2010年06月

2010年06月30日

「暴動は誤り」と若い僧=ラサ大昭寺「教育で矯正」

ダライ・ラマ法王は昨日、無事ダラムサラにご帰還された。

今回の日本での活躍は、チベット人ジャーナリスト多数同行の効果で、テレビ、ラジオやネットでいつもより詳しくレポートされていたように感じた。
そのせいか、いつもよりお迎えの人出も多かったとか、、、
(私は出かけなかったので見てない)

遠くから眺めるだけだが、今回の日本訪問は、14回の中でも最高の人出を獲得した、もっとも成功した訪問と言えるのではなかろうか?

特に今回は韓国人、台湾人、モンゴル人、ロシア人などが沢山参加されたのが良かった

もっとも、これは一般人の人出の話であり、政治的にはぼちぼち状態のままだったようだ。

28日付けのパユルが、その日横浜で法王が様々なグループと会談したことを伝えるが、その日、議員9人と会ったという話は最後にちょっとだけ触れられている程度だった。
なにせ、日本は今選挙活動真っ最中ということであり、皆さんダライ・ラマ法王にわざわざ会いに横浜まで行く時間的余裕がある議員さんは少なかったはずだ。
そんな中、朝8時から9人もの議員が集まったということは、牧野さんがどれだけメンツ(じゃなくチベット)のために奔走されたかが伺える。

さて、誰が、参加したのか?枝野幹事長は含まれていたのか?
今のところ、私が知っているのは牧野聖修議員、五十嵐文彦議員、村越祐民議員の三名だけ。
だれか、全員の名前を知っている方はお知らせください。
ま、枝野さんは菅さんがサミットで留守だったはずなので、官邸張り付き状態だったことでしょう。

牧野さんよく頑張ったと思う。選挙でも小沢にいじめられる牧野さんだが、チベットのみんなが応援してるからね、負けずに頑張ってください。

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報道規制の厳しい中国で日本の新聞社も、中々書き方を工夫し頑張ってると思えた記事を以下、二つ紹介する。

一つは最近久しぶりに外国人記者に許可された、ラサ官製報道ツアーに籤で当たった時事さんの記事。産経さんも当たったと聞いたのだが、記事はまだ見ていない。

恐怖により、言わされていることがみえみえのジョカン僧侶の話と姿が悲しすぎる。

29.6.2010 Lhasa「暴動は誤り」と若い僧=ラサ大昭寺「教育で矯正」−中国

ラサ(中国チベット自治区)時事】中国チベット自治区ラサの有力寺、ジョカン寺(大昭寺)が29日、外国メディアの取材に応じた。管理所主任のラバ師は2008年3月に起きた僧侶らの大規模な暴動について「事件後、寺ではいかなる変化もない。逮捕されたり、寺を追放されたりした僧侶はおらず、教育によって矯正した」と述べ、事件後の安定を強調した。

 事件直後、同寺を訪れた外国メディアに「チベットに自由はない」と訴えた若い僧侶(27)がこの日も取材に応じ、「あの時は寺の外に出る自由がないと訴えたが、何も知らなかった。法律を学んだ今は誤りだったと悟り、後悔している。信仰の自由はある」と語った。

時事ドットコム 2010/06/29
http://www.jiji.com/

2008年に、この僧侶がメディアの前で語った話については、例えば以下のレポート参照。
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2370462/2779906

追記:ウーセルさんからの情報によれば、ジョカンで2008年にメディアの前で真実を訴えた僧侶の内2人は逮捕され行方不明になっているほか、10人近くが還俗に追い込まれたとのこと。

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ウイグル暴動まもなく1年 武装警察増 再び緊張

中国新疆ウイグル自治区ウルムチで昨年7月5日に起きた大規模暴動から間もなく1年。民族対立から暴動やテロがたびたび起きる中国の“火薬庫”は一見、平穏を取り戻したかのようだが、1年の節目が近づくにつれ街中を巡回する武装警察が増員されるなど再び緊張が高まっている。

 (中国新疆ウイグル自治区で、朝田憲祐、写真も)

 ウイグル族が人口の九割を占める自治区西部の中心都市カシュガル。記者が現地に入るや公安関係者に取り囲まれ「取材は一切、禁止だ」。街中を歩くのは認められたが二十四時間監視付き。「庶民と敏感な内容の話はするな」とくぎも刺された。国内メディアのようには統制できない外国メディアに、マイナス報道をさせないためだ。

 「カシュガルの安全を守るため」との横断幕を掲げたトラックの列が市中心部を通り掛かった。荷台には大勢の武装警察。カメラを向けると、張りついていた公安関係者がすかさず「撮るな!」。

 区都ウルムチでは、ウイグル族居住区のモスク(イスラム教礼拝所)前などに公安の詰め所が設けられ、自動小銃を持った武装警察がにらみを利かす。カシュガルから出稼ぎに来たウイグル族男性(28)は「寝ても覚めても見張られている。もう、うんざりだ」。

カシュガルで、「軍と政府、軍と民衆が団結を強め、社会と政治の安定を維持しよう」とのスローガンが書かれた看板


 自治区政府は二〇一〇年度の治安維持関係予算として、前年度比九割増の二十八億九千万元(約三百八十億円)を計上した。二十四日には爆弾テロを計画していたとしてウイグル独立派組織幹部らを拘束したと発表。民族独立派には断固たる姿勢を見せつける。

 一方でカシュガルに経済特区を設ける計画も。ウイグル族の生活水準の低さが暴動の一因とみて、雇用創出などで不満を和らげるのが狙いとされる。

 しかし、ウイグル族の経済専門家は「新疆以外から来た企業が潤うだけで、地元への恩恵はわずか。特に中国語ができない農民は仕事にありつけない」と切って捨てた。

東京新聞 2010年6月29日
http://www.tokyo-np.co.jp/

rftibet at 13:06|PermalinkComments(9)TrackBack(0)チベット内地情報 

2010年06月29日

ソナム・ドルカの証言

Marc Riboud以下の証言も、前回と同じように2001年にルンタ・プロジェクトが行った亡命チベット人への一連のインタビューの一つ。
http://www.lung-ta.org/testimony/sonamdolka.html

高橋明美さんがまとめてくださった。

(少々長い。写真はMarc Riboud「1985年」)


■ソナム・ドルカの証言

 私がダラムサラに辿り着いてから、早くも5年の年月が過ぎようとしています。毎日が、重苦しい時間の積み重ねのように感じられます。刑務所で受けた拷問による後遺症は、ますますひどくなる一方で、頭痛とめまいに日々悩まされ続けています。ひどい頭痛のため、何日も眠れない夜が続きます。昼間もなんだかぼんやりしてしまって、時々、自分が何をすべきだったのか、思い出せないことがあります。

そして、まだ刑務所の中にいる父のことが頭から離れず、心配で胸が張り裂けそうです。私の父ツェワン・パルデンは、インドへ亡命しようとした際に、中国とネパールの国境で捕まってしまったのです。ネパール政府はやっとヒマラヤを越えて来た父たちを再び中国へ引き渡したのです。1995年6月のことでした。これからお話しすることは、実際に私たち家族に起きたことです。中国がチベットに侵略して来なければ、決して起こらなかった筈の悲劇、そして多くのチベット人たちが味わねばならなかった苦しみの歴史なのです。

 
Marc Riboud◆ラサでの子供時代

 私はチベットの首都ラサで1967年に生まれました。父は大工をしており、母は洋裁の内職をして家計を助けていました。貧しかったけれども、一人娘だった私は両親からふんだんに愛を受けて育ちました。学校には七年程、ラサの人民学校に通いました。授業はすべて中国語で行われ、生徒はチベット人しかいないというのに、学校でのチベット語の使用は固く禁止されていました。よく農作業や仕事に学校から駆り出されたため、まともな授業はほとんどありませんでした。

 子供の頃、毎日のように政治集会があり、仕事を終えたばかりの両親に連れ出されて、私も集会によく行きました。けれども、幼かった私は話しの内容も分からず、ただ静かに聞いていなければならず、大変苦痛でした。寒い日に凍えながら、終わるのをじっと待っていたことを今でもよく覚えています。タムジンと呼ばれる批判集会もありました。タムジンは私にとって恐ろしい見世物のようなものでした。鬼のように怖い顔をした中国人たちが、高僧だった人たちをつるし上げて、罵声を浴びせながら殴っていました。それを周りのチベット人にも強制するのです。誰も止めさせることが出来ず、目をそむけることも許されませんでした。何故なのか訳が分からず、「お坊さん、何か悪いことしたの? お坊さんが痛い目にあってるのに、どうして助けてあげないの?」と両親にいくら尋ねても、ただ悲しそうに黙っているばかりでした。

 一週間おきぐらいに、中国人の警官が家に来て色々と調べていました。仏像や灯明があるかどうか、ダライ・ラマ法王の写真が隠されていないかを調べました。私はその場所を知っていましたが、何度聞かれても知らない振りをしていました。幼い頃、法具や写真が見つかって両親がタムジンで殴られる夢をよく見ました。朝起きると、急に不安になって慌てて両親の顔を見に行ったりしました。

 もちろん、寺への参拝も禁止されていました。それでも、両親は信仰深かったため、時々こっそりと人目を忍んで、かろうじて破壊から免れていたお堂の鍵を開けてもらっては、仏を拝んでいました。私も両親にせがんでは、よく一緒に連れて行ってもらいました。寺に行くときは、病院に診察を受けに行くと嘘をついて学校を休んでいました。あるとき、その嘘がばれてしまったことがあります。私は、中国人の先生にひどく殴られ、一日中床の上に座っていなければなりませんでした。

 毛沢東が死んだ日のこともよく覚えています。どんな小さな子供でも毛沢東のことをよく知っていました。毎日毛沢東を賛える歌を歌い、毛沢東語録を暗唱させられていたからです。当日、子供たちは胸に白い花を挿して、葬儀に参加せねばなりませんでした。泣いていない子は「どうして泣かないのか」と言って先生から殴られました。私は、目を強く擦り、下を向いてうつむいていました。式の間中、殴られはしないかとずっと怯えていました。

 先生に引率されて、ラサにある博物館に行ったこともあります。そこには、昔チベットが『封建社会』だったころの展示物や写真がたくさんありました。一部の貴族が特権を独占し、民衆からの搾取によって私腹を肥やし、奴隷を虐待している様子。野蛮な刑罰を執行していた様子。そんな蛮行が人形となって並べられていました。贅沢な服に身を包み、豪華な椅子にふんぞり返る太った貴族の脇には、ぼろを着て痩せこけた奴隷が立っていました。罰として目をくりぬかれた罪人、手足を切断された罪人の人形もありました。何のことだがよくわからず、怖くて震えている子供たちに、先生はこう説明しました。

「偉大なる中国共産党がチベット人たちを、野蛮な封建主義者たちから解放するまでは、民衆は常に虐げられ、苦しみ続けていた。少しでも貴族たちに逆らえば、こうした罰が待っていたのだ。毛沢東首席のおかげで、おまえたちはこうやって何不自由なく学校に行け、勉強することが出来るのだ。毛沢東首席への感謝の気持ちを決して忘れてはいけない」

まだ幼かった私は、先生の言葉の真偽を判断することができませんでした。奴隷がかわいそうとの思いと再び昔のチベットに戻ったらどんなに大変だろうという思いで一杯でした。

 家に帰ると、博物館で見たことを両親に話しました。

「先生は、毛沢東がチベットを救ったおかげで、こうして無事に暮らせると言っていたのだけど、本当なの。チベットは昔そんなにひどい国だったの」

両親は私のその言葉を聞くと、とても悲しい顔になりました。

「それは違うよ。確かに懲罰はあったけれども、それは重い罪を犯したり、不正をしたりしたときだけだ。昔、チベットにはちゃんとした法律があって、法律に従って裁かれていたのだよ。誰かがそれを乱用したりはできなかった。中国が来る前と今では確かに生活は大きく変わった。良くなるどころか、本当は悪くなってしまったのだよ。昔は仏教が栄え、人々は信仰によって生きていたというのに」

両親は多くを語りませんでした。けれども、その日から私の心の中に中国人への払拭しがたい不信感が生じたのです。

 私たちの生活は決して楽ではありませんでした。自由に買い物も出来ず、また買うお金もありませんでした。農村では人民公社が導入されて以来、著しく生産高を落としていましたが、都市部でも似たような制度があり、地域単位で食料が支給されていました。労働者には一月に大麦と小麦を合わせて三十ギャマ(一ギャマは約一キロ弱)、非労働者には二十六ギャマ、子供には八ギャマが支給されていましたが、到底足りる量ではありませんでした。砂糖などは贅沢品で、特別の許可証がなければ、買えませんでした。肉、バターなどは、闇市でしか手に入らず、北からの遊牧民たちからこっそりと物々交換で手に入れていましたが、見つかれば刑罰が待っていました。

 
Marc Riboud◆洋裁の仕事

 14歳になると、学校を辞めて、母の知り合いを頼り洋裁の見習いを始めました。家が貧しかったせいもあるのですが、両親がこれ以上中国共産党によるの教育を続けさせたくないと思っていたからです。私も何か手に職をつけたいと思っていたので、喜んで洋裁を習うことにしました。チベットの民族衣装であるチュバという着物やシャツ等の仕立てることを教わりました。最初の一年は給料をもらえませんでしたが、仕事に興味を覚え、一生懸命に働いていました。

 毛沢東が死に、小平が政権に就くと政策が次第に変り始めました。壊された寺の再建が始まり、制限付きではありましたが宗教の自由も認められました。チベット人たちは、寺の再建への協力を惜しみませんでした。布施のために遠くからやってくる巡礼者も増え始めました。父も大工としてラサの三大寺であるセラ寺やガンデン寺に出向いて、無償で労力を提供しました。私も洋裁の先生と一緒にガンデン寺に住み込んで、仏画の外枠や仏像の服、お堂の垂れ幕を縫いました。ガンデン寺は、徹底的に破壊された寺のひとつです。おびただしい数の廃虚と化した壁の残骸が、今は無き当時の仏教の興隆を彷彿とさせるだけで、四千人近くいた僧侶は一人もいなくなっていました。私たちはテントに寝起きして、寺の再建のために必死で働きました。もちろん破壊した当人の中国政府からは一銭の援助もありませんでした。テントの中には、お釈迦様の仏像が一体置かれていました。その周りで朝晩僧侶たちが経典を読んでいました。これがガンデン寺の新しいお堂でした。

 18才になると私は父の紹介で結婚しました。夫も大工の仕事をしていました。まもなく女の子も授かり、一人前の針子として洋裁店へ就職もしました。給料は出来高制で、最も多いときで一日20元(約240円)でしたが、その中から食費7元と電気代4元を差し引かれていたので、手元にはわずかしか残りませんでした。


Marc Riboud◆独立要求デモ

 1987年になると、僧侶たちによるデモが続くようになりました。私は彼らの気持ちが痛いほどよく分かりました。全ての特権が中国人の手の内に握られていて、チベット人たちはいつもひどく虐げられている存在でした。ほとんどの店も中国人経営のため、チベット人は職を探すのにも一苦労していました。失業者が町中に溢れ、チベット人の乞食が町を徘徊していました。

 1988年の大祈祷法会では、その鬱憤が一度に爆発したような大きなデモが発生しました。もちろん私も参加しましたが、デモは予想以上に大きくなり、多くの人が逮捕されるという悲しい結果になってしまいました。少なくとも50人の死者が出て、逮捕数は2500件にも上ると言われています。私は運良く逮捕はされませんでしたが、逮捕された人々は誰もが拷問を受け、多くの人が死刑や終身刑、懲役刑を含む実刑を言い渡されました。私は強い憤りを覚えました。自分たちの国であるはずなのに、どうして自由や権利を主張することが許されていないのか。そして主張した結果、こんなにも苦しまなければならないのか。私は、こんな理不尽なことが行われていることを外の世界に伝えなければという強い思いに駆られていきました。何人かの仲間とともに私は活動を始めました。まず、ダライ・ラマ法王の講演テープを入手し、繰り返し聞きました。ダライ・ラマ法王が亡命し、チベットの自由のための運動を行っているということは私たちに強い勇気と希望を与えてくれました。きっといつか自由になる日が来る、そしてダライ・ラマ法王が戻って来る日が必ずやって来る、と私たちは信じて止みませんでした。そして、そのためにはどんなことでもやるつもりでした。

 1988年の大祈祷法会の際に逮捕され激しい拷問を受けた、4人の尼僧たちと接触する機会を得ました。彼女たちは、グツァ拘置所で7ヵ月間勾留された後、釈放されたばかりでした。私はビデオカメラを手にいれ、彼女たちにインタビューし、そのテープをインドにあるチベット亡命政府に送ろうと決心しました。彼女たちは皆、十八、十九才のまだ幼さが残る若い尼僧ばかりでした。インタビューは私の家で行いました。彼女たちは顔を隠そうともせず、静かに語り始めました。連日のように激しい拷問が続いたこと、電気棒で殴られたこと、そして電気棒でレイプされたことなどが彼女たちの口から聞かされました。あまりの恐ろしさに私は背筋が凍る思いがしましたが、それでも必死でビデオを回し続けていました。同様に、僧侶にもインタビューをしました。彼は1959年の中国共産党の侵略時から投獄され、30年もの長い間牢獄生活を送った人でした。それらを収めたテープを、インドへ亡命する人に預け、必ず亡命政府に渡してくれるようにと頼みました。


◆逮捕

 1989年7月30日のことでした。夕飯の支度をいつものようにしていた時のことです。突然、20人近くもの警官が家に押し入って来ました。彼らは私の名前を確認すると、即座に手を縛ると外に引きずり出しました。家の中では、警官たちが滅茶苦茶に部屋のいたるところをひっくり返していました。殴られているらしい父親の叫ぶ声が聞こえて来ました。娘は母親と一緒にジョカン寺を巡るバルコルにお参りに行っており、ちょうどいませんでした。

 そして、とうとうこの日から1年以上も、両親や娘に逢うことは出来ませんでした。警察は私の居場所を家族に一切教えなかったからです。前日に仲間の一人が逮捕されていたので、自分の逮捕も近いだろうと覚悟はしていました。重要な書類等は既に処分してあったので、どんなに探しても何も出てこない筈でした。けれども、両親は何も知らなかったので、非常にショックだったろうと思います。そして、娘はまだ3才になったばかりでした。

 グツァ拘置所に着くと、すぐに手錠と足枷がはめられ、尋問が始まりました。警察はビデオの件について詳しい情報を得ているようではありませんでしたが、私がダライ・ラマ法王の講演テープを所持していたことは知っているようでした。テープを貸した僧侶が拷問に耐えきれず、私の名前を言ってしまったようでした。警官はいつも4人でした。彼らはまず私を椅子に縛りつけると、電気棒でショックを与え続けました。気を失うまで電流を流し続け、気を失うと水を頭から浴びせました。幾度も繰り返されました。政治組織のメンバーの名前を彼らは聞きだそうとしましたが、私はどんなことをされても決して話しませんでした。

 尋問は、二日に一回行われました。尋問室に呼び出されると、4人の警官に囲まれ、朝から晩まで休むこと無く、尋問が続きました。本当に長い時間に感じられました。彼らは私を裸にすると、椅子に縛り付け、殴る蹴るの挙句、電気棒でショックを与え続けました。30分もの間、電流が流され続けることもよくありました。髪の毛が逆立ち、肉が裂けてしまうのではないかと感じる程強く引っぱられるのです。そして、胃にあるものを全部戻してしまい、血を吐き、鼻血が止まらなくなるのです。朦朧としてくる意識の中で、さらに辛いことが何度も行われました。彼らは、電気棒を性器の中に面白そうに突っ込み、私を凌辱したのです。

 私が何も言わないのを知ると、彼らは私を独房に入れました。独房には体をようやく横にすることが出来るだけのスペースとトイレ用に掘られた溝があるだけで、窓もベッドも寝具も何もありませんでした。食事は一日に二度、上から小さなパンが放り込まれるだけでした。独房にいる間も一日置きに尋問室へ呼び出されました。いつも突然の外の光に目が眩み、ふらふらする足取りで追い立てられながらやっとの思いで尋問室まで歩いていっていました。私はただひたすらダライ・ラマ法王に祈り続けていました。きっと、必ずダライ・ラマ法王が救って下さるに違いない。それだけが頼みで、そして私を生かせつづけていました。47日間を独房で過ごした後、元の監房に戻されましたが、窓があるというだけで何ら独房と変わり無いものでした。

 半年以上も勾留が続くと私は、精神的にも肉体的にも限界に近い状態になってしまいました。九ヵ月後にはもう歩けませんでした。裁判が行われましたが、それが何月だったかはっきり思い出せません。懲役十年の判決を受けました。私は抱えられたまま、裁判官からの判決を受け、そのまま拘置所に戻されました。弁護士も傍聴人も裁判所にはいませんでした。私の意識は朦朧としていて、体中痣だらけで、立つこともままなりませんでした。そのまま警察病院へ運ばれましたが、あまりの状態に医者も匙を投げる始末でした。


Marc Riboud◆亡命

 私は両親の元に帰されたようでした。気が付くと、両親が心配そうに見守っていました。娘もいました。拘置所の中で一番心配だったのは、なにより一人娘のことでした。私がこのまま死んでしまったら、娘はどうなるのだろうか、そんな心配で眠れない夜がよくありました。両親は、手首や足首の傷跡、首のところの大きな傷跡等を見て、私がどんな目にあったのか分かったようでした。両親は涙にむせながら、警察から私が危篤との連絡が入ったこと、治療を理由にどうにか引き渡してもらったこと、そしてチベット医学院の病院に入院させたこと等を話してくれました。両親との久しぶりの再会は大変嬉しかったのですが、治れば10年の懲役が待っている事を思うと心は晴れず、不安と恐怖で胸が押し潰されそうでした。

 両親は毎日のように、食事を持って来て看病してくれました。神経障害があると言われ、チベットの伝統的な薬を飲み、温泉治療も行いました。そして、治療の甲斐あって、ようやく少しづつ歩けるようになった頃のことでした。皆が寝静まった夜更けに友達がやって来たのです。彼らは、私に今すぐインドへ亡命するように勧めました。治ってしまえばさらにこれから10年間も監獄生活を送らねばならなくなる。今度こそ必ず死んでしまうだろう。再び中国人の手に落ちてはいけない。彼らは、着替える服も車も用意してあると言いました。私は果たしてヒマラヤを越えられるか心配でしたが、このままチベットに残れば間違いなく殺されてしまうだろうと思いました。けれども、娘を残して行くことは出来ません。例え私が途中死んでしまっても、娘は助かるでしょうから、きっと両親に私のことを伝えてくれる手がかりになるでしょう。私は友達にどうしても娘を連れてきてくれるように頼みました。

 逃亡用の服に着替えて、病院の裏口からそっと抜け出すと、そこに車が待っていました。中には何も知らずに眠っている娘もいました。車は静かに動きだすと、裏門から警備の目を潜り抜け、ラサの街の外に出ました。そして、西へと向かいました。5日後に22人の仲間と落ち合い、ヒマラヤの方へと歩き始めました。逃亡は過酷を極めました。私は何度も皆にもう歩けないから置いて行ってくれと頼みました。その度に皆に励まされ、やっとの思いでネパールの首都カトマンドゥに辿り付いたときには、ラサを立って既に2ヶ月が過ぎていました。


◆母の死とダライ・ラマ法王との謁見

 ネパールで1ヶ月程静養した後、チベット亡命政府のあるダラムサラに向かいました。ダラムサラでは、難民収容センターで保護されることになりました。そこには、他にも亡命してきたばかりのチベット人がたくさんいました。ようやく辿り着いてほっとしたのも束の間、私はラサ出身のチベット人からあまりにも悲しい事件を告げられたのです。母が亡くなったというのです。何も知らず中国とネパールの国境あたりを歩いていた時のことでした。母は私が捕まってからというもの心労のため心臓の病いを患っていたのですが、私が行方不明になったことで警官が両親を何度も呼び出し尋問したのです。母はもう耐えられなかったのでしょう。私はショックでただ呆然とし、目の前が真っ暗になってしまいました。

 その日は、ちょうど寺で法要が行われていて、ダライ・ラマ法王も儀式に参加してらっしゃいました。皆はその寺の周りを右周りに周りながら、数珠を手繰り祈り続けていました。私もその列に入ると周り始めました。ちょうど本堂の脇に来たときにダライ・ラマ法王のお姿が目に入りました。その瞬間、私はその場に泣き崩れてしまい、もう一歩も進むことが出来ませんでした。周りの人々が可哀相にという目で眺めていましたが、私は後から後から溢れてくる涙をどうしても止めることが出来ず、ただそのまま法王の方へ手を合わせ続けていました。やがてダライ・ラマ法王が気付いたらしく、お付きの僧侶が私の方へやって来ました。ラサから来たばかりであることを説明すると、ダライ・ラマ法王が話しをしたがっていることを教えてくれました。そして次の日法王との謁見が許されたのです。

 私は娘と一緒に謁見に向かいました。母の死をともらってもらうために、わずかばかりのお金を白い絹のカタとともにダライ・ラマ法王に差し上げました。ダライ・ラマ法王は、娘の頭を何度も撫でて下さり、優しく声を掛けて下さいました。私はチベットでのことを出来る限りお話ししましたが、途中で何度も声が詰まってしまいました。ダライ・ラマ法王は一つ一つの悲しい出来事に相槌を打って下さり、優しい言葉を掛けて下さいました。チベットでは法王にお会い出来ると来世の幸せが約束されると信じられています。私は地獄を抜けて今、法王のお顔を目の前にでき、これでもう大丈夫だと、そして母も無事に来世に生まれ変わることができたにに違いないと思わずにはいられませんでした。


Marc Riboud◆父の逮捕

 母が亡くなってから、父はひどく意気消沈し、家の中でふさぎ込む日々が続いたそうです。中国政府の嫌がらせはますます悪化する一方で、連日のように警官が見回りに来ていました。父は私がインドに亡命したことを人づてに知ると、亡命の準備を密かに始めました。家の家財道具の一部を手伝いに来ていた叔母のために残すと、残りを全て売り払いました。残った大工の仕事は仲間に引き継ぎました。そして1992年2月、巡礼とシガツェの親戚に逢いにいくと言ってラサを離れたのです。父はシガツェまで辿り着くと、そこでジープを借りて国境へと向かうはずでした。ところが、亡命の計画が政府に知れてしまったのです。父はシガツェで追いかけて来た警官に捕まり、ラサへ連れ戻されてしまいました。そして手持ちのお金を全て没収された挙句、サンイップ拘置所に連行されてしまったのです。叔母までもがグツァ拘置所に1週間も勾留されて尋問を受けました。家は隅々まで家宅捜査されたため、滅茶苦茶になってしまいました。父は、1年間拘留された後、懲役5年の判決を受け、ダプチ刑務所に移されました。家には叔母だけが残されました。叔母は日雇人夫として工事現場で働き、仕事が終わると近所の家の洗濯や食器の後片付けを手伝っていました。そうして得たお金で、日用品や薬、食料を買い、月に一度の面会の際に父へ渡してくれていたのです。

 ところが、その叔母が1993年に急死したのです。悲しいことに叔母の遺体をともらう者は誰もいませんでした。父が葬儀をどうしても行いたいと申し出ると、3日間だけ家に戻ることが許されました。3人の警官に囲まれて久しぶりに帰宅した父が目にしたのは、叔母の変り果てた姿でした。無理がたたったのでしょう。十分な葬式をやってあげられる筈はなく、儀式が終わるとすぐに刑務所へと連れ戻されました。チベットの習慣では、人が亡くなると49日までは一週間ごとに法要を行うことになっています。刑務所の中ではまったくできなかったと思います。さぞかし父は無念だったことでしょう。父は最初の1年は豚の飼育係りの仕事を与えられ、その後はガンデン寺の高僧ユーロ・ダワ・ツェリンと一緒に鶏の飼育の仕事をしていました。

 1994年、北京は2000年のオリンピック開催地に立候補しました。開催地をめぐって他国と拮抗する中、世界中から中国の人権問題に対して非難が高まり始めました。中国は、高まる非難に対して、何人かの政治犯を釈放することで世論をかわそうとしました。私の父も3年の刑期を残して11月4日に釈放されました。一緒にセラ寺の僧侶トプテン・ツェリン(71歳)とガンデン寺の高僧ユーロ・ダワ・ツェリン(66歳)も釈放されました。ユーロ・ダワ・ツェリンとトプテン・ツェリンは、1987年、イタリアのTV取材のインタビューに対してチベットの人権侵害や政治問題について語ったため、10年の懲役を下され、ダプチ刑務所で服役していました。

 父は、完全に自由の身になれたわけではありませんでした。毎日当局に出頭せねばならず、一日に一度、ジョカン寺に参拝に行くのが認められているだけで、その他の外出は一切禁じられていました。誰かが父を訪ねることも、誰かと話すことも全く許されていませんでした。父は逮捕された時に没収されたお金を戻して欲しいと頼んだらしいのですが、その訴えが認められたのかどうかは、私には定かでありません。


◆二度目の亡命

 父は再び亡命することを決意しました。密かにトプテン・ツェリンとユーロ・ダワ・ツェリンたちと会合を重ね、計画を練り始めました。どうにかお金を借りて600元(約7200円)を作ると、それをネパール国境までの道案内人であるブローカーに渡しました。

 1995年4月5日、父はラサを発ちました。途中で仲間31人と合流し、車はヤンパチェン、ダムシュン、ジャンナム湖を通って西チベットへ出ました。カイラース山近辺にて、車を降り、今度は徒歩でネパール国境へと歩き出したのです。途中で食べ物がなくなり、父たちは物乞いをしながら食を繋いでいました。そして、約2ヵ月後の6月18日、やっとネパール国境を越え、ネパールの地まで辿り着いたというのに、ネパール警察に見つかってしまったのです。ネパール警察は尋問を始め、何の許可証を持っていないのを知ると父たちを逮捕しました。逮捕された者の中には13歳以下の子供が5人もいました。最年少はドルジェ・プンツォクという5歳になる男の子でした。父たちを乗せた護送車は、カトマンドゥの留置所へと向かいました。父たちは、護送車の小さな窓からカトマンドゥの町並を悲しげに見ているしか術がありませんでした。誰かが、チベット亡命政府のカトマンドゥ支部が見えると叫びました。窓に皆が集まり、覗き込みと、チベット文字の看板が見えます。

「助けてくれ!俺たちをなんとか助けてくれ!」

皆、あらん限りの声で叫びました。けれども誰も出てくること無く、亡命政府の支部は空しく遠ざかっていくばかりでした。

 自由の地に辿り着ける筈だったのに、もうすぐ娘と孫に再会できるはずだったのに、年老いた父の胸はどれほどの絶望感に押し潰されていたことでしょうか。どんなに辛かったことでしょうか。仮釈放の身であった父は必ず再び刑務所に戻る運命にあることのを知っていた筈です。ヒマラヤのあの険しい峠を越えて、やっと辿り着いたというのに。後少しでダライ・ラマ法王にも会うことが出来たというのに。

 翌日19人が中国側に引き渡され、2日後の20日に父を含んだ10人がチベットへと送り返されることになりました。父たちはトラックに乗せられ、中国との国境であるダムへと移送されました。皆、悲しみに暮れた表情で外を眺めていました。なんとか、脱出を試みようとする者もいましたが、失敗した時のことを考えると躊躇せざるを得ませんでした。そんな中、ラトゥ寺のダワ(29歳)はトラックがスピードを落としたのを見計らって、監視人の隙を見て飛び降りたのです。彼は森のなかに即座に走り込みました。ダワは、夜中に人目を避けながら険道を走ってカトマンドゥまで辿り着き、その後ダラムサラに来ることが出来ました。私は彼から父の話を聞きました。父は孫娘の写真を大事そうに持っていたといいます。私と再会して家族3人一緒に暮らすこと、ダライ・ラマ法王にお会いすること等をよく彼に話していたそうです。特に孫に逢うことを本当に楽しみにしていたという事を聞いたとき、胸が強く痛みました。どんなに悔しかったことでしょう。

 父は、再びダプチ刑務所に入れられ、懲役6年の判決が下されました。その後、父がどのように刑務所で暮らしているのか何の手掛かりも無いまま一年が過ぎました。1996年8月1日、アメリカのワシントンDCから放送されているチベット語のラジオ放送局The voice of Americaから父が独房に入れられているという情報を得ました。父は64歳なのです。父の置かれている状況を思うと、いてもたってもいられません。今でも独房から出されたという情報は伝わってきません。出来ることなら私が代わってあげたい。毎日佛に祈り続けています。そして、外国の方々にもぜひ力になって頂きたいのです。どうか父を助けてください。貧しくとも、せめて普通の暮らしが出来るように力を貸して頂きたいのです。心の底からのお願いです。


(2001年、ソナムドカの父は仮釈放された。だが、日に一度公安局へ出頭する以外には、外出は禁じられている。家は当局に没収されたため、親戚に身を寄せているという。)




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2010年06月27日

6月26日、国連「拷問の犠牲者を支援する国際デー」/尼僧ガワン・ワンドゥンの証言

26.6.2010 法王横浜講演 photo Tenzin Choejor/OHHDLこのブログにアクセスして下さっている人の中には、昨日の法王横浜講演に幸運にも参加された方も多いかと思う。

(追記:石濱先生が横浜講演の詳しいレポートをされているのを発見。
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-date-20100627.html

ジェ・ツォンカパの「縁起讃」を講義されたとか、素晴らしいことだ。
ジェ・ツォンカパが空(中観帰謬論証派)の見解を美しい詩にして短く説かれたもの。チベットでは非常にポピラーなお経だ。

「縁起讃」はナーガールジュナの有名な「中論」の帰敬序である「八不」の偈から始まる。

「不滅、不生、不断、不常、不一義、不異義、不来、不出、
戯論の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も優れた人として敬礼す」
(中村元訳)

お聞きになられた方は「縁起=空、空=縁起」の話を少しは理解されたことでしょう。「愛」と「相互依存性」を常に意識することが幸せのカギというわけだ。

法王に直接会えることはもちろん素晴らしいことだが、何よりも仏教は説かれた言葉(法)を第一とする。よくよく何度も法王の説かれた言葉について、お互い考えてみましょう。

法王はこうして世界中に幸福の種を撒きながら遊行される。

で、法王や法王の言葉により、少しは幸せを感じられた方々は、次に少しは法王をはじめとするチベット人の現状を理解し、それぞれができる範囲で可能な限り「虐げられたチベット人たちを助けよう」と思ってほしい。

26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会昨日は国連によって定められた「拷問の犠牲者を支援する国際デーInternational Day in Support of Victims of Torture」だった。

ダラムサラでは「9−10−3(良心の囚人)の会」主催で、昼間はニマ・ロプタで「中国の拷問政策」に関する討論会とツクラカンでの写真展、夕方には中国や世界の拷問禁止を訴え、今もチベット内の拘置所、監獄の中で日々拷問に曝されている人々の苦しみが慈悲の祈りの力により癒され、一日も早く解放されることを祈るキャンドルライト・ビジルが行われた。

「拷問の犠牲者」として、以下に一人の尼僧の証言を紹介する。
これはルンタ・ホームページ上の「(9人の)亡命チベット人たちが語るチベットの真実」の中で紹介されている。
話は私と高橋明美さんが聞き、高橋さんがまとめてくださったものだ。
(少しだけ長い)

写真は昨日の9−10−3の会主催の写真展より。

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26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会尼僧ガワン・ワンドゥンの証言
http://www.lung-ta.org/testimony/ngawang_wangdon.html

 シェラップ・ガワンが亡くなってから、もう何年も経つけれども、一日たりとも彼女のことを忘れたことはありません。シェラップ・ガワンは、わずか17才でこの世を去りました。

私はロカ地方にある小さな村で、1977年に生まれました。私の生まれた村は、チベットの首都ラサからバスで北へ4時間程離れた貧しい村です。村人は、わずかな家畜と痩せた畑からできる農作物より生計を立てています。畑には大麦を植え、それを炒ったツァンパ(麦焦がし)が私たちの主食でした。村には学校が一つだけありました。三年間だけ通い、初等教育を受けることができましたが、村の子供たちは幼いころから、家畜の世話や農作業を手伝わなければならなかったので、学校に通える子供はわずかでした。どの家も貧しく、学校に通わせる余裕のある家はほとんどなかったのです。


◆ 出家

私は、14才の時にラサのミチュンリ尼寺にて出家しました。1991年のことです。両親は大変信仰深かったので、私が出家して尼僧として暮らしたいと話したときも、反対はしませんでした。シェラップ・ガワンも同じ年に出家しました。確か彼女が13才のときのことだと思います。ラサには尼寺が五つほどありますが、当時、すでに多くの尼僧たちがチベット独立のデモに参加し、逮捕されていました。デモに参加すれば、懲役刑を受けるのはもちろんのこと、拷問や厳しい強制労働を味わうはめになることは、みんな承知していましたが、それでもデモを行う者たちは絶えませんでした。私たちの寺からも、多くの尼僧たちがデモへと繰り出し、そして逮捕されていきました。私もいつの日にか、デモをすることがチベット人として当然の義務のように感じるようになっていました。

私たちは尼僧として尼寺で修行生活を送っていましたが、信仰の自由とは名ばかりでした。出家者は厳しく常に当局から監視され、出家者の数も制限されていました。私たちにとって唯一の心の支えであるダライ・ラマ法王への信仰は固く禁止され、写真を所持することも許されず、代わりに共産党教育の講義を寺で受けねばなりませんでした。全ての利権は中国人の手に握られていて、チベット人は自分たちの国であるというのに、中国人の許可がなければ、移動することですらままなりませんでした。1987年9月27日、デプン寺の僧侶たちが、ラサで初めてのチベット独立要求のデモを行うと、次々にデモが続くようになりました。そのほとんどは、僧侶や尼僧によるものでした。出家の身である私たちには、養うべき子供も家族もいないため、みんな喜んでチベットのために犠牲になることができます。シェラップ・ガワンも幼かったにもかかわらず、チベット独立のために行動するという意志は固く、そのためにはどんな犠牲を払うとも構わないと言っていました。


26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会◆独立要求デモ

1992年2月3日、私とシェラップ・ガワンを含めた5人の尼僧、そしてセラ寺の僧侶1人、計6人でデモを行いました。チベット人のデモは過激なものでは全くありません。ただ、ラサの中心地にあるジョカン寺の周りの右繞道(パルコル)で「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王万歳」と叫ぶだけなのです。

私たちが、パルコルでスローガンを叫ぶやいなや、すぐに公安警官たちが駆け付けました。デモはわずか数分のできごとでした。独立要求のスローガンを叫び始めてすぐに、私たちは警官に囲まれ、手錠をはめられ、後ろ手に縛り上げられました。警官たちは私たちを棍棒で殴り倒すと、トラックの荷台へとまるで荷物のように放り込みました。私たちは全く抵抗しませんでした。こうなることは、初めから覚悟していたことなのです。セラ寺の僧侶は頭から血を流していました。ひどく痛むのか、公安の派出所へと向かうトラックが揺れる度に、呻き声を出していましたが、話し掛けることはできませんでした。

公安の派出所では2時間ほど尋問を受けた後、グツァ拘置所に移されました。そこでは、それぞれ別々の監房に入れられました。私は僧衣を全部脱がされて、身体検査をされ、尋問室に連れて行かれました。グツァ拘置所での尋問や拷問の過酷さは有名で、私は最初から覚悟していましたが、遥かに想像を越えるものでした。公安警官が聞きたいことは一つでした。

「一体、誰がデモを煽動したのか」

私はいつも同じ答えを繰り返しました。

「みんなで話し合って決めたことだから、リーダーはいません。誰かに命令されたわけでもありません。自分たちの意志でやりました」

本当のことを言っているのに、彼らは決して納得しませんでした。弱音を吐くまいとがんばってはいたのですが、時にはあまりにも強い痛みに、叫んでしまうこともありました。その度に警官たちから、

「こんな目にあうのがいやだったら、どうしてデモをしたのか」

26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会と顔に唾を吐きかけられ、ののしられました。また、彼らは電気棒を使って拷問しました。電気棒はいろんなところに押し付けられ、その度に肉が裂けてしまうような激しい痛みが体中に走りました。その後、濡れた皮の鞭で体中を殴られました。私が何も答えないのをみると、今度は凶暴な犬を放すぞと脅かされました。彼らは鞭で顔を殴りつけ、体中を蹴りあげました。拷問は数時間続きました。

散々殴られた後、外に連れていかれ、拘置所の塀にむかって手をあげたまま立っているように命令されました。体中が痛み、あげた手はまもなく痺れてきましたが、下ろすと看守から殴られました。みんなはどうしているのだろうと仲間のことだけが気掛かりでした。何時間くらいそうしていたでしょうか。やがて、トイレに行くことが許され、振り返ると、少し離れたところで同じように仲間もそうさせられていました。ひどく殴られたらしく、みんな顔を腫らしていました。日が暮れてくるに連れて、気温は下がり、体中がいたみ、私は涙が止まらなくなりました。外はいつの間にか真っ暗になっていました。仲間の一人が拷問を受けて、さけんでいるのが聞こえました。どんなにひどい拷問を受けても私はしゃべりませんでした。日がとっぷり暮れた後、私は真っ暗な独房に入れられました。誰もいない真っ暗な部屋で、時間はまるで一生続くかのように長く感じました。ときどき看守がドアを叩くたびに、また尋問に呼ばれるのかとゾッとしましたが、私の返事を確かめると去っていきました。3日後、トイレ用のバケツを空けるために、はじめて外に出ることが許されました。5日後から再び尋問が始まりました。同じ質問が繰り返されました。毎回殴られたわけではありませんが、拷問道具は常にテーブルの上に並べてありました。

3ヶ月後にようやく独房から出され、皆と一緒の監房に入れられました。監房にはトイレがついているわけではありません。隅に置かれたバケツがトイレでした。毎朝、一度だけ空にするだけだったので、監房の臭いはひどいものでした。


26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会◆ティサム刑務所

その後、ティサム刑務所に移されました。そこでは労働をしなければなりませんでした。グリーンハウスで野菜を育てる仕事があてがわれました。野菜に肥料を与えるのに、トイレの穴に入り、素手で糞尿を運び出さねばならず、慣れるまでは何度も吐き気を覚え、大変辛い思いをしました。手も服も汚れるのですが、作業の後洗い流すような水は与えられませんでした。

やがて、リーダーとみなされた尼僧プンツォク・ヤンキには7年の懲役刑が下り、セラ寺の僧侶と他の尼僧たちには6年の懲役刑が下り、ダプチ刑務所に移送されました。私とシェラップ・ガワンは、18歳以下の未成年だったにもかかわらず、3年の懲役刑を受けました。

刑務所での生活条件は非人間的で、辛い労働と貧しい食事のため、私はやがて体を壊してしまいました。刑務所には刑務医がいるのですが、医者とは名前だけでほとんど何もしてはくれませんでした。私の体の具合は悪化する一方で、あるとき仕事中に倒れてしまいました。医者が診断をし、わたしはすぐに病院に運ばれました。治療を受けた後、刑務所に戻されたのですが、ずっとその間意識がなかったため、何も覚えていません。看守たちは私がわざとやっているのだと、食事をむりやり口に詰め込んだりしたそうです。

26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会 やがて、私の具合はとても悪くなり、ほとんど動くことも食べることもできなくなりました。再び、病院に運ばれ、肝臓が悪いということですぐに手術を受けました。7日後に抜糸をすることになっていたのですが、傷口は化膿して膿んでおり、痛みは耐えがたいものでした。この抜糸の日に看守が私を刑務所に移送しにやってきたのですが、傷口が化膿しているのをみると、後三日だけ病院にいてもいいと言いました。

病室は刑務所の独房とまったく変わりませんでした。とても小さく、暗く、ほとんど昼か夜かわからないほどでした。この病室に17日間入院した後、刑務所の監房に戻されました。二ヶ月たっても、傷口は化膿したままで治らず、トイレに行く度に激しい痛みに襲われました。どんなに具合が悪くても、刑務所に戻された日から私は働かなければなりませんでした。無理をして仕事をしている最中に、鼻血が止まらなくなり、吐いてしまいました。それをみた看守がようやく一ヶ月間作業を休むことを認めてくれました。

刑務所では早朝5時から広場に集合して、軍隊の訓練のような運動をさせられました。これは体の具合の悪い者も例外ではなく、グランドを走ったり、長時間整列して立っていたりしなければなりませんでした。少しでも動けば、その場で殴られるのでした。すべての号令は中国語でかけられ、中国語がわからず、遅れてしまう尼僧たちは、いつも攻撃の的でした。

◆ 尼僧たちの歌

ティサム刑務所での生活も2年が経ち、1994年8月10日、夜の10時頃ことでした。私たちは歌を歌いました。チベットが独立する日を夢見る歌、監獄のつらさを歌った歌、そしてダライ・ラマ法王をたたえる歌を。シェラップ・ガワンも一緒に歌いました。監獄では政治囚たちは看守にみつからないように、こっそりとよく歌を歌います。誰が作ったのかは知らないのですが、政治囚たちは歌詞をよく知っていました。新入りの尼僧たちに、刑務所ですでに服役している尼僧たちが歌を教える。監獄の長い夜はよくそうやってふけていきました。

ここダプチ刑務所からは空しかみえない

空を流れる雲たち

それが父や母だったら、どんなに素敵だろう

監獄の友たちよ

わたしたちはノルブリンカの花

どんな雹や霜だろうが

わたしたちのつないだ手を離れさせることはできない

いつか必ず雲の後ろから太陽があらわれる

だからそんなに悲しまないで

たとえ太陽が沈んでしまっても

こんどは月が照らしてくれる

だからそんなに悲しまないで

その晩、私たちは隠れて歌ったりはしませんでした。看守に聞こえるようにわざと大きな声で歌いました。そんなことをしたら、どんなことになることかぐらい分かっていました。私たちは、決して看守たちの言いなりにはならない、自由を求める意思を決して捨てはしないと訴えるために、敢えて歌ったのでした。

26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会まもなく、看守たちが部屋にやってきて、私たちは全員外に出るように命じられました。そこで、私たちは精神異常の囚人用の小さな独房に入れられるといわれました。私たちは大きな声で独立要求のスローガンを叫び始めました。看守たちは憤り、私たちを殴り倒しました。そして、ひどい暴行がはじまったのです。私たちは外の広場に引きずりだされると、看守たちに散々殴られました。私たちは手錠をはめられており、あるいは後ろ手にしばられた状態で、看守たちの思うがままでした。あまりにもひどい暴行に、ほとんどのものが意識を失っていました。私は看守から肝臓あたりを思いっきり何度も蹴られました。動けなくなったのを知ると、看守たちは靴でこれでもかというほど、頭を思いっきり踏みつけられました。背中を蹴り上げ、鞭や棒で全身を散々なぐられました。倒れるたびに、起き上がらされ、ひざを立てた状態の姿勢でいるようにいわれました。何人かの尼僧たちは血を吐き、血の海の中で動かず横たわっていました。そんな状況の中でも、看守たちはわずかの同情もみせてはくれませんでした。倒れている尼僧たちにむかって唾をはきかけ、死ぬ振りをするのはやめろといって殴りつけるのでした。それは一晩中続きました。

翌朝、三人の尼僧を除いて、私たちはそれぞれ小さな独房に入れられました。その三人は具合がとても悪かったため、監房にもどされたのです。私は小さな独房に一週間もいなければなりませんでした。部屋はほんとうに小さく、食事を投げ込むだけの小さな穴があるだけで、真っ暗でした。一畳程しかないその牢獄には、トイレ用の溝がある以外、寝具もベッドもありませんでした。

26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会一週間後にふたたび尋問のために、外に連れ出されました。尋問の間、ずっとひざをついた姿勢でいなければならず、そして、電気棒を顔にあてられました。髪をつかまれて、部屋中をひきずりまわされ、壁に強く頭をぶつけられました。そして、体中を蹴りつけられ、強く踏みつけられました。拷問は何時間も続きました。私は鼻からも口からも血を流し、囚人服は血だらけでした。耳は何度も激しく引っ張られたため裂けてしまい、血が止まりませんでした。再び、独房に戻され、そこで一ヶ月過ごさねばなりませんでした。その間、何度も同じような拷問をうけねばならず、看守から呼び出された瞬間に体が震えてしまい、尋問室までまっすぐ歩ける状態ではありませんでした。

26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会◆シェラップ・ガワンの死

一ヶ月後にようやく監房に戻され、久しぶりにあったシェラップ・ガワンはすぐには誰だかわからないくらいに変わっていました。彼女の顔は腫れ上がり、変色していました。言動もおかしくなっていました。記憶もちぐはぐになり、変なことを口走ったりするようになりました。いつも背中や腎臓、胸の痛みを訴えていました。食欲も落ち、最後には何も喉を通らなくなったのです。よく労働作業中に吐いたり、倒れたりしました。看守たちは彼女の容態の悪さを知りながら無視をしていました。何度も同じ部屋の尼僧たちが看守に頼んでようやく、シェラップ・ガワンが病院で診察を受けることが許されました。でも、少し回復したかと思うと、刑務所に戻されてしまいました。また、ガワン・ニィドルという尼僧も病気で衰弱したため、刑期を終えることなく仮釈放されました。ですが、これは刑務所の態度が軟化したせいではありません。ただ、刑務所で死んでしまって責任をとることになっては困ると思ったからでした。

その後も労働作業は毎日のように続きました。私たちは割り当てられた仕事を時間内に終えなければ、食事をもらうことができませんでした。ノルマをこなすためには、一分たりとも休む時間はありませんでした。何度もめまいを覚え、倒れそうになっても、看守は決して休憩することをみとめてくれませんでした。

1995年2月2日、私とシェラップ・ガワンは刑期を終え、村に戻りました。家族との再会は決して楽しいことばかりではありませんでした。ティサム刑務所に服役している間に、私の父が亡くなっていたことを告げられました。家族は私が悲しむだろうと、釈放されるまで教えてくれませんでした。しばらくしてシェラップ・ガワンに手紙を書きましたが、返事は来ませんでした。数カ月後、彼女が4月17日に亡くなったという知らせを受けました。

26.6.2010 拷問の犠牲者を支援する国際デー/写真9−10−3の会私は彼女の家を訪ねました。家には残こされた両親だけがいました。私たちは何も話すことができず、ただ泣いてばかりいました。釈放後、シェラップ・ガワンはラサの病院に入院したけれども、容態は好転しませんでした。そして、約2カ月後の4月17日、彼女は息を引き取りました。痛みで叫びつづけていたとも聞きました。まだ17才というのに、苦しみながら死なねばならないなんて。シェラップ・ガワンを鳥葬した人はこう言ったそうです。「こんなにひどい状態の死体は今まで見たことがない。まだ若いのに、腎臓も肺もボロ布のようだったよ」と。

私たちと一緒にデモをした、もう一人の尼僧も亡くなりました。プンツォク・ヤンキは、逮捕された時、19才でした。7年の懲役刑を受けて服役していたのですが、1994年6月4日に亡くなりました。彼女も1994年2月11日に仲間たちと一緒に歌を歌い、激しい拷問を受けたのです。こうして、仲間の二人が拷問によって亡くなりました。私は寺に戻ることを許されなかったので、仏教の修業と勉学を続けようとインドに亡命することにしました。死んでしまった二人のことを外の世界に伝えねばという思いもありました。ヒマラヤを越えるのは容易ではありませんでした。体の弱っていた私は、道程のほとんどを仲間の背中におぶってもらわねばなりませんでした。

釈放されてから、もう何年も経ちますが、いまだに拷問の後遺症に悩まされています。特に腰と腎臓が悪く、先月も入院していました。どうか、チベットがこんなにも悲惨な状況であることを忘れないで欲しいのです。本当に心からのお願いです。









rftibet at 15:00|PermalinkComments(29)TrackBack(0)ダラムサラ町の出来事 

2010年06月26日

今日はチベットの祝日「地球環境デー(ザムリン・チサン)」

チベッタン・アンテローペ今日はチベットに昔からある「地球環境デー(ザムリン・チサン)」
周りのチベット人は、みんな今日は肉を食わないと言ってる。

チベットは世界でおそらく初めて、環境保護条例を制定した国である。

この辺の事をまとめたよくできたサイトがある。

「チベットの環境破壊」について亡命政府の資料を基にし、写真を多用し、うまくまとめられている。
http://tibet.turigane.com/tibetenvironment.html#
チベットの絶滅危惧種の写真等が載ってて参考になる。

その初めだけコピーする。


チベットの絶滅危惧種 オグロヅル■ 自然と共生してきたチベット人

 チベット人は伝統的に自然を崇まい、関心を抱き続けてきた。チベットに多様な動物と、高原植物が残っていたのはそのためである。この伝統は、宗教的な信念に基づいている。これは、国の政策にも現れている。1944年、チベットの摂政は、伝統的な法令を更新している。

村の長、チベット全域の官吏、為政者は、ハイエナと狼を除くすべての動物の殺生を阻止するように命じる。水に棲む魚類、かわうそ、丘や森の動物、空の鳥たち、生命を与えられたすべての動物たち、大きいものも小さなものも、保護され守られなくてはならない。
如何なる者も、己戌(1896年)に公布された、狩猟5原則と環境保全の法律に従わなければならない。


 チベット人は、常に自然と共に生き、自然から学び、理解しようとしてきた。チベット人は常に、この世界の相互依存性を理解してきた。チベットの多様な動植物、原始林、そして何よりもチベットを源にする多くの大河が、チベットの何倍も大きな地域の安全と生命の源であることを知っていた。自然との共生には、2、3世紀にチベットにもたらされた仏教も重要な役割を果たした。そのため、効果的に自然界の均衡を持続させる原則が、チベット人の日常生活に組み込まれている。
 1642年、ダライ・ラマ5世がチベットの精神的かつ政治的な指導者となった。この日から、毎年10月に、ダライ・ラマの名のもとに「動物と環境保護の法令」が発布された。ダライ・ラマ13世の発布した法令には、次のようにうたわれている。

元旦から、7月30日まで、如何なる者も虎、豹、熊、ハイエナ、鼠、rishu を除いては、様々な空の鳥、丘や森の動物、水に棲む魚やカワウソを、殺すことはもとより傷つけてもいけない。
要するに、貴賎を問わず、誰も、陸の、水の、空の、大小に関わりなく如何なる動物にも、危害を加え傷つけてはならない。


 こうしたやり方がうまく機能している証拠を、チベットを訪問した多くの西洋の旅行者の記録に見いだすことができる。例えば、英国の探検家キングダム・ワルドは、第1次世界大戦の前に次のように記している。

私はこれまで、一つの場所で、これほど多くの種類の鳥たちを見たことがない。まるで大きな動物園のようだ。

ターキン 1940年代には、レナード・クラークは、次のように報告している。

2、3分せぬうちに、次々と我々は、熊、狩猟狼、じゃこう鹿、キャン(野生ロバ)、ガゼル、大角羊、狐を認めたものだ。ここは損なわれていない最後の大きな狩猟の楽園であるに違いない。

 1940年代に、ラサにすごしたヒュー・リチャードソンは記している。

憎しみ、羨み、悪意、無慈悲...といったものの形跡を、これほどまでに見られない所はなかった。人々の大多数は、自然に対抗するのではなく、できる限り自然と共に生きようと努力していた(Richardson 1984)

 チベット人の生き方は、いかなる有情の殺生をも制限している。子供たちは生まれたときから、すべての生命は貴いと教えられる。古典となった「チベットの7年」の中で、ハインリッヒ・ハラーは、今日まで首都ラサを洪水から守ってきた、堤防作りに働くチベット人たちにいらいらを募らせている。

何度も作業が中断した。誰かが、鍬に1匹の虫を見つけるたびに悲鳴をあげるのだ。そのたびに仕事を中断し、虫を安全な場所に逃がすのだ。(Harrer 1984)

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チベットの鉱山開発しかし、こうして心やさしいチベット人たちにより千年以上も守り続けられてきた自然環境も、全く正反対の性格をもつ中国人により、今では取り返しがつかないほどにチベットの自然は破壊された。

中国は、特に西部大開発計画以降、チベットの鉱山開発を至る所で大々的に行っている。
でこでも、地域住民の利害は全く顧みられない。

公害等に堪りかねた住民が抗議を行うと、当局は武装警官隊を送りつけ、暴力的に解散させる。発砲されることもよくある。
これまでに多くのチベット人が武装警官隊の水平発砲により死傷している。
逮捕者も多数でている。

以下はシガツェ地区で今年の5月終わりに起こった、そのような衝突の一つだ。


6月21日付 RFA 英語版
http://www.rfa.org/english/news/tibet/mining-protesters-held-06212010121717.html


<抗議の後逮捕:現地住民の証言が、中国の公安職員のブログで確認される>

以下、抄訳:
カトマンドゥ:現地からの報告によれば、チベット自治区の僻地で、鉱山開発に抗議した住民と保安部隊が衝突し、30人のチベット人が逮捕された。

事件は、5月21日、自治区シガツェ地区のナムリン(南木林)県ウユック・ソチェン(シガツェの北北東約100km)で起った。
この地区では今年4月より名称不明のある会社が鉱山開発を始めた。

この地区の鉱山開発は5.6年前から始められているが、この新しい採掘現場は伝統的にチベット人が牧草地として利用してきた土地であり、また、採掘により普段の飲み水に影響が及んでいるという。

「地元のチベット人たちは何度も鉱山開発を中止するよう当局に要請し、抗議したが、当局は話合いに応ずるどころか、彼らを黙らすために武装警官隊を送り込んだのだ」と住民は伝える。

チベットの武装警官隊現場に10台の武装警官隊を満載したトラックが到着した。
「チベット人たちは追い詰められ、トラックに石を投げた。それに対し、武装警官隊は空に向け銃を撃ち、何人かを逮捕した。大勢がひどく殴られた」

「山に逃げて隠れている者もいる。30人が逮捕され、今シガツェの拘置所にいる。その内の2人はどこかに移され行方が分からなくなった」と目撃者はRFAとの電話で話していた。

次の日の22日には、一軒一軒警官が警告のためにチベット人の家を回った。
現在も現地には武装警官隊が大勢駐屯し、道路は閉鎖されているという。

この事件について、シガツェ公安の役人Wu Chengjianが当日、sina.comの自身のブログ上で報告している。以下そのブログの一部。

「事件は今に始まったことじゃない。人生は退屈になりだした、、、朝、我々が仕事場に着くなり緊急通知があり、建物の前に集まれという。政府の鉱山開発に抗議する村人たちが、村の政府土地委員会の建物を包囲しているという。公安と武装警官が彼らを鎮圧するために集められたというわけだ」

チベットの鉱山開発「おっかない衝突の間、村人たちは自分たちに石を投げ続けた。つばを吐きかけた。沢山けが人が出た」

「全てが終わった時、騒動を扇動した50人の村人が逮捕された。自分たちは疲れていたが、それでも、それから20時間に渡り尋問を続けた。この地区でこのような大きな衝突が起こったのは初めてではない。毎年起こっている。毎年、我々は交渉を行なっている。政府が弱腰になることはできない。こちらは抑えぎみだったが、最後はリアルな戦いとなった」




rftibet at 16:30|PermalinkComments(16)TrackBack(0)チベット内地情報 

2010年06月25日

カルマ・サンドゥップ氏、懲役15年について

b71403ac.jpgたった三日間の裁判により、カルマ・サンドゥップ氏に懲役15年、5年の政治的権利剥奪、1万元の罰金という判決が下された。

中国政府は最近「拷問により強制された自白は無効とする」と宣言したばかりだ。
これは、もちろん中国で拷問による自白が日常茶飯事として行なわれていることを、少しは政府が認めたということでもある。

カルマ氏の弁護士、浦志強氏によれば、今回の裁判には様々な不正が認められたという。
裁判中に、弁護人側から提出されたカルマの無実を証明する書類が取り上げられず、被告も弁護人も知らない誰かが、法廷でカルマ氏に不利な証言をし、さらに、起訴状を精査し反論する時間も与えられなかったという。
起訴状は中国語からチベット語に翻訳されたが、そのチベット語はカルマ氏がはっきり理解できない地方の方言だったともいう。
浦志強氏はさらに、今回の担当検察官Kuang Ying女史に対して、その正当性に疑問を投げかけている。
彼女は地区の検察官ではなく、今回のケースを担当するために特別、新疆ウイグル自治区検察官事務所から派遣されたが、これは規定に反することだと言う。

浦志強は今年1月に被告のカルマ氏との面会が許可されたのち、6カ月間面会が許可さず、2度目に会えたのは裁判の前日だった。
それも、監視付きで30分のみだった。

彼への罪状は「古墳盗掘」だ。12年前の話である。
「古墳盗掘」と聞くと、なんだかカルマ氏が「自分でシルクロードの古墳を暴いて、ひと儲けした」なんて、イメージが湧くが、話はそうではない。
浦志強氏によれば、1998年カルマはウルムチのある骨董屋から、後で問題となる絨毯、木彫り、その他を購入した。
しかし、カルマ氏はその時、それらの骨董品が古墳から盗掘されたものだとは知らなかったという。

この件では1998年にカルマを含む5,6人が検察側から訴えられたという。
しかし、同じ焉耆回族(バルスク・カザフ)自治県イエンチーの高級人民法院はこの件に関し、カルマの無罪を決定している。
他の何人かは有罪とされた。
この時、高級法院で無罪となった、同じケースが今度は中級法院で有罪とはどういうことなのか?
この時、有罪とされた他の者たちの刑期はどれほどだったのか?
疑問点は多々ある。
今回も裁判官はカルマ氏の拷問についての証言を、まったく審議の対象としなかったという。

彼が逮捕された時期が、同じく冤罪で囚われている2人の兄弟を救出しようと動き始めた時期と重なることからみて、彼は当局に逆らうものとして、はめられたと見るのが普通だろう。
死ぬまで獄に閉じ込め、全財産を没収するつもりらしい。

カルマ氏の妻ドルカ・ツォは「これは裁判と呼べるものではなかった、初めから決まっている判決に向かってただ急いで進められただけだった」
「夫に会い話しをしたかった、会って一言言いたかった。私たちのことは心配しなくていい、親戚の全員あなたのことを誇りに思っている、と。しかし、話かけることは一度も許されなかった」と語る。

彼女は10歳と8歳の2人の娘にまだ、「お父さんが捕まえられている」ということを知らせることができず、「お父さんは外国に行っている」とうそをついたままだという。

上告は10日以内に行なわねばならないことになっている。
法廷でカルマ氏は罪状を否認した。
妻と弁護士は必ず上告するという。

明日は国連によって定められた「拷問の犠牲者を支援する国際デーInternational Day in Support of Victims of Torture」だ。
カルマ氏は、昨日載せたウーセルさんのブログの中で報告された拷問以外にも、自白強要のため「真冬に凍る水の中に長時間浸けられた」とも証言している。
私はこれまでに、この「真冬に水の中に長時間立たせる」という拷問に遭ったというチベット人の話を直接沢山聞いてきた。

嘗て中国の公安部に勤め、今は亡命チベット政府の情報省で働くあるチベット人は「拷問技術100選」というレポートを私に手渡した。
中々訳す気になれないレポートだ。

中国は間違いなく拷問大国だ。
そして、浦志強が言うように中国には「法律の上に指導者がいる」。
法治国家ではないのだ。

参照:
http://www.nytimes.com/2010/06/25/world/asia/25tibet.html

http://www.rfa.org/english/news/tibet/sentenced-06242010103713.html

http://phayul.com/news/article.aspx?

http://woeser.middle-way.net/ id=27586&article=Tibetan+activist+sentenced+to+15+years+in+prison

ちなみに、明日は、チベットに大昔からある「地球環境デー(ザムリン・チサン)」でもあり、ギャワ・カルマパのお誕生日でもあるそうだ。

最後になったが、このカルマ・サンドゥップ氏の解放キャンペーンをSFTが行っている。
以下がオンライン署名サイト。
http://actionnetwork.org/campaign/karmasamdrup
署名、よろしくお願いします。


追記:チベットはおそらく世界でもっとも古くから、「地球環境デー(ザムリン・チサン)」を定めた国だ。
この日、チベット人たちは、その地方ごとに聖山と定められる山に新しいタルチョをもって登る。頂上で「地球(宇宙)上に住むすべての有情の幸せと、その環境の保全を祈り」香を焚き、ルンタを空に撒き、タルチョを取り換える。
ラサではこの日、デブン僧院の裏山に多くのチベット人が泊りがけで登ると言う。

BBCからカルマ・サンドゥップのニュースをはじめ、最近のチベット人知識人弾圧に関する、多くのインタビューを含む、かなり詳しいレポートが出された。
英語が聞ける人はどうぞ。
http://www.bbc.co.uk/iplayer/console/b00sr3rc
このうち16分〜22分。

カルマ・サンドゥップ氏は環境活動家としても有名だった。
拷問も受けた。
ウルムチ事件(7月5日)一周年が近いこともこの厳罰に関係があるのか?
これは、すべての記念日への中国当局のたちの悪い揶揄、当てつけか?



rftibet at 19:15|PermalinkComments(8)TrackBack(0)その他 

2010年06月24日

ラサの若者の携帯を公安がチェック/法王長野レポート

追記:24日、カルマ・サンドゥップ氏に判決が言い渡された。
15年の懲役刑+5年の政治的権利剥奪+1万元の罰金。

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昨日、今日のRFAからまだ活字になっていない、幾つかのニュースを短く紹介する。

昨日:
*シガツェ地方の鉱山で鉱山開発に反対する地元のチベット人と武装警官隊が衝突し、30〜50人が逮捕される。

*ラサで若者が公安職員に殴り殺された。政治的抗議の結果かどうかは不明。

今日:
*ラサの町では公安が、最近、盛んにチベット人の若者たちの携帯をチェックしている。
携帯の中に法王等の写真や政治的チベットソングが入っていないかどうかをチェックするためと言う。
携帯の中に法王の写真が入っていたとして、一人の若いチベット人女性が逮捕され、現在ウディドゥ拘置所に拘留中。

*サキャ派のトップ、サキャ・ゴンマ・リンポチェの二人の息子がチベットを訪問するために中国に入った。
二人がカムのミニャやデルゲを訪問するという計画を知り、周辺のカンゼ、タウなどのチベット人が大勢、二人に会うためにミニャやデルゲに向かった。
その数、数千人という。
しかし、5,6日現地で二人の到着を待つも、リンポチェの息子は現れず、みんな「中国が許可しなかったのだろう」と言いつつ、帰途に着いたという。

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2010年6月 法王 長野訪問 写真・野田雅也以下、長野での法王のメディアへの発言など、比較的詳しく紹介してくれてる藤倉善朗氏の記事を紹介する。

写真は前回も含めいつもの野田雅也氏。


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<ダライ・ラマ法王が長野・善光寺を初訪問>

http://www.pjnews.net/news/533/20100623_3
【PJニュース 2010年6月24日】

6月19日、来日中のチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ法王14世が長野県長野市内の善光寺で法要を行った。善光寺は2008年4月に長野市内で行われた北京オリンピック聖火リレーの際、スタート地点となることを辞退。ダライ・ラマ法王は感謝の意を表して釈迦像を同寺に贈っていたが、長野県を訪問するのは初めて。

今回の訪問は、善光寺のダライ・ラマ法王14世招聘実行委員会の招きによるもの。2008年4月に、北京オリンピックの聖火リレーが長野市内で行われた際、善光寺は「一般参拝者への影響が懸念される」ことを理由として、聖火リレーの出発地点となることを辞退した。さらに聖火リレー当日の早朝に善光寺内では、一連のチベット騒乱での死者を追悼する法要を開催。昨年の4月にも同様に法要を行っている。

2010年6月 法王 長野訪問 写真・野田雅也19日午後2時過ぎ、ダライ・ラマ法王は善光寺参道で参拝客らに歓迎されながら本堂に到着した。参道にはチベット人やそのほかの外国人、チベット支援者と思われる人々の姿もあったが、地元の一般参拝者らしき人々も多かった。いわゆる「フリーチベット」イベントというよりも、寺院での宗教イベントらしい盛り上がりといった印象だ。

善光寺の僧侶らとともに本尊前で参拝したダライ・ラマ法王は、同寺への来訪記念で製作された本堂内の砂曼荼羅を前に、チベット僧侶らと開眼法要を行った。砂曼荼羅は、チベット四大僧院のひとつであるタシルンポ僧院の僧侶ら計10名が15日間かけて製作したもので、善光寺の本尊にちなんで阿弥陀如来が描かれている。法要後、善光寺寺務総長・和田正隆氏と共同記者会見を行ったダライ・ラマ法王は、こう語った。

「今日、この善光寺という聖地を巡礼させていただきました。初めての訪問となりますが、このような素晴らしい機会を得たことをありがたく恵まれたことだと考えております。先ほど、一緒に世界平和祈願の法要を営むことができ、恵まれた機会と感謝しております。唯一いただけないのは、とても暑いということと、湿気がとても高いということです(笑)」(ダライ・ラマ法王)

「日本の仏教、そしてチベット、韓国、中国、ベトナムにおける仏教は、釈尊の同じ教えを引き継いでいる国々で、同じサンスクリット語の伝統に基づく教えを維持しているという意味で同じ立場にあります。私たちはたったいま御本堂におきまして世界平和祈願の法要を終えたばかりですが、釈尊の教えに基づいて私たちが真摯な態度で心からその修行を行っていけば、私たち自身の心の中に平和が芽生えていきます。ひとりひとりの心の内なる平和をはぐくんでいくなら、個人が属している家庭もますます平和になります。ひとつの家庭をより慈悲深いものとして、一の家庭、十の家庭と広げていけば、平和的な社会を構築していくことができるのではないかと思います」(ダライ・ラマ法王)

2010年6月 法王 長野訪問 写真・野田雅也報道陣から、「善光寺訪問の理由として、2年前の聖火リレー辞退の件があると思うのですが、その点をどのようにお考えですか?」と尋ねられたダライ・ラマ法王は、「私の日本訪問を政治的なものにしないで下さい」とした上で、こう答えた。

「中国政府は聖火リレーの時点で、私たちチベット政権が彼らを邪魔していると批判していました。そのときすぐに、私は北京オリンピックを邪魔すべきではないと表明しました。中国の方々は非常に素晴らしい方々です。問題はどこにあるかというと、中国政府がとっている全体主義的なシステムです。私たちは反中国ではなく、システムに問題があると言っているのです。胡錦濤国家主席は中国において『調和のとれた社会が必要だ』と何度も強調しておっしゃっています。それは本当に必要とされているものですが、銃を突きつけて脅して作り上げるものではありません。オリンピックの聖火リレーでは、個人の方々がチベット問題の解決に向けて様々な支援をしてくださいましたが、その方々を私は『チベットの友人』とは考えていません。『正義を応援してくれている人々』だと考えています。ですから善光寺の方々が聖火リレーの出発地点を辞退したという行為は、全世界に対して、(中国政府によるチベットでの)不正義がいまも存在していることをアピールする大変素晴らしい行いだったと私は認識しています」(ダライ・ラマ法王)

日本で活動する漢民族のジャーナリストからは、「中国の若者にメッセージを」との要望。

「中国の方々は実践的な面では勤勉で働き者だと思っています。ビジネスも上手で、非常に裕福になられているという一面もあります。加えて、自分自身の中国人としての文化を維持していくという強い精神を感じることができます。1950〜70年代とは違い、現実的なことを知るチャンスが増えていると思います。若い中国人には、両方の眼をしっかり開けて、両方の耳でしっかり聞いて、現実には一体何が起こっているのかということをしっかり見て聞いていただきたい。さらに自分自身で状況を調べる、分析するということをぜひしていただきたいと思います」(ダライ・ラマ法王)

地元メディアから長野県民へのメッセージを求められると、「長野にお住まいの方も、ひとりの人間であるという点で私と全く同じ。私はどこに行っても、私たち人間に基本的に備わっている価値についてお話しさせていただいています」(ダライ・ラマ法王)と答えた。その上で、「聖火リレーの出発地点を辞退するということで、私たちが抱えているチベット問題に心から同感してくださったことに対して、心からの感謝を述べさせていただきたいと思います」(同)と語った。

翌20日、長野市内のホール「ビッグ・ハット」で行われた講演には、約6500人が来場した。21日にダライ・ラマ法王は善光寺裏手の「西蔵宝篋印塔」と善光寺近くの西方寺を訪問。「西蔵宝篋印塔」は、亡命チベット人を日本に招いた多田等観師にちなみ、日本とチベットの友好を願って1964年に建立されたもの。一方の西方寺は、チベット仏画師が製作した立体マンダラ堂が完成したばかり。ダライ・ラマ法王はここで開眼法要と法話を行った。

22日に金沢市内で講演したダライ・ラマ法王は、26日に横浜市内で法話と講演を行う。【了】









rftibet at 17:40|PermalinkComments(9)TrackBack(0)チベット内地情報 

カルマ・サンドゥップ氏の法廷陳述/拷問による自白強要

42fe075b.jpg昨日URLのみ紹介したカルマ・サンドゥップさんの公判に関するウーセルさんのレポートをさっそく、U女史が翻訳して下さった。

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<昨日(6月22日)の法廷で、カルマ・サンドゥプは拷問による自白強要について陳述した>

http://woeser.middle-way.net/2010/06/blog-post_6719.html

昨日の開廷に当たり、法廷に現れたカルマ氏を見た時、夫人の驚きは極度に達した。「もし彼の声を聞かなければ、私はまったく、彼が我が夫だと気付かなかったでしょう」夫人は悲憤を込めてそう語った。

カルマ氏が陳述した、拷問による自白強要の事実は、実に凄惨なものであった。ここ半年程の間、彼は新疆のバインゴリン・モンゴル自治州で拘束されており、チャルクリク、コルラを経て、現在は同自治州内の焉耆回族自治県内に収監されている。尋問は毎日十数時間、90回以上に及び、うち3回だけ腰掛けに座ることを許可された他は全て、吊されたり、身体を反らせたままにさせられるなど、警察によって、曰く言い難い様々な不自然な姿勢の強要による虐待を受け、毎回気を失うまで殴り続けられた。甚だしきに至っては、鼻孔に無理矢理、ある薬物を詰め込まれた。薬物は大脳を刺激し、(頭の中で)大音響が炸裂、目や耳から出血した。警察はそれでも「これは公安部によって使用を批准された合法な薬物だ。こんなもので死ぬことは無いよ」とうそぶいた。

カルマ氏は尋問の後、牢に戻ってからも、休むことはできなかった。関連部門から派遣された所謂"犯罪者"にあの手この手で苦しめられるのである。彼は数分ごとに殴られ、一晩中一睡もできない。これらの"犯罪者"は自称"マフィア"。獄中でカルマ氏を殴るのみならず、彼の行動全て、トイレに行くのにさえ借用証書を書かせる。借金の額面の累計は既に66万元に達した。支払わなければ家と妻子を捜し出し取り立てに行くと脅す。カルマ氏の食べる物をごみのように扱い、蒸パンを床に転がして踏みつけ、汚くなった蒸パンを彼の口に押し込む。硫酸で(溶かして)完全に消してやる、と脅す。

カルマ氏は、「このような残虐な体刑と苦難に精も根も尽き果て、生きる希望すら失わされた」と話した。世界が斯くも残酷で、人心が斯くも悪辣であることを身に沁みて思い知らされ、今が歴史の最も暗黒な時代に退行したのだと感じた彼は、死を覚悟して遺言状を書き、身内に渡して後のことを託そうとした。彼は絶望のあまり確かに遺言状を書いたのだが、警察は未だ、彼の遺言状を身内に渡してはいない。

カルマ氏が、自らの受けたこれらの非人道的な待遇について陳述する様子は極めて平静で、自身の体験を話しているのかどうかすら見極めがたく、まるで遠い過去に起こった恐ろしい出来事について話しているかのようであった。生死はもう彼にとってどうでも良いことのようにも見えた。しかし、陳述を聴いていた彼の親友によれば、これは地獄の如き苦難であった。(法廷にいた)たくましいカムの男達は雨の如く涙を流していた。まして夫人は - 彼女はこの半年余りの間に5回、遠い新疆に通い、心身共に疲れ果てつつも、幼い二人の娘には無理に笑顔を見せていたが、実際のところ最近彼女は衰弱により何度も倒れている - 胸も張り裂け、涙の海に沈まんばかり。2名の通訳も陳述を聴くに忍びず涙にくれ、浦志強、李会清両名の弁護士も涙を禁じ得なかった。

中国の法律、否、世界中のあらゆる国家の法律においては、拷問による自白強要を禁じる明確な規定がある筈だが、実際はどうなのだろうか。

2010年1月3日に逮捕されたカルマ・サンドゥプ氏の裁判は、6月1日に開廷予定であったものが遅延し、同22日に正式に開廷、6月23日現在も審理は続いているが状況は不明。従い、詳細を尽くすことは不可能ながら、昨日の法廷でのカルマ氏本人の陳述について得られた断片的な記録を世に広めるべく、ここに記す。

2010年6月23日 15:40

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尋問の間、拷問が行なわれることは、広く知られているが、このように、法廷で証言されることも、それが法廷から外の世界に直接伝えられることも非常に稀だ。

最近逮捕された知識人たちはもちろんのこと、逮捕された後に程度の差こそあれ拷問を受けないチベット人、特に政治犯はまずいないと思われる。

公安が、外部の拷問専門家(請負人)を雇っているという話は、私も初めて聞いた。
同じマフィア同士、金のために連帯するのは当り前ということだろう。



追記:
カルマの弁護士、浦(Hu)志強氏はtwitter上で逐次裁判の様子を報告されている。
http://twitter.com/puzhiqiang

New York Timesの記事:
http://phayul.com/news/article.aspx?id=27583&article=Tibetans+Fear+a+Broader+Crackdown



rftibet at 11:40|PermalinkComments(14)TrackBack(0)チベット内地情報 

2010年06月23日

カルマ・サンドゥップ氏の裁判が始まる

4593e0ef.jpg6月22日付AP
http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=27571&article=Tibetan+environmentalist+goes+on+trial+amid+claims+of+police+torture

によれば、先日お知らせした、環境活動家カルマ・サンドゥップ(42)
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51467955.html
の裁判が火曜日(6月22日)新疆ウイグルで始まった。
裁判には彼の妻と弁護士が同席を許された。

彼は今年1月3日に逮捕されたのち、新疆ウイグル自治区の焉耆回族(バルスク・カザフ)自治県のイエンチー(ウルムチの南南西約200キロ)で6カ月以上拘束され尋問を受けていた。
妻のZhenga Cuomaoはやつれ果てたカルマを見て「声を聞くまで、彼だと判らなかった」とAPからの電話に答えたという。

カルマ・サンドゥップは法廷陳述の中で尋問中に受けた拷問について語ったという。
「数か月間に及んだ尋問の間、係官は私を撲打し、数日間不眠を強制した。薬を飲まされ、鼻と耳から出血した。数時間、髪の毛だけで吊り下げられた」等と。
この日の法廷は朝10時から、夜11時まで続いたという。

拷問その他についてはもっと詳しくウーセルさんのブログに掲載されている。
http://woeser.middle-way.net/2010/06/blog-post_6719.html
どなたかに訳してもらいたいぐらいだ。

カルマ・サンドゥップ氏の妻ドルカさんその他、カルマさんの奥さんが自身のブログで詳しい報告を逐次更新されている。
http://drolkar.blog.sohu.com/奥さんのつらい心情が察せられ、読むのが苦しいほどだ。
私は翻訳ソフトでしか読めなので、翻訳は控える。

彼は相当痛めつけられたようだ。
それでも、彼は本物のカンパだった。
正気を失わず、生き残り、恐れずにこうして法廷で拷問の事実を証言している。

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追記;朝日の記事

<世界の独裁者、金総書記1位 中国主席10位 米誌番付>

【ワシントン=村山祐介】米外交専門誌「フォーリン・ポリシー」(7・8月号、電子版)は、世界の独裁者23人の番付をまとめ、北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記を「世界最悪」の独裁者に選んだ。中国の胡錦濤(フー・チンタオ)国家主席も10位に入った。

 同誌は、金総書記を「乏しい資源を核計画に費やしながら国民を窮乏させ、数十万人を収容所に送り込んだ」と講評。胡主席は「外国人投資家をほほ笑みと会釈でだます一方、反体制派を残忍に抑圧するカメレオンのような暴君」と評した。2位はジンバブエのムガベ大統領、3位はミャンマー(ビルマ)のタン・シュエ国家平和発展評議会議長。イランのアフマディネジャド大統領は8位だった。

 同誌によると、世界には少なくとも40人以上の独裁者がおり、ランク付けした23人の独裁者の下で19億人が暮らしているという。

朝日新聞 2010年6月23日
http://www.asahi.com/





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2010年06月22日

色受想行識皆空あるいは極楽鳥

Asian Paradise Flycatcher(Terpsiphone Paradisi)male 5今日は金沢で、法王が「般若心経」についての講義をされたはずだ。
「照見五蘊皆空、度一切苦厄」の話だが、この中「五蘊(五つの集り)」は中々解りにくい仏教用語だ。
きっと法王が「五蘊」については説明されたと思うので、下手な解説はよしにして、今日は一つ、この「五蘊」を比喩と共に説かれた、仏の直説を紹介する。

そのまま、経典のコピーを紹介してもつまらないので、一緒にいつものように野鳥の写真を添える。
今日の鳥は普通じゃない。この辺でもっとも美しく、英語名には「パラダイス」が付くほどの極楽鳥だ。
今までこの白いオスは図鑑の中でしか見たことがなく、長らく出会いを恋焦がれていたのだ。
その真っ白い極楽鳥が、法王のTCVでの法話を訳している時、突然窓の前に現れ、それから数日間何度となく現れた。





Asian Paradise Flycatcher(Terpsiphone Paradisi) Male 50cmこの鳥と同じカササギヒタキ科に属する鳥が日本にもいる。三光鳥と呼ばれ、オスの尻尾が長いのも同じだが、色が違う。
日本に夏鳥としてスマトラ辺りからやってくるその鳥は頭部から頸、胸は黒く、紫色の光沢がある。他の上面は赤紫色の光沢がある褐色で、下尾筒は白い。
この鳥は「フィチイ、フィチイ、ホイホイホイ」とさえずる。昔の人はこの声を「月、日、星」と聞いて「三光鳥」としたそうだ。「フィチイ(月)、フィチイ(日)ホイホイホイ(星星星)」と言うわけだ。昔の日本人のセンスは冴えてたようだ。

Asian Paradise Flycatcher(Terpsiphone Paradisi) Male 50cmこの辺りにいる三光鳥は英語で「Asian Paradise-flycatcher」と呼ばれ、色はメスが栗色でオスが白。オスの尾羽は長くリボン状に伸びる。もっとも、三歳までのオスはメスと同じ色という。本によればオスは長い飾り尾羽を持っていることになっているが、この飾り尾羽を持たないオスも見つけた。オスの飾り尾羽は「渡り」の前には抜けると日本の三光鳥の説明にあるが、この辺の種にこれが適応できるかどうかは定かでない。

Asian Paradise Flycatcher(Terpsiphone Paradisi) Male 50cmとにかく、この白いオスが枝から枝へと飛びまわる様は、まるで小さな、まぼろしの白い天衣(カタ)が、空中に遊ぶように、漂い、舞っているが如くに見え、特別の感慨をもたらすのだ。
なんて、大袈裟になって「まぼろし」を追いかけるという典型的な例だね、私は。
過たぬ縁起が現れた、まぼろしのこの世はほんまに美しい!

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Asian Paradise Flycatcher(Terpsiphone Paradisi) Male 50cm阿含経、「実践に関する章」その三「ありのままに見ること」より
訳・山口益


ある時、世尊はアヨッジャー国にあるガンジス河の岸辺に住んでおられた。

そこで、世尊は比丘たちに告げたもうた。
「比丘たちよ。たとえばこのガンジル河が大きな泡のかたまりを生起するとしよう。眼有る人は、これを見、静観し、ありのままに観察するとしよう。かの人がこれを見、静観し、ありのままに観察するとき、空無にこそ見え、空虚にこそ見え、実なきものにこそ見えるだろう。比丘たちよ、泡のかたまりに、どうして堅実があろうか。

 比丘たちよ、ちょうどそのように、凡そ色(物質)にして過去せるもの、未来のもの、現在のもの、内なるもの、外なるもの、粗大なもの、微細なもの、劣れるもの、勝れるもの、遠きにあるもの、近きにあるもの、それを比丘が見、静観し、ありのままに観察する。かれがこれを見、静観し、ありのままに観察するとき、空無にこそ見え、空虚にこそ見え、実なきものにこそ見える。比丘たちよ、色において、どうして堅実があろうか?

Asian Paradise Flycatcher(Terpsiphone Paradisi)Male 2 比丘たちよ、たとえば秋季に密雲あって天が大雨を降り注ぐ時に、水面に水泡が生じ、かつまた滅するようなものである。眼有る人はこれを見、静観し、ありのままに観察するとしよう。かれがこれを見、ありのままに観察するとき、空無にこそ見え、空虚にこそ見え、真実なきものに見えるであろう。比丘たちうよ。そのように凡そにして、過去せるもの、未来のもの、現在のもの・・・乃至…遠くにあるもの、近きにあるものがあるが、比丘はそれを見、静観し、ありのままに観察する。かれがこれを見、静観し、ありのままに観察するとき、空無にこそ見え、空虚にこそ見え、真実なきものにこそ見える。比丘たちよ、どうして受に堅実があろうか。

Asian Paradise Flycatcher(Terpsiphone Paradisi)Female 2 比丘たちよ、たとえば夏季の最後の月の日中時に、かげろう(陽炎)が立つときに、眼有る人がこれを見、静観し、ありのままに観察するとしよう。かれがこれを見、静観し、ありのままに観察するとき、空無にこそ見え、空虚にこそ見え、真実なきものにこそ見えるだろう。・・・乃至…比丘たちよ、陽炎に、どうして堅実があろうか。
 比丘たちよ、そのように凡そにして・・・乃至・・・。

 比丘たちよ、たとえば人あって、堅材を欲し、堅材を求め、堅材をさがし求めて出かけて行き、鋭利な斧を持って林の中に入るとしよう。かれは其処で、大きな芭蕉の幹が真直ぐで新鮮で、巨大な高さのを見るとしよう。そしてかれはその根を伐採するとしよう。根を伐りおとして木の尖端を伐採するとしよう。尖端を伐りおとして樹皮を剥ぎとるとしよう。かれが樹皮を剥ぎとるとき、樹膚をすら得ることはなかろう。いわんや核をや。

Asian Paradise Flycatcher(Terpsiphone Paradisi) Male 50cm 眼有る人はこれを見、静観し、ありのままに観察するとしよう。かれはこれを見、静観し、ありのままに観察するとき、空無にこそ見え、空虚にこそ見え、真実なきものにこそ見えるだろう。比丘たちよ、どうして芭蕉の幹に核があろうか。

 比丘たちよ、このように凡そにして過去せるもの、未来のもの、現在のもの・・・乃至・・・遠きにあるもの、近きにあるものがある。比丘がこれを見、静観し、ありのままに観察するとき、空無にこそ見え、空虚にこそ見え、真実なきものにこそ見える。比丘たちよ、どうして行に堅実があろうか。

 比丘たちよ、たとえば手品師あるいは手品師の弟子が、大道において手品を見せるとしよう。
眼有る人はこれを見、静観し、ありのままに観察するとしよう。かれがこれを見、静観し、ありのままに観察するとき、空無にこそ見え、空虚にこそ見え、真実なきものにこそ見えるだとう。比丘たちよどうして手品に真実があろうが。

Asian Paradise Flycatcher(Terpsiphone Paradisi) Male 50cm 比丘たちよ、このように凡そにして過去せるもの、未来のもの、現在のもの・・・乃至・・・遠きにあるもの、近きにあるものがある。比丘はこれを見、静観し、ありのままに観察する。かれがこれを見、静観し、ありのままに観察するとき、空無にこそ見え、空虚にこそ見え、真実なきものにこそ見える。比丘たちよ。どうして識に堅実があろうか。

 比丘たちよ、有聞の聖弟子はこのように見て、色において厭い、受においても、想においても、行においても、識においてもまた厭う。厭うて離欲する。離欲より解脱する。解脱して解脱しおわったという智恵がある。更にこの状態に生まれることはないと知る」と。

 世尊はこれを語りたもうた。善逝はこれを語って、師は更にこう語りたもうた。

おまけのフクロウ色は泡沫のあつまりの如し
受は水泡の如し
想は陽炎の如し
行は芭蕉の如し
識は手品の如し
日種族の(世尊の)所説なり。


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ブッダ自身が灼熱のインドの大地を遊行する様が思い浮かばれる。

rftibet at 19:30|PermalinkComments(7)TrackBack(0)その他 

いつまでも遠い島国、日本を眺めつつ

善光寺 20.6.201020日、長野の善光寺で行なわれた法王の法話の主題はどうやら、密教やクリヤーライトではなく、(いつもの)「良き心」についてだったようだ。
英語では題が「Positive Clear Light」と書かれていたので、自分で勝手に誤解していたらしい。
それでも、ひょっとして「仏性」の話はされたのかな?それとも善光寺に引っかけた、ちょっとした洒落だったのか?きっとそうに違いないが、それにしても英語圏の人たちは誤解したまま、「法王は長野でクリアーライトについて説かれた」なんて言ってるかも?
日本の各新聞社は「相互理解の大切さ」(中日)とか「幸せの鍵は愛と慈悲の心」(信毎)とか説かれたと短く伝えている。

とにかく、日本では詳しいレポート御法度の雰囲気があり、外部には中々詳しい内容は伝わりにくいようだ。
これは、解放的ティーチングを目指す、インドやアメリカなどとは異なる点だ。

20.6.2010 法王日本訪問ダラムサラでは今回の法王の日本訪問に合わせ、亡命政府TVでは、2008年の日本訪問を1時間物にまとめたドキュメンタリーが何度か流されている。
これを見ていて幾つか気付いたことがある。
まず、その服装である。
この年には二か所で高校生を前にした講演をされていたようだ。
みんな黒い制服を着ていた。
黒い僧衣のお坊さんも常に目立った。
それに黒っぽいスーツの紳士たち。
見た人は「日本って制服の国なんだ。それも黒い服ばかりだな、、、」と思ったに違いな。大げさに言えば北朝鮮のようだった。
日本人はよほど黒が好きらしい。それも直線強調の制服ばかりで硬いイメージが残る。

法王は案外日本でも法話以外は英語で講演されているということも分かった。
法王は、つたない英語でも直接聞いて感じてほしいと思い、そうされているのだろう。
しかし、それを聞いてる日本人たちが映し出されると、何だかみんな上の空で、初めから聞いてないことが明らかだ。
眠りこける僧侶や、ふざけ合ってる高校生も映し出される。
「日本人は制服着て礼儀正しそうに見えるが案外話しは聞いてないようだ」なんて誤解?するチベット人もいるかもしれない。

2010年6月 法王日本訪問この「英語を解さない日本人」という話は今回、長野で法王が直接話題にされたようだ。
「この中で私の英語が解る人は手を上げて見て下さい」と法王。
何人か、きっと韓国人とか、台湾人が手を上げただろう。
恥ずかしそうに手を上げた日本人も、何人かはいらっしゃったであろう。

そこで法王「ふうん、少ないな、、、」

「日本人はもっと英語を勉強して、せまい国内にとどまらず活躍の場所を広げるとよい。
私の英語はブロークンでも世界中どこでも直接コミュニケーションができることの利点はとても大きい」
とか話されたと聞く。

その他「日本は技術的に進んだ国だが、若者が過剰なストレスと孤独感に悩んでいる。
自殺者が増えているとも聞いている」
とか「世界の共通語である英語を学んで、アフリカやラテンアメリカなど外の世界に飛び出して貢献してほしい」
と言った発言をされたようだが、
これと同じ話しを2008年にもされている。

法王の日本での様々な発言から、法王の「日本、日本政府、日本人」に関する認識を想像してみた。
まず日本については「経済的に発展し、物質文明社会の典型。外にものは溢れているが、案外、心は貧しく、心に悩みを持つ人が多い国」と思われているらしい。もっともこれはアメリカとかも同じようなものだろう、どこに行かれても「幸せは物質的豊かさのみによって達成されるものではない。心を豊かにして初めて幸福になれる」と説かれている。
しかし、日本ではこの発言が特に目立つ。

政府については「中国を怖がっているというか、歴史的問題の上に経済的・文化的依存関係も強いので、ま、こんなものだろう。あんまり政府を困らせたくないし、、、」
「それにしても、もう50年前から14回も来ているのに、何も変わらないとは、ちと寂しいか、、、」なんて思われてるかどうか?

日本人については「みんな礼儀正しく、行儀がいい。でも、ちょっとまじめ過ぎて、時に面白くない。ジョークを言わない。空の話になるとみんな眠そうになる。これはチベット人に似ていて、西洋人とは違う。僧侶たちは一般に一緒に写真を撮ったり、儀式をすることが好きで、仏教を勉強することにはあまり興味がない。一般に政治に興味がなく、人権とかには特に興味がないようだ。
英語ができない。そのせいか、世界のことを案外よくしらない。自殺者が多い」
なんて、勝手な想像ばかりのようだが、半分以上は法王がいつか、どこかでおっしゃったことである。
もちろん、ポジティブな感想も多々あろうかと思われるが、ここではそれは省いた。思いつかないからかな、、、、

実際、亡命後法王を初めて外国に招待したのも日本だし、すでに14回の御訪問で、同じ東洋人である仏教国日本に対する親しみは相当深まっておられることであろう。
最近は毎年訪問されている。訪問の度に、のべ数万人の日本人が法王の講演会に参加している。

だのに、日本人のチベット問題に対する認識や支援の現状は、他国に比べお粗末この上ない状態が続いている。
チベットのデモに参加する人の数はたったの数百人。最近世界的キャンペーンが行なわれている、テンジン・デレック・リンポチェ解放要請署名運動についても、世界ですでに4万人の署名が集まったと言うが、きっと日本の貢献度は多くとも0.5%ほどにしかなっていないと思う。
もっともこの状況は宗教面でも同様で、これほどいつまでたってもチベット仏教が広まらない先進国も珍しいほどだ。

サポーターや宗教面ではお隣の韓国とどっこい、台湾はずっと先を行っている。
韓国には一度も法王は訪問できず。台湾にも数回行かれただけだ。

これには、いろんな要因が考えられるが、大多数の「日本人は英語ができない」ということが、
大きなハンディーになっていると私も考える。

最近の若い人は英語より、中国語を習う人が多くなってると聞くが、、、


RFAなどでは、良いことも伝えている。
「ケグド地震の犠牲者への慰霊祭が行なわれた」ことと
「登山家として世界的に有名な野口健氏がSFTJ主宰のイベントで“人権に国境はない”と発言した。彼は中国の嫌がらせに負けない数少ない日本人だ」というニュースは内地のチベット人を喜ばせたことであろう。


























rftibet at 14:00|PermalinkComments(9)TrackBack(0)その他 

2010年06月20日

チベット天珠の王、逮捕

カルマ・サンドゥプ以下、まず6月11日付phayulに掲載された、ガーディアン紙の記事の訳。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=27478&article=Chinese+government+urged+to+release+Tibetan+environmental+activists&t=1&c=1
<中国政府、著名チベット人環境活動家の解放を迫られる>

人権ウォッチ(Human Rights Watch)はカルマ・サンドゥップ、リンチェン・サンドゥップ、及びジグメ・ナムギャルの解放を要求した。
http://www.hrw.org/en/news/2010/06/10/china-drop-charges-against-tibetan-environmental-philanthropist

人権ウォッチは、中国政府に対し、世界の屋根の脆弱な環境システムを保護するために中心的役割を果たしてきた、三人のチベット人環境活動家の解放を要求した。

最近逮捕されたカルマ・サンドゥップは裕福なチベット人美術品収集家であり、黄河、揚子江、メコン河源流地域の環境保護を推進する「三河源生態保護協会」の創始者でもある。
彼のグループはその環境保護貢献により、幾つかの賞を受賞している。
フォード自動車が「ホンコン・地球の友」と共に主宰する環境賞も受賞している。

今年初め、彼は12年前の、一旦は無罪とされた、文化財盗掘の嫌疑により逮捕された。
6月1日に行なわれる予定であった彼の公判は延期された。
彼が逮捕されたほんとうの理由は、彼が先に逮捕された2人の弟の解放を執拗に要求したからだと言われている。

彼の2人の弟である、リンチェン・サンドゥップとジグメ・ナムギャルは去年8月逮捕されている。
2人は、彼らの主宰する、カムのボランタリー環境保護団体「アンチュン・センゲナムゾン」が、「地域の政府の役人たちが、隠れて絶滅危機種に指定されている野生動物を狩猟していること」を公表しようとしていた時、拘束された。

ジグメ・ナムギャルは21カ月間の労働再教育を言い渡され、現在労働キャンプで働かされている。
彼の罪状は「危害国家安全罪」とされ、当局は彼が環境、資源、宗教に関する情報を不法に入手し、陳情を組織し、ダライ・ラマ支持者にプロパガンダ情報を渡したとした。
リンチェン・サンドゥップは未だ裁判も行なわれないまま拘束されている。

「今回の一件は中国政府を試す、テストケースだ」と語る、人権ウォッチのアジア担当官であるソフィー・リチャードソン氏は
「彼らは中国政府が求める、現代チベット人の有るべき姿を体現していた人々だ。経済的に成功し、政府に認められた文化、環境面の活動しか行わず、非政治的だ。それなのに彼らまで非合法とされたのだ」とコメントした。

中国の環境保護活動家が危険に晒されるということは、公害キャンペーン活動により賞を与えられた、ウー・リーホンへの当局の対応を見ても分かる。
最近3年の刑期を終えたばかりの彼は、刑務所で暴力を受けたことを証言している。

「Xie Lixinという政府の保安役人は私を柳の枝で鞭打ち、タバコの火を押し付けた。Wang Kewei という男が私の頭を壁に打ち付けた。Shenというもう一人の男がうその自白を引き出すために殴りかかった」と。

ウーは江蘇省のタイ湖の汚染を取り除くために貢献したとして、2005年人民議会において「環境戦士」として讃えられた。しかし、彼はその後、恐喝罪に問われた。

中国の市民社会は厳格に統制されている。中央政府は環境関係のNGOに地方政府や工場が環境規制を守らない時には、それを告発することを奨励していた。
しかし、中央政府の権限も限定的で、NGOは地方の公安の役人から社会の安定を乱すと訴えられやすい。

中国政府の環境保護副大臣であるZhang Lijunに対し、ガーディアン紙が、この問題を問い正した。しかし、彼は個別のケースについてコメントすることを拒否した。

「中国政府はNGOが環境保護の活動を行なうことを奨励し、支援している。
法律に従う限り、彼らが環境保護に努力することを政府は支援する」と彼は話した。

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カルマカルマ・サンドゥップの個人弁護士であるPu Zhiqiangは、5月31日、彼との二度目の、ほんの短い面会を許された。
Puは「その仏教的信念により、彼は10年でも監獄で耐え続けることができよう。しかし、20キロもやせていた」と語ったという。
面会はほんの数分で、監視カメラがすぐそばにあったという。

彼はチベット人から「シィー(天珠)の王」と呼ばれていた。
彼は、日本でもチベットのお守りとして少しは有名にもなった、この目玉石のマーケットをコントロールする男だった。
「世界的にも、個人として彼ほどチベットの美術品を収集、所蔵している者はいないであろう」とウーセルさんも言っているほどだ。
彼は実際、「チベット文化博物館」を個人で建てようとしていた。

中国政府からも賞をもらい、チベットのセレブとして北京にもよく招待されていた。
そんな彼が逮捕され、すでに半年近く、拘束されたまま、家族との面会も許されていない。

2008年以降、当局の弾圧の対象は当初、僧侶、尼僧、路上での抗議者だった。
それから学生、農民、遊牧民をターゲットにした。
最近では作家などの知識人がターゲットとされている。
すでに30人のチベットの知識人が逮捕された。
これは文革以来かつてなかった規模の知識人弾圧だ。

そして、今や、この政治的弾圧は彼のような「潜在的対抗勢力」、「隠れ抗議者」に対しても行われるようになったと言えそうだ。

このケースについてはウーセルさんが詳細なレポートを何度も出されている。
http://woeser.middle-way.net/2010/06/blog-post_18.html
http://woeser.middle-way.net/search?updated-max=2010-06-08T12%3A01%3A00%2B08%3A00&max-results=30
http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/asia/article7141677.ece
http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=27422&article=Old+charge+resurfaces+against+prominent+Tibetan







rftibet at 17:30|PermalinkComments(9)TrackBack(0)チベット内地情報 

クリアーライト

db636260.JPG今日は、確か法王は長野の善光寺で「クリアーライト」についての講義をされたはず。
法王が海外でタントラの話をされることは稀なので、日本の方々には貴重な機会となったかと思う。
とかく誤解を招きやすいタントラとかクリアーライトについて、少しでも正しい知識に近づければいいのではないかと思う。

ダラムサラから今回も4人ほどチベット人ジャーナリストが法王の来日に合わせて招待(高橋さつきさんの個人招待)されているので、ダラムサラにも日本訪問の情報は逐一入っている。

たとえば、東京のホテルで法王をお迎えした牧野議員が自慢の耳たぶを法王に両方とも引っ張られる、というシーンも政府のテレビで流されていた。

もちろん、同時に「今回も政府要人との面会は一切予定されていない」というコメントが付けられた。
「前回のアメリカ訪問の時にはオバマ大統領がホワイトハウスに迎えたというのに、この違いは何か?」なんてJapan realtimeが出した記事をPhayulが掲載したりした。
この記事
http://phayul.com/news/article.aspx?id=27510&article=No+Official+Welcome+For+The+Dalai+Lama
石濱先生がブログで訳されている。
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-date-20100618.html

小沢氏が下りて、その代わりに枝野幸男さんが幹事長に就任したというので、ひょっとして、と期待されたサポーターの方もいらっしゃったと思う。
中国政府さえ、「チベット支援に関わっている議員が幹事長に就任した。これは警戒せねばならぬ」なんてコメントしてくれたほどの出来事だった。

しかし、管首相は鳩山氏の「東アジア共同体」構想を引き継ぐと明言したしで、サポーターは期待しても無駄だと言われたようなものだ。

もっとも、我々日本のサポーターもいつも、議員さんたちに何のロビングもサービスもしないで、ただ期待して持ってるだけという欠点がある。
もちろん、代表事務所はこの機会をとらえ積極的に枝野さんとかにアプローチされているであろうと察するが、ことNGOとなると、枝野さんはおろか牧野さんに対してもほとんど何のロビングもサービスもやってないというのが現状でなないだろうか?

諸外国に比べるとこの差は歴然としている。
外国では、NGOは政治家を動かしてなんぼと思われている。
各地域の代表部と一緒に、みんなよく働いて、その結果オバマ大統領を始め各国の首相とか大臣に法王が会うことができているのだ。

どうせ日本は仏教も政治もこんなもの、と私を含め、諦め顔の人も多いのかもしれない。
だが、今、もしかしてチャンスなのかもしれない。少しでもいいから日本政府の中国やチベットに対する態度、見解を正しい方向に変えさせる努力を為すべきだと思う。

日本の政治家が中国を怖がって法王と会おうとしない、というニュースはRFAなどを通じてチベット内地にも伝えられている。このニュースが彼らを勇気づけないことは確かだ。

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以下、ITSNからのお願いとイベントの紹介。

親愛なる日本のチベット支援団体(及び個人サポーター)の皆様へ
(ロンドン/若松様訳)

現在ダライ・ラマが訪問中の日本の皆様へ、他の国の支援団体に先駆けて、メッセージをお送りします。

ダライ・ラマ法王75歳のお誕生日のお祝いに、すでに様々な催しが企画され、実行に移されているようです。

ITSNではお誕生日の特別なお祝いとして、以下のようなキャンペーンアクションを提案します。
皆様のお祝いの催しやイベント等で、どうぞ、ご活用ください。


1.オンラインアクション;
ダライ・ラマ法王の75歳のお誕生日に世界的な政治支援を要請するオンラインアクションです。
ITSNではアクションのサイトとアクションを広めるためのビデオを作成しました。
オンラインアクションでは、ダライ・ラマ法王/胡錦濤主席会談実現を、世界で最も影響力のあるG8リーダーに(欧州議長を含む)要請します。
会談が実現することによりチベットの将来に関する現実的な協議の進展をはかる意図があります。

アクションのオンライン署名にサインしてくれるよう以下のリンクを広めることができます。
* 署名アクションのリンク;http://org2.democracyinaction.org/o/5380/p/dia/action/public/?action_KEY=3434
* アイ・ラブ・チベットのサイトからwww.ihearttibet.org/ilovethedalailama.
署名にサインすると自動的にこのページに誘導されます。こちらでは法王様へお誕生日のメッセージを残すことが出来ます。

* この他、皆様のウェブサイトのテンプレートから直に署名ページへリンクすることも可能ですのでITSNまでご連絡下さい。campaigns@tibetnetwork.org 指定のウェブサイトにテンプレを用意させていただきます。

2.オンライン、ダライ・ラマ75'ビデオ:www.dalailama75.org をクリックすると,自動的にアクションの署名サイトに誘導され上記のアクションの参加を呼びかけます。
署名サイト;www.dalailama75.org
PV ビデオ;http://vimeo.com/12579487(英語)
PV ビデオ;http://vimeo.com/12669706(日本語)
youtube; http://www.youtube.com/watch?v=DoPXhzGGpJQ.
どのビデオも皆様のサイトやブログで簡単にご紹介頂けるようなっていますので、広くご紹介ください。

3.議員、著名支援者からのお誕生日のお祝いの言葉:
いくつかの大きな支援団体では、議員、宗教指導者、著名人(音楽家、俳優、セレブ)からのお祝いの言葉をまとめる作業が始められています。
どうぞ、皆様のところに寄せられたメッセージも以下のような方法で共有してください。

*サイトの掲示版にメッセージを残す;http://www.ihearttibet.org/dalailamabirthdaymessage
* ITSNサイトhttp://www.tibetnetwork.org/resources-losar2137 
(日本語のFree Tibet Japanからも;http://freetibet.holy.jp/wp-content/uploads/Windhorse_Template1.pdf
からダウンロードできるルンタを色々な紙にプリントしてイベント会場等で、それぞれメッセージを裏に書いてもらい、ディスプレイとする。

法王様のお誕生日は ' World Tibet Day' (世界チベットデー)でもあります。さらに詳しく知りたい方は www.worldtibetday.org を御覧下さい。または info@worldtibetday.org までメールでお問い合わせ下さい。

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と、ITSNで思い出した。
6月12日のテンジン・デレック・リンポチェに関するエントリーの中に訂正すべき間違いがありました。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51464483.html

「チベット側の情報によれば、姉妹は一人の兄(または弟)に対し、自分たちが北京の中央政府にもリンポチェの無罪を訴えたと語ったという。
兄は姉妹にその訴えを続けるように勧めた。彼自身もすでに26の省庁に無実を訴える手紙を送ったという」と訳した部分。

原文にthe two sisters told their brotherとあるが、この「brother 」を私がリンポチェとは別の兄弟の誰かと勘違いしてしまい、上記のような訳をしてしまった。
このでいう「brother 」とはリンポチェ本人のことでした。
だから、ここは
「チベット側の情報によれば、姉妹は兄(のリンポチェ)に対し、自分たちが北京の中央政府にもリンポチェの無罪を訴えたと語ったという。
兄(リンポチェ)は姉妹にその訴えを続けるように勧めた。リンポチェ自身もすでに26の省庁に無実を訴える手紙を送ったという
と言うことになる。

なお、先の16日、ITSN日本コーディネーターの鎌田さんとSFT代表のツェリン・ドルジェさんその他が中国大使館に出向かれました。
以下、鎌田さんからの報告です。

昨日(6月16日)、午前9時、SFT-Jのメンバーと私で東京麻布の中国大使館前で
上記既集約分、約36000筆の署名を、ベルリン(ドイツ),デリー(インド),フランクフルト(ドイツ),ロンドン(イギリス),ニューヨーク(アメリカ)、東京(日本)、トロント(カナダ)とワシントンD.C(アメリカ)の各地に於ける一斉行動の一環として提出してきました。

署名総数は提出前37,438筆でしたが、昨日午後、目標数の4万筆に達しました。皆様のご協力に深く感謝いたします。

また皆さまにご協力いただきました、この署名提出を支持し、アピールするチベット支援団体の賛同署名をマスコミ、外務省など関係先に送付しましたのでご報告いたします。署名に連名された皆様にこの場をお借りして深く御礼申し上げます。
なお、皆さまからお預かりした署名の原本は、このあとロンドンのITSN本部に集約されます。

ご協力ありがとうございました。

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以下、イベントのお知らせ。


ダライ・ラマ法王生誕75年 祝賀特別記念行事

「チベット 砂曼荼羅の世界」+野田雅也写真展


細かい色砂を盛り、仏教の世界観を描く砂曼荼羅(マンダラ)をご存知ですか?

6月29日〜7月4日までの6日間をかけて、南インドから来日したチベット僧たちが、チベット仏教美術の頂点である砂曼荼羅を、相田みつを美術館にて公開制作します。

息をのむほどの緻密さと鮮やかさ、そして世界平和の祈りをこめて制作する僧侶たちの姿などを間近に見ることのできるたいへん貴重な機会です。最終日に行われる、制作した砂曼荼羅をいっきに壊してしまう破壇の儀式は必見です。

その他、チベット仏教の声明、説法、仮面舞踏、瞑想セッション、そして連日の講演会も行われます。

同会場では、野田雅也写真展と難民の子どもたちが描いた絵画展も開催されます。チベットの伝統文化が盛りだくさんのこの6日間を、どうぞお楽しみください。


フォトジャーナリスト 野田雅也

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2010年6月29日(火)〜7月4日(日)

【砂曼荼羅】10:00〜18:30
(6/29は14:00から。7/3は16:30まで。7/4は15:30まで)

【会 場】相田みつを美術館 第2ホール

【入場料】1日券 1,500円/通し券 5,000円

【主 催】ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 / 相田みつを美術館


「チベット 砂曼荼羅の世界」の詳細はこちら
http://www.tibethouse.jp/event/2010/sandmandala2010.html#river

相田みつお美術館
http://www.mitsuo.co.jp/museum/index.html

□ 6/29(火)19:00〜20:00
「感性脳を飛翔させるチベット仏教の美」 大橋 力(脳科学者=音楽家・山城祥二)

□ 6/30(水) 19:00〜20:00
「対 談」龍村 仁(映画監督)・有本 香(ジャーナリスト)

□ 7/01(木)19:00〜20:00
「モンゴル人はみなチベット仏教徒」宮脇淳子(モンゴル史家・学術博士)

□ 7/02(金) 16:30〜18:00
特別講演 「パンチェン・ラマについて」

□ 7/02(金) 19:00〜20:00
「チベット仏教のマンダラ」石濱裕美子(早稲田大学教授)
















rftibet at 15:00|PermalinkComments(7)TrackBack(0)その他 

2010年06月18日

続・TCVホール、法王のティーチング

チベットの土の電柱 1985年、ウーセルさんのブログより 6月2日分、以下、先日の続き。

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「夢」や「雷光」や「雲」のよう、と言われるは、
我々の執着の対象を三時(過去、現在、未来)に分け、各々を喩えて言うのだ。

現象(法)を三時に分けるなら、例えば、まず、過去と言われるは、、、今、10時10分だから、これ以前が過去だ。
「夢は記憶の対象」と呼ばれる。
過去は記憶の中にあるだけで、他のどこにもない。
全て滅してしまった後だ。
そうだろう。
昔、こんなことがあった、と思いだし、ひどく腹を立て。
あんなこともあったと思いだし、執着心をおこす要はない。
怒りや執着の対象はもう過ぎ去ってしまい、もう、今ここにない。
夢の如しだ。
夢の中でこんなこと、あんなことがあったからと言って、その対象に怒ったり、執着するものじゃない、ということだ。

雷光「雷光」と譬えられるのが、「今・現在」だ。
今、実際に快不快の感覚が生起しているとしても、それはほんの一瞬のことでしかない。

「三時(過去、現在、未来)」という概念は、教義哲学の中でも取り上げられる。
説一切有部の三時を「実有」として見る見解が一つ。経量部の「現象は全て現在である」とする見解が一つ、というように、三時の定義も様々だ。
帰謬論証派は三時を「有為の事象」と捉える。
これらはそれぞれ深く考察された結論としての見解だ。

何れにせよ、「今」というものは、探そうとすると見つけられないものだ。
今は、、、2010年の8月、、じゃない6月(2日)の、午前10時と11分として、、、その1分=60秒のうち何秒かはもう過ぎ去った、、、一秒先がやってくる、、、。
1/2000秒の今(シャッタースピード?1/2000?で、飛ぶ?鳥の?今?を捕えた?今日?の一枚?)

時を区別して、年、月、日、時、分、秒と(範囲を次第に狭めて)探してみても、「今」は見つけられないじゃないか。
一秒前はもう過ぎ去った。一秒後は今から来る。
「今」をどこに定位させ得よう?

「今」が見つけられたか?
見つけられないだろう。
時と言うものは次から次へと生滅し、じっとしていてくれないものだ。
だから、時(過去・未来)というも、一つはもう過ぎ去ったもの、もう一つは今からくるものだ。
「今」はどこにもない。
「今」がなければ「過去」や「未来」をどうやって設定することができるのか?
「今」を基準に、その先に来るものを「未来」と呼び、過ぎ去ったものを「過去」と呼ぶのではないか?
過去・未来の設定・施設が不可能になる。
「今」がなければ、時はよりどころを失うことになろう。

2.6.2010 TCV Hallだから、「今」という現象には、分析智によって得ることができ、これだと言って指さす事のできる実体はないのだ。
深く考えない世俗の概念作用により(仮に)設定されているだけなのだ。
(世俗においては)こうして、今の秒が設定できる、今日も設定できる。今週が設定でき、今月が設定できる。
今年が設定できる。
さらに、今生が設定され、過去にあった前生、未来に来る来生が設定される。
これらはすべて、概念作用により、言葉によって仮設されているだけであり、対象(客体)の側にそのような何かが本当にあるわけではない。
そうじゃないかな?

過去とは夢の如くに過ぎ去ったもの。
夢とは記憶の対象でしかない。
「今」は「雷の光」のようなものだ。
一瞬でしかない。

雲「夢」、「電光」、、、次に「雲」の如し、と言われる。

我々のいう「未来」とは、今から新しく起こるであろうことについて、こんなになったらいいなとか、こう言うことにはなってほしくない、とか思い煩う「思い」でしかなく、未だ生じてはいないものだ。
例えば、どこかの空に「雲」が浮かんだからと言って、それだけでそこに「雨」が降るわけじゃない。
雲がある場所、全てに雨が降るわけでもない。
様々な条件が揃うことに依り、次第に条件が揃うことにより、その雲が雨の基体になるだけである。
これと同じように、有為の未来の事象とは、沢山の因や条件が集まることに依り、生起するのみである。
「未来に順序はない」と言われるはこのことだ。

しかし、自分たちは、過去の記憶の対象に執着したり、怒ったりする。
或は、今、現在の感覚に従い、目の前の対象に執着や怒りの心を起こす。
さらに、未来の、まだ生起していない事柄を想像して、心配や期待の心が捉えるものを対象として執着や怒りの心を起こす。
このような執着や怒りの心に対する、対治としてこれらの比喩が説かれたのだ。

雲(三時の)有為の事象(現象界)はまるで「夢」や「電光」や「雲」のようだと、、、
有為が執着や怒りの主な対象であるから、それらが無常の性をもつものであり、苦しみの性をもつものであり、自性、本質のないものであることを説くことにより、そのようなものに執着や怒りの心を起こすべきではないと教えているのだ。
執着の対象として指さすことのできる、実在するものは何もない。

この自性がないという話で、、、例えば、ちょっと考えてみるといい。

怒りが治まる前に見る相手と、怒りが治まった後に見る、同じ相手の印象に違いがあるかどうか?
考えて見るといい。
また例えば、いつもは親しくしている相手について、ある人があなたに「あいつは本当は悪い奴なのだ。お前に悪意を抱いている。厭なやつだ」という話をしたとして、その後その人に会ったときどう感じるか?
何か、変わった感じがあるか?
いつもは、会えば笑い合うような仲でも、そんな話を聞いた後では、「本当はこいつは悪、バカなんだ」とかの思いが起こって、会って笑いあっても、それも形だけのものとなり、心から笑えなかったりするんじゃないかな?

また、昨日まで好きでもなかった人のことを、誰かが「あの人はあんたのことを非常に褒めてた。あんたのことがよほど好きなようだ」というと、次に会った時には、昨日まで見ていた同じ相手のようには見えないことであろう。
思いに依って同じ対象でも印象が随分違って来るという例だ。

2.6.2010 TCV Hall逆に、いつも、悪い奴だと思っている人について、誰かが「彼はこのような立派なことをした」と言っても、「そんな訳はない。あいつは本物の悪だ。そんなことある訳がない」と思うかもしれない。
怒りの対象の醜さは、あたかも不変であるが如く、心に浮かんでいることの証拠だ。
不変、固定的なイメージがあるので、誰かが「あいつはいい奴だ。人が変わった」と言っても、「そんな訳がない」と考えるのだ。

その固定的な醜悪イメージは、対象の側に客観的に備わっているもので、因や条件に依存しない、本来的なもののように、心に現れているものだから、突然、「あいつはいい奴だ」と言われても、納得できないというわけだ。

このことから、執着や怒りの対象が不変で、独立して、言葉の力に依ってのみ存在するのではなく、客観的に対象の側から、不変のものとして、元からそうであったように心に現れ、現れに従って「その通りだ」と思い、自相をつかむ、そのような心を基にして執着や怒りの心が起こるということが解る。

これが要点だと思うか?
一つ、解ったか?

虹だから、仏教が「中観の見解」(空=無自性=縁起、中道)を説く、その主目的は、みんなの心を、執着や怒りを起こす基になる実体・自性から解放することであり。心を覆う無明を晴らすためである。
執着と怒りの心を完全に消し去るためには、まずこの(ない)実体をつかむという心を無くさなければならないのだ。

中観帰謬論証派の、世俗にも自性を認めない、という究極の見解に従い、
色即是空、空即是色、色不異空、空不異色」という四重の空を、見解の深まりとしての四段階として説くやり方がある。
まず「色即是空、空即是色」と説かれるは、色(物質的現象)そのものが実体を欠いた空なのだというのだ。
ここで、「空の基体」である、あちら側に現れている「色」を、「有る」ものとしておいて、それが勝義には成立しない、勝義(本当には)にはないのだと言うならば、「色即空」にならないだろう。

二万頌般若経(二万五千頌?)に「色は空によって空にされるのではなく、色がそのまま空なのだ」と言われているように、対象として現れている各々の色を分析するのではなく、言説上の存在をそのまま、「有る」として、これが勝義として成立しないのだと言うならば、「色が空によって空にされた」ことになる。
向こう側にあたり前のように現れている、その色そのものを、言葉に依ってあるだけだ、あちら側には指さすことができるものはまったくないのだ、と決定されるとき、「色即空」が成立する。
ここは、肝心なとこだと思わないか?
「色は空によって空にされるのではなく、色がそのまま空なのだ」と、般若心経の中に「色即是空」と言われるはこのことだ。

灯明一方、「空即是色」と言うは、「色」は自性が空であり、他の条件に依存して成立しているが故に様々な「色」、様々な変化が生じることができると言う意味だ。


我々は「色即是空」、色(物質)というと、何か外の物を指しているような気になることだろう。
ここで、言葉を入れ替えて「我即是空、空即是我」(我=自己=私)としてみてはどうか?
こう考えてみるといい。どうだろう。
「我」とか「私」と言われるものはある。
では、一体「私」は本当にはどこにあるのだろうと探してみると、、、「私」は見つからない。

自分の身の中に、頭の先から足の先まで探して見ても、「私」が見つけられないことははっきりしている。
では、「私の心」が「私」なのか?といえば、「心」にも粗いものから微細なものまで色々ある。
覚醒時の心(意識)がある。夢を見ている時の心がある。熟睡時の心がある。
さらに、死に行く時の心がある。生まれる時の心がある。
心には粗いものから、微細なものまで色々ある。
この中で、私というのはどの時のことなのか、と指さそうとしても、その対象は特定できない。

死の瞬間のもっとも微細な光明(ウーセル/クリヤーライト)の心が本当の私なのじゃないかと言っても、これも難しかろう、「私の光明」とかいうだろうし。
さらに、光明は現れる時もあり、消え去る時もある。(それに従い)「私」が現れた、「私」が消えた、とは言えないだろう。
光明が消えた時に「私」が消えさるわけじゃないだろう。
こうして、考えて行くと、「私」は身の中にも指さす場所がなく、心の中にも指さすべきものが全く何もないではないか。
じゃ、私は一体どこにいるのだ?
「私即空」。

一方、私が空であるが故に、特別の自性がないが故に、他に依ることによって成立する様々な「私」が設定できる。
五蘊に依って私は設定されているが故に、「私は男だ」「私は女だ」「私は老人だ」「私は老婆だ」「私は若者だ」「私は僧侶だ」ということができるのではないか。
五蘊に依って名付けられたものでないならば、「私は老人だ」「私は若者だ」などと言えないはずだ。
「私は男だ」「私は女だ」と言えないはずだ。
「男・女」は身体に依って名付けられているものであって、心に依って名付けられているのじゃないよな。

このように、「五蘊に依ってある私」を設定することができるから、身体が病気になった時「私は病気になった」ということができるし、身体が病気から治ったときに「私は治った」ということができるのだ。
心が不快な時「私は不快だ」と言え、心がハッピーな時に「私はハッピーだ」と言うことができる。
もしも、(五蘊と私が)お互い依存しながら存在しているのではなく、無関係とすれば、心が快・不快を感じている時「私が快だ、不快だ」ということもないことになろう。
「私」というものが、永遠で、唯一で、独立した、例えば、「魂(Soul、アートマン)」と呼ばれるようなものであるならば、身と心が完全な解放に至った時にも、「私が解放された」ということはできないことになろう。
「魂」というものがあるならば、一般の俗なる有情の魂は、いくら努力しても俗なる魂のままであって、仏になる、涅槃を得るということはあり得ないこととなろう。
俗なる普通の人の心が聖なる菩薩の心になると言うこともないことになる。

五蘊に依って「私」は(仮に)設定されているが故に、心が変わることに依り、単なる俗人が聖なる菩薩へ、阿羅漢へ、そして最後に仏になるということが可能なのだ。
「私」は心身に従い設定される。だから、心身が変わることにより「私が変わる」と言える。
このように理解して「我即是空、空即是我」と口ずさめば、何か効果があるかな?

「色」というと外を指さすが、(同様に内なる「私」を指さすとしても)「私」は真実に存在し、独立して、主人のように身体と心を持つという思いと共に「色即是空、空即是色」と唱えても、[無・何もない]のかな、とか思うぐらいのものかもしれない。
「我即是空、空即是我、我不異空、空不異我」と、ここでいう「空」は「一般的空」のことじゃない。
「我=私」の「空」のことだ。
一般的空というものはない。一般の空性というものもない。
基体(対象・客体)から離れた空性自体というものはどこにもない。
基体から離れた空性があるなら、空性が勝義に存在する、実体的に存在すると言えることにもなろう。
空性にも自性はない(空の空)とは、「空性とはある具体的な基体の存在の仕方について言ってるのであって、基体に関係ない、基体から離れた空性というものは設定できない」ということだ。

「我即是空、空即是我」とは、まず、「我」を求めて見つからない状態が「我」の上の「我即空」。
一方、「我」は「空」だから、「我」が存在することができるのだ。これが「空即我」。
「我」が「空」であって、他に依って存在しているが故に、「我」に様々な変化、進歩もありうるのだ。


月と雲空を瞑想する目的の中心は「我(真実存在・実在)執」を無くすためだ。
「我執」が無くならなければ、執着と怒りの心は無くならない。
ナーガールジュナもおっしゃっているように
「業と煩悩とか滅びてなくなるから、解脱がある。
業と煩悩とは分別思考から起こる。
ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。
しかし、戯論は空においては滅びる」


というわけだ。

(中論第十八章、第五偈、中村元訳)

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以下録音切れの故、略。

続きは金沢で行なわれる「般若心経」講座でお聞きください。

マリア様が最近訳された法王解説の「中論」とか読んで、法王の講義を聴く前に、しっかり「空」について予習しておいてください。


追記:この訳はほんの試訳程度、参考程度です。
当方の理解不足による誤訳もあることでしょう。不適切な訳語もあるでしょう。
変な箇所があれば、もちろん、それは間違いなく「法王が間違われたのではなく、訳者が間違えたのだ」と了解して下さい。

ただ一つ、今回最後に珍しく法王の勘違いを一つ発見したのだ!
それは最後に引用されている、ナーガールジュナの一偈。
この時、法王は「確か、これは中論の第二十四章にある」とおっしゃった。
そこで、私はこの一偈を見つけるために「第二十四章」を漁った。
しかし、二三度読み返しても見つからない。

仕方なく、始めから、ページを繰り直し、やっと、「第十八章」の中に、この一偈を見つけ出した。

だから、法王だって何かを、勘違いをされることもあるということだ。
(ほんまに、稀な現象ではあるし、あったとしても上記のようにどうでもいい類の間違いだ)


そんな、法王の間違い、勘違いを探しながら、特に空のお話を聞くと言うのはどうでしょう?

もし見つけられたら、報告して下さい。


そうだ、観音菩薩などの化身が我々に何かを悟すために、わざと間違った言動や行動をされることをチベット語で「ゼバ・テンバ」という。
さしずめ今回は、私のようなものに、中論全部を読み返す機会を作り出すための方便として勘違いされた、という解釈が成り立つのでしょう?







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2010年06月16日

法王と一緒に葉っぱをお皿に食事会

15.6.2010 H.H. at Tsuklhakan法王の日本ご訪問も間近。
だから、今日も法王の写真を沢山載せよう。

昨日、午前11時、ダラムサラ、ツクラカンの前庭にダライ・ラマ法王が、お出ましになられた。
法王をお迎えして、チベット人が多く住むマクロード・ガンジ(上ダラムサラ)の町にあるインドやチベットの様々な市民団体が主催する「ダラムサラに来られて50年になる法王に感謝を示し、健康と長寿を願うという催し」が行われた。
町の団体とはインド人側は地元のインド・チベット友好協会、タクシー協会、ホテル協会等。
チベット側はウ・ツァン協会、カム協会、アムド協会。

15.6.2010 H.H. at Tsuklhakanまずはじめに、法王の目の前でインド式の護摩が焚かれた。
この護摩供養は法王の健康と長寿、及び他のチベット人全ての健康と幸福、意願成就を祈願するというものだった。



















15.6.2010 H.H. at Tsuklhakan昨日は天気が良かった。朝から日差しが強かった。
そんな中で目の前で大きな火を焚かれて法王は少々、引き気味。

後で行なわれたスピーチの中で法王は「今日はこうして、地元のヒンドゥー教徒の人たちが我々のために、護摩を焚いて下さった。
この護摩を焚く(アグニを捧げる)という供養は我々チベットの密教においても全く同じように行われる。
護摩を神仏に供養することにより“素早く善なる目的が達せられる”と言われている。
本当にありがとう。

ま、今日は天気が良くて、少し暑い、そんな時に護摩を焚くと、もっと暑くなる、ちょっと大変、ということはあるがな、ハハハハハ、、、」とコメントされた。

15.6.2010 H.H. at Tsuklhakan以下、続けて話された昨日の法王のスピーチのすべて。

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 我々チベット人は亡命者となって51年になる。このダラムサラに来てから、もう50年以上になる。
この間、一般的にはチベット人はどこへ行って住もうと、その地域の人たちと仲良くやってきた。
ちょっとした問題が確かに起こったことはある、そういうこともたまにはあるだろう。
インドの中だけでなく、スイスにも60年代からチベット人は移住したが、みんな地元の人たちと非常に仲がいい。その他アメリカ、カナダ、オーストリアとかどこでも地元の人たちはチベット人を好きになっている。

15.6.2010 H.H. at Tsuklhakan内地のチベット人たちは恐怖や不信の状況下に暮らしているにも関わらず、チベット人は元来やさしいのでみんな好きになっているではないか。沢山の中国人もチベット人を好きになっている。

チベット人は周りの人たちがなぜチベット人を好きになるか、という理由、根拠を知っておくべきだ。
チベット人は金持ちだからと言って、好かれているわけじゃない。
チベット人はよくものを知っている、特別に知識が豊富だと言って好かれているわけでもない。
15.6.2010 H.H. at Tsuklhakanまた、チベット人は特別カッコイイとかいう理由で好かれているわけでもない。
そうではなくて、チベット人の心根が一般的に言って、正直で、謙虚で、誠実で、時に人に害を与えることもあるかもしれないが、それでも心の中でそのことを良いとは思わず、後悔するというようなものであるからだ。
どこに住もうと正直に生き、人をだまさず、害心を持たず、愛情深いなら、こういう人を動物だって好きになるであろう。
これが、チベット人の価値だ。
だから、チベット人は誰でも、自分たちの価値をはっきり認識しておくことが大事だ。

15.6.2010 H.H. at Tsuklhakan中にはちょっとばかり生活が豊かになって来た人もいるかもしれないが、チベット人としてのこの心の価値を失ってしまえば、何の意味もない、台無しだ。
だから、我々はチベット人の真の価値を認識して、生活の仕方は変わるであろう、経済的な変化もあろう、その中で、周りの人に好かれるチベット人の心の価値に目覚め、常に気を付け、それを決して衰えさせないということが非常に大事なことだ。

我々は先祖代々伝えられてきた善なる資質を衰えさせることなく、その精髄を守り、その上に21世紀の知識と技術を修得し、時代に追いつくことが大事だ。

もう何回も言ってきたことだが、我々は亡命の身となり、流離いの人となり、一方で悲しい状況の中にある。
しかし、一方で復とない機会を与えられていると考えることもできる。
この好機を十分に活用するための支えを与えてくれているのは、主にはインドの中央政府や地方政府だ。
しかし、実際には多くを日々こうして接している地元の人たちの支えに依っているのだ。
だから、ここで再び、インドのみなさんへ、特に地域のみなさんへ、また今日の食事を用意して下さった人たちに、お礼を言いたい。

15.6.2010 H.H. at Tsuklhakan今日は特別にこの後、施食会(ストゥン)があるという。
これはインドに昔からあるよい慣習だ。
かつてシャカムニ・ブッダもこうして何度も食事を施されたであろう。
さらに、ナーガールジュナやアーリアデーヴァをはじめとする、我々の智慧の目を開かせて下さった、ナーランダ大学の賢者たちも(チベットの伝承においては、この二人もナーランダ出ということになっている)このような布施を受けながら命を保っていたであろう。
だから今日は彼らのそのような生活を思い出させてもらういい機会になろう。

時に、今の我々はかつてシャカムニ・ブッダやナーランダの17人の賢者たちが味わったことのない食べ物も食べている。
彼らが食べたことのない食べ物を食べることができるとは、非常に運がいい!ハハハ、、、

15.6.2010 H.H. at Tsuklhakanオオ、ヤ、、みなさん、ありがとう。

食事はみんなの分もあるのか?
(はい、全員分用意してあります)
そうか、みんな食べれるそうだ。
腹の準備はできているか?
私は腹が減った。準備ができているぞ。
ハハハ、、Thank you!


15.6.2010 H.H. at Tsuklhakan












15.6.2010 H.H. at Tsuklhakan法王がみんなの前で一緒に食事をされるということは稀だ。
ダラムサラのチベット人にとってはこれはまたとない、観音菩薩の食事風景を観察する好機となった。







15.6.2010 H.H. at Tsuklhakanチベット人は法王が笑いながら元気よさそうに食事を摂られるのを前にして、手を合せたりしていた。年よりの中には涙を流しながらじっと見入っている人も沢山いた。







15.6.2010 H.H. at Tsuklhakan突然現れた、インドの女の子が法王にサインを所望。











15.6.2010 H.H. at Tsuklhakan
















15.6.2010 H.H. at Tsuklhakan素足の法王











15.6.2010 H.H. at Tsuklhakan地べたに座り、みんなと一緒に葉っぱの上のインド飯を手で食べていた、右から、亡命政府の外務大臣、防衛大臣、保健大臣。







15.6.2010 H.H. at Tsuklhakanこの前、ミス・チベットで騒いだ、ロプサン・ワンギェルもいつものピンク・シャツを着て、宴会に加わる。

この日、ツクラカンでただ飯にありついた人の数は1000人ほどか?

6種類ぐらいのダル豆カレーが葉っぱの上に配られた。
法王の食事も同じ見たいだった。
法王以外はみんな手で食べていたが、法王は残念ながらスプーンを使われていた。

15.6.2010 H.H. at Tsuklhakan

























15.6.2010 H.H. at Tsuklhakanこの日、プジャを仕切っていたヒンドゥー教の司祭たちと記念写真。

それにしてもインド人は濃いね。
もっとも、何だか、我々は普段チベットのタンカに書かれた姿から昔のインドの賢人たちを想像するけど、ブッダをはじめ、ナーガールジュナとかアーリアデーヴァとか、チャーンドラキールティとかシャーンティデーヴァとか、アティーシャとかパドマサンバヴァとかも今で言うインド人だから、ほんとうはこの法王の周りに写っているインド人と同じような濃い顔つきだったのでしょうね。

15.6.2010 H.H. at Tsuklhakan地面に描かれているのはマンダラの一種とも、原型とも言えるヤントラ図形。









15.6.2010 H.H. at Tsuklhakan











15.6.2010 H.H. at Tsuklhakan

rftibet at 15:30|PermalinkComments(21)TrackBack(0)ダラムサラ町の出来事 

2010年06月14日

ダライ・ラマの仏教講座/TCVホール

2.6.2010 TCV ホールできれば日曜版として昨日載せるつもりだった、仏教シリーズ?の一つ。

以下、6月2日TCVホールで行われた、ダライ・ラマ法王のチベット人学生を対象とした「仏教概論講座」の一部を訳したもの。

法王はこの日、二つの偈を基に仏教を要約して説かれた。

最初の一偈
སྡིག་པ་ཅི་ཡང་མི་བྱ་ཞིང།
དགེ་བ་ཕུན་སུམ་ཚོགས་པར་སྤྱད།
རང་གི་སེམས་ནི་ཡོངས་སུ་འདུལ།
འདི་ནི་སངས་རྒྱས་བསྟན་པ་ཡིན།

不徳な行ないを一つも為さず
徳を円満し
己の心を完全に統御する
これが仏の教え


このお経འདུལ་བ་ལུང་རྣམ་འབྱད།の一節を解説することで、修行の要点を要約された。
(この部分略)
次の一偈に入り、以下のように説かれた。

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ではどうやって心を制御すべきかと言えば。
「縁起の見解に依り、根本から心を制御すべき」と説く。
そこで、

法王སྐར་མ་རབ་རིབ་མར་མེ་དང།
སྒྱུ་མ་ཟིལ་བ་ཆུ་བུར་དང།
རྨི་ལམ་གློག་དང་སྤྲིན་ལྟ་བུ།
འདུས་བྱས་ཆོས་རྣམས་དེ་ལྟར་ལྟ།

現象界というものは、
星や、目の翳、燈し火や、
まぼろしや、露や、水泡や、
夢や、電光や、雲のよう、
そのようなものと、みるがよい。


(རྡོར་རྗེ་གཅོད་པ།金剛般若経・中村元、紀野一義訳)

と、ここに比喩を使って、心を制御する方法が見解の側面から説かれている。
仏教では間違った見解として:不浄を浄と見、苦を楽と見、無常を常と見、無我を我と見るという4つを上げる。この4つは苦しみの因となる。この間違った4つの見解を無くすためには、正しい4つの見解を得なければならない。もっとも、ここでいう無我は粗いレベルの無我だが。何れにせよ、究極的には、すべての現象の自性は空であるという正しい見解を得ることにより初めて実現され得る。

この一偈では空見が比喩をもって示されている。この一偈は全ての仏教学派が共に引用するものだ。だから、それぞれの学派の空観に従い、それぞれ微妙に異なった解釈が行なわれる。この一偈は「金剛般若経」の中にある。

カルマ意味はまず、最初に「星(カルマ)」というは、空に浮かぶ星のことだが、星は太陽が沈んだ後に初めて現れる。そして我々は闇の中にその小さな輝きを見る。しかし、太陽が昇っている間、「星」の姿はない。
このように、我々が自分と他人、善と悪、輪廻と涅槃とかいうも、すべて、分析しないときにはあるように見えるが、分析し、その実際の有様を正しい智によって、その究極の実体を見つけようとすると、見つけられない、求められない。

「中論」(ナーガールジュナ著)の中に「諸仏は二諦に依って、衆生のために法を説く。一つは世俗諦、もう一つが勝義諦」と説かれ、この二つが一つの現象(教え)の二つの側面であると説明される(約教の二諦説)。一方「入中論」(チャンドラキールティ著)の中では「現象の虚実性を見たものは、現象を二つの自性として捉える」と説かれる(約境の二諦説)。正理の分析を受けない時の世俗の自性と、正理智により分析されたのちの勝義の自性というように、ものごとには二つずつの自性があるとされる。

このことを「星」に例えたのだ。正理の分析を伴わない心とは、無明とその薫習(習慣性)に侵された心のこと。そこには様々な現れが生じる。対象は実体的に現れる。空を直接体験する人の無対象の禅定以外の心は、すべて惑わされた心と呼ばれる。無明に侵された心ばかりだ。この闇と等しい無明の中にある心には、世俗の現象が「星」のように、様々な姿とともに現れる。その同じ心という空(そら)に、以前暗闇に「星」が沢山見えていたそこに、存在の有様を正しく分析する智という光が満ちることによって、様々な「星」の現れが消え、自性が消え去っただけの、空性一味の虚空という現れが生じる。「星」に譬えられる概念の現れが消え、空性(トンバニ)の現れが生じる。これが、太陽の光により「星」が消え、一つも見えなくなるという比喩よって現わされている。
「星」というはこのことだ。

ラプリク次の「目の翳(ラプリク)」は、実体論者の以下のような反論に対する答えとして使われる比喩だ。
「星にも色んな違いがあり、我々はそれを識別することができるではないか。心の対象としての現象は対象側から客観的な存在として特別の自相を持って現れるではないか。我々を含めた、実体論者から世俗レベルに実体を認める学派まで、すべて、もの(事物、事象)は真実存在であると主張する。世俗は成立している。ほら目の前にこのように現れ出ているではないか」と言って指で、その対象を指し示したりする。彼らの心は遠い昔からずっと対象が実体的に現れ続けてきたという習慣性に侵されている。そこで「ほら、ここにあるじゃないか」と根拠・基体として指さすものがあると思っている。「対象が自相をもって現れることはずっと前からあたり前のこととして世間に知れ渡っているではないか」という。

これに対し、我々は「対象があちら側から現れているように見えるからと言って、本当に対象側に実体があるわけではない」と主張する。「対象を見る側の心が、無明とその薫習により侵されているから、そのような現れが見えるだけだ」という。もちろん、無明から自由になった阿羅漢の心にも現れはある。これは無明の薫習からまだ自由になっていないので微細な現れがあるのだと説明される。
無明とその無意識の習慣性に侵されている、騙された心には「無明により真如が覆われているのが世俗」と言われるように、現れはあるが、それは、無明に侵された心の上に現れているだけであって、本当にあちら側に何かが有るわけではない。

例えば、それは「目の翳(ラプリク、時に眼病)」により目が侵されている人には、翳が見えたり、髪の毛が降るように見えるのと同じだ。目が正常な人にはその現れはない。
例えば、目にゴミでも入った人には向こうに黒っぽいものが見えることもあろう。向こう側から翳が現れるように見えるが、これは器官としての目に問題があるのであって、あちら側に何かがあるわけではない。眼医者がそのゴミを除けば、その現れも消え去る。物もらいとかになり、目の前に色んな映像が現れることもあるが、眼病が治った後には何の現れもない。このように、ものはあちら側に実体的に存在しているように見えるが、それは見る側の心に問題があってそう見えているだけであり、本当に対象側にものが実体的に存在しているわけではない。

もしも、対象であるものが実体として存在するなら、分析智により、それを探すことにより次第にその姿が明らかとなって行くべきだ。例えば「宝行王正論」(ナーガルジュナ著)の中で「蜃気楼が、もしも本物の水であるならば、近くにいる人に見えないのはどうしてか?」と言われているように、ものに自性(実体・真実存在)があるならば、分析により、近づくことによりその姿が次第に明らかになって行くはずだ。しかし、ものの実体は正理智により分析すればするほどに、ますます遠く消え去っていく。

この「星」や「目の翳」の譬えのように、ものは目の前に昔からあたり前のように現れているが、現れのようにものは存在しているのかといえば、答えはそうではない。ものは自体を持ってあちら側に存在しているのではない。これを「星」、「目の翳」に譬える。
我々にはものは実体的に現れるが、本当には実体はないのだ、自性は空なのだという、否定の面(空の側)が比喩を使って示されている。

次に、対論者が「対象側に実体がないならば、現れているものは一体何なのか? 事物は自然に外界に存在する。良・悪、輪廻・涅槃、自・他などがちゃんと存在し、経験されるではないか?」というならば、「それは因と条件が集まることに依り生じたのだ」と答える。
依って生じたのだ。名付けることに依り存在しているのだという。

例えば、「燈し火(灯明・マルメ)」の如し、と説く。

マルメ「燈し火」と呼ばれるものも、その燃料である油や、芯、芯の周りの空気など、、、オキシジェン(酸素)が無くなれば燈し火は消える、、、というように、良く考えてみれば、「燈し火が輝く」という一つの現象も様々な因や条件に依ることで初めて「現れる」ということが理解される。その原因と条件の一つでも欠ければ、「燈し火」の明かりは消える。

このように、我々には様々な現象がそれぞれ独立のものとして、互いに関係することなく現れているように見えるが、本当には他に依存することなく自体で現れることのできる現象は一つもないのだ。
前にも引用した、「縁起による現れは過(あやま)たぬことと、、、」(ジェ・ツォンカパ著「道の三要素」)と言われるのはこのことだ。
全ての現象は空であるという面を示すために「目の髷」といい、「現れはあるがそれは本物ではない」ことを説き、
「燈し火」と譬えることにより、それでも(それが故に)「因果の縁起により現象は過たず現れる」ことを示す。

全ての現象は「星」「目の翳」「燈し火」、、、次に「まぼろし(ギュマ)」「露(シルバ)」「水泡(チュブル)」の如しという。

まぼろし「まぼろし」というは、、、対論者がさらに「自性がないならば、執着の対象は全く存在しないのか? 人は自然に目の前に現れる対象に対し執着の心等を起こすではないか?」と言えば。

例えば、「まぼろし」と出会う「夢の中」で、怖い人に遭えば、自然に怖くなるではないか。夢の中で相手に怒って喧嘩をすることもあろう。同じように、夢の中で魅力的な対象に出会えば、その対象に執着心を起こすであろう。夢の中のように、その対象に実体がなくても、その仮想された実体に対し執着心を起こすことは実際に起こる。このように、執着の対象には自体は無くとも、執着を起こす条件の一つとなる。これを「まぼろし」と譬える。

朝露「露」というは、「無常」の譬え。
早朝に美しく輝く「露」も、陽が昇るに従い素早く消え去る。
現象は一瞬一瞬変化するという無常の性を持っていると説かれる。

「水泡」というは、現象の「苦」の性格について説明するためだ。
どうして「水泡」が「苦」の比喩になるのか?
水泡は水から生まれる。水の泡は水の性格を負っている。水の自性とともに、水から浮かび出て、再び水の中に消える。現れては消え去る。水から出て水に戻る。このように、我々には苦しみだけでなく、喜び、中性の感覚など、如何なる幸不幸、中性の感覚が生まれようとも、それらは有為の自性として、苦の自性より生まれ、苦の自性の中に消え去る。煩悩の力に左右される限り、汚れた五蘊(身と心)が集積した感受である限り、有為の自性としての苦より生まれ、苦の中に戻る。世俗とはこのようなものだ。

水泡ここでいう「苦」とは、「苦の苦(身体的苦痛)」だけではない。パンチェン・ロサン・チュゲルが「汚れた輪廻の苦しみから逃れたいと思う、、、苦の苦を避けるは家畜にだってある、、、」とおっしゃるように、「苦の苦」から逃れたいという思いは動物にだってある。たとえば、這っている小さな虫をこうして指で押してみると言い、虫はすぐに不測の事態に陥るのではないかと思って逃げようとするではないか。苦しみは厭だと思っている証拠だ。つまり、「苦の苦」を「苦」と認識してそれから逃れたいという思いは動物にもある。
さらに「汚れた輪廻の快感に出離の心を起こすは外道にだってある」。ここでいう快感は快感すべてではなく「汚れた快感」だ。「汚れなき快感」とは永遠の至福のことだ。汚れた幸福感とは業に操られるこの五蘊に関係した汚れたものである。我々が普段「幸福」と呼ぶものはこの「汚れた幸福」のことだ。

この汚れた世俗の幸は何れ、最後には衰え苦しみに至る。水泡は水から生じて、様々な現れを見せるが、何れ水の中に消えて無くなる。このように、偶然のように快感が心に感じられることもあるが、これが生まれる時も有為の苦の自性から生まれ、消滅する時も苦の自性の中に消える。「汚れた輪廻の快感に出離の心を起こすは外道にだってある。有為の自性から生まれたこの五蘊は過去と未来の苦しみの器、、、」と言われるのはこのことだ。第三番目の五蘊の苦(存在の苦しみ)というは、主にこの業の力に左右される五蘊自体について言われる。汚れた五蘊を引きずる限り、苦しみの感覚はもとより幸福な感覚でさえ、苦の自性より生まれ、苦の自性の中に消え去るしかないのだ、と説かれる。

「星」、「目の翳」、「燈し火」、「まぼろし」、「露」、「水泡」と次に「夢」や「電光」や「雲」の如し、と言われるは、
我々の執着の対象を三時(過去・現在・未来)に分解し、それぞれを「夢」、「電光」、「雲」に譬えるのだ。
三時に分解するとは、、、、過去というのは、例えば今10時10分として、これ以前を過去と呼ぶ、、、、
(以下、続きはまたの機会に)
参考:http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2009-11.html?p=2#20091101







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