事 

2009年08月10日

続ツェワン・ドゥンドゥプ氏の証言

tsewanカンゼ地方の人々はその愛国心とダライ・ラマ法王への忠誠心の強さで有名だ。
この地方は北京政府により「チベットの喉下」と呼ばれてきた。
この地方を抑えることができれば、チベット全土を制圧することができるという意味だ。
ツェワンはいう「この中国との国境線とも言える地方のチベット人たちは、他のチベット人たちのためにチベット人としてのプライドをこの最前線で守る責任があると感じている。
他の地方でのデモが終息した後、数か月たってもまだこの地方の人々はカンゼの政府庁舎に向けデモを行っていたのだ」と。

「このときの人々の反応に感動した。俺が長い間胸に秘めていた苦しみや中国政府に対する憎しみを回りのすべてのチベット人たちと分かち合えたのだ」

ツェワンは他の100台あまりのバイクとともにテホルの町に向かった。テホルの町はバイクで一杯だった。停めるところもなく、ただ道端にバイクを捨てて、「チベットはチベット人のものだ!」「ダライ・ラマ法王をチベットに帰せ!」と叫ぶ声の方角に走った。
300人ほどのチベット人が大通りを行進しているところに合流した。
先頭には100人余りの尼僧たちがいた。
だれも、チベットの国旗や横断幕を持っていない。
ただみんな拳を振り上げながら叫び続けていた。

行進に参加しているチベット人には年寄りもいた、若者もいた。
中に6歳の子供も加わっていた。
行進は200人ほどの武装警官に囲まれていた。
彼らは行進中の人の中から一人ずつ引き抜いて、棍棒や電気棒を使って殴りかかった。
それを見つけるたびにみんなで寄ってたかってその人を助け出した。
「こうして、そのとき一人もチベット人は連れて行かれなかった」とツェワンは誇らしげに語った。
「しかし、無防備なチベット人に対し、棍棒で殴りかかる大勢の警官隊を見るのは耐え難いことだった。すぐそばに二人の警官が近づいたことがある。やろうと思えば俺がこの二人を殺すことは簡単だった。法王に対する敬意のみが俺にその行動を取らせなかった。俺に戦う勇気が無かったわけじゃない。法王の言葉に従ったのみだ」

人々は自然に敵意のシンボルである警察署に向かっていた。
その建物に近づくと屋上から催涙弾が飛んで来た。
同時に数人の警官が群衆に向け実弾を発砲し始めた。
他のブループが鉄のゲートの後ろから撃ち始めた。
ツェワンは5人が撃たれ倒れるのを見たという。(後のレポートでは10人)

発砲が始まるとすぐにゲート近くにいた人々は走って逃げた。
しかし、ゲートの真正面にいたクンガという名のチョリ僧院の21才の僧侶が撃たれ倒れて、そこに残された。
ツェワンはそれを見てすぐに彼を助けようと駆け寄った。
「チベットの諺に、<ウサギが禿鷹に捕まり空に釣り上げられた時、ウサギが空に助けを乞うは無駄なこと>というのがあるが、その時自分が法王の加護を祈ったことを思いだす」

弾は肘の内側から入り外側に抜けたもう一人のチベット人が現れ二人で倒れた僧侶を抱えて逃げようとした。
「その時、左脇腹に焼けるような痛みを感じた。撃たれたなと思った。
それから二歩ほど前に進んだところで今度は左肘を撃たれた。血が噴き出した。俺は眩暈を覚えた。ただ、意識が完全に失われる前にかろうじて<この僧を誰か助けてくれ!>と叫ぶことだけはできた」

このすぐ後、ロプサン・ツプテンという親戚の一人がバイクで仲間と共に倒れたツェワンの下に駆け付けた。バイクに引き上げられ、二人に挟まれたまま、全速力でその場を逃げ去った。
ツェワンの意識は消えたり戻ったりした。
「警察の車に追われている時、不思議なことが起こった。
突然辺りが暗くなり、視界が利かなくなった。お陰で我々は遠くまで逃げることができた。
ある村のはずれのマニ堂に一旦隠れた。
止血のために左腕の上部が強く縛られた。
このゴムで縛った跡は今でも傷となって残っている。
竹で即製の担架が作られ、四人に担がれ、すぐに山に向かった」

デモのあった次の日警察はツェワンを探すため、村を一軒づつ虱潰しに捜索した。
その時、彼の家族の家には数台の軍隊のトラックが押し寄せ、家はむちゃくちゃにされたという。
「彼は死んだ」と証言され、国際人権機関も彼を死亡扱いした。

「みんな用心のため、夜しか歩かなかった。6日間山を登り続けた。夜歩くのだが、誰もトーチを持っていなかった。道は険しく時に担架が強く揺れたが、そんなときの痛みは耐え難かった。しかし、彼らは細心の注意を払って俺を運んでくれた」

「それからの一年と二か月間、高い山の上の洞窟に暮らしていた。
一か月ごとに見つからないためにと場所を移動した。
10日ごとに一人ずつ自分の村に帰り10日後に食糧などを持って帰ってきた。
これは仲間の誰かが当局にその長い不在を疑われないようにするためだった。
中国は俺が生きているらしいと知って、賞金を懸け探していた。
居場所を知らせた者には15〜20万元の賞金が出ることになっていると聞いた。

左脇腹の背中の方にある黒い傷跡から弾は入り前に抜けた村の人たちは自分の苦況を知って、薬を託す者もいた。中には抗生剤をくれた人もいる。
しかし、ちゃんとした治療をうけることが出来ず、傷は悪化して、二か月後には傷口の膿は腐ったにおいを放ち、ウジさえ湧くという状態となった。
ロプサンは腐った肉の部分を剃刀でそぎ落としたが、その痛みは耐え難いものだった。
痛みに耐えるため、俺は口に木の棒をくわえ力いっぱいそれを噛んで我慢した」

最初の半年は座ったままの状態だったが、身体のいかなる部分も自分で動かすことはできなかった。8か月後にやっと頭を動かすことができた。
生活のすべてを仲間の助けに頼っていた。
11月に入り、気温は下がり、山には雪が降った。
仲間が山を登り降りするのにも困難が生じた。
凍傷になりたどり着く者もいた。
ツェワンは仲間をこのまま危険にさらすことに耐えられず、自殺を考え始めた。
「俺は食べ物と手当を拒否した」が、仲間は生き抜くようにと励ますことを止めなかった。

10か月後、ツェワンは二人に肩を支えられながらも歩くことができるようになった。一年たってやっと自分一人で歩けるようになった。

ある時ロプサンに相談した。「俺はインドに逃げて世界中にチベット人のこの苦しみを訴えたい。そうすべきだと思い、決心した。どうかお願いだから俺をインドまで連れて行ってくれ?」と。

「もちろん簡単なことではないことは判っていた。自分たち二人は指名手配されており写真は至る所にあるという。ラサまでたどり着き、そこでガイドを探し、国境まで行く。途中何か所も検問がある。成功する可能性は薄かった。
それに自分もそうだが、ロプサンも結婚しており二人の子供までいる。
出発すれば、もう二度と家族には会えないかもしれないのだ。
それでも彼は同意した。
ロプサンは言う「ツェワンは彼の話を世界に知らせるべきだと思った。彼を助けることによってチベット人のために役立つことができる、と思ったのだ」と。

カムの山ツェワンはこうして4800mの高山の洞窟に14か月籠って生き延びた。
まともな治療もされないまま、耐えがたい受けた銃弾の傷の痛みに耐え、ツァンパと茶だけで生き抜いた。
ツェワンは言う「自分がこうして今生きていることが夢のように思える。俺は俺を助けてくれた仲間達の意志と勇気と決心の力を共有することによってのみ生き抜いたのだ」と。

ラサまで10日間バイクで走った。
その後、どうやってネパールまでたどり着いたのかについては、彼は詳しく話したがらなかった。多くの人に助けられたとだけ言った。
「言えることはみんな本当に勇気があり、やさしかったということだけだ。いつも彼らに感謝している。もっとも感謝しているのはもちろんロプサンだ。二人は本当に近い友となった。彼は俺の第二の目だった」

今もツェワンの故郷ではチベット人の抵抗運動が続く。7月17日にはヨンテン・ギャツォという男が一人でチャムドのスタジアムで抗議活動を行った。
彼はチラシをばら撒きながらスタジアムを一周した。
その場にいた観衆はみんな歓声を上げたという。
彼の撒いたチラシには、彼の名前と他のチベット人に中国への抵抗運動を訴える内容の文章が書かれていた。
四日後の7月21日、彼は逮捕された。

二日前(8月8日)のRFAによれば、カンゼ警察は今もなお山に逃げ隠れていると思われる5人のチベット人の名を上げ、かれらが期日までに自首して来ない場合は、見つけ次第銃殺するという発表を行った。
http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/chinese-authorities-order-5-tibetans-to-be-shot-at-site-08082009220741.html

彼の今の夢は国連に行って各国代表に自分の証言を聞かせることだという。
「話すことのできない人たちに代わって自分がみんなに伝えたい」という。

去年のような一斉蜂起がチベットで再び起こると思うか?との問いには、
「もしも中国政府がこのまま法王のおっしゃることを聞き入れず、チベット人に基本的人権を与えないなら、必ずまた起こるだろう。そして、もしも法王が亡くなられた時にはチベットは爆発するに違いないと思う」と答えた。

家族と連絡は取れているのか?と聞くと、
「今はあまりに危険で全く連絡はとっていない、、、、もう離婚したし、、、」
と思い口調になった。

終わり


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2009年08月09日

チベットのため自殺した少年の遺詩集「拘禁されたチベット」

ユン・ルンドゥップ昨年10月18日、チベット人を鼓舞するために自殺した少年、ユン・ルンドゥップの話は去年の以下のブログでレポートしました。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2008-10.html

彼の自殺後、チベット人によって彼の残した約25の詩がまとめられ、
【拘禁されたチベット人】という1冊の本となり出版された。

以下は彼に関する8月4日付ウーセルさんの記事をH女史に翻訳して頂いたものです。
http://woeser.middle-way.net/2009/08/blog-post_04.html

●民族のため命を投げ出したアムドの中学生・永冷智(ユン・ルンドゥップ)と
彼の詩集【拘禁されたチベット人】


ユン・ルンドゥップの遺詩集2008年10月18日、青海省黄南チベット族自治州チェンツァ県の第一民族中学の学生・永冷智が学校の教室棟の3階から飛び降り自殺を図った。

彼の実家は青海省海北チベット族自治州カンツァゾン県にあり、牧畜民の出身である。
去年3月のチベット騒乱の際には、
彼はカンツァゾン県のある学校で、中国国旗を吊るしているその旗竿の上にカターをかけていた。
その後9月に転校し、チェンツァ県の第一民族中学で学んでいた。
教師の話によると、永冷智は成績も良く、大変真面目で優秀な学生だったという。

彼の残した遺書は、死をもって人々のチベット人の境遇への関心を呼び起こし、
また世界に向けてチベット人の身の上に自由がないことを証明している。
そして、チベット人が団結して努力し、教師や学生がチベット語を積極的に使用でき、民族の文化が保護・継承されていくことを望んでいる。

彼の自殺が注目び、外国メディアによって報道されたことで
チェンツァ県第一民族中学校長は免職となり、
クラス担任は最も条件の悪い全県唯一の畜産地区へと移動になっている。


ユン・ルンドゥップの遺詩集2彼の自殺後、チベット人によって彼の残した約25の詩がまとめられ、
【拘禁されたチベット人】という1冊の本となり出版された。
本の裏表紙には彼のこのような詩が書かれている。


かつて遥か彼方の異郷を眺めたことがある。
かつて広大かつ幽玄な湖を眺めたことがある。
かつて心の中の痛みを歌に乗せ涙を流したことがある。
私に何があるだろう?
たった少しの自由に生きる権利すら持てないのに。
 
              ―――ユン・ルンドゥップ(永冷智)―――



【拘禁されたチベット人】の本の中にはこのような詩がある。

ユン・ルンドゥップの遺詩集3ふるさとの野良犬


私のふるさとにはたくさんの野良犬がいて
食べ物を探しては、あちこちをさまよっている。
ふるさとの人々はいつも余ったおかずを与えていて
次第に互いに面識ができ、
行き来がはじまる。
これらの野良犬はふるさとの人々によって慈しみ養われていた。

しかし、
しかし何が起こったのだろう、
野良犬たちがふるさとの人々の恩に背を向けた。

野良犬の犬歯と陰謀がふるさとの人々を怯えさせ、
苦しめて止まない。
あぁ、なんて無情で残虐な野良犬よ。



果てしない草原で
野良犬たちはふるさとの人々の食べ物を楽に得るだけでなく
かえって自らの血も肉も
自分たちの食べ物までもむさぼり求めている

恥知らずな野良犬
誰も信じてなどいない
慈悲と情けは必要とはいえ、
もしあなたが彼らに対して慈悲心を持てば
最後には自ら命を失うだろう

野良犬がどこから来たのか分からない
だけど彼らはさまよい、私のふるさとへたどり着き、
・・・・・

ーーーーーーーーーーーーー

訳者注:
この【拘禁されたチベット人】の中身の写真がないのでここまでしか訳せない、とあります。

(デジカメで本を1ページづつ撮影して、それをもとに誰かが中国語に訳したようです。
そしてここから先のページは撮影できなかった、とあります)




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2009年08月08日

ツェワン・ドゥンドゥップ氏の逃避行 その一

ツェワン・ドゥンドゥップ氏昨年3月にデモの最中二発の銃弾を受けたまま、14か月、5000m近い高山に逃れ、奇跡の越境を果たした一人のカンパ、ツェワン・ドゥンドゥップ氏の話はすでに先のブログでもお知らせしました。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2009-05.html#20090530

最近パユルに新たなインタビュー記事が載っていましたが、私も数日前ネレンカンに彼を訪ね、話を聞きました。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=25239&article=The+Will+to+Survive%3a+One+Man's+Harrowing+Escape+from+Tibet&t=1&c=1

パユルの記事も参照しながら、彼の壮絶で、稀有な話を再び少し詳しくお伝えします。

彼は5月終わりに到着早々の記者会見で見かけたときよりは表情も緩み、身体も少し丸みを帯び、落ち着いた様子でした。
終始笑みを絶やさず、やさしそうな人柄を現わしていましたが、山中での苦境やチベットの状況を話す時には厳しい顔になるのでした。

ツェワンはカム、カンゼ県ダンゴ地区の田舎の農家に生まれた。
学校には一度も行ったことがないが、商才はあったのかラサで衣料店と食堂を経営するまでになっていた。
2008年3月、彼は故郷で家族とともに正月を迎えようとカムに帰っていた。
ラサで起こった蜂起の知らせはカムの田舎にまで電撃的に伝わった。

「時は今だと感じた。チベット人はもうこんな状況の下に暮らすことはできない。何か行動を起こすべきだ。命を失うかも知れないことは判っていた。しかし、少なくともその死には意味があると思った。人々は語り合った。チベットの状況は苦しみに耐える病人のようなものだ。回復の望みがないなら早く死んだほうがましだ、と」

しかし、彼は一般の中国人に対しては全く敵対心を抱いていないという。
「ある中国人は、国に帰っていくら頑張って働いても食うこともままならない、と言ってる。彼らはチベットに来てなんとか生きようとしているのだ。これは俺にも理解できる」

だが、これが中国当局に対してとなると態度は全く異なる。
ツェワンのおじいさんは71歳の時ダライ・ラマ法王の写真を保持していたとして8か月間
監獄に入れられたという。
彼はこのような中国のやり方が2008年の抵抗運動を引き起こしたのだ、という。
「デモに参加する者はだれでもその危険を知っていた。しかし、俺達は沈みゆく船に乗っているようなものだった。何れ船と共に沈んでしまうのだ。それならいっそ海に飛び込んだ方がましだと思った」

「家族と共に見つからないようにして見たヴォイス・オブ・アメリカ放送を通じて法王の非暴力の教えを聞いた。2008年チベット中で起きた衝突においても中国人の犠牲者が非常に少なかったのはこの法王の教えのせいだ」

「法王は俺達にとって太陽のようなものだ。中国がいくらひどい仕打ちをしても、俺達は法王のお言葉に逆らうことはできないのだ。それはチベット人に勇気がなくて、中国の暴力に反撃できないのではない。実際デモを行うということは危険で勇気のいることだ」

彼は同じくヴォイス・オブ・アメリカ放送によって法王の独立ではない「中道路線」を知ったという。
「正直に言えば、俺は独立を望む。しかし、チベット人はどんなことであろう法王のおっしゃることに従うことが大事と思う」

ツェワン・ドゥンドゥップ氏22008年3月24日、ツェワンは山の上の方で、ツォリ僧院に水を引くためのパイプを通す作業を他の100人ほどのボランティアと一緒にしていた。
午後4時頃、下手にあるテホールの町の方から人々が叫んでいるらしい、騒ぎが起こったような音が聞こえてきた。
ツェワンはそのころデモがこのあたりで起こることをひそかに待ちわびていた。
彼はその音がそれだと知った。
下手に目を凝らせば、赤い僧衣の集団が動くのが見えた。
声は女の声が多い、近くのナンゴン尼僧院の尼僧たちだと思えた。
しばらくして、銃声が谷にこだました。

お互い、言葉を交わすこともなく全員シャベルを放り出し、バイクが停めてあった下の僧院目がけて走り降りた。バイクに乗ったり、バイクのないものは走って、全員がデモの起こった町の方へ全速力で向かった。
「チベット人は誰でも僧侶や尼僧に特別の敬意を持っている。銃声を聞いた時、全員が彼らを守るために駆けつけねばと感じた。俺は行けば、残りの一生を監獄で過ごすか、あるいはその場で撃ち殺されるかもしれないと知っていた。でもその時躊躇する気持ちは全くなかった」




















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2009年08月06日

広島 8月6日

今日は広島に原爆が落とされた日。
私は広島の出身で、数年前に亡くなった母親は被爆者だった。
まだ、両親といっしょにいたころ、8月6日の朝8時15分には必ず家で黙とうの時間があった。

母は時々思い出したようにその日のことを話した。
爆心地からはおそらく二キロほど離れている宇品というところの病院で働いていたという。正規の看護婦ではなく女学校からの動員組だった。
「ピカドン」が投下されたとき、母は運よく窓際にいなかったためやけどは免れた。
ガラスの破片が身体の何箇所かに刺さっただけだった。
本人は大丈夫だったが病院には重症患者が次々担ぎ込まれ、皮膚の垂れ下がった人が大勢押し掛け地獄のようになったという。
川が死体で埋まったようす。
黒い雨が降ったことなど、を話した。
話すのがいかにもつらそうで、いつも長くは話さなかった。

それで私も反核、反戦の人になったようです。

YouTubeの映像はかつて私が投稿した「チベット内における中国の核実験」



広島原爆投下



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2009年08月01日

不垢不浄

カリンポンあたりのサルの親子デリーにはマジュヌ・カ・ティラという有名なチベタン・キャンプがある。
昨日(31日)の夕方カリンポンからデリーに飛んでこのキャンプに一泊した。

キャンプと言っても今ではこの狭いオールド・デリーの北のどぶ川の河川敷には所狭しとホテルやレストランが建て込む場所となっている。

20年前には見渡す限り、遊牧民のヤクテントさながらの黒いビニールだけで作られたバラックが続いていた。
無数の汚れたタルチョの幟ばかりが空にたなびいていた。
そこはオールドデリーのリキシャマン(人力車の運ちゃん)の夜のたまり場だった。
そのころ一番安く酔える場所だったからだ。
チベットの地酒チャンがビニール製の大きなコップ一杯1ルピーで飲めた。
キャンプ中にチャンのすけた匂いが充満していた。
難民チベット人は特産の不道徳な酒で生き延びていた。

ところが、15年ほど前にこのチャンをインド政府が密造酒と認定し、その取締をはじめた。
キャンプの人たちはそれまでチャンで稼いだ金でそこにホテルを建て始めた。
これが、当たった。
インド中に散らばったチベット人は盛んに移動する。特に法王の法話や潅頂があると聞くとそのたびに大移動が度々ある。
必ずデリーを通過するので、このホテルとレストラン街は繁盛した。
今ではこうして一大安宿街が出来上がったのだ。
もっとも、もともと不法占拠の土地なので、常に当局から追い出しの脅しがかかるらしい。

ではあるが、キャンプの南半分はまだ貧しさの残る地区だ。

8月1日の朝、連れの二人といっしょにキャンプの中を歩いていた。
ゴンパに参り、その南の狭い路地が迷路のように続く今だ貧しい地区に入った。
世界中を取材で巡った百戦練磨の一人が「しかし、ここは臭いがあまり無いね。大体こういうスラムはどこも独特の臭いにおいがするもんだが、ここにはそれが無いね、、、」
と言った。
「そうですか。今は本当にここもきれいになりましたからね」
と私。

その時、頭になぜか般若心経の中にもある「不垢不浄」という言葉が浮かんだ。

もしも、日本から突然初めてこのデリーのチベットキャンプに来た人は「なんて不潔でハエと蚊の多い、臭いところだこと」
と間違って来てしまったそこから早く逃げ出そうとすることだろう。
でも、そこに長年住み続けてきたチベット人たちはみんな「この街は何てきれいになったことか、これもすべてダライ・ラマ法王のお陰だ」と思っているのだ。

人は誰でも、それなりに少しでも清潔に暮らしたいと思っているものだ。
それぞれのやり方で精いっぱいそのために働いている。

「事物であろう、心であろう浄不浄は各自の相対的感覚によるのみだ。つまり浄も不浄も言葉のみ」と、その時改めて感じたのだ。

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昨日の夕方、ダラムサラに帰って来た。
やっぱ、涼しいダラムサラが一番と、いつもの山をベランダから見上げて一人で落ち着く。

でも後4日ほど、机に付く時間はほとんどなさそうです。





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