2012年06月

2012年06月29日

<速報>ジェクンドで女性1人が焼身抗議

ウーセルさんがツイッター上で伝え、これを元にVOTが中国語記事http://www.vot.org/?p=13055とチベット語放送で報道したところによれば:(以下@uralungtaさんが中国語より翻訳して下さったもの)

6月27日午後3〜4時ごろ、ジェクンド(ケグド/ユシュ)のジェグ(青海省玉樹州結古)、ジェグ寺門前街の市街地で、チベット人女性1人が焼身をはかった。

火勢は大きかったが、消し止められ、女性は病院に搬送された。現在、治療中とのこと。彼女の年齢や名前などはまだ判明していない。現場は多くの人々に目撃された。

当局は会議を開いて焼身が起きたことを外に伝えることを厳禁するとともに、チベット人女性の焼身はジェクンド震災後の土地問題と関係のあることであって民族問題とは無関係であるということにした。軍と警察は焼身の起きた地域を封鎖している。

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この焼身について、まだ他のチベットメディアは報道していない。今のところウーセルさん情報しかない。ウーセルさんが確認されていないことを公表することはまずないので確かと思われる。

27日に起ったことを亡命側が未だ確認していないということは、稀なことだ。現地の情報網遮断が徹底しているからと思われる。

追記:30日付けTibet Express http://www.tibetexpress.net/bo/home/2010-02-04-05-37-19/8538-2012-06-30-08-28-19は南インドの僧侶経由で伝えられたこの焼身の話を報じている。

それによれば、確かに27日の午後4時頃1人の女性がジェグ僧院傍で焼身したという。女性の年齢は40歳ぐらい、氏名は依然不明。病院に運び込まれたというが現在の容態は不明。焼身の目的について、現地の人々も「土地強制収用」に関係するのではないかと噂しているという。

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カンゼで17歳の少女が1人デモ  数日後病院へ

Jigme_Dolma-11人でデモを行ったジグメ・ドルマ

29日付けTibet Timesチベット語版http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=6239

及び29日付けTibet Express チベット語版http://www.tibetexpress.net/bo/home/2010-02-04-05-35-27/8530-2012-06-29-07-32-08によれば、
6月24日、現地時間午前11時頃カム、カンゼ(四川省カンゼ・チベット族自治州カンゼ)の街中にある橋のたもとからジグメ・ドルマ、17歳がルンタを撒きながら「ダライ・ラマ法王がチベットにご帰還できますように!チベットに自由を!パンチェン・リンポチェをはじめとする全ての政治犯が解放されますように!」というスローガンを叫びながら数分間行進した。保安部隊が駆けつけ、大勢で彼女を殴り倒し、連行した。

その後、ジグメ・ドルマが病院に収容されていることが判明し、父親や親戚が短時間の面会を許された。ドルマは手足を負傷し、非常に衰弱している様子だったという。

ジグメ・ドルマはカンゼ県カラ郷ションカ村出身。父チュキ・ニマ、母アス・ラモの娘。同居していた尼僧である叔母タシ・ガは2008年の抗議デモに参加し2年の刑期を受けた。タシ・ガは解放された後も尼僧院に所属することが許されず、その後山にこもっていたが、体調を崩し中国の病院に収容された。病院側から病気は服役中に患ったものであると知らされたという。

ジグメ・ドルマはその日、両親に畑仕事に行くといって家を出た。その後、街に向かい1人でスローガンを叫ぶデモを行った。大勢の人が目撃したという。


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2012年06月26日

ウーセル・ブログ「消火器とアパルトヘイト」

6月24日付けウーセルさんブログ、全訳。

ウーセルさんはこの中で、ラサをはじめチベット全土で保安部隊が消化器を背負って巡回する様を「全く手を緩めずに煽動しながら、火を消す」と分析する。この部隊の姿は今のチベットの状況を象徴している。当局はチベット人を厳しく締め付け、抵抗活動を「煽動」しながら、これを弾圧することで予算、昇進などの「利益」を得ているのだ。

原文:http://woeser.middle-way.net/2012/06/blog-post_24.html
翻訳:@yuntaitaiさん

写真説明…新浪微博より。旅行者がラサで撮影した。3枚目では、黒い布で覆われた赤い消火器がかすかに見えている。

002


003◎消火器とアパルトヘイト

 軍警が赤い消火器を背負って街中をパトロールするという特殊な光景がラサ旧市街に現れた。5月27日に2人のチベット人がジョカンとバルコル派出所の間で焼身抗議したことと関係がある。実は2009年にンガバの僧侶タベーが焼身抗議した後、チベットに駐在する軍警は消火器を配備していた。チベット全土で焼身抗議者の数が増えるにつれ、5人一組でパトロールする軍警のうち2人が消火器を背負うほどになった。

 これは当局が慈悲の心を大いに発揮し、常に消火と人命救助を準備しているということだろうか?事態は全く反対で、最大級の皮肉になっている。もしチベットで「過去の歴史になかったほどの幸福」という輝かしい言葉が本当に実現されたのなら、なぜこれほど多くのチベット人が次々と炎に身を包むのか?だからラサに消火器があふれる光景は、当局が喜んで人に見せようとするものでは全くない。この光景が語るのは「全く手を緩めずに煽動しながら、火を消すポーズを見せている」という事実だ。つまり、消火器を背負いつつ火をつけるということだ。

3d88fd35jw1du0gfzhtgsj アムドのチベット人2人によるラサでの焼身抗議は大事件であり、当局にとってはラサ以外のチベット人を追い出す一層の理由づけになった。実際、当局はほかの土地のチベット人を早くから追放していた。2008年3月には、ラサの3大僧院で学んでいたアムドとカムの僧侶を追い出し、3月10〜14日の抗議を誘発した。そして抗議はチベット全土へと広がっていった。当局は後に、ほかの地区の僧侶がラサで修行することを引き続き禁止しただけではなく、一般人への制限も厳しくした。

 現在の状況はあるチベット人がツイッターに書き込んでいた通りだ。「これまで何年住んでいようと、暫定居住証を持っていようと、働いていようと、アムドのチベット人はラサにはもう住めない。元の居住地の公安局や県政府が発行する担保証を持っていれば別だけど(これはすごく難しいよ)。ラサでは公安の調査が毎日あって、もう何人も追い出されたね」

 ラサ旅行に来た漢人観光客もツイッターで漏らしていた。「あるブロックの黒板に書いてあったよ。『4省(四川、青海、甘粛、雲南)のチベット・エリアから来たチベット人は身分証と暫定居住証、県公安局の証明、労働契約、外出就業許可、担保書を持っていなければいけない(無い場合は政府か事務所の担保が必要)。さもなくば本籍地に送還する』だって」「大雑把に言えば生活範囲を区切り、分割統治するってことだ。小さな旧市街にはもうゲットーの雰囲気が漂ってるね」

 ラサの状況はナチス時代のゲットーに似ていると言うよりも、南アフリカ共和国が20世紀に設置していた隔離地区により近いだろう。

 あるチベット人は新浪微博に書き込んだ。「暫定居住証を持っていないカムのチベット人たちはみんなラサを離れないといけないし、ラサには住めない。でも漢族やほかの民族は暫定居住証を持ってなくても生活できる。これはどういう政策なんだ?」。これがアパルトヘイトのやり方ではないとでも言うのか?

 別のチベット人は新浪微博に書き込んだ。「ラサのホテルに宿泊するチベット族は今日から近所の派出所に通知しなければいけない。警察は本人に会って登記しないといけない。五つ星ホテルも例外じゃなくて、僕はいま警察を待ってるんだ。チベット族にとってチベットは本当に最も不便な土地になったよ!なんて皮肉だ!」

 ある漢人旅行者もツイッターに書いた。「今日ジョカンに行った。安全検査を受ける時、チベット族は登記しないといけないけど、漢族はそのまま進む。僕が通過しようとしたら、武装警察に引っぱり出された。登記しろだって!僕は漢族だって言ったのに全く信じないし、身分証を見せろだって。泣けるよ」

 体験者のこうした言葉から、「漢」なのか「蔵」なのかという点こそが身分証チェックの目的だと分かる。ただ「蔵」というだけでラサはとても不便な場所になる。「漢」であればラサは楽しい遊園地になる。「蔵」と「漢」、軍警の関係からも分かるのは、チベット人はこれを避けようがなく、嫌悪感で胸がいっぱいだということだ。一方、漢人は安全だと感じ、武装警察に誘われて警備車両でドライブもできるし、治安維持の軍警とともに火鍋を食べ、酒を飲み、カラオケで歌い踊ることもできる。

 「蔵」と「漢」の区別はラサの地理にまで現れている。基本的にラサの東部と西部はそれぞれチベット人居住地と漢人居住地の代名詞になっている。建築から商業、言語などで明らかな区別があり、特に軍警の密度や権利の損なわれる程度に大きな違いがある。

 国連安保理は1970年代の決議で、アパルトヘイトについて「人類の良心と尊厳に対する犯罪」だと述べている。しかし、この世界はチベット全土の状況を目にし、チベットの中心都市ラサの状況を目にしているというのに、アパルトヘイトを採用していた国家と政府にかつて見せた抵抗を忘れてしまっているのではないか?

 当局はアパルトヘイト方式でチベット人を徹底的に調べ上げ、排除することにより、焼身抗議を撲滅できるだろうか?今年3月30日にバルカム(四川省アバ州マルカム県)で焼身抗議した僧侶チメ・パルデンは昨年ラサを巡礼した。だが、携帯電話に尊者ダライ・ラマの写真データを保存していたため、軍警に1カ月以上拘束されたのだった。

2012年6月13日  (RFA特約評論)


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2012年06月24日

<貴重ビデオ>20日焼身のガワン・ノルペルが付き添いの僧侶に語る

先の20日、ジェクンド州ティドゥ県ザトゥで焼身した2人の若者の内、ガワン・ノルペルはその場で死亡せず、その後チベット人たちより近くのシルカル僧院に運び込まれた。以下のビデオは昨日亡命政府に届けられたものである。ガワン・ノルペルが僧院内に運ばれた後、見守る僧侶に話掛けている。

チベットの現状を嘆き、焼身の目的を語り、チベット語を守るべきことを訴えている。彼を匿い、治療を施してくれた僧院に対し感謝の意を示す。また、一緒に焼身したテンジン・ケドゥップの消息を何度も尋ねる。それに対し、傍の僧侶は「彼は大丈夫だ、家にいる」と本当のことを伝えない。彼はその言葉を疑い、「本当は死んだのではないか」と泣きながら繰り返し何度も尋ねている。



以下、ビデオのコメント欄に中国語で内容要約が書かれていたものを@uralungtaさんに頼み訳してもらったもの。(彼のチベット語は訛が強く、私にははっきり聞き取れなかった)

ガワン・ノルペルは言う、(録音)「………言論の自由がありません、すべては自由のためです……国の言葉……自由……だから私は……私自身に炎を放ったのです……火を放ったのです! 私の国(プーカンチェン=雪域のチベット)ではいったいぜんたい何が起きているんですか? 私のプーカンチェンはどうなっているんですか?(号泣)……私の義兄弟のテンジン・ケドゥップはどうしていますか? ....私と義兄弟のテンジン・ケドゥップ(がしたこと)は、ほかでもない、プーカンチェンのためなのです。私たち2人はプーカンチェンのために、……もし私たちに自由がなく、言語文化も民族特性もなくなってしまったら、それは私たちの恥辱です、だから私たちは必ずよく努力して学ばなくてはならないのです。一つの民族にとって、自由と言語と民族特性と文字などは絶対に必要なものなのです。もし言語と文字がなくなってしまったら、あなたはいったい何民族なんですか、ギャ(漢人)ですか、プー(チベット人)ですか?」


この後、Tibet Netに会話の全訳が英語で発表された。http://tibet.net/2012/06/23/new-video-footage-of-latest-self-immolation-incident/

ガワン・ノルペルを匿っていたシルカル僧院には、この後部隊が到着し、彼は西寧の軍病院に運ばれた。僧侶たちはどうしても付き添いたいと懇願し、2人が西寧まで付き添った。しかし、病院には入れてもらえず、現在の彼の容態は不明である。(この部分参照21日RFA英語版http://www.rfa.org/english/news/tibet/hospitalized-06212012160109.html

焼身後、その場で死亡したテンジン・ケドゥップの遺体は同じくシルカル僧院に運ばれ、僧侶たちにより法要が行われた。予定では慣習通り3日後の23日の11時に葬儀が行われることになっていたが、22日に役人と軍隊が僧院に現れ、「すぐに葬儀を行わない場合には強制的に遺体を持ち去る」と言われ、仕方なく23日の早朝5時に葬儀が行われたという。(VOT放送より)

当局は2人の焼身の写真やビデオがすぐに外国に送られたことを知り、これを行った者の捜索を始めた。その場にいたと思われるチベット人やシルカル僧院僧侶たちに対する尋問が続いているという。

2人の家族、親戚、友人が拘束され、シルカル僧院は厳重な警戒の下に置かれている。

ザトゥには軍が増強され緊張が高まっている。

その他参照:23日付けRFAチベット語版http://www.rfa.org/tibetan/otherprograms/newsanalysis/sound-bite-of-ngwang-norphel-06232012123715.html

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2012年06月23日

ウーセル・ブログ「炎の中のサカダワ」

6月19日付けウーセルさんのブログより。

原文:http://woeser.middle-way.net/2012/06/blog-post_19.html
翻訳:@yuntaitaiさん

415545_338883952848281_100001800375079_841650_1590722171_o (1)写真はフェイスブックから

 今日6月19日はチベット暦4月の1カ月間にわたる「仏月」、サカダワの最後の1日だ。今年はこれまでのチベットの歴史にない炎の中のサカダワだった。



◎炎の中のサカダワ

 サカダワに入る前から既にラサとチベット全土のムードは昔よりも緊張していた。土着の伝統的な祭日であれ、押し付けられた外来の祭日であれ、流行の言葉を使えば全てが実質的に敏感日となっている。

 敏感日のほかに敏感月もある。例えば3月は敏感月だ。1959年からの数十年間、多くの大事件はいつも3月に起きてきたからだ。1カ月にわたるサカダワももちろん敏感月だ。信仰者として敬虔に仏事を執り行う数千数万のチベット人の精神は、物質至上主義の無信仰者が全く持ち合わせていないものだ。喜んでそれを見ようとは全く思っていない。

 案の定、チベット日報はサカダワの2日目、チベット自治区の紀律検査委員会と監察庁の通知を突然載せた。「数日前に出されたもの」と説明しており、サカダワ前に発表されていたのは確かだ。通知はサカダワを「反分裂闘争」と結びつけ、「反分裂闘争にはどんな動揺も決してあってはならない」「サカダワ期間中、全自治区で大きな事件も中規模の事件も起きないように。小さな事件もできるだけ起きないように」と求めている。こうした戦闘的な発言は、本来は宗教的な意義を持っている祝祭日をただちにきな臭いものに変えた。

 見たところ、通知は「党員幹部」「退職した党員幹部」「共産党員、国家公務員、学生」と共産党員の「家族と周囲の者」などに向けられている。実際、対象の範囲は広く、言葉は威嚇に満ちている。ごくごく短い通知の中で、「サカダワなどの宗教活動に参加しない」、または「参加してはならない」と3回も書かれている。「(参加の事実が)明らかになれば、厳粛に当人を処分した上で、所属組織の指導者の責任を追及する」とまではっきり書いている。

 興味深いのは、警告されている「党員幹部」「退職した党員幹部」について、「ダライに追随する」だけでなく「公然とダライに追随」「出国してダライを拝んだ」などと通知が何度も叱責し、「法に基づいて厳粛に処理する」と表明していることだ。これは恐らく、チベット人に対するダライ・ラマの求心力を当局がメディア上で初めて公に認めたものだろう。体制内の公職を持つチベット人であっても、「追随」する気持ちを持つだけではなく、「追随」する行動を取ると認めている。これは「反分裂闘争」が実は人心を失っていることを意味する。だから当局はなりふり構わず堂々と、自ら制定した一国の憲法に背き、メディアの場で公然と宗教活動を禁じる指令を出したのだ。

 このことで、3年前の2009年に書いた「今年のサカダワの真相」という文章を思い出した。思い出さなければ、私たちの生活にどれだけ多くのでたらめがあるのか、奪われる者の反抗はどれだけ勇敢なのかということに気付けなかった。当時メディアで禁令は出されなかったが、会議による伝達などのやり方で「禁令は各レベルを含んでいた。古くさい主張の繰り返しだが、そこに含まれる恫喝と恐怖はチベット人だけが身をもって理解していた」。だが、チベット暦4月15日のあの日、カムパを中心とする200人以上のチベットはポタラ宮に向かって「ラギェロー!(神々に勝利を)」と叫んだ。これで牢獄につながれたチベット人もいた。

 そして今年のサカダワの6日目、神聖なジョカンと鎮圧の任務を負うバルコル派出所の間で起きた出来事だ。紛れもない巡礼路であり、商業地区、観光スポットでもあるため、厳戒態勢の軍警がすき間なく配置されているバルコルでの出来事だ。2人の若者が、ラサで働くアムドのチベット人が、炎に身を包んで抗議した。1人は犠牲になり、1人は負傷したが、けがの程度は分かっていない。これは実質的に、命を代償にして今日のチベットの状況を明らかにした行為だ。良心を持つ人々は悲しんでやまず、悪事を働く者は狂ったように報復する。

 直後のサカダワ9日目、子ども3人の母リキョがアムドのザムタンで焼身抗議し、犠牲になったという痛ましいニュースが伝わってきた……。しかし数日後、官製メディアはまたもや次のようにニュースをでっちあげていた。「チベットのサカダワが最高潮を迎え、万単位の信徒がコルラし、仏を拝んでいる」。まるで何も起きていないかのように。まるでチベット人は「幸福感最強」であるかのように。

 2012年6月7日 (RFAチベット語)


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2012年06月21日

ダライ・ラマ法王とスーチー女史が感動の初会談

224852_430860190281397_644428358_n悲しいニュースばかり続く中で今日は特別に嬉しいニュース。

とうとう、ダライ・ラマ法王とアウンサン・スーチー女史の会談が実現した。私は二人がお会いになる前にもツイッターに「今、スーチーさんはアイルランド、法王はスコットランド。近いな〜」と、その次には「今、スーチーさんも法王も同時にロンドン。会わないのかな〜」なんて書いてたが、一昨日の朝、これが本当に実現したのだ。

dalailama.com http://www.dalailama.com/news/post/812-a-day-of-meetings-and-talks-in-london#.T-J2WLuxHTg.twitter によれば、会談は19日朝、スーチーさんの方から法王を訪問するという形で(予定外に)実現したという。約30分間行われたという会談の内容についての詳細な報告はまだ公表されていないが、法王がスーチーさんに対し「あなたの勇気を心から賞賛している。こうしてお会いでき、とても嬉しい」とおっしゃったとのこと。

また、法王は「あなたのお父様が大いに貢献されたように、あなたも人道に対する大いなる貢献をされることであろう。あなたが人生の目的を達成されることを願う」という趣旨の話をされたという。

525851_323160501104124_167308762_n奇しくも、この日はスーチーさんの67歳の誕生日であった。16日にはノルウェーで感動的なノーベル平和賞のスピーチを行われ、ヨーロッパ各国を巡り首脳たちに会い、母校であるオックスフォード大学からは名誉博士号を送られた。20数年を経て自由の身になり、初めての外遊は実に実り多いものとなった。そして、お誕生日に法王と会談。感動のツーショット。この写真はチベットとビルマで圧政の下に苦しむ人々をはじめ、世界中の自由と正義を愛する人々を多いに勇気付けたことであろう。

法王は他のノーベル平和賞受賞者とともに、スーチーさんが軟禁されている間に何度も彼女の解放を世界に訴えている。

この辺の話は早稲田の石濱先生が今日ブログに載せられていたので、是非読んで頂きたい。>http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-621.html

389742_10150950761774888_276060842_n法王も今回のたった2日間のロンドン訪問は特に実りの多いものであった。19日にはスーチーさんと会談した他、ウエストミンスター大学で講演し、ロイヤル・アルバート・ホールで講演し、BBCとインタビューし、56カ国の大使館関係者と会い、野党党首のRt Hon Ed Milliband等の政府要人と会った。20日にはLondon School of Economicsで講演し、Westminster Abbeyで各宗教の代表的宗教者たちと会い、大勢の議会議員と会い、そしてプリンス・オブ・ウェールズとコーンウォール公妃にお会いになった。

法王ロンドン訪問中の写真は>http://dalailama.com/gallery/album/0/188

610xウーセルさんがツイッターにアップした「法王とスーチーさんのツーショット」を嬉しそうにスマホで撮影するアイ・ウェイ・ウェイさん。









20120621-00000004-jijp-000-view母校オックスフォード大学から名誉博士号を授与され、喜びのチャーミングなビルマ笑顔を見せるスーチーさん。






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2012年06月20日

<速報>今日 ジェクンド州ザトゥで2人の若者が焼身抗議 遺書を残す

jpg-large追加写真:チベットの国旗を持ち焼身する2人。

なお、動画もVOAの@dreamlhasa により先ほど発表された。http://yfrog.com/9dfupz

今日現地時間午後3時半頃、カム、ジェクンド(ユシュ、ケグド、玉樹)ザトゥ(རྫ་སྟོད་ 雑多)県ザトゥで2人のチベット人若者が焼身を行った。今のところ(インド時間午後5時半)1人の死亡が確認され、もう1人は生死不明(追記:病院に収容されていると)。

Tibet Times チベット語版http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=6199 及び
VOT中国語版http://www.vot.org/?p=12575 参照。

<追記>当ブログ管理者のライブドア社から、「死体等の写真を載せてはいけない」とのことで、一旦アップしたブログが消されていた。仕方なく、遺体の写真は削除した。全ての写真を確認したい人は元ソースにアクセスして頂きたい。

001焼身した2人の名前はンガワン・ノルペル(ངག་དབང་ནོར་འཕེལ་22)とテンジン・ケドゥップ(བསྟན་འཛིན་མཁས་གྲུབ་24)。テンジン・ケドゥップの死亡が確認されたという。

ンガワン・ノルペルはアムド、ンガバの出身。父の名はラクパ・ドゥンドゥップ、母の名はツェリン・ヤンチェン。数年前にザトゥに移住していた。

テンジン・ケドゥップはジェクンド州ティドゥ県ニャンツォ郷出身。父の名はレクドゥップ、母の名はキンゾム。シルカル僧院の僧侶であったが2006年に還俗。

彼ら2人は遺書を残していた。以下、Tibet Times に発表されていたその遺書を訳す。
「我々2人は、これまでチベットの宗教や文化に対し少しも貢献できなかった。また経済的にもチベット人を豊かにする仕事ができなかった。だから、今回自分たちができることとして、チベット民族と特にダライ・ラマ法王が千年万年と生きられること、またダライ・ラマ法王がチベットにご帰還されることを願い、我らの身を捧げる。我々のようなチベットの若者にお願いする。チベット人同士で喧嘩しないと誓ってほしい。みんな連帯し一団となりチベット人としての誇りを守ってほしい。また、そうできると確信する」

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0049死亡が確認されたテンジン・ケドゥップ(24)

これで、チベット内地の焼身抗議者の数は41人となった。内死亡確認は31人。

2人は焼身の際、チベット国旗を手にしていたという。

VOTによれば2人は焼身しながら、「チベット独立!法王帰還!」と叫んだという。


追記:テンジン・ケドゥップの出身地であるティドゥ県では、今年2月8日にラ僧院僧侶ソナム・ラプヤンが焼身している。彼の消息は今も分かっていない。参考過去ブログ>http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51729238.html


0062ンガワン・ノルペル(22)

ンガワン・ノルペルの出身地であるンガバはご存知の通り、これまでもっとも多くの焼身者を出している場所である。



















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2012年06月19日

焼身・死亡 タムディン・タル氏の遺書

AvrsjQFCEAIPKsd祭壇に掲げられたタムディン・タル氏の写真。

15日にチェンツァの県武装部の前で焼身し死亡したタムディン・タル氏は、遺書を残していた。

短い遺書だが、焼身の目的がはっきりと記されている。

遺書は今日付けのTibet Times より>http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=6188

以下、遺書の訳:
「ラマ、守護尊、三宝に帰依いたす。世界に平和が実現されることと、ダライ・ラマ法王がチベットにご帰還されることを願い、チベットの国家が自らの領土を治めるために、私は自らの身を灯明と化し捧げる」

なお、タムディン氏の年齢は最終的に64歳と確認された。これまでの焼身者中最高齢である。
彼の家族は数年前に政府の「遊牧民移住計画」に従い、チェンツァタン郷レワ村の牧草地帯からチェンツァ市街近くに移住させられていた。

妻チュモ・タル(54)との間に3人の子供がいた。長男のタムディン・キャップ(33)は別に所帯を持っており、長女のドルジェ・ツォ(28)は同居し、次女のブンタン・ドルジェ(20)は市内の民族中学校に通っている。タムディン氏は普段、次女の面倒を見たり、マニ堂に通ったりしていたという。

481206_10151029276624919_1312430777_nタムディン氏の葬儀は15日夕方行われた。

当局の厳しい監視にも関わらず、数千人のチベット人が哀悼と連帯を示すために参列した。














_DSC7899タムディン氏焼身、死亡の報を受け、ダラムサラでは夕方、哀悼と連帯を示すキャンドル・ライト・ヴィジルが行われた。

集会で彼の焼身について、チェンツァ出身のリンチェンは「彼は身体にガソリンをかけただけでなく、ガソリンを飲んでいた。また、焼身後部隊が運び去ることを阻むために、身体には鉄条網を巻き付けていたという。現在、チェンツァは緊張しており、現地の人たちは『今、電話を掛けないでほしい』と言っている」と報告した。

_DSC8081連帯を示す、ヴィジルはダラムサラだけでなく、インドのセトルメント各地で行われた。

亡命政府と亡命議会はそれぞれ15日中に声明を発表し、彼の死に対し「深い悲しみ」を表明するとともに、中国政府に対し「続く焼身抗議を終わらせるために、チベット人たちの真の苦しみを理解し、速やかに間違ったチベット政策を見直すこと」を強く要求した。


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2012年06月17日

カム旅行記 最終回 ミニアコンカ>ダルツェンド>成都

_DSC5760ミニアコンカ麓の雪渓で一日中遊び、暗くなって腹ぺこ、ヘトヘトになりCamp 3にたどり着く。まずは靴等ずぶ濡れのまま、杖を持ってレストランに駆け込む。いつものようにメニューはチンプンカンプンなので、厨房に入ろうとするが、これが素直に許して貰えない。いつもと違い、ちと高級なレストランだったかららしい。押し問答の末、諦めて出る。(「ここはチベットだろう、メニューぐらいチベット語で(も)書け」と言いたくなる)

宿のレストランでうまくて辛くないキノコスープを頂くことができた。このスープが今回の旅行で一番旨かった。一般に中国料理は旨いなんて言われるが、私は本土で旨い中国料理を食った経験は数えるほどしかない。私には塩と油とトンガラシが多過ぎる。中華は中国以外で食うのがよろしい。

次の日の早朝も同じようにホテルの屋上に登り、ほぼ同じような山の朝焼けを撮る。この日も腹出中年を中心に中国人アマカメラマンが30人ほど集っていた。こんなことするチベット人はいないようだった。

_DSC5777のんびりCamp2に下りる。ここには立派な温泉あり。立派過ぎて温泉代120元という。ケチな親子はまたしてもここでたじろぎ、「入るべきか、パスすべきか?」の話し合いを行う。というかこの時現金がほぼ底をついており、これに入ると残りは100元程となるのだった。その上バスローブ代、貸し水着代が30元とか、、、「なにバスローブとかパンツはなくていいじゃん」と日本人。「ここまで来て入らない訳には行かないだろう」となけなしの金をはたき入ることに。

_DSC5781源泉は相当熱いらしかった。岩サウナもある。温泉は湧いてるのにこのような芸ができないインドが情けなく思い出された。上部ほど温度が高い野外温泉池が段上に続いていた。






_DSC5790逆立ちして喜びを表す若いの。











_DSC5792朝っぱらから温泉に入る中国人はいないようで、貸し切り状態。

旅の疲れというか前日の疲れを癒す。

「カム旅行記」もこれが最終回なので、少し今回の旅の印象をまとめてみる。今回は2008年以降、そして最近も抵抗運動のニュースが続いた地域を回った。もちろん抵抗運動や焼身はンガバを中心にカム、アムド全域で行われているのだが、時間の制限もありタウ、ダンゴ、カンゼしか行けなかった。もっとゆっくり旅すれば、友人、知り合いも作れ、色んな話ができただろうと思う。

_DSC5804この辺の猿。ダラムサラ辺りの猿に比べ顔の毛が長い。

タウ、ダンゴ、カンゼともに街中の至る所で警察車両を見かけ、武装警官隊の行進にも出会った。日本はもちろんインドに比べてもその数は異常に多い。当局が脅しによりチベット人の口を塞ごうとしていることは明らかだった。それでも、チベット人の日常生活は旅行者として通りすがる限り、平常通りのようにも見えた。どんなことがあろうとも金を得るための生活は続けなければならないのだ。

_DSC5814この辺の猿も温泉好き。

外部の人間には容易に本音を話すことはない。しかし、一旦、信頼を得て部屋に入るといろいろなものを見せ、心の内を明かす。多くの人たちが法王の写真を隠し持つか、おおっぴらに部屋に飾っている。法王の法話のCDを持っている人も多い。RFAやVOAの放送を密かに聞き、チベットの内外で何が起っているのかをちゃんと知っている人が多いのには驚く。情報社会の発達が彼らの心の団結に役立っていることは確かのようだった。いくら禁止されようとも、危険と知りながらも、或はそうであるから一層カムの人々は法王の写真を守り、法王へのあこがれを募らせ、チベット人意識を高めているように感じた。

_DSC5819名前不詳の初めて見かけた花。

幹線道路は急速に整備され、中国本土から物、文化、軍隊が容易に流れ込み、チベットからは冬虫夏草、鉱物、材木、人材が本土に運ばれる。遊牧民は定住させられ、金銭至上主義の中国的物質文明社会が急速に広がっている。若い世代のチベット人たちは伝統的宗教価値観と物質文明価値観との間に挟まれ特に悩み多いのではないかと推察された。このような環境の中で、ことさらにチベット的アイデンティティーを破壊しようとする中国の政策は反って若者中心に反感を買うばかりと思われた。

_DSC5825同じ峠を越えてダルツェンドに帰る。タクシー代は後払い。

どの街でも、街を見下ろす丘には大きな僧院がある。タウ、ダンゴ、カンゼの場合は全てゲルク派。これらの僧院がチベット人を結びつける要、アイデンティティーの核であることは中国政府でなくても一目瞭然に見て取れる。法王への忠誠心が特に強いこれらの僧院が当局の弾圧のターゲットとなるのは自然だ。それに反発し、先頭に立って僧侶たちが抵抗の行動を起こすのも自然だ。

よく考えてみれば、これらは全く不要な争いなのだ。チベット人はわざわざ問題を起こし、街の人々を緊張状態の中に暮らさせたいなどとはまったく思っていない。何度も言うが、挑発行為を行っているのは中国当局なのだ。

_DSC5840ダルツェンドの街を通過し、北の景勝地ムグツォ(木格錯、野人海)に向かう。(「ムグ」とはこの辺で所謂イェティのような野人をさす言葉。沢山の美しい湖があるとされる高原)。写真は途中の民家。

中国には弾圧を促進するような軍部や役人の利害が絡んだ構造的問題がある。政府が率先した嘘・偽善と暴力が日常的文化と化してしまっている。このような悪しき文化流入に晒されながらチベット人は密かに法王の教えを聞き、それを指針として、必死に自分たちの善なる精神文化を守ろうとしている。

_DSC5842チベット・中国折衷様式の民家。

残念ながら、中国が容易にその強硬路線を変更し、態度を変えるとは思われない。弾圧が続く限り、チベット人の命がけの抵抗も終わらないであろう。




_DSC5855ムグツォの入り口というゲートに到着する。実は我々2人はこの日ムグツォに泊まる積もりだった。が、ゲートには「この先、入場料150元。バス代100元」と書いてある。その上、ムグツォには宿泊施設はないという。そんなことは手持ちのガイドブックには書いてなかった。昔とは違うのだ、今じゃすべて見事に観光化され、貧乏旅行者がてくてく歩いて湖を巡るという時代は終わっていたのだ。ついでに、湖のほとりに住んでたチベット人も全員追い出されたことだろう。

ゲートの傍にある観光案内所の入り口にはしっかり警官が数人立ってたりして、「もういいやね。帰ろうぜ」ということになった。

_DSC5876もう紹介したが、ダルツェンドの街に帰った後、夕方見かけた軍隊トラックの列。

撮った写真が見るからず、紹介できないが、この日の夕方、ダルツェンドの広場ではチベット人が大勢集まりコルシェ(輪舞)をやってた。その数500人ほど。盛大であった。この街にもチベット人がこんなにいたのかと驚くほどだった。

_DSC5887ダルツェンドから成都への道すがら、このようにサイクリングでチベットに向かう若い中国人を大勢見かけた。列を組んできつい坂をせっせと登って行く。全員完璧サイクラースタイルできめている。これも中国人チベット制服(征服)組の一種のように思えた。

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2012年06月16日

ンガバ:政府が提供した家の鍵を受け取らないと 3年の刑

735e8817上ンガバ、アンドゥ郷付近の民家。(グーグルアースより)

ンガバの北にあるアンドゥ郷(ཨ་འདུས་)では今年4月半ばに、役人の表彰式に立ち会わされた村人たちが、「汚職役人を表彰するとは何事か!」と抗議の声を上げた。これに対し当局は待機させていた軍隊と武装警官隊を使って村人に襲いかからせた。100人ほどが負傷し、15〜20人が拘束されるという事件があった。詳しくはブログ>http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51741158.html

この地区ではその他、政府が住民の聖なる共有地を軍の駐屯地にしたり、政府の援助だと言って詐欺まがいの集合住宅開発が行われていた。

昨日、ダラムサラ・キルティ僧院リリースが明らかにしたところによれば、この時拘束されたチベット人の内2人に刑期が言い渡されたという。その罪状は何と、「政府が提供した家の鍵を受け取らなかった」からだという。

6月2日、ンガバ県人民法院はアンドゥ郷ギェルデ村のプルテン(ཕུལ་བསྟན་40)に「政府が提供した家の鍵の受け取りを拒否したとして」3年の刑期を言い渡した。彼には妻と4人の子供がいる。同じくギェルデ村のギュルコ(འགྱུར་ཁོ་37)には2年の刑。

この時拘束された者たちの多くはすでに解放されたが、ペギェーセンゲ村のペマは判決もでないまま未だ、ンガバで拘束されているという。

その他、同リリースは去年10月17日に拘束され、行方不明であったキルティ僧院僧侶ロプサン・プンツォ(བློ་བཟང་ཕུན་ཚོགས་29)が、バルカムの裁判所で最近8年の刑期、4年の政治的権利剥奪を言い渡されたと伝える。罪状不明。

また、5月27日にラサで焼身抗議を行ったンガバ出身のタルギェの父親は、息子の消息を知るべく、ラサに向かったが、結局、息子の生死も居所も知ることができず、ンガバに帰るしかなかったという。

参考:6月15日付けTibet Timesチベット語版http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=6174

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2012年06月15日

<続報>焼身・死亡したタムディンの葬儀が行われようとしている

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追加写真。炎に包まれるタムディン・タル。後ろの立て看板には「**人民武装部」と書かれている。

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追加写真2(6月18日)。仏壇に置かれた彼の写真。彼の葬儀は15日の夜行われ、数千人のチベット人が追悼したという。

彼は焼身後、保安部隊に容易に運ばれないようにと、身体に鉄条網を巻き付けていたと。

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追加写真。タムディン・タルが焼身した場所には、その後カタやローソクが捧げられた。
VOAhttp://www.voanews.com/tibetan/news/A-Tibetan-Normad-Dies-After-Self-immolation--159206265.html によれば、タムディンは最近、ンガバやゴロ等に巡礼に出かけていたという。そのとき、各地でチベットのために焼身した人々の話を聞いた。家に帰った後も周りの人々に、焼身者たちの話を聞かせ、「彼らはチベットのために命を捧げた勇敢な人たちだ」と焼身者を讃えていたという。

00003<速報>としてお伝えした後、Tibet TimesやTCHRD上に新たな情報や写真が発表されたので、これをお伝えする。

写真はすべて先ほどTibet Times
http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=6170に発表されたもの。

現地時間の12時頃、遺体は遺族の関係者に引き渡された。遺族の了承を得てチェンツァで葬儀が行われようとしている。

036現在、大勢の僧侶が集まり法要が行われ、チベット人たちはカタを捧げるために集結している。

彼の年齢は最初40歳と発表されたが、後にTCHRDは50歳代、Tibet Timesは60歳近くと訂正している。(追記:VOTは65歳とする)

彼は家族のほとんどが冬虫夏草の採集のために出かけた後、学校に通う1人の子供の面倒をみるためにチェンツァ市内に住んでいた。

彼は元々遊牧民で、最近政府の「遊牧民移住計画」に従いチェンツァタン郷に移住させられていたという。

0125集まったチベット人たちを監視する保安部隊。












photo













securedownload1焼身・死亡したタムディンに敬意を示すために集まった人々。

参照:TCHRDリリースhttp://www.tchrd.org/index.php?option=com_content&view=article&id=239

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<速報>今朝 アムド、チェンツァで焼身・死亡

a84052083fa4a4ab0b7b8246チェンツァ市街。(百度百科より)

Tibet Times チベット語版http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=6168その他が伝えるところによれば、今日早朝6時半頃、アムド、チェンツァ(གཅན་ཚ་རྫོང་青海省黄南チベット族自治州尖扎県尖扎)の武装警官キャンプ前でタムディン・タル(རྟ་མགྲིན་ཐར་)が中国のチベット政策に対する抗議の印に焼身した。

575644_319299208庁舎前で遺体の引き渡しを要求するチベット人たち。

部隊が駆けつけ火を消した後、彼は拘束された。その後、地元のチベット人たちは彼を家族の元に引き渡す事を要求し庁舎前で声を上げた。午前11時頃、当局はこれに同意する回答を出したというが、その後どうなったかはまだ伝わっていない。

彼の生死についても、「病院に運ばれたのち死亡した」という情報があるが、未だ確認されていない。

追記(インド時間12時半):中国当局がタムディン・タルの死亡を確認、発表した。http://www.china.org.cn/china/2012-06/15/content_25657298.htm

追記2:現地時間の12時頃、遺体はチベット人側に引き渡され、故郷に送られた。
彼は遊牧民で最近政府の「遊牧民移住計画」に従い、チェンツァタン郷に移住させされたという。

現地では軍隊が増強され、緊張が高まっている。

ダムディン・タルはチェンツァ県チェンツァ郷ロワ村(གཅན་ཚ་རྫོང་གཅན་ཚ་ཐང་ཞང་ལོ་བ་སྡེ་བ་)出身。40歳前後と伝わっている。

チベット本土での焼身抗議はこれで39人目。死亡確認30人目。

チェンツァ県の位置はグーグルマップ>https://maps.google.co.jp/maps?q=35.750135,101.916046&hl=ja&ll=35.749856,101.916046&spn=0.302037,0.435333&sll=36.5626,136.362305&sspn=37.941583,55.722656&brcurrent=3,0x0:0x0,0&t=m&z=11

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2012年06月14日

ウーセル・ブログ「チベット人焼身に関するCCTVの釈明」/中国側発表貴重ビデオ付き

ウーセルさんは今月9日のブログでCCTV(中国中央電視台)が5月7日の午前2時過ぎに流した「チベット人焼身抗議に関する特集番組」についてコメントされている。中国官製メディアが制作したものなので、ダライ・ラマと亡命政府を非難するプロパガンダであることは明らかだ。しかし、映像の中には亡命側に伝えられないものも沢山あり、映像自体は貴重な資料と言える。中国では見る事ができないようだが、Youtubeにアップされた映像は外では見る事ができる。ウーセルさんのブログには言及されるだけでURLは紹介されていなかった。これを添付するので、是非現物をみて、真実はどこに有るのか自分で判断してほしい。

原文:http://woeser.middle-way.net/2012/06/cctv.html
翻訳:@yuntaitaiさん
◎チベット人焼身に関するCCTVの釈明

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写真説明=1枚目と2枚目の写真はCCTV英語チャンネルが放送したこの特集番組の画像。3枚目はYouTubeにアップされた中国語版番組の画像。

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 CCTV(中国中央電視台)は5月7日午前2時過ぎ、チベット人焼身抗議に関する中国語版と英語版の特集番組をたいそう神秘的に放送した。これは中国の官製メディアが当局の代弁者としてチベット人焼身を描いたもので、長さは41分あった。ネット仲間は「真夜中に放送……つまり一般の国民には見せないということか」とすぐさま疑問を投げかけた。翌日、CCTVは外国向けのチャンネルで、この番組をフランス語とスペイン語、アラビア語、ロシア語で放送した。しかし中国本土では受信できないため、中国国内には番組を見られた人はほとんどいないと言っていい。

 中国インターネット電視台(http://www.cntv.cn/)はネット上でこの番組を流さなかった。だが3日後、YouTubeに中国語版と英語版の番組がアップされた。画面にはCCTVのロゴが入っておらず、CCTVが自らアップしたものと思われた。しかし誰もが知るように、中国でYouTubeへの接続は遮断されている。この番組は今のところ、中国国内の各動画サイトでは見つかっていない。



part 2 http://www.youtube.com/watch?v=6H1eQpGgxFs
part 3 http://www.youtube.com/watch?v=UKF5sTRzzBw&feature=relmfu
part 4 http://www.youtube.com/watch?v=lvN-gCYTkII

中国語版 part 1 http://www.youtube.com/watch?v=3zcgwNYdjhA&feature=related他。

 ここから分かるのは、番組が対外的なプロパガンダであり、中国語版も主に国外の華人に向けられているということだ。チベット研究者のエリオット・スパーリングは「チベット人の焼身事件は対外的なプロパガンダの戦線になっている」と話す。中国政府は2009年以降、焼身による決然とした抗議の増加を目の当たりにし、自分たちにとって有利でメンツが立つ釈明を世界に聞かせる必要があった。「ダライ集団と焼身暴力事件」という事実をねじ曲げた番組名から、この事はすぐに見て取れる。

 CCTVは現時点で、中国国内の視聴者向けにはこの特番を放送していない。2008年春にチベット全土で抗議が爆発した後、CCTVはすぐに「ラサ略奪焼き討ち暴力事件の記録」という番組を製作した。5月の連休に合わせておごそかに放送、再放送し、DVDまで発売した。民族工作を退職した公務員の言葉を借りれば、この強大なプロパガンダ攻勢の生み出した効果は次のようなものだ。「まだ修復できた民族間の亀裂を徹底的に広げた。覆水盆に返らず、だ」

 では、深い策略を持つ当局はどんな考えからチベット人焼身抗議の特番を国外で放送し、国内では放送しないのか?漢人を中心とする中国人がチベット情勢をより理解し、「現在はチベット族人民の歴史でこれまでにない発展と幸福の時期だ」という当局の宣伝に疑念を持たれないようにするためだろうか?これは理由の一つに違いない。しかしより大きな理由は、チベットに暮らす数百万人のチベット人、そして同様に当局から恐れられているウイグル人やモンゴル人などの民族を刺激することを心配したからに違いない。この特番はチベット人の焼身抗議者13人を取り上げただけだが、焼身抗議の映像と写真が初めて公にされ、焼身するチベット人の巨大な勇気を見せつけた。一方、CCTVのさまざまな釈明は穴だらけで、ただあざ笑われただけだった。

 アムド地方のサンチュ(現在の甘粛省甘南チベット族自治州夏河県)から届いた情報によれば、「ダライ分裂集団」がチベット人の焼身抗議を計画しており、焼身者全員の人格に問題があったとするプロパガンダ番組が今年2月上旬に現地で放送されていた。僧院や村、学校から代表を出し、番組を鑑賞し、(焼身を)批判するよう現地の役人が求めたが、観衆の反発は大きかったという。実際、アムドは焼身抗議者の最も多いエリアで、31人に達している。番組の放送後、2月に6人、3月に11人、4月に2人が焼身抗議した。5月には、3人の子どもを持つ母親を含む3人のチベット人が焼身抗議している。このうち2人の焼身抗議はラサで起きた。最も重要な仏教の大祭サカダワの6日目のことだ。ラサで働いていたアムドの青年2人が、神聖なジョカンと圧迫を職務とするバルコル派出所の間で焼身抗議した。

 サンチュなどを対象にしたプロパガンダ番組はテスト放送だった可能性がある。多くの場面が共通していたというから、CCTVの外国向けプロパガンダ番組のひな形だったはずだ。だが、CCTVの番組はネット仲間にこう論評されていた。「40分のCCTVプロパガンダ番組を見終わった。音声を消せば反政府ニュース番組に変わると思った。こんな諸刃の剣のプロパガンダ番組をつくった目的が分からない」。この番組を製作した目的ははっきりしている。その釈明がでたらめで卑劣だと証明するためだ。

 2012年5月31日

(RFA特約評論)


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2012年06月13日

カム旅行記 その13 ミニアコンカ後編

_DSC5572次の日の朝5時半に起き、ホテルの屋上に上がる。朝日に映えるミニアコンカが見えると聞いたからだ。屋上には既に、ニコンやキャノンの立派なカメラを三脚の上に置いて構える中年中国人が大勢いた。

だけど、正面に見えたのはミニアコンカではなく、中国語で金銀山とか日照金山と呼ばれる6368mの山であることが判明。日本人が書いたネットの中には天名峰(6416m)と書かれているのも見かけた。

雲もなく綺麗だったから彼らに混じり沢山シャッターを切る。

_DSC5575この金銀山の左手に見えるのは、これもチベット名が分からないが中国名で神鷹峰または三連峰、6468m。

この日、朝一、8時発のケーブルカーに乗り、この金銀山の麓を目指すことになった。
結局、実になが〜〜く、しんどい一日となるのである。



_DSC5618ケーブルカーに乗り、しばらくすると右手、氷河の奥にミニアコンカ、7556mを拝む事ができた。

このブログではミニアコンカ(昨日までミニアコンガと書いてた)と日本で呼び慣わされてる名前で表記しているが、元のチベット語はམི་ཉག་གངས་དཀར་である。発音はミナック・ガンカルまたはミナ・カンカルで意味は「ミナック地方の雪山」。この地方が「ミナック(黒い人)」と呼ばれているのはなぜだろうと考えるに、肌の色が黒い人というより、中国のことを、その服が黒いということからギャナ(ック)と呼ぶから、この地方の人が昔から中国の影響を受け黒い服を着る人が多かったか、中国人が多かったということではなかろうか?ただの推測であるが。

_DSC5635確かに回りの山々からは抜きん出て高く、真っ白な雪に覆われている。

この山に挑戦し、日本人が大勢亡くなっている。1981年には北海道山岳連盟登山隊8名が滑落死している。1982年には日本の登山隊2名が遭難し、その中の1人である松田宏也氏が19日後に奇跡的に生還。「ミニヤコンカ奇跡の生還」という本を書かれている。地元のチベット人に助けられたそうだ。

他に外国人も大勢この山に挑戦し死んでる。天候不安定で、簡単でない山のようである。

_DSC56296人乗りケーブルカーは立派で安心して乗ってることができた。それもそのはず、すべてオーストリア製であった。乗り賃は150元。終点は3550m。

終点はちょっとした公園になってて、わざとらしくも見えるチュテン(チベット式仏塔)とか仏像があった。普通の人たちはここが終点でまたケーブルカーに乗って帰るらしかった。

しかし我々は最初はここまでも歩いてくる積もりだったし、まったく歩いてないというのは物足りない。時間もあるということで、上の方を目指すことにする。 

もっとも、道らしきものも、目標もないのだが、とにかく上の方に歩き出す。


_DSC5634道なんて全くなくなり、この写真のような登りとなる。見えにくいが、写真中央に嬉しそうに手を上げる若いのがいる。経験は上だが、年も上の爺はくやしいが、遅れ気味となる。






_DSC5654写真、左手稜線上にくぼんだ地点があるが、これを峠と見て、若いのが「あそこまで行こうぜ」と言い始める。爺「あほか、あそこは5000mはある、どれだけ掛かると思う。飯もないし、行けても暗くなる前に帰るのは到底無理、無理」。「じゃ、行けるとこまで行こうぜ」と元気がいい。


_DSC5638左手奥がミニアコンカ。












_DSC5646あくまでハイな若いのは、得意の「サンゲ・チャーシャ(仏になっちゃった)の芸」を披露。























_DSC5648ついでに、爺も「あああ、浮いてく〜〜」。











_DSC5664「もういい加減にせい」というも登る事を止めない若いのが写真中央あたりに写ってる。









_DSC5659金銀山がかなり迫ってきた。












_DSC5673ミニアコンカ右手の無名峰。












_DSC5661もう少し季節が夏に近かったらきっとこの辺りは一面のお花畑と思われた。唯一見かけた花はこのイエローポピー。ネパールのランタン渓谷などで沢山見かけた花だ。







_DSC56874000mはとっくに越え、道は安定しない岩と雪穴の連続。天候も崩れ始め、雪も降る。若いのは「腹減った!チョコレートさえあればな!エネルギー切れ始めたぜ」と愚痴る。食料は最初からまったく持ってなく、水も切れ、口にするのは雪ばかり。運動靴の中はびっしょり。さすがに疲れの色を見せ、へたる若いの。

_DSC5715「今日はここまで」と宣言する、爺。











_DSC5719股上まで雪に埋まり、上がれなくてもがく若いの。こんなことがしょっちゅうある。










_DSC5705「ところでケーブルカーの最終は何時だか知ってるの?」と爺。「5時だよ」。「あれはでも上から消してあったよな」。「そうだけど、きっと5時だよ」。

下りは楽と思ったが、そうでもなく、エネルギーも使い果たし、くたくたになる。3時間以上かかって、やっとケーブルカーの見える丘の上に着き、下を眺める。5時前というのに、なんとすでにケーブルカーが動いている気配はなかった。近づくも、店はすべて閉まっており、人影は全くない。

これは、これはちとヤバいかも?もう、遅いし、食い物もなし。ここから氷河を渡って下に降りるのは無理かも、、、と。

それでもケーブルカー乗り場に行くと、そこには保安員のような人が2人いた。通じないのは分かってたが、英語やチベット語とジェスチャーで「どうにか降りれないか?」と頼む。
面倒くさそうな態度だが「2人か?待ってろ」と言ってるらしかった。

ストーブのある部屋に入れられる。目の前には彼ら2人分の夕食の食材が並べられてる。腹が減ってた2人はこれから目が離れない。それでも暖かいストーブで冷えきった足を暖めることができて、ぐったりリラックス。 ケーブルカーはうごく気配はない。「2人のためにわざわざケーブルカー動かしてくれるってことはこの国ではあり得んだろう。今日はここで寝るしかないな、、、」と爺。

6時過ぎになり、ケーブルカーが動く音がした。しばらくして本当に1台だけケーブルカーが到着した。大喜びで、2人の保安員に両手を合わせ感謝の意を示し、乗り込む。

乗った後、爺「おい、ひょっとして着いたとこで、罰金ぐらいは払わさせそうだよな。着いたら、すぐに逃げようぜ!」。「了解!」。

着いてドアが開いたと同時に飛び降りて、走って逃げたが、誰も追いかけて来る様子はなかった。
若いの「中国、案外いいとこだよな。助かったね」。爺「山でほっとく訳に行かなかったのさ。分かってて死なせたら責任問題になるからさ」とあくまで、素直に感謝しようとしない。


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2012年06月12日

カム旅行記 その12 ミニアコンカ前編

_DSC5432カンゼからダルツェンドに帰り、次の日ミニアコンカを目指す。

持ってたガイドブック「旅行人ノート・チベット」はおそらく10年程前のもの。それによれば、ミニアコンカ・トレッキング(の積もりだった)の起点になる磨西という街に行くには、二郎山トンネルの手前まで行き、そこで、バス等を乗り継ぎ磨西に行く、か、或いはダルツェンドから歩いて行くトレッキング道もあると分かる。トレッキング道には「温泉が点在」と書かれている、が、説明はそれだけで、何日掛かるとも書いてない。若いのは「歩こうぜ」というが、距離は60キロはあると見たので、「時間が掛かりすぎるぜ」と車を選択。

乗り合いを探すが、見つからず、300元で磨西までいくという運ちゃんを見つける。だが、その運ちゃんは想定してた道路ではなく、どうもトレッキング道と書いてある方面に向かい始めた。「方向違うんじゃないか?」と聞くと、「大丈夫、今は峠を越えてそのまま行けるんだ」とのこと。歩こうかとも考えてた道に車道が開通しているらしかった。

_DSC7831ミニアコンカ周辺の観光地図。拡大して見てほしい。

ダルツェンド(康定)は地図の北(上)側にはみ出しているが赤線で示されている道路の北の端と思えばいい。最初の写真がちょうど赤い線の北の始まり辺りである。

そこから峠に向かう道がジクザグになってるのがわかるであろう。3900mの峠を越え、地図の右下辺りにある磨西まで車で行く。所要2時間半。天気も回復し、景色は抜群によかった。

主峰のミニアコンカは地図上、左半分の下から四分の一ほどのところ。Mt.Gongga (7556m)と書かれているところがそれだ。周りにも6000m以上の立派な山が沢山林立しているのが分かるであろう。ミニアコンカ山系には6000m以上の山が10峰以上ある。その中でもミニアコンカは他の山々から1000mほども高く、(遠くから見れば)飛び抜けて高く見える。

_DSC5445峠に向かい登り始めると、また新市街地開発かな?と思わせる真新しい建物群が見えてくる。 すると、そこからバンバンバン、、、と銃声が聞こえて来るではないか!

そこは*の施設であるらしかった。




_DSC5443高度が上がるに従い遠くの雪山が見え始める。

これはダルツェンドの北にある山群。








_DSC5447「冬虫夏草培殖基地」と書かれている。「冬虫夏草」を人工的に増やしている「農?場」ということだろうか? そんなことができるとか、やってるとか、聞いた事がないが、、、ま、とにかく、この辺りで冬虫夏草を採取している人たちの群れは見かけた。この辺りが冬虫夏草生息の東端ではなかろうか。消費地である中国には一番近い場所ではある。

ダルツェンドの街中で採ったばかりの冬虫夏草の土をブラシで落としている人たちを見かけたので、「採った人は一匹(?)いくら貰えるの?」と聞くと、「30元さ」とのことだった。もちろんこれが成都等の高級店に並ぶときには一匹300元ほどになってるのだが。

_DSC5453中国語で雅家梗峠と書かれている3900mの峠。近日中に降ったと思われる雪が残っている。後ろはチベットの雪山。ここが、チベットと中国の国境のような気がした。

実際、この後、道は標高1000m辺りまで一気に下がり、村の家々も中国風、住んでる人も中国人がほとんどとなる。

_DSC5455峠の北東側に見える登れそうな山。
中国語しか分からないが、右手が田海子山6070m、左手奥が白海子山6032m。

子供は雪を見るとすぐに雪合戦を始めようとする。





_DSC5465峠の南、ミニアコンカ側の山。雲がなければミニアコンカが見えたと思われる。










_DSC5476高度が下がるとシャクナゲを沢山見る事ができた。この辺りのシャクナゲは中木であり、花の色はこのようなピンク、或は白であった。

ダラムサラやヒマラヤ南麓のシャクナゲは大木で花は真っ赤、咲く時期も2月か3月だ。この辺りは開花時期が遅いらしい。


_DSC54926000m級の山々と谷。谷の下の方は1500mほど。落差は4000m以上。

河原が赤く見えて、血が流れたようで不思議な眺めだ。この後、近くで観察すると、これは石に赤いコケの一種が付着しているからだと分かった。

















_DSC5496血をかぶったような赤い石。












_DSC5502磨西という街に着く。随分高度を下げたので暑いと感じる。

手持ちのガイドブックによると、これから先ミニアコンカに近づくには歩くしかないはずだった。
それで、まずは今日はここに泊まり明日歩き始めようと決める。うるさく勧誘する中国人に付いて行ってかれの宿に一旦入った。綺麗なわりには安かったが、街の外れであった。

昼食の後、トレッキングの起点と思われるゲートまで行ってみた。すると、なんとそこから道が奥に続いており、バスが出ているということが判明。地図を買うと、ちゃんと道路が書いてあり、その先にはケーブルカーも有るらしかった。バスは午後にも出ている。これを知り、直ぐに宿に引き返し、宿をキャンセルして奥に向かうことにする。

もっとも、観光化され便利になった代償に、お金は掛かるようなっていた。公園入場料が1人80元、バスが72元だった。高え〜!と思ったが、ここまできて引き返すわけにも行かず、払う事にした。

街はこれからの観光ブームを当てにして新開発されたばかりという感じだった。もっとも観光客は少なく、暇そうに道ばたでこのように麻雀してる人が多かった。なぜかどこでも台を囲むのは女性ばかりで、観戦するのが男性だった。

_DSC55163時と言われたバスが4時に来て、それに乗りNo3 Campと呼ばれる終点まで行く。2800mとのこと。

そこには大きめの新しいホテルが数件あった。部屋は案外安くて、100元でナイスなツインルームに入る。窓からは雪山が見えた。

日が沈むにはまだ時間があるというので、その先数キロにあるケーブルカー乗り場まで行ってみる。シャクナゲ林が続き、小川も流れる気持ちのいい道が続いていた。

その先にも「氷河展望所」という看板が出ている道があることを発見した。もっとも入り口にはまた「1人60元」と書いてあった。が、もう遅いからか誰もいない。そのまま登り始めた。

写真は途中で見かけた白いシャクヤクとその上に止まる小さなムシクイ(Warbler)の一種。ダラムサラでよく見かけるのと同じ種類と思われた。

_DSC5519拡大して見ないとわからないと思うが、真ん中辺りにナキウサギが写ってる。もっとも、今までみたナキウサギに比べ色が黒っぽくて、ナキウサギというよりナキネズミのように見えた。






_DSC5526散策道終点の氷河展望所の先で、崖に突き出してる木の上に登り、先まで行こうとして腰が抜け、へたり込んだ若いの。








_DSC5527下方、灰色に見えるのが氷河。この氷河は3000m付近まで続いている。最も標高の低いとこを流れる氷河の1つ。

氷河の向こうには、次の日に乗るはずのケーブルカーの鉄塔が見える。




_DSC5556ホテルの屋上から見た、ミニアコンカ方面の山。この日は最後まで雲が切れなかった。

この写真は拡大してみてほしい。

rftibet at 21:53|PermalinkComments(0)TrackBack(0)