2010年09月

2010年09月30日

中国人作家・廖亦武氏

中国で服役中の民主活動家、劉暁波氏(54)にノーベル平和賞を授与するようとの働きかけが世界中で行われている。
http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010092801000047.html

一方、中国政府はノーベル賞委員会とノルウェー政府に対し、彼に平和賞を与えないようにと圧力をかけている。
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100928/erp1009282008006-n1.htm

これで彼の受賞の可能性は益々高まったと思われる。

で、今日は興味深い1人の中国人作家を紹介する。

廖亦武氏も1989年に反体制派として逮捕されている。
外国渡航申請15回の後やっと今回ドイツへの渡航が許可されたという。
その彼のドイツ滞在記の記事を個人のブログに訳されていたのを見つけたので、それを転載させて頂く。

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http://www.digi-hound.com/takeuchi/category_5/item_33.html#more
元記事: http://www.canyu.org/n20191c6.aspx

廖亦武(中国の作家 liao yi wu ・リャオ・イウ)ベルリンに。

この一週間、ベルリンとハンブルグに滞在していた 廖亦武に、人々は好意のこもった好奇の眼差しを向けた。まず衣装が人目を引く。浅黄色の詰め襟の上着、革のリック、中には簫の笛と托鉢の鉢。そして剃りあ げた頭。とある中国の女の子は「和尚さんの恰好ね」と言った。彼の作品を読み、その境遇を知っている人は放浪者の恰好をしたヒッピーか、無頼のバガボンド と思うだろう。一見この伝奇作家はちょっと内気な仏像のように厳かな顔におもえるが、一緒に数日過ごすと心の中は悲しみに満ちた、だが原則は決して譲らな い人物だとわかる。

廖亦武は15回もの渡航申請の据え、ようやく9月15日にベルリン文学祭の招請でドイツに来ることが叶った。ベルリンのブライプトロイホテルの文学空間プ ロジェクトを受け、作家として6週間の滞在だ。というのは彼の「中国底辺訪問記」が英語とドイツ語に翻訳され(Corpse Walker,黄文译)和文(Fraeulein Hallo und der Bauenkaiser)、ドイツ社会に大きな反響をまきおこし多くの読者がうまれたからである。来年には「証言」がドイツ語に、「極東の羊飼い」が英語 に翻訳される予定だ。 それに加えて、ドイツの政治家は彼の「出国の権利」についても重大な関心をもっていた。だから廖亦武がベルリンに来ることは、文化界のホットニュースなの だ。記者会見では質問は政治方面に集中しそっちのほうばかり聞きだそうとして、廖亦武が詩人で文学者で音楽芸人だという点はどうでもいい、みたいだった。 「どうして今回出国できたのか?」「帰国は大丈夫なのか?」「改革開放以来、言論の自由は広がったか?」「あなたが出たことによって追随者があらわれると おもうか?」「出国について当局と取引は?」。こうした質問に廖亦武は丁寧にこう答えた。「私の作品は中国の土壌にねざしたもので、自分は出国の権利を粘 り強く堅持したように帰国の権利もそうする、作家は内心の自由がなければならず、それがなければどだい作品など生み出せない」。

廖亦武にとって1989年 が自身の生活と作風に大きな変化が生まれた転換点で、獄中の体験が彼に底辺を知るきっかけになった。作家としてはこれは無尽蔵の宝の山だった。政治的な問 題については廖亦武は「それは審美眼の問題。何が美しく、なにが醜いかは私と役人達では違うみかたをするんだ」と答えた。 ハンブルグ滞在中、廖亦武は文学祭主催者の報道界の人々や、評論家、ノーベル賞受賞者のグラス、芸術家達、社会活動家、あるいは貴族やお姫様とまであって 話を交わし、その印象は彼の頭の中をかけめぐっているだろう。中国最底辺の人々と過ごしてきた廖亦武にとってドイツの上流人士との落差をどう感じたろう か。しかし、そうはいっても人間であることは同じだ。さまざまな人々の精神と暮らしを観察する作家の目には言語や文化、習慣の違いは邪魔にはならない。無 数の握手や抱擁、賛美、集会、食時間、公演、問答を通じて、廖亦武に最も深い印象を残したのはWolf Biermannだった。Biermann氏はかって東ドイツ政府の弾圧をうけ、最後には国から追放されてた。帰国を許されなかった歌手・作家として廖亦 武の境遇と心情を同じくしている。最初の日に友にベルリンで歓談し、翌日もハンブルグで17日夜に開かれた朗読演奏会に出席した。

この会場はガラス屋根造りのハングルグ歴史博物館の大ホールで開かれ、多くの骨董的な彫刻や石碑が置かれているが、みな古いハンブルグの建築から持ってき て保存されている。黄昏時の光がガラスの天井から満員の200席以上の椅子を照らし、黄昏の光が弱まるとスポットライトが舞台を照らし、司会者の紹介で中 国式の服を着た廖亦武が木槌で鉢の縁を摩擦して出す音色が空間を貫き、続いて彼の甲高い歌声が突然会場に響いた。♪黄海の水はまさに尽きようとし、母親達 の乳房も枯れようとしている・・・。歌声は重厚で時に低く、高く響く。これは歌であると同時に彼の叫びだ。続いて女優が彼の「死刑囚が死を語る」を朗読し た。 〜略〜(詩はムズカシすぎて手に負えませぬ(^^;))

つづいて廖亦武は笙を吹いた。これは音楽だが大自然の音ではなく、人間の情感ーやりきれなさ、屈辱、悲しみ、いきどおり、有為転変、しみ通るような優し さ、理解となぐさめが万華鏡のようにつまっている。ホールの聴衆は黙って聞いていたが、突然、雷雨が降ってきてガラスの屋根のドームにビュービュー当たっ て跳ね返り、まるで笙に伴奏するかのよう。会が始まるまでは冗談ばかり飛ばしていたBiermann氏もこのときは真剣な顔でノートを取っていた。女優が 低い声で「遺体化粧師」を朗読。これは廖亦武が命がけで大酒飲みの親方と7度酒を飲んで七転八倒して書き上げた物語だ。

プログラムが終わると会場は一切を打ち消す大拍手に包まれ、廖亦武は舞台上で両手で顔を覆った。是まで受けた一切の屈辱や鬱屈、抑圧、悲しみがきれいさっ ぱり洗い流され、彼の音楽と文学は文化や言語を越えて、人々の心を動かしたのだ。人々は拍手で彼を抱き、慰め、Biermann氏は舞台に走り寄り、しっ かり廖亦武を抱きしめ、涙を流した顔で見つめ泣いたのだった。Biermann氏の顔は涙でいっぱいで、廖亦武は必死に涙をこらえていた。74歳になって も腕白小僧のようなBiermann氏がこのように心情を吐露するのはまことに心打つものであった。

この二人の芸術家は年齢が20歳も違い、会話は通訳を 介してなのだが、互いの精神は直に結ばれ演奏中も互いに対話できるのだった。このあと10月にも共同の音楽会おw開催するがきっと成功することだろう。 会が終わると、聴衆は長蛇の列をつくって7,80人がサインを我慢強く待っていた。一年前に出版された「底辺」を読んでいなかった人々は争うように買い求 め、作者のサインを求めていた。 ベルリンでの朗読・演奏会は大成功で、廖亦武は聴衆の心を捉えただけでなく、中国の昔からの友達と再会し、あらたな華僑の友達と知り合えた。

ベルリンの人 々はこれから数週間、彼が街を散歩して、サインの求めに応じたりする姿をみることだろうし、本を読んだ人は彼が中国からやってきた心と精神の医者であり、 義侠の士で、著作のために監獄にほうりこまれ、殴られ、飢えさせられ、残酷な刑罰に処せられたことを知るだろう。足もパスポートもあるのに出国できるかど うかわからず、中国人なのに祖国や同胞と一瞬にして失うという可能性に何十年も脅かされつづけたことを。だが、廖亦武は個人の利害損得にこだわることな く、心をけがすことなく生き抜いてきたのだ。 作家としてあなたの夢はなんですか?という質問に答え「中国人に自分たちの審美力を取り戻させることです」というのが廖亦武の答だった。 9月15日、ドイツにきて共にすごし19日に分かれるとき、廖亦武は突然「こんなに多くの外国人をみたのは初めてだよ」と言った。英雄の本領は、まさに子 供のような廖亦武氏であった。

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2010年09月29日

アムド、ンガバで1人のチベット人に仲間を匿ったとして4年の刑

chudharPhayul[Wednesday, September 29, 2010 12:49] By Kalsang Rinchen
http://phayul.com/news/article.aspx?id=28223&article=Tibetan+man+sentenced+to+4+years'+jail+in+Tibet's+Ngaba


Dharamsala, September 29

9月25日、ンガバརྔ་པར་県中級人民法院はチベット人ドゥンゴ・ギャッパདོན་ཁོ་རྒྱག་པに対し4年の懲役刑を言い渡した。
罪状は当局が指名手配していたチュダルཆོས་དར་という僧侶を自宅に匿い、当局に通知しなかったからだという。
この情報はダラムサラ在住の同郷人カニャク・ツェリンཀ་ཉག་ཚེ་རིང་僧によりもたらされた。

ンガバ・キルティ僧院の僧侶であるチュダル(34)は、2008年この地方で起った反政府デモを先導したとして今年4月、13年の刑を言い渡されている。
彼はデモの後ほぼ一年隠れ続けていた。
当局は彼の情報を教えた者には30万元の報奨金を与えると発表していた。
2009年8月25日、ついにチュダルはドゥンゴ・ギャッパの家で逮捕された。

彼を匿っていたドゥンゴと妻のス・ラབསོད་ལྷ་もこの時一緒に逮捕され、その後一か月間拘留されていたが、1万5千元の保釈金を積むことで、一旦解放されていた。
しかし、当局は再び彼と彼の妻を逮捕し、後に妻だけ解放し、ドゥンゴだけ引き続き拘留し続けていた。

ドゥンゴはかつて中国政府が「愛国再教育キャンペーン」を行なっていた1998年にも、反政府的ポスターを町に張り出したとして、5年の刑を受けたことがあるという。

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RFA(チベット語):
http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/a-monk-in-ngapa-county-sentenced-to-4-years-in-prison-09282010222918.html

参考(過去ブログ):
http://blog.livedoor.jp/rftibet/tag/%E3%82%A2%E3%83%90

写真は匿われていた方のチュダル: ©phayul.com
 



rftibet at 16:40|PermalinkComments(2)TrackBack(0)チベット内地情報 

2010年09月26日

烈日西藏/チベット現代美術展・最終回/ウーセルさんの解説

「烈日西蔵」ポスターシリーズ最終回である今日は、ウーセルさんがこの展示会について解説された文章、及び彼女がブログで第7回分として紹介された絵を紹介する。

さらに補足として、チベット現代美術を知るために参考となると思われる資料もお伝えする。

今日も前回に引き続きuralungtaさんに中国語からの翻訳をして頂き、様々な教示も授かった。
さらにウーセルさんの解説に対する詳しい補足論考を書き下ろして下さった。

まず、そのウーセルさんの解説から:
(訳uralungtaさん)
原文:http://woeser.middle-way.net/2010/09/blog-post_21.html





烈日西藏―灼熱のチベット
ツェリン・ウーセル


 2年前、北京798芸術区で、チベット現代アートを集めた初めての展示会が開かれた。7人のチベット人アーティストが、「発生発声(生まれ出よ、声を上げよ)」をテーマに、芸術活動を通じて現在のチベットが置かれた状況をあらわに記録すること、芸術的表現を用いて現在のチベット人の生の声を表に出すことへの渇望を表現した。

 それから2年が経ち、北京宋荘芸術祭で再度、チベット現代アートをテーマとした絵画展が実現し、50人ものアーティストの作品が一堂に会した。50人のうちカムやアムド、また欧米在住を含むチベット人作家が約8割に及んだほか、それ以外の漢人アーティストも、かつてラサで生活した経験があったり現在もラサに拠点を置くなど、チベットと密接なつながりを持つ。チベット現代アートとしてこれほど大規模な企画展示は過去に例のないことはもちろん、この芸術活動が草の根から湧き起こったものであること、国家主導の官製芸術ではない表現活動であることに大きな意義があるといえよう。

 今回の絵画展のテーマは「烈日西蔵(直訳:灼熱の太陽の下のチベット)」。「生まれ出て声を上げた」2年前から「夏の苛烈な日差しに照りつけられる」に至って、表現は表面的な技術から内面の精神性の発露に及び、込められる意味は奥深く含蓄に富み、内容は豊富かつ多様になった。受け止める言葉を探して立ち止まる間にも、目をそらすことができず、ある種の生理的感覚を刺激され続けた。まさに、主宰の栗憲庭氏がいう「皮膚感覚」を体験したのだった。

 同時に、数年前に見た、旧ソ連を描いた映画「The Exodus Burnt by the Sun(太陽に灼かれて)」(*1)が脳裏に蘇った。繰り返し何度も見た映画だ。あの強烈な日差しに全身を焼かれる苦痛は、ソ連のような国家でだけ受けるものではなく、権力を一部が独占する専制社会はすべて人民に同じ苦痛を与えていて、私たちは同じ感覚を皮膚で共有したのだ。

 著名なフリーランスのアートディレクターで美術評論家の栗憲庭氏は、チベット本土のアーティストがチベットをテーマとして描いた作品と、チベット以外のアーティストの作品との間には「基本的な限界線」が存在する、と鋭く指摘する。なぜなら「我々外部の人間はすべて、本当にそのものになりきることはできず、ただ想像が及ぶだけだ。――文化の尊厳の危機、信条の対立、浸食される宗教、民族文化の混沌と粉砕、環境の汚染、深刻な中国化、西洋の大量消費主義の浸透……それによりチベット人が抱いている肌身を切られるような痛み!」。

 また、今回の絵画展のもう1人のディレクターでチベット本土のアーティスト、ガディ(嘎�)ははっきりと述べる。現在のような時代にあって「チベット人一人ひとりが、かつてない精神的動揺と信仰のゆらぎに直面している。すべては、まぎれもなく、私たち自身だけが体験し、表現できるものだ」。

 ガディのもう一つの発言も、非常に重みのあるものだった。「チベットを題材にした作品が1千万枚あったとして、我々自身の母語で表現されたものがどれだけあるだろうか。もしあったとしても、既にある種の『自己の中の他者の視線を通じた』表現方法に修正されているのではないだろうか」

 その通り、長きにわたり、チベットはその特殊な環境と不利な状況と境遇のために、権力者の勢力争いばかりが表に立ち、チベット自身は沈黙を守り、自ら声を発しなかった。話すことができなかったのではなく、その声は勇猛な人たちによって故意にあるいは意図せず覆い隠され、そこに存在するように見えるまでになったが、本質は決してそこには存在しなかった。いずれにしても、「チベット」に関する真の言及は、チベット人自身の口で表現されるべきである。チベット人自らがチベットを語らなければならないのだ。

 その際には、どの立場から語るかが問われることになる。チベット人であるということは確かにチベットを語る際の一種のよりどころとなるが、そこに自立した考え方と批判精神がなければ、チベットを語ったところで、他人の受け売りの意見を繰り返すオウムにすぎない。

 「灼熱の太陽の下」で、チベットはようやく真の姿を現した。「灼熱の太陽」に正面から向き合い、皮膚は焼けただれ、心の中まで傷を負うことさえあったとしても、芸術による表現こそが傷の痛みを癒やす良薬となる。企画展「烈日西蔵(灼熱の太陽の下のチベット)」では、私たちは、チベット本土のアーティスト一人ひとりが表現したそれぞれの「灼熱の太陽」の下のストーリーを見ることができる。

 あるものには涙を誘われ、あるものは悪ふざけでからかっているように見え、あるものは見るからに衝撃的で痛ましい。それはまさに、ノルツェの鉄の棺に縛られた30のチベット基母字であり、ヤク・ツェテンとツェカルが2000本以上の瓶ビールを飲み空けてストゥーパ(仏塔)のように積み上げた「酒塔」であり、表面に本来あるはずの仏教の経文ではなく私たちの日常生活を日々刻々侵食し続ける政治スローガンが刻まれたガディのマニコロ(マニ車)だ。身を置く誰もが直接に拷問を受け続け、チベット人の魂がその責め苦から逃れるすべはない。また私が一層忘れ難いのは、ニャムダの連作油絵に登場する、性別も判然とせず、顔だちは世の中の激しい変化を味わった老人のようにもあどけない童子のようにも見える子どもだ。救いがないようでいて、決して弱みを見せていない。

2010/9/14,北京
(初出:RFA[ラジオフリーアジア]チベット語放送専門番組)


訳注:[*1]「The Exodus Burnt by the Sun(太陽に灼かれて)」1994年、ニキータ・ミハルコフ監督。秘密警察の監視や密告、裏切り、拷問、処刑や暗殺などで社会全体が抑圧されたスターリンによる大粛正時代のソ連を描く。

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以下uralungtaさんによる<補足>

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 補足です。
 暗喩に富む含蓄あるコラムなので、説明しちゃうとかえって野暮というか、言わずもがなのことも多いわけですが、もしまったく知らない人がいたら参考になるかな、と思い一応補足です。訳注にすると興がそがれると思い、別稿にさせていただきました。

  ◇

 展示会のテーマ「烈日(激しく照りつける太陽)」、またその日差しに照りつけられるチベット、という表現が、象徴的な言い回しとして繰り返し言及されています。

 日、つまり太陽といわれて、中国なら誰もが思い浮かべるのは「紅太陽」すなわち中国共産党。文中ではロシア映画「太陽に灼かれて」も引用されていましたが、太陽を共産党になぞらえるのは共産圏共通のものなのでしょう。「毛主席就是金色的太陽」(北京的金山上)「共産党、像太陽」(東方紅)「心中的太陽是毛沢東」(天上太陽紅彤彤)などの革命歌(プロパガンダ唱歌)を引くまでもなく、太陽といえば共産党のメタファーであり、その日差しが激しくチベットに照りつける、と聞けば、共産党の圧政や理不尽で過酷な施策によって緑が失われ、湖は干上がってじりじり焦げつき大地がひび割れる満身創痍のチベットが脳裏に浮かびます。ウーセルさんは「(灼熱で)やけどを負う」「やけどの痛みに苦しむ」とまで表現していて、もうそこまでいくと、弾圧や拘束、軟禁、拷問、強制労働など、チベットが置かれた苦境を直接的に思い起こさせて胸が苦しくなります。

 「烈日(れつじつ)」は、日本語としては四字熟語「秋霜烈日」以外あまり馴染みのない表現なので、「灼熱の」「厳しい日差し」「激しく照りつける」などに言い換えましたが、そもそもの成語「秋霜烈日」は、刑罰や権威などが(草木を枯らしてしまうほど)激しく厳しいことの例え。(蛇足ですが日本の検察官バッジの呼称はここから)

 「太陽」は共産党の暗喩、「烈日」は秋霜烈日を重ね合わせた表現、と思うと、テーマを企画した段階から、この展示会の主宰者や参加アーティストたちが周到に内包させた怒りや批判精神、鬱積が伝わってくるのではないでしょうか。

  ◇

展示会の様子は、VOA(ボイスオブアメリカ)チベット語放送でも紹介されました

Tibetan Arts Exhibition in Beijing
http://www.facebook.com/video/video.php?v=1566702338435&ref=mf

また、以下のニュースサイトや個人ブログでもたくさんの写真とともに紹介されています。

楊孝文的博客
http://blog.sina.com.cn/s/blog_593e34060100lb3l.html
ビジネスマン知識層らしい中国人のブログ。
「芸術は分からないけど近いし面白そうなので行ってみた」人。「現代美術は、歴史が浅く芸術が存在しなかったアメリカが、世界の芸術の中心を欧州から奪取するために作り上げた陰謀的価値観だ、という説がある」という面白い持論を唱え、「陰謀にしろそうでないにしろ、我が国にたくさんの現代アーティストが出現したのは事実だが、彼らは一様に「美化」して現状肯定的であり、現代社会に合わせた味付けをして人の気を惹きつけようとするものばかりで、『烈日西藏』の作品も一様に同じ特徴を持っていた。こういう作品に価値があるかどうか、読者のみなさん、見ていただけますか?」だそうです。これも一つの受け止め方でしょう。見えているものの違いに、ニヤリとしてしまいます。

中国西藏网:新聞
http://www.tibet.cn/news/index/xzyw/201009/t20100910_627171_1.htm
中国政府系サイトのチベット関連情報を集めたニュース。
作品紹介よりも、開幕前にお経をあげてオープニングの式典をしたとか、「チベット人が北京で正当に評価されていますよ」という点を端的に伝えています。

新 网: 北京
http://www.bj.xinhuanet.com/bjpd_tpk/2010-09/11/content_20876116.htm
中国政府系の通信社。「民族特色的芸術作品在 里参展(民族情緒豊かな芸術作品がここで鑑賞できる)」とだけ説明されていて、内に込められたものまではまったく気づいていないようです。写真を見ると、チベットのお坊さんらしき人が見に来ているのが映っています。

  ◇

 コラム後半では、チベット人自身が声を上げる意味、「内なる他者」の存在、代弁者などについて触れられています。抽象的な、何通りもの受け止め方ができる書かれ方をしていて、おそらくそのどれもが正解ではあるのでしょう。

 「 期以来,西藏因其特殊的 境、 境和境遇,被 力者的众多 力争相表述着,而西藏本身却沉寂无声,不是不会 ,而是它被 悍的 力有意无意地共同遮蔽,以至于它看似在 , 却并不在 。」(長きにわたり、チベットはその特殊な環境と不利な状況と境遇のために、権力者の勢力争いばかりが表に立ち、チベット自身は沈黙を守り、自ら声を発しなかった。話すことができなかったのではなく、その声は勇猛な人たちによって故意にあるいは意図せず覆い隠され、そこに存在するように見えるまでになったが、本質は決してそこには存在しなかった)

 ――いまチベット人が幸せか。チベット人は何を望んでいるのか。チベットはどうあるべきか。

 この大きな問いに対して、古くはイギリスと中国が対立し、日本は手をつっこもうとして失敗し、現代はアメリカと中国の交渉の場で、もしくはインドと中国の間で、チベットは「取引材料」であり「人権カード」であり「道具」として、頭越しのやり取りを続けられてきたことを言っているのかもしれません。あるいはもっと直接的に、中国政府とチベット亡命政府のやりとりを暗示しているのかもしれません。中国当局が「チベット独立分子は…」と述べる時、それは内部に存在してはならない「外部」の存在であり、やはり、ウ・ツァン、カム、アムドのチベット本土は頭越しにされていたと言えると思います。

 もう一つ、チベットの頭越しに勢力争いをしていた「権力者」とは別に、「 悍的 力(勇猛果敢な・怖れを知らない人たち)」にも言及されています。故意かもしれないし無意識かもしれないけれど、結果的にチベットの内側からの声を覆い隠し、チベットの声がまるでそこにあるかのようにふるまっている」のは、もしかしたら、VOT(ボイス・オブ・チベット)やICT(インターナショナルキャンペーンフォーチベット)など海外在住のチベット人たちの「代弁者」を指すのかもしれません。あるいは、中国当局の考え方におもねって当局に都合のいい意見を述べるチベット人を指しているのかもしれません。

 「まるでそこにあるように見えて、実は本質はそこにはない」。解釈によっては、現在のチベットそのものをいい表しているのかもしれず、それがあまりにもぴったりくるようで、背筋が寒くなる悲しさを覚える表現です。

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以下ウーセルさんが「第七回目」として紹介された作家の絵と略歴。
http://woeser.middle-way.net/2010/09/blog-post_19.html
栗憲庭氏の解説がある作品についてはその解説も付す。

扎西诺布:(Tashi Norbu)タシ・ノルブ(扎西諾布:Tashi Norbu) 
1981年シガツェ生まれ、チベット大学芸術学部卒業。
現在はチベット自治区群衆芸術館(ラサ市)勤務。
作品に「被写体」(原題「被影像」)など。

栗憲庭氏の解説:
「タシ・ノルブの《常ならざる現状》の画面には不安定な斜角の構図が用いられ、一方には仏像が、また一方にはチベット人の肖像が配せられ、2組のイメージの間にはある種の関係の空間が形成され、この空間を1体の紙飛行機が横切り、脆弱で不安定なイメージとなっている」

嘎嘎21カカ21(KaKa21) 
1971年ラサ生まれ。
1997年から2000年までチベット大学芸術学部デザイン学科で学び、2001年から2005年までチベット大学芸術学部美術学科で学んだ。

















边巴(美隆):(Penpa)ペンパ(美術グループ「メロン現代アートスペース」
メンバー)(辺巴:Penpa)

1972年シガツェ地区パナム(白朗県)生まれ。
チベット大学、河北師範大学卒業。
現在はチベット文学芸術連合の美術協会に勤務。

補足:メロン現代アートスペース(美隆芸術庫:Me long Contemporary Art Space)
http://blog.sina.com.cn/xizangmeilongyishuku
2007年7月正式創設の、理念を共有するアーティストの相互扶助的制作集団。
「メロン(美隆)」はチベット語の音訳で、直訳すれば「曇りのない鏡」の意味。
チベットの伝統的な文化と思想の中から映し出される自分たち自身を見つめ直そう、という意味を込めて名付けられた。
(抜粋:鳳凰網文化2010年9月6日)
http://book.ifeng.com/culture/huodong/special/2010songzhuang/qunluo/detail_2010_09/06/2445565_1.shtml

ウェブサイトによると、現在のメンバーはペンパ、チュニ・ジャンペル、タンセ・ダワ(四清月)ら7人。

ジャムサンジャムサン(強桑:Jhamsang) 
1971年ラサ生まれ。
これまでに首都師範学院(現首都師範大学:北京市)、
チベット大学芸術学部で学んだ。
ラサ市民族宗教事務局を経て、現在はチベット大学チベット伝統美術修士課程に在籍。


「ジャムサンの《仏》シリーズは、仏画をロボットに仕立てた作品だ」








格次:(Kaltse)カルツェ(格次:Kaltse) 1971年ラサ生まれ。
1988年上海戯劇学院舞台デザイン学科卒業、
現在はチベット歌劇団の舞台芸術家。
















扎西平措:(Tashi Phuntsok)タシ・プンツォク(扎西平措:Tashi Phuntsok) 
1977年ラサ生まれ。
2003年中央民族大学美術学院油絵専攻科卒業、
現在はラサ第3小学校に勤務。




























<アン・サンアン・サン(昂桑:Ang Sang)
1962年ラサ生まれ。
1988年チベット大学卒業。
専攻は美術。

「アン・サンの《米ドル1号》は、100ドル札を背景に、各種流行ブランドのロゴを組み合わせた仏像を配した」




次仁卓玛:(Tsering Dolma),女ツェリン・ドルマ(次仁卓 :Tsering Dolma) 女性、
1966年ラサ生まれ。
1991年チベット大学芸術学部卒業、
現在は中国美術協会チベット分会の会員。


「ツェリン・ドルマの《生死シリーズ》に見られる敬虔な宗教観念は、若くして夫と子どもを失った彼女が、芸術を一種の修行の道と目する敬虔な心理状態を感じさせる」

索曼尼索曼尼(ソマンニ) 
1971年ラサ生まれ、
1994年チベット大学芸術学部卒業。
チベット展覧館に勤務。
祖父母にチベット人と回人(イスラム教徒)、片親は漢人で、チベット人としてはクオーター。












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初回に紹介したア・ヌーや、ツェリン・ニャムダの略歴に出てくる作家集団について。
uralungta さんの補足:

ゲンドゥン・チュンペル・アートスペース(西藏更堆群培芸術空間)

2003年8月、ゲンドゥン・チュンペル師生誕100年を記念して正式設立。
発足当初はパルコル北街にあり、2009年にラサ郊外の仙足島に移転した。
チベット初の、チベット本土芸術家の自己資金による文化協会的な性質を持つ画廊であり、チベット現代美術のアーティストが自由に交流する場所をつくる趣旨で設立された。

スペースでは不定期に各種の展示会や芸術活動、学術講座が催され、チベットで最も活気のある芸術の場となっているといえる。
チベット現代アートの創作環境の向上に大きく寄与し、若いチベット人アーティストには自分の作品を発表する機会となり、現代チベット社会の多様な豊かさを体現する場所の一つであると同時に、チベット現代アートとは何か、チベットのアーティストが何をしているかを多くの人に知らしめた。

スペースの収益は大部分がアーティストに還元され、創作活動の資金源となっている。
一部は、チベットの貧しい芸術家への支援にも充てられている。

(鳳凰網文化2010年9月6日)
http://book.ifeng.com/culture/huodong/special/2010songzhuang/qunluo/detail_2010_09/06/2445565_0.shtml


さらに:「 苹の芸術空間」
という芸術家のブログでも、活動の様子やたくさんの作品が紹介されています。
http://blog.artintern.net/blogs/articleinfo/zhangping/65758
げっ、この中で「蒋勇作品」とあるやつ↓
http://blog.artintern.net/uploads/weblogs/1837/200910/1255333301114.jpg
私(uralungta)、北京の「パタ・ドゥンカル」ってチベット料理レストランの壁に飾ってあるのを見たよ!!!
あそこ(流行ってない店だったけど)オーナーはチベット関係の芸術家のパトロンでもあったのか。。。


現在ニューヨークでも「チベット現代美術展」が行われている。
http://youngtibet.com/2010/06/first-exhibition-of-contemporary-tibetan-art-in-a-new-york-city-museum/

2006年にアメリカで行われた「チベット現代美術展・ターコイズ湖に打ち寄せる波たち」については、
(日本語)http://www.geocities.jp/norbucreate/news-art.html










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2010年09月25日

ITSNより、ロンゲ・アダの釈放要請

76382bed.jpg以下ITSN(国際チベット支援ネットワーク)からのお知らせです。
(翻訳 若松えり)

チベットの遊牧民ロンゲ・アダの釈放を要請してくれるよう訴えてください。

チベット人、ロンゲ・アダ Runggye Adak [中国語: 杰阿扎 Rongjie Azha]年齢:55歳は、ダライ・ラマのチベット帰還を公然に訴え、刑務所での服役8年間を言い渡されました。

2007年8月1日、チベット東部リタン出身の遊牧民であるロンゲ・アダは中国人民解放軍の建軍80周年を祝う公式行事の際、集まった何千ものチベットの人びとを前に「ダライ・ラマを帰還させることができなければ、チベットにおける宗教の自由と幸福は実現されないだろう」と訴えたため拘束され、「国家転覆を挑発した」罪で、

またロンゲ・アダ逮捕のニュースを外国のメディアに提供しようとした以下の2人のチベット人とともに刑務所での8年間の服役を言い渡されました。
この事件からわずか7ヶ月後、中国の支配に抗議し、多くはダライ・ラマの帰還を訴えた 平和的な抗議行動がチベット全土で勃発しました。
北京オリンピックを前にした2008年3月のチベット騒乱は、私たちの記憶に生々しく残っています。

この事件ではほかに3人のチベット人が逮捕されています。

アダ・ルペ Adak Lupoe [Ch: 阿珠禄波, Azhu Lubo],アダの甥でありリタン僧院の年配僧侶。
懲役10年。

ジャミヤン・クンケン Jamyang Kunkhyen [Ch: 江央 臣, チベット人の教師で芸術と音楽を教える。
懲役9年

アダ・カルヤン Adak Kalgyam  Adak Lopoeの弟は2008年7月14日「分裂主義を扇動した罪」で
懲役5年。

ロンゲ・アダは現在、劣悪な収容環境の中で消化器系と視力の悪化を伝えられ、彼同様に病状が悪化している。
テンジン・デレグ・リンポチェと同じ、四川省、綿陽の綿陽刑務所に拘束されている。

お願い

中国政府に対し、彼の家族が医師を伴って面会できるように許可するよう要請してください。
中国政府に対し指摘してください。
ロンゲ・アダが自身のアイデンティティーをもとに勇気を持って表現しただけで、『重大な政治的事件』と呼び『国家転覆煽動罪』の罪に問い、8年の重い判決を下したことは、
中国憲法、第1章、35条、中国人民に保証される言論の自由、にも違反していると。

中国のチベット支配に関する政治的な解決がなければ、チベット人に対する人権侵害も止むことはありません。
チベット問題の解決を促すため、担当大臣、各議員の皆様に於かれましては、チベットの人権に関する動議や決議を議会に提出してくれるよう、お願い申しあげます。


*** 四川省(Sichuan)党書記・劉奇葆(りゅうきほ、Liu Qibao)に宛てたロンゲ・アダ釈放要請の緊急署名オンライン・アクション、
絵はがきダウンロード、
中国丹羽大使、前原外務大臣宛のファクスとメールアクションの詳細は、
次のリンクから、ご覧下さい。

アダ逮捕のきっかけとなった貴重な映像のビデオも:
http://freetibet.holy.jp/2010/09/


遊牧民ロンゲ・アダ釈放要請アクション/アクションについての、お問い合わせはITSNメンバー、
Free Tibet Japan:
鎌田正樹:m-kamata@ja2.so-net.ne.jp
若松えり:eliwakamatsu@googlemail.com まで、お願いします。

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参考:
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51486144.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51486552.html


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2010年09月24日

アムド、マチュで中学生に実刑判決

3b7b2549.jpg甘粛省甘南チベット族自治州マチュ(瑪曲県)のマチュ・チベット族中学校の生徒たちが今年3月と4月に二度に渡り中国政府に抗議する平和的デモを行ったということは以前このブログでもお伝えした。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51431151.html

また、つい最近、このデモに加わった中学生二人が退学処分を受けたというニュースも伝えた。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51501612.html

で、今度はこの最初のデモを先導し、3月14日に逮捕されていたツプテン・ニマ(少年)に対し2年の刑期が言い渡されたというニュースが今日入った。
http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=28200&article=Leader+of+student+protest+in+Machu+sentenced+to+2+years+in+jail&t=1&c=1
このデモは最初30人の生徒により先導され、それに500人以上の生徒が合流したという。
その日、その内の40人が拘束された。

Phayulでは、ツプテン・ニマが甘南中級人民法院で裁判を受けたが、今どこに収監されているかは不明とされている。

このことについてウーセルさんはツイッターで「ツプテン・ニマは7月に2年の刑を受け、現在蘭州市に収監されている」と報告されている。

ツプテン・ニマ少年が何歳だったかは今のところどこにも書いてないが中学生であることは間違いない。

中国では一体何歳から実刑の対象になるのかを調べてみた。

すると「中華人民共和国治安管理処罰法」の中に
http://www.jetro.go.jp/world/asia/cn/ip/law/
「第2章 処罰の種類と適用」
「第 12 条 14 歳以上 18 才以下の者が治安管理に違反した場合、処罰を減刑または減軽 する。14 歳未満の者が治安管理に違反した場合、処罰はせず、但しその後見人に厳重に 指導するよう命じなければならない」
とあるのを発見。

さすが中国。14歳以上には実刑が下されるというわけだ。







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rftibet at 21:00|PermalinkComments(3)TrackBack(0)チベット内地情報 

2010年09月23日

カンボジア大虐殺・中国との関係

ツールスレン収容所で拷問の後殺された人々の写真これまでに、このカンボジアで接して来た人たちは全員いわゆるいい人たちばかりだった。
常に微笑みを絶やさず、子供のようにはにかむ。
自分の意見を通そうとするより、相手に合わせようとする。
一般的に言って大国の人は大柄で他人を従わせようとするが、小国の人は相手に合わせようとする傾向があるようだ。

キリングフィールドで掘り出された虐殺の犠牲者たちの遺骨このアジアの小国は歴史の中でこれまで幾多の外国勢力に翻弄されてきた。
今は明るく暮らしているが、この国にはつい30年前ぞっとするような暗黒の時代があった。
ポル・ポトに率いられた共産党クメール・ルージュによる犠牲者は約100〜300万人と言われる。
このように犠牲者の数に開きがあるのは例えば毛沢東統治下における犠牲者が3000〜5000万人と一般に言われるように、大虐殺の軌跡は正確には計りがたいとからだ。

キリングフィールドから掘り出されて犠牲者たちの遺骨中を取って犠牲者約200万人と言われることが多い。
その頃のカンボジアの総人口は約700万人と言われているからポル・ポトの時代に4人に1人が殺されたことになる。

ちなみにチベット人は人口600万人の内、毛沢東統治下で100〜150万人が殺されたというから、こちらは約5人に1人だ。

40歳以上のカンボジア人のほとんどはこの時代を生き抜いた、悲壮な体験を持っている。
しかし、一般に彼らは過去の話をしたがらない。
これはチベット人とは違うようだ。
チベット人は今も弾圧されているので、機会があれば常に人に現在や過去の経験を語ろうとする。
カンボジアの人々は悲惨な過去をすでに過ぎ去ったものとして忘れ去ろうとしているようだ。

ツールスレン収容所に収容されていた囚人たちこの仏教徒の小国で、なぜこのような凄惨な出来事が起こってしまったのか?については簡単な答えは出せないと思う。
単に、ポル・ポトが残忍だったからといった議論は無意味だ。
単に中国共産党に影響されたのだ、というつもりもない。
冷戦と地政学、ベトナム戦争、中国共産党との関係などが複雑に絡み合う中で人間の内部に潜む底なしの恐怖心、猜疑心、残虐性などが人々の心をコントロールし、それが外に現れ国中を襲ったのだと言えようか?

今、やっと裁判が始まり少しはこの大量虐殺の原因が明らかにされるかもしれない。
しかし、ポル・ポト以前に起こった米軍による爆撃により夥しい死者が出た話やポル・ポト後の内線による死者の話は裁判ではでないであろう。

この辺の所はカンボジア勤務の経験もある知り合いの記者が最近書かれた以下の記事を参考にして頂きたい。
http://www.47news.jp/topics/himekuri/2010/07/post_20100728142202.html

写真は私がこのカンボジアに来た次の日に訪問したツールスレン・ジェノサイド・ミュージアム(Tuolsleng Genocide Museum)とキリング・フィールド(Killing Field)で撮影したものだ。

ツールスレンは元高校であったところをクメール・ルージュが政治犯の収容所に転用した場所であり、ここはS21と暗号で呼ばれていた国内でもっとも過酷な拷問所であった。
ここに収容されたいわゆる政治犯は1万4千〜2万人に及び、ここから生きて出ることができたのは僅かに7名(または8名)しかいなかったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/S21_(トゥール・スレン)

ツールスレン収容所元所長カン・ケク・イウ最近始まったカンボジアの大虐殺を裁く国連支援の特別法廷でここの元所長カン・ケク・イウは(たった)19年の刑を言い渡されている。

最初の頃はこの収容所内やその近くで囚人たちは殺されていたが、その内人数も増えたので、囚人たちはプノンペンの南に十数キロ離れた現在キリング・フィールドと呼ばれている場所に運ばれ、そこで殺され穴に埋められるようになった。









キリングフィールドに建てられた遺骨収容塔現在そこには多量の頭蓋骨が収納される慰霊塔がたち、ミュージアムも作られている。

写真の中にある絵はすべてある一人の画家によるものだ。
彼はこの収容所に収容されながら奇跡的に生き残った者の一人であり、絵は実際に彼が目撃した情景であるという。

写真の簡単な説明は写真の上にポインターを持っていけば読めるはずだ。
(お断り:プラウザによっては写真の説明が出ないことが判明した)

この二つの場所を見学しながら、私はチベットのことを思っていた。
いつの日かダプチ刑務所や文革時代の処刑場が博物館になる日が来てほしい。
文革時代や今も行われている拷問や虐殺の責任者が裁判にかけられるのを見てみたいと思うのだった。


ツールスレン収容所の規則ツールスレン収容所の尋問中の保安規則(訳Wikipediaより)

1.質問された事にそのまま答えよ。話をそらしてはならない。
2.何かと口実を作って事実を隠蔽してはならない。尋問係を試す事は固く禁じる。
3.革命に亀裂をもたらし頓挫させようとするのは愚か者である。そのようになってはならない。
4.質問に対し問い返すなどして時間稼ぎをしてはならない。
5.自分の不道徳や革命論など語ってはならない。
6.電流を受けている間は一切叫ばないこと。
7.何もせず、静かに座って命令を待て。何も命令がなければ静かにしていろ。何か命令を受けたら、何も言わずにすぐにやれ。
8.自分の本当の素性を隠すためにベトナム系移民を口実に使うな。
9.これらの規則が守れなければ何度でも何度でも電流を与える。
10.これらの規則を破った場合には10回の電流か5回の電気ショックを与える。



ここに来て私は友人が持っていた一冊の本を読んだ。
アメリア人歴史家デービット・P・チャンドラーが書いた「ポル・ポト伝」(出版社:めこん、1994年)だ。
本当はいろいろ他の本も読みたかったが、なにせ旅行先のことで資料を漁るということもできなかった。(図書館に行けってか)

以下、写真の説明は抜きにして、この本の中で「中国とポル・ポトの関係」に言及している部分のみを取り出し、紹介することにする。

ツールスレン収容所で使われていた鉄の足枷革命組織は(1975年4月17日)都市を空にすると、社会変革プログラムに着手した。それはカンボジア国民生活のすべての面に及んだ。通貨、市場、私有財産は撤廃された。学校、大学、僧院は閉鎖された。出版は認められず、郵便制度も廃止された。移動の自由、情報交換、身を飾ること、余暇活動なども禁じられた。違反すれば厳しく処罰された。違反を繰り返せば、過酷な牢獄か処刑が待っていた。誰もが、革命組織によって割り当てられた仕事をするように言われた。(上記書籍中 p14 以下同様)


ツールスレン収容所の独房ポル・ポトは自分が敵に囲まれていると信じていたが、そうした見方はスターリンと共通のものであり、スターリンから学びとったのかもしれない。そのために、ポル・ポトはプノンペンにあるS21という暗号名で知られた尋問施設で約二万人もの敵(クマン)を拷問し、処刑することを承認した。加えて、77年に開始した地域ごとの粛清で、無数の人々が死んだ。S21で殺されたうちのほとんどは、党の忠実なメンバーだった連中だ。他の場所で死んだ犠牲者たちも大部分は裏切り者などではなかった。
この革命とこの異常なまでの暴力は、どこから来ていたのか。75年から79年まで、プノンペンの権力者たちは、自分たちには外国のモデルなどない、カンボジア革命は比類のないものだと、繰り返し主張している。その実、「強襲攻撃」「大躍進」「自立達成」「ヘクタール当たり(コメ)三トン」など、民主カンプチアのスローガンの多くは、共産主義中国から無断借用したものだった。
中国の政権も、毛沢東主席が死去する直前、独特の過激な段階を経験したのである。(p16)


クメール・ルージュの党大会どこにも前例のない自己大量虐殺が(なぜ)起きたのだろうか。明らかに類似しているもの、ポル・ポトの着想の源になっていると思われるものもある。それは1950年代の中国の大躍進政策や、それより二十年前のソ連によるウクライナ集団化政策、そして両国の革命指導者にとって危険とみなされた「分子」の粛清などに見いだすことができる。(p17)

だが、ポル・ポトに対して最も重要な影響を与えた外国は、共産主義中国だっただろう。彼は1965〜66年に中国を訪れている。そこで毛沢東の自主革命、自発意思尊重、継続階級闘争などの考え方を知り、その思想に感化された。(p21)


キリングフィールドから掘り出された遺骨 3この時期(クメール・ルージュ1963〜70年)のサロト・サル(=ポル・ポト)には、外国の影響がいくつかあった。最も重要な知的影響は中国のいわゆる文化大革命だったろう。文化大革命は1966年に始まり、さまざまに装いを変えて、その十年後の毛沢東主席の死まで続いた。この大衆運動は、大部分毛沢東自身が計画したもので、継続革命、階級闘争、貧困階層の権力掌握といった彼の固定観念を推進するのが目的だった。社会は、共産党政権自身が作った制度のうちの多くのものを破壊するために動員された。文化大革命が制御できないものになった時、毛沢東はその方向修正を行ったが、そのほかの彼の政策の多くは1980年代初めまで、変更されなかった。
サロト・サルは66年、文化大革命の初期に、中国を訪れた。それを目の当たりにして印象づけられたに違いない。この時期に中国に導入されていた処置のうち、例えば都市からの部分的撤去、経済問題への「強襲」、軍の階級廃止などいくつかのものは、後にクメール・ルージュによって採用された。中国式の「階級の敵」粛清も、民主カンプチアで広範におこなわれたし、カンボジア経済の野心的計画は「大躍進」と名付けられた。1950年代に中国で進められた無茶な工業化計画から借用した文句である。サルがその後、文化大革命が大失敗に終わった事実を知ったかどうか明確ではない。同様に、1930年代のスターリンの集団化計画はもちろん、中国の「大躍進」が挫折したことも、全く知らずにいた可能性がある。(p113〜4)

キリングフィールドから掘り出された遺骨 4その直後(75年5月)サルの政権をてこ入れするため、数百人もの中国人技術者が到着した。最終的には四千人以上の中国人が(その時期)カンボジアに働きにやってきたが、彼らの存在は決して明らかにされなかった。
(中略)
(75年5月ベトナム訪問の後サルは)北京に向かった。北京では、毛沢東と写真におさまり、中国側から十億ドル以上の対カンボジア経済・軍事援助を供与するとの約束をとりつけた。こうした訪問も中国の援助も、当時は発表されなかった。サルは中国からさらに北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に短期訪問旅行をし、軍事援助の約束を得た。そして、北京に戻り、病気の治療を受けた。(p174)

ツールスレン収容所内にある拷問用の吊るし台党は「ヘクタール当たり(もみ付き米)三トン」をスローガンにしてきた。これが間もなく国家目標になった。スローガン自体は、同党はそう認めていないものの、75年末ごろ中国で華国鋒副首相が始めたキャンペーンをそっくり真似たものである。ヘクタール当たり三トンという目標数字は、カンボジアの指導者たちが自分自身の農業スローガンや農業政策を何も作り上げていなかったこと、中国にとって良ければカンボジアにとっても満足できるものだろうと、考えていたことをしめしている。(p190)
1970年以前、カンボジアの平均収量は、ヘクタール当たりもみ付き米一トン以下だった。
党のスローガンは、カンボジアの平均収量を一挙に三倍に増やすことを要求していた。
(この無茶な計画に従い、それを達成するために地方の役人は農民から、彼らが生きるために必要な最低限の米まで徴収した。その結果多くの農民が餓死する事態となった)

拷問用吊るし台の使い方を示した絵北西部の作業のほとんどはプノンペンとバッタンバンから追い出され、この地域の農村部へと移住させられた、百万人を越す「四月十七日」の人民(75年ポルポトに指揮されたカンボジア共産軍がプノンペンに入城しすべての住民を追い出した。その日に追い出された人々のこと)が行うことになっていた。
その後二年間、これらの男女は土を掘り崩して田や運河、ダム、マラリアがいっぱいの森の外側の村落などを建設する仕事を強いられた。彼らのうちの何万という人々が、栄養失調、病気、処刑、過労などのために死んでいった。そうした死を知って、プノンペン政権当局は困惑した。ただし、その理由は、それらの死が「敵」がまだ舞台裏で活動していることを示している、ということだけだった。新人民(かつての都市住民)は絶対数が極めて多いし、革命にとって「階級の敵」だから、消耗品だった。ポルポト時代を生き延びた多くの人々が、幹部たちがあざけりを込めて彼らに言い放った、ぞっとするような言葉を覚えている。「(お前たちを)生かしておいても何の得にもならない。(お前たちを)失っても何の損失にもならない」(p191)


ツールスレン収容所内の拷問部屋革命的文化は、過去とはっきり手を切った。党のスポークスマンは計画を説明するにあたって、こうも言った。「もしわれわれが(革命前の)『文化』を(教育の基礎に)選んだら、党にとって致命的な大失敗となるだろう」。こうした思想は、そのころ中国で流行していた思想を模倣したものだった。(p198)


収容所内で拷問により死亡した人民主カンプチアを研究するための文書の最大の供給源であり、またこの政権のもっとも心をゆさぶる遺物と言えば、75〜79年初めにツールスレンの尋問センターで集められた四千に上る供述文書の山である。このセンターは同政権が、プノンペンの南部地区にあった元高校の施設を転用したものだ。二万人を越す男女、子供たちまでが75年末から79年初めにかけてS21の門をくぐった。そのうちごく少数の者を除いて、尋問され、拷問され、殺されたのだった。75年には、囚人として記録されたのは二百人だけだった。それが、76年には十倍増の2250人となり、77年には6千人以上がぶち込まれた。78年の記録書類は未整理のままだが、この年にはほぼ一万人の囚人が記録されたようだ。生きてここを出所できたのは、わずか6人にすぎなかった。共産主義ベトナムや中国では、投獄あるいは「再教育」という方法が極めて大量に用いられたが、カンボジアではなぜか、そうした代替策は真剣に検討されなかった。S21に残った四千の供述文書を読むと憂鬱になる。(p201)

ポル・ポトと小平77年9月28日、ポル・ポトが北京に到着した時、十万人の民衆が動員され、天安門へとつながる長安街沿いに並んで彼を出迎えた。多くは紙製のカンボジアの旗を手にしていた。いたれり尽くせりの準備と群衆の動員は、シアヌーク政権時代に殿下がプノンペンに外国の賓客を迎えた際、命じたこととそっくり同じだった。ポル・ポトがこうした扱いを受けたのは初めてだった。
空港では、華国鋒首相、小平主席がカンボジア代表団を出迎えた。この時に撮影された写真が、ポル・ポトとして公表された初めてのものであり、外国人専門家はこれを見て、ポル・ポト=サロト・サルであることを確認できたのだった。同行者は、イエン・サリ、ポン・ベト、ティウン・トゥーン(保健相)その他数人だった。
代表団は10月4日まで中国に滞在し、その後、北朝鮮に向かった。その間、宴会と演説が繰り返された。ポル・ポトは演説の中で、ベトナムを名指しはしなかったものの、カンボジアの国境線や国家主権が不可侵であることを強調した。また毛沢東と、その継続革命や階級闘争の思想をあらためて賞賛した。それに応えて、華国鋒は、民主カンプチアが「大衆に依拠し、独立を掲げ、武装闘争を継続する・・・・・正しい路線をとっている」と称えた。中国のマスコミの社説は、中国とカンボジアの友好関係が「破壊できない」ものであると指摘した。(p221)

ツールスレン収容所 2ポル・ポトがこの旅行をしたのは、一つには、中国の援助によって彼の軍隊が無敵となり、ベトナム側も慎重な態度を取らざるを得なくなるだろうと考えたためだった。
旅行のもう一つの理由は、「人間の顔」を示し、カンボジアでの人権侵害、恐怖政治、飢餓などに対してタイや西側で出ている非難に反撃することである。中国は、この目的のため、この訪問に合わせて、光沢のある上質の紙に印刷された雑誌『民主カンプチアは前進している』を出版し、同年に撮影したドキュメンタリー・フィルムを発表した。どちらも、人でいっぱいの作業現場、盛んな工業、新たに建設された感慨用ダムなどを紹介したものだった。栄養の行き届いた労働者たちが、いつでもどこでも微笑していた。(p222)

ツールスレン収容所の独房毛沢東理論では、階級闘争は社会主義から共産主義への移行のため絶対重要なものだが、その階級闘争のためには敵の存在が不可欠だった。人民の間の矛盾こそ、党を前進させる。勢いを維持するためには不安定が必要だった。党の指導者たちは他人に嫌疑をかけることで、栄養分をとってきたし、陰謀を暴く能力を誇ってきた。裏切りの嫌疑をかけられた者が、国の前進に必要な不安定をもたらしてくれるというわけである。しかし、そのうちに、誰が本当に有罪の者がいるか確認することなど、困難なのだ。(p238)

キリングフィールドの様子を描いた絵S21では、何百人もの東部地域幹部が尋問を受け、処刑されつつあった。東部、南西部地域のカンボジア軍部隊は、ベトナムの戦闘爆撃機によって爆弾の雨を降らされているところだった。東部の土地の一部は、すでにベトナム軍に占領されてしまっていた。若くて教育も受けていないカンボジア兵が中国製軍備を任され、それをつかいこなせるよう、異常とも言えるペースの速成訓練を受けていた。彼らは戦車操縦士、飛行士、迫撃砲兵などだったが、多くが事故で負傷し、死んだ。ポル・ポトは11月初め訪れた中国代表団に、「義勇兵」派遣を要請した。それに対し、中国側の助言はあくまで自力に頼ることであり、物資援助だけ増やしてくれた。ポル・ポト政権の命運は、あと二ヶ月だった。
(p245)

キリングフィールド、死体が埋められていた穴キリング・フィールド/死体が埋められていた穴。
各穴ごとから数百体の遺体が掘り出された。
このような穴が数十個ある。
今は、何事もなかったかのように緑の草が生い茂っている。






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2010年09月22日

チベットの「歌う尼僧」、2度目の挑戦でインド亡命を果たす

df638bd7.jpg写真左:ペルデン・チュドゥン©ICT

9月21日付けphayulより。
http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=28176&article=Tibet's+%22singing+nun%22+escapes+to+India+on+second+attempt

ダラムサラ:ワシントンに本部を置くICT(International Campaign for Tibet)によれば、刑務所内で「愛国歌」を録音し、それを外部に持ち出すことで「歌う尼僧たち」として有名となった14人のチベット人尼僧の内の1人がインドへの亡命に成功した。
http://www.savetibet.org/media-center/ict-news-reports/tibetan-singing-nun-arrives-exile-after-second-period-imprisonment

9月1日、インドに到着したペルデン・チュドゥン(དཔལ་ལྡན་ཆོས་སྒྲོན་)はダプチ(ダシ)刑務所(གྲ་བཞི་བཙོན་ཁང་)での8年の刑期を終えた後、一度亡命を試みたが、途中で捕らえられ、さらに3年間の「労働改造所」送りとなった。

パルデンは亡命に成功した8人目の「歌う尼僧」である。
彼女は1973年ラサ近郊のニェモ(སྙེ་མོ)で農家の子として生まれた。
14歳のとき出家し、ラサのシュクセェプ尼僧院(ཤུགས་གསེབ་བཙུན་མགོན་)に所属した。
1990年、彼女はラサのパルコルで平和的デモに参加し、最初3年の刑を言い渡された。
この3年の刑期が終わろうとしていた1993年、彼女は他の13人の尼僧たちと共に刑務所の監房の中で愛国的な歌をテープに吹き込んだ。彼女たちの歌った歌はダライ・ラマ法王やチベットを称えるものであり、それらは外にいる家族や友人へ、ダプチ刑務所の中で酷い仕打ちを受けながらも自分たちの心は少しも挫けたりしていない、ということを伝えようとするものだった。
このことが発覚した後、彼女たちは全員激しい拷問を受けることとなった。そして、その拷問の結果彼女たちの内の1人ガワン・ロチュは命を失ってしまった。

彼女の刑期はさらに5年延長され、1998年に刑期を終えることができた。

「刑期を終えた後、再び元の尼僧院に戻ることは許されなかった。当局は尼僧院に来て私が居ないかどうかをチェックしていた。だから私は尼僧院に迷惑が掛からないようにそこに近づくこともしなかった」とダラムサラでICTに彼女は語った。

14人の内最後に解放されたのは15年の刑期を終え34歳になっていたプンツォック・ニドゥンであった。彼女は今スイスで勉強している。
合計21年の刑期を受けていたガワン・サンドルは11年目に解放され今はニューヨークに住んでいる。
14人の内の5人、テンジン・ツプテン、ガワン・チュキ、ジグメ・ヤンチェン、ガワン・チュゾム及びガワン・ツァムドルはチベットに残っている。その他8人は亡命した。

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彼女たちが獄中で作詞・作曲し歌った歌の一つを紹介する。

<ダプチ刑務所から見上げる空>

ダプチ刑務所から見えるのは空ばかり
空に浮かぶ雲
私たちにはそれが父や母に見える
私たち囚人はノルブリンカに咲く花
霜や雹に打たれても
繋がれた私たちの手が離されることはない
東から来た白い雲(中国)は
縫い付けられた継ぎ当てではない
時は至り、雲から太陽が昇る
そして燦々と輝く
私たちの心は悲しまない
なぜ悲しまねばならないのか?
昼間に太陽(ダライ・ラマ)が輝かなくとも
夜になれば月(パンチェン・ラマ)が昇る
昼間に太陽が輝かなくとも
夜になれば月が昇る」

私が今ダラムサラにいるなら、すぐに彼女に会いにいき直接詳しい話を聞くであろうが、遠く離れているのでそれも叶わない。

取りあえず、「歌う尼僧たち」についての過去のブログなどを補足として紹介する。

彼女たちの内一番有名な12歳で逮捕されたガワン・サンドルさんについては:
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51198296.html

彼女の旦那さんは最近までルンタ・レストランで働いていたが、先月彼女に合流するためアメリカに渡った。

彼女の自伝「囚われのチベットの少女」は日本語にも翻訳されている:
http://www.amazon.co.jp/囚われのチベットの少女-フィリップ-ブルサール/dp/4901510061

彼女は上野の森美術館で開催された「チベットの秘宝展」に対しメッセージを送られたこともある:
http://www.youtube.com/watch?v=ZVQQjbwFWKU

14人の尼僧たちの内2人は最近までルンタ・ハウス内の学校に通っていた。
その内の1人リンジン・チュキに私がインタビューし、T女史が起こして下さった記事は:
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51101231.html










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2010年09月21日

烈日西藏/チベット現代美術展 その3 /「魔女仰臥図」

「鎮魔図」日本では「魔女仰臥図」/オリジナル絵今日はウーセルさんが9月19日に「チベット現代美術展、第七回」として紹介された作家たち
http://woeser.middle-way.net/2010/09/blog-post_19.html
の中からペンバ・ワンドゥ(边旺 Penba Wangdu)の3枚組作品「鎮魔図」のみを紹介する。

中国語で書かれた作家の略歴の翻訳をして下さったuralungtaさんが、この作家の作品に対し実にパンチの効いた深い解説を付け足して下さった。

そこで、今日は絵と共にuralungtaさんの解説を全面的に紹介することにした。

最初の絵は日本でも展示された「鎮魔図」のオリジナル版。
写真は九州博物館のサイトから借りた。
元URLは
http://www.kyuhaku.jp/exhibition/images/s_15/p02-2.jpg

以下uralungtaさんの解説:

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ペンパ・ワンドゥの「鎮魔図」3枚組の1枚目1枚目が青い背景のもの、2枚目が白、3枚目が赤い背景のもので、紹介されている通り、「鎮魔図」(西藏鎮魔図、日本では「魔女仰臥図」)として有名なタンカをモチーフにしています。

「魔女仰臥図」はチベット人の世界観をよくあらわしているとして外国の書籍にもよく引用される絵画だし、昨年の「聖地チベット展」でも“目玉”として貸し出されて、東京では展示会場に入ってすぐの展示品がこの図だったりしたので実物を見た日本人も多いはず。

[参考:以下、九州博物館の解説:
 魔女仰臥図(まじょぎょうがず)
 チベット・20世紀・77.5×152.5cm・ノルブリンカ
http://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s15.html
 最初のチベット統一王朝を開いたソンツェンガンポ王は、中国から文成公主を、ネパールからティツン王女を迎え、中国仏教とインド仏教がチベットへもたらされる契機となった。文成公主の占いによれば、チベットの地勢は、災いをもたらす手下多数を従えた大きな魔女の姿に似ていることが分かった。魔女を無力化するため、その両手両足の関節にあたるチベット高原各地に12の寺院が建てられ、その動きを封じることに成功した。そして最後にその心臓にあたる湖を埋めて現在のラサの地にチョカン(大昭)寺を建立し、チベットは仏教国となったのである。 ]

描かれているのはソンツェンガンポ時代からの仏教退魔の観念ですが、現存する仏画は20世紀の制作です。

見た人はご存じと思いますが、表装されておらず、折り目やシミ、汚れが目立ち、汚れの位置からすると乱雑に丸めてどこかに突っ込まれている間に何かの液体をかぶった、と想像できる保存状態です。
7世紀からのチベット人の世界観を表すとともに、現代の、チベット文化が蹂躙された悪夢の時代の証言者でもある美術品といえます。


「チベット鎮魔図を見つめ直す(再看西藏鎮魔図)」
http://culture.china.com/zh_cn/shoucang/shuhua/11054110/20060914/13624395.html
によると、
「チベット自治区文物管理委員会が、前世紀90年代にノルブリンカの文化財を整理中に2幅の『西藏鎮魔図』(魔女仰臥図)が姿を現した。
2幅は大きさ、内容すべて同じで、……(後略)」
(中華網。原文は「金羊網」2006年9月14日)
とのこと。

前世紀90年代って1990年代のことだろふざけんな、
白髪三千丈だか知らんがついこの間のことをえらい昔のことみたいにぼやかして書くんじゃない、
1990年当時の出来事さえ「何年」だか特定できないんか、
だいたい「姿を現した(発現)」ってなんだよふざけてろ、
占領して壊し尽くしてぐちゃぐちゃにしたおかげで由来も絵師も何もかも分からなくなったんじゃないか、
自然に出てきたみたいに書くな、あーもう腹が立つ、
という言及ではありますが、

ラサのチベット美術館の目玉展示にもなっているこの図画が“再発見”されたのはチベットに外国人旅行者が訪れるようになった1980年代末よりも後らしいことが分かります。

第2世代の亡命チベット人と「魔女仰臥図」を見て、何人かに「知ってる?」と尋ねたところ、
「見たことも聞いたこともない」
「概念は有名な話だからもちろん知っているが絵に描かれているのを見たのは初めて」
などという答えだったのは、そういうことか、とも思いました。
「伝統」はつくれるものなんですよね。
また、“同じ2幅があった”のは、1枚は元絵だったのかもしれないし、複数の寺院やお堂に納めるために何枚も受注を受けた絵師が制作していたのかもしれない……などと想像しました。

話は戻ってペンパ・ワンドゥの3枚組作品。

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ここで、ウーセルさんが書かれた、ペンパ・ワンドゥの略歴を紹介:

ペンパ・ワンドゥ(辺旺:Penba Wangdu) 
1969年シガツェ生まれ。
1991年チベット大学芸術学部卒業、現在はチベット大学芸術学院美術学部
教師。
彼の組作品は、チベット古来の伝説を描いたタンカ「鎮魔図」をモチーフに、含みのある表現でチベットの移り変わり――削減と異変を描いている。
3枚目の細かい部分(最後2枚の画像参照)まで注意して鑑賞してほしい。

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ペンパ・ワンドゥの「鎮魔図」3枚組の2枚目2枚目は、寺院が破壊され、僧侶が追放された文革前後のチベットをあらわしているのでしょう。

ペンパ・ワンドゥの「鎮魔図」3枚組の3枚目3枚目は、寺院が再建され、以前の姿に戻ったかのように見えて、よく見ると、


ペンパ・ワンドゥの「鎮魔図」ディテール1山にはトンネル、電波塔、谷には水力発電所、
建物のあちらこちらには赤い旗、高層ビル、
寺院境内には乗用車まで、というようなまさに「現代チベット」になっていて、あからさまな分かりやすい批判でないぶん、何とも言えないものを感じるのでした。




ペンパ・ワンドゥの「鎮魔図」ディテール2モチーフとなった原画(魔女仰臥図)が味わった歴史の辛酸と、その原画に重ね合わせた美術教師の心のうち、などを思ったりします。







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2010年09月20日

続・チベット現代美術展

週末ブログ更新をさぼっている間にも、ウーセルさんは前回紹介したチベット現代美術展の続きをブログにアップされていた。

今回はuralungtaさまが訳して下さった各作家の略歴と共に主な作品を紹介する。

前回全文を紹介した栗憲庭氏の文章の中に解説がある作品については彼の解説も再掲した。

最初の4人はウーセルさんが土日に新しく紹介された作家ではないが、それぞれちょっとした故あって略歴と共に紹介する。

普布(Phurbu)プルブ(普布:Phurbu)
 1974年ラサ市メルド・グンカル(Meldro Gungkar)生まれ。
1994年ラサ市師範学校卒業、油絵は独学。

シュールレアリズムのイヴ・タンギーやマグリットを思い出させる作風。




江白(Jampel)ジャンペル(江白:Jampel)
 本名はチュニ・ジャンペル(Choenyi Jampel)。

1981年ラサ市メルド・グンカル(Meldro Gungkar)生まれ。
2005年中央民族大学美術学院油絵専攻を卒業、
メトクンガ県リド(日多)中心小学校数学教師を勤める。

前回にも彼の作品は紹介した。
写真をクリックして拡大しないとよく分からないかもしれないが、風景の至る所に明らかに中国の国旗を思わせる赤い旗が立っている。
























次仁念扎(Tsering Nyandak)ツェリン・ニャムダ(次仁念扎:Tsering Nyandak)
1974年ラサ生まれ。
1985年から1993年までインドのTCV(チベット子供村)で育つ。
2003年「ゲンドゥン・チュンペル・アートスペース」を合同で立ち上げる。
2004年からこれまでに、アメリカ、ドイツ、イギリス、北京の合同展に参加。
2001年と2008年にドイツとイギリスで個展も開かれた.


栗憲庭氏の解説:
「文化的アイデンティティの矛盾、傷、憂いなどの心理的感覚を表現した作品も、今回の展覧会の核心部分である。
ツェリン・ナムダックの《少年》シリーズは、作者自身の不安な内心のイメージであり、全ての作品の画面には、間もなく災いが訪れるかの如き情景が描かれている。」





以下ウーセルさんが土曜日にアップされた作品。
この日は自治区以外のカム、アムド及び海外在住の作家を中心に紹介されている。
http://woeser.middle-way.net/2010/09/blog-post_18.html

万玛仁?:Pema Rigzenペマ・リグゼン(万瑪仁増:Pema Rigzen) 
アムドの画家。
アムドのチェンツァ(青海省黄南チベット自治州尖扎)生まれ。
チベット大学芸術学院修士課程在籍。
チベット美術の技法が研究テーマ。




普华:Phurbu Gyalpoプルブ・ギェルポ(普華:Phurbu Gyalpo) 
アムドの画家。
1984年ツォロ(青海省海南チベット自治州)生まれ。
チベット大学芸術学院修士課程在籍。
テーマはチベット宗教彫塑の歴史的研究。

栗憲庭氏の解説:
プルブ・ギェルポの《巣》は一つのオブジェからなる作品。
金網のような巣の中に新聞紙でできた卵が置かれ、本来は温かみを意味する巣は、金網という材質のために危険な状態を生じさせ、巣の中の卵は各種の情報でくるまれている。

多吉次仁(吾要):Karma Dorjie Tsering(Wu Yao)カルマ・ドルジェツェリン(別名を吾要)(Karma Dorjie Tsering)
カムの画家。
1963年ケグド(ジェクンド、青海省玉樹チベット自治州)生まれ。
現在は北京民族出版社で働く。
中国内外の展覧会に40回近く出品経験があり。
10以上の受賞歴あり。
個人画集に「無色世界――カルマ・ドルジェ・ツェリン(別名を吾要)作品」
「无色界――カルマ・ドルジェツェリン(吾要)作品」
















贡嘎嘉措:Gonkar Gyatso, 1ゴンカル・ギャツォ(Gonkar Gyatso)
1961年ラサ生まれ。
1984年中央民族学院(現中央民族大学)美術学部中国画学科卒業。
2000年に英チェルシー・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザイン(ロンドン芸術大学)卒業。
現在は制作と生活の場をロンドンとニューヨークに置く。

この絵の中にはユダヤ教徒と被る帽子を頭に載せたダライ・ラマ法王が描かれている(合成写真らしいが?)。
法王に対し「Keep cool! H.H」とか、
法王の言葉として「国もないのに、どうやってユダヤ人がかくも長い年月生き残ってきたのか?不思議に思う」とか、誰か(おそらく中国政府)の命令として「お前は首だ!」とかが言葉にして書かれている。

贡嘎嘉措:Gonkar Gyatso,2同じくゴンカル・ギャツォの作品

この作品には栗憲庭氏の解説あり。
「ゴンカル・ギャツォは商標やファッション画像を貼り合わせて仏の像を作り、消費文化がチベットという宗教的聖地を浸食する様を克明に表現する。」












テンジン・リグドゥ(Tenzing Rigdol)テンジン・リグドゥ
(Tenzing Rigdol)
 
1999年からインドのチベットタンカ芸術学校やカトマンズの寺院などでタンカ(チベット仏画)を学ぶ。
2005年米コロラド大学で絵画と芸術史を学び、現在はニューヨーク在住。

人物のバックには一面、チベット語のお経が書かれている。

以下の2枚はこの絵の部分。













丹?热珠: Tenzing Rigdol 2さすが、海外在住のチベット人はより大胆、というか直接的に抵抗精神を表現しているようだ。

この人の左足には「チメグティ」と呼ばれる「チベット独立の象徴」となっているミサンガが結ばれている。
このミサンガは初め1980年代後半にラサの有名な「ダプチ刑務所」に入れられた政治犯たちが刑務所内で作った。
それが、後に「チベット独立運動擁護」の象徴の一つとして世に広まったものだ。
今、私の腕にも一つ巻かれている。





丹?热珠: Tenzing Rigdol 3手に持っているのはダライ・ラマ法王の著書「The Art of Happiness」












格桑朗扎:Kesang Lamdarkケサン・ラムダク(Kesang Lamdark) 
1963年インド北部ダラムサラ生まれ。
1991年から1995年まで米パーソンズ・スクール・オブ・デザイン(Parsons School of Design)のBFA(ファッションデザインコース)。
1995年から1997年までコロンビア大学に学び、芸術学修士過程(MFA:Master of Fine Arts)修了。
スイス在住。
個人サイト: http://www.lamdark.com/




次仁夏尔巴:Tsering Sherpaツェリン・シェルパ(Tsering Sherpa)
1968年生まれ。
1988年から1989年まで台北でコンピューターと中国語を学び、
1983年から1988年まで伝統的タンカ(チベット仏画)を学ぶ。
1991年から1996年に仏教哲学を学び、
現在は米カリフォルニア州在住。


ウーセルさんが日曜日にアップされた分も続けて紹介するつもりだったが
それは明日にまわすことにした。







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2010年09月17日

烈日西藏/チベット現代美術展

チベット現代美術展覧会ポスター北京の「宋庄美術館」で今「烈日西藏(強烈な/厳しい日射しのチベット)」と題された「チベット現代美術展」が開かれている。
会期は9月10日〜10月10日。

チベット人画家37人と漢人画家13人の作品が展示されている。


この展覧会についてウーセルさんがブログで詳しく報告されている。
主な作品も逐次掲載されているので興味のある方は是非以下にアクセスしてみてほしい。(写真はすべてウーセルさんのブログより)
http://woeser.middle-way.net/

芸術に限らず、漢民族に限らず、とかく我々外から眺めているだけの者たちにとってのチベットとは、この展示会に対するガデ氏の以下の文章の如しなのかも知れない。
「外の世界の心中には、ただ『空想されたチベット』があるだけで、生々しい現実のチベットは終始忘れられ、消されていた。チベットはこれまでいつも『描かれ』、『神秘とされ』、『芸術にされ』てきた。50年代の歌頌翻身(いわゆる解放)から80年代のチベット郷土風情、ひいては今の『シャングリラ式』の夢幻と神秘に至るまで、いつも『他者が空想した表現方法』だった。チベットを題材にしたたくさんの作品の中で、私たち自身の言葉で表現したものがどれだけあるだろう? たとえあったとしても、自我他者化の表現方式にとっくに修正されているだろう」 (訳yuntaitai)

(追記:参加アーティスト・リスト及び今回の展覧会に対するガデ氏の文章すべての英訳を以下で見ることができる。http://www.redgategallery.com/wp-content/uploads/2010/09/TIBET-Exhibition-information.pdf

栗憲庭氏この展覧会を企画したのはこの「宋庄美術館」の館長でもあり、中国現代美術の教父と崇められる美術評論家の栗憲庭氏である。
ほとんどの作品からは彼がノルツェ氏の作品を解説するときに言う「文化的アイデンティティの危機、信仰の矛盾、蝕まれた宗教、文化の混雑と破壊、環境汚染、深刻な漢化、西洋の消費主義の侵入……、これらがチベット人にもたらす身を切る痛み!」(訳yuntaitai)が感じ取られる。

この展覧会が実現されるまでには多くの経済的、政治的困難があったという。

Tsering Nyandak 2当局の審査も行われたという。
それらを乗り越えよくぞこのような展覧会が北京で開催されたものだと驚く。
チベットからは昨今、作家、歌手などに対する弾圧、逮捕のニュースが伝えられている。
彼ら画家たちも相当の圧力を感じながら作品を制作していると思われる。

以下、ウーセルさんのブログに掲載されている栗憲庭氏のチベット現代美術史概観と主な作品に対する解説を紹介する。
http://woeser.middle-way.net/2010/09/blog-post_09.html



なお、中国語からの翻訳は前半及び注をyuntaitaiさん、後半をU女史が快く引き受けて下さった。お二人に深く感謝する。

チベット現代美術アーティストたち烈日西蔵
文/栗憲庭

(原文)http://woeser.middle-way.net/2010/09/blog-post_09.html

 2000年代初頭、私は外国の展覧会の目録で初めて何人かのチベット人芸術家の作品を目にした。2007年には、紅門画廊の展覧会でより多くの若いチベット人の作品を見て深い印象を受けた。これらの作品は、私が以前に見ていたチベット芸術とまったく違っている上、私が90年代からずっと思索してきた芸術と地域文化の関係という問題に密接に関係していた。その後、チベット問題を長年研究してきた友人の紹介を通じ、私はガデ、ノルツェ、アヌ、ジャンペル、黄扎吉ら友人と知り合い
、若いチベット人芸術家に宋庄美術館で展覧会を開いてもらう機会を持とうと決心した。

 チベットはチベット仏教の中心だ。宗教芸術を除き、私の限りある視野の中では、チベットは50年代後の新芸術からずっと、漢族地域のイデオロギーと言語によるコントロール、影響を受けてきた。かつてダライ・ラマのタンカ絵師を務め、後に西蔵美術家協会名誉主席になったアムド・チャンバさえ、毛主席とチベット新生活の絵を描いている(注1)。1954年にアムド・チャンバがダライ・ラマに付き添い北京の全人代に参加した時、この絵はダライ・ラマによって毛主席に贈られている。アムド・チャンバは北京滞在中に中央美術学院で短期間学んだ。彼の描いたパンチェン・ラマの肖像画なども含め、すべてチベットのタンカと現実主義の様式と技巧を融合させたものであった。この彼の創作スタイルと技巧は後のチベット芸術に大きな影響を与えた。1974年、中央美術学院彫塑学部はチベットに赴き、「農奴憤」(訳社注1)を制作した。「収租院」の創作スタイルを踏襲してはいるが、イデオロギーの産物で、「農奴憤」は政治の道具としての性格を除くと、芸術としては没個性でテクニックは荒削りである。「収租院」の人物や細かい動き、語境芸術(注2)などの実験性の間で比べられるものはほとんどないが、チベットでは少なからぬ社会的影響を与えた。1976年、陳丹青はチベットに行ってモチーフを集め、「泪水洒満豊収田」を制作した。翌年には援蔵(チベット支援)大学生で、南京芸術学院を卒業した黄素寧(後に陳の妻になる)とともに「進軍西蔵」を合作した。これは典型的なソビエト式社会主義リアリズムスタイルで、中国はこのスタイルを革命リアリズムと呼んでいる。

 (文革による)混乱を正常状態に戻そうとしていた1980年、陳丹青は「西蔵組画」を作った。この作品は漢族地域の美術史としては、芸術を革命リアリズムから19世紀ヨーロッパの古典的リアリズムスタイルに修正する印となった。しかしその後、余計な物を付け足すような郷土風情スタイルがチベット風情の気風を切り開くと、チベットは漢族地域の芸術家が目新しい物を探し求める場所となり、チベットにこうした芸術スタイルが持ち込まれることになった。その後、80年代中期から現在まで西蔵美術家協会主席を務める韓書力は、「邦錦美朶」で1984年の第6回全国美術作品展覧会の金賞を受賞した。チベット人芸術家のペマ・タシ(uralungta注)と合作した「彩雲図」は同時に銀賞を獲得した。「邦錦美朶」は革命リアリズムの創作スタイルと技巧を合わせたタンカのスタイルであり、「彩雲図」はチベットの宗教壁画のスタイルを採用し、人物と羊を彩雲に融合させ、イデオロギーの影響をある程度超えていた。

 1985年、米国の著名なポップアートの芸術家ロバート・ラウシェンバーグは北京での展覧会に続き、ラサで展覧会を開いた。この展覧会がチベット芸術に与えた影響は漢族地域への影響には遥かに及ばない。なぜなら、漢族地域には革命的な八五新潮(1985年前後の現代主義美術運動)が勢いよく現れていたからだ。そうではあっても援蔵芸術家への影響は計り知れない。当時、私が編集に関わった「中国美術報」は李彦平と李新建らの作品を発表していた。現代芸術の影響を受けたこれらの援蔵芸術家の小さな団体を私はチベットの芸術集団の一つの現象と見なしていた。しかも、そのうちの一部の人たちが相次いで北京で展覧会を開き、1986年4月には「西蔵五人画展」を太廟(労働人民文化宮)で開き、翟躍飛、李彦平、李知宝、齊勇、陳興祝が参加した。1987年5月には「西蔵山地芸術家作品展」も太廟で開かれ、李新建、張暁紅、蔡顕敏が参加した。これらの作品は明らかに現代芸術やラウシェンバーグの影響を受けているが、チベットの宗教芸術の影響も受けている。彼らの作品は間違いなくイデオロギーと目新しい物を求める視点を超越している。その上、作品にはチベットへの彼らの感情がにじみ出ており、長期間のチベット生活による感銘を伝えている。

 しかし私が真のチベット芸術(或いは現代芸術)という時、それは「そこにある」文化 -特に政治・社会的文脈と密接に相関した生活感覚、生活環境に基づく芸術を指す。2010年7月12-18日、私はラサでチベットのアーティスト達に会う傍ら、近年登場したチベット本土のアーティストと、以前の芸術家達との間の基本的な違いについて思索を巡らせていた。それはもしかしたら、我々のような外の人間全てが決して実際に体得することのできない、しかし感じることだけはできるもの――文化的アイデンティティの危機、信仰の矛盾、蝕まれた宗教、文化の混雑と破壊、環境汚染、深刻な漢化、西洋の消費主義の侵入……。これらがチベット人にもたらす身を切る痛み!
Nortseたとえばノルツェの作品「字母」は鉄板の溶接でつくった巨大な30のチベット文字で、しっかり頑丈に土に埋め込まれている。どの文字も表面は黒い鉄線で囲まれ、サビがまだらになっているが、チベット人の心の象徴としていまも硬く、強い意志を持っているのだ!




シェルカワ・アヌの「無耳」シリーズ圧迫に向き合い、シェルカワ・アヌの「無耳」シリーズの絵画や写真、パフォーマンス・アートは修行の性質を持っている。怒り、わだかまっているが、見ざる聞かざる言わざるの姿勢で、神聖な鈴の音に集中して心を乱さず、心の静けさ、吉祥と和諧を追求している。(以上yuntaitaiさん訳)

 今回の展覧会では更に多くの作品に、自らの境遇に対するチベット人の感覚が表現されている。
Gadeガデの《マニ車》はチベット仏教伝統のマニ車を用いているが、その表面のレリーフは、1950年代から現代まで4代に亘る国家指導者のスローガンの"教典"だ。
マニ車を回すのはチベット人の日常的な修行行為だが、'50年代以降、イデオロギーは(本物の教典と)同様に、チベット人の"日常教典"とされた。ガデの重要な作品にはもう一つ《氷の仏》があるが、これは氷で作った仏像をラサ河の流れの中に置き、時間の経過に従い、仏像が消え失せていく、というもの。氷の仏は、チベット人の心の中の喪失感、やり切れなさ、そして如何ともし難い感覚をイメージしたものだ。同類の作品は今回の展覧会には少なくない。

例えばゴンカル・ギャツォは商標やファッション画像を貼り合わせて仏の像を作り、消費文化がチベットという宗教的聖地を浸食する様を克明に表現する。

またアン・サンの《米ドル1号》は、100ドル札を背景に、各種流行ブランドのロゴを組み合わせた仏像を配した。ケサン・ランダクの作品は、化工媒剤を用いた空っぽで穴だらけの仏像。ジャムサンの《仏》シリーズは、仏画をロボットに仕立てた作品だ。

ヤク・ツェテンとツェカルがビール瓶仏塔 イデオロギー、現代文明、消費文化、世俗化、漢化…チベット文化に対する浸食は、文化が混雑し破砕されたチベットのありさまを呈している。ヤク・ツェテンとツェカルがビール瓶を用いて制作した仏塔型のオブジェ。チャンに代わってチベットビールがチベットの宴席を占領し、ラサの通りを埋め尽くす四川料理店のように、文化的破砕は食文化を通してひっそりと始まっているのだという。

ベンパ・チュンダックの映像作品《漂う氷》は、チベット族が葬祭の時、魔除けのために自宅の門前に白粉で描く吉祥の図案を、明け方に十字路に数点描き、夜明けと共に車の往来で掻き消されていく様子をビデオカメラで撮影したもの。こうしたプロセスを映像に収めることで、ベンパ・チュンダックはチベット族の文化を、現代文明である自動車に轢かれて白粉の図形が消え失せるように、ついには水に溶かされていく"漂う氷"に喩えた。

ツェカルの《翼を広げて飛ぶ》シリーズでは、小さなラマのような子どもの漫画キャラクターが、或いは機械の翼を着け、或いはドラエモンと一緒に、滑稽な様子で空を飛び回る。これは未来のチベットの光景なのではないか。

チベット生まれの漢族のアーティスト・盧宗徳の《チベット日記》は、風刺に満ちたチベット風俗画。コミカルな色彩と世俗化に溢れた日常の景観は、中国内地の人間が想像する、宗教的雰囲気溢れるチベット像とは大きな隔たりがある。

湖南省籍のチベット人女性アーティスト・張苹の《黒いデザート》は、仏教の彫像とファッショナブルな少女を混合させたイメージ。第6幅では、千手観音のような少女がそれぞれの手に各種のファッショナブルなハンドバッグを持ち、ファッションのアイコン化を表している。

ガデガデがタンカ風に描いたシリーズ絵画は、ファッション、政治、歴史などを表す様々な記号やイメージを混在させたもので、特に仔細な観賞に値する。





 文化的アイデンティティの矛盾、傷、憂いなどの心理的感覚を表現した作品も、今回の展覧会の核心部分である。
ツェリン・ナムダックの《少年》シリーズツェリン・ナムダックの《少年》シリーズは、作者自身の不安な内心のイメージであり、全ての作品の画面には、間もなく災いが訪れるかの如き情景が描かれている。
破れたルンタ(及びタルチョ)を体に纏った少年の救いの無い表情は、作者の眼差しに常に宿る憂鬱さを思い起こさせる。











ペンパペンパのオブジェ《扉》は、典型的なチベット風建築の扉。一見したところ自由に出入りできるようだが、透明なガラス板が仕込んであり、目に見えない拒絶と隔膜感を自然に生じさせる、微妙且つ精密な作品だ。彼の《五妙欲》シリーズの絵画は同様に、文化的変遷に伴う心理的矛盾を叫ぶ。憂いの表情を湛え典型的なチベット族の姿をした鏡の中の裸の自画像《五妙欲2》では鏡の前面に背面の自画像が描かれているが、流行の服を着ており、その人物をアイデンティファイすることはできない。

ゴンカル・ギャツォの写真群《私の特性》は、異なる時期に異なる場所で異なる内容の絵を撮ることにより、作者自身の異なる政治的立場・文化的アイデンティティ間の転変を表現している。1枚目ではチベット族の装束を纏った作者がタンカを描いており、2枚目では紅衛兵の身なりをした作者が毛主席像を描いており、3枚目では典型的な難民用のトタン小屋の中で、チベット族の装束に身を包んだ作者がダライ・ラマの肖像を描いており、4枚目では英国に移住した作者が抽象画を描いている。

ツェドルの《方向》は、異なる色で異なる方向を向いた矢印が同一のイメージに配されたモチーフを通し、文化的抑圧と政治的矛盾が作者の内心に与える傷を表現している。《方向1》は両目を固く閉じ煩悶と拒絶の表情を浮かべた自画像。頭上にはそれぞれ左、右、上を指す黄色・赤・白の3つの矢印が描かれている。

プツェの《平和の祈り》は七つの鉄の骨組みからなる逆立ちした塔の形のオブジェに鉄鎖が掛かり、どのオブジェの上にもバターランプがいっぱいに置かれ、祈りの宗教的な雰囲気とともに、今にも崩れ落ちそうな危うさにも満ちている。

プルブ・ギェルポの《巣》は一つのオブジェからなる作品。金網のような巣の中に新聞紙でできた卵が置かれ、本来は温かみを意味する巣は、金網という材質のために危険な状態を生じさせ、巣の中の卵は各種の情報でくるまれている。

タシ・ノルブの《常ならざる現状》の画面には不安定な斜角の構図が用いられ、一方には仏像が、また一方にはチベット人の肖像が配せられ、2組のイメージの間にはある種の関係の空間が形成され、この空間を1体の紙飛行機が横切り、脆弱で不安定なイメージとなっている。

ジャンペル 展覧会に出品された殆どのアーティストの作品は、私に一連の物語や事件を連想させる。ジャンペルが高原の山や川いっぱいに描く工業用パイプラインは、エネルギー開発のもたらす環境破壊に対する作者の憂慮を思わせるし、

ツェリン・ドルマの《生死シリーズ》に見られる敬虔な宗教観念は、若くして夫と子どもを失った彼女が、芸術を一種の修行の道と目する敬虔な心理状態を感じさせる。

タシ・ノルブの《映像に撮られて》や、陳丹青を模倣したツェワン・タシの連作は、今日のチベットの光景を見せつけ、漢族の地におけるチベット芸術の作品群に内在する見られ方、描かれ方、珍しいもの見たさの傍観者的視点を深く反省すべきであることを思い起こさせる。この角度から言えば、劉卓泉が38のカメラを使いバルコルを24時間撮影した《西遊記》や、彼がノルツェと合作したパフォーマンス《対話》に見られるような、平等と相互尊重の姿勢を私は好む。

 今回の作品群で用いられた言語モデルで、西洋或いは漢族地域の現代、当代芸術の影響以外に最も称賛に値するのはこれらのアーティスト達の創造性であり、チベット当地の文化、芸術、習俗、日常生活の中から汲み取ることのできる言語、材質、方式における栄養は、今後深い研究が必要となる課題であって、この短文だけでは展開することのできない部分である。

 チベットで迎えたある晩、私はポタラ宮前広場をうろついていた。'50年代以来、中国の殆ど全ての広場はイデオロギーの産物となり、天安門広場を模倣したこの広場にも、同じように高くそびえる記念碑があり、多くの都市で熱心に作られている音楽噴水があった。音楽に合わせて噴水が狂ったように噴き出し乱舞し、高音スピーカーから流れる流行歌が耳をつんざき、ラサの夜空に響き渡る。見回せば広場の上に飾り提灯が光り輝き、遊覧客がはしゃいでいる…,ふと振り向くと、雄大で神秘的なポタラ宮が、この騒がしい俗世を傲然と見守っているのが目に入り、突然、一種言いようのない悲憤とやるせなさが心に押し寄せてくるのだった。 (以上後半、訳U女史)

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(注1)金の額縁の「毛主席タンカ像」。高さ103.5センチ、幅74センチ。縁はエンボス加工の金箔で、上部にチベット仏教の「吉祥八宝」と鳩、鶴、鹿、象などの装飾があり、毛主席の健康と長寿、「幸福が四方に及ぶように」との意味が込められている。周囲の9枚の画面はそれぞれ、「部隊長が貧しい僧侶にお布施を与えた」「医療スタッフがチベット同胞を看病した」「解放軍戦士が農作物の収穫を手伝った」「解放軍とチベット同胞がともに道路を造り堤防を直した」「工作人員がチベット同胞のために学校を開いた」「チベット同胞に無利子でお金を貸した」「民族商店を開き経済貿易が発展した」といった、人民解放軍と工作人員のチベットでの良い行いを紹介している。画面下では、解放軍とチベット同胞が肩を並べて戦い、国境地帯を守る雄大な場面を描いている。西蔵大学のツェワン・タシ?副教授の研究によるとアムド・チャンバの作品の立体効果テクニックは、若いころラブランで僧侶をしていた時、パンチェン・ラマ9世の白黒写真を見たところから始まった。アムド・チャンバは生涯、仏像を描き、写生する習慣を持っていたと言われており、彼が中央美術学院の写生クラスで学んだことと関係があると考えている。

(yuntaitai注)百聞は一見に如かずで、写真はここにあり。
http://www.mzb.com.cn/zgmzb/html/2008-04/18/content_40506.htm(必見)

(注2)語境芸術は90年代の欧米で流行した概念で、芸術展を開く場所が、作品に土地の歴史との関連を求めることを指す。1965年の「収租院」の展示場所は、まさに当時の劉文彩家が地代を取り立てていた場所であり、創作時には脱穀機やてんびん棒、カゴなどの現物が使われた。これは70年代初期のカッサル文献展覧会で、キュレーターHarald Szeemannが「収租院」を招いた理由だ。

(訳者注1yuntaitai)
作品については、文革美術の一つとして紹介してるサイトあり。
http://cn.cl2000.com/history/wenge/ziliao/18.shtml
補足のつもりで少し訳すと……
「農奴憤」は106体の等身大の塑像を組み合わせた作品で、全体は「最も悲惨な人
間地獄―封建領主の荘園」「最も暗い人食い魔窟―寺院」「最も反動的な統治機
構―カシャク」「農奴は戦い、解放を見る」の四部構成。階級闘争をテーマに、
旧チベットの反動地方政府や寺院、貴族の三大領主による農奴への残酷な圧迫を
暴き出している。百万農奴の反抗闘争をたたえ、人民が修正主義に反対し、無産
階級独裁の革命継続を徹底させものだ。

写真は
http://blog.sina.com.cn/s/blog_4939b1cd01000ao9.htmlで見られる。

(uralungta注)
ペマ・タシの作品は
http://yisulang.com/artists/bamazaxi-%E5%B7%B4%E7%8E%9B%E6%89%8E%E8%A5%BF/







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2010年09月16日

ポト派元最高幹部ら4人を正式起訴、大量虐殺などの罪(CNN)

979d4ebd.jpgちょうど今住んでいるアパートの上の階のドイツ人女性はこの裁判の準備に関わり、証言を集める仕事をしていたという。しかし、彼女は最近仕事を途中でやめ突然帰国した。
彼女を知る人の話によれば、彼女は余りに惨い証言を毎日聴くうちに自分がおかしくなってしまい、仕事が続けられなくなってしまったのだという。

「中国とポル・ポトの関係」を書くつもりで今準備してる、もうちょっと待ってくれ。

今日はコピペ。
大ボスのポル・ポトはもう死んでしまったし、つい最近まで幹部たちも自由に普通に暮らしてきた。
遅すぎる裁判だがやらないよりはいい。
いつの日にか「チベット大虐殺」についても裁判が行われることを切に願う。

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http://www.cnn.co.jp/world/30000234.html

(CNN) カンボジアで1975〜79年のポル・ポト政権時代に起きた大規模虐殺を裁く国連支援の特別法廷は16日、同政権の最高幹部だった4人を大量虐殺、人道に対する犯罪やカンボジア刑法に基づく殺人、拷問などの罪で正式に起訴したと発表した。

4人は、政権ナンバー2だったヌオン・チア元人民代表議会議長、イエン・サリ元副首相、キュー・サムファン元国家幹部会議長、イエン・チリト元社会問題相。4人は70、80歳代の高齢者となっている。政権の最高指導者だったポル・ポト元首相は既に死亡している。

ポル・ポト政権時代の資料などを集めているカンボジア文書センターによると、過酷な共産主義政策が強いられた同時代には当時の総人口の4分の1ともされる、少なくとも国民170万人が処刑、病気、飢餓や強制労働で死亡した。特別法廷によると、暴力による犠牲者は推定80万人となっている。

裁判の開廷期日は不明だが、プノンペン郊外で記者会見した特別法廷の捜査担当判事によると、法廷は証言者の聴聞などのために4カ月の期間が与えられている。4人の正式起訴に備え、これまで2100人以上の市民らから証言などを集めたという。

特別法廷では今年7月26日、プノンペンにあったツールスレン政治犯収容所のカン・ケク・イウ元所長に拷問などの罪で禁固19年の実刑判決が言い渡されていた。2007年に本格的な活動を開始した特別法廷による判決は初めてだった。

同収容所ではポル・ポト政権時代、1万4000人以上が拷問などで死亡したとされる。元所長側は虐殺の経緯などで証言者役も果たしたなどとして釈放を要求、実刑判決後には控訴している。一方、同収容所で死亡した遺族らは19年の実刑判決は軽すぎるとして反発し特別法廷への不信感も示していた。検察側はより厳しい刑を求めて控訴に踏み切っている。

2010.09.16 Thu posted at: 17:30 JST

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2010年09月15日

ダライ・ラマ法王ラダックのレーで土石流被害者を慰問

ラダック、レー 9月13日ダライ・ラマ法王の水害被害者慰問集会©Tenzin Choejor/OHHDL

9月13日ダライ・ラマ法王は、先の8月5日夜の豪雨により大土石流災害に遭ったラダックのレーの被害者を慰問のため訪れられた。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2010-08.html#20100813

まず、最初に壊滅的被害を被ったレーのチベット難民キャンプ、チョクラムサルに向かわれ、被害の状況を視察し、住民たちを慰めて回られた。

その後レーのラムドン・スクールの広場で25000人の聴衆を前に犠牲者への追悼式を行われた。
写真はその時のもの。
いつもながらすごい人集りだ!
さらにその他の写真を見たい方は以下へ:
http://dalailama.com/gallery/album/0/84

法王は「災害はそれぞれのカルマの結果だ。私の親が、子が死んでしまった、、、と嘆き悲しんでばかりいないで、前向きに将来のために努力すべきだ」と述べられ、さらに「10万回のマニサガ(観音の真言を唱えること)などを行うこともよいであろう」等の様々なアドバイスをされた。
RFA
http://www.youtube.com/watch?v=aGr4kYOkzkM&feature=youtu.be&a

14日にはカルギル地区のカルギル、ムルベク及びボダカルブを訪問された。

15日にはボダカルブにて観音菩薩の潅頂を一般参列者に授けられる。


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このブログが「ライブドアブログ第1期奨学金コンテスト」に合格した話し。
これもこのブログに日夜アクセスして下さっている皆様のお陰。

数か月まえuralungtaさんのお勧めで、何となく応募したコンテストでした。
が、何と応募者総数1721人の中で合格したのは26人だけという難関に引っかかったのでした。

一般に、合格するための最低基準は月間アクセス数が一万件以上ということだった。
このブログはこの基準にはちょっと足りない。
それなのに何で合格したのか???
きっと審査員の中にチベットファンがいたのではないだろうか?と思ってる。

で、私のブログを宣伝したライブドアさんの歌い文句を読んで、顔を赤らめたというか、意味がよくわからないと思った。

曰く、このブログは「20世紀的ジャーナリズムの極北に位置するブログ。TVや新聞では伝えることの出来ないリアルな情報や感情を伝えるさまは、まさに<個人ブログメディア通信社>」というのだ。
http://scholarship.livedoor.com/recipient01.html(その他合格ブログの一覧表がある)

「20世紀的ジャーナリズムの極北に位置する」はどう解釈すべきなのか?
ある人は、「これは客観的取材(←20世紀?)の対極にある、内側に入り込む主観的取材、ってこと? んで「極北」って北の最果ての誰も顧みない荒野ってこと!」と解釈された。
が、他のある人は:「20世紀的」つまり新聞やテレビ中心の報道ではなくブログという新しいスタイル<−「極北」である、という意味ではないか?とおっしゃった。

私としてはもちろん二番目の意見であってほしいと思うのだが、それにしてもライブドアさんは分かりにくい表現をされるものだ。

月間一万件を超えるとさらにボーナスが貰えるという。
だから私もできるだけ頑張るから、皆さんもせっせと「チベット問題を広めるために」も、これからもアクセスお願いします。

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10月に長野で行われる小川アムチによるチベット医学教室のお知らせ。

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長野でチベット医学を学んでみませんか
小諸在住のチベット医(アムチ)小川康さんを長野にお招きして、チベット医学を通してチベット文化について学んでみませんか?

6人から8人程度の少人数で、チベット医学のバイブルである「四部医典」をテキストにチベット医学について学びたいと思います。

仲 間 募 集!

開催時期 2010年10月13日(水曜)より10月20日、27日、11月10日、17日、24日

時間 午後6時から8時 終了後交流会あり

第一回 10/13 「文化とともにチベット医学」唄 踊り 言葉 歴史 風土
第二回 10/20 「ゆっくり生きようチベット医学」チベット医学の基礎概念
第三回 10/27 「しっかり診ようチベット医学」診断と病理
第四回 11/10 「大地に根ざしたチベット医学」チベットと長野の薬草
第五回 11/17 「心を癒すチベット医学」 医学と仏教
第六回 11/24 「現代に活かすチベット医学」目指せ!ノーベル医学賞

場所   スローカフェ ずくなし 2階
http://shop.asama-de.com/b/zukunashi/
料金   一回 3000円   テキスト代 500円(別途)

申込み・問合せ  ナガノ DE チベット(はらだ)

電話かメールでお申込下さい
090-4158-2085 E-MAIL miyuki.rewa@gmail.com

一回のみの受講もできます。  定員 8名






rftibet at 16:50|PermalinkComments(12)TrackBack(0)ダライラマ法王関連 

2010年09月13日

アムド、マチュで中学生2人が抗議デモを行ったとして退学処分

078c7abe.jpg写真:退学処分となったガワン・ラモ(©RFA)

9月11日付、RFAチベット語版によれば、

http://www.rfa.org/tibetan/chediklaytsen/amdolaytsen/amdo-stringer/tibetan-students-expelled-from-school-09112010130031.html
8月2日、甘粛省甘南チベット族自治州マチュ(ཀན་ལྷོ་རྨ་ཆུ་)にあるチベット族中学校の女子生徒ガワン・ラモ(ངག་དབང་ལྷ་མོ་)ともう一人の氏名不明の男子生徒が、今年3月中国政府に対し抗議の声を上げたとして退学処分となった。

さらに、2人は2度とこのような行動を取らないために、思想教育を強制的に受けさせられた。

2人は他の学校に入学することも禁止されたという。


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以下アムネスティ・インターナショナル日本によるイベント紹介。

9月25日(土)「劉暁波はなにをしたのか−−中国の獄中作家について考える夕べ」

中国の著名な文芸評論家・劉暁波氏のことをご存知でしょうか。
彼は文芸評論家であり、詩人であり、そして民主化活動家でもあります。
彼は今年2月に「国家政権転覆扇動罪」で懲役11年の判決が確定し、現在彼は獄中にあります。
しかしその罪の内容は、中国の民主化を求める「08憲章」の起草に中心的な役割を果たした、ということだけでした。

北京五輪や上海万博を経験し、中国経済は活況を呈しているようです。
しかし他方では残念なことに、劉氏のように、言論の自由を行使しただけにもかかわらず捕らえられた「獄中作家」が、中国には数多くいます。

劉氏がかつて会長を務めた「独立中文ペンクラブ」の皆さんが、国際ペン東京大会にあわせ来日します。

この機会に、劉氏の救援活動に力を入れているペン・アメリカンセンター(米国ペンクラブ)の皆さんも交え、劉氏の行動やその作品について語り、彼のような獄中作家のために私たちは何ができるのか考えます。

日時:2010年9月25日(土)17時45分開場、18時開始、21時終了予定
会場:早稲田奉仕園リバティホール(新宿区西早稲田2−3−1)

地下鉄東西線「早稲田」徒歩5分、地下鉄副都心線「西早稲田」徒歩8分
電話03−3205−5411
アクセスMAP http://www.hoshien.or.jp/map/map.html
<内容>
劉暁波氏の活動の紹介、作品の朗読、言論の自由をめぐる中国の最新状況の紹介など

発言予定:廖天(作家、独立中文ペンクラブ会長)、馬建(小説家)、楊煉(詩人)、クワメ・アンソニー・アピア(哲学者、ペン・アメリカンセンター会長)ほか

会場費:1000円(学生500円)

主催:アムネスティ・インターナショナル日本
   独立中文ペンクラブ(独立中文筆会)

問合先:アムネスティ東京事務所
電話03−3518−6777 電子メール〈amnesty-china@hotmail.co.jp〉

●劉暁波(LIU Xiaobo)
1955年中国長春市生まれ。著名な文芸評論家、詩人、民主化活動家。北京師範大学で修士号を取得後、同大・オスロ大・ハワイ大で中国現代文学を教える。
その間に博士号取得。
米国コロンビア大に客員研究員として滞在中の1989年に民主化運動の発生を知り、帰国。
6月2日から天安門広場でのハンストに参加。
同月4日の武力鎮圧のさなかでは、犠牲者をできるだけ出さないように動いた。その後1991年まで「反革命罪」で投獄される。
出獄後も文筆活動を続けるが、たびたび拘束を受ける。
中国の民主化を訴える「08憲章」の起草を中心的に担い、2008年12月に発表するが、このことが基で「国家政権転覆扇動」容疑で2009年6月に逮捕される。
その後の裁判で懲役11年・政治権利剥奪2年が確定。現在も獄中にある。

●独立中文ペンクラブ〈独立中文筆会)
言論・表現の自由を求める中国内外の中国語作家たちによって、2001年に結成。
同年、国際ペンへの加盟を認められた。劉暁波氏が2003年から2007年まで会長を務めた。

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もう一つついでに今日から行われているイベント紹介。

「チベットの生活と文化」
http://www.tibet-jp.com/newpage6.html

雄大な自然に囲まれてくらしているチベットの子供たちの水彩画と、チベット医師ダワ先生の油彩、
野田雅也さんの写真展です。

水彩画約170点は、5歳から15歳までのチベット難民学校・児童生徒が描きました。
子供たちの日常生活や将来の夢などが描かれています。
ダワ先生は、チベット医学に欠かせない薬草の実施調査のため訪れた地を描いた四季折々の作品約20点を展示します。
野田さんは、生命感あふれるチベット大地の優しさとたくましさを写真に収めています。
賛助出品として、仏画師の宮坂宥明さんの観音菩薩も展示いたします。
どうぞ、鮮烈なチベットの大自然に深呼吸をしてください。 皆様のご来場をお待ちしています。

9月.13日(月)〜9月.18日(土)
 初日:15:00〜18:00
 平日:10:00〜18:00
 最終:10:00〜16:00
 入場無料
*入館は17::45まで

会場 横浜市民ギャラリー3階C室
電話・045−224−7925

主催:チベット交流会  協力:チベット難民学校、Dr.ダワ、野田雅也、
               賛助出品:宮坂宥明
後援:浄土宗 桂林寺、風彩社 
問合せ先:224-0053 横浜市都筑区池辺町3144-5 
電話/FAX:045−943−5258



rftibet at 18:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)チベット内地情報 

2010年09月12日

ラサでチベット初の盲人学校を創設した、全盲のドイツ人サブリエ・テンバーケンさん

ラサの盲学校の子供たち今日横浜の「あーすフェスタかながわ」で多文化共生を紹介する映像の上映会が開かれその中でチベットの盲学校生徒が登山に挑戦するドキュメンタリー映画「ブラインドサイト」が上映されたはずだ。

このドキュメンタリーはサブリエ・テンバーケンさん(Sabriye Tenberken 1970年生まれ)というラサで1998年に盲学校を創設した全盲のドイツ人女性が学校の教え子6人と共にエベレストの北にある7043mのラクパリ峰登頂に挑んだ時の記録。
山頂には達することができなかったが「ゴールは頂上ではない。視界がさえぎられた氷原が目の見えない子供たちの頂上だった」と彼女は言った。

彼女は出生時より強い視覚障害を負い、先天的な進行性の網膜退化のため12歳で完全失明した。両親は、彼女を目の見える子供と同じように扱い、急流の中でカヌーを漕がせ、スキーも教えたという。「どんな人でもできないことが必ずある、最も重要なのは自分の能力の限界を発見し、限界まで発揮すること」と両親は彼女に教えた。
盲学校時代にチベットに興味を持ち、ボン大学でチベット学を専攻。1992年チベット語の点字を世界で初めて創作した。その後、このチベット語の点字は盲人用の公式言語となった。
「無国境の点字チベット語」は光に追いつくための足跡と彼女は言った。

サブリエ・テンバーケンさんとポール・クローネンバーグさん1997年1人でチベットに行き、馬等で村々を回りチベットの盲人たちの現状を調査した。チベットでは太陽の輻射が強いため、目の病気の発病率が高く、チベット高原には失明者が多い。盲目の子供たちがベッドに縛られ、人目から隠され、物乞いにだされるのを知って、彼女は盲学校を創ろうと思い立った。「知識に飢え、好奇心にあふれる子供たちを支援して強くしたい」と思い、正しい技術と方法を使えば、自分の前に全世界が開かれることを、同じ目の不自由な彼女はよく知っていたからだ。
そんな子供たちを救おうと、1998年チベットに再び行き、実際にラサでチベット初の盲学校を始めた。

チベット語点字だが、最初彼女は様々な困難に遭遇したという。盲人である彼女を騙そうとする者もいた。
自身が盲目である女性の計画に対し信頼を得ることができず募金活動もうまくいかなかった。
しかし、その時シガツェの赤十字で働いていた同じドイツ人男性ポール・クローネンバーグ(Paul Kronenberg)が計画に合流した。その時から学校は順調に行き始めた。彼は彼女の公私のパートナーとなった。
今までに約100人の生徒がこの盲学校で勉強した。
彼らの盲学校は全く新しいスタイルだったので、このスタイルは他の世界中の地域の人々に参考にされているという。

更に彼女は最近南インドのケララに「国際社会企業家養成学校International Institute for Social Entrepreneurs」を設立し、世界中の盲人学生を集め教育している。

サブリエ・テンバーケンは2005年にはノーベル平和賞候補にノミネートされ、2006年にはマザーテレサ賞を受賞している。
その他、これまでに中国を含め多くの国々から賞を受けている。

私の知り合いの親戚がこの学校にかつて通っていた。その子もこの登山に参加したという。
その子はこの学校に行き始め、非常に明るい子になったということを聞いたことがある。

サブリエ・テンバーケンさんの本の一つは日本語にも翻訳されている。
「ブラインドサイト 小さな登山者たち 」の [DVD] もある。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B5%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%B3/s?ie=UTF8&rh=i%3Advd-actor%2Ck%3A%E3%82%B5%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%B3&page=1

彼女の会のホームページ:
http://www.braillewithoutborders.org/ENGLISH/index.html

参考:
http://en.wikipedia.org/wiki/Sabriye_Tenberken
http://japanese.cri.cn/782/2009/11/25/141s150766.htm
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/mixnews/20070819ok01.htm

写真1枚目:サブリエさんとポール。雑誌「ソトコト」2010年5月号86ページより。©Braille Without Borders

2枚目:ラサの盲学校の生徒たち.サブリエ・テンバーケンさんのホームページより。

3枚目:彼女が創作したチベット語点字。同上ホームページより。





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2010年09月11日

【石平のChina Watch】「賠償訴訟大国」に警戒せよ

他人様の記事で恐縮だが、何だか出だし部分が笑えたので紹介。

http://sankei.jp.msn.com/world/china/100909/chn1009090814001-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/china/100909/chn1009090814001-n2.htm

2010.9.9 08:12

8月の中国新聞各紙の社会面を眺めていると、奇々怪々な「賠償請求訴訟事件」のニュースが目立つ。

 北京市石景山区で、ある男の愛人となった女性は、男が自分のために購入した化粧品を男の正妻に「掠(かす)められた」として、この正妻に2万元の「損害賠償」を求める訴訟を起こした。湖北省黄石市では、夫が外で遊んでいて家に帰ってこないから夜の独り寝を余儀なくされた妻が、夫を相手に「独り寝損害賠償訴訟」を起こしたことが話題となっている。

浙江省寧波市。女の子が宿泊したホテルで自殺した後、彼女の死に「責任がある」として遺族から賠償請求訴訟を起こされたのは、なんとホテルの方である。

 広東省中山市。車に軽くぶつかった女性が運転手に法外な賠償請求を突きつけたが、その理由は驚くべきことに「処女膜が事故で破損したこと」であった。

 華北部の某都市で、専門学校の生徒が校内で転倒して負傷した後、「校舎の床が滑りやすいから」といって学校に莫大(ばくだい)な賠償を要求した。西南地域の重慶市では、自分で転倒して負傷した老女がバスに乗り込み、乗車中に転倒したふりをして、バス会社に賠償を求めた事件も起きている。

 それらの珍事件の数々を見ていると、今の中国人たちが、賠償請求訴訟を起こすのに、いかに「熱心」であるかがよく分かる。何かある度に、正当な理由があってもなくても、とにかく誰かをつかまえて「賠償をよこせ」と迫るのが一種の流行とさえなっている。愛人が正妻を訴えるこっけいさや、ホテルが宿泊客の自殺で賠償を要求されるような理不尽さもそこから出ている。

 こうした現象はある意味では、中国における社会的進歩の一つである。かつて毛沢東時代には、国民が生命や権利のすべてを奪われても文句の一つも言えなかったのだが、今、国民の一人一人が個人的権利を強く主張してそれを守り通そうとしている。この風潮がいずれ、国民一般の普遍的権利を求める社会運動に発展すれば、民主化への道が開かれる可能性もある。

しかしその半面、自己権利意識の肥大化が現代中国人特有の強欲さと相まって、理不尽な「賠償請求訴訟」の氾濫(はんらん)を招き、徹底的な人間不信の社会を作り上げている。

 2006年11月、南京市内のバス停留所で転倒した老女を助けた彭宇さんという若者が逆に老女から「損害賠償」を求められた事件が発生して以来、街角で誰かが倒れていてもそれを無視して通り過ぎていくというのが中国人の常識となっている。共同体としての中国社会は、すでに崩壊寸前である。

 われわれが警戒すべきなのは、こうした中国流の「賠償請求訴訟」の矛先が日本に向けられてくることである。いわば「慰安婦賠償」や「強制労働賠償」のたぐいもそうであるが、直近の事例でいうと、今年の8月15日、戦時中に日本に連行されたと称する中国の「強制労働者団体」が日本の菅直人首相に書簡を送って「対日賠償訴訟を徹底的に行う」と宣言している。

 この手の訴訟に対して、日本は完全拒否の姿勢を貫くべきであろう。一歩でも譲れば、バスで転げたふりをした重慶の老女と同類の「自称被害者」やその子孫たちが、法外な「賠償」を求めて次から次へと日本に押し寄せてくるような光景が目の前の現実となろう。

 中国との経済的交流・人的交流がますます盛んとなっている今、日本の企業や個人はまた、中国人たちの強欲な「賠償請求」の餌食にならないよう、十分に気をつけるべきであろう。

                   ◇

【プロフィル】石平

 せき・へい 1962年中国四川省生まれ。北京大学哲学部卒。88年来日し、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研究機関を経て、評論活動に入る。『謀略家たちの中国』など著書多数。平成19年、日本国籍を取得。


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