2012年03月

2012年03月31日

<続報>28日にンガバで焼身抗議死亡した僧ロブサン・シェラップの遺体は

Map_TsampaRevolution_20120330_EN昨日バルカムで焼身した2人の僧侶も含めた「チベット抗議デモ・焼身抗議 地図」(ツァンパ・レボルーション制作)

先の28日にンガバ県チャ郷で焼身抗議を行い、その場で死亡したキルティ僧院僧侶ロブサン・シェラップ(20)の遺体は住民の懇願にも関わらず、当局に持ち去られ、29日にバルカムで火葬された。その後家族には遺灰だけが渡された。また、当局は遺体引き渡しを要求した者やその他の関係者を次々暴力的に拘束している。

情報を伝えたのはダラムサラ・キルティ僧院。そのチベット語原文は31日付けTibet Expressで読むことができる。http://www.tibetexpress.net/bo/home/2010-02-04-05-37-19/7876-2012-03-31-07-34-16

僧ロブサン・シェラップが焼身後死亡した現場には大勢のチベット人が集まり、声を上げ遺体を家族に引き渡すよう懇願した。これに対し、地区の役人は県の役人を呼び相談した結果、遺体を引き渡すことに同意した。しかし、そのすぐ後に大勢の武装警官隊と軍隊が来て、空に向かって銃弾を何発も発射し、集まっていたチベット人を暴力的に拘束した。

その際、部隊の撲打により負傷した何人かが病院に担ぎ込まれた。しかし、そのうちの何人かは当局の逮捕を恐れ、病院を逃げ出したという。

28日の夜、当局は僧ロブサン・シェラップの遺体をバルカムに運び、29日に火葬した。家族が呼ばれ遺灰の一部が渡された。

僧シェラップの死亡を受け地元のチャ僧院には1000人ほどのチベット人が2日間集まり、マニを唱え追悼法要を行った。しかし、その後当局がすべての追悼法要を禁止したことにより、最後まで法要を終わらせることができなかったという。

その他、ダラムサラ・キルティ僧院のリリースには27日にンガバ・キルティ僧院僧侶シェルチン(22)、僧ジャンジュップ(16)が拘束され、その後行方不明と報告され、さらに、去年10月に拘束された3人の僧侶も5ヶ月経った今も生死も分からず行方不明、と報告されている。



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26日デリーで焼身抗議、死亡したジャンペル・イシェ氏の葬儀

_DSC2548ジャンペル氏の遺体は昨日デリーからダラムサラに運ばれた。朝8時からツクラカン前の広場においてTYC(チベット青年会議)主催で政府首脳、議会議長等も列席の上、追悼式が行われた。その後、町はずれの火葬場に運ばれ、葬儀、火葬が行われた。
追悼式にはおよそ3000人が出席。広場には法王がティーチングされるときより多くの人々が集まっていた。

遺体が到着するところから、完全に灰となるまでつきあったので、時系列に一部始終を写真と共に報告する。

日本と違い、インドでは(チベットも同様)火葬は薪の上に遺体を載せてオープンに行われる。慣れない人にとって少々ショッキングな写真も含まれるかもしれないことを最初にお断りしておく。

_DSC2198警察車両に先導され、早朝デリーからダラムサラに向かう車隊。遺体は救急車により運ばれた。









_DSC2210チベット国旗を掲げた100台近いバイク隊
も加わる。










_DSC2235隊列は相当なスピードで走っていた。そんな中、バイクに乗りながらシャッターを切るも、うまく行かず。









_DSC2271走りながら、「プギェロー!」などと叫び声を上げ、拳を振り上げる元気のいいチベットバイク隊。









_DSC2346ツクラカン前に到着した遺体を乗せた救急車。カタを掲げ、これを道で迎える人たちの数は法王を迎える時よりも多かった。








_DSC2366カタを手に涙で迎える、人々。











_DSC2385TCVの生徒たちも参列。カタが飛ぶ。











_DSC2407ツクラカン前に安置された棺。

























_DSC2442ジェンペル氏はTYC(チベット青年会議)のメンバーであったということで、主催はTYCであったが、亡命政府大臣や議会議長等も出席し、準国葬扱い。全員で黙祷を捧げているところ。

センゲ首相は日本訪問のため、前日ダラムサラを発っており、この追悼式には出席することができなかった。しかし、デリーに向かう途中、遺体を運ぶ隊列と会い、哀悼の意を示しておられる。

_DSC2476僧侶の上にもカタが飛ぶ。












_DSC2481












_DSC2496最初にジェンペル氏の遺書が読み上げられたが、途中で読み上げる女性が泣いてしまい、会場からもすすり泣く声が聞こえた。








_DSC2499












_DSC2508祈る監獄27年のアマ・アデさん。











_DSC2517












_DSC2527スピーチするTYC副会長ドゥンドゥップ・ラダル。会長のツェワン・リクジンがアメリカから帰国し、デリー空港に到着したところを入国拒否され、追い返されてしまったので、彼が代表代理。

彼は焼身を悲しむ意を示しながらも、何度も中国を「敵」と呼び、「6百万人のチベット人が13億人の中国を相手に決して挫けることなく、闘いの精神を維持し続けていることを誇りに思う」と述べ、さらに「中国政府は法王やTYCが焼身を奨励していると言うが、これは全くの嘘だ。我々はすべてのチベット人を信頼している。信頼している人々に対し、何かを奨励したり、命令することは決してしない。すべてはそれぞれの個人が考え抜いたのちに為した行動だ。すべての原因は中国がチベットを侵略し、今もチベット人とその文化を抹殺しようとする、その政策にあるのだ」と中国を強く非難した。

_DSC2531泣きはらし、目を赤くする外務大臣。











_DSC2539ジャンペル氏が燃え盛り疾走する姿を正面から撮影し、その写真が有名になったAP通信のカメラマン。紹介されたが、名前は忘れた。

現場にいて、焼身を目の前で目撃したチベット人数人に話を聞いたが、みんなあまりに突然のことで、呆然とし、カメラなど構えることができた人はいなかったという。

ジャンペル氏は、集会でインドの政治家が演説している時に、後ろの方から会場のど真ん中に走り込んで来たという。

_DSC2541彼が撮影した写真。












_DSC2555祈るTCVの生徒たち。












_DSC2561前でチベット国旗を持っている僧侶は元政治犯で最近亡命したテンジン。彼の証言は>http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2012-03.html?p=2#20120316

_DSC2628












_DSC2647声を上げて泣き叫ぶTYCの女性。











_DSC2690町外れにある火葬場に向かう。











_DSC2697火葬場に到着した棺。












_DSC2716薪の上にのせられ、お香などを供される遺体。











_DSC2717八葉蓮華の護符が置かれる。












_DSC2720上にもかなりの薪がのせられる。











_DSC2724












_DSC2734施主は松明にした最初の火を持ち、周りを3周する。ジャンペル氏の家族、母親と兄弟はすべてチベットにいる。故に、今回の施主を務めたのはTYC副議長であった。







_DSC2746そして、点火される。下に多量の捧げられたカタが焼べられた。
























_DSC2757途中で護摩焚きの要領で様々な供養物が投げ込まれる。











_DSC2760火葬の間中読経を続けるギュト僧院の僧侶たち。











_DSC2766亡命側ではこうして、みんなに見守られ、よき来生に生まれるための法要も行われる。内地で焼身した者たちの多くは、遺体を中国側に奪われ、なんの法要も行われず、勝手に火葬され、遺灰のみが家族に渡されるということが多い。どの民族でもそうだが、死者に礼をつくし、葬儀を行うことは大事なことだ。だから、チベット人たちは焼身後、その人が死んだ場合には、危険を冒してもどうしても遺体を手に入れようとする。普通に葬儀も認めないのが中国当局だ。










_DSC2769火葬場のそばに咲くシャクナゲの赤い花。今年は冬が長かったせいなのか、開花が一ヶ月ほど遅く、花付きもよくない。








_DSC2778薪の間に見える、ジャンペル氏の頭蓋骨の一部。上の穴は眼孔と思われる。










_DSC2795後頭部。












_DSC2809火葬場の壁にも観音の真言オンマニペメフンが書かれている。











_DSC2847胸骨か鎖骨。
最後までいてカメラを持っていたのは私ぐらい。骨が見えると、呼ばれ写真を撮れと言われる。








_DSC2813最後まで見守る、TYC現執行部メンバーと元会長、副会長たち。

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<速報>今日 再びンガバで2人の僧侶が焼身

tenpa%20darjee%2001僧テンパ・タルギェ

以下、ダラムサラ・キルティ僧院リリースより。

3月30日、現地時間12時半頃、ンガバ州の州庁所在地であるバルカム市内རྔ་པ་ཁུལ་འབར་ཁམས་རྫོང་でツォドゥン・キルティ僧院(ཚོ་བདུན་ཀིརྟི་དགོན་པ་)僧侶2人がチベット人を抹殺しようとする中国政府の弾圧政策に対する抗議の声を上げた後、焼身を行った。

内1人は死亡したとの情報もあるが、武装警官隊により病院に運び込まれ現在生死不明。

1人は僧テンパ・ダルギェ(བསྟན་པ་དར་རྒྱས།)、22歳。ンガバ州バルカム県ギェルロン・ツォドゥン郷ショラツァン村レコ家(རྔ་པ་ཁུལ་འབར་ཁམས་རྫོང་རྒྱལ་རོང་ཚོ་བདུན་ཞང་ཥོ་ལ་ཅང་སྡེ་བའི་ལེ་སྐོ་ཚང་)、父ケルデン、母ペルツォの息子。

chimey%20paldan%2002僧チメ・パルデン

もう1人はチメ・パルデン(འཆི་མེད་དཔལ་ལྡན།)、21歳。同じくショラツァン村出身。イェテ家(ཥོ་ལ་ཅང་སྡེ་བའི་ཡེ་ཁྲེས་ཚང་)、父ラ・ラプギェ、母マチク・ツォの息子。

2人の焼身の報が入ると同時にツォドゥン・キルティ僧院の僧侶たちは3台の車に分乗し、死んでいるなら遺体を引き取るため、生きているなら僧院に連れて来る目的で現場に向かった。しかし、僧院から32キロのゼトゥという場所で武装警官隊などに行く手を阻まれたという。

僧テンパ・ダルギェは2003年から2009年までンガバ・キルティ僧院論理学クラスに在籍していたが、その後ツォドゥン・キルティ僧院に戻っていた。彼はクラスでもっとも優秀な僧侶として知られていた。兄弟姉妹4人の内最年小。

僧チメ・パルデンは2009年に数ヶ月間、ンガバ・キルティ僧院に在籍したことがあるが、すぐにツォドゥン僧院に戻った。

彼は2010年にラサに行ったとき、宿泊していた部屋を捜査され、携帯電話の中にダライ・ラマ法王の写真とチベット国旗があり、さらに有名歌手シェルテンが歌う「団結しよう」という歌が入っていたとして1ヶ月ほど拘留されたことがあるという。

tsodun%20kirtiツォドゥン・キルティ僧院

ツォドゥン・キルティ僧院の正式名はギェルロン・ツォドゥン・キルティゴン・ゲデン・タシ・チュリン(རྒྱལ་རོང་ཚོ་བདུན་ཀིརྟི་དགོན་དགེ་ལྡན་བཀྲ་ཤིས་ཆོས་གླིང་)。ゲルロン地区で最大の僧院であり、現在300人ほどの僧侶が在籍する。バルカムから82キロの場所にある。

この焼身の後、バルカムでは厳戒態勢が引かれている。

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彼らは本土焼身者32人目と33人目である。

彼らが焼身を行ったときダラムサラでは26日にデリーで焼身したジャンペル・イシェ氏の葬儀が行われていた。

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2012年03月29日

<速報>28日夕方、ンガバで新たな焼身抗議 20歳のキルティ僧院僧侶 その場で死亡

以下、先ほどダラムサラ・キルティ僧院より送られて来たメールより。

28日、現地時間午後7時10分頃、ンガバ・キルティ僧院僧侶ロブサン・シェラップ(20)が、ンガバ県チャ郷(རྔ་པ་རྫོང་གཅའ་ཞང་རྭ་རུ་བའི་སྤེན་པ་ཚང་གི་གྲྭ་བློ་བཟང་ཤེས་རབ།四川省阿坝藏族羌族自治州贾洛乡)の国道上で中国のチベット政策に抗議する焼身を行い、その場で死亡。

彼はチャ郷ラルワ村ペンパ家、父スドゥン、母ニマの息子。兄弟姉妹3人の真ん中。

彼がどのような叫びを上げたかはまだ伝わっていない。

彼が死亡した後、チベット人たちは彼を家族の下に運ぼうとしたが、駆けつけた武装警官隊に奪われた。なおも、チベット人たちは遺体は家族に引き渡されるべきだと部隊に頼み続けたが、聞き入れられず、強引に運び去られた。

僧シェラップは9歳の時、ラルワ僧院ゲデン・テンペル・リンにて僧侶となった。
去年10月から論理学を学ぶためにキルティ僧院に入ったが、今月26日にラルワに帰っていた。
(焼身を決意し、警備が厳しいンガバ市内を避けるために田舎に帰ったと思われる)

ラルワ僧院には現在31人の僧侶が在籍。

現在チャ郷には部隊が大勢は動員され、緊張が高まっている。

キルティ僧院内には今も300人の役人や警察が常住し監視が続けられている。
ンガバ全体に依然、大量の部隊が配置され、厳戒態勢が続いている。

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28日は「チベット農奴解放記念日」であった。

内地の焼身抗議者31人目。死亡23人目。外地の焼身抗議者は(98年のトゥプテン・ンゴドゥップ氏を含めず)3人、内1人死亡。合わせれば34人、死亡24人目。

同じ日の朝、亡命側では26日にデリーで焼身したジャンペル・イシェ氏が死亡している。

追加<地図>:ンガバ県チャ郷の位置は>http://maps.google.com/maps?q=中華人民共和国四川省阿坝藏族羌族自治州%E3%80%80贾洛乡&hl=zh-CN&ie=UTF8&ll=33.068528,101.924286&spn=0.81019,0.937958&hnear=中国四川省阿坝藏族羌族自治州阿坝县贾洛乡&t=m&z=10


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ウーセル・ブログ「食い扶持が欲しくはないのか?」

既に、昨日のブログに追記としてお知らせしたが、26日に抗議の焼身を行ったジャンペル・イシェ氏は28日午前7時半に病院で亡くなった。医師は最初から望みはないと話ていたという。
彼の遺体は明日ダラムサラに迎えられ、葬儀が行われる予定である。

今回はウーセルさんの今月23日付けブログを紹介する。
中国は何十年もの間、何の罪もない純真なチベット人たちの傷に塩を塗り付けるというやり方で、彼らをいじめ続けているという話である。

原文:http://woeser.middle-way.net/2012/03/blog-post_23.html
日本語訳:雲南太郎(@yuntaitai)さん。

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img721163_1<食い扶持が欲しくはないのか?>

2008年にチベット全土で勃発した抗議の鎮圧後、様々な「全員参加のテスト」が続いている。四川省のチベット・エリアでは全ての国家公職人員が特別な書類を書かなければならないということを昨年夏のカム旅行で知った。「1、家族に僧侶はいるか。2、家に仏壇はあるか。3、家にダライ・ラマの写真を飾っているか。4、出国した家族はいるか。5、パスポートを持っているか。6、あなたは二重信仰(一方で共産党を信じ、一方で仏教を信仰すること)か」といった内容だ。チベット人であれ漢人であれ答える必要があるが、実際はチベット人に狙いをつけている。

民主社会で暮らす台湾の友人は「なんてくだらない。記入してどうなるの?」と言った。私は「『イエス』と答えれば、好ましくない人物と判断されて嫌疑の対象になる。『ノー』なら入党の候補者になる」と答えた。「でも彼らの頭は本当にそんなに単純?」と友人はまた尋ねた。「実際、彼らはチベット人の心の内を知っていて、それでも一人ひとりに説明させるのは、チベット人を威嚇し辱めるのが目的でしょう」と説明しておいた。

私は「鼠年に雪獅子がほえる――2008年チベット事件の記録」という本の中で、08年当時にラサの企業や学校、居民委員会が「ダライ分裂集団批判」の集会を開き、人々が糾弾文書を書き、集会で読み上げる必要があったと書いた。チベット人の心を最も苦しめたのは、必ずダライ・ラマを名指しで批判しなければならなかったことだ。「ダライ」としか呼べず、「ラマ」と付け加えることはできなかった。そうしなければ、立場が定まっていないとされた。

ずいぶん前にチベット自治区文学芸術界連合会で働いていた時にも同じような「テスト」を経験し、次のように書いたことがある。

「全ての人は生まれながらにして自由」「全ての人は思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する」――これは半世紀前に全世界に向けて発表された世界人権宣言のうち、最も人々の心を震わせ、いたわった二つの言葉だ。だが、最も寝言のような二つの言葉でもある。特に今日のチベットで、この世に生きることと密接に関わる発言権を私たちが耳にする可能性があるのかどうか、全く分からない。私たちにこうした権利はない。最も頻繁に聞かされ、耳をつんざいて昼夜響き渡っているのは、不許可、不許可、不許可という言葉だ!

ある日の午後、私は兵営のような宿舎に閉じ込もり、壁や本棚をじっと眺めていた。そこには人生を共にしてきた品々があった。色あせたタンカ、精巧とは言えないランプ、人にもらったり自分で撮ったりしたチベット僧の写真。そしてあの小さな仏壇にきちんと供えられたシャカの塑像。頭頂部の青い肉髻は水のように静かでいて、憂鬱さをのぞかせていた。この憂鬱さは明らかにこの瞬間に現れたものだ。これらの全ては私にとって信仰の証であり、芸術的な美しさに満ちてもいた。しかし私はこの時、全てを下ろし、片付け、他人に気付かれない場所に隠す必要があった。なぜなら、およそ宗教に関わる全ての物品を自宅に置いてはならない、絶対に不許可だと彼らが文書で伝えてきたからだ。

明日、彼らは一軒ずつ徹底的に調査する。そう、「徹底調査」、まさにこの言葉だ!タンカとランプ、仏像、仏壇の全てをダンボール箱に詰め込んた時、思わず恥辱を覚えずにはいられなかった。 

実際、誰もがこうした徹底調査のテストを受けるのは中国共産党の慣習であり、おのずとまとまった手順がある。たとえば1989年の「6・4」後、各地で政治的な徹底調査が進められた。これは会議、態度表明、自己批判文書と自己評価文書の執筆、個人の档案(組織が保管する身上調書)の記入という過程で具体的に表れる。「法輪功」についても同じだ。法輪功の修行を肯定し、やめようとしない多くの者は公職を解かれ、労働改造に送られる。

カムのチベット人によれば、書類の記入のほかにも革命歌の唱和、祝祭日での感謝表明、「旧社会の苦しみを振り返り、新社会の幸せを思う」行事の展開など、当局は多くの活動を進めている。カメラに向かって大声で「ダライ集団に反対し、共産党に感謝します」と言わせることまであるという。最も屈辱的なのは、こうした活動の度に役人が「食い扶持が欲しくはないのか?」と問い詰めることだ。

2012年3月
(RFA特約評論)

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2012年03月27日

昨日デリーで焼身したジャンペル・イシェの遺書 日本語全訳

Ao-cgL5CQAAMVPI追記(28日午後1時)誠に残念ながら、ジャンペル・イシェ氏は28日午前7時半に病院で亡くなられた。合掌。

昨日デリーで焼身したジャンペル・イシェの遺書と思われるものが発見された。彼の従兄弟であるツェリン・ロギャが発見し、デリーのTYCに手渡し公開された。

日付は3月16日となっている。少なくとも10日前には、焼身を決心していたことが分かる。

彼は焼身の前日、兄弟や友人に、理由は伝えず、金銭や身の回りの物品を譲り渡していた。

彼は依然危篤状態という。




以下、その日本語全訳。


314192_3541460492152_1141623238_5149672_945257064_n1)世界の平和の導師、ダライ・ラマ法王が千年万年の長寿を全うされますように。(法王を)チベット本土にお迎えすべきだ。骨肉と顔を同じくする同胞たちが集い、ポタラ宮殿の前でチベットの国歌を雷鳴の如く歌うことを願う。その日が必ず来ることを確信する。

2)同胞たちよ、将来の幸と繁栄を望むなら忠愛が必要だ。忠愛は民族の心の命だ。真理を求める勇気だ。将来の幸を導くものだ。同胞たちよ、世界の人々の平和平等を望むなら、忠愛という言葉を大事にすべきだ。義務に励むべきだ。忠愛とは真偽を区別する知恵だ。

3)自由は全ての有情の幸せと喜びの基だ。自由がなければ、それは風にさらされる灯明の如し。600万チベット人同胞の如し。3地域(ウツァン、カム、アムド)の同胞が一団となれば結果を得ることができよう。勇気を失うな。

4)私が今、話していることは600万チベット人の生存に関わることだ。民族の生死が掛かる今:財産を持つ者はそれを使う時。(知識等の)徳も持つ者はそれを発揮すべき緊急の時。命のある者はそれを投げ出すべき時と、私は思う。21世紀の今、宝の如し人の身を灯明と化すのは、チベット人600万の苦しみは人権・平等がないことだと世界の人々に知らせるためである。慈悲の心あるなら、慎ましいチベット人たちに注目してほしい。

5)我々にも先祖代々伝えられて来た仏法を守り、論理の書やチベット語を学ぶ自由が必要だ。世界の人々は平等であるべきだ。世界の人々よ、我々の後ろで立ち上がってほしい。チベットはチベット人のもの。プギェロー!(チベットに勝利を!)

2012年3月16日、タウのジャンペル・イシェが記す。


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2012年03月26日

チベット人若者がデリーで焼身抗議 危篤状態

DEL208_1345755l 写真:Manish Swarup / Associated Press

追記1:先ほど追記に、「死亡」と伝えましたが、誤報でした。謝罪。

追記2:動画を見ることもできる>http://www.ntv7.com.my/7edition/international-en/INDIA_IMMOLATION_TIBETAN_PROTESTER_SETS_HIMSELF_ON_FIRE_AHEAD_OF_CHINESE_PRESIDENT_S_ARRIVAL.html

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今日、インド時間12時25分、ニューデリー、コンノート広場近くのジャンタール・マンタルで1人の若者が中国に対する焼身抗議を行い、病院に運び込まれた。重度の火傷を負い重体と。

若者の名前と年齢はPhayulによればジャンパ・イシェ(བྱམས་པ་ཡེ་ཤེས་)、26〜29歳。Tibet Timesによればジャンペル・イシェ(འཇམ་དཔལ་ཡེ་ཤེས་)、27歳。カム、タウ出身で、2005年インドに亡命後ダラムサラのシェラップ・ガツェル・リン(ソガ・スクール)で学んだ後、最近デリーに住み始めていたという。

胡錦涛が28、29日にニューデリーで行われるBRICSサミット出席のため 訪印する。これを前に、今日デリーでは朝からTYC(チベット青年会議)主催の中国に対する抗議デモが行われていた。

120326011948ZLPhayul photo/Norbu Wangyal

行進を終え、ジャンタール・マンタルで集会を開き、スピーチ等が終わった時、その場で突然イシェはガソリンを被り火を放ち、叫びながら50メートルほど疾走した。倒れた後、廻りに居たチベット人たちが手にしていたチベット国旗などを使い、火を消した。警官が近くの病院 (RanmamnoHar Lohia Hospital)に運び込んだという。

関係者の話によれば、彼は85%の火傷を負い、生きる望みは少ないかもしれないという。

彼が焼身抗議を行った場所は1998年にチベット人として初めてトゥプテン・ンゴドゥップが焼身抗議を行った場所と同じである。

去年11月4日にはニューデリーの中国大使館前でシェラップ・ツェドル(26)が焼身抗議を行い、11月10日にはカトマンドゥで1人の僧侶が焼身抗議を行っている。

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anti-china-protest-03参照:26日付けPhayul http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=31140&article=Breaking%3a+Tibetan+youth+self-immolates+in+New+Delhi
26日付けTibet Times http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=5795
26日付けAPhttp://www.washingtonpost.com/world/asia_pacific/tibetan-protester-lights-self-on-fire-during-anti-china-protest-in-indian-capital/2012/03/26/gIQAkJFObS_story.html

jampa yehi1_26_3_2012ジャンパ・イシェ或はジャンペル・イシェ

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2012年03月25日

2011年3月16日、ンガバのキルティ寺院で何があったのか(下)

07a5202e(上)http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51735733.html
(中)http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51736473.html
に続き@uralungtaさんが翻訳・解説して下さったもの。

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2012年3月16日付のウーセルさんのブログ「看不見的西藏/Invisible Tibet」で転載紹介されたインタビュー「“他们认为我们害怕武力镇压,他们想错了”――与格尔登寺僧人的访谈,纪念平措自焚一周年【转】」http://woeser.middle-way.net/2012/03/blog-post_16.html の日本語訳の最終編です。仮名の僧侶「アンサーA」さんが語る体験の、2011年3月16日の部分が終わり、証言は、翌17日から後の話に移っていきます。

2日目〔3月17日〕、昼の12時ごろ、プンツォの家族が〔キルティ寺院に〕来ました。
前日彼は焼身した後、軍人たちにひどく殴りつけられ、僧侶たちが彼を奪い返して、小さな車で彼を寺院に送り戻したのだそうです。その時彼はのどが渇いたと言って水を飲みたがり、お椀1杯の水を飲みました。そのとき、彼の父親が「〔水を飲んで容態が悪化して〕持ちこたえられなかったら、どうするんだ?」と言うと、彼は「アバ〔父さん〕、心配しないで、もうガソリンをしこたま飲んでるんだ」と答えたのだそうです。それからまもなく、彼は何度か真っ黒な液体を吐いて、この世を去りました。

私たちは同じクラスです。キルティ寺院の伝統では、同じクラスの学生にこのように禍福の出来事が起こったときには、いかなる人にも権力にも干渉されることなく、すべての決定権はこのクラスに帰属します。
その日〔17日〕の晩、私たちは経文を唱え、追悼祈祷法要を営む準備を整えました。彼の遺品や持ち物は寺院の同じ学年とクラスのものとなり、私たちは彼の遺品を使って彼のための法要を営むことになったのです。その当時、〔ほかにも〕この英雄の遺品を欲しがる人がいて、とてもたくさんの僧侶と一般人が我先にと争って彼の遺体に五体投地の礼を繰り返しました。それで私たちはプンツォの大きな写真を1枚探してきて設置し、民衆と僧侶が五体投地礼をできるようにしました。
彼の遺品を整理している時、彼がノートにこのような文を書き留めていたのを見つけました。
「運命と確信があれば勝利できる。失望と懸念は失敗である。」
私はこの目で彼の書いた文字を見ています。たくさんの人たちが、これらの遺品を保存して歴史の証拠としたいと考え、皆が「キルティ寺院とあなたの同学年、同級生に感謝します!」と言っていました。ロプサン・プンツォの携帯電話はある一般人に買い取られました。「英雄の遺品として秘蔵する」と言っていたそうです。

中国政府は、私たちのクラスの読経師〔読経の先導を努める指導者〕のタシを尋問しました。彼らの〔尋問〕理由は次のようなものでした。「この事件はキルティ寺院で起こり、しかし具体的にはあなたの学年のクラスで起きたことである」私たちはもともと、〔プンツォの〕遺体を数日間安置する予定でしたが〔*1〕、中国政府は突然、次の日〔18日を指すと思われる〕にはプンツォの葬儀を執り行うよう命令しました。

*1: チベットでは肉体から離れた魂を次の輪廻に向かわせるため僧侶が一定の時間に所定の経をあげ、葬儀を営む時間もチベットの暦学天文学によって決められます。遺体の取り扱いについては石濱教授が訳出されたロバート・バーネットの解説のなかhttp://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-606.htmlでも触れられていて、チベットの文化の中で(チベット人が自らの文化を尊重されていると実感するために)非常に重要であることがわかるのではないかと思います。

私たちのクラスは、予定の時間通りに追悼や加持などの仏事を営み、〔葬儀の儀礼〕2日目は最高の格式ある儀礼としてセルデン(僧侶の儀仗、錫杖)を並べてプンツォの遺体と写真を迎えました。涙を流さない信者はいませんでした。女性たちは慟哭して言うのでした。「ギャワ・テンジン・ギャツォ(ダライ・ラマ法王)の事業〔*2〕のために、チベットの民衆の幸せのために、身を炎に捧げられた……」
寺院から、僧侶と一般人が手にカターと香を捧げ持って彼の遺体を迎える列が長く続き、また、大きな声で一斉に詠唱される「カンリラウェ・コルウェ・シンカムドゥ……」(ダライ・ラマ法王長寿祈願の詩偈)の唱和が響きました。もうすぐ火葬台に到着しようかという時、ドンク・ツァン・リンポチェが香を捧げ持って引導し、クラスの僧侶全員で遺体を火葬台におさめました。そこに、鉄で作られた箱がありますが、その箱が火葬台です〔*3〕。遺体を火葬台におさめる前に、ドンク・ツァン・リンポチェはロプサン・プンツォの遺体を三度、高く掲げて民衆に仰ぎ見せ、その場のすべての人々はただただ慟哭しました。
このようにして、この1日〔18日〕は終了したのです。
(ここまで話が及ぶと、アンサーAは涙で声が詰まり言葉が出なくなりました)

*2: 法王をチベットに迎えること(チベットに帰還させること)を指すと思われます。
*3: 「そこに」などの指示語が出てきて意味不明ですが、昔撮ったか当日撮ったかした写真を作家か僧侶のどちらかが持参していて、その写真を示しながら会話したのではないかと思います。

RFAやVOAを通じて伝えられた情報では、ンガバは翌17日も緊張した状態が続き「僧侶らはデモをしようとしたが住民たちに止められた」(チベットNOW@ルンタ2011年3月18日http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51638223.html)といいます。また、ウーセルさんが華人作家朱瑞さんとともに聞き取りをした記録(日本語訳はチベットNOW@ルンタ2011年3月23日http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51640593.html)によれば

17日午後から18日早朝まで、ゴンパの3000人以上の僧侶がプンツォのためにお経をあげた。三千数百人の住民が列を作り、手にカタを持ち、お経を唱え、プンツォに敬意を表した。
という記述があり、このあたりのできごとを当事者の目から語られたものです。

6cfb15f33日目は、なんの動きもなく終わりました。

4日目、私たち何人かが、参拝者の捧げるカターを受け取っていたところに、一人の若い僧侶が走ってきて「彼らが、キルティ寺院の宗教活動を禁止するんだって」と言いました。このような叫び声が何度も聞こえましたが、後になるまで、私たちは具体的な意味は何も分かりませんでした。私は、その時には、もし宗教活動を禁止させることができるなら、そりゃすごいことだ〔やれるものならやってみろ〕、と思ったものです。

1カ月後、タルギェとジャプ・ツォンドゥが逮捕されました。私たちクラスの学生も全員がブラックリストに入れられました。その後さらにテンジンとナクテンが逮捕されました。彼らが逮捕された口実は、彼らがロプサン・プンツォとチャカン〔茶館〕で焼身の計画を相談したとして責めを負わせるものでした。それによると、彼らが相談して、毎年1人ずつ焼身、もしくは一緒に焼身することを計画したと〔いう荒唐無稽な作り話で〕非難されたのです。

またしばらく時間が経ち、〔寺院内では僧侶たちに〕詳細な氏名や本籍などを登録させられ始めました。その当時みんなが取りざたしたのは、他の〔四川省以外の〕省〔出身〕の僧侶が追い返されるのではないかということでした。
ある日、僧侶たちは大経堂の前に集まって貴重品を出し合い、加えて「今晩は絶対に1人の僧侶も彼らに連れて行かせない」と言い合いました。寺院に突入してきた軍人と何人かの僧侶が対峙して、僧侶と軍人はほとんど顔をつきあわせるほどの距離でにらみ合いました。僧侶たちは「キルティ寺院の僧侶は全員が一蓮托生だ、もし僧侶の何人かでも拘束して連れ去ろうとするなら、ほかの僧侶が手をこまねいて傍観しているわけにはいかない」と言い渡しました。それからすべての僧侶が大経堂前に呼び集められ、私も行きましたが、ほどなくして皆また僧坊に戻りました。
その晩、おびただしい幹部と軍人が〔突入して〕来て、僧侶たちを無理やり連れ去り、酷く殴りつけられた僧侶も少なくありませんでした。
その日の夜は、さまざまな種類や様式の〔軍と警察の〕車両が集められてきていて、もし何か厳重な問題が発生したら、ある車にはすべての僧侶を徹底的に消滅させて遺体の痕跡さえなくす武器が装備された特殊車両があった、という者もいました。もちろんそれが具体的にどんな武器なのか私には分かりません。
その日の夜、軍人と幹部たちは私たちを、賊を捕らえるように捕まえてひきたてて、汶川県と茂県〔両方とも四川省阿壩州内のより成都に近い町〕に護送しました。車両1台に二十数人の僧侶が押し込まれ、兵士2人が僧侶1人を押さえつけ、合計で二十数台の車両で僧侶が護送されました。1本のだだ広い大通りを走って連れ去られましたが、その間、他のいかなる車も公道上で見ることはありませんでした。
その後、私たちは7つのグループに分けられ、18人ずつ1部屋の牢に収監され、そのまま1カ月以上拘束されました。なかには負傷した僧侶が数多くいました。
私たちは外部の消息を何も聞くことができず、彼らは私たちを騙し続けました。
二十数日後、幹部たちは大声で私たちを罵りました。「お前たちは法を犯した。外地の寺院で学ぶには手続きが必要なのに、お前たちはその手続きをしていない。だから法律違反だ」

ある日、ある僧侶が「あなたがたはチベット人の生命を蹂躙している。私たち〔僧侶〕を寺院で生活させないのは、我々の権利と民族に対する侮辱である」という文章を書きました。このことがあって、状況はいったん非常に緊迫しました。私たちも何日間かハンガーストライキをしました。
1カ月以上経って、私たちは身柄を送還されて各地に戻りました。
だいたいこのような状況で、さらに詳しいできごとは数え切れないほどありますが、簡単に経過を言って、ここまでにいたします。

RFAやVOAなどで当時報じられた内容で補足すると、この当時、亡命チベット社会では政治的な代表者を民主的に決める選挙が実施され、その様子はチベット本土にも伝えられて、チベット人の意識が盛り上がっているころでした。一方、ンガバのキルティ寺院は軍と警察によって封鎖され、電気や水を断たれ、僧侶たちは寺院の中のツァンパで飢えをしのぐしかなくなり、突入を試みる軍警と阻止しようとする人たちが一触即発の状態にあると伝えられ、4月中旬以降、武力行使を止めるようチベット支援団体やチベット亡命政府が国際社会への呼びかけを繰り返していました。
プンツォの関係者が逮捕された知らせは2011年3月29日ごろ(日本語記事こちら)、軍と特殊部隊の突入は2011年4月21日(日本語記事こちら)と伝えられています。
記事と比べると、Aさんの目の前で起きたことはほんとうに断片的です。ロプサン・プンツォと同じクラスで「ブラックリスト入り」していた彼は、寺院の他の僧侶たちから「守られる」側にいたと類推されます。情報を遮断された寺院内に閉じ込められ、さらにそのなかで身を隠し、全体的な状況がよく分からないまま、大経堂前に集まったり、僧坊に戻って身を潜めたりしながら、ただ翻弄され、突入した特殊部隊に連行されたのかと思うと、若いAさんがひたすら気の毒でなりません。

オーサー:
ああ! なんと大きな苦難に遭われたことでしょう。あなたに感謝いたします!〔*4〕

*4: 僧侶はチベットのため、衆生のために苦難を引き受けたので、衆生として犠牲に感謝申し上げる、という意味で感謝しているのです。

アンサーA:
私たちの拠り所となるお二人の師(ギャワ・リンポチェとキルティ・リンポチェ)も、〔私たちの〕チベット人のための抵抗の闘いを止めることはできません。私たちの心の中はいま、これ以上耐えられない苦痛に満ちています。中国政府は私たちが武力弾圧〔されること〕を怖がり、発砲に怯え、萎縮すると考えていますが、私はそんなことはありえないと思います。
私たちの抵抗する敵は、広大な中国人民や開明的な見識ある知識人グループではありません。私たちの真の敵はこの政権です。日々私たちに加えられている鎮圧、騒ぎ立てたと〔いう口実で〕強められる規制は、ンガバ地域の民衆にとってもこれ以上我慢し続けられない限度に達しています。さらには、チベット人幹部も多くの人がもう我慢できないと感じているのです。

アンサーC:
今回、キルティ寺院の僧侶300人以上がこの弁論大会に参加しましたが、どの僧侶の心の中も、みな深く大きな苦痛と苦悩にふさがれています。1人1人心理的な素質は異なりますから、直面する問題やそのあり方も異なりますので、一つ一つを詳細に述べることはできませんが、既に多くの時間を割いてしまいました。今回はここまでにいたしましょう。タ・デモ(どうぞお大事に)〔アムド語の挨拶〕。

オーサー:
はい、そうですね、タ・デモ。チベット3区〔カム、アムド、ウツァンのチベット全土〕の人々の心のなかには常に貴方がたキルティ寺院の愛国英雄たちがあり、たくさんの英雄の息子と娘を永遠に心から支持して尊敬します。私たちにとって最も重要なことは一致団結することであり、私が今回ここへ来たのも、貴方がたを支持するためで、つまるところ、私たちは永遠に一つに結ばれているのです。

原文はチベット語により2011年12月にアムドにて記録されたもの。
中国語翻訳:サンギェ・キャプ



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国連前無期限ハンスト30日目に中止

aonvukdciaia78aニューヨーク国連前で先月22日、チベットの正月に開始された無期限死のハンストは今月22日、ちょうど1ヶ月目に中止された。

ハンストを行っていた3人のチベット人は30日間、水のみで生き抜いた。ハンスト者の一人ドルジェ・ゲルポは医者に危険な状態と判断され19日、ニューヨーク警察により強制的に病院に運ばれた。しかし、彼は病院でハンストを続けていた。

この日、国連事務総長代理と国連人権高等弁務官代理が2人のハンスト者シンサ・リンポチェとイシェ・テンジンの下を訪れ、国連からの手紙を渡した。その手紙を読み、2人はハンストの中止を承諾。2人の国連職員から渡されたオレンジジュースを口にした。

手紙の中身についてはTYC議長が語るところによれば、「国連人権委員長のNavi Pillay女史が、チベット内地の状況を調査するための特別使節を任命した。中国にこれまで何度かチベット視察に関し打診した。女史自身が中国に行くことは決定している。日程を調整している段階である」という。

以下、国連の高官がハンスト者の下を訪れ、ハンストが中止された際の映像。



これを見ても分かるが、彼らはその場で手紙の内容については話合っていない。映像が飛んでいるのか、唐突に中止されジュースを飲んでいるように見える。もちろん、死を覚悟していた3人が無事にハンストを終えたことは喜ぶべき話であるが、その成果はTYC議長が「小さな勝利」と呼んでいるようにまことに些細な成果と言えよう。

実際、今後中国が国連のチベット視察団を受け入れるかどうかは分からない。ちょうど、先週もオーストラリアの在中国大使と議員団がチベット調査団を送りたいと中国政府に要請したが、中国政府はこれをきっぱりとはねつけ、内政干渉したと非難している。

元々、国連人権委員会が各国の人権状況を調べることや、必要があれば調査団を派遣することは、彼らの当たり前の仕事である。先のジュネーブで行われた国連人権会議の席上においても、いくつかの国がチベットの人権問題を取り上げ、中国を非難し、調査団派遣も要請している。

ハンスト者が命を掛けて要求していたことは調査団派遣だけではない。

彼らが要求していた5項目はとは;
1) チベットの危機的状況を調査するために、直ちに調査団を派遣すること。
2) 中国に対し事実上の戒厳令を撤廃するよう圧力をかけること。
3) 国際メディアのチベット入りを許可させること。
4) ゲンドゥン・チュキ・ニマ(11世パンチェン・ラマ)、トゥルク・テンジン・デレックを始めとする全ての政治犯を解放させること。
5) チベット内で行われている「愛国再教育」を止めさせること。


国連としてはまず(1)を実行した後、その調査に基づき、他の要求についても考慮しよう、というつもりであろう。実際(1)以外は今の中国政府の態度を見る限り、相当遠い望みのように思える。

また、実際に国連調査団がチベットに入ることができたとしても、彼らが本当の現実を見ることができるとは到底思えない。中国がメディアや調査団を受け入れるときには、必ず、周到な準備が行われ、飾り立てられた楽しい劇を見せられるのが落ちである。自由な調査行動は決して許されない。

30人ものチベット人が焼身し、3人が死を覚悟のつらいハンストを行って、手に入れることができる成果がこの国連の「調査への努力を約束する」という一言のみとは。それでも、彼らは涙を流してその手紙を持って来てくれた人に感謝の意を表す。

何とも、悲しい状況である。

参照:23日付phayulhttp://www.phayul.com/news/article.aspx?id=31122&article=Hunger+strikers+end+fast+on+30th+day+after+UN+promises+to+send+officials+to+Tibet
23日付RFAチベット語版http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/tibetan-end-hunger-strike-outside-united-nations-headquarters-03232012214850.html



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2012年03月24日

ロビバによる「焼身抗議」解説

_DSC0640以下、早稲田の石濱裕美子教授が翻訳・解説して下さったもの。
ご本人の了承を得て、ブログ「白雪姫と七人の小坊主達」より転載させて頂きます。

原文:http://asiasociety.org/blog/asia/interview-robert-barnett-why-tibetans-are-setting-themselves-fire

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3月21日のBS1ワールドWaveトゥナイトでチベットの焼身抗議がとりあげられた。

 NHKはまずぼかしの入ったチベット人の焼身映像を流し、さらに現地に入った記者がぼかしの入ったお坊さんからインタビューをとり、亡命政府のセンゲ首相と温家宝の主張をそれぞれ併記し、今月に入ってさらに焼身者が増えていることを時系列の表で示し、〔少数民族とはいっても中国と比べるから少数なのであって〕チベット人は300万人おり、モンゴル共和国よりも人口が多いといい、先だっての3月10日の先進諸国でのデモの映像を流した。
 
 「シルクロード」「大黄河」など、中国を舞台にしたドキュメンタリーでならしてきたNHKには、中国との間にぶっとい絆があることはよく知られている。そのため従来NHKは中国での取材を円滑に進めたいがため、チベット報道も中国政府が許す範囲内で行い、その結果、NHKのチベット報道と言えば、観光か、環境か、近代化の中で変わるチベット事情(このような番組の中ではチベット人が妻のために冷蔵庫をしょって山道を歩いたりする 笑)みたいなものが多く、たまーにチベット問題を扱う場合でも、よく見れば中国政府を批判しているものの、リテラシーのない人がみれば中国政府の言い分しか記憶に残らないような「察して」みたいな、すばらしい(アメリカン・ジョーク)番組を作っていた。

しかし、今回の特集は違った。まあ直球の報道であり、「事実をありのままに伝える」という報道の本来の精神に則っていた。チベサポもこの番組を全体としては評価していたが、こういう声もあった。それは、スタジオに呼ばれていた解説者がした「チベットは中国にとって核心的利益だから、チベットに対する姿勢は変わらないだろう。各国も中国と経済的な関係が密接だから圧力が加えられないだろう」という旨の発言に、「チベット人が今怒っているのは領土問題というより愛国教育である。愛国教育をやめるだけでも焼身はとまる」というもの。また、「焼身はチベットの利他の文化に基づく部分もあるのに、それに対する解説がない」という意見もあった。

 では、この焼身の件について誰の解説がよいだろうかと言えば、やはりロビバ (コロンビア大学の現代チベット研究課程の所長、ロバート・バーネット)であろうということで、「彼の2月24日のインタビュー記事、誰か訳さない?」、じゃあチベサポ界の書記(笑)がやるか、という流れで、私がへたくそな和訳を行うこととなったのである(前置き長)

( )内は訳者注。

120224_robert_barnettロビー・バーネットへインタビュー: なぜチベット人は自らの身に火を放つのか?
2012年2月24日by Alex Ortolani Asia Blogより

今週初め、中国によるチベット支配に抗議するべく焼身したチベット僧は、少なくとも22人にのぼった(2月24日時点。今は30人)。コロンビア大学現代チベット研究課程の所長、ロバート・バーネットは「これは新しいタイプのチベット人の政治的な抵抗である。中国政府がこの地域における政策を変えないならば、焼身は異議申し立ての形として継続するだろう。」と述べた。以下、アジア・ブログによるロバート・バーネットへの電話インタビューである。

●なぜチベットの僧侶や尼僧は中国政府に対してこのような特殊な形の抗議を行うのか?

ロビバ: なぜ彼らがこのような抵抗の方法を選んだのかという理由ははっきりしません。本土のチベット人、とくに地方にいる人々は、「アメリカの声」(voice of America)や「ラジオ自由アジア」(radio free Asia)のような、外からくるチベット・ニュースを時には聞くことができます。しかし、去年、チュニジア革命の発端となった焼身自殺についてはたぶん知らないはずですし、まして、五十年前にベトナム〔反戦運動の引き金となったティック・クアン・ドック師〕の焼身自殺についてはもっと知らないはずです。しかし、彼らはアラブの春をもたらしたデモについては聞いているでしょう。そして、これは一般的な意味で人々を奮い立たせ、大衆による抗議運動を変革の手段とみているかもしれません。

 しかし、チベット人がこのような抗議の手段をとった背景には2008年におきた前回のチベットの騒動時の体験があるかもしれません。当時は、約150人の大規模な街頭デモがおき、この中の約20人が暴徒化しました。この暴力は、中国政府がチベットと中国の間にある基本的な問題の解決や抗議者の不満の解消に取り組むことを避ける状況を生み出しました。

 従って、今行われている焼身抗議は、伝統的な大規模な街頭デモの否定的な側面(一歩間違えると暴徒化)を避ける一つの手段と見られているのかもしれません。つまり、焼身を行う者は「私の希望は他人の生命・財産に害を与えていない。また、争乱も引き起こしていない。従って、簡単に無視できないだろう」、というような形で中国政府に対してメッセージを送っているのです。

 焼身抗議者は「自由を!」「ダライラマ法王のチベットへの帰還を!」と叫んでいます。〔この叫びから見ても〕1994年に始まった中国の劇的なチベット政策の転換が彼らの焼身の引き金となっているように思われます。1994年、僧侶や尼僧にダライラマを否定するように強制し、僧院やチベット人居住域に関する規則を増大させることによって、中国はダライラマを攻撃する政策に重点的に取り組むことを決定しました。

 この政策は最初は、チベット自治区、すなわちラサを中心とするチベット高原の西半分でのみ運用されていましたが、この十年間で次第に高原の東半分にある僧院・尼僧院にも適用されるようになりました。これらの地域はチベット人の人口の大半が住む地域であり、そして、現在焼身抗議が行われている場所でもあります。

 この中国の政策は、「僧侶の再教育プログラム」「ダライラマの尊崇の禁止」「学校におけるチベット語教育の削減」「チベット人居住域への他民族の入植奨励」ほかもろもろの禁令により成り立っています。それまで東チベットの人々はきわめてリラックスして平和裡に暮らしていたので、中国がなぜこの政策を東チベット地域にまで適用することを決意したのかは誰も知りません。

●仏教文化にはこの種の特殊な抗議を行う伝統があるのですか?

ロビバ: 中国の報道では「焼身抗議は仏教の教義や戒律を犯すものだ」と言い立てていますが、実は焼身は仏教の伝統と深く共鳴しています。個人的な理由からそれを行うのならば、自殺は仏教で禁止されています。しかし、より気高い動機を持って行われる自己犠牲は高く評価されます。

仏陀がその前世において自己犠牲を行っていた物語(ジャータカ)はよく知られています。もっとも有名なエピソードとしては、飢えた母虎が自分の生んだばかりの子虎を食わないように、自らの体を虎に差し出した話です(日本の法隆寺の玉虫の厨子はこの捨身飼虎を描いたもの。仏陀の前世者によって命を救われた子虎は後に仏陀が最初に法を説いた際の最初の五人の聴衆となった)。従って、社会の利益のためになされた行いは、気高いものとみなされますし、もしそれが僧侶によってなされるのなら、特に尊敬を受けます。

 焼身が僧侶・尼僧・元僧によってなされているのはまさにこの理由からです。彼らは社会的に尊敬されていた人たちであったため、中国政府は抗議者たちの信用を落とすことに成功していません。

 かつて、2001年に法輪功の信者とされる五人の中国人が北京で集団で焼身抗議を行った事件については、中国政府はかれらの評判を落とすことにかなり成功しました。中国政府は、「この焼身はかれら五人が法輪功によって洗脳され、騙されていた証拠」と宣伝したのです。中国の報道は今回もこのやり方をチベット僧たちに適用しようとしましたが、その試みはうまくいきませんでした。焼身抗議者たちの大半はチベット社会の中で広く尊敬されていた人々であったからです。

●なぜ、チベット・中国双方はチベットの管理に関して共通の基盤を見いだすことができないのでしょうか?

ロビバ: チベット・中国の間に存在する問題を理解する一つのやり方として、「チベットの地位」という問題があります。つまり、「チベットは中国の一部なのか」あるいは「もし中国の一部ならどの程度の自治があるのか」という問題です。この問題は中国軍が最初にチベットを併合し、中国の領土へと統合しようとした少なくとも百年前に遡る問題です(1911年の清朝軍の侵略に追われてダライラマ13世がインドへ亡命し、その後清朝が13世を廃位した事件)。この問題は非常に解決に時間がかかる問題です。

 しかし、この最初の問題と混同されがちな第二の問題があります。それは、中国が最近になって導入した諸政策、特に1994年以後に導入したダライラマを敵視する政策、それに加えて再教育プログラム、チベット語教育の軽視、経済発展のおしつけ、といった諸政策が同時に強化されていく問題です。

 この二番目の問題の要因は不変ではなく、常時新たな形態をとっているが故に、中国に、容易に妥協できるようなチャンスを提供しています。もし彼らが妥協するならば、ある種の緊張の緩和が生まれ、最初の問題であった自治と地位に関する問題も解決する時間が得られるでしょう。

●これらの焼身には終わりが見えますか?

ロビバ: 中国は少なくとも1980年代初頭からは「自分たちはチベット人を寛大に遇している」と思っています。なぜなら中国はチベット地域での経済発展を促すために莫大な助成を行っているし、中国は焼身抗議を、チベットを独立させて中国を分裂させようと企図しているダライラマや他の亡命者たちの策謀とみなしているからです。

 亡命者たちはもちろんこの中国の疑念を否定しますが、同時に、予想通りの強力なナショナリスティックなレトリックを用います。従って、この両サイドの指導者間における交渉による解決という可能性は排除されていないとはいえ、現在の情勢ではこれは実現できそうもありません。

 当分の間、今頭にきている東チベットの人々の意志は固いでしょう。というのも、かれらは、地域や僧院に対する中国の様々な攻撃について長くつらい記憶をもっているからです。彼らは自らの核心的な価値を守りづけるでしょう。

 従って、現在の緊張状態は中国共産党からの譲歩なしに終わることはないでしょう。

 その譲歩は、人々が自殺を止めようと決意するためには、それほど大きなものである必要はないでしょう。

 本土のチベット人は活動家ですら、大概の場合驚く程穏健で、一般的にプラグマティツクです。だから、中国が形だけの改心を示しても、とても大きなインパクトがあるでしょう。

 たとえば、中国は再教育プログラムをやめることができます。また、ダライラマを悪魔と罵る政治キャンペーンも中止することができます。

 これらの政策はもはや何十年にもわたり中国内地ですら施行されたことはないのではないでしょうか?

 また、香港で行っているように、チベットへの入植者の数を規制することもできます。

 もしそうしないならば、緊張状態は加速し、もしさらに多くの人々が殺されるなら、状況はコントロール不能となり、いかなる意味のある形でも解決することは難しくなるでしょう。

●一番最近の焼身では、警察から焼身者をまもるために千人の人々が取り囲んでいたという。なぜ彼らはこんなことをするのだろうか?

ロビバ: チベット文化では、人が死んだあと、〔転生に向かう過程を邪魔しないように〕遺体をできるかぎりそっとしておきます。

 そして残された人は特別な儀式を行い、死者の意識が穏やかになり、よりすばらしい転生へ向かうようにと祈ります。

 しかし、いかなる宗教においても、様々な説明のレベルがあります。たとえば、一般的に、適切な形で身を捨てる、たとえば、遺体を鳥や魚に食べさせることは、慈悲のあらわれであるために、中国によって行われる通常の火葬などよりもよい、という考え方があります。

 チベットの伝統では、焼身抗議は明らかに、地方政府がいうような「絶望した個人による自殺」ではなく、「他者を利するための自己犠牲」とみなされます。従って、土地の人々は適切な儀式が僧侶たちによって行われると保証することによって、死者に対して敬意を払いたいのでしょう。ですから、死者の体を警察に没収されることに対する抗議以外にも、多くの要因があるのです。

以上です。まとめると、すぐに領土問題とか安全保障とかに結びつけて思考停止するな。中国人にすら今は行っていいないあの悪質な愛国教育を中国政府がやめれば、チベット人はやさしいから今の抵抗運動をやめるだろう、ということである。あと、利他のための焼身は菩薩行とみなされること、そして、修業者は死の直後には仏の意識により近い状態にあるので、遺体を動かさないことを求めている、というのもたしかにチベット仏教の思想です。

 抵抗運動がそのまま仏教の精神修行となること、その死ですら伝統文化の現れとなることはフリー・チベット運動の特徴である。中国政府の弾圧というネガティブな力もチベット人の中をとおると民族文化の維持と世界平和というポジティブな力へと昇華していく。

 従って、チベット人の意志を弱らせたいなら、中国がそのネガティブな行動を抑制すればいい、というロビバの意見は非常に理にかなっている。

 ちなみに、焼身抗議に対する調査を求めて行われていた、チベット人の無期限ハンストは、国連が調査を約束することによってようやく今日(23日)終わったようである。



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2012年03月23日

2011年3月16日、ンガバのキルティ寺院で何があったのか(中)

(上)http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51735733.html
に続き、@uralungtaさんが翻訳・解説して下さったもの。

07a5202eーーーーーーーーーーーーーーー

2012年3月16日付のウーセルさんのブログ「看不見的西藏/Invisible Tibet」で転載紹介された文章「“他们认为我们害怕武力镇压,他们想错了”――与格尔登寺僧人的访谈,纪念平措自焚一周年【转】」http://woeser.middle-way.net/2012/03/blog-post_16.html の日本語訳の続きです。仮名の僧侶アンサーAが、彼の目で見た「2011年3月16日」を語っています。




アンサーA:
私は愛国英雄〔*1〕のロプサン・プンツォ(2011年3月16日焼身)と同じクラス〔*2〕でした。現在、私たちのクラスは、キルティ寺院のなかでも反抗心が強烈で、同時に、中国政府がとりわけ厳しく監視し抑圧する対象となっています。ロプサン・プンツォは生前、つねづねチベット民族の置かれた状況を語り、とりわけ2008年3月16日にンガバの民衆が中国政府に虐殺された血なまぐさい事件について問題提起していました。彼は常日頃から、苦しみに満ちた表情で、次のように言っていたものです。
「2008年からンガバの民衆には他とは異なる新たな苦痛が生まれた」「あの大虐殺を我慢して受け入れることなどできない」などなど。
もちろん、キルティ寺院のほとんどの僧侶が皆同じように言っていましたので、プンツォがほかの人より〔急進的だと〕目立ったことはなく、単なる一般的な言論と思われていました。プンツォは地道で真面目な性格で、身体は屈強で、とても力の強い男でした。力比べでは、私たちのクラスで彼にかなう人はいなかったのです。彼は以前、何人かの友人にそっと言ったことがありました。「自分は心の中の苦しみをこれ以上我慢し続けることができない。2011年3月16日に、世の人に向けて一点の痕跡を残したい」。つまり、彼が焼身をはかった原因は、2008年に始まった弾圧をこれ以上我慢できなくなったことなのです。

*1: 「愛国英雄」という字面は、共産党のスローガンでよく使われる4文字単語なので、翻訳された中国語文章の中では異彩を放って浮き上がって見えて、あえて反語的にそういう表現を使った何かの皮肉かと思ったものでした。これは原文のチベット語でも「愛国の英雄」という意味の単語で、チベット語では抵抗活動に立ち上がった人たちに対して普通に使われる、特別な意味はない一般的な表現だということです。普通に書いても二重の意味になってしまう現状の皮肉さを思いました。(ま、「愛国烈士」とまであからさまに書いた訳じゃないけどね)
*2: クラスというと学校みたいですが、チベット寺院の修行階梯はまさに学校のようになっていて、同じ年に出家した人たちが1クラスになって読経や問答や暗誦をして、試験を経て次の修行階梯に進みます。掃除当番や洗濯当番もクラスごとに課せられると思います。俗世を離れ文字通り寝食を共にするのだから仲間意識や絆の強さは相当なものと想像できますけれども、それにしても、Aさんの話しぶりからは、兄弟姉妹のつながりを超えるほどの精神的な結びつきを感じ、胸が痛みます。

ロプサン・プンツォが焼身をはかったあの日は、キルティ寺院ではちょうど〔チベット大蔵経の経・律部〕「カンギュル」の加持が行われていました。法要が終わった後、私は寺院の売店に行き、そこで、私たちのクラスの僧侶ひとりが焼身をはかった、と耳にしました。その知らせを聞いた時、胸は悲しみでいっぱいになり、全速力で僧坊に駆け戻り先生に知らせ、また大急ぎで大経堂の前に走り戻る時、ロプサン・プンツォの親戚のケルサン、ゲレク、それから今も監獄に囚われているタルギェやジャプ・ツォンドゥ〔*3〕などの人たちも、息せき切って走って来ましたが、私には、何が起きたのか聞くこともはばかられる様子でした。
44cb6736大経堂の周りではたくさんの僧侶が悲しみに頭を抱えて泣き叫んでいて、自分は何をどうしたらよいかも分からず、誰もかれもショックで呆然とし……世界のすべてが悲しみの底に投げ込まれたようでした。まもなく、500人から1000人ほどの僧侶が大経堂の前に集まりました。僧侶たちは、寺院を飛び出してその他の行動に出る〔*4〕準備を始めました。けれど、アラック(トゥルク、リンポチェ)・ドンク・ツァンが説得して、僧侶たちが出て行って抗議することをおしとどめ、僧侶たちに解散するよう求めました。大勢の高齢の信者たちも、僧侶に向かって、泣き叫びながら求めすがりました。
「私たちの宝であるお坊様方、どうかそのようなことをなさらないでください、私たちはあいつら漢人など相手ではありません、彼らは過去1958年〔*5〕にも文化大革命時にも私たちの数えきれない人数を殺して、いまだ現在に至ってもまだ殺戮をし続けて平気なのです。どうかおねがいします、どうかおねがいします。そんなことをなさらないでください!」

*3: プンツォへの故意殺人罪を着せられ2011年8月に懲役11年判決を下されたロプサン・ツォンドゥ(ロプサン・プンツォのおじで師)らを指すと思われます。
*4: はっきりと言及していませんが、つまりはデモをすることを指すと思われます。このインタビューでは「ここに至るまで」の状況が説明されていないのですが、ンガバのキルティ寺院ではここで言及されている2008年3月の惨劇、2009年2月には僧侶タペーがチベットで初の抗議の焼身をはかってチベット内外に大きな衝撃をもたらしたこともあり、3月10日や3月14日をはさむ時期は銃器を持った軍と警察が増強され、戒厳令並みの武力抑圧に置かれていたことが分かっています(そして、その理不尽な抑圧は、ますます僧侶たちの反発を招くだけであったことでしょう……)。この場面以降、「寺を飛び出していこうとする」という言葉遣いがたくさんみられるのですが(中国語訳では「冲」…突撃する、突破する、突進する、という動詞が当てられています)、寺院境内から僧侶が外に出る行動に「飛び出す」「突破する」という表現が使われること自体が既に異様な状況といえます。つまり、まだロプサン・プンツォが焼身をはかる前の、何ごとも起きていない時点から、軍と警察が寺院出口を見張り、行動を制限し、僧侶たちが自由に出入りできない状況があったということが分かるわけです。
*5: 1958年、という年号に、チベット問題を知っている方のほうが、おや、と思われるかもしれません。「チベットの悲劇=1959年」というイメージが強いかと思いますが、ここにはアムドの辛酸の歴史があります。人民解放軍のチベット制圧後、1959年のチベット民族蜂起に至るまでに、1950年代からカム、アムド地域で抵抗活動がおこり、武力殲滅されました。カムの蜂起(1958〜)は「チュシ・ガントゥクの闘い」として有名ですが、アムドではもっと凄惨な大量殺戮が行われ、1958年にゴロクやマチュ、ナクチュなどのアムド各地で大虐殺がありました。そのため、アムドの人々にとっては、1959よりも「1958」が血に刻まれた年号となっているのです。

〔泣きすがる高齢のの信者たちに〕僧侶たちは次のように答えました。
「私たちは楽になりたいという欲求に押されて〔抗議に〕突き進みたいのではありません、苦しみに目をそむけずに突き進みたいのです……この人たちが肉体と生命をささげたというのに、私たちがただとどまっていることはできません」。
その日、私たちは、死ぬことしか考えていませんでした。生き続けることなどまったく考えなかったのです。ただしこの時は、たくさんの若い信者たちが、僧侶たちを外に出ないよう押しとどめました。人間は苦痛が極限に達した時には、恐怖やためらいなどはまったく消え去るものなのです。私は臆病者ですが、その日は死ぬことなどとても簡単なことだという、自然にわきあがるような感覚がありました。
〔寺院から〕外に〔抗議に〕突き進んだ中心メンバーは私たちのクラスの僧侶で、みな19歳、20歳の僧侶です。同じクラスの同級生という深い感情に動かされて、ある僧侶は泣いて叫びながら外へ突き進み、またある僧侶は自分の胸を叩きながら外に突き進みました。〔*6〕
この時、かつてデプン寺院で学んでいたことのある僧侶のケルサンとタルギェ(2008年3月12日にデプン寺院で行われた抗議活動の時に手首を切って抗議した僧侶)が、僧侶たちに対して地面に座るよう命じたため、最終的にようやく皆が座りました。
日が暮れて空が暗くなるころには、3000人から4000人〔*7〕の僧侶がそこに集まっていて、近くの巡礼者やつえにすがって歩いてきた老人たちが、僧侶たちの前に来て口々に言いました。「カド(チベット語で『お願いです』と哀願する意味*8)! カド! カド! お上人様やお坊様が傷つけられることがあってはなりません、貴方がたが傷つけられることは、私たちにとって、チベット民族全体が傷つけられることに等しいのです……」。
声を張り上げ涙ながらの哀願に、その場全体に号泣がこだましました。あの当時はこのように耐えがたく悲痛な状況で、ですが私たちにはなんの力もなく、なすすべもなく地面に座っていることしかできない状況は、内心とてもつらいものでした。

*6: 次の段落では地面に座らされており(境内での出来事と思われる)、実際に多くが外に出たのか、説得されて結局は出なかったのか、原文はやや混乱する書き方となっています。
*7: キルティ寺院の僧侶は全員で2500人と伝えられており、他の寺院の僧侶が来たのでもなければ3000〜4000人は多すぎる人数ですが、原文表記ママとしています。
*8: 辞書によると「カム・アムドでの出会いや別れの際の挨拶言葉」、アムドの人によると「『万事あなたの思うがままになりますように』という願いや祝福の呼びかけの言葉」とのこと。お坊さんに対し敬意をもって呼び掛ける挨拶言葉なのでしょう。

この時、チュペルという一人の僧侶が立ち上がって叫びました。
「私たちがこのような行動に出るのは、ほかにどのような選択もできないからであり、このように外に抗議に向かうことも理解してもらえるはずだ。私たちチベット民族にとって最も大切なものはダライ・ラマ猊下とパンチェン・ラマ猊下お二人の聖者であり、ダライ・ラマ猊下は異境に追いやられ、パンチェン・ラマ猊下は監獄に囚われている。私たちが考えなくてはならないことは、お二人がこのような苦境にあるのはすべてチベット民族のためである、ということだ。私たちはこのことを必ずしっかりと頭にとどめなくてはならない。このような、私たちにはもうほかに選ぶ道はないという考えを除いても、私たちはこの〔聖者2人がチベットのため苦境に置かれている〕ことをしっかりと心に刻んで、現在の状況を論じるべきだ。2008年、やつらはダライ・ラマ法王の肖像を踏みにじり、私たちの心の底に深い深い傷跡を残した。権力の横暴によって、たった一枚の肖像さえ手元に置くことも許されない状況に至っては、我々はもうこうするしかなく、ほかにはもう選択などないのだ!」
その後、ケルサンも演説しました。
1aa980baこのとき、ケルサンの妹と弟は泣きながら、「アグ〔おじさん〕ローロー(お願いです)〔もう分かりました〕、話をしないでください」と止めました。ケルサンは「漢人の我々に対する武力鎮圧があるかどうか、私の弟や妹たちを見れば一目瞭然でしょう。彼らはなぜこんなにも泣いているのでしょうか?」などと述べました。
この少し前、何人かの僧侶はロプサン・プンツォが焼身をはかった場所に駆けつけていました。
〔キルティ〕寺院のほら貝を吹く役目の僧侶(名前は不明)が「我々は焼身した英雄たちの後に続いて中国に反抗するぞ」と叫び、外に向かって突っ込んでいこうとするのを、彼の父親がつかまえて引き留めましたが、〔彼は〕「アバ〔お父さん〕、彼らが自らの命を燃やすなら、私たちは立ち上がって後ろに続かなくてはならないんです」と叫びながら外に向かって突っ込んでいきました。そのほら貝を吹く係の僧侶は寺院から外に出て、その後逮捕され、今も拘置所で拘禁されたまま、現在も正式な裁判は開かれず判決も下っていません。
その当日はたくさんの人たちが逮捕されました。中国の軍人は、僧侶と民衆を引き離して細かいブロックに分断するようにして抵抗を抑えつけました。ですから、まだ寺院内に留まっている僧侶たち全員が、ロプサン・プンツォは既に犠牲となったが、逮捕され連れ去られた僧侶を必ず釈放させなければならない、もし釈放しないなら私たちも解散しない、という意思表示をしました。
もうすぐ太陽が沈んで暗くなろうとするころ、僧侶たちは大経堂の前にたくさんのバターランプ〔チュメ〕を灯し、このとき、携帯電話の電波が途絶えました。けれど今回の抗議は効果があり、それら何人かの僧侶はその晩のうちに釈放されました。
それが1日目の出来事でした。

ロプサン・プンツォの同級生の僧侶(仮名「アンサーA」さん)が語る、2011年3月16日当日の一部始終です。
インタビューから分かるのは、Aさんは寺院境内で悲報を知り、僧坊と大経堂前を走り回り、後は大経堂前で他の僧侶と共に地面に座り込んでいた大勢のうちの1人だったということです。ですから、彼自身が見ていない、ロプサン・プンツォの最期の様子や、外を包囲する軍隊と警察の様子などは話されません。当日からかなり長い時間が経ち、僧院内の僧侶たちはさまざまな二次情報や噂を耳にしているはずですが、Aさんはそうした二次情報ではなく、自らが見たこと、聞いたことだけを誠実に話してくれています。それだけに、情報は断片的ですが、描写は生々しく、現場にいあわせた人たちの嘆きと怒りと悲しみがストレートに伝わってきます。自ら確信を持てることだけを語れ、というのはチベット仏教の教えでもあるわけですが、証言者として非常にすばらしい態度で、これが19〜20歳の若い僧侶の語りだと思うと切なくなるし、おそらくは亡くなったロプサン・プンツォもこういう精神の青年だったのだと思うと、ほんとうに悲しくなります。
RFA(ラジオ・フリー・アジア)やVOT(ボイス・オブ・チベット)などによると、2011年3月16日にンガバで起こった状況は、町の中心部である市場前の十字路でロプサン・プンツォが抗議の焼身をはかった後、軍隊や武装警察がロプサン・プンツォを激しく殴打し、駆けつけた僧侶や集まった住民らが怒ってつめより、暴力で解散させられた▽軍隊と武装警察が寺院の周囲を取り囲み、住民らも僧侶を守るため寺院と軍隊の間に集まって座り込んで対峙し、寺院の周囲が一触即発の状態になった(これがその後一カ月以上兵糧攻めとなる)――と伝えられています。
こうした情報と重ね合わせると、Aさんの証言がより身に迫ってきます。Aさんは、大経堂前の広場に座り、外がどういう状況か分からないまま(ただし尋常な状態でないだろうことは漠然と推測しつつ)、死を覚悟して、「突破して外に出る」「いや待て」というやりとりをただ聞いていた、ということが分かります。寺院の外には重装備の軍隊が銃を向けて包囲している状況で、それを見て境内に入ってきた高齢の信者たちは、どうか出て行かないでください、と僧侶を止め、見てはいないけれど死を覚悟している僧侶は「いや行かなければ」というやりとりが続いた――2008年の惨劇の再現に至らなかったのは、ひとえにアラック(トゥルク)やゲシェや信者の説得だったのであり、軍や警察の殴打や銃撃での弾圧や殺戮を怖れて「おとなしく従った」のでは断じてない、ということがありありと分かります。

蛇足と分かってるのですがつい解説を入れたら長くなってしまいました。すみません。まだ続きます。


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アムドの人気歌手デモを先導したとして逮捕

Untitled-1_copy620日と22日、ブログでバ・ゾン(མཚོ་ལྷོ་ཁུལ་འབའ་རྫོང་又はケパスンドགད་པ་སུམ་མདོ、青海省海南チベット族自治州同徳県)の抗議デモについてはすでにお伝えした。

22日、僧侶解放を要求する18日のデモを先導したとして、人気歌手のドルジェ・ツェベ(རྡོ་རྗེ་ཚེ་བྷེ་)が逮捕された。

彼の妻と子供も18日のデモに参加しており、部隊が群衆に向かい爆発物を投げ入れた際負傷したという。(他の情報では妻と子供も拘束されたとある)

参照:23日付Tibet Timeshttp://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=5776

下のyoutubeは彼のステージ。歌の中で彼はダライ・ラマ法王を太陽に喩え、法王のチベット帰還を祈願すると歌っている。



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ダンゴとセルタで抗議デモに参加したチベット人11人に3〜13年の懲役刑/ダンゴで10人行方不明

5a04414e-sダンゴで銃殺されたユンテン。

VOT(ノルウェー・チベット放送)が22日付新華社電として伝えたところによれば、今年1月23日と24日、中国新年に合わせ抗議デモを行ったダンゴとセルタのデモ参加者の内11人に3〜13年の懲役刑が言い渡された。

ダンゴ人民法院は、警察署や車両を破壊したとしてチベット人;ペルド、ドゥクゲル・ニマ、ジペ、ギェルト、ギェルロン・ツェテン、ツェリン・ダルギェ、シェラップ・ロンポの7人に10年から13年の懲役刑、政治的権利剥奪を言い渡し、罰金も課した。

5d866005セルタで負傷し倒れたデモ参加者が引きずられて行くところ。

セルタ人民法院は公務執行を妨害したとしてチベット人;ツェヤン、ケチュン、ツェリン、レンチュンの4人に3年から7年の懲役刑を言い渡した。

彼らが何時逮捕され、判決が何時出たのかは不明。

以上参照:23日付けTibet Expressチベット語版
http://www.tibetexpress.net/bo/home/2010-02-04-05-37-19/7792-2012-03-22-14-17-15


ダンゴ 血の弾圧の後、依然10人行方不明

3b273582ダンゴのデモに参加し腹部を撃たれたチベット人。

以下、20日付けTCHTDプレスリリースより。

ダンゴでは1月23日、抗議デモを平和的に行っていたデモ参加者たちに対し当局は無差別発砲を行った。その結果ノルパ・ユンテン(48)とロヤックツァンの息子と呼ばれる男性が死亡し、氏名が判明しているだけでも36人のチベット人が負傷した。ある者は腕や足を撃たれ、中には、病院に行くことができず、未だ腹部に銃弾が入ったままの者もいると報告されている。

当局はデモの後、参加者を狩るために周辺の遊牧民地帯や山を徘徊した。

d4f801f0-s銃殺された僧イシェ・リクセル。

2月9日、部隊は遊牧民村であるトポルン、ガタン、ギェコン・ガンを廻り家々を捜索した。この時、僧イシェ・リクセル(40)とイシェ・サンドゥップ(42)を彼らの家で射殺し(以前の報告では山で射殺されたと言われていた)、母親も撃たれ、その時家に居た5人の子供たちも負傷した。母親サンラ(70)は左手を撃たれ、その手は後病院で切断された。子供たちも病院に担ぎ込まれた。

現在までに名前が判明しているだけでも10人のデモ参加者が拘束後行方不明になっている。

3月始めに地方当局は会議を開き、地域の僧院と村々で厳しい「愛国再教育キャンペーン」を行うことを決定した。ダンゴでは至る所で検問が行われ、依然緊張した状態が続いているという。


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2012年03月22日

アムドで連続する抗議デモ

<映像:15日、バ・ゾン(ゲパスンド)で行われたシンティ僧院僧侶による平和的抗議デモ>



このところ、中国政府のチベット政策に対するチベット人の抗議デモの中心がカムからアムドに移りつつあるようだ。カム地方の主だった町はほぼすべてデモを行い、その結果多くの逮捕者がでて、戒厳令下状態。そのため新たな大規模なデモは起こしにくいかと思われる。

アムドのデモは大規模なものが多いが、そこには似通ったパターンがある。

まず僧侶たちがチベット国旗や法王の写真を掲げデモを始める。スローガンを叫びながら庁舎に向かい行進する。それを途中でラマや俗人の長老が説得し、僧侶たちは僧院に戻る。しかし、その後当局は部隊を僧院に送り込み、デモに参加した僧侶たちを拘束する。それを知った、一般のチベット人たちが僧侶の開放を求め大規模なデモを行う。アムドの場合はこれにしばしば中学校の生徒たちも加わり、「チベット語擁護を!」と叫ばれるということも特徴の一つだ。

要求が入れられ、拘束されていた僧侶たちが一旦解放されることもある。されない場合はデモが続き、最悪な場合は先に伝えたバゾンのケースのように爆発物が投げ込まれ死傷者が出るという事態に至る場合もある。一旦解放された僧侶たちもその後、序々に逮捕されるということもある。

こうして見ると焼身も抗議デモも僧侶たちが火付け役をしていると見える。が、本当の火付け役は、ベースとしてチベットを中国が侵略したことと、何十年に渡る残忍な宗教中心の弾圧。その上に94年から始まったダライ・ラマ法王非難を強要する愛国再教育とか、遊牧民強制移住、漢語強要等々のチベット人締め付け政策であることは言うまでもない。


<ソク・ゾンで大規模抗議デモ>

P1030799_copyツァン僧院(写真は3枚ともTibet Timesより)

18日早朝、アムド、マロ、ソク・ゾン(青海省黄南チベット族自治州河南モンゴル族自治県)ソクウォ(河南)の中心街でツァン僧院僧侶15人とアリ村の俗人2人がまず「ダライ・ラマ法王をお迎えしよう!チベットには自由が必要だ!」とスローガンを叫びながら平和的行進を始めた。これを見た周りのチベット人もこの行進に参加し始めその数はふくれあがった。

B行進が始まり1時間ほどして武装警官隊が駆けつけデモを先導していた17人を拘束した。集まった群衆は警察署に詰めかけ、彼らを解放するよう要求した。その数は2000人ほどであったという。デモ隊の怒りと興奮は募り、警察署の門を壊すほどになった。

一日中群衆は警察署の前から去らず、声を上げ続けた。ついに午後5時頃、先に拘束された僧侶たちは解放された。もっとも、彼らは尋問を受け名前はその他の情報を記録されたので、今後逮捕される可能性は否定できないと思われている。

その後、ツァン僧院からトラック2台に分乗した80人の僧侶が到着し、デモを行おうとしたが、大勢の部隊がこれを制止し、抗議デモは行えなかったという。

Aその日、普通午後5時に終わる市内の学校も、すべて8時半まで生徒を拘束し続けたという。

ソクゾンに向かい多くの軍のトラックが向かっており、緊張が高まっている。

参照;19日付Tibet Timesチベット語版http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=5754









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<サンチュで僧侶100人が抗議デモ>

20日、アムド、ケンロ、サンチュ(甘粛省甘南チベット族自治州夏河県)ボラ僧院の僧侶たちがボラ郷庁舎の前で抗議デモを行った。

20日正午頃、ボラ僧院僧侶100人以上が、手にチベットの国旗を持ち、法王の写真を掲げて「チベットに人権と宗教の自由を!言語平等、民族平等!ダライ・ラマ法王の帰還を!」等のスローガンを叫びながら僧院から郷庁舎に向かって平和的行進を行った。

大勢の武装警官隊も直ちに出動。これを知って、地域の長老たちが僧侶たちを説得し、僧侶たちは僧院に引き返した。

しかし、その後部隊はすぐに僧院を包囲し、僧侶たちを拘束し始めた。夕方には50人の僧侶が連行された。次の日の朝50人は解放されたが再び10数人が拘束され尋問を受けた。

参照:22日付Tibet Expressチベット語版http://www.tibetexpress.net/bo/home/2010-02-04-05-37-19/7788-2012-03-22-03-42-37

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<ルチュで障害者が焼身抗議前に拘束>

昨日もセルタで同様のケースを報告したが、昨日アムド、ケンロ、ルチュ(甘粛省甘南チベット族自治州碌曲県)でも1人のチベット人が、焼身前に拘束されたという。

ツェコというそのチベット人は身体障害者だった。アラ郷の街中で彼は身体に灯油を被り、灯油を飲み火を着けようとしたが、その前に警官隊に拘束されたという。

地域では最近当局が「焼身抗議者の情報を事前に当局に通報した者には5000元の報奨金を与える」と公表した。地元のチベット人たちは彼のケースも通報によって察知され拘束されたのではないかと噂さえている。

参照:21日付RFA英語版http://www.rfa.org/english/news/tibet/attempt-03212012193950.html


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2012年03月21日

セルタで焼身抗議を行おうとしたした中学校生徒が拘束される/<閲覧注意>17日レゴンで焼身抗議死亡したソナム・タルギェ氏の焼身映像

c04a92b920日付けTibet Express http://www.tibetexpress.net/bo/home/2010-02-04-05-37-19/7768-2012-03-20-06-45-08によれば:

カム、セルタ(四川省カンゼチベット族自治州色達県)市内で1人の中学校生徒が中国政府に抗議する焼身を行おうとしたが、ガソリンを多量に飲んだ結果意識を失い倒れ、武装警官に拘束された。

今月12日、17歳のティンレというセルタの中学校生徒が市内中央の金馬広場で身体にガソリンを掛け、多量のガソリンを飲み焼身抗議を行おうとした。しかし、ガソリンを多量に飲み過ぎたせいで火を付ける前に意識を失い、倒れてしまった。

これを見て、広場を見張っていた武装警官たちが駆けつけ、彼は連れ去られ、現在も行方不明である。
その後、同級生たちが彼の家に行ったとき、彼のノートに遺書と思われる文章が書かれているのを見つけた。そこには「3つのお願い」と書かれ、「(彼の所属する)母語擁護会が盛況の内に存続することを願う。チベット人の最終的目的が達成されることを願う。困難なこの時期に内外のチベット人全員が連帯することを願う。学友や他の知人たちの努力によりチベット人の闘いが成功することを祈願する。私のように焼身を行うことは勧めない」等と記されていたという。

彼は地元の「母語擁護会」の主要なメンバーであった。

彼が焼身抗議を行おうとした広場は、1月24日にデモ参加者に向かって当局が無差別発砲を行い、死傷者が出た場所である。

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6666666<閲覧注意>17日レゴンで焼身抗議死亡したソナム・タルギェの焼身映像。

VOAが入手した貴重映像。以下にアクセス。
http://www.voanews.com/tibetan-english/news/Video-Show-Tibetan-Farmer-Engulfed-in-Flames-143547056.html














120321122153PUソナム氏の妻が彼の葬儀に出席。写真左方、手を合わせている女性。

「彼はチベットのために焼身したのだから、悔いはない」と語る。


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