2013年06月

2013年06月30日

焼身者リスト最新版(6月30日更新) 2009年以降内外合わせ123人 内死亡104人

焼身者顔写真




















内地焼身者119人の顔写真 VOT Gurbum Gyalo製作


焼身発生地地図






















内地焼身抗議・主な抗議活動発生地地図
(2013年6月12日付け、Tsampa Revolution 制作)


内外合わせ123人(2013年6月30日現在)の焼身者氏名、その他焼身状況概略
それぞれの焼身者の写真等、より詳しい情報は付記されたURLにアクセスすることにより、当ブログの各過去ブログで確認できる。第一報を中心に主な記事のみ表示。番号は発生順。

2009年2月27日のタペーから2012年9月末までの焼身者については>>>http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51757842.html

2012年10月以降:

59)グドゥップ:チベット自治区ナクチュ、ディル県出身、作家、43歳、死亡。
2012年10月4日、チベット自治区ナクチュの街中で焼身。その場で死亡。2通の遺書を残す。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51764224.html

60)サンゲ・ギャンツォ:俗人、27歳、2児の父、死亡。
2012年10月6日、アムド、ツォエ(甘粛省甘南チベット族自治州合作)ドカル僧院の仏塔傍で焼身。その場で死亡。http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51764472.html

61)タムディン・ドルジェ:54歳、死亡。妻と3人の子供を残す。高僧7世グンタン・リンポチェの祖父。
2012年10月13日、アムド、ツォエ(ツゥ)僧院仏塔前で焼身。その場で死亡。http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51765338.html

62)ラモ・キャプ:27歳、2児の父、死亡。
2012年10月20日、アムド、サンチュ県ボラ郷ボラ僧院近くの路上で焼身。その場で死亡。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51766223.html

63)ドゥンドゥップ:61歳、妻と養子の息子が1人、死亡。
2012年10月22日、アムド、サンチュ県ラプラン・タシキル僧院の右繞道上で焼身。その場で死亡。http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51766480.html

64)ドルジェ・リンチェン:57歳、妻と2人の子供を残す、死亡。副村長。
2012年10月23日、アムド、サンチュ県サンチュ市内、警察署近くの路上で焼身。その場で死亡。http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51766632.html

65)ツェポ:20歳、死亡。
2012年10月25日、従兄弟である(65)のテンジンと共に、チベット自治区ナクチュ地区ディル県で焼身。http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51767144.html

66)テンジン:25歳、生死不明。
2012年10月25日、上記の従兄弟ツェポと共に焼身。ダラムサラのソガ・スクールで学んだ事がある。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51767144.html

67)ラモ・ツェテン:24歳、妻と幼い娘を残す。死亡。
2012年10月26日、アムド、サンチュ県アチョク郷にある軍施設と裁判所の前で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51767018.html

68)トゥプワン・キャプ:23歳、若い妻を残す。死亡。
2012年10月26日、アムド、サンチュ県サンコク郷のバス停近くで焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51767074.html

69)ドルジェ・ルンドゥプ:25歳、タンカ(チベット式仏画)絵師、妻の幼い子供2人を残す。死亡。
2012年11月4日、アムド、レゴン県ロンウォ僧院前のドルマ広場で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51768108.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51768291.html

70)タムディン・ツォ:23歳、女性、遊牧民、夫と幼い息子1人を残す。死亡。
2012年11月7日、アムド、レゴン県ドワ郷ドロンウォ村のケマル草原で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2012-11.html#20121107

71)ドルジェ:15歳(焼身者中最年少)、ンゴシュル僧院僧侶、死亡。
2012年11月7日、アムド、ンガバ州ンガバ県ンガトゥ・ゴマン郷の警察署前で以下71のサムドゥプ、72のドルジェ・キャプと共に焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51768582.html

72)サムドゥプ:16歳、ンゴシュル僧院僧侶、生死不明。
2012年11月7日、アムド、ンガバ州ンガバ県ンガトゥ・ゴマン郷の警察署前で70のドルジェ、72のドルジェ・キャプと共に焼身。部隊により病院に運ばれたというが、その後消息が途絶えたまま。http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51768582.html

73)ドルジェ・キャプ:16歳、ンゴシュル僧院僧侶、生死不明。
2012年11月7日、アムド、ンガバ州ンガバ県ンガトゥ・ゴマン郷の警察署前で70のドルジェ、71のサムドゥプと共に焼身。部隊により病院に運ばれたというが、その後消息が途絶えたまま。http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51768582.html

74)ツェギェ:27歳、11月18日にナクチュの刑務所内で死亡。
2012年11月7日、チベット自治区ナクチュ地区ディル県ペンカル郷の政府庁舎前で焼身抗議。警官にナクチュに連行され、刑務所内に治療も受けず、その上拷問も受け18日に死亡と。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51768582.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51770986.html

75)ケルサン・ジンパ:18歳、死亡。
2012年11月8日、アムド、レゴン県ロンウォ僧院前のドルマ広場で焼身、その場で死亡。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51768661.html

76)ゴンポ・ツェリン:18歳、死亡。
2012年11月10日、アムド、ツゥ(ツォエ)県ルシュ郷にあるルシュ僧院内で焼身、数時間後に死亡。http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51768943.html

77)ニンカル・タシ:24歳、遊牧民、死亡。
2012年11月12日、アムド、レゴン県ドワ郷の草原で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51769134.html

78)ニンチャク・ブム:20歳、死亡。
2012年11月12日、アムド、レゴン県ドワ郷の街中で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51769203.html

79)ティンジン・ドルマ:23歳、女性、農業、死亡。
2012年11月15日、アムド、レゴン県ツェンモ郷ゴゲ村のお堂の前で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51769511.html

80)カンブム・ギェル:18歳、死亡。
2012年11月15日、アムド、レゴン県ギェルポ・ルチュ草原からロンウォ鎮に向かう途中にあるコンセンド(ཁོང་གསེང་མདོ་穴の開いた岩)と呼ばれる場所で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51769511.html

81)チャクモ・キ:27歳、女性、タクシー運転手、死亡。
2012年11月17日、アムド、レゴン県ロンウォ鎮の税務署前で焼身。「民族平等」「習近平はダライ・ラマ法王と会うべきだ」等と書かれた短い遺書を残す。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51769721.html

82)サンダク・ツェリン:24歳、死亡。
2012年11月17日、アムド、レゴン地区ツェコク県ドカルモ郷の政府庁舎前で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51769823.html

83)ワンチェン・ノルブ:25歳、死亡。
2012年11月19日、アムド、ツォシャル(海東地区)ヤズィ県カンツァ・チベット族郷カンツァ僧院の傍で焼身。先代パンチェン・ラマの故郷。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51770050.html

84)ツェリン・ドゥンドゥップ:34歳、死亡。
2012年11月20日、アムド、サンチュ県アムチョク郷ギャガル草原にあるゴン・ンゴン・ラリ金鉱山開発場の入り口付近で焼身。鉱山開発に対する抗議か?
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51770091.html

85)ルンブム・ギェル:18歳、死亡。
2012年11月22日、アムド、レゴン県ドワ郷の路上で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51770394.html

86)タムディン・キャプ:23歳、元僧侶、現在遊牧民、死亡。
2012年11月22日、アムド、ルチュ県ルチュ川の河原で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51770444.html

87)タムディン・ドルジェ:29歳、死亡。
2012年11月23日、アムド、ツェコ県ドカルモ郷の政府庁舎前で焼身。http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51770518.html

88)サンゲ・ドルマ:17歳、尼僧、死亡。
2012年11月25日、アムド、ツェコ県ドカルモ郷パルコル村で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51771010.html

89)ワンギェル:26歳、元僧侶、生死不明。
2012年11月26日、カム、カンゼ州セルタ県セルタの金馬広場で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51770800.html

90)クンチョク・ツェリン:18歳、死亡。
2012年11月26日、アムド、サンチュ県アムチョク郷ギャガル草原にある金鉱山開発地の入り口辺りで焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51770816.html

91)ゴンポ・ツェリン:24歳、3児の父、死亡。
2012年11月26日、アムド、ルチュ県アラ郷にあるアラ・デウゴ僧院の本堂前で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51770883.html

92)ケルサン・キャプ:24歳、死亡。
2012年11月27日、アムド、ンガバ州ゾゲ県キャンツァ郷の役場の前で焼身。短い遺書を残している。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51770946.html

93)サンゲ・タシ:18歳、死亡。
2012年11月27日、アムド、甘粛省甘南チベット族自治州サンチュ県サンコク郷で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51771006.html

94)ワンデ・カル:21歳、死亡。
2012年11月28日、アムド、甘粛省甘南チベット族自治州ツゥ市の街中で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51771147.html

95)ツェリン・ナムギェル:31歳、2児の父、死亡。
2012年11月29日、アムド、甘粛省甘南チベット族自治州ルチュ県サムツァ郷の役場前で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51771156.html

96)クンチョク・キャプ:29歳、2児の父、死亡。
2012年11月30日、アムド、ンガバ州ゾゲ県シャクドム郷で焼身。部隊に運びされバルカムの病院に運ばれたが、次の日に死亡。遺灰のみが家族に渡された。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51771297.html

97)スンドゥ・キャプ:17歳、1児の父、生死不明。
2012年12月2日、アムド、甘粛省甘南チベット族自治州サンチュ県ボラ郷ボラ僧院近くで焼身。部隊によりツゥの病院に運ばれた。両足切断の手術を受けたが回復中。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51771516.html

98)ロプサン・ゲンドゥン:29歳、僧侶、死亡。
2012年12月3日、アムド、ゴロ州ペマ県ペマの街中で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51771640.html

99)クンチョク・ペルギェ:24歳、僧侶、死亡。
2012年12月8日、アムド、ンガバ州ゾゲ県にあるタクツァン・ラモ・キルティ僧院集会堂前で焼身。http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51772202.html

100)ペマ・ドルジェ:23歳、死亡。
2012年12月8日、アムド、甘南チベット族自治州ルチュ県シツァン僧院本堂前で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51772211.html

101)ペンチェン・キ:17歳、中学校生徒、死亡。
2012年12月9日、アムド、ツェコ(青海省黄南チベット族自治州ツェコ県)ドカルモ郷で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51772349.html


2013年

102)ツェリン・タシ(ツェペ):22歳、遊牧民、死亡。
2013年1月12日、アムド、サンチュ(甘粛省甘南チベット族自治州夏河県)アムチョク郷アムチョクの街中で焼身。http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51776148.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51776361.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51776603.html

103)ツェリン・プンツォク(ドゥプチョク):20歳代後半、遊牧民、2児の父、死亡。
2013年1月18日、アムド、ンガバ州キュンチュ県ダチェン郷(四川省阿坝藏族羌族自治州红原县瓦切郷)で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51776826.html

104)クンチョク・キャプ:26歳、遊牧民、1児の父、死亡。
2013年1月22日、アムド、サンチュ県ボラ郷のボラ僧院内で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51777501.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51777591.html

105)ロプサン・ナムギェル:37歳、ンガバ・キルティ僧院僧侶、死亡。
2013年2月3日、アムド、ンガバ州ゾゲ県ゾゲ警察署の近くで焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51780697.html

106)ドゥプチェン・ツェリン(ドゥプツェ):25歳、セルタ・ギェルチュク僧院僧侶、トゥルク(転生僧の息子)、死亡。
2013年2月13日、ネパール、カトマンドゥ、ボドナート仏塔傍で焼身。その日の夜病院で死亡。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51780647.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51780869.html

107)ドゥクパ・カル:26歳、3児の父、死亡。
2013年2月13日、アムド、サンチュ県アムチョク郷で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51780838.html

108)ナムラ・ツェリン:49歳、息子4人の父、死亡。
2013年2月17日、アムド、サンチュの街中で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51781108.html

109)リンチェン:17歳、死亡。
2013年2月19日、(110)のソナム・タルギェと共にンガバ州ゾゲ県キャンツァ郷で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2013-02.html#20130220

110)ソナム・タルギェ:18歳、死亡。
2013年2月19日、(109)のリンチェンと共にンガバ州ゾゲ県キャンツァ郷で焼身。
ttp://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2013-02.html#20130220

111)パクモ・ドゥンドゥップ:20歳前後、死亡。
2013年2月24日、アムド、ツォゴン地区バイェン県(青海省海東地区化隆回族自治県)にあるチャキュン(ジャキュン、བྱ་ཁྱུང་དགོན་པ་、夏琼寺)僧院内で焼身。病院に運ばれる途中、家族と共に部隊に拉致されその後行方不明。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51781897.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51782129.html

112)ツェスン・キャプ:27歳、死亡。
2013年2月25日、アムド、ケンロ、ルチュ(མདོ་སྨད་ཀན་ལྷོ་ཁུལ་ཀླུ་ཆུ་甘粛省甘南チベット族自治州碌曲県)にあるシツァン僧院(ཤིས་ཚང་དགོན་)の本堂前で焼身。その場で死亡。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51781916.html

113)サンダ:19歳、ディプ僧院(サキャ派)僧侶、生死不明。
2013年2月25日、アムド、ンガバ州ンガバ県のンガバ市内から南に延びる幹線上で焼身。部隊が連れ去りその後行方不明。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51782017.html

114)クンチョク・ワンモ:30歳、一児の母、死亡。
2013年3月13日、アムド、ンガバ州ゾゲ県で焼身。夫は当局により「焼身の原因は夫婦喧嘩だと言え」と命令されたが、夫はこれを拒否。拘留される。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51783990.html

115)ロプサン・トクメ:28歳、ンガバ・キルティ僧院僧侶、死亡。
2013年3月16日、アムド、ンガバ州ンガバ県キルティ僧院内で焼身。僧侶たちにより病院い運び込まれたが間もなくして死亡。遺体は当局に奪われた。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51783916.html

116)ケル・キ:30歳、遊牧民、4児の母、死亡。
2013年3月24日、アムド、ンガバ州ザムタン県パルマ郷にあるチョナン僧院傍で焼身、その場で死亡。遺体はチョナン僧院内に運ばれ、4千人が集まり葬儀が行われた。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51784626.html

117)ラモ・キャプ:45歳、森林管理員、死亡。
2013年3月25日、アムド、ケンロ州サンチュ県で燃え盛る焚き火の中に身を投げ焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51784801.html

118)クンチョク・テンジン:28歳、モクリ僧院僧侶、死亡。
2013年3月26日、アムド、ケンロ州ルチュ県サムツァ郷モクリ僧院近くの路上で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51785113.html

119)チュクツォ:20歳、遊牧民、2児の母、死亡。
2013年4月16日、アムド、ンガバ州ザムタン県バルマ郷にあるチョナン僧院傍で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51786937.html

120)ロプサン・ダワ:20歳、タクツァン・ラモ・キルティ僧院僧侶、死亡。
2013年4月24日、アムド、ンガバ州ゾゲ県にあるタクツァン・ラモ・キルティ僧院内で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51787733.html

121)クンチョク・ウーセル:23歳、タクツァン・ラモ・キルティ僧院僧侶、死亡。
2013年4月24日、アムド、ンガバ州ゾゲ県にあるタクツァン・ラモ・キルティ僧院内で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51787733.html

122)テンジン・シェラップ:31歳、遊牧民、死亡。
2013年5月27日、カム、ジェクンド州チュマレプ県で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51791083.html

123)ワンチェン・ドルマ:31歳、尼僧、死亡。
2013年6月11日、カム、カンゼ州タウ県タウのニンツォ僧院傍で焼身。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51792875.html

2013年6月30日現在、2009年以降、内外合わせた焼身者123名の内104人の死亡が確認されている。
内女性19名。
内地119人、内死亡確認102人。
外地4人、内死亡確認2人。

rftibet at 20:47|PermalinkComments(1)TrackBack(0)

米大使が訪問し ラサが突然平和都市に変身

image今週25日の火曜日からチベット自治区の首都ラサを在中国米大使ゲイリー・ロックが訪問した。2010年に続き、異例の許可。現地チベット人がRFAに伝えたところによれば、彼が訪問している間、ラサから軍警が消え、突然平和都市が出現したという。

「パルコルを中心にラサ市内にあった検問所や武装車両が消えた」と匿名希望の現地報告者は伝える。「パルコルの屋上にいつも見えていたライフルを持った警官の姿も見えなくなり、ラサの至る所にあったボディスキャン所も無くなった」、「ラサは突然平和都市に変身した」という。

ラサでは宗教的集会も禁止されていたのに「ツォモ・リン地区で仏教法話の会が開催された」、そこには「警官たちが、チベットの田舎の遊牧民の格好をして、手にはマニコロと数珠を持っていた」、「まったくお笑いだが、彼らがやった事はこんなだった」と彼は言う。

米大使ゲイリー・ロックには家族と大使館員数名、それに成都の領事が同行していた。彼の訪問は最初3日間と伝えられていたが、RFAは4日間といい、他のメディアの中には6日間と書くところもあり、一定しない。

大使本人からのコメントはまだ発表されていないが、米政府の外交報道官Patrick Vintrellによればロック大使はラサでチベット自治区党書記の陳全国、ラサ市党書記に会い、「外交官、外人記者、外人旅行社に対し、もっとチベットを解放すべき事。チベット人の言語、宗教、文化を含む文化遺産を保存することの重要性を説いた」とされ、さらに「増加する焼身事件への憂慮も表明した」と報告される。なお、会談にはラサ地区の主な僧院の僧院長も出席していたという。

これから北京に帰り、大使本人がどのようなコメントを発表するかが注目される。大使も当局が訪問に合わせ、舞台をしっかり整えていたであろうことは十分承知の上であろう。自分が見たり聞いたりしたことがすべて舞台上の演技であり、真実の姿ではないこともご存知のはず。ではあるが、彼がラサを訪問するだけで、メディアがラサを話題にし、2008年以降の厳戒態勢やら焼身の話が書かれる機会になったことだけは確かである。

参照:6月28日付けRFA英語版 http://www.rfa.org/english/news/tibet/shown-06282013155437.html
6月29日付けRFAチベット語版 http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/us-ambassador-gary-locke-concludes-tibet-visit-06292013140103.html

rftibet at 18:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年06月29日

北京はダライ・ラマの写真許可を否定

190189_261516337298618_1863047460_nこのところ、複数の主要外国メディアが「ダライ・ラマの肖像掲揚が許可されたのは北京のチベット政策軟化の印か?」という記事を出し、これにつられて日本の幾つかの新聞社、通信社が同様の記事を出している。6月27日にはロンドンベースのNGO、Free Tibetが「17年ぶりに、ラサのガンデン僧院でダライ・ラマの肖像掲揚が許可された」という記事を出し、これを引用する形で外国や日本のメディアが再び「ラサでも許可」の記事を出した。

ところが、昨日28日付けでBBCは「中国はダライ・ラマへの崇拝許可を否定」という記事を出した。これはBBCが直接北京中央政府の宗教省に問い合わせて得た回答を元にしているという。

この件についてはすでに当ブログ22日付けで考察したし、25日にはウーセルさんの意見も載せているが、新しい情報が入ったということで再度考察することにする。

BBCに対し、中国政府は「ダライ・ラマに対する中国の政策は首尾一貫しており、明白である」とし、「もしも、ダライ・ラマが中央政府との関係を改善させたいのであれば、彼の『独立』或は『偽装独立』要求のスタンスを変更すべきである」と答えたそうだ。

BBCは質問する時に、「最近チベットのある地域でダライ・ラマの写真が許可されたという話が伝わっているが」と言ったはずであるから、それに対する回答がこの相変わらずの硬直回答だったということで、「中央政府はまったくチベット政策を変更する気がない」「ダライ・ラマの写真は今まで通り許可されない」と解釈し、そのような趣旨の記事を書いたというわけだ。

では、今までの情報は全て嘘だったのか?期待先行の情報だったのか?という疑問が湧く。この情報を最初に流したのはVOTであり、最初はアムド、ツォロ(青海省海南蔵族自治州)の3県で僧侶、役人が会議を開き、その結果「ダライ・ラマの写真許可。ダライ・ラマへの批難禁止。僧院内に軍警が入る事を制限」を決定したと報じられた。その後RFAがカム、カンゼ(四川省カンゼ蔵族自治州)でも幾つかの僧院で法王の写真が許可されたと報じ、2日前にはFree Tibetがラサのガンデン僧院にも当局から法王写真掲揚許可の知らせが来たと発表した。

BBCは最初から、ダライ・ラマの写真許可については「確認できない情報」としながら、現地との連絡を試みている。昨日ラサの複数の僧侶と連絡が取れたらしく「数名の僧侶は政府が政策を変更するという噂は聞いたが、実際にはそのようなことは全く無い。ダライ・ラマの写真は依然として禁止されており、唯一当局が許可した仏陀の肖像のみが許されている」と報告している。

カンゼとラサの話は何かの間違いである可能性があると私は思う。しかし、アムド3県の話はまったくの嘘ではないらしい。アムドについてはICT(International Campaign For Tibet )がやや詳しい報告を行っている。それによれば、会議はチャプチャと西寧で本当に開かれ、そのようなことが「実験的」に決定されたらしい。ただし「宗教的にダライ・ラマへの信仰を表す事は許可されるが、政治的に従うことは許されない」とされ、また、その実施は8月からであるという。

この決定は度重なる焼身事件を受けて、懐柔策として打ち出されたようである。ICTは会議に青海省の共産党書記が出席したかどうかは確認されていないともいう。実際に実施されるまでにはこれから省レベルや中央政府の許可がいるのかも知れない。そこで、却下される可能性も高いということであろう。

これを許可するには、これまでの政策が間違いであったと認めなければならないはずであり、そう簡単であるはずはないと思われる。ただ、今月初めに中央党校の靳薇(Jin Wei)教授が香港で政府に対し「ダライ・ラマとの対話を進めてはどうか?」と提案したことからも分かるように、胡錦濤時代には体制内でチベットについて発言することは完全に禁止されていたが、習近平時代になりチベット問題について論議してもいいという雰囲気が出来上がりつつあるのかもしれない。地方政府においても議論が許され「実験的」な試みが可能な「余地」ができたのかもしれない。もしも、これが本当なら、これだけでも相当な変化と言えなくもない。

参照:6月28日付けBBC http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-china-23094994
6月27日付けFree Tibet http://www.freetibet.org/news-media/pr/after-17-year-ban-across-tibet-monks-lhasa-monastery-permitted-display-pictures-dala-0
6月28日付け日経 http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM28044_Y3A620C1FF1000/
6月27日付けICT http://www.savetibet.org/new-challenges-to-tibet-policy-from-inside-china/

rftibet at 19:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年06月28日

HRW:6年間に200万人のチベット人農牧民が強制移住させられた

_68414511_tibet_houses_gettyニューヨークに本部を置くHRW(Human Rights Watch)は最近チベットの強制移住<生態移民>問題に関する詳細な報告書を発表し>http://www.hrw.org/sites/default/files/reports/tibet0613webwcover_0.pdf
中国政府に対し、チベット人の伝統的な生活を完全に破壊するこのような政策を即時中止するよう要請した。

同時に6月26日、この問題を紹介するための約3分間ほどのビデオも公開している。以下はその日本語訳とビデオ。

中国政府はチベットで容赦のない弾圧と統制を続けている。何百何千というチベット人が逮捕されている。これが、中国がチベット全域で大規模な移住政策を強行している背景だ。

この6年間に2百万人以上のチベット人が代々住み続けた家や土地を強制的に捨てさせられ、政府が言うところの「新社会主義村落」に移住させられた。チベット人がこれに異議を唱える事は許されない。これは伝統的生活形態を全面的に変えさせた。

HRWが集めた衛星映像を見れば、何世代にも渡り住み続けた村全体が完全に破壊されていることが分かる。これは単に新しい住宅を建てるためというのではなく、伝統的な村々を破壊するというキャンペーンだ。キャンペーンが進むに従い、列をなす同様な住宅が並ぶ社会主義的村が出現する。これは立地、標高を無視し、農民、遊牧民の違いも無視して行われる。チベットの村々の伝統的秩序を作り替えているのだ。政府が統制機能を向上させるために行っているということは明らかだ。

チベットの遊牧民は何代にも渡り、草原の上を年に数回移動しながら生活してきた。新政策はこのような生活形態を捨てさせ、二級市民になることを強いる。政府はこれらの住宅は政府が出資しているのではなく、彼ら自身が金を出しているのだという。多くのチベット人たちは、この新しい家を建てる資金がないので、自分たちの農地や草原を売って金を作るしかないという。

彼らはこの完全に自分たちの生活形態を変化させる政策に対し、ノーとは言えないのだ。国際社会がこの中国の大規模な移住政策に対し、考え直すように圧力を掛けない限り、彼らの伝統的生活様式は数年の内に消滅するであろう。



中国政府はこのHRWの報告に即座に反応し、中国外交部報道官華春瑩は「人権団体は北京の開発政策に対する『色眼鏡』を外す事を望む」と述べ、「外部の批判は中国の少数民族や宗教政策に対する正しい理解に欠けている。中国人民が選択した開発の道を尊重すべきだ」と続けた。

参考:6月27日付けBBC http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-china-23081653
6月27日付けThe Telegraph http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/asia/tibet/10146867/Seven-years-in-Tibet-2-million-displaced-by-Chinese-relocation-policy.html

過去関連ブログ>チベット遊牧民強制移住 <生態移民>http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51785548.html
ウーセル・ブログ:「生態移民村」の「マニ石」http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51781804.html

_68414323_chinese_village_464

rftibet at 21:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年06月27日

拷問に反対し、拷問被害者を支援する日

DSC_3506一番大きな文字で書かれているのが日本語だが、「世界ことなく拷問」とは!?

昨日6月26日は、1987年6月26日に国連「拷問禁止条約」が発効された日を記念した「拷問に反対し、拷問被害者を支援する日」であった。この21世紀に入っても、世界各地で拷問が行われている。特に中国は反体制者に対し拷問が日常的に行われる政治的拷問大国として知れ渡っている。中国もこの条約に加盟しているが、委員会による度重なる批難決議を完全に無視し続けており、改善の兆しはまったく見られない。

中国全体で拷問は当局の尋問方法として当たり前に正当化されている。また、他の反体制派に対する脅し効果を狙うという側面もある。まさに恐怖政治の基本手段となっている。

拷問はチベットやウイグル、モンゴルの植民地化された異民族に対して特に厳しく、残酷に行われる。これは、これらの地域に対し、中国が適切な統治政策を打ち出す事ができず、単に恐怖により治めることしかできないということを示している。しかし、このような強硬姿勢は根本的問題を何も解決せず、さらなる反発と敵対心を生むばかりである。

ダラムサラではこの日に合わせ、2つのセミナーが行われた。朝11時からTCHRD(チベット人権民主センター)によるセミナー、午後4時半から9−10−3の会(グチュスン、チベット良心の囚人の会)と亡命政府保健省合同のセミナーが行われた。

DSC_3492TCHRDのセミナーにおいては、最初、所長のツェリン・ツォモにより、アムド、ンガバの僧侶が著したチベット内の拷問の実体を暴く新刊書が紹介された。筆名マルジャン・ニュクという僧侶は元政治犯であり、彼の母親も政治犯であったという。ンガバを中心とした中国当局のチベット人弾圧を様々な面から告発するこの著書は内地では出版できず、このほど原稿を手に入れたTCHRDが独自に出版したというものである。ツェリン・ツォモは「中国政府の残忍さも、チベット人の人権を守ろうとする決心を弱めることに成功していない」と指摘する。

同じくTCHRDで働く元政治犯のダワ・ツェリンが自身の獄中体験について話した。彼は80年代終わりにラサで抗議デモに参加し、4年の刑を受けダプシ刑務所に服役していた。審問時やその後服役中に受けた様々な拷問について報告した。撲打に使われる道具も様々でライフルの胴尻や電気棒、木の棒、鉄棒、チェーン、砂入りの長い棒等があるという。電気棒による拷問は誰に対しても常に使われるという。また、縄を使った拷問にも様々あり、縛り方次第で、長時間放置されると、その後関節や筋肉が長期間使い物にならない状態になるという。天上から吊り下げられることもよくあり、これには後ろ手に縛られ吊られたり、逆さに吊られるというものもあるという。その他、彼は裸にされ氷の上に長時間放置されるという拷問にもあったという。

DSC_3507様々な電気棒。

拷問が始まると、それは午前、午後と繰り返され、それが何日も続く。その内やられるものは自殺したくなる。拷問する相手に懇願したりすると、「ダライを呼べばいい」と言われる。肉体的にも精神的にも追いつめられ、本当に自殺したり、拷問の結果死んだものもいるという。彼は同じ監獄に入れられていた17歳のラクパ・ツェリンが度重なる拷問の末、病院に運び込まれたが、十分な治療も受けず死亡した時のことを詳しく報告した。

また、政治犯は解放された後にも監視され続け、やっと仕事を見つけても、警察が雇い主を脅し、政治犯は首になることが多く、生活に困窮し亡命せざるを得なくなるという。

彼が経験した拷問は30年も前のことであるが、今も拷問はまったく終わっておらず、様々な報告を総合すると、拷問のやり方ができるだけ外傷を残さない方法に変わっているという。

警察用品を販売するという会社のネットには通称タイガーチェアと呼ばれる尋問用の椅子や、もがけばもがくほどに絞まる手錠、指錠、鋲つき鉄こん棒が商品として上げられている。>>>http://www.cccme.org.cn/shop/cn1211363136/offerinfo-8078529.aspx

DSC_3530もう1つのセミナーでは会場になったニマロプタ・ホールの壇上正面にはこれまでの焼身者119名の顔写真が掲げられ、その前に多くの灯明が灯されていた。その右手には拷問道具の写真と共に、グチュスンのメンバーが実際に縄や鉄の鎖で縛られていた。左手には拷問シーンを描写した絵と共に、同じくメンバーが独房の中で繋がれていた。

DSC_3527セミナーではロユンという69歳の元政治犯が1950年に中国軍がラサに侵攻したときから、現在までのチベットの状況を概観する長い証言を行なった。彼の父親は59年蜂起に参加し、その後収容所で死亡している。彼も収容所に長期間入れられ、数千人の内わずかに生き残った内の1人という。収容所内の過酷な労働、飢餓、虐待の実体を細かく語った。

DSC_35162008年蜂起の後、一時的には5、6千人の政治犯が拘束され、多くが刑務所に送られた。現在、その時期に収監された政治犯たちが徐々に解放されているが、彼らの多くが拷問により、健康を損なったり、障害者となっている。彼らは刑務所内で受けた拷問について口外することを禁止されている。それでも、その内の何人かが亡命前に拷問の実体を暴き、再び逮捕されている。現在、刑務所に入れられているチベット人政治犯の数はTCHRDによればおよそ千人である。ほぼ全員が拷問を受けた、或は今も受け続けていることは間違いないのである。

拷問には2つある。肉体的拷問と精神的拷問である。中国当局の目的は肉体的拷問により精神を破壊し、当局の言いなりになる人格を作る事にある。動物を調教する仕方で人々を統治しようというものだ。中国は古代より長い間この統治方法のみを使って国を統治してきた。21世紀の現在においてもこれが通用すると思っている。これしか、知らないとも言えよう。

rftibet at 20:29|PermalinkComments(1)TrackBack(0)

2013年06月25日

ウーセル連ツイート「アムドの一部僧院でダライ・ラマ法王の写真が許可されたことはグッドニュースか?」

破壊された法王写真2008年3月、アムド、ンガバ・キルティ僧院内:部隊により傷つけられたダライ・ラマ法王の写真。

アムドの一部地域で、ダライ・ラマ法王の写真を僧院内に掲げることが中国当局により許可されたというニュースについては、すでに当ブログでも少々の考察を加えて伝えた。この件に関し、北京のウーセルさんも昨日6月24日、ツイッター上で意見を発表されている。この連続ツイートをうらるんたさんが翻訳して下さったので、以下これを転載させて頂く。

うらるんたさんのブログには原文も並記されている。http://lungtaprojectjapan.tumblr.com/post/53733916814

ウーセルさんの連ツイートに表題はない。最初の表題は私が勝手に付けたものである。写真も私が過去ブログから探して掲載したものであり、ウーセルさんが選んで載せられたものではない。


[ツイートより]青海省の一部の県でチベット仏教寺院にダライ・ラマ法王の肖像奉戴が許可された、というニュースについて、チベット人作家ツェリン・ウーセルさんが連続ツイートで分析していました。
関心を持っている事項についてだったので、イイカゲン粗訳ですがメモします。
他の日本語見解はチベットNOW@ルンタ(2013年6月22日)http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51793694.htmlなどをどうぞ。

ツェリン・ウーセル

  weiboやwechatではたくさんのチベット人が「グッドニュース」とも思える話をつかまえようと情報が入り乱れている。3日前、ダラムサラの「ボイス・オブ・チベット」などのメディアが、青海省海南州でチベット仏教寺院にダライ・ラマ法王の仏教肖像画を奉じることが許可された、と報じた。その報道の内容が正確かどうか、また証拠とされる文書の画像が本物かどうかをさておいても、その報道自体がトバシ気味といえる。ある地方の一つの州からもたらされた部分的な情報をもって「中国共産党がチベット仏教寺院にダライ・ラマ法王肖像の奉戴を許可」とは。

 21日、「釣り見出し」を得意とする米国の中国語ウェブサイト「多維新聞網」もまた、話をすり替えて報じた。曰く「ダライ・ラマ肖像が公式に掲揚可能に 中国共産党の政策転換」。青海省の一部の海南州の公文書がその県内のチベット仏教寺院に対して寺院内に法王の肖像画を掛けることを許可したことを、まるでチベット全土(チベット自治区と四川省と青海省と甘粛省と雲南省のいわゆるチベットエリア)すべてで「オープンに掲揚することが」できるようになったかのように話を広げた。いくら多維新聞網が好き放題メディアだといえ、この公文書を公開して、言葉通り「目で見たものは確実」としてほしいものだ。

 現在のところ、全チベットエリア(中国の行政区分においては5つの省と自治区にまたがる)のうち、ただ青海省海南州というこの一つの州だけで、ダライ・ラマ法王肖像を奉戴してよいという公文書が出たと伝えられている。しかし誰がこの噂に伝わる謎の文書を実際に見たのだろう? その他のチベットエリアに至っては依然として元のままだ。例えばチベット自治区で、あえてダライ・ラマ法王の仏教肖像画を奉戴しておおごとを引き起こそうとする人がいるものだろうか? この目で見て確認できないものごとは、衝動的に突き動かされるいかなる行為も「釣り上げられる」(罠に引っかけられる)可能性がある。誰かに金で売られる手口には決してならないよう。

  仮に、当局がもし本当にダライ・ラマ法王の肖像画奉戴をチベット人に許したのだとしたら、これまでのあらゆる手練手管を使った法王批判を修正して、「ダライ・ラマは国家分裂をたくらむならず者ではない」「ダライ・ラマは国家の敵ではない」と弁解し直さなければいけなくなるのではないだろうか? そんなことが可能なのだろうか? ダライ・ラマ法王肖像の奉戴の厳禁政策は、西蔵自治区においては1995年から始まっている。 その当時から現在に至るまでの、(当時チベット自治区に赴任していた)少なくない官僚が偉くなって北京に昇進し国家権力を握っている現在になって、「彼らが間違っていました」などと言えるのだろうか? そんなことが可能なのだろうか?

 全チベットエリアのモデルとされるチベット自治区では、一昨年末に「九有(九つが揃う)」プロジェクトが大々的に実施された。すべての寺院、すべての農家、すべての畜産農家に五星紅旗(中国の赤い国旗)を高く掲げさせるだけでなく、中国共産党の代々のリーダーの肖像まで掲げさせ、断れば政治的な問題となった。最近になってもまだ、一糸乱れず掲げ続けているかどうかのチェックが行われている。しかしながら一方で今回報じられた「緩和政策」がなされるのだとしたら、寺院や家庭やらに、ダライ・ラマ法王の肖像と中国共産党政治リーダーの肖像画が仲良く並んで高く掲げられるというものすごくシュールな状況が想定されるわけだが、そんなことが可能なのだろうか?

 ある体制内チベット知識人はweiboで次のように発言し警鐘を鳴らした。「目下もたらされるいくつかの知らせについては慎重に受け止めるべきだ。また軽々しく『希望をぶちこわす』という希望についてやりとりするべきでもない。世論形成の関係会合に出席したことがある身として総じて感じているのは、ネット上で交わされているような明らかな開放に向かう予兆はどこにもないということだ。善意が解き放たれることと鳴り物入りでの登場が同時に進み、一般人の各階層にあっという間に行き渡って興奮状態になるのは心配だ。」私はこの意見に同意する。先人の轍を踏むことが多すぎる。

  私は昨日、ドイチェ・ヴィレ(ボイスオブドイツ)にこうコメントした。「中国の体制側報道によれば、250万元を費やしてダライ・ラマ14世の生家を補修するという。また別の情報では、青海省海南州の寺院でダライ・ラマ法王の肖像を掲げることが許され始めたらしい。これらは、外部社会に対して、中国共産党のチベット政策によい変化が生じつつあるのではという印象を与えているようだ。しかし、私はこれが中国共産党の作り出した一局面ではないかと心配している。チベット亡命政府は(中国政府との)対話のきっかけを探しているからだ。しかし、私としては、譲るべきでない一定のラインは(亡命政府に)堅守して欲しい。」

 チベットにはこんなことわざがある。『チベット人は楽観的すぎてダメになり、漢人は疑い深すぎてダメになる。』 このことわざが、いつどんなシチュエーションで、どのような出来事を下敷きにして生まれたのか、私は知らない。ただ知っているのは、多くのチベット人がこの言葉を口に出すとき、自嘲気味に、しかたないなあというニュアンスで、思わせぶりに言う、ということだ。この半世紀というもの、いつもいつも繰り返し言い続けることで、このことわざはだんだんと現実になってきてしまった。ただ、後悔先に立たず。私が願うのは、悲劇が繰り返されませんように、ということだけだ。

  なにがなんでも、こういう時には、冷静になるだけでなく、観察し、事実を確かめ、慎重に時を待たなければならない。決して盲目的な楽観視をしてはならない。あげく、ある局面においては動きが取れない状況に身を置くことにならざるを得ないかも知れないが、これは歴史的にも先人の轍を踏むべきでない(「前人の失敗が後人の戒めとなる」ことが)あまりにも多すぎるのだ。たった数年前にも、北京オリンピックのために計画された国際的な広報活動の一環としての「チベット・中国会談」があったが、最終的には殺気立った雰囲気で終了した。あれも同じ失敗を二度と繰り返さないための教訓だ。あれほど傷つけられた痛みも忘れてしまったのだろうか? かなしむべき、あわれむべき同胞たちよ!



rftibet at 18:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年06月24日

ダンゴで口を撃たれた政治犯解放 兄弟は射殺

2013_6_20ユンテン・サンポ

去年2月16日にカム、ダンゴ(四川省カンゼチベット族自治州炉霍)で逮捕されていたユンテン・サンポが6月20日に解放された。しかし、彼は警官に口を銃で撃たれ、会話が不自由となっており、また足も不自由になっているという。

カム、ダンゴでは去年1月23日、大規模な抗議デモが発生したが、これに対し部隊が無差別発砲したために2人が死亡し、その他30人以上が重軽傷を負った。詳しくはhttp://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51727698.html その後、一旦ダンゴ僧院に匿われていた負傷者たちは逮捕を恐れ、病院に行く事もできず、山に逃げた。そして、2月9日には山に逃げていた僧イシェ・リクセル(40)と弟のイシェ・サムドゥップ(38)が追跡部隊により射殺された。詳しくはhttp://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51729245.html

その日の内に、銃殺された2人の兄弟である、今回解放されたユンテン・サンポの家に部隊が押し掛け、ユンテン・サンポの口を撃ち、70歳の母親ヤンキの腕を撃った。さらに親がいないと言うのでユンテンが面倒を見ていた14歳の女の子ラキ・ドルマにも暴力を振い連行した。その後、母親のヤンキは撃たれた腕の切断手術を受けた。連行されたユンテン・サンポは行方不明となっていた。詳しくはhttp://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51732759.html なぜこの時、彼の家に部隊が押しかけ、彼らを撃ったのかは不明のままである。

今回、解放され自宅に戻る事ができたのだが、彼が刑を受けていたのかどうかは不明。自宅に戻った時には地域のチベット人たちが大勢集まり、カタとともに彼を温かく迎え入れたという。

このダンゴのデモに参加したチベット人たち30名以上に無期懲役を含む長期刑が与えられている。
詳しくはhttp://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51742485.html

参照:6月21日付けTibet Expressチベット語版 http://www.tibetexpress.net/bo/home/2010-02-04-05-37-19/10738-2013-06-20-06-27-36

rftibet at 18:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年06月22日

青海省の一部の県で僧院内にダライ・ラマ法王の写真を掲げる事が許可されたことは北京のチベット政策軟化の印か?

2006a1幼少時ダライ・ラマの写真を手にする老婆(VOTより)。

このニュースを始めに報じたのはVOTであるが、これはスイス在住の高僧トゥルク・ロプサン・ティンレーが現地から得た情報として伝えたものである。正式な書面はまだ伝わっていないし中国の政府メディアも報じていない。このVOTの報道(1)を元に米中国語メディアである多維新聞が「ダライ・ラマの肖像を飾ることを許可、中国共産党がチベット政策を転換」と題した記事(2)を発表し、これがまたレコード・チャイナにより要旨だけとった日本語になり発表(3)された。これを見た、日本人の中にはこれを「習近平になってチベット政策に変化が訪れる印ではないか?」と取る人も現れているようである。そこで、今回は「本当にそうなのか?」について考えてみる。

まず、押さえておくべき大事な基本情報としてこの許可が出た地域と経緯の話がある。VOTによれば、最初6月17日にアムド、ツォコ(青海省海南チベット族自治州)マンラ(貴南)県において当局が組織する僧侶の会議によりこれが決定されたという。次いで19日には隣のバ(カワスンド、同徳)県で各僧院の内部会議により同様の決定が発表された。20日にはツェコルタン(興海)県の人民検察院が会議を開き地区の僧侶と俗人に対し、「上級部門」が出したこの決定を布告した、というのである。

その内容は3点:
1.僧院内にダライ・ラマの肖像写真を掲げてもよい。
2.ダライ・ラマを批難してはいけない。
3.僧院内で事件が発生した場合には、まず僧院長等が調停し、警察や軍は僧院長の要請なく直接介入してはならない。

ということである。3番目は特に素晴らしい。1番目は目玉のようではあるが、アムド、カムではどうせ禁止されていようが僧院にはダライ・ラマの写真は公然/秘密裏に掲げてあったので、意味深長ではあるが、実質特に変わらない。

2006a22011年11月2日にセルタのビルの屋上にチベット国旗と共に掲げられたダライ・ラマの肖像。すぐに部隊が肖像を引きちぎったが、その後大きな抗議デモが起った。

まず、地域についてだが、この話はチベット全域なんて話ではなく、青海省全域でもなく、海南州全域でもなく、海南州5県の内の3県の話である。また、肖像が許されるのは僧院内だけの話であり、一般家庭においてはこれまで通り禁止である。これが発表されたのもツェコルタン(興南)県以外は僧院に向けたものに限られる。

このような前代未聞?の決定が行われた経緯については、これだけの情報では何とも判断できないのではあるが、時系列的にはまずマンラ(貴南)県において、当局承認の下に僧院会議において採択され、次にバ(同徳)県で右ならえで決定され、20日にはツェコルタン(興海)県では当局自体が決定・布告したということになる。ただ、気になるのはツェコルタンの「上級部門」が出した決定という部分である。この場合の「上級部門」とは何を指すのか?県レベルなのか、州レベルなのか、それとももっと上の決定なのか?という、実際とても重要な話が含まれる言葉であるが、はっきりしない。

もっとも、もしもこれば県レベル以上のことならば、州が、あるいは省が決定したということになり、それら全域に布告されるように思われる。だから、これは単に県レベルではないかと推測される。そうではあるが、最初ダライ・ラマの写真が不許可になったのは80年代終わり、チベット自治区で決定されたことであり、それが徐々にアムドやカムにも適用されていたのだ。この決定には北京中央政府、江沢民の意向が反影されていた。そして、これはやがて90年代にはダライ・ラマ批難という政策に繋がって行く。

つまり、これは中央政府の決定だったのだ。そんな重要な決定がいくら地方政府レベルの話であろうと、そう簡単に州や省の許可なく発表できるものであろうか?という疑問も湧く。もしも、北京政府の意向であるならば、今までの政策を誤りであったと認め、理由と共に新しい政策を示すべきだろう。

結局、この局所的現象をもって北京のチベット政策の転換と判断するには、まだ情報が足りなさ過ぎ、判断できないということである。これから他の県や州にもこの動きが広がるのか、それとも局所に留まったり、撤回されるのかを見守らなければならないと思われる。

例えば、一方でチベット自治区においては僧院を中心にした、ダライ・ラマ批判を強要する「愛国再教育」は続けられており、各僧院にはもちろんダライ・ラマの写真は許可されないし、それどころか毛沢東をはじめとする4人の偉大な指導者の写真を掲げる事が強要されている。僧院内に中国国旗を掲げる事も強要される(4)。また、最近アムド、カムを含めたチベット全域で僧院を中心に「十八大会精神教育」という政治教育のキャンペーンが始まっている(5)。全体にはすこしも締め付けは緩んではおらず、むしろ弾圧は強化されている。

また、私は今回の決定の第2番目の「ダライ・ラマを批難してはいけない」というのが気になる。ダライ・ラマはチベット仏教全体の第一位のラマである。これを批難する僧侶がいるとは思えない。批難するぐらいなら死を選ぶと宣言した僧侶も沢山いる。そして彼らは逮捕された。今度はわざわざ真逆に「批難してはいけない」と命令したのはなぜなのか?

images角の生えた悪魔の真似をする法王。

このことと、最近中国政府がダライ・ラマの生家を改装するために250万元(約4000万円)を掛けると発表したことが重なって見える。たいしてて大きくもないダライ・ラマ生家に4000万円も掛けてどうしようと言うのか? それだけではなく、今までほとんど畑以外何もなかったこの生家周辺を大開発しようという計画もあるようだ。

今回の写真許可の決定が北京の意向を反影していると仮定した場合の話であるが、私はひょっとして中国政府は次期ダライ・ラマを見据えてこの決定を下したのではないかと勘ぐる。現在の14世ダライ・ラマが崩御された後、中国政府が15世を選ぶことはほぼ間違いないことだ。この時、今のまま「ダライは角の生えた悪魔」という言い方を続けていたとすれば、政府は「悪魔の転生者を選ぶ」という矛盾に陥る。次期ダライ・ラマを権威付けて政治的に利用しようというもくろみを自分で潰していることになる。そこで、そろそろ先を見越してダライ・ラマのイメージ回復をもくろんでいるのではないか?と私は思ったりした。

これはダライ・ラマの生家がどのように生まれ変わるのか、どのような評価の下に博物館化するのかを見ればある程度分かるのではないかと思う。何れにせよ、ラサではないが、生家が昔の面影を完全に失った、観光スポットになることは間違いない。

注:1. http://www.vot.org/cn/中共允许西藏寺院供奉达赖喇嘛法相/
2. http://china.dwnews.com/news/2013-06-21/59238066.html
3. http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130622-00000015-rcdc-cn&1371888002
4. http://www.rfa.org/english/news/tibet/chamdo-06212013125232.html
5. http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=7816

ダライ・ラマ法王の生家を訪問した日本人旅行者のビデオ



rftibet at 21:40|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

中国当局、5月27日に焼身、死亡したテンジン・シェラップは女性問題からと 彼の写真を海外に流したとして僧侶逮捕

0ac2c120中国当局が焼身抗議を政治的動機ではなく、個人的動機にするために嘘話しを考え出すということはこれまでにも沢山例がある。その多くは夫婦仲、恋愛問題のこじれというストーリーである。残された妻等に「原因は夫婦仲のこじれ」という書面にサインするなら多額の金を与えようと持ちかけたこともある。

今回、再び当局は5月27日にジェクンド州チュマレプ県で焼身、死亡したテンジン・シェラップ(31)http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51791083.htmlに関し、「恋人に振られたから自殺したのだ」とした。

6月19日付け人民網(人民日報ウェブ版)によれば、地元のチベット人僧侶(25歳、Rae-Bleakと英語で表記されるが元のチベット名は不明)が海外にテンジン・シェラップの写真を伝えたとして逮捕された。そして、この僧侶が本当は恋愛問題のこじれで自殺したのに、これを政治的焼身だとする嘘の情報を流したという。

人民網によれば、テンジン・シェラップは何年か前に離婚し、8歳になる娘と暮らしていた。5月15日に女友達と喧嘩し、彼女に拒否されたことが原因で5月27日に焼身自殺したという。

僧侶はシェラップの父親に近づき、焼身後の写真と生前の写真を撮影し、これをインドの僧侶に携帯から送ったとする。僧侶は罪を認めたと書かれている。

この写真を29日に海外のチベット独立を支持するウェブサイトが、チベットに関わる焼身として事実をゆがめた報道を行ったという。

亡命側に伝わった情報として、彼は焼身の数日前、友人たちに「中国の政治はよくない。このままではチベットの宗教や文化が消滅してしまう恐れがある。もう中国の支配の下では生きる事ができない」等と何度も話していたという。

中国の地方警察と役人は政治的焼身の責任を逃れるためと、家族やコミュニティーを陵辱するためことを目的にこのようなストーリーを作り出す。

参照:6月19日付け人民網 http://politics.people.com.cn/n/2013/0619/c1001-21889307.html
同英語版 http://www.china.org.cn/china/2013-06/19/content_29167045.htm

rftibet at 15:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年06月21日

1985年チベット旅行記 最終回「廃墟、銃口、解放」

a89671a6廃墟のガンデン僧院

チベット3大僧院の1つであるガンデン僧院はラサの東数十キロの丘の上にある。朝方ラサから巡礼用のトラックが出ていた。数時間ではあるが、トラックのむき出しの荷台に乗っていると舗装されていない道から舞い上がる土埃により全身真っ白になるのだった。つづら折りの坂道を登り詰めると、そこには巨大な廃墟が広がっていた。1959年に破壊されたはずであったが、私にはそこはまるで2千年前に火山により破壊された古代都市ポンペイを思い出させ、遥か昔に破壊された都市遺跡のように見えた。ここほど、中国解放軍の侵略による破壊を象徴している場所は他になかった。僅かに残された僧院の石壁が、生い茂るイラクサの中から、チベット人の無念を語っていた。

ここはチベット仏教最大宗派であるゲルク派の祖師ジェ・ツォンカパが15世紀始めに創建した僧院であり、嘗て5000人の僧侶が学んでいたというチベット随一の仏教大学の1つであった。それがわずか百人程度の僧侶が再建のために働くのみの僧院と化していた。それでも文革中にはまったく閉鎖されていた僧院が、80年代に入りやっと再建が許され、再び僧侶が集まり始めていたところであった。その僧侶たちは私が訪れた2年後にラサで大規模な抗議デモを先導し、多くが逮捕され投獄された。最近、中国当局はこの廃墟が破壊の爪跡を象徴し過ぎているという理由で、残されていた壁を完全に取払い証拠隠滅を行った。

travel_photo07サムイェ僧院

ラサに数週間滞在した後、南にあるサムイェ僧院を訪れることにした。その頃はまだサムイェは解放されておらず、ここを訪れるには隠れて行くしかなかった。それでも、8世紀にティソンデツェン王により創建され、インドから学僧シャーンタラクシタが招かれ、本格的な仏教教育が始まったサムイェはその特異な建築デザインとともに是非とも訪れねばならない場所であった。結局実現はされなかったが、私が日本で設計を依頼されていた日本初のチベット僧院の名前もサムイェ僧院と名付けられていた。サムイェ僧院は全体がその当時のインド仏教の宇宙観に従い、須弥山を中心としたマンダラ世界を模して造られていた。

ラサをトラックで出発し、分岐点であるヤルツァンポ川に架かる橋の手前チュシュルで下ろしてもらった。そこから長い橋を渡り対岸に行かなければならない。橋の両側には検問所があった。止められるかも知れないと思いながらも思い切って歩き始めた。検問所では止められなかった。しかし、その後、私のすぐ後ろから1人の兵隊がライフル銃を私に向けたまま、ついて来るのに気付いた。気付いたが後ろを振り向く訳にはいかないと思われた。何か不審な動きを見せると撃たれそうな気配を感じた。仕方なくそのまま歩き続けた。その内、私は「そうか、自分が背負っている荷物を入れたずだ袋が爆弾に見えるのかも知れない」と思えた。

私は一生でその時ほど緊張したことがないと思えるほど緊張していた。本気で撃たれそうに感じた。それでも、前に歩き続けたがその百メートルほどの橋が気が遠くなるほどに長いものに感じられた。やっと対岸に辿り着いた。しかし、その兵隊はまだ私に銃の先を向けたままであった。私は走り出したい気持ちを押さえながら普通の足取りで対岸の道をサムイェの方向に辿った。兵隊はもう追って来なかった。その先の山の端を過ぎ道がカーブしているところまで来て、私は全速力で駆け出し、山の陰に隠れた。今、思い出しても恐ろしい経験であった。途中で走り出せば撃たれていたかも知れない。

落ち着いた後、再び車をヒッチしサムエの対岸の船着き場で下りた。巡礼のチベット人たちと共に川をボートで渡る。彼らは私に真っ黒なヤクの干し肉を渡し、食えという。如何にも不潔そうで到底食う気にはなれない代物だったが、笑顔で食べることにした。その辺りのヤルツァンポ川は川幅が広がり至る所に砂州ができていて非常に美しかった。対岸には砂丘のような場所もあった。その当時のサムイェ僧院はまだ荒れ果てており、境内の寺が普通の民家に転用されていたりした。本堂も荒れ果てたままであったが、それでも所々の壁には古い時代の壁画が残り、仏像も何体か残っていた。夕方になり寝床を見つけなければならなかったが宿に泊まるのはまずいと思われた。近くの丘に上り眺めのよい場所に岩屋を見つけたのでそこで寝ることにした。昔から野宿には慣れていた。その夜は満天の星空を眺めながら心地よく眠ることができた。

ネパールに抜ける

再びラサに戻った。ラサのホテルにはカイラス行きのトラックやネパール行きのバスへの同乗者を募る張り紙が何枚か張られていた。その頃は旅行代理店のようなものもなく、いや少しはあったのであろうが、バックパッカー旅行者はそんなものに頼らず、自分たちで人数を集めトラックやバスをチャーターして移動していたのだ。時間が許せば行けなかったカイラスに行きたかったが、予定していた旅行期間も終わりに近づいていたので、そのままネパールに抜けることに決めた。スペイン人が中心になり集めていたバスに便乗し、ラサを発ち、ギャンツェとシガツェを経由し、5日かけてネパール国境に辿り着いた。途中の景色はどこも忘れ難いほどに素晴らしいものであった。

国境を抜けてネパール側に入ると、突然何とも言えない自由な気分になった。もう、誰にも監視される恐れはないのだという開放感が心の底から湧き上がった。それまで、中国にいる間中、緊張していたことに気付いた。色鮮やかなサリーを着た女性たちの姿が目に入った。その時長い間女性というものを全く意識していなかったことに気付いた。バスに同乗し、友人になっていた数人のスペイン人の男も同じような感覚をもったようだった。「あれを見ろ、女がいるぞ!赤いサリーを着てる。女はああじゃないとな。かわいいな。今夜はパーティーだぞ!女を呼ぼう」と言い出した。国境を越えたところにあるタトパニという小さな温泉町に着いた後、彼らは本当に若いチベット系の女性たちを集めパーティーを始めた。温泉で中国の垢をすっかり落とした後、私も呼ばれて、久しぶりに歌え踊れの一夜となった。

rftibet at 21:31|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

ウーセルさん夫妻再び自宅軟禁 

ウーセルさん六月__日ウーセルさんから送られて来た写真。窓の向こうに、アパートの前で見張るチンピラ風保安部監視要員が写っている。

中国当局のあくどい圧力にもめげず、隠されたチベットの現状を告発し続ける、チベット人作家ツェリン・ウーセルさんと夫である中国人作家王力雄さんが、19日より再び自宅軟禁の身となった。2人は6月4日の天安門事件の前後にも自宅軟禁されており、6月7日にやっと解放されたばかりであった。12日間の自由を与えられただけである。習近平体制に移行した後、ダライ・ラマ法王等は政治的締め付けが緩むのではないかと期待する意見を何度も発表されているが、現実的にはそのような徴候は何も見られないままである。

L1100323-1暇そうな監視要員(ウーセルブログより)。

ウーセルさんが20日付けのブログで明かしたところによれば、19日の午後、2人が車で外出していた時、突然7、8人の警官と国家保安職員に囲まれ、無理やり自宅まで送り返されたという。その後、アパートの外には4、5人の私服保安要員が見張り続け、エレベーターの前にも2人が張り付き、2人の外出を阻止すると共に、訪問者を監視しているという。彼女のツイッターによれば、映画監督の朱日坤が食べ物をもって見舞いに駆けつけてくれたが「階下で止められた。ロビーから20階までが警察だらけ」という。また「接触しようとした作家が軟禁された」とブログに書かれている。

9cdfe5aeラサ、パルコルの今(ウーセルブログより)。

今回彼らが軟禁された理由はウーセルさんによれば、ラサの再開発に関連したものである。ウーセルさんは5月初めにラサ旧市街の乱開発を憂いブログに「私たちのラサがもうすぐ壊されます!ラサを救ってください!」http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51789067.htmlという記事を発表した。この記事の反響は大きく世界中でラサの乱開発の中止を訴える署名活動がはじまった。また、5月終わりにはフランスのテレビ局が潜入取材に成功しラサの現状を伝える番組を流したhttp://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51790433.html

このままでは中国が演出する「ラサのチベット人たちは中国政府の庇護と援助の下で幸せな生活を享受している」というイメージが壊れ、現実が暴露される恐れがあると見た当局は、これを否定させることを目的に、中国に駐在する外国人記者を官製ツアーでラサに行かせ、視察させることにした。このツアーは来月6日から13日の予定という。また外交官のラサ視察も今月終わりに予定されている。

これに先立ち、すでに2人の記者とある外交官がウーセルさんに接触し、意見を聞いているという。またウーセルさんもこのツアーに合わせるが如きにラサへの帰郷を予定していた。これらの動きを知った当局はこれ以上ウーセルさんが記者たちと接触し当局に都合の悪い事実を明かしたり、さらにラサ入域を阻止するために自宅軟禁という不当な手段に出たものと思われる。ウーセルさんは、今回の自宅軟禁は少なくとも今月の25日まで、あるいはそれ以上続くであろうと予測している。

ラサへの記者団官製ツアーが組織されるのは2008年以来のことである。2008年の時には、ジョカンの僧侶たちがひどい仕打ちを覚悟で記者団の前に出てチベットの隠された弾圧の現実を暴露した。その時のビデオ(日本語)>http://www.youtube.com/watch?v=tUlAv3qD6HM

アムドのラプラン・タシキル僧院に記者団が入ったときも、命を掛けた僧侶たち数人がチベットの自由を訴える横断幕とともに記者の前に飛び出し、隠された現実を訴えた。その時のビデオ>https://www.youtube.com/watch?v=sNRuQ2-kPoI&feature=player_embedded

官製ツアーはすべて当局によりセットされ、厳しく監視されるツアーである。当局は都合のいい場所しか見せず、一般人への自由な接触は不可能である。また、その後発表される原稿も事前にチェックされる。このツアーにより本当の姿が明かされる可能性は限りなく少ないであろう。

軟禁状態下にあるウーセルさんにウーセルさんの親友である大阪在住の作家・翻訳家劉燕子さんが昨日電話連絡に成功した。その時の話をメールで伝えて頂いたので、以下それを紹介する。

「外国メディアはツアーでチベットに入れるけれど、私たちは再び軟禁」

 中国外交部がオーセルさんの主張する再開発の問題がないと主張するため、海外メディアをラサツアーに連れ出すそうです。他方、本日からオーセルさんご夫妻は再び軟禁状態です。外部とは一切接触を禁じられています。これは六四天安門事件二四周年で軟禁され、それが解除されてすぐのことです。

 習体制となってから、お二人への監視や締め付けはますます強められました。本日、六月二十日、七-八人の監視体制が敷かれています。先ほど携帯電話が通じました。ウンウンと盗聴といやがらせによる雑音が大きかったです。私は「しっかりと顔をパックしてもっと美しくあるようにしましょう。そしてお二人ゆっくりとお茶を家で楽しみましょう」と言いました(ちょうど数日前に保湿のパックと静岡のお茶を送りました)。彼女も電話で「そうね,发扬“抵抗的美学”」とユーモラスに答えました。



参照:6月20日付けウーセルブログ:http://woeser.middle-way.net/2013/06/blog-post_20.html
6月20日付けRFA英語版:http://www.rfa.org/english/news/tibet/arrest-06202013171541.html
6月20日付け共同>産経:http://sankei.jp.msn.com/world/news/130620/chn13062022410010-n1.htm



rftibet at 15:53|PermalinkComments(1)TrackBack(0)

2013年06月20日

1985年チベット旅行記 その2「軍人に人肉を投げつける鳥葬人」

images2蘭州からラサへ

蘭州まで戻り、そこからゴルムトまで列車に乗った。車窓からは青海湖のほとりのどこまでも続く菜の花畑が広がっていた。青海湖は本当に青い海のように水平線の彼方まで続いていた。やっとチベット圏に入る事ができたという思いに、それまでの疲れもすっかり忘れることができた。本当はこの路線に乗ることも外人に許可されていないことであった。第一陸路でラサに入るということ自体が許可されていなかった。もう、許可証を取るなんてことは諦めていた。捕まっても大したことはない、また罰金を払えばいいだけだとそこは気楽に考えることにした。

列車の終点ゴルムトは砂漠の中の殺伐とした町だった。すでにチベット人よりも中国人の方が多いようだった。ここからラサまではバスかトラックであるが、バスは外人と分かると切符を売ってもらえない可能性が高いということで、トラックのたまり場に行き、ラサまで乗せて貰えるトラックを探す。トラックは簡単に見つかり他2人の外人女性と共にラサまで行くことになった。このトラックもオンボロで途中何度も故障し、ラサまで結局4日かかった。途中の検問所では荷物の中に隠れたりもした。それでも、風景は私が想像していたチベットそのものであり、広大な草原がどこまでも続き、至る所にヤクや羊が草を食む姿が見られ、遠くに雪山が霞む。

このルート最高地点であるタンゴラ峠では、峠の手前で雪のため泊まるしかなくなった。そこは標高5000mを越えていた。真っ暗な小屋に入り、運ちゃんから新聞紙に火を付け部屋を照らす間に居場所を決めろと言われた。そこはただの土間でありベッドはなかった。私はマットと寝袋を持っていたが連れの2人はなにも持ってない。仕方なく2人に寝袋を貸した。まもなく寒さも加わり、激しい高山症状が現れ、ひどい頭痛がはじまった。眠れないので外にでると、それまで一度も見たことのない満天の星空が広がっていた。その星の多さには驚くしかなかった。またそれらの星が頭痛とともに振動し、降り掛かってくるように見えた。

ラサ 1985年

ラサに近づき遠くからポタラ宮が見えた時には、ついにやったという思いがこみ上げ涙が出そうになった。何せここに辿り着くまでに一万キロ以上を陸路で移動していたからだ。ラサで外人が泊まれる宿は限られていた。ほとんどの外人はバナクショホテルかスノーランドホテルに泊まっていた。私はバナクショホテルに入った。ラサに来るのは大変なはずであったが、ホテルには案外大勢の外人が泊まっていた。多くの外人が私と同じように許可証を持っていなかったが、表向き何も問題はなかった。

ラサに到着し、最初に気付くことは、街中に響き渡るラウドスピーカーからの騒音である。共産党のプロパガンダを流しているようだったが、その音が尋常でない。またそれは朝早くから夜遅くまで途切れることなく続くのだ。これだけで頭がおかしくなるような気がした。みんなはもう慣れきっているようで、とくに気にしているようには見えなかった。街の大通りでは、銃を構えた軍人を満載したトラックが明らかに住民を威嚇するために巡回していた。チベット人も男性はほとんどが人民服を着ていた。女性も若い人は人民服を着たりもしていたが年配の女性はチベット服を着ていた。そのころはまだ中国人よりもチベット人が圧倒的に多く、ウイグル人と一緒で、チベット人たちは目が会えば微笑むのだった。

ラサ旧市街の中心はジョカン(大昭寺)と呼ばれる7世紀にソンツェンガンポ王に嫁いだネパール王妃チツンにより創建された寺である。この寺を中国政府は同じくソンツェンガンポ王の王妃になった唐の文成公主が創建したとするが、これは嘘である。それは寺が西向きに建てられネパールを向いていることがからも知れる。文成公主が創建した寺は同じくラサにある唐方向、東向きに建てられたラモチェ寺の方である。文成公主により当初ラモチェに祀られたジョオと呼ばれる釈迦牟尼像はその後ジョカンに移されたが、この像はチベットでもっとも古い仏像であり、今に至るまで篤い信仰を集めている。これら2つの僧院建立と仏像の召還を持ってチベットに仏教がもたらされたとされる。

このジョカンはチベット人の信仰の中心地であり巡礼者が絶えない。入り口付近では毎日大勢の人々が五体投地に励む姿が見かけられる。私も日課として、朝ここで五体投地を行い、この寺を巡るパルコルと呼ばれる道を右回りに何度も歩いていた。その内何人かのチベット人と知り合いになった。その内の1人であるおばあさんは家に私を招きバター茶をすすめた。私がダラムサラやダライ・ラマ法王の話を始めるとおばあさんはさめざめと涙を流した。「私は毎日ダライ・ラマ法王がチベットに戻られることを祈り続けているんだよ」と言う。

鳥葬

ラサでは毎日朝から晩まで街を歩き回り、周辺の僧院にも足を運んだ。セラ僧院の傍で鳥葬を見ることができると聞き、朝早く2時間ほどかけてその場所まで歩いて行った。2日通ったのだが、最初の日には私が一番先に到着していた。鳥葬係りの数人に呼び込まれ、一緒に朝のバター茶を飲んだ。片言のチベット語で会話した。「人肉解体人」とお知り合いになるのは光栄だなどと思いながらも、余計な話は控えた。

その内、見物人の外人たちがぞろぞろと現れ、その数は数十人になった。鳥葬係りの男たちは大きな刀を持ち、鳥葬台である大きな岩に近づこうとする彼らを追い払い、20mほど離れた場所まで下がらせた。やがて白い袋に入った遺体が2体運び込まれ、解体が始まった。一体は小さく子供のように見えた。いつの間にかダマルという太鼓を持った1人の僧侶が現れ、太鼓の音に合わせながらお経が唱えられ始めた。遺族と思われる人が数人立ち会っていた。

遺体はまず皮を剥がされ、肢体が切り離され、骨から肉が削ぎ落される。切り離された頭部が岩のくぼみに入れられ大きな石が投げ込まれるとグシャという大きな音がした。その時今更ながら「ああ、これでこの人は終わったな」という思いが湧いた。その後、骨や肉はツァンパ(麦焦がし)を混ぜながら細かくされた。まるで食事を用意しているようであった。そのころにはすでに回りには沢山のハゲタカが舞い降りて待ち構えている。近づくハゲタカを追い払いながら彼らは黙々と作業を続ける。

準備が整った後、1人が大きな声で何か叫ぶと、それを合図に一斉にハゲタカが岩の上に舞い降りあっという間に全てを食べ尽した。その後ハゲタカは一羽づつ空に舞い上がり、弧を描きながら徐々に空の彼方に消えて行く。それは美しく、見ているとまるで死者の魂が天空に舞い上がり、消えて行くような気がした。自分が死んだときも鳥葬も悪くないなと思ったりした。

ハゲタカが食事を終え飛び立った後、鳥葬係りの男たちは岩の上に残された小さな骨を集め、それを火の中に入れ灰を作った。その灰は遺族に渡された。そのころにはもう見物の外人は去っていたが、私は最後まで見届けていた。すると仕事を終えくつろぎ始めた鳥葬人たちが私を呼んだ。断ることはできない。近づくと彼らの手は真っ赤だった。その手を洗うこともなく彼らはチャン(チベットの地酒)を飲み始め、私にもその血だらけの手で椀をすすめた。私は何とも言えない気分になったが、おとなしく何杯かチャンを飲んだ後、別れを言って立ち去った。

次の日、私は飽きもせず、また鳥葬場に出かけたが、その日とんでもないことが起ったのだ。解体が始まって間もなくしたころ、丘の下を流れる小川を渡ってこちらに向かって来る1台のジープが目に入った。どうも軍人が乗っているようだった。これを見た解体人たちは作業の手を止め、鋭い目になり彼らの動きを見守り始めた。そして、軍人たちが車を降り、丘を登り始めた時、解体人たちは手に沢山の人肉を持ち、彼らに近づきそれを投げつけたのだった。これには流石の軍人たちも肝を冷やしたのか、一目散にジープに戻りそのまま去って行った。解体人たちにとって、神聖なチベットの伝統的葬儀である鳥葬の場を侵略者である中国の軍人に汚されることは決して許してはいけないことだったのであろう。それにしても、私は投げられた人肉のことが気になった。すると、彼らは投げた人肉を丁寧に拾い集め、下の岩の上に返したのだった。

rftibet at 22:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年06月19日

1985年チベット旅行記 その1「遠いチベット」

今日はこれと言った内地チベットのニュースもないということで、趣向を変えて、私の昔のチベット旅行の話を紹介することにする。昔も昔、1985年の話である。

自分で撮った写真も沢山あるのではあるが、今手元にないということで、掲載の写真はネットで見つけたものである。

話は少し長いので数回に分けて載せるつもりだ。

一回目の今日はラサに至る前、中国やシルクロード辺りの話。軽く読飛ばしてほしい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

121030a471985年の中国

笑わない人々


ひょんなことから私はチベット亡命政府に建築家として雇われる事になった。亡命政府があるインドのダラムサラに行く前に、チベット本土を見ておきたいと思い1985年の夏、中国に向かった。その頃の中国は今とはまるで別世界。さらに、その頃の世界のどの国と比較しても非常に特異な国であったろう。私はそれまでに相当多くのいわゆる発展途上国を旅していたが、中国ほど異質な国を旅したことがなかった。中国の文革は77年に終わったことになっていたが、80年代にはまだ中国人のほぼ全員が人民服を着ていた。女性も子供もである。人民服には深緑色と紺青色の2種類あった。どの街にも人が溢れていたが、見渡す限り同じような、個性というものを抹殺された人々が続いていた。

旅行者である私も目立つ事を避けるために直ぐに人民服と人民帽を手に入れ、群衆にまみれることにした。その頃の中国人の特徴はまず笑わないということであった。笑顔さえ見ることはなかった。街を歩けば、至る所でいがみ合う声を耳にした。中国人のいがみ合う様は実に激しいものだった。いがみ合うだけではなく、本気の殴り合いの喧嘩も沢山見た。殴り合いの喧嘩が始まっても、回りの人たちはこれを止めるということはない。ただ、回りを囲んで成り行きを眺めるだけであった。バスの中や電車の中でも殴り合いが始まった。一言でいえば、そこは人の世界ではなく動物の世界のようであった。ちょっとしたことで火が点く不平、不満、不幸が充満していた。

遠いチベット

今でもチベット自治区に入るには特別の許可証が必要であり入域は簡単ではないが、チベットは80年代始めに外国人に対し解放されたばかりであり、もちろんそのころ入域は簡単ではなかった。入域許可証を得るためにまず四川省の成都で試し断られる。その後西安、蘭州でも入手できず途方にくれた。外人旅行者から「カシュガルで許可証を手に入れた者がいる。もしも入域許可証が手に入らなくても、カシュガルからならカイラス経由でラサに入る方法がある」という情報を得た。カシュガルはシルクロードの西の果て、中国の最西端である。蘭州から数千キロも離れた砂漠の向こうにある。それでも、シルクロードという呼び名に旅情を覚えカシュガルまで行くことを決めた。

当時ウルムチまでは列車が通じていたが、その先はバスしかなかった。途中、吐蕃時代にはチベット領にもなっていた敦煌を見学し、トルファンに至った。当時のトルファンにはまだ漢人は少なく、ほとんどの住民はウイグル人だった。男性は人民服を着ていたが女性は色鮮やかなウイグル族の服装をしていた。そしてないより驚いたのは、人々が笑顔を見せることであった。ほんの数週間ではあるが、中国に入りそれまで一度も笑顔を見ていなかったことに今更気付き、その笑顔に自分でも驚くほど癒されたことを思い出す。やっと、人の世界に戻ったと感じた。これはその後チベット圏に入った時も同じであった。チベット人も笑顔を見せるのだった。もちろん、ウイグル人もチベット人も漢人に支配され差別され、弾圧され、貧しさは漢人の町より酷かったが、それでも彼らは笑顔を保っていた。

トルファンは特に心地よく、少し長居した。近くの高昌古城にロバの馬車で見学に行ったりした。その後ウルムチにも行ったが、ウルムチはすでに漢人が大多数となっており、その殺伐さは蘭州に似ていた。ウルムチを抜けて天山に数日遊び、トルファンに戻った。そして、トルファンからカシュガルまで4泊5日というバスに乗った。その頃の中国のバスは長距離であろうと、シートはほぼ板のままである、5日乗り続けた挙げ句、本気に尻の皮が剥けた。バスの中でも殴り合いの喧嘩が始まったのにはさすがに驚いた。

b0049671_13470391993年のカシュガル。

その頃、カシュガルはウイグル人がまだ多数派であり街並も異国情緒に溢れていた。私はそれまでにイスラム圏に数年住んだ事もありイスラム社会に馴染み易かった。直ぐに友人もできた。そして彼らから中国が来て宗教がどれだけ弾圧されたかを聞かされた。

カシュガルは中国の西の果てだが、今ではそこからパキスタンに抜けることができるので、ここを通過地点とする旅行者も多い。しかし、そのころそこはどんずまりであり、再び過酷なバスで東に帰る以外どこにも通じていない場所であった。そして、そこで出会った外人旅行者たちは普通じゃないやつばかりだった。そこの安宿での話題はもっぱら如何にして隣接するパキスタンやアフガニスタン、タジキスタンやキルギスに密入国することができるかというものであった。この他、カイラス経由でラサに至るというルートを狙っている者もいた。私もカシュガルでも正規のチベット入域許可証が手に入らないということを知り、許可証なしでそこからラサに向かうことに決めた。

カイラス経由ラサを目指すが

そのためには毎日トラックのたまり場にでかけ、ラサ方面に向かう運転手を見つけ交渉するしかなかった。それは簡単ではなかった。アリと呼ばれるカイラスの手前の町まで行くトラックはほぼ毎日見つかったが、運転手も外人を乗せれば罰せられる可能性が高いと知っており、断られてばかりだった。しかし、やっと6日目にチベット人の運転手が私の片言のチベット語にいい反応を示し、次の日の出発を承諾してくれた。もっとも、私1人ではなく他に2人の外人も一緒であった。その2人に会い、人民服等の目立たない服を手に入れるように約束させた。外人も人民服を着ると、ウイグル人風に見えなくもないのだった。1人はアメリカ人、もう1人はフランス人だった。

しかし、なんと当日フランス人が前日と同じ赤いチェックのシャツを着ていた。私は「なんでそんな目立つのを着て来たのだ」と責めたが、「これしかない」というので仕方なかった。運転手と助手、それに我々3人を乗せたオンボロトラックは早朝カシュガルのトラックステーションを出発し、一路カイラスの麓を目指した。外人の入域は全く許可されていない道である。そのころはまだカイラス山に辿り着いたという日本人の話も聞いていなかったので、私は久しぶりに冒険心を掻き立てられ、緊張感の中にも浮かれた気分であった。

そのトラックは想像以上にポンコツであった。ほぼ2時間おきに何かが故障し、止まっては修理の繰り返し。いくらも走らないうちに日が暮れた。我々は外人であることがバレないように他の人との接触を避け、トラックステーションの中に泊まり外には一切出なかった。翌日も同じように砂漠のただ中で故障を繰り返しながらイエチェンと呼ばれる町まで到達し、同じくトラックステーションの中に泊まることにした。我々は日が高いうちには外にあるトイレに行くことも控え、部屋にじっとしていた。暗くなった頃、突然ドアが叩かれた。開けてみるとそこには警官が立っていた。警察の車が2台止まっており、すぐに6、7人の警官に囲まれた。お前らは外人だろう、パスポートを見せろと言う。パスポートを見せると彼らはそのままそのパスポートを取り上げた。監視付きのホテルに移され、次の日、警官に付添われカシュガルまで送り返された。

何故バレてしまったのか?誰かが通報したに違いなかった。2日目の昼間に一度だけ普通の食堂に入って食事をとった。あの時、我々が外人であると気付いた誰かが通報したに違いないと思われた。3日目にはやっと山岳部に入れると思っていたので、こうしてあまりに早く拘束されてしまい3人とも大いに落胆した。

カシュガルの警察署へ送られ

カシュガルの警察で尋問が始まった。そこは2畳ほどしかないとても狭い部屋だった。大きな机の向こうに怖そうな中国人の警官が座る。最初にいきなり机を叩き、なにやら中国語でまくしたてる。私は紙をくれといい、「私は中国語ができない。英語ができる人を呼ぶか、あるいは筆談にしよう」と書いた。中国語はほんの片言しかできなかったが、筆談なら何とかなると思ったからだ。その後、筆談が始まり相手は厳つい顔を崩さないまま、静かに書き始めた。そのように紙があっちこっちと移動しながら進む様子を眺めていた他の2人が笑い出した。真剣な顔して書き合っている様がとても可笑しいというのだった。すると、警官はまた机を強く叩き怒った。

警官の話を要約すれば、「お前たちはあのルートが外人に許可されていないことを承知で向かったはずだ。お前たちは法を犯した。罰せられるべきだ。まずは始末書を書け。そして、明日お前たちの態度に従いどのような罰を与えるかを決定し伝える」ということであった。その他「運転手の名前」をしつこく聞いた。これに対してはもちろん我々は「知らない」と言い張った。

このルートを先に辿れば原水爆実験場として有名なロプノール地区に至る。またラサ方面に向かったとしても、カイラス山の手前にはアクサイチンというインドと領土問題を争う高原がある。中国にとっては非常に敏感な多くの秘密を持つルートなのだ。秘密という意味ではチベット全土が秘密の土地であった。

3人の内、フランス人はこのように拘束されたのが2度目という。彼は国外退去になるのではないかと処罰を相当怖れていた。次の日の決定は全員150ドルの罰金を払うというものだった。150ドルは痛かったがそれだけで済んだという思いもあった。ただ、次にどうするかが問題だった。アメリカ人は再び同じルートをトライすると言った。私はもうその気になれず、仕方なく蘭州まで帰りそこからラサを目指すことにした。再び4泊5日のバスに乗り、何千キロも迂回しなければならないという徒労感に襲われたがラサを諦める訳には行かなかったのだ。

rftibet at 20:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年06月18日

学生デモを先導したとして民族中学2年生に4年の刑

8fbe37112012年11月9日、レゴンにおける学生大規模デモ。

アムドでは「民族平等」「言語自由」を訴えた2010年秋のデモに続き、去年2012年の秋にも「チベットの自由」を訴える大規模な学生デモが何度か発生している。その中でも特に大きかったのは11月9日にレゴンで行われたデモである。このデモには様々な学校から数千人〜1万人の学生が参加したと言われる。詳しくは>http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51768757.html

参加者の中心はレゴンにある州立師範学校、民族高校、職業訓練校、県立民族中学校の生徒たち。学生たちは市内を行進しながらダライ・ラマの長寿を祈る「雪山に囲まれしこの浄土の 全ての福利と幸福の源 観音菩薩であられる大師テンジン・ギャンツォ(ダライ・ラマ法王)よ 濁世の終わりまで留まられますように」という詩句を唱えると共に、「民族平等」「チベットに自由を」「ダライ・ラマ法王のチベット帰還を」等のスローガンを叫んだ。

行進は最初、州と県の庁舎が並ぶロンウォ・ゲルタンの大通りを進んだ後、ロンウォ僧院前のドルマ広場に集結し、そこで集会を開いた。広場には一般のチベット人や他の学校の生徒たちも集まり、その数が膨れ上がった。

これに対し、当局は最初デモを放置したが、最後には大量の部隊を派遣し、暴力的に鎮圧、多くの学生が負傷した。また、多数の学生を拘束し、校長を首にしたりした。この時拘束された学生の内、多くはその後解放されたが、未だ行方不明の学生もいるという。

Wangchuk_Dorjee4年の刑を受けたワンチュク・ドルジェ。

最近その内の1人に刑が確定したことが判明した。レゴン県中級人民法院が、この時のデモを先導したとしてレゴン県立民族中学校の生徒ワンチュク・ドルジェに4年の刑を言い渡した。裁判は秘密裏に行われ、判決の日時もはっきりとは分かっていない。

ワンチュク・ドルジェは青海省黄南チベット族自治州ツェコ県ニンシュル郷ロンポ村の出身。彼は逮捕されたときレゴン県立民族中学校の2年生であった。

参照:6月13日付けTibet Timesチベット語版http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=7784

rftibet at 15:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年06月17日

11日にタウで焼身した尼僧の死亡が確認された 内地死亡確認102人目

1013404_187776914714966_1889138548_n生前の尼僧ワンチェン・ドルマ

6月11日にタウ(四川省カンゼチベット族自治州道孚)で焼身した尼僧ワンチェン・ドルマ(31)の消息は、現地の電話やネットが遮断されていたため不明のままであった。15日の午後から電話とネットが再び通じるようになり、彼女の消息が判明し、写真も伝えられた。

Tibet Expressによれば、焼身後、警察によりダルツェンドの病院に運ばれていたワンチェン・ドルマは14日の午後8時頃、病院で死亡したという。遺体は家族に渡されず、すぐに当局により電気遺体焼却炉で焼却された。

14日、ミニャク・ダパにある家族の元に警官が押し掛け、遺族の下に慰問に来た地区の人々、親戚、僧侶や尼僧を追い払い、家族が外に出ることも禁止した。このような状況の下、家族は追悼法要も行えない状態という。

ワンチェン・ドルマはタウ県ダクト郷ダパ村ギェルブム家の娘。俗名はツェリン・ドルカル、法名はワンチェン・ドルマ、31歳。父の名はテンジン、母の名はユドゥン。

近くに尼僧院がなかったので、タウ、バルシャプ・ダクカルという聖山にあるニンマ派のラマ、トゥルク・チュキニマが始めた僧・尼合同の修行場で修行していた。彼女は焼身の前日、10日にタウの学校を訪問し、生徒たちに「チベット語をしっかり学ぶように」というスピーチをしていたという。

同郷の人の話によれば、ダパ村では、数年前から政府がここにダムと発電所を作るので、村人たちは移住しろという命令を受けているという。これにより、村人たちは非常に困難な状況に陥っているという。

sonam_tserong_tawu1彼女の郷里である、ダクト郷ダパ村はタウの南方63キロのところにある。山に囲まれた寒村である。

地図はタウ県全図。上方の赤い印がタウ、下方の印がワンチェン・ドルカの郷里。

2009年以来、内地焼身119人目、内外合わせ123人目。女性19人目。

内外合わせ、死亡確認104人目。内地死亡確認102人、外地2人。

参照:6月17日付けTibet Express チベット語版http://www.tibetexpress.net/bo/home/2010-02-04-05-37-19/10720-2013-06-16-15-14-10

焼身者顔写真最新




















内地焼身者119人の顔写真:VOT Gurbum Tibet Gyalo制作

rftibet at 15:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)