エッセイ風

2013年10月23日

ウーセル・ブログ:1950年代にチベットを「訪問」した外国人記者団

8月14日付けウーセル・ブログ

原文:唯色:1950年代“访问”西藏的外国记者团
翻訳:@yuntaitai さん

◎1950年代にチベットを「訪問」した外国人記者団

ウーセル1中国蔵学出版社が近年出版した2冊の翻訳書。











外国人記者団のチベット取材ツアーを手配するのは中国共産党の伝統だ。これは中国蔵学出版社が近年出版した翻訳書を読んで得た結論だ。



ウーセル1「プラウダ」中国駐在記者のオフチンニコフ。













そのうち1冊のタイトルは「チベットの素顔」という。原書はロシア語で、著書はソ連の「プラウダ」記者だったオフチンニコフだ。1955年にソ連と東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアなどの社会主義国の記者と、中国在住の親中国共産党的な西洋人が、「解放」されたチベットを訪問した。中国首相だった周恩来が招待し、中国外交部新聞司が手配、引率した。この本はまるで中国官製メディアの海外向けニュースのように、外国人の言葉を通じ、チベットを占領して5年になる中国共産党が世界に伝えようとした話を記している。

この外国人記者団はラサで二十歳のダライ・ラマ法王に面会している。この本に記録されている法王の言葉が事実だとすれば、法王のごく短い話は原稿をそのまま読み上げたような決まり文句だと分かる。占領された側のスポークスマンとして、やむを得ず話したのだ。

宗教を憎み、低く評価するのは共産党員の特徴だ。悪名高いソ連共産党機関紙「プラウダ」の記者として、オフチンニコフはそれを全く隠そうとしない。彼はポタラ宮の壁画に描かれたチベット各地の僧院を見た時、「まるで病人の顔のあばただ」と形容した。

ウーセル3文革時代の毛沢東とアンナ・ルイス・ストロング。










もう1冊は「チベット日記」という。原書は英語で、著者は親中国共産党の米国人アンナ・ルイス・ストロングだ。彼女は(1946年に)延安で毛沢東やその軍隊を取材し、毛から好意的に迎えられた。1958年には北京に移住した。

1959年3月、チベット人の抵抗が鎮圧され、政治的、精神的指導者のダライ・ラマは異国への亡命を強いられた。社会主義国の記者や容共的な西洋人でつくる記者団19人はそのわずか数カ月後の同年夏、中国国務院の特別な許可を得て、外交部と人民日報の手配と案内の下、「解放」されたチベットを訪ねた。70歳を過ぎたアンナ・ルイス・ストロングもこの中にいた。本に描かれているように、ラサまで「特等」の専用機に乗り、ノルブリンカでは道の両側に配置されたチベット人数百人の歓迎を受けるなど、記者団は終始さまざまな特権を享受した。

そのため、同書は本物の報道のクオリティーを全く備えていない。客観性が欠けているだけではなく、事実ですらなく、中国共産党宣伝部による「チベットの声」が語句や行間にあふれている。更にでたらめなのは、3月に中国共産党の軍隊の砲撃がチベット人を鎮圧した時のことだ。この老婦人は「反乱分子の砲兵隊が総攻撃を始め、ポタラ宮やノルブリンカ、要害の高地である薬王山から砲撃が天を突いた」と書き、解放軍の砲撃によるメンツィーカン破壊を「反乱分子」の行為だったとまで書く。そして、中国共産党の特色ある「批判大会」(「解放農奴」による貴族弾劾集会)をとても素晴らしいと感じる。党幹部が始めたこうした「批判大会」は暴力に満ちていた。党に「階級の敵」とみなされた無数の命を全国各地で既に奪っており、チベット人社会でも多くの中心的人物の命を奪っていった。

補足しておくと、中国共産党が手配する現在と過去のチベット取材ツアーを比べると、今は基本的に社会主義国の記者がいないという点で異なっている。世界の枠組みにはとても大きな変化が起き、ソ連はロシアになり、東ドイツはドイツの一部になり、チェコスロバキアは二つの民主国家に分かれた。もし中国共産党が同じ陣営の太鼓持ちを招待したければ、キューバや北朝鮮など、数も少なく、信用もない社会主義国しか残っていない。もちろん、彼らはそれほど間抜けではなく、統一戦線を張りやすい国か、息のあった非社会主義国の登場人物を招待するだろう。

しかし、共通する部分もある。例えば、50年以上前のツアー内容は現在とそれほど変わっていない。「苦しみは大きく、恨みは深い」という「解放農奴」を例外なく取材し、彼らが極悪非道の「旧チベット」を告発し、幸福な「新チベット」をたたえるのを聞かなければならない。過去の取材コースと現在の取材コースが驚くほど似通っていることまである。例えば、生まれ変わった荘園を取材すると、党の選んだ「解放農奴」が記者団を恭しく待っているというように。

事実上、(1955年と1959年の)二つの外国人記者団が取材した時、チベット全土ではチベット人の壮絶な抵抗が起きようとしていたか、ひどい場合は既に起き、「反乱平定」を名目とする中国共産党の軍隊の大虐殺に遭っていた。チベット研究者のエリオット・スパーリンクは、中国が1982年の国勢調査に基づいて作った性別比グラフについてこう書いている(http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-634.html
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-635.html
)。「チベット高原の広い範囲で男女比のバランスが崩れている。この不均衡を説明できるのは暴力闘争だけだ」「中国側の記録を自由に調べられないため、正確な数字は分からない。だが、大規模な虐殺が起きたという事実に異論の余地はない」

2013年7〜8月   (RFA特約評論)

以下の写真は「チベットの素顔」と「チベット日記」(ともに中国蔵学出版社)から。

u12

周恩来が招待し、中国外交部が手配した外国人記者団とダライ・ラマの集合写真。(「チベットの素顔」より)

u11

アンナ・ルイス・ストロングら19人の記者団がポタラ宮前で撮った集合写真。(「チベット日記」より)

u10

党に集められた数百人のチベット人が外国記者団を歓迎した。(「チベット日記」より)

u9

党幹部が開いた「批判大会」について、アンナ・ルイス・ストロングは何度もたたえた。(「チベット日記」より)

u8

54年前のデプン僧院には、現在と同様に工作組幹部と積極分子の僧侶がいた。(「チベット日記」より)


rftibet at 19:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2009年11月22日

ダラムサラの野鳥・その9

ルリビタキのメスOrenge-flanked Bush Robin 15cm
日本では「ルリビタキ」と呼ばれる鮮やかなブルーが特徴の山鳥です!?
この子はそのメスと判断しましたが、自信はありません。
鳥もオス・メス、子供・大人で羽の色や大きさが変わるので判別は難しいことがあります。

ーーー

ダラムサラにはまだ桜が咲き続けています。
こんな心地よい時期、法王にはぜひとも自宅でのんびりと過ごして頂きたい。

前回のエントリーでは法王の健康に関しちょっと大げさな言葉を使いすぎたと反省しております。
「二度ほど疲れでお休みになった」と訂正します。
実際、あの記事からだけでは何とも判断し難いと思われます。

法王はローマからデリーに到着されたのちも毎日、式典、会議、学会と飛び回られています。

ルリビタキのオス 15cmOrenge-flanked Bush Robin 15cm
ボケ写真ですみません。この前のトリウンド遠征の折、出くわしたこれがオスのルリビタキ。
出会いは一瞬、これしか写っていませんでした。

ーーー

法王はデリーにおいて、20日にはまず the 15th Justice Sunanda Bhandare Memorial Lecture on 'Women and Peace' にゲストとして出席された。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=26031&article=Dalai+Lama+says+he+learned+a+lot+from+'Guru'+India
席上法王は「インドには非暴力と兄弟愛の文化と伝統があるが、これには数千年の歴史がある。私は多くものもをインドから学んだ」

「女性は世界的問題に対してももっと積極的に前に出て、重要な役割を担うべきだ。
女性は他の人々の苦しみに対しより敏感であるが故にその潜在力を持っているからだ」と話された。

また、平和問題については「それは単なる言葉からはやってこない。それは心から発信されるべきものだ」
「いかなる問題に対しても殺戮は解決ではない」
「すべての問題には解決策がありえる。そしてそれは対話を通じてのみ実現されるべきだ」と語られた。

さらに、日本とドイツの例を上げ世界の国々が「寛容の政策(この場合は特に恨みを持たない政策)」を取るよう促されたという。

Rufous-breasted Accentor 15cmRufous-breasted Accentor 15cm
「アカチャイワヒバリ」という日本名が付いています。
夏場には3000m以上の高地にしかいないが、冬になり高度を下げて来た鳥の一種。

ーーー

法王、昨日21日にはMax hospital (確か法王が胆石の時お世話になった病院)のガン病棟の落成式に出席された後、デリー大学にて三日間行われていた「チベットの文化・歴史学会」の最終日に出席され、お話をされました。

詳しくはこの学会に出席された石濱先生の以下のブログへ(もっとも先生、公用がお有りとかで、法王が来られた時まではいらっしゃらなかったようです)
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-date-20091122.html

法王は「デリー大学は私を名誉教授と呼ぶが、実際には私は役立たず教授だ。
これには二つの理由がある。
まず第一に私には教授としての仕事をする時間がない。
二番目に私は<怠け者>だ。だから宿題をまったくしない。
というわけで、皆さんの前にいるのはビッグな名前を持った役立たず教授だ」
と話されみんなを笑わせたとか。

Alpine Accentor  16cmAlpine Accentor 16cm
日本の「イワヒバリ」と同じと思われます。
これもトリウンド遠征でゲットした鳥。
2700m辺りにいました。

ーーー

法王今日はデリーで行われている別の平和会議「Hind Swaraj Centenary Commemoration」に一日中参加されているそうです。
この会議の主題は「紛争地帯に生きる人々の日々の生活の中にいかに非暴力(ガンジー主義)を実現するべきか?」です。

そして、おそらく明日23日にダラムサラにお戻りになり、次の日からティーチングというわけです。


Chestnut-bellied Nuthatch 12cmChestnut-bellied Nuthatch 12cm
撮影高度2600m付近。
「チャバラゴジュウカラ」という日本名が付いていますが、日本には確かいないはずです。
キツツキやキバシリのように、逆さになったりぶら下がったりしながら、木の枝や幹の上を小さな虫を探しながら、忙しく移動していきます。

ーーー

ところで、鳥の寿命はどのくらいかと思い調べると、

「生まれた幼鳥のうち、多くは1年以内にほかの動物に食べられたり、病気で死んでしまいます。これらを考えると、小鳥の平均寿命は1年ほど、ということになってしまいます。
(初年度の生存率は0.1〜0.2)

自然での鳥の長生きの例は次のとおりです。( )は平均寿命。
スズメ    5〜10年(1.3年)
ツバメ    3〜16年(1.1年)
シジュウカラ 7〜10年(1.7年)
マガモ    11〜20年(1.6年)
※鳥類生態学・黒田長久より」

ということは、単純に、今年見かけた鳥を来年また見かける確率は50%ぐらいか?
以外に短命と知りました。
個体差が激しいようです。
一般的には大きい奴が長生きする。
中には20年以上生きたという記録もあるとか。

unknown名前は判りません。15cmほどの可愛くて、色のはっきりした鳥ですが、図鑑やネットの中に見つけられませんでした。
以下、連続三種名称不明。

ーーー

今日紹介している鳥たちは小さい小鳥ばかりです。
中には夏場5000m付近までを活動圏とする鳥もいます。
そんな鳥は高地仕様で肺と心臓が特に強くできていると言います。
心臓の鼓動回数は人間の約4倍。
一秒間に5回ぐらいはビートを打ってることになる。

長生きしないはずだ。
素早くて、華やかだけどその分死に急いでるようでもある。
特に派手なオスはテストステロン過剰で早死にの原因を多くつくるようです。
この点は人間も似てますが?

それにしても、哀れだ。
短か過ぎて巡る季節も味わえない子供がほとんどだ。
子供は他の動物に食べられたり、病気になったりするとは、、、
思ったより大変な鳥生と知る。

が、この事情はかつての人間種にも同様でおそらく人類の寿命も何百万年の間20〜30年ほどしかなかったのではなかろうか?

現代においてもアフリカはじめ多くの貧しい国の田舎においては病気事情はたいして変わっていない。

例えば、チベットの山奥では盲腸になっても手術など出来ない。
家族は祈祷師を呼んで祈るばかり、本人は七転八倒の挙げく死ぬものが多いと聞く。
チベット人はこれをただ「お腹の病気で死んだ」という。

unknownunknown 16cm

鳥にも血液型があるという。
ということは、性格の違いがあるということだ。
(性格の違いを血液型の違いに求める理由はアバウトだけど)
几帳面な小鳥とか、勝手なのとか、グループ遊びが得意なのとか、一人遊びが好きなのとか、、、いろいろいることであろう。

喜怒哀楽もあるに違いない。
顔は笑ってないが、明らかに喜んで踊ったり歌ったりするし。
いやな奴が近くにくると、脅したり、唸り声をあげる鳥もいる。
大体大きい奴ほど図々しいが、鳥も種類に依り性格が相当違うことがじょじょに判り始めた。

unknownunknown 13cm




















Black-chinned Babbler  14cmBlack-chinned Babbler 14cm
日本にはいないが日本名は「クロアゴモリチメドリ」
嘴の後ろの黒い斑点が目のように見えるが、本当の目はそのすぐ後ろにあって極小サイズ。













Collared Owlet (Collared Pygmy Owl) 16cmCollared Owlet (Collared Pygmy Owl) 16cm
この子も日本にはいないと思われるが日本名「ヒメフクロウ」

標高約3000mのトリウンドに到着し、辺りを見渡した時、岩の上に見つけた。
最初小さな石か?と思った。
とにかく小さな、可愛いフクロウ。
身長16cmと図鑑には書いてあるが、実際見た子は身長12〜3cmにしか見えませんでした。

とうとう鳥コレクションは180種を越えた!
もっともこれまでの写真はすべて18mm〜200mmズーム、望遠F5.6という暗いレンズで頑張って撮ったものばかり。(言い訳)
今度日本に帰ったらもっと明るいいいレンズがほしいが、高いし、
その前に飽きた方が身のためか。

































rftibet at 20:40|PermalinkComments(7)TrackBack(0)

2009年11月09日

バンガロールの野鳥

White-breasted Kingfisher 28cmWhite-breasted Kingfisher 28cm
電線に止まる大型のカワセミ。

昨日は日曜日で、野鳥の日でしたが、一日中2口のネットアクセスが両方ともダウンでした。一昨日は半日停電だったしで、インドらしい日が続いています。
このインドの電気事情はダラムサラが田舎だからこんなだというのではないらしくて、都会の方がひどいようです。
バンガロールでも夕方、電気が必要な頃になると毎日停電していました。
ダラムサラの方がまだましと思いました。

昨日、日本から「モモチェンガ」の監督岩佐一行4名様が到着されました。新作チベット物のキャスチングのためこれから3週間は滞在されます。
コーディネートに付き合うのでブログも途切れがちになるかもです(言い訳)。

ーーー

そこで今回は、ずれ込んでもしぶとく続ける野鳥シリーズその9、南インド・バンガロール編です。

現場では常にカメラを片手に仕事の話の最中でも、気になる鳥の歌声が聞こえるとさっと居なくなったりして、まるでどっちが目的で現場をうろついているのかわからない状態でした。
でも、だいたいは朝日が昇る前後に敷地内をうろついて撮ったものです。
20種以上の初めての鳥に出会いました。

Tree Duck?Tree Duck?
写真をクリック拡大しないとよく見えないカモ。
カモの一種だけど、この子に特徴的な目と口の間にある白い斑があるカモは私の手元にある図鑑の中に見つけることができませんでした。
この二人はカモにしては小さかったしで子ガモと思われます。
カモは子供と大人では姿や色が変わるのが多いので、図鑑にないのだと判断。

広大な敷地にはなだらかな起伏があり、小川が流れていました。そこで、至る所にせき止め湖を造ったのです。
そこには小さな魚が住み始め、それを狙ってカワセミやサギ、カモが寄り付き、水辺を好むセキレイなどの小鳥が集まっていました。
造ったころは野鳥などにはほとんど興味もなくそんなつもりで造ったのでもなかったが、こうなって見れば、おまけなのに「やっぱ計算通り! 鳥がいなきゃ湖/池じゃないよな、、、」と一人で大満足。

Small Blue Kingfisher 18cmSmall Blue Kingfisher 18cm
もう一種違うカワセミ。
この方が一般的によく見かける種です。
カワセミ、英語で「キングフィッシャー」はインドではある会社の名前として有名です。
この会社はバンガロールのかつての王族が経営し、バンガロール一の大企業です。
ビールで当てて、今ではインド一高級な「キングフィッシャー・エアライン」という航空会社も経営しています。

ーーー

とつまんない話はこのぐらいにして、今日もちょっとだけ、もっとつまんないかもしれない「仏教のような話」の続きを以下、思いつくままに。

「青い鳥」は「幸せの(になる)秘密を知っている」と言い出したのは西洋人だと思うけど、なぜか確かに青い鳥を見かけると一瞬ドキッとする。
追いかけたくなる鳥の一番手です。
その青にも色々あるのですが鳥の羽根の青はすべて抜けるような、つやのある、鮮やかな空色です。
話は飛んで、無上ヨーガ・タントラでは胸の中心に深い黒に近い藍色の種字フームを観想します。これは阿閦如来の象徴で色もその体色に由来します。
もっとも何で阿閦如来の体色が赤でなくて青なのか?については私は無学で知りませんが、おそらく色遊びから来た偶然でしょう。
時代的に密教の初期には大日如来信仰が中心だったので大日如来の体色である白が曼荼羅や胸の中心という時代もあったのです。
だから、必ずしも青が無意識の底の暗喩として最適というわけではない。
何れにせよ密教の色は単なる連想ゲームの印、シンボルでしかなく、背後の意味を味わうことが目的です。
何てことを言うと、「いや直観を重んじる密教においては、この青には深い無意識レベルの意味がある」とかいう人からは馬鹿にされそうですが。

私の場合は、結局、色の中では「青」が好みで「空な色だ」「チベットの蒼穹と天空の湖を思い出す」とか勝手に自分が感心しているだけです。


Purple Moorhen 43cmPurple Moorhen 43cm(左)Solitary Yellow Bittern 38cm(右)
左の青紫の鳥は日本の「バン」の一種。右の茶と白の縞柄の鳥は日本の「ヨシゴイ」の一種。右の鳥はインド亜大陸とその周辺の島々アンダマン、ニコバル、スリランカにもいるが左の鳥はインド亜大陸にしか生息していない。
つまり、まだ海を渡れていないということ。
或いは、島流しにされたことがないということか??

ーーー

大体「青色」と勝手に言うが、世の中に「これが本物の青色」という客観的「青」があるわけもなく、目や脳に障害がおこると同じその青も青色に見えなかったりするわけだ。
ちょっとしたこの波長の差を人間が感じているように鳥たちが感受しているかどうかは定かではない。
第一こんな色を「青色」と呼ぼう何て鳥は考えません。
その対象からの波長が目に届く前に他の物体とかに通過することにより簡単に色を変えて見ることもできます。
青色というのも他の赤等の色があってはじめて青色もあり得るのです。
「青色」は他の色々な色に依ることで「青色」となることができます。
現象は常にそのものに対立し、否定するものにより限定的に成立するし、限定されることに依り始めてそのものも存在し得るというわけです。
青色には独立した「自性、自体が無い=空」というわけですが、また「自体が無い=空」だからいろんな青色も青色に成れるわけです。

それでも芸術家はつい「これぞ本物の青」とかを求めたりするものですが、一般的に色ほどあいまいなものもないわけです。

Small Sunbird (Male) 8cmSmall Sunbird (Male) 8cm
空中に止まるという小さな小さなハチドリの一種です。

前回の話を今読み返し、ここはちょっと荒っぽすぎたかな、、、と気になった部分がありました。
その部分とは、
<テキストでは「縁起=空、空=縁起」が解ればすべてのサンサーラの苦しみから解放される、と説かれますが、これは般若心経の「色即是空、空即是色」と同じ意味です。>
とやったところです。
「何か他の現象に依って生じ、成立する現象(縁起生)には自性・自体がない(空)、自性・自体がない(空)が故に現象は他に依ることが可能となり、現象として生じ、成立する(縁起生)ことができる、というのは言わば空性理解への方法を説いているとも言えます。
この次にだから「すべての現象(五蘊)はすべて空(皆空)だ」と知って「私(観音菩薩)はすべての苦しみから解放された(度一切苦厄)というわけです。
もっともこの部分はチベット版「般若心経」では「すべての現象(五蘊)さえも自性が空だと達観した」で一旦切れており、そのあとの「度一切苦厄」は残念ながらありません(この部分は玄奘が足したとの説が一般)。
また五蘊「さえも」と入れることで大乗哲学に特徴的な「法無我」の理解を示していると説きます。もっともチベット版と日本版(玄奘訳の漢語)ではその元になったサンスクリット版に違いがあるだけで、チベット人が後から「さえも(ヤン)」と勝手に入れた訳ではありません。

で、言いたかったのは、<これは般若心経の色即是空、空即是色」と同じ意味です>と言ったが、「色即是空、空即是色」という言い回しは厳密には五蘊の内の一つの「色=色と形を備えた物質的現象」についてだけ言ってるわけで、ここでは「色」により他の精神的現象も代表させたという言い方だったということです。

Purple-rumped  Sunbird (Male)10cmPurple-rumped Sunbird (Male)10cm
この子も空中に止まることができるハチドリの一種。

般若心経の「色不異空 空不異色、色即是空、空即是色」はそのすぐ後に「受想行識亦復如是」とあるように、五蘊すべてに当てはめて「受不異空 空不異受 受即是空 空即是受、想不異空 、、、、、」と順繰りに考え、感じ、体験すべきものなのです。

「五蘊」という仏教用語(漢語)も解りにくいのですが、とりあえず初めは「受」以下は「心・精神的現象」と思っていればいいと思います。
その中で例えば「受」は感覚作用。つまり五感の何れかが何かに反応すれば、そのすぐ後に無意識レベルで快・不快・中性の感覚が芽生えます。その後意識化されることも多いですが、この快・不快・中性という感覚も概念もそれぞれが排他的に規定し合う、相対的な感覚でしかありません。
その時の気分により同じ対象に対しても反応が異なることはしょっちゅうですし、とにかく変化するいい加減なものです。
いい加減だから普通の人が不快と感じるどくろもタントラの聖なる器になることもできるのです(ちょっと極端な例のようだけど、タントラはわざとこの世俗レベルでの反対、それも極端を利用するのです)。

Purple Sunbird (Male) 10cmPurple Sunbird (Male) 10cm
何かの金属でできた偽物にも見えるこの子も本物!?のハチドリ。

何だか、自分でも話が堅くて疲れるなと感じ始めた、、、
大体私は小学校の初めから何だか漢字が嫌いだった。みんな同じか?
今も外国暮らしが長いせいか漢字にはますます違和感を感じ始めた。
法王は先月のダラムサラでのティーチングでベトナムの僧侶の般若心経の読経を聞かれた後、「ベトナム語の般若心経を聞くのは初めてだ。この前はシンガポールとホンコンの人たちが英語で唱えるのを聞いた。大事なことは般若心経は必ず自国の言葉に訳して読むことだ。お経はすべてそこに書かれている意味を思い出し、考え、味わうために唱えるものだ。意味も解らないのにただ唱えても何にもならない。
だから必ず自分たちが理解できる言葉に訳すべきだ」
とおっしゃいました。

日本の昔の人たちは余程中国語に堪能だったのか?結局つい最近まで日本のお経は漢語のままでした。
昔も所謂知識人以外の一般人は常に解らないお経を聞かされていたことでしょう。
今も普通の一般日本人は解らないお経を言うところの僧侶に唱えてもらって、それでなぜかありがたいと感じ、大枚のお布施を手渡したりする。
実際、意味のはっきり解らぬ外国語を聞いてどうしてその読み物が仏教のお経だと解るのか?それを人前で唱える人がどうやって仏教の僧侶になるのか?考えれば不思議なものです。

Bluecheeked Bee-eater 31cmBluecheeked Bee-eater 31cm
中にはちゃんとその後でお経の意味を簡単にでも説明される僧侶もいらっしゃいますが、今までのところ「無常」のお話ししか聞いた覚えがない。
「空」の話は田舎だったからか聞いたことが一度もない。
チベット的には「空」抜きではそれが仏教的お話とは必ずしも言えないというわけですから、話はさらに程遠くなります。

私はダラムサラに来て10年間は全く英語で仏教を教わっていました。
先生や法王のチベット語を通訳が英語に翻訳してくれたものを聞いていました。
実際英語で仏教を勉強する方がよほど単語が解りやすく新鮮で仏教が簡単に思えると感じていたものです。
その後、日本の先生方の仏教書も読むようになったのですが、元の漢語がそのまま仏教専門用語となっているので、最初は慣れるのに英語より時間がかかりました。

何だか、今日は話がとびとびになり終らない。
紹介したい南の野鳥もまだいるが、、、

続きはまた。

















rftibet at 22:30|PermalinkComments(1)TrackBack(0)

2009年06月23日

ランタン・トレッキング第一日目

秘密の谷・ナムゴダカムへ

第一日目の終りに見えるランタン兇肇薀鵐織鵝Ε螢襯私が今回、ランタン谷を訪れる大きな要因の一つが一冊の本、貞兼綾子さんの「風の記憶:ヒマラヤの谷に生きる人々」(以下<風本>と略)であることは先にも書いたが、その中ランタン谷の章「豊饒の谷」は以下のように始められている。



「1704年チベット歴8月3日、ドマルワ家のミンギュル・ドルジェは4度目の挑戦で、ようやくランタン谷にたどり着いた。モンスーンも明け、越えてきた後方の白き峰々も、谷を形作る氷と岩の稜線も、群青の空との一銭をくっきり画していた。ミンギュル・ドルジェ29歳の秋であった。」

ランタン谷の入口付近に自生する麻の向こうに雪山このミンギュル・ドルジェもそのころ手に入ったガイドブックを手にして旅行していたのだ。その本のタイトルは「秘密の谷ナムゴダカムへの手引書」作者は13世紀のテルトン(ニンマ派のいわゆる埋蔵経典発掘者)、ツェテン・ギェルツェンだと風本の注にある。

ランタン谷は「豊饒の谷」と言うだけでなく「秘密の谷」でもあるというのだ。

風本では続いて、この「秘密の谷<ナムコダカム>」がランタン谷であるということ、自分がそれを発見したのだということを主張するためにミンギュル・ドルジェが顕した一書を紹介して下さっている。

ハニーハンターも狙えそうにないオーバーハングの岩の下の蜂の巣風本説明:ミンギュル・ドルジェは「ナムゴダカムの確証、福利の真髄」と題した一書に、「ナムゴダカム」探索行の模様を次のように回顧している。著されたのはおそらく1720年代、ダライラマ政権の確立をめぐる清朝の政治介入の過程でニンマ派やゾクチェンパ、ボン教徒への迫害が苛烈になった頃と思われる。














ランタン・コーラに沿って登る以下、風本に訳されている本書の一部:かくのごとく、ニャナンからキロンのレンデ村にいたる眺望できる場所から踏査をかさねて行くと、目標は南方にランタン谷、北にレンデの放牧を生業とする小さな村がある。ナワルンの近くに小さな谷が存在するけれども、(東西南北)四つの門の方角が、「道案内書」に示されているのとは異なる













森に入るベーバリューユルという場所であった。これ以外にこの方角に谷はないと思ってしまうようであるが、「道案内書」をよくよく検討して進めば、東にニャナン、南にヨルモ、西にマンユル、北にペータン、その中心に位置するのはランタン谷、それ以外に地の利を持った谷は存在しない。
愚かであった。仏法の道を極めんとする求道者にとっても、他のどの聖地で修行するよりも、有利かつ早期に達成できるという恩典を有しているにもかかわらず、幸運の薄いものには、(ここに居ながら)、ここがナムゴダカムであるということは心にも思い浮かばないことであった。

名前不詳祖師パドマサンバヴァは予言書のなかで述べておられる。「この土地が堅牢な秘密の谷の中でもとりわけ選ばれた理由は、入るに易く、チベットにも近いという地の利を得ているが、埋蔵書の多くが未だ明らかにされずに在るのは、この地がひとえに秘密の上にも秘密に護られてきた場所だからだ」と。














一本の木にも沢山の同居植物祖師など修行を完成された多くの聖人によって浄化され加持された土地だ。谷の上にも中心部にも、それらの証しで満ちている。祖師の瞑想成就の岩屋、自然に生じた仏のイメージ、祖師の足跡や手跡など。
祖師はまた、この地は第十地菩薩界の世界であるゆえに、そのステージに達した者と同等の能力を得ることができるとも述べられている。そういう土地柄を拙僧のごとき先見の明を欠く者は、ランタンとナムゴダカム、ヨルモとペーマツェル、それぞれが同意であるという重要な意味を誤解していた。全く愚かであった。
(中略)






小さなサクラソウの一緒、この花は上に行っても沢山あったつまりは、「秘密の谷」というのは、有害な侵略を避けるための場所であり、その特性は、そのための強力な土地柄を持っているということにつきる。ランタンが「秘密の谷」でなくば、ヨルモやラッチなどより優れた土地柄を有する谷は何と呼ぶべきであろうか。




・・・・・本文はこれまで、解説に本当に道案内書の秘密の谷がこのランタンであるかどうか、を考察された後:しかし、こういうことも言えるのではないだろうか。当時、17、18世紀の南西チベットのマンユルや隣接のヒマラヤ地方に、「秘密の谷」を求めるテルトンやニンマ派ゾクチェンパたちによる一つのムーブメントがあって、ミンギュル・ドルジェが「秘密の谷ナムゴダカム」を発見したということが、同時代の修行者や宗門の仲間達の間で一大スクープとして話題にのぼっていたらしいということ。そして、その多くからは疑惑をもたれていたために、そうした者への反論と解明を試みたものだろう。






、、、、、
大型の蝶ナムゴダカム」とは、「半月形の天の門」という意味である。氷河が削ったU字型のランタン谷の中心に立って天をあおくと、確かに、谷の上に広がる空の形は8日目の月の形に似ている。











ランの一種だが名称不詳以上少々長かったが風本よりランタン谷を巡る歴史のお話でした。
とにかく(信のある人にとっては)行けば「十地の菩薩と同じ能力を持つ」ことができるという「秘密の谷」なのです。
















学名 Therupogon Pallidus以下実際のトレッキングの話:

シャプルベシを朝7時に出発し、ひたすらランタン・コーラにそって登る。その日の宿はラマ;ホテル2410m、5時間行程のはずだ。
最初の一時間半ほどは正面から当る強い日差しを遮る木々もな階段続きで相当に汗をかいた。朝、暗いうちに発つべきだったと後悔した位だった。
道はアップダウンが多い。道端には麻と毛せん竹が目立つ。


一本の木にも沢山の同居植物2道はしばらくして森に入った。森は次第に深くなり、巨大な木の枝にシダ
やランの共生する原生林の様を呈してきた。セミの鳴き声が聞こえ、珍しいチョウが舞う。
いろんな種類のシダが茂り、精霊の国に行く前の妖精の国でした。

透明な湧水はどこにでもあって水には困らない.












ラマホテル途中バンブー・ロッジというところで昼食を取り2時頃にはラマ・ホテルに着いた。
ここには10軒ほどの宿がある。

この日は最後にちょっとだけ、木々の上にランタン僑僑毅僑隠蹐鮑玄蠢阿法右手にランタンリルン峰7225mを望むことができる。(最初の写真)



ラマホテルの裏の崖に出現したクマ夕方ラマ・ホテルの裏の崖をド・サンと宿の奥さんが見上げながら「クマがいる」という。
指差す方向をいくら見ても(チベット人との間には良くあることだが)私には確認できなかった。ド・サンが「カメラをよこせ、俺が撮る」というので彼に望遠で撮ってもらったクマの写真が左の一枚。






ラマホテルの若奥さん




















学名 Pleione hookariana ピンクが一般だが白はこの一本のみ




















omake

rftibet at 15:30|PermalinkComments(4)TrackBack(0)

2009年06月22日

カトマンドゥからバスでシャプルベシ

ランタン、ナヤ・カン5844mカトマンドゥからデリー空港に夕方5時過ぎに着いたが、機内に外気温44度とアナウンスが流れると、流石のインド人も避暑帰りということもあってか、「オー・ノー!」と一斉に声が上がった。
酷暑のデリーをすばやく抜けてダラムサラに帰ったが、ダラムサラも雨季が始まらず暑いの盛り。
チベットも「30年来の干ばつ」と聞くが、インドも干ばつ状態です。

帰ってくるんじゃなかった、と早くも涼しかったランタンに帰りたい気分。


ーーー

6月7日サカダワの燈明に映えるボゥドナート仏塔今年のサカダワは6月7日だった。

その日、まず私はランタン谷の入口の町シャプルベシ(シャフルベンシ)までのバスのチケットを買うために、リキシャに乗って教えられたバス・センターまで行った。
思ったより遠くてリキシャ代を値切り過ぎたな、、、と思った。
キップ売り場には人はおらず、「明日朝来い」と隣のキップ売り場のやつがいう。
ボゥドナート/サカダワ困ったかな、、、、と思いリキシャマンに事情を言うと、「シャプルベシに行くなら他のバス停がある。知ってる。乗れ」とのこと。
そこに行き次の日に出るバスのチケットが買えた。
前から二列目。まあまあだ。とにかく私はバスに酔うので必ず前の席でないといけないのだ。バス代はたったの220ルピー(270円ぐらい)。
このバスが遊園地のマシンのように体験的なものであることは後で知ることになる。
とにかくバスのチケットも手に入れ、喜んでタメールに帰る途中のこと。
ボゥドナート3タメールの前にはきつい坂がある。リキシャマンは普通ここで漕ぐ事を止め、乗客を乗せたまま、あるいは降ろして、リキシャを押し上げる。
私はサカダワと言う訳ではないが、降りて一緒にリキシャを押し始めた
しばらく押した後、坂が緩やかになったところで、彼が乗れと言う。
急いで飛び乗ろうとした時のこと、残った片足が足の甲を下に後輪に巻き込まれた。
もちろんサンダルだったのでしっかりけがをしてしまった。
足を出すと血が出始めたが中々勢いよくて止まらない。
ボゥドナート2彼は当たりに落ちていた段ボールをちぎって押さえろという。
通りかかった人が薬局が近くにあるから行けという。
そこで応急処置をしてもらったが、いい加減だな、、、と思いながら見ていた。
とにかく蓋をして一旦終わったことにした。

途中、宿に帰る前にビザを頼むためにツーリスト・オフィスに行った。そこのおやじが足の包帯を見て、どうしたのだと聞く。状況を説明すると。おやじ曰く「だから。他人を助けたりするものじゃない。特に貧乏人を助けると必ず問題が起こる。人を助けるものじゃない」とのたまった。いかにもカースト的考え方というか、インド系と見えるこのおやじ、嫌な奴と思った。
私は傷の事は一旦忘れることにして、夕方からボゥドナートに行って右遶を繰り返した。

途中の人々帰って、包帯を解いて傷を見ると中には小さな黒い石などが残っていた。洗って薬局でもらった薬で処置して又蓋をした。場所が左足の小指の後ろの方ちょうど骨がちょっと出っ張ってるとこだったので。靴を履くとあたるとこだった。
次の日の朝にはしっかり化膿して長さ2センチ、幅一センチの膿の海になっていた。
バスに乗った後は周りが腫れて靴が履けなかった。
実はこの傷とうとう最後まで治らず同じ状態だった。最初の一日は靴を履かず結局ゴムぞうりで歩き通した。
でもサカダワということで自分のドジを忘れ、まるで何もなかったように思うことにした。
お陰で、歩き始めると最初は痛んだが、すぐに忘れることができた。

シャプルベシ行きバスバスは相当だった。とにかく道がこれでもかというほどにむちゃくちゃなのだ。バスとトラックとランクル以外は走れない。カトマンドゥからシャプルベシまで100キロちょっとなのに何と10時間かかった。1331mのカトマンドゥから、1600mほどのカカニの丘に登り、今度は500mのトリスリまで下る。ここまでは道は舗装されていて、まあまあだ。そこからは壊れた道を2400mまで上がり、ドゥンチェを過ぎるとまた1400mのシャプルベシまで下る。途中バスのシャフトが落ちて、その修理に1時間。朝、7時に出て結局夕方シャプルベシにやっと到着した。
バスの上にも人や荷物が一杯載る。ヤギが沢山載っていたもの見た。写真にはバスの上にマオパティ(マオイスト共産党)の青年部が一杯乗ってるところ。

ドゥンチェよりランタンとチベットの山々ドゥンチェからは右手に目指すランタン峰(登るわけではないが)正面に国境を越えたチベットの山々が見える。

ランタントレッキングの出発点シャプルベシの町はチベットから流れてくる川沿いにある。
ここからチベットの国境までほんの数十キロだ。一日で歩いていけるという。ここの国境はネパール・チベット国境線の中でいちばん高度が低い1814mしかない。越えればキロンの町がある。しかし、この国境を越えてくる難民は今は皆無だ。川が障害になっているのだ。国境には橋が掛っているという。この国境の橋の監視人は昔はチベット人だったから地元の者たちはキロンまでは商売などのために行くことができたという。でも今では警備員は中国兵で少しでも近づくと銃を構えて帰れと言うそうだ。

ランタン谷への入口左の写真:右手の川がランタン・コーラ、左にボテ・コシ、下流にトリスリ・ガンガ

川の名前は国境からここまでを「ボテ・コシ」という。ここで東から流れてくる「ランタン・コーラ」と合流し、名前を「トリスリ・ガンガ」と変えて南のインド平原に下り最後はガンジス河となってベンガル湾に注ぐ。
チベット人は数百年前からボテ・コシの東側、ランタン・コーラの北側を中心に住みついている。ボテ・コシの西側にはタマン族を中心に少数のグルン族も住んでいる。
昔からボテ・コシの東に住む者を「シャルパ(東の人)」、西に住む者を「ヌッパ(西の人)」と呼んでいるという。そして、1959年以降チベット人の難民がキロン経由で大勢この地域を通過していった。中にはここにそのまま住み続けている難民もいる。



シャプルベシの子供たちシャプルベシには小さいがチベットの難民キャンプが三か所ある。もっともダラムサラなどに比べ生活は断然厳しいように見えた。子供たちは明るく楽しそうに遊んでいたけど。

驚いたことに、この町には中国人もいた。実はここから先国境までの道を今中国政府の援助でつくっているところだという。町には水力発電所もあるが、これも中国政府が作ったものという。いざと言うときの侵略道路になるのだろうか?

古い話だが、この道を通って18世紀の終わりに清朝の軍隊がネパールのグルカ兵と戦いながらこのずっと下のトリスリまで進軍したことがあったという。
これは、チベットと当時のネパールを支配していたグルカが鋳造貨幣の比率に端を発した戦争をしたときのことだ。チベットはこの戦争のために清朝に応援を求めた。嘗てはこんなこともあったのだ、今の日本や韓国がいざと言うときにはアメリカに助けを求めるようなものだろうか?
それにしても、清軍はチベットに北から入ったのか?成都方面から入ったのか?知らないが、ずいぶんと遠くまで歩いてきたものだ。皇帝は「よっしゃ、ラマがおっしゃるなら助けてやろう」と言うだけですむが、実際にここまで中国から歩いて来て、かつ戦わされた兵士には同情する。

シャプルベシのチベット難民村バスがシャプルベシに着くころ前に座っていたチベット人が話掛けてきた。彼は国境近くの村に生まれたけど今はデリーで働いている、今回久し振りに郷里の母親に会いに帰ってきたとのこと。どうりで解り易いチベット語を話すと思った。私は足が痛むこともあり、最初はポーターなしで歩くつもりだったが、着いたらチベット人のポーターをインホーマーにもなるしで雇おうかなと思い始めていた。彼にチベット人のポーターはいるかな?と聞くとすぐそばに座っていた夫婦のチベット人に話掛けた。その旦那の方が良かったら自分がやると言って来た。体は大柄で力はありそうだった。やさしそうな顔をしていた。チベット語は現地訛りが強かったが何とか理解できそうだったので、彼に頼むことに決めた。
ド・サン彼とはその後10日間も一緒に歩いていろいろと話をした。本当にいい奴だった。
彼の名前はド・サン(善良な石)、国境に近い村ブリディンに代々住んでいて、今は10歳の一人息子をカトマンドゥの学校に送っていて夫婦二人で住んでいるという。
今回カトマンドゥでは子供に会って、そのあとサカダワのボゥドナートで五体投地をしていたという。
彼の話だが、母親は彼を含め14人の子供を産んだが、成人したのはたったの5人だったという。ランタン谷と違い旅行者も来なくて村人はみんな貧しいという。彼は学校に一度も行ったことがないと言っていた。しかし、彼はお経だけは読める、常にお経集を懐に入れていて、寺やパドマサンババの聖地と言われるところに来ると必ず長いお経を上げていた。キャンジンでは一緒に読経会にも参加した。地元にラマがいてお経だけは30過ぎて習ったそうだ。

シャプルベシの学校次の日の朝、彼はやってきた。8日朝7時いよいよ出発。ボテコシに掛る吊り橋を渡りチベット人キャンプに入る。ここには比較的立派な学校がある。チベットの亡命政府もこの学校には援助しているという。

続く、









rftibet at 18:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2009年03月16日

ネパールの現状、野田氏のトーク予告

7c60d15b.jpgPhayul.comのニュースに3月14日、カトマンドゥで三人の外人が中国大使館のビザ、ビザセクションの前でスローガンを叫んだとして逮捕された、というのがあった。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=24180&article=Three+foreigners+detained+in+Nepal+for+Anti+China+Protests
三人はドイツ人、ノルウェー人、イギリス人。
叫んだスローガンは
「Free Tibet」「China,out of Tibet」

もっとも外人と言えば去年日本人の友人がチベット人と一緒にデモして、何度も逮捕され、刑務所に入れられた話は紹介しましたし、今に始まったことではないのです。
ラサでも外人狩、カトマンドゥでもチベット外人狩です。


ただ、今月のネパールは特別中国にぺこぺこして、チベット人いじめを強化しているようです。

3月10日にはバスに乗って国境に中国国境に向かっていた140人のチベット人が、独立分子として逮捕されたとか。

「レコードチャイナ:チベット独立派140人を逮捕―ネパール 」
http://www.recordchina.co.jp/group/g29375.html

これは、中国の外務省事務次官が先月カトマンドゥを訪問した時、ネパール政府に対し「チベット人の反中国活動を阻止せよ」と命令したことに始まる、新しい締め付けキャンペーンと言えるでしょう。

この辺のところはカトマンドゥにお住まいのばなな猫様のブログをご覧ください。
http://banana-cat-cafe.blog.so-net.ne.jp/3月10日前後の様子がよく分かります。

以下、3月9日分転載させていただきます。

ーーー

明日、3月10日チベット民族蜂起50周年 in カトマンズ [チベット]
明日、チベット民族蜂起50周年をひかえたカトマンズの警戒態勢はマックスです。
今日UN本部の前を通りましたが、去年のデジャブーのように
機動隊が配置されていました。
中学生達がよじ登った塀には、鉄線がはりつめられ・・・

話によると、ジャワラケルとスワヤンブのチベット人に対して、
警察から「明日はボダに集まらないよう」という通達が出ています。
・・・・・??
つまりジャワラケルの、あの二またの交差点に、またもや警官隊が立ち、
「どこに行くんだ?ボダに行くんじゃないぞ!」と脅しをかけるらしいのです。
いや、行った所で逮捕とかできるはず無いじゃん、とお思いのあなた、
ネパール警察はそんなに甘くありませんのです。
拘留する理由なんて、いくらでもあげられます。
ああ、まるでこれではどこぞの人民解放軍のよう・・・
ラサも明日は、チベット人は外出もままならない事でしょう。

現にボダに住むチベタン・ジャーナリストがおととい自宅から連行、
拘留されています。
「独立運動を率先している」といちゃもんをつけられ、
「今後運動に関わったら、実刑にする」と脅され、
今日、大金(保釈金?ワイロ?)を積んで出してもらいました。

で、明日はどうなるのかといいますと、
いつものようにボダで、法王の声明が読み上げられて、
プジャが執り行われるのですが、
問題はその場所・・・・
例年はストゥーパにて、オープンに行われていたのですが
(かつては、デモも警察の許可をもらってやっていた)、
5年ほど前から、法王の写真の掲揚などが禁止され、
去年、おととしは、お寺の中庭へ警官隊によって追い込められ、
今年はどうやら、中庭もNGという警察からのダメ出し。
仕方ないので、ゴンパの中か、集会所ですることになりそうです・・・・

はあっ・・・・・・。

デモ????あり得ません。
無駄に死人を出しても仕方ないです。
思い切りデモしたい若者はもうみんなダラムサラに行ってしまいましたし。

現在、共和制であるはずのネパールは今、
確実にマオイストが与党の共産党国家になりつつある気がいたします。
民主主義なネパールはもう、本当に終わってしまったのですね。。。

うわさによると、2009年度のチベット難民へのアメリカン・グリーンカードは、
8000通用意されているそうで、、
、、
つまりもう、じいちゃんばあちゃん以外はみんなアメリカへ行け、ってことです。
難民がいなくなれば、「難民問題」も無くなるってことです。
UNもチベット問題が、UNHCRやヒューマンライツ事務所、
その他の活動の妨げの引き金にならぬよう、
苦汁の選択を迫られているようです。

どうか、どうか、悲しいニュースが舞い込んで来ませんように。
明日は裏のお寺でバターランプでお祈りします。

ーーーーーーーーーーーーーー

上の写真はカトマンドゥのボーダナートの仏塔の周りを左回りに行進する武装警官隊です。

この写真をいち早く見られた、S女史から以下のようなメールが届きました。
「みなさん」宛てのメールだったので、無断転載させて頂きます。

ーーー

 昨日のphayul.comの記事と写真を見て、ショック!バウダ (ボーダナート/チベット正月にみなさまにお送りした写真の場所)の コルラーに武装警察が!これまで無かったこと。急いでカトマンドゥの 友人にメールしました。すぐに下のような返事がありましたが去年の秋 から事情が急変しています。

 理由は、最近ネパールを訪問した中国外務省事務次官級(?)の要人のせい。ネパールがこれほど中国の思惑通りに動くとは思ってもみな かった。これまでも、中国大使館へのおもねりから、表面だけでも亡命 チベット人の動きを取り締まっているようには見せていた。けれどほと んど即日解放されてた。それが、今、平和のシンボルともいうべき チョーテン・コルラーにあのように警官を繰り出している。ここはチベット人もネパール人もみな平和を祈って灯明をあげ祈る場所だ!聖地なんだ!

 友人の話では個別訪問でデモ先導者をあぶり出そうとしている。また、IDCを所持しない者は逮捕されて3年以上の禁固。IDCというのは多分ラキェル、難民証明証。亡命チベット人(1959−79年までの難民)と新難民(1980−89)は大抵もっているけれど、90年以降難民センターを経由しないでネパールに居着いたものに
は与えられていないはず。この話は前々回難民センターを訪ねた時、聞いていた。逮捕された者はいないけど、所持しない者は多くいると聞いていた。しかし実は、昨秋センターを訪ねた時は、14、5名が難民センターに引き取られていた。実際は留置場に入れられるところを国連高等弁務官事務所が引き取って、センターに収容したのです。彼らはいずれも証明証をもっていず、デモに参加(中国大使館前)して捕まってしまった。老若男女、年齢もそれぞれ。その後彼らはどうなったのか?ネパール在住10年の家族もいる人もいた。

 お話が大分それてしまったけど、この「IDC不所持の者は逮捕すべし」というのは中国の圧力です。オリンピック前数年のころから、中国とネパール政府(前政権=国王の時代からマオパティ主導の現政権)の距離が縮まり始めて、この話が具体化してきたという経緯があります。「不所持の者は当然中国人であるから、中国に帰還させるべき」という論理です。

 中国の思惑通りに政府が動いているとしたら、チベット人の人権も表現の自由も封殺されていると考えてよさそうです。何とかネパール政府に圧力をかけられないものでしょうか?.....あの国も右往左往、未だ制憲国会が軌道に乗らず......でも何かやってみます。

 友人は言っています。「昔はネパールは天国だった。」あのオールアバウトな空気がなつかしい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

カトマンドゥでチベット難民一時収容所に行くには

カトマンドゥと言えばつい先月ナンパ・ラ(峠)行きの前後に寄ったばかりです。

思い出す話が一つあります。

N2氏と私の二人は山に行く前と後、二回チベット難民の一時収容所に行ってインタビューと写真を撮ることをトライしました。
数年前まで「トライ」何て必要なく、中で働く知り合いに電話すればすぐに入れたものでした。
それが、今回は友人曰く「UNの許可がないと入れないよ。まずUNの誰それに会って、、、」と。
何だかな、、、と思ったが、N2氏が「あ、UNなら知ってる。すぐ行こう」というのでタクシー走らせてUN・・・のオフィスに入った。
要件を伝えて、係りがいないと言われ。それでも帰らないで粘っていると、
次に若いフランス人の女性係官に詳しくインタビューされ、、、後から連絡すると言われ、帰った。
後から電話がかかって来て「私たちの事務所ではそんな許可書な出してないそうです」と言ってきた。

後で判ったことだが、NU違い!の事務所に入っていたのでした。

しょうがないので、結局その時は直接友人と一緒に中に入り、ボスと話して、ナンパ・ラ・コネクションだけを聞いて帰りました。
難民たちにも会って、話も聞きましたが写真は撮りませんでした。

ナンパ・ラ行きを終え、帰ってきたカトマンドゥで再びUNに挑戦してみました。
目指すはUNHRC(国連難民高等弁務官事務所)です。
見つけるのに相当苦労しました。
町はずれに隠れるようにして建っていました。
普通の住宅のようでした。
変わったことは、門の前に黒人が沢山いたこと。
彼らは何とソマリア難民!?だったのです。

我々を見つけるとさっそく自分たちの窮状を訴え始めました。
我々が厳重なドアの中に入れることになったのを知ると、誰それにこう言ってくれ、とか伝言を頼まれるのでした。

中に入って二人目の係官はネパール人の若い女性。
話の中で彼女が「チベット問題は大した問題ではないので(low Profile)、、、、」とか言ったので、少しカチンときて、「それはどういうことかいな!?」と詰め寄ったりしました。
彼女はブータンから追い出された10万人のネパール難民の話をして、この方を取材したほうがいいなどと言うのでした。
結局、「ではこのネパール政府の事務所に行って許可を申請してください」と言われました。(この時点で申請は諦めました)

何と、いつの間にか、国連は独立した機関ではなく、ネパール政府にコントロールされるまでに落ちぶれたということです。そのネパール政府は中国政府にコントロールされてるしね、、、

友人の話では中国はネパールにUN機関が沢山あるのが目障りで一挙にUNをネパールから追い出そうとしているとか。
特にUNHRCには毎日中国から嫌がらせメールが送られてくるとか。

実際ネパールにある国連機関の予算のほとんどはアメリカが出しているので、中国対アメリカの戦いなのです。

今回ネパールにいるチベット難民を最大2万人までアメリカに移住させるという計画は、もうネパールに住むチベット人に将来は無いと見たアメリカのチベット人救済政策の一環でしょう。
しかし、この計画実際には少しも進んでおらず、チベット人がアメリカに大量移住できるという話はただの夢に終わるかもしれません。

ネパールは中国にコントロールされてチベット人のデモを規制している、というが、
ここで思い出すのは、日本の話。

3月7日、私は日本の東京にいて、その日の朝行われた、SFT主催の中国大使館前抗議デモに参加しようと、六本木の地下鉄の出口でどっちに行こうかと迷っていました。
気がつくと前に警官がいたので、中国大使館はどっちに行けばいいのか?と尋ねた。
すると、答える変わりに、「失礼ですが、中国大使館に何の用で?」と聞いてくる。
はは〜〜〜と、思ったが「デモがあるんで」と言った。
「中国大使館はあっちですが、あまり近づかれないように、、、」とか言ってた。

近くで迷ってもう一人に聞いた時も同じ質問に遭った。

やっと現場に近づくと、みんなが大使館から離れた所に集まってる。
私が大使館前に行こうとすると、警官が止めた。
「どうしたのですか?どうして通さないのですか?」ともめていると
世話人がやって来て、特別にと了解を取って見るだけだと言って警官に連れて行かれた。

その間私はしつこくその警官に「チベット人をこれほどまでに弾圧している中国政府を日本政府がこれほどまでに守る必要があるのかね!もう日本も半分中国だね!」と、ヤジを飛ばし続けていました。

結局大使館前、道路反対側に5人ずつが交代にスローガンを叫ぶことのみが許されているとか。

また、日本人はみんな大人しく黙ってそれに従っているのが風土(病?)でしょうか?

日本も似たようなものだということです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

N2氏とS女史の話が出たついでに、以下S女史が企画されN2氏のトークと映像が見られるイベントを紹介いたします。

N2からナンパ・ラのまた違った話も聞けることでしょう。写真もプロ、ビデオも沢山撮ってましたから、大いに期待できます。
是非、参加して見てください。

ーーー

チベットの歴史と文化学習会

─休憩(15分間)─
日時:2009年4月11日(土) 
18 : 00〜21: 00 開場17 : 45
●主催:チベットの歴史と文化学習会 ●お問い合わせ:
e-mail : trb.gakusyuukai@gmail.com

場所:文京区民センター3階 3-A会議室

講師:吉水千鶴子(筑波大学人文社会科学研究科哲学・思想専攻准教授)

講座 チベット仏教の潮流 第2回「仏教のチベット的展開」お話:渡辺一枝(作家)
チベット報告「受難ということ」

報告:野田雅也(フォトジャーナリスト)緊急報告「国境線リポート」

基調報告:長田幸康(I love Tibet!ホームページ 主宰)

質疑応答「Tibet2009 vol.2─チベットの政変から60年」

参加費:¥600

下記アドレスよりお申し込みください。
http://www.tibet.to/gaku3/ 
FAXで申し込みの場合はお名前、連絡先を
ご記入の上、下記よりお申し込みください。
FAX : 03-3229-1124 
参加申し込み
※当日参加もできますが予約を優先させていただきます。
 定員になり次第締め切らせていただきます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

野田氏は今ダラムサラにいます。

カトマンドゥで私と別れた後、ポカラに行き「元ゲリラ兵にインタビュー」した後、
ナンパラで果たせなかった悲願難民遭遇、今度はすぐにダム方面に「越境難民」を追って潜入。
結果は如何に?

ダラムサラでも相変わらず、毎日精力的に色んな人へのインタビューを繰り返しています。
アマアデにインタビューしたり、新しく来た難民にインタビューしたり、今度TCVの子供の1日を追うために、朝4時から学校に行くとか言ってました。
僕はつき合わないからね、、、









rftibet at 12:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2008年06月08日

四川テレビ放送、その他

c98a5433.JPG最近地震以降四川放送をよく見る。

ダラムサラでケーブルテレビに入ればラサ放送、四川放送、あと一つよく知らない中国のテレビが見られる。
地震の被害地の映像もよく流れる。
今は特に例の決壊寸前の巨大地震湖関係が多い。
軍隊が水路を発破やら人海作戦ではでに働いてる映像が流れ、やっと開通したという水抜き水路は小川状態で、ほんとにこんなんで大丈夫かよ?と思ってしまいました。

とにかく放送の半分は軍隊がいかに住民を助けているかのやらせばかり、
それにしても見事に崩壊したビルが沢山ある、その瓦礫の山はまるで誰も手を付けてない様子。明らかに死体が中に沢山ありそうな瓦礫のすぐそばで、軍人が生き残った人たちに食料を配りそれを受け取った人が涙するとかの映像が流れる。
日本ではありえないことは確かだろう。

あと特徴的なのはやたらに募金を呼びかけるチベット人僧侶が募金する場面も流れた。そんな募金キャンペーンの中では<愛><心>などと言った標語が使われている。これはこれは、中国でこんな言葉が以前に標語になったことがあるのかな?
<愛><心>とは中国共産党が今まで消し去ろうと努めてきた心情ではなかったか?
唯一<国家への愛>は昔からあるけど。
金のためならとこんな言葉を使っているようだが、行きすぎると本気でこんな言葉が中国中に流行って唯物主義政府が倒れるとか!?
とにかく相当に募金は集まってるようです。
まるですべてが軍部の地震ビジネスのようにも見えてきます。

そのテレビにほんの一瞬映った壊れた家の映像は明らかにチベット様式の建物でした、、、

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そう言えばチベットのテロリストの映像もかつて一か月ほど前にこの放送で見ました。アムドのどこだったか、今思い出しませんが、この事件もそのかなり前に単に愛国教育を受け入れなかったとして、最初逮捕されたはずの数人の僧侶がなぜか、爆弾テロ犯にされ、その爆破現場を後手に縛られた僧侶が引き回されるというものでした。
その破壊された建物というのも、ただ部屋が軍隊により荒らされた風の場所であり、爆破で焦げた跡などどこにも見当たらなかった。
嘘をつくにももっと工夫しないとと思うが、中国ではこれで十分な証拠になるのだろう。
もっとも私は全くチベット人が爆弾を使わないとは言わない。
最近嘗てのカンパゲリラとして戦い、ムスタンゲリラとしても長く中国と闘い続けた<チュシガントュク(四河六雪山)>の会議がニューヨークで開かれたという。
もっとも今テロに走るとことは自殺、自滅行為としか見られないであろう。
もっともデモ一つでも自殺行為ではある。

今日お伝えした、パンフレットを配ってデモし逮捕された3人の僧侶も間違いなく、拷問に会い、最低5年の刑をうけるであろう。
私がそう断定するのはなぜかと言うに、ここで多くの元政治犯に話を聞いたが、全員程度の差はあれ例外なく何らかの拷問を受けていたからだ。
なかには到底人間のやることとは思えない非人間的は拷問もあるのだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

帰還行進はいったん中止を余儀なくされた。5団体のボスは10日間の拘留の後昨日全員釈放された。
残った皆はボンディサールというヒマチャル州の東端の町まで連れて行かれそこで解放されたとか。
「ここまで3か月歩き続けた。最初だって一度捕まった。それでもまた歩いた。
これで終わり何てありえない。また必ず歩きはじめる」と言ってました。

>http://phayul.com/news/article.aspx?id=21558&article=450+Tibetans+detained+in+Nepal's+capitalカトマンドゥではデモを行ったチベット人のうち450人が逮捕された。
ネパールの警官はチベット人を乱暴に扱うことで有名だ。いつも逮捕のときには血を見る。
ネパール当局は「例えば中国のような友好国を非難するデモは許せない」とはっきり言ってるそうだ。









rftibet at 19:35|PermalinkComments(9)TrackBack(0)

2008年06月04日

中国が法治国家になるのはいつのことか?

9d891e80.JPG以前より共同新聞はいい、時に拘束されながらもよく頑張ってると言ったりしていましたが、地震の現場でも大きな問題を中国の妨害にも関わらず取材し、ちゃんと報道してくださったので、転載させて頂きます。

最初のは現地より、次に北京からです。

賠償阻止、北京五輪に不安 法治国家へ遠い道のり
http://www.47news.jp/CN/200806/CN2008060301000651.html

 【都江堰(中国四川省)3日共同】中国・四川大地震で校舎倒壊の犠牲になった生徒の親らによる損害賠償請求の提訴を当局が3日、事実上阻止し、取材記者も拘束した。自然災害による混乱という要素を差し引いてもなお、中国の法治国家への道のりが遠いことを示し、約2カ月後に迫った北京五輪に向け不安を残す結果となった。

 中国政府は、3月のチベット暴動でチベット民族側の死者数や暴動制圧時の軍関与について明確にせず、国際社会から「情報隠し」と厳しく批判されたことを踏まえ、地震後は当初、外国メディアに広く取材記者証を発行し「透明性」を強調。

 各国からの支援も積極的に受け入れて「国際協調」姿勢を示し、「開かれた中国」を大きくアピールする思惑だった。

 だが、地震で多数の学校が倒壊、父母らが「手抜き工事が原因」として当局を批判する姿勢を強めたことに態度を硬化。

 今回の提訴を1つ許せば、当局の責任を追及する訴訟が各地で頻発、社会不安につながる恐れはあった。だが胡錦濤政権が掲げる国民重視の「親民政治」の看板に傷が付いた印象は否めない


中国警察当局、親の提訴を阻止 共同記者一時拘束
2008.6.3 12:47
http://sankei.jp.msn.com/world/china/080603/chn0806031248006-n1.htm四川大地震

 【北京=矢板明夫】中国・四川大地震の被災地の都江堰市で、取材中の共同通信社の邦人記者2人が中国当局に一時身柄を拘束された。地元当局は「地震で社会が不安定になっており、記者の安全を守る措置だ」とし、「逮捕ではない」と説明している。

 3日午前、地震で校舎が倒壊し、約300人の生徒らが死亡した同市の聚源中学校の生徒の保護者ら約150人が地元裁判所周辺に集まり、損害賠償訴訟を起こそうとしていたところ、それを阻止しようとした警察官らと一時もみあいとなった。現場で取材活動をしていた共同通信の邦人記者2人が、警察官に取り囲まれ、取材を制止されたうえ、裁判所内に連行された。記者らは約1時間後に解放されたという。

 提訴しようとしていた保護者たちは同日、学校の倒壊は手抜き工事が原因として、学校の校長らを相手に損害賠償を求めようとしたが、裁判所側は「提訴は受け付けられない。陳情部門にいけ」として提訴の受付を拒否した

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

つい数日前のニュースにも北京で今回のラサ騒乱の後、チベット人逮捕者を弁護することを名乗り出た、中国人弁護士が資格の延長が当局により拒否されたという

そして行われた実際の裁判は全員、器物破損罪、とか傷害罪となり、つまりチベットに政治問題はないというために、政治犯はいないといった判決だった

まるでそこには法治の概念自体がないか、積極的に無視するものと決めているのか、
何とも言えない無法政治の様が見えてくる。

前にもお知らせしたように中国には立派な法律がある、その中では人権も言論の自由も保障されている。
外の誰かお人好し(日本)とかから「貴国には人権がない」と言われたら、「何という言いがかり、ちゃんと人権は憲法により保障されている」というと効果があるから。

天安門広場も今日は厳戒態勢で、供養の類は全面禁止とか。

今夜、ダラムサラのツクラカンでは<天安門事件>のドキメンタリーフィルムの上映会が開かれるとか。

結局中国が自国の立派な法律を守りさえすれば、多くの問題はなくなるということでです。






rftibet at 17:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2008年06月02日

チベット ウイグル 外モンゴル

Scan18

昨日は中国がいかに世界中に悪政を蔓延らせているかについて少し書いたが、
もちろん国内においてはチベットのみならず、ウイグル、内モンゴルにおいても同様の弾圧が続いている。

大きな違いは悲しいかなウイグル人やモンゴル人にはチベットのダライラマ法王という強力な統率者、代弁者がいないことだ。
そのためチベットに増してその弾圧の実態は隠され続けている。

所謂新疆ウイグル自治区の総面積は現在の中国の六分の一(歴史的チベットはちなみに中国の四分の一)にあたる。総人口は1963万人で内ウイグル族45%、漢民族41%、その他14%がカザフ族等の少数民族だ。
1949年に中国人民解放軍が侵攻してくる前には漢民族はたったの2%だった。

ウイグル人は約1000万人ということだ。チベットでチベット人は文化大革命の終わりまでに人口の5分の1にあたる120万人の虐殺に会ったわけだが、この率をウイグルにそのまま当てはめれば200万人が毛沢東により虐殺された計算になる。
勝手な計算だが、、実際おかしくない数字に見えないだろうか?。

彼らだって戦っている皆が独立を掲げているわけではないが、東トルキスタン独立運動という組織もある。

アムネスティーの招待で来日したウイグルの人権活動家、ラビア・カーディルさんの去年11月21日大阪で行われた講演録が以下に載っている。
http://www.news.janjan.jp/world/0712/0712227716/1.php

その中:
「しかし、ソ連が崩壊したときに西トルキスタンの諸民族が次々に独立したこと対して中国は危機感を抱き、むしろ体制を厳しくしたのです。1997年、グルジャという町で、1万人を越す人が自由や平等を求めてデモをしました。手に武器を持った人はおらず、平和的なデモでした。しかし、中国は軍隊で鎮圧しました。その場で407人の人が殺され、逮捕者は6万人を越えました。デモに参加した人の家族や友人まで逮捕したからです。しばらく経ってから、トラックで引き回したうえでの公開処刑がおこなわれました。当時、私や欧米の記者たちも現地調査に行きましたが、捕まってしまい、結局、国際社会は何もしてくれることはできませんでした。

このグルジャ(イーニン)の弾圧については
http://www.uygur.org/japan/et/2006/02_05.htmの中で:
「東トルキスタン文化協力協会アンカラ支部長のハイルッラ・エフェンディグリ(Hayrullah Egendigil)が中国大使館の前で、中国侵略者が東トルキスタンで行なっている国家テロ政策を批判する講演を行なった。グルジャ事件の後中国侵略者はイリ、タルバガタイ、アルタイ地区で計6万1千人のウイグル人を逮捕し、1500回も裁判会を開き、8000人以上を死刑に、他の5万人以上を無期懲役にしたのだ。」
という。

これに比べれば今回のラサ弾圧は中国にとってはまだまだ甘いやり方の内なのかと思ってしまう。

一方、外モンゴルは大戦前の日本とソビエトが決めた国境線が下で内モンゴルから離されることになった。
人口は2400万そのうちモンゴル人は現在たったの17%とか。漢民族が79%も移住してきた。

その後1947年以後毛沢東の統治下で彼らの受けた悲劇はチベットと変わりない。文化大革命中にはほとんどの僧院は破壊され、チベット仏教は一旦徹底的に破壊された。その当時有りもしない「モンゴル独立運動」に反対するとして大量虐殺が行われた。

現在「内モンゴル人民党」という独立を目指すグループがアメリカのニュージャージーに本部を構えているという。

この3地域を合わせると今の中国のおよそ半分になる。
中国はこれらの地域からの資源供給なしにはもうやって行けない。
取ったものはとことん利用する。
これもかつての日本等の植民地政策と変わらないのだが、ただ大きく違うのは漢民族は人口を増やしすぎており、これらの地域を移民のはけ口とし、多量の中国人が移住してくるということだ。
これを侵略の「最終的解決」と中国は呼ぶ。




rftibet at 13:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2008年05月24日

日本での中国少数民族出身貧困女子学生

cc193547.JPG昨日お知らせした<中国の貧困女子学生>の話にコメントを下さった方がいらっしゃいます。
そのまま、重ねて表にコピーさせていただきます:

「私も数年前,内モンゴル自治区から私費で日本に留学している方と親交をもったことがありますが,日本でも似たような境遇に苦しんでいるようです。どんなに学業で成果を出そうとも,大学の奨学金は(学校側の外交配慮で)韓国や中国の留学生に取られてしまう。スーパーのレジのバイトをしているが,レジの横に本を置き客が来ない時は,その本を読みながら必死に勉強を続ける。疲れて帰ってきたら,母国?の歌を一人歌い心を慰める。そして日本人がいる時は良いが,日本人がいなくなると,とたんに漢人が態度を豹変させてボスになる。当然,非漢民族である彼は辛い思いをする。日本においても中国と同じようなシステムが日本にいる漢民族によって構築されているのは恐ろしい限りです。」

この話で思い出されるチベット人の友人がいました。
彼女はアムドから広島大学に留学しました。
もっとも最初のころは広島のYMCAで日本語を勉強することが中心でした。
もちろん奨学金はないので、毎日バイトしなければいけません。
缶詰め工場に行くことが多かったようです。

私も広島に居たある冬に「今から日本海の方に行って、道路の警備員するよ。寒そうだね」という電話がありました。
そのころ日本海側は吹雪だったのです。
そんな時に外に立ち続けることができるのは、アムドのチベット人ぐらいか!
彼女はいつもどこに行っても沢山の中国人が居て、嫌だ、いじめられる、と言ってました。
夜の仕事なんかにも誘われるが、私は決してそんなことはしないと決めているとも言ってました。

色んな苦労がありながらも、7,8年広島に住み、広島大学大学院まで卒業したのです。
しかし、日本では就職先が見つかりませんでしょた。
なんと、中国出身の留学生は卒業後、中国関係の仕事にしか就いてはいけないという法律?があるそうです。チベット関係の友人とかに当たったけどチベット関係の人たちが中国との人脈に通じているわけもなく、結局仕事は見つからず、お金も尽き気力も尽き、一昨年あれほど帰りたくないと言っていた、国のアムドに帰らざるを得なくなりました。
広島にいることが少なく、十分助けてあげることができなかったと後悔もしています。

今、この緊張のなかでどうしているのか、と心配です。

彼らはいったいどこに行けばいいのでしょう。
彼女は本当にけなげによく勉強し、よく働いていました。

rftibet at 11:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2008年05月12日

奈良 ビルマ ダルフォール ジンバブエ 地震

1a75756a.JPG風の便りに日本の奈良の由緒ある寺の僧正がフーチンタオを恭しくもてなして、仏教の街として有名なその市の市長が鑑真和尚の像を送られて、日中友好を演出したとか。

鑑真さん現代の仏教破壊者ナンバーワンのお方に利用されるとはさぞくやし涙を流されたことであろう。
もしも鑑真和尚が現在に生きていらっしゃったら間違いなくフーチンタオの大きな敵となっていたことであろう。

共産党が宗教を否定しなければ共産党になれない。

侵略の後チベット仏教を徹底的に破壊し、最初の2,30年間はチベット人に一切の宗教活動を禁止し、今でも今日もダライラマの写真を踏み絵に使うように命令してるその張本人。
ビルマの現状、屋根の無い家の中で乳飲み子を抱く母
ビルマで罪もない数十万の人々が死にかけているというのに、そんな自国の民が多量に死ぬことより、自分たちの悪事がばれないように外国からの緊急援助を断り続けるかの軍事政権の第一の大事な後ろ盾中国。
軍事独裁のやり方を世界中に教えて勧める中国。

軍事政権が外から何を言われても平気な顔で居られるのは国連で拒否権を持つ中国がしっかり後ろにいるからであることは国際社会では自明のことだ。

チベットもしかり。

テレビに映し出される映像も軍人のボスが漢字がしっかり表に書かれた援助物資を避難民に届けるシーンばかり。大きな中国の緊急援助物資を積んだ輸送機が大きく映される。

中国以外の外国の援助金も品物も自分たちがまず貰ってからその後でゆっくり使い道は考えるという政府。

すべてやらせの世界はチベットも一緒だ、閉ざされた暗闇の中で虫けらのように死んで行くのも同じだ。

中国は今資源獲得のためには何でもやるのだ、善悪のことなど考えたこともないらしい。
ビルマの豊富な天然ガスを独占的に買い占める為に扱いやすいこの軍事政権を作り捜査している。
代わりに多量の武器を供給する。

日本も外国人はほとんど<ビルマ(バーマ)>と呼び続ける国名を<ミンマー>というこの軍事政権が新しく作った国名を天然ガス欲しさに採用し、金も相当使って現政権を援助し続けてきた。それでも武器の力には到底及ばず中国に悪負けしてばかり。


安い武器を餌にアフリカではまずはスーダンの石油目当てにダルフォール虐殺に使われた、使われつつある中国製AK47軽機関銃を多量に与え続けた。
紛争は何時でも中国の絶好の商機なのだ。

インドネシアをはじめネパール、スリランカ、アフガンその他でゲリラ戦を続ける者たちには100ドル以下で中国製改良版カラシニコフAK47が供給される。

最近でもジンバブエの殺人鬼ムガベに対して仲間の危機を救うために、またまた早速武器を満載した輸送船を送った。しかしちょっとそんなに世界もマフィア軍団に好きにさせておくのもどうか、いずれすぐに殺人に使われる事が明白な武器を、、、ということで近隣の港をもつ国に圧力をかけた。中国の武器船も港がないんじゃね、帰ろうと言って帰ったばかり。

ケニアも同様。このままではアフリカは近いうちに全部中国の植民地になるかもね!?これを中国式新植民地政策とでも呼ぼうか。

そんな事情のある、そんなことを毎日考えてる張本人、責任者、一般的にはジェノサイダーと呼ばれても不思議はない人と知って、日本の皆様はお会いになったのでしょうか?
知らない訳ではないでしょう。或いはここは<見ざる、言わざる、聞かざる>の修行と思召したのか?

ま、私はもう先が長くないので、大したことはないのですが、今の若い人たちは将来大変でしょうね。こんな世界の悪者うら代表のような中国がこのまま経済的にも軍事的にも巨大になるとすると世界は、日本はどうなるのでしょうかね?
実際少し心配ですよね。
破壊された家の前には家畜の死体?
写真はサイクロン後にビルマに観光に行かれた人から送られてきた写真です。

何でただ助けを必要とする人を助けようとする者を拒むのでしょう。
ただただ自分たちの椅子を失いたくない数人のやくざな人たちのせいで、それを約束する中国のせいで、多くの人々が死んで行く。

オックスファームの調査ではこのまま政府が外国の援助を断り続けるなら150万人の更なる犠牲者が発生するという。

FREE CHINA!


成都の北西で発生した強い地震のチベット地域での被害が心配だ
今まで何度も中国との衝突についてお知らせした、アバ、ギャロンが被害地に入ると思う。すでに数千人の犠牲者が出たとのこと。
この地域の大抵のチベットの家は石造りの2,3階建だ。
比較的簡単に崩壊するし、石の下敷きになれば死ぬであろう。

心配だ。










rftibet at 18:30|PermalinkComments(1)TrackBack(0)

2008年04月24日

チベット国旗昔話

1993ジョカン前ガンデン僧院僧侶CR 9-10-3左に載せた写真は1988年3月5日ガンデン僧院の僧侶20数人がラサのジョカンの前をチベットの国旗を掲げて行進する様子。

ちょうどモンラムの最中でもあり多くの市民がこのデモに加わり数千人規模のデモとなった。中国側はこれに対し発砲し、多くの死傷者が出た。

詳しくはhttp://www.lung-ta.org/このときチベットの国旗を手作りし掲げて行進したものたちが亡命後9−10−3の会を創始したメインメンバーだった。もっとも彼らの多くはオーストリアやアメリカ、ヨーロッパに政治亡命し今はほとんどダラムサラにはいない。

そこで今もルンタレストランにいて、毎朝おいしいパンを焼き続けるトプチュラにそのころの国旗にまつわる話を聞いてみた。

彼もデモをして逮捕されるまではガンデンの僧侶だった。

93年の春チベット歴1月14日にテンジンという仲間の僧侶と二人だけで大きなチベットの国旗を掲げて始めジョカンに向かって歩き、ジョカンの裏手まで来たところで警官に取り囲まれて逮捕されたという。

この日には外国の使節がラサに来ると聞いていたので、最初はその一団を待っていたが、どの外人がそうなのか分からないまま一時間が過ぎ痺れを切らして走りはじめたという。

ちなみにこのときのチベット国旗は1.5メートルx0.9メートルぐらいの大きさで、両辺りに添え棒を付けて二人で掲げて走ったという。「雪獅子は描いたの?」
「無かったな、、、」

その年の冬、ガンデン僧院のケボチュラ堂の中に仲間が集まって作った大きなチベットの国旗を一か月余りに渡って掲げていたという。

その時国旗の青い部分はインクを使い、黄色い部分は土を使い、赤い部分は自分たちの血を絞って塗りつぶしたという。

「雪獅子2頭は書いたの」と聞くと
「似たようなのは描いたよ。でも前足が下に向いてて、イヌみたいでもあったがね、ハハハ!」

「その後最後には夜中にこっそりガマという自分の出身地までその国旗を持って行って、村で一番大きくて目立つチュテン(仏塔)の先に括りつけて帰ったよ。次の日の朝には取られてたみたいだけどね」

もちろん彼は逮捕された後、毎日ひどい拷問を受けた。背骨が折れたことがある、と言って背中を見せたり、胸に熱湯をかけられた後だと言って胸を見せたり。

「何度も気絶した。でも不思議に水をかけられると意識が戻るもんなのだ。

殴る、蹴る、縛りあげる、手に食い込む手錠をはめられる(これがその跡だよ、とはっきりと痕の残る手首を見せる)電気棒はいつものこと、氷水、熱湯何でもかけられる。生きて帰れるとは思ってなかったよ

刑期11年が言い渡されていたが、半年後にはすっかり衰弱し、監獄から病院に移された。

「体が良くなればまた監獄に返されると判っていた。そこである日の夜中仲間といっしょに病院を抜け出しそのままヒマラヤを越え亡命したんだよ」

____________________________________

1993年ジョカンにチベット国旗CR 9-10-3もう一枚の写真は同じく1993年のモンラムの期間中ジョカンの正面に掲げられたチベット国旗

何と20日ぐらいはそこに有り続けた。

そのころは中国もチベット国旗のことすら知らないことが多かった。

僧侶たちの多くはネパールから入って来る、チベット国旗のバッジを胸に付けてたものだ。
大きな国旗を作るときにもだいたいこの小さなバッジを見て作ることが多かった。









rftibet at 22:10|PermalinkComments(1)TrackBack(0)

2008年04月17日

チベット文化人逮捕 植民地支配 言論統制 Free China!

9030f78a.JPG

<チベット文化人拉致>

昨日のチベット人女性作家拉致事件に関連して、かつて4月3日、うらルンタの方に掲載した話を一部以下再度載せます。
これはルンタレストランで偶然同席した僧侶から聞いた話です。


彼が話すに、3月29日、家族から電話があった。「今日家に警官がたくさん来て弟を連れて行った。なぜかは判らない。25日から27日まで、街で大きなデモがあった。馬で走ったグループもいる。昨日もまたあった」と話してたという。
 「馬でやったのか! 馬はいいね!」と私が言うと、彼は手で首を切る仕草をして「殺されるけどね」と笑っていいました。失言でした!
 「弟はその地方ではちょっと有名な歌手なんだよ。きっとそれで連れて行かれたにちがいない」
 「弟さんはチベットのこと歌ったりしてたの?」
 「そうだよ」
 「だからか」

 こんな具合でして、ちょっと街で話を聞けば、今、この時点でもたくさん、本土ではデモが続いてることが判るのです。だのにTCHRDとか政府の広報とかは発表していない。これらの件についてTCHRDに確認しても「まだはっきりしない」とばかり言ってました。しっかりしろよな! と少し言いたい。「Radio Free Asia」が一番早いようです。番組の生放送中にカムやアムドから電話がどんどん入り、状況を伝えています。まだまだデモは終わってはいないのです。
 まだまだ今も、銃を向ける中国軍に対し素手で立ち向かう人々がたくさんいるのです。みんな命掛けです。逮捕者はすでに2000人を超えると思います。
 どれだけの拷問が今行われていることか! 想像するのもおぞましいことです。


チベット全土に名が通った有名人、人気者、歌手、舞踏家、作家。あるただある地方で有名な歌手とか、所謂ヒーロータイプの文化人をなぜ中国政府は拉致したり逮捕するのか?これらのチベット人ヒーロー、ヒロインたちは過去に意識的にか、無意識的にかチベットの文化、心を自覚し、称賛し、高揚させるようなことがあったかもしれない。それがチベット人や外国人に受けるからにはチベット人として自然にその文化的特質を強調するようになるだろう。
そこが中国の嫌うとこなのだ。中国はチベット侵略以来、この50年間とにかくチベットの土地、人々を植民地支配するだけでは物足らず、チベット人のアイデンティティー自体を組織的に破壊することによって<チベット>を<チベットの心>を消し去ろうとしてきたのだ。
きわめて高度の平和を享受していたチベットに、突然中国の紅衛兵が押しかけ大変な殺戮、惨劇が繰り返された。1959年から文化大革命が終了するまでに、すでに全人口の五分の一にあたる120万人が中国の侵略の直接的影響で亡くなった。
文革後80年代になり少しは統制の力は緩められたが、文化とくにその核になる仏教の力を弱めようとする政策に変わりはなかった。これを同化政策という。

特にオリンピックを意識してか、この2,3年次第に締め付けは厳しくなってきていた。
一民族の言語と文化を根こそぎにしようとするこの考えはかつてのナチスの考えと等しい。1936年ナチスドイツはオリンピックを開催しようとしたが、各国のボイコットにより果たせなかった。日本の人たちはナチスと今の中国じゃ違い過ぎるとお思いの人が多いと思われるが、私は少なくともチベットに関しては同じと考える。

最近のニュースではチベット人僧侶が多くの僧院の中に拳銃や爆弾を隠してたとか、ある役所を破壊したとか、流れているけど、だいたい爆発が起こったが先月23日だとか、そんな大事な事件をなぜすぐに発表しないのか?
何かを準備するのにそれほど時間がかかったのか?
私はこんなこと演出すればするほどに中国の恥知らずの様が外国のまともな人たちには映るだけと思う。
もっとも盧溝橋事件を計画したことのある日本人ならすぐにピントきても、金のために中国に加担するのはこの際当たり前と判断するのだろうけど。


急に世界各地の中国人がオリンピックトーチにデモをかけるチベット人とそのサポーターに対抗するために結集しているという。
彼らは中国政府から移動費、滞在費、お小遣いを支給されているのだという。
これについては15日付の委員会のプレスリリース参照
http://www.stoptibetcrisis.net/pr160408.htmlまた中国人の法王を非難する署名もたくさん(もちろん)集まってるとか。
当たり前だわね。
第一言論の自由がない国の人達が署名を集めたと言ってそれに何の意味があるのか!?
言論統制された国の人の意見が国の意見に一緒した、との結果が出た、とはその国の恐怖政治が良く機能してることを証明してるわけだ。

Free Tibet!と叫ぶことが許されないなら、
みんなで<Free China!>と叫ぼう。
<Free China! Free China! Free China!>
全く12億もの囚われの人々が日本のすぐそばにいるというのに、どうしてこの人たちの現状を憐れんで<Free China!>と叫ばないことがありえようか?









rftibet at 12:00|PermalinkComments(2)TrackBack(0)