デモ

2013年10月15日

ペユル(白玉):拘束された僧侶の解放を求め公安前に数百人

photo(4)510月12日、カム、カンゼ州ペユル僧院(དཔལ་ཡུལ་བཤད་གྲྭ)の僧ケルサン・チュダル(སྐལ་བཟང་ཆོས་དར།)が拘束された。これを知った当僧院の僧侶が全員彼の解放を求め公安の前に集まった。その内、他の僧院僧侶、尼僧、一般人も集まりその数は400〜600人になったという。僧侶1人と尼僧1人が負傷し病院に運び込まれたというがその原因は不明。

僧侶たちは夜中過ぎまで声を上げ続け、「今後何かことが起れば、それはすべて公安の責任だぞ!」と叫んだ。これに対し、公安側は「すでに僧ケルサン・チュダルは成都(別の情報ではチャムド)に移送され、ここにはいない」と答えたという。

kalsang_chodar_2僧ケルサン・チュダルは最近緊張が高まっているナクチュ地区ソク県の出身であり、2004年からこのペユル僧院で学んでいた。公安は彼がディル県の情報を海外に流したとの嫌疑の下に拘束したのではないかと思われている。

ペユル辺りにも最近チベット自治区からのスパイが多く、12日にはペユル僧院に僧衣を来たチベット人ともう1人の年配俗人が来て、僧ケルサン・チュダルのことを聞き出そうとしていたという。彼を拘束したのもチベット自治区の警察と言われている。

僧ケルサン・チュダルの拘束は、先のブログで報告したディルの作家ツルティム・ギェルツェンの拘束と関係があるように思う。ツルティムがディルで拘束されたのは11日であり、ケルサンがペユルで拘束されたのは次の日の12日である。ツルティムは2001年から2009年までペユル僧院に在籍しており、同郷のケルサンは2004年から同じ僧院にいた。ケルサンも著書がある作家である。2人が知り合いでなかったはずはない。ツルティムがケルサンにディルの弾圧の情報を伝えた可能性はある。当局は情報を流したという嫌疑だけでなく、彼らが影響力のある知識人が故に制裁を加えようと思ったのではなかろうか。

参照:10月13日付けTibet Times チベット語版
10月14日付けTibet Expressチベット語版
10月13日付けphayul
10月14日付けRFA中国語版
同チベット語版
同英語版

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2010年05月20日

カム・セルタ(色達)、二人のチベット人が抗議活動・逮捕

92f59bb4.jpg5月19日付、Phayul.com:

http://phayul.com/news/article.aspx?id=27332&article=2+Tibetans+arrested+in+Sertha+for+protest

セルタ出身者セルタ・チュリン氏(在ダラムサラ)によれば、先の日曜日(5月16日)の夜、2人のチベット人がセルタ県の警察当局により逮捕された。

セルタ・ケコル村出身のカルデンとソナム・トプデンは、チベットの人権とチベット人の指導者ダライ・ラマ法王の帰還を求める抗議デモを行ない、逮捕された。
2人は中国政府への要求を記したビラを壁に張り出したり、路上で宙に放り上げたりしたという。

彼らは現在セルタ拘置所に拘留されている。
家族や親せきの者たちが面会を求めたが、当局はこれを拒否している。

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「ビラ」と言えば
最近ラサの当局は、コピー屋が依頼主のコピーをする前には、必ず依頼主の住所、氏名を当局が後で調査できるような形で残さなければならない、という条例を用意しているという。
http://www.etaiwannews.com/etn/news_content.php?id=1260930&lang=eng_news

これは、明らかに、チベット人人権擁護活動取り締まりの一環としての政策だ。

中国は他にも最近、サイトやブログの開設を政府の登録・許可制とすることや、さらにブログへの書き込みも「実名」で行なわなければならない、というお達しを出したという。
どこまで、本気に実施、チェックされている(される)のかは明らかでないが、ここまでやるかの言論弾圧だ。









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2009年12月08日

カム、ナクチュカで新たに大規模な抗議デモ

Tenzin Delek Rinpocheホンコン発12月7日付RFA:
http://www.rfa.org/english/news/tibet/protest-12072009151909.html
http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/tibetans-are-detained-at-new-detention-center-near-nyachukha-county-12072009160103.html

及び12月7日付Tibet Post:
http://www.thetibetpost.com/en/inside/51-news-in-focus/521-ninety-people-arrested-and-twenty-injured-in-nyakchu-district-lithang-eastern-tibet

によれば、12月5日よりカム、ナクチュカ(ナチュカ)ཉག་ཆུ་ཁ་でチベット人数百人がテンジン・デレック・リンポチェསྤྲུལ་སྐུ་བསྟན་འཛིན་བདེ་ལེགས་རིན་པ་ཆེ་の解放を要求する一連の平和的抗議活動を行った。
これに対し当局は多量の武装警官隊を差し向け、抗議するチベット人たちに襲いかかり激しい暴力により少なくとも20人が重傷、60人〜150人が逮捕されたという。

テンジン・デレック・リンポチェは今月ITSNも特別キャンペーンの対象に選んでいたカム地方の高僧だ。
リンポチェは2002年12月、一連の爆発事件の首謀者とされ、二年の執行猶予付きの死刑を宣告された。
同時に死刑を宣告された彼の親戚でもあるロプサン・ドゥンドゥップ氏は直ちに処刑された。
国際的人権機関からの圧力が効いたのか、彼の刑期は2005年無期懲役に減刑された。

彼の僧院はオトッཨོ་ཐོག་にあるので、今回も抗議を行った者の中心はオトッと彼を同じく師と仰ぐチベット人の多いゴロッམགོ་ལོག་だという。
複数の情報によれば、
この抗議活動は様々な様相を呈しており、今も続いているらしい。

まず、12月5日から300人以上のチベット人がナクチュカの政府庁舎の前で平和的デモと共に座り込みのハンストを始めた。
これに対し、警官隊が出動し、すでにこの中から90人は逮捕され、20人が重傷を負った。

これとは別にゴロッとオトッから一団の陳情グループが北京に向かい、リンポチェの解放を中央政府に訴えようとしたが、彼らは北京で拘束され、打ち据えられ、追い返された。
ボロボロになって帰って来た陳情団を見て、現地の若者たちが立ち上がって抗議した。
ゴロッとオトッから大勢の若者がバイクを連ねてナクチュカの中央庁舎に向かった。
しかし、彼らにも大量の保安部隊が送られ暴力的に鎮圧された。
「衝突のあった中心街には多量の血痕が残されていた」と証言者が語る。
彼らのバイクは軍用トラックに載せられ持ち去られた。

ナクチュカはリタン県に属する。
リタンは競馬祭で有名だが、2007年の競馬祭の時、大きな抗議運動が起こったがこの時も要求の中心はこのリンポチェの解放であった。
この2007年のリタンでの騒動は2008年の蜂起にもつながる大きな事件でもあったのだ。

現在、中国当局は大量の武装警官隊と軍隊をリタンとナクチュカに配備して厳戒態勢に入っているという。








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2009年09月27日

1987年9月27日ラサ蜂起記念日

1987年9月27日ラサ抗議デモ22年前の今日1987年9月27日、ラサのジョカン寺の前に突如赤い僧衣をなびかせながら、二十数名のデブン僧院の僧侶たちが、チベット国旗を掲げ、チベットの自由を訴えた。これは文革以来中国で始めての政府に対する抗議デモであった。天安門事件の起こる二年前のことである。

初めは何事が起ったかと、あっけにとられていた周りのチベット人たちも、やがてその僧侶たちの決死の行動の意味を涙とともに理解し、一人一人その列に加わった。ジョカンを一周した頃にはその数は千人を越えていたという。

もちろんこのときデモを先導した僧侶たちは全員逮捕され、拷問を受け、長期の刑を受けダプチ刑務所に送られた。もっともパンチェン・ラマのお陰で早めに出所できたものも多かった。
彼らの多くはその後インドに亡命した。

このデモはチベットのみならず中国本土にもその後大きな影響を与えた。
ラサでは一週間後に、今度はセラ僧院の僧侶たちが先導する大きなデモがあった。
このとき当局はデモ隊に向かって容赦なく発砲した。今だ、正確な犠牲者の数は解っていない。
翌1988年3月にはガンデン僧院の僧侶たちがモンラム際の最後の日に決起した。
このときには一万人近いチベット人が声を上げた。発砲もあり、犠牲者もでた。

そして、その後5年間ほどの間に数百回のデモが行われた。

その多くは数人のグループで僧侶、尼僧たちが拷問と死を覚悟し、次々とジョカンの前でチベットの自由と法王の帰還のために声を上げ、逮捕されていった。

今日は朝早く6時半からまずダラムサラのラギェリで朝のお経を唱えた後、9−10−3元良心の囚人の会主催の集会が開かれました。
夕方から再びキャンドルライト行進とツクラカン前での集会が行われます。

写真最初の一枚は1987年9月27日ジョカン前。
先頭に立つのがデブンの僧侶たち。

27.9.09 (1987)ダラムサラ、ラギェリ左の写真は今日の朝の読経会。
右端に9−10−3の会、現会長の僧ガワン・ウーパルが映っている。
彼もこのときのデモを先導したデブン僧侶の一人だ。
左端にラモ・ツォの姪ソナム・ワンモの姿も見える。





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2009年08月21日

2008年3月10日、ラサでデモを先導したセラ僧院僧侶のその後

2008年3月10日ラサデモ昨年3月10日、デブン僧院の僧侶たちはラサに向かう途中で警官隊に阻止されたが、セラ僧院の僧侶14人はラサの中心ジョカン寺の前で中国政府に対する抗議の声を上げることに成功した。
この小さな炎がその後14日のラサ大蜂起を引き起こし、そしてその炎はカム、アムドへとチベット中に飛び火して広がって行ったのだった。

この日のデモに偶然参加し、そのすぐ後、ラサを離れ亡命することに成功したガワンという16歳の女の子に会って、話とその時の絵を描いてもらった話は以下の昨年のブログに報告しています。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2008-06.html?p=2#20080615

「絵は一度も描いたことがない」と言いながら、中々描きたがらなかったところを無理に描かせた絵です。
この中、赤い服(僧衣)を着た二人が抗議活動扇動中のセラ僧院の僧侶とのことです。
みんな顔が笑っているところが泣けます。

この子もNHKに取材してもらったのですが、絵が下手過ぎたのか、取り上げてもらえませんでした。

ところで、今日Voice of Tibet radio serviceがこのときデモをした14人の内3人のセラ僧院の僧侶たちの消息を伝えています。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=25377&article=Four+Tibetan+monks+sentenced+up+to+ten+years+in+prison

チベットの国旗を掲げ、チベット独立を叫んだ14人は全員その場で逮捕された。
そのうちザチュカ、セルシュル出身のロドゥの家族は今年4月に当局からロドゥが10年の刑期を受けたと言うことを知らされていたが、決してそのことを外部に知らせないようにと脅されていた。

7月14日、ロドゥの家族がラサのチュシュル刑務所に彼を訪ねた折、彼の僧院仲間のロプサン・ゴドゥップ29歳とマンゲ・スパ30歳がそれぞれ5年の刑を受けていることが判った。

しかし、このとき一緒に逮捕された他の僧侶たちの消息は依然不明のままだという。














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2009年04月02日

カム、カンゼの抗議デモは続く

9cf1a5a9.jpg写真は1990年ラサでのデモです。C/R 9-10-3 M.T.

ダラムサラ、4月1日付Phayul.comによれば、
http://phayul.com/news/article.aspx?id=24355&article=Protest+in+Kardze%2c+6+arrested

<4人の尼僧と2人の若者が4月1日午前逮捕された>

南インド、セラ・ジェ僧院の僧ゲロンがphayulに伝えたところによれば、6人は法王のチベットへの帰還、チベット人の自由、及び抗議デモを行い逮捕されたものチベット人全員の解放を要求して、スローガンを叫んだ。

4人の尼僧達はリンパツァ地区にあるハルド・リンポチェの尼僧院からだが、この尼僧院は現在中国の保安部隊により包囲されているという。

<耕作奨励金?>

これとは別に、地域のチベット人が耕作拒否運動を行っていることに関し、同じく僧ゲロンに入った情報によれば、
カンゼの当局はノルゼ村の住民に対し、「当局の命令に従い耕作を行う者には賞金としてその者の家の改築費を政府が負担する」と発表した。

しかし、これに対し住民たちは「ダライ・ラマ法王を非難することは決して許されない」としてこの申し入れを拒否しているという。

<8人の少年少女が抗議デモ>

さらに、3月25日には少女一人を含む8人の少年少女がリンパツァ地区ゲルドゴア村で中国政府に対する抗議デモを行い逮捕された。

しかし、その中に自分の息子が含まれていた村のリーダーは当局に対し、「もしも若者たちが解放されないなら、この村の80世帯のチベット人全員が立ち上がるであろう」と警告した。
その後、当局は若年者と言う理由で彼らを解放したという。








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2009年03月22日

ラギャで大規模デモ発生/その映像が届いています

自殺したとみられるタシ・サンポ朝もお伝えしたラギャの続報です。

まず日本の毎日新聞には:

<中国>チベット自治州で僧侶ら暴動 6人逮捕
3月22日19時32分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090322-00000037-mai-cn

 【北京・浦松丈二】新華社通信によると、中国青海省ゴロクチベット族自治州で21日、僧侶約100人を含む暴徒が地元警察署を襲い、地元政府の職員数人が軽傷を負った。警察当局は22日に暴徒6人を逮捕。89人が自首したとしている。

 中国当局は今月、ダライ・ラマ14世亡命につながったチベット動乱から50年、ラサ暴動から1年になることからチベット族居住地域で厳戒態勢を敷いていた。今年に入り中国で僧侶の大規模暴動が伝えられたのは初めて。

 同通信によると、僧侶が地元警察の取り調べ中に行方不明になったとのうわさが引き金になったという。

 一方、チベット亡命政府によると、この僧侶は中国で禁じられている亡命政府旗の所持容疑などで警察の取り調べを受け、黄河に飛び込み、自殺を図ったとしている。

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共同は:

チベット僧侶ら数百人暴動 中国、95人逮捕・自首
- 47NEWS(よんななニュース)
http://www.47news.jp/CN/200903/CN2009032201000601.html

-qte-

 【北京22日共同】22日の新華社電によると、中国青海省ゴログ・チベット族自治州で21日、約100人のチベット仏教僧侶を含む数百人の市民らが警察署を襲撃、地元政府の職員数人が軽傷を負った。警察当局は22日朝までに暴動に参加した6人を逮捕、89人が自首した。このうち、93人が僧侶だという。

 チベット暴動が発生してから14日で1年のたため、治安当局がチベット自治区や周辺省のチベット族自治州で再発防止のため厳戒態勢を続けているが、僧侶らのこうした大規模な暴動が伝えられるのは初めて。

 チベット亡命政府(インド・ダラムサラ)によると、集まった人数は約4000人で、「チベット独立」のスローガンを叫んだという。

 チベット仏教最高指導者、ダライ・ラマ14世がインドに亡命した「チベット動乱」発生から50年となる10日、同州で寺院に掲げられた中国国旗を僧侶らが降ろし、チベットの旗を掲揚。直後から治安当局が同寺院を封鎖した。

 関与した僧侶の1人が21日、追及を逃れるため黄河に飛び込んで自殺を図り、僧侶らが警察署に抗議に行ったという。自殺を図った僧侶が死亡したかどうかは不明。

 一方、新華社電はチベット独立を支持したとして20日に拘束された男性が21日、警察署から脱走して川を泳いで逃げたため、警察当局が行方を追っていると報道。地元政府職員が22日未明に僧侶が属する寺院を訪れ、暴動に参加した僧侶の自首を求めたとしている。
2009/03/22 22:25 【共同通信】

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貴重なデモの映像を見ることができます。

携帯で撮った映像なので画像は良くありませんが、生々しいデモの様子が分かります。中で一度だけ「プゲロー!(チベットに勝利を)」と連呼されるのがはっきり聞こえますが他は認識できない叫び声ばかりが聞こえます。

今のチベットを感じます。
http://media.phayul.com/?av_id=148

Phayul.comによれば、
http://phayul.com/news/article.aspx?id=24257&article=Thousands+protest+in+Ragya%2c+monastery+prefect+among+5+arrested
昨日タシ・サンポの自殺を知った市民はその後すぐに警察署と政府庁舎の前に集まり抗議デモを行った。
こちらは、その数は二千人と発表されている。
逮捕者は今日になりパルデン・ギャツォはじめ5人が逮捕されたとしている。

怒ったチベット人たちは警察署から先に押収されていた、チベットの国旗を奪い返し、掲げたという。

Voice of Tibet 放送によれば、これを弾圧するために、ゴロから7台の軍用トラックがラギャに到着し、さらに西寧に援軍が要請された。

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別のニュースとして、Phayulに入った情報によれば、先に「Leaving fear behind」の制作を手伝ったとして、ゴロ・ジグメが3月17日に逮捕されたことはお伝えしたが、同じく制作をアシストしたゴロ・グンガ・ツァンヤンも逮捕された。

二人は共に作家で、逮捕容疑は政治的文章を書いたことだという。


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亡命政府はデモ参加者を四千人としています。

http://www.tibet.net/en/index.php?id=763&articletype=flash&rmenuid=morenews

http://www.tibet.net/en/index.php?id=761&articletype=flash&rmenuid=morenews


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2009年03月19日

抗議の焼身自殺を図った僧侶について/カンゼで尼僧一人デモその他。

昨日、N2と共にダラムサラのキルティ・ゴンパに僧ツェリンを訪ね、彼にインタビューしました。
彼はこの寺の情報収集、広報係りです。

焼身自殺を図り撃たれた僧タペイ左の写真、一枚目はもう広まっていますが二枚目は彼からもらったものです。
もっとも元は不明です。

去年3月16日、本土アバのキルティ・ゴンパで一万人規模のデモが起こり20人以上の死者が出た時、いち早くパソコンに受け取った死体写真を街に張り出し、携帯に入ってきたデモの実況生中継をツクラカン前を埋め尽くしていた群衆に聞かせたのは彼でした。

インタビューでは今までにキルティ・ゴンパをはじめとするアバ地区での出来事について知っているところをすべて話してもらいました。

ここでは最後の話として、この前の焼身自殺を図った僧侶の件について彼から聞いたところを報告します。この件に関しても彼が中心に内地からの電話やメールを受け取っています。
まず最初はこの事件についてはネパールから連絡が入ったとか。
以下この件についての彼の話。

焼身自殺を図り撃たれた僧タペイ2それを受けて内地に電話した。
(最近は特によほどの要件でない限り、危険なので、こちらから電話することはないそうです)
その時は返答はなく、しばらくして複数から電話が入った。
「キルティの僧タペイが焼身自殺を図り、警官に撃たれ倒れた。すぐに連れて行かれた」というものだった。

最近中国の新華社が「成都で母親とも面会して、順調に回復している」と言ってるのは全くのウソだ。
母親は成都ではなく事件のすぐ後にちょっとだけアバで会えただけだ。
両足だけではなく両手も切断させられそうになっていると聞く。
最初から足を撃たれたという目撃情報は入っていたのだ。
証拠を隠すために切断を強要していることは間違いない。

質問:情報は直接現地から電話で入ってくるのか?
ツェリン:今は危険すぎてそんなことはできない。
これらの情報はすべて成都とか他の中国の都市から送られてくるのだ。
僧であれば、アバを変装して抜け出し、中国の町に着いて初めて電話やメールを送ることができるのだよ。

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カム、カンゼで尼僧が一人で抗議デモを行い逮捕される。

ダラムサラ3月17日付、TCHRD(チベット人権民主センター)リリースより:
http://www.tchrd.org/press/2009/pr20090317a.html
センターに入った情報によれば、カム、カンゼ県チンカ村にあるゲマ・タオ尼僧院の尼僧ロプサン・カンド21歳が3月6日午前10時頃一人で抗議デモを行った。

彼女はタクチュ橋からカンゼの中央政府庁舎に向かって一人で抗議の行進を行った。
彼女はパンフレットを配りながら、
祈祷の旗を掲げ、
「チベットに自由はない!」
「チベット人よ、立ち上がれ!立ち上がれ!」
「法王に長寿を!」
「中国政府はすべての政治犯を解放せよ!」
と叫び続けた。

この勇敢な一人抗議デモも長くは続けられなかった。
数分後には5台のバンで駆け付けた保安部隊に彼女は囲まれ、
その場で激しく暴行され、
拘置所に連れて行かれた。

現在、カンゼ国立病院の前に新設された刑務所に収監されているという。

友人や親せきの者が集まって警察署に彼女の安否を尋ねに行った。
警官は「もしも彼女がそのような活動をしたならば、死ぬしかない。彼女は重大な違反を犯したのだ。お前らが、彼女の安否を尋ねる意味などない。
みんな、このことを決して外の世界に知らせてはならないぞ」と返答した。


ガマ・ダオ尼僧院はカンゼから16キロ離れている。
有名な巡礼地であるカワ・カルポに通じる街道上にある。
ここの尼僧たちは去年チベット全土に抵抗の波が起こった時、大きなデモを行った。
今も、その時逮捕された5人の尼僧が中国の刑務所で服役中のままだ。

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その他、TCHRDは最近再び度々ニュースを流しています。

ジクデル制作を手伝った僧再逮捕同じ17日付で、日本でも公開されている「LEAVING FEAR BEHIND ( Tib: Jigdrel).」の制作を助けたラプランの僧侶ジグメ・ギャンツォ40歳が再逮捕されたことを伝えています。
http://www.tchrd.org/press/2009/pr20090317.html

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3月14日にはカンゼで四人の若者が抗議デモを行い逮捕された。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=24219&article=4+arrested+in+Kardze%2c+6+in+Nyarong
四人はティンカ地区スサダ村出身のナムセル・ドルジェ28歳、カルマ・ノルブ17歳、リンチェン・ワンセル16歳、サンゲ・ツェリン17歳。

親戚は拘置所への差し入れを拒否されているという。

この中カルマ・ノルブの父親は去年のデモに参加し、現在監獄にいるが相当衰弱していると伝えられている。
他の二人の兄弟サンポとドルジェも「中国の政策に反対した」罪で3年の刑を受けている。

その他、ツェンツァのニャロン・タシ・チュペル僧院の僧侶6人が3月10日にラスルの儀式を行ったとして逮捕された。

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この数日ようやく3月10日前後の様子が伝えられて来始めたようです。
カンゼを中心に各地で小規模の抗議活動が起こり続けていると思われます。





















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2009年01月13日

続T.P氏の証言。パルデン・ギャツォ氏へのインタビュー

13,1,09 ネレンカン
今日もネレンカンに寄って見ました。
ドミトリーに入ると、子どもたちが集まって来て、写真を撮ってくれ大会になりました。元気で無邪気な子供たちばかりでした。
逃げて来れてバンザイ!といった雰囲気です。

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昨日話を聞いたツェテン・プンツォック氏に廊下で会ってそのまま、またお部屋にお邪魔して話の続きを聴かせて頂きました。
13,1,09 カンゼ地区指名手配状
左の書状は彼の指名手配状の一つ2008年5月7日付のものだそうです。
総勢35人。
これに先立ってデモの数日後に4人だけのものが張り出されたそうです。
彼は最上段、矢印が付けてある右から4人目です。
最上段左の3人が一緒に18日のデモを先導し、逃走した者。
後の者たちはセタとダンゴのデモを主導した者たちだそうです。

「これらの者どもの居場所を電話等で知らせたものには15万元。現場逮捕に協力したものには25万元の報奨金が与えられる。匿ったものには厳罰が加えられる」と書かれています。

昨日の補足に少し聞きたいことがあったので、質問しました。

「最初は3月6日にデモをしようと計画していたと聞いたが、どうして延期したのか?」

T.P.氏
「6日にはまだデモの間に配るビラが十分用意できなかったのだ。千枚刷った。6日から夜になると、家々の戸口にそっとビラを差し込んで回って。
デモの前にすでに沢山のビラを配った。ルンタ風にして風に吹かせて屋上から撒いたのもある。」

「そこにはどんなことを書いたのか?」

すると、ノートの上にきっちりとしたチベット文字でその時書いたというスローガンを書き始めた。
13,1,09 独立ビラを書くTP氏
(写真はビラを作るTP氏)

「人権を守れ!
チベットに自由を!
ダライ・ラマ法王をチベットにお迎えせよ!
パンチェン・リンポチェを解放せよ!」


と綴った。


「デモの最中貴方は足を撃たれたわけだが、他に銃で撃たれる者を目撃したのか?」

T.P氏
「他に10人以上が撃たれたと聞いている。私は自分のまわりで4人撃たれるのを見た。一人は逃げようとしたとき後ろから撃たれ、脇腹をぬけて弾が壁にあたりはじけるのを見た。
一人は足の腿を撃たれた。
一人は頭を近くから撃たれ即死した。
もう一人は撃たれた後で、口から血を沢山吐き倒れていた。
路上は至る所血だらけだった。

自分たちは石一つも投げていない。
ただ声を上げ自由と正義を訴えただけだ。

中国人はチベット人を全く人と思っていない。
動物と思ってる。
平気で鉄棒で殴り、銃で殺すのだ」

自分はもうチベットには帰れない。
帰ればすぐに殺されるだろう」


と言ってました。

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パルデンさんとリチャード・ギア
次、頼まれていた質問を抱えて、昨日パルデン・ギャツォさんのお部屋にお邪魔しました。

復刊のために奔走して下さったY女史からの質問です。
以下Y女史からのメールとその答えです。

■お願い■■■■■■
> 本を渡すときに、パルデンさんの近況など、手短に聞いていただけませんか?
> 宣伝サイト(www.palden.info)に掲載したいと思います。
>
> ・去年、海外ではどの国にどれくらいの期間滞在して、どういう活動をなさったか
> (おもに映画の宣伝かと思いますが、、、講演会とか、ファンドレイズのパーティとかでしょうか?)


日本に行った後、アメリカに渡って、マサチューセッツからシカゴまで歩いた。
6日間で歩いた。他に15人のチベット人が参加した。
数人のアメリカ人も一緒だった。
初めと終わり、途中でトークやイベントもあった。

それから、ダラムサラに帰り一週間いた。
スペインで進んでいる<チベット・ジェノサイド裁判>のために準備する書類が沢山あったからだ。

その後、再びアメリカに行った。
最初に持病がある肺の具合を病院で見てもらった。

私の映画はオスカー賞を狙っているようで、そのための試写会がまず、NYで6日間、次にロサンゼルスで6日間あった。
大勢の人の前で、何度も話をしたが、反応は非常に良かったと思う。

ダラムサラに帰り。
今度はイタリアに行った。
私が解放されたのは、このイタリアのアムネスティーが中心になって運動してくれたからなのだ。
だから、友人も多くてイタリアにはよく行く。
それから、オランダに試写会のために行った。監督も来ていた。
そのあと、スペインに裁判のために行った。

そして、ガンデン・ナムチェの日にダラムサラに帰って来た。

3月にはイギリス、5月にはノルウエーに行くことが決まっているそうです。

(法王並みの人気ですね!78歳元気一杯)


> ・そのうち、どんな活動が有効だとお感じになったか

どれが有効ということは解らない。大体トークが多いが、全部一緒になってたりするからね。

手段として、常に平和主義と真理を前面に出すべきだ。
暴力的手段では決して戦いに勝つことはでいない。

中国は私に様々な試練を与えたが、私は今もこうして生きていて、自分の考えは全く変えられることなく存在している。
力で人を変えることはできないということだよ。

> ・日本では本が復刊されたが、日本の読者にお願いしたいことがあれば、それもぜひ。

私の本を出版して下さる出版社の方々と復刊のために働きかけて下さった、チベットの友人たちに心より感謝いたします。
日本もチベットと同じように仏教の国です。

この本には何でもない、ただのチベットの一僧侶の半生の話が書かれている。
中国が来て。多くのチベット人が殺されて行った。
私も33年間監獄に繋がれていた。
でも私は今も死ぬこともなくこうして生きている。

仏教徒の僧侶として、中国を恨む気持ちはない。
人に害心を持てば、その果は苦であるからだ。
しかし、自分の信念は一度も曲げなかった。
仏教は勇気を与えてくれる。
日本人もそれで勇気があるのだろう。

日本と言えは、広島に行ったことがある。
私は45年に原爆が広島に落とされたということを、チベットで聞いて知っていた。
その時は何だか、大きな爆弾が日本に落とされて大勢の人々が死んだというので、チベット政府が主催してその犠牲者を追悼するための「モンラム」を大々的に行ったのだよ

自分はそれで覚えていた。

広島に行ってみると、驚いたことにすっかりビルが立ち並んでいる。
草も生えないと聞いていたのにだ、、、
つまり、アメリカが力で日本を負かした訳じゃないのだ、こうしてちゃんと日本は復興してる。
負けなかったのだ、と思ったよ。

そうだ、この前の日本はちょっと忙し過ぎたよ。
今度もう一度行く機会があれば、もっとゆっくり日本を見てみたいと思う。

ーーー

以上















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2009年01月12日

3月18日カンゼ大デモ先導者の証言

b452e927.JPG写真は、去年3月カンゼに集合した軍隊。
話の本人が持っていた。
ーーー
今日、日本から来られたH女史と共に、ネレンカン(難民一時収容所)に寄って見ました。
そこで、偶然が重なり、思わぬ貴重な証言を聞くことができました。

昨日、新しく40人ほどの難民がダラムサラに到着したとのこと。
しかし到着したばかりで事務所の人たちも、どんな人が、どこから、どのようにして来たのかについての情報はまだはっきりしないと言ってました。

仕方ないので、子供たちが絵でも描いていないかなと屋上に行きました。
子どもたちもいませんでした。
H女史にそこに張り出されてる、去年の夏のイベントにも使わせてもらった絵を見せたりしていました。
すると、そこにちょうどアマ・アデさんの部屋から旦那さんが出て来られました。

彼は私の顔を見るなり「おお、ちょうど良いところに来た。昨日一人カンゼから逃げて来た者がいる。彼はデモで足を撃たれたりした。必ず話を聞くといい、、、、でも、今はノルブリンカに行ったな、、、電話もないし、、、

と、ちょうどそこに、その話の本人が現れたのです。帰ってきて部屋の鍵を取りにきたところでした。

さっそく、部屋で話を聞くことになりました。

話始めて、彼のカンゼ訛りがうまく聞き取れず、何度も聴き直したりしました。
「H女史は中国語が解るよ」というと、それではと私は通訳失格・交替ということになりました。
以下、H女史の中国語よりの通訳を私がノートしたことから、報告いたします。

ーーー
<ツェテン・プンツォック氏の証言>

2008年3月18日、カム、カンゼで初めての大規模デモを先導した15人のチベット人の内の一人が脱出に成功し、昨日ダラムサラに到着した

ツェテン・プンツォック氏は40歳の僧侶だ。
その時のデモの様子、デモに至った経緯などについて話を聞くことができた。

ーーー

デモは3月18日午後1時過ぎ、カンゼ市内の大きな交差点で始められた。
同じ村の出身15人がパンフレットを配りながら、スローガンを叫び始めた。

間もなく武装警官隊に囲まれた。しかし、その周りには我々を救おうとチベット人が大勢集まり始め、たちまち数千人の規模になった。
我々は政府庁舎に向かって歩き始め、群衆も警官隊も一緒に移動した。

しかし、政府庁舎を前にした交差点に来た時、四方から新たに攻め寄せてきた大勢の武装警官隊に全員包囲された。
警官隊は鉄の棍棒ですべての人たちを滅多打ちにし始めた。
我々15人も打たれて、逮捕されていった。
私はその時、拳銃で足を撃たれた。

ツェテン・プンツォック氏 12,1,09ダラムサラこれが其の跡だ、、、と言って、傷痕を見せてくれた。
(写真はその時)
2〜3千人はいたがそのうちその場で4〜500人が逮捕されたと思う。
後ろの方で倒れ動けなくなったチベット人を警官がトラックに載せていくのを見た。
15人のうち11人は逮捕された。
後で聞いたがこのうちの一人は8年の刑を受けたという。他の仲間の消息は今も分からないという。

私は何とか逃げることができた4人の内の一人だ。

その日の夜中には、蘭州と成都から大きなヘリコプターが7台、兵隊を乗せて空港に降りたと聞いた。

そして、その数日後、町中に写真付きの指名手配の張り紙が張り出された。
その中に私の顔があった。自分でそれを見たのだ。

それから私は数か月、山に隠れた。傷は少し深かったが病院に行けば捕まるので、家から薬を持ってきてそれで治した。
その後も家や僧院に帰ることもできず、カム、アムドの各地を転々と身を隠しながら逃亡生活を続けた。

ダライ・ラマ法王の御生誕地にも行った。
そこには、家を守るチベット人以外一人のチベット人にも逢わなかった。
その人の話では、3月11日に大勢の軍隊が来て周りは包囲されたという。

その後亡命を決心し、ラサでガイドを雇い国境に向かった。
国境付近で10日間歩いたが脱出に成功した。



「デモを行う前にラサのデモの事は知っていたのか?

3月18日のデモはカンゼで3月初めてのデモだったのか?」の質問に答え:


ラサのデモのことは全く知らなかった。かなり後になって、アメリカのラジオだったかを聞いて知ったのだ。

18日がカンゼでの初めての大きなデモだった。

もちろんカンゼでは1990年ごろから何度も小さなデモはあった。
もう50人位は逮捕されている。自分もカンゼではないが近くのタウの町で1992年に<独立>の張り紙を張ったことがある。
その時、逮捕はされなかった。



「じゃ去年、最後まで続き今年もデモが起こっているカンゼのデモのまさに仕掛け人の一人ということになるね。すごい、良くやった!!!

で、どうしてデモを決行したのか?いつ僧になったのか?」の質問に答え:

私は6人兄弟の末っ子だ。家は農家だ。
小学校に二年ほど通ったが、チベット人が学校で差別されるのが嫌になりやめた。
それから僧院付属の学校に通っていた。
16歳の時カンゼ僧院の僧になった。

1994年頃から中国のチベット人に対するいじめが目立ってきた。
例えば、病院にいってもチベット人は追い返されることが多くなった。

その他、材木を多量に切り出し、近くの美しい山を崩し、穴をあけ金銀やその他の鉱物を掘り出し、中国に運び去る。
益々ひどくなる。
そんなこともあり地元のチベット人たちは中国政府に対し反感を強めていた。

でも、3月にデモしたのは、その前2月から中国は僧院、尼僧院を回りながら、ダライ・ラマ法王を非難する証書にサインするようにと迫ってきた。
銃を押し付けられ脅迫されるのだ。(ここで彼は銃を喉元に突き付けられるマネをした)
でも、誰一人、根本のラマ、ダライ・ラマ法王を裏切る者などいなかった。
みんな死んでもそんなことはできないと答えた。

そんなことが続いたからだ。
だから、デモを決心したのだ。
自分たちから仕掛けたのじゃない。
ダライ・ラマ法王を捨てることを迫られることに耐えられなくなったからだ。

とくに3月10日を意識してたわけでもない。
本当は最初は3月6日に決行する予定だった。


以上

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もしも、そのデモが6日に本当に行われていたら、ラサ蜂起ではなくカンゼ蜂起が去年の発火点となっていたことでしょう。

カム カンゼ 
写真はカンゼ市内。手前左スミに軍隊のトラックが並んでいるのが見える。
正面の雪を被った山に大きな鉱山があるという。







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2009年01月10日

カンゼで再び一人デモ。 08憲章関連

5d9876bd.jpg<カンゼで再び一人デモ>

http://phayul.com/news/article.aspx?id=23597&article=Tibetan+Man+beaten%2c+arrested+for+Protesting

RFA(ラジオ自由アジア)に寄せられた現地よりの電話によれば、1月5日、カム、カンゼにおいてガワン・ソナム32歳が中国への抗議デモの末逮捕された。

匿名希望の女性からの電話によれば、彼は1月5日正午頃、カンゼ警察本部の前で抗議を行った。

「彼はスローガンを叫びながら、何千枚ものルンタや抗議文を刷った紙切れを空に向かって撒き続けていた」

「警官と公安部隊が彼目がけて麻酔弾を撃った。そのあとさんざん暴行を加え、警察の車に乗せどこかに連れ去った」という。

ガワンはカンゼ、ツォゴ、ホルポ村出身。二人の幼い子供がいる。
2000年にも一度中国に抗議したことで逮捕されている。

彼女は「チベット人はいつでも質問され、チェックされる。政府は益々監視を強めている」
とも話していました。


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以下は08関連記事として「サーチナ」より

<中国の「闘う文学者」―王力雄&ツェリン・ウォセ夫妻 >

2009/01/07(水) 10:28:20
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0107&f=column_0107_004.shtml


年始年末を北京で過ごし、年明けにチベット族の女流作家、ツェリン・ウォセさんとその夫で、政治予言小説『黄禍』などの著書でも知られる王力雄氏と会った。2人とも中国の体制変化を求める「08憲章」にも署名している。

現政権批判ともいえるこの憲章にかかわったことで、彼らの生活が圧迫されていないか、ずっと気になっていた。しかし、久しぶりに対面した2人の表情は明るくひと安心。起草者の1人の著名民主活動家の劉暁波氏は拘束の身だが、大みそかに夫人が面会にいったところ、少しやせてはいたが虐待も受けておらず元気であった、という最新情報ももたらしてくれた。

「彼は国際的有名人だから、当局もかなり遠慮して対応している。一日中、CCTV(中国中央テレビ)だけを見せられ、紙とペンを一切与えられない暮らしは文人として相当苦痛だとは思うけれど」とウォセさん。劉氏については、国際ペンクラブと協力する形で日本ペンクラブ(阿刀田高会長)獄中作家・人権委員会が釈放を求める声明を出すなど世界中が注目している。

へんな言い方だが、有名であるということは中国人作家にとって一つの安全の担保である。中国では表現の自由に制限があるが、国際的知名度が高いと、表現の自由度も多少は拡大するし、拘束されても当局は手加減する。

だから私もウォセさんらのことを多くの日本人に知ってほしい、と思っている。ちょうど、彼女の代表作の『殺劫』が春にも邦訳出版される予定だ。文化大革命時代のチベットの寺院破壊の写真を手がかりに、関係者の詳細なインタビューをふまえて書いたノンフィクション文学作品。文化大革命をチベット語で発音すると偶然にも「レンレイシャージェ」(人類殺劫)という発音となり、そしてチベットにとって文化大革命とはまさしく「人類殺劫」に他ならなかったから、表題となった。

ウォセさんは国民党軍逃亡兵であった漢族の祖父を持つ漢族・チベット族のクオーター。共産党軍人でありながらチベット仏教への信仰を断ち切れないハーフの父の葛藤なども見つめながら成長し、今の中国とチベット問題の語り部としては最もふさわしい人物の一人だと思う。

日本の文学はエンターテインメントの傾向が強く「文学と政治は無関係であるべきだ」という人もいる。しかし中国を含むいくつかの国家では文学は究極の政治であり、ときに闘争の道具。本来、文学とはそういう恐るべき力を持つからこそ、しばしば弾圧の対象になってきた。

2010年秋には東京で国際ペンクラブ世界大会が開催されるが、ホストの日本ペンクラブが中国の獄中作家や独立系作家も招待して、その知名度を上げる一助となればいい。表現の自由確立するための国境を越えた連携をうたうペンクラブの目的に沿うだけでなく、エンタメ化した日本文学が「闘う文学」の強さから良い影響を受ける機会でもあると思う。

(執筆:中国ウォッチャー 三河さつき)


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2008年09月17日

ガワン・トプチュの証言

7efeadfd.JPGガワン・トプチュはルンタレストランでも一番の古株。
今は朝6時からパンとケーキを作る係りだ。毎朝我々はヨガのすぐ後焼きたての彼の作ったパンをおいしく頂いている。

彼の話は以前にもこのブログに載せている。
しかしその時は国旗の話しを中心にちょっと聞いただけだった。

以下に数日前に聞いた少し詳しい彼の証言を載せる。
T女史がまとめてくださった。

ーーー

<ガワン・トプチュ 34歳の証言>

私は、ラサのガンデン僧院近郊のメト・クンガ県、メト・ギャマで産まれました。そこからガンデン僧院までは、以前は道が険しく雨が降るたびに道が壊れるほどで、近道もなかったため、車で二時間ほどかかりました。現在はラサから高山資源が豊富なメト・ギャマまでの幹線道路ができ、車で15分ほどの距離です。大きな88台のトラックが、金、銅などの資源を確保しに、一日19回往復しています。

出家

14歳でガンデン僧院の僧侶となりましたが、二十歳(92年)までは見習い僧でした。当時、中国による規制のため、若くして僧侶になることはできませんでした。僧院でお経を唱えたり勉強することはいくらでもできましたが、他の僧侶と同じ食事は取ることも、僧院の教育システムに入ることも出来なかったのです。
月の8日、15日、24日などの特別な仏事の際には、僧侶とともに食事ができ、時々布施をもらうことができましたが、それ以外は雑務や労働に従事していました。

ジョカン寺でのデモ

92年、チベット暦の4月15日(6月くらい)に、メト・ドゥムラというジョカン寺近くの大きな公園から、二人の僧侶とともにデモを開始しました。4月はサカダワといわれ、お釈迦様が誕生・成道・涅槃された大切な月で、功徳を積む修行に最も適した機会です。特に15日の満月の日は、仏教でとても大切な聖日とされ、方々からチベット人が祈りを捧げるためにラサへ集まります。私たちは多くのチベット人を励まし応援したいと考え、デモを計画したのです。他の僧院と連絡を取り、ジョカン寺へ集まろうと呼びかけ合っていたので、当日は大勢の僧侶がデモに参加しました。

当時国旗はなかなか手に入らなかったため、デモ用の国旗は仲間と手作りしました。青色はインクがありましたが、赤色はなかったので、自分たちの血で染めました。その大きな国旗を二人が持ち、一人がジョカン寺へ向かって先導したのです。外国人の観光客も何人かいたので、写真やビデオを撮られるよう、私たちは大きな声を上げて派手にやりました。
「チベットの完全独立を!ダライ・ラマにご長寿を!中国人は中国へ帰れ!チベットの主はチベット人だ!」と、順番に、ありったけの声で叫びました。

そして、ジョカン寺を右回りに回ろうとしたところで中国公安に捕まってしまったのです。仲間のテンジンはすぐに両腕を後ろ手に紐で縛られ、トラックにまるで物を投げ入れるかのように放り込まれました。私は激しく抵抗したため、銃尻でひどく殴られました。30人しか収容できないトラックに90人以上が押し込まれましたが、私はトラックに入りきらなかったため、同じように両手を後ろ手に紐で縛られ、路上に正座させられました。そんな中、監視の目を盗み、なんとか紐を外そうと手をもぞもぞ動かしていたら、奇跡的にも紐がするりとほどけたのです。そして、他のチベット人たちが追手を遮ってくれたので、なんとかジョカン寺まで逃げることができたのです。
当時は武装警官の中にもチベット人が沢山いたため、逃げても深追いされることはなく、今と比べるとまだ規制が緩かったようです。2006年頃から政策が変わり、内地から大勢の中国人警官がチベット自治区へ送り込まれたため、過激な軍隊式へと化していきました。その時に中国側が打ち出した政策はこのようなものです。

・遊牧民の定住政策
・トゥルク・リンポチェ(転生活仏)の共産党政府認定制度
・ダラムサラとの対話硬直


トムセカン(ジョカン寺の裏当たり)まで逃げたとき、一人の年輩の男に手招きされ、とても警戒しました。ところが彼が、「私は寺の法要の施主をしている者だ、安心しなさい。」と、にこやかに言ったので、安堵のため息をついたのを覚えています。彼はデモの様子を一部始終見ていたとのことで、「本当に良くやった。」と私を労い、助けてくれたのです。

彼は、ポタラの裏手の湖まで私を連れて行くと、変装用の服と煙草と400元を手渡してくれました。途中公安に見つかりましたが、煙草を吸っている振りをし(僧侶は煙草を吸わないため)演技をしたら、ばれずに何とか逃げ切ることができました。

里まで辿り着くと、私はわざとヤギを連れて、山へ香木(香を焚くための木の葉)を集めに行きました。次の日僧院に公安や当局の監視委員会がやってきて、「ラサに行ったか!」と問われましたが、こうして山へ行き、15日のサカダワの準備をしていたなどと言ってごまかしたので、疑われることなく捕まらずに済んだのです。
デモをした3人のうちテンジンだけが捕まり、刑期を言い渡されました。他の僧侶たちも大勢捕まり、刑期はだいたい6年〜10数年だったそうです。中には銃殺される者もいたと聞いています。


不当な要求への抵抗

忘れもしない96年5月6日のことでした。13時、突然ガンデン僧院に共産党の委員会がやってきて、800人の僧侶全員(そのうち見習僧が500人)が集められました。そして、ダライ・ラマと亡命政府は国家分裂を謀る危険な存在であると冒涜し、壁に掛けられたダライ・ラマ法王の大きな写真をただちにおろすよう命じたのです。法王のその大きな写真はとても大切なもので、法要の際に必ずその前で祈りを捧げていました。ですから、当然私たちの誰一人として、中国人の言うことには耳を貸す者はいませんでした。

すると、15時くらいに再び公安とチベット人警官がやってきて、こんどは僧院長を呼び出しました。そして、しばらくして私たちは同じように集められました。僧院長は、「みんなは自由な選択ができる。けれども今回の話は僧院存続のためになることであり、みんなの為にもなることだから必ず聞くように。」と言われ、中国人が先に命じた内容を再び私たちに話されたのです。僧院長のすぐ横で、中国人の公安やチベット人警察が睨みをきかせていました。
私たちは通常、僧院長の指示に従わねばなりませんが、この内容だけはどうしても受け入れられませんでした。ある者は中国人に小石を投げたり、またある者はチベット人警察に「同じチベット人なのに、何故だ。チベット人ならラマを尊敬するべきだ。」と抗議し、乱闘になりました。

そのあと、私たちガンデンの僧侶たちは緊急会議を開き、この一件をめぐる今後のことを話し合いました。中には逃げた方が良いという者もいましたが、最終的には、私たちは何があってもダライ・ラマへの忠誠を誓うこと、仲間を裏切らないこと、そして、逃げも隠れもしないでその意思を貫くことを誓い合ったのです。

18時頃、ガンデン僧院に向かう坂の下から、驚くほど多数の軍隊のトラックが押し寄せてくるのが見えました。私は、ついにこの時が来たという思いでいました。
いよいよ彼らが僧院に到着すると、わざと大きな足音を立て、物々しい様子で攻めてきたのです。
僧侶50人ほどが、法王の写真が没収されそうになるのに抵抗し、石を投げて立ち向かいました。すると中国人は銃を向けて威嚇し、数人は脚を撃たれて連行されました。私たちには、トゲの生えているイラ草で通り道を塞ぎ、石を投げて抵抗するしか、成す術がありませんでした。次の日から徐々に逮捕者が増えていきました。はじめに30人、次に40人、3回目に17人捕まったとき、私も連行されました。そんな逮捕劇が、しばらくの間続いたのです。


刑務所内から病院へ

刑期は裁判をせず当局によって適当に言い渡され、私は11年の刑期でした。同じことをしても2、3年の刑期の者もいれば、16年という長期の者もいたのです。
投獄されてから初めの頃は、一日6〜7回もの尋問があり、決まって、首謀者は誰か、そしてバックには誰がいるのかと尋ねられました。私たちは、ダライ・ラマの写真をおろせと言われたことに自ら抵抗しているだけで、誰かに命じられたわけではないのです。けれども、そう言う度にひどく殴られ、同じ尋問がくり返されました。

拷問は堪え難いものでした。今でも腕には特殊な手錠(動く度にきつく締まる仕組みのもの)で締め付けられた痕、背中には殴打された時の傷痕が残っています。コップ一杯の血を抜かれ、ふらふらで無抵抗なままひどい拷問を受け、私たちは日に日に衰弱していきました。病院にも行かれず、食事も粗末なものしか与えられなかったため、怪我も病気も悪くなる一方でした。

そんな日が半年も続いた時、私は瀕死の状態に陥り、監獄内で死なれたら困るという理由で軍病院に搬送されました。それまで本当に体調が悪いのか確かめるのに、水をかけられたり電気ショックにかけられたりと、ひどく野蛮なやり方で検査されました。

その後、数か月経っても回復が見られなかったため、別の病院へ行けと言われ、私は軍病院からメンツィーカン(チベット伝統医学院)に移りました。その間、私は金が尽きていたので、養生して少し回復し始めた頃から病院を抜け出し、外に働きに出ました。一年間病院を出入りしていましたが、容態が良くなればまた監獄へ帰されてしまうので、一年後の97年に私は亡命を決意したのです。
ガイドは、外に働きに出ている時に人づてに評判を聞いていたカムの男でした。小平が亡くなり、喪に服している間は比較的検閲が緩かったので、私たちはその時を狙って決行することにしました。

ネパール、そしてインドへ亡命

ラサで集まった 21人とトラックでディンリまで行き、そこからナンパラ(峠)を経由し、ネパールまで一緒に歩きました。ガイドに一人3500元支払い、その中からガイドがトラックの運転手にいくらか渡します。トラック内に私たちはぎゅうぎゅうに押し込まれていたので、降りて歩きはじめてから、ようやく年齢や男女の区別がつきました。7、8歳の子供4人に、老人や尼僧も数人いました。

ガイドはほとんど人づてに紹介されます。中には善良なガイドもいますが、大抵 はヤクザ
との繋がりが強いと言われています。私たちのガイドへの清算方法は以下のようなものでした。まず、紙に契約内容を明記します。それを半分に破ってその半切れと半分のお金をラサの友人に預け、残りのお金を先に支払います。無事に送り届け、ラサへ戻ったときに、ラサの友人が半分の紙切れと照合させて、残りの額を渡すのです。通常ガイドはネパールのナムチェバザール近くのルクラという所にある、亡命政府一時収容所の支部まで案内し、帰って行きます。

私たちは監視の目を逃れるために、ネパール側のナムチェバザール付近に入るまでの移動は、すべて極寒の深夜に行いました。季節は3月でしたが雪深く、靴も着るものもちゃんとしたものではなかったので、寒くて死ぬ思いでした。お金もないのに食料も尽きてしまい、みんな飢えを凌ぐのに必死でした。途中、力尽きた子供がこれ以上歩けなくなり、ガイドに置いていかれそうになったため、私たちは木を切り、即席で担架を作って子供を運びました。
ガイドは、「簡単にインドまで行かれる。問題ない。」とはじめは言いますが、いざ旅が始まるとその道のりは険しく、力尽きてついて来られない者が出てきます。ガイドが歩けなくなった者を放って行ってしまうことは、よくある話なのです。峠を越えるとき、凍りついた7人ほどの遺体を見ました。みんな置いていかれた者たちなのでしょう。手足の感覚がなくなり、呼吸も苦しくなり、常に私たちは死ぬか生きるかの瀬戸際に立たされていました。峠のナンパラを越えてからナムチェバザールまでは二週間ほどの道のりで、喉の渇きと空腹に耐えながら歩き通しました。その道のりはとても長く、靴下を数枚ボロボロにしてしまうほど厳しいものでした。

ナムチェバザールで捕まると中国へ帰されてしまうので、私たちはルクラまで身を隠しながら恐る恐る移動しました。ところが、途中でネパール警察に見つかってしまい、私たちはカトマンズの監獄へ連行されたのです。20日ほど拘留された後、カトマンズの一時収容所の人がやってきて多額の保釈金を支払ってくださったお陰で、私たちは無事に釈放されることになりました。3月10、ようやくカトマンズの亡命政府一時収容所へ辿り着いたのです。そして5月に、ここダラムサラへやってきました。

現在は結婚し、朝はルンタレストランでパンとケーキを焼き、午後には妻に代って子守りをするという日々を過ごしています。


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2008年09月16日

法王召集の重要会議の日程、日本人がネパールでチベットのために4回のデモ

92fa5809.jpg昨日の法王の御様子についての話はあくまでも非公式の裏情報の一つとみなして頂きたい。
特に報道関係の方は他の情報筋も参照されますように。

ーーー

先に発表された法王ご自身が特別に招集された「特別会議」の日程と場所が議会により決定された。

http://phayul.com/news/article.aspx?id=22807&article=Tibet+Emergency+Meeting+In+November

来る11月17日から22日までの6日間、ダラムサラのTCVホールで行われる。
会議の出席者は現大臣及び大臣経験者、チベット議会現議員及び議員経験者、政府副書記以上経験者、各チベットNGO代表、チベット人知識人、専門家、青年その他という。
もっともこの決定は議会の草案として法王に提出されるものであり、法王の意見を入れて変更される可能性もある。

議会では外国のNGOを参加させるべきかどうかの議論が盛んに行われたが結局、チベット人限定の会議と決定された。

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だいぶ前のことになってしまったが、ある友人(日本人)にインタビューした。
彼は4月に24時間のハンストをいっしょにやった仲間でもある。
短期間にチベット語もマスターし、今ではすっかりチベット化されてしまった一人だ。

以下は同席したT女史が彼女のブログ上でまとめて下さったものです。
http://newborder.exblog.jp/
ーーー

先日、ダラムサラに滞在していた日本人の方が、カトマンズでチベット人たちと
「フリーチベット」のデモに参加し連行されたそうだ。数日して帰ってくると聞いていたが、偶然ルンタの隣のカフェでお会いしたので、私たちはデモの話を伺うことにした。

S氏は元自衛隊員。今は休職し、一年ほどネパールやダラムサラなどチベット文化圏を旅している。
今年の8月7日から3日間、カトマンズの中国大使館前でデモを行いネパール警察に連行された。
ポカラのチベタンキャンプからカトマンズのベースキャンプまでは、大勢のチベット人と一緒にバス2台で移動した。
オリンピック前夜ということもあり、検問はとても厳しかったが、なんとか無事に切り抜けた。

そして、合計4回のデモに参加した。

一回目、8月7日のデモ
S氏一行に加え、カトマンズに住むチベット人たちが大勢集まり、大規模なデモへと
発展した。するとネパール警察がやってきて、ダライラマ法王の大きな写真を棒で
殴りながら、「ただちに解散せよ!」と叫んできた。トラックに詰め込まれたが、ガソリンがないから帰ってよいと言われた。

チベタンキャンプからやってきた一行はカトマンズの工場跡地をベースキャンプにしていた。
スパイなどもいるため、カムフラージュでデモを決行するといって、突然中止になることもあった。
次の決行をいつにするか、ベースキャンプでそのタイミングを待っていた。

2回目、8月9日のデモ
一行を束ねているボスの号令がかかり、再び中国大使館の前でデモを行った。一度目はポカラからなので検問が厳しかったが、二度目はベースキャンプからタクシーでの出動だったので、パスポートを見せ観光客を装い、フリチベTシャツや国旗も隠し持って行くことができた。
それぞれ近くのレストランで着替え、中国大使館前へ向かった。

そこには100人のネパール警官隊が待ち構えていた。
ジャーナリストがカメラを回しているときは何もしないが、カメラのないところでは手荒な暴行を加えたり、時計や身につけているものを奪い取ったりしてきた。友人の女性は棒で顔面と脚を強く殴られ、目がひどく腫れて片目がつぶれてしまい片足も負傷したが、次の日もデモに参加していた。
みんな決死の覚悟でここまで来ているので、何があっても引き下がらない、根性が座っているのだ。
S氏も棒でお腹に一発食らったが、気合が入っていたので大した痛みではなかった。

オリンピックの開幕式の次の日ということと、ニュース報道が来ることもあって、1000人近くの群衆がデモに参加していた。けれども、みんな塊でなくバラバラにやってくるので、ネパール警察に一網打尽にされてしまった。2,3人の警官に担がれ、次々にトラックへ放り込まれた。
お婆さんが悔しくてずっとすすり泣いていた。
群衆全員を収容仕切れないため、ネパール警察署の二、三か所の運動場へ別々に連行された。法律で何かあるのか、夜の10時には釈放され、みんなでベースキャンプへ帰った。

3回目のデモ(日付不明)
2回目と同様にして捕まり、別の運動場へ収容された。
トイレに行こうとしたら警察にダメだと言われた。怒りが沸点に達し「叩かれたので日本大使館に電話してください!」と抗議した。
すると上の者が出てきて、「お前は日本人なのか。それなら帰っていい。」と言われ
たが、仲間を裏切れないし、ベースキャンプまでの道も定かでないため、みんなと一緒にとどまることにした。そして、同じように夜には釈放された。

4回目、8月14日のデモ
みんながポカラに帰ってしまい、S氏はボドナートの宿に移った。近くの店のオーナーや従業員たちが店を閉めてデモをやるというので、一緒に参加することにした。
例の如くすぐにトラックに放り込まれ連行される途中、3,4人の警察にボコボコに殴打され、立てなくなっている老人の姿が目に留った。
それは、楽しんでやっているようであまりに惨たらしい光景だった。
S氏は頭にカーっと血が上り、「やめろー!」と叫びながらトラックから飛び降り、気がついたら警官3,4人の足を無心に蹴り倒していた。
そして当然のごとくボコボコに殴打されたが、その時S氏は怒りのあまり頭の中が真っ白だった。

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一連の騒動では、警官による僧侶や老人に対しての暴力が特に酷かった。激しく殴打され、歩けなくなるお婆さんもいた。女性は体を触られ、ポケットに入れていた財布を抜かれる者もいた。

ネパール警察が、1000人もの人をわざわざ形だけ逮捕するのには理由がある。
チベット人を一人捕まえると、中国から500ルピーもらえるのだ。ガソリンが買えないくらい金銭的に窮している彼らにはチベット人逮捕は小遣い稼ぎなのだろう。
捕まると必ず回覧板のような紙が回って来て、名前と国籍などの個人情報を書かされる。
その数が、彼らの小遣いに比例するわけだ。

以前、S氏はカトマンズでマオイストのデモを見た。彼らは木の棒を振り回し、石を投げ、過激な破壊行為に及んだが、ネパール警察はただ見て見ぬ振りをしていたのだ。
今や、ネパールではマオイストが60%の支持率だ。国家の言いなりの警察は、結局長いものに巻かれるのだ。

以上、S氏から伺った話の概要です。





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2008年09月12日

ツェリン・テンパの証言

数日前、ルンタレストランの厨房で、やたらいつも歌を歌いながら元気よく働くツェリン・テンパ30才に話を聞いた。
彼もかつてラサでデモを行い、逮捕され、拷問を受けている。

以下は同席したT女史がまとめて下さったものです。
彼女のブログにはこれから逐次様々なインタビューの記録が掲載されることでしょう。
http://newborder.exblog.jp/

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私は幼い頃、村の周りで遊牧民の手伝いをしていました。田舎の学校へ2、3年しか通わず、12歳の頃僧侶になりました。
ラサ近郊にあるゲルク派のラトゥ僧院で、お経を唱えたり沢山の仏事を催したりしながら、7,8年間勉強しました。
88年3月3日、ジャンパ・プンツオク氏がジョカン寺の大祈祷法会で一人立ち上がり、集まっている他の僧院の僧侶たちを鼓舞するべく、勇気あるデモを行ないました。それから二日後の大祈祷法会の最終日に、ようやくガンデン僧院の僧侶たちが独立要求の声を上げ、私も一緒にデモに加わりました。

すると、すぐにジョカン寺へ中国の公安局がやって来て、次々に僧侶たちは逮捕され、手荒に連行されていったのです。私は境内の物陰に隠れ、隙間からその禍々しい光景を、じっと息を潜めて見ていました。公安は、そこらじゅうの金品や金を平然と横取りし、一時間ほど物色したのち引き上げて行きました。

私は、辺りが静かになったのを確認し、恐る恐る物陰から出てきて2階の窓から通りの様子を伺いました。二人のチベット人が通りかかったので助けを求めると、長い木の棒を持ってきてくれました。それを梯子のようにして下へ降りたとき、木の棘が手足に刺さって怪我をしましたが、なんとか無事に逃げ切ることができたのです。

その後、ラサのアマラ(お母さん)と呼ばれている方の所へ行き、世話をしてもらいました。数日後、ラサのラトゥ僧院の宿泊所へ戻ったら、ほとんど僧侶の姿はなく、みんな捕まっていたのです。やりきれない思いでラサを後にし、ラトウ僧院へ帰ってきました。

そして89年、6人の僧侶と共に再び立ち上がり、3日間デモを行いました。すぐに逃げられるようにと僧衣を脱ぎ、動きやすい服装で挑みました。公安は、一日目、二日目は様子を伺っているだけでした。ところが3日目になって、突然殴る蹴るの暴力に加え発砲しだしたのです。私は必死に逃げ、親戚の家に身を隠しました。

その頃、町から町へ行くには移動許可書を公安に届け、パスを取得しなければなりませんでした。私はパスを持っていなかったので、偽物のパスを作ってもらう間の一週間、親戚の家で待機していました。窓の外には公安が大勢ウロウロしていて、いつ見つかってもおかしくない状況に、ただひたすら耐えていました。

偽造パスでラトウ僧院へ戻ることは出来ましたが、15日後、トラック5,6台が突然僧院へやってきて、デモに参加した6人と共に連行されました。デモの最中に写真を撮られていたようで、見つかってしまったのです。「殺すぞ!」と、銃口を額に突き付けられ流血しました。投獄されてからは、ひどく殴られたり電気棒で拷問されたり、そんな手荒な暴行が半年もの間続きました。食事はゴミや砂の入った薄いスープに、虫が湧いているティンモ(小さな蒸しパン)など、それはひどいものでした。それでも、生きる伸びるために私たちはその食事を黙って口にしました。
半年で一時釈放されたのは、当時、まだパンチェン・リンポチェが中国に対して影響力があったため、88年、89年に逮捕された多くの僧侶たちが、彼のお陰で刑期短くして釈放されたのです。

そんな時、ひどい話を耳にしました。
ネタンのドルマラカンという寺の鍵を管理している61歳の僧侶が、寺院の屋上にチベット国旗を掲げたことが公安に見つかりました。そして、木にくくりつけられ、ひどく殴打された後に連行されました。彼は、半年もの間ひどい拷問を受け続け、瀕死の状態に陥ってからようやく釈放されたのだそうです。彼の身体はぼろぼろで、それは無残な姿だったと聞いています。監獄で死なれては困るので、死のギリギリまで痛めつけて釈放するということはよくある話なのです。彼はお金をかけて治療をしたけれど、結局すぐに亡くなってしまったそうです。ただ国旗を掲げただけだというのに・・とても胸が痛みました。


私は、その後6人の仲間と共に僧院を追放されました。釈放されてからすぐの出来事です。寺の周りを公安が包囲し、私たちの先生がはじめに呼ばれました。そして、「デモを行った例の6名をただちに追放せよ!」と命ぜられたのです。このままでは僧院に迷惑がかかるので、私は僧院を出て3人の兄の仕事を手伝いました。両親はすでに亡くなっていました。兄弟たちと一緒でも、公安が度々見回りにやってくるので、心休まることはありませんでした。

それから一年して、私は亡命を決意しました。大勢でトラックに乗り合わせ、警備の比較的緩いカイラスまで、北周りで一週間かけて行き、その後22日間歩き続けました。逃げている間、一人の尼僧が力尽きて倒れてしまい、私たちは、木の棒と布で作った担架の上に乗せて進みました。ところが数日後、気がつくと彼女は亡くなっていました。私たちはどうすることもできず、お経を上げて遺体を川に流しました。とても辛い出来事でした。

ガイドはネパールとチベットの間にいるロンパ族の男でした。言葉が通じないため、身振り手振りで会話をしました。ガイド代として一人1000ルピー支払い、ポケットには500元ほどしかありませんでした。

マナサロワ湖の近くの寺に、一か月お世話になったこともありました。プランという大きな国境の街を経由した時は、全員のお金も尽き食料も枯渇してしまいました。私は歌をうたってお金を集め、食料を買い、みんなと一緒に空腹をしのぎました。私以外は恥ずかしがってそんなことはできませんでしたが、私は歌うことが好きだし恥しいという気持ちはありませんでした。

インドに到着すると、南インドにある同じラトウ僧院に一時期お世話になりました。
4年間そこで勉強したのち95年にダラムサラへやってきて、現在はここ、ルンタレストランで料理人として働いています。







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2008年08月15日

尼僧一人デモ

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写真は日本のNHKでも流された、今日の朝中国国営放送ビルの目の前に掲げられた大きなフリーチベット旗

http://phayul.com/news/article.aspx?id=22494&article=Pro-Tibet+activists+hang+banner+outside+Beijing+CCTV+headquarters

8月14日付委員会リリースによれば、

http://www.stoptibetcrisis.net/pr140808.html



8月10日、朝8時頃34歳の尼僧ドルマ・ヤンツォは一人で平和的デモを行った。
彼女はカム、カンゼ、ロパ村タポン・ツァンの出身。
彼女は以下のようなスローガンを叫びながら歩いた。
「チベットはチベット人のものだ!」
「パンチェンラマを含むすべての政治犯を釈放せよ!」
「中国政府はオリンピック開催のために約束したこと(人権擁護)を守れ!」

しばらくしてこれに気付いた警察と軍が車で彼女を挽き倒し、殴りかかった。
それにも負けず、スローガンを叫び続ける彼女に対し、銃を発射し彼女が意識を失ったのを確認して連れ去ったという。


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