ウーセル

2013年11月03日

ウーセル・ブログ <チャムド:「採掘を妨害するなら、僧院を閉鎖し、村人を逮捕する」>

ウーセルさんは6月24日のブログで、チベット自治区チャムド地区の例を上げ、中国当局が如何にチベット人の意志と権利を無視した環境破壊を行っているかを報告する。その他、宗教自由の否定、経済活動規制の実体も報告されている。

原文:昌都:“如果阻拦开矿,寺院关闭,村民要抓”
翻訳:@yuntaitaiさん

◎チャムド:「採掘を妨害するなら、僧院を閉鎖し、村人を逮捕する」

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2007に撮影したチャムドの玉竜銅鉱

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現在の玉竜銅鉱(写真はネットから)

現地住民からの報告によると、チャムド地区はあらゆる団体の職員・労働者、小中高生、学生、退職者のコルラや巡礼を禁じた。宗教的な祭日になると、管理は更に厳しくなる。少し前のサカダワ(チベット仏教でもっとも聖なる月。チベット暦の4月)では、当局は事前に会議を開き、仏事を禁止する通知を出した。小学生は学校と教師から「僧院へお参りに行ってはいけない、スンドゥ(高僧から加持を受けたひも。中国語:金剛縄)を身に着けてはいけない、さもなくば厳罰を受ける」と警告された。各学校のチベット語教育の水準は低く、チベット語で日記をきちんと書ける生徒はほとんどいない。

チャムド県カールプ鎮のある学校の校庭には、古代の高僧タントン・ギャルポの塑像が以前から立っていた。しかし、学校の規模が絶えず拡大したため、校舎が塑像のところまで広がってきた。チャムド地区委書記のノルブ・ドゥンドゥップは昨年、「共産党の学校はタントン・ギャルポとは関係がない」と述べ、ショベルカーを出して塑像を撤去し、川に捨てさせてしまった。地元の住民は皆、「文化大革命の再来だ。役人は紅衛兵よりもずっとひどい」とののしった。

チャムド地区もラサと同様に、大々的な土木工事で「都市建設」を進めている。今、1950年の「チャムド戦役」を記念する「解散広場」を整備しており、解放軍がチャムドを「解放」する姿を表現した彫刻もつくるという。

チャムド地区では鉱山開発と水力発電所建設が広がっており、非常に深刻だ。ジョンダ県チュニド郷の玉竜銅鉱は10年近く採掘を続けており、銅の埋蔵量は「中国で2番目」だと考えられている。(地区内で鉱山開発を手がける)大型の中央企業には中鑪鉱産資源有限公司などがある。

チベット日報の報道によると、2013年3月20日にチャムド地区で鉱業発展大会が開かれた。チベット自治区党委の常務委員で、チャムド地区委書記のノルブ・ドゥンドゥップは「チャムドはカンティセ―ニェンチェン・タンラ鉱床生成帯とバンゴン・ツォ―怒江鉱床生成帯、羌南―ゾゴン鉱床生成帯、羌北―チャムド鉱床生成帯に位置している。既に発見、探査した鉱石は53種、鉱床は714カ所ある」と指摘したという。だが、ノルブ・ドゥンドゥップがこの時に話した別の言葉を官製メディアは報道しなかった。「採掘を妨害するなら、僧院を閉鎖し、村人を逮捕する」

マルカム県のチベット人は長年にわたり、中凱公司の採鉱に反対してきた。聖山での採鉱という問題もあったが、より深刻なのは、鉱石を抽出する化学処理の廃液が川に流れ込んだことだ。毒で魚は全て死に、村人や牛、羊は奇病にかかった。マルカム県ツァンシュ郷では2005年から2009年にかけ、飲料水が原因で26人が病死し、牛や羊の計2442頭が死んだ。2009年4月には、ツァンシュ郷の若者500人がお経を掲げ、昼夜を問わず車道に横たわり、中凱公司が採掘を続けるのを阻止した。当局が軍警を派遣して抗議者を追い払おうとした時、2000人以上の老若男女が一斉に路上に横たわった。

チベット自治区の当時の主席ペマ・ティンレーは軍警の車両計27台に守られて採鉱現場に行き、抗議者に「水は全く汚染されていない。あなた方は事実を捏造して採鉱を阻止し、党中央の西部開発政策に逆らっている。この結果はとても重大だと分かっていますか?」と話した。その時、ある老人が1杯の水を差し出し、「あなたにこの水を飲む勇気があるのなら、私たちは争うのをやめます」と言った。ペマ・ティンレーは怒って水をひっくり返し、机をたたいて「お前たちは造反したいのか?」と脅した。村人は「ペマ・ティンレーをやっつけろ!命がけで聖山を守ろう」と叫んだ。ペマ・ティンレーは慌ただしく立ち去るしかなかった。

この数カ月後、中凱公司は採鉱を一時停止するよう迫られた。しかし、後になってまた採鉱を始め、環境汚染を引き起こし続けた。昨年8月には、現地の1000人近いチベット人が鉱区に集まって抗議し、軍警の発砲で鎮圧された。ニマというチベット人が銃弾を受けて死亡したほか、6人が負傷した。

ゾガン県ブルトック郷では昨年7月3日、採掘に抗議したとして、9人のチベット人が逮捕された。チャムド地区ダヤップ県では、山を爆破して採鉱したため、放牧用の通り道がふさがれ、広大な耕地が汚染された。牧畜や農業に従事する住民たちは何度も関係部門に採鉱停止を求めたが、誰も取り合わなかった。

カルマパ17世の故郷、チャムド県ラトック郷で今、金鉱を中心とした採掘計画が進んでいる。メンダ郷には鉛と亜鉛が埋まっており、同じように採掘計画がある。

チャムド地区は11県を管轄している。チベット日報の報道によると、地区内では2012年末の時点で、建設中のものも含めて水力発電所が計99カ所、太陽光発電所が89カ所あった。この数字は小水力発電の数を含んでいない。中国電建集団が設計、施工した重要なエネルギー略奪プロジェクト、果多水力発電所はチャムド県ツェルべ郷のザチュ上流にあり、チャムド地区で最大の水力発電所だ。ちょうどチャムドに行ってきた漢人学者は「大小の水力発電所がとてもたくさんある。水が濁り、環境がひどく破壊されている」と私に話した。

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チャムドの水力発電所(写真はネットから)

チャムドへの漢人移民はますます増えており、冬虫夏草の採集についても漢人が地盤を奪っている。冬虫夏草の取引を手がける漢人幹部も多い。チベット人は移動を制限されているため、冬虫夏草を採っても現地で売るしかない。よその土地から冬虫夏草を買いに来た漢人や回族の商人の示す低価格を受け入れざるを得ず、損害を被ってもなすすべがない。

2013年6月22日 (RFA特約評論)


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2013年10月23日

ウーセル・ブログ:1950年代にチベットを「訪問」した外国人記者団

8月14日付けウーセル・ブログ

原文:唯色:1950年代“访问”西藏的外国记者团
翻訳:@yuntaitai さん

◎1950年代にチベットを「訪問」した外国人記者団

ウーセル1中国蔵学出版社が近年出版した2冊の翻訳書。











外国人記者団のチベット取材ツアーを手配するのは中国共産党の伝統だ。これは中国蔵学出版社が近年出版した翻訳書を読んで得た結論だ。



ウーセル1「プラウダ」中国駐在記者のオフチンニコフ。













そのうち1冊のタイトルは「チベットの素顔」という。原書はロシア語で、著書はソ連の「プラウダ」記者だったオフチンニコフだ。1955年にソ連と東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアなどの社会主義国の記者と、中国在住の親中国共産党的な西洋人が、「解放」されたチベットを訪問した。中国首相だった周恩来が招待し、中国外交部新聞司が手配、引率した。この本はまるで中国官製メディアの海外向けニュースのように、外国人の言葉を通じ、チベットを占領して5年になる中国共産党が世界に伝えようとした話を記している。

この外国人記者団はラサで二十歳のダライ・ラマ法王に面会している。この本に記録されている法王の言葉が事実だとすれば、法王のごく短い話は原稿をそのまま読み上げたような決まり文句だと分かる。占領された側のスポークスマンとして、やむを得ず話したのだ。

宗教を憎み、低く評価するのは共産党員の特徴だ。悪名高いソ連共産党機関紙「プラウダ」の記者として、オフチンニコフはそれを全く隠そうとしない。彼はポタラ宮の壁画に描かれたチベット各地の僧院を見た時、「まるで病人の顔のあばただ」と形容した。

ウーセル3文革時代の毛沢東とアンナ・ルイス・ストロング。










もう1冊は「チベット日記」という。原書は英語で、著者は親中国共産党の米国人アンナ・ルイス・ストロングだ。彼女は(1946年に)延安で毛沢東やその軍隊を取材し、毛から好意的に迎えられた。1958年には北京に移住した。

1959年3月、チベット人の抵抗が鎮圧され、政治的、精神的指導者のダライ・ラマは異国への亡命を強いられた。社会主義国の記者や容共的な西洋人でつくる記者団19人はそのわずか数カ月後の同年夏、中国国務院の特別な許可を得て、外交部と人民日報の手配と案内の下、「解放」されたチベットを訪ねた。70歳を過ぎたアンナ・ルイス・ストロングもこの中にいた。本に描かれているように、ラサまで「特等」の専用機に乗り、ノルブリンカでは道の両側に配置されたチベット人数百人の歓迎を受けるなど、記者団は終始さまざまな特権を享受した。

そのため、同書は本物の報道のクオリティーを全く備えていない。客観性が欠けているだけではなく、事実ですらなく、中国共産党宣伝部による「チベットの声」が語句や行間にあふれている。更にでたらめなのは、3月に中国共産党の軍隊の砲撃がチベット人を鎮圧した時のことだ。この老婦人は「反乱分子の砲兵隊が総攻撃を始め、ポタラ宮やノルブリンカ、要害の高地である薬王山から砲撃が天を突いた」と書き、解放軍の砲撃によるメンツィーカン破壊を「反乱分子」の行為だったとまで書く。そして、中国共産党の特色ある「批判大会」(「解放農奴」による貴族弾劾集会)をとても素晴らしいと感じる。党幹部が始めたこうした「批判大会」は暴力に満ちていた。党に「階級の敵」とみなされた無数の命を全国各地で既に奪っており、チベット人社会でも多くの中心的人物の命を奪っていった。

補足しておくと、中国共産党が手配する現在と過去のチベット取材ツアーを比べると、今は基本的に社会主義国の記者がいないという点で異なっている。世界の枠組みにはとても大きな変化が起き、ソ連はロシアになり、東ドイツはドイツの一部になり、チェコスロバキアは二つの民主国家に分かれた。もし中国共産党が同じ陣営の太鼓持ちを招待したければ、キューバや北朝鮮など、数も少なく、信用もない社会主義国しか残っていない。もちろん、彼らはそれほど間抜けではなく、統一戦線を張りやすい国か、息のあった非社会主義国の登場人物を招待するだろう。

しかし、共通する部分もある。例えば、50年以上前のツアー内容は現在とそれほど変わっていない。「苦しみは大きく、恨みは深い」という「解放農奴」を例外なく取材し、彼らが極悪非道の「旧チベット」を告発し、幸福な「新チベット」をたたえるのを聞かなければならない。過去の取材コースと現在の取材コースが驚くほど似通っていることまである。例えば、生まれ変わった荘園を取材すると、党の選んだ「解放農奴」が記者団を恭しく待っているというように。

事実上、(1955年と1959年の)二つの外国人記者団が取材した時、チベット全土ではチベット人の壮絶な抵抗が起きようとしていたか、ひどい場合は既に起き、「反乱平定」を名目とする中国共産党の軍隊の大虐殺に遭っていた。チベット研究者のエリオット・スパーリンクは、中国が1982年の国勢調査に基づいて作った性別比グラフについてこう書いている(http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-634.html
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-635.html
)。「チベット高原の広い範囲で男女比のバランスが崩れている。この不均衡を説明できるのは暴力闘争だけだ」「中国側の記録を自由に調べられないため、正確な数字は分からない。だが、大規模な虐殺が起きたという事実に異論の余地はない」

2013年7〜8月   (RFA特約評論)

以下の写真は「チベットの素顔」と「チベット日記」(ともに中国蔵学出版社)から。

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周恩来が招待し、中国外交部が手配した外国人記者団とダライ・ラマの集合写真。(「チベットの素顔」より)

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アンナ・ルイス・ストロングら19人の記者団がポタラ宮前で撮った集合写真。(「チベット日記」より)

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党に集められた数百人のチベット人が外国記者団を歓迎した。(「チベット日記」より)

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党幹部が開いた「批判大会」について、アンナ・ルイス・ストロングは何度もたたえた。(「チベット日記」より)

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54年前のデプン僧院には、現在と同様に工作組幹部と積極分子の僧侶がいた。(「チベット日記」より)


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2011年02月17日

ウーセルさんのツイッターより「シュクデン問題」

359a7305.jpgウーセルさんは去年7月20日のツイッター上でシュクデンの問題を論じられた
。自身で訪れ調査した南カム地方(雲南省)の僧院レポートから初め、シュクデンと中国当局の関係、シュクデンとチベット仏教全般の関係について語られている。

翻訳は雲南太郎さん。

写真は「ドルジェ・シュクデン像」:ウィキペより。

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 雲南省デチェン州シャングリラ県のスンツェリン・ゴンパには八つのカムツェン(出身地別分院)がある。私が2000年夏に訪ねた時、ドルジェ・シュクデンを祀っていたのはチャンテン(四川郷城)のカムツェンだけだったが、08年6月に再訪すると既に五つのカムツェンが祀っていた。理由を聞くと、政府がお金をくれ、シュクデン像を置くよう要求したからだと僧侶は言った。スンツェリン・ゴンパのトゥルクはすべてシュクデンを信奉しており、当局は地位と厚遇を与えている。信奉しない者は排斥される。

 スンツェリン・ゴンパを指揮するトゥルクは克斯(クスル?)という名前で、インドのチベット寺院で学んで帰ってきた。大きなシュクデンの塑像はゴンパ内の僧侶たちを2つの派閥に分けてしまった。彼は当局に歓迎される人物となり、政府に属するスンツェリン・ゴンパ管理局副局長の役職を得た。3・14事件後、彼はテレビや新聞で活躍し、ダライ・ラマを激しく攻撃した。

 チャンテンのサンペルリン・ゴンパとチューペルリン・ゴンパはチベット本土のシュクデン信者の主要拠点だ。数年前、サンペルリン・ゴンパは移転新築し、当局は100万元を支出した。ほかの教派のゴンパにこれほどの厚遇はまったく与えられていない。私が08年6月にカムとアムドに出かけた時、五星紅旗を掲げるゴンパは道中でチューペルリン・ゴンパだけだった。僧侶に問うと、私たちが掲げたものだ、こうすれば政府がお金をくれるんだと言った。

 2001年末、テンジン・デレク・リンポチェは「爆破事件」への関与をでっち上げられ、執行猶予付きの死刑判決を受けた。幅広く民衆の信奉を得ており、今でも市民は冤罪を主張している。彼が役人やリタン・ゴンパのトゥルク(当局に歓迎されている人物)の恨みを買った原因の一つは、シュクデン信仰を捨て、正しく仏法を修めるよう僧侶に呼びかけたことだ。このために陥れられた。

 カム北部セルタ、ラルン・ガル・ゴンパのケンポ・ジグメ・プンツォク法王は、シュクデンがチベット仏教に及ぼす危害を法会で何度も述べている。悪魔を祀るな、悪魔の修練を行うな、さもなくば修行の成就はないと信徒に呼びかけ、当局の不満を招いた。1999年以降、当局は2000以上の僧坊を強制的に取り壊した。数千人の尼僧は当局の逮捕を逃れるためにさすらい、離散している。5年後、ケンポ・ジグメ・プンツォク法王は円寂した。

 ラサのガンデン・ゴンパは、清浄なるツォンカパ大師が創立した仏法に依って鬼神に依らないゲルク派修行場であることを示すために、僧侶らは06年3月14日、ある経堂のシュクデン塑像を倒した。この結果、数人の僧侶は投獄され、重い刑を受けた。当局は再建のために支出し、新しいシュクデン像をおごそかにガンデン・ゴンパに安置し、「信仰の自由を守った」と触れ回った。

 イタリアのガンチェン・ラマは元々、1963年に本土の小さなゴンパからインドへと亡命を強いられた「トゥルク」だった。しかし、シュクデンを信奉し、ダライ・ラマに反対したため、今では中国政府の賓客になっている。胡錦涛と温家宝に面会し、北京とチベットを毎年行き来している。聞くところでは、関係部門は彼に北京の家や車を与えたという。

 いつも漢族地帯を往来し、「雪域十明文化伝承者」を自任するアムド、ラブラン・ゴンパの僧侶コツェ・ツルティムは、ゴンパに戻った時、一緒にガンチェン・ラマに帰依しようと有名なラマ僧に勧めた。当局がガンチェン・ラマに与える予算が多いというのが理由だ。

 宗教を「精神のアヘン」と見なす共産党政権は1950年代から現在まで、ゴンパを破壊したり、僧侶を改造したりしてきた。しかしシュクデン問題になると、公民の信仰の自由を自分たちがどう尊重し、保護しているかと大々的に語り、ダライ・ラマは「正常な宗教秩序を破壊」する「分裂分子」にされた。中国当局のシュクデン派援助は決して宗教信仰を維持するためではなく、シュクデン問題を利用しているに過ぎない。

 シュクデン派の機嫌を取り、満足させるため、当局はシュクデン派が嫌うグル・リンポチェ像をわざわざ取り壊している。たとえば当局は07年5月、武装した軍と警察をロカのサムイェ・ゴンパに派遣し、金銀が使われた新しいグル・リンポチェ像を破壊した。同年9月にはンガリのプラン県青郷で、武装した軍と警察がブルドーザーで新しいグル・リンポチェ像を倒した。

 97年2月4日には、南インドのゴンパのシュクデン信徒6人がダラムサラ仏教論理学院学長と2人の僧侶を殺害するという事件が起こった。その後、彼らはすぐにチベット本土に逃げた。ある情報によれば、6人は共産党政府の褒賞を受けたという。

 国際刑事警察機構が指名手配した2人の容疑者ロプサン・チュダとテンジン・チュジンは既にチャンテンに戻っている。現地の人の話では、2人を含む数人の容疑者は現在、公然とバーを開き、大手を振って町を歩いている。彼らが3人のラマを殺害したことは多くの人が知っているという。それでも彼らが逮捕されていないのは意味深長だ。

 ラサのあるお年寄りはかつて私に言った。「チベット人という民族は優れた点も多いが、悪い部分も多い。心が狭く、団結せず、各地区各教派は分裂している。国外のチベット人までそうだ。ゲルク派には保守派があり、シュクデンを崇め、ニンマやカギュ、サキャなどの教派を排斥し、分裂を生み出している。チベット人の中には貪欲者がいて、シュクデンを今生で最高の飯の種にしている」

 中国当局にすれば、最高の飯の種を求める者がはいつくばり、都合良く「分裂分子の頭目」――尊者ダライ・ラマ――に狙いを定め、毒矢を放ってくれるのだから、どうしてシュクデンを手放せよう?

 シュクデン問題はいまや宗教問題にとどまらない。尊者ダライ・ラマが宗教的な方法で処理しようとしても、この問題はもう根本的に変化してしまっている。黒幕が背後で漁夫の利を得ようと企む政治問題に変わってしまった。最高の飯の種を求めるチベット人が私欲を求め、名誉と利益を得る政治問題に変わってしまった。

 シュクデンという宗教問題は長い間解決する方法がないままに、ダライ・ラマの宗教改革は妨害に遭い続けてきた。実はその原因はもうチベット仏教やチベット人社会の内部にはなく、外部の力が陰に陽に強く介入している点にある。この外部の力こそ中国共産党だ。それはいつものやり方――アメとムチの政策だ。援助を差し伸べ、攻撃する。硬軟両様の戦術を取り、「硬」で宗教問題を政治化する。そうして政治問題になってしまった。

 08年3月のチベット事件の刺激により、共産党当局はダライ・ラマの顔をつぶすため、シュクデン派がダライ・ラマにどう抗議しているかを初めてメディアで大げさに伝え、この問題や真相を知らない中国人を惑わせようとした。そしてシュクデン派は怪しくも初めて豊かな財力を持つようになり、世界を飛び回り、ダライ・ラマが向かったすべての場所で声高に叫ぶことができるようになった……。

 シュクデン問題で最も際立つのは、シュクデン信奉者が原理主義者であり、ゲルク派だけを正統な仏教だと考え、まったく寛容を持ち合わせず、他教派を排斥し、正統ではないと見なしていることだ。ダライ・ラマは教派の争いによる将来のチベット仏教分裂を望んでおらず、シュクデン派のこうした原理主義こそが宗教の自由の否定だと考えている。

 シュクデン信仰は宗教信仰ではなく、ある一つの霊魂を崇めるというだけだ。もし霊魂崇拝によって、豊かな教化の源を持つチベット仏教がただの神霊信仰に成り果てるのなら、あまりにも遺憾だ。だからこそダライ・ラマは率先して自派のゲルク派から整え始めた。これは事実上、600年前にツォンカパ大師がチベット仏教に行った偉大な改革に次ぐもう一つの偉大な改革だ!

 ツォンカパ大師当時のチベットはまだ自主的に動けた時代で、宗教事務はすべて宗教界の者で処理できた。だからツォンカパ大師は順調に宗教改革を成し遂げることができた。しかし、今日のチベットに独立した「政」は既になく、更に自主的な「教」もない。このため、外来の強権が宗教内部の問題に介入し、利用できるようになり、宗教問題が政治問題に変わった。これはチベット仏教が受けざるを得ない災禍だ。

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ツイッター上の原文:
https://twitter.com/degewa/status/18974121298
https://twitter.com/degewa/status/18974146864
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https://twitter.com/degewa/status/18975885776


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2011年02月11日

ウーセル・ブログより「ラサ市民は最も幸福」とCCTVは言う

ウーセルブログより、ラサ以下、2月5日付けウーセルさんのブログ

翻訳:雲南太郎さん
原文:http://woeser.middle-way.net/2011/02/cctv.html

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写真は2010年のラサ――銃口の下の「幸福」。(ラサ人写す)

 最初はある外国メディアの電話取材だった。ラサ市が「市民幸福感最強都市」に選ばれた、どう思うかと私に聞いてきた。新年早々、これほど皮肉に満ちた贈り物を突然受け取り、多くのラサ人がどんな反応を見せるか想像してみた。銃の下で日夜暮らし、ゴンパにお参りに行くにも狙撃手に狙いをつけられ、幸福を感じるとでも言うのか?私はあざ笑ってそう問い返した。

 数日後、このでたらめと言っていいニュースが表に出た。「中央電視台財経チャンネル『CCTV経済生活大調査』の市民幸福感調査の結果が発表され、ラサ市は光栄にも『2010市民幸福感最強都市』の1位を獲得した」

 ラサが「最も幸福」にされたのは初めてではない。ネットで少し検索すると、これは中国最大のメディア公衆調査であり、もう5年続いているとの報道があった。ラサも既に4回、彼らによって「最も幸福」にされていた。毎回、100以上の都市の1位だ。1回だけ1位にならなかったが、それでも3位だ。

ウーセルブログより、ラサ では、その1回は2008年ではないのか?(*1) 誰もが知るように、08年3月に起きた全チベットの抗議はラサから始まった。もしラサに「幸福感」があるなら、どうして抗議するのだろう?仮に08年にラサ市民が「幸福感」最強ではないと感じたとしても、続く09年、10年にはラサ市民の「幸福感」は再び最強になったことになる。これはいささか不思議だ。

 漢人には歴史の教訓を忘れることを批判する「傷跡が消えれば痛みを忘れる」という言葉がある。まさかラサ市民は08年の血の恐怖から、これほど早く幸福感を持って抜け出せたとでもいうのか?それに、08年に「幸福感」最強ではないと感じたとしても、その前の2年間、「幸福感」はずっと最強だったことになる。中国のあれほど多くの都市住民より幸せだというのなら、ラサ市民はなぜ街頭に飛び出したのだろう?
 
 私は昨年、ラサに3カ月滞在した。見聞きしたラサは明らかに軍事でコントロールされた都市だった。ある日、チベット人が住む東のエリアで、たくさんの赤い旗をつけた宣伝車がゆっくり通り過ぎ、大型スピーカーから御用歌手ツェテン・ドルマの歌声が流れてきた。「チベット族人民よ
どんなにどんなに苦しくても終わりは来る 共産党が来て苦みは甘みに変わった 共産党が来て苦味は甘みに変わった……」

 続いて十数台の車がゆっくり走ってきた。先導するのは警察車両だ。後ろはXZ(XiZang=西蔵)の文字と001~005の通し番号が書かれた5台の装甲車で、4人の狙撃手が機関銃を前方と道の両側に向けていた。顔を隠し、銃を持った軍人で満席になった中型バス5台が続き、最後は通し番号006、007の装甲車だ。

 知識分子で退職幹部でもあるチベット人は私に話した。「この2年、ラサは銃を持った軍人でいっぱいだ。ジョカン周辺の建物の屋上には狙撃手が昼も夜も立っている。彼らが狙うのは抗議者か?明らかに一つの民族を狙ったものだ。民心はもう取り戻せない。チベット人と漢人は二度と団結できないだろう」

 また、私はチベット人の自殺を聞いている。一人はラサ林周県病院の若い医師だ。08年3月の抗議により、相当数の僧侶や市民が捕まり、彼は衝撃と心理的な圧迫を受け、10年のチベット暦新年にラサのホテルで縊死した。もう一人はラサ下密院の僧侶で三十数歳だった。ゴンパで毎日受けさせられる「愛国主義思想教育」に苦しみ、山ごもりを要求したが、工作チームに許可されなかった。10年8月のある日、ラサ河に飛び込み水死した。

 この2件の事例だけでは、ラサ市民が「幸福」ではないと説明するのに十分ではないかもしれない。3・14後の5日目のことを覚えている。ラサの街頭に立った香港フェニックス・テレビの記者は正常な暮らしが戻ったと宣伝したが、彼女が取材した何人かのいわゆる「ラサ市民」はすべて漢人だった。まるでラサは既に和諧の実現した漢人都市のようだった。

 彼女は明らかに選んでいる。ラサで暮らすチベット人はまったく彼女の眼中になく、取材された漢人は逆にラサの本来の住民と見なされた。だから、CCTVが調査した「幸福感最強」の「ラサ市民」は、まったくチベット人ではない可能性が高い。

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*1:実際には2007年
http://jingji.cntv.cn/special/2010ddc/20110112/109316_1.shtml
2008年でさえラサは「中国で一番幸福な町」だったことになる。

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2011年02月08日

ウーセルさんのブログより「ツルブ・ゴンパのギャワ・カルマパ その2」

昨日の続き。

今日も貴重な写真が沢山。

翻訳:雲南太郎さん
原文:http://woeser.middle-way.net/2011/02/blog-post_03.html

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これらの写真は1998年と1999年に私が撮影したものだ。

当時、ギャワ・カルマパは13歳、14歳……。

ギャワ・カルマパに五体投地!

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ウーセル カルマパ その2以下の写真は1998年6月に撮影した。ツルブ・ゴンパの元老デチェン・リンポチェが円寂したため、ギャワ・カルマパは自ら四十九日の法要と荼毘の大典を執り行った。








ウーセル カルマパ その2














ウーセル カルマパ その2












ウーセル カルマパ その2













ウーセル カルマパ その2


























ウーセル カルマパ その2これは1998年にツルブ・ゴンパで行われた夏のチャム。
ギャワ・カルマパはめったに見せない笑顔を浮かべている。









ウーセル カルマパ その21999年のある日、多くの信者とともにギャワ・カルマパに謁見し、摩頂の加持を受けた。
2枚目の写真に写っている大きな目の子ども。
3枚目の黒い肌のお年寄りは私のお気に入りだ。












ウーセル カルマパ その2












ウーセル カルマパ その2


















ウーセル カルマパ その2

























ウーセル カルマパ その2























ウーセル カルマパ その2ツルブ・ゴンパの寝室にいるギャワ・カルマパ。










ウーセル カルマパ その2ギャワ・カルマパに合掌しているのはタクルン・ゴンパのタクルン・ツェトゥク・リンポチェ。数年前にラサで円寂された。




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2011年02月07日

ウーセルさんブログ「ツルブ・ゴンパのギャワ・カルマパ その1」

ウーセルさんはカルマパがインドに亡命する以前の98年と99年にツルブ僧院を訪ねカルマパに会っておられる。

その時撮影した貴重な写真を2回に別け、1枚1枚ブログに載せながら、カルマパやツルブ僧院について解説されている。

今日はその1。

翻訳はいつもの雲南太郎さん。

原文:http://woeser.middle-way.net/2011/02/blog-post_02.html

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◎ツルブ・ゴンパのギャワ・カルマパ(1)

これらの写真は1999年に私が撮影したもの。

当時、ギャワ・カルマパは14歳……。

ギャワ・カルマパに五体投地!

カルマパ その1カルマ・カギュ派を伝承する最高の指導者として、またチベット仏教最高の精神的指導者の一人として、伝統の儀式に則って厳格に捜索され、ダライ・ラマに認められたカルマパ16世ランジュン・リクペー・ドルジェの転生、17世大宝法王カルマパ、ウゲン・ティンレー・ドルジェは、崇高な地位によるだけでなく、日々発している精神的な魅力、素晴らしい容貌によって、謁見するすべての人を引き寄せている。人々は皆、この転生少年は仏の気質を備えていると言う。


カルマパ その1彼はいつもきちんと静かに型に嵌ったように座る。にもかかわらず、静かな悟りの中で成長する身体のように、人を驚かせる速さで大きくなり、日に日に在り様は荘厳となり、態度は俗なるものを超越し、清浄の相が現れている。表情は時にいたずらっぽく、その童心が人を感動させる。















カルマパ その1多くの古い典籍が説くように、カルマパは偉大な能力を持ち、仏法を全世界に広め、数え切れない衆生に利益を与える法王だ。彼と大慈大悲の観世音菩薩は完全に同じだ。グル・リンポチェの化現、テルトンが見つけた埋蔵経典はこう予言している。「観世音菩薩の善行を実践し、畏敬に足るヨガ者、聖者カルマパの名を持つ者は、大地を越えていくだろう。彼は慈悲によって人を良い方向へ導き、有情を調伏し、彼らを加護する」












カルマパ その1カルマパは戒律を実践し、修行に精進し、ふさわしい仏教の造詣と密法の成就を既に備えている。厳密な形式で仏教の深い道理を詩にするのがうまく、高僧と信者の間にとても広く伝わっている。







カルマパ その1カルマパはツルブ・ゴンパにいたころ、漢語と英語を学んだ。彼は毛筆で次のような漢語の七言詩を書いたことがある。







詩:
楚布風景特別美,(ツルブの風景は特に美しい)
山青水秀映雪輝 ,(山は青く、水は美しく、雪は映え)
高僧坐満修行洞,(修行の洞窟は高僧で埋まり)
世外桃源名不虚。(桃源郷の名は嘘ではない)


カルマパ その1実際、多くの事績はつまるところ、チベット人が言う「ジャンチュップ・センパ」(菩薩)の示現だ。生きとし生けるものを教化するため、特に世俗の凡夫の世界で、熱心に修行する模範を示す。
















カルマパ その1ツルブ・ゴンパはチベット仏教カルマ・カギュ派の総本山で、古い典籍にある「真のデムチョク・マンダラ」の中心だ。カルマパ1世トゥスム・キェンパが創建し、歴代カルマパの最も重要な修行地になった。チベット最古の最も有名な名刹の一つでもあり、800年以上の歴史を持つ。

ゴンパは南向きに建てられている。背後は修行の密室が並ぶトゥジェチェンボ神山で、前は流れが速く清涼なツルブ河に面する。夏は草木が生い茂り、冬になると白い雪景色が果てしなく広がり、しんと静まり返る。解脱の道を求めて僧侶になった無数の人々は、汚れなく安らかに一生を過ごす。誰であれ今生で一度拝みさえすれば、悟りの種子を植えることができるのだとチベット人は慎み深く信じている。この世にこれほど素晴らしいゴンパはめったにない。

カルマパ その1800年以上にわたる絶え間ない念入りな拡張を経て、雑然として趣があり、渾然一体となった壮大な建築群が形作られた。記録によれば、僧侶は最も多い時で5000人以上いたという。

しかし、無常の因縁はどこも同じで、災難から逃れることはできなかった。ゴンパ全体の建築はもう以前のようではなく、天災や人禍で何度も被害を受けた。最もひどかったのは文化大革命で、30以上の主な建物がほぼ廃墟にされ、900人以上の出家者は一人もいなくなった。写真は廃墟になったツルブ・ゴンパだ。

カルマパ その11980年代初頭、カルマパ16世の生前の任命を受け、シッキムのルムテク・ゴンパから帰ってきたデチェン・リンポチェは、チベットと海外の信者の幅広い支持によって徐々にツルブ・ゴンパを修復した。最終的には大殿を中心に、経堂、仏殿、護法堂、仏学院、密教学院、トゥルクの住居、僧坊などが並ぶ一定の規模のゴンパを完成させた。1990年代に入ると、僧
侶は300人以上になった。そしてカルマパ17世は1992年にツルブ・ゴンパに戻った。

カルマパ その1ツルブ・ゴンパを鎮める宝――「空住仏」という名の塑像。カルマパ8世ミキュ・ドルジェが自らの手で作ったものだ。記録によれば、カルマパは師サンゲ・ニェンパを深くしのび、師の姿に似せて40、50センチほどの純銀の像を作った。完成後、銀の像はミキュ・ドルジェの師を敬う気持ちに反応し、自ら7日7晩にわたって空中に浮かんだことから、「空住仏」の名がついた。今でもカルマ・カギュ派の祖寺――ラサ近くのツルブ・ゴンパの大経堂内――に供えられている。以前からツルブ・ゴンパの精神が宿っていると見なされ、恭しく祀られている。

私の願いにより、この上なく貴重な加持として、ゴンパのラマがこの「空住仏」を私の低く伏せた頭に置いてくれたことがある。仏像はやはり生きているかのようで、拙く素朴な工芸に人間性の彩りが満ちていた。文革中にこの仏像はあやうく壊されそうになったが、ラマが山の洞窟わきに埋め、ようやく災難を免れた。

カルマパ その1文革の災禍によって、ツルブ・ゴンパが秘蔵する宝はもう多くない。これは カルマパの塑像。





















カルマパ その1これはカルマパ16世の舎利。1981年にカルマパ16世は亡命中に円寂した。葬儀が終わった後、デチェン・リンポチェは誠実な心によって太ももの舎利を受け取った。数年後、上部に少しずつ高さ2、3ミリの仏像が浮かび上がってきた。象牙の彫刻のように見事なこの釈迦像は右手で触地印を、左手で定印を結んでおり、カルマパ16世の慈悲の顕現である。


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2011年02月03日

「法王カルマパが遭遇した謀略の背後」ウーセルさんブログ

31.1.2011カルマパ擁護キャンドルライトビジルカルマパに「中国のスパイ」嫌疑が掛けられた後、ウーセルさんは連日カルマパの話をブログに書かれている。

以下は2月1日付けの彼女のブログ。

翻訳:雲南太郎(@yuntaitai)さん。
原文:http://woeser.middle-way.net/2011/02/blog-post.html
写真:最初の2枚は1月31日のカルマパ擁護キャンドルライトビジル(C/R phayul.com)
その他は昨日私が撮影したもの。

昨日のカルマパのお話、youtubeに上がった。
http://www.youtube.com/watch?v=fnokDBVCEMA&feature=youtu.be&a

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31.1.2011カルマパ擁護キャンドルライトビジル◎法王カルマパが遭遇した謀略の背後

 カルマパ17世のいわゆる「大金」「中国のスパイ」騒動は1月29日に起きた。その後、カルマパが仮の住まいとするダラムサラのギュトゥ僧院には連日、漢人や西洋人らを含む数え切れない信者が潔白と名誉を守ろうと、夜通しキャンドルを持って集まってきている。ネットでも多くの支持者が文章や絵、音楽を使って応援している。この中には、カルマパをずっと民族の英雄と見なしている本土のチベット人もいる。

 では、この騒ぎの中で、インド側によって対立相手とされた中国は態度をどう表明しているのだろう?

2.2.2011 カルマパ擁護行進/集会 ダラムサラ 中国当局の代弁者「環球時報」は騒ぎの二日目、3000字近い記事を出した。反応は意外にも遅く、タイトルもとても独断的で、事件全体のはっきりした結論が出る前に、多くのインド・メディアの刺激的な憶測だけで、「チベットを出たトゥルク(転生僧)をインドが初めて『中国のスパイ』と告発」と書いた。

 同時に共産党中央党校の胡岩教授の言葉を引用し、「かつて国内のチベット地域で民衆の尊敬を集めたカギュー派のトゥルクが、異国でこのような騒ぎを経験している。『居候生活』の味わいは気分のいいものではない」と書いた。

 これは吟味する価値のある言葉で、とても含みがある話だ。彼の言う「国内のチベット地域」で暮らす私たちに言わせれば、本当の状況がよく分かる。

2.2.2011 カルマパ擁護行進/集会 ダラムサラ 1992年、カム地方の7歳の遊牧民少年がカルマパ16世の転生と認定され、多くの人の尊敬を集めた。しかし、歴代カルマパが伝承している祖寺、先祖代々が生活した土地で、カルマパ17世はどんな日々を送ったのだろう?

 彼が出て行くまでの丸7年、共産党中央統一戦線工作部派遣の幹部は漢語を教えるという名目で、実際は「愛国主義教育」を強行した。ゴンパ駐在の公安は彼の行動を監視し、制限した。袈裟を着た傀儡になるのでなければ、カルマパが必要とする仏教教育を禁じることまでした。

 チベットに残り続けることは、インドに亡命したチベット人が仮住まいで生活することよりももっと気分のいいものではない。そうでなければ、カルマパはどうして死の危険を冒して自分の故郷を離れただろう?居候と言えば、故郷を離れたチベット人はもちろん居候だ。しかし彼らは自分達の故郷でも既に居候で、あらゆる問題は半世紀前、チベット人が代々「カワチェン」と呼ぶ雪の国を失ったことにある。

 統戦部のチベット担当者は31日、「環球時報」紙上で、「カルマパが1999年に中国を離れたのは宗教目的だ」と話した。これは事実に反しているし、今回の騒動に疑惑を怪しげに添えている。

2.2.2011 カルマパ擁護行進/集会 ダラムサラ 11年前、21世紀の前夜、先代と多くの高僧が逃れた道をカルマパが突然歩んだため、江沢民は「子供も見張れないのか」とチベットの役人を責めたという。その後、共産党は対外向けの発表で、カルマパが手紙を残し、「祖国と政府を裏切るのではなく、外国に黒帽子と法器を取りに行くだけだ」と書いていたとした。

 カルマパは早くからこんな手紙を残していないと明らかにしており、この話はすべて嘘だ。メンツを重視する共産党の言い訳だと人々は考えたろうが、この11年来、舞台の裏表での彼らの動きを分析すると、込められた意図はとても深い。

 一方では絶えず味方に引き入れようとした。統戦用語で言えば「積極的に任務を果たし、彼らを我々に有利な方向に動かす必要がある」。しかし一方で、カルマパの成長に伴い、さまざまな理念が明らかになった。たとえば少し前、彼はチベット人大学生の会議で、「自分の国家と故郷のために貢献するのはとても重要だ」とはっきり語った。カルマパが言う「国家」は明らかに中国ではない。既に味方に引き入れられない段階になった以上、統戦用語で言えば、「適切な時期に決定的な打撃を与える」必要がある。

 今回のカルマパにかかわる騒動で、インド側のいいかげんな行動はチベット人を傷つけた。背後には、巨大で勇猛で、陰謀をもてあそぶのに長けた人影が活発に動き回っているのが見える。いま、「他人に刀を貸して人を殺させる」「対岸の火事として見る」「火事場泥棒を働く」「スパイを逆用して離間をはかる」といった作戦がうまく行き、ひそかに笑っているだろう。

2.2.2011 カルマパ擁護行進/集会 ダラムサラ しかし、もしもカルマパの顔をつぶせる、ひょっとしたらカルマパが悔い改めるかもしれないなどと考えたのなら、中国の特色ある企みは計算ミスに終わった。かえって何千何万もの信者をかき立て、カルマパへの信心は更に堅く、信仰は更に深くなる。本当にかつてないほどの衆望を担うことになる。

 新年を迎える前の法会で、カルマパは予言のように道理を説いた。「すべての苦境は形を変えた加持なのだと思いなさい。それらは私たちの生命をより荘厳なものにします。私たちはきっとその中から利益の果実を見つけ出すことができます。来たるべき年にもう一歩高みに上がるため、私たちは直面するすべての困難をうまく活かすべきです。苦境から学ぶことによって、困難はおごそかに『徳行』となります。それこそ品格であり、尊厳であり、円満なのです」

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2011年01月22日

“故乡在月亮升起的方向……” (故郷は月の昇る方角に...)・ウーセル女史ブログより

先の満月の夜、月の写真を撮った。
その前の日にツイッター上に載せた月の写真をウーセルさんが褒めて下さったので、満月を女史にプレゼントしようと思ったのだった。
ツイッター上に載せた5枚の写真を彼女は次の日ブログに上げて下さった。

題は「故郷は月の昇る方角に...」

もちろん、この思いはチベットを逃れこのダラムサラに辿り着いた、特にニューカマーと呼ばれる新参のチベット人たちのものだ。

しかし、私も東の空を眺める時にはいつもチベットのことが想われる。
元政治犯の人々から、その壮絶な拷問の様を毎日聞いていた頃には、山の向こうから、本当に今も獄に繋がれて拷問を受け続ける人々の叫びが聞こえてくるかのように感じていた。
2008年以後、再び多くの無実のチベット人たちが獄に繋がれている。
山の向こうからの叫びが大きくなっていると感じる。

法王も東の空を眺められる時には、間違いなくチベットの事を思い、あたかも置き去りにして来た我が子の苦しみを想うが如し、ではなかろうか......

満月は観音菩薩の象徴でもある。
チベットの人々は満月が昇ると法王を思い出すという人も多いであろう。

以下、ウーセルさんの昨日のブログ。
私@tonbaniの写真へのコメントはうらるんたさんが訳して下さった。

ウーセルさんは満月を見てダライ・ラマ6世の詩を思い出したという。
その詩の訳は雲南太郎さん。(チベット語が手元になく二重訳を頼んでしまった)

最初に、ツイッター上で日本人と友人になれて嬉しいと書かれている。

元のブログは:
http://woeser.middle-way.net/2011/01/blog-post_21.html
(プラウザによっては中国語が文字化けする。その場合中国語を正確に読みたい人は上の元ブログにアクセスお願いします)

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“故乡在月亮升起的方向……”
(故郷は月の昇る方角に......)



在Twitter上,我有幸结识了几位日本推友:@uralungta、@tonbani、@yuntaitai、@tibet_news_jpn、@hirochiyan,等等。

其实,见过其中一位,去年夏天的时候。

其实,后来才知道,@yuntaitai先生经常将我的博文,译成日文,由@tonbani先生贴在他的博客上,在此深表谢意。

而@tonbani先生,原来已在�甼兰萨拉生活了二十五年,说一口流利的藏语。据介绍,他是一位建筑师,在�甼兰萨拉参与设计了罗布林�柑文化中心、TCV大厅、敏珠林以及其他的僧院和佛塔等,一直支持图伯特的事业。他的博客http://blog.livedoor.jp/rftibet/,名叫“Tibet NOW @Lung-ta――Letter from Dharamsala”,即“当今图伯特 @隆�甼――来自�甼兰萨拉的信”,几天前,我链接在我的博客上了,请看右边的“链接”。

几天前,是藏历十五,�甼兰萨拉的月亮与图伯特的月亮一样圆满、澄明。@tonbani先生特意从他的居所,拍摄了�甼兰萨拉的月亮。当我由Twitter看见图片时,想起六世�甼赖喇嘛仓央嘉措的诗:

在那东方山顶,
升起皎洁月亮,
至诚仁增旺姆,
燃起祝福梵香……

あの東の山の頂に
白く輝く月が昇り
未生の母の御顔に
祝福の香を手向ける……

@tonbani先生回应道:“対流亡的图伯特人来说,故乡在月亮出来(升起)的方向……”

@tibet_news_jpn先生也回应道:“尊者�甼赖喇嘛今天回到�甼兰萨拉了,但也许已经睡了……说不定明天早晨(可以)看到月亮”

我 @degewa也回应道: “看见了�甼兰萨拉的月亮,衮顿千诺!”(尊者护佑)

……
19.1.2011ダラムサラの満月
















@tonbani: ダラムサラの東の山の端から満月が現れようとしている

意为:在�甼兰萨拉的东方山顶,即将升起圆月。


19.1.2011ダラムサラの満月















@tonbani: 満月が顔を出したところ。これをチベットからと眺めるニューカマーもいよう。

意为:明月升起,刚逃来的藏人们,眺望明月,怎不思念东方那边的故乡――图伯特。

Sar-joor(New Comer),藏语,新来的难民。

19.1.2011ダラムサラの満月















@tonbani:満月の日には僧尼は懺悔を行う。功徳が増すとて夜中オーマニペメフーンを唱える者あり。水月は幻と知りつつも、チベットに置きし父母、妻、夫、恋人、子どもを思い出す者多し。

意为:月圆之夜,所有的僧尼拜忏念经,静心修法,功德无量。

有人整夜诵持观世音菩萨六字大明咒“嗡嘛�希叭�軌吽”。正如【大品般若经】:“解了诸法如幻如�撫如水中月如虚空如�技如�墓闼婆城如梦如影如镜中像如化……”

也有许多人,徘徊在月光下,无尽地思念着留在图伯特故乡的父母、妻子、丈夫、恋人、子女……

19.1.2011ダラムサラの満月















@tsunke: くんのためにおまけの一枚。ダラムサラからはチベットも日本も月の出の方向。

意为:@tsunke说:我第一次看到这么梦幻的月亮�休。从�甼兰萨拉看去,图伯特和日本都是月亮升起的方向。

19.1.2011ダラムサラの満月















@tonbani: 月の輪

意为:月轮。

【感谢 @tonbani先生拍摄的照片;感谢 @uralungta对图说的翻译。】

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2011年01月20日

「心臓の骨」ウーセル女史新刊前書き・後半

チベット語擁護の高校生のデモ、チャプチャ胡錦濤のアメリカ訪問を話題にすべき今日この頃であるが、この方は「Follow me」をクリックして私のツイッターなんぞ見てほしい。

今日は昨日の続き。

原文:http://woeser.middle-way.net/2010/11/blog-post_11.html
翻訳:雲南太郎
写真:去年秋、アムド各地で行われた、学生たちによるチベット語擁護の抗議活動。

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民族と言語の平等を訴えるチベットの高校正たち「心臓の骨」後半

 漢字の改革にも簡体化があったが、相対的に見てずっと慎重だった。標準語の確定についても、元代の『中原音』や清朝の『官話』、民国時代の『国音』までさかのぼった。伝えられてきた『音』は標準語の音と定められ、全面否定すべき『四旧』に属しているかどうかは考慮されなかった。少数民族だけはいつも実験品になった。

 文字は平等なのかどうか。実際これはとても根本的な問題だ。モンゴル語とウイグル語の改革について、私は大学生のころにモンゴル族とウイグル族の友人から聞いたが、詳しい事情はよく知らない。でも『和平里チベット語』は自ら経験していたので、強い印象がある。当時、新しい文法を覚えるのにかなり苦労したし、『和平里チベット語』が引き起こした笑い話もたくさん聞いた。たとえば、チベット語の通訳がとても漢化していて、チベット人が聞き取れない時、どうして『和平里チベット語』みたいに話すんだとからかわれたそうだ。
 
 ある時期、この『和平里チベット語』は人々を苦しめ、結局は消えた。不幸をすべてあっさり忘れ去るチベット人は、少しつらいけれど、笑い話の中で歴史を風に任せて飛ばしてしまう。しかし、いま進行している事態の意図の深さ、手法の卓越ぶりは、目にすれば心が痛くなる。そう、そんな言葉で表現できる。私たちは刃物で切りつけられる時まで徹底的にもてあそばれ、それでも感激に満ち、熱い涙を浮かべ、下手人を菩薩と思ってオンマニペメフム……」

 今では?意図は?手法は?ある年のことを覚えている。私はまだ体制内で仕事をしていて、少数民族文学賞を受賞したチベット族詩人として、雲南で少数民族文芸交流会に参加した。

 少数民族の言葉と文字は発掘し、発揚するべきかどうか。「(全人代の)万里委員長は数年前、『文字の無かった少数民族に文字はいらないし、文字を持つ民族は文字を失わせ、すべて漢字を使わせる』と言った」。盛大な酒宴の席上、北京の太った公務員が遠慮なく話した。「そして私は」。この公務員はテーブルを囲んで耳を傾けている少数民族詩人を見回し、声を響かせた。「彼の意見に大いに賛同する」

 この時、イ族の衣装を着てはいるが、イ族とは限らない舞台上の青年男女が手をたたき、足を跳ね上げ、酒を勧める歌を歌った。「あなたを好きでも飲みたい、嫌いでも飲みたい、好き嫌いに関係なく飲みたい……」

 民族の文字は民族の生命と同じだ。どうしてこれほど軽率に出しゃばられたり、大々的に統一されたりするのか?ゲンドゥン・チュンペー――私がここで言っているのはチベットの巨変の前夜に自暴自棄になった有名な奇才のことだ――彼は早すぎる死の前に遺言を残した。間違って伝えられている「チベットにいたくない。チベットは嫌いだ!」といったせこせこした嘘ではなく、こう言ったのだ。

 「世界で最も尊いラピスラズリの宝瓶は石にたたきつけられ、砕け散た。この先、彼らがこうだと言えばこうなる。好きにさせてしまえ!」

 これはネット仲間のゲンドゥン・チュンペーがわざわざチベット語の伝記から訳してくれたものだ。彼はあざ笑って言った。「度胸もないのに、あの自分勝手なよそ者がこんなにチベットのことを考えていたとはね」

 私と彼は親密な友人になり、血なまぐさい嵐の吹いたチベット暦の土鼠年(2008年)に多くの交流を持った。私は何年も前にラサで書いた詩を探し出した。感謝をささげる言葉のようでいて、誰にささげるのか分からない詩だ。そのうちの2節は次のようなものだ。

ああ、月光の下、彼はもう幻になった
いま寺院を過ぎる
まるで鍵のようにひっそり光を放つ
でももうさびついている
どうすれば私のチベットを開けるのだろう?
……
私はそっと振り返り
思わず息をのむ
突然、一筋の光が斜めに差してくる
はっきり見えない袈裟に降りかかる
ちりが舞う
色がきらめく
チベットが時間の外にあったとは

 ネット仲間のゲンドゥン・チュンペーはそこから何かを見出したようで、感嘆した。「グル・リンポチェは『時間は変えられないが、人は変化する』と言った。大多数のチベット人に言わせれば、『ニンルパ』はまったく変わっておらず、世の中の様子が変わった。だから2008年の出来事は、暗闇は永遠ではない、努力しているのは自分一人だけではない、誰もが報われるんだと人々に突然気付かせた。2008年によって、あなたや私にだけでなく、全世界にも突然気付かせた。思わぬことにこの半世紀の間、まるで大切なものが隅に置かれていたかのように、チベットが時間の外に存在していたと……」

 民謡で歌われている通り、ニンルパはチベット語で「心臓の骨」という意味だ。

 「去年は馬に振り落とされたが、腕も脚も折れていない
 今年は恋人に振られてしまい、心臓の骨が折れた」。

 これはラブソングだが、単なるラブソングにとどまらないと思っていい。



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2011年01月19日

「心臓の骨」ウーセル女史新刊前書き

ノルツェの作品 「チベット文字」


















写真はチベット人画家ノルツェの作品「チベット文字」

今日もウーセルさんのブログより。
去年11月11日付けの文章で、題は「心臓の骨」。
これは近々台湾で出版されるという彼女の新作「チベット、この数年」の前書きである。
この新刊には題名の如く、2008年蜂起のこと、この数年チベットで起こった主な事件、チベット語の問題等について書かれているらしい。

この前書きではチベット語の問題を中心に書かれている。

翻訳は雲南太郎@yuntaitai殿。
少々長いので2回に分けて掲載する。

なお原文には注が沢山後記されているが、訳者は1つを除きそれらを本文中に挿入されている。

原文:http://woeser.middle-way.net/2010/11/blog-post_11.html

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◎心臓の骨 

 数年前、私は北京のネット上にブログを開き、理由も示されないまま半年足らずで閉鎖された。話題が敏感だったことと関係があるのだろう。たとえばチベットでの文化大革命について、私の父が撮影したゴンパ破壊、僧侶弾圧の写真を載せていて、明らかにタブーに触れていた。

 では、「和平里チベット語」も取り上げられないのだろうか?私自身、その先例とは知らなかったが、ブログに新疆(東トルキスタン)旅行記を発表し、新ウイグル語を取り上げたことがある。

 民豊県(ニヤ)を通った時、県庁所在地の中心に立つ記念碑に引き寄せられた。赤い柱で、文革を象徴するヒマワリが基部に彫られていた。柱頭には五星紅旗に囲まれた毛沢東の胸像があり、中央部には漢字とよく分からない文字で「我々の思想の理論を導くのはマルクス主義で、事業を指導するのは中国共産党」という文革語録が刻まれていた。ほかにもう一つ石碑があり、この記念碑について「1968年建立」と書いていた。

 プロレタリアート文化大革命の激しい炎は確実に全国をくまなく燃やし、遥か遠い国境近くの小さな町まで席巻していた。ラサでも起きた「共産テロ」への私の理解によれば、1968年はまさに二つの派閥の争いのピークだった。当時、蔵漢人民は過去にないほどの団結を実現していた。「敵か味方か階級で分ける」から「敵か味方か派閥で分ける」段階へと細分化し、民族問題はどうでもよくなっていた。新疆もそうではなかったのか?
同行したウイグルの友人は1973年生まれで、そのころの歴史をあまり知らず、記念碑のよく分からない文字についてもただ新ウイグル語だと言うだけだった。

 新疆から戻ってネットで調べると、北京は1960年以後、ウイグル語に文字改革を加えていた。昔ながらのウイグル語は科学性が欠けているとして、36個のアラビア文字を32個のラテン文字に置き換え、新ウイグル語を作り出した。何世紀にもわたって使われ、イスラムの背景を持つ文字は廃止された。しかし、ウイグル人にまったく受け入れられず、1982年に伝統的な文字を復活させた。結果として、この20年間に新ウイグル語を学んだ2世代のウイグル人は、一夜にして文盲に変えられてしまった。

 当時、新ウイグル語以外にも新カザフ語、新モンゴル語などが同じ運命をたどっていた。これらはすべて、「わが国が50年来、言語・文字政策で多くの過ちを犯してきた」ことの証拠だと専門家も認めざるを得ない(http://ngotcm.com/forum/viewthread.php?tid=4377)。

 ゲンドゥン・チュンペー(注)というハンドル名を名乗るチベット人は、当時ほかに新チベット語があったと私のブログのコメント欄に書き込んだ。

 「伝統文法の主な虚詞を省略し、一つの虚詞を代用する。これは文法に反している。異なる音が代わる代わる現れる本来の美しさを壊し、同じ音が繰り返される結果になった。聞きづらいし、書き間違いも相次いだ。しかし、文字に改革が必要である以上まったく配慮されず、号令の下に小学校の教科書まで改められた。

 面白いのは、教科書以外で最も被害を受けたのが『毛沢東選集』だということだ。当時、『毛沢東選集』を除いたほかのチベット語の文書はすべて『四旧』(文革で打破すべきとされた古い思想、文化、風俗、習慣)に属しており、出版の栄誉はなかったからだ」
 
 こうして見ると、新チベット語はラテン文字化した新ウイグル語とは違い、繁体字を絶えず簡体化しようとした中国語の文字改革に似ている。最終段階の簡体字を習ったことがあるが、簡体化は笑うべきレベルに達していた。たとえばチベット人(蔵人)の蔵の字は、上の部分が草かんむり、下の部分が「上」の字に変わり、わけがわからず、ただ形として見てもとても格好が悪かった。

 これはしかし、「解放農奴」は四肢が発達していても頭は単純なので、学びやすい言葉を改めて作る必要があったという意味だろうか?「解放農奴」は頭が悪いと皮肉っているのだろうか?実践で明らかになったように、文字改革の効果は狙い通りにはならなかった。新チベット語版の「毛沢東選集」は間違いだらけになり、社会の主役になったと言われたチベット族人民が毛沢東思想を学ぶのにとても不便だった。

 ただ、新しい世代のチベット人の私は、幼いころに新チベット語を学んだことはない。実際のところ、チベットの小中学校は長らくチベット語の授業を廃止していて、私を含む多くの60、70年代生まれを現在でも母語で文盲にしている。当然、新チベット語についても何かを言うことはできい。

 私は引き続きゲンドゥン・チュンペーに教えを請い、彼はまたコメントを残してくれた。

 「これは忘れられた歴史だ。チベット語改革にかかわった人にはチベットの知識人がたくさんいた。もちろん、チベット語の水準がかなり高くなければ、文法を変えることはできない。

 この改革は正式に文書の指示があったわけではないようで、60年代末から6、7年、民族出版社の出版物から始まった。民族出版社が北京の和平里にあったことから、新チベット語は『和平里チベット語』と呼ばれた。文革が終わるまで続き、多くの有名なチベット人学者の反対で、ようやく伝統的なチベット語を復活できた。新チベット語の『毛沢東選集』は増刷を止めるしかなかった。

(続く)

(注)ゲンドゥン・チュンペー……1903~1951年、アムド地方レゴンのチベット人。ラサのデプン・ゴンパで仏教を学び、インドなどに足跡を残した奇僧で、風流な道楽者。近代チベットの著名な画家、詩人、歴史学者、地理学者、性科学者、翻訳家で、20世紀のチベットを代表する自由主義思想家、人文主義者といわれている。






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2011年01月18日

ダラムサラの電話屋:QQ "泣泣”

いよいよウーセル(唯色)さんのブログにこのブログのリンクが張られた。
私にとっては名誉なこと!

そこで今日も「ウーセルさんのブログより」となる。
ほとんど最近はウーセルブログ日本語版になりかけてる。
実際には自分は中国語ができず、常にどなたかの翻訳に頼っているという情けない状況なのである。
現在中国語勉強中。その内自分で訳したいものだと思ってる。

今日は彼女の16日付けブログ分。
記事は私も知っているダラムサラ在住のチベット人が書いたもの。
チベットから亡命して来た人たちが電話を通じ内地に残した家族や友人とせつない交信をするというもの。
彼も最近アムドから来たばかりなので、サンジョル(新参者)の気持ちが痛いほどよく分かるのであろう。

ダラムサラに住む私が、北京経由の記事を訳してもらって載せるというのも妙なものではある。

翻訳は@uralungta様。

元のブログにはyoutubeから「Dreaming Lhasa」という映画のトレーラーが最初に載せられている。ご覧下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=KglKH6J2s5g&feature=player_embedded

なお以下は抄訳。
原文は最後に載せる。

写真は今夕、ダラムサラの東、チベットの方角に昇った月。

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18.01.11 Dharamsala<ダラムサラの電話屋:QQ"泣泣”>

記ドゥユン・ナムギェル

 かつて電話は身一つではるか異郷に暮らすチベット難民にとり故郷の家族につながる唯一の細い糸だった。地元のインド人が経営する電話屋の得意客は、チベットの各地から山を越えてきた訛りの強いニューカマー。ラサ語を話さず、英語もヒンディー語もおぼつかない客を相手に、「トントンパーリウ(0086)*…」と経営者が四川訛りの中国語を覚えてしまうという、皮肉すぎて笑うに笑えず泣くに泣けない現象もおきた。

 ネットカフェはたいてい電話屋も兼ねていて、ガラス一枚で覆われたボックスからは、喜び、気遣い、悲しむ会話が漏れ聞こえてくる。遊牧民や山間部出身のニューカマーは豪放磊落で、「心配するな、ダライ・ラマ法王はお元気だ!ところで今度の3月10日はデモするんか?」などと大声で話して高らかに笑うから、そばで聞いている方が冷や汗ものだ。

 対照的にチベット自治区の都市部から来た人たちは故郷への電話も脅えながら「彼は…」「あのことは…」と“敏感語“を避けて小声で話し、通話も短く切り上げ、はたで見ていても痛々しく胸が詰まる。

 そんなダラムサラのネットカフェで最近、チベット出身の客だと分かると「”号泣(ごうきゅう)”できるよ」と売り込みがかかるようになった。何のことかと思ったら、中国企業テンセントのチャットサービスQQ(きゅうきゅう)だった。

 最近亡命してきたばかりのチベット人がインストールして使っているのを見た商才逞しいインド人が、商売になるとみて即自らの店にQQを導入、専用席のあるネットカフェは大繁盛した。QQのビデオチャットで、声を聞くだけでなく顔や表情を見られるようになったのだ。

 あらかじめ時間を約束し、遊牧山間地区から家族親族友人知人が連れ立ってネットカフェのある町へ降りて、パソコンを使えるチベット人に手伝ってもらい、PCの前に黒山の人だかりをつくって代わる代わる画面をのぞき、ビデオチャット(テレビ電話)で再会を喜ぶ。

 なかには亡命以来半世紀ぶりに家族の顔をみることができた老人もいて、号泣して大笑いしての泣き笑いだ。年寄りたちがQQを正しく発音できずクークー(号泣)と呼んでいるのを、とても訂正する気にはなれなかった。

 泣泣だろうがQQだろうが0086だろうが、離れ離れになった肉親がじかに抱き合い、これまでの辛さや悲しさを打ち明け、心痛と苦しみを分かち合うことはできない。チベットが自由を取り戻すまで、いとしい人と抱きしめ合えるその日まで、決してあきらめない。[終]

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�甼兰萨拉的电话亭:QQ“哭哭”
http://woeser.middle-way.net/2011/01/qq.html

QQ “哭哭”

文/端云南杰

一间�甼兰萨拉的电话亭内,印度老板和一对想往家乡打电话的藏人夫妇、还有一个小女孩挤在一起,一遍又一遍地核对着要拨的电话号码。老板用印度语和英语,加上一点很�犖脚的藏语,喊着、叫着;那一家藏人也同样用藏语夹杂着非常生硬的英语和印度语,叫着、喊着。经过几番较量后,仍然没能弄清楚电话号码。因为话费贵,老板怕藏人们拨错号码而执意要自己拨,可这么僵下去又不是办法,就在小女孩准备求助于纸�剩时,老板急了,冷不丁从嘴里蹦出一句:“洞洞八六……"隐约可以听出点四川口音,竟然还是大陆专用的数字军语。小女孩格格地笑了起来,然后用中文讲出了一串号码,老板神气十足地重复了一遍后,终于替他们拨通了电话,紧接着飞也似的冲到计费器前坐下,开始目不转睛的盯着小屏幕。

这是几年前的一幕,从西藏来的难民是�甼兰萨拉所有电话亭的常客,当时从印度往藏地打直通长途电话一分钟就要三十多卢比,流亡藏人们逢年过节,遇到红事白事时,给家乡的亲朋好友报个平安或是几句问候,虽然很奢侈,但仍是必作不可的事情。印度老板们跟流亡藏人一来二往,多多少少都会几句简单藏语,可三区的藏语腔调不同,这位印度老板竟然干脆从藏人那里学来了带点“川味"的中文数字,真是让人哭笑不得。

如今电话费已经慢慢降成�姶卢比一分钟,藏人们更是三天�姶头往电话亭�煥。这边的网�稀总会附设一个小电话亭,我上网时每遇到同胞在旁边给家乡打电话,都会被他们的表情和音调所吸引,饶有兴趣地观察他们的一举一动。看到他们也许是听到什么恶耗而呜呜咽咽时,我跟着�誓心;看到他们也许是因为听到什么开心的事而放声大笑,我的嘴也不自觉的�貴开。从牧区或山区逃出的藏人大大�貴�貴,毫不忌讳地向着电话那一头用高原特有的豪爽�供门吼着:“�休?什么?�居!不用担心,�甼赖喇嘛尊者身体好着�希,今年三‧一0�胃们那边示威了吗?……"让人在旁边听得直冒冷汗。而那些讲话细声细语的一看就是从藏区城镇逃来的,小心谨慎地用“他"、“那个"来代替各种敏感词,大家何需多说,彼此心照不宣。小电话亭和网�稀间只有一层玻璃,根本没有隔音效果,他们的哭声笑声�技彻每一个正在上网的人的耳际,但没人会表示不满,谁又忍心�希?

有一段时间,一进�甼兰萨拉的网�稀,老板只要看出�胃是藏人,马上会上前介绍�犠台机子有“哭哭",我是很久以后才弄明白他们是在指腾讯的“QQ"。原来有新逃来的藏人在网�稀自己下载安装“哭哭",印度老板们看到有点商机,便让他们多安装几套,那一阵子的生意好不红火。藏人们不但能听到家乡亲人的声音,还能看到他们的样子,每次视讯通话前都要做足准备,先约好时间,让亲朋好友从山区牧区下来到有网�稀的县城上,找个会上网的藏人�辞忙,然后便在计算机这头和那头各挤起一堆人开唠,其中有些老人流亡印度五十多年,半个世纪未跟家人见过面,更少不了一番“哭哭"笑笑。

不少�偕家很久的藏人也称它“哭哭",我最终还是没有纠正他们的发音!“哭哭"也好,“QQ"也罢,或是拨打“洞洞八六",在团聚无望的此刻,也唯有这样才能让分隔�姶地的同胞们互吐辛酸,分担忧苦,彼此打气加油,坚持到藏人重获自由,与亲人相聚的那一天。

【参与首发http://www.canyu.org/n21510c6.aspx






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2011年01月11日

ウーセル(唯色)/画面越しの拝謁

1月4日 法王と中国人のネット対話このところ毎日のようにウーセルさんの翻訳ものばかり。
ウーセル・ファンの友人たちが翻訳してくれると、どうしても載せたくなる私も相当なファン。
度々、翻訳して!とねだってる。

今日はうらるんた(@uralungta)さんが翻訳してくださったもの。

ブログ「ちべログ@うらるんた」より転載。
http://lung-ta.cocolog-nifty.com/lungta/2011/01/20110110.html

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Woeser/画面越しの拝謁(訳)

 チベット人作家ウーセルさんのブログと「Radio Free Asia(中国語版)」サイトに1月10日アップされた、ウーセルさんのコラム。
(ウーセルさんブログはこちら、
http://woeser.middle-way.net/2011/01/blog-post_10.htmlRFA
中国語版サイトはこちら
http://www.rfa.org/mandarin/pinglun/weise-01102011090855.html
 1月4日、ダライ・ラマ14世と中国知識人とのネット対談が行われた際、インターネットのビデオチャットで、画面越しに法王と対面した喜びを綴っています。

1月4日 法王と中国人のネット対話 ウーセルさん パスポートのない私、ダライ・ラマ法王に謁見

 7年前、私はエッセー集「チベット・ノート」(西蔵筆記)で、1枚の記念写真に添えて、ラサからこっそりとダラムサラを訪ねたチベット人父子の物語を書いた。「左右は遠慮がちに恭しく待ち受ける人たちであふれ、その中心に囲まれているのが、まさにその人だった。敬虔なチベット人の誰もが一番よく知っていて、一番心に近い存在の、一番待ち焦がれている人――ダライ・ラマ法王」。
 この描写と、他のいくつかの章でチベットの現実に言及したことを、当局は“重大な政治的誤り”と認定した。『ダライ・ラマ14世、カルマパ17世の存在を賛美し、宗教信仰など重要な政治的立脚点及び観点の齟齬を広めた』。
 この後、私はすべての公職を解かれ、ラサを離れざるを得なくなった。

 もっと以前から――既に16年前に、私は1編の詩に含みを持たせて綴っている。

 私はこの世では成長しない花を胸に抱き
 枯れてしおれる前に、と急ぐ
 感激の涙があふれるまま
 はやく、はやくと 急いて走る
 ただ 深紅の衣の老人に捧げるために
 ただ 一縷の微笑み
 つぎの生と世 そのつぎの生と世でも
 つながりを得られるように

 のちに私はこの詩を歌詞に書き換え、「深紅の衣の老人」の部分を「我らがイシ・ノルブ、我らがクンドゥン、我らがゴンサチョ、我らがギャワ・リンポチェ……」*にかえた。すべてチベット人がダライ・ラマ法王を称える敬称である。

 数多くのチベット人とまったく同様に、なんとかダライ・ラマ法王にお目に掛かりたい、教えを受け、祝福を授かりたい、と思い焦がれる気持ちは、私自身にとっても最大の切実な願いだ。若いころから、ただひたすらその願いが実現するその日を待ち望んできた。しかし、私は他の多くのチベット人と同様、パスポートの発行が認められていない。あの政権に支配されている限り、たった1冊のパスポートという恩恵さえ永遠に与えられないかのようだ。そもそも(ある国民に対し国家間の移動を国が保証するパスポートの取得は)国民の基本的権利として一人ひとりに保障されているべきものだというのに。

 昨年、ラサで「60歳以上の高齢者にパスポートが発給される」という情報が流れた。しかし申請期間はたった1週間。パスポートセンターは髪も真っ白になった、足元もおぼつかない老人たちであふれかえった。実際には誰もが知っている――彼ら年寄り全員が、ヒマラヤ山麓のあの場所に長年会うことが叶わなかった人がいて、仏教の聖地を参拝することだけが願いなのだと。同時に、それは決して口に出して言ってはいけない、誰もが知っている願望だった。私は悲しく考えた。このままひたすら60歳まで待ち続ければ、そのときようやく私もパスポートを手にすることができるのかどうか……。

 しかし、インターネットは、パスポートを持たない私にとってのパスポートのようなものになった。新しい年を迎え、私の願いはほとんど実現した――インターネットを通じて。まるで夢を見ているような、しかし紛れもない現実――ダライ・ラマ法王にお目にかかっている!

 縁を結んだのはインターネットの映像を使ったビデオチャット(テレビ電話)システムだった。2011年1月4日、ダラムサラのダライ・ラマ法王と、中国の人権派弁護士滕彪、江天勇両氏と作家王力雄氏との間で、インターネット放送を通じた交流が行われた。私も当時、(夫の)王力雄の後ろに控え、一言一言に耳を傾けた。リアルタイム中継でダライ・ラマ法王が画面に姿を現した時には、信じられない思いで、ただ涙があふれ出るばかりだった。

 デジタル技術の革新は奇跡を起こした。距離も地形も超越し、人為的な垣根を飛び越えて、亡命して半世紀におよぶダライ・ラマ法王と中国の知識人との間に意思疎通の架け橋がわたされたのだ。大きな意義があることは疑いもない。

 ダライ・ラマ法王が3人の中国知識人に話しかけるのをこの耳で聞いた。「互いの息遣いや臭いが感じられないことを除けば、同じ場所に一緒にいるかのようですね」。
 70分以上の対話を終えて、法王は思いやり深く問いかけた。「そちらからはよく見えましたか?」 3人がうなずいて同意すると、法王はユーモアたっぷりに自らの眉毛を指差し、笑いながら言った。「じゃあ、眉毛が白くなってるのも見られちゃいましたかね?」

 私は泣けて泣けてしかたなかった。チベットの礼儀作法にのっとり3回ひざまずいて頭を地に着け、口の中で真言を唱えながら、両手にカターをささげ持ち、パソコンの前にひざまずいて献上した。涙でかすむ画面に、ダライラマ法王が、カタを受け取り、祝福を与えるしぐさと同じように、ゆったりと両腕を差し伸べてくださるのが見えた。そのときの気持ちを言葉で表すことはできない――。私はなんと福徳に報われたことだろう。チベットではたくさんのチベット人が、法王の写真を1枚持っていたというだけの理由でひどい目に遭っているのだ。

 実のところ、近年、決して少なくない中国の各界の人々がダライ・ラマ法王に面会している。しかし彼らがそのことによって自由を奪われることはなく、彼ら中国人は依然としてこの国家の公民である。チベット人が法王に拝謁して罪に問われるというのはまったく理不尽なことだ。

 ビデオチャットを見つめる私に、ダライ・ラマ法王は丁寧に仰られた。
 「決してあきらめず、努力を続けましょう。漢民族の知識人と私たちチベット人知識層のあいだで、いついかなるときも、こちら側とそちら側の真実の状況を伝えあい、相互理解と意思疎通につとめることは、非常に大切なものであることを、どうか常に心に置いてください。過去60年来、私たちチベット内のチベット人の勇気と敬虔さは山のようにゆるぎない。チベットの現実は国際社会の注目するところであり、世界各地からチベットの真実を見られるようになった。中国国内の知識人はこのことについても理解してきている。巨視的にみれば、強大な中国が現在変化のただ中にあるといえる。ですから、あなたがたは必ず信じ続け、更に努力を続けてください。いいですか?」

 この時に至って、私はようやく落ち着いてきて、法王の言葉をしっかりと心に刻みつけた。

2011年1月7日 北京 RFA特約コラム

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注:このコラムは同時にRFAチベット語放送でも紹介された。

*イシ・ノルブ(智慧の宝珠)、クンドゥン(御前)、ゴンサチョ(至高の存在)、ギャワ・リンポチェ(偉大な貴宝)……いずれも、チベット人がダライ・ラマ法王について話す時や呼び掛ける時に、法王に敬意を表し、名前を直接口にせず、婉曲的に象徴する時に用いられる比喩表現。

 「ウーセルさんの個人的な特別体験」ではなく、ひとりのごく普通の敬虔なチベット女性の心情を思いました。このコラムの向こう側に、一目お目にかかりたい、と思っている数限りない人たちがいるんだなあ、と。
 「私はなんと福徳に報われたことだろう(我是多么地有福报�休)」の「福報(福徳応報)」は、チベット仏教の因果(果報)や縁起の考え方を中国語で表そうとした表現です。今生で善行を少しでも積むことで来世で報われる、という確固としたチベットの世界観が背景にあります。
 ぴったりはまる日本語がないのでうまく訳せていませんが(仏教用語で超訳すれば「私は果報者です!」ってことになるんだろうけど、ちょっとニュアンスが消える気がする。それは日本の価値観がそれだけ仏教から離れてしまったということでもある)、チベット人同士の会話では、すぐに自分の得になるわけじゃないことを損得抜きで引き受けたりすることを(冗談で)「ソナム(福徳)を積んだよ」と言ったり、病気になったりして人から世話を焼いてもらった時などに「申し訳ない」と恐縮するかわりに(冗談で)「私のソナムがずいぶん減っちゃたわ」なんて言ってみるなど、「情けは人のためならず」がちゃんと原義通り生きているのがチベット世界です。
 それを思うと(ウーセルさんは漢語教育を受けてチベット語では文章の読み書きができないから厳密に純粋なチベット人とはいえない、とか、ウーセルさんは他のチベット人と違う、などと評論する向きもあるので思うんですけど)、チベット人だなあ、と。改めていろいろ考えたことでした。

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(うらるんたさん:追記)

パンをかじりながら顔じゅうしわくちゃにして泣いていたよ

[チベット人のツイ](パスポート取得を認められず国外に出られない北京在住の作家ツェリン・ウーセルさん@degewa が、インターネット中継でダライ・ラマ法王との謁見が実現したことを綴ったコラムがRadio Free Asiaチベット語放送で流れたことを受けて)

本土のチベット人はネットにこんな書き込みを。「インターネットによってパスポートがなくても拝謁できる可能性が現実味を帯びてきたんだって、と年老いた父親にその中の出来事を話して聞かせたら、父は堅焼きパンをかじりながら顔じゅうを涙でしわくしゃにして泣いていたよ」

元発言は@MyYak http://twitter.com/MyYak/status/24703533718704128
@MyYakさんは北米在住のチベット人

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2011年01月10日

ウーセル:2009年3月、重慶で解放軍の哨兵が殺される事件があった。

ce5e378c.jpgウーセルさんはブログ以外に、ツイッター上でも精力的にチベット関連のニュースやエッセイを発表されている。

以下は昨日のツイッターにウーセルさんが書かれたものである。

中国語からの翻訳はいつもの雲南太郎さん(@yuntaitai)。

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2009年3月、重慶で解放軍の哨兵が殺される事件があった。

 官製メディアからネット民まで、市政府から公安局と兵営まで、薄熙来書記から事件処理の警官まで、誰もが言外に銃撃犯と「チベット独立主義者」を一緒くたにしていた。ある目撃者はテレビで、銃撃犯は「色黒」だと証言した。

 ネット上である人は「銃撃事件はもう反テロ作戦の範疇に入ってるから、今後は『チベット独立』『ウイグル独立』をやっつけるのは道理にかなう」と鋭く言った。

 逮捕されてもいないのに、もうチベット人と決め付けるのか!?「大胆にも哨兵を殺害した『チベット独立主義者』を我が強大な人民独裁機関は逮捕した」。中央電視台か新華社ネットで、当局の凛々しい役者がおごそかにと宣言する日を私たちは待ち続けた。全国の人民に映像付きで「色黒」の犯罪者を見せてくれるだろう。

 だが、しかし、ところが、意外にも期待は外れた。ずいぶん時間がたち、あの「色黒」の「チベット独立主義者」はまだ捕まっていない。それだけでなく、我が人民の独裁機関が事件解決にかける情熱は時間とともに消え去ったようだ。燃え盛った怒りは水をかけられたように消えた。おかしなことだ。

 いやいや、これは失礼だ。生きているチベット人にも死んだ哨兵にも申し訳ない。重慶の黒社会追放運動が激しい以上、哨兵を襲ったテロリストは必ず罰せられるのだろうか?銃撃者が「チベット独立主義者」なのか、少なくとも公に説明しなければならない。まさか「色黒」イコール「チベット独立主義者」なのだろうか?「色黒」は黒社会なのだろうか?

 覚えているだろうか? 2008年7月に雲南省昆明でバスの爆発事件が起き、誰が犯人か結論は出なかった。ある日本の大手メディアの記者によると、中国高官ははっきり「チベット族がやった」と彼に話したという。こんな重要な結論の唯一の証拠はなんと、雲南にはチベット族がいて、雲南のデチェン州はチベット族自治州だからだという。

 半年後、昆明のカフェで爆発事件があり、バス事件はついに「解決」した!当局は「二つの爆発事件は李彦がやった」と宣言した。彼はどこの人?「雲南省宣威の無職の男だ」。中国メディアは「これは社会に向けた暴力報復行為。警察の調べでは、李彦は社会に不満があり、世の中が嫌になっていた」と報じた。

 最初から最後まで、中国メディアは「テロリスト」の「テロ行為」とは一言も言わなかった。中国で「テロリスト」というレッテルには専売特許があり、この権利は「色黒」のチベット人やほかの少数民族に属しているかのようだ。


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2011年01月02日

チベット人作家3人・刑期確定/彼らの言葉

雑誌「シャル・ドゥン・リ」表紙写真は3人がエッセイを発表した雑誌「シャル・ドゥン・リ(ཤར་དུང་རི་ 東のホラ貝の山)」の表紙。
以下写真は今回刑を言い渡された3人。
1枚目ザンツェ・ドゥンゴ
2枚目ブダ
3枚目ケルサン・ジンバ

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「言論の自由こそ民主化の出発点」と劉暁波氏は言う。

また「野蛮な独裁を固守する政権には言論の自由をおそれないものはなく、まさにこれこそ、人間が人間であるためには言論の自由は少しも欠けてはならないということを証明している。人類の自由の権利の目録において、言論の自由は、しばしば第一の自由と見なされ、言論の自由を失うことは、あらゆる自由を失うことを意味している。」
「勇気をもって公開された自由な発言で、制度的な嘘と恐怖に反抗する個人が引き続き多くなれば、一人一言の真実によって、どんなに暴虐な制度であろうとも、その効力を失うだろう。」と、中国の人々に勇気をもって真実を発言し続けることを求めている。

チベットにおいて、この野蛮な独裁国家は内地以上に激しい言論弾圧を行っている。特に2008年以降、数え切れないほどのチベット人、作家、知識人、音楽家、芸術家、教育者が捕らえられた。

では、取りあえず我々には何ができるのか?
最近送られてきた「第3の眼通信No12」にはこう書かれている。
「奪われつつある声を聴こう。私たちにはそのチャンスがふんだんにある。そして、自ら口を噤むことこそ、口を塞ごうとする者たちを利することだと自覚し、チベットからの傷だらけの叫びに応えていきたい」と。

当ブログでも何回の報告してきた、3人のチベット人作家に刑が言い渡された。
まず、評決時の状況を伝えるRFAの記事を、その後にウーセルさんが昨年の10月3日及び、今日1月2日にブログ上で紹介された3人の言葉を紹介する。

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<チベット人作家3人・刑期確定>

12月31日付け、RFA英語版http://www.rfa.org/english/news/tibet/writers-12312010111557.html

チベット語版http://www.rfa.org/tibetan/otherprograms/newsanalysis/china-sentenced-three-tibetan-writers-on-30th-dec-2010-12312010121115.htmlより。


現地からの報告によれば、今年6、7月に拘留された3人のチベット人作家に対し、中国当局は「国家分裂煽動罪」により3~4年の刑を言い渡した。

3人の作家、ブダ(བུད་རྡ་)、ザンツェ・ドゥンゴ(འཛང་རྩེ་དོན་ཁོ་ )、ケルサン・ジンパ(སྐལ་བཟང་སྦྱིན་པ་)は去る10月28日、アムド、ンガバ(རྔ་བ་)の中級人民法院で裁判を受けていた。

求刑の評決を傍聴したと見られる人からは、次のような報告が寄せられている。
「2010年12月30日、ンガバの中級人民法院は3人のチベット人作家に3~4年の刑を求刑した。ザンツェ・ドゥンゴとブダには4年、ケルサン・ジンパには3年の刑だ。判決は、被告や、その家族や、如何なる法的弁護人の陳述なしに言い渡された。評決が行われた時、裁判所で、3人の作家、弁護人、家族の誰の発言を許可されなかった。評決の時、裁判官は全員に起立することを求めたが、3人とも椅子に座ったまま、立ち上がらなかった。
『ジャンツェ・ドゥンゴに4年の刑を言い渡す』と裁判官が発表した時、本人は拍手した。これは判決にたいするあざけりの表現であった。他の2人は無言のままであった」と。

3人は一応、15日以内に上告することが許されている。

彼らは主に2008年のチベット蜂起に関する記事を地方のニュースレターである「シャル・ドゥン・リ」に発表したために、逮捕されていた。

半日間しか行われなかった裁判において、3人は無罪を主張した。
ブダは流暢な中国語で「自分や他の2人が書いたような内容の文章は漢人たちによっても書かれている。判断は『民族間の不平等』を表すものだ」と先の公判の時に述べている。
他の2人もチベット語で自己弁護を語ったが、「通訳が正しく訳さなかった」と傍聴者は報告している。


参照、過去ブログ:
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51517896.html(裁判に付いて)
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2010-10.html?p=3#20101006
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51500387.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51258282.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51252956.html

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以下ウーセルさんのブログより。
原文は
http://woeser.middle-way.net/2010/10/blog-post_03.html
http://woeser.middle-way.net/
翻訳は雲南太郎@yuntaitaiさんが引き受けて下さった。

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ザンツェ・ドゥンゴ◎ザンツェ・ドゥンゴ「私たちにどれだけの人権があるのか」の概略
(去年10月のブログから)

1.赤い政権を転覆させる意図はチベット人にはなかった。2008年3月以降の抗議事件は自由と平等、幸福、人権を求める行動だ。政府への不満の表れであり、民族間の矛盾の表れではない。

2.3・14などの事件の原因は当局と関係がある。チベットが安定しない主な原因は当局が問題を解決せず、チベット人の人権が保障されないからで、官の圧迫に民が反抗したということだ。

3.殺害された同胞や生きている同胞のために人権を求め続けるのは私達の義務だ。

4.中国中央テレビ(中央電視台)などのメディアは嘘を流し、チベット人に罪をなすりつけており、私達は白黒を逆転させたこうしたやり方に強く抗議する。

文章中ではほかに、ジャムヤン・リンポチェ(中国仏教協会副会長、甘粛省仏教協会会長)、アポ・アワン・ジグメ(政治協商会議副主席)、ラクバ・プンツォク(中国蔵学研究所所長)、ジョンブ・ツェリン・ドルジェ?(仲布•次仁多吉、西蔵社会科学院宗教研究所副所長)らの3・14事件に関する発言を強烈に批判している。
更に、「私達は彼ら歴史の犯罪者を忘れることはできない」と訴え、10世パンチェン・ラマや6世グンタンツァン・リンポチェ(贡唐仓仁波切)、プンツォク・ワンジェ(平措汪杰)、イダム・ツェラン(伊丹才让)らの民族愛を称賛している。


◎ザンツェ・ドゥンゴ(今日のブログに載っていた文章)

3月14日、ラサの空にもうもうと立ち上ったのは50年来耐え忍んできた黒煙で、同胞たちが胸の内で50年来すすり泣いてきた黒煙だ。まさか50年たまった後に噴き出したのではあるまいか?~故郷は苦しい負担を背負っている。見知らぬ同胞たち、チベット3地区の同胞と私には密接な関係がある。~僧侶や学生、市民の尊い生命が暗闇に押しやられる時、どうしても私は沈黙を保つことができない。彼らの不運と私のペンの間には深い関係がある。

ブダ◎ブダ「記憶の中の涙」

(ンガバで起きた)3・16事件では二つの注目に値する事柄があった。一つはテレビと新聞などのメディアが「寺院で大量の武器弾薬が見つかった。これは仏の教えに完全に反している」と報じたことだ。しかし、これは考えてみる価値がある。悲しく腹立たしいことだ。

漢民族はチベット民族の数千年の隣人なのに、チベット民族の信仰や風俗を理解できていない。動物やほかの生命を殺した道具を護法神の殿堂に供えるのは、罪業を洗い流すためだ。こんな習俗は3歳の子どもでも知っている。関羽が堰月刀を持っていないとでも言うのか?

このほか、各メディアは「今回の抗議デモは中国の発展とチベット民族の日々の発展を妨害するものだ」と言いふらした。もしそうなら、チベット族人民はなぜ自分たちの素晴らしい生活を破壊したのか。なぜ恐怖に向き合い、快適な生活を拒否する必要があったのか。

3・16事件では形容しようのない多くの出来事が起きたのに、なぜメディアではまだ見られず、ただ極悪非道のチベット族人民と正義の凛々しい解放軍のイメージがあるだけなのだろう。

「社会主義はこの上なく崇高だから中国で和諧を追求する必要があり、交通不便な農業牧畜地域でさえも和諧の重要性を知っている」このことを文化豊かで人口の多い国家がなぜ認めようとしないのか。すべての人にとって物質文明は欠かせないし、国家の発展にとっても同じだ。こうした時にあらゆる個人と政府が鎮圧という手段を取るのは文明に反することで、野蛮な時代に戻ることだ。

◎ブダの二つ目の文章「塵埃は消える――四川大地震で亡くなった生命を思い起こし」

2008年5月12日、四川省ブン川でマグニチュード8.0の地震が発生し、都江堰や成都、茂県、理県、雅安、青川などが被害を受け、市民や財産に重大な損失を与えた。自然災害は人の力ではコントロールできない事柄だが、文明の側も多くの問題を抱えている。

・情報を受け付けない習慣

5・12地震の前、誰も自分が災害に遭うとは予想しなかった。あれらの廃墟と失われた生命を目にすれば、政府のやり方に賛同する人はいないだろう。西蔵製薬工場が出版した2008年のチベット暦カレンダーには、地震発生の可能性があり、警戒するべきだとはっきり書かれていた。たとえ一つの命を救えただけだとしても価値はあったのに、上級部門は重視しなかった。

・張りぼての建物とかわいそうな生徒たち

地震当時、最も人々が気にかけたのはあの簡単に崩れた校舎とかわいそうな生徒たちだ。政府や父兄はずっと教育を重視していたのだから、たくさんのインチキがあるとはっきり知っているのに認めないのは誤りではないのか?2年前に盛り上がった9年義務教育の実施計画は明らかに単なる机上の空論だった。校舎は倒れ、政府庁舎は依然としてそびえ立っていることは世界に広く知られている。たとえば成都市市政府ビルのように。

どんな角度から考えてみても、政府は人民のために働くべきで、大庁舎内に座って話をするだけではいけない。教育を重視する度合いから国家の意識と質を見て取ることができる。

もし本当に安全を祈る時が来たなら悲しいことだ。


ケルサン・ジンパ◎ケルサン・ジンパ「鮮血と生命の告発」

中国中央テレビ(中央電視台)のニュースは3月14日、ラサのチベット族人民が暴行や破壊、略奪を働いたと報じた。そして、世界に向けて慌しく、「これはダライ分裂集団による行為」だと宣言し、あらゆる方法で恥をかかせ、批判し、責任を押し付けようとした。これについて言わなければいけないことがある。

50年の専制のもとで暮らしてきたチベット族人民は、まるで急に民主や自由、平等を理解できるようになり、重傷を負ったかのようだ。

3月16日、ンガバ県でも同様の抗議行動が始まった。専制者に言わせれば、平和的なデモであっても暴行になる。16歳になったばかりのルンドップ・ツォ(楞珠措)という少女は、警察の銃口によって通学路で死んだ生徒だ(こうした人は多くいる)。ほかにも、身体の自由のない状況で自殺するしかなかった僧侶(キルティ・ゴンパには自殺した僧侶が2人いる)、無期懲役とされた遊牧民、牢獄に閉じ込められた学生(マルカム師範学校の学生)などは、専制者の手による犠牲者だ。

3・16でタシら20数人の青年が銃殺されたと聞く。「民族間には平等と圧迫への反対が必要だ。もし平等がなくなれば少数民族が分裂を求めるのも当然だ」というマルクス・レーニン主義の教えを私は思い浮かべた。

「もし民族と言語の平等や民族圧迫への反対を認めなかったり、不平等のために戦ったりしないのならマルクス主義者ではないし、社会主義者とも言えない」というレーニンの言葉を専制者たちは聞いたことがあるのだろうか?

私たちはあれらの給料取りやいわゆる学者たち(たとえば青海や甘粛の人)を軽蔑せざるを得ない。専制者の残酷な刑罰はいつも普通の市民と僧侶の身に降りかかる。法制を名乗る法律機関の前で、彼らは正義のため、血に染まった体で永遠に私達のもとから去って行く。

政府は「チベット族の人権は既に歴史上で最高レベルに達している」とずっと言っていたではないか。私達はいわゆる「文明的に法を執行し、法に則って法律を執行する」という物言いをどうすれば許せるだろう?明らかに嘘だ。

人が生まれれば究極の幸せを追い求めるように、人類は幸福を求める過程にある。民主、自由、平等は私たちの権利であるべきで、国連の「人権宣言」など存在しないとでも言うのか。人類の歴史で、数え切れない思想弾圧や自由の侵害などは専制者がもたらしたものではなかったか?







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2010年12月30日

「処刑されたテンダーを記録する」ウーセルさんのブログより

テンダーこの見るに耐えない写真を見て、思い出される方も多いと思う。
このテンダーという若者は、この後しばらくして、死んでしまった。

彼のことはかつて当ブログでも少しお伝えした。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51181864.html

http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51182116.html

ウーセルさんが再び、12月27日のブログに詳しく彼のことを報告されていた。
http://woeser.middle-way.net/2010/12/blog-post_27.html
これを雲南太郎@yuntaitaiさんが翻訳して下さった。

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この文章は先に「民主中国」というサイト
http://minzhuzhongguo.org/Article/ShowArticle.asp?ArticleID=18401
に載って、続いてウーセルさんのブログに転載されたものです。
どちらにも「これは新刊『チベット、この数年』の原稿です」という断り書きがあります。

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テンダー◎処刑されたテンダーを記録する

テンダーのむごたらしい死から2年半になった。ここに書くテンダーの物語が本になるのは、彼の惨死から3年になるころかもしれない。

人々はまだ彼を覚えているだろうか?
移動公司で高収入を得ていたあのラサの大きな男性を。元々、2008年に結婚するつもりだったあのラサの大きな男性を。時には友達とバーに集まるのを好み、時には母親に付き添って巡礼に出かけていたあのラサの大きな男性を。彼は28、29歳ぐらい。丸顔でがっしりした体格だった。

ラサに戻りさえすれば、私はいつも「テンダーを知っていますか?
3.14(2008年3月14日にチベットで起きた騒乱)で軍人に殺されたあのテンダーを?」と尋ねていた。誰もが「知らないわけがないだろう、移動公司の彼はひどい死に方をした」と小さな声で答えた。

退職したあるおばあさんはテンダーの母親を知っていた。「この2年、テンダーの家族は厳しく監視されている。みんな彼らに同情しているけれど、敢えて接触しようとはしないね。テンダーのお母さんは精神的におかしくなってしまった。コルラ(右遶)をしている時、心の優しい人が慰めようとしても、怯えたように急いで避けるんだ。テンダーのお父さん、ああ、継父なんだけど、捕まったって聞いてるよ。一緒に親戚が一人捕まったらしい。二人がテンダーの死に際の惨状や鳥葬の様子を撮って、こっそりダラムサラに送り、チベット人が血なまぐさく鎮圧されたことを世界中の人に見せたんだと当局は疑っていたから。ああ、あのビデオがどれだけ大きな危険を冒して送り出されたのか、まったく想像できないよ」。

ある若者はテンダーをよく知っていた。彼はこの事を深く考えたくないという。「テンダーはあの日、あのようにした。自分の身に置き換えてみると、僕もああしただろうと思う。でも、もし僕がテンダーと同じように黙って見ていられず、あの軍人に『やめろ、お年寄りを殴るな』と言ったら、僕も間違いなくテンダーのように痛めつけられて殺されたろう」。彼は少し間を置いて、声を突然かすれさせた。「むしろ、あの場であいつらにテンダーを殺させた方が良かった」。彼は涙がこぼれないよう顔を上に向けた。

2008年3月ラサ3・14後に捕まったチベット人が受けた残虐な暴行を記録した7分の短い映像が2009年3月末、YouTubeにアップされた(http://www.youtube.com/watch?v=Y_QqujR6veA&feature=player_embedded)。その一場面では、全身を殴打されたチベット人、真紅の袈裟を着た僧侶が地面に伏せ、少しも動かなくなっていた……。耳をつんざく打撃音に、武装警察の「伏せろ!伏せろ!」という叫び声、チベット人警官がチベットなまりの中国語で「もういいだろ……」となだめる声、男の子の悲しい泣き声が入り混じる……。そしてもう一つ、テンダーに関する場面がある。

当時ラサにいたチベット人がテンダーの不運を私に書き送ってくれた。しかし、あまりにも悲惨だったのでずっと信じられず、心を引き裂くこの短編映像を見て、ようやく事実だと信じざるを得なくなった。文章はこう書かれていた。

「テンダーは自治区移動公司顧客部のマネジャーだった。3月14日、仕事で出かけた時、彼は数人の武装警察が老人をめった打ちにしているのを見て、我慢できずにやめるよう頼んだ。武装警察は手を振るとテンダーに向けて発砲し、軍車両で連れ去った。

彼の母親はセメント工場を退職した医者で、あちこちで息子の行方を尋ね回り、二十日以上たってようやくチベット軍区総医院で探し当てた。しかし、目の前の光景は悲惨で見るに堪えないものだった。

血だらけになったテンダーはビニールシートのようなものでくるまれ、脚は包丁で切り刻まれたかのようで、皮と肉は裂けていた。尻の肉はえぐられ、腐乱して虫がわいていた。腰は武器で打たれて黒くなり、腐乱していた。背中と顔は傷跡が連なり、タバコによるやけどの跡もあった。一部の傷口の上にはセロテープが張られていた。

軍区総医院はラサで最高の病院だが、まったく治療をしていなかった。たくましかったテンダーは既に痩せこけて骨と皮だけになり、息も絶え絶えになっていた。残酷な刑の実情を話さないよう、なんと喉も切られたという。この間、彼らが一体どんな恐ろしいことをしたのか、誰にも分からない。

悲しみで胸が張り裂けそうになった母親は、急いで息子を自治区人民医院に転院させた。応急手当では、腐乱した大きな肉のかたまりをやむを得ず切り取った。テンダーの傷は重く、回復する力は既になく、デブン僧院近くのセメント工場の自宅で、母親が最後の面倒を見るしかなかった。苦しみは6月19日まで続き、北京五輪の聖火リレーがラサに来る1日前、3カ月以上の責め苦の末、テンダーは死んだ。

彼が死ぬ前、関係部門の者が家族に『四十九日の法要をしてはならない』と特別に警告した。しかし、家族はそれでも法要を開き、数百人のチベット人が哀悼をささげた。多くの人は同情と怒りを抱いた見知らぬ人だった。

2008年3月ラサテンダーの母親は悲痛極まる様子で泣きながら訴えた。『私は息子の死のせいだけで泣いてるんじゃなくて、息子が受けたひどい暴行のせいで泣いてるんです。母親として、私は息子が受けた苦しみや痛みをまるで想像できない……』。聞くところによれば、鳥葬の時、なんとテンダーのかかとから、打ち込まれた釘が見つかった」

私はYouTubeの短編映像からテンダーの生前の写真と惨死前の写真を切り取り、上の文章とともにブログに発表し(http://woeser.middle-way.net/2009/03/blog-post_21.html)、とても大きな反響を呼んだ。あるコメントはこう書いていた。

「今回のチベット大虐殺を記録しなければならない!数十年前、強制収容所の犠牲者を目にした連合軍総司令官アイゼンハワーがその光景を撮影するよう命令し、周囲の村のドイツ人を呼び集め、死者の埋葬を手伝わせたように。この行動の理由は、彼が述べた言葉の中にある。『今これを完全に記録しなければならない。できる限り多くの写真フィルムを手に入れ、より多くの目撃証人を集めなければならない。なぜなら、今後の歴史のある時期に、一部の愚か者がこれらすべての出来事はまったく起きていなかったと言うだろうから』」

案の定、言われた通りになった。

短編映像が公開された後、まず新華社が英文ニュースを発表し、「この映像は違う場所、時間、人物を寄せ集め、昨年3月14日の騒乱で警察を襲撃した『暴徒』が警察に殺されたとの『嘘』をでっち上げたことが専門家によって分かった」と述べた。更に彼について「自宅で裁判を待っている時期に『病死』しており……傷口はすべて偽物」、そして「この映像を出した目的は、『3・14騒乱の真相を隠す』ため」と説明した。
http://news.bbc.co.uk/chinese/simp/hi/newsid_7960000/newsid_7962900/7962915.stm
中国政府はすぐさまYouTubeを遮断した。YouTube上のこの短編映像もいったんは削除された。語るに落ちるとはまさにこのことだ。

では、軍と警察の手により、古代中国のあの残虐な刑で殺されたテンダーという若いチベット人は果たしてラサにいたのかどうか?この2年以上、私は幾度となく答えを求めてきた。だから必ず、「今これを完全に記録しなければならない」。あの短編映像こそ動かぬ証拠だというのに、テンダーの生前の写真が既にネット上にあるというのに、恥知らずの彼らは「これらすべての出来事はまったく起きていなかった」とわめいているのだから。

rftibet at 18:30|PermalinkComments(36)TrackBack(0)