2012年05月

2012年05月31日

カム旅行記 その6 タウ後編

_DSC4896ニンツォ・ゴンパの下の方にある小さなお堂にお母さんとともにお参りに来てた少女。

お堂にいた、老僧に「焼身についてどう思うか?」と聞いてみる。親指を立てながら「ヤポドゥ(いいと思う)。彼らは勇気がある。チベットがこんなだから、彼らのような人が出ても不思議じゃない。ダライ・ラマ法王もお年だから、早く帰って来てほしいのだ。」と答えた。

_DSC4917僧坊を巡りながら、下の村に降りる。











_DSC4914この辺の家はとにかく、材木をこれでもかというほど使う。柱の太さは30〜40cm、梁も垂木も日本では考えられないくらい太い。いくら材木が豊富だといっても、これは無駄使いではないかと、ケチな日本人は思う。日本だと柱は10.5cmだ。それでもそこそこ地震にも強い家を作る事はできる。この辺も大きな地震に何度か見舞われていて、耐震設計のつもりで部材を大きくしているのかも知れないが、壊れたときのことを考えると返って危ないんじゃないかと思ってしまう。一階は石積みの家が多いが、つなぎは泥のみ。地震の時には一階が壊れると思われた。

_DSC4934そうではあるが、外観はなかなか決まっており、立派で奇麗だ。一階の、大きな石と平たい小さな石を組み合わせた積み方が独特で、二階のログハウスもいい。

平面は、ほぼどの家も一緒と思われた。二階にテラスを設け、その角にトイレを作る。



_DSC4946小窓の付いた、塔状のこのトイレが美しい装飾を伴って、目を引く。
窓縁はここでも白く塗るられていることが多い。
屋根は陸屋根と傾斜瓦屋根が半々ぐらい。
陸屋根の場合は四隅を跳ね上げる。




_DSC4944道ばたでメンコのような遊びをしていた子供3人。「一緒にやろうぜ」というも、取り合ってくれない。写真を撮ろうとすると、真ん中の女の子は「ふん、撮らせるもんか」と横を向く。






_DSC4945それでも、カメラを向けると、「ぎゃ!やめんかい!」と何かどなる。カモ(カムの女)は子供の頃から、可愛いが、おそろしい。








DSC_0232バイクは馬に等しい。シートの上には必ず絨毯が敷いてある。ついでに冷えないようにとガソリンタンクの上にも。









_DSC4994入り口の傍に掛けられた、魔除け用ヤーの頭の骨。ここまで、凝った装飾の入ったものは見た事がない。









_DSC4963タウの大きなチュテン(仏塔)の近くに大きなマニ塚がある。その周りを回るお年寄りたち。









DSC_0256タウの象徴とも言える大きな多門式チュテン。高さは30mほどか?

2008年以降、街の人々が大勢集まり、中国に対する抗議の印にこの仏塔を周り、集会を開いたということもあった。



















_DSC4976チュテンの中には回廊がある。そこに潜んでいた若いカモ3人。特に真ん中の子が可愛いとカメラを向けるも、(今度は恥ずかしがられて)なかなか撮らしてくれなかった。








_DSC4968ツァツァの群れ。



それにしても、タウには警察の車が目立って多かった。、街中の交差点には必ずと言っていいほど公安の車が停まっていた。


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2012年05月30日

<速報>今日 ザムタンで幼い子供3人を残し 母親が焼身抗議・死亡

380191_231878056915613_100002802607306_311305_559504928_n追加写真(31日)。リキョが倒れ、炎に包まれている現場写真。周りに集まったチベット人たちはなす術もなく、これを見守っている。チョナン僧院には大勢の僧侶や地域のチベット人が集まり法要を行っているという。葬儀は30日の夕方に予定されているが、現地は強い雨が降っていて30日に葬儀が行われるかどうかはっきりしないとのこと。

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ラカルの今日(30日)現地時間午後3時頃、ンガバ州ザムタン県ザムタン・バルマ郷(རྔ་བ་ཁུལ་འཛམ་ཐང་བར་མ་ 四川省アバ・チベット族チャン族自治州壤塘県中壌塘郷)にあるチョナン僧院の近くで1人のチベット人女性が中国政府に抗議する焼身を行い、その場で死亡した。

ダラムサラ在住のチョナン福祉協会会長のツァンヤン・ギャンツォが伝えるところによれば、焼身したのはリキョ(རི་ཀྱོ་)、33歳。父チャクロ、母リンラの娘。ナントンという夫と結婚し、9歳の息子、7歳と5歳の娘がいたという。

目撃者によれば、「大きな炎が上がり、その場で死亡した」という。何か叫んでいたというが、その内容は未だ伝わっていない。遺体はチョナン僧院に運び込まれ、今のところ中国当局の手には渡っていないらしいという。

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27日のラサにおける2人の焼身に続き「サカダワ」中の3人目の焼身である。これで、内地焼身抗議者の数は38人となった。死亡は29人目。女性は6人目(尼僧3人、遊牧民2人、学生1人。すべて死亡)である。ザムタンでの焼身は4人目で何れもその場で死亡している。

ザムタンでは今年2月19日にナンドル(18)が焼身(参照過去ブログ>http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51730715.html

4月19日にも従兄弟同士であるチュパック・キャップとソナムが焼身している。(参照過去ブログ>http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51740958.html

なお、この時の焼身を伝えるビデオが2人の遺書の英訳と共に最近発表されている。
<閲覧注意!>http://www.youtube.com/watch?v=MdjEDm6zH6g&feature=youtu.be



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今日の記事参照:30日付けTIbet Times チベット語版 http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=6102

30日付けTibet Express チベット語版http://www.tibetexpress.net/bo/home/2010-02-04-05-37-19/8340-2012-05-30-11-29-02

VOT放送 http://www.vot.org/#

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542368_444838808追加写真(6月20日):リキュの写真が亡命側に届く。


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カム旅行記 その5 タウ前編

_DSC4881明朝ラガンの町を出て、タウ(道孚)に向かう。行程3時間ほどのはずなのでのんびり出発。バスはないので乗り合いミニバン、1人50元で行く事にするが、人がなかなか集まらず1時間ほど待った。

一旦高原上の峠を越えた後、道はどんどん谷間に向かって高度を下げて行く。一時間ほどでガンタル(八美、3420m)の町に着く。

写真はガンタル手前の何カ所かで見かけた「石林」、浸食された石灰岩が露出しているのかな?と思われた。

_DSC4882ガンタルの町の手前にある「チュテン林」。この先、ちょっとした町には必ず大きめのチュテンが少なくとも1塔はあった。








_DSC4885ガンタルの街中。ここはロンダク方面への道が分岐する地点でもある。ラガンから乗って来たミニバンの運ちゃんが他のミニバンに乗り換えろという。ここまでの分、20元を払って乗り換えることになった。





_DSC4923タウの町。

ガンタルから河沿いの道を徐々にさらに下ると、両側の山には針葉樹の森が広がり始める。しかし、伐採した後に植林したか、自然に生えたものが多いらしく、樹齢数十年と思われる小木が多かった。

ガンタルからさらに2時間ほどしてタウの街に着く。ミニバンのたまり場近くで宿を探す。最初に入ったところはしょぼい安宿だった。1泊1人15元とのこと。安い!部屋はベニヤばりで共同トイレ、シャワーはない。だが、案内してくれた高校生と思われる宿のチベ娘はやたら可愛かった。若いのに「どうする?ここでもいいかいな?」と聞くと「俺はいいけど、、、」という。「部屋はこんなだけど娘は可愛いよな、」と、泊まることにした。

もっとも、次の日、私は2カ所だけ「南京虫」にやられたことに気づいた。

_DSC5004街に出ると早速、武装警官の隊列が街角に消えて行くのを目撃。わざわざ大きな足音を響かせながら、盾と拳銃を持って、「お!お!お!」と変な掛け声を上げながら歩いていた。カメラを構える前に角を曲がって消えてしまった。

そう、この街では去年2人のチベット人が焼身抗議を行っている。大きなデモは最近ないが、タウの町の人々は法王の誕生日を一斉に祝したりと、中国に対する反抗心が強いことで有名だ。それで警戒が厳しいというか、脅しが盛んなのであろう。

僧ツェワン・ノルブと尼僧パルデン・チュツォが壮絶な焼身を行ったのもこの辺りと思われる。

_DSC4904街の北側の丘に広がる大きなニンツォ・ゴンパ。

2人とも焼身した後、すぐにチベット人たちが遺体をこの僧院に運び込んだ。
「僧ツェワン・ノルブの焼身」参照過去ブログ>http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51693249.html

「尼僧パルデン・チュツォの焼身」http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51714359.html
2人とも焼身の映像が発表されている。特に尼僧パルデン・チュツォの、大きな炎に包まれながら不動の姿勢を保つ、その壮絶な焼身の姿は世界中を震撼させた。

_DSC4909ニンツォ・ゴンパ本堂内部。

ここに2人の遺体は運び込まれ、追悼会が行われた。当局の脅しにも関わらず、2人の勇者を偲ぶために1万人とも言われるチベット人がこの僧院に集まったと言われている。


















_DSC49252人が荼毘に付されたとされるゴンパの裏山には、荼毘台の後ろに巨大なタルチョの山ができていた。

不謹慎にもその台にのって手を広げる若いの。若いのが写ってない写真がなかったので仕方なくこれを掲載。

私は些々やかな供養の印に、チベット語の般若心経を3回唱える。

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2012年05月29日

カム旅行記 その4 ラガン

今日は、今のところ大きなニュースは入っていないので、カム旅行の話を続ける。

DSC_0571草原の中にある小さなラガンの町に到着し、部屋も決めたので、のんびり散歩に出る。

こじんまりとした可愛い家が並ぶ。

中庭でヤーに餌をやりながら数珠を繰る優しそうなおじさん。



_DSC4759家は石造の2階建てが多く、入り口や窓の枠はウツァンのように黒く塗らず白く塗る家が多い。

窓の上のまぐさも特徴的で黒塗りの上に月が並び、両端に三日月。まぐさの上の木組みもばってん白黒デザインとなっている。

門の中に立つ、おばあさんのスカートは黒、チベットシャツは白、袖口と頭の帽子は赤。門枠には金の文様。

_DSC4758中には門や窓枠を黒く塗りエッジのみ白く塗ってる家も見かけた。

黒く塗るほうが窓縁を暖める効果があるとは思うが。
趣味の問題らしい。






_DSC4777元気良さそうなバイク族僧侶たち。

この辺のバイクの90%は125CCの中国製バイク。ちなみに値段は新品で5万元(6万5千円)。若いのが「これ買って旅行しようぜ!」とくる。




_DSC4848ちょっと写真が前後したが、これがホテルの窓から見えた風景。

手前、中国国旗がはためく場所は学校のようだった。この先、どこでも学校には必ず中国国旗が掲げられていた。教室棟と思われる建物には「愛国、、」なんちゃらと書かれている。

もっとも、校庭でバスケットを楽しんでいるのは僧侶のようにも見えるが!?

裏山にはタルシンの群れ。

_DSC4872このタルシンの群れを大きく写したもの。

真ん中には「オンマニペメフン」と観音の真言。三角山形に並べられるのが普通のようだ。
「4つの三角」の配置等に何かの意味付けがありそうだが、聞かなかったのでわからない。

「ラマ・仏・法・僧」への帰依とか「仏陀・観音(慈悲)・文殊(智慧)・金剛手(力)」の象徴かも知れないと勝手に想像。

_DSC4778この町は小さいが、大きな僧院が沢山ある。その中でももっとも古く由緒ある僧院とされるサキャ派のラガン・ゴンパ。なんでもソンツェン・ガンポが建てた僧院という。ここの「ジョカン堂」にある「ラガン・ジョオ」と呼ばれる釈迦牟尼像は唐の文成公主がチベットに嫁いだとき持参した釈迦牟尼像と信じられている。文成公主が道中、ここラガンの地に滞在した時、釈迦牟尼像が「ここに置いていってくれ」と言ったそうな。これが本当ならラサのジョカンにある釈迦牟尼像(ジョオ)は偽物ということになるのだが、、、?

で、我々は入り口で止められ、「入場料100元だ」と告げられる。「ええ〜高え!」と若い者。「俺たちはチベット人だ、払わんでもいいだろう」とチベット語で言うと、「なら身分証明書をだせ」ときた。「そんなもの持ってない」。「いいよ、そんなに高いなら入らないぜ」と結局、仏像等に興味のない宗教心の薄い若い者につられて入らないで写真だけとって退散した。

DSC_0601塀の割れ目から覗いた中庭には古そうなチュテンが林立していた。チュテン好きの私はケチったことを少々後悔した。周りは大きなマニ車の列に囲まれ雰囲気のあるマニ塚も沢山あった。






_DSC4782で、このマニ塚の足下にある「マニ板」だが、よく見るとこれはビリヤード台を利用したしろものと。やるわい。









_DSC4788ラガンの東側に見えるグル・リンポチェゆかりの聖山といわれるジャラ・ラツェ(海子山、5820m)。ギザギザの山頂がその特徴。








_DSC4789山を見ながら草原をふらついていると、ピクニックする僧侶たちに呼ばれる。さっき高くて入らなかったサキャ僧院の僧侶たちだった。2日間の休みということで草原でサッカーをしてるとのこと。

中にはダラムサラ近くのビルのサキャ僧院に留学?してたという話のできる僧侶もいて、仲良くなり、茶にジュース、美味しいパンやラビン(トコロテンの一種)をごちそうになった。

_DSC4818サッカー好きの若い者が、見せてやろうじゃないかと、早速一緒にプレイする事になった。

もっとも、高地トレーニングが十分でなく、走っては胸を抑え、倒れ込むという不様さ。




_DSC4805球を追い、袈裟姿で草原を疾走する高地トレーニング中の僧侶たち。










_DSC4816それでも、この試合前半に若いものが入れた2点を守り、2−1で息子参加チームが勝利した。

ちなみに夏にはこの辺りの草原でタギュ(競馬祭)が行われるそうだ。





_DSC4842丘に登り東方面の風景。

新しい感じの僧院が見える。この後、そこに行ってみたが閉まっていた。








_DSC4844丘の上から先ほどの入らなかったサキャ僧院を見下ろす。

奥にも僧院がある。









_DSC4825丘から見えた新しい僧院に近づくと、馬に乗って散歩しませんか?とおばちゃんたちが近づいて来る。なかなか可愛く飾られた馬がたくさん並んでいた。もっとも観光客は皆無だった。たまにかもの中国人が来るのかもしれない。





_DSC4830商売用の馬に乗って喜ぶ、おばちゃんの可愛い娘。











DSC_0580日が暮れる前に、この町に来た目的の一つを果たすために町の南に向かう。

それまでの聞き込みで目的の僧院が写真に写っているニンマ僧院であることが分かったからだ。

この旅行に立つ直前の5月6日付けのブログに「高僧とその姪が焼身者を追悼中火事で焼死 人々は焼身したに違いないと噂」というエントリーを上げた。>http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51743657.html

元ゾクチェン僧院ケンポであり、その時この僧院の僧院長でもあった、高僧トゥルク・アトゥックが4月の満月の日に「それまでの焼身抗議者の霊を弔うために灯明を沢山灯し、尼僧である姪と共に供養を行っていた。その最中故意か事故か?火事となり、2人とも死亡した。付近の人々は状況からして、2人が焼身したものと噂している。」というニュースである。

詳しくはブログを読み返してほしい。

わざわざ、現場検証を行おうというわけだ。

DSC_0584まず、僧院の本堂に入る。そこでは数人の僧侶がトルマを製作中であった。










Tibet 113世間話を終えて、事件のことに話を向ける。僧侶は直ぐに反応し、別の僧侶を呼んで、スマホの中に納めてある死んだトゥルクの写真を見せてくれた。

トゥルクの風格十分な、日本の時代劇にでも出て来そうな立派なリンポチェである。

僧侶たちは「突然のことで、本当のところはよくわからない。しかし、焼身された可能性は高いと思ってる。リンポチェは嘗てより焼身抗議者のことを度々話されていたから」とのこと。









Tibet 115現場であるリンポチェの家は本堂のすぐ裏にあった。

右手の壁が焦げている部屋の中で供養を行っていた。

僧院長であるリンポチェの部屋にしては小さく質素であるとおもった。




Tibet 116近づき、部屋の中も覗いてみた。
まず、気づくのは「火事といっても、大した大火事ではなく、部屋の一部が燃えた程度」だということ。

また、部屋は一階で小さく、バター灯明の火が何かに引火し、火事になったとしても、すぐに外に避難することができる環境と分かる。

このような家で、この程度の火事により2人が焼死したというのは、ちょっと考えられないと感じられた。どうみても、私には「意図的に外に逃げずに死ぬことを選んだ、または最初からその気だった」としか思えなかった。

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2012年05月28日

<続報>ラサで2人のチベット人若者が焼身抗議 1人死亡

7286022314_02b33b3562イギリスベースのFree Tibetが死亡したドルジェ・ツェテンの写真として発表したもの。焼身抗議を行ったジョカン前にて。

昨日の焼身について、その後徐々に事実と思われる情報が伝えられ始めた。それらをまとめて報告する。

RFAの英語版では最初「2人の僧侶が焼身」と伝え、日本の各メディアもこれを元にして「焼身したのは僧侶である」と伝えた。しかし、RFAもその後更新版を出し、その中では「2人の若者が焼身、内1人が死亡」としている。

中国公式メディアの新華社がラサ当局発表として報じるところによれば、「27日午後2時16分に、ラサのパルコルで四川省ンガバ出身のダルギェと甘粛省サンチュ(夏河)出身のトプギェ・ツェテンが焼身を図った。警備中の警官が2分後に火を消し、病院に運び込んだが、トプギェ・ツェテンは死亡した。ダルギェの容態は安定しており、話をすることもできる」という。

最後に温家宝の焼身に関するコメントを引用し、亡命政府とダライ・ラマ法王を「祖国分裂を企み、焼身を唆している」として非難している。

BBCやロイターもこの新華社報道を元にして記事を発表し、「チベット自治区の首都ラサで焼身が行われたのはこれが初めて」とそのことが強調されている。

jpg-large追加写真(29日)ジョカンの前に走り出て保安要員に行くてを阻止され、消化剤を掛けられるドルジェ・ツェテンと思われる焼身者。

独自のソースから情報を得たと思われるTibet Timesは、2人の身元を「1人はアムド、サンチュ(ラプラン・タシキル)県ボラ郷ペルン村出身のドルジェ・ツェテン(རྡོ་རྗེ་ཚེ་བརྟན་)、19歳。もう1人はアムド、ンガバ県ソルマ村のダルギェ(དར་རྒྱས་)、25歳前後」とする。

VOAとTibet Timesによれば、2人とも最近ラサに住み始め、パルコル近くの「ニマ・リン」という食堂で働いていたという。

Tibet Timesによれば「2人はパルコルで火を付けた後、ジョカンの正面まで走った」という。また「2人は炎に包まれながらも何かスローガンを叫んでいた」と目撃者は証言するが、その内容は明らかになっていない。これまでの焼身抗議者のほぼすべてが「ダライ・ラマ法王のチベット帰還」と「チベットの自由」を求めるスローガンを叫んでいることから、2人もこのような趣旨のスローガンを叫んだと思われている。

死亡したトプギェ・ツェテン(或はドルジェ・ツェテン)の故郷であるボラでは3月20日にボラ僧院僧侶約100名による抗議デモが発生し、多くの僧侶が逮捕されている。>http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51736267.html

ダルギェの故郷であるンガバはご存知のように、焼身抗議がもっとも多く発生しているところである。
この2人が元僧侶であった可能性も考えられるが、まだそのような情報は入っていない。

ツェテンの死亡により、これまでに内地で焼身抗議を行ったチベット人37名の内、死亡した人の数は28名となった。

追記:イギリスベースのチベット支援団体Free Tibetによれば、27日午後1時頃2人はジョカン傍のタクシャン・ホテルに部屋を取り、そこで焼身の準備をした後、2時過ぎにそこを出て、ジョカンの正面に向かいながら焼身したという。

また、彼ら2人が働いていた飲食店のオーナーと従業員数名が当局により拘束されたという。

VOTによれば、彼の故郷ボラでは死亡の報を受け、彼の家族の下にボラ僧院僧侶が多数駆けつけ法要を行っているという。地元の警官や武装警官も出動し、家族に事件について口外しないように警告し、人々に尋問を行っているともいう。

Tibet Times に目撃者が語るところによれば、「炎に包まれながら1人はジョカン前のタルシン(タルチョの柱)の傍まで走り倒れた。もう1人は10歩程歩いて倒れた」という。http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=6089

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参照:28日更新RFA英語版http://www.china.org.cn/china/2012-05/28/content_25494291.htm
Tibet Timesチベット語版http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=6085
VOA英語版http://www.voanews.com/tibetan-english/news/Two-Tibetans--carry-out-self-immolation-protests-in-front-of-Tibets-holiest-temple-in-Lhasa-Tibet-capital-154865075.html
Tibet Expressチベット語版http://www.tibetexpress.net/bo/home/2010-02-04-05-37-19/8315-2012-05-27-13-47-52
BBChttp://www.bbc.co.uk/news/world-asia-18231550
ロイターhttp://www.reuters.com/article/2012/05/28/us-china-tibet-idUSBRE84R01M20120528

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<速報>ラサで2人が焼身抗議 1人死亡 1人重体

jpg-large「焼身の煙が立ち上る、ジョカン寺前」の写真と言われるもの(@MyYakより)。炎が消された後と思われる。

昨日の夕方あたりから、「ラサで焼身」というニュースが伝えられ始めた。しかし、様々な情報が錯綜し「焼身が行われた事は確かだが、人数や場所は確認できない」という状態が続いていた。事件の後、当局が直ちにラサ中心部の情報網を切断したことにより、正確な情報を得ることが難しくなっていた。

そんな中、深夜RFAが確定情報と思われるニュースを発表した。以下、それを基に報告する。
27日付RFA英語版http://www.rfa.org/english/news/tibet/burn-05272012123432.html
チベット語版http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/two-self-immolated-in-lhasa-barkor-05272012132807.html

27日の(チベット語版によると)午後3時頃、ラサのジョカン寺の前で2人の若い僧侶(チベット語版には「2人の若者』と書かれている)が焼身抗議を行った。チベット自治区の首都ラサで焼身抗議が行われたのはこれが初めて。2人の身元はまだ確認されていない。

現場には直ちに武装警官隊や軍隊が車両と供に駆けつけ、大きな炎に包まれた2人を囲み、火を消し、連れ去った。現場は封鎖され、近くにいた人々の携帯やカメラはチェックされた。現場は直ちに掃除され、15分後には何事も起らなかったようになっていたという。また、ジョカンを囲むパルコル沿いにある商店は店を閉めることを禁止された。

「炎は巨大だったという。見たものは2人が死んだと思っている」と目撃者と話した亡命側のチベット人は話す。

未確認情報として、「彼ら2人は他の数人の若者と供に抗議デモを行っていた」とか、「焼身の後に何人かが抗議の声を上げ、逮捕された者もいる」というものもある。

事件の後、ジョカン寺とポタラ宮殿付近には厳戒態勢が敷かれ、すべての人々がチェックされたという。

追記:新華社が焼身の事実を認め、「1人死亡、1人重体」と報道。
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内地の焼身抗議者の数はこれで37人となった。チベット自治区内では2人目。自治区首都のラサで行われたのは初めてであり、反響は大きいと思われる。折しも、チベットでは一年の内もっとも神聖な月である「サカダワ」が始まり、昨日はその6日目であった。ジョカン寺はチベット人すべての宗教的中心寺院であり、多くの巡礼者がこの時期ここを最終巡礼地として訪問する。

自治区政府は数日前に「サカダワの期間中、すべての共産党員、政府職員、学生に対し如何なる宗教活動も禁止する。これに違反したものは厳しく罰せられるであろう」という布告を発表していたhttp://www.tchrd.org/index.php?option=com_content&view=article&id=227:official-chinese-notification-bans-tibetan-participation-in-religious-activities&catid=70:2012-news&Itemid=162。また、この期間中は特に、保安部隊や役人に対し「如何なる重大な分裂活動も、些細な分裂活動も許してはならない」と訓示していた。そんな矢先にこの焼身が起った。当局のショックは大きかったと思われる。

さらにもっと詳しい情報が入り次第、続報としてお知らせする。

追記:参照、RFAの記事を基にする記事だが、日本語も出た<毎日>http://mainichi.jp/select/news/20120528k0000e030181000c.html

追記2:VOAは未確認情報としながらも2人の身元を記す。1人はアムド、ボラ出身のドルジェ・ツェテン(19歳)、もう1人はアムド、ンガバ出身の若者と。2人は最近ラサに来て「ニマ・リン」というレストランで働いていたという。http://www.voanews.com/tibetan-english/news/Two-Tibetans--carry-out-self-immolation-protests-in-front-of-Tibets-holiest-temple-in-Lhasa-Tibet-capital-154865075.html

焼身した2人は僧侶なのかどうか、現時点では確認されない。

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2012年05月27日

カム旅行記 その3 ダルツェンド〜ラガン

_DSC46903日目の11日、やっとチベットらしい風景に出会えた。写真は4298mの折多峠(チベット名は不詳)で舞い上がるルンタ。

朝のんびりとダルツェンドを出発し、峠を越え、2時間程で着くラガンに向かう。バスはこの辺りでは長距離しかないので、1人50元の乗り合いミニバンに乗る。

今日から写真は多めとなる。気に入ったのがあれば、クリック拡大してみてほしい。

説明の方は読飛ばしてもらってもいい。が、ただ、最後の方にラガンで最近起った、ちょっとした事件に関する特別な現場報告があるのでそれは読んでもらいたい。

_DSC4666ダルツェンドを出ると、路はどんどん高度を上げて行く。写真は途中で振り返れば見えるダルツェンドの裏山、ラモ・シェ山系(海子山、主峰は6070mと6032mの2峰)。






_DSC467630分ぐらいで着くチベット最初の高い峠、折多峠。チュテンがありタルチョがたなびく。









_DSC4680この峠、帰りは雪景色となっていた。











_DSC4693辺りに撒かれていたルンタが風に巻き上げられ、何度も空に舞い上がる。










_DSC4695蒼穹に吸い込まれるが如くに高く舞い上がる。ルンタ(風の馬)と供にチベット人の悲願が世界の空に届きますように!








_DSC4703峠を越えた辺りからミニアコンガ山系を遠望することができた。中央にひと際高く聳えるのが主峰ミニアコンガ(7556m)。旅の最後にこの山に挑む!?話あり。







_DSC4713峠を越えると見渡す限り草原と雪山のみという美しいチベット的風景が広がる。










_DSC4717草原の中に、可愛いマーモットも見かけた。












_DSC4721もちろん"ヤー"も沢山いる。












_DSC4733そこかしこにタルシン(タルチョの幟)やチュテンが見える。










_DSC4730途中で見かけた小さなチベットのお寺。屋根が瓦で中国風ではあるが、好感がもてる風情。









_DSC4736突然、巨大な僧院現れる。

注:ラガンへの路は普通ゾンシャップ(新都橋)を経由するが、今回は峠の後、北東寄りの別の近道を走った。







_DSC4741最初に見かけた、例の「遊牧民定住村」。











_DSC4744タルシンとヤー。












DSC_0552草原と小川とヤー。

この辺り、もう少し時期が夏に近づいていれば、一面お花畑であったろうと、少々惜しまれた。







DSC_0548小さな美しい村。家はすべて石作り。窓周りは黒でなく白く塗られている。










DSC_0566草原に囲まれた、こじんまりとしたラガン(塔公)の町に到着。普通、ダルツェンドを出た旅行者はこの町を通り過ぎ、次のタウに向かうが、時間のある人にはこの町はお勧めと思う。

ミニバンのお兄さんに勧められるままに、町のまん中辺りにある新しいような宿に入る。節約してトイレ、シャワー共同の2人部屋で50元。部屋は広く清潔であった。

と、最初はラガンの話を一気に書くつもりだったが、すでに写真が多すぎる気がするので、続きは次回にまわすことにする。事件現場の話も次回ということで。

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2012年05月26日

カム旅行記 その2 ダルツェンド

_DSC4615ダルツェド(ダルツェンド、ダルド、康定、カンディン)は現在四川省の一部となっているカム、カンゼチベット族自治州の州都である。街の人口は約11万。川の流れる雪山に囲まれた狭い谷間にビルが立ち並ぶ。元々(1950年以前)はチベット人の街だったはずだが、今では街はすっかり中国化されチベットの風情はほぼ全く感じられない。それでも人口の半分ぐらいはチベット人のはずだが、チベット服を着る人も少なく判別は難しい。

古くからチベットと中国のお茶等の交易の中心地として栄えていたという。標高は2500mでまだチベットの空気感もない。

_DSC4604が、街を見下ろす崖の岩にはチベット語のマントラ、グルリンポチェやターラ菩薩の像が彫られている。

バス停に到着すると元気のいいチベットのお兄さんたちが一斉にたかって来た。中国語で話掛けて来るので、「ギャケ・ハコギメ、プケ・ギャータン(中国語は分かんない。チベット語で話してくれ)」というと、何となくチベット語と思われる言葉を話始める者もいたが、このチベット語がよくわからない。その中でカンゼ出身という、最後までしつこく食い下がって来た、とびきり明るく元気のいいお兄ちゃんに引っかかってやり、彼が連れ込む宿をのぞいた。

中国人の若いお姉ちゃんがやってる宿で一泊100元。熱いシャワーが出て清潔そうだったのでそこに決める。

_DSC4631街をふらつき、街を見下ろす丘に登ろうとロープーウエイ乗り場を探す。バス停とは反対側の街の終わり辺りにロープーウエイ乗り場を見つけた。が、値段を見ると何と往復50元と書いてある。これは破格に高いではないか!と息子が歩いて登ろうと言い出す。丘は数百メートルあり歩くにはしんどそうだし、時間も夕方。悩んだあげく「雪山が見えるはずだ」ということで乗る事に決定。2人乗りの小さなゴンドラ。高所恐怖症気味の息子は少しびびる。

_DSC4635時間が遅いからか、値段が高いからか、ゴンドラは空ばかり。唯一すれ違ったチベット人カップル?









_DSC4621途中で見つけた、ダラムサラにもいる奇麗な野鳥「Scarlet Minivet (Pericrocotus flammeus)」のオス。日本名はヒイロサンショウクイ。メスは鮮やかは黄色。常に番いかグループで飛んでおり、この時もメスもいた、が写真の写りが悪すぎるので割愛。




DSC_0485ロープーウエイを降りた先にチベットの寺が見えたが、その前にまたゲートがあり、この先に行きたければさらに70元払えと来た。またしても大金!「もういいぜ、中国当局にこれ以上金は払わねえ!」と、柵をちょっと超えた見晴らし台から南側に見えた雪山を撮影。
ミニアコンガ山系のはず。あいにく空気が霞んでおり主峰のミニアコンガは見えなかった。

帰りにしっかり近くに行ったので、写真はその時たっぷり紹介する。

_DSC4647丘を降り、丘(ほう馬山)の上からよく見えた立派なチベット僧院を訪問する。門には中国語で「南無寺」と書いてあったが、チベット名は「ラモ・ツェリン・ゴンパというゲルク派の僧院。






_DSC4651中庭ではこれからチュラ(問答)が行われるらしく、教本を手にした僧侶たちがあつまり始めていた。

僧侶は300人ほどとのこと。すっかり中国化された街のほとりで、しっかり仏教の勉強に励んでいる僧侶たちをみて頼もしく思ったものだ。

僧院が立派なのは成功したチベット商人たちが寄付しているからだろうと思われた。

_DSC4653僧院下で見かけたドッキ(チベタンマスティフ)草原ではなく家に飼われてるやつだが、うなり声だけはちゃんと迫力があった。








Tibet 016街中の武警車両。












DSC_0477「お、スターバックスがあるぜ!」と思いきや、よく見ると「STORBUCKS COFFEE」。やるよね、中国。stolenはお家芸。








_DSC4661夜になると、川沿いはまるでパチンコ屋のような動的照明に輝く。

写真左端には、またしても武警車両が停まっているのが写ってしまった。

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2012年05月25日

カム旅行記 その1 成都〜ダルツェド

_DSC4590成都のチベット人街の飯屋に入ると次から次へと、この写真のようにダミニャン抱えたチベットのお兄さんが入ってきて目の前で歌を披露。お金をくれという訳だ。

中国語のメニューが読めない親子は最初の注文に失敗。目一杯とうがらしが入った真っ赤な大皿がテーブルにのって真っ青。ついにこのダミニャンお兄さんにすべて持ち帰ってもらう事になった。

突然、明らかに中国人と思われる料理人の服を着た男が飯屋に入って来て、歌を始めた。「・・・・・ゴンサチョ・・・・」どうもダライラマ法王を讃える歌を歌ってるらしい。歌い終わるとチベット人の前に行き手を出す。チベット人も苦笑いで金を出す。法王の名前を出されると相手がただの金目当ての中国人と分かっていても金を出さない訳にはいかないらしい。なんだかな〜である。

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ブログご無沙汰しておりました。案外多くの人たちが休業中もアクセスして下さっていたようです。その方々にはお詫びと共に感謝の意を捧げます。

今月7日にダラムサラを発ち、デリーから広州経由で成都に9日に到着。チベットはカム地方を2週間ばかり旅行してました。きっかけはTCVダラムサラ出の息子が「時間ができたので一緒に旅行しよう。まだチベットに行った事がないのでチベットへ行こう。山に行きたい」と言い出したから。

_DSC5618ミニアコンガ(7556m)

2週間のエントリービザで行ける範囲は限られてるというので、簡単、かつ最近いろいろな事件が起きたカンゼへのルートを取ることに。成都からダルツェド、峠を超えてラガン、タウ、ダンゴ、カンゼと一日づつ進み、カンゼに2泊。最初はカンゼからニャロン、リタンを回ってダルツェドに帰る予定だったが、山に行きたいという息子の要望をいれるためにカンゼからダルツェドに帰りミニアコンガ山麓へ。そしてまた成都に帰り、猛暑のデリーを越え昨日ダラムサラに帰郷。息子は成都からブラジルに飛んだ。会社を辞めまた秋からアメリカで勉強するという彼は、その前に世界一周するのだそうだ。

今回のルートは簡単、手軽にチベットが味わえるルート。もちろん、その人の持ってる情報により興味の対象や楽しみ方はいろいろであろうが、とにかく旅行案内も兼ねながら、軽く、基本一日毎に写真とともにカンゼまでの町や風景を紹介する。

_DSC5951カム地方に入る起点は成都。成都へは日本やバンコク、デリーから飛べる。9日の午後3時頃成都に到着。次の日の朝ダルツェド(康定・カンディン)行きのバスに乗るのでバスの出る「新南門汽車站」(中国では汽車がバス)のすぐ裏にある「交通飯店」に泊まる。一泊ツイン160元。もっと安い部屋もあるみたいだった。すぐに明朝のバスチケットを買い、散歩にでる。

成都は人口一千万近い大都会。最初85年にここを訪れた時には高いビルは何もなく中国の街にしてはまあまあ落ち着いた良い街だと思ったものだ。今はただの大都会。交通飯店から西に30分ばかり歩くとチベット人街がある。交差点に何台かの公安の車が止まってるのがまず目に入る。

_DSC4591チベット人街と言っても町並み自体にはチベット風情はなにもない。ただ、チベット僧の姿が目立ち、仏像や仏具を売る店が多いぐらい。相当大きな仏像や仏塔も売ってた。

写真右手のベンチには公安さんがのんびりと座ってらっしゃる。今年3月にはこの辺りは相当緊張し、逮捕者も出たが、今は特に緊張は感じられなかった。


_DSC4594チベット人街に隣接して「西南民族大学」の大きなキャンパスがある。多くのチベット人がここで学んでいるはず。キャンバスは広くグランドも広かった。







_DSC4618次の朝7時、カムへの入り口の街ダルツェド行きのバスに乗る。嘗ては2日も掛かったというが、今では雅安までの高速道路と二郎山トンネルのお陰で8時間ほどで着く。もっとも道路が整備され時間が短縮されたということは中国とチベットが近くなり、軍や移民、資源の移動が簡単になったということでもある。


_DSC5903以下何枚か紹介する軍用トラックの列は、行きでなく20日にダルツェドから成都に帰る時に撮影したもの。この日、朝8時にダルツェドを出て峠のトンネルを超えるまでの3時間ほどの間に何と、30〜40台が1グループになった軍用トラックの列を6グループ目撃した。すべてチベット方面に向かう隊列であった。この日は特に多かった。何か起ったのかと心配した。最初の写真は二郎山トンネル内をチベット方面に進む軍のトラック部隊。

_DSC5885トンネルを抜けダルツェド寄り、濾定辺りを行く部隊。











_DSC5879「情歌の故郷 康定(カンディン/ダルツェド)祝悠一路順風」の横断幕の下をチベットに向かう部隊。トラックの前には「川蔵兵站部 奇路鉄騎団」と書かれている。「川蔵」は「四川省蔵族地区」のこと。つまり四川省のチベット地区に物資や兵士を輸送する「数奇な(険しい)路を行く鉄の騎団」という訳だ。


_DSC5889軍用トラックの横には「促進民族団結」と大きく書かれてる。つまり「軍隊の力で脅迫的に団結させようではないか」という訳だ。








_DSC587619日の夕方、ダルツェドの街中をチベット方面に向かう兵站隊の列。


途中だが、今日はこれまで。


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2012年05月17日

ウーセル・ブログ:「治安維持」のため廃止されるチベット語教育

「愛国再教育キャンペーン」「遊牧民強制移住」と共に「漢語教育政策」は最近の焼身を始めとするチベットの抵抗運動の直接的原因となっている。ウーセルさんは4月4日のブログで「漢語教育政策」を取り上げている。この政策の目的は単に「様々な言語を話す舌を全て標準語の舌に切りそろえなければいけない」というだけでなく、チベット支配に関する「重大な政治的任務」とみなされていると語る。

原文:http://woeser.middle-way.net/2012/04/blog-post_04.html
翻訳:@yuntaitaiさん

写真説明(ウーセル):
1、2枚目……青海省と甘粛省のチベット人学校と民族学校が採用した中国語による教材。

3枚目……青海省黄南チベット族自治州ツェコ県で今年3月14日、数千人のチベット人中高生が街頭を練り歩き、チベット人の教育や諸権利を守るよう求めた。

899cf478jw1dqoma7cz02◎「治安維持」のため廃止されるチベット語教育

一昨年の10月19日のことを今も覚えている。アムドのレゴンで数千人の中高生や小学生がキャンパスを飛び出し、「チベット語の授業が必要だ」とチベット語で書かれた小さなボードを高く掲げた。続いて青海省から甘粛省までのアムド各地で、数え切れないほどの子供たちが母語を守る行動を起こした。北京の中央民族大学でも多くのチベット人学生が母語を守ろうと呼びかけた。

899cf478jw1dqnvtgngxij-1300人以上のチベット人教師が連名で中国共産党青海省委員会に文書を提出したことも覚えている。「中国語を基本とし、チベット語を補助とし、就学前にも中国語を教える」措置を実行せず、母語を主要言語とするチベット人教育を維持するようにという内容だ。引退したチベット人幹部と教育従事者の一部も統一戦線部と教育部などの上級部門に同様の意見を提出している。

後に青海省委書記が「双語教育」の改革について、現地の事情に即して順を追って進める必要があると表明し、人々を安心させたことも覚えている。善良なチベット人たちは書記の言葉を重いものと捉え、時間稼ぎの策略であるはずがないと考えた。

416879_2791292632430_1561803748_1959301_2067886692_nしかし、まだ1年半もたっていないのに、チベット語教育の頭上につるされた刀はやはり振り下ろされた。今年3月に新学期が始まった際、青海省と甘粛省のチベット人学校や民族学校の子供たちは、チベット語による専門科目の教材が中国語のテキストに突然変わったことを知った。つまり、農家や遊牧民の子供たちの学校教育は既にこれまでの双語教育から中国語教育へと変わってしまった。これはどんな結末をもたらすのだろうか?

13月3日、アムドのマチュ・チベット族中学の3年生、ツェリン・キがこの教育政策に抗議するために焼身した。3月14日以来、アムドのレゴン、ツェコ、カンツァ、カワスムドなどで数千人の中学生と師範学校生が街頭に繰り出し、「民族の平等を」「言語の平等を」「現地の自主性を」と声を上げた。

教師を務めるアムドのチベット人が微博で率直に語っている。

「たとえ母語による専門教科の教材を入れ替えるとしても、関連する調査研究や対応する教員を十分に準備しないといけない。教育は成果をあせって失敗してはいけないものだし、政治的な意志を運び出す分野でもない。生徒が中国語の単語やフレーズ、文体に慣れていないのに、新学期に突然、数学や物理、化学のたくさんの新しい単語を消化するのはとても難しい。時間と労力を費すよりも、慣れ親しんだ言葉で学ぶ方が効率的だ。これは教育の常識、ルールであって、民族意識とは関係がないし、更には大きなアイデンティティーといったものとも全く関係がない。どんな人や民族であっても母語の問題を政治化するべきではない。これは人類の文化で当たり前の伝統だし、生まれつきのものにイデオロギーをたくさん出し入れする必要はない。でも、ある部門や指導者は何度もこの問題をイデオロギー対立の次元で処理してきた。どうして母語のために毎年毎年、子供に散歩(デモの隠語)をさせるのか。安定維持は永遠に大局だし、安定させる対象はもちろん民心だ。でも、私たちは子供たちの心さえ安定させられないのに、チベットの安定維持事業にどう貢献できるんだ?」

実際のところ、一部の役人はこの理屈を理解していないわけではない。チベット語教育に屠殺刀を振りかざす目的は、当局が文化的な統一を実行するためだけではなく、様々な言語を話す舌を全て標準語の舌に切りそろえなければいけないという単純なことなのだ。青海省の教育改革に関する要綱から、これが既にチベット地域の未来に関わる「重大な政治的任務」とみなされているのが分かる。2008年のチベット人抗議から当局が学んだことの一つがここにはっきりと表れている。それはチベット語教育を根こそぎにして治安維持を図るということだ。

今日はどうであれ、数百年前にスペインの植民者がマヤ人の土地を占領し、マヤ語を完全に滅ぼした時代ではない。今日はどうであれ、数十年前の文化大革命がチベット全土でチベット語教育を消し去り、私のようなチベット人に母語を失わせた時代ではない。そんな今日、19歳の女子生徒ツェリン・キが母語を守るために命を燃やした。この炎が消えることはないだろう。

2012年3月20日(RFAチベット語放送)


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2012年05月15日

東チベットのある町である旅行者が焼身に付いて聞いた話

最近「根強い抵抗運動の続く東チベットのある町」に入ったある旅行者が、現地のチベット人と焼身について会話した内容を伝えて下さった。貴重な証言と思われるので、以下、これを報告する。

絵はウーセルさんのブログより。
0,,15905483_401,00質問:なぜ焼身?
僧・俗「役人は『自由に意見を』と言うが、何か言えば逮捕されるだけだ。みんなでデモするか?全員撃たれて殺されるだけだ。パレスチナを見習うか?駄目。俺達には他人を傷つけてはいけないって教えがある。チベット人にできるのは自分に火をつけることぐらいだな」

質問:焼身に否定的な意見もあるが。
僧・俗「自分の苦しみから逃れるために自殺してるんじゃない。600万チベ人のためにやってるんだ」「外国人とは受けてきた教育、宗教意識が違うから理解しにくいんだろう。生きるとか死ぬとかは要するに花が咲いて枯れて、また咲くようなものなんだ」

質問:なぜ、カムやアムドで多いのか?
僧・俗「民族意識が強いからだ。俺達の意識はラサよりもずっとスゴイんだ」「別にこの数年の政策や衝突の話だけじゃなく、何十年も積もってきたんだ。チベ人はずっと圧力を受けてきて、08年に爆発して今も続いてる。俺達はチベ文化を守らなければいけない」

質問:焼身を肯定するなら、自分がやる可能性も?
俗人「自分が一番に考えているのは家族を守ること。だから自分は焼身できないだろう。でも焼身抗議者は600万チベット人のことを考えて行動している。思想の偉大さが違うってことかな。だからこそ彼らは本当の英雄なんだ」

…みたいな話をコソコソと。現地の人はたくましく生きてました。


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2012年05月13日

ウーセル・ブログ「インドで仏教を学び、ラサで洗脳される」

今年始めブッダガヤで行われたダライ・ラマ法王によるカーラチャクラ法要に参加した本土のチベット人たちが帰国後、大変な受難が待っていたという話はこのブログでも2度ほど報告した。
カーラチャクラ法要に参加した本土チベット人たちの受難http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51727858.html
続・本土巡礼者たちを待ち構える受難http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51730587.html

ウーセルさんは4月7日付けの「インドで仏教を学び、ラサで洗脳される」と題された「ほとぼりが冷めてから落とし前をつける」やり方で帰国後拘束され「教育」を受けさせられたお年寄りたちの話をブログに書かれている。

原文:http://woeser.middle-way.net/2012/04/blog-post_07.html
翻訳:@yuntaitaiさん

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383350_224327410980404_176229112456901_513400_713937116_n(ウーセルさんによる写真説明)写真1……尊者ダライ・ラマは今年1月1〜10日、インドの仏教聖地ブッダガヤで第32回カーラチャクラ灌頂法会を執り行い、チベット本土から1万人以上のチベット人が参加した。チベット人写真家Tenzin Choejor写す。




_1写真2……漢族エリアの信者で、ツイッター仲間の@glxlzxがカーラチャクラに行った時に撮影した。彼による写真説明:「敬虔なお年寄りの巡礼者がバラナシの大きな塔の下で読経していた。3人のうち最も若いお年寄りでも70歳を超えている」。





002 (2)写真3……チベット人のツイッター仲間が隠し撮りした「学習班」。ラサ西部、デプン僧院近くの城関区教師訓練センターに開設されている。





「インドで仏教を学び、ラサで洗脳される」

ラサ各地に散らばる「学習班」。「学習班」で「教育」を受けた、または今「教育」を受けている多くのチベット人。彼らが「教育」されるのは、年始にインドのブッダガヤで尊者ダライ・ラマのカーラチャクラ灌頂法会に参加したからだということ。これらについて思う時、数人のチベット人の姿が目の前に浮かんでくる。彼らは皆、私がラサにいたころに出会った年長者で、全く普通の退職者や住民だ。一途に仏教を信じ、嫌というほど政治的な圧力を受けてきた信徒だ。

高齢というほどではないある男性は数年前、ずっと夢見ていた尊者との謁見を実現させるためだけに待遇の良い職場を離れた。彼の日記には、ポタラ宮を参拝した後の感想が書かれていた。「監視カメラは窓よりも多く、兵士は僧侶よりも多く、ネズミは菩薩よりも多かった」。彼はまだ「学習班」に閉じ込められており、帰宅できていない。

身体が弱く、病気がちなお年寄りは当初、ラサからブッダガヤにたどり着けるとは思っていなかった。長い道のりで激しく揺られる苦しさ、気候の違いによる体調不良に耐えられるのかどうかをとても心配していた。しかし、彼女の最大の望みは尊者の法音を耳にすることであり、もしその瞬間に死んだとしても見事な大往生だと思っていた。法会が終わった後、彼女は元気いっぱいの様子でラサに戻ったが、すぐ「学習班」に押し込められ、あっという間に病院送りになった。病床の彼女は家族に次のように話し、涙を流したという。「じきに死ぬ老人なんだから『洗脳』教育を受けなくてもいいでしょうって、『学習班』で泣いて頼むこともあったんだ」。

「学習班」は専制に特有の恐ろしい存在で、同じようなものに「洗脳班」「強制収容所」がある。「通常、強制収容所の様式をはっきりと定義するのは難しいが、共通点は収容された者の人権が無視され、損なわれることだ」とウィキペディアに書かれている通りだ。インドを巡礼した数千人のチベット人に当局が設けた「学習班」は、名目的には「法制教育」「愛国主義教育」や国家の宗教政策を学ぶ場とされる。だが、ある漢人弁護士は「全て法的根拠の無い拘束で、違法の限りを尽くしている」と指摘する。

チベット各地でのパスポート申請は元々とても難しいと誰もが知っている。チベット全土に及んだ2008年の抗議により、当局はパスポート発給を中止することまでした。この2年間、当局は例えばラサではお年寄りを大目に見て、60歳以上の申請者への発給に同意した。だから今回、ブッダガヤで法会に参加した本土のチベット人はお年寄りが多かった。しかし、苦労してパスポートを入手し、聖地にたどり着き、ようやく加持を受けて幸福なひとときを過ごした時、「ほとぼりが冷めてから落とし前をつける」目に遭うとは予想しなかった。

「学習班」は2月初めに開設され、ラサだけで少なくとも7、8カ所、軍キャンプや賓館、学校に置かれている。シガツェやツェタンなどにもある。警察に家から「学習班」へと次々送られるチベット人には80歳を超すお年寄りもいるし、中年や若者もいる。彼らの身分はさまざまで、退職幹部や都市生活者もいれば、郊外の農家や商人もいる。「学習」期間は二つに分けられており、チベット暦新年の後、65歳以上の非党員は「学習」を終えた。65歳以下の非党員と全党員はまだ「学習」を続ける必要がある。

実際、これほど多くのチベット人がインドで法会に参加したのは学習のためであり、それは精神的な喜びに満ちた仏教学習だった。そしてチベットに戻って「学習班」に閉じ込められるのは、名目上は学習であっても本人の意思に反しており、精神的な苦しみを伴う政治的洗脳だ。高齢と病気のおかげで「学習班」を離れられた数人のお年寄りは、1960年代のプロパガンダ映画「農奴」を見せられ、一人ひとり感想を報告させられたとびくびくしながら話した。「過去の苦しみと現在の幸福な暮らしを思う」ことと「党の恩義への感謝」がなければ合格できないという。今も「学習班」に残るチベット人たちは革命歌を歌い、革命舞踊を踊る練習をさせられている。3月28日、党がチベット人民に押し付けた「農奴解放記念日」に披露するためだ。

2012年3月15日

(RFAより)

ウーセルによる補足……RFAの報道( http://www.rfa.org/english/news/tibet/release-04032012191539.html )の通り、ラサでカーラチャクラ参加者に開かれていた「学習班」は4月3日、2カ月にわたる「洗脳」学習を終えた。「学習」させられていた若いチベット人は微博に書き込んだ。「指導者が書くよう求めた『学習参加で得たもの』は、殴られ、ののしられ、軍事の訓練をさせられ、革命歌を歌わされ、柴刈りと水くみをさせられ、『団結は幸せで、分裂は災いだ』と叫ばされたってことだ。でも確かに知識を得たし、訓練されたし、教訓を得たよ!」。また、2カ月続く第2回「学習班」が既に始まっている。カーラチャクラ後すぐにはラサへ戻らず、前回の「学習班」に参加しなかった残りのチベット人を対象にしている。




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2012年05月11日

ウーセルブログ:「あら探し」、「些細な事柄」、「権威の確立」

_チベット亡命政府の公式サイトTibet Net

4月1日付けウーセルさんのブログをいつものように雲南太郎(yuntaitai)が訳して下さった。

亡命政府首相のセンゲ氏は去年の秋、ヨーロッパツアーを行ったとき、各地で焼身抗議について語るとき「今年だけで**人が焼身した」と述べ、2011年3月16日の僧プンツォの焼身からの人数を伝えていた。これに対しウーセルさんはすぐに「2009年の僧タペーを忘れては困る。本土の焼身の話は彼から始めるべきだ」とツイッター等で何度も主張されていた。これを「首相批判」と言えるのかどうか、私には分からないが、今回のエントリーではウーセルさんはこの「些細な事柄」から話を始め、世の指導者のあるべき姿に付いて論じられている。

本土では焼身抗議が連続したことで緊張が高まっている。焼身抗議の主な目的が「外国にチベットの危機的状況を知らしめ、外国から中国に圧力をかけてもらい状況を変えること」であることは明白である。亡命政府首相への期待が高まるのは当然と言える。ダラムサラにいる私は、彼ができるだけの努力を行っていると感じる。しかし、結果を出すことがどれだけ難しいことかということも理解できる。それでもウーセルさんはセンゲ氏に対し「本土のチベット人を導き、方策を与え、有効な指導力を発揮すること」を求めている。センゲ氏も日々この難題について悩み続けていることであろう。

原文:http://woeser.middle-way.net/2012/04/blog-post.html

◎「あら探し」、「些細な事柄」、「権威の確立」

焼身抗議者数は2009年のタベーまでさかのぼるべきだという提案だけであっても、実を言えば、国外のチベット指導者に異なる意見を述べる時には今までにないためらいと複雑な気持ちを抱く。国外からは「困難な時期には団結しなければいけないのだから、あら探しをするな」「些細な事柄で大局に影響を与えてはいけない」「今は指導者の権威を確立させるべきで、批判はするな」などと勢い良くもっともらしい意見が聞こえてくる。専制社会に暮らす私にとって、こうした発言は実に分かりやすい。専制者は常に似たような理由で「意志を統一し、行動を統一し、規律を統一する」ことを社会全体に求めている。

だが、指導者への批判は民主社会の基本的な状態であるべきだ。動機や理由がどうであれ、こうした批判を封じれば民主と相反する効果しか生まない。成熟した民主社会では、当選したばかりの指導者は決して「偉大な領袖」とはみなされず、監督しなければならない対象になる。「最高指導者は信用できない」とは民主の理念の出発点であり、政府と指導者が従順でいることは民主政治の基本的な任務だ。これを実現するのは自由な批判だ。だから民主社会には、指導者に対する大小の「あら探し」が必ずあふれている。

そう、私たちは困難な時期にいる。しかし、困難は批判を排除する理由にはならないし、逆に指導者の誤りを批判によって防ぐ必要がある。もし批判が本当に団結を崩すのなら、責任は間違いなく指導者にある。なぜなら、指導者が批判を受け入れさえすれば更なる団結がもたらされるのだから。アリストテレスは「道徳は一体である」と語った。人は「重大な事柄」によって道徳を守ることはできず、ただ必要に応じ「些細な事柄」で道徳を捨て去る。実際、小さな道徳を捨て去るのは全体の堕落の始まりを意味する。同じ道理で「大局」と「小事」も一体のものであり、「小事」が映し出す問題は必ず「大局」の中にある。「小事」への批判は「大局」に影響しないだけではなく、「大局」への助けになる。

もちろん民主社会は偉大な領袖を生み出せるが、それは引退後の棺桶の蓋が決めるのであり、当選時に戴いた月桂冠が決めるのではない。当選は偉大さの証にはなれないし、チェックの始まりに過ぎない。歴史を振り返り、世界を見渡せば、最終的に有権者の信任を裏切った当選者はいくらでもいる。前人の失敗を受け止め、当選者は批判を良薬とするべきだ。そうしてこそ失敗者リストに載らないで済み、批判に感謝できる。

尊者ダライ・ラマの権威は生まれながら持っている至高のもので、チベット民族は無条件に認める。尊者ダライ・ラマがこうした権威を政治から取り除いたのは、ほかの人物に権威を取って代わらせるためではない。そんなことは不要で、民衆にも受け入れられない。尊者ダライ・ラマが求めているのは根本的な変化だ。つまり台湾民主化のスローガンにある「人民が最大」であり、政治の指導者は民衆のために働く公僕に過ぎず、民衆を政治の権威にするということだ。

社会の民主化を調べる指標の一つは民衆に対する指導者の態度だ。もし指導者が傲慢であれば、自分が一番だとうぬぼれ、異なる意見を自由に退ける。その指導者は民主がどんなものかを全く理解していないし、その社会も民衆の権威を体現できていない。

疑う余地のない尊者ダライ・ラマの合法性とは違い、国外の政治指導者が本土の600万チベット人を代表する合法性をどう確立するかは常に重要な課題であり続けるだろう。同時に、国外の政治指導者は亡命側の生命線でもあるため、この課題は必ず解決しなければならない。これについて言えば、国外の数万票に頼るだけでは不十分だ。本土の600万チベット人が投票で態度を示せるようになるまでは、こうした代表性は少なくとも国外の指導者と本土のチベット人の密接な交流で示されるべきだ。交流は称賛だけではなく批判も含む。この過程で国外の指導者には謙虚さと善意、積極的な回答が最低限求められる。

より高度な合法性は本土のチベット人を導き、方策を与え、有効な指導力を発揮することで示されるべきだ。これがとても難しいとは誰もが知っているが、こうした難局を突破してこそ偉大な政治の領袖になれる。

私は期待している。

2012年3月5日(RFAより)


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2012年05月06日

高僧とその姪が焼身者を追悼中火事で焼死 人々は焼身したに違いないと噂

_DSC2517先月初め、カム、ミニャックで元ゾクチェン僧院僧院長である高僧と尼僧であるその姪が焼死した。土地の人々は状況から彼らが焼身を行ったのではないかと噂している。

先月6日午前10時半頃、カム、カンゼチベット族自治州タウ県ミニャック地区ミニャック・ラガン・ダクガル僧院僧院長であるトゥルク・アトゥップ(別名トゥプテン・ニェンダック・リンポチェ、45)と彼の姪である尼僧アツェ(23)が僧院近くの自宅で焼死した。

その数日前、トゥルク・アトゥックは家族に、「チベット歴の15日、満月の日に、これまでチベットのために焼身した人たちの追悼会を行うつもりだ。灯明を沢山灯すのでバターを沢山買うように」とことづけたという。

その日、トゥルク・アトゥックは電話で家族に、「今チベットのために焼身した人たちのために沢山のバター灯明を灯したところだ」と伝えた。

「そのすぐ後、彼の自宅は火に包まれた。間もなくトゥルクと彼の姪の焼死体が発見された」と住民は伝える。

彼は普段より、チベットの文化と宗教を守ることに熱心で、チベット人の団結を熱く語っていた、と住民は言う。一緒に亡くなった彼の姪もチベット問題に関心が強かった。

火事の後、すぐに大勢の警官が現場と僧院に集まった。この時、ダクガル僧院の僧侶と住民はこれが政治的焼身と見なされることで僧院閉鎖という危険もあり得ると判断し、警官たちに対し、「これは政治的抗議とは全く関係のない、事故だ」と説明し、警官もこれに納得し、部隊を僧院から引き揚げたという。

しかし、地元の多くのチベット人たちは「2人がチベットのために抗議の焼身を行ったに違いない」と思っているという。

トゥルク・アトゥックは幼少時、ミニャック・ダクガル僧院の転生僧と認められ、ラサのデブン・ロセリン学堂やンガバのキルティ僧院で学んだ。近年、ゾクチェン僧院の僧院長も歴任している。ゾクチェン僧院では最近大きな抗議デモが起っている。

参照:5月4日付けRFAチベット語版http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/tulku-athup-passes-away-in-kham-tibet-05042012214039.html
同日付けRFA英語版http://www.rfa.org/english/news/tibet/fire-05042012163355.html


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2012年05月05日

キルティ僧院創立600周年記念式典

_DSC4157今日は朝からダラムサラ・キルティ僧院で「キルティ僧院創立600周年記念式典」が行われた。

写真は今日の主賓であるゲルク派のトップ、第102代ガンデン・ティパ、リゾン・リンポチェを僧院に迎え入れるところ。



_DSC4154ガンデン・ティパはゲルク派の創始者ジェ・ツォンカパの名代である。ゲルク派的にはダライ・ラマ法王より位が高い。ゲルク派の場合はそのトップの資格は家柄等には全く関係なく、唯一その学識と人格の高さによりその地位を得る。もちろん、先代がお亡くなりになった後にと言う事なので、長生きも条件の一つと言えるかも知れないが。

_DSC4212ンガバのキルティ僧院で焼身抗議が続いたが故にキルティ僧院の名は世界的に有名となった。キルティ僧院の創建は今から600年前の1412年という。ジェ・ツォンカパの愛弟子の1人であった、第一世キルティ・リンポチェ、ロンチェン・ゲンドゥン・ギェルツェン師はジェ・ツァンカパによりアムド地方に布教活動を行うために送り出されたという。ジェ・ツァンカパから「かくかくしかじかの特徴を具えた、アムドの土地にたどり着いたら、そこに僧院を設けよ」という指示を受け、アムドに旅立ち、今のンガバ州内のカラリという土地に最初の瞑想堂を作ったと言われている。<今日、僧カニャック・ツェリンから聞いた話。

_DSC4166最近特にご心労の絶えない、第11世キルティ・リンポチェ。

キルティ僧院はアムド全域10カ所ほどに分院を持ち、その他強いつながりを持つ僧院が他にも10ほどある。アムドで一番勢力のあるゲルク派の僧院なのだ。これが当局の弾圧のターゲットとなる大きな要因ともなっている。また、現在のキルティ・リンポチェがダラムサラに在住しダライ・ラマ法王とも特に近い関係にあることや、亡命政府の宗教・文化大臣を歴任したことがあるということも弾圧の原因の一つと思われている。キルティの僧侶たちはリンポチェ初めダライ・ラマ法王への忠誠心が特に強いというわけだ。

_DSC4194つい最近ニューヨークの国連前で無期限ハンストを行われていたシンサ・リンポチェ。今日の会の主賓の1人。アムドを代表するリンポチェの1人。一ヶ月に及ぶハンストを耐えたあとも見せず、もうすっかり回復されているようにお見受けした。
シンサ・リンポチェはハンスト以前から政治的活動家としても有名である。

_DSC4168リンポチェたちをお迎えするアムドの女性たち。今日はダラムサラに住むアムド人集会のようでもあった。アムド出身の主立った住民はすべて出席していた。アムド衣装を競うが如しの女性も沢山見かけた。





_DSC4369菜食だったが、それでも豪華な昼食会。

キルティ・リンポチェとガンデン・ティパが長〜いスピーチを行われたらしいが、その間、私は他の用事があり退席しており、内容は聞いていない。焼身の話は出なかったということは確からしい。

















_DSC4379ごちそうに食らいつく、アムドのゼマ(美女)たち。











_DSC4424午後からはガンデン・ティパを前に「ダムチャ(仏教哲学論争会)」。










_DSC4446普段はンガバからの焼身等の情報を流す事に忙しい、僧ロプサン・イシェと僧カニャック・ツェリンも今日はダムチャに積極参加。頭も切れる事を証明していた。先頭で手を振り下ろした後、低い姿勢になっているのが情報係の僧ロプサン・イシェ。

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