2013年10月

2013年10月30日

過去3度に渡り14年間獄中で過ごした元政治犯 再び連行され行方不明に

10月25日付けTibet Timesによれば、デモに参加したとしてこれまでにすでに3度刑を受け、計14年間獄中で過ごしているラサ、チュシュル出身の元政治犯トゥプテン・ソナムが2ヶ月ほど前に秘密裏に当局により連行された。家族、友人は彼が何故連行されたのか、今どこにいるのか知ることができないままという。

トゥプテン・ソナムは1989年1月28日にパンチェン・ラマ10世が不審な死を遂げた直後、中国当局が殺したのだと、抗議の声を上げた。これにより彼は9年の刑を受けた。刑期を終え解放された後、ラサにおける抗議デモに参加したとして再び2年の刑。さらに2009年、ラサのパルコルで行われたデモに参加したとして2年の刑を受けた。刑務所における暴力により彼は病床に付したが、チャムド出身のテンジン・チュペルという囚人が彼の病気は仮病であると看守に訴えたことにより、1年刑期が延ばされた。

彼はチュシュル刑務所に収監されている間、刑務所側に対し、政治犯に食事や飲み水を与えず、飢餓状態にし、その上様々な暴力を与えていると訴えていた。また、刑務所仲間に対しては「ダライ・ラマ法王がチベットにお帰りになるまで、自分は刑務所に居続けるつもりだ」と言っていたという。

2012年に解放された彼は、最近ある写真の上にチベットの自由を願い、ダライ・ラマ法王を讃える歌を記していたという。
山頂にルンタを撒きながら 
心に願う 
雪山チベットの民に 
解放の時が訪れますように

お体は不変の金剛石の如く不動 
お声は不変のブラフマンの調べの如く心地よく 
お心は清らかな鏡のように真実を映す 
このような根本のラマを心に偲ぶ


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2013年10月29日

貴重ビデオ:鉱山開発に反対するチベット人に向かい部隊が発砲

8月中頃、ジェクンド州ザトゥ県では、地元チベット人数千人が鉱山開発に反対し、鉱山開発の山に集結した(詳しくはここ)。これに対し、当局は大量の部隊を派遣し、彼らを強制排除しようとした。この際、部隊が集まっていたチベット人に向かって発砲したという情報があり、その結果15人が病院に運び込まれたと言われていた。

しかし、これまで、発砲の事実については確認されていなかった。最近になり、現地からこの時撮影されたビデオを海外の人権団体が入手し、発表した。以下がそのビデオである。最後に機関銃の音が聞こえ途切れている。



また、最近現地から伝えられた情報によれば、9月半ばにこの抗議デモに関係し、分裂活動を行ったとして、3人の地元政府代表が解雇されたという。3人の名はケツァ・ストップ、ギェルツェン、プダックであるが、彼らは地元チベット人たちにより選挙で選ばれたチベット人たちであった。彼らが解雇されたことを知り、他のチベット人職員たちも職を辞したという。

参照:10月24日付けTibet Timesチベット語版
10月26日付けphayul


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2013年10月27日

AP通信:貴重インタビュー:チベットの村人が従兄弟の焼身に関する中国政府の報告を否定

661e750bAPの記者が最近アムドの入り、焼身者の従兄弟である僧侶に会い、インタビューを行った。10月23日付けでその記事がでている。インタビューに答えた僧侶は当局により特定される可能性が高く、非常に危険な取材と記事であると思われるが、貴重なものであることは確かなので、この記事を以下、そのまま訳す。(記事には写真も載っている

ここで言及されている焼身者とは2012年10月6日にアムド、ツォエ(ツゥ 合作)で焼身、死亡したサンゲ・ギャンツォのことである。彼の焼身については:参考過去記事
<速報>更なる焼身 アムド・ツォエ 二児の父 
サンゲ・ギャンツォ焼身後のドカル僧院 焼身の背景 
焼身の原因は「夫婦仲」と言えば100万元やる 


貴重インタビュー:チベットの村人が従兄弟の焼身に関する中国政府の報告を否定

10月23日付けAP

中国、甘南:中国のチベット人居住区でサンゲ・ギャンツォが焼身し、死亡した後、警察が彼の家族のドアを叩き、尋問した。答えも用意されていたようであった。

27歳になる農民の焼身自殺はあらかじめ計画されていたのか?彼は外国の分裂主義者と繋がっていたのか?家族は焼身抗議の報償金として300万元(約50万ドル)を受け取ったのか?

サンゲ・ギャンツォの従兄弟は彼の家族がこのような質問を受けたと言う。その後、政府はこの手に負えない泥棒でかつ女狂いであった2人の子供の父親が、民族憎悪を煽るための入念で残酷な計画に煽動されたと報告した。彼は報復を恐れ、匿名を条件にインタビューに答えた。

焼身者の従兄弟である1人のチベット人僧侶は「(当局の)話しはすべて全くのナンセンスだ」と言う。チベット高原に向かう丘が広がる甘南州の村でインタビューは行われた。彼は料理と暖をとるための両方に使われるストーブの近くに座っていた。窓の近くの欄間にはダライ・ラマ法王の写真が飾られていた。

チベット人居住区で行われたこの貴重なインタビューの中で従兄弟はAP通信に対し、焼身者は2012年10月6日、甘南州の彼が住んでいた村の近くにある白い仏塔の傍で、チベット人の権利が保証されていないことに対し、個人的抗議を行ったのだと話す。サンゲ・ギャンツォは海外のチベット人グループと関係があったわけではないと言う。

「サンゲ・ギャンツォやその他焼身した人々について、沢山の嘘が広められている」と彼は言う。

海外のチベット人権団体は2009年初頭以降、僧侶・俗人、男性・女性、年少者・年長者120人以上が焼身していると報告する。そのほとんどは死亡している。人権団体は、これらの焼身はヒマラヤ地域における中国の強硬支配に対する内発的抗議であるという。

最初の頃、焼身のニュースを抹殺しようとした北京にはイメージ問題がある。その後、焼身のレポートが絶え間なく外部に漏れ続けることを知り、北京は次に焼身者たちを、分裂をもくろむダライやその支援者たちの煽動に乗せられたくず人間たちであるということにした。共産党がコントロールするメディアは焼身者たちをギャンブル狂い、泥棒、女狂い、或は社会から落ちこぼれたか身体的障害により苦しんでいた者たちであると書き立てた。

1959年に北インドに逃れたチベット仏教のリーダーであるダライ・ラマは自殺への関与を一切否定し、命が失われることを悲しみ、北京が国際的監視下で事態を調査することを求めている。彼はまた、チベットの独立ではなく、自治を求めているという。

北京の厳しい監視により、現地から独立したレポートをすることはほぼ不可能に等しい。外人ジャーナリストが甘南州を訪問することは可能であるが、今回の旅行中も警官たちがAP通信記者たちの監視し続け、現地のチベット人にインタビューすることを避けさせようとしていた。

直接の家族たちが黙らされているが故にサンゲ・ギャンツォの詳しい物語は未だはっきりして来ない。彼の従兄弟や近隣の人々はAPに対しサンゲ・ギャンツォの村に近づかない方がいいと助言した。政府のスパイがいて家族が話しをすることを妨害するであろうという。


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2013年10月25日

焼身者の救助を妨害したとして3人に4〜5年の刑

ノルブ・ドルジェ、グルゴン
刑を受けた左ノルブ・ドルジェ、右グルゴン。

在インドの元政治犯ラモ・キャプが現地と連絡を取り明らかにしたところによれば、四川省ンガバ州キュンチュ県の中級人民法院は3人のチベット人に対し、焼身者の救助を妨害し、焼身者を死に至らしめたとして4〜5年の刑を言い渡したという。

今年1月18日ンガバ州キュンチュ県ダチェン郷の広場で2人の父ツェリン・プンツォク(別名ドゥプチョク)28歳が、中国のチベット政策に抗議するため焼身、その場で死亡した。

ツェリン・プンツォクツェリン・プンツォクの焼身。

現場に集まったチベット人たちは彼を囲み、祈りを上げながら燃え尽きるのを見守った。裁判所によれば、この時、現場に駆けつけた警官が消火器で火を消そうとしたが、それを3人のチベット人が妨害し、消火器を取り上げたという。

3人とはキュンチュ県出身のグルゴン、ソナム・ヤーペル、ノルブ・ドルジェ。3人とも1月22日に拘束されている。7月半ばに行われた裁判にはキュンチュ県内の各郷の役人と、それぞれの被告の家族が2人づつ傍聴する中で行われたという。その結果、グルゴンとソナム・ヤーペルに4年の刑、ノルブ・ドルジェに5年の刑が言い渡された。

ツェリン・プンツォクツェリン・プンツォク。

チベット人たちは焼身抗議を目撃したとき、本人の意志を全うするために、彼らが死ぬまで手を出さず、見守ろうとする。死ぬことなく、当局の手に落ちれば、その後行方不明となり、苦しみも多く、家族と面会でない可能性が高い。病院で死んだ時には遺灰のみが家族に渡され、葬儀を行うこともできない。また、命を繋いでも当局のプロパガンダ用に使われる可能性が高く、それは本人の意志ではないことがはっきりしているからだ。

2009年以降、これまでにチベット内地で122人が焼身抗議を行っている。その他、インドとネパールで6人が焼身し、焼身抗議者の合計は128人である。間近の焼身者は9月28日、ンガバ州ンガバ県ゴマン郷 で焼身したシチュン(41)。

中国当局は焼身者をテロリストと呼び、関係者を多数拘束し、懲役刑を与えている。

参照:10月23日付けRFA英語版
チベット語版
10月23日付けTibet Times チベット語版
10月23日付けphayul

rftibet at 18:12|PermalinkComments(1)TrackBack(0)チベット内地情報 

2013年10月24日

第53回TCV創立記念日

TCV
昨日、10月23日は毎年恒例のTCV創立記念日であった。街中のチベット人がTCVグランドに集まり、子供たちの演技を楽しみ、その後昼食ピクニックに興じた。数年前からダライ・ラマ法王はもうお出にならなくなり、その代わりギャワ・カルマパが来られるようになっている。

TCV(チベット子供村)は1960年、法王の意志を受け、法王の妹さんであるツェリン・ドルマさんが責任者となり、最初、道路工事に従事する親たちの子供51人を集めて始められた。若くして亡くなられたツェリン・ドルマさんの死後同じく法王の妹さんであるジェツン・ペマさんが責任者となられ、TCVを今のような大きな組織にされた。彼女も数年前に引退された。今の代表はツェワン・イシェ氏である。

TCV2
記念式典の最初に最近焼身抗議で亡くなられたチベット人を始めとする、すべてのチベットのために犠牲となった人々のために黙祷が捧げられた。そして、チベット国歌斉唱。

その後は現代表であるツェワン・イシェ、議会議長ペンパ・ツェリン、首相ロプサン・センゲが順次スピーチ。

ツェワン・イシェ氏はまず、簡単にTCVの歴史を紹介した後、「今年の10年生(高校1年)のインド全体試験にTCV8校から862人が受験し、819人が合格、43人が不合格、合格率95%。12年生(高校3年)の全体試験には5校の生徒699人が参加、612人が合格、再試70人、不合格17人、合格率87.55であった」と合格率を誇示。その他、南インドに開校した「(通称)ダライ・ラマ大学」も正式に大学の認定を受けたとこ、中国語のクラスも始まったとこ等を報告した。

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議会議長のペンパ・ツェリン氏は「TCVは現在14000人の生徒、教師、職員を合わせ16000人を擁する非常に重要な組織である。現在までに約4万人が卒業している。教師、職員たちが苦労してここまで育て上げたことを大いに評価する」「今後とも、特に勉強だけでなく、良き人格を育てることに努力して頂きたい」と述べ、ついでに「議会は法王の唱える中道路線を最上の道と認識し、これを堅持する」ということも付け足した。

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首相のロプサン・センゲ氏は「亡命政府の中にはこのTCV出身の沢山いる。例えば、政府職員616人の内194人がTCV出である。この2年間に試験を経て採用された政府職員56人の内、35人はTCV出であった。約60%がTCV出ということになる」といい、最近ますます、生徒たちの成績が向上していることを具体的な例を上げ賞賛。政府も教育資金を増やし、今後修士、博士課程に進む学生を増やす計画であると述べる。

また、「良き生活のためだけを目的に勉強せず、あなたたちには特別の責任、闘うという責任、チベットの危機を救うという責任があることを忘れてはならない」とも述べる。

最後にジョークで「TCVのモットーは『他者優先』。明日から運動会があるが、競争でもしも負けたら『他者優先』で負けてやったのだ、と言えばいい」と。

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ギャワ・カルマパ

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中学生によるマスゲーム

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人文字 WE SALUTE OUR MARTYRS(殉教者に敬礼)

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SPREAD LOVE AND COMPASSION(愛と慈悲を広めよう)

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小学校の生徒たちによる、歌と演技『お母さんを思い出し、悲しくなった」。

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泣いてるところ。

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高校生による、チベット伝統歌舞。

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各クラスが掲げる創作バナー。これは「境界を越え調和しよう」

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「敵見方を分けず愛情を注ごう」

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演技が終わり、解散。

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オロを見かける

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太鼓を持つのは映画『オロ』にも出演してた、ケルサン・ニマ。

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式典が終わり、TCVの寺に向かうギャワ・カルマパ。

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終わった後はダル湖のほとりでピクニック。ルンタレストラングループ。

rftibet at 20:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)ダラムサラ町の出来事 

2013年10月23日

ウーセル・ブログ:1950年代にチベットを「訪問」した外国人記者団

8月14日付けウーセル・ブログ

原文:唯色:1950年代“访问”西藏的外国记者团
翻訳:@yuntaitai さん

◎1950年代にチベットを「訪問」した外国人記者団

ウーセル1中国蔵学出版社が近年出版した2冊の翻訳書。











外国人記者団のチベット取材ツアーを手配するのは中国共産党の伝統だ。これは中国蔵学出版社が近年出版した翻訳書を読んで得た結論だ。



ウーセル1「プラウダ」中国駐在記者のオフチンニコフ。













そのうち1冊のタイトルは「チベットの素顔」という。原書はロシア語で、著書はソ連の「プラウダ」記者だったオフチンニコフだ。1955年にソ連と東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアなどの社会主義国の記者と、中国在住の親中国共産党的な西洋人が、「解放」されたチベットを訪問した。中国首相だった周恩来が招待し、中国外交部新聞司が手配、引率した。この本はまるで中国官製メディアの海外向けニュースのように、外国人の言葉を通じ、チベットを占領して5年になる中国共産党が世界に伝えようとした話を記している。

この外国人記者団はラサで二十歳のダライ・ラマ法王に面会している。この本に記録されている法王の言葉が事実だとすれば、法王のごく短い話は原稿をそのまま読み上げたような決まり文句だと分かる。占領された側のスポークスマンとして、やむを得ず話したのだ。

宗教を憎み、低く評価するのは共産党員の特徴だ。悪名高いソ連共産党機関紙「プラウダ」の記者として、オフチンニコフはそれを全く隠そうとしない。彼はポタラ宮の壁画に描かれたチベット各地の僧院を見た時、「まるで病人の顔のあばただ」と形容した。

ウーセル3文革時代の毛沢東とアンナ・ルイス・ストロング。










もう1冊は「チベット日記」という。原書は英語で、著者は親中国共産党の米国人アンナ・ルイス・ストロングだ。彼女は(1946年に)延安で毛沢東やその軍隊を取材し、毛から好意的に迎えられた。1958年には北京に移住した。

1959年3月、チベット人の抵抗が鎮圧され、政治的、精神的指導者のダライ・ラマは異国への亡命を強いられた。社会主義国の記者や容共的な西洋人でつくる記者団19人はそのわずか数カ月後の同年夏、中国国務院の特別な許可を得て、外交部と人民日報の手配と案内の下、「解放」されたチベットを訪ねた。70歳を過ぎたアンナ・ルイス・ストロングもこの中にいた。本に描かれているように、ラサまで「特等」の専用機に乗り、ノルブリンカでは道の両側に配置されたチベット人数百人の歓迎を受けるなど、記者団は終始さまざまな特権を享受した。

そのため、同書は本物の報道のクオリティーを全く備えていない。客観性が欠けているだけではなく、事実ですらなく、中国共産党宣伝部による「チベットの声」が語句や行間にあふれている。更にでたらめなのは、3月に中国共産党の軍隊の砲撃がチベット人を鎮圧した時のことだ。この老婦人は「反乱分子の砲兵隊が総攻撃を始め、ポタラ宮やノルブリンカ、要害の高地である薬王山から砲撃が天を突いた」と書き、解放軍の砲撃によるメンツィーカン破壊を「反乱分子」の行為だったとまで書く。そして、中国共産党の特色ある「批判大会」(「解放農奴」による貴族弾劾集会)をとても素晴らしいと感じる。党幹部が始めたこうした「批判大会」は暴力に満ちていた。党に「階級の敵」とみなされた無数の命を全国各地で既に奪っており、チベット人社会でも多くの中心的人物の命を奪っていった。

補足しておくと、中国共産党が手配する現在と過去のチベット取材ツアーを比べると、今は基本的に社会主義国の記者がいないという点で異なっている。世界の枠組みにはとても大きな変化が起き、ソ連はロシアになり、東ドイツはドイツの一部になり、チェコスロバキアは二つの民主国家に分かれた。もし中国共産党が同じ陣営の太鼓持ちを招待したければ、キューバや北朝鮮など、数も少なく、信用もない社会主義国しか残っていない。もちろん、彼らはそれほど間抜けではなく、統一戦線を張りやすい国か、息のあった非社会主義国の登場人物を招待するだろう。

しかし、共通する部分もある。例えば、50年以上前のツアー内容は現在とそれほど変わっていない。「苦しみは大きく、恨みは深い」という「解放農奴」を例外なく取材し、彼らが極悪非道の「旧チベット」を告発し、幸福な「新チベット」をたたえるのを聞かなければならない。過去の取材コースと現在の取材コースが驚くほど似通っていることまである。例えば、生まれ変わった荘園を取材すると、党の選んだ「解放農奴」が記者団を恭しく待っているというように。

事実上、(1955年と1959年の)二つの外国人記者団が取材した時、チベット全土ではチベット人の壮絶な抵抗が起きようとしていたか、ひどい場合は既に起き、「反乱平定」を名目とする中国共産党の軍隊の大虐殺に遭っていた。チベット研究者のエリオット・スパーリンクは、中国が1982年の国勢調査に基づいて作った性別比グラフについてこう書いている(http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-634.html
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-635.html
)。「チベット高原の広い範囲で男女比のバランスが崩れている。この不均衡を説明できるのは暴力闘争だけだ」「中国側の記録を自由に調べられないため、正確な数字は分からない。だが、大規模な虐殺が起きたという事実に異論の余地はない」

2013年7〜8月   (RFA特約評論)

以下の写真は「チベットの素顔」と「チベット日記」(ともに中国蔵学出版社)から。

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周恩来が招待し、中国外交部が手配した外国人記者団とダライ・ラマの集合写真。(「チベットの素顔」より)

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アンナ・ルイス・ストロングら19人の記者団がポタラ宮前で撮った集合写真。(「チベット日記」より)

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党に集められた数百人のチベット人が外国記者団を歓迎した。(「チベット日記」より)

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党幹部が開いた「批判大会」について、アンナ・ルイス・ストロングは何度もたたえた。(「チベット日記」より)

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54年前のデプン僧院には、現在と同様に工作組幹部と積極分子の僧侶がいた。(「チベット日記」より)


rftibet at 19:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0)エッセイ風 

2013年10月22日

ディル:こいつらは「岩にぶつかる卵のようなものだ」と役人 拘束された同胞の解放を求めた人々を部隊が威嚇 10人逮捕 

IMG_1298拘束されたテンジン・ランドル。

10月18日、ディル県シャクチュ鎮(འབྲི་རུ་རྫོང་ཤག་ཆུ་གྲོང་རྡལ། 比如县夏曲镇)第4村出身の商人テンジン・ランドル(བསྟན་འཛིན་རང་གྲོལ། 34)が拘束され、行方不明となった。彼は子供を学校に届けた後帰宅する途中、突然警官に連行されたという。

翌日19日、同郷のチベット人約40人が彼の解放を要求するために鎮役場の前に集まった。その内周辺の5つの村からも人が集まり、その数は100人を越えたという。

IMG_1297同胞の解放を求めるチベット人たちを威嚇する部隊。

報告を行ったチベット人によれば、彼らの訴えは以下のようであったという。
「無実であるテンジン・ランドルを解放してほしい。真実を訴え、状況を知らせる場所が全くない。違法だと言って嘘の罪を押し付けないでほしい。やたら住民を苦境に追いやらないでほしい。自分たちは全く分裂をもくろんでなどいないのに、見せかけの法律や権力を役人個人が勝手に利用して政府と民衆の間に分裂を引き起こしている。自分たちがここに来たのは、物を買いに来たのでもなく、物をもらいに来たのでもない、政府に対し、法律を公正に適用してほしいがために来たのである」と。

彼らはその夜そこに留まり続けたが、20日には部隊が彼らを取り巻き、ナクチュ地区やディル県の役人数人がやって来た。ナクチュ地区の高官は「こいつらは岩にぶつかる卵のようなものだ。59年や69年の時のようにしてやる」と集まったチベット人たちのそれぞれの頭に手で銃を撃つ真似をしながら、侮蔑の言葉をわめき散らしたという。そして、その中から10人を連行し、残り全員から指紋をとった。

shagchu_PAP2-225x300連行されたチベット人の名前はショダル、ドルギェ・ラモ、ケルサン・ナムドル、メンギェル、サンモの息子、等。

地域には部隊が大勢配備され、住民の移動を禁止し、電話等の通信網も遮断された。

参照:10月21日付けRFAチベット語版
10月21日付けTCHRD英語版
10月21日付けVOT中国語版
10月21日付けTibet Timesチベット語版
10月21日付けTibet Expressチベット語版





duriu1_2013_10_18シャクチュ鎮に向かうチベット人たち。

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2013年10月21日

ディルで再び4人拘束 国境なき記者団とアムネスティが非難

ディルで逮捕
新たに連行された左よりダワ・ルンドゥップ、僧ジャンパ・レクシェ、僧ケルナム。

中国国旗掲揚強要で死者や拘束者が続く自治区ディル県で再び4人のチベット人が連行された。このディル弾圧に関連し、国境なき記者団は当局が情報を流したとしてチベット人を逮捕することを非難、アムネスティ・インターナショナルも抗議者に対する暴力的対応を非難する声明を発表した。

10月15日、ディル県シャムチュ郷ヤルディン村から19歳のダワ・ルンドゥップと20歳の尼僧ジャンパが警官により連行された。2人が連行された理由は、秘密の情報を電話やネットを使い外部に伝えたからと言われる。

2人が連行された後、村の長老たちが県の警察所に赴き、無罪の彼らを早く解放してほしいと懇願したが、取り合ってもらえなかったという。

10月17日にはディル県シュクディン僧院の僧ジャンパ・レクシェ20歳と僧ケルナム25歳がラサ市内で拘束された。彼ら2人も外部に情報を流したという理由で拘束されたと思われている。2人とも出身はディル県シャムチュ郷ヤルディン郷。

TCHRDによれば、アムドやカムでも当局は僧院内にディル県出身の僧侶や尼僧がいないかを調査し、彼らを尋問しているという。

先月末から続くこのディル県のチベット人に対する弾圧に関し、アムネスティ・インターナショナルは10月6日付けで「中国:チベット人抗議者に対する警官の『非道な』暴力を止めよ」と題されたリリースを発表した。

この中でアムネスティ・インターナショナルの中国研究員Corinna-Barbara Francisは「平和的集会に向かって警官が発砲することは非道である。この間近の事件は中国当局が保安部隊が過剰な力を使用することを全く抑制せず、チベット人の自由に平和的な集会を行う権利を全く尊重していないことを如実に示している」と語り、「重傷者が治療を受けることも妨害している」と強い口調で非難する。

また「チベット全域に渡り、状況は緊迫したままであり、中国当局はチベット人のもっとも基本的な人権をも否定し続け、全く状況を改善しようとしていない」とコメントする。

国境なき記者団は10月16日付けで「連続する逮捕により、チベットの孤立は増すばかり」と題されたリリースを発表している。

その中で、当局が、ディル県の弾圧状況を外部に伝えたとする多くのチベット人を「社会の安定と祖国の分裂をもくろむ政治的行為を行った」との口実の下、恣意的拘束を行っていることに憂慮を示し、「チベットの劇的な状況を同胞や外国に知らせようとしたチベット人を逮捕することは、地域の孤立・隔離をさらに深めることになる」と述べ、「チベットを情報のブラックホールにしようとする代わりに、中国当局はそのような恣意的逮捕を止め、直ちに拘束者たちを解放すべきである。我々は国際社会に対し彼らの拘束を強く非難すべきことを要請する」と続ける。

「このようなあからさま情報の自由に対する侵害に対し、口を噤むことは如何なる意味においても正当化されない。中国政府はチベット人に対して行っている抑圧的で差別的な政策を非難される時、常に『主権尊重』を持ち出すが、これも口を噤むをことを正当化させるものでは決してない」とコメントする。

参照:10月19日付けTibet Timesチベット語版
10月19日付けTibet Expressチベット語版
10月19日付けVOT中国語版
10月20日付けphayul

rftibet at 21:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0)チベット内地情報 

2013年10月20日

ラガンで鉱山より流れ出た鉛水により魚、家畜が大量死 抗議に対し当局は部隊を派遣し威嚇

56cb3912-bc51-4cb1-849d-2406e12ffb5d四川省カンゼ州ラガン県バラン郷では2005年から鉛鉱山の開発が行われているという。

「10月13日頃、バラン郷にある鉱山から毒を含んだ水が流れ出た。それは20〜30マイル(32〜48キロメートル)に渡り川の水を汚染し、数へ切れないほどの魚が死に、川の水を飲んだ馬、羊、ヤギ等の家畜も沢山死んだ」と現地の人は報告する。

「この毒水は付近の5、6カ所の村の飲料水も汚染した」、「村人たちは死んだ魚を県庁舎の前に運び、当局に訴えた。しかし、当局はこれにまともに答える代わりに部隊を現地に送り込み、地域の電話やネットを遮断した」という。

別の報告者によれば、「当局は県の役人を現地に派遣したが、彼らは『調査には時間が掛かる。その内上級機関が何か決定するだろう』と言っただけだ」という。

mingaak_2013この鉱山は2005年に「道路を作る」という口実の下に始められた。当初から村のリーダーたちはこの鉱山開発に反対していたが、「県の役人や請負業者は『この計画は党と県の意志であり、これに異を唱えれば重大な結果が待っているだろう』と脅していた」という。

2011年にも同様に多くの魚や家畜が死ぬという事件があり、村人たちは政府に訴えたが、何の効果ももたらさなかった。

今回も訴えに対し当局は何も具体的な方策を提示することもなく、脅しのために部隊が送り込まれ、鉱山開発は続けられていることに対し、村人たちは非常に落胆しているという。

チベット全域に膨大な量の様々な鉱物資源があることは調査により知られている。中国政府は急ピッチで鉱山開発を進めている。住民の意志や利害を完全に無視したこれらの開発は、度々これに反対する地元の住民と衝突を引き起こしている。抗議が起る度に当局は話し合いを行う代わりに、部隊を派遣し、時には住民に対し発砲し、死者がてでも開発を続けるという強硬姿勢を見せている。

参照:10月18日付けRFA英語版
チベット語版
10月19日付けTibet Expressチベット語版

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2013年10月18日

ウーセル・ブログ「アコン・リンポチェの刺殺理由への疑問」

イギリス籍の高僧であり有名な慈善家であったアコン・リンポチェが10月8日に成都で殺されたことは先に報告した。当初からこの殺人事件には裏があるのではないかと当局の発表に疑いの目を向けるチベット人は多かった。ウーセルさんは10月14日付けのブログでこの疑惑について書かれている。

原文:对阿贡仁波切遇刺理由的存疑
翻訳:@yuntaitaiさん

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◎アコン・リンポチェの刺殺理由への疑問


ラサにいた私は10月8日夜、英国籍の74歳のチベット人アコン・リンポチェが成都で刺殺されたという悲報をネットで知り、驚愕した。これは成都の警察当局が速やかに公表した「経済的なもめ事」で起きたのだろか?真相はまだ明らかになっておらず(おそらく真相を知るのはとても難しいだろう)、私たちがさまざまな見解への判断を保留するのには理由がある。

私と私の夫(作家の王力雄)は何年か前、ジェクンドでアコン・リンポチェにお目にかかってお話ししたことがあり、深い印象が残っている。長期にわたってチベット人の教育を支援し、チベット・エリアで広く慈善事業を実施してきたアコン・リンポチェにここで敬意を表したい。

アコン・リンポチェが成都で刺殺されたのは10月8日午前11時ごろだ。成都の警察当局の微博「平安成都」は当日午後8時22分、「容疑者3人が既に逮捕された」と書き込んだ。しかも、この3人はただちに「被害者3人を殺害した事実を認めた」という。この解決と容疑を認めるスピードは少し速すぎるだろう。

ネット仲間はツイッター上で疑問を投げかけた。「経済のもめ事を解決するのに、どうして家に来てもらって話をするんだ?慈善家がどうして命よりも金を大事にするんだ?経済的なもめ事を解決するのに、ただ人を殺すだけで、財産は不要だったのか?1人も生かしておかず、完全に殺人を目的にしている」

あるチベット人はWechatに書いた。「容疑者3人は元々話し合いに行ったが、ただ『意見が食い違って衝突した』という。それならよく分からないことがある。話し合いに行ったのに、なぜ刃物を持って行く必要があったんだ?尊敬を集めるリンポチェに会うならなおさらで、これは普通のチベット人にはできないことだ。容疑者3人は刃物を持って話し合いに行き、『意見が食い違って』殺生戒を犯した。リンポチェだけではなく、おいや運転手までも殺し、1人も生かしておかなかった。準備して出向き、皆殺しにしたのは明らかだ」

「平安成都」の微博の発言にはたくさんのコメントがついており、一読の価値がある。最も頻繁に出てくる言葉は「蔵蛮子(チベットの野蛮人)」だろう。「また蔵蛮子がやってくれた!」というコメントもある。

「成都のチベット族男性3人が英国籍チベット人1人とおい、運転手を刺殺した」と題する新浪ニュースセンターの記事には、100件以上のコメントがついており、こちらも一読の価値がある。「チベット族にも刃物を持ち歩かせたら駄目だろ」という書き込みもあった。だが事実上、チベット人はチベット・エリアであれ漢人の土地であれ、とても厳しく検査されており、刃物、特に殺傷力のある刃物を持ち歩くのはほぼ不可能だ。

新浪ニュースのタイトルに至っては、何かを説明できているようだ。「英国籍チベット人」が「チベット族男性3人」に「刺殺」された。これはチベット人社会がとても乱れていて恐ろしいと説明できるだけではない。国際的な影響をつくり出し、チベット人社会がとても乱れていて恐ろしいと世界に思わせることができる。例えば、120件以上も続いたチベット人の焼身抗議も、似たようなレッテルを貼られる可能性があるだろう。少なくとも、「恐ろしい」「野蛮だ」という印象を多くの人たちに与えるだろう。

見事に偶然が一致していることに、ちょうど同じ時、チベット人の焼身抗議に関する私のブログ記事に謎の人物がコメントを残した。最後の一言にどうか注意してほしい。「8日午前、成都市武侯区の団地で、経済的なもめ事が原因になり、チベット族3人が刃物でほかの同胞3人を殺した。ウーセルよ、こういうチベット族の仲間同士の殺し合いについても語らなきゃいけないだろ!あいつらをいつも神様みたいに持ち上げて、汚れのない天使だとみんなに勘違いさせるなよ。がさつで横暴で、全てを単純な暴力で解決するのが得意な民族性も、みんなに知ってもらった方がいい」。もう1度書こう。最後の一言にどうか注意してほしい。

新浪微博では、チベット人たちの多くが事件を悲しみ、殺人犯の残忍さに憤っているが、深層まで考えてはいない。

リンポチェが刺殺されたのは「経済的なもめ事」「意見の食い違い」といった簡単な理由からだろうか?次のように話す冷静なチベット人もいる。「これほどの偉大な師に経済的なもめ事などはあり得ない!」「その名に恥じない国際的な慈善家で、慈悲を信念とするリンポチェで、内外の政府から歓迎されるチベット族の海外同胞。そのリンポチェがチベット仏教徒数人に殺されるとは非常に不思議な出来事だ」「巨額の資金を集めて孤児や未亡人、困窮者を援助し、無数の子どもに教育を受けさせてきた徳の高い師は、ジェクンド孤児院だけで毎年60万元も援助してきたし、それ以外の支援も枚挙にいとまがない。『経済的なもめ事』で殺害された?どうか皆さんには官製メディアの言葉遣いに警戒してほしい。巨星が落ち、これ以上ないほどに人々を悲しませている。知らず知らずのうちに官製メディアの言葉の影響を受けないようにしてほしい。この無明世界には、このような光明を放つ人物を抱える資格はない」

もういい、多くは語るまい。もしアコン・リンポチェ刺殺事件がより大きなほかの影響をつくり出し、重要な事柄を覆い隠すとしたら――例えば10月22日に国連人権理事会が中国の人権状況を全面的に審議する予定で、世界の視線はもう集まり始めており、チベット人の焼身が再び注目される――あるいは原因を理解できるかもしれない。

2013年10月10日      (RFA特約評論)


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2013年10月17日

ディル県出身の主婦が路上で突然警官に連行され失踪

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RFAその他によれば、10月11日午前11時頃、チベット自治区ナクチュの高原路にある���琼旅館(མཐོ་སྒང་ལམ་བདེ་འབྱང་མགྲོན་ཁང་།)の入り口付近で地元警官によりディル県ツァラ郷(རྩ་ལ་ཤང་། 比如县扎拉乡)第一村出身のケルサン(སྐལ་བཟང་།)と呼ばれる女性が拉致された。

これを知った彼女の親戚、友人たちが警察所に行き、何故彼女が連行されたのかを尋ねた。しかし、警察側は彼女がどこにいるのかを知らせず、また捜査が終わるまで何も話すことはないと突っぱねた。

彼女は3人の娘を持つ、主婦であり、特に政治的な活動はまったくしていなかったという。ただ、彼女のことをよく知る人の話しによれば、彼女は「we chat」の中でディルの状況について話しをしたり、ダライ・ラマ法王の写真を載せたりしていたという。また、携帯の中に当局により政治的と思われているチベット人の歌をダウンロードしていたとも言われており、これらが連行された理由ではないかと思われている。

中国ではwe chat等のソーシャルサイトはすべてチェックされており、ほんのちょっとした反政府的言動、または情報流布により、誰でもいつでも逮捕される可能性があるということである。逮捕されればその後拷問を受けることはほぼ間違いない。

参照:10月16日付けTibet Expressチベット語版
10月17日付けTibet Timesチベット語版
10月16日付けRFA中国語版

rftibet at 14:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)チベット内地情報 

2013年10月16日

アムド、チェンツァでも五星红旗掲揚を強要 ほとんどの住民は従わず

4f2b2dd5-6c2e-4f00-8464-da2e39e9600e命令に従い、やむなく国旗を掲げた家々。

チベット自治区ディル県では最近、当局の五星紅旗掲揚強要に反対した住民に部隊が発砲し、4人が死亡、大勢が負傷するという事件が起っている。そして、今度はアムド、ツェンツァでも同様に当局が、五星紅旗を家の屋上や戸口に掲げることを強要した。

10月13日、青海省黄南チベット族自治州チェンツァ県ツォドゥク郷ツォゲン村(མཚོ་སྔོན་ཞིང་ཆེན་རྨ་ལྷོ་ཁུལ་གཅན་ཚ་རྫོང་མཚོ་དྲུག་ཞང་མཚོ་རྒན་སྡེ་བ། 黄南州尖扎县措周乡措干口村)で、地元の役人が、村を訪問する政府高官を歓迎するために、家々の屋上や戸口に五星紅旗を掲げよという命令をだした。しかし、村の全戸数300の内、これに従ったのはわずか15戸であったという。

imageRFAに対し地元のチベット人の1人は「少ないが命令に従った者がいたようだ。本当に恥ずかしいことだ。私は中国の国旗など命に掛けても絶対掲げるつもりはない」と話す。

参照:10月14日付けRFA中国語版
15日付けRFA英語版
15日付けVOT中国語版
16日付けTibet Timesチベット語版
16日付けphayul

rftibet at 20:17|PermalinkComments(1)TrackBack(0)

2013年10月15日

ペユル(白玉):拘束された僧侶の解放を求め公安前に数百人

photo(4)510月12日、カム、カンゼ州ペユル僧院(དཔལ་ཡུལ་བཤད་གྲྭ)の僧ケルサン・チュダル(སྐལ་བཟང་ཆོས་དར།)が拘束された。これを知った当僧院の僧侶が全員彼の解放を求め公安の前に集まった。その内、他の僧院僧侶、尼僧、一般人も集まりその数は400〜600人になったという。僧侶1人と尼僧1人が負傷し病院に運び込まれたというがその原因は不明。

僧侶たちは夜中過ぎまで声を上げ続け、「今後何かことが起れば、それはすべて公安の責任だぞ!」と叫んだ。これに対し、公安側は「すでに僧ケルサン・チュダルは成都(別の情報ではチャムド)に移送され、ここにはいない」と答えたという。

kalsang_chodar_2僧ケルサン・チュダルは最近緊張が高まっているナクチュ地区ソク県の出身であり、2004年からこのペユル僧院で学んでいた。公安は彼がディル県の情報を海外に流したとの嫌疑の下に拘束したのではないかと思われている。

ペユル辺りにも最近チベット自治区からのスパイが多く、12日にはペユル僧院に僧衣を来たチベット人ともう1人の年配俗人が来て、僧ケルサン・チュダルのことを聞き出そうとしていたという。彼を拘束したのもチベット自治区の警察と言われている。

僧ケルサン・チュダルの拘束は、先のブログで報告したディルの作家ツルティム・ギェルツェンの拘束と関係があるように思う。ツルティムがディルで拘束されたのは11日であり、ケルサンがペユルで拘束されたのは次の日の12日である。ツルティムは2001年から2009年までペユル僧院に在籍しており、同郷のケルサンは2004年から同じ僧院にいた。ケルサンも著書がある作家である。2人が知り合いでなかったはずはない。ツルティムがケルサンにディルの弾圧の情報を伝えた可能性はある。当局は情報を流したという嫌疑だけでなく、彼らが影響力のある知識人が故に制裁を加えようと思ったのではなかろうか。

参照:10月13日付けTibet Times チベット語版
10月14日付けTibet Expressチベット語版
10月13日付けphayul
10月14日付けRFA中国語版
同チベット語版
同英語版

rftibet at 15:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)チベット内地情報 

ディル:作家と元警官が連行される

66e19457-0a7a-4dcb-8b1e-9072114db3e9連行された作家ツルティム・ギェルツェン

当局の弾圧により緊張が続くチベット自治区ナクチュ地区ディル県で、若い作家と元警官である彼の友人が連行された。

10月11日の夜中1時頃、ディル県の警官数人がシャムチュ郷テンカル村に現れ、作家ツルティム・ギェルツェン(ཚུལ་ཁྲིམས་རྒྱལ་མཚན།27)の自宅に押し入り、彼を連行した。次の日の早朝には彼の友人であった元警官のユルギェル(26)も自宅から連行された。

先月28日に国旗掲揚に反対し拘束されたチベット人の解放を要求し、千人近いチベット人がハンストを行った時、彼ら2人は「分裂主義的活動を行い、社会の安定を乱す噂を広めた」とされたと言われているが、本当の逮捕理由は不明であり、彼らの行方も不明のままである。

連行前にツルティム・ギェルツェンの自宅に、警官が入り、彼の携帯電話、パソコン、書籍等を押収していたという。

IMG_1133『雪域悲歌』

ツルティム・ギェルツェンは筆名ショクディル(ཞོགས་དྲིལ། 朝の鐘)の下に辛辣なエッセイや詩をチベット語と中国語で書く作家として知られていた。2007年に『雪域悲歌 ཁ་བ་ལ་འཁྲེང་བའི་དུང་སེམས་ཀྱི་ཅོང་སྒྲ 』と『雪域運命 གངས་རིའི་ལས་དབང ་།』の2冊を出版し、高い評価を受けた。

ツルティムは故郷のシャムチュ郷で小学校を終えた後、2001年に僧侶となりカンゼ州ペユル僧院に入った。2009年、ペユル僧院を離れデルゲ県のシェチェン僧院、ゾクチェン僧院、ペユル県のヤチェン・ガル僧院、ンガバのキルティ僧院等を転々としながら様々な仏教の教えを学んだ。

2009年、ツルティムは還俗し、甘粛省蘭州にある西北民族大学に入学し中国語を学んだ。在学中に執筆活動を始め、2012年から文学雑誌『新世代 མི་རབས་གསར་པ།』を仲間のチベット人たちと創刊し、後にこの編集主幹となった。彼は中国語のブログも続け、エッセイ、詩、翻訳を発表していた。このブログは現在当局により閉鎖されている。

Fate-of-Snow-Mountain『雪域運命』

しかし、卒業を数ヶ月後に控えた2013年5月、突然彼は大学から追い出された。その原因は彼の政治的意見や著作であろうと思われている。彼は度々大学内で仲間の学生たちを集め討論集会を開いていた。テーマのいくつかは当局により「違法」と見なされるものであったという。

大学を追われ、6月には故郷のディルに帰り「新一代(新世代)賓館 མི་རབས་གསར་པའི་མགྲོན་ཁང་། 」というゲストハウスを始めた。ゲストハウスの仕事の合間に彼は地元のチベット人たちにチベット語と中国語を教えていたという。



ac70f8da-e70c-457a-b994-4a89751a2e86ユルギェル

12日に連行されたユルギェルはツルティムの小学校時代からの友人であり、2005年から7年間公安局に勤務した。2012年、その仕事あまりに政治的なことに嫌気がさし、仕事を止め、商売をはじめた。地元の人の話しによれば、彼が公安局にいる間、地元のチベット人をたいそう助けたという。

参照:10月13日付けTibet Times チベット語版
10月13日付けRFA中国語版
10月14日付けTCHRDリリース

rftibet at 00:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)チベット内地情報 

2013年10月13日

恩師ゲシェ・ソナム・リンチェン師の死

298a069110月5日早朝、私のツァワェー・ラマ(根本の師)ゲシェ・ソナム・リンチェン師が遷化された。享年79歳。

知らせを受け、冷たくなり顔を覆われた師の下に跪き、泣いた。7日早朝、荼毘に付された。ゲシェラは死ぬ前にトゥクダム(高僧等が死後腐敗せず数日から長い時には1ヶ月もその状態を保つ現象。密教を極めた者が光明の状態を保っている印と思われている)について「回りの人には迷惑なことだ。どうせその後完全に死ぬのに違いない。私が死んだ時にはすぐに火葬にしてくれ」とおっしゃっていた。(20年ほど前のゲシェラの写真以外は荼毘の写真)

私がダラムサラに住み続けた理由の一つは、ゲシェラに会い、仏教に興味を持ったことであった。私は1985年から10年間、ほぼ休むことなく毎日、図書館で行われるゲシェラの仏教のクラスに参加し続けた。そして、その後、ツェンニーダツァン(仏教論理大学)にも6年通った。その間にダライ・ラマ法王からも雨嵐のごとくに教えと灌頂を受けた。しかし、凡人はすばらしい教えを何年聞いても、心の進歩は数ミリ程度である。

26_242ゲシェラとの思い出は尽きないが、ゲシェラの略歴をまず記し、思い出の幾つかを書こうと思う。ゲシェラはやさしい笑顔を絶やさなかったが、同時にいつも非常に男らしく毅然とされていた。

ゲシェ・ソナム・リンチェン師は1934年、カム、カンゼの西にある雪山に囲まれた美しいタルギェに生まれた。家は代々地元の大きな地主であったという。12歳の時、父親の反対を押切りタルギェ僧院で僧侶となった。父親は上の2人の息子がすでに僧侶となっていたので、3番目の息子は僧侶にせず家を継がせたかったのだそうだ。ゲシェラが僧侶になりたかったのは、仏教を勉強したいというより、僧侶が強くてかっこ良く見えたからだという。

18歳の時、本格的に勉強するため、数ヶ月かけラサに行き、セラ僧院ジェ学堂に入った。1959年、25歳の時、ラサ蜂起が起こり、ダライ・ラマ法王の後を追い、インドに亡命する。アッサムに抜ける道を辿ったが、それは未知・未開の少数民族の土地を抜ける、大変厳しいものであったという。ゲシェラの生まれた家は文革時、支配階級であったとして破壊され、家族の何人かは殺された。

亡命した僧侶たちはアッサムのバグサと呼ばれるキャンプ地に集められた。住居は何年もテントのままであった。ゲシェラはそこで8年を過ごした。灼熱と食料不足もあって、多くの仲間が病死したという。それでも仏教の勉強は絶えることなく続けられた。

26_250その後、ゲシェラはサルナートに新しくできたサンスクリット大学に送られ、そこで8年勉強を続け、アーチャリアの称号を得た。住居は屋根も壁もトタン板で、夏はあまりの暑さに蚊さえも死んだという。その後、ダラムサラの図書館に職員として呼ばれた。ゲシェの試験を受けたのは1980年という。1980年から図書館の仏教上級クラスの教師となり2012年まで30年以上も教え続けられた。オックスフォード大学出の弟子ルース・ソナムの巧みな通訳のせいもあり、ゲシェラのクラスはいつも世界中から集まった外人とチベット人で一杯だった。

ゲシェラの英語の本としてはルース・ソナム女史が翻訳・編集したアーリアデーヴァの『四百論』やナーガルジュナの『六十頌如理論』等多数出版されている。

ゲシェラは図書館が休みとなる冬には特によくオーストラリアとニュージーランドに呼ばれ、巡回講義をされていた。2年前にニュージーランドに行かれた時、吐血され、検査の結果胃がんと診断された。医者は手術を勧めたが、ゲシェラはそれを断り、死を覚悟しながらも、その後1年以上授業を続けられた。数ヶ月前から自分で食事をとることができなくなり、ひどく痩せられた。

1ヶ月ほど前、ダライ・ラマ法王がヨーロッパに向かわれる時、お見送りのためゲシェラは車椅子に乗り道端で待っておられた。ダライ・ラマ法王を乗せた車はゲシェラの前で止まり、法王は車から下りられて、ゲシェラの下に来られ、ゲシェラを強く抱きしめられた。そして、「あなたはもう多くの弟子に教えを授けられた。為すべきことはすべてなされた。何も心配することはない。来世またカムで元気な男の子として生まれることは間違いない」とおっしゃったそうだ。

これは、ゲシェラの弟子の1人で法王の側近をしている外人がゲシェラの状況を法王に話し、できればその日会って欲しいと申し出ていたからであった。もっとも、法王が途中で車から下りられるということは稀なことである、その時まで本当に法王の車が止まり、法王が外に出られるとは誰も思ってもいなかった。

ゲシェラはこれでもう何も思い残すことはなくなったことであろう。死の直前、ゲシェラの息が変化したことに気付いた弟子のニマがゲシェラに「ラマチュパ」を唱えましょうかと尋ねた。ゲシェラは「そうして下さい」と答えた。最期であることを悟ったのである。意識は死ぬまで明晰であったという。痛みは最期まで一度も訴えられなかった。そして、弟子たちが読経するなか、静かに息を引き取られた。

26_246私がゲシェラに最初に出会ったのは1984年の秋、亡命政府から建築家としてダラムサラに来て仕事をしてもらえないかと要請され、その下見に来た時であった。ある日本人の知り合いからダラムサラに行くなら親友のルース・ソナムに手紙と土産を持って行ってくれと頼まれていた。そこでダラムサラに着いた次の日にルースの家を尋ねて行った。ちょうどその時ルースの家にゲシェラがいらしたのだ。

丸顔で笑っているが、ちょっと怖そうでもあるなと思った。挨拶すると、ルースがついてだから何か仏教のことを尋ねるといい、という。とっさのことで何を質問したものかと思ったが、「オンマニペメフンの意味は?」と聞いた。すると、ゲシェラは観音菩薩の説明からはじまり、その観想を含め相当詳しい説明をされた。そして、これから毎日今教えた観想を行うといい、とも言われた。家を出る時、ルースが「今の話しはすべて覚えておけないだろうから、明日、書起したものを届けましょう」と言った。そして、その通り次の日には何ページにも渡る説明が手書きされたノートが届けられた。私はその前からチベット仏教に興味を持っていた。これは何かの縁と、その日から私はまじめにその教えられた観想を続けることにした。そして、必ずダラムサラに戻りこの先生に付いて仏教を勉強しようと決心した。

一旦日本に帰り、次の年の春幼い子供2人と妻を伴って、ダラムサラに戻り、情報国際関係省の職員となり建築の仕事を始めた。ゲシェラが図書館で毎日授業をされていることを知り、事務所に断り、毎日11時から1時間その授業にでることの許しを得た。まだ若い私は仏教にのめり込み、朝は図書館の前で五体投地をし、数珠を手にオンマニペメフンを唱えながら歩いた。授業はすべてノートした。次々頼まれる仕事や幼い子供の世話も忙しいというのに、その上タンカ(仏画)を習ったり、タブラを習ったりとインドの田舎なのに寝る暇もないぐらい忙しくしていた。

26_241数年後には、もっと自由になり仏教を勉強する時間がほしいと、政府の職員は辞して、山の上の水道もガスもないような小屋に住み始めた。その後5年間ほどは水を運び、薪だけで暮らした。

ゲシェラは選ばれた弟子だけを対象に特別クラスも行っていた。弟子の要請で密教も教えていた。そんなクラスでは驚くほど詳しい説明や観想について説かれていた。そのころはダライ・ラマ法王もチベット正月開には2週間に渡る講義を行われていた。そのころの詳細な説明に比べると、最近のティーチングは時間の制約が多く要約程度なのが惜しまれる。

4年ほど経った時、私は意を決して、ゲシェラに「僧侶になりたいのですが」と申し出た。しかし、ゲシェラは「お前には家族がある。僧侶にならなくても仏教は勉強できる」と言われ、許可してくれなかった。その後、今度はダライ・ラマに直接会う機会があったとき、法王にも「僧侶になりたいのですが」と申し出た。しかし、法王も「あなたには家族がある。もっと仏教を勉強したいならツェンニーダツァンに入ればいい。私が話しをしよう。僧侶になる必要はない」と言われ、やむなく僧侶になることは諦めるしかなくなった。この時、(勝手に)僧侶になっていれば、人生まるで違っていただろうと思うこともあるが、ま、私には一生僧侶はやれないだろうと判断されたに違いないとも思う。

私がこれほど仏教にのめり込んだのには、理由があった。若いころの悪行のせいで心に人に言えぬ傷があったからだ。ダラムサラの裏山のピークは5千メートル弱であったが、その麓にはかしこに草原があり美しい場所が多かった。私は山登りにも凝って、最初は週末ごとに、その内シーズンには毎日山に行き、そこかしこの洞穴で寝るということを始めていた。無茶な岩登りや雪の中の登山もやって何度か死んでいてもおかしくない転落、滑落事故にも遭った。

DSC_77834千メートルほどの所にある洞窟に暮らし、早朝そこを出て図書館まで5時間ほどかけて下り、授業の後また洞窟まで6時間かけて登るという生活を数ヶ月続けたこともあった。そんな私を見て、ゲシェラは「お前は最近山に暮らしているそうだな。洞窟で瞑想しているのか?私はまだ、お前にすべて教えたつもりはない。どうせ瞑想と言っても正しいものではないであろう。家族もいるのだから、もうそんなことは止めなさい。とにかく、普通にすることだ、外見も行動も、心も普通にすることを心掛けるべきだ」と諭された。雪の中裏山のピークに登り死にそうになったこともあり、私はそれから山に行くことを止めた。

私はゲシェラに精神的危機と身体的危機二つともに救われたと思っている。

26_252抜けたと思っても何度もやって来るのがサンサーラというもの、その後もいろいろあり、何度もゲシェラには心配を掛けたが、やっと歳も十分取り、自然に落ち着いて来たこのごろである。そして、親代わりであったゲシェラは亡くなってしまった。これから1人だけの本当の余生が始まったようだ。



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