カンボジア

2010年11月07日

プノンペンのゴミ山に暮らす子供たちを助けるフランスのNGO.

プノンペンのゴミ山/ストゥンミンチェイ©PSE

「ゴミを満載したトラックが現れると、子供たちは先を争って追いかけた。まるで美味しいケーキが届いたみたいなものだった。ゴミが下ろされると、戦争のようだった。金になりそうなものを探すのだが、子供たちはお腹がすいてるので、まず食えそうなものを探した。少しぐらい腐っていてもすぐに食った。ボトルに何か液体が残っていれば飲んだ。すべて強烈な味がしたよ」。
プノンペンのゴミ山に13歳まで暮らしていたチャントレイ君は、去年まであったそのゴミ山の跡地の丘に登り、昔を懐かしむように語った。

プノンペンのゴミ山/ストゥンミンチェイ©Dominique Andre Quet

「そんな、何でも食べてお腹こわさなかったの?」
「案外平気だった。俺の胃袋は鍛えてあって、今でも鋼鉄さ。ハハハ・・・でももちろん、お腹こわして、病気になって、死んじゃった子もいたけど、、、」

「いつもどこかで火事があり、煙がひどかった。燃えてしまう小屋もあった。煙がひどいときには、風上にある友達の家に行ってた。雨季には雨でゴミが浮いて穴が分からなくなる。そんな穴に落ちて溺れた子もいたよ」

チャントレイ君20歳のチャントレイくんは今、大学の医学部に通う。
13歳の時、PSEというフランスのNGOに助けられ、そのPSEが運営する学校に通い始めた。前から学校で勉強したいと思っていたので、学校に入ると一生懸命勉強した。1年間で2クラスずつ飛び級して、今年奨学金を貰って大学に行く事ができたという。













ゴミ山の子供たちを助けるNGO,PSE一昨日、そのPSE(Pour un Sourire d’Enfant、英語ではFor a Child’s Smile)というNGOの学校を訪問した。
この学校では訪問客にはそれぞれガイドを付けてくれる。
チャントレイ君はたった一人の私に付いてくれたガイドだった。
ここの卒業生はボランティアで時々このガイドをする事になっているそうだ。


ゴミ山の子供たちを助けるNGO,PSE©PSE
あるフランス人夫婦が1993年にプノンペン最大のゴミ山ストゥンミンチェイを見に行った。
そこには、強烈な悪臭と煙の中で沢山の子供たちがゴミを漁っていた。
夫婦はこの光景に圧倒され、どうにかしてこの子供たちを助けたいと思った。

「1日に1度だけでも普通の食事を食べたい」という子供たちのために、最初はゴミ山のすぐそばに食事を配給する小屋をたてたという。
それから、できるだけ多くの子供を食べさせるために近くの田んぼを借り、コメを作った。

プノンペンのゴミ山/ストゥンミンチェイ©Dominique Andre Quet

次に、夫婦はフランスに帰り、友人たちにその子供たちの状況を知らせ、寄付を募った。各地を周り講演会も行った。
順調に資金が集まり、次に学校を作った。
診療所を作り、職業訓練学校を作った。
こうして、次第に施設を増やし、世話のできる子供たちの数を増やして行った。

今では、何と約6500人の子供の面倒をみているという。









ゴミ山の子供たちを助けるNGO,PSE職業訓練所には19種のコースがある。
職業訓練を兼ねた立派なレストランが2つある。ブティックがある。
その他、とにかく校内は何だかフランス風にシャレていて、よく機能しているようにみえた。
何よりも、子供たちが明るいのだ。

学校では道徳の授業もあるという。
先生に話を聞くと「生徒たちはみんな正直で明るい。靴やものがなくなることはまずない」と話していた。

ゴミ山の子供たちを助けるNGO,PSEこの子たちの多くは今でも、バラックの家に帰れば、ゴミ山にゴミ拾いに出かけないといけない。
学校に来るとみんなシャワーを浴び、制服に着替える。
そんな子供たちには到底思えない、明るく、笑顔を絶やさない子供たちばかりに見えた。
私を案内してくれた、チャントレイ君も実に良い青年だった。

ゴミ山の子供たちを助けるNGO,PSE「ゴミ山に暮らす人たちの中には、マフィヤもいるよ。ドラッグや暴力がある。この学校は最近まで寄宿舎はなかった。ただ、家に帰ると売春宿などに売られる危険性の高い女の子だけは学校に泊まるところがある。数十人ぐらいが泊まっている」とチャントレイ君。




プノンペンのゴミ山の子供たちを助けるNGO,PSE「自分の父親は酒飲みで暴力を振るっていた。それを知ってこの学校が母親と自分たち兄弟を家から離し、自分たちを学校に行けるようにしてくれた。自分は本当に幸運だったと思ってる。この学校に感謝している」とも言っていた。





ゴミ山の子供たちを助けるNGO,PSE学校の見学が一通り終わり、さていよいよゴミ山にいくぞ!
と、彼に「さあ、今度はそのゴミ山に行こうかね」というと。
「さあ、それは難しいかも?」
「え〜〜!何で?」
「事務所にまず聞いてみると言い」というので、
その事務所とかに行った。

すると「ストゥンミンチェイのゴミ山は去年無くなった。あまりに町の中にあって悪臭がひどいからと、政府が郊外に移転させた。
キリングフィールドのそばだ。でもそこに行っても入れないと思う。Japanが管理してて、入れてくれないそうだ」とのこと。

私は諦めきれず、「何、Japanが、、、私は日本人だ、行けば入れるかも知れない、とにかく行ってみたい」と言った。

チャントレイ君が「自分も行った事無いが、行くならつきあっても言いよ」と言ってくれた。
2人でトゥクトゥクに乗って、そこに向かった。
半時間ほどかかるその道中、彼といろんな話をした。
この国の社会や政治の話もした。

プノンペンのゴミ山/ストゥンミンチェイ跡地プノンペンの人口は約140万人と言われるが、その内40万人がスラムに住んでいる。スラムの数も500以上。プノンペンに毎年食いはぐれた農村から流れ込む人々によりスラムは増えるばかりだという。

この国の31%は今も1日1$以下で暮らす貧困層。
中学までは一応義務教育で無料という建前であるが、実際には安給料もまともに払われない先生たちの多くは金を貰わないと教えることもしない。
だから、金のない家庭の子供たちが中学まで行ける事は稀だ。
「この国は金持ちと貧乏人にはっきり分かれている」と彼はいう。
「金持ちはどんな悪い事をしても捕まる事はない。この国では金がすべてなんだ」と。

政府は開発のためだと言ってスラムの住民を強制立ち退きさせる。
場合によっては火を放たれるとも、現地に暮らす日本人に聞いた。

こんな政府は、もちろん中国とは特別に仲良くしている。

ゴミ山の住民たちも去年強制的に、ずいぶん離れた田舎に移住させられたという。
今、多くの子供たちは学校の用意したバスで通っている。
新しくできたゴミ山でもそれぞれ身分証を提示してゴミ拾いをする事は許されているという。
しかし、そこまで通うお金が払えず、町に出てゴミを漁るものが増えたそうだ。

新しいゴミ山の近くで(ゲートのそばで1人でゴミの仕分けをする人。よく見るとわかるがハエがすごい)

目当ての新ゴミ山のゲートに到着した。
ゲートの横には「危険。マラリア地帯。立ち入り禁止」と書かれた立て看板がある。
そこからゴミ山はまだ遠いらしく様子は全く分からない。
しかし、急に多量のハエが体にたかりはじめた。
ゲートを何とか突破しようと、ゲートを守る男をしつこく説得したが、残念ながら結局入れて貰えなかった。

仕方なく引き返し、ストゥンミンチェイにあるチャントレイ君が住んでいた元ゴミ山に向かった。

プノンペンのゴミ山/ストゥンミンチェイ跡地(プノンペンのゴミ山/ストゥンミンチェイ跡地)

そこにはゴミは残っていたが、ほとんどの丘には1年で草が生えていた。
丘を歩くとフカフカとした感触が足に伝わって来た。
丘の上で昔を思い出し、いろんな思い出を話してくれた後、最後に「自分がここでゴミを漁っていたなんてもう夢みたいだ・・・」とチャントレイ君。

プノンペンのゴミ山/ストゥンミンチェイ跡地周りには縮小したスラムが残っていた。
そこを歩いていると、チャントレイ君に何人かの若者が話掛けてきた。
昔の仲間だという。








プノンペンのゴミ山/ストゥンミンチェイすぐそばにPSEが運営する保育所があった。
親たちが町にゴミ集めに行っている間、小さな子供たちを預かっているそうだ。
子供たちの昼寝の時間だったようだ。

チャントレイ君と一緒にPSEの学校やレストランを訪ね、いろんなことを考えた。
学校をTCVと、レストランを自分たちのルンタ・レストランと比較して見たりもした。

学業のことは分からないが、職業訓練についてはこの学校の方が徹底しているようにみえた。

子供は環境さえ与えれば、どんな生い立ちの子供でも、すばらしい能力を発揮できるものだ、とつくづく思った。

このように素晴らしい学校をつくり、実に多くの恵まれない子供たちに希望と尊厳を与えたこの夫婦の積んだ徳は計り知れない。

このように成功することができたのは、きっとこの2人が特別優しい人だったからに違いない。
菩薩のように。


参考:フランスのNGO,PSEのホームページは:http://pse.asso.fr/index.php?lang=en

カンボジアの人権状況については:
http://www.hrw.org/ja/news/2009/07/14-2
http://www.hrw.org/ja/news/2007/07/27






















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2010年10月13日

プチュン・バン=カンボジアのお盆

空からのプノンペン左の写真はプノンペン空港に到着する前に空から撮影したもの。

左隅に2本の川が合流しているのが写ってる。
2本の内、左の川がチベット高原からはるばるここまで下って来たメコン川。
メコン川の上流はチベットでは「ザチュ」と呼ばれ、ジェクンドの西隣にあるナンチェンやカムの西の都チャムド、デチェンのジョルを経由し、ラオスを通ってここまで来て、この後南シナ海に注ぐ。

右手からメコン川に合流している川はトンレサップ川と呼ばれ、巨大な湖トンレサップ湖と結ばれている。
この川は面白くて、乾期に水は普通に上流のトンレサップ湖からここまで来てメコンとともに南に流れるが、雨季になると逆に、メコン川からの水がこの川を逆流してトンレサップ湖に入る。
このせいで湖は3倍(1万平方km)に膨れ上がるという。

プノンペンの人口は約150万人。
高層ビルはまだ数棟しかなく、全体にのんびりした雰囲気の町だ。
特に、みんなゆっくりと車を運転するので、これがのんびり感を醸し出す一因になっているようだ。

プチュン・バン(カンボジアのお盆)先週の7、8、9日、カンボジアは休日となり「プチュン・バン」と呼ばれる全国的大行事が行われた。
田舎から出稼ぎに来ている人々は、みんなそれぞれの田舎に帰るので町は閑散として静かだった。
この期間にはみんな必ず布施のために沢山の寺を巡り歩く。

私も近くにあるワット・トゥール・トンボンという大きな寺に行ってみた。

以下、この「プチュン・バン」についての説明を手元にあった「カンボジアを知るための60章」という本から引用させてもらう。

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プチュン・バン(カンボジアのお盆)雨季真っ最中に行われるプチュン・バンは、仏教徒カンボジア人にとって最も重要な祭りの一つである。
プチュン・バンという語には本来「集める」という意味がある。
かつてポル・ポト時代にいったん壊滅状態になった仏教が復興し始めた時代、何はさておいても、まさに人々の団結心を集め、プチュン・バンを復活することによって、カンボジアの人々は仏教徒共同体を再建したのであった。

プチュン・バンという行事自体は陰暦十月満月の日から十五日間に渡って寺院に布施をする一大祭日期間であり、祝日となっているのは、十五日目を挟む三日間である。
各寺院を支える世帯住民があらかじめ十五日間の担当日を割り振り、当日の布施に責任を持つ。
この十五日間住民は地元の寺院のみならず、遠くの寺院まで乗り物に乗り合わせて出かけ、布施をする。
多くの寺院と僧侶を物質的に支えることにより大きな功徳を得る機会であると同時に、楽しい物見遊山の機会でもあるのだ。


プチュン・バン(カンボジアのお盆)プチュン・バンは本来的には、日本の盆と同様の、祖先祭祀の儀礼であり、積んだ功徳を祖先に回向するという意味合いがある。
さらに期間中、夜明け前の暗いうちに、人々は寺院に出かけ、暗闇に漂っているプラエト(生前の罪のためにまだ成仏できない無数の霊)にバーイ・バン(炊いた餅米を団子状に丸めたもの)を投げ与える。
十五日目は最も多くの人々が寺院に集う。
この日にはオンソーム(バナナや豚肉を巻き込んだ俵形のちまき)やノム・コーム(三角形の蒸し菓子)なども皿に山盛りになる。

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プチュン・バン(カンボジアのお盆)仏教には本来、「祖霊」という概念はなく、日本でもここでも「お盆」と言われる民族行事は中国の影響で始まったものであろう。

仏教がインドから直接伝えられたチベットには「祖霊」という概念はまったくなくて、死者は遅くとも49日の後には六道のどこかに生まれ変わっていると考えられている。

それでも、仏教行事として中国から伝えられた「盂蘭盆会」について調べるて見ると中々面白い話がでてくる。
以下、ウィキペディアより。

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プチュン・バン(カンボジアのお盆)盂蘭盆会(うらぼんえ、ullambana、????????)とは、安居(あんご)の最後の日、7月15日 (旧暦)を盂蘭盆(ullambana)とよんで、父母や祖霊を供養し、倒懸(とうけん)の苦を救うという行事である。これは『盂蘭盆経 』(西晋、竺法護訳)『報恩奉盆経 』(東晋、失訳)などに説かれる目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への供養の伝説による。

盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ」の音写語で、古くは「烏藍婆拏」「烏藍婆那」と音写された。「ウランバナ」は「ウド、ランブ」(ud-lamb)の意味があると言われ、これは倒懸(さかさにかかる)という意味である。亡くなった魂は中空に逆さにつり下げられたような苦しい状況にいると考えられていたのである。
近年、古代イランの言葉で「霊魂」を意味する「ウルヴァン」(urvan)が語源だとする説が出ている。サンスクリット語の起源から考えると可能性が高い。古代イランでは、祖先のフラワシ(Fravaši、ゾロアスター教における聖霊・下級神。この世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在。この「フラワシ」は人間にも宿っており、人間に宿る魂のうち、最も神聖な部分が「フラワシ」なのだと言う。ここから、フラワシ信仰が祖霊信仰と結びついた。)すなわち「祖霊」を迎え入れて祀る宗教行事が行われていた。一説によると、これがインドに伝えられて盂蘭盆の起源になったと言われている。

プチュン・バン(カンボジアのお盆)目連伝説
一般にはこの「盂蘭盆会」を、「盆会」「お盆」「精霊会」(しょうりょうえ)「魂祭」(たままつり)「歓喜会」などとよんで、今日も広く行なわれている。
この行事は本来インドのものではなく、仏教が中国に伝播する間に起こってきたものであろう。現在、この「盂蘭盆会」のよりどころとしている『盂蘭盆経 』は、『父母恩重経』や『善悪因果経』などと共に、中国で成立した偽経であると考えられている。したがって、本来的には安居の終った日に人々が衆僧に飲食などの供養をした行事が転じて、祖先の霊を供養し、さらに餓鬼に施す行法(施餓鬼)となっていき、それに、儒教の孝の倫理の影響を受けて成立した、目連尊者の亡母の救いのための衆僧供養という伝説が付加されたのであろう。
盂蘭盆経に説いているのは次のような話である。

プチュン・バン(カンボジアのお盆)安居の最中、神通第一の目連尊者が亡くなった母親の姿を探すと、餓鬼道に堕ちているのを見つけた。喉を枯らし飢えていたので、水や食べ物を差し出したが、ことごとく口に入る直前に炎となって、母親の口には入らなかった。
哀れに思って、釈尊に実情を話して方法を問うと、「安居の最後の日にすべての比丘に食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」と答えた。その通りに実行して、比丘のすべてに布施を行い、比丘たちは飲んだり食べたり踊ったり大喜びをした。すると、その喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり、母親の口にも入った。



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プチュン・バン(カンボジアのお盆)日本でもそうだが、カンボジアの寺にとってはこの日はみんなからの布施が一気に入る、かきいれ時である。

人々は朝から、気合いを入れてごちそうを用意し、寺を回りながら僧侶や尼僧に振舞う。
また、もちろんお金も沢山布施する。

で、私の行った寺は遠目には大きくて立派なのだが、近づくとその階段が壊れたままだったり、あちこちがいたんだまま修復されていないという状態だった。
僧侶の数も、タイやビルマ、チベットなどに比べると意外に少なく、それも若い僧侶が中心だった。
どうも、ポル・ポト・ショックから十分立ち直っていない感じだった。
あるいは、伝統が十分回復される前に物質文明に浸食され、僧侶のなり手が案外少ないのかも知れないと思った。

プチュン・バン(カンボジアのお盆)本堂の壁画。苦行中の仏陀。




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2010年09月23日

カンボジア大虐殺・中国との関係

ツールスレン収容所で拷問の後殺された人々の写真これまでに、このカンボジアで接して来た人たちは全員いわゆるいい人たちばかりだった。
常に微笑みを絶やさず、子供のようにはにかむ。
自分の意見を通そうとするより、相手に合わせようとする。
一般的に言って大国の人は大柄で他人を従わせようとするが、小国の人は相手に合わせようとする傾向があるようだ。

キリングフィールドで掘り出された虐殺の犠牲者たちの遺骨このアジアの小国は歴史の中でこれまで幾多の外国勢力に翻弄されてきた。
今は明るく暮らしているが、この国にはつい30年前ぞっとするような暗黒の時代があった。
ポル・ポトに率いられた共産党クメール・ルージュによる犠牲者は約100〜300万人と言われる。
このように犠牲者の数に開きがあるのは例えば毛沢東統治下における犠牲者が3000〜5000万人と一般に言われるように、大虐殺の軌跡は正確には計りがたいとからだ。

キリングフィールドから掘り出されて犠牲者たちの遺骨中を取って犠牲者約200万人と言われることが多い。
その頃のカンボジアの総人口は約700万人と言われているからポル・ポトの時代に4人に1人が殺されたことになる。

ちなみにチベット人は人口600万人の内、毛沢東統治下で100〜150万人が殺されたというから、こちらは約5人に1人だ。

40歳以上のカンボジア人のほとんどはこの時代を生き抜いた、悲壮な体験を持っている。
しかし、一般に彼らは過去の話をしたがらない。
これはチベット人とは違うようだ。
チベット人は今も弾圧されているので、機会があれば常に人に現在や過去の経験を語ろうとする。
カンボジアの人々は悲惨な過去をすでに過ぎ去ったものとして忘れ去ろうとしているようだ。

ツールスレン収容所に収容されていた囚人たちこの仏教徒の小国で、なぜこのような凄惨な出来事が起こってしまったのか?については簡単な答えは出せないと思う。
単に、ポル・ポトが残忍だったからといった議論は無意味だ。
単に中国共産党に影響されたのだ、というつもりもない。
冷戦と地政学、ベトナム戦争、中国共産党との関係などが複雑に絡み合う中で人間の内部に潜む底なしの恐怖心、猜疑心、残虐性などが人々の心をコントロールし、それが外に現れ国中を襲ったのだと言えようか?

今、やっと裁判が始まり少しはこの大量虐殺の原因が明らかにされるかもしれない。
しかし、ポル・ポト以前に起こった米軍による爆撃により夥しい死者が出た話やポル・ポト後の内線による死者の話は裁判ではでないであろう。

この辺の所はカンボジア勤務の経験もある知り合いの記者が最近書かれた以下の記事を参考にして頂きたい。
http://www.47news.jp/topics/himekuri/2010/07/post_20100728142202.html

写真は私がこのカンボジアに来た次の日に訪問したツールスレン・ジェノサイド・ミュージアム(Tuolsleng Genocide Museum)とキリング・フィールド(Killing Field)で撮影したものだ。

ツールスレンは元高校であったところをクメール・ルージュが政治犯の収容所に転用した場所であり、ここはS21と暗号で呼ばれていた国内でもっとも過酷な拷問所であった。
ここに収容されたいわゆる政治犯は1万4千〜2万人に及び、ここから生きて出ることができたのは僅かに7名(または8名)しかいなかったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/S21_(トゥール・スレン)

ツールスレン収容所元所長カン・ケク・イウ最近始まったカンボジアの大虐殺を裁く国連支援の特別法廷でここの元所長カン・ケク・イウは(たった)19年の刑を言い渡されている。

最初の頃はこの収容所内やその近くで囚人たちは殺されていたが、その内人数も増えたので、囚人たちはプノンペンの南に十数キロ離れた現在キリング・フィールドと呼ばれている場所に運ばれ、そこで殺され穴に埋められるようになった。









キリングフィールドに建てられた遺骨収容塔現在そこには多量の頭蓋骨が収納される慰霊塔がたち、ミュージアムも作られている。

写真の中にある絵はすべてある一人の画家によるものだ。
彼はこの収容所に収容されながら奇跡的に生き残った者の一人であり、絵は実際に彼が目撃した情景であるという。

写真の簡単な説明は写真の上にポインターを持っていけば読めるはずだ。
(お断り:プラウザによっては写真の説明が出ないことが判明した)

この二つの場所を見学しながら、私はチベットのことを思っていた。
いつの日かダプチ刑務所や文革時代の処刑場が博物館になる日が来てほしい。
文革時代や今も行われている拷問や虐殺の責任者が裁判にかけられるのを見てみたいと思うのだった。


ツールスレン収容所の規則ツールスレン収容所の尋問中の保安規則(訳Wikipediaより)

1.質問された事にそのまま答えよ。話をそらしてはならない。
2.何かと口実を作って事実を隠蔽してはならない。尋問係を試す事は固く禁じる。
3.革命に亀裂をもたらし頓挫させようとするのは愚か者である。そのようになってはならない。
4.質問に対し問い返すなどして時間稼ぎをしてはならない。
5.自分の不道徳や革命論など語ってはならない。
6.電流を受けている間は一切叫ばないこと。
7.何もせず、静かに座って命令を待て。何も命令がなければ静かにしていろ。何か命令を受けたら、何も言わずにすぐにやれ。
8.自分の本当の素性を隠すためにベトナム系移民を口実に使うな。
9.これらの規則が守れなければ何度でも何度でも電流を与える。
10.これらの規則を破った場合には10回の電流か5回の電気ショックを与える。



ここに来て私は友人が持っていた一冊の本を読んだ。
アメリア人歴史家デービット・P・チャンドラーが書いた「ポル・ポト伝」(出版社:めこん、1994年)だ。
本当はいろいろ他の本も読みたかったが、なにせ旅行先のことで資料を漁るということもできなかった。(図書館に行けってか)

以下、写真の説明は抜きにして、この本の中で「中国とポル・ポトの関係」に言及している部分のみを取り出し、紹介することにする。

ツールスレン収容所で使われていた鉄の足枷革命組織は(1975年4月17日)都市を空にすると、社会変革プログラムに着手した。それはカンボジア国民生活のすべての面に及んだ。通貨、市場、私有財産は撤廃された。学校、大学、僧院は閉鎖された。出版は認められず、郵便制度も廃止された。移動の自由、情報交換、身を飾ること、余暇活動なども禁じられた。違反すれば厳しく処罰された。違反を繰り返せば、過酷な牢獄か処刑が待っていた。誰もが、革命組織によって割り当てられた仕事をするように言われた。(上記書籍中 p14 以下同様)


ツールスレン収容所の独房ポル・ポトは自分が敵に囲まれていると信じていたが、そうした見方はスターリンと共通のものであり、スターリンから学びとったのかもしれない。そのために、ポル・ポトはプノンペンにあるS21という暗号名で知られた尋問施設で約二万人もの敵(クマン)を拷問し、処刑することを承認した。加えて、77年に開始した地域ごとの粛清で、無数の人々が死んだ。S21で殺されたうちのほとんどは、党の忠実なメンバーだった連中だ。他の場所で死んだ犠牲者たちも大部分は裏切り者などではなかった。
この革命とこの異常なまでの暴力は、どこから来ていたのか。75年から79年まで、プノンペンの権力者たちは、自分たちには外国のモデルなどない、カンボジア革命は比類のないものだと、繰り返し主張している。その実、「強襲攻撃」「大躍進」「自立達成」「ヘクタール当たり(コメ)三トン」など、民主カンプチアのスローガンの多くは、共産主義中国から無断借用したものだった。
中国の政権も、毛沢東主席が死去する直前、独特の過激な段階を経験したのである。(p16)


クメール・ルージュの党大会どこにも前例のない自己大量虐殺が(なぜ)起きたのだろうか。明らかに類似しているもの、ポル・ポトの着想の源になっていると思われるものもある。それは1950年代の中国の大躍進政策や、それより二十年前のソ連によるウクライナ集団化政策、そして両国の革命指導者にとって危険とみなされた「分子」の粛清などに見いだすことができる。(p17)

だが、ポル・ポトに対して最も重要な影響を与えた外国は、共産主義中国だっただろう。彼は1965〜66年に中国を訪れている。そこで毛沢東の自主革命、自発意思尊重、継続階級闘争などの考え方を知り、その思想に感化された。(p21)


キリングフィールドから掘り出された遺骨 3この時期(クメール・ルージュ1963〜70年)のサロト・サル(=ポル・ポト)には、外国の影響がいくつかあった。最も重要な知的影響は中国のいわゆる文化大革命だったろう。文化大革命は1966年に始まり、さまざまに装いを変えて、その十年後の毛沢東主席の死まで続いた。この大衆運動は、大部分毛沢東自身が計画したもので、継続革命、階級闘争、貧困階層の権力掌握といった彼の固定観念を推進するのが目的だった。社会は、共産党政権自身が作った制度のうちの多くのものを破壊するために動員された。文化大革命が制御できないものになった時、毛沢東はその方向修正を行ったが、そのほかの彼の政策の多くは1980年代初めまで、変更されなかった。
サロト・サルは66年、文化大革命の初期に、中国を訪れた。それを目の当たりにして印象づけられたに違いない。この時期に中国に導入されていた処置のうち、例えば都市からの部分的撤去、経済問題への「強襲」、軍の階級廃止などいくつかのものは、後にクメール・ルージュによって採用された。中国式の「階級の敵」粛清も、民主カンプチアで広範におこなわれたし、カンボジア経済の野心的計画は「大躍進」と名付けられた。1950年代に中国で進められた無茶な工業化計画から借用した文句である。サルがその後、文化大革命が大失敗に終わった事実を知ったかどうか明確ではない。同様に、1930年代のスターリンの集団化計画はもちろん、中国の「大躍進」が挫折したことも、全く知らずにいた可能性がある。(p113〜4)

キリングフィールドから掘り出された遺骨 4その直後(75年5月)サルの政権をてこ入れするため、数百人もの中国人技術者が到着した。最終的には四千人以上の中国人が(その時期)カンボジアに働きにやってきたが、彼らの存在は決して明らかにされなかった。
(中略)
(75年5月ベトナム訪問の後サルは)北京に向かった。北京では、毛沢東と写真におさまり、中国側から十億ドル以上の対カンボジア経済・軍事援助を供与するとの約束をとりつけた。こうした訪問も中国の援助も、当時は発表されなかった。サルは中国からさらに北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に短期訪問旅行をし、軍事援助の約束を得た。そして、北京に戻り、病気の治療を受けた。(p174)

ツールスレン収容所内にある拷問用の吊るし台党は「ヘクタール当たり(もみ付き米)三トン」をスローガンにしてきた。これが間もなく国家目標になった。スローガン自体は、同党はそう認めていないものの、75年末ごろ中国で華国鋒副首相が始めたキャンペーンをそっくり真似たものである。ヘクタール当たり三トンという目標数字は、カンボジアの指導者たちが自分自身の農業スローガンや農業政策を何も作り上げていなかったこと、中国にとって良ければカンボジアにとっても満足できるものだろうと、考えていたことをしめしている。(p190)
1970年以前、カンボジアの平均収量は、ヘクタール当たりもみ付き米一トン以下だった。
党のスローガンは、カンボジアの平均収量を一挙に三倍に増やすことを要求していた。
(この無茶な計画に従い、それを達成するために地方の役人は農民から、彼らが生きるために必要な最低限の米まで徴収した。その結果多くの農民が餓死する事態となった)

拷問用吊るし台の使い方を示した絵北西部の作業のほとんどはプノンペンとバッタンバンから追い出され、この地域の農村部へと移住させられた、百万人を越す「四月十七日」の人民(75年ポルポトに指揮されたカンボジア共産軍がプノンペンに入城しすべての住民を追い出した。その日に追い出された人々のこと)が行うことになっていた。
その後二年間、これらの男女は土を掘り崩して田や運河、ダム、マラリアがいっぱいの森の外側の村落などを建設する仕事を強いられた。彼らのうちの何万という人々が、栄養失調、病気、処刑、過労などのために死んでいった。そうした死を知って、プノンペン政権当局は困惑した。ただし、その理由は、それらの死が「敵」がまだ舞台裏で活動していることを示している、ということだけだった。新人民(かつての都市住民)は絶対数が極めて多いし、革命にとって「階級の敵」だから、消耗品だった。ポルポト時代を生き延びた多くの人々が、幹部たちがあざけりを込めて彼らに言い放った、ぞっとするような言葉を覚えている。「(お前たちを)生かしておいても何の得にもならない。(お前たちを)失っても何の損失にもならない」(p191)


ツールスレン収容所内の拷問部屋革命的文化は、過去とはっきり手を切った。党のスポークスマンは計画を説明するにあたって、こうも言った。「もしわれわれが(革命前の)『文化』を(教育の基礎に)選んだら、党にとって致命的な大失敗となるだろう」。こうした思想は、そのころ中国で流行していた思想を模倣したものだった。(p198)


収容所内で拷問により死亡した人民主カンプチアを研究するための文書の最大の供給源であり、またこの政権のもっとも心をゆさぶる遺物と言えば、75〜79年初めにツールスレンの尋問センターで集められた四千に上る供述文書の山である。このセンターは同政権が、プノンペンの南部地区にあった元高校の施設を転用したものだ。二万人を越す男女、子供たちまでが75年末から79年初めにかけてS21の門をくぐった。そのうちごく少数の者を除いて、尋問され、拷問され、殺されたのだった。75年には、囚人として記録されたのは二百人だけだった。それが、76年には十倍増の2250人となり、77年には6千人以上がぶち込まれた。78年の記録書類は未整理のままだが、この年にはほぼ一万人の囚人が記録されたようだ。生きてここを出所できたのは、わずか6人にすぎなかった。共産主義ベトナムや中国では、投獄あるいは「再教育」という方法が極めて大量に用いられたが、カンボジアではなぜか、そうした代替策は真剣に検討されなかった。S21に残った四千の供述文書を読むと憂鬱になる。(p201)

ポル・ポトと小平77年9月28日、ポル・ポトが北京に到着した時、十万人の民衆が動員され、天安門へとつながる長安街沿いに並んで彼を出迎えた。多くは紙製のカンボジアの旗を手にしていた。いたれり尽くせりの準備と群衆の動員は、シアヌーク政権時代に殿下がプノンペンに外国の賓客を迎えた際、命じたこととそっくり同じだった。ポル・ポトがこうした扱いを受けたのは初めてだった。
空港では、華国鋒首相、小平主席がカンボジア代表団を出迎えた。この時に撮影された写真が、ポル・ポトとして公表された初めてのものであり、外国人専門家はこれを見て、ポル・ポト=サロト・サルであることを確認できたのだった。同行者は、イエン・サリ、ポン・ベト、ティウン・トゥーン(保健相)その他数人だった。
代表団は10月4日まで中国に滞在し、その後、北朝鮮に向かった。その間、宴会と演説が繰り返された。ポル・ポトは演説の中で、ベトナムを名指しはしなかったものの、カンボジアの国境線や国家主権が不可侵であることを強調した。また毛沢東と、その継続革命や階級闘争の思想をあらためて賞賛した。それに応えて、華国鋒は、民主カンプチアが「大衆に依拠し、独立を掲げ、武装闘争を継続する・・・・・正しい路線をとっている」と称えた。中国のマスコミの社説は、中国とカンボジアの友好関係が「破壊できない」ものであると指摘した。(p221)

ツールスレン収容所 2ポル・ポトがこの旅行をしたのは、一つには、中国の援助によって彼の軍隊が無敵となり、ベトナム側も慎重な態度を取らざるを得なくなるだろうと考えたためだった。
旅行のもう一つの理由は、「人間の顔」を示し、カンボジアでの人権侵害、恐怖政治、飢餓などに対してタイや西側で出ている非難に反撃することである。中国は、この目的のため、この訪問に合わせて、光沢のある上質の紙に印刷された雑誌『民主カンプチアは前進している』を出版し、同年に撮影したドキュメンタリー・フィルムを発表した。どちらも、人でいっぱいの作業現場、盛んな工業、新たに建設された感慨用ダムなどを紹介したものだった。栄養の行き届いた労働者たちが、いつでもどこでも微笑していた。(p222)

ツールスレン収容所の独房毛沢東理論では、階級闘争は社会主義から共産主義への移行のため絶対重要なものだが、その階級闘争のためには敵の存在が不可欠だった。人民の間の矛盾こそ、党を前進させる。勢いを維持するためには不安定が必要だった。党の指導者たちは他人に嫌疑をかけることで、栄養分をとってきたし、陰謀を暴く能力を誇ってきた。裏切りの嫌疑をかけられた者が、国の前進に必要な不安定をもたらしてくれるというわけである。しかし、そのうちに、誰が本当に有罪の者がいるか確認することなど、困難なのだ。(p238)

キリングフィールドの様子を描いた絵S21では、何百人もの東部地域幹部が尋問を受け、処刑されつつあった。東部、南西部地域のカンボジア軍部隊は、ベトナムの戦闘爆撃機によって爆弾の雨を降らされているところだった。東部の土地の一部は、すでにベトナム軍に占領されてしまっていた。若くて教育も受けていないカンボジア兵が中国製軍備を任され、それをつかいこなせるよう、異常とも言えるペースの速成訓練を受けていた。彼らは戦車操縦士、飛行士、迫撃砲兵などだったが、多くが事故で負傷し、死んだ。ポル・ポトは11月初め訪れた中国代表団に、「義勇兵」派遣を要請した。それに対し、中国側の助言はあくまで自力に頼ることであり、物資援助だけ増やしてくれた。ポル・ポト政権の命運は、あと二ヶ月だった。
(p245)

キリングフィールド、死体が埋められていた穴キリング・フィールド/死体が埋められていた穴。
各穴ごとから数百体の遺体が掘り出された。
このような穴が数十個ある。
今は、何事もなかったかのように緑の草が生い茂っている。






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2010年09月16日

ポト派元最高幹部ら4人を正式起訴、大量虐殺などの罪(CNN)

979d4ebd.jpgちょうど今住んでいるアパートの上の階のドイツ人女性はこの裁判の準備に関わり、証言を集める仕事をしていたという。しかし、彼女は最近仕事を途中でやめ突然帰国した。
彼女を知る人の話によれば、彼女は余りに惨い証言を毎日聴くうちに自分がおかしくなってしまい、仕事が続けられなくなってしまったのだという。

「中国とポル・ポトの関係」を書くつもりで今準備してる、もうちょっと待ってくれ。

今日はコピペ。
大ボスのポル・ポトはもう死んでしまったし、つい最近まで幹部たちも自由に普通に暮らしてきた。
遅すぎる裁判だがやらないよりはいい。
いつの日にか「チベット大虐殺」についても裁判が行われることを切に願う。

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http://www.cnn.co.jp/world/30000234.html

(CNN) カンボジアで1975〜79年のポル・ポト政権時代に起きた大規模虐殺を裁く国連支援の特別法廷は16日、同政権の最高幹部だった4人を大量虐殺、人道に対する犯罪やカンボジア刑法に基づく殺人、拷問などの罪で正式に起訴したと発表した。

4人は、政権ナンバー2だったヌオン・チア元人民代表議会議長、イエン・サリ元副首相、キュー・サムファン元国家幹部会議長、イエン・チリト元社会問題相。4人は70、80歳代の高齢者となっている。政権の最高指導者だったポル・ポト元首相は既に死亡している。

ポル・ポト政権時代の資料などを集めているカンボジア文書センターによると、過酷な共産主義政策が強いられた同時代には当時の総人口の4分の1ともされる、少なくとも国民170万人が処刑、病気、飢餓や強制労働で死亡した。特別法廷によると、暴力による犠牲者は推定80万人となっている。

裁判の開廷期日は不明だが、プノンペン郊外で記者会見した特別法廷の捜査担当判事によると、法廷は証言者の聴聞などのために4カ月の期間が与えられている。4人の正式起訴に備え、これまで2100人以上の市民らから証言などを集めたという。

特別法廷では今年7月26日、プノンペンにあったツールスレン政治犯収容所のカン・ケク・イウ元所長に拷問などの罪で禁固19年の実刑判決が言い渡されていた。2007年に本格的な活動を開始した特別法廷による判決は初めてだった。

同収容所ではポル・ポト政権時代、1万4000人以上が拷問などで死亡したとされる。元所長側は虐殺の経緯などで証言者役も果たしたなどとして釈放を要求、実刑判決後には控訴している。一方、同収容所で死亡した遺族らは19年の実刑判決は軽すぎるとして反発し特別法廷への不信感も示していた。検察側はより厳しい刑を求めて控訴に踏み切っている。

2010.09.16 Thu posted at: 17:30 JST

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2010年09月07日

アンコール遺跡群 その2

アンコール・ワット 今月1日から3日間、カンボジアの古都シェムリアップ周辺の遺跡20カ所ほどを巡った。
クメール王国ともカンボジア王国とも言われるクメール人による王国は、6世紀ごろからフランスの植民地となる1863年まで千年以上の歴史を持つ。
その最盛期とされるアンコール時代(802〜1431年)だけでも600年以上の歴史がある。

アンコールカンボジアは近年1975〜79年にかけての共産勢力クメール・ルージュ、ポルポト派による200万人に及ぶ大虐殺により有名となったが、毛沢東主義の影響を受ける前には実は比較的平和な時代が長く続いた国だったのだ。
カンボジアの人々は一般的に、大虐殺のイメージとは程遠い、温和で優しく常に微笑みをたたえる明るい人々なのだ。
こんな温和な人たちがどうしてあれほどまでの残忍な虐殺を行なうことができたのかと不思議に思えて仕方がない。
このことについてはまた、後ほど書くことにして今日はアンコール遺跡を中心に紹介する。

アンコール・ワット 12世紀前半に建造されたアンコール・ワットが特に有名であるが、アンコール時代には古都シェムリアップを中心に数百の宗教施設が造られたという。
そのほとんどは今もジャングルに埋もれたままである。
国内にはまだ地雷地帯も残り、修復の手が加えられている遺跡はその内ほんの数十に過ぎない。

アンコール・ワット アンコール・ワットの修復には日本の早稲田大学の中川研究室が最初から深く関わっていた。この中川先生は私がチベット関係の卒論を提出した先生であり、そのころ「カンボジアに行かないか?」という話があった。しかし、私は「チベットに行きます」と言って断ったのだ、今思えば、これが私の人生での一つの別れ道であったなあ、、、と遺跡を見ながら思い出したりした。

アンコール・ワット アンコール遺跡群もそうだが、広くインドシナ半島南部にはインド文化の影響が色濃く残る。インドシナ半島という名前からして「インド」と「シナ=中国」を足した名前だ。
一般に半島南西部はインドの影響が強く、北東部は中国の影響が強い。
紀元前後からインド人商人がモンスーン風を利用してこの半島の東に来航し、交易活動を行なっていたという。
それ以来言語、宗教、文化の面でインドの影響はこの半島全域に大きな影響を及ぼしている。宗教的には12,3世紀まではヒンドゥー教のシバ派とビシュヌ派の影響が強い。その後大乗仏教とヒンドゥー教が競合する時代がアンコール時代終わりまで続いた。

アンコール・ワット 1431年、シャムのアユタヤ王朝にアンコールを攻撃され、王都アンコールは陥落した。その後アンコール王国の流浪と苦難の時代が始まったという。
それ以後、宗教的にはシャム(タイ)経由の上座部仏教がカンボジアに広まり、現在までその伝統が続いている。
もっとも、チベットとも似ているが、ポルポト時代多くの僧侶が虐殺され、僧院が破壊されたが、今は再び僧侶も増え僧院も再興されている。

アンコール・ワット アンコール・ワットはヒンドゥー教三大神の内、ビシュヌ神に捧げられた寺院であると同時にスーリアヴァルマン二世を埋葬した墳墓でもあった。これは死後に王と神が一体化するというデーヴァ・ラジャ(神王)思想に基づくもので、寺院は信仰の対象物である以上に、王が死後に住むための地上の楽園を意味していたのである。
寺院の中心を構成する5基の尖塔はインド思想により宇宙の中心とされるメール山(須弥山)を象徴している。
中央祠堂にはビシュヌ神が降臨し、王と神がそこで一体化すると考えられていた。
同様にアンコール地域に残された多くの宗教遺跡は、天界(宇宙)との交信場所だったのだ。
この辺りは、エジプトやギリシャ、マヤの遺跡等とも共通部分があると言えよう。

アンコール・ワット 長い回廊部分にはこれでもかと言うほどに美しいレリーフが彫られている。
題材はインドの古代叙事詩「マハーバーラタ」や古代叙情詩「ラーマーヤナ」。






アンコール・ワット 











アンコール・ワット 遺跡の壁面の腰の部分にはいたる所に「デバター」或は「アプサラ」と呼ばれる「天女」が彫られている。元は当時の女官の姿を模したものであろうがそのほとんど気品ある微笑みをたたえており「東洋のモナリザ」とも呼ばれている。
一体ごとに薄衣も模様や装飾品、顔の表情が微妙に違っている。ヘヤスタイルや髪飾り、サロン(腰巻)の飾り、アクセサリーなども違っており中々見飽きない。
神々の世界への案内人とされているが、もちろん元はインドの女官や女神であろう。
敦煌の壁画にも沢山描かれている。
インドの密教時代を通じ、これがチベットに入るとダキニーとかになり自己催眠修行の助けに利用されたりするようになった、、?のかもしれない。

アンコール・トム/バイヨンアンコール・ワットの次に有名なのはすぐ北側にあるアンコール・トムだ。
こちらはジャヤヴァルマン七世が建設した王都であり、規模はアンコール・ワットよりよほど大きい。
またこの王は大乗仏教に深く帰依していたとされ、寺院も仏教特に、観音菩薩を本尊とするものばかりだ。
一般にアンコール・ワットの設計テーマは「天空の楽園」を創造することであったされるが、こちらは「王国の救済」がテーマであったという。
その中心寺院であるバイヨンは須弥山世界を象徴し、各尖塔の四面には巨大な観音菩薩の顔が彫られている。

アンコール・トム/バイヨンここのレリーフはその彫りの深さとリアルな描写で有名。
写真は王がチャンバ(ベトナム中部にあった王国)に攻め入ったときの戦闘場面を描いたレリーフ。







アンコール・トム王都の入り口は凱旋門でもあった。
ここにも観音菩薩の大きな顔がある。








アンコール・トム/王のテラス王宮前広場には「像のテラス」「ライ王のテラス」と呼ばれる美しい石像で埋め尽くされたテラスが続く。








タ・ブローム1日目にアンコール・ワットとアンコール・トムを巡り最後にタ・ブロームというスポアン(穃樹)と呼ばれる巨大な木に浸食されたジャングルの中の遺跡を訪れた。
この遺跡は最初1186年アンコール・トムを建造したジャヤバヴァルマン七世が母のために仏教僧院として創建されたが、後にヒンドゥー教寺院として使われたという。

タ・ブロームそのために多くの仏教的レリーフが削り取られた跡が随所に見られる。
文献によれば、創建当時ここには5000人余りの僧侶と615人の踊り子が居たという。
遺跡は迷路のように入り込み、いたるところにスポアン樹により食いちぎられていくような一角があり、遺跡情緒満点の場所だ。















タ・ブロームアンジェリーナ・ジョリー主演の「トゥームレーダー」の一場面に使われたのはここであろうと思われる。
謎の世界の入り口を探す彼女が迷い込んだ遺跡の一角。
少女と美しい蝶が舞う場所。
まさに、遺跡の中を歩いていると土産物を売ろうとする少女が現れ、美しい蝶が舞う。


タ・ブローム
























タ・ブローム続く。














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2010年08月31日

カンボジア

アンコール・ワットと虹アンコール・ワットと虹

今日プノンペンからアンコール・ワットがあるシェムリアップに来た。

夕日の丘に登るとスコールが始まった。
その後アンコール・ワットに虹が掛かった。
















アンコール・ワットの夕日夕日の丘からの夕日











プノンペン スコールプノンペン:激しいスコールの中遊ぶ子供たち。










プノンペン 市場プノンペン:市場











プノンペン ジェノサイド・ミュージアムプノンペン:ジェノサイド・ミュージアム

プノンペンではこのミュージアムの目の前に泊っていた。









ポルポトによる虐殺











ポルポトにより殺された人ミュージアムの中にはポルポトにより殺された人々の写真や髑髏が一杯ある。









小平とポルポト中国共産党とポルポトの関係などについては後に詳しく書くつもりだ。

悲惨な写真も沢山あるが今日はこれまでとする。




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2009年12月19日

カンボジアに逃れたウイグル人20人が中国に送還される!

Demonstrators march in Urumqi, July 5, 2009以下、ロンドン・若松様からの情報及び行動要請です。

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緊急情報です。(ロンドン時間18日16時30分)

カンボジアの首都プノンペンの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)で亡命申請していた22人(子供2人を含む)のウイグル人のうちの20人が中国に送還されるため、現在パスで空港へ移動中であるとの報告が入りました。

ヒューマンライツ ウォッチ、アムネスティ・インターナショナルなど国際人権団体はカンボジア政府に対し、22人が送還されれば、中国新疆ウイグル自治区ウルムチで7月に起きた暴動に絡み迫害されるとし、送還しないよう求めてきました。中国政府はウイグル自治区で起きた先頃の抗議行動に加担したとして,すでに9名のウイグル人を処刑しており、その他5名に死刑の宣告をしています。

亡命申請者のうち1人は、暴動の際に写真やビデオ映像を外国報道機関に提供したと話し、中国に送還されれば無期懲役か死刑になると恐れており、22人のグループはキリスト教系団体の地下組織の手助けにより中国南部からベトナム経由でカンボジアに密入国し亡命申請を行っていました。

申請に関し、カンボジア国連難民高等弁務官事務所ではアメリカ ウイグル協会との間で、亡命者らの処置について第3国の受け入れ先を含めてネゴシエイトしていた矢先の報告に、ショックを受けているとのことです。


先日、日本を訪問していた中国、習近平副主席が明日カンボジア入りする直前に、国際法で定められている、生命や自由が脅かされかねない人々への「追放及び送還の禁止」原則に反する決定に対して、在日本カンボジア大使に抗議をお送りください。

同様の抗議を在カンボジア日本大使からも、カンボジア政府に抗議するよう求めてください。
抗議のメールアドレス等、さらに詳しい情報が解り次第、http://freetibet.holy.jp/他でお知らせします。


なにとぞ、よろしくお願いします。
若松えり


参考記事;
RDA 最新記事;http://www.rfa.org/english/news/cambodia/return-12182009112249.html
アムネスティ本部;http://www.amnesty.org.nz/news/open-letter-uighur-asylum-seekers-cambodia
産経;http://sankei.jp.msn.com/world/asia/091207/asi0912071335001-n1.htm
産経;http://sankei.jp.msn.com/world/asia/091217/asi0912172334003-n1.htm
IRIN NEWS;http://www.irinnews.org/Report.aspx?ReportId=87462


特命全権大使:ハオ・モニラット 閣下. His Excellency Mr. HOR Monirath
在カンボジア日本大使館;黒木雅文大使
◆所在地
No.194, Moha Vithei Preah Norodom, Sangkat Tonle Bassac, Khan Chamkar
Mon, Phnom Penh, Cambodia
◆郵便物宛先
P.O. Box 21, Phnom Penh, Cambodia
◆電話番号
023-217161〜4(国番号:855)
◆FAX
023-216162(国番号:855)

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許し難い話です。
地獄を逃れて遠いカンボジアまで、命からがらやっと逃げ出したのに、再び彼らを地獄の主に引き渡すとは。
彼らの運命は目に見えています。
彼らは人並みの自由を求めただけなのです。

プノンペンには明日20日から三日間、つい先日大きな顔下げて日本に来たあの習近平が来るのです。
来て約800億円の金をインフラ整備のために貸してやろうというのです。
その前に目ざわりなウイグル人は中国の言うままに送還するというのです。

中国やカンボジアはもちろんひどいが、国連難民高等弁務官事務所はネパールでもそうだが、カンボジアにおいても中国の前にはまったく無力である。









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