2010年07月

2010年07月31日

ルンタ・レストランで働く元政治犯三人組みの証言

現在、ダラムサラのルンタ・レストランで働く元良心の囚人三人組みの話。

ルンタ・レストランの三人組写真左よりロサン・ギャツォ、ダワ・ソナム、ツェリン・サンドゥップ。

まず、短くまとめられた証言書を持つロサン・ギャツォの話から。

法名ロサン・ダドゥル、俗名ロサン・ギャツォ。
私は1976年、ラサ近郊のメルド・グンカル県ギャマ地区第6村で生まれた。13歳まで家の手伝いを主にしていた。農閑期の冬には学校に通った時もある。14歳になった時、兄と共に僧侶となりガンデン僧院に入った。その頃僧院には700人ほどの僧侶がいた。

1989年、兄を含めたガンデン僧院の一団がラサで平和的抗議デモを行なった。それ以降2年以上、僧院には約200人の中国軍が駐屯し続けた。僧院内には政府の管理事務所が設置され、もしも僧侶が僧院の外に出る時には、一々この事務所に出頭し許可証を発行して貰わなければならなくなった。これは水を汲みに行く時もリンコル(僧院を巡る右遶)をする時などにも適用された。
そして、それ以降、僧院では毎日、当局の送りこんだ政治教育班による共産党の政治教育が行なわれるようになった。そこでは「分裂主義者であるダライ一味を糾弾せよ」がマントラ(真言)だった。

このように全く自由を奪われ、仏教の勉強もまともにできなくなった。
このようなことに我慢できなくなり、仲間4人が集まり抗議のデモをすることを決心した。デモの前に4人が集まり、「死を覚悟する儀式を行なった」。私はその時18歳になったばかりだった。

1992年6月10日、僧院仲間であるツェトン、ツェリン・バクド、ペンパ、ドゥンドゥップ、と私の4人はラサのパルコルで、チベットの国旗を掲げ、「チベットに独立を!」「中国人はチベットから出て行け!」「ダライ・ラマ法王に長寿を!」と声を張り上げた。5分も経たない内に、我々は武装警官に囲まれ、殴り倒された。警察署に連れて行かれた後、「お前たちの裏で手を引いている者は誰か、吐け!」と言われた。全員「自分たちが決めただけで誰かに言われたわけでではない」と答えた。その後5,6人に囲まれ意識を失うまで滅多打ちにされた。それから、グツァ拘置所に送られた。

そこではまず、丸裸にされた。丸裸のまま部屋の外を歩かされたりもした。もちろんここでも最初に挨拶代わりの暴力を受けた。夕方拘置所の服を着せられ、第1棟5号室に入れられた。監房に入れられると、先に同じように政治犯として入れられていた、プルツォック僧院のパルデンとガンデン僧院のテンジンの2人がボロボロになった私の面倒をやさしく見てくれた。

それから二が月の間、毎週1,2回拘置所の尋問官と裁判所の役人から尋問を受けた。
尋問の時には必ず拷問を受ける。棍棒で殴られ、電気棒が気絶するまで使われた。気絶すると冷たい水をかけられた。頭の上で両手を縛られそのまま天井から長い間吊り下げられもした。「裏に誰がいるのか? ダライがいると言え!」と強要するばかりだが、私は「死んでも嘘は付かない」と決心していた。

数か月後、裁判もなく判決だと言って言い渡されたのが刑期5年と政治的権利剥奪2年であった。一緒にデモを行なったツェリン・バクドには刑期8年、政治的権利剥奪3年、ペンパには刑期7年、政治的権利剥奪3年、ドゥンドゥップには刑期6年、政治的権利剥奪2年が言い渡された。
その後、1992年11月他9名の政治犯と共にダプチ(タシ)刑務所に送られた。
その日、所持品の検査を受け囚人服が渡された。ここでも挨拶代わりに暴行された。
次の日から1か月間刑務所の規則に関する教育というものが行なわれた。

毎日の食事は、朝、卵大の蒸しパン1つとお茶1杯、昼と夜には蒸しパン2つに野菜スープだった。スープの中には砂やごみが混じっており慣れるまで吐き気で中々飲むことができなかった。常に空腹であった。全員日増しにやせ細っていった。

その後、集会が開かれ政治犯は労働のためにグループ分けされた。私には同じガンデンの僧侶ジャンペル・モンラムと共に、ビニール・ハウス内の野菜作りの仕事が与えられた。仕事は簡単ではなく、人糞を撒き、化学肥料を多量に使うので、夏などビニールハウスの中にいると倒れてしまうこともあった。仕事は他にセメント工場で数カ月働かされたこともある。

野菜作りにはノルマが与えられ、1年に15000元以上の利益を上げないと懲罰の対象とされた。その後の1年間、「新しい人間になる」ためという政治教育に毎日出席しなければならなかった。そこでは「考え方を変え」「分離主義的思想を捨てる」ことが強要された。また、政府の役人が刑務所視察に来たときには、行儀よく楽しそうに振る舞えと命令された。しかし、政治犯の内だれもこのような教育や命令に従う者はいなかった。その罰として、軍隊式訓練だといって朝と昼それぞれ1時間半に及ぶランニングなどの激しい運動が科せられた。みんな、十分な食事を取っておらず、病人も多かったが、これには政治犯全員が参加させられた。少しでも遅れると殴られた。夏の暑い日には長時間炎天下、直立姿勢を保つことが強要され、真冬には氷の上に素足で立たされた。少しでも動けば棍棒で殴られる。これはつらい拷問だった。

1997年6月9日、刑期を終了し、刑務所を出された。その日父と姉が迎えに来てくれ、本当に嬉しかった。身体はボロボロだった。病院で検査を受けたが入院を勧められた。結局その後1年間入院していた。

1998年から4年間ラサのある商店で働いていたが、度々公安が訪ねてきて質問された。2002年から他の元政治犯2人と共同で金を借り、ラサで卸しの店を始めた。2004年の初めごろから、再び公安がしばしば現れるようになった。元政治犯の3人が一緒に仕事をしているのは怪しい、再び何か政治的なことをやっているのではないかとの疑いをかけられた。仲間のパサンはラサの北派出所で尋問を受け、ダワ・ソナムはメルド・グンカルの警察に呼び出された。自分も常に見張られるようになった。このようにして、移動などの自由が拘束され、普通の生活を送ることが非常に難しくなった。

このような状況の中、私は亡命を決心した。他の仲間2人と共に、ネパールの国境ダムまでの移動許可書を金を積んで手に入れた。2005年5月仲間のパサン、ダワ・ソナムと共に国境を超えることに成功した。2005年5月19日カトマンドゥの難民収容所に辿り着いた。その後デリー経由でダラムサラの収容所に着き、心待ちにしていたダライ・ラマ法王との謁見を受けることもできた。
ダラムサラでは最初ソガ・ロプタ(トランジット・スクール)で学び、去年からルンタ・レストランで働いている。

ロサン・ギャツォの刺青 「チベット」彼の左手にはབོད་(チベット)と刺青が彫ってある。獄中で入れたという。

ルンタ・レストランの厨房には今3人の料理人がいるが3人とも同じような経歴を持つ。
書かれたものはないが他の2人の話も簡単にお知らせする。

年は3人とも同じ34歳だ。ロサン・ギャツォとほぼ同じ経歴を持つのは同じガンデン僧院出身のダワ・ソナムだ。彼もメルド・ゴンカルの出身で14歳の時ガンデンの僧侶となった。デモを行なったのはロサン・ギャツォたちがデモを行なった6日後であったという。
刑期も同じ5年だった。拷問の受け方もほぼ同じだ。

彼曰く「拷問の様子を本当に詳しく話ても、普通の人は信じることができないだろう。今生きているのが不思議なくらいだ。みんな同じように拷問を受けるが、死ぬかどうかは運の違いでしかない。中には頭を強く殴られ、本当に死んでしまう者もいる。自分が知っているだけでも2人いる。刑務所では拷問で死にそうになると、外に出すことが多い。中で死なすと問題となるからだ。死ななくても一生その後不具になる者も多い」と話していた。
彼はラサでもロサン・ギャツォと共に働き、その後一緒に亡命している。

3人目のツェリン・サンドゥップはラサ近郊のペンボの出身。子どもの時に父親が亡くなったのち、セラ僧院にいる伯父に面倒を見てもらっていたという。学校には行ったことがないがチベット語は僧侶である伯父さんから習っていたという。

18歳の時僧侶となり、ペンボにあるガンデン・チュコルリン僧院に入った。しかし、そのすぐ後1994年の春から僧院には政治教育班が常住するようになり、毎日、ダライ・ラマを非難する等の教育が行なわれた。これはつらい日々だった。数か月これが続いた後6月、仲間3人と共にデモをすることを決心した。

デモの後の話は上記の2人とほぼ同じという。
ただ、彼は尋問の時「自分が先導した」と言ったため6年の刑期を受けた。2000年に出獄したが、政治的権利剥奪の3年間は全く動きが取れなかった。しかし、田舎に帰って見ても、農地は政府に取り上げられた後であり、仕事が無かった。ラサでなんとか仕事を探して店で働いていたこともあるが、しばらくすると公安の職員が来て、店のオーナーに「こいつは元政治犯だ。彼に何かあったらお前も責任を取ることになるぞ」と脅す。オーナーは仕方なく彼を解雇する。そんなことが3度続いたという。

2005年の3月、そのような不自由さに耐えきれず亡命を決心した。亡命のルートは例のナンパラ峠超えだったという。25日間歩いた。その亡命グループは総勢25人だった。その中に子どもが10人含まれていたが、その内の2人は凍傷になった。
カトマンドゥに到着した後、1人の子どもは耳を切断し、もう1人は足の指を何本か切断せねばならなかったという。

















rftibet at 21:00|PermalinkComments(7)TrackBack(0)ダラムサラ町の出来事 

2010年07月29日

ネパールに越境したチベット人3人が中国に引き渡された

0e379faf.jpg写真左:カトマンドゥの拘置所から解放され、涙するチベット人難民(AFP)。

<ネパール政府が亡命のため越境したチベット人3人を中国当局に引き渡したことに対し、国連は憂慮を示す>

7月28日付Phayulによれば:
http://phayul.com/news/article.aspx?id=27854&article=Nepal's+repatriation+of+3+Tibetans+leaves+UN+%e2%80%98concerned%e2%80%99
(以下抄訳)
ネパール政府は今年6月初め、3人のチベット難民を強制的に中国当局に引き渡した、と水曜日(7月28日)国連が発表した。
このことに付き国連は非常に憂慮するとコメントした。

国連難民高等弁務官事務所のスポークスマンであるNini Gurung氏はAFPに対しメールで「2010年6月初め、3人のチベット人がネパールから強制的に中国に追い返された。これは重大な問題であり、我々はこの事件を非常に憂慮する」と答えた。

この事件に関しICT(International Campaign for Tibet)は詳細な報告を行なっている。
それによれば、ネパール国境に近いコルチャック僧院の2人の僧侶及び中国政府の役人と思われるシガツェの一人の女性が、ネパールの政治家に付き添われヘリコプターを使うという異常な方法で送り返されたという。

2人の僧侶の名はダワ(20)とドルジェ(21)、女性はペンパ(22)と呼ばれている。

ICTによれば、ペンパと一人の僧侶は約6カ月投獄されるが、一人の僧侶は僧院に帰ることが許されたという。

3人は6月初めに、チベット自治区ンガリ地方のプランから国境を越えネパールのフムラ地区で警察に拘束された。

ITCによれば、中国当局は役人である女性の行方を追っており、彼女がカトマンドゥに辿り着くことを阻止しようとしていたという。

報告書によれば、中国の国境警備隊はネパールの国境警備隊と連絡を取り合い、彼ら3人を拘束した後、ヘリコプターを使い警官と特定されていない政治家に伴われ国境まで送り返されたという。

この事件は先週ネパールのABCテレビにより報告されたていたが、詳細は不明であった。
http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=27802
(私も上記の記事から、先に“2人のチベット人が中国に追い返された”と簡単にお知らせしていた)

このようなケースは2003年に子どもを含む18人のチベット人がネパール警察により中国側に引き渡されて以来初めてである。この時は国際的非難の声が上がった。

ICTは辺境の国境地帯で、報告されていない、このような引き渡しが他にも行なわれている可能性があると指摘する。

ネパール政府と国連難民高等弁務官事務所(UNHCR),の間には、ネパールがチベット難民に対し難民認定を行なわなくなった1989年に、チベット人難民を安全に国内通過させるという「紳士協定(Gentlemen's Agreement)」が結ばれている。

ネパールは、この3人のチベット人を強制的に中国の国境警備隊に引き渡したことで、UNHCRとの確立されていた紳士協定を犯し、国際法の規定を破ったことになる、とICTは表明する。

最近新しい代表となったICTのMary Beth Markey女史は「我々はネパール政府とUNHCRが共同して今回の事件について調査することを要請する。同時に中国の領土外への干渉を調査し、二度とこのような事が起こらないよう対策を講ずべきだ。国境警備隊と入国事務所に対し、正しい国際的人権基準に基づいた訓練を行なうべきだ」と述べている。

ネパール政府は最近、自国開発資金を提供する中国に対し、その友好を強化するために、国内における「反中国活動」をより一層強く取り締まることを約束している。

この強制帰還も、最近中国がネパールの国境警備を強化するために約束した援助パッケージ協定の後に起こったものだ。











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2010年07月28日

子供の絵/Old woman of lhasa /ヌブラの法王

映像系を三つ紹介する。

子供の絵まず、私が2008年春に集めた、ヒマラヤを越えダラムサラにたどり着いた子供たちが描いた絵を基に、YASOUMAN氏が制作して下さった絵本の改訂版。
「日本語、英語、音声入り」

http://web.me.com/kuuku/a6book/japanese_%28revision%29.html

この英語版100冊ほどをルンタ・レストランに置いていたが、瞬く間にはけた。

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次はyoutube,「Old woman of lhasa 」
これを見ていて、私は自分が86年にラサに行った時のことを思い出した。

パルコルの途中で老婆に呼び止められ、自分の部屋にお茶を飲みに来なさい、と誘われた。
狭い部屋に入り、自分はダラムサラから来たと伝えると、突然涙をポロポロと流し始めた。
老婆の涙は止まることなく、自分の手を取り、チベットの状況を話し始めた。
最後に「自分はいつか再び法王にお会いできると信じることだけで生きている」と言った。

ツクラカン(ジョカン)では僧侶にお茶を誘われ、部屋で手紙を渡された。



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ヌブラの弥勒菩薩像最後は今回の法王ヌブラ訪問の映像。
地の果てに「愛」を象徴する高さ30mの「弥勒菩薩像」が建立された。

http://www.tibetonline.tv/videos/187/a-blessing-from-hh-the-dalai-lama:-nubra,-ladhak

関連記事は以下:
http://phayul.com/news/article.aspx?id=27834&article=Dalai+Lama+consecrates+Matreiya+statue+at+Disket+monastery

この映像中、法王のおそばに控えておられる老僧は102代、現ガンデン・ティパ(ゲルク派の最高位の高僧)。
師はこのヌブラ出身だ。

選挙活動中のドクター中松ところで、この現ガンデン・ティパについては最近日本で善からぬことで話題になった。
先の参議院選挙にも立候補し、黄色いゲルク派の帽子をかぶって街頭演説し、もちろん落選したというドクター中松にチベット最高位の称号を与えたと噂された人物だ。

金で称号を与えたのではないかと噂され、チベット仏教の名を貶めたと見なされたりもしている。

で、真相はどうなのか?
情報源はまだ明かすことができないが、これに関し、ガンデン・ティパ本人が弁明したという情報が入っている。

それによると、ある人物を介し、確かにデリーで師はドクター中松に会っているが、
「帽子を与えたこともないし、金も受け取っていない」
ただ、「内容は日本語で自分が読めない書面にサインした」とのこと。
この書面が所謂、ガンデン・ティパから与えられたとする「称号の証明書」だったらしい。
もちろん、自分が読めない書面にサインしたことは師の落ち度と言えるかもしれないが、師の弁明を聞く限り、ドクター側がサギ行為を行ったとしか言いようがない。
何れ、この件に関しては、詳しい報告が近々公にされると思う。









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2010年07月27日

獄中にある環境三兄弟を救うために

0b742906.jpg以下、最近不当な懲役刑を受けた環境三兄弟に関するITSNよりのお知らせ。
(翻訳若松えり)

メール末尾に連名で団体名が記載されている環境保護団体や環境保護に携わる個人が、同じく環境保護活動家として知られるチベット人3兄弟のために以下のような公開書簡を発表しました。
有志は現在、各国から署名参加を呼びかけています。
皆様がご存知の環境保護活動に関わる個人または団体にも、参加を呼びかけてください。

署名参加、お問い合わせは若松えり;eliwakamatsu@googlemail.com または、
鎌田正樹;m-kamata@ja2.so-net.ne.jpまでお願いします。

なにとぞ、よろしくおねがいします。
背景資料も合わせて御覧下さい。


*** リンチェン・サンドゥップ、カルマ・サムドゥプとチメ・ナムギャルに関する公
開書簡 ****

市民社会が、めざましい勢いで形成される中国に大きな影響を与える事件として、地域の樹林活動や野生動物の保護などの環境保護運動家として知られる3人のチベット人兄弟が投獄されました。

中国国内のみならず国際的に評価される環境保護活動に携わる3兄弟の罪状は、地元チベット自治区チャムド地方(昌都)で絶滅危惧種の密猟を止めようとして、地元当局と衝突後、不正に作り上げられたと一般に推測されています。
結果、同地区の環境保護活動は多大な悪影響を受けました。

カルマ・サムドゥプは15年の刑を言い渡され、リンチェン・ サムドゥプには5年、現在、強制労働所で21ヶ月の判決をうけた弟のチメ・ナムギャルと、3名に与えられた刑は中国の刑事訴訟法に違反し、直ちに撤回されるべきです。
兄弟3人全員が拷問を受けたとの報告も届いています。
彼等の70歳半ばの実母は3人兄弟のうちの2人を逮捕するために、警察が当局高官を伴い自宅を訪れた際、暴打を受け意識不明の重傷を負いました。
彼等の従兄弟でチベット僧と若いチベット語教師の2名も逮捕され「蒸発」しています。

リンチェン・サンドゥップ3兄弟の貴重な人生や、彼等の親族や地域住民の代償に加えて、彼等の投獄は、必要とされる環境保護活動に携わる市民として、チベットと中国にて昨今めざましい勢いで形成されつつある市民社会の概念に対して非常に悪影響を与えると,私達は考えます。
チベットを第3極点と考え、温暖化が地球上の他の地域に比べ2倍の早さで進み、アジア圏の重要河川のほとんどの源流を抱える事実は国際社会の認識となりつつあります。

さらに、国際社会の認識として各国政府は気候変動に対応するために、NGO、市民社会や地域住民関係者の問題解決関与が必要不可欠だと認めています。
バンキムン国連総長はこの点を特に強調しました。
地域住民にとって環境保護のリーダーであり,自然保護の摂理を守ろうとしたこの3兄弟を投獄した中国の行為は、地球規模で環境問題の解決にあたる国際社会のパートナーとして相応しいかどうかが問われます。

環境問題はチベットと中国の共通の関心であり、この件で、中国は環境保護政策の推進を地元住民に示すことのできる機会でした。
しかし中国当局は全く逆の方法をとり、正義を求める代わりに、法と裁判を政治的目
的のために使ったことに遺憾の意をおぼえます。

拷問を受け生命に危険が及んでいるチメ・ナムギャルの罪状には” 兄弟であるリンチェンが非合法的な方法で動画資料、生態学、環境と自然資源、チャムド地区の宗教等の情報を3枚のディスクにまとめる作業を手伝った”とあります。
リンチェン・サムドゥプは慎ましく、そして地域住民に慕われていました。
地域でゴミ拾いを呼びかけ、密猟を監視し、何千本もの植林を行っていました。
彼の暮らす村は揚子江流域にあり、中国の環境保護活動家からは、その流域に植林することは、流域一帯の環境管理に必要なだけでなく、上流域一帯に影響を及ぼす水質と土壌の管理に必要とされています。
彼の拘束後に発表された中国政府の公式情報の記事の中でも、中国人ジャーナリストは彼の環境活動に対して賞賛し、政府の生態系保護政策を助けていたと述べています。

カルマ・サムドゥプが15年の刑を宣告された明くる日、彼の妻、ドルカ・ツォモは、自身のブログで弁護を担当した2人の中国人弁護士に,深く感謝を述べています。
「中国人、チベット人の違いを越えて、真実と正義のため共に努力します。弁護を担当してくださった2人の弁護士に、世界中の友人に、深くお礼を申し上げます。初めからこれまで、一度も一人だと感じたことはありません。」

私達、世界各地の環境保護団体を代表してドルカ・ツォモと夫のカルマ・サムドゥプ、と二人の兄弟リンチェン・サムドゥプとチメ・ナムギャルにこう伝えたいと考えます。
不正義を正すため彼等の側に立ち、全員の即時釈放を求めます。

以下、連名署名

Environmental Investigation Agency(環境調査局)
Caroline Lucas, Member of the UK Parliament(イギリス国会議員)
Animal Welfare Institute (動物保護機関)
Wildlife Trust of India(ワイルドライフトラスト、インド)
Business in the Community
Tibet Third Pole(チベット第3極点)
Tesi Environmental Awareness Movement

背景資料;

自然保護運動家に送られる著名なフォードモーター社の環境賞を授賞したリンチェン・サムドゥプ44歳は2010年7月3日に5年の刑を言い渡されました。

彼の弟、カルマ・サムドゥプ42歳は著名な考古学者でthe Three Rivers Environmental Protection Group(三河川環境保護団体)の設立者です。
彼は2010年6月24日に15年の刑を宣告され、裁判で拘束中にひどく拷問を受けたと証言しています。

現在、強制労働所で21ヶ月の刑を受けている、彼等の兄弟で障害を持つチメ・ナムギャルは拷問の末、介護なしで歩行することも、食事をすることもできない状態になっています。

70歳半ばの彼等の実母は、2人の兄弟を自宅で拘束する際に武装警察により暴打され意識不明となり重傷を負いました。

兄弟の地元であるチャムドのGongo 郡 (中国名: Gongjue)で20名の住民が、兄弟の拘束に反対して北京に嘆願署名を届けたのち、拘束され40日間に渡り尋問と拷問を受けています。
カルマ・サムドゥプの通訳をしていた中国語を話すチベット僧、リンチェン・ドルジェは3月の拘束され現在も消息が解っていません。

タシ・トプギャル、30代前半のチベット語教師はリンチェン・ドルジェの居場所を探すためにラサに向かったのち 7月5日に警察に拘束されました。

さらに兄弟の2人の従兄弟も逮捕されており、その内の一人ソナム・チュペル(60歳代)は18ヶ月の労働再教育施設で強制労働に服役中です。

以下、関連報道記事のリンク(英語):

New York Times http://www.nytimes.com/2010/06/25/world/asia/25tibet.html
BBC http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/asia_pacific/10414092.stm

AFP
http://www.google.com/hostednews/afp/article/ALeqM5jBfxzXXRmmv8ChV7Y5_RQ8QZV3JQ

The Economist
http://www.economist.com/node/16539510?story_id=16539510&fsrc=rss

International Campaign for Tibet:
http://savetibet.org/media-center/ict-news-reports/fears-three-environmentalist-brothers-'gaunt'-karma-samdrup-trial-after-torture
and
http://savetibet.org/media-center/ict-news-reports/award-winning-tibetan-environmentalist-trial-today




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2010年07月26日

再び 「HRW報告書」

e61b3c72.jpg一昨日、HRWの報告書について簡単にお伝えしたが、先ほどこのHRWの日本語版ホームページに全部ではないが、導入部と幾つかの証言が翻訳されていたのを発見。
再びアップする。

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中国:チベットでの治安部隊による人権侵害の実態、目撃証言でいま明らかに

残虐行為は大規模かつ重大、求められる国際調査

http://www.hrw.org/ja/news/2010/07/22

July 22, 2010

Related Materials: “I Saw It with My Own Eyes”

多くの目撃者による証言と中国政府自身の情報から、非武装の抗議者らに対し、死をもたらす武力(致死性を有する有形力)を行使する意図が政府側にあったことが明らかになった。 本報告書により、治安部隊が国際基準と国内法に沿って抗議者らを扱ったという中国政府の主張に対し、断固として異議を唱えたい。

ソフィー・リチャードソン、ヒューマン・ライツ・ウォッチのアジア政策提言責任者.
(ニューヨーク) - 2008年3月10日からチベットで始まった大規模な抗議行動。抗議行動の最中及び事後に、中国の治安部隊が過剰な武力・有形力を行使し、意図的に残虐行為を行った事実が、目撃者らの証言で裏付けられた、とヒューマン・ライツ・ウォッチは本日発表の報告書で述べた。強制失踪、冤罪による処罰と投獄、家族への迫害、抗議運動のシンパとみなしたチベット族を標的とした迫害など、多くの違反行為が今日も続いている。

報告書「チベットにおける中国治安部隊による虐待行為の実態、2008-2010」(全73ページ)は、中国脱出直後のチベット難民やチベットからの旅行者らを対象にした、200件以上の聞き取り調査や、最新かつ未発表の公式情報に基づいて作成された報告書。この報告書は、目撃者の証言を通じ、抗議運動中や事後、抗議をやめさせようと治安部隊が犯した広範囲に及ぶ虐待を詳述。これには、過剰な武力行使、大規模な恣意的逮捕、被拘禁者に対する残忍な扱いや拷問などがある。

ヒューマン・ライツ・ウォッチのアジア政策提言責任者、ソフィー・リチャードソンは 「多くの目撃者による証言と中国政府自身の情報から、非武装の抗議者らに対し、死をもたらす武力(致死性を有する有形力)を行使する意図が政府側にあったことが明らかになった」と述べた。 「本報告書により、治安部隊が国際基準と国内法に沿って抗議者らを扱ったという中国政府の主張に対し、断固として異議を唱えたい。」

また、中国政府の主張とは異なり、3月14日のラサ市繁華街エリアの件を含む、少なくとも4つの事件で、治安部隊がデモ隊に対し無差別に発砲をしたと、本報告書で指摘した。

中国政府によるチベットにおける治安部隊行動を、外部または独立した機関により見られるのを避けようと、中国当局はチベット高原全土を閉鎖し、チベット族居住地域のすべてに膨大な数の軍隊を派遣。中国当局は、ジャーナリストと外国の関係者を追放、その地域内への移動も規制した。更に、電気通信とインターネットを監視、あるいは遮断し、弾圧を告発する疑いがあるとされた者をだれでも逮捕した。国連人権高等弁務官と国連特別報告者はこのチベット抗議運動で何が起きたかを独立して調査したいと要請したが、政府はすべて拒否している。

ヒューマン・ライツ・ウォッチは治安部隊と同様、チベット族による暴力も非難。中国政府の統計によると、ラサ市だけで、2008年3月14〜15日の間に、21人が殺害され、数百人が負傷した。しかし、国際的な法的基準では、命を守るためあるいは暴力犯罪の加害者を逮捕するために最低限必要な場合だけしか、国家は武力・有形力の行使は認められていない。しかしながら、複数の事件の目撃者たちの証言は、中国政府の主張とは異なり、中国軍は国際法基準に反し、違反行為(過剰な武力行使、拷問、恣意的拘禁、平和的な集会の権利の侵害)に及んでいたことを示す。

デモ当初から、中国政府は一貫して、「法に基づいた」公平な方法で、本抗議関係のすべての事件を処理すると述べた。しかし、本報告書は、全く別の事実を明らかにしている。当局は、何千人ものデモ隊と一般のチベット族を逮捕、正当な法的手続きなしに拘禁した。そして、被拘禁者の所在も全く明らかにしていない。更に、司法制度が中国共産党により政治支配されているため、被告には正当な法的手続きが事実上全く保障されていなかった。

本報告書結果は、一連の抗議とその余波の真実を明らかにするため、中国政府が早急に実態調査を行なう必要性を示すとともに、チベット地域をメディアや(外交官やNGOなどの)海外からのモニターに開放する必要性を浮き彫りにしている。中国当局は、政府の治安部隊の行動についても調査する必要がある。目撃者たちは一貫して、過剰な武力・有形力の行使、抗議に関与したとの疑惑をかけられて拘禁されたチベット族に対する意図的な虐待や不当な取扱いなどについて証言している。また、拘束されたチベット族たちには、逮捕の際の正式な告知(拘束場所、逮捕理由)の欠如など、最低限の適正手続きも保障されていなかった。

前出のリチャードソンは、「チベットの状況を解明する国際調査団は、これまでにも増して必要だ」と述べる。 「中国の治安部隊による人権侵害は、そもそも抗議運動のきっかけとなった、チベット族の長年の不満を鎮めるどころか、更に悪化させる可能性が大いにある。」

背景

2008年3月初旬、ラサ市内外の主な僧院のチベット僧が平和的な抗議デモを実施、それに対して中国治安部隊が弾圧を行った。これが3月14日のチベット自治区首府における騒乱につながった。

これに応じた形で、近隣省に駐屯していた治安部隊がチベット自治区に集結、中国政府は大規模な一斉弾圧を行うと住民に告知。結果、抗議は空前の規模に膨れ上がり、チベット高原全土に広がった。公式文書によると、最初の2週間に150以上の抗議活動がみられ、その後も数カ月にわたって個々の抗議が三々五々続いた。

チベット自治区で過去数十年でも最長・最大の抗議活動となった今回の事件に中国政府は、1989年の天安門事件以来、最も大規模な治安作戦の展開という形で応えた。

しかしながら中国政府は、デモ隊と警察の衝突に至った何十件もの衝突事件の詳細を、明らかにしていない。中国治安部隊がデモ隊にどう対応したのかは未だに闇の中であり、過剰な武力・有形力の行使や、ラサ市の中心部を3月14日に数時間デモ隊や暴徒の手に任せ放置した疑惑なども、未解明のままだ。抗議活動中に逮捕された何百人ものチベット族たちをその後どうしたのか、中国政府は明らかにしていないほか、拘禁されたチベット族の数、有罪判決を言い渡されたチベット族の数、裁判中のチベット族の数、法律に基づかない形で拘禁され続けているチベット族の数についてもまた、現在まで明らかにしていない。

「チベットにおける中国治安部隊による虐待行為の実態、2008-2010」からの証言:

「奴らは人びとに向かって直接発砲していた。江蘇路の方からやってきて、チベット族を見れば発砲って具合だった。たくさんの人が殺された。」
- ペマ・ラキ(仮名)、24歳のラサ市の住民

「彼女は頭に一発の銃弾が命中しました。地元の人びとがトングコル僧院から約5キロ離れた故郷の村に、彼女の遺体を持ち帰ったのです。」
- ソナム・テンジン(仮名)、27歳のトングコル僧院の僧侶

「最初は兵士たちが数回、群集を脅そうと空発砲した。でも、皆まさか兵士が実際に発砲するなんて思いもせず、無視して施設内に集まり続けた。その時点で、兵士たちが実際に発砲し始めた。」- テンパ・トリンレ(仮名)、26歳のセダ県の僧侶

「私が最初に見たのは、たくさんの兵士と警察が電気棒で人びとを殴りつけているところ。4、5人の兵士の一団が群集を一人ひとり逮捕して、トラックに押し込んでいた。」- ドルジェ・ツォー(仮名)、55歳の銅仁の住民


「兵士たちは、大学や寮の門やドアを壊して突入してきた。武装して、手斧とハンマー、懐中電灯、手錠、ワイヤロープまで持っていた。僧の部屋に入る時は、まずは携帯電話の有無についてたずねて、携帯を全部没収していた。逮捕の際に手錠を掛けられていた僧が何人もいたし、ワイヤーロープで縛られている僧もいた。兵士は私たちに素早く動けと命令して、その通りにしないと殴っていた。何百人もの僧が連れ去られてしまった。」- チャンパ・ラガ(仮名)、ラサ市在住の元デプン僧院の僧侶

「かの地でとられたあらゆる手段は、憲法で規定されている軍の権利や国際法の範囲内だった。」
- 呉爽張、2008年3月16日当時の人民武装警察部隊高官


「我々はひどく殴られました。警備隊は警棒やなんかで殴るんです。ほとんどが下半身を狙われました。2日間暴行が続いて、その後、ラサ市のグツサ刑務所に連行されました。そこでは警官が丸2日昼夜を問わず、代わる代わるに私たちを殴りながら尋問し続けたんです。」
- リンチェン・ナムギェル(仮名)、33歳のガンデン僧院の僧侶

「最大で30人が3〜4平方メートルの独房内に詰め込まれていました。座る場所もないくらいだから、ずっと立ちっぱなし。トイレもないのに、外に出ることが許されていないから、その場でするしかなかったんです。与えられる食事は、1日1回のご飯か粥だけ。ほとんどの人が暴力をふるわれました。」- パサン・チョーペル(仮名)、アバ出身の元被拘禁者

「ガンジ県チベット自治区中級人民裁判所は、被告ドルジェ・カンドルプの審理を開いた。罪状は、チベット独立を求めるビラの作成と、それをガンジ県の主要道路にまいた行為。臆面もなく国家の分断と統一の破壊を煽動した被告の行動は、国家分離煽動罪に該当する。」
ガンジ県の政治律法委員会による公示 -ドルジェ・カンドルプ被告に対し 6年の刑を言い渡した


「中庭でも殴る蹴るは続きました。人民武装警察部隊の武装警察たちは、ベルトや銃底を使っていました。地べたで彼を蹴りつけて、出血がすごかった。辺りは血の海でした。動かなくなった彼を、兵士はその場に置き去りにしていくのを、私はこの目で見ました。」
- ルンドルプ・ドルジェ(仮名)、ラサ市の住民


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2008年に消えた人々/亡命者が激減

今日はU女史が翻訳して下さった記事を二つ載せる。

<2008年に逮捕され消えた人たちを、家族は今も捜し続ける>
http://www.tibetcustom.com/article.php/20100722145055501

2010年7月22日

ダラムサラ: (ダラムサラの)チベット中央政権は、チベット本土の首都ラサに近いセラ寺の僧侶たちが先導した2008年3月11日の平和抗議に対し行なわれた中国政府による残虐な弾圧のその後の経緯に関する報告を最近受け取った。

3月10日、一団の僧侶が平和的抗議を率いていた際、セラ寺の僧侶達は、僧院内に設けられた委員会(注:共産党の組織)や武警による脅迫をものともせず、そこに加わった。僧侶たちが武警による激しい暴行を受けたことを知った僧院付近のチベット人の住民たちも連帯を示すために抗議に参加した。

20歳のギャルツェンとチベット人の若者の一団は逮捕され、3月11日に武警による拷問を受けた。2年以上経った今も、彼らの所在は判っていない。

ギャルツェンの家族は彼を見付けられずにいる。ギャルツェンはニェモ県プスンの出身。抗議に参加し逮捕された時には、ラサで仕立て屋の仕事をしていた。

同様に、3月11日には、3月10日の抗議参加を口実として、100以上の世帯に対し公安・武警による一斉捜索が行われ、更に多数のチベット人が暴行を受け拘束された。
逮捕時の暴行は激しかった。
1人は後日釈放されたが、残り全員の行方は、残された家族が必死に探し回っているにも拘わらず、今も分かっていない。

その時、逮捕され、消えてしまったチベット人たちの氏名は:
テンジン、タサン、キキャ、ワンドゥ、プルブ、ナムセ、ミクマル、ペマ;
ケルサン、テンジン、ダワ・ツェリン、ラワン・ワンドゥ、パサン、カンド、ノルブ、パサン・ツェリン、ドルジェ・ツェリン、ナムガン、ニマ・ツェリン、タシ・ドルジェ、プルブ・ノドゥプ、ラクパ、ペンバ、ダチェ、プルブ、ツェリン・ラサン。

2008年 3月 カンゼ20歳の僧侶クンガが銃創を受けた遺体の写真は本土の外へと伝えられ、チベットに蔓延する人権の侵害と弾圧を立証した。

クンガはカンゼ、ダクゴ県にあるチョリ寺の僧侶。2008年3月24日に起こったダクポ県の平和抗議の際、仲間の僧侶と一緒にチベット人負傷者を救助しようとしていた時、中国の治安部隊に射殺された。


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<ダライ・ラマの許に逃げ込むチベット人が激減>
Straits Times
http://www.straitstimes.com/BreakingNews/Asia/Story/STIStory_557663.html

インド・ダラムサラ - ダライ・ラマを代表とする亡命チベット人コミュニティは、中国にとって常に苛立ちの種であり続けた。しかし北京政府は最近、その動きを弱める良い方法を思い付いた。新たな参入者を枯渇させることだ。

最近のサラムサラ難民一時収容所インドにおけるチベット人コミュニティの本拠地ダラムサラにある難民収容センターは活気を失い、ほとんど空となっているそのドミトリーが、この18ヶ月間に起こった変化を如実に表している。
チベット本土での中国の支配に対する蜂起後ダライ・ラマが生命の危険を回避すべく故国から亡命してきた1959年以来、インドはチベット人を保護してきた。

それ以降数多くのチベット人が危険を冒し、ダラムサラに亡命してきた。
大部分はネパール経由で、雪を冠する山々を徒歩で逃れてきた人々だ。
海外に亡命したチベット人の人口はおよそ20万人にもなる。
しかし最近、本土から逃れてくる人々の数は次第に減ってきている。

「2008年3月以前、ここには毎年2,500〜3000人の人々が逃げてきていました」ダラムサラで最も高い場所にあるマクロード・ガンジの収容センターの副所長、ミンギュル・ユドンさんはAFPのインタビューに答えてこう語った。
「2008年2月以降、ここには約1,000人しか訪れていません」マクロード・ガンジの収容センターでは難民を区分して、ベッドや食糧、経済的援助の他、必要に応じ進学情報を提供、また人々にとって最も重要な、ダライ・ラマとの謁見の申込を受け付けている。

収容センターの殺伐さは、ダラムサラ郊外、谷の全景を見下ろす場所にぽつりと建つ住居に暮らす75歳の精神的指導者が微笑する肖像写真によってのみ活気づけられている。

女性用ドミトリーで悲しみに泣き叫ぶ女性が、亡命生活の感情面での苦しみを証明している。2008年3月、ダラムサラへの亡命者が減少するきっかけとなった月、チベットの首都では中国の支配に対して暴力を伴った抗議が起こった。
死傷者の数は判っていないが、中国政府は、ラサからチベット(自治区)を越えて近隣のチベット人居住地域へと拡がった抵抗活動により22人が死亡したと発表。チベット亡命政府によれば死亡者は200人以上。負傷者は1,000人に上る。 - AFP

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ネパールの警官は最近、熱心にチベット難民を逮捕している。
見つけられ、カトマンズに送られた難民は、それでも最後は国連の力で何とか中国に送り返されることを免れていた。
しかし、先週中国の高官がカトマンドゥを訪問していた時、それに合わせるかのように、二人のチベット人亡命者が中国当局に引き渡されてしまった。

http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/nepal-deports-two-tibetan-refugees-07232010220723.html

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2010年07月25日

カム、ナクチュ:ダライ・ラマ法王と活仏について連絡を取ったとして僧院長が拘束、僧侶が僧院を追われ、老僧が自殺。

カム、ナクチュ:ダライ・ラマ法王と活仏について連絡を取ったとして僧院長が拘束、僧侶が僧院を追われ、老僧が自殺。
7月23日付RFA(チベット語)
http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/tibetan-lama-deposed-for-consulting-the-dalai-lama-07232010220241.html
Phayul(英語)
http://phayul.com/news/article.aspx?id=27804&article=Tibetan+lama+deposed+for+consulting+Dalai+Lama%2c+monks+quit+in+Nagchu

現地と連絡を取った亡命中のガワン・タルパ氏が7月17日明らかにした情報によれば:
カム、ナクチュ地区にあるシャク・ロンポ僧院(ཤག་རོང་པོ་དགོན་)の僧侶17人が愛国再教育セッションの結果僧院を追放された。
まず、5月17日当僧院の僧院長であるダワ・リンポチェ(75)以下4人の僧侶がラサで警察に拘束された。
これはダワ・リンポチェが僧院の第5世ロンポ・チュゼの生まれ変わりを捜索するにあたりダライ・ラマ法王と連絡を取ったからだという。
4人の内ガワン・トクメ(35)はダライ・ラマの写真を所持していたとして2年の懲役刑を言い渡された。
ダワ・リンポチェは一カ月後に解放されたが、それ以来自宅で軟禁状態にされている。

リンポチェが拘束された後、僧院には約150人の武装警官と約50人の役人が押し掛け、ダライ・ラマとダワ・リンポチェを糾弾するための愛国教育セッションが続いた。
逮捕と僧院追放という脅迫の下に僧侶たちはダライ・ラマを非難する書面にサインと拇印を強要された。
その間にジャンパと呼ばれる僧侶は強要に耐えきれず精神に異状をきたし、錯乱状態の中意識を失い、
タシ・テンサンと呼ばれる僧院の戒律師も錯乱状態となり僧院を離れた。
その他17人の僧侶がサインを拒否し、僧院を追放されたという。

また、5月20日、僧院の70歳になる老僧ガワン・ギャツォが脅迫に耐えきれず自殺した。
老僧は遺書を残したが、その遺書は当局により取り上げられた。
その上当局は僧侶たちに対し、彼の自殺を外部に漏らしてはならないと命令したという。














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2010年07月24日

I Saw It with My Own Eyes

HLW報告書まずは日本語の記事。

無差別発砲あったと批判 ラサ暴動鎮圧で人権団体

2010.7.23 00:20
http://sankei.jp.msn.com/world/china/100723/chn1007230020000-n1.htm 

 国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ(本部ニューヨーク)は22日までに、2008年に中国チベット自治区ラサなどチベット族居住地域で起きた暴動や抗議活動について、目撃者の証言を基にした報告書を発表。暴動鎮圧の際に無差別発砲を行うなど、中国当局による過剰な武力行使があったと批判した。
 報告書は、08年3月14日にラサで起きた大規模暴動での鎮圧を含め、中国当局による無差別発砲が少なくとも4件あったと指摘。ラサ暴動では当局の部隊がデモの参加者らに対し、動かなくなるまで警棒で殴るなどの暴行も加えたとしている。
 中国当局はこれまで、ラサ暴動での当局による発砲の事実を認めていない。四川省アバ県の暴動では警察による発砲を認めたが「自衛のため」と説明している。(共同)

日本のニュースではたったこれだけだが、世界中の主なメディアがこのレポートを詳しく取り上げている。
今回発表されたヒューマン・ライツ・ウオッチの報告書は2008年の中国政府によるチベット人弾圧の詳細を203人に及ぶ証言を基に73ページに及び分析した素晴らしい報告書だ。
何れ全文を東京の代表事務所等が訳して下さることを期待する。

共同さんの記事で気になるのは「中国当局による無差別発砲が少なくとも4件あったと指摘」と書かれていることだ。
これだと「ラサの4か所で発砲があった」或いは「4回だけあった」と誤解して読む人がいるような気がする。
実際にはチベットの4つの地域、ラサ(3月14日)、アバ(3月16日)、ドング(4月4日)、カンゼにおいて当局の発砲により多くの犠牲者が出たと報告書にはある。
それぞれの地域の沢山の証言を取り上げ、詳しく述べられている。

2008 at kanze中国政府は発砲の事実を全く認めず、「デモ隊に対し制御した行動を取った」と今も主張しているが、これに対し、レポートでは「中国の保安部隊はデモを行なったチベット人に対し、無差別発砲を行ない、その他相手が地に倒れ、動かなくなるまで殴る蹴る等の暴力を加えた」と主張する。

また、「抗議する者やそうでない者に対しても、逮捕する時には暴力的拷問を加え、拘置所でも拷問し、食事を与えず、劣悪な衛生環境の中に捨て置いた。今も何百人ものチベット人が数えられることもなく拘束されたままである」という。

ヒューマン・ライト・ウオッチのアジア研究員であるNicholas Bequelin氏は
「この2年間保安部隊は実際の社会秩序への脅威に全く釣り合わない仕方で(抗議者に)対応してきた」と語り、さらに「中国政府はもっと違った対応の仕方ができたはずだ。これはチベットに対する中国の主権の問題などではなく、これは保安部隊が如何に振る舞ったかだ」とコメントする。

3月14日のラサの状況についてはこのブログでも、真っ先に亡命することに成功したソナムの証言
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51058869.html
や子どもたちの証言を何度も2008年に掲載した。
ソナムの証言はNHKにも取材してもらった。

レポートの中にはラサを中心にそれ以外の地域の証言も数多く載せられているが、ここでは
以下、ラサの何人かの証言だけを紹介する。

ペマ・ラキの証言:
「兵士たちはその日(3月14日)の午後までは現れなかった。私たちは好きなだけ、抗議の叫びを上げることができ、気持ちよかった。その後、兵士が現れ、催涙弾を発射し始めた。催涙弾が私の足を直撃し、歩けなくなった。
そして、無差別発砲が始まった。私たちの目の前で2人が撃たれて死んだ。一人はメンツィカン(チベット医学院)の門の前で死んだ。銃弾が彼の右わき腹を直撃した。
私たちはメンツィカンのドアを激しく叩いた。

その日病院はだれも助けてはいけないと命令されていた。もう一人はプダップ・ゾン食堂のドアの前で死んだ。殺された2人はまだ若く25,6歳だった。彼らの服は血だらけになっていた。

(ラサの南側でも)兵士たちは人々に向かって真っすぐ発砲していた。ジャンス・ルの方からやって来て、眼に入るすべてのチベット人に向かって発砲した。沢山の人たちが殺された。」

他のラサの住民:
「私は直接殺された人は見ていないが、友人がリクスン・ゴンポ寺の門の近くで12人が殺されたと言うのを聞いた」

また他の住民:
「突然警察の車が道を下って来た。車の中から発砲していた。同じ建物に住んでいたラクパ・ツェリンが壁に張り付いた時撃たれた。仲間が近くの家の中に彼を引きづり込んだが、その後すぐに彼は死んだ。
警官がすぐ後現れ、両親が拒んだにも関わらず彼の死体を無理やり奪い去って行った」

と、以下沢山の証言が載せられているが、切りが無いのでこれまでとする。

“I Saw It with My Own Eyes”と題されたレポート全文は以下のURLから、
http://www.hrw.org/node/91850



rftibet at 18:40|PermalinkComments(11)TrackBack(0)チベット内地情報 

2010年07月21日

ラサでギャワ・カルマパの写真が禁止となる

1550e20d.jpg昨日のRFAチベット語版によれば、
http://www.rfa.org/tibetan/chediklaytsen/khamlaytsen/kham-stringer/china-restricted-tibetan-in-lhasa-to-display-karamapa-picture-07212010105204.html

中国政府は今月19日、ラサでギャワ・カルマパの写真を保持している者を厳しく取り締まると発表した。
これは特に、カムやアムドからの出稼ぎや巡礼者がよく泊まる宿のオーナーたちに対し通達されたことと言う。
もしも、宿に泊まる誰かがカルマパの写真を持っていることが発覚した場合には、宿のオーナーも連帯責任を負わされるという。
所持していた者は所持品をすべて没収されるそうだ。

これまでも一応カルマパの写真はダライ・ラマ法王の写真と同様、禁止されてはいたのだか、実際には取り締まりの対象とはされていなかった。
RFAは、この通達が出された理由として、カルマパが最近しばしばチベットの政治、人権状況について発言していることと、カルマパの人気が世界的に高まっていること、等が考えられるとコメントしている。

カルマパは中国共産党が歴史上初めて認定した「活仏」だ。
この時から、この世にも不思議な「共産主義政党による宗教転生者認定」が行なわれるようになった。
今では、共産党が認めない「活仏」は「偽物」とまで公言している。

ところで、カルマパは今月末からアメリカへ2週間訪問する予定だった。
しかし、インド政府はカルマパの出国を拒否した。
今年初めにもカルマパはヨーロッパ9カ国を訪問する予定であったが、これもインド政府により拒否された。
カルマパが外国に行くことが許されたのは2008年のアメリカツアーだけだ。
なぜ、今回インド政府が出国ビザを拒否したのかについては、はっきりしない。
もちろん、中国政府が邪魔をしたということもあるだろうが、その他にも、もう一人のカルマパを擁立し、インド政府内の役人と繋がりの深い、シッキムのシャマール・リンポチェの邪魔も考えられる。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=27767&article=Why+was+the+Karmapa's+US+tour+cancelled%3f

何れにせよ。常に法王のそばに座し、人気、実力共に益々影響力が強くなってきたカルマパの活動を抑え込もうとする政治的力が働いていることは確かだ。
2001年初めに衝撃的中国脱出劇を果たしたカルマパだが、自由になれたはずのインドでまた、こうして束縛を受けるという、実に可哀そうな境遇である。











rftibet at 17:05|PermalinkComments(6)TrackBack(0)チベット内地情報 

法王を乗せ、ヌブラに向かった飛行機が、、、!

ヌブラ渓谷




ダライ・ラマ法王は昨日ダラムサラを発たれた。
先のブログでカルギル方面に行かれると書いたが、それは延期になったとのことで、その次に予定されていたヌブラ(ヌップラནུབ་ར་西の峠)の谷へ直接飛ばれたようだ。

これから、一週間ほどラダックの北、パキスタンと中国国境がすぐ目の前というインドの最北の地、ヌブラの谷で法話等を行なわれる。

以下スケジュール;http://dalailama.com/teachings/schedule
今日と明日:スムル村にあるサムテンリン・ゴンパ(ゲルク派、僧70人)で法話。
23日:サムテンリン・ゴンパの対岸にあるヤルマ・ゴンボ・ゴンパ(チャラサ・ゴンパ)で「金剛般若経」の伝法。
25日:ディスキット・ゴンパ(15世紀創建、ゲルク派)でマイトレーヤ(弥勒菩薩)像の開眼法要。
26日と27日:デェスキット・ポタン(今回の訪問用に新築された小パレス)でゲシェ・ランリ・タンパの「心を調える八偈の教え(ロジョン・ティク・ゲマ)」とジェ・ツォンカパの「菩提道の三要素(ラムツォ・ナムスン)」の講義。

ヌブラ渓谷案内図私も、このまさに最果ての地と呼べるこのヌブラの谷に行ったことがある。
ここに行くにはレーの北にある、世界一高い自動車道とインドの言う5606mのカルドゥン峠を越えないといけない。
普通の人は高山病になる。
この北側は夏でも雪が多く、道は積雪を切り裂いた狭間を抜ける。
ヌブラの谷は広々としており、風景は抜群だ。
この地はある本によれば、かつて、といって紀元前からチベットと東トルキスタンを結ぶ交易路として栄えていたという。
今は北の中国、東のパキスタンとの国境が閉ざされているので、静かなただのチベットの田舎である。
ただ、国境最前線である北のシチュアン氷河を守るためにインド軍の大きな駐屯地がある。

20.7.2010 ヌブラに到着された法王追加写真(パユル):20日ヌブラに到着された法王。

法王はこのところ夏には必ず、インド最北のラダックやスピティのチベット仏教地区を訪問される。
もちろん、常に招待されるということがあるが、他にも色んな理由が考えられる。
まず考えられる理由は、この時期ヒマラヤの南側にあるダラムサラは雨季でうっとうしいので、チベットのすがすがしい夏を楽しむため?
実際、この辺は高度といい、気候、風土といい、まるでチベット本土と変わりない。
集る人々も真っ黒く日焼けした、田舎の信心深いチベット人たちばかりだ。
法王はこんな田舎の人々に仏教を教えるとき、きっと本土に帰ったような気がするのではなかろうか、、、
実際、ここから一山越えればそこは中国領チベットだ。

もちろん、勘ぐれば、政治的な要素もあるかもしれない。
ここは国境地帯であると同時に東のイスラム世界とも接している。
この地域が末永く自由なチベット仏教の砦として機能してほしいと願う気持ちもあるだろう。

それにしても、法王はもう75歳だ。いくらチベット人だと言っても高地に突然ヘリコプターとかで飛べば高山病になるのが普通だ。
実際、随行員たちは高山病に苦しむものも多いと聞く。
でも、法王は全くその様子もなく普通に次の日には法話を行なわれる。
このへんは地震被災地のジェクンドとかに無理して飛んで高山病に苦しめられたという、温家宝とかと比べるとまるで違う。
法王はよほど高地にお強いと思われる。
チベット人はもともと遺伝子的に高地に強いという話もあるが、私の知っているチベット人の多くが、平地生活の後チベットに行って、高山病にかかったと言っている。

ここで、ヌブラと法王に関する、とんでもない話を一つ紹介しよう。

法王は何と40年前、35歳の時にこのヌブラの谷を訪問されている。
でもこの時、法王を運んでいた飛行機は空中で事故を起こし、法王の命も危うかったのだ。

この時、法王をコックピットに迎えた元インド空軍のパイロットであるNestor D Conceicao氏が、法王の75歳の誕生日にちなんだ思いでとして語った、という話がネットに載せられていた。
http://www.bangaloremirror.com/article/81/20100717201007172117062003663aca1/Up-in-the-Air-.html

1970年10月23日、ダライ・ラマ法王がヌブラを訪問されるというので、インド政府がダラムサラに近いパタンコットの空軍基地から小さな軍用機を飛ばしてくれることになった。
Conceicao氏は朝の5時半に空軍基地に現れた法王をコックピットに座るよう促したという。
飛行機が高度5400m、レーまで10キロという地点でトイスと呼ばれるヌブラの軍用飛行場に向かうために左旋回を行なった。

そのとき、事故が起こった。
「突然、大きな爆発音とともに右のエンジンが火を噴いた。
私は直ちにエンジンを切った。
高い山々が目の前にせまり、状況の深刻さを知った。
ヌブラに向かうことを断念し、高度を下げ、レーの空港に緊急着陸することに決めた」
という。
twin-engined Packetこの時乗っていた、双発のパケット機はエンジントラブルで有名だった。
その飛行機は朝鮮戦争に使われたものを中古で購入したものだった。
この事故の後その飛行機はスクラップにされたという。

緊急降下の最中Conceicao氏はダライ・ラマ法王に状況を説明した。
「この間中ラマは高度計をずっと見ておられた。私は命にも関わる重大な問題が発生したので、申し訳ないが、機をレーに着陸させないといけない、しかし、目的地へのフライトもアレンジした、と説明した。ラマはそれを笑顔で受け入れてくれた。ラマは全くパニックになったり、ナーバスになったような様子を示されなかった」と彼は回想する。

「無事にレーの空港に到着すると、大勢のラダックの人たちが白いスカーフ(カタ)を持って飛行機に向かって走り寄った。ラマが機体から出ると直ちに、ラダックの人たちは目の前で地にキスし(半五体投地)白いスカーフを差し出した。私はその中の一人に、どうしてラマがレーに来ることが判ったのか?と尋ねた」

その答えは彼を驚かせた「私たちは法王がとトイスに行かれることを知っていた。でも私たちはここにも来てくれるようにと祈ったのだ」という。
彼は「その時、祈りの力にショックした」そうだ。

法王はこれまでに様々な冒険を楽しまれて来たということだ。
とんだ祈りの力だが、とにかく何事もなくてよかった、よかった。

それにしても、エンジンの爆発、炎上を見の前にして、少しも動ずることが無かったとは、さすが法王!






rftibet at 14:25|PermalinkComments(9)TrackBack(0)ダライラマ法王関連 

2010年07月19日

シガツェ、ナムリン村/ジェクンドの被災者は冬もテントで過ごせと

シガツェ、ナムリン村、5月21日、ウーセル・ブログより5月21日、シガツェ地区のナムリン(南木林)県ウユック・ソチェン(シガツェの北北東約100km)で起った、鉱山開発に反対する村人と武装警官の衝突については、5月26日付当ブログで報告した。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2010-06.html#20100626(下の方)

この時逮捕されたという30〜50人のその後の消息など、新しい情報は入っていないが、ウーセルさんの7月18日付のブログに、この現場写真が8枚掲載された。
http://woeser.middle-way.net/2010/07/8.html
貴重な写真なのでぜひ見てほしい。

ウーセルさんのブログより、シガツェ、ナムリン中国政府の大事な商売である、チベットの地下資源持ち出しを邪魔するものは誰でもこうなるということだ。
カルマ・サンドゥップ初め彼の兄弟が逮捕され、厳罰に処されたのも、環境保護という開発の邪魔となることをやるものは、だれでもこうなるぞ、と見せしめにされただけだ。

ところで、RFAの記事の中にはこの事件を取り締まった公安の役人が、自分のブログにこの時の様子を報告していたものがすっぱ抜かれ報告されていた。
彼のブログと関係がどれほどあるかは分からないが、この後すぐ、中国政府は「軍人、警察官、公安の職員が勝手にブログやソシアルサイトを利用することを全面的に禁止する」という通達を出している。

ウーセルさんのブログもいつ閉鎖されてもおかしくない。

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昨日(日本時間だともう一昨日)行なわれた「チベットの歴史と文化学習会」に参加された人も多いことであろう。
ジェクド(ジェクンド、ケグド)の地震被災地の現状についても、確か長田さんから報告があったことと思う。

その時に地震10日後に発表されたというビデオが見せられたと聞く。
そのビデオは以下のものではないか?と思われる。
http://yushuearthquakerelief.com/?p=464


毎日新聞に最近現地に入られたというCODE海外災害援助市民センターの吉椿雅道さんの報告が掲載されていた。

中国政府は有り余るほどの募金を集めておきながら、被災者たちに極寒の冬にも薄っぺらい火も焚けないテントの中で暮らせという。
死ねと言ってるようなものだ。

ジェクンド  ◇中国・青海省地震から3カ月、テントで越冬不可避
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20100718ddlk28040196000c.html

 死者2698人、行方不明者270人を出した中国・青海省の地震から14日で3カ月がたった。被災地は標高4000メートル近い高地。多くの被災者は草原に設けたテントで避難生活を送っているが、短い夏が終われば、厳しく長い冬が訪れる。今後の支援のあり方を探るため、CODE海外災害援助市民センターの吉椿雅道さん(42)が被災地を訪れた。【川口裕之】

 吉椿さんは四川大地震(08年)の被災地支援を続けてきた。6月2日〜同12日、四川省成都から陸路で片道2日半かけて被災地である青海省玉樹チベット族自治州に入り、最も被害が大きかった玉樹県中心部の結古鎮やその周辺で、支援物資を配りながら被災者や現地で活動するNGOから聞き取りをした。

 結古鎮では、土づくりの家のほとんどが倒壊し、一面が土色の状態。がれきの近くでテント生活を送る人もいるが、多くの被災者が、最大の避難キャンプとなっている結古鎮から1〜2キロ離れた草原で、テントを張って暮らしている。

 避難キャンプには数千のテントが無秩序に張られ、数万人の被災者が生活しているが、行政も十分に状況を把握できていない。テントも不足している。草原には川が複数流れており、今後雨期になると川があふれてテントが浸水する恐れがある。キャンプ運営が大きな課題となっている。

 被災地は9月には冬になるが、政府は仮設住宅を建設しない方針だといい、テントで越冬せざるを得ない状況だ。

 被災地ではチベット仏教が信仰されている。結古鎮にあるチベット仏教の聖地の一つである結古寺や、有名な禅古寺も被害を受け、プレハブで本堂を造るなどしているという。亡くなった僧侶もいる。被災者の信仰は厚く、「つらい時にはお経を唱えている」などと話し、受け取った義援金をすべて寺に寄付する被災者もいるという。寺をはじめチベット仏教の復興そのものが、被災者を元気付ける可能性がある。

 また、現地で飼育されているウシ科のヤクは、乳からバターを作ったり、毛をロープにしたり、ふんを燃料にしたりと生活に欠かせない家畜。ヤクの支援が被災地の伝統的な生活を支援することにもつながりそうだという。

 中国では、四川大地震(08年)で多くのボランティアが活動した。いわば「ボランティア元年」だった。青海省でも、避難キャンプで中国国内の複数のNGOが活動しており、四川省で活動していた20代や30代の若者もいるという。ただ、資金の問題もあり、冬が訪れる9月以降も継続して活動できるか、課題があるという。

 CODEではヤクや寺院を巡る支援などを検討中だ。救援募金も集めている。
 郵便振替00930−0−330579。加入者名CODE。通信欄に「中国青海省地震支援」と明記。募金全体の15%を上限に、事務局運営・管理費に充てる。問い合わせはCODE(078・578・7744)。【川口裕之】










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2010年07月18日

中国共産党は日本軍に感謝すべきか?/中国当局 人権活動家 ブログ遮断

昨日、テレビのチャンネルを回していたとき、ラサTVの画面上に日本国旗が映ったので、しばらく眺めていた。

日本国旗を掲げながら、10名ほどの日本兵が長い銃剣つきの銃を肩に担ぎ、町を歩いている。
道で遊んでいた中国人の子供たちを「邪魔だ」と次々に蹴飛ばす。
兵士が通り過ぎたあと、子供たちは後ろから日本兵に向かって石を投げた。
中に一人青年がいたが、彼も投げた。
日本兵は怒り、一斉に振り向き、銃を水平に構え、まず一人の子供の胸を撃つ。
二人目が撃たれる。

先に路地に逃げていた青年は、自分の弟(或いは子供)が撃たれたのを見て、すぐに
出て助けようとする、がそれを美人のお姉さんが必死で止める。
今出てはお前も殺されるだけだ、というわけだ。
そうしている間にも、日本兵は子供たちをいたぶり、挙句に笑いながら、一人の子供の胸を銃剣で刺し、殺す。
そして立ち去る。

というシーンが流された。

「またか、まだやってる」と思うと同時に、すぐにチベットの事が連想された。
最近も何度もお知らせしているが、チベット人たちが鉱山開発などに反対し抗議の集会を開くと武装警官隊が出動する。
住民が抵抗の印に石を投げることがある。
そうすると、中国側は銃を水平に構え、住民たちに向かって発砲する。
何人も何十人もこうして撃たれ、死亡したものも沢山いる。

中国は日本軍をネタに、自分たちの美しい抵抗の英雄談ドラマを今も作り続けている。
一方で、今、チベットや新疆ウイグルで自分たちが同じような蛮行を行っているのだから、解らないのは中国だ。

もっと解らないのは、中国共産党が日本軍と直接戦闘したわけではないからだ。
共産党はむしろ華北を中心とした解放区を拠点に日本軍との正面衝突は避けて力を温存し、国民党が日本軍とともに消耗するのを待っていた。
そして、大戦で日本軍が負けたのち、ソビエトの援助を得て、国民党との戦いに勝利しただけだ。

つまり、国民党をやっつけてくれ、敗戦してくれた日本軍に共産党は感謝すべきなのだ。
もちろん、日本の嘗ての侵略戦争を正当化する気は毛頭ないが、それが今の共産党が中国を支配するきっかけ、手助けとなったことは間違いない。

もっとも、そんな当り前の歴史的真実も中国では都合のいいように捻じ曲げられ、ドラマ化され、宣伝される。
だからもちろん、中国人のほとんどは日本軍と戦い、中国を救ってくれたのは今の中国共産党だと信じ込んでいる。

中国人だけじゃない、日本人を含めた多くの外人さえ、ナイーブな人たちはそのプロパガンダにまんまと騙され、そう認識している。

この辺のチベット人も、サンジョル(新参者)たちはそう思っている。
世界で一番残酷なのは日本人だと思っている。(中国の軍や武装警官の暴力は相対化される)
だから、チベットでは子供が悪さをすると、親は「やめないと、日本人(軍)を呼ぶよ!」と脅すそうだ。
日頃、テレビで散々日本軍の中国人惨殺シーンを見ている子供たちは震え上がるそうだ。

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以下、今日の東京新聞朝刊

<中国当局 人権活動家 ブログ遮断>

2010年7月18日 朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2010071802000062.html

 【北京=朝田憲祐】中国の大手ポータルサイトが運営するブログのうち、人権活動家ら約百人のブログが今月中旬から、閲覧できなくなったことが分かった。関係者によると、サイトの管理者は「(当局の)主管部門からの指示により、やむを得ず遮断措置を取った」と説明したという。中国当局による言論統制の強化とみられる。

 関係者によると、見られなくなったのは▽共産党の独裁廃止を求めた声明「〇八憲章」の主要執筆者の張祖樺氏▽同憲章に署名した法律学者の賀衛方氏▽民主派弁護士の浦志強氏−らのブログ。十四日ごろから、「管理人により削除されました。ご不便をおかけします」などと表示されるようになった。

 大手ポータルサイト「新浪網」にある張氏のブログでは、「中国にはなぜ市民社会が必要なのか」といった項目は表示されるが、本文を閲覧しようとすると「このページは表示できません」となる。

 一方、サイトの管理者は、一連のブログ遮断は「独自の判断ではない」と強調。指示を出した「主管部門」がどこかについては口を閉ざしたという。ある民主派知識人は、本紙の取材に「当局による大規模なネット言論の弾圧が始まった」と批判した。

 中国当局による情報統制は強まっている。今月一日には、主要都市ごとに発行され独自報道に力を入れる「都市報」と呼ばれる新聞に対し、各地の都市報同士の記事の交換を禁じる通達を出した。自社以外の記事を載せる場合は、新華社の配信だけを使うよう指示した。

 今年の全国人民代表大会(全人代=国会)の直前、国内十三紙が現行の戸籍制度を批判した共同社説を一斉掲載するなど、都市報に広がる独自報道の動きを抑え込む狙いがあるとみられる。これに対し、一部の都市報の幹部は、中国当局の幹部に対し、通達の取り消しを求めたという。








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2010年07月16日

7月18日、第9回「チベットの歴史と文化学習会」のお知らせ

法王とリチャード・ギアリチャード・ギアが来月8月、映画撮影のためラダックに入るそうだ。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=27746&article=Richard+Gere+to+shoot+Tibet+film+in+Leh

彼がプロデュースした素晴らしいランチャ(車)のコマーシャルをもう一度見たいと思われる方は以下へ:
http://paultan.org/2008/07/06/lancia-delta-richard-gere-tv-commercial/

法王も今月21日からラダックの下カルギル地区に入られティーチングを行われる。
http://www.dalailama.com/

来月18日からはスピティの南ジスパ、22日からはマナリでティーティングを行われる。

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次の日曜日に開かれる大事なチベット学習会のお知らせ。

以下、この学習会の中心人物である、貞兼綾子さんから友人宛てとして送られてきた案内を、そのまま転載させて頂く。


love&peace! 友人のみなさま

もう1ヶ月以上前になりますが、第9回チベットの歴史と文化学習会のご案内をしました。7月18日日曜日、あと3日(2日)後に迫りましたがもう一度お誘いします。既にお申し込み下さっている方はごめんなさい。当日のプログラムは http://tibet.cocolog-nifty.com/blog_tibet/2010/05/7189-f0b2.html またはこの最後で。
 
 最近になって、日本の二つの地域でチベットゆかりの人々を厚く敬い語り継ぐ人々があることを知りました。一カ所は長野・善光寺の裏山に1964年に建立された「西蔵宝篋印塔」の法要を続けてきた人々。先月ダライ・ラマ14世が来日の折、長野と横浜で講演されました。長野ではこの西蔵宝篋印塔にもお参りされ、土地の人々の法要では法王自ら経をあげてくださいました。この塔は当時日本に来ていたチベット人僧たち4名が世界平和を祈願して建立したものです。この4名は実は私の良く知っている方々でした。(知人のブログ http://ameblo.jp/tibesen/day-20100705.html で今頃になってようやく。。お恥ずかしい。)当時(今もあるけど)、東洋文庫チベット研究室に共同研究員として招聘されていた方々ですが、私が同じ研究室の片隅にいたころはそのうちのお一人、ンゴルタルツェ・ケンポ通称ソナム・ギャツォ師(サキャ派の活仏)のみで、他の2名ケツン・サンボ師とツェリン・ドルマ女史はインドの仮寓先へ戻られた後でした。もう一人は日本人の多田等観師。13世ダライラマの時代にラサのお寺で10年間(1913−23)の修業を積み、博士号に相当する‘ゲシェ’の学位を授与された後、多くのチベット仏典とともに帰国された碩学。チベット学の大先輩ともいうべき方です。
 そして、もう一つは、多田等観師ゆかりの東北花巻市観音山。7月の初めに友人たちと訪ねました。多田先生(と東洋文庫の関係者はお呼びしていた)が住まわれた一燈庵とそこから望む花巻の田園風景。そこには今も「等観さん」と親しみを込めて語り、ゆかりの品々を大切に守ってきた人々がありました。秋田出身の多田先生がその地を愛されたのは、純粋に敬愛と好奇心をもって接していた人々がそこにいたからではないか、と思われました。チベット人に囲まれているような安らぎだったのでしょう。

日本におけるチベットの文化紹介に多大な貢献をされたこれら4名の方々は既に亡くなられていますが、今後この長野の「西蔵宝篋印塔」や花巻市観音山は、折に触れチベット人の友人たちを誘ってお参りしなければならない聖地となりました。

というわけで、今回の学習会もチベットの歴史や文化をご紹介するメニュー満載です。どうぞ、お時間を作ってご参加ください。入り口にてお待ちしています。

貞兼綾子 


学習会へのお申し込みは私宛↑か 以下へお願いします。
 参加お申込みページはこちら(http://www.tibet.to/gaku9/

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2008年チベット蜂起をきっかけに始まった「チベットの歴史と文化学習会」。第9回目です。
 pdf版のチラシはこちら

第9回「チベットの歴史と文化学習会」
ジェグド復興支援学習会
〜今、わたしたちにできること〜


■日時:2010年7月18日(日)13:00〜16:30(開場12:30)
■場所:文京区民センター 3-A会議室
    交通 営団丸ノ内線・南北線 後楽園駅徒歩3分
    都営三田線・大江戸線春日駅徒歩1分
    JR総武線水道橋駅 徒歩13分
    http://www.city.bunkyo.lg.jp/gmap/detail.php?id=1754
■参加費:¥1000

■参加のお申込み
 参加お申込みページはこちら(http://www.tibet.to/gaku9/)■プログラム(予定)

(1)特別講義「“チベット解放”の言説をめぐって」
講師:大川謙作[日本学術振興会特別研究員(東京大学)]
今日の中国政府は自らのチベット統治の正当性を主張する際に、「共産党はチベットを暗黒の封建農奴制から解放した」という表現を多用します。講義では、こうした中国の「農奴解放言説」を現実の歴史過程を参照しながら検討して行きます。

(2)映像『チベット〜失われた世界 II』(イギリス制作)
前回の1930年代〜1940年代のチベットに続き、今回はそれ以降1949年〜1980年ころまで。中国の侵攻と同時に世界から再び遮断されたチベットの時間を貴重な映像で辿ります。約30分。日本語字幕

(3)特別文化講義「チベットの芸能と民族楽器」
講師:小野田俊蔵[佛教大学歴史学部歴史文化学科教授]
   テンジン・トゥンドゥップ[チベット漫談・歌手 http://tenzindhundupmusic.blogspot.com/

チベット漫談テカルThekarや各地の民謡などの伝統芸能を実演しながらダムニェン・ギュマン・ピワン・リンブ等のチベット楽器の解説をします。実演・解説は唄って踊れる大学教授小野田先生と日本で唯一のテカル芸人テンジン・トゥンドゥップ氏。

(4)Q&Aと最新チベット情報「 ジェグド大地震〜今 私たちにできること〜」
進行:長田幸康(I love Tibet!HP 主宰)
呼びかけ:渡辺一枝(作家)
4月14日、ジェグド(ジェクンド)地域を襲った大地震。映像と現地報告を通して、被災地復興に対し日本にいる私たちができることを考えます。

*発言者は都合により変更となる場合もあります。

●主催:チベットの歴史と文化学習会
●お問い合わせ:e-mail: trb.gakusyuukai@gmail.com       

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宣伝:
この中、(2)映像『チベット〜失われた世界 II』(イギリス制作)の日本語版はルンタ・プロジェクト制作。
会場では『チベット〜失われた世界 I&II』日本語版のDVDが販売されるはず。

ルンタに寄付するつもりで、これを購入し、日本国内に広めて下さいますよう、お願いします。


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2010年07月15日

BBCのラサレポート/ジョカン寺の茶番/初転法輪の日/バイクのラクパさん

b0f57fbd.jpg昨日のBBCで、最近行なわれたラサ・ジャーナリスト・ツアーのレポートが流された。
「BBC given rare tour of Tibet 」のタイトルで以下にアクセスすれば、見ることができるはずだか、
http://www.bbc.co.uk/news/world-asia+pacific-10639713

なぜか、私がやるとCMに移行するだけで、見ることができない。

ま、とにかく、非常に面白かった。
ラサの街角撮影では武装警官がどれほど至る所にいるかが見せられた。
道を走れば、すれ違う何十台もの軍隊のトラック。
2008年3月の映像も流された。
その後、街角インタビューの様子が映された。
外人のインタビューを避ける人々、中にはかろうじて「危険過ぎて話せない」と話した人もいた。

一番笑えたのは、BBC特派員が西蔵大学の中に入り、学生にインタビューを試みる場面。
特派員のすぐ横には黒いサングラスを掛けた大きくていかにも怖そうな監視員が立っている。
特派員は構わず学生に近づき話しかける。
監視員はすかさず学生との間に割り込もうとする。
学生も顔を隠して逃げる。
再び、トライするも同じように監視員の顔をみて学生は逃げる。


次に、例のジョカンでの、かつて抗議の声をメディアの前で上げた、僧ノルゲへのインタビューのシーンが流される。
「ダライ・ラマを信仰するか?」という質問に対し、僧ノルゲは「イエス」と答えたにも関わらず、通訳はそれを「ノー」と訳した。

コメントに「まるで子供じみた茶番劇だった」と。

これはこれは、ここまでやっても大丈夫なのかな?とちょっと心配するほどによくできていた。
NHKさんも入ってたら比べることができて、もっと面白く見れたかもしれない。

日本の時事さんとかThe New York Timesさん はチベット語が解らなかったのか?通訳の英語しか聞いていないように書かれていた。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2010-07.html#20100702

BBCからのこの辺の状況を詳しく書かれた記事も出た。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=27742&article=No+room+to+talk+in+'stable'+Tibet

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<ラサ、ジョカン寺での中国の茶番劇>

ラサのジョカンと言えば、最近、偽パンチェン・ラマ11世がジョカンで第5世ドジュブ・リンポチェの選定儀式に参加したというニュースがあった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100706-00000070-scn-cn

この先代ドジョブ・リンポチェから尼僧になる儀式を受けたという尼さんが偶然内に一人いた。
彼女によれば、このリンポチェは早くから中国側に寝返ったリンポチェとして有名だったという。

で、選定は「伝統に則った金壺方式」で行なわれた、と中国はいう。
この金壺方式は、確かに清の時代にパンチェン・ラマ9世の選定時他、数回行なわれているが、チベットの伝統的やり方では決してない。

第一、 相手が清と中国共産党では民族も国も違う。
その話を置くにしても、
清とチベットとの関係は「チュ・ユン(寺と檀家)」関係であったと普通の歴史家は言う。
「チュ・ユン」関係の本質は皇帝などが僧侶に保護を与える動機が自分への忠誠への見返りではなく、仏の教えと恵みに対する見返りだという点である。
そしてその関係は皇帝などは上師(ラマ)の弟子であり、上師(ラマ)への帰依者なのだ。

歴代の清の皇帝や家族はチベットの高僧から潅頂も受けているというチベット仏教徒だった。
中国共産党は宗教を否定する唯物論者のはずだ。
実際、60年代、70年代を通じて中国共産党は徹底的にチベット仏教を破壊し尽くそうと試みた。
だが、結局頑強なチベット人の信仰心を無くすことはどうしてもできなかった。
そこで、今度は政策を変更しチベット人を統治するために仏教を利用しようと試み始めたのだ。

そうでなければ、何で科学的共産党が生まれ変わりの仏教的聖人を探す必要があるのか???

ところで、この偽パンチェン・ラマ11世と呼ばれることになった、ノルブ少年も20年近く前に同じく金壺のくじ引きにより選ばれたのだが、その時ジョカンの現場に居合わせたリンポチェがいる。
1998年アメリカに亡命されたアルジャ・リンポチェArjia Rinpocheである。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51448899.html

今年5月にダライ・ラマ法王をインディアナに招待した時、VAのインタビューに答え、このノルブ少年選出の現場の状況について詳しく話されていた。

リンポチェによれば、この時、金壺の中には三本の棒状の籤が入れられていたという。
その内一本はダライ・ラマ法王が公認したニマ少年だった。
籤を引く前に、籤を引く係りとされたリンポチェに「一本長くしてあるから、必ずそれを引くように」と中国の役人が行ったという。アルジャ・リンポチェはすぐ近くでこれを聞いていた。

結果は計画通り、共産党幹部の息子であるノルブ少年と決まった。
その時、その場にいたノルブの母親は大いに喜び、はしゃいだという。
「そんなにはしゃいだりしてはいけない!」と母親は役人に叱られたとか。

中国共産党の茶番劇は昔も今も変わらない。

これらすべての茶番劇がチベットでもっとも聖なる仏像と言われているジョオ・シャカムニ仏の目の前で行われているというのがまた何ともいえない。

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ツクラカンで五体倒地に励むお年寄り 15.7.2010<初転法輪の日>

今日はチベット社会の休日。
今日は「初転法輪」の日と言われる、シャカムニ・ブッダがブッダガヤで完全な悟りを開かれた後、サルナートの鹿野苑
で昔の修行仲間5人に初めて仏教の教義を説いたとされる日なのだ。

そこで、ダラムサラのツクラカンには朝から僧尼、俗人信者が集まり、夕方まで法要が行なわれている。
写真のように今日は五体倒地に励むお年寄りが目立った。

ツクラカンで五体倒地に励むお年寄り 15.7.2010以下ウィキペディアの「初転法輪」の説明:
釈迦は当初、仏法の説明は甚だ難しく、衆生に教えを説いても理解されず徒労に終わるだろうと、教えを説くことをためらったとされる。
『マハー・ワッガ』をはじめとする初期仏典には、沈黙を決した釈尊を索訶主梵天(brahmaa sahaMpati)が説得したという伝説(梵天勧請)が記されている。
梵天の懇請を容れた釈迦は、世間には心の汚れの少ないもの、智慧の発達した者、善行為を喜ぶものもいることを観察した上で、最終的に法を説くことを決意した。「甘露の門は開かれたり 耳ある者は聞け」に始まる有名な偈はこの時説かれたとされる。)

このとき説かれた教えは、中道とその実践法たる八正道、苦集滅道の四諦、四諦の完成にいたる三転十二行相、であったとされる。

初転法輪の日 ダラムサラ ツクラカン 15.7.2010尼たちの話によれば:
嘗てラサでは、この日、大勢の僧尼や俗人がラサ周辺のゴンパ回りピクニックを行っていたという。
ルートはまず朝早く遠くて高い所にあるンガリ・ゴンパに向かい、その後パボンカ・ゴンパ、そしてチュプサン・ゴンパを巡って、夕方ラサに帰る。
この時期、山にはシンドゥンと呼ばれる赤い実が沢山あるそうだ。
その実は食べることもできるが、女性や尼僧はその赤い実を糸に通し、これを首飾りにする。
道すがら、歌を歌い合い、ふざけ合う。
山の高いところにはチュロと呼ばれる、大きな葉がありこの茎は酸っぱいが食べられる。昼食時にはこれを集めツァンパと一緒に食べる。

アニラたちの楽しかった思い出の一つだという。

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最後になったがフリーチベット・ワールドツアーのラクパさんの日本での様子がYoutubeにアップされたそうだ。

今日はネットの状態が非常に悪く、朝からこれを見ようとするが、何時間たってもダウンロードできず、私はまだ見ていない。



rftibet at 18:00|PermalinkComments(4)TrackBack(0)チベット内地情報 

2010年07月13日

公盟法律研究中心(北京大学)による「チベット人地域の行政構造に存在する主な問題とその対策についての提案」

趙紫陽の時代から、チベット問題を悪化、複雑化させている大きな原因として、抵抗を金儲けに利用する地方政府と公安、軍隊の体質が挙げられているが、中国の最近のまともな研究者も同様の論文を発表した。

ただ論文は地方政府に問題の責任を負わせ過ぎの感がある。
中央政府にも監督責任があることには言及されていない。

まともな論文を発表したこの研究所はその後、昨年7月17日に中国政府の家宅捜索を受け、事実上活動停止に追い込まれたという。

この論文を訳し、ブログに掲載されたのは青海省で日本語教師をされている阿部治平さんだ。

http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-1224.html

2010.07.02  東北チベットについてのある見解 
――チベット高原の一隅にて(84)――                
        
2年前、ラサを中心にチベット人地域の各地でチベット人の騒乱(3・14事件)があった。事件後、西寧の町から民族服と赤い僧服が目立って減り、チベット人に物を売らない店があったり、役所の手続きが後回しになったとかいう不満をチベット人から聞くことがあった。
チベット人地域の問題は外のものにはわかりにくいが、海外には知ってか知らずか中国政府を批判してことたれりとする「チベット通」がいる。

ここに要約を紹介する公盟法律研究中心(北京大学)による「チベット人地域の行政構造に存在する主な問題とその対策についての提案」(青海蔵族研究会雑誌「青海蔵族(2009・2)」という論文は、問題の所在を知る上で重要だと思う。足を中国共産党の民族政策に置きながら、現地調査にもとづいてチベット人地域行政の病弊について述べたものである。
<――のあとは同論文中の関係ある記述の引用、( )内は阿部の注・補充>

結論部分
市場経済進展の下、外地の人がチベット人地域で多額の富を獲得するのをチベット人側からみると、チベット人地域に対する国家からの支援よりも、搾取されているという実感のほうが強い(普通のチベット人は中央政府による多額の投資と援助を知らない)。
これと同時に伝統的な信仰も現代化の衝撃をうけ、寺院の対応も変貌をせまられている。そのためチベット人若者の多くは混乱し心の置きどころがないという困惑のなかにある。
この十数年の間に(行政の)各レベルで一群のチベット族幹部が養成されたが、彼らはその権力を利用して、国家の(多額の)援助を少数官僚の出世プロジェクトと個人の財産に変えてしまった。
彼らは大衆とも多元的な思想社会ともうまく対処できず、いつも大衆との対立を激化させ、あげくにその後始末を中央政府に頼む。
チベット人は内地の住民同様いつも地方官吏に多くの不満を感じている。
3・14事件はこうした日ごろの困惑と不満に、宗教など国外勢力(すなわち亡命チベット人)が火をつけて爆発したものである。

提案部分
1、
一般チベット人の利益を尊重、保護することを前提に、チベット人地域政策を調整し、地域の特徴に適った発展政策を制定べきである。

2、
チベット人地域の経済構造の合理的発展のために、とくにチベット人全体の福祉のために十分な機会と利益を獲得しなければならない。地元の経済主体を育て極端なアンバランスを改変し、域内の(小)都市と農牧村間格差を縮めるべきだ。
援助の範囲をチベット自治区以外のチベット族自治地方に拡大すること。資金と技術、人材の援助を結合したモデルを保持し、外資導入と地場産業の保護を図ること、また域内農牧業に対して個別の援助と保障を進めること。
――多くの人が中央政府の政策を知らないから、それと地方政府の決定の違いが分からない。中央政府はしばしば地方政府の失政の責任をかぶせられている。

3、
民族区域自治政策を実現し、地方行政に対する有効な監視を強め、民主化の進展を早めるべきだ。腐敗・行政(不公平・非能率)・汚職などの行為に対し、無原則的甘やかしをやってはならない。とくに“反分裂”に名を借りて地方で圧政をおこなう官僚は叩くべきである。さらに合理的で民主的なチベット族幹部の選抜制度を確定すること。
――我々はさる県政府が農民と水力発電所の紛争を処理するに当たって「反分裂、安定維持」事件としたのを見た。
――チベット共産党創始者プンツォク=ワンギェル先生はいう。
「政府の中に“反分裂”で飯を食っている連中がたくさんいる。うわべでは“反分裂”を叫ぶが、実際は個人の利益をここに求める。彼らは自分の(政策上の)過ちを認めず、極力“海外敵対勢力”のせいにすることで自分の地位と利益を固め、権力と(利益供給)資源を確保するのだ」と。
――チベット人地域では官僚は内地のような広範囲の異動がない。そこで地元に権力の複雑なネットワークを作るから汚職腐敗が必然的に多くなる。この十数年の間に官僚・経済界の新貴族は、復活した寺院・僧侶と一緒になって「新貴族階層」を形成した。「チベット人地域の制度の背後には(利益供給)資源の分配問題がある。(行政の)各レベルごとに集団的利益がある(西北民俗学者韋明博士談)」
――「新貴族階層」は中央認可の合法的な管制高地を制圧し、その権力は旧支配者と比べてさらに強い。彼らの中央への忠誠心はかつてないほど強力である。だが農牧民の認めた権威ではないから、農牧村では旧支配者ほどの影響力はない。国家と一般大衆が(政治的に)分岐したとき「緩衝機能」は果たせない。
――旧支配者は「地元」と「国家」の二重の力関係のなか、支配維持と人心の安定を図りバランスを求めた。いま新貴族は郷土とか集落とか宗教との間に深い亀裂がある。チベット人は新貴族を彼らのところの人間だと思わない。

4、
チベット人地域教育(省略)。

5、
チベット人の宗教信仰の自由を十分に尊重保護する。正常な宗教生活と活動の回復と支持。宗教的生活の重要性を認識し宗教権威者の役割に注意する。正常な法会・巡礼修行・求法・僧侶の昇級試験などの宗教活動を回復すること。

――(3・14事件後)寺院と僧侶に対する措置は寺の威信を傷つけた。僧侶を検査し、寺院を閉鎖し、外地の遊行僧を寺から追出し、寺院内で「社会主義・愛国主義教育」をやった。これは専心修行中の僧にとっては干渉であり、政治的なプラスは少しもなかった。
――チベット仏教の伝統制度と文化を現代化の阻止勢力と見るべきではなく、むしろチベット現代化の上での役割調整をしてから、それに依拠すべき「資源」と見るべきである。
――国家の政治上の文言には、宗教政策上の硬直性と立ち遅れがある。また理論と実践上の不一致がある。地方官僚は国民と信者との関係を明確に認識できない(チベット仏教徒と国民が両立しないと考えるのか?)。そのため愛国主義教育のやり方で半強制的に僧侶を還俗させるといったことが生まれている。
――(市場経済の浸透・道路網の発達とともに)僧侶は俗人化し、寺院も管理方式がかわり、信者の観念も変わってきた。宗教内部の権威(と教育)、寺院内の組織も改変しなければならない。寺院の教権と地方権力の問題、寺院と僧侶の管理をどうするか。いま国家にはその準備と行動が欠けている(寺院にも)。

6、
チベット人地域の問題を解決しようとすれば考え方を変え、もっと知恵のある方法をとるべきである。突発事件を処理する時でも強圧的態度を改め、地元の積極的な勢力(例えば僧侶)を動かして解決すること。

――3・14事件の原因は(経済)発展が造成した格差、経済面での不満、移住問題、国外の影響、宗教上の感情、事件現場の「集団心理」などで、単純に「暴力分裂主張」に帰することはできない。
我々は事件の迅速な鎮圧と矛盾の解消、人心の安定、汚職官僚の処置、民族間の更なる団結と和睦を主張したが、政府の強引な宣伝と軽率な処理はマイナス効果を生んでいる。
――(事件後の)宣伝は「対暴力」に傾きすぎた。暴力を10数時間もテレビとインターネットを通して全国・全世界に伝え、事件の起因を「海外勢力」だけとしたから、実態を知らない漢族はチベット人全体に対する強い民族的反感をもった。
――各地政府は事件後チベット人を厳重に統制し、普通のチベット人に「政治上の関所」(を通すかどうかの検査をして)、多大の不満を生み人心を離反させた。(現場官僚に)過度の猜疑心や排斥、不公平な扱いが生まれ、官僚ですらホテルや空港でチベット族はゆきすぎた検査を強いられた。

7、
チベット人地域の法治をもっとすすめること。チベット自治区と他の自治地方の条例は公布されているが、下位の法規が欠けている。そのカギ的部分は資源の所有権・措置権などの規定だ。これについてチベット人地域各方面の専門家が参加する討論と提言を奨励すること。

――チベット人地域では「安定(何ごとも起らない)」は最重要のこととなった。一方チベット族官僚は硬直した考えかたをするうえに、中央からは巨大な権限を与えられている。ところが(誰も)官僚を有効に監督することができない。「国外勢力とチベット独立」(が犯人だ)といういいかたは地方官僚の失政の「隠蓑」、圧制による社会不満を隠す「イチジクの葉」となっている。
――甘南(甘粛省夏河県曲奥)では農牧民から治安がひどく乱れているという話があった。「牛羊が盗まれ、犯人はつかまったが、2日で釈放された。家畜は返らず、売り飛ばされてカネは(どろぼうと)公安局が山分けした」

8、
民族団結を呼びかけるとき、改革開放によってあげた成果を宣伝して過去の農奴制が過酷だったという宣伝はやめるべきだ。(市場経済)発展の活力を取上げ、同時にチベット人地域社会が直面する問題を率直に述べ、分裂と民族仇敵視の民族主義の暗礁を警戒すべきである。

9、
危機処理のとき、中央政府は「仲裁者」として、できる限り地方官僚の不法行為とは違った立場を保持すること。


rftibet at 19:30|PermalinkComments(8)TrackBack(0)その他